VIII「愛を語れよ愛を!」

よろずなホビー
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『こちらZ。古い綱を張ったところだ』
『Fだ。水門の鍵はあるか?』
『Aがちゃんと持ってきている。おそらく朝のうちに通るだろう』
 ――風の声は消えた。
 ほう。なるほどなるほど。
 やはりタイミング的に正解だったな。
 それでは一仕事と行きますか。
     *        *
 ステラは目を覚ました。
 明るい。朝だ。
 簡易テントからのそりと体を出す。
 ちょっとした空き地だ。
 夕べはトンネルを抜けてすぐ見つけた空き地にテントを張ったのだ。
 空を見上げる。雲が少々出ている。
「ウィル、今日はすこし天気が悪く……」
 ようやく気づく。ウィルの気配がない。
 ステラは辺りを見回した。
「ウィル……」
 いない。
 ウィルはどこにもいなかった。
「ウィル!」
 夕べは、いっしょにテントに寝たはずだ。ステラはテントの中を見る。ウィルのぶんの毛布は、きれいに畳まれてあった。
「……どこに行ったの?」
 ステラは急に心細くなった。
 ――一人はいや。
 一人はいやですわ。
 いつもいないお父様。癇癪を起こすお母様。お父様とお母様を怖がるだけの使用人たち。干渉を怖れる執事――
 あんなに人がいるのに、からっぽの屋敷。ひとりぼっちの私。家政主任を兼ねる神父さまと、幼なじみのティムだけが、さみしさを癒してくれた――
 ティモシー……!
 会いたいよ、ティム。
 ティムはどこ? 私はここにいるわ。
 ウィル――あなたは、私のナイトじゃなかったの?
 ひとりはいや!
「ティム! ……ウィル!」
 と、ふとウィルの毛布の上に置かれてある手紙が目に入った。ステラはすんでのところで涙を堪えた。
     *        *
 コープス川を抜ける秘密のトンネルに、若い男女が入った。ウィルと違い、こちらは正規の鍵を使っての、堂々の往来だ。
 澱んだ空気に、女が顔をしかめた。
「――ゾーン、寂しいトンネルですね」
 小さく体を震わせる。
「……ああ、寂しい」
 野外携帯ランプを持つルイス・ゾーンは、無表情で答える。
「ゾーン、寒いです」
 女は男に体を寄せる。
「ああ、寒いな」
 ゾーンはそっけない。
「暗いですね」
「ああ、暗い」
 ルイス・ゾーンは、同僚のエレナ・アーガイルのアピールを気にしていなかった。
「F先生が指示したこの不思議な道、本当に白い街道より速いんですか?」
「王道だぞ、速いに決まっている」
 ステラ捜索に出てからこっち、この女はずっとついてくる。主体性はないのか?
「アーガイル先生」
「はい?」
「あなたは私より二歳年上だ」
「はあ……それが?」
「いちいち敬語は止めてくれないか」
「ですがあなたのほうが上役ですし……」
「…………」
 ゾーンは答えなかった。
 気まずくなったアーガイル女史は、必死に話題を探した。そして見つけた。
「――ステラちゃん、どうして脱走したんでしょう」
 気になっていた大前提の問題だった。
「私と彼女の師弟関係はわずか一月半だ。アーガイル先生のほうが詳しいだろう?」
「それが……わからないんですよね」
「自分の隠された力を自覚したとは?」
「それはまだです。だって私の修業はまだ……考えられるなら、会えないティモシーが恋しくなって、とか」
「彼女は自己管理ができる。恋愛で片を付けようという先生の意見には賛同しかねる。やはり自分のもうひとつの力に気づいたと考えるのが自然かも知れないが――」
「あれほど修業に熱心だったのに」
「貪欲に術を吸収する優秀な弟子だった。どの術も一発で成功させていたのに」
「それはゾーン先生が熱心だったからよ」
「私は義務感と責任感で動いているだけだ」
「おいおい」
 いきなり――
「せっかく同年代の男女が二人きりでいるのに、なにを話してるんだよ」
 聞き慣れない声が闇に響いた。
「愛を語れよ愛を!」
 前方からだ。
 アーガイルがゾーンの腕にしがみつく。
「だ……誰です?」
 その体は小刻みに震えている。
 だがゾーンは――
「――やはり来たな。風の傭兵」
 余裕を持って、暗闇に話しかけた。
     *        *
『当座の食糧を狩りにゆく。中天まで待て。ウィルより』
 手紙にはそうあった。
 ステラは釈然としなかった。
 この道を進んだのは、すこしでも早くグランドヒルにいくためだと思っていた。なのに昨晩は空き地を見つけてすぐに野宿。さらに時間のかかる狩りをするという。
「なにを考えているの?」
 ステラはすべてを任せたことを後悔した。一刻も早くウィルに文句が言いたいと思った。昼までなんて待っていられない。
 でもウィルはどこにいるのだろう……
 と、ステラは自分の右手に巻いてある、ウィルの手拭いに気が付いた。
 そう、これなら。
 ステラは意識を集中させた。
 穏やかな風が吹いている。枯葉の音、越冬のムクドリの声、テントの張る音、スカートの衣擦れ、そして心音。
 ウィルに術のあらましを聞いただけだが、きっとできる――
     *        *
「ほう……」
 闇の中から、若い赤髪の青年が浮かび上がってきた。腰に剣を下げている。
「俺の待ち伏せを予想していたか。口振りから君がZか。Aは女のほうだね」
 自分より五、六歳は若い剣士に生意気そうに言われたが、ゾーンは動じなかった。
「風翔遠話を盗聴したか」
「小鳥はおそらく太い木だ。そこから太い木との間に綱を張り、Aとともに渡って行け。よく使いこまれた古いので張れよ……」
 青年は肩をすくめた。
「子供だましだな、状況を知る者には通用しないぞ。太い木はグランドヒル、綱は道。古いとはまさにこの道のことだ」
「御名答」
 ゾーンは細目で会釈した。
「それであなたは、後々のためにわざわざ待ち伏せた、と」
 青年の目が見開かれた。
「これからの道程には、戦術士も出てくるでしょう。つまりいまのうちに、殺すわけにはいかない面倒を除いておく――」
「おいおい……」
 青年は面食らいを誤魔化すように笑った。
「すごいぜ兄ちゃん。まったくその通り!」
 ゾーンは得意そうなそぶりも見せず、青年と対している。だが、ゾーンの肩が激しく揺れだした。ゾーンが震えているのではない。肩を掴む第三者の手が震えているのだ。
「アーガイル」
 ゾーンは、おびえるアクアマスターの手をゆっくりと外した。すでにアーガイル女史の掌は緊張の汗でまみれている。
「……ゾーン、戦術士ってなんのこと?」
 涙目で、アーガイルはゾーンを見つめた。
「三日前から遠話密度が濃い。ジョージ様が動いているということだ」
「わからないわ、私……」
「……ならせめてこれを持っていろ」
 ゾーンは邪魔になるであろうランプを同僚に渡すと、青年に対した。正面から凝視する。
 そんな視線に動じず、青年は拍手した。
「なかなかの勇者だ。だが俺としては、そちらが一八〇度反転してくれたら嬉しいな」
「ゾーン」
 アーガイルが、ゾーンの耳元で囁いた。
「帰りましょう。ステラちゃんは戦術士の方々に任せましょうよ」
「……だめだ」
 ゾーンは即答した。
 アーガイルがびくりと震えた。
「――風の傭兵。君の紳士的な態度には感服する。怪我をせぬよう、ステラをこの場に連れていないからだ」
「それで、なぜだめなのだ?」
「……戦いに関しては姑息だからだ!」
 ゾーンは両手を広げた。マントがひるがえり――その下には、小さな風溜まりが一〇個ほど蓄えられていた。
 ふわふわと出てきて、ゾーンの周辺を囲む。にわかに風溜まり特有の、虫の羽音のような風音が広がる。
「げ。断音壁の術で音を隠してたのか」
「風溜まりを使えばいくらでも術源はキープできる。トンネルごときで――ウインドマスターの力を無効化できると思うたか!」
「まさか……おまえ有能すぎ! さよなら」
 青年は翻って逃げだした。
 たちまち闇に吸い込まれる。
「待て――」
 ゾーンは駆けだしざま、
「裂けよ空!」
 風溜まりの一つが弾け、見えないカマイタチの流れとなって、闇に放たれる。
「ついて来い!」
 怒鳴られたアーガイルはびくんと肩をすくませた。ゾーンが先に走っていくのに気づき、あわてて追いかけた。
     *        *
「なんてやつだ」
 ウィルは正直、自分の甘すぎる対応を後悔していた。
「術士戦略部員並の分析力だぜ、あいつ」
 ハーシュヒルの術教師には、小市民な普通人は少ないのか?
 待ち伏せの理想は無言で先制し、問答無用に斬り伏せることだ。だが今回は切るわけにいかないので、話し合いをしようとしたのに――慣れないことはするものではない。案の定、失敗した。
 後方から真空刃が次々と襲いかかってくる。
 ウィルはすべてを紙一重で避けながら、誰ともなしに悪態をついた。
「ばかやろう! こっちの苦労も知らずに」
 さらに中央の広場まで来たところで――
「ウィル!」
 松明を持ったステラ・トライヒル。
 新たな苦労が、はしゃぐ笑顔で迎えた。
     *        *
 ウィルと対面した瞬間、ステラの胸になんともいえない高揚が溢れた。
 怒るはずだったのに、いきなりウィルに抱きついてしまっていた。
 思わぬ行為にウィルは困惑し、
「ど、どうしてここに?」
「トンネルの扉が開いてて――かすかな臭いがしたから、松明を取ってきて……」
「……も、もしかしておまえ、風翔香査が使えたのか?」
「はじめて挑戦したの」
「ステラ……おまえすごい天才だぞ」
「どうして?」
「いや、なんでもない――俺の後ろに!」
「え?」
「早く!」
 状況もわからないまま、ステラはウィルの裏に隠れる。ウィルは両手をかざす。
 と、見えない空気のバリアが生じ、忍び寄っていた真空の刃をばちんと弾いた。
 ステラは身を強ばらせた。
「ウィル……もしかしてあなた、風術を!」
「多少心得がある」
「なぜ黙って? 鍵開けの時とかも――」
「術よりも体を使う技のほうが腕が鈍りやすいからなあ……お、来たぜ犯人が」
 広場に入って来た明かりがあり――見覚えのある二人に、ステラは驚いた。
「ゾーン先生……アーガイル先生」
     *        *
「ここだけは風がかすかに渦巻いているな」
 ルイス・ゾーンは弟子の姿を確認しつつも、無感動でつぶやいた。
 かわりに、後から来たエレナ・アーガイル女史が声をあげた。
「ステラちゃん! 見つけたわよ」
「……エレナ先生」
「帰ってらっしゃい」
「いやですわ」
「ステ――」
「おい、ゾーン!」
 ウィルの叫びがアーガイルの声を遮った。
「貴様の一撃が、下手をすれば弟子を傷つけるところだったぞ」
 ゾーンは別にショックを受けたふうでない。
「わずか二ヶ月とはいえ、私の直接の弟子だ。それくらい避けられる。それに――」
 アーガイルを横目流しで示し、
「万一の場合は回復役がいる」
 アクアマスターには代謝活性能力がある。だが怪我をすれば痛い。また怪我をさせた事実が心の傷として残る。それを……
 二人の女性は硬直し、ウィルは眉を険しく寄せた。罪の意識で責めようとする、一般人向けの牽制が通じない。
 戦術士でもない一般の術教師ゾーンの戦闘的な態度が謎だ。何にこだわっている? 風溜まりを用意していた件といい、最初から戦う気だったのが明白――
 ゾーンの胸元の空気が揺らいだ。
 まさか、拡風衝だと?
「ちょっと待てこら!」
 ウィルはステラを横抱えにして伏せた。
 二人の頭上を、衝撃の波が広がっていく。
 落とした松明の火が消えかかる。
 破壊の波は広場の壁一面に突き刺さった。
 ものすごい音とともに、広場の内壁はベルト状に破壊された。
 煙が広場に充満する。密閉空間での広範囲攻撃術を使ったのだ。
 しばらくはなにも見えない。
     *        *
 ゾーンとアーガイルはその場で立ちすくんでいた。ステラの咳き込む声だけ聞こえる。
 やがて煙が薄れ始めたとき、ゾーンの目前に突然、剣を抜いた青年が現れた。
 赤髪の傭兵はゾーンが反応する間もなく距離を詰め、切っ先をゾーンの喉元に当てる。
 術士は、近距離だと戦士には勝てない。
 傭兵は困って嘆息した。
「抜く気は、なかったんだがな」
 特徴的な剣であった。
 レイピア並に細い剣身のくせに、サーベルのような反りがあった。刺突も斬撃もできるが、扱いが難しいだろう。
「ゾーン、おまえが悪いんだぞ。事態をややこしくしやがって」
 ――もはやこれまで。
 ゾーンは、静かに観念した。
 俺はやはりランクヒルには叶わない。
「……切れ」
 ゾーンが呻いた。
 しかし傭兵は明らかに躊躇ってる。
 そのとき、後方で水が盛り上がる音。
 どんと音がして、水の矢が飛んできた。アーガイルが水槽の水を使ったのだ。
 傭兵は見ずに、楽々とかわす。
 水の矢は空しく壁まで飛んで弾けた。
 傭兵はゾーンに短く言った。
「おまえは戦士じゃない――風よ薙げ」
 ゾーンにむかって非殺傷の強風技を使い、距離を取った。松明を拾ったステラが傭兵のほうに走っていく。
「だいじょうぶ、ゾーン!」
 アーガイルがゾーンの元に駆け寄る。
 ゾーンは傭兵を悔しそうに睨み、
「アーガイル先生、あいつを倒すぞ」
「――ステラちゃんは?」
「まずあいつだ。あの傭兵は強くて危険だ。全力を出さないと負ける」
 すべては傭兵の抵抗次第ということだ。アーガイルは、震えながら頷いた。
 ――おまえは戦士じゃない。
 どういう意味だ!
 ゾーンの端正な面が、怒りを露わにする。
 風よ!
 ――流れる渦が、広場を埋め尽くした。
     *        *
「ちっ!」
 ウィルは空気のバリアを作り、ステラを庇う格好で強風に耐えた。
 風はみるまに巨大になった。
 直径二〇ヘクトフィングほどの狭い空間に、ハリケーン的な暴風をもたらしていた。
「突風結界だと? なんのつもりだ」
 見れば、術を仕掛けたゾーン側も、空気のバリアを作って耐えている。
「やはりあいつは戦士じゃないな」
 ゾーンは戦闘感覚のバランスに偏りがある。
 分析能力がすごいと思いきや、適宜判断に欠ける。術のコントロールがあまりにお粗末だ。戦いは知っているが、場慣れていない、という感じか。
「ウィットフォールじゃあるまいし、自分の弟子を平気で攻撃するなんてなあ」
「ゾーン先生をあまり悪く言わないで」
 ステラが、ウィルを鋭い剣幕で見上げた。
「赴任されてまだ二ヶ月だけれど、前のランクヒル先生よりも熱心に教えてくださったの。ゾーン先生はいい先生よ!」
「おいおいステラ……この状況で言っても、説得力がないぞ」
「――そうね」
 ステラは無念半分、悔しさ半分で、ゾーン先生を見つめる。
「ねえウィル――」
「軽い怪我くらいは許せ」
 とはいえ打開策がないと埒があかない。
 殺傷は簡単で、無事で済ますのは難しい。それが術攻撃の本質だ。
 とにかくなにをすべきか。
 辺りを見回したウィルであったが――風に水が混じっているのに驚いた。
 よく見れば、広場の壁に次々と亀裂が生じている。強すぎる風が壁をはがし、はがれた壁の石が次々に壁を痛めつけ、相乗効果で加速的に破壊が進んでいる。
 ウィルは水気で錆びたらいやなので、剣を鞘に戻した
「ステラ、風溜まりを作るぞ!」
「え、どうして?」
 緊張のあまり、崩壊に気づいてないようだ。
「早く作れ。たくさんだ――そしてある術を覚えてもらう。おまえの実力ならすぐに使える、いますぐ必要な術だ!」
     *        *
「ゾーン、水が!」
 アーガイルの危急性を帯びた声が響いた。
「わかっている……」
 だがむこうがなにかしようとしている。
 このまま結界術を解いていいのやら――
「ゾーン、水は私がなんとかします」
「……了解した」
 ゾーンは突風結界・旋風陣を解除した。
 頭の中で地面を掃くイメージを作って、集中力を途切れさせればおしまいだ。
「ブレイク!」
 空気の大渦が次第に止んでいく。
 滝のような雨が降ってきた。
 ついでに遮空壁も解かれたので、二人の術教師は濡れネズミとなる。灯火は防水ランプなので助かった。
 降水は渦がおさまった後も続いた。
 とくに天井の穴から集中的に水が落ちる。偉大な熱導師の施術が破壊されたのだ。
 がらがらと音がする。
 広場の壁全体がゆがみ、まさに崩れつつあるのが見て取れた。
 ――崩落は時間の問題だ。
「飛ぶぞ!」
 声がした。
 ゾーンが見ると、傭兵とステラがトンネルの先にいこうとしていた。二人の周りには、幾つかの風溜まりがあった。
 傭兵はふわりと浮かんだ。
「さあ飛べ、ステラ」
「えーと……こんな感じ?」
 ステラもよたよたと浮かび上がった。
 ゾーンは我が目を疑った。
「なっ! 風包飛翔!」
 二人はトンネルの先に飛んでいった――視界から消える前に、ステラは風溜まりをふたつほど置いていった。
「ステラちゃん――あれで、風のないトンネル内を飛んでと……はっ」
 アーガイルは口を押さえた。
「そうさ……私は、飛べない」
 ゾーンの両眼に深い嫉妬の炎が宿る。
 風術の傭兵め。
 なぜ落伍者が飛べる!
 対生物術はかかりにくいので、風包飛翔は高度な術だ。逆に物質は素直なので、同系統の風包念動は基本中の基本であった。
 風術士といえども三人に一人しか飛べない。
 ゾーンは飛べない風術士だった。
 が、弟子が飛ぶ。
 ステラは間違いなくぶっつけ本番だった。一発で上手くいった。彼女の場合は素質が高いのでうなずけるが――
「納得行かない――!」
 ウィットフォールから、傭兵が宙に浮いていたことは聞いた。が、それは滞空浮遊用の下級飛行術・浮風だ。空中移動速度は歩くていどにすぎない。
 ――見てください。私は空中旋回もできます。これが本当の飛行です。戦術士の採用選考は、私の勝ちですよ。
 ランクヒル――華麗に飛びながら飛べない私を笑った、はじめての男! そいつは結局試験に落ちて、私が受かった。
 理由は私の戦略眼らしい。私はあくまで戦術士になりたかったが、作戦立案の戦略部に配属された。ランクヒルは術士修技館の教師になったと聞いた。術力が高いのが仇となり、教師に抜擢されたのだ。
 それがいまや、急な人事であいつが戦術士、私が術教師。なんという晴天の霹靂か。
 せっかく上手く順応して忘れたことなのに。忘れようとしていたことなのに――思い出してしまった。
 いや、ステラ探索に出た時点で、歯車は狂っていた。外に出て再発見した。私はこういうことがしたいのだ。功を挙げ、ランクヒルとおなじ戦術士になってやる。
 ランクヒル――またあいつの残像が。
 ゾーンの脳裏に、赤髪の傭兵が自分を笑った妄想が浮かんだ。そんな事実はなかったが、ゾーンはそう思い込みたかった。空しいことは承知なのに、高まる感情が奔流となり、理性を喰い破っていく。
「逃がすわけにはいかん!」
 ゾーンは駆けだし――そうとしたが、水に足を取られて転んだ。水を飲み、屈辱の表情で立ち上がる。服が水を吸い重い。いつのまにか水が膝のあたりまで来ている。
 なるほど、飛行しないと脱出は難しい。
「く……浮風だと遅くて間に合わないな」
「それなら、私が水包浮泳を使います」
「アーガイル先生……すまん」
 アーガイルが念じると、周囲にある水が持ち上がり、球状に二人を覆おうとした。
 その瞬間であった。上の空間が壊れた。
 大量の土砂とともに、数百メガバグの泥水が――
 空気を押しのけ、すべてを埋めた。
     *        *
 幾重にも重なる大反響音が後方に起きた。
 ステラはこわごわと後ろを見る。
 暗い。
 まったく見えない。
 だがトンネルの内壁はびりびりと揺れていたし、音は加速度的に大きくなっていた。
 なんの音であるか、想像に難くない。
「ウィル――水が!」
 ステラの悲鳴がトンネル内にこだました。
「分かっている。早く!」
「だめ――これ以上速く飛べない」
 ステラは空中で手足をばたつかせる。
 小走りていどの速さか。
「仕方のない子犬だ!」
 ウィルはステラの横に来た。しなやかな空中動作だ。
「俺が手を引いてやる、子犬」
「なによ、いきなり子犬だなんて……」
 頬を赤くしてステラが左手を差しだす。
 手を強く握り、ウィルは飛行速度を上げた。
 ――だがあまり速くならない。
 その間にも、音は大きくなってゆく。
 鼓膜を震わせるほどの音だ。
「ウィル……もうだめ!」
「ちっ」
 業を煮やしたウィルは、風溜まり三個につぎつぎと触れて念じた。
「叫んだら風に戻れ」
 風包飛翔は飛行者が空気の力場に包まれて周囲が無風になるため、風溜まりがないと風術が使えないのだ。
「爆風よ、吹け!」
 後方に大技を繰り出した。術はトンネル内で風の爆発を引き起こし、ウィルとステラは後ろからの強風に煽られた。
 一気に加速する。
 目の前に光が見えた。昇降口だ。
 だが光は、進路方向の上から差している。
「階段にぶつかるよ!」
「任せろ」
 ウィルは風溜まりを使った。
「――下に!」
 二人の下方向に、風の噴射。
 かなりの速度で飛びつつ、上に弓なりに跳ね上がり、光の中に――
「馬鹿野郎! 格子を閉じてどうする!」
「ごめんなさい。だって神父さまが、戸締まりはちゃんとしろって――」
「口を閉じろ、今から術を使う。舌を噛むぞ」
 間に合うか?
 ウィルは残る風溜まりをすべて使った。
「押せぇ!」
 術が発動したかしないかというタイミングで――二人は、光に飛び込んだ。
 錆びた鉄格子が、粉々に吹き飛んだ。

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