市街地から離れたところで、フェザーは牽制の攻撃術を放った。
強風の塊が、後方の追っ手を直撃した。
「がはっ」
門番姿の戦術士は、ふらふらと落ちていく。
一〇パックほどで体勢を取り戻すが、風包飛翔を用いる彼に反撃手段はない。
風包飛翔は施術者自身が風の力場に包まれるため、風溜まりを事前に用意しないとべつの術が使えないのだ。
一方フェザーとステラは、服や髪が風に揺れている。風裂飛翔という術で、空気を直接切り裂きながら飛んでいるのだ。
おかげで風術が使い放題だ。
「風よ薙いで!」
ステラも護身程度に習った技を繰りだす。
戦術士はさすがに今度は避ける。そして安全な距離を取った。
ステラは不安になった。
「……風よ、我が意に囁いて」
習いたての風囁を発動させ、術のリンクをフェザーにむけた。
『フェザー、振り切れない』
『……行動不能にするだけなら簡単だが』
『できるかぎり穏便に』
『わかってる――』
フェザーが右手を軽く振った。
――いきなり、後方の戦術士が落ちた。
遠凪陣。広域の結界術だ。
戦術士周辺一帯の風が完全に止み、風包飛翔を維持できなくなったのだ。この状態だと風溜まりがいる。
追っ手は――まっさかさまに、枯れた草原へと落ちてゆく!
ステラは悲鳴をあげた。
「きゃああ! フェザー!」
『まあ見てろ』
と、風が止んだ下のほうで、にわかに枯れ草が舞い上がる。
巨大な枯れ草の渦がいくつも舞い踊る。
そのひとつが、戦術士を受け止めた。
彼は風のワルツに遊ばれながら、ゆっくりと草むらの間に落ちた。
動かない。落下の最中に気を失ったようだ。
『な、これが職人芸さ』
『ありがとう……心臓に悪い芸ね』
『さて、これからどうする?』
『トライヒルメーン牧場に。そこにティモシーがいるわ』
* *
ティモシーには気になることがあった。
「……お父様」
牧場への道すがら、馬上でたずねる。
「なんだ?」
トーマス神父も馬に乗っている。その歩みはゆっくりとしている。牧場まで半分以上来た。残るは三ハーク、急ぐ道程ではない。
ティモシーは言いにくそうに、
「……もしかしてFさんは、術士修技館の教師術士でしょうか」
「ああ」
トーマスはあっさりと認めた。
「ステラの手紙では、一三年前からずっと先生だそうです」
「そうだな――」
「……私の年とおなじですね」
「…………」
「見知らぬ私に、大金を出してくれました」
「――ティモシー」
「はい」
「気持ちはわかる。だがフレデリックから言ってくるまで、聞かないほうがいい」
ティムは頬を紅潮させて頷いた。
「……はい」
* *
光暦一八八年――
王室御者のトーマス・ラッセルヒルは、ド=エド軍を蹴散らして戻ったジョージに赤子を頼まれた。
「私は死んだことになった。これからは裏の道を歩まねばならぬ――それゆえ、いつ口封じに殺されるかわからない。ティモシーが俺の子のままだと、不幸も多かろう。王族の子でないほうが幸せだ」
「……俺で良いのか?」
「セーラが亡くなったいま、おまえしか頼める者がいないのだ」
フレデリックとトーマスは乳兄弟だ。だからこそトーマスはお供兼御者を勤めていた。玉座に座る可能性の低い術士王子に、相談相手となる気心の知れた味方は少なかった。
トーマスは軽口混じりで引き受けた。
「ちょうどいい。一度親になってみたかった。結婚はしたものの、現在はやもめだしな」
トーマスには幼なじみの女の子がいた。一五で結核にかかった。死ぬことがわかっていて、その子が一六のときに結婚した。妻は一八五年、一八歳で亡くなった。
トーマスは愛を貫き、以後終身の独身を誓っている。貫徹するため神父の資格を取った。ハーシュヒル王国が属する東方聖教は聖職者の結婚を禁止している。しかし聖職者になる前の子供や婚姻については認めていた。
間もなくトーマスは正式に神父となった。ティモシーを連れ、旅に出た。神父だと、祈ったり相談に乗れば収入になる。
八年ほどして、どこで居場所を調べてきたのか、手紙が来た。送り主はアンジェ・トライヒル。彼女はティモシーの母、セーラの妹だった。
『牧場の拡大で住み込み従業員が増えたため、牧場内に教会を建設します。そこの初代神父になってくださいませんか?』
さらに驚くことにアンジェは、いつのまにか姉の墓を牧場近くに建てていた。
実母の墓参りをさせてやるのもいいかな――ふと思い、ティモシーを連れてハーシュヒル王国に戻った。
社長のコリン・トライヒルはアンジェの推薦者を快く受け入れてくれた。アンジェは姉の忘れ形見であるティモシーに、ステラ同様に接してくれた。
いつしか牧場に根を下ろしていた。たまにフレデリックに会うため城に出入りするようになり、奇妙な裏の人脈もできた。
平和のうちに五年が経った。
その平和はステラの術士要素で一変した。
牧場の一人娘が消え、牧場は一気にさみしくなった。
数ヶ月後、今度はティモシーが博物修道士になりたいと切りだした。
物事は季節のように必ず移りゆく。
平穏はいつしか終わるのだ。
それを察したトーマスは決心した。
いつまでも隠したままでは駄目だ。
会わせよう。
実の父とティモシーを。
* *
唐突の気配だった。
「ティム!」
ステラは叫んでいた。
トライヒルメーン牧場への道の上を、最高速度で飛翔しつつあった――そこで、ティモシーを発見したのだ。
現在の高度は一〇〇ヘクトフィング。
よってそれは小さな、わずかな点だった。
だけどステラには分かった。
風が教えてくれたのだ。
『フェザー、ティモシーよ!』
ステラは一気に高度を下げた。
『おい! どうした! 待てよステラ』
* *
『ティム!』
風の叫びは、たしかにティムに伝わった。
ティムは周りを見るも、付近に父以外には誰もいない。遠くの林に芝刈りの農夫がいるが、声の届く距離ではない。
『ティム!』
また聞こえた。
聞き覚えのある声で。
「なんだなんだ?」
前の馬に乗っている父が、驚いて周囲を見回している。
『ティム――上よ』
その風の声とともに、頭上から風を裂く音。だが翼のはばたきではない。
ティムは上を見た。
そこには、空から落ちてくる少女がいた。いや、降りてきている。
忘れようもない少女!
愛しいステラが、天使のように舞い降りた。
そのままティムの馬の後ろに、ふわりと着座した。横乗りだ。
「ティモシー!」
首にしっかり抱きついてきた。
* *
ステラは純粋に嬉しかった。
今年の五月まで、あたりまえだったこと。
ティムが側にいる。
そのかけがえのない瞬間が戻ってきた。
「会いたかった……」
思わず涙がこぼれる。
ティムの顔が見えにくい。
だけどわかる。ティムは変わった。
抱いた首周りや肩が、角張ってきている。
成長期の男の子なのだ。
「大きくなった。もう私とおなじくらいかな」
「……ステラさま。お久しぶりです」
「あ、声もすこし変わっている」
笑う。なにもかもがうれしい。
自覚する。
ああ……私は、ティムに会いたかっただけなんだ。
理由はどうでもよかった。
伝えたかったんじゃない。
逢いたかったんだ。
ティモシーが、恥ずかしそうに口を開く。
「――抱いてよろしいですか」
こんなことで、いちいち確認を取ってくる。
やっぱりティモシーだ。
うれしい。
「もちろんよ」
「それでは……」
ティムは馬を止めると、器用に体勢をうしろむきにして、ステラをゆっくりと抱き寄せた。その腕がふるふると揺れている。
「ティム?」
「――ステラさま、私も会いたかったです」
ティモシーは、いきなりステラに顔を寄せ、軽く口づけ――を、しでかした。
ステラの体を、ぴりっと静電気に近い感覚が走った。すべての思考がカットされる
「ティ……」
ステラの体が勝手に動く。
今度はステラからだ。
それをティムも受ける。
熱気だけが体を動かしていた。
一三歳にとって半年の別離は、なんと長かったことだろう。
熱い吐息が混ざる。
二人は、幼く短いキスを繰り返した。
* *
「天使と王子様、馬上のキスか。ガキじゃなければ絵になるんだがなあ」
ステラに遅れて飛来したフェザーが、空中で興味津々に二人を見物している。
「ところでおたくが『神父さま』?」
いきなり振られたトーマスは、頷くのみ。
「話せば長くなるが、べつに怪しい者じゃない。まあ、信じろというほうが無理だが」
「……戦術士か?」
「慎重だな。しょうがないか――旅の傭兵だ。風術は、たしなみだ」
「なんの目的でステラを連れてきた!」
トーマスの声に怒気が籠もった。
「脱走術弟子を護衛するとは、ステラの身に害あって利なし。神は汝を許さぬぞ!」
「もう状況を掴むとはね、さすがは神父さま」
飄々とした態度に、神父の怒りは高まる。
「理由を語れ!」
「なぜかな? 理由はあまり自覚してない」
「そんなバカがあるか。金が目的だろ! この傭兵風情が」
「違うの!」
女の子の声が割り込んだ。
「お願い、フェザーを悪く言わないで」
ステラが、ふわりと飛んできた。
トーマス神父の前に立つ。
「ステラ――」
「神父さま、フェザーは路頭に迷うところだった私を助けてくれたの。途中まで詳細を教えなかったのに」
「そうか……ステラが言うなら、そうなのだろうな」
トーマスはたちまち怒りを引っ込めた。感情の起伏が激しい。
「――彼は信用できる人物かい?」
ステラは黙って頷いた。
「……ステラ」
トーマスはステラの頭に手を置いた。
「それなのに、また隠し事をしたんだね」
「ごめんなさい――いま言うから、許して」
トーマスは、ステラの頭を撫でた。
「――汝の罪を、神は許し給うだろう」
フェザーがあきれた。
「おいおい、東方聖教にそんな簡単な免罪はないだろ?」
「俺のオリジナルだ。メーン牧場はフック刻みで動いているからな――それでステラ」
「待って……ティムに一緒に聞かせたいの」
馬を下りたティムに、ステラは切なそうな瞳をして祈るように腕を組んだ。
「お願いティム、聞いて」
「――ぜひとも」
ティモシーは即座に承諾した。
なにしろティムは先日の手紙で、ステラの気持ちを知っていたから――
* *
ステラは、抜け出すに至った理由と、その後の驚くべき旅をすべて語った。ティムとトーマスは、真剣な顔で話を聞いていた。傭兵がゲイルフェンサーでありウインドであると知ると、フェザーを見る目が一気に変わった。
すべてを話し終えるまでに、一〇フックはかかった。話し終わったあと、三〇パックは誰も口を開かなかった。
第一声は、トーマスだった。
「ステラ……」
険しい顔をして、抑えた声で聞いた。
「……それで、どうしてティムなんだい」
「ティムなら城にいるし、教会にいればどこかの貴族に……と最初は思っていたけど、気付いたの。私――ティムに知って欲しかっただけなの。こんなの、一人で背負うには重すぎるわ……」
「そうか……」
トーマスの表情は固い。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「――お父様が言えないなら、私が言います」
「ティム!」
「このカリキュラムに関わっているFさんは……Fさんは、お父様の親友です」
ステラの瞳が、ティムに釘付けとなった。
「……え……世界は狭いですわ。それって、神父さまがF先生に頼めるってこと?」
「――ええ。ですが……」
ティムはトーマスを見つめる。
表情の硬い神父は、首を振った。
「無理だ。フレデリックは……オレになにも語らなかった。あいつはいまだにセーラさまの遺言に縛られた、ただの抜け殻だ」
「え……どういうこと?」
そのとき、
【見つけたぞ】
というくぐもった発声が辺りに響いた。
「……フレデリック! ティムの前だぞ。それでいいのか!」
「竜!」
トーマスとティムが、緊迫した声をあげた。
「げ。ドラゴンマスターと竜!」
これはフェザーだ。
【ゲイルフェンサー、我が名はディアノス。勝負せよ】
「……冗談じゃない! 逃げるぞ、ステラ」
「なによ!」
ステラは屹然と見上げた。
蒼天色の巨大な獣が、一匹いた。
乾いた鱗がびっしりと全身を覆い、恐るべき爪と牙が銀色に輝いている。
背景が曇天なので、不気味に目立っていた。
間近でははじめて見る。
ハーシュヒル王国の守護神、青竜。
そして――その背にいるべきドラゴンマスターは……なんと、赤い衣のF!
フレデリック・Fは、ステラたちを悲しそうに見下ろしている。
術士修技館の先生が守護神ドラゴンマスター、噂では彼は王族、その王族がまさにステラ監視の間近にいた――それらがステラの頭の中で、一つに繁がった。
「F先生――英雄って、民を守るんじゃなかったの? どうして王命を優先して、悪いことをしていない私の邪魔をするの? 英雄ウインドは私を守ってくれたのに」
Fは懸命に優しい顔を作って言った。
「ステラ・トライヒル、すべてはきみの誤解だ。私たちはきみを大事にしている。さあ、安全で快適な学舎に帰ろう」
なんて白々しい台詞――
どうにもできないことを、なんとかするため全力で動いてきた。それがみんな、意味のない一人相撲であったなんて。
意味のない冒険は幕引きなのだろうか?
「――いやだ、終わらせたくない!」
叫びの勢いで飛び立ち、竜から逃げる。
「おい待て!」
術を解除せずにずっと飛んでいたフェザーも、ステラの後を追いかける。
【待たれよ、いざ尋常に勝負せよ】
ディアノスも当然、二人を追った。
静かになった街道に、ラッセルヒル父子が残された。
ティムは困惑していた。
「……Fさんが、ドラゴンマスター……ということは、私は――」
「ティモシー・キー・ファウラー殿下、馬に乗れ!」
「え?」
「追うぞ! あの方角はメーン牧場だ」
トーマスはすでに馬に乗って駆けだしていた。驚いたティムも、馬に乗って追う。
トーマスは馬上で叫んだ。
「フレデリック! おまえはいつまで!」
* *
気がつけば、故郷のトライヒルメーン牧場についていた。
大白樺の上で、ステラは静止した。
「ただいま……」
見渡す。
柵で囲った、三つの丘。
二〇〇〇頭の乳牛、一〇〇頭の馬、五〇頭の羊。そのほかにも鶏とか山羊とか、いろいろな動物をすこしずつ飼っている。
季節は冬。獣たちは暖かい牛舎や馬屋で、呑気に干し草を食べる毎日だ。丘の緑はほとんど枯れ、黄土色の寂しい稜線が延々と続いている。
毎年の風景だ。
「――広いんだ、私の育った牧場って」
私は変わる。だけど、自然は変わらない。
不思議な感動が胸を包んだ。
ずっとおなじ。それが、なぜか嬉しかった。
高ぶっていた悲しい気持ちが、急速に引いて――落ち着いていく。
『……おい、ステラ』
風囁だ。フェザーが追いついてきたのだ。
『なあに、フェザー』
『気持ちは分かるが、ここは静まれ』
『もう大丈夫よ……あ、フェザー、ドラゴンマスターね、F先生だった』
衝撃からたいして時間がたっていないはずなのに、なぜかさらりと言える。
『ああ、オレもさすがに驚いた。顔は知らなかったが、状況でなんとなく分かった』
『まさか憧れの英雄が、身近で教鞭を執っていたなんて』
『……最後まで身内ばっかりだな』
フェザーの思念に、ため息が混じっていた。
『優しいけど、かなり厳しい人なの。まるで私のお父様みたいだから、私はかえって慣れることができなかった……』
『――わかっている。それでまた、例のごとくだろ? 子犬さん』
『うん……ごめんね、わがままな子犬で』
『もっとも、今回は手抜きは無理だがな。おなじ英雄でもむこうは竜付きだ』
『竜を倒せるほど強いのに?』
『物語を鵜呑みにするな。俺は暴竜を説得したことはあるが、倒したことはない』
【ならば倒してみよ、ゲイルフェンサー】
恐るべきディアノスがその巨大な翼で風の上を滑り、空中で止まる二人を周回する形で飛行していた。
『……風囁に割り込むとは、風竜か』
【想像に任せよう。もっとも我が巨体、術の補助なしに飛べるわけがないがな】
ディアノスは風囁も使わず、天井知らずの大声で吼えるようにしゃべっていた。
「ステラ・トライヒル!」
竜の背上から、Fが大声で呼びかけた。
「ディアノスはウインドとの決闘を望んでいる。これは不可避の運命だ。悪いがトライヒル、君の有能なナイトから離れてくれ!」
フェザーは肩をすくめた。
『護衛がお荷物になるとは、本末転倒だな』
「…………」
ステラはフェザーに近寄ると、真摯な瞳で見つめてきた。
「……ステラ?」
「よくて。いまからする応援は、ティムには死んでも内緒だからね」
ステラはフェザーの顔を小さな両手で挟み――目をつむる。
そして顔を寄せ――
無理矢理キスをしてきた。
フェザーは驚いて硬直した。
五パックほどして、ステラは唇を離した。
フェザーの唇や頬は赤味を帯びていた。
しかし一方のステラは頬は白く、体も凍えているかのように身震いしている。
「死なないで」
「……この応援は利いた。勝てるぞ」
虚勢で返答すると、ステラはいくぶん安堵した顔をして、フェザーから離れた。
フェザーは風囁で叫んだ。
『一ハークは離れろ!』
ステラは頷き、さらに距離を取った。