一二月三〇日はまるで秋のような、季節外れの暖かい日になった。夜のうちに天を覆った厚い雲が、放射冷却を抑えたのだ。
王都グランドヒル。
都市計画を越えて肥大化した煩雑な市街の中央に、高い城壁に囲まれた、小山とも言うべき緑の丘があった。
丘はその整った美しい形から、ヒルオブヒルズ、グランディスと呼ばれていた。そして丘の頂上にそびえ立つ灰色の城――それが、グランディス城であった。
グランディス城の一室で、Fは窓から城下を観察していた。
「平和だな……」
路肩で子供をあやす母親。年越しを祝おうと楽しい計画を話す若いカップル。隣の商店と値下げレースを繰り広げる豪快な肉屋の親父。綺麗に着飾り、町を練り歩く婦人。孫と買い物を楽しむ老紳士。水の冷たさを気にせず、噴水ではしゃぐ悪ガキたち――
「なんて豊かだ。幸せを謳歌している」
「あたりまえの姿だがな」
Fのつぶやきに答えた、男の声があった。
Fは振り返った。
紺の神父服に身を包んだ、中年の男がいた。暖炉の中に置いていたポットを、火掻き棒でたぐり寄せている。
「そう思うか。これがあたりまえ、と」
「争乱の状態を異常と思う者が多いから――」
神父は手拭い越しに熱いポットの取っ手を握り、軽快に歩いた。
「――この平和をあたりまえと形容するのは当然だろう?」
Fは窓際から離れた。
「あたりまえにしては、維持が大変だがな」
神父は小テーブルの上に広げた、三つの白磁のティーカップにすこしだけ湯を注ぎ込む。
すぐに湯を捨てる。茶葉をストレーナーに入れ、温まったカップに乗せてお湯を注ぐ。即座に横の早砂時計を逆さまにした。
「……争乱も片づけるのが大変だ。おなじ大仕事なら前者がいいだろ? フレデリック」
「城に来てその名で呼んでくれるのは、おまえだけだ。トーマス」
「私とて、城に住んでいるわけではないさ」
トーマス神父は笑顔を作った。目尻に優しい皺が寄る。とても人好きのする顔だ。
砂時計の砂があっという間に落ちきった。
「紅茶が出来たぞ。レモンはいるか?」
「もちろん」
神父はストレーナーを除き、入れ替わりに輪切りレモンを入れた。銀のスプーンで軽く掻き回してすぐに取り、Fに渡す。
Fは紅茶の香りを嗅いで微笑んだ。
「半ば自己流のくせに、いい香りだ」
「上手くもなるさ。妻が亡くなってからは、煎れてくれる者がいないからな――」
神父も自分のカップを用意して笑った。
「――男やもめ同士、慰め合うとしようや」
二人はこつんとカップを合わせた。
一口飲んでFは、
「いまの一言を宮廷雀が聞いたら、男色の密会と誤解されるかな」
「なあに、女が来る予定はないさ。ツバメが一羽、迷い込む予定はあるがな」
とんとんと扉を叩く音がした。
『術士さま、お連れしました』
扉越しに、はきはきとした声がした。
「お、ちょうどだな。いよいよツバメと御対面だぞ、心の準備はいいか?」
Fはごくりと唾を飲んだ。
「……トーマス、君には感謝している」
* *
『入れ』
扉のむこうから、短い返事が返った。
教会から案内してきた衛士が、ノブに手をかけた。それを眺めつつ、博物学者の卵は思った。
どうして私がこんなところに? それに術士さま? 術弟子ならともかく、術士の知り合いなんていないのに。
突然の登城命令があり、ティモシー・ラッセルヒルはひどく緊張していた。
グランディス城ははじめてだ。ティムが現在住んでいる王立大教会はグランディス・ヒルの外城壁内側にあるが、城本体はあくまで丘の頂上にそびえている。
部屋に入ったところで、固まっていたティモシーの心は一気にほぐれた。
「お父様――」
自然な笑みがこぼれる。敬愛する父、トーマス・ラッセルヒルが、薄れ得ぬ鮮明な記憶とおなじ正装でそこにいた。
後ろで扉の閉まる音がした。それを合図に、数ヶ月ぶりの父は口を開いた。
「ティム、久しぶりだな。寒いだろう、さあ紅茶を飲みなさい」
ティムは湯気立つ紅茶を受け取った。
「お会いできて嬉しいです。でもなぜ城に?」
「その前に、こちらの方を紹介しておこう」
赤マントの上に深い紅色のシルクガウンを羽織った、優しい顔立ちの男性が立っていた。赤は炎の象徴色だから、彼がファイアマスターであるのは一目瞭然だった。
火術士はティムに握手を求めた。
「君の評判はかなりよいと聞いている。すでに二つも論文を発表したそうだね」
「…………」
ティムは人見知りしない性格であったが、さすがに術士相手には尻込みする。
トーマスが、動かない息子の背中を言葉で押した。
「ティム、この人がFさんだよ」
「え……」
「私はF。フレデリック・Fだ」
「あ――」
ティムは、自分の体に火が灯ったように感じた。感動の火照りが体全体を包む。
この人が奨学金を出してくれなかったら、夢は幻想のままだった。いま夢は目標へと移り、学者を目指して順調に歩んでいる。
ティムは鳳仙花の実が弾けたように、初めてまみえた恩人の手を取った。
「お、お会いしとうございました! ご恩は一生忘れません!」
「まるで恋人の奇襲にあった彼氏のようだぞ。たしか会えるだろう、という手紙を出していたはずだが――」
「すいません、うっかり失念していました。想像力のない非才の身ゆえ、お許しください」
「君に想像力がないとすれば、私などは朴念仁だな。なんの説明もなしに呼び出したのだから、城内はさぞや心持ち悪かったことだろう。こちらこそすまなかった」
Fはさざ波のように、のどかに笑った。
それから楽しい、和やかな時間が過ぎた。
* *
ティムが退室したとたん、一気に疲れが出たFは、近くの椅子に座った。
すっかり冷えたティーカップを片づけながら、トーマスは友人に話しかけた。
「……やはり疲れたか、フレデリック。感動を抑えるのは、しんどかっただろう」
「この日を何年も待っていたというのに」
「言えなかったな」
「一度で言えるとは思えないな――それに、私は将来も言わないつもりだ」
トーマスは驚いた顔で、
「おい、俺はあいつの本当の――」
「いいんだ」
Fは手で制した。
「……いいんだよトーマス。あいつはおまえの子だ。それでいいじゃないか……そのほうが、あの子も幸せだ――」
「別に正体まで教えてやれとは言ってない」
「変わったなトーマス――せっかくいままで、上手くやってきたのだぞ」
「ならフレデリックも変えてやる。またティムに会え。毎日会え」
「残念だが無理だ」
Fは頬だけで微笑した。
「私はいま、面倒な事件を抱えている。時間がとれるのは、今日が……最初で最後だ」
「フレデリック……」
トーマス神父は、憂色な面持ちでFの作り笑いを受け止めた。
* *
Fはトーマスにもティムにも、ステラ・トライヒル事件のことを話していない。現在の彼女は『ハーケン計画』の骨格であり、国家最高の機密なのだ。
Fはステラの目的がティモシーだと気づいている。だがステラとウインドがグランドヒルに来るのはまだ先だ。もし二、三日中に捕捉できないときは、ティムの周囲とトライヒル牧場に監視の戦術士を配置する予定だ。
ジョージは戦術士を指揮する裏の権限を、ケイン三世から下賜されている。
ドラゴンマスターには、二〇〇人近い戦術士と、三〇人からなる術士戦略部が秘密に属しているのだ。
彼らは街道に散らばり、必死にステラとウインドを捜索している。先日就任したランクヒル小隊が遭遇して逆撃を受けた以降は、なんの収穫もなかった。
ハーシュヒル六〇〇万国民の平穏でなく、王権の安寧を支えるためだけに存在する、影の精鋭たち――彼らをして丸一日以上、二人を捉えることができなかった。
三〇日夜、Fは徒労の報告を受けた。
* *
一年最後の日が来た。
昨日天を覆った雲はさらに厚みを増し、いつ雨が降ってもおかしくない状況になった。
曇り空を不安げに見上げながらステラは飛んでいる。足元は森だ。目の前に現れた景色は、たちまち後方へと流れてゆく。
『ねえフェザー』
覚えたての風囁で、近くにいるはずのフェザーに呼びかける。
『どこにいるの?』
『後ろ上だ』
ステラは両手を前にかざす。頭の中で空気を手で押すイメージを作った。それで不思議と飛行速度が緩まる。
フェザーが左上方に出てきた。
ステラは腕を後ろに流した。こんな行為で、なぜか再加速する。
赤髪を激しく揺らめかせながら、フェザーはステラと視線を合わせた。
『いきなり減速してどうした』
『見える位置にいないと不安で……』
『風の気配で感じられるだろ?』
『見るのと感じているのは別よ――ところで、状況はどうなの?』
『戦術士用の暗号は複雑だな。俺には半分も理解できない――もっともわかった範囲で十分だが、相変わらず街道を中心に探しているようだ。こっちは完全に裏を掻いている』
『ほかの国とかは気づいていない?』
『少なくとも、風術で知れる範囲ではな』
『ふうん……』
『とにかく問題は戦術士だ。俺の見る限り、おそらく二〇〇人は動いているぞ』
ステラはあきれた。
『おおげさだわ! 私にそんな価値はなくてよ。子爵で富豪の娘、というくらいで……』
『天術士の卵であるということは?』
『な……』
ステラの思念に、とまどいが混じる。
『なななな、なんのことかしら?』
『サウナでティムについて語ったとき、なにに気付いて修技館を出たかという、肝心なことがあやふやだっただろ。理由は重大な秘密があったからさ。あのときはのぼせたため、俺は突っ込む機会を逸した。確信したのは、コープス川でのトラブルの後、泥水の前でもう一つ力があるって口を滑らせたときさ、うかつな子犬ちゃん』
『……耳ざといわね。たしかに私は、風のほかに水の力素特性を持っているらしいわよ』
『レアな組み合わせだな。おそらく大陸全体でも、一〇人もいないんじゃないか? ウェザマスターは』
天術士――ウェザマスターは、あらゆる気象現象を起こせる。味方陣営の豊作を保障し、敵陣営に気象災害をもたらす。その戦略的価値は計り知れない。
『まあ将来兵器として利用されるのが分かりきっていたら、そりゃ逃げたくもなるわな』
『フェザー……』
『なんだ?』
『私を、どこかに引き渡すとか、する?』
『まあ――このあたりだと、ハーシュヒルと仲の悪いド=エドあたりかな。礼金は最低でも一〇〇〇ジールは見込めるな』
「やめて!」
ステラがフェザーに寄ってきた。蒼白な顔でフェザーを睨む。
「お願いだからやめて――わたし、なんでもするわ」
瞳を潤ませ、涙が溢れんばかりだ。
「――冗談だ、すまん」
フェザーが声に出して謝ると、ステラはほっとした顔をして離れた。
『……ごめんなさい。せっかく私を助けてくれたのに、大事なこと黙っていて』
『それで、ティモシー・ラッセルヒルに会うのは――やはりあれか? 好きだから、一緒に逃げたいとか』
『……私、みんなを解放してあげたい』
『みんな?』
『修技館のみんなよ。王様が私だけを戦術士にするはずがない。みんなが、私のせいで戦術士にされるわ……だって、陛下はきっと戦争を起こす気だもの。全員のカリキュラムが攻撃術中心に変わっているし――』
通常、戦術士には一〇人に一人くらいしかならない。実入りは良いが殉職も多い仕事だからだ。覚悟のない者には務まらない。
むりやり戦術士にされた者の多くには、悲劇の未来しか待っていないだろう。
『――それを防ぐために、王宮の中に反対勢力を築くの!』
『……気宇壮大な計画だな。だがそれがティモシーとどう関係するんだ? いくら王宮近くにいるとはいえ、彼は一介の学徒で、しかも強固な後ろ盾もない子供だぞ』
『――わからない。でも、他に私の話を聞いてくれる人なんて、誰もいないもの』
『子爵の両親は? 神父さまとかは?』
『……いや! ティムじゃなきゃ』
フェザーは頭を掻いた。
『まるでだだっ子だな』
『だだっ子でいいわ。そうでなきゃ、こんな奇妙な運命と闘ってこれなかった……どうして私が、ただの牧場の娘が、いきなり天術士なの? こんな濃い血って、術士の血をたくさん受け入れてきた、王族くらいにしか出ないんじゃないの? ……どうして、わたしだけ……』
『ステラ……』
フェザーはステラに寄ると、その肩に手を置こうとした――が、ステラがその手を払いのけた。
『触らないで! 汚い大人のくせに!』
『ステラ……』
ステラはしまったという後悔の顔をした。
フェザーはやれやれと首を振る。
『……まあ仕方がないか。だいいち、俺は拾われた身に過ぎないし』
軽口だったが、ステラは激しく反応した。
『拾ったのじゃなくてよ! ……雇った、いえ、助けてくれた恩人だわ! 拾った、というのは撤回するから、気を悪くしないでフェザー……お願い、傷つかないで』
いまにも泣きそうな感じだったので、仕方なくフェザーはフォローした。
『いま傷ついたのは、俺じゃなくむしろステラ、おまえのほうだろ? オレこそへそ曲がりで、すまなかったな』
それきり二人は黙ってしまったが、しばらくしてステラはぽつりと囁いた。
『ありがとう……』
やがて灰色の城が、丘の切れ目から覗いた。その城下に広がる緑色の大都市が現れたところで、フェザーは林の間を走る小径に着地した。にわか教官にステラも続く。
フェザーは上半身に通し、ズボンをきつく固定していた大工作業用の吊りベルトを外した。おなじものをステラも着けていた。高速飛行でズボンやスカートが飛ばされないようにする効果がある。
フェザーはステラからベルトを回収し、ステラの頭を軽くぽんぽんと叩いた。
「一週間の道のりをわずか二日で消化とは、さすがは天才だぜ」
「教官の教えが良いからです!」
ステラはノリよく背筋を伸ばし、敬礼した。
さきほどのショックは、もうないようだ。やはり立ち直りの早さがステラ最大の武器だな、とフェザーは安堵した。
また、ステラはお世辞を言われたと勘違いしているようだが、じつは違う。
術を覚えたばかりの弟子が、二日で二〇〇ハークも飛んで平気なのだ。
それだけではない。いま使っていた術はフェザーがステラに新たに教えた特殊な飛行術で、リンド家の秘術だ。風包飛翔より難易度は高い。
フェザーはしかし何食わない顔で、ステラの前に立って歩きだした。
「さあ、これから地べただ。健康にいいぞ」
「はい!」
* *
グランドヒルはくすんだ緑色の都市だ。城以外は、一帯で地層を成す緑泥岩を、そのまま主要建材に用いているからだ。
緑の王都は活気に満ちていた。
商店に並ぶ年越しの品物は、価格競争で底値にまで下がっている。それらを買い求める人々の黒いうねりが、通りという通りを埋め尽くしていた。
喧噪と騒々しさが大都市に溢れている。一五万人が住む大都市は、多くの商人や旅人、近隣からの買い出し、観光客が入ってきたせいで二〇万以上に膨れ上がっていた。
にぎやかな市場通りを抜けて一息つける広場に出て、フェザーは汗を拭った。
「なんてえ人だかりだ。異常な数だったぞ」
人混みで縒れた髪を整えながら、ステラは得意な顔をして説明した。
「ドラゴンマスター様を見るために来てるのよ。竜が飛ぶと、気候が穏やかになって豊作になるというから」
ちょっとした迷信だが、あながち嘘ではない。ここ一二、三年ほど、ハーシュヒルには大きな風水害がないのだ。竜が現れて以来凶作の年がまだないので、長い目で見れば平均的には豊作というわけだ。
「思い出した。ザッカストでちらりと耳にした。好例のお披露目飛行はいつだ?」
「明日よ。ニューイヤーデイの昼間」
「へえ……暇があれば拝むとしますかい」
フェザーとステラはそれから、グランディス城に近い場所で宿を取った。そこに荷物を置いて旅装束から町人の平服に着替え、王城のある丘にむかう。
ステラは白ブラウスに、水色のジャンパースカート。フェザーは近年都市部で流行りだした、斜文織りの青い丈夫な上下だ。
剣を隠すように差して、フェザーは言った。
「侵入は今夜にしたい。これは下見だから、あまり目立つことはするなよ」
ステラの高い考察力と行動力を認めたフェザーは、もはやコープス川のときのようにステラに黙って予定を決めたり、一人で先行しようとはしなかった。
フェザーとステラは誰何されたら兄と妹を装うことにし、グランディス・ヒルの外壁を回る。高さ三〇ヘクトフィング、周回延長三・二ハークもある城壁は、導師の術攻撃を受けても崩れないという。
出入口は九ヶ所。いずれも分厚い岩扉で、一〇人からの門番が守っている。
四番目の門に来たとき、ステラは案内看板に『王立大教会』の文字を見つけた。
「この門が一番、ティムに近いみたい」
ステラが大開きの門の内側を盗み見る。
門番たちがなんだと思ってステラに注目した。それにステラが笑って手を振ると、むこうもとたんに顔をほころばせた。
フェザーが感心した。
「……やるじゃん」
「誰も私が、秘密の指名手配人だなんてわからないでしょうね」
捜索するほうは、ステラやウインドの顔を知らない。黒い長髪の少女と、赤髪の青年ウインド、という情報しかない。
いまのステラは髪をポニーテール、フェザーは冬帽子で隠している。たったこれだけで、顔見知り以外にはまったくわからない。
だからいきなり話しかけられて、ステラは慌ててしまった。
「きみ、大教会に用?」
門から出てきたステラより背の低い少年だ。白い博物修道士の服を着ていた。背には大きな荷を抱えている。
「え……」
ステラが答えられずにいると、
「この門からは、大教会にしか行けないんだ」
少年が、納得できる情報を与えてくれた。
「う――うんうん。そうなの」
ステラはとっさに誤魔化した。
「ぜひ、見学がしたくて」
少年は、興味深そうにステラをじろじろと見た。
「きみ、年上みたいだけど、可愛いね」
思わずステラは上気した。赤い頬を隠すように手を挟む。
「ぼくエリック――これから、町中にあるぼくの家にこない? こう見えても、けっこうな金持ちなんだ」
「え……え~と。すいません」
「おいしいケーキとかがあるよ」
「私は、大教会の図書館が見たいだけなの」
「おもしろい異国の話を知っているよ」
「図書館はきれいなんですってね」
それからエリック少年は二フックほど粘ったが、すべてがなしの飛礫だった。
「……ごめん。もしかしてきみ、年下の男の子はだめなの?」
「――誘ってくれてありがとう」
それに無言で手を返し、悲しそうに笑いながら、エリックは離れた。
「……年末になると、修道士も色づくのか」
ステラの近くに、フェザーが来ていた。
「いまは『お兄さま』……でしたよね。お兄さま、どうして助けてくださらなかったのでして?」
「ちゃんと一人で切り抜けただろう」
「……フェザー。楽しんでたわね!」
ステラは拳を振り上げて怒った。
「ねえ、もしかしてきみ――」
と、後方からいきなりエリックの声。
「なに?」
ふりむいたステラの正面に、弾んだ顔をしたエリック。
「きみ、ステラちゃん?」
「……ええ!」
驚くステラの態度で得心したようだ。
「やはりそうなんだ!」
「おいおい、なんなんだ?」
事情がまったく掴めないフェザーは、すっかり面食らっている。
「ななななんでわかったの?」
「だってほら、やたらと図書館について言ってたし――」
エリックはうれしそうにステラの手を握った。妙に人なつっこい。
「会えて光栄だよ! ちくしょうティムのやつめ、うらやましい限りだよ、年上の彼女だなんて! それにしてもひどい彼氏だ。ステラちゃんに教えずに帰るなんて」
「……帰る?」
「そうさ。ここに来ても無意味というわけ。みんな年末年始の休みで、帰っているよ」
「でも教会なら、年始の聖なる祈りが――」
「博物修道士と労務修道士は参加しないよ。ぼくも家に帰るところさ――ようし、帰り道でぜったいに彼女をゲットしてやる」
エリックは、今度こそ本当に去っていった。
「……世界は広いですわ!」
「なんてばかばかしい落とし穴だ! 聖教派で年末に休みがある修道士などはじめて聞いたぞ――さすがは極東の田舎国!」
「田舎は余計よ」
「あ、すまん」
とにかくもうここに用はない。
頷き合ってその旨を確認すると、ステラとフェザーは門から離れようとしたが……
ピィィ――
笛の音。
ステラが驚いて後方をふりむくと、門番たちがこちらに走ってきている。
フェザーが舌打ちした。
「軟派坊主のせいで正体がばれた!」
ここの門番たちが、ステラのことを聞かされていないはずがない。もしかしたら、戦術士が密かに混じっているかもしれない。
「飛ぶぞ。上級術のほうでだ」
フェザーは、いざというときのために持っていた吊りベルトを装着しつつ、門番たちから逃げた。
「――せいや!」
フェザーが飛び立つ。
ステラはさすがに慣れてないので、走りながらだと術の発動が難しい。
「あれ? どうしたの、きみ?」
元凶のエリックが目の前に迫ってきた。
ステラはようやく飛び立った。
飛び立ちざまにエリックの顔を思いっきり踏みつけ、反動で一気に高度を稼いだ。
「……あ、白」
後ろでエリックが転ぶ音がした。
速度を増すと風でスカートが引っ張られた。いまはワンピースなので大丈夫だ。
後ろでエリックが転ぶ音がした。
ステラとフェザーは、グランドヒルの市街の上を一気に飛ぶ。
その後を、門番の一人が飛んで追ってくる。
やはり戦術士が混じっていた。
「ここまで来て……私って不幸かも」
「人生に不幸は必要さ。試練になるだろ?」
「冗談言わないでフェザー!」
町の人々が、にわかに起こった頭上の追走劇に、やんややんやと騒いでいる。年末ということも手伝って、思わぬイベントに楽しそうに盛り上がっていた。
「やはり不幸よ私! ああ神様、ティムに逢わせてよ!」
* *
目標、城下に出現。
予期せぬ連絡を地脈遠話で受け、ドラゴンマスターは薄暗い城の中裏庭にむかった。
レンガの壁で土敷きの殺風景な空間に、青い小山がいた。
【めずらしい風術のにおいがする。三〇年ぶりに嗅ぐ術だ】
青い生き物がのそりと首をもたげた。
顔の位置が高い。その迫力に、ドラゴンマスターの従者たちが息をのむ。
【やつが来ているな】
Fは盟友に頷いた。
「完全に予測が失敗した。これほど早く移動できるとは――ウインドと、そしてステラ・トライヒルを甘く見すぎていた」
ディアノスは畳んだ翼を広げた。
【早くむかおうぞ】
皮膜がぶるぶると揺れている。Fの従者たちは本能的な恐怖を抑えられず、後ずさる。Fだけは逆に笑っていた。
「急かせるな、ディアノス」
Fは、ディアノスの背に乗る。
その瞬間、フレデリックはジョージになる。ジョージ・ザ・ドラゴンマスターに。
マスターと言っても、竜の驥尾に付いているだけだ。最強の幻獣である竜を支配した人間など、歴史上に存在しない。
竜と人がつき合うのは、あくまで竜が人に力を貸すという形でのみだ。
「さあゆこうディアノス。おまえの好敵手が待っているぞ」
ジョージの煽りに、ドラゴンはおおぅと吼えた。ディアノスが求めるのは戦いだ。そうでなくて、誇り高い暴竜が人間なぞに手を貸すわけがないのだ。
* *
――光暦一八八年。
森に覆われたウルフズヒルの細い道を進んでいた荷馬車――それが突然、空から舞い降りた青い暴竜に襲われた。
暴竜は三頭立ての馬車を一薙ぎで吹き飛ばした。その周りを固めていた数名の術士と戦士たちも、たちまち蹴散らされた。
血があたりに散り、死が充満した。
暴れ竜は哀しく啼く馬たちを噛み殺し、馬車そのものに体重をかけて破壊した。幌の中に隠れていたのは御者と、そして若い高貴な夫婦だった。
高貴な男はファイアマスターであった。
「――炎よ!」
巨大な炎が襲いかかる。
だが、竜には通じない。
竜は破壊本能に任せ、風の嵐を起こした。
炎はたちまち消え、人間たちは全員飛ばされた。
誰も動かなくなった後、竜は物足りぬ咆哮をあげた。
そして飛び立とうとした――
「……足りないか?」
声がした。
竜はふりむく。高貴な男だった。血塗れだが、すさまじい形相で立っている。
「足りないようだな、孤独な竜よ」
竜は気紛れで相手をした。
【――当然だ。我が命は長く、しかし興は少ない。我が求めるは強き敵だ】
「なぜ脆い人を襲う。強きは竜こそだろう」
【我は命を賭す戦がしたいのだ。だが同族の命を賭す戦いは、竜の禁忌だ】
「……笑止だ」
【なんだと】
「村人や馬車を襲ったところで、竜の矜持が損なわれるだけだ」
【きさま!】
竜は翼を帆のように広げた。
【義憤なり! 我が誇りを傷つけるか!】
「否、それは私憤なり! おぬしが戦うべきは、勝つことがわかりきっている弱き者ではない。いるはずだ、戦うべき強き者が」
【どこにいる。そんな者は知らぬ】
「私が会わせてやろう――」
高貴な男は、額や脇腹から流れ落ちる血に構わず言った。
「――私と共に来れば、戦うべき強者と見えることが出来るだろう……」
しばらく竜は黙っていた。
【……おもしろい奴だ】
高貴な男は、出血多量で倒れようとしている。それを御者が慌てて抱えた。
【我に詭弁でも虚言でもなく意見した人間ははじめてだ。弱き人よ、汝の命は預かった】
竜は、印を切った。
【汝に総治癒をかけた】
総治癒――最高の回復水術だ。ハイマスターでも使える者は滅多にいない。一三種の治療術をひとつにまとめた効果がある。
男の出血が止まり、弱っていた脈も戻る。荒れた呼吸も穏やかになった。
【汝が死ぬ刻までの神聖なる盟約が結ばれた。盟友よ、我が名は、天竜ディアノス!】
こうしてドラゴンマスターが誕生した。
しかし代償は大きかった。
天竜に飛ばされたときの怪我が元で、二日後に高貴な男の妻が亡くなったのだ――
* *
「――竜を恨まないで。ハーシュヒルのために、あなたの目指すもののために……竜と……協力して……新王を、守って……」
セーラの遺言である。
以来、ジョージはこの言葉に縛られている。
仇のはずの竜に乗り、表に出ないところで数々の死闘を繰り広げてきた。
王を守る影の騎士。
ハーシュヒルの守護神と謳われているが、活動の至上目的はケイン三世の利益を守ることにある。民衆は二のつぎだった。
青い竜が飛び立った。
追うはウインド。
任務はステラの保護。
それにしても……
ジョージは、どうにもやりにくい。
ウインドは強敵だが、どうにかなるだろう。
問題はステラである。はたして正体を明かして、私は平気だろうか。
ステラ・トライヒルは、セーラに面影がよく似ているのだ。
もっとも義理の姪だから似ているのは当然だが――私は身内ともいえる彼女を、国益のための道具に仕立てようとしている。
そこに正義はあるのだろうか?
セーラ――私はなにを目指している? なにを目指すべきだ?
教えてくれ。