WIND&WIND
小説出奔した風術弟子ステラは、疾風剣士ウインドと共に故郷を目指す。
I「世界は広いですわ!」
薄明の朝もや広がる森のなか、その少女は走っていた。
――私は行くんだ。
吐く息が凍る。
私は、あの人の元に行くんだ。
息の霧が後方へ流れてゆく。けっして振り返らない。
大好きな、あの人に会いに……
まだ人工林地帯を抜けない。冬だというのに森の針葉樹たちはよく繁り、光の多くを覆い隠している。
見上げれば、進行方向の夜空がほころび染め、うす明るくなっていた。夜はまもなく終わろうとしているのだ。かすかな明かりの一部が森に分け入り、足元の地形もそれなりに判断できる。それにすでにでこぼこな地形にも慣れていた。
だから力のかぎりに走っていた。
手探りで歩いている間は、本当に怖かった。いつ背中から、陰険なウィットフォール先生や、合わせる顔のないゾーン先生が出てくるのかと、脅迫感と罪悪感に襲われながらの半夜を過ごしたのだ。
だけど……怖さなんて関係ない。
私には、伝えたいことがある。あの人に――知ってもらいたい。
少女は明るい空を目指していた。太陽が出るのは東だ。東には沿岸の街道がある。そして白い街道こそが、彼女の目指す最初の目的地だった。
あの人に会いたい……痛っ! 小枝に指を軽くひっかけた。思わず小走りになる。
あれ? 冷たい?
少女は手を合わせて激しくこすり、広げて息を吹きかけた。体の芯は暖かいのに、なぜ指先が冷たいんだろう。
そうか、森に慣れてなくて幾度か転んだとき、手袋を無くしたんだ。いままで気付かなかったなんて……
それだけ集中していたということだ。
「こんな寒さに負けてたまるものか! 神父さま、私を、ステラを守って!」
少女――ステラは足全体に力を込める。心の暖炉に薪をくべ、大事な決意を胸に秘めたステラはなおも走りつづけた。
* *
「なん……だと?」
暗闇で、動揺を帯びた老人の声が小さくつぶやいた。
闇に火が灯る。
磨かれた大理石の壁が出現した。煉瓦のように赤銅色に照らされる。椅子や机、棚といった調度品はどれも凝った高級品に統一されており、趣味もよい。
光源は、腰くらいの棚の上に置いてある陶器製の鯨脂ランプ。その側に、綿入りベッドで半身を起こした灰色の老人――学長のサザンクリフが浮かび上がっていた。
「あやつが逃げた、というのか?」
「見事な手際でした。さすがは特待生です」
答えたのは、三〇代半ばと思われる男性だった。赤い簡素な長衣を着ている。
「だが元々は不真面目弟子だぞ、F」
「考慮すべきは、過去でなく現在です」
Fの物言いは淡々としていた。
「……とにかく、娘をつかまえろ」
「わかっております導師。すでにウィットフォールが出ております」
「――あのアホに任せるのか? ただの術弟子ではないのだぞ!」
「分かっています。ウィットフォールの連絡がありしだい、ゾーンとアーガイルもむかわせる手筈です。それから報告を」
「だめだ!」
導師の声にはあきらかな動揺が含まれていた。双方とも口を閉じる。沈黙のベールがたちこめ、ランプの炎が空気に揺れるかすかな音が逡巡の部屋に広がってゆく。だが迷っているのは導師のほうだけであった。Fは淡々として無表情で、いかにもこういうことは慣れているといわんばかりの落ち着き払った態度である。Fは沈黙を守ったままである。あきらかに待っていた。
いかような葛藤が導師の内で繰り広げられたのだろう。軽く二〇秒《パック》は経ってから、導師はようやく口を開いた。
「……王都には報告するな。すべて――そう、すべてを内密のうちに解決するのだ」
「サザンクリフ導師、脱走者の報告は義務です。今回はとくにハーケン計画が――」
「だからこそだ。事が知らればわしは間違いなく解任される」
「ですが私情で……」
「現段階で、ジョージとその部隊が出るほどのことか? ファウ……」
「私はFです」
Fが遮った。部屋に入ってはじめて、声にかすかな感情の高まりを含ませていた。
「私は、フレデリック・Fです、学長」
「――すまん、F。とにかく解決するのだ」
導師の声には、虚勢を張っているかのようなふるえが混じっていた。立場上は学長たる彼のほうが上司であるはずなのだが、まるでFを畏怖している。
対しフレデリック・Fが高ぶったのはごく一瞬にすぎず、すでに落ち着きを取り戻している。その眉目が微妙に、なにかを計算するように動いていたが――
「おまえもまた、あの御方に対する立場が危うくなるだろう?」
と導師が言うや、「……導師の御意のままに」とあっさり導師の案を受け入れ、至極丁寧に礼をした。
* *
朝日は世界中の何処をも等しく照らす。
沿岸の漁港都市にも、光暦二〇一年一二月二五日の夜明けが平等に訪れようとしていた。わずかな光に町の全容が浮かび上がる。高い壁に囲まれたヒドレイトの町は白かった。雪の白さではない。建物が白いのだ。
そんな黒灰から白へと変貌しつつある都市の目抜き通りを、一人の青年が歩いていた。
その身なりは汚らしい。
帽子も上着もズボンも埃と脂汗で汚れ、ほとんど物乞いに近い格好。布団代わりのマントは、ボロ同然だ。
……まったく、つくづくなんて薄情な交易商人だったんだろう。
青年は白い吐息を漏らした。
不渡り手形で破産したので、護衛の給料が払えないと言う。まさか共済保険に入っていない裏業者だったなんて……と、一〇日も前のこと蒸し返してもしょうがない。今日こそどこかで雇ってもらわないと。術を使える働き口はないかな?
青年は近くの建物の壁にもたれた。
――ああ、腹が減った。
青年は壁に体重を預け、ぺたんと座った。舗装路の冷たさが腰に伝わってくる。金属音がした。青年は面倒臭そうに腰をさぐる。一振りの剣が鞘におさまっていた。青年はベルトに繁いでいた鞘紐をほどき、剣を腰の裏に押し込んだ。
さて、ここが正念場だ。
青年はプライドと空き腹を天秤にかける。
と、下腹部が鳴った。一瞬の勝負だった。腹の勝ち。
帽子を脱ぐ。赤い髪が露わとなった。帽子を足元に投げた。
――風よ!
青年が念じると同時に、どういう偶然か、ひゅうと地を這う風が吹いた。その風はまるで遊んでいるかのように帽子を運び、内側が上向きになるように地にそっと落とした。
こちらもそろそろ限界かな。それにしても……ついに物乞いか。ルーツマスターの家名が泣くぞ。だが仕事を探す以前に、先立つもので腹を満たさ――ないと……
目をつむるや、たちまち全身を疲労が駆け抜ける。青年の意識はすぐまどろみに沈んだ。
* *
走る少女、ステラはついに黒い森を抜けた。
にわかに明るい枯れ草野原に出て、目を細めた。太陽は見えないが、じゅうぶんに明るい。
森から抜けた感動に腰砕ける。冬の枯れて適度に湿った草が、ひんやりと疲れた膝を癒してくれて気持ちいい。これが初夏の緑色に染まっていたら素敵なのに、とステラは思った。
なにしろ着ている服が初夏の草色なのだ。しかし――そのおしゃれな貫頭衣の裾があらかた、冬の色に枯れていた。なんと泥で汚れていたのだ。
「なんてこと!」
跳ねるように立ち上がるや、背中に背負っていたリュックを降ろし、乾いた泥を急いではたいた。だいぶ乾いた塊を落としはしたが、しかし泥はすでに服に染みこんでいる。洗濯が必要だ。
「……もしや」
髪も触ると、やはり懸念通りだった。
ゆるやかなウェーブを描いて腰まで伸びる豊かな黒髪も、泥で汚れている。洗濯どころではない。湯浴みも必要だ。
ステラはため息をついた。
着替えられそうなところは……
あたりを見回すと窪地であった。三方は小さな丘に囲まれ、後方は抜けてきた森だ。
そよ風が吹いている。
と、ステラは風にあるものを感じた。リュックを背負い、正面の丘を登った。風に導かれるまま、迷わず歩く。三百歩ほどで少女は、高さ二〇ヘクトフィング(一ヘクトフィングはほぼ一メートル)の丘の頂についた。
「わあ――」
憂鬱だったステラの顔に、にわかに明るさが灯った。服のことは一瞬で忘れてしまった。沿岸に面した、白い港町が目の前に広がっていた。事前に見た地図で覚えている。
最初の目的地、ヒドレイトだ。
目の前は一面の水面――大東海である。昇ったばかりでまだ明るい太陽が、穏やかな海を黄金に染めていた。かすかに風が吹いている。海からの風が、ステラの豊かな髪を後ろへとなびかせる。
ステラは風術弟子、風の子だ。風が吹く日は、気持ちがいい。
「きれい……こんな美しい朝日ははじめて」
開放の喜びか、スキップで丘を下る。
とっておきの口癖を、思いっきり叫んだ。
「世界は広いですわ!」