魔物が棲むと怖れられる、黒い針葉樹林の奥深く――そこに、ハーシュヒル王国最大の修技館、王立術士修技館がある。
「……なんのつもりだ?」
カーテンを引いた薄暗い学長室で、揺り椅子にゆられる老人はつぶやくように訊ねた。
「勝手に城に報告したというではないか」
Fは丁寧に礼をした。
「――導師、私は学長に忠実な補佐役です」
「白々しい嘘をつくな。すべてわかっておる。わしにも独自の情報網があるのだ」
「グランディス城には、有閑な噂好きの保守隠居が多くて困ります」
「……わしの旧友たちを愚弄するか!」
「いいえ。かつて国のために心血を注いで下さった術士の方々です。その老後を保障するのは国として当然のこと。ただし――」
Fの声質に、静かな怒気が加わる。
「ただし現役を退かれた身でありながら、国益を害する行為は、あまり誉められたものではありませんね」
「……なっ」
サザンクリフの両手が震えた。
「きさま……いや、おまえの、ケイン三世陛下に対する立場はどうなる? 今回は粛正には恰好の口実だぞ」
「――私は、私の役割を演じるのみ」
「まだセーラに囚われておるのか。もう何年になると思う? わしの読みが甘すぎたか」
導師は嘆息した。
「おまえがもっと俗な人間ならよかった」
「ですが今回は、とうてい隠し仰せるものではありませんでした」
「わかっておるわ――ウィットフォールが暴れた時点で、すでにわしの命運は尽きていた」
「さすがです」
Fは穏やかな口調に戻った。
「東方最強のブレイズハイマスターと謳われる御方は、じつに潔い」
炎術士――ブレイズマスターは風と火の二力素に通じる。ファイアマスターとちがい、風さえあれば火を起こせる。
老人は照れ隠しに咳き込んだ。
「よせ、いまはその辺の在野術士より力劣るわ。そうだ、最後の抵抗くらいさせてくれ。あまり大したことではないがな――今回、風翔転移陣門は起動させぬ」
「ご自由に」
「ふん、本当にささやかな抵抗だ。どうせおまえはあいつを呼ぶだけだろう。わかったら、さっさと退出しろ」
* *
王立術士修技館には五人のマスター、八一人の弟子、六人の事務官、一〇人の使用人、四人のコックが住んでいる。
これだけの人数の食糧を森の中で自給自足するのは、正直不可能に近い。
というわけでこの修技館には、風翔転移陣門があった。特殊な風の長期結界だ。ここから国内の数カ所を結ぶ、転送・召喚の一大ネットワークが結ばれている。一度で無効となる風溜まりの転送・召喚と違い、幾度も使えるのが特徴だ。
転移陣門のネットワークは地術でも構築されている。水と火はない。水だと濡れ、火だと燃えるからだ。よって風と地は転移に向く力素だ。両力素に通じる者を送術士――テレポートマスターと呼ぶほどである。
あまりに便利ゆえ、陣門は王道と並んで一般人には使わせない特殊設備である。
その陣門が、攻撃を受けていた。
陣門は多重結界を施した棟に囲われていた。
その建物が無分別な物質結合崩壊術を喰らってひび割れ、粉々に砕ける。
笛のような音が辺りに響く。風術の警報だ。
防衛用の火術攻撃結界は、作動する前に建物ごと施術が消失していた。
崩れ去った瓦礫の間を縫って、ウィットフォールはゆらゆらと陣門の領域に入った。
目的はそこに浮いていた。
空中に、巨大な風溜まり。
崩れた建物の建材を吸い込んで掻き回し、遊んでいるように見える。
「――なにをしている」
ウィットフォールに話しかけた者がいた。
地術士はからくり人形のように、カクカクと段階的にふりむいた。
「F……フレデリック・F」
後ろには、赤い外出用の外套に身を包んだ、Fがいた。
「やめるんだ。意味はないぞ」
「意味? ――あるさ。邪魔をしてやるんだ。貴様が、城に行けないように」
ウィットフォールの目が血走っていた。
「やめろ。風の陣門を作れるハイマスターは、現在のハーシュヒルにはいないぞ」
「知るか!」
叫びとともに破壊術が放たれた。
陣門の下に、いくつもの盛り上がりが発生し――同時に一〇個以上の、床石と土と砂が混じった噴出が湧き起こった。
すさまじい破裂音が響いた。
巨大な風溜まりが消滅した瞬間であった。
飛んでいた建材が地に落ちる。
長期術は施術を直接受けた地形が歪んだら効力を失うのだ。
「ふははは……」
ウィットフォールは、枯れ草のように体をよじり、笑った。
「やった! やったぞ。これで貴様は城に行けない。なんの交遊か知らんが、城に行けない。いつも一人だけ特別扱い受けやがって。滅多に休みを貰えないこちらの身になってみろ。ははははは、ざまあ見ろ!」
心底から愉快そうに笑っている――
「大莫迦者が!」
老人の叱咤とともに、熱風がFの脇をすり抜けた。あとに白いもやが残る。
狂ったウィットフォールをもやが射抜く。
「ぎゃああ!」
ウィットフォールは煙に巻かれて倒れた。
茶色の長衣は黒く焦げ、貧相だがボリュームだけはある顎髭は、いまやちぢれて無惨だ。皮膚も一部が火傷で爛れている。
「……愚か者め」
術を放ったのは、赤紫色の長衣のサザンクリフ。ブレイズマスターにしか使えない、火と風を融合した攻撃術だ。
Fは驚きもせず、
「導師、やりすぎです」
「わしの若い時分の芸術を破壊した罰じゃ――ところでフレデリック・F。どうせわしは引退だし、この阿呆も監獄行きが決定だ。おまけで見せてやればどうだ?」
Fの眉目が揺れるが、サザンクリフはにやりと意地悪そうに微笑む。
「弟子どもには防音暗室での瞑想修業を言い渡しておる。コックは調理場だし、事務官と使用人の大半は古参でおまえの正体を知っておる。なにを渋る必要がある?」
「……導師、見物する気だったのですね」
「話の最中にいきなり思いついての、引退土産だ。ウィットフォールはおまけ」
「いきなり一〇年前に戻らないでください」
そこにウィットフォールが割り込んだ。
「ぐわあああ――なんのことだあ!」
「うるさいわい術士の面汚しのゴキブリめ」
サザンクリフは、痛みに転げるウィットフォールを足蹴にする。
「ぎゃあ」
「導師――いくらなんでもゴキブリは」
「引退が決まったとたん、気が楽になっての。ほら見せんかい」
Fはあきらめのため息をつくしかなかった。
思い返せば、一三年前に傷心を抱えて館に来たとき、サザンクリフのこの性格に励まされたものだ。最近は加齢とともに頑迷の暗雲が爽快を覆っていたが、ここに来て一気に晴れ渡ったようだ。
「――わかりました」
Fは、ゆっくりと両腕を広げた。
外套の内側に吊された金属のランプが出てくる。複雑な球の骨組みがあり、内側に円盤状の本体がある。そこに火が灯っている。どんなに激しく動いても、円盤が常に水平に保たれる特殊な構造だ。
Fは火に手をかざした。
ランプの芯の上で踊っていた火が増幅され、にわかに勢いを増して空中に広がった。
Fを囲んで、炎が輪になり躍動する。
「導師――火が足りません。あれを燃やしても構いませんか」
「……なれの果てだ。好きにせい」
「それでは――火よ」
Fの炎が一斉に、崩壊した瓦礫に群がった。瓦礫には木材が多く含まれている。乾燥した冬の空気も手伝って、たちまち燃え上がった。黒い煙が立つ。
Fは、火に近寄った。
赤い炎の輻射熱が、Fの皮膚をひりひりといたぶる。Fはその熱を我が身に取り込まんとばかりに、大げさに両手両足を大の字に広げた。
と、燃える瓦礫から強風が生じた。
突風はたちまち火災を消し去る。
Fは踏ん張って風に耐えた。
――そして、巨大なそれは現れた。
【……久しぶりだな、我が盟友よ】
* *
火翔召喚だと?
ウィットフォールはFの正気を疑った。火術転送・召喚はまず行われない。理由は至って単純で、対象物が燃えるからだ。
だが術の結果として現れた青いそれは、あきらかに火に耐えていた。かつ、人よりもはるかに大きかった。
鱗に覆われた巨体の背丈はざっと見で七ヘクトフィング。これは二階建ての校舎棟に匹敵する。広げた翼は雄大で、翼幅二〇ヘクトフィングはあるだろう。
体重はおそらく、はるかな南にいるという象よりすこし軽いていどで、三メガバグほどか。長い首をもたげ、真っ赤な瞳で、小さな人間どもを睥睨している。鋭い瞳には、あきらかに高い知性のきらめきがあった。
ウィットフォールは、絶対に叶わない存在にすっかり畏怖した。体がまったく動かない。動かせない。その場で、ひたすら凝視しつづけるのみ。
自分はなんと愚かだったのだ。こんな代物と盟友になるお方に挑んでいたなんて。
格が違いすぎる。
――ドラゴンマスター様!
「ウィットフォール……私の名字、Fの意味を教えてやろう」
ただ震えるだけの哀れな男に、Fは誇り高く話しかけた。
「私の名字はファイアのFではない。ファウラーのFだ。ジョージ・キー・ファウラー――それが私の、真の名だ」
ウィットフォールは反射的につぶやいた。
「……お、王族」
ファウラーは現ハーシュヒル国王家の名字だった。現在の王ケイン三世陛下はケイン・キー・ファウラーという。
王兄ジョージ閣下。
それが、Fの正体であった。
* *
呆然とするウィットフォールを後に、サザンクリフに見送られてブルードラゴンは飛翔した。巨大な翼をはためかせ、旋回しつつ高度を取っている。
その背にはジョージ・ザ・ドラゴンマスター。火の防御結界を施してあるので、風で振り落とされることはない。また竜は火術など物ともしない。
【今回は召喚からして派手だったな――敵も派手なのか、盟友よ】
「ディアノス、相手はおそらくウインドだ」
【ほう】
ブルードラゴン・ディアノスの声が、すこしだけ弾んだ。
【ウインド――そうそう、ゲイルフェンサーだな。面白い、なにか『演出』をせねば】
「……本当におまえは、戦いが好きだな」
【長いこと生きていると、楽しみが限定されてくるでな】
ここで十分に高度を取ったのか、ディアノスは旋回上昇をやめて、まっすぐに飛ぶ。
ジョージが下を見ると、修技館はすでに点だ。森の彼方に、海浜地帯と、そしてヒドレイトが見える。それらはすぐに後方へ去り、はるか前方にコープス川が見えてきた。
凄まじい速度だった。
* *
光暦一八八年夏――
「ウルフズヒルに、暴竜が住み着いた」
民から訴えが出たとき、ハーシュヒル王家では大問題が起きていた。
エドワード五世が、突然の心臓発作で崩御したのだ。当然遺言などなかった。
有力な世継ぎ候補は、二人だった。
長男、ジョージ王子。
次男、ケイン王子。
問題なのは、長男が火術士ということだ。
五〇年戦争以降、大陸東部諸国では民の根強い術士不審を考慮し、術士の王が即位した例はない。術士の王子は長兄であろうが王太子にはなれないのだ。各国王家には準貴族である術士の血が多少混じっているので、同様の事例はたまに起きていた。
ジョージ王子は前例に従い、潔く退いた。
「……父君の御遺志はすでに定まっている。術士の資質があるとわかったとき、父君はなぜ私からフレデリックの名を取らしめ、ジョージの名を与え給うたか」
ジョージは鬼門の名だ。大陸東部全体を巻き込む五〇年戦争を勃発させた、ハーシュヒル稀代の愚王がジョージ二世だった。
つまり王位継承権の放棄を宣言したのだ。
しかし世の常で、ジョージの意向を無視し、王座につけようと蠢動する輩が現れた。ケインの後見人である宰相と仲の悪い、エドワード五世の弟大公一派だ。
その愚かな一派は事もあろうか、北方の軍事大国、ド=エドの力を借りた。干渉の好機を得たド=エドは四万の大軍を動員し、国境で示威行軍を繰り返した。
国境地帯は触発の緊張状態となった。
城内も急迫した。本人のせいではないのに、ジョージの立場は急速に悪くなった。
「ケイン、私がいる限り戦争が起こる。私は死ぬことにした。私が死んだら、さっさと玉座を掌握して大公一派を粛正しろ」
七月一三日、ジョージ王子は妻のセーラと生まれて三日の赤子を伴い、わずかな供を率いて忽然と城から消えた。
一連の騒動で、すっかり棚上げにされていたウルフズヒルの暴竜だが――二週間後、暴竜を操るドラゴンマスターが現れた。
ドラゴンマスターはド=エド軍の上を飛び回り、散々に暴れて一〇〇〇人を殺した。ド=エド軍はたまらず退却し、ハーシュヒルの民はドラゴンマスターを讃えた。
同時期、ケイン三世が即位した。
先王の弟大公一派は反逆罪で逮捕、全員が刑死の運命を辿った。ジョージ王子は卑劣な大公が冥土の道連れに暗殺したと、まことしやかな噂が流れた。
内政干渉の協力者と理由を二つとも失ったド=エドは、手も足も出なくなった。
以後、ハーシュヒルは平和だ。
ジョージ王子は死んだとされたが、真実はどこからか漏れるものだ。ドラゴンマスターはいつしか、ジョージ・ザ・ドラゴンマスターと呼ばれるようになった。