高級ホテル『ヘヴン』の受付嬢は、一昨日の髭おじさんと似た身なりの男女が入ってきて嫌な予感を覚えた。
信用度零の噂では、髭おじさんが実は極悪術士で、西地区で破壊の限りを尽くしたという。一〇〇人が死に、一〇〇〇人が怪我をしたらしい。地震までが術士の仕業だとさ。
昨日は極悪術士が二〇人に増殖した。術士にニワトリを盗まれたとか、術士に一スールをカツアゲされたとか。
この二人もきっと偽物だ。姿だけならいくらでも真似ができる。やはりだ。髭おじさんの荷物を渡せと来た。
冗談じゃない。行方不明だろうが術士だろうが、払いの良い素敵なお客様の荷物だ。
受付嬢はプロの誇りにかけて荷物を守ろうとした。即座に恋人の守衛を呼ぶ。
だが彼女と恋人は敗れ、カマイタチ現象によるひどい切り傷で入院した。
治療費はしめて一ジールかかった。
* *
風は臭いを運ぶ。
ときに人を和ませ、ときに不快にさせる。
風は香りを運ぶ。
風術には、そういった香りを辿って目標物を見つける術――風翔香査がある。
端正な顔の若い男が、白い街道で風翔香査を発動させていた。やや灰色がかった黒髪と、着込んでいる草色の長衣とマントが風になびいている。風があるとき、風術は力を発揮するのだ。
「……見つけた」
「それでゾーン、どちらですか?」
声の主は金髪の若い女だ。ゾーンの隣にひっそりと佇んでいる。
長衣は水色だ。胸の辺りで一回しぼませ、スカート部分は布を少なくしている。
ウインドマスターのゾーンは、
「……こちらだ、アーガイル。それも至近」
無造作にみじかく答え、街道を逸れた。
アーガイル女史は困惑した。
「どうして街道から――」
「わからない」
一〇〇歩ほど歩いた地点で、二人は捜索対象を見つけた。彼はちいさな岩影に掘られた溝の中で、しおれた草のうえに転がっていた。
全身を縛られた男は二人に気づき、うんうんと力無く叫んだ。口には枷で、言葉にならない。左顎には濃い痣がある。
ゾーンは同僚に語りかけた。
「ウィットフォール……無様なものだな」
そして、口元をわずかにゆがませる。
アーガイルのほうは風術士の影に隠れ、おずおずと顔を出している。その瞳には見せ物を眺めるような残酷さが煌めいていた。
ウィットフォールは自由に動けず、体の周囲は草。これでは地術が使えない。
一日以上も野外に捨て置かれ、凍る夜を過ごした。股間は汚物に、心は恥辱にまみれている。とどめは嫌われやすい為人が災いして、同僚からは嘲笑を受けるのみ。ウィットフォールの胸中は最悪であった。
* *
ニューファズ村郊外の森。
「やはり埋めるの?」
ステラが見つめる穴には、ステラが背負ってきたリュック。じつはこの一品、ユニコーンという幻獣の革で出来ている。中にはお気に入りの高級な服や化粧品類が入ったままだ。総額で軽く二五ジールにはなる。
現在ステラが着ているのは、村の雑貨屋で買ったタータンチェックの厚ぼったい服だった。値段は二〇スール。農村の風景に溶け込んだ、よくいる村娘に見える。
「追撃側に風術士がいる以上、ステラの香りのついた物は、すべて隠さないとな」
ウィルは近くの農家で借りてきたシャベルで、土を戻しはじめた。
「荷を埋めても、私自身が臭いを発するわ」
「体臭は食べ物や時々の体調でよく変わる。わずかでも臭いが変われば、人にはもう個人の嗅ぎ分けはつかないさ」
「なら持ち物もおなじでなくて?」
「日々の臭いが平均になるだろ? 服や持ち物のほうこそが香査の指標になる」
ステラは未練がましく食い下がる。
「洗えば消えるわ」
「洗っても少々は残る。はるか南のラクシュウには、洗剤という臭いを消す画期的なものがあるらしいがな」
ウィルは土を戻し終えた。
「そんなに未練なら、ここに風溜まりを作ればいい。いつでも風翔召喚で呼び出せる」
「……そのつもりよ!」
ステラは乙女心を理解しないウィルの足を、いきなり踏みつけた。
ウィルが痛みに飛び回るのを後目に、せいせいした顔で念じた。
――集まって!
そよ風が一点に集う。荷物を埋めた上に、風の塊が出現した。
渦巻く風が留まっている。笛のような音を出し、周囲の枯葉を吸い込み、放りだし、生き物のようだ。
「くっ、痛かったぞ、このおてんばが……おい、これじゃあ目立つぞ」
ステラはすかさず、
「散って!」
風が散った――だが、風溜まりは消えたわけではない。半径五ヘクトフィングを延々と巡回する、そよ風の渦になったのだ。
「やるじゃん一三歳」
「脱出に役立つ術は完璧に覚えたわ」
「脱走の間違いだろ」
「……言うわね、拾われた身のくせに」
「拾ったのは俺だっての……」
* *
街道を横切るコープス川の南北に分かれるニューファズ村は、往航で生計をたてている。
コープス川は幅四五〇ヘクトフィングもあるので橋がない。よって船で往来することになるのだが、あいにく上流の雨で増水しており、二日前から渡河禁止となっていた。
村の南集落に戻った二人は、川に面する安宿に部屋を取った。
ウィルは「ちょっと野暮用」と言って出ていった。ステラは二階の窓から、茶色に汚れた大河コープス川を見つめている。
「ティム……」
彼は、川のはるか彼方だ。
「会いたい。でも先に進めない――川だなんて、想像もできなかった邪魔だわ。まったく世界は広いですわ」
ティムに一刻も早く会って、伝えたいことがあるのに。
ティム――私にはじめて『好き』という感情を教えてくれた人。そして、はじめて私を守ってくれると言ってくれた、私だけのナイト――
いてもたってもいられなかった。
「私の『もうひとつの力』を使えば……もしやこの増水を解決できるかも……」
自分の両手を見つめる。
使えるかしら――
ステラは、窓から諸手をかざした。
掌を茶色の濁流に向け、念じてみる。
――動いて。
…………
――動いて!
…………
流れは、自然の法則に沿ったままだ。
「……やはりだめなのかなあ。あのときだっていきなりだったし」
ステラは自分の無力がもどかしい。
ウィルがいなければ、この旅はとっくに挫折していただろう。
赤い髪の青年、ウィル――
ステラは、ウィットフォールを殴った右拳を触った。肉離れはまだ治らない。昨日縛ってくれた手拭いをさする。風呂に入ったときはいったん外したが、それ以外はずっと縛ったままだ。
ウィルはいい人だ。口が悪いが信用できるし、いろんなことを知っている。
そして……頼りになる。
「私だけの、もう一人のナイトさん」
ステラは自分の頬にほんのり朱が混じっていることに気づかなかった。
* *
ハーシュヒル王国王立術士修技館――
『これは風翔遠話なり』
その音ははっきりと頭に響いた。
自室でうたた寝をしていたFは、机の脇に置いてあった銅の籠に手を伸ばした。
『Zか』
籠の中で空気が渦巻く。風溜まりだ。
『こちらZ。小鳥を追うついでに、小径の影でWを見つけた』
『ごくろうZ。Wはどうしていた?』
『病気だった』
……やはり独断専行をしていたようだ。
『医者の見解はどうだ』
『ただの風邪だと言っている』
『まったく困った奴だ。誰に移された?』
『…………』
『どうした?』
『そいつは旅の者で、烏を飼っていた』
『うむ……』
Fに軽い狼狽が見られた。旅とは異邦の者、烏とは傭兵のことだ。だがウィットフォールは昔年に戦術士の経験があり、たいていの傭兵には勝てるはず。それが敗れるとは……
まさか、傭兵を騙った外国の干渉か? ステラには一国の命運を左右する希有な力がある。ステラを誘拐するとすれば、キリング並の導師が出てくるはずだ。ならばウィットフォールが追いつけるはずも、戦って生き延びるはずもない。
やはり情報は漏れていない。これは偶然だ。
『……どこ出身の烏飼いだ? 特徴を』
『ハーシュヒル生まれだが、ヒルさんではない。乾物屋の行商もやっている』
納得できる強敵だった。風術を使える国籍不明の傭兵なのだ。それはほぼ間違いなく術弟子崩れだから、術力はたかが知れている。
弟子の全員が術士になれるわけではない。才能の蕾が花にならなかった半分ほどは、一六歳くらいで野に下る。
術弟子出身の傭兵で怖いのは知識だ。風術士は無風では術を使えない、火術士は雨天では無力……等々を熟知している。
だからといって術士が万一のために剣を習うことはまずない。自負があるからだ。
仮想段階とはいえ、これで敵は定まった。後は対策を講じるだけだ。
『――Aはいるか?』
『隣の家に住んでいる』
『小鳥を追えるか?』
『犬がいなくなった。小鳥の位置がわからない。ついでだが、餌も捨てられた』
風翔香査も地脈走査もだめのようだ。水術や火術に個人捜索の術はない。もはや術による追跡は不可能になった。
こうなれば、予定を変更するしかない。
『小鳥はおそらく太い木だ。そこから太い木との間に綱を張り、Aとともに渡って行け。よく使いこまれた古いので張れよ』
『Wも渡りたいらしいが』
『Wには安静にしろと伝えろ。いや、帰還しろと伝えてくれ』
『伝えておく……』
風翔遠話は終わった。
「ふふ、ゾーンめ。わざわざ一般術士用の暗号で伝えるとは、律儀な男だ」
Fは安堵していた。保険が利いたからだ。
ジョージの部隊が動いている。術捜索が効かないステラを捕捉するには、数に頼むしかない。彼らは転移陣門の瞬間移動ネットワークで展開しはじめているはずだ。
ゾーンとアーガイルには、近道で追撃してもらう。行き先は間違いなく北だ。根拠はティモシー・ラッセルヒル。
「それにしても……なんと面倒くさい事件だ。セーラ、私はさすがに頭が痛いよ」
追う対象が公にできない義理の姪であるだけでも面倒なのに、予期せぬ傭兵の登場だ。どうやら指揮のために、当初の予定より早くグランドヒルにむかうことになりそうだ。
今年の年末年始は本当に多忙だ。毎年の慣行任務、トーマスがもちかけて実現するティムとの談話、ステラ脱走事件対策……
最悪の場合、あいつの力を借りることになるだろう。セーラの苦い想い出があるので、よほどでないと頼りたくはないが――あいつは強い者と戦うのがじつに好きだ。
「風術を使う傭兵とやらが、あいつの気に入る猛者だと見物になるな。風の戦士といえば――ウインド。いや、まさかな」
大陸中を練り歩く生ける伝説ウインド。最新の足跡は二ヶ月前、西方の隣国ザッカスト。地元の自警団を率い、ブレスクリック国境近辺の山賊団を退治した、という御大層な英雄活劇であった。もちろん事実だ。
この山賊には、ハーシュヒル王国が密かに資金援助をしていた。仮想敵国に対する経済撹乱工作が、部外者に邪魔されたのだ。
ひたすら民衆にとっての正義を実践する、英雄ウインド。その存在は体制側には目障りでしかない。
* *
ウィルは晩近くになって戻ってきた。
「ウィル、おそーい!」
ステラは宿屋の一階食堂で早めの夕食を取っていた。トライヒル印の牛乳でパンをかじっている。タータンチェック柄の村娘の格好が板についていた。なぜかフリルのエプロンをつけている。
「ステラ……エプロン」
「牛乳を飲むときはエプロンよ」
「そうなのか? まあ、似合ってるが」
「ティムもさっさと食べて。明日は早いわよ」
ステラは妙に張り切っている。
ウィルは自分のぶんの巨大パンと牛乳瓶を取ってきた。ステラの隣に座る。
「嬉しいことがあったようだな」
「聞いたの。明日には渡れるって」
なるほど。
だが、ウィルはステラとは別に、すでに今後について結論を出していた。
「ステラ」
「なあに?」
「ステラは、すぐにでも北にいきたいか?」
「もちろん」
「なら出るぞ。いま」
「……どうやっていますぐ北にいくの?」
さすがにステラは怪訝な顔だ。
「渡る」
「橋のない川を?」
「上流から回る」
ステラの手からパンが落ちる。
「そんなことが出来るの!」
「可能だ」
* *
茜色から藍色へと移りゆく空に、一番星が瞬きはじめた。
村を出て街道から逸れ、コープス川沿いに上流側を目指す。闇のとばりでよく見えない河原や獣道を、ウィルの松明だけを頼りに進む。
ステラは未知の冒険に緊張している。ウィルはなにも教えなかったからだ。
周囲は静寂だ。川の流れと砂利を蹴る響き、息づかいだけがステラの耳に届く。
やがてウィルとステラの前に、古びた木の柵が現れた。柵は河原から延々と続いている。
ウィルは河原のほうから壊れた柵の間をすり抜けた。過去の増水でここは柵がだいぶ倒されているのだ。
だがステラは柵越えを躊躇した。
「どうした? 簡単に跨げるだろ」
「ウィル――ここケイン三世様の土地よ」
「それがどうした? ばれなければ大丈夫だ」
ステラは首を横に大きく振った。
「国王様に逆らうことは――」
「ステラ。国王を見たことがあるのか?」
「……ないわ」
「なら怖がるな。いくぞ」
「…………」
ステラは正直はぐらかされたのだが、なぜか緊張が取れた。自分の目的を思い返し、ウィルを信じてついていくことにした。
柵を越えると、手入れのされていない森に入った。ウィルは昼間のうちに一度訪れているのか、迷うことなく進路を取る。
まもなく一本の舗装路に出た。
古い道であった。
石畳は風化によって灰色に汚れ、石と石の間で、枯れ草がよわよわと揺れている。
石が大きく、きつめに舗装されてあったので、道を遮る草は意外と少ない。
二人はそのまま、古い道を進みはじめた。
「すごいウィル。どうやって見つけたの?」
「地図で気づいたが、この国の街道はあまりに不自然で無駄が多い。道は自然の地形に逆らわないものだ」
「……ならこの道が自然の道なのね? 地形だけを頼りに探しだすなんて見事だわ」
「地政学を学めば朝飯前さ。こいつは旧街道だ。五〇年戦争時に軍道として接収され、以来秘密の道になったのだろう」
転送や召喚に便利な転移陣門は、大軍だけは運べない。それゆえの道だった。
一〇〇歩も行かないうちに街道は途切れてしまった。ウィルは近くの小さな丘にむかった。なんと斜面に地下への穴と階段があった。
出入口は錆びた鉄格子で閉じている。
「……酒の貯蔵庫かしら、ウィル」
ウィルは答えず、鉄格子を調べる。
「不用心だな、鍵だけ新しい。ここが廃道でなく現役だと一発でばれるぜ」
ウィルはステラに松明を持たせると、ベルト金具の針金一本で鍵開けに入った。
なんと一瞬で開錠して見せた。錆びた鉄格子を開ける。ぎいぎいと耳障りな音がした。
「さあ、降りるぞ」
ステラは無言で従う。頼もしいウィルにすべてを託していた。ウィルは内側から鉄格子を閉め、器用に鍵を掛け戻した。
* *
暗い通路に、明かりがひとつ。
持つのはステラだ。ステラは心細くて、松明をウィルに戻すことができない。もっともウィルは気にしていない様子だった。
松ヤニの燃える臭いが、暗い通路に充満した。甲高い足音の共鳴が、通路に響く。
「……ウィル。これ貯蔵庫じゃなくて、もしかしてコープス川の下を――」
「貫くトンネルさ」
アーチ状トンネルの石壁には一面に水滴が垂れている。水は絶えず壁から染み出し、そしてトンネル内の側溝に溜まっていた。側溝の水は二人のゆく先へと流れていく。
「山壁ならともかく、川の下を貫くなんて、変わったトンネル。たしか川の下は土のはず――どうやって掘ったのかしら?」
「水術だ。掘る部分を土砂ごと凍らせて、溶ける前に掘る。壁は分厚い石を填めて固定する。隙間はセメントで埋める」
ステラは感心した。
「本当になんでも知ってるのね、まるでティムみたい。ところで、せめんとって?」
「水を加えたら固まって石になる粉さ。中央や西方では一般に普及していて、これで柱の少ない建物を建てている。だが東じゃ機密技術扱いのようだな。あるいはただ単に技術者がいないだけか」
「なにを言っているか、よくわからないわ」
「漆喰の丈夫なやつだと思えばいいさ」
「いずれにせよすばらしい建材なのね」
ウィルは肩をすくめる。
「東の遅れ具合にゃときどきあきれるぞ。そういや紙幣も火薬もなかったな――すべては五〇年戦争のせいか。それでいて、市場経済と金融・保険の仕組みだけがどこよりも発達しているのは面白い現象だな」
「なにを言っているのウィル」
「おっと、すまんすまん」
「もしかして悪口を言っていたの?」
「ちがうって。とにかく結論を言えば、この機密技術を使ったトンネルは、間違いなく王様の道になってから掘ったものってことだ」
やがてトンネルの中心部と思われる場所に出た。そこはちょっとした空間で、側溝を流れてきた水が中央の水槽に集まっていた。
驚くべきは、水槽の中央から一筋の水柱が、天井にむかって細々と昇っていたことだった。水は天井に開いた穴に吸い込まれてゆく。
ステラは水柱を松明で照らした。水柱は仄かにオレンジに照り、光沢がきらめく。
「……きれい」
「万有引力に逆らう水柱のおかげで、河床をくぐるトンネルは水没しない。数十年経ってもなお働く巧緻な超長期水術――」
ウィルは、水槽の銘を読んで軽く驚いた。
「――なんとヒートハイマスター、キャスパー・リンドの隠れた傑作だ」
ヒートは火と水の二力素による能力だ。絶対零度から数万度まで、熱を自在に操る熱術士。そしてハイマスターは導師――マスターの中のマスターという称号だった。
「世界は広いですわ」
ステラは単純に感動した。
「高名なリンド家の作品にまみえるなんて!」
術士が施した長期術のからくりは、世代を越えるよき手本なのだ。かつては術士になることを拒んでいたステラであったが、目的を果たすために術を使うことで、術を肯定的に見るようになっていた。
瞳を輝かせるステラを見て、ウィルはくすぐったい思いだった。名をウィルと偽るフェザー・リンドにしても、亡き祖父の作品に思わないところで出会ったのだ。
しばらく見とれていたステラだったが、先を促すウィルに気づくと、名残惜しそうに歩みを再開した。