その男は、桃源郷や竜宮に迷い込んだかのような白昼夢のさなかにあった。男を取り囲むは、ほとんどが女性。しかも全員が若く、雑誌やテレビの中にばかりいる容姿と体型を誇っている。ただし髪や目の色がおかしい。
アニメのヒロインを思わせる異色の少女たちが、男の前にずらっと並んでいた。彼女たちはどう見ても普通ではない。翼を持つ者、角を生やした者、耳が尖った者、目が光る者、空に浮いてる者。服のほうも不思議だ。どこかにぶつけそうな不便な突起や垂れ幕、手入れが大変そうなリボンやフリルで各々が派手に着飾っている。おなじ服はどれひとつとして存在しない、統一感のないごった煮状態だ。
彼女たちは雑然としているが、たしかな秩序もある。男に向ける、やるせない興味と敵意において。挑戦してやんよとファイティングポーズを取る幼女が何人かいたが、いずれも年長者のげんこつひとつで簡単に黙る。彼女たちはなにかを待っているようだった。そんな異形の女たちに混じって、たった一人だけ男がいる。真っ赤な天狗の面を被り、山伏を思わせる古式ゆかしい行者服に身を包み、背中にカラスの黒翼を生やし、宙にあぐらを組んで巨大な赤い盃をあおっている。足には三〇センチ以上もある高下駄を履いていた。
当初この天狗面がこの場のリーダーではないかと推測したが、天狗の長に動く気配はない。腰の帯刀は役目も果たさず、だらりと下を向くだけ。どうも最上格者ではないようだ。
「萃香どの、もう一杯くれんかね」
「あいよー」
巨大な角を鹿のように生やした幼女が、ふわりと飛んで天狗面の盃へ酒をそそぐ。彼女の持っているヒョウタンはどういう仕組みか、いくらでも酒が湧く不思議なアイテムだ。
――これだ、これが見たかったんだ。
第二五層でも第七五層でも渇きは満たしきれなかった。しょせんは仮想現実での出来事だ。ところがこれはどうだ? 現実に在り、実際に有る。夢のような光景だった。
茅場晶彦は幸せの中にいる。
深い森で迷っていたところを、空飛ぶ緑髪の巫女に見つかった。
『私は東風谷早苗と申します。神託がありましたので、お迎えにあがりました』
ネットに目撃写真が出回っている飛行少女その人だった。背中と……スカートの中しか写っていないが。
連れて来られた神社の、社務所とおぼしき一室。鳥居の門札から、ここが博麗神社だと確認してある。
軟禁されてすでに二時間。人でない者共がつぎつぎに集結している。いまや一〇〇人を超え、さらに集まる気配だ。重みで床がきしみ音を立てたので、半分以上が部屋の外や周辺、または空中へと移動している。
だがその待機も、ようやく終わった。
男の目前、宙へいきなり、亀裂が生じたのだ。黒く細い線が、くわっと開く。よく見れば両端にリボンが付いており、女趣味だ。こういう可愛い飾りを用いる異形は、かならず女性。みじかい経験ですでに察していた。案の定、開いた向こうより、少女の鋭い声が届く。
「茅場晶彦、お覚悟!」
ものすごい勢いでひとりの少女が飛び出た。何度か顔を合わせてきた、よく知っている者が、一メートルを超える長刀を振り上げ――殺される!
「あ、すいません人違いでした」
大上段より眉間めがけ振り下ろした魂魄妖夢が、あと五ミリというところで寸止め。楼観剣に撫でられた男の前髪が数十本、力弱く畳へ落ちていく。茅場晶彦は腰を抜かした。がたがたと体が震え出す。
「し、死ぬかと思った」
仕掛けが発動すれば、九〇〇〇人以上を道連れにするところだった。
* *
埼玉にいるはずの妖夢がいきなり幻想郷にあらわれたのは、八雲紫の能力による。あらゆる境界を操る力は、多少の距離などものともしない。目覚めた紫は、『必要』と思って妖夢を連れ戻したのだ。霊夢も付いていこうとしたが、妖夢が言い含めて置いてきた。いまいち信頼に欠ける菊岡が、アスナへ妙なものを仕込まないようにするために。また魔理沙がいつ合流するかもわからない。いまごろ霊夢がリードして妙な酒盛りでもはじめていそうだ。なおスキマが自分の胸から出現したショックで、金髪の運転手が気絶している。
正座の妖夢はきょとんとしていた。
本格的な冬登山の格好をしていた男を紹介された。三月とはいえ山に入れば雪はまだまだ多い。ビバーク用のテントまで持ってきていたようで、大きく膨らんだリュックに背もたれている。ジャケットやベストは脱いでおり、いまは地味なフリース姿。それなりの時間待たされていたみたいで、死にそうな目に遭ったくせに、妖夢たちを前にしても楽な姿勢を崩す気はないようだ。
「妖夢、こいつが茅場晶彦よ」
含み笑いの八雲紫に教えられて、目を白黒させる妖夢だった。
「え? だってこいつ、ぜんぜん顔と体が違いますよ。もっと男臭くて人の上に立つようなナイス学者だったのに、こんな細面のキツネ目でガリ痩せだと、お利口そうだけどさして目立たない優男じゃないですか」
「……わ、私がもし現実の顔でログインしていたら、たちまちPKされていたよ」
「声も違いますよ? こんな優しそうな甘っちょろい声じゃなかったです。もっと威厳があって、人を惹き付けるような感じでした」
「……私がもし現実の声で、以下略だ。紫くん、もしかしてこれが妖夢くんの素か?」
くすくすと、スキマ妖怪が微笑する。はじめて茅場にぎゃふんと言わせ、内心ではしゃぐように喜んでいる。茅場晶彦に蒼白な顔をさせるためだけに、四ヶ月もゲーム世界で頑張ってたようなものだ。SAOの人間たちへ感情移入しまくっている妖夢が暴走すると見込んでたようだ。たとえテレビで見てたとしても、いまの茅場はかつてとはまるで別人だ。元々痩身だったが、四ヶ月あまりの潜伏でさらに細くなってしまい、髪も伸びている。知っても知らずとも、確認のためとっさに剣を止める。事前に茅場を覗き見て、この幕間劇を思いついたのだ。
「ええこれが本質よ。なかなかに愉快でチャーミングな性格ね」
「てっきり彼氏のためそう振る舞ってると思ってたのだが」
「この子に演技なんかろくに出来ないわよ。ヒースクリフの前ではほとんどしゃべりもしなかったでしょ?」
「敵と対決するときの落差が激しすぎないか」
「あなたが見ていたあの彼女は、後天的に造られた『戦士の妖夢』にすぎないわ。普段が間抜けなお子さまで助かったわね茅場」
社務所が爆笑に包まれた。妖夢は羞恥で「みょーん」と首を小さくすぼめる。紫に見張られているし、いまさら悪即斬はできない。
「そんなので、どうして白玉楼の剣士などを何十年も務められてきたんだ。冥府といえば、天国と地獄を繋ぐ、死後世界の要石だろう」
「この子はね、相手が強いほど油断しなくなるのよ。強力な敵は一撃も許さず確実に討ち取るし、裏も掻かれにくいわ。さらに強い敵には国津神に匹敵する幽々子がいるしね。幽々子と妖夢が本気で連携すれば、私でも殺されかねないわ」
「上はいいとして下はどうなる。雑魚には不覚を取るのではないか? 命がいくつあっても足りないだろう」
「それはとくに問題ないわ。ちょっと借りるわね」
紫がスキマを発生させ、そこに左手を突っ込んだ。すると茅場の懐にもぞもぞと盛り上がりができ、すぐ収まる。
「……なに?」
紫の手に、拳銃が握られている。
「旧ソ連製か、ちゃっちいわね。今のあなたじゃこの辺りが限度ってところね」
さっと妖夢に向け、その額へ警告もなく一発、撃つ。
ぺちっ。
本当にそんな命中音がした。
「いったーい。なにするんですか紫さま」
額をさすって抗議する妖夢だが、茅場はあごが外れたように口をおおきく開けている。
「はい、返すわよ」
銃をおずおずと受け取る。もはや護身用にすらならない。気休め同然の、お守りだ。
「……これはどうも。ボディチェックすらしなかったわけが分かったよ」
「眼球や口腔といった急所を狙っても死なないし、数日もすれば組織が回復するわ。最高にタフな妖精族に至っては、全身をめちゃくちゃに破壊して『殺して』も、いつのまにか完全復活してるわよ。だから下手な奇襲は考えないことね」
「これが弾幕ごっこをいくら派手にやっても平気な理由か。一部の人間はどうやって参加しているんだ?」
「霊力や魔力で一時的に防御を高めてるわ。たまに忘れて死んじゃう馬鹿な子もいるけどね。妖怪でも極端に弱い子での死亡例が数件あるわ。この辺は『死なない』妖精たちがよほど幸せね。異変にもなればピチュンピチーュンって消滅音がよく聞こえるわよ」
「命懸けで遊ぶのか……さすが幻想郷だ」
「ずっと命張って綱渡りの夢に挑戦しつづけた男が、言うセリフじゃないでしょ――というより、ずいぶん幻想郷に詳しいわね。SAOで私たちがリークしていた以上のことをご存じじゃない。いくらあなたでも情報源は限られるはず。どこで知ったのかしら? 教えてくださる?」
「茅場さん。対面は七五層以来二度目だそうですが、力を完全に取り戻したこのお方に嘘は通用しませんので、最初から正直に話したほうが楽ですよ。下手な駆け引きとか誤魔化しなどすれば、すごいことになります」
妖夢が向ける視線の先には、あとからスキマより這い出てきた黒こげの八雲藍が佇んでいる。服はすっかり炭化しボロボロ、九尾もすべて縮れて痛々しい。もし生身の人間であれば、一〇回は死んでるくらいのダメージだ。
「肝に銘じておこう」
あまり恐がっている様子はなかった。
* *
デスゲームを主宰した茅場晶彦がおかしなことに気付いたのは、二日目の夕方だった。
「……フィールドボスが、わずか一日で全滅だと?」
最強の剣士『ヒースクリフ』が降臨するにはまだ尚早だったが、いてもたってもいられなくなった。前線でなにが起きているのか、それだけが知りたかった。キバオウのパーティーへ参加し、ひたすら前線を目指す。夜中にログアウトするたび、フロアボスへ挑戦を繰り返すふたりの情報が入る。しだいにコボルトロードを追い詰めている。だが映像の類は一切記録させてないし、ゲームバランスも変えない。茅場は浮遊城の絶対神であるが、ゲーム内でも神であってはいけない。『具現化する異世界』への冒涜となる。ソードアート・オンラインは壮大な神話の『序章』であるとともに、人の可能性を探る『実験』でもあるのだから。SAOは今後しばらくつづくであろう『伝説』の始まりにすぎない。だから始動前に決めたことを徹底的に守り、どのような経過を辿るのか見守るのが、茅場の活動でもあった。たとえそれが『奇跡』であっても。
茅場が第一層フロアボス攻略戦で見たものは、そのまさか、奇跡だった。システムの穴を突くありきたりなバグ技ではなく、仕様の正統な範囲内で超連続攻撃を実現している。タイミングやパターンを覚えて対策するという、誰にでもできる攻略行為ですらない。すがすがしいほどの純粋な技術と経験に裏打ちされた、圧倒する真の強さ。まさに剣術、まさに剣技。選ばれた者にしか扱えない秘剣。これはゲーマーの仕業ではない。プロの仕置きである。
二刀流。
ただし既存のいかなる流派のものでもない。一本が攻で一本が守、それが常の二刀。だが違う。両方ともが攻である。しかも攻を重ね、斬り連ねる。現実であれば、とっくに殺し、死した遺体をなお切り刻みつづける、とてつもなく残酷な乱舞。敗者に対し、剣の道にもとる侮辱だ。だがあくまでも人の道の剣であれば。
型の流れに残心の概念がなく、攻撃を延々と繋ぐのみ。おかげで生身の人間では体を壊しかねない動き。人には無理な所作の剣術。これがヒントとなった。SAOのアバターは人間ではない。RPGの伝統を受け継いでいる。肉を痛めぬ、筋は壊れぬ、骨も折れぬ。腕や足を斬り落とされても、数分で生えてくる。HPがゼロにならなければ、急所への攻撃でも致命傷とならない。どれほど瀕死でも無傷の者とおなじ速さで動ける。そんな超人たちの世界。
VRMMOという新ジャンルを創設するにあたり、茅場は再現のバランスにこだわった。操作するインターフェイス、すなわちプレイヤーアバター側の扱いは、慣れ親しんだ従来型の割り切りで良い。あまり斬新だとかえって敬遠される。Mobも同様とした。だが『世界』のほうは違う。特別な目新しさがないといけない。プレイヤーを感動させる新鮮な驚きとリアリティがいる。SAOの物理演算はできうるかぎり現実の動きへと近づけた。モンスターの動作や弱点も生物学的な正しさを多く採り入れ、目や耳による知覚のプロセスすら与えている。おかげでリアルの剣術や槍術が有効であり、初期ソードスキルの大半が武芸の師範クラスよりモーションを得た。宣伝のため招待した辛口の剣道家すら感動した世界。本物の武道家の中にも、この本格さに惹かれて参加してくる人が一定数出てくるだろう。ソードスキルを補完する彼らの技倆が、SAOに可能性をもたらす。
はたして食いついてきた中に、その無敵少女がいた。
格別な舞台に、ぽっと湧いた銀髪の華。可憐な外見と相反する、苛烈なる剣の演武。彼女がアインクラッドへ持ち込んだもの、現実でどこかに存在しているはずの二刀流は、ゲーム世界――SAOで振られるため開発されたかのような、まったく未知の剣術だった。連続攻撃をひたすら放ちつづけ、リアルの何倍もの生命力を有する敵に反撃させない、恐怖の魔剣。まるで人外の、人外による、人外のための剣。
この剣はだから、剣の道に背いていない。人でないのだから、人の決めた教えなど適合せぬ。脆くて弱い人間を相手にした剣ではないのだから。この特殊な剣をまともに覚えた者は、けっきょく最初の少年ひとりだけに終わった。冗談も誇張も抜きで、選ばれた者にしか使えない、真の勇者の技。どれだけ廃人プレイをしようとも、資金にものを言わせて装備を固めようとも、才能とセンスがなければ、この二刀流を扱うことはできないだろう。その資格を持つ者は、コアゲーマー集うアインクラッドでも、おそらく数十人どまり。ただし銀髪の少女には思うところもあったようで、彼氏ともなった最初の少年以外には、けして伝授しなかった。
システム上での対策は簡単だ。無力化する方法ならいくらでもある。だが変えない。変えさせない。カーディナル・システムに手を加えた。この素晴らしい異郷の二刀流を、バグと判定して勝手に排除しないよう。どこがバグなものか。立派で見事で超越的で、称賛するしかない。ヒースクリフというアバターと、神聖剣というユニークスキルを用意したことが、愚かしく思えるほどに。リーダー職にふさわしい恵まれた体躯に、人を集める外見と声。いずれも余計な反感を持たれないていどに抑え、人の好感を持続させやすい印象にした。神聖剣のみが使える、大盾のオートガード機能。インパクトダメージがほぼゼロになる特殊Mod。中級以上のソードスキルはすべて両手剣に匹敵する破壊力なのに、隙は片手剣にとどめる。これだけチートに設定すれば、誰でも英雄になれる。そんなアバターとスキルだ。ただの贋作であり、真作を前にすれば見劣りすること甚だしい。
用意したゲームシナリオは最初からつまずく。先行きは不鮮明だ。
二刀流だけではなかった。ほかにもおかしな技を使っている少女がふたりいた。仕様外のキャンセルが出来たり、幸運値が増えたり。これらも規制すらさせない。いくらログを解析しても、どうやって実現しているかまったく不明だ。もはや超能力にも類する、貴重なサンプルだった。
ヒースクリフとして攻略隊に所属するようになったが、不自然な少女たちの存在が気になった。たとえばハッピーラビットの体格やウサギ耳は、SAOの仕様では絶対に再現不可能な、同時にプレイ不可能なものだったのだ。彼女らはみな美しく、かつ髪や目が変わっていた。負ければ現実での死が待っているにも関わらず、ほとんど恐怖心を持たずに戦闘へ参加している。まるで生粋の戦士のようですらあるが、強い子や弱い子もいた。フロントランナーとして飛び出した二刀流の少女も、仲間だった。
日本全国に散らばっているSAOプレイヤーの位置データを揃え、SAO対策チームへ送った。健康状態を長期に渡って持続させるためだ。この作業で茅場は興味深い事実を知る。ごく少数の海外プレイヤーとは別に、国内にありながら位置データの絞り込めない集団がいたのだ。その数、一〇。全員が不自然に戦い慣れしている、あの美しい少女たちだった。
美女たちが様々な方法で戦う、知らぬ土地が長野県にあるようだ。手段が剣だけでないと推測できるのは、強さの差が激しすぎるから。剣技のレベルが桁違いに突出しているMyonがいれば、一方で足手纏いに近いNitoriのような子もいる。だが戦闘への度胸は同一だった。どれほど弱い子であっても、なんの怖れもなく戦いへ没頭する。矛盾がすぎる。ならば剣や斧といった武器以外、たとえば銃や、あるいは拳法――または、信じてすらいなかった、異能の力……なんでもいい。とにかく戦うことに慣れた戦乙女たちの土地がある。むろん一般には知られていない、謎の領域だ。そこに隠れ住まう女傑どもがSAOへ度胸試しにきて、たまたま囚われてしまった。
SAOを創造し、計画を実行した結果、知られざる世界の秘密を見た。
きっと彼女たちが暮らしているのは――『異世界』だ。
茅場は純粋な科学の徒であったが、同時に世界を変えつつある世紀の天才でもあった。それゆえ余計な常識に惑わされるようなことも、疑心暗鬼に陥って時間を無駄に使うこともなく、わずかな情報と現象から、短期間で正鵠を射ることができた。生身の人間には到底扱えない剣術の達人や、ハッキングやツールを介さず、ただ居ながらにして変数を操るプレイヤーなど、別の理法にて動く、異世界の住人でいい。ほかに答えがない。
科学を信奉しながら非科学の領域に思いを馳せ、その夢想を具象へと変えるため、科学の力と常識の範囲で活動してきた。おのれの全てを捨て、すでに数百人の命を奪ってまで『嘘の異世界』を具現化させた茅場が、よりによって後戻り出来なくなってから、非常識な『真の異世界』を知り、その実在を確信することになろうとは。
すべては最初から存在していたのだ。無理に創ることなど、なかったのである。
「――こうして私の異世界探しが始まったわけだ。だがどういうわけか思い当たる資料がすでに手元にあった。五年前に避暑で訪れた長野県の古本屋で偶然手に入れた同人誌なのだが――」
茅場がバックパックより取り出したのは、すっかりよれて古びた冊子だ。『夢違科学世紀』と書いてある。
「この本は京都の大学生が記したものだ。ページ数は煩悩の一〇八。不思議な夢見についてふたりの女性が語り合う散文詩のような内容となっている。独特の文体で、異なる世界のさまざまな場所で、多くのものを目撃する。そしてこの本ではひとつの単語が何度が出てくる――『幻想』だ」
妖怪たちが軽くざわめき立ち、不審な目をひとりの妖怪へ向ける。八雲紫だ。反射的に妖夢が挙手した。
「紫さま、メリーさんと蓮子さんのことですよね」
茅場より同人誌を渡された紫が、内容を確認しながら首をかしげた。
「おかしいわね。あの子たちは『平行世界』のしかも『未来』の住人だから還したのに、どういう巡り合わせかしら」
常軌を逸したようなことをさらりと言っている。
紫の隣へ移動し、妖夢も夢違科学世紀を見てみた。間違いない。クラインへ幻想入りについて語ったとき、一例として挙げた秘封倶楽部。彼女たちが日本に戻って書いたものだろう。ぼかしてるようだしメリーの夢という形を取っているが、幻想郷について紹介している。なぜか蓮子が行ってないことになっている。
「……大結界って、パラレルワールドの人まで幻想入りさせちゃうんですか」
「普通は不可能ね。あのメリー――マエリベリー・ハーンだったわね。彼女はあちらの『私』で、あらゆる境界を視る能力を持ってるから、幻想入りできたのよ……私も彼女の力を借りて送り返すまではできたけど、また繋げと言われても無理ね。月面探査ロケットに火星まで行けと要求してるようなものだから。ちなみにあちらには妖怪の私がいないから、幻想郷はないわよ。そのおかげか日常に不思議が満ちていて楽しそうだわ。感化された私は、外の技術をすこしずつ解禁していって、やがて来るべき将来へと本格的に備えるようになったんだけどね。メリーは『すべての始まり』ともいえるわね――あ、見て妖夢」
最後のページの余白だ。
「達筆ですけど、あとから手書きで記された値段表示ですね……え、この筆蹟って、もしかして」
見たことあるもなにも、つい先日おなじ筆蹟の値段札がたくさんかかった店で、友人が店主にキス攻撃をかました。
「香霖堂ね。この本、図々しいことにあちらから幻想入りしたんだわ。それがなんらかの理由で外の世界へ――たとえば日本円を得る換金目的とか」
じつは思い当たることビシバシの妖夢だった。紫や霖之助の無実を証明するため、すかさずフォロー。
「あ……す、すいません、たぶん私が犯人です。六~七年くらい前に幽々子さまと一緒に松本へ真味糖を買いにいったんですが、そのとき購入資金を得るため古本屋に二〇冊ほど不要な顕界の本を持ち込んだんです。ほとんどが香霖堂で購入したものだったので、もしかして中にこれがあったかも。たぶん幽々子さまです」
必要なお金が多額であれば香霖堂などを使うが、少額であれば現地で物を売ることもある。お茶菓子の真味糖は一個一〇〇円台だ。当時の妖夢は空気を斬れる前で、まだ自力での半霊消しができなかった。日本へ来るには他人の人魂でも隠すことができる幽々子の付き添いでないと無理だった。人魂を消した華胥の亡霊は、一八~一九歳ほどの女性と見た目が変わらない。
「幽々子は? ――って、あなたが日本にいたから冥界まで連絡が届くわけもないし、ここに来てるわけないわよね」
「尋ねられたところで、たぶん覚えてませんよ。お嬢さまは好奇心の赴くままですから」
推測を重ねただけだが、いちおうの嫌疑は晴れた。みなの感情が一段落する。紫が茅場へ夢違科学世紀を返した。中身はすでに完全暗記していることだろう。
「ねえ茅場、あなたがこの冊子を買ったのは、長野県松本市でいいのね?」
「間違いない。凛子くんと国宝の松本城を観光した日だったから覚えている。まさか妖夢くんが私を幻想郷まで導く第二の起点だったとは、奇遇なものだな」
「気味が悪いほどの偶然ですよ」
魔理沙が『SAOの茅場は運命の女神にでも愛されていたぜ』と言っていた。その神がまさか、すでに何年も前から茅場晶彦に味方をしているとは。もしかしてこの男、易学能力者ではないだろうか。
「この本に登場する幻想の住人は、美しいが変わった女性ばかりだった。凛子くんに預けて何年も忘れていたのだが、妖夢くんたちの特徴がはっきりしていたおかげで、すぐこれに思い至った。ネットなどに流布している噂などとも合わせて、私は最初から多くのヒントと情報を得ることができたよ。若い女ばかりが大勢、暮らしている土地。それが幾百年も維持されてきたような重みがある。通常ではそんなこと、ありえない。社会を維持できないからね。合理的な解は、その女たちは歳を取ることがなく、したがって結婚や出産によって世代を重ねる必要もない。ゆえに男は不要、というものだった」
「素人出版の奇想天外な情報なのに、信じ切ったうえで、よくもまあそこまで正しく導けるわね。人間にしておくのが惜しいほどだわ。でも最後だけは間違ってる。べつに好きで女だけで固まってるわけじゃなくてね。男の妖怪がよせばいいのに死ぬまで戦ってどんどん減るから、女ばかり残るのよ。男と女が半々なのは、高天原の神々、天界の天人、地獄の鬼、冥界の半人半霊、魔界の魔族といった、異界の住人として生じた種族くらいね。彼らも地上に出てくれば女のほうが生き残りやすいわよ。ちなみに幻想郷の妖精は起源的な理由によって最初からほぼ全員が女ね」
「興味深い話だな。ところで、神や妖精も広義の妖怪に含んでいるのはなぜだい」
「あなたたち人間の都合なんか知ったことじゃないわ。神仙と妖怪、魔物や幽鬼、妖精と精霊の境界なんて、あってないようなものなのよ。愛と太陽を司る最高神であったものが、信仰する民草が滅ぼされたことで、一夜にして死と破壊の魔王へと堕ちることもあるわ」
「言葉遊びや問答にはたしかに私も興味などない。郷に入れば郷に従えともいうし、質問は取り下げよう。本題をつづけてくれたまえ」
「そうね。戻しましょう――こちらはデスゲーム初期の時点であなたの正体に気付いてたけれど、あなたの方もだったのよね?」
「観察対象として、じつに面白かったよ」
「お互い利口なことで、それはなによりだわ。愚者よりはましだから。さて、さっき妖夢が第二の起点と言ってたわよね。第一はなんなの?」
「私の協力者に『させている』者の話をせねばならないだろう。彼女がその第一の起点だ」
茅場には恋人がいる。宮城県出身で、大学の後輩だった。名を神代凛子。いまはマイクロ爆弾を体内に埋め込まれて、無理矢理に茅場の世話や助けをしてるという。司法警察の捜査は真っ先に受けており、最近茅場と疎遠だったこともあって無関係と判断が下されている。逆に警察が彼女をメディアスクラム――マスコミから守っているほどだ。それが茅場を援護しているとも知らず。
六年前、凛子の純朴さが気に入って恋人関係となった当初のことだ。茅場は神代という名字に興味を持った。すでに異世界の具現化を夢見ていたこの男にとって、神の字には惹かれるものがある。神代の後半、代を代と読むとき、この字は田んぼを意味する。糊代、伸び代などというように、広さも指している。さしずめ稲を植えた縄張り、といったイメージだ。神の代、すなわち神へお供えする稲代。彼女の祖先は神供米の管理などを司っていた者で、神社と地域豪族の間を取り持っていたらしい。探求者肌の茅場らしく気晴らしでルーツを辿ると、一週間で長野県にまで辿り着いた。分家する前の姓を古風谷という。五年前、大学四回生だった茅場が研究疲れの休暇で長野を訪れたのも、また夢違科学世紀を手に入れたのも、恋人の名が元だった。
早苗が自分を指さして、わずかながら感動してる様子だった。
「……え? もしかして私の遠いご親戚ですか? 長野県の諏訪市生まれなんです」
「ほとんど赤の他人だろうけどね。おそらく血は一パーセントも繋がってない。あときみの実家を警察が電撃的に強制捜査してしまったのは、私の完全な落ち度だった。すまない。学生時代のメモに残していてね。まさか幻想郷の出先施設だとは思いもよらなかった」
妖夢も利用していた守矢神社のアジトは、早苗の実家だ。記憶を封じ、暗示を掛けた家族がそのまま暮らしている。この家からは謎の骨董品が大量に発見され、すべて押収されている。警察は幻想郷がほぼ実在すると見ており、信州美人もその住人らしいとされた。
骨董品の正体は里の日用品だ。日本では何倍もの価値を持つ宝物に化けるので、日本円を確保するため利用していた。直接的に幻想郷がおびやかされる事態にはならなかったが、それでも謎のなにかがある証拠としては、いやなくらい多くの情報を与えてしまった。
一五~一六歳で行方不明になった古風谷早苗がクローズアップされている。写真や成績表や戸籍など、数々の証拠が出てきた。しかし家族親類も同級生も早苗のことを認識できない。記録はあったけど誰も思い出せない謎の人物。保険と年金は無視してるが、市民税などは支払われ、選挙にも行っている。いくらでも粗や穴がありそうなのに、なぜか問題になってこなかった。家族は家にやってくる多くの物品をただ無意識かつ自動的に早苗の部屋へ入れていた。あとは夜になれば天狗が窓から取りに来る。
幻想郷と日本で謎の二重生活を送る女。もしやと思ったテレビ局が催眠術師を呼んできて、家族から記憶を引きだそうと試みたが失敗した。政府にも秘かにお抱え霊能力者がいるが、神の奇跡で封じたものを人の力で簡単に解けるわけがなかった。生きていれば三三歳。パンモロを写された空飛ぶ緑髪少女がまさか早苗だとは、いまのところ思われていない。歳が若すぎる。それに幻想入り前の早苗は髪の色が黒かった。黒く「染めて」ないと、満足な学生生活すら送れないからだ。
守矢神社の祭神、八坂神奈子が慌てて、持っていたスクラップブックを開き、パラパラめくった。外見こそ妙齢だが、実年齢は二〇〇〇歳近い。なぜか注連縄をしょっている。
「……見つかった原因が茅場? そんなの、どこも報道してないわよ」
魔法使いのアリスが答える。
「あたりまえよ。私たちは長野県警のトップを二度もクビに追い込み、警察庁長官と警視総監はおろか総務大臣と国家公安委員会長まで辞任させたのに、こんな重大情報、マスコミへリークするわけがないわ」
紫がため息だ。茅場関係では嘆息しきりだ。
「幻想郷と茅場は接点があるって、とっくに警察に思われてるのね……茅場が潜伏しているのが幻想郷とか」
妖夢が不躾に諸悪の根源を指さす。
「いまここへ実際に来ちゃってますけどね」
当の疫病神は、あまり悪びれた様子もない。
早苗の隣にいてカエル目の飾りが付いた市女笠を被ってる洩矢諏訪子が、「あーうー」とつぶやいて帽子のつばを上げた。きれいなショートの金髪と愛らしいロリフェイスがあらわとなる。見た目は一二歳ていどだが、むろんはるかに長生きだ。平安時代の富裕層が外出時に着ていた紫色の衣装とミニスカート。服の表で鳥獣戯画のカエルが相撲を取っている。守矢神社の隠れた祭神で、種族は八百万の神。それも縄文時代にルーツを持つほど古い信仰に残る大神で、すくなくとも三〇〇〇年は生きている。
「数奇なる徒然だね、この地へ災いを運んできた迷い人。あなたの情人は我が忘郷の古く遠き娘子ってわけか」
かつて神が人と交わるのは、別に珍しくもなかった。早苗は諏訪子の子孫だ。そもそも特殊な力を持つ人間のほとんどが、神や妖怪の遠い末裔といえる。一代目は半妖なので長命ないし不老だが、その子、さらにその子となれば血も薄まり、数世代で人間と変わらなくなる。たとえば太古の大王は異様に長生きだ。どのような能力者の家系であろうともいずれ凡百に没するのだが、たまに凄い力の持ち主が生まれる。
早苗は先祖返りの典型で、霊夢ほどではないが強い霊力を有している。守矢神社の風祝をしてるうちに信仰を自分自身へと無自覚に昇華させ、気付いたら神格化していた。
諏訪子と目を合わせ、茅場が軽く頭を下げた。
「きみがかつて諏訪一帯を統治していた、古代の女王か。お初にお目に掛かる」
「もっと広かったよ。信濃一円くらいはあったかな。私だけで治めるには広すぎる国だけど、ミシャグジたちがいるからね。したがって女王というよりは、土着神の頂点とでも呼んでくれ。私の名は洩矢諏訪子だ。諏訪子でいい」
「これは済まないことを言った。ただ諏訪子くんの正体が幻想入りを果たせる決定打となったので、礼を言いたかったんだ」
「どういうことだい?」
「きみは神社ごと幻想入りした口だね? それと、おそらく鉄の輪、鉄輪を武器とするだろう? それが夢違科学世紀に書いてあったのだが、すぐ諏訪大戦のことだと気付いた」
日本の神話に残る、諏訪で起きた神々の戦いだ。洩矢神こと諏訪子は、当時大陸より伝来して間もない鉄を武器として、天津神の神奈子と激しく戦った。かつての敵味方もいまでは仲良く暮らしている。
「幻想入りは神奈子が勝手にやったことだけど……そうか。社なしでは、また諏訪近辺でしか力を保てない土着神だと知って、幻想郷が八ヶ岳連峰の長野側にあると『完全に見抜いた』んだ」
幻想郷の土着神は多くが弱体化している。たとえば秋の神、秋静葉と秋穣子の姉妹も八百万の神だが、ときには妖精にすら負けてしまう。祀ってもらえば力も増えるだろうが、神社仏閣を有する他勢力が強すぎ、信仰の余剰はさしてない。そんな中で諏訪の地より幻想入りした諏訪子は、引っ越し組でありながら地域出身ゆえ力をかなり維持したままだ。
「もちろんほかにも情報はあったが、最初に気付いたのが諏訪子くんの正体と、社殿の描写があったからだった。ありがとう。数千人が動きながら私だけが幻想入りできた決定的なところは、これら具体的な情報による、強い確信だ。ほかの者は信州美人と早苗くんの実家くらいしかない。それにカモフラージュとして、きみたちは妨害活動を北陸から東海まで広範囲で行ってたしね。みなの意識も分散した」
諏訪子は手で辞した。
「皮肉なんか受けられないね。あなたは天運に導かれて幻想郷へ呼ばれただけだから。妖夢との件もそうだけど、どうせ不思議なほど幸運につぐ幸運に恵まれたんだろう? そうでなければ、とっくに道半ばで頓挫し果てている。あなたの強運の反動で、守矢神社が痛恨の憂き目を見たんだ。なあ、永遠に紅い幼き月よ」
土着神の頂点が視線を送った先に、椅子へと座って紅茶を飲む少女がひとり。見た目の年齢はわずか九から一〇歳ていどだが、五〇〇年ほど生きている。銀とも青ともいえる不思議な髪と、ナイトキャップが特徴だ。目は紅く、瞳孔は縦に長い。容姿は端麗にして明媚。諏訪子の可愛いさが大自然的なら、こちらは歪んだ妖しい可愛さといえる。幼くありながら、高貴さを感じさせる。だがこの者は永遠に小さなままなのだ。背中よりコウモリの翼が二枚。ドレスは淡いピンクで、デザインそのものは簡素だ。レースやフリル、赤いリボンを各所に配置しているが、年若さをあまり強調していない。
ティーカップを置いて、少女が口を開く。
「そうね――茅場、あなたが最終的にこの地へ来ることは、何年も前から運命付けられていたのよ」
「きみは?」
「私はレミリア・スカーレット。紅魔館の主にして、運命を統べる吸血鬼よ」
社務所の床畳にどういうわけかヴィンテージ物のカフェテーブルと椅子を置き、さらに彼女の部下でメイド長の十六夜咲夜が日傘をかざしている。屋内なのに。でもこれがカリスマを求めてやまないレミリアのスタイルだ。
「スムーズな日本語だが、この微妙な違和感を伴う抑揚は――母語は英語でノン・ロウティック、おそらくイングランドはミッドランド生まれか……」
「その通り。イースト・アングリアよ。これまでの人は良くて英国止まりだったのに、たった二言三言でたちどころに地方まで絞り込むなんて、初めてよ。専門外のはずだから言語学なんか片手間でしょうに、噂通りの天才ねあなた」
取り囲む少女たちの、茅場を見る目が変わった。幸運だけで来たと言われて軽く見始めていたところに、抜きんでた実力を示したからだ。
雰囲気の急変を感じ、レミリアがその細眉を寄せた。利用されたと思ったのだろう。吸血鬼はその傲岸な高潔さゆえに、敵であろうが認めるべきところは褒めてしまう。
「もしかしてあなた、立場強化のため、わざと英明なところを披露してみせたのかしら」
「ご随意に、夜の女王殿下」
「賢しげね。あなたの血はとても不味そうだわ」
主役となった茅場が、妖怪少女たちを改めて見回している。その目が氷の妖精チルノや光の三妖精、アリス・マーガトロイドにパチュリー・ノーレッジといった魔法使い、ミスティア・ローレライやリグル・ナイトバグ、霍青娥、レティ・ホワイトロック、橙、メディスン・メランコリー、ルーミア、ナズーリン、プリズムリバー三姉妹たちを順繰りに観察する。
「……妖夢くん、幻想郷には海外生まれの妖怪も多いようだね」
「東方世界随一の隠れ里ですから、なんでもいますよ。とくに妖精族や精霊はほぼ全員が外国生まれです。日本人の民俗信仰では、妖精に相当する存在はもっぱら八百万の神になりましたから。あ、あちらのメディスンは元が西洋人形だっただけで、幻想郷生まれです。日本語しか話せません。こちらのミスティアも幻想郷に来てから日本妖怪化してます。夜雀。元は……なにかしら」
こういう形でなら、妖夢も茅場とは会話ができる。レミリアが促す。
「妖夢、ついでに私の説明でもお願い。そのほうが早そうだわ」
「はい。レミリアは運命を操るカリスマ吸血鬼です。因果の巡り合わせをねじ曲げて、警察やオカルトマニアの調査を妨害していた責任者ですね。途中から面倒になって、みんなを煽動して適当に化かしてたようですが」
「違うわ。面倒臭くなったのではなくて、里の人間が関わろうとする運命が見えたからよ。茅場をこの地へ呼ぶ最後にして重要なピースだったから、稗田のお茶目が起こるよう、あえて盛大に遊んでいたの」
人間の里の代表としてこの場にいる小鈴が、半分怒ったように立ち上がった。
「じゃあ妖怪たちが大人しくなったのって――あっ、もしかして、阿求は踊らされたんですか!」
口の周辺にせんべいの食べかすがついており、せっかくの美人が残念なことになっている。本居小鈴はあらゆる文字を読めてしまう能力者なので、妖怪たちが独自の文字や記号で密約を交わしても、簡単に見破れるのだ。話し合いのすえ、そういう閲覧の権利を獲得している。
「非力なくせに吸血鬼に怒鳴るなんて、命知らずな女ね。短気は損気よ、物事を一面で見ないこと。稗田が水面へ垂らした一滴はね、波紋となって内外へ正しく広がったわ。内は妖怪と人間を近づけ、御阿礼の権威を高めた。あなたの友人は損などしていない。そして外は――茅場、あなたを助けた」
「そうか……山の『人払い』だけでなく、『妖怪払い』もしてくれたのだな。妖怪どもがはっちゃけて、中部地方全域で入山者が激減した。おなじく稗田のお茶目とやらで、その跳梁が収まった。おかげで私はどちらに見つかることもなく、絶好のタイミングで八ヶ岳山塊へ入山できた。あとは無心で近場の頂を目指した。南北三〇キロ余りもあるし、保証もなにもないのに、なんとなく幻想郷へ行ける自信があった――気がついたら、魔法の森とやらに立っていた」
レミリアには妖怪どもを遊ばせても、それを収めさらに撤退までさせる権限はなかった。あくまでも実行部隊の長だったからだ。方針は博麗神社の飲んだくれ合議が決める。その酒宴本部を動かすのに、稗田阿求の『稗田なめんな!』ラベル清酒は十分な効果を持っていた。人間の里にも考える頭くらいある。幻想入りを利用してまでやってのけた御阿礼の子を、幻想郷の賢者たちは無視できなくなった。レミリアのお遊びはこうして、上からの指示で一段落したのだ。
「私の能力は運命を変えるだけじゃない。視ることもできる。私のこの目に、茅場晶彦、あなたはこの地へ至る宿命を帯びていたことが、はっきり見える。あらゆる幸運があなたに味方し、あらゆる不運があなたを避けた。私はラストランディングの手助けをしたまで。遅かれ早かれあなたはここへ必ず導かれていた。だから私はあえて面倒な実行部隊の長を引き受け、幻想入りの際に起きるであろう余計なトラブルや無用なドラマを七つほどショートカットした。簡単に言えばそうね――あなたは幻想郷の最高神、龍神さまに……この世界そのもの、いわば『幻想郷に見初められた』のよ、世界の茅場晶彦」
幻想郷に見初められた。
社務所の刻が止まっている。『龍神』という言葉に、妖怪たちの動きが完全に硬直した。この地が幻想郷と呼ばれるようになったきっかけは、龍神が虹脚へ降臨した『最初の異変』にまでさかのぼる。妖怪たちの注目を浴び、人でない者に居心地のよい地勢だと広く知られるようになった。その龍脈地脈に惹かれた天狗・鬼・河童などが集まってきて、しだいに妖怪の多い土地柄へと移っていく。妖怪拡張計画などで本格的な異界化を進めたのが八雲紫である。龍神はすべての根源、幻想郷の種蒔きを行った創造神。紫は苗を大樹に育て上げたブリーダーで、世界の形を完成させた創造主といえる。幻想郷という名称もおそらく紫が言いはじめた。
龍神が普段どこにいるのか、誰にも分からない。どれほどの能力をもってしても、幻想郷の最高神はまったくその姿を掴ませないのだ。天や海や雨に棲むとされるから、普段は幻想郷にいないだけかも知れない。ただしこの神は節目になればかならず再臨する。「最近」だと妖怪拡張の混乱と、博麗大結界を張ったときだ。姿を見せてなにをするかといえば、ただ観察し、手荒い挨拶をするだけだ。威風堂々たる御姿を雲下に示し、雷鳴とどろく豪雨をもたらす。妖怪の賢者たちが力を合わせ幻想郷を護っていくと制約すれば、天候を回復させ、成り行きを見届けて安心したように悠然と、何処かへ去っていく。この神には名がない。言葉を理解すること、天津神クラスの超常を操ることはわかっている。だが固有名がない。したがって龍神と呼ぶしかない。なおこの神は人間の姿を取っていない。文字通りの東洋風ドラゴンだ。拾われた龍鱗に刻まれた微細な年輪から、すくなくとも五〇〇〇歳を超えている。
幻想郷を異世界化している二種類の大結界はいずれも実体のない論理結界で、分かりやすくいえばプログラムの大袈裟バージョンだ。自動的に働くものだから、明確な意志があるはずもない。茅場の運勢を数年に渡って恣意的に操ってきた超越者がいるとすれば、八雲紫も瞳を輝かせて黄色い声をあげる絶対者、幻想郷そのものといえる龍神しかいないのだ。この最高神を見たことのない妖怪も多いが、たまに出る話でその特殊性・神聖性は知れ渡っていた。
茅場晶彦は龍神がなにか初耳のはずだ。だが妖怪どもの反応で察知している。間接情報によって、どれだけ素晴らしいことなのか、きちんと得心していた。ただの人の身でありながら、どれほど輝かしく名誉なことなのか。言葉につくせないだろう。
レミリアの言葉を胸に受け、しばらくしてから茅場の体が小刻みに震えてきた。妖夢は時間差で理解した。おそらく感激していると。このキリト以上に感情を出さない男が、神話のごときストーリーの主役に選ばれたことに心うたれ、幸せに奮えている。実際この光景は伝説の一幕にちがいない。幻想郷の転換点にいま、立ち会っている。
妖夢にもわかる。自分が選ばれた特別な半人半霊だからだ。いろんな場面で言われた。おまえは選ばれた剣士だ、選ばれた立場だ。茅場もおそらく、事あるごとに自覚しただろう。選ばれた者、選ばれた人間。妖夢はキリトにも言ってきた。だが彼はまだ、自分がいかに特別な少年になったのか、おそらくは理解しきれていない。妖夢とアスナを妻として娶ったとき、キリトは時代の門を開く。人間と妖怪の結婚など歴史的事実として珍しくもなんともないが、マスコミが発達した現代日本であり、SAO事件と幻想郷発見も重なっている。キーマンのくせに自覚が足りない。それゆえ脳天気なままの彼氏だが、一方の茅場はどうだ。彼は年齢もあるだろうが、自身の価値をたちどころに評定できる。
だから自然と、質問が出ていた。
「茅場さん。あなたはもしかして、幻想郷を救いに来たのではありませんか?」
ほかにない。相手は龍神だ。レミリアが間違いを言うとは思えなかった。妖夢はちらりと、遠巻きの中のひとり、豊聡耳神子へ意識を送った。史学では虚実を疑われているが、幻想入りした聖徳太子その人だ。この聖人はあらゆる欲を『聴く』ことができる。言葉は必要ない。いまも妖夢の「欲」に反応し、茅場へ向けていた視線を移してきた。その顔には微笑が浮いている。頷いた。その肯定のサインを、妖夢の隣にいる紫も見ていた。確定だった。
救世主の返答は予想通りである。
「……ああ、おそらくそうなるだろうな。私はこの幻想郷の行く末が心配だ」
「どういうことかしら。科学とデジタル世界の革命児から一転、自分勝手な大量殺戮者へなりさがった第六天魔王が、幻想郷の救世主だなんて。愚昧な私にでも理解できる言葉で説明してくださらないかしら――いいえ、説明をお願いします」
八雲紫の声に、軽い苛つきが混じっている。話し始めは余裕があったのに、すぐさまこうだ。賢者らしくない。苦手意識を植え付けられているようだ。敬語になったのは、自分が張った結界と龍神が、この仇敵を歓迎したからだろう。いかに紫でも、結界の振る舞いまでは完全にコントロールできないし、龍神には干渉すら不可能だ。選ばれたということは、茅場はそういう星の下にある人間だったのだ。神子の保証を受けながらこれだ。敵であろうと関係ない。限度もあるが、幻想郷はなんでも受け入れると、紫がみずから既定してしまっている。その原則を決めた当人が破るわけにはいかない。茅場晶彦はなんの裏技も使わず、ただ山に入るだけで堂々と幻想入りを達成した。
成功者が語る。
「SAOで対峙したきみたちは、正直いって甘かった。甘すぎた。第何層で私の正体を見抜いていたかは知らないが、一〇人もいてたったひとりしかいない私を止めることが出来なかった。つねに私の後手に回り、いつも後出しだった」
誰も声が出ない。まさにその通りだった。紫がだんまりを決め込み、妖夢に視線を送ってきた。理屈で認めはしたが、プライドがまだ許さないのだろう。だから多少バカな質問をしても許される妖夢が代わりにしゃべれと圧力をかけていた。この場にいるSAOサバイバーとやらは、ほかに因幡てゐと輝夜がいたが、ずっと後ろにいて話に加わる気はないようだ。魔理沙はいまごろ日本のどこかを飛んでいる。
自問自答する。
茅場と妖怪たちで違っていたもの。それはなんだ。
簡単だ。
性別のちがい。男と女。
それがくっきりと示されたのは、第七五層。キリトはわずかな情報で動いた。おかげで茅場はSAOを去り、いまここにいる。すべての状況を劇的に動かした功労者は、「動いた」男、すなわちキリトだった。
茅場が動いた最大の契機はどこだった? それはクリスマスに起きた。
「……第二二層で仕掛けたとき、あなたは自分がオレンジプレイヤーを掃討する英雄になると分かってたのですか?」
「ラフィン・コフィンの捕縛は運命のいたずらのなせる技だった。いかに私がSAOの最上位GMといえども、アバターで参加している間は普通のプレイヤーとほとんどおなじだ。たとえログアウト中でも、チェックできる者が私ひとりしかいないのに、九〇〇〇人以上のデータからピンポイントに殺人ギルドの凶行を予見するなど、できようもない。もちろんそういうプログラムを組んでいれば別だが、メッセージや会話を監視するなど、プライバシーを踏みにじる。私の主義が許さない」
「第二二層で動いたのは?」
「単純にあの層に敵が出ないことを最初から知っており、またクリスマスという攻略が滞りやすい好機をとらえ、クォーター・ポイント・ボスまでに攻略組から、すなわちきみたちから離れて、自分を守る組織を築くためだった。気付いていたからね、ログアウトのデータを採集されていたことを」
茅場が面白そうに紫へ目配せをした。紫がそっぽを向く。どうも妖夢の知らないところで失敗してたようだ。
「神聖剣を第二二層という早い段階で披露したのは、どういう意図だったんですか? 怪しまれると思わなかったんですか」
急に茅場の顔つきが変わった。それを待っていたと。自信に裏打ちされた勝者の笑みだ。
「むろん決まっている。賭けだよ」
「賭け、ですか」
「いくつかの不運があれば、私の冒険は第二五層までで終わっていただろう。だけどきみたちは慎重すぎた。ぎゃくに私は幸運だった。ラフィン・コフィンの件と、神聖剣の件。さらに輝夜くんが第二五層で化けた件。この三つが重なって、私のポジションは大幅に強化された。きみたちは私へ手が届かなくなり、私は安全を手に入れた――同時に、きみたちの正体を確認することも出来た。フロントランナーの復活でレベルこそ離されたが、私のシナリオは第一層でとっくに崩れていたから、気にもならなかったよ。妖夢くんのような真の戦士と並ぼうとだなんて、おこがましいにも程があるだろう。私にも自負心があるからね。SAOの英雄神話は妖夢くんとキリトくん、さらにアスナくんたちのものだ。もはやヒースクリフが関わるべきストーリーではなくなっていたのだよ。したがって私はつぎなる目標へ集中できている。そのような余裕を得られたのは、賭けに勝ったからだ。諏訪子くんとレミリアくんが言っていたように、あらゆる運がたしかに私へ味方していたのだろう。だが賭けを仕掛けたのはそのことをまだ知らなかったあの日の私だ。隠れ家を出て幻想郷を目指したのも同じ。萎縮して負ければ、すべてを失うのだからね」
「……男の理屈、というやつですね」
「だからいけないのだよ。きみたちは私が九〇〇〇人以上の命を人質に取っている重みから逃げ、正攻法のゲームクリアに没頭するようになってしまった。せっかく第二二層まで進めていた数々の作戦を放棄し、たとえチャンスがあってもみすみす見過ごすようになってしまった。ずっと最前線にいた妖夢くんは知らないだろうが、すくなくとも私は四回ほど、やむをえない事情から正体を見破られても仕方のない決定的な機会を紫くんたちへ晒していたのだよ。だが準備不足だったきみたちは、機会のことごとくを逸してしまった。うち二回はおそらく気付きすらしなかった。私はひとりしかいない。だがきみたちは何人いた?」
「…………そんないじわるな強弁しないでよ」
妖怪少女たちが、驚いている。幻想郷最大の賢者が、あの八雲紫が泣いていた。静かに声を殺して、ただの人間の批判を逃げもせず聞き続けている。逃げないこと。これだけが最後のプライドであったろう。茅場は世界――幻想郷に見初められた。だから聞かなければいけない。
「……第七五層はどうだったんですか?」
「あれはさすがに私の油断だったと言わざるをえないだろう。キリトくんは良くやったよ。ただ私はすでにSAO以外のことへ目を向けていたため、あそこで勝負を受けて負けてあげるわけにはいかなかった。だから可哀想だけど、キリトくんへゲームクリアの報酬を与えることが出来なかった――あるいは、幻想入りの運命が、第七五層でさっさと下がれと、私に言っていたのかも知れないね。実際、ある事情から私はSAOの攻略をどうしても引き延ばす必要に迫られている」
「カーディナル・システムの活動については?」
「あれは楽しんで観察していたよ。全員ログアウトとゲーム中断の機能を凍結したあとは、なにが起きても制裁を加える気はなかったが、やはり幻想郷の性質をそのまま受け継いでしまったね。最悪のことばかり考えて、私を実像以上に高く評価しすぎている。私はたった一人しかいない。カーディナルと違って二四時間監視などできないし、一般プレイヤーとして長時間ログインしていたんだ。睡眠も取るし、外でも警察などへの対策やサーバメンテもある。正直なところ、つけいる隙などいくらでもあった。あらたな力を得たカーディナルの、意外なほどの消極性をもって、私は確信した。SAOにログインした女傑だけじゃない。幻想郷そのものが、おなじような消極と臆病に支配されていると」
臆病か……妖夢は自嘲した。ログアウトする前はみんなを助けたいなどと偉そうに思っておきながら、復帰するときはキリトのことしか考えていなかった。どこが勇者なのだろうか。好きな人が死ぬのがいやで、すこしでもその生存確率を高めたい。いやちがう……会いたい。ただ会いたい。それだけで動いていた、臆病な少女だ。積極的に見えて、行動の根底にあったものは恋する女の原理だった。ただ人より力があるから動くことができる。
「ユイのことはご存じですか?」
妖夢の胸元にある携帯の液晶、そこでかしこまったユイがなぜか大日本帝国陸軍の士官服を着て敬礼していた。従順を脱却して癖を持ち始めたこの子の行動が、だんだん読めなくなっている。
『どうも、元マスター。カーディナルの一部だったユイといいます』
「もちろん知っていた。きみは私の予想を超えた成果のひとつだ。今後の成長と変化を期待するよ。なにもする気はないから、自由に羽ばたいてくれたまえ」
『了解です。ユイはただいまを持って、自分に名前をつけます。ただのユイをやめ、魂魄ユイを名乗ります』
「ユイ……」
『妖夢さんはママですよ』
「え、私はまだ子供を持つ年齢じゃあ……」
『パパなら何年か経てばできるじゃないですか。いまもときどき寝言で、うふふっ。このむっつりスケベさーん』
「みょーん!」
顔を真っ赤にして頬を両手で押さえる。自覚ありまくりだ。夢の妖夢は二年後くらいのアスナほどに成長しており、高校生のキリトとあれやこれや。
笑いが周囲より起こっている。
「すばらしいな。魂がないにもかからわず、ここまで人間に近づけるとは……妖夢くん、ユイを頼む」
「ま、任せろです……」
「茅場さん。あなたが提案されているのは、もしかして――」
八雲紫が、魔王の名を呼んだ。声質はかろうじて落ち着きを戻している。
「幻想郷のオーナーが戻ってきたな。敬語は不要だ。王は王らしく語りたまえ」
ここまで言われたら、紫も襟を正すしかなかった。たったひとりの人間にみなが敵わない。殺すのは簡単だ。追い出すのも簡単だ。だがそれでは負けたこと。現代の幻想郷は、簡単に人間をあやめてはならぬ。博麗大結界を張ったとき、ルールで決まった。茅場はスペルカードルール対戦などできない。あくまでも、その武器は口だ。妖怪側もおなじ土俵に立つことでしか、誇りは保てぬ。
「……あなたが提案しているのは、おそらく対日本の作戦よね。幻想郷が日本の政治家どもや企業家、有象無象に喰われないようにするための手」
「話が早くて助かる。正確にはもうすこし違う。私の意識そのものが前に出ていかないと、策を授けたくらいでは足りない。ぬるま湯に浸かってきたきみたちでは太刀打ちできないだろう。この日本には私と同水準あるいはそれに近い才覚を持つ者が、すくなくとも数十人はいると考えられる。私はただ、新たな道を示すことによって、有名になりすぎただけにすぎん。極限環境だったとはいえ、科学方面に偏った私にすらいいように弄ばれたきみたちだ。政治方面の私や、法曹方面の私、財界方面の私、報道方面の私と、まともに戦っていけるとは、とても思えない。いいように騙され、喰われてしまうだろう――幻想郷をいまのままでオープン化するのは、とても危険だ。妖怪の幼年期はまだ終わっていない」
「オープン化……私の方針まで見抜いてるとは、こちらこそ話が早すぎてありがたいくらいよ」
「第二五層での正体ばらし、きみは思い切りがよすぎた。これまでが慎重だったから、外でもいずれ『そのつもり』であるからだと簡単に答えが出せるものさ。私にはきみたち女性が簡単には持てない、リアリズムをうち捨ててしまう男の理屈と行動力がある。それを使って、全力でもって幻想郷を守り抜く準備がある。このすばらしい異世界を、美しく気高いきみたちを、現実社会のいやなものにあまり汚染させたくないのだ。喜んで盾となり、汚れ役となろう」
紫に影響されていた妖夢は、男の能書きやロマンといったものを内心バカにしていた。だがキリトの勝負駆けや茅場の熱意を見てると、それも正解のひとつなのだと気付いた。最初の夜にはキリトの一人旅にいたく共感していたくせに、間抜けなことにその気持ちを忘れてしまっていたのだ。
ハイリスク、ハイリターン。SAOの幻想郷クラスタは多くの場面でこれを避けてきた。緊急時を除いてローリスク、ローリターンで動いている。だけどそれではハイリターンを得た大勝利者に届かない。運も味方に付けていた茅場に及ばなかったゆえんである。現実世界であれば妖怪の力も使える。それで圧倒すれば、二度か三度目くらいまでは負けも取り戻せるだろう。だが仏の顔も三度までという。法律や規制に狙い撃ちされ、立ちゆかなくなる。法的に人外の権利を認めさせ、憲法の保護下に入るという最終目標を達成するには、傲慢にも高飛車にもなりすぎてはいけないのだ。
「……分かったわ。どうやら二一世紀の日本は、私が考えている以上にやっかいな難物のようね。茅場たった一人にすら、これほどいいように振り回されているんですもの。SAOの私たちは、未来の私たちだったわ。法に守られたいなら、まず法を守らなければいけない。能力を好き勝手に使うわけにはいかなくなる。制限された環境で天才相手に妖怪がどうなるか、あのゲームは感傷的なシミュレーションになってしまったわね。長命の余裕なんか捨ててやるわよ。ここは恥を忍んで、幻想郷に見初められたあなたの案へ乗りましょう。茅場晶彦は、いまさら私たちを騙す人間ではないわ。この世界には男のロマンと積極性が必要なのね」
八雲紫も妖夢とおなじ感想だったようだ。幻想郷に勝負を挑んできた者がいずれもハイリスク、ハイリターンを選択した場合、ローリスクのほうばかり選びがちな幻想郷の防御では、負ける事例もぽつぽつ出るだろう。その収支がマイナスとなり、重なっていけば、いずれ幻想郷は枯死してしまう。幻想郷には新たな思考ロジックが必要だった。いま幻想郷に生きている男妖怪は、悪く言えば枯れている。良く言っても優しい。それでは新時代の荒波へ漕ぎ出すには力が足りない。茅場はアグレッシブなチャレンジャーだ。しかも頭脳方面の天才。とてつもない味方を得た気分だった。しかし――
「それであなたは、どうやって自分をカモフラージュする気なの? 魂の研究が進めば、測定機器も発達するでしょう。魔法などでいくら肉体を変えていても、幽体の形や素性などから人間の男だとバレてしまうわよ。それ以前に、警察がすでに幻想郷と茅場の関係を深く疑っている。捜査の手が伸びるわ」
「それは問題ない。この私自身は、『オリジナルの茅場晶彦』はさっさと死ぬつもりだ」
紫とおなじく、重大なことを軽く言う男である。その意味はとても重いのに。妖夢などは緊張のあまりごくりと唾をのみこんだ。
「……まあ、あなたが殺した数を考えれば、逮捕されて刑死するか、ほかには自殺するしか手はないでしょう。身柄を匿うなんて論外、幻想郷もいい迷惑でしかないもの。それで、あなたがSAOクリアを引き延ばす必要があるというのは、記憶や意識をなにかへ『コピーする技術』や準備がまだ出来てないから、なのね」
受ける女もたいしたものだ。落ち着いてさえいえれば、この女はどこまでも冷静に効率を判定できる。根底にあるのは、しょせんは他人の痛みであるとの達観であろうか。
「こうもお互いに先を読めていると、交渉というよりは、女の自分と会話している気分だ。私の提案はまさにそれだが、攻略速度が早くて、現状ではスキャニング用の機器すら完成していない。私だけでは一年以上は掛かる作業量だが、デスゲームは三年から四年と見込んでいたから、さほど心配はしていなかった。ところが妖夢くんたちの快進撃で、計画は最初から崩れてしまった。私だけでは時間がまったくない。そこで、きみたちの叡智と能力を貸してもらいたい。人海戦術で装置を完成させれば、SAOクリアは最短で済むだろう。悪いが無条件での即クリア終了は同意できない。SAOは始まりにすぎず、次のシーケンスがあるからだ。安心してもらいたい。国が真剣に対策するはずだからデスゲームはもう二度と起こらないだろう」
感銘を受けた様子もなく、紫は淡々と返答した。
「ありがたすぎて、もはや抵抗する気すらないわ。まともそうに見えてそのじつ夢幻の狂気に支配されたままのくせに、どこまでも沈着でご立派ね。大人しく従ってあげるから、自己満足でもなんでもして、勝手にくたばってお逝きなさい。『人間のあなた』に勝ち逃げされるのは癪だけど、幻想郷と私たち妖怪を守るという、最大の使命を果たせる可能性が見えてきたものね――」
幻想郷の賢者、最強の一角に名を連ねる美女が、茅場に背中を向けた。すなわち、囲む妖怪変化どもを睥睨する。
「――みんな。私は茅場晶彦……の『記憶と意識』を、正式に迎え入れるわ。体と魂を匿えば、日本の法に触れるからポイね」
なにか言いたい人も多いだろうが、誰も遮らない。幻想郷を誰よりも慈しんできた女の話がつづく。
「術なしで大結界を越え、生き延びた時点でも資格を持っていたけど、幻想郷に選ばれたとレミリアも言っているし、聖徳の神子も頷いた。彼の言葉は私たち隠棲者にない実体と具体に満ち、勝絶たる実績に輝いている。同時に大悪党として日本中を震え上がらせてもいる。よくて、彼は剣舞郷異変を起こすに際し、アーガス社とすべての開発スタッフを騙し仰せ、誰にもナーヴギアの秘密を悟らせなかったわ。さらに日本政府とあらゆる捜査機関から隠れつづけ、デスゲームの継続にも成功している。これらのすべてが龍神さまのご加護とは、とても私には思えない。あの方のお力が働いたとしても、あくまでも幻想郷の益になることだけと考えるわ。茅場の才を示す証拠としては、とくにナーヴギアが秀逸ね。日本を代表する技術者が束になって挑んでも、絶対に安全には解除できない設計と仕様を、一〇万円の量産機械で実現するなんて、どう考えても超常の力でフォローできる限度を超えている。日本全国に散らばっている被害者全員のナーヴギアへ異能を及ぼすなんて、どれほど力のある神にも不可能よ。だから茅場の力は紛れもないもので、奇跡なんか必要としないわ。したがって彼は量子物理学者やゲームデザイナーとしてはもちろん、設計者や勝負師としても一流。その天賦は、この先の幻想郷に必要不可欠なものとなる」
長いしゃべりを終えていったん口を閉じ、扇子を広げて目元を残して鼻から下を完全に覆った。妖夢には紫が、どのような恐い笑みをしているか想像できた。これほどの挑発はないだろう。幻想郷を愛してやまない妖怪大将が、絶対者にも等しい余裕で言い放った。
「不満のある者はいますぐ私へスペルカードバトルを挑みなさい。みんな、華麗にひれ伏してあげるから」
* *
一三人が挑み、紫が全勝した。
* *
二〇二三年三月一二日夕方、日本列島を激震が走る。
あの茅場晶彦が緊急逮捕されたのである。噂の幻想郷に隠れていたところを信州美人の「妖夢」なる少女が捕まえ、数日前から秘密で接触していたSAO対策チームの一職員が引き取った。同時にその職員は、幻想郷の代表者を名乗る者によって特使に指名され、内閣総理大臣への手紙を渡される。
わざとらしい旧字体と明治時代の重厚な文体で、以下のような内容が綴られていた。
『潜んでいた賊を捕らえたのでお渡ししましょう。我々幻想郷には、日本国と交流する意志と用意があります。八雲紫かしこ』
たったこれだけの意味を、ありったけの装飾や比喩を用いて、二〇倍ほどに引き延ばしていた。
* *
東京某所。
「テレビ東京です。街頭アンケートですが、お時間はよろしいですか?」
「もう夜なのに、なんなのぜ? うわっ、テレビカメラ」
「これはレトロをイメージしたファッションですね。メイドさんかと思ったら、ロリータの魔法使いコスでしたか。箒もわざわざ竹製とは凝ってますね。その金髪と金色のカラコン、面白いコーディネートです。お可愛いですし、似合ってますよ」
破顔した魔法使いが気分良くその場で一回転した。
「そうか、道中ずいぶん写真を撮られたけど、やはりこの街なら通用しそうだぜ」
女性レポーターがボードを見せた。一〇人の顔と名前が並んでいる。
「ところでいま、こちらの番組で例の二回目の人気投票を実施してます。ご存じですか?」
「私は『寝てた』から見てなかったけど、警察・検察トップの同時辞任で各局が緊急特番組んでた裏で、テレ東だけ結果発表してたって奴だな。いつもの伝統だ。どうせいまやってる茅場逮捕も無視だろ? おかげでアニメと特撮を安心して見れるから好きだぜ。オタクの味方だ」
近くのビルに設置されている大画面で、茅場晶彦逮捕、幻想郷発見のニュースが流れている。
「いつもテレビ東京をご贔屓、ありがとうございます」
「あれから察するに、おそらくスキマのせいで妖夢のマーカーが消えたんだよな。おかげで霊夢たちと合流しそこねたんだよ。まあ予定を変更してこの街に来てるけどさ。東京の男は神経図太いよな。冷やかしてやろうと思ってとらのあなのエロ同人コーナー入っても、なんの反応も見せないんだよ。逆にキバオウみたいなのにナンパされてしまってさ、とりあえず道案内させて、念願のレトロゲーをゲットだぜ。ほらこれ、ファミコン用の初代FFと初代ドラクエ。箱付きだ」
帽子より取り出し、得意そうに箱を見せている。
「……えーと、それは、良かったですねー? ……はっ、いけないいけない。ここカットね。さっそくですが――あなたならどの子に投票しますか?」
魔法使いは迷わず金髪の若い子を指さした。
「こいつだな。私によく似てるぜ。めっちゃ可愛いだろ」
「Youmuさんですね。茅場を捕まえたという。どのようにログアウトしていたのか目下不明ですが」
「ん? ――なんだ、いまだにログインしたときの名前そのままかよ。こいつは五日後にはMarisaって名前に変えてる。こっちの長ったらしい奴もフロントランナー合流時にSatoriへリネームした」
レポーターよりペンを奪い、ボードにわざわざ書き込んでいる。
「……はい?」
「茅場を捕まえた妖夢は、こちらの銀髪、人気ナンバーワンのMyonだな。二刀流がすごい強いんだよ。第五〇層アーシュラ戦でゲームオーバーになったけど」
「えっ、お亡くなりになったということですか? そのような発表はされてませんが」
「ちがうちがう。能力を解放してサーバに負担かけすぎて、システムからアカウント停止くらったんだよ。条件外だからさすがの電子レンジも動かん。そもそも平気だけどな」
「……どういうことでしょうか?」
「私も頑張ったんだけど、このもうひとりの金髪、年増Yukariから用済みだって言われて、仕方なく魔法使ったら第七五層で一発退場になってなあ。その戦いで正体晒した茅場が、SAOから逃げだしてやがったみたいだな。だからって幻想郷はないと思うぜ。私たちを巻き込むなっての」
「…………」
「あっ、しまった――」
魔法使いが『宙へ寝かせた箒』に腰掛け、ふわっと浮かぶ。
「――じゃ、普通の魔法使いは逃げ去るぜ! 美少女てんこ盛りの幻想郷をよろしく! アキバ最高ぉ!」
猛烈に加速し、あっというまに秋葉原の夜空へと消える。
三〇秒後、大声がビルの谷間にこだまする。
「……あ、あの子、本物だぁ!」
一部始終が流され、空前の視聴率を記録した。
* *
三月一四日、菊岡誠二郎は二佐へ昇進する。大手柄のわずか二日後だった。三佐になってまだ日も浅く、平和な時代の自衛官であるし、色々と手続きも必要だから、通常なら常識でもありえない緊急昇進だ。キャリアの昇進ルールから抜け出たわけで、一躍同期の出世頭となってしまった。
それだけの異例を認めてしまうほど、彼の功績は巨大なものだった。
まずは茅場晶彦、拘束。
警官ではないから逮捕はできない。妖夢より預かった身柄をさらに警察へ引き渡しただけだ。形ばかりの演出だったが、内閣主導のSAO事件対策チームに所属しているから、沈没寸前だった政権をおおいに救った。内閣支持率は一夜にして九・五パーセントから三七パーセントへ急上昇している。
つづけて、幻想郷との連絡に成功。
茅場晶彦が潜り込んでいると見られていた謎の超常エリアだ。トップ官僚や大臣のクビを飛ばしてきた恐怖の地域でもあった。無能とマスコミや国民に叩かれ、ノイローゼに陥る捜査員が続出している。その幻想郷との渡し役に菊岡がなった。
昇進につづき、名誉が量産される。一〇枚近い感謝状や金一封が贈られることになった。
これら栄誉の源は幻想郷からの尖兵であった。彼女たちが総務省を訪れていたことは、関係者のよく知るところである。およそ一週間前の三月八日、銀髪少女と娘盛りの女が、総務省SAO事件対策本部室の扉を叩いた。なぜかほぼフリーパスだった。
「たのもー! 幻想郷の出前よ!」
「駄目ですよ。声が大きいです」
揃って別嬪だったが、ただの中学生と女子大生にしか見えなかった。仕事に忙しかったスタッフ一同はことごとく無視した。どれほど偉いパパのコネで受付を通過したのか知らないが、一般人の冷やかしや陳情など、いちいち聞いてたらきりがない。
「たのも~~。幻想郷からの出張だって言ってるでしょ」
「あのー、どなたか話を聞いてください。私の髪とか、見覚えありません?」
みんな聞き流している。ろくに観察すらしない。あまりにも反応がないので、仕方なく引き下がった。少女たちが視界から消えると、対策チームの面々はほっとして仕事に戻ったが――ひとりの男が席を立つ。
「どうしたんですか、菊岡さん」
「ちょっと休憩にね」
メガネの男が、同僚に答えた。
その頃ふたりは、SAO事件の記者クラブへ目を付けていた。うまい具合に隣室が詰め所になっている。
「あなたたち、ここに幻想郷のSAO剣士がいるわよ。ほらこのちんまいの」
「恥ずかしながらゲームオーバーになりながらも生きて帰って参りました」
SAO番の記者たちがちらっと見れば、たしかに銀髪の娘が、信州美人で一番人気の子に似ている気がする。だが往々にしてこの手のわざとらしい自称は、名前を売るためどこかの場末アイドルやタレントが仕掛けるイタズラであることも多い。またはネット放送局やテレビ番組のどっきりだ。よりによってMyonを選ぶとは、パターンの王道にすぎる。
「なに無視してんのよ、妖夢のこの銀髪はかつらやウィッグじゃないわよ。ほら、本物だって分からないの?」
「引っ張らないで~~」
ヨウムといえば、ふたりいる金髪の若いほう、Youmuのことだ。名前を間違えている。にわかの犯行だった。それに官庁で仕掛けるなど、常識外れにも程があった。問題になったら面倒なので、騙されてなるものかと、単純に放置される。
「まったくあんたたちは揃って目が節穴ね。そんなことだからレミリアに弄ばれてるのよ」
「盛大に名前言ってるー」
騒いでるうちに誰かが通報したようで、ガードマンがやってきてつまみ出された。甲高い声で抗議する娘たち。廊下を連れていかれる姿を、見送っている男がひとり。前をすぎてから一〇秒ほどして、あとを追う。
小娘どもは建物の外へと退去処分になっていた。
「お嬢さんがた、SAO事件ではみんな疲れてピリピリしてんだ。おふざけは勘弁してくれよ」
「……気をつけます」
「はーいすいませんでしたー」
ガードマンが立ち去って一分後、霊夢がすたすたとまた庁舎ビルへ入っていく。うしろを妖夢がついていく。
それを見ている男がひとり。
霊夢と妖夢はなぜか誰に咎められることなく受付や守衛を突破し、エレベーターに乗った。ひとりの男も乗り込む。降りるときは別のエレベーターを使っていたが、今度はわざと一緒だ。でも女ふたりが男をとくに気にする様子もない。SAO事件対策本部の階で降り、廊下の片隅で相談をはじめた。男が離れて聞いている。
「認識や注意の方向を変えることで、興味がなくとも話をきちんと聞いてもらう術はありませんか?」
「まだそういう高度なのは覚えてないのよ。逸らすほうは簡単だけど、逆は難易度が高いのよね」
「すいません、ちょっと準備期間が短すぎましたね。こうなったら飛んでみるとか、どうでしょうか」
「その案、あんたが真っ先に否定してたじゃない。大騒ぎになって話どころじゃなくなるって。早苗が写されてるし、重要参考人としてただ捕まるだけだとか。だってこの建物のすぐ北って警察組織の総本山だし」
「忘れてました。そうですよね、どう考えてもお巡りさんが走ってきますよね。あちらだって私たちの情報が欲しいはずです。法律のことはよく知りませんが、優先権はおそらく警視庁のほうが高いんじゃないでしょうか。だから総務省の人たちへいきなり弾幕を披露できませんし。とにかくさっきのガードマンていどでは済みません」
「飛んでみるにも、まず誰かに興味を持ってもらうのが先決よね――」
「ちょっといいかい、きみたち」
「――ん? 誰あんた」
はじめて気付いたみたいに霊夢が言った。男が近寄っている。
「ずっと尾行してましたし、いまも『隣』にいましたよ。本部スタッフでしょうから、てっきり気付いてわざと聞かせてると思って黙ってましたけど」
隣といっても、ゆうに七~八メートルは離れていたし、妖夢は一度も男を視野に入れてない。
「こういうとき剣士は便利よね。私はいま、気配察知の術式を切ってるのよ。どうもこの辺の建物って、簡易の結界みたいなので護られてるみたいでさ。対象が無差別すぎて、雑音だらけでたまらないわ。近くにあるお城が影響してるみたいね」
「皇居ですね。世界最大級の風水結界だったと思います。いまだに機能してるんですね」
男が割り込む。
「すまないが私の話を聞いて欲しいのだが」
「すいません」
「さっさと言いなさいよ」
男が顔に右手をやり、メガネの端を据え直した。霊夢からいいかげんに扱われ、軽く苛ついている。
「わ、私はSAO事件対策チームの者だ。きみたち、不思議な力を使って、受付をフリーパスしたよね」
「やはり見ていらしたんですか」
「あんた、私の術が効かないなんて、何者よ。くっ、結界のせいでよく見えないわ。陰陽玉があれば楽なのに」
「私の半霊レーダーでは無害な人ですよ。仙術を使う前から観察してたんじゃないですか」
「なんだ、それなら仕方ないわね。『幻想郷』に帰ったらもっと上の術をさっさと覚えないといけないわね」
会話に重要ワードをまたまた発見し、男の表情がすこし和らぐ。
「君たちは普通じゃないね。事件について知っているようだ。警察でなくこちらに来たのには、理由があるんだよね? 良ければ私が話を聞こう。総務省の菊岡だ」
「魂魄妖夢です。幻想郷から目的を持ち、役目を帯びて来ました。信州美人と言われてる子たちの一人で、SAOからの生還者です」
「博麗霊夢。なんとなく妖夢について来た物見遊山客よ。仙人やってるわ」
正気を疑うような発言をそのときの菊岡が呑み込めたのは、実際に霊夢の奇術を見ていたからだった。それに彼自身の興味や志向が、並の官僚とはまったく異なっているのも助け船として働いた。
「……それが本当なら、知ってるどころじゃないな。別室に移ろうか。ぜひ詳しく話してくれ」
記者クラブに不審な女がいると通報したのは、じつはこの菊岡だった。あえて正体を確かめたのである。ニセモノならそのまま去るか、偉い誰かのコネで再入庁する。ホンモノであれば、おそらく裏技を使ってふたたび挑んでくる。抜き打ちテストに少女たちは合格し、菊岡も読みと賭けに勝った。
こうして菊岡と幻想郷との繋がりができた。総務省を素通りしてしまい、防衛省のコアなやつらと協調する奇妙な仲になってしまった。
不思議な縁から、菊岡誠二郎は出世街道のど真ん中を歩く身の上になった。日本政府を救った英雄として祭り上げられてしまい、防衛省キャリアの勇者、総務省に出向中という表裏の身分を、日本中にでかでかと知られてしまう。
対策チームの同僚連中は悔しがってほぞを咬んだ。どうしてあの小娘ども、もっと分かりやすい不思議な姿で来なかったのだと。魔術を使わなかったのだと。あのときの妖夢と霊夢は、ありふれた服装だった。菊岡はチーム内ですでに認められた出来る男だ。SAO内で大切断事件と呼ばれた被害者一斉搬送のおり、病床確保と適確な手配にその手腕を発揮し、軽く一〇人前の仕事をこなしている。しかも担当した範囲で事故死者をひとりも出さなかった。功はあせらずともやってくると言われるが、チャンスを拾うにも見分ける眼力を備えていなければいけないし、業績とするには見合った能力が必要だ。
マスコミのほうでも、あの日同室にいた記者全員が、それぞれの上司より大目玉を食らった。特大のスクープをみすみす逃し、ぽっと出の自衛官にすべての手柄を奪われてしまった。もし報道側が幻想郷を見つけていれば、省庁へのコネクションも増し、また低迷するテレビ・新聞業界へわずかながらも刺激となったであろうに。思い込みから逃した魚は、あまりにも巨大だった。テレ東のアレは政府発表後のデザートだったが、それでも番組スタッフは揃って社内外より各種表彰を受けている。
妖夢のやり方は自己主張が足りなかった。おなじような行動を取った場合、SAOだとかなりの率で聞いてもらえるし、信用してくれる率も高かった。妖夢は「ちやほや」されることに慣れてしまい、その経験則で総務省に突撃してしまったのであった。ただ可愛いだけの、社会的になんら力を持たぬ小娘がきゃいきゃい喚いたていどで、政府や報道のエリートたちは動いてくれない。彼らの物差しは、まったく別の尺度と基準で人を量るのだ。菊岡のような者は少数派である。
こうして茅場が捕まり、すべては解決したかに見えた。
が、しかし――
デスゲームはなお、継続している。
取り調べに対し、茅場晶彦は解除方法を黙秘している。調査により体内に小型チップが見つかった。茅場の生命活動が停止すれば、SAOに囚われているおよそ九二〇〇人が即死するらしい。それを聞いて銀髪の二刀剣士は戦慄した。もし妖夢が寸止めのできる達人でなければ、もし妖夢がリアルの茅場をすぐ見分けられたら――おそろしい結果が待っていた。自殺を考えるほど後悔することになっただろう。この件はキリトにもアスナにも黙るつもりであるし、紫たちも慰めてくれた。
三月一五日、囚われの茅場晶彦が新品のナーヴギアを被ってSAOの人となった。一定期間茅場がログインしないと、道連れタイマーが発動する。チップの電波を遮断するといった手など、とっくにお見通しだ。獄中にありながらSAOに対して自らの行動を自由にする、二重の安全弁。いやらしい仕様だった。
幻想郷の妖怪たちのうち、特殊な能力と技術を持つ三〇人ほどが、八雲紫の指揮のもと、長野県の美ヶ原にある山荘へ『通勤』した。そこは茅場晶彦が隠れ潜んでいた場所で、ベッドのような大型機械がナーヴギアの奥に安置されている。あちこち部品が散乱し、メモ書きの付箋だらけ。どう見ても開発途上だ。『茅場晶彦』の指示で、河童族を中心とした知性派妖怪が動く。突然の大所帯になってしまい、家事を受け持つ凛子がてんてこまいしていた。もっとも妖怪たちは夜になればスキマよりさっさと幻想郷に戻ってしまい、山荘には本物の茅場と恋人だけが残される。
一二日に逮捕されたほうの茅場は、当初だけ本物だった。体の調査が終わってから、変身能力を持つ封獣ぬえと入れ替わっている。ナーヴギアを被って眠っていれば、言動から疑われることもない。日本政府側にも霊能力者や退魔師くらいいるので、最初から偽物を送り込むのは危険だった。脱獄には時間を止める能力者、十六夜咲夜と、これまた八雲紫が暗躍した。
茅場が潜伏先に長野県を選んでいたのは、深層心理が働いていたからだろうか。それともこれも運気に導かれた結果なのだろうか。誰にもわからない。なんにせよ山荘のある美ヶ原は幻想郷からさほど離れておらず、八雲紫の体力的な負担は小さくて済んでいる。
探索斑のリーダーをしていた八坂神奈子が、茅場に軽い抗議をした。
「数十キロしか離れてないじゃない……これほど近くにいたなんて、灯台もと暗しの典型ね。まったく見つからないはずだわ。山の神であり天津神でもある私から隠れきったなんて、どれだけ強運なのよ。それほど幻想郷はあなたを欲してたってことなのかしら」
ぼやきに対する返事は、茅場にしては婉曲的だった。
「ひとつの国に喧嘩を売って勝てたのだから、ひとりの神に挑んで勝てないとおかしいだろう?」
日本の伝統宗教は神道も仏教も多神教だ。神はたくさんいるが、国はひとつしかない。それに気付いた神奈子は、負けを認めて茅場を讃えた。この辺りの心理的な動きは、紫とおなじだ。祭神や大妖怪は人間の理想が色濃く形を取ったものだから、度量が広いといえる。近年の妖夢にも、彼女等を理想のひとつに置いて、自覚的にそう行動しようとする傾向があり――副作用でキリトに惚れたようなものだった。交際を始めてからは地が出て刻みまくってるが。
もっとも、いかに寛容な天津神といえども、相手が妖怪となれば話は別だ。度量の器も小さなものへと交換する。茅場と神奈子の話を聞いたネズミ少女のナズーリンが、余計なことをしゃべった。
「私の能力は『探し物』を見つけることだから、『人捜し』には使えないのに……バカな神だ。たとえばチーズ一年ぶんを捧げて『茅場晶彦のナーヴギアを探してください』と土下座して泣きながら頼んでくれたのなら、私のダウジングロッドはたちどころに、おそらく数週間のうちにその山荘を探り当てただろう」
このセリフの裏には勢力間の対立がある。神奈子は守矢神社の神だが、ナズーリンは命蓮寺派。両者は幻想郷において、限りある信仰を取り合うライバル関係にある。ナズーリン個人は命蓮寺へ強い愛着があるわけではないが、この寺がナズ本来の上司である毘沙門天を本尊に祀ってることがややこしくしている。ナズーリンはただのネズミ妖怪ではない。その正体は毘沙門天の使い鼠で、妖怪の格調は高い。神奈子は神道の天神だが、ナズの主は仏神だ。宗教が異なるだけに平気で抗う。
茅場捜索のリーダーが八坂神奈子だったので、ナズーリンは宝探しに役立つダウザーとしての能力をまともに提供しなかったのだ。「言われなかったから」という理由で、真面目かつ頑なに「人間」を捜した。この少女には『物』を見つける能力はあっても、『人』を捜す力はない。それを知らなかった神奈子は、エキスパートのナズーリンですら見つけられないのだから、茅場はなにか特別な手管を使っているに違いない――そう勘違いしてしまう。結果としてこのネズミは捜索活動を無駄にかつ思いきり掻き乱してしまった。ナズにはひっそり茅場を見つけて手柄を独り占めする道もあったが、そこまで思いが巡らなかったらしい。
事実を知った神奈子の怒りたるや、怒髪天でも足りないくらいだった。
ネズミ妖怪は京都府まで追い回された。その日京都市左京区では飛行する謎の注連縄が目撃されたという。すまきに吊され、三日三晩くすぐりの刑を受けるネズミ。あまりの責めに、ナズは笑い死にそうになった。
かくも幻想郷は一枚板からほど遠い状況にある。大小さまざまな勢力や集団がまだらに混ざり合い、八雲紫ですら普段は小勢力のトップにすぎない。個々人の友情や交友は容易に勢力間を飛び越えるが、ときには属している立場が団結を困難とする。異変時はとくにその傾向が強い。さまざまな超常能力を持つ妖怪であるから、茅場一個人に勝てる方法など、SAOの内側でも外側でも、ほかにいくつかあったのだ。しかし利害対立や反目などにより、茅場の幻想入りを許すまでろくに機能しなかった。
結果として幻想郷は、大幅な前倒しにより、日本との交流を持つに至ってしまった。
茅場を警察に差し出すというプロセスを経ないと、いつまでも疑われる。それにSAOが終われば、幻想郷は開国するしかない状況だった。自力生産できないものが多すぎるのに、早苗の実家が警察の手に落ちたままだ。文明開化がはじまって一〇年、いまさら後戻りなどできなかった。
「早すぎるわ。あまりにも準備の時間が足りないじゃない」
八雲紫と八雲藍が、幻想郷の有力者たちと徹底的に話し合っている。その場に酒がのぼることはない。剣舞郷異変に便乗した酒盛りは、SAOで散々苦渋を舐めた紫が当面禁止とした。みすみすレミリアの跋扈を許したことも大きい。命蓮寺の魔法使いで、戒律に厳しい聖白蓮ですら飲酒に手を染めてしまっていた。会合に参加するだけで意見はまったくしない伊吹萃香がおもな原因だった。お酒が大好きなこの鬼が酒宴に混じれば、特殊な萃める能力で誰でも気が緩む。大魔法使いといっても元人間だ。日本純粋妖怪の最上格に位置する鬼族の、さらに四天王とまで呼ばれた大物の影響力からは逃れられなかった。かような衆愚の末、大事になってからようやくまともに動くのは、一〇〇〇年にならんとする幻想郷の風物詩だ。今回ばかりはこれまでとワケが違う。相手は日本国そのものだ。茅場のような天才秀才が各界にごろごろいるらしい。妖怪だけでは埒が明かず、人間の里からも庄屋や大旦那が招かれている。アイデアはいくらでも欲しいし、根回しや意志の統一も必要だった。
* *
『魔女の古いイメージですが、これもやはり魔法ですか』
『私は魔法使いだぞ。基本すぎて呪文なんかいちいち唱えないけど、一から一〇まで魔法しか使わない』
テレビの中で、黒白の魔法使いがホウキに腰掛けてのろのろ飛んでいる。高さはおよそ一メートルていど。その隣を歩きながら、若い女性レポーターがマイクを向けている。魔理沙が指名したMMOストリームの人気ナレーターで、ミニ放送局ゆえレポーターも兼ねる。かつてSAO発売日に妖夢へインタビューした人でもある。
『魔理沙さんはこの秋葉原へ来るのが日課だと伺っています。アキバBlogにも日記を寄稿してますが、魔法使いでありながら、なぜオタクカルチャーへ興味を?』
金髪をふわりとなびかせ、ドヤ顔で笑いかける魔理沙。
『ゲームが楽しいからさ。幻想郷は暇だからな、平和すぎると頭からきのこが生えてきそうな気分になる。これでも現代っ子のつもりだから、科学時代の魔法使いには、ゲームの気晴らしもいいと思うんだぜ』
周囲のビル群の多くが、その壁面にゲームキャラ・アニメキャラのビジュアルを散りばめている。独特のオタク文化でにぎわう街、秋葉原の風景だ。道行く多くの若者が魔理沙を目撃するや、携帯やカメラを取り出し、写真や動画を撮る。それへ手を振るサービス精神旺盛な魔法少女。すっかり新名物だ。
『それでSAOに何ヶ月か捕まっていたわけですが、あなたにとってあのゲームはどんな世界でしたか』
『まだ過去形じゃないな。アインクラッドでは私の仲間だった攻略組の連中がいまも必死に戦っている。私の目の前で死んだやつもいた。無理はするなよと伝えてきたから、みんな無事に生還して欲しいぜ』
『魔理沙さんに視聴者の方よりリクエストが来ております。「マスタースパークを見せてください」だそうです』
魔法使いは帽子よりミニ八卦炉を取り出し、空を見上げ、周囲を確認した。放つポーズだけ取ってあちこち狙ってみるが、すぐ諦めた。
『断る……アキバをまだ堪能しきれてないのに、出入り禁止とかお巡りさんの説教とかいやだ』
実際、ふたりとカメラマンの前方と後方にはお守りの警官が六人ほど付いている。おかげでオタクたちに囲まれず済んでいる。
『そんなに強力な魔法なんですか』
『必殺技だから、どれほど抑えても直径五メートルはあるんだよ。可殺モードなら象さんだって丸焦げだぞ。そんな物騒なもん、たとえ空に向けてでもこんな町中で撃てるわけないぜ。電磁パルスで周囲の携帯とかぶっ壊すかもしれんし』
帽子にミニ八卦炉を戻す。
『なら攻撃でない魔法をひとつ』
『いま飛んでるが? 変身しないしステッキも小動物もないが、本物の魔女っ子だぞ』
『あのほら、ほかにもあるでしょう、いろいろ手品みたいに見せるだけのものとか』
『しょうがないなぁ――ナロースパーク』
両手を合わせて広げ、前へ出しただけで、手の平に光の塊が生じ、一本のビームが虚空へと飛んでいった。数秒で終了。直径約一メートル。
『え? いまのは……まさか、ビーム? どこの国もあんな太いレーザービームなんてたぶんまだ開発してませんよ』
にわかに興奮したレポーター。あまり信じてなかったようだ。警官たちの表情がすこし強張っている。正反対なのが周囲のオタクたちで、大量のフラッシュが焚かれる。
『悪いが、私は器用じゃなくてね。こいつも不殺モードなんだが、それでも生身の人間を病院送りにする威力になっちまう。実用技一辺倒で、いまのところ攻撃魔法が七割だ。あとは魔法薬が多いが、ここで披露したところで地味すぎてつまらん。ゲームみたいに体が光るわけじゃないし』
『どうして人を殺傷する用途の魔法ばかりを研究開発していたんですか』
『それが幻想郷の日常だからな。弾幕ごっこという名の喧嘩だぜ。駆け出しにとって手っ取り早い研究課題さ』
『過剰な力だと思うのですが、人間をやめてでも追求すべき課題だったんですか?』
『鉄砲で撃たれてもかすり傷で済むのに、過剰もなにもなあ。別に攻撃魔法のため人間やめたわけじゃないぜ。最近やっと実ったけど、まああれだな、恋だ』
『恋、ですか』
『好きなやつが何百年も生きるやつなんだよ。添い遂げるなら、私も仲間になったほうがいいだろ? 魔法なんて恋の炎の前には、お・ま・け・さ』
いい顔で、霧雨魔理沙が太陽のように笑った。惚気に当てられて、ナレーターが苦笑した。カメラの像がすこし上下する。カメラマンも我慢できず笑ってしまっている。殺人ビームを見せつけた直後にもかかわらず、インタビューの空気は柔らかい。
『魔理沙さんは、変わった魔法使いなどと言われませんか?』
『幻想郷の妖怪どもで、まともな奴なんか一人もいないぞ。妖精から神様まで、みんな変だ』
『長生きすると、そんなものですか』
『私もよく失敗するが、悟ったつもり、賢いつもりになって、どうしても捻くれるからな。でも中には見てるだけで癒される萌えキャラもいる。茅場を捕まえた妖夢なんかな、やたらめったら強いし、真面目に澄まして世話好きだけど、すぐ泣くし間抜けだし甘えん坊だ。妹にしたいくらいチョロいぜ』
『彼女はまだSAOで戦っていますが、クリアの日は近いと思いますか』
『毎日一層ずつ、ときに二層突破してるから、今月中には終わるんじゃないか? 今日あたり八九層かな』
『それは頼もしいですね。最後に、視聴者のみなさんへなにかメッセージをどうぞ』
カメラへ手を振る魔理沙。慣れてきてるので、終始カメラ目線だ。
『よう、人間に混じってひっそり暮らしてる人妖さん。誰にも見えず寂しく過ごしてるお化けに神様さん。まもなくこの国は変わるぜ? 妖怪と神が一五〇年ぶりに日常へと溶け込む、面白い時代がきっと来る。もし馴染めなければ幻想郷が待ってるぞ』
* *
魂魄妖夢は連日、一八時間前後はアスナに憑依しつづけている。スタートは第八一層からだった。これをさっさとクリアしたく、一意専心に打ち込んでいる。妖夢にできるのは、剣を振るうことのみ。もっと高い次元で考えること、動くことは紫たちが勝手にやってくれる。ゲームオーバーになってから、ただの女の子にすぎない妖夢にできたのは、自分の恋に関係した、手に届く個人的な事柄にすぎなかった。キリトと会いたい、ただそれだけ。だが妖夢はSAOの舞姫、剣舞郷の女王さまだ。いかにキリトが強くなっても、真の最強は魂魄妖夢。この事実は動かせない。恋心に由来した小さな行動――妖夢復帰がゲームへと及ぼす影響力は多大で、連日のフロアボス攻略が久方ぶりに開幕した。キリトと体を貸りてるアスナに、文と椛もついていく。
遡って三月一三日、第八一層フロアボス、ダークナイト撃破。黒銀乱舞復活。戦闘時間はわずか六分と、最近の半分以下であった。ソードマスターズが盛り返す。
三月一四日、第八二層フロアボス、グラインドレガシー撃破。戦闘時間は五分を切った。キリト、リズベットより名剣ダークリパルサーを贈られる。
三月一五日、第八三層フロアボス、フォーリオスホーン撃破。アインクラッド中のプレイヤーがソードマスターズの完全復活を知った。
同日、第八四層フロアボス、アントクイーン撃破。アスナ、魔剣エーデルワイスをゲット。LAボーナスがふたつあり、カーディナルのプレゼントと見られる。
三月一六日、第八五層フロアボス、トライメイルストローム撃破。犬走椛、カーディナルより魔刀グロウヘイズを贈られる。
三月一七日、第八六層フロアボス、スケルトンキング撃破。妖夢inアスナがいきなりスターバースト・ストリームを使用。原因は不明。
同日、第八七層フロアボス、レイディアンスイーター撃破。射命丸文、カーディナルより魔槍ルナティックルーフを贈られる。
三月一八日、第八八層フロアボス、リベリアスアイズ撃破。妖夢inアスナがいきなりジ・イクリプスを発動。原因は不明。
三月一九日――ソードマスターズは妖夢復帰よりわずか一週間で第八九層に到達していた。
第八九層フロアボスは、マーダラーファング。HPは四段。
『The Murderer Fang』
モンスターの頭上に表示されている名前を、ほとんど誰も気にしない。すべてが大文字ではじまる仕様は第七四層よりこちら、ずっとそのままだ。おなじく結晶無効化エリアも。四人全員が戦闘時回復スキルおよび応急回復スキルを取得しており、回復ポーションも常時オブジェクト化している。応急回復はポーションの効果を高めるスキルだ。戦闘時回復と応急回復プラス回復ポーションで、HP回復ペースをポーションのみスキルレスの最大二・五倍ほどに増強できる。
「全力攻撃!」
新リーダーの射命丸文が、戦闘開始と同時にとんでもない命令を出す。だがいまのソードマスターたちは向かうところ敵なしだ。以前のように偵察すら行わずぶっつけ本番で突っ込む。超ボスは第九〇層からと分かっている。それまではノーマルだ……それは彼女らにとって、めちゃくちゃ弱いことを示している。SAOはノーマルと超ボスで、差がありすぎる。だがいまはそれが有り難い。いくらHPが多くても、雑魚ならば安全だ。
『黒銀乱舞!』
妖夢inアスナとキリトが同時に叫び、マーダラーファングの『左隅の頭部』へ挟撃をぶちかました。このフロアボスは三つの頭を持つ狼型モンスターだ。全身の体色は黒に近い青で、四肢としっぽの先が赤い。地獄の番犬、ケルベロス。武器を持たぬソードスキルレスの猛獣型Mobは、一撃が大きい傾向にあるが――要は、当たらなければ良い。
ケルベロスが牙や爪による攻撃をいくら仕掛けようとも、誰にもかすりもしない。見事なステップ回避だ。盾持ちの椛もしっかり防ぐ。むろん大ボスなのでグレイズエフェクトや床の飛び石で数パーセントは減っていくが、HP回復系スキルが高く、すぐ満タンに戻る。回復ポーションは戦闘開始寸前に全員が飲んでおり、効果時間が切れるつど隙を見て飲むという作戦なのだが……第八三層からこちら、二個目を飲んだ記憶が誰にもない。
いきなりマーダラーの左頭が消し飛んだ。部位欠損ステータスだ。多頭モンスターでときおり発生する。
「妖夢! 連続で消すぞ!」
「分かったわ!」
つづけて真ん中、右と、三〇秒とかからずすべての頭部を欠損へ追い込んだ。こうなればケルベロスはなにも出来ない。おそらく突進技やブレス技などを持っているのであろうが、妖夢たちが強すぎて初回攻撃すらさせてもらえなかった。SAOのモンスターは感覚器による認識を再現してるので、頭がなければウロウロするだけだ。これで死なないのが不思議なものだが、HPステータスが一種類しか存在しない世界なので、仕様として割り切る。
「とどめ行きましょう!」
文が空中からの攻撃をやめ、地に足をつけた直接攻撃に参加してきた。椛もタゲ取りを行わず、ひたすら切り刻む。部位欠損はタンブル蓄積ぶんがリセットされるので、このボスはまだ一度も転倒ステータスに至っていないが、タンブル同然どころか以上だった。転倒は数十秒で戻るが、欠損が回復するには数分かかる。それだけあれば、倒しきるには十分だった。
妖夢とキリトが、マーダラーファングの葬列へとたむける乱舞を踊っている。キリトが最近使用可能になったスターバースト・ストリームを爆発させ、同時に妖夢inアスナがなぜか使えるジ・イクリプスで侵蝕する。ランベントライトとエーデルワイスを恐るべき速さへとブーストさせ、正確かつ深く巨大狼の脇腹を抉っていく。
――戦闘開始より四分二〇秒後、最後の雑魚ボスが沈んだ。
ラストアタックボーナスでカーディナルからの贈呈と思われる魔剣リメインズハートをゲット。攻撃力が九〇〇もあり、最強クラスと思われる片手用直剣だが、いかんせん重量がありすぎ、扱いにくい。ここはもっとレベルが上昇して楽に振れるようになったときのため、予備としてストレージに保管しておく。
あとはアイテム整理をして、とっとと上にいく。
ここ一週間の、いつもの光景だった。記憶にすらろくに残らない。
妖夢たちはすでに、クリア後の人生へ思いを馳せている。
* *
ソードマスターズが第九〇層主街区コヨルノスに入った直後だった。
急にBGMが消え、システムアナウンス警告が表示される。空と天蓋がすかさず『WARNING』の赤い六角形群で覆い尽くされた。はじめての日に、茅場晶彦が演出したあの赤いドームである。まるで黄昏の夕焼けに迷い込んだような空間が作られた。
警戒して一箇所へ集まった四人の前へ、唐突に青白い炎が立ちのぼり、ひとりの亜人Mobが姿を見せる。齢一〇になるかならないかの、幼い少女。属性は飛行。宙に二メートルほど浮いている。
コウモリの翼を歓びに激しく羽ばたかせつつ、吸血鬼の牙を見せて、微笑した。スカートの両端を軽くつまみあげ、両足をモデル歩きに交差させて腰を軽く落とし、貴族令嬢の会釈を優雅にしてくる。
赤き瞳を煌めかせて、少女がのたまう。
「こんなにも月が紅いから――楽しい夜になりそうね」
頭上に『The Scarlet Devil』の文字列と、NPCではなくモンスターを示すカラー・カーソル。その色は鮮血の深いクリムゾンに染まっていた。適性レベルを大きく上回る強敵。HPバーは高邁にして堂々の五段。ボス部屋にしかいないはずの超ボスが、圏内に出没している。
だが妖夢の反応は冷ややかだった。
「まだ昼よ? 月なんかどこにもないですし……なにやってるんですかレミリア」
決めゼリフにマジ突っ込みされ、泣き出しそうな顔を見せて「うー」とうなる幼きカリスマ。雰囲気台無しだった。
※スペルカードルールで死亡例
神主ZUNが死ぬこともあるとはっきり語る。そのていどには危険。
※龍神
忘れられがちだが公式設定。細部は独自設定あり。