二一 承:同時に愛して

小説
ソード妖夢オンライン4/一九 二〇 二一 二二 二三 二四

 二〇二三年三月一二日、デスゲーム開始より四ヶ月と一週間。
 一二日という日は、くしくも妖夢とキリトが第一層フロアボスを倒し、全プレイヤーへ希望を与えた日付。同時に彼氏彼女となった日でもあった。ちょうど四ヶ月の節目となるこの日、いよいよSAO復帰への試みが実行される。
 午前八時半、若い女性看護師に案内されて、妖夢と霊夢が個室に入る。鼻にきつい独特の刺激臭。妖夢は人間以上の嗅覚を持つが、ふつうに我慢した。ところが相方の辞書には遠慮の文字がない。
「……変な臭いがするわね。酒の一種? はじめて嗅ぐわ」
「霊夢っ!」
 小声で注意した妖夢だったが、看護師はべつに気分を害した様子もない。
「病院ならどこでも普通よ。その歳で消毒剤の臭いを知らないなんて、よほど病気とは無縁だったんだねー。健康なのは、いいことさっ」
 白衣の天使とはにわかに信じられないノリで言いながら、仕切り用のカーテンを引く。
 乳白色の布幕が消えると、大きめのベッドがあり、ひとりの男性が眠っていた。病院でベッドに寝ている人間など珍しくもなんともないが、変わっているとすれば、全身が不健康に痩せていることだろう。さらに異常なものがあるとすれば、頭部の覆いだ。髪の毛が見えない。黒い奇妙なものに隠されているからだ。そのメット状のものは、名をナーヴギアという。日本全国でいまなお九二〇〇人あまりを昏睡状態に縛り、死んだら本当に終わるデスゲームを演出している悪夢のゲーム機だった。
「……クラ之介さん」
 悪夢へとあえて戻ろうとしている少女がひとり。銀髪の少女剣士が、壺井遼太郎の手を取る。とても温かい。現実の体温が人間より低いので、触ったとき感じる温かさが違うのだ。とくん、とくん。手のかすかな脈動が心臓からの循環を伝えてきた。熱と血流で、クラインの生気を確かめた。その脈拍がいきなり早くなった。おそらくあちらで緊張する事態に遭遇したのだろう。この変化こそ、生きていることの証だ。
「ふふっ、モンスターに遭遇して、戦闘に入ったようですね」
『魔理沙さんの訓戒がまだ効いているなら、そろそろ第四八層あたりでしょうか。私のデータベースでは三箇所の狩場が用意されてますよ』
 ユイ携帯は妖夢の左胸にクリップストラップで掛けられている。
 看護師があっけに取られていた。
「脈取っただけでそんなことが分かるの? 健康優良児な博麗さんといい、すごいわね君たち」
「ええ、分かります。あの浮遊城には二ヶ月半もいましたから。遼太郎さんは――ずっと眠って動けなくて、すこし痩せもしてしまったけれど。意識のほう、クラ之介さんは、それはもう元気にあちらで戦ってますよ」
「たしかクラインだったわよね、そのクラ之介って。もしかして霖之助さんに掛けてるとか?」
 霊夢はほとんどの人を呼び捨てにするが、深く世話になった一部の人を「さん」付けで呼ぶ。金のない霊夢の巫女服を何着も「ツケ」で作ってくれたのが霖之助だ。ほかにもいろんな道具を工面してもらっている。霊夢は引退するまでろくに払わなかったが、霖之助からむやみに請求することもない。彼がいなければ霊夢はより救いのない極貧を迫られていただろう。衣食住のうち食はかろうじてなんとかなった。宴会にかこつけ、酒や食べ物を差し入れてくれる妖怪の友人が大勢いるからだ。だけどほかの衣と住は、霖之助に頼るところが大きい。最近の霊夢が仙女になってしまうほどジリ貧だったのは、妖怪が敬遠しがちな人里へ住んでしまったからだった。
「クラ之介と霖之助……そうですね、無意識のうちに呼んでました。私にとって、二人ともお兄さんのポジションだと思います」
 妖夢もここ半年、幾度か霖之助の世話になった。PCを買ったり、日本円を都合してもらったり。クラ之介ことクラインにも、いろんなことで助けられた。
「あんたの彼氏ほどじゃないけど、それなりに大事な人なのね。じゃあ助けてあげなくちゃね」
「はい……安岐(あき)さん。いまからちょっとした怪談になりますが、話は聞いてますか」
「怪談?」
 反射的に聞き返した看護師の胸が揺れた。その先端に付いたネームプレートに『安岐』と書いてあるが、名前を伝える役割を果たすまえに、窮屈で苦しんでるように妖夢には見えてしまった。むろんただのネームプレートがそんなこと考えるわけがないが、この看護師はそんな想像をさせるほど豊満なボディを持っている。うらやましい。キリトを悩殺できそうだ。
 安岐看護師は、怪談ってなんだ~~とすこし悩んでるようだった。言い方が悪かっただろうか。言い換えようとしたら、寸前であちらが気付いてくれる。
「あ~~、人魂がどうとかって奴のことかな?」
「はい。なにしろ私が行おうとしているのは憑依ですから」
「もちろん眼鏡の役人さんから注意とか聞いてるよー。こう見えてメンタルは鍛えてるから、怪奇現象なんかへっちゃらさ。むしろさっさと見せてよ。自慢になるし」
「いやこれ一応、秘密作戦だったと思うんですが」
 エージェントとして動いてくれた眼鏡の役人さんこと菊岡にも、総務省での立場がある。中学生にしか見えない女の子の絵空事を信じて、東北にいったり病院の利用許可を得たり、専任の看護師を手配したりなど、すでに数十万円単位の予算を使っているようだ。これがバレたら大変なことになりそうだ。だが――
「うん、秘密作戦だから、壺井さんは今日から数日間、突然の面会謝絶だよ」
 安岐がベッドの脇に置いてある小さな台より『機器調整のため面会謝絶 ご用の方はナースステーションにお申し出ください』と書かれた掛札を取り出した。廊下に戻ってドアノブに掛け、扉を閉める。この「機器」という単語は、どうしてもナーヴギアを連想させる。その恐ろしさは誰もが知っている。うかつに邪魔をして壺井を死なせたとなれば、下手をすれば訴訟ものだ。これで社会常識のある人ならまず入ってこられない。
「準備がいいですね。できればその数日を数時間で終わらせたいものです。ではいきますよ、大声を出さないでくださいね? 総務省で私たちの話をまじめに聞いてくださった菊岡さんたちは、すごい悲鳴をあげました。そのときは防音室で助かりましたけど、この部屋の防音はそれほど立派でもなさそうなので」
「プライベートも大事だけど、だからってやりすぎると逆に、いざってとき患者さんのシグナルに気付けないからね」
「おいでませ、これが私の、半身です」
 半霊にかけていた意識を弱めると、妖夢の背中にうっすらと巨大な人魂が浮かび上がってくる。五秒ほどで、白い人魂が完全に姿を取り戻した。その中には二本の霊剣、楼観と白楼を抱えている。
「――わおっ。なんてファンタスティック」
 安岐がおそるおそる半霊へ手を伸ばし、つんっと指で弾いた。
「やはり冷たいわね……あっ」
 いきなり透過して、手がするっと半霊に入り込む。妖夢が実体化を弱め、ありきたりな霊体とおなじ擦り抜け状態にしたのだ。支えを失った二剣が落ちようとしていたところを、すかさずキャッチする。
「霊夢さん、楼観剣と白楼剣をお願いします」
「ん」
 受け取った霊夢だったが、安岐看護師が手を伸ばしてきた。
「銃刀法違反って知ってる? そんな危なそうなもの、きみたちに持たせられないよ。しばらくこちらで預かるから」
『妖夢さん、いまです。作戦その四』
 携帯でユイが囁くように言った。それに従い、妖夢が別人のような激しい反応を示す。
「ダメです! 『あなたたち』へ渡すほうが危険ですから、とても受け入れられません!」
 妖夢の気迫に手を引っ込める看護師だが、口は収めなかった。
「えー、だってこの長いほう、花が生えてるよ。可愛いじゃない」
「いまの持ち主が私ゆえ、女の子という性質に合わせて勝手に生えてきたものです」
「なにそれ? ますます面白そうね。ぜひ見せてよ、いいじゃない」
 楼観剣の鞘へ触った手を、霊夢がぱちんと払い落とした。
「あんた、薬師(やくし)でも(とぎ)でもないわね。正体を見せなさい」
「なにを言ってるのこの人? 私は国家資格を取ってる看護――」
「言い訳無用、悪霊退散!」
 退魔のお札を安岐の額へと思いっきり貼り付けた。
「うはっ」
 勢いあまって転んでしまう安岐。そのけったいな有様に、妖夢は笑い出してしまった。
「霊夢、いつもの勘でさっさと気付きましたか」
「……だってこいつの影に、すごい大きな力を感じたから。ヤクザとか警察って度合いじゃないわよ。ちょっと何者なのよあんた」
「え、なに? なんなの?」
 安岐は霊夢の言ってる内容がわからず、混乱してるようだ。
「神通力と勘だけで正答にたどりつくとは、やはり霊夢はすごいですね。その力、一割でもいいから欲しいものです」
「あんたも知ってたふうじゃない」
「まあ私は強いですからね。剣士の炯眼で察知したのよ――安岐さん、お怪我はありませんか?」
 手を伸ばし、看護師を起き上がらせる。
「ありがとう……えーと、あなたたちって、何者?」
 作戦のはじめは霊夢の介入でずいぶん短縮されて終わったが、ここからが第二段階だ。
「それはこちらの台詞ですよ、安岐ナツキさん。あなたの動きは基礎だけでしょうが軍事訓練を受けた人のものです。最初はSPか警官かと思いましたが、重心の動きが違いますからね。たとえ隠そうとしても私には分かりますよ。医療の教育を受けたことは確かでしょう。以上のことから私は、あなたを自衛隊の方で、看護関係の人だと推測していました」
 図星だったようで、安岐の顔から戸惑いが消え、憮然となった。
「――困っちゃったわ。どうしよう」
「大人しくしていればいいだけです。余計な干渉さえしなければ、あなたにも眼鏡の役人さんにも危害を加える気はありません。この際だから言っておきましょう。菊岡誠二郎さんは総務省の職員などではなく、正体はあなた同様、防衛省の自衛官ですね? 官僚にしては前例踏襲どころか異例ばかりで、新奇への探求心が強すぎます。陸自の訓練経験者でしょうが、肉付きの悪さとあの性格から、おそらく開発や情報、実験といった技術部門系の人で、たぶん幹部候補のキャリア組。総務省にはSAO事件で特別に駆り出されたか、出向といった形でしょうか。あなたは菊岡さんの部下か、もしくは知り合い。いかがです? 私たちがとっくに気付いてたと、報告してください。ああ、どうせ盗聴か録画でもしてるでしょうから、関係ありませんね」
 いくらなんでも妖夢はここまで鋭くない。菊岡が自衛隊関係者だとまでは見抜いたが、そのあとはユイの功績だった。でもここで優位性を確保しておくため、思いっきり自分を大きく見せる。はったりが重要なのは幻想郷でも学んできた。
 案の定、効果は絶大だったようで、安岐ナツキが口をぱくぱく。まるで金魚のようだ。
「私はこう見えて、あなたの三倍近くは生きてるんですよ。それでも幻想郷の人妖では最年少に近いグループへ属します。その私にさえ通用しないんですから、騙したり丸め込もうなんて、ましてやこちらの了解を得ないデータ採集など、無謀だと考えて下さい。SAOで振るわなかったのは、能力の大半を封じられていたことと、大勢の人間を人質に取られていたからです」
 これも真実はかなり違う。妖精や頭の弱い妖怪は簡単にころっと騙されまくるだろうし、妖夢も油断すれば容易に不覚を取ること疑いない。でもいまだけ通用すればいい。これから意識をSAOへと潜らせ、体は無防備となるのだから。
 誇大な印象操作を真に受け、なにも答えられない安岐。その肩を、ぽんぽんと霊夢が叩く。
「ま、せいぜい仲良くやろうじゃない。ちなみに私もあんたより年上で、正体は仙人だから。まだ新米仙女だけど」
 指パッチンひとつで、なにもない空間から一升瓶を取り出した。ラベルは有名な銘酒の大吟醸だ。その封を開けて一気飲みする。あきれるような速さだった。
「効くわー、やっぱりこちらの酒は美味しいわね! 幻想郷の酒って濁りモノが多いのよ。どう、あんたも呑む?」
「い、いいえ。任務中ですから」
 放心の間抜け面で、安岐の手がふるふるっと断りのジェスチャー。額に貼られた悪霊退散のお札が、風圧で浮いた。
     *        *
 安岐看護師はやはり、憑依の健康チェックと偽って、詳細な科学的データを取ろうとしていた。妖夢はセンサー取り付けのすべてを拒否し、壺井遼太郎の全身やベッドへ隠すように付けてあった大小さまざまなものも外させた。さらにすべてのSAO被害者の健康状態をモニターしている、共通のセンサーを再接続させた。いつわりのデータを病院のサーバへ返していたらしい。安岐はおもにユイに指示されるまま、妖夢の望む状態を恐々と作り上げていった。これでこの憑依の情報は病院さらに総務省も共有するわけで、自衛隊へ独占させずに済む。菊岡は油断ならぬ人物だ。
 三ヶ月半ほど前、SAOに囚われた妖怪たちの前で、八雲紫が言った。
『人間はね、私たち妖怪の本質、精神の体、すなわち魂へ、科学のメスを直接入れる段階を迎えようとしているのよ』
『知性が生み出す意識というものを、デジタル技術とダイレクトに結びつける研究を盛んに行っている段階よ。アプローチはふたつあるわ。まず生体インターフェイスの可能性。生活とネットが一体化する感覚で、医療分野での研究がとくに進んでいるわ。もうひとつは人工知能の新境地を探る旅。こちらはほぼ軍事技術よ』
『私の予想では、人間は一〇年以内に魂の量子化、いわゆるデジタルデータ化に成功するわよ。おそらく軍事技術のほうで成し遂げるでしょうね。医療には倫理という巨大な壁が立ちはだかっているから』
 紫はこのとき、たしかに『防衛省』と言ったのだ。医療VS軍事で成功すると予想された側、しかも名指しで言われた奴らが、どういう巡り合わせか、いきなり向こうから現れた。あちらさんにしても、宝くじにでも当たった気分だろう。いくら協力してくれると言っても、妖夢がまな板の上の鯉となる義務はない。いずれ解明されてしまうにしても、一日でも遅らせたほうが妖怪側の利益となる。
 だが掃除はまだ完全ではなかった。憑依の寸前、さらに霊夢がけしからんものを退治してくれる。
「ずっと我慢してたのよ。背筋がむず痒くなりそうな視線をいっぱい感じてて。電磁の波が減って、気配が落ち着くのを待ってたわ――」
 コートのポケットに入れてた素手を抜き、広げて霊気を集中させる。すると霊力で形作られた黄色いお札がセットで生じた。お馴染みの弾幕だが、安岐が驚きのあまり腰を抜かし、尻餅をついた。霊夢が短い呪文を唱え、お札の弾幕を放った。数は一三。いずれも生き物のように鋭く飛び回り、壁や荷台、架台やカーテンレールなどに隠してあったカメラやマイク、センサーへと正確に当たって消えていく。ごく小さな破裂音が連続で聞こえ、数秒後にはすべてを無力化した。うち一枚は安岐の腰ポケットを直撃している。霊夢の弾幕はお札の形とホーミング誘導を特徴とする。静けさが戻ると、機械の焼けた臭いが病室に広がっていた。
「一三個もあったんですか。私は九個までしか見つけてませんでした。やはり霊夢に任せていて良かったです」
 SAOのモンスターなら百発百中だったが、機械の目や耳はまだまだ苦手だ。
『すごーいすごーい、霊夢さんかっこい~~。でも火災警報器まで誤って壊したのは、めっ、ですよ』
 霊夢の天才に慣れた妖夢とユイは呑気なものだが、安岐ナツキのほうは予想以上のショックを受けてる様子だった。
「えっ? なによ。どうしてこんな大量に? 私、知らないよ。渡されたのはポケットの録音機だけ……」
 豆粒ほどの録音機を焦げたポケットより拾うが、霊夢の札で完全に破壊されている。
「末端の兵卒も大変ね。全部は教えてもらっていなかったってわけね」
「これも任務ですから、上官の要請には黙って従うまでです」
 霊夢の神業を見せられ、すっかり敬語になっている。もはや隠す気なし。これで弾幕ごっこでも見せた日にはどうなるだろうか。
 とりあえずこれで安全は確保されたようだ。厚い信頼を置ける博麗霊夢のガードがあり、安岐ナツキの心も折った。
「だいぶ時間を無駄にしましたから、さっさと憑依いきますね」
 壺井の眠っているベッドにそそくさと潜り込む。このベッド、データ取りのためかキングサイズなのだ。中学生相当の妖夢でなくとも、並んで寝られる。痩せたクラインの頬を撫で、うまく行くよう念じた。上を向けば殺風景な天井しか見えない。半霊を誘導して壺井遼太郎の肉体へゆっくりと重ねていく。静かに、焦らず。魂魄妖夢の霊力は強すぎて、よほど力を抑えないと、あっというまにクラインの意識を飛ばしてしまう。体のコントロールを掌握するまでに時間差があり、もし戦闘中であれば命の危機だ。人間の器に合わせ、静かに浸透する。まず頭だ。魔理沙と小鈴への憑依で知ったのだが、知性生物の霊魂は大部分が脳に集中している。脳の中にほんのり灯ってる壺井の核を見つけ、侵入を開始する。悪寒を与えないよう、時間をかけて半霊の半分以上を送り込む。同時に肉体全体へも拡散を開始。半霊は完全に壺井へ潜り込んだ。ナーヴギアを被って眠る患者と、その右隣にちょこんと横になるワンピースの少女。見た目の年齢差は八歳から九歳。身長差はおよそ一五センチもある。
「なんかデコボコ兄妹って感じね。頼りになるお兄ちゃんと、そんな兄が好きな天然ボケ妹」
「壺井遼太郎さんの名をずっと覚えてたほどですし、私がただの人間だったらありえますね」
 抜けていることは欠点ではない。最近はそんな認め方ができるようになった。ユイも液晶の中で『おかげで私も探しやすかったですよ』と頷いた。
「でもキリトって男も、何年かすればあんたの『お兄ちゃん』になるわよ」
 すでに好きになった人がクラインの立場になる。なお彼氏彼女の交際をつづけられるのか、きっとまた別の関係を探ることになるだろう。そう遠い未来の話ではない。
「それへの案も私はすでに考えています。いまはただ、会うだけです――では、お休み」
 急速に眠くなってきた。憑依成功の合図だ。
「行ってらっしゃい、健闘を祈るわ――…………」
 ――――。
 ……リンク・スタート。
 ナーヴギアのゲーム開始ワード。意味がないと知っているが、心の中でそっと言った。
 五感、途絶。
     *        *
 感覚が戻った瞬間、水の中にいた。目の前をおかしな姿の魚が泳ぎ去る。
『って、なんで水中~~!』
 体感温度は低いというより、ひたすら寒い。いま三月だぞ! とんだ寒中水泳だ。いくら寒冷に強い半人半霊でも、冷たいを通り越した寒いのは別だ。こんな苦行に平気で耐えられるのは、冬だろうが水中で暮らせる河童くらい。
『うぉああ? 空耳か! みょん吉の声が!』
 クラインの思考。
『クラ之介さん! お久しぶりです』
 頭の中という閉じた世界で、思念として会話する。小鈴で練習していたおかげで慣れた。ただの思考ではなく、強く念じれば届く。慌てた感じに手足を動かしたクラインが、頭を水面より出した。立ち泳ぎとなる。
「幻聴のくせに挨拶してきやがった」
『遊泳中にとんだご迷惑を掛けました。勝手ながら憑依などしてます。いま私は病院で寝ているクラ之介さんの肉体と重なってるところです』
 端的に状況のみを伝える。クラインはしばし困惑してたが、やがて寒さに震える口で答えた。
「ご、五〇層ボス戦の写真見たぞ。でかい人魂とか連れてて、半分死んでんだよな、おめえの種族。妖怪だし、こんくらい出来てもおかしくねぇか」
『話はあとにしましょうか。いまはクエストの最中なんですか? やたら冷えますが』
「言うなよ、我慢してんのに。へくしっ! ……ちょっと待ってろよ」
 クロール泳法で近くの岸へ――クラインの目を通して、どこかで見た風景だなと思い返す。いかにもゲーム世界めいた作り物の風景ではなく、なだらかな小山と森に、森林限界をうまく表現している林。大自然の景観だ。
 第二二層か。
 やがて足の付く浅さになって、クラインが泳ぎをやめる。水より出てくると、近くの桟橋にタオルが数枚と、おおきめのバスケット。弁当と思われる包みがいくつか入っている。クラインの格好は海水パンツ一枚という寒そうなものだ。そよ風が皮膚を刺激して、鳥肌が立ってきている。
『これって、もしかしてなにかの練習か特訓ですか?』
 タオルで体を拭きつつ、クラインが答える。
「はっくしょん! ――察するのがはえぇなみょん吉。さすがSAOサバイバーだぜ」
『SAOサバイバー?』
「俺たち人間の側が勝手につけた称号だ。輝夜とてゐと、みょん吉に魔理沙だな。ゲームオーバーになりながら生きてる連中んこったよ」
 陸にあがったクラインに釣られて、つぎつぎとほかの連中もあがってくる。みんな風林火山のメンバーだ。
 ちょびヒゲのダイナムがガタガタ震えながら聞いてくる。
「リーダー、どうしたん?」
「いやどうも俺、みょん吉に取り憑かれちまったようでさ」
 クニミツが大急ぎでタオルで暖を取り、紫色の唇をガチガチさせている。
「この寒さでおまえ、あ、頭でも湧いたか?」
「ちげえよ。みょん吉って半分幽霊の変わった妖怪だろ? にとりさんなら分かると思うんだが――どこだ?」
『正面一〇時の方向、深さ一・五メートル、距離五〇メートル』
「……え、アレなのか? おなじ目で見てんのに」
 ものすごい速さで動き回る巨大魚の影。いや、河童だ。髪が保護色となり見えにくい。
『クラ之介さん、口じゃなくできれば念話でお願いします。頭の残念な人だと思われますよ』
「とっくに思われてんよ。それにみょん吉のことだから、どうせすぐソードマスターの誰かに移るんだろ? 面倒だからこのまま行くぞ――おーい! にとりさーん!」
『聞こえるわけないじゃないですか。さっさとフレメ打って』
 フレンドメッセージの略だ。届く状況であれば、設定をオフにしてない限り、必ずお知らせのポップアップが表示される。
「それしかねえな」
 メニューを呼び出すため右手を縦に振ろうとしたが、持ってたタオルが邪魔なので、左手に持ち替え――ん? なにか光るものを妖夢は見た気がした。
 クラインがメッセージを打っていく。だが内容よりも妖夢は、クラインが左手の指に填めてたものが気になった。
 あれって、まさか……。クラインがメッセージを送信する。
 送って一〇秒後、河童の影がこちらへとぐんぐん加速し、一気に水面より跳びあがった。
 水しぶきに包まれる青髪の少女。紺色の水着はレオタード状のもので、よく水を撥ねている。器用なことにトレードマークのキャスケット帽を被ったままだ。河城にとりがクラインを見つけ、笑顔で両手を振ってきた。その左手にも、光るものが。
 イルカのような水上ジャンプを繰り返すたび、陽光に照らされ、にとりが輝く。まるで人魚のよう。川や池に棲む河童は泳ぐことを心から喜ぶ。そう定められた妖怪だ。最後は一段と高く跳び、三回転して桟橋に着地。両手両足を揃え、体操選手のようにきれいなY字ポーズでフィニッシュした。風林火山の面々が拍手する。
「盟友クライン、きみの中に妖夢が紛れ込んだというの、本当?」
 口調がかなり親しい者に対してのものだ。いったい妖夢が退場になったあとで、なにが起きたのだろうか。そのヒントはとっくに両者の左手で見た。
 タオルで体を拭くにとりが歩み寄るにしたがい、クラインの動悸が加速してきた。あらまあ、なんということでしょう。
 憑依する前、ドヤ顔で堂々と言ったこと、完璧に間違ってた。なんという勘違い! 知ったかぶりでこの恋の緊張を「戦闘」とか。恥ずかしくなる妖夢。でもこれで、薬指にある指輪の謎が解けた?
『クラ之介さん「結婚」までしてるのに、このトキメキとか、なにをいまさら――あちらに脈なんかなさそうだったのに、いつのまに口説いたんですか?』
「なんで分かるンだよ!」
 カマカケ一発、釣り上げた。クライン相手に、口で久しぶりの勝利。
『まあ私も、あちらこちらで色々と見聞きしておりまして』
「だってよ、紫さんが指名したつぎの番って、にとりさんだし。慌てて再プロポーズしたら、いきなりOK出たんだよ」
 超ボス相手に能力を解放し、ゲームオーバーになる順番だろう。にとりはギルド・マイスター組のまとめ役だが、茅場晶彦がSAOを去ったいま、もはや幻想郷の妖怪が組織の上に立っている必然はない。水中Mobの力もボス戦では役立たずだ。
「その内面への語り、間違いないようね」
 にとりの目が、探求者のものとなっている。惚気はとくに感じられなかった。ははーんと気付く。つい数日前、魔理沙の恋物語があったばかりだ。魔理沙はディアベルがどうと言っていた? 義理だ。
『ねえ……お情けで結婚してもらえて、嬉しい? せいぜいお手々つないで状態でしょ』
「おめえ人が悪くなってねえか? 繋いですらねえよ! 夢が叶ったのに、どうしても硬直しちまって、繋げねえんだよ! 以前のデートとかはちゃんと繋げたのに、こんちくちょう」
 夫の一人芝居を、ほがらかな顔で親愛を込めて見てるにとり。男を相手にこれほど魅力的な笑顔が出せるようになったとは、妖夢も嬉しかった。
「頭の中でなに話してるかだいたい想像できるよ。安心して妖夢、別にリアルでこの盟友と結婚する気なんかないから。思った以上にアタマ悪いし。でもクラインのおかげで人見知りが直ったし、男気あってむしろ好きなほうだから、SAOにいる間だけなら、たまには結婚の真似事もいいかなって考えてね。ステータスの相互閲覧とか、ストレージの共有とか、ごっこ遊びでも本格的で意外と楽しいわよ。なのにこいつ自分からプロポーズしておいて、同室に寝ても抱き寄せるどころかキスひとつしやがらねー。口吸いくらいならいいって言ったのに、この唐変木め。共有ストレージ利用して交換日記しようとか、どこの小中学生よ? いっそのこと、魔理沙みたいに襲っちゃおうかしら。あら冗談よ」
「にとりさ~ん、そんな端から端までバラさないでー!」
 情けない声をあげたクラインに、風林火山の仲間から笑い声。気を許した仲になれば、軽口も増える河城にとり節だ。魔理沙はさとりの読心通信を使い、押しかけ女房の件をとっくに報告してるようだ。プロポーズしてきたディアベルへの返答だろう。
 にとりはタオルで髪の水切りをしながら、新婚相手のクラインをじっと見つめている。三月に海パンひとつなのに、クラインの体温がどんどん高くなっている。上半身裸の男ども相手に自分もかなり肌を晒しているというのに、にとりも本当に強くなった。でもお顔のほうは相変わらず赤面症で、感情と関係なく恋する乙女みたいに頬が熟れている。いまの優しい毒舌も可愛く感じそうだ。
「妖夢、面倒だからさっさとクライン乗っ取って。会話になんないから」
 人見知りだったかつての河童は、もうどこにもいない。SAOでいちばん成長できたのは、この水棲妖怪ではないだろうか。つづけて心理カウンセラーになってしまった古明地さとり。攻略組をとっくに飛び越え、あちこちの層を巡り、心の相談やケアに大忙し。
 沈んだままのクライン。
『三〇〇年も停滞してた彼女をここまで治した功労者ですから、もっと誇っていいですし、自信を持って抱き寄せでもしてあげればいいのに。にとりも許すって目で言ってますよ。さっさとキスくらいしてみろって』
「キリトみてぇにいかねえよ。あいつは人間最強って裏付けあんからいいけどよ、俺はなにもかも中途半端。にとりさんが眩しすぎて、俺なんかと合わねえんだよ。だって永遠に若い嫁さんだぞ?」
 だめだこりゃ。にとりは現実世界で壺井遼太郎と添い遂げる気はないと確言している。この今しかないから、永遠に若いとか関係ない。SAOにいる間だけという期限付きなのに、クラインは人生経験の不足から、貴重な時間を刻一刻と無駄にしている。妖夢は可能なかぎりキリトに甘えまくったおかげで、大切な思い出がたくさん出来た。このままだとクラインはいずれ後悔の日々を送るだろうが、それは当人にしか解決できない課題だ。
 いまは時間が惜しい。ここはにとりと話をしたほうが早そうだと、妖夢は判断した。
『クラ之介さん、いまから体の自由をしばし奪いますけど、構いませんか』
「そんなことまで出来んのかよ憑依って」
『むしろいまの状態が例外ですね。ずいぶんと力を抑えてます』
「……じゃ、さっさと話を付けてくれい」
『――憑依の段階をひとつあげます』
 浸透のレベルをすこし引き上げるだけ。コツは小鈴で練習して掴んでいる。クラインの全身へと神経回路を広げるイメージだ。わずか数秒でコントロールを掌握した。馴らしにその場で軽く体操する。
「おっ、眼光が変わったわね。妖夢かい?」
 頭の中で、クラインの気配がざわついている。
『うひょー、俺の体が、勝手に~~! アストラル系モンスターになった気分だー!』
『クラ之介さん、これは勝手に憑依した詫びですよ』
 右手を差しだし、水棲の美女へ握手のお求めだ。
「にとり、久しぶりです」
「ふふ~ん? 指一本触れられない、惰弱な盟友への褒美かい。乗ってやるわ」
 片手どころか、両手を取ってきた。幼子みたいにぶんぶん上下へ振る。
『うおおぉぉぉ! 嬉しい~~! たまんねー! でもなぜ胸の鼓動が冷静なんだー!』
『いまは私が支配してますからね』
「クラインと無駄な念話なんかしてないで、さっさと本題に入ってよ」
 にとりに怒られた。
     *        *
 クラインたちは高レベル武器用とおぼしき材料を手に入れるべく、攻略組本隊と別行動中だった。入手条件がかなり厳しいらしく、氷雪地帯にいる白竜を倒してはいけない、メンバーにマスタースミスが必須、さらに竜の巣で長時間すごす荒行まであるらしい。極寒での野宿体験が誰にもなく、寒さに強いにとりをコーチとして根性試しをしてるところだった。竜の巣へはロープで昇降するため、数人でしか行動できない。この寒中水泳で成績の良いふたりが、マスタースミスの護衛役となるらしい。白竜の棲む山頂までは全員で行く。じつは巣の中が結晶無効化エリアで、ワープクリスタルを使えない。ロープが切れるといったトラブル対策のため、巣上で待機する居残り組が必要なのだ。無効果エリアの特性上、閉じ込められても脱出イベントくらいあるだろうとの見解もあったが、場所が場所なだけに、不確かなことへ命を掛けられない。
「キリトがもう一本、魔剣クラスのメイン武器を欲しがってるんだ。一昨日リズが片手用直剣でマスタースミスに昇格したから、風林火山の付き添いで挑戦してくるんだって」
「みんな頑張ってるんですね」
 この手のゲームで人のため難易度の高い面倒なクエストをこなすなど、本来はあまりない。しかもSAOは死んだら終わるデスゲームだ。それでもクラインたちやリズベットが動こうとしているのは、ひとえにソードマスターズが解放の旗頭だからだ。きわめて突出したレベルとステータス、装備に技量。妖夢の脱落でペースこそ落ちたが、それでも二日に一層ずつは登っていく、確実な攻略速度。とても真似のできない偉業にすこしでも貢献したいと、大勢が思うようになっている。ディアベルやキバオウたちが一時期パワーレベリングを行っていたのも、そのあらわれだった。超ボス戦のたび幻想郷の妖怪少女がSAOを去っていく。超ボスのやっかいさは誰もが知っている。妖夢が欠けただけで、超ボスには無謀な戦力バランスのまま。ダメージディーラーと呼べるのはキリトしかいない。ほかの子では火力不足だ。
「よく戻ってきたわ。妖夢が帰ってきたからには、超前衛が増えて万々歳、ソードマスターズは本来の息を吹き返すよ。で、キリト以外の三人のうち、誰に憑依――って、あの子しかいないか。あなたが妖怪に憑依できたなら、わざわざ遠回りしてクラインに憑くわけないし」
 にとりも六〇〇年にならんとする長寿妖怪だ。情報を交換してるうちに、妖夢の目的に気付いた。
「それでは行こうかね、私のもうひとりの大切なめいゆー、アスナの元へ」
     *        *
 第七六層主街区アークソフィア。
 噴水と水路の美しい町だが、同時に第一層はじまりの街や第五〇層アルゲードのような雑多さも持っている。建物には白系統の石材が多く使われ、目立つところにはローマ風のデザインや飾りが多い。この町でソードマスターズと待ち合わせることになっている。
 クラインと河城にとりのなんちゃって夫婦が転移してくると、観光や買い出しなどでたまたま居合わせた男どもが、やっかみの視線を送ってきた。全員が、クラインのほうへ。目線を浴びる憑依中の妖夢は苦笑いだ。射命丸文が面白がってあえて実状を公開してないようで、青髪の人気ナンバーワン少女を口説き落とし、さらにシステム上の婚姻にまで至った奇跡の野武士男は、かなりの嫉妬を集めているようだった。クラインにしても一か八かの勝負で大勝利したのに、いまも手を繋いですらしていない。だがしかし、ふたりの左手薬指で光っている指輪だけは、あまりにも明瞭な勝ち組の証明であったろう。ふたりの格好はそれぞれのレベルで装備可能な最良の武器防具だ。レアアイテム特有の輝きと色艶で、美女と野獣を飾り立てていた。
 数十秒も歩けば、道歩くキャラはNPCばかりで、もうプレイヤーは見えない。物見遊山に訪れる最前線とボリュームゾーン、アルゲードやマーテンといった一部の便利な町を除けば、クリアされた層の主街区なんてこんなものだ。ほとんどのプレイヤーにとって、上の層は物価が高すぎる。
「どうだみょん吉。すげえ怨念だっただろう」
 体のコントロールはとっくにクラインへ返している。
『気付いてないんですか? あの妬み嫉みの目ですけど、羨望も多分に含まれてましたよ』
「なんだそりゃ」
『あやかりたいって感情ですよ。クラ之介さんは自分を低く見てます。かつての私みたいに過小評価しすぎです。人間第三位のハイレベルプレイヤーで、まだ数人しかいないレアスキルのカタナ使いでしょ? 攻略組の斬り込み隊長で、最強ギルド風林火山のリーダー。ギルド内の立場でいえば、ソードマスターの全員があなたより格下なんですよ』
 妖夢とキリトが風林火山だった流れから、文・椛・アスナも風林火山に移籍している。パーティーメンバーが同ギルドであれば、攻撃・素早さなどにボーナスが付与され、ギルド共通ストレージも利用できるからだ。
「おめえ人を底なしに下げといて、こんどは天井知らずに持ち上げる気かよ」
『なにより、にとりの心をここまで治したのは、まちがいなくクラ之介さんの大功なんですから。ゲーム内のことはSAOが終われば消えますけど、人見知りを治療した恩は消えません。にとりを横に侍らせうる立場も資格も、クラ之介さんは十分クリアしてるじゃありませんか』
「それだよ! 夢が実現したはずなのに、キリトたちがクリアしたら消えちまうってんだよ。恩がなくならないのに、願ってた肝心の関係がなくなっちまう。これが悩まずにいられるかよ。もし手を出したらよ、いまの期限ありボーナスを認めたことになっちまうじゃんかよ! 俺はそんなんイヤなんだよ」
 いい男だ。願わくば幸せになって欲しい。
『純愛ですね。クラ之介さん可愛い~~』
「……みょん吉にだけは言われたくねえ。言ってることコロコロ変えやがって」
『だって女は即興と感性の生き物ですからぁー。にとりだってキスくらいなら許すと言ってますけど、気分と雰囲気しだいでは、さらに上も……およ? 鼻血だしてるんですか』
 鼻を押さえたクライン。鼻血は以前からあったが、数秒で消えるただのエフェクトだった。それを垂れるレベルで再現するとは、カーディナルも芸が細かくなったものだ。
「そ、そそそ、想像しちまったじゃねえか」
『やっぱり可愛いな、クラ之介さん。もうしばらく童貞でいてください』
「ななななな、なんで知ってんだ!」
 慌てたドモリがおかしかったのか、話題の主がかわいらしく肩を竦めた。
「私には手に取るように会話の内容が読めるよ。いいかげん、おもしろ漫才はやめてくれたまえ盟友。実装されたばかりの鼻血を垂らすなんて、どこまで奥手なのかしら――あなたが触りもしてくれない理由って、そんなことだったのか。すまないねクライン。私は何百年も生きてきたから、感覚が人間とは違うんだ。なら私から行けばいいよね。ほら、これでどうだい?」
 にとりがおもむろにクラインの腕を取り、身を寄せてきた。野武士の全身に電気が走ったかのような刺激が広がる。クラインが意識のすべてを動員し、にとりのさまざまな情報を得ようとしている。体中の感覚器官が張り切っているのだ。仮想現実空間なのに、実際の肉体とおなじように働く。妖夢もかつてキリト相手に何度も経験したことだ。がぜんクラインに共感してくる。でも心のほうは落ち着いている。
「うっはー! やわらけー。まるで恋人みてえだ」
『結婚までしてるくせに、なに言ってるのかしらね』
「できればこの夢、覚めないでくれえ。ちくしょう、現実のものとしたいなぁ」
「仕方ないなあ。めいゆーの不安を取り除いてあげるよ。もうちょっとしてから伝えようと思ってたけど、いつまで経っても意気地なしだし。いまならちょうど、妖夢って証人もいるし、人目もないから」
「え? なんて?」
 体重を預け、河童娘がささやく。
「――最長で一八年ほど待ってあげる」
「……なんと言いました、にとりさん?」
 クラインの背中をパンとはたき、いつにもまして真っ赤になってるにとり。リンゴみたいだ。恥ずかしそうに、クラインから離れる。
「女に何度も言わせることじゃないよっ!」
「いいんですかい? 俺、期待しちゃいますよ」
 にとりが右手をクラインへと示した。親指だけ曲げて、四本の指を広げた形。
「四〇歳。それまでに私が満足できる、賢くて出来る男になって見せてね。成功したあかつきには……」
 きれいなウインクを見せる、水辺の技師。トドメの一言を放つ。
「あなたが死ぬまで愛してあげよう」
『魔理沙に続けて、にとりもデレた!』
 妖夢の突っ込みに、クラインは答えぬ。ただただ固まっていて、好きな人がついに口にしてくれた、最高の言葉を脳内で反響させている。魂を重ねていて、一緒にいる妖夢もわかる。みなぎっている。これが真の感動というものかと。かつてキリトに告白したとき感じたものと、ほとんど変わらない。妖怪だろうと人間だろうと、女であろうと男であろうと。おなじだ。
 精神的に巨大なものが、クラインの胸のうちへと溜まってくる。見えぬそれが溢れ、しずかに高さをましていく。足が、腰が、腹が、胸が……ついに、頭まで。だがまだ止まらぬ。体を脱し、デジタル世界の空へと抜けていく。それほどの想い。
 二〇秒ほどの沈黙があり。
 ようやく動いた。
 少女の両脇へいきなり差し込まれる、男の腕。
 細くて軽い彼女を抱え上げ、赤バンダナの野武士が歓喜のダンスを踊りはじめた。
「やった! ひゃ、ヒャッホゥ!」
 軽く目を回しつつも、青髪の少女が歓声で答える。
「ひゅいっ……すごい効果だねぇ。いい顔してるよ、鼻血が情けないけど」
「俺はいま、生まれてきて一番、幸せだぁー!」
 にとりを『たかいたかい』しながら、その場でくるくる回るクライン。鼻血が散ってるぞ!
 人生でもっとも感激してるクラインの胸になお、こんこんと沸いている熱き血潮。それを妖夢は、男だなあと他人事に思っていた。ヒースクリフの正体を男に教えるなと紫が言ってた根拠が、いま示されている。
 チャレンジする気まんまんのクラインだが、妖夢は最初から冷静なままだ。どうせ届きやしないから伝えもしない。いまは水を差すのも悪いだろう。
 ――ねえ、クラ之介さん。
 けっきょく不合格に終わったら、四十路からほかの子と結婚するのって、かなりのハードモードだと思うんだけど……にとりに振り回されて、生涯を棒に振る可能性も低くないんだけど、いいの? 受け直しが利くテストみたいな、そんな生易しい試練じゃないんだよ、これって。
 だって。
「三〇〇年ぶりのめいゆーは合格してくれるかなあ」
「なんとおっしゃいました?」
「クライン、もっと回って。楽しいから」
「お安いご用で!」
『……あー、さっそく便利に使われてますね』
 河城にとりは六〇〇有余年を生き、何十人かの男と知り合い、いくたびも告白されてきて――
 いまだに、処女!
     *        *
 そこはメインストリートの先にあった繁華街で、たくさんの店が並んでいる。まるでエギルが店を構えている町の裏路地みたいだが、プレイヤーはおらずNPCしかいない。ところがその中でひとつ、局所的にプレイヤーで賑わっている店があった。喫茶店だ。
「えーと、ここでいいんだよな?」
 クラインがメッセージを確認する。たしかに道案内は間違ってない。アスナのメールにはマップ誘導のデータが添付されており、そのナビゲーションに従ってきたのだ。
『たしかにこの店で正しいようです』
 喫茶店だが、この通りでいささか異彩を放っている。窓から見える店内の装飾が、ファンタジー世界より抜け出している。現代風だった。ただしファンシー系という変わり種で。カーテンはレース、テーブルクロスはフリル模様。落ち着いてシンプルな内壁と観葉植物が店の性格をかろうじて残しているが、全体的に女の子趣味で染めている。
 決定打は店の看板だった。そこには丸文字で『あい☆くら』と書かれている。
「……なんだこりゃ、アキバでもあるまいし」
「盟友。この手の店について心当たりがあるのかい?」
 いじわる顔でにとりがクラインを見上げている。お手々つないで、なかよしこよし。結婚がどうの将来がこうのと先の話をしたところで、妖夢や魔理沙みたいにキスの段階へすら進めていない。
「勘弁してくださいよにとりさん。オタクなら憧れるヤツも多いつーか、にとりさんと出会う前に、数回ほど行ってみただけっすよ」
 恐縮のあまり体育会系な敬語になってしまうバンダナ野武士。
「まあいいさ。メイドカフェは私も入ってみたいと思ってたんだ。私が日本に行ったときは、案内してちょうだいね盟友」
「このクラインにお任せあれ」
『……独り言をつぶやく男が、空虚な笑顔でメイド喫茶に』
「なんだあ、みょん吉。喧嘩でも売る気か?」
『リアルのにとりは九九パーセント以上の日本人には見えませんから、気をつけてくださいね』
 幻想郷の人間に純粋妖怪たちが見えてるのは、信じる信じない以前の話だからだ。妖怪たちとの間接的な付き合いが、生活に根付いている。里の家にはかならず鍵が備え付けられている。日本なら田舎にいけばろくに鍵すら掛けない家や鍵そのものがない扉もあるが、幻想郷はちがう。鍵がある生活は、すなわち脅威への備えであって、その対象がなんであるかは語るまでもない。
 人外生物との付き合いを歩みはじめたクラインは、気楽なものだった。
「なあに、見えないっても、みんなに信じさせれば、なんとかなるさ」
『意外と大変かもですよ? クラ之介さんが幻想入りでもして、にとりのとこへ遊びに行ったほうが早かったりして』
「幻想入り?」
『博麗大結界のほかに、幻想郷には「幻と実体の境界」という大結界がありまして。これが外の幻想をどんどん集めるんですよ。生き物で喩えれば、博麗大結界が免疫システム、幻と実体の境界が代謝システムですね』
「二重結界たぁ、わくわくする設定なんだなあ――じゃなくて、実際にある世界か」
『ただし害意を持つ者は超強力な者でない限り、まず弾かれますけどね。方法はなんでもいいですけど、自分をファンタジーだって思えば、幻想郷に行きたいって本気で願えば、できちゃうんですよね、幻想入り。いま日本では幻想郷を探せってたくさんの人が動いてますけど、誰も幻想入りできてないようですね。本気では信じてないし、心から行きたいって思ってないからですね。すべてを捨てるほどの覚悟がないと無理です。それもちゃんとした条件の揃ったスポットや状況でね』
「ふーん、ま、ただの人間にすぎない俺にゃ幻想入りとか関係ねえけどな」
『ですからできちゃいますって、ただの人間にも。むしろ妖怪の幻想入りより、人間のほうが多いですね。一〇年くらい前にも秘封倶楽部(ひふうくらぶ)を名乗る――えーと、メリーさんと蓮子(れんこ)さんだったかな? 若い女性二人組が幻想入りしまして、これでもかと研究しまくったあと帰って行きましたよ。紫さまがあっさり帰したのは、幻想郷の真実が世に出ないと分かってらっしゃったからですね』
「秘密を守れるなら、俺も安心して幻想入りできるってわけか?」
『ところが簡単にはいかないんですよね。この世から消えたいとかモチベーションが後ろ向きだったり、単純に運が悪ければ、ほとんどがのたれ死にますけど。一〇人に七~八人くらい。獣とかしつけの悪い野良妖怪に食べられます』
「メイド喫茶の前でいきなし物騒なこと言うなよ。嫁んとこ遊びに行くだけでいちいち喰われてたら話になんねーだろ」
 つんつん、とクラインの袖を引っ張るにとり。
「つまんないから、私以外の女の子と、あまり長く話さないでー」
『おっ、早速に独占欲を示しておりますよクラ之介さん。脈ありが育ち初めてますねー』
 気休めだけど、都合の良いことを言ってクラインの背中を押してやる。
「……おうっ。じゃ、にとりさん、行きやしょう」
 今回の突発的な大進展はにとりの気紛れによるところが大きい。河童はそういう種族でもある。気分屋なのだ。今日のにとりはクラインたちに寒中水泳のコーチを頼まれ、自分の領域で攻略活動の役に立てて、気分がかなり高揚していた。そこに妖夢が登場して、なにかスイッチが入ったのだろう。SAOへログインしたとき、にとりと最初に合流したのは、霧雨魔理沙と魂魄妖夢。この三人中、ふたりまでもが異性と付き合うようになった。なら私も……そうなんとなく思ってしまっても、不思議ではない。その前触れはとっくにあって、ゲーム内婚までは実現させていたのだろう。妖夢の想像力ではここまでが限界で、友達の内面にどのような化学変化が起きたのか、推し量りきれなかった。
 とりあえずにとりとクラインの物語は動きはじめた。主導権はにとりにあり、この気分屋の心がまた移ろえば、クラインは捨てられるかも知れない。そのときまでにポイントを稼ぐことが出来るのか。多少のゆらぎでも動かぬ絆を構築しえるかいなか、あとはクラインの努力次第だった。妖夢としてはこのカップルもどき、うまく成立したほうが見ていて面白そうで楽し……もとい、嬉しい。どちらも大切な友人だ。でも同棲レベルに至れても、クラインずっとず~っと哀れな童貞さん止まりの可能性もありえる。それくらいにとりは堅い。バーチャルなら割り切りもあるぶんキスしてもいいよと挑発などもするが、リアルだとそう簡単には許さないだろう。
 まあいい、すべては河童と野武士の問題だ。
 それよりもいよいよ、対面だった。
 一ヶ月半以上、会っていなかったキリト。
 だいぶ苦労したけど、時間がかかったけど。
 やっと会える!
 妖夢の心が、しだいに弾みだす。
 待ちに待っていたはずなのに、望みに望んでいたはずなのに。これまで急がず焦らず、クラインとにとりに付き合っていたのは、すこし怖かったため。
 済まないと思っていた。いきなり離れ離れとなり、もう会えないと思っていた。さとりを使えば連絡も可能だったのに、怖くてできなかった。実際、妖夢が消えたせいで、浮遊城アインクラッドの登りは遅れてしまっている。第七五層でも魔理沙がゲームオーバーにならずに済んだかもしれない。
 なにより。
 妖怪少女たちが、茅場とヒースクリフの関連にずっと以前から気付いていた。
 その秘密をキリトが知ってしまっているという可能性が怖かった。ヒースクリフの正体を見破ることに成功したキリト。彼ならきっと気付いている。クラインの様子をみる限り、キリト以外の男はまだ知らないようだ。もしバレれば、下手をすれば女性陣はみんなつるし上げを食らう。攻略組は大崩壊してしまうだろう。だけど以前のまま、相変わらず妖怪少女はアイドル扱いのようだ。ただアインクラッドからヒースクリフが消えた。それだけが事実として妖夢には伝わっている。魔理沙がゲームオーバーになったあと、どのような話し合いがされたのか、妖夢はまだ詳しくを知らない。
 怖いから知りたくない。だけど知らなければいけない。
 開ける扉の向こうに、真実が眠っている――
「おかえりなさいませ、ご主人さま」
「なに着てんですかアスナさん?」
「わーっ、可愛いよめいゆー。私も着たーい」
『おもちかえりぃ~~……いえ、なんでもないです』
 登場した店員はNPCではなく、白と黒のメイド衣装を着たアスナだった。ミニスカがとっても似合っている。久しぶりに見るアスナは、妖夢が反射的にときめくほど美しく可憐で、可愛かった。栗色の毛がさらさらと流れるように瑞々しい。
「で、できるだけ華麗にスルーしてよね? 私いま、罰ゲーム中だから」
『クラ之介さん、店内を見回してください。キリトどこ? 私のキリト~~』
 妖夢のリクエストに応じて店内をきょろきょろしながら、クラインがたずねる。
「アスナさん、キリトとかほかのソードマスターは?」
 店内には男性客ばかり。メイドさんはプレイヤーとNPC合わせて一〇人くらいはいるのに、男の多くがアスナに視線を集中させている。みんな目が溶けてて、頬もゆるい。メイドアスナ、とてつもない癒し効果だ。
 キリトはいなかった。
「ああ、キリトくん? 紫さんのところよ……」
 気付いたアスナが、とっさに教えてくれた。クラインの中に誰がいるのか、忘れていたようだ。たしかに妖夢が表に出てきたところを見せて、実際に話をしないと、まったく分からないだろう。
「ということは、ここにはめいゆーだけ? どうしてそんなまどろっこしいこと?」
「妖夢ちゃんが感激のあまり、我を忘れて暴走するだろうって」
「うわっ、ありえら。キリトへ抱きついて頬ずりしてる俺って、想像しただけで怖気がするぞ。キスまでした日にゃ、ガチホモ疑惑で出歩けなくなっちまう」
「さすが紫だね。読まれてるなー」
『みょーん……』
 我ながら本当にありえるので、妖夢もおとなしく縮こまるしかなかった。
     *        *
 目覚めは、まだ昼前だった。
「……逆はリンク・エンドとかって言うのかしら?」
 現実世界に戻ってくるや、視界へ飛び込んできた情報量の精緻さに酔いそうになった。SAOはなんだかんだで作り物。しかも人間扱いだ。リアルでかつ妖怪の視力であるなら、見える世界はまったく迫力が異なる。
「あら思いっきり早かったわね。まだ二時間と経過してないわよ」
「お帰りぃ~~、よし勝った! これで二〇勝二〇敗イーブンですよ」
『あっ、お帰りなさい妖夢さん』
 霊夢と安岐がなぜか花札をしている。ユイ携帯は審判かなにかでもしてるようだ。
「首尾はどうだった? キリトとかいうのと、会えた?」
「にとりとクラ之介さんがデキてた。モドキだけど」
「想像以上にすごいお兄ちゃんねこいつ。あの最強の内弁慶を落とすなんて……もどき?」
「キリトには会えませんでしたが、本命の名は聞いてきました。男と男でチューとかいやなので、さっさと次に行きましょう」
 看護師に見えない角度から、だんまりのユイが文字列でとある作戦を提案している。妖夢も漠然と思ってたことなので、すぐ乗ってみることにした。
「ねえ妖夢、モドキってなに、なんのことよ」
「――安岐さん、眼鏡の役人さんに連絡を。車を一台、回して下さい」
「気になるじゃなーい!」
     *        *
「……結城明日奈(ゆうきあすな)さん、なんだよね?」
 ノート型端末を叩く菊岡の顔は笑みを絶やさないが、眉がすこし揺れている。
「なにか困ったことでも?」
 東京都内を移動中の政府公用車で話をしている。アスナのリアル居住地が世田谷と聞いて、菊岡が調べる前から向かわせていた。運転手は菊岡誠二郎の部下で、名までは知らないが、自衛隊員というよりはむしろ、何処かの大学にいる軽薄な研究者のように見える。金髪に染めてるし。助手席は美人看護師の安岐ナツキ。後列席に妖夢と霊夢、さらに菊岡が座っている。菊岡は妖夢と霊夢に挟まれ両手に花状態だが、幸運な割にさほど喜んではいないようだ。「研究対象」にこっぴどく叱られてしまい、少なからず精神の均衡や調子を崩している。見た目がいくら可愛い少女でも、その中身は好戦的で手の付けられない戦士たちだった。そんなくせに恋だの惚れただので動いている。
 髪の毛をアフロに焦がした菊岡が、ヒビの走った眼鏡を直して答える。
「彼女はレクトCEOの娘さんでね」
 さとりの読心通信でレクトは妖夢も知っているが、『しーいーおー』がなにか分からなかった。霊夢はむろんチンプンカンプンだ。
 頭が「?」状態の人妖ふたりに、ユイ携帯が説明する。
『レクトはSAOサーバの維持と保守を行っている会社です。開発元のアーガス社が倒産して、あとを引き継ぎました。CEOは最高経営責任者の略で、幻想郷でいえば妖怪の山の頭領、天魔さんくらい偉い人です』
「なるほど、明日奈って子は特別扱いのお姫さまだから、三佐ごときの権限じゃ融通が難しいってわけ?」
 霊夢に三佐ごときとバカにされ、菊岡の眉間に小さなしわが寄った。でも妖夢は知識として覚えていた。自衛隊の佐官は、会社でいえば部長クラス。まだ三〇代前半で三等陸佐。大企業で三〇代の部長など、誰が見ても超エリートだ。防衛省キャリアの慣例は知らないが、かなり優秀な部類ではないだろうか。
「まあ、結城彰三(ゆうきしょうぞう)氏には簡単に会えないものと考えてもらったらいい」
「だめです。無理矢理いきましょう」
 まもなくキリトと会えるから、妖夢は強気一直線。
「相手は大企業だよ」
「関係ありません。私の姿消しを使えば――」
 すうっと、妖夢の姿が掻き消えた。冷気発散のおまけつき。完全なホラー現象だった。
 ぎょっとした運転手が慌ててハンドルを直し、安岐と菊岡が本能的な恐怖から硬直する。消えて一五秒後、妖夢がまた姿を戻した。
「この通り、幽霊妖怪と憑依能力の実在を知らしめられるでしょう。菊岡さん、明日奈ご令嬢のお父君と、連絡を取っていただけませんか?」
「……アポを得るにも時間がかかる。今日は、これ以上はもう無理だ」
 菊岡誠二郎はエリート。凡人よりはるかに知能が高く要領も良いキャリア組。紫や文でも連れてこないと、口ではまず勝てない。妖夢と霊夢はともに実力行使を好む武闘派だが、人間相手だとまさにオーバーキル。暴力に訴えるにも限度があるわけで。だからといって手をこまねいて日を改められたら、立て直しの時間を与えてしまう。ここは妖怪らしく行くべきか。里の人間にしでかせば博麗の巫女が飛んでくるが、ここは日本だ。妖夢はユイの仕込みを使うことにした。
「ユイ」
『はーい。私の出番ですね~~、とっくにハッキングしちゃってますよー』
 携帯の液晶内でキーボードを打ってるユイ。いたずらっ娘の笑みで、カタカタ叩くと、菊岡のノート端末画面で勝手にソフトウェアが立ち上がった。
「なっ」
 端末をたたもうとした菊岡の手を、霊夢が押さえた。
「用意周到ね妖夢。恋をしてからあんた、ずいぶんと切れが良くなってきたじゃない」
「恋する乙女は強いんですよ」
 ユイの功績だがまたまた貰っておく。本当にこの電子の妖精は便利で優秀な子だ。剣でしか語れない妖夢の弱点――戦士ではおよばぬ領域を、きれいに補ってくれている。さしずめちいさな軍師だ。
『これはSAOに囚われてる方々のデータベースですねー。ずいぶんと詳しいですー。あれあれ? おかしいですよー? たったいま菊岡さんが使ってたソフトにはないものが、いろいろ増えてますねー。検索項目に、アバターのキャラネームなどがありますー』
 ユイがわざとらしく言ってる。そこまでやれとは指示してなかったので、妖夢も笑ってしまう。最初は素直なだけだったのに、意地悪を楽しむってやんちゃまで覚えるとは、本当に人間らしくなった。
「ユイ、アスナの名で調べてみて」
『はーい……わお! 結城明日奈さんって出ましたー』
 この時点で菊岡の有罪が確定した。
『明日奈さんの病院は埼玉県所沢市ですねー、運転手さん運転手さん、関越自動車道の方面へルート変更よろしくお願いしまーす』
「う、うッス」
 菊岡に確認を取ることもなく、反射的に人工知能へ従ってしまう金髪。さっそく車線を左へ移した。助手席でも安岐がカーナビをいじってる。ユイが詳細を指定しなかったので、便宜的な行き先は所沢市役所。新ルートが出た。まもなく高速へ乗るみたいだ。
『妖夢さん、ほかにリクエストはありますか?』
「クライン、綴りはおそらく英語」
『壺井遼太郎さん』
「キリト」
桐ヶ谷和人(きりがやかずと)さん』
 裏技で知ることができた。でも黙っておきたい。あくまでも彼氏から直接、教えて貰うべきだ。この本名は、記憶から消そう。いまは覚えない。
「――PoH(プー)、綴りはP・O・H」
『ヴァルゴ・カルザス。外国人名ですが日本在住です。注釈メモによれば二〇二二年一二月二五日、異常な血圧上昇によって脳内出血が生じ、脳外科へ緊急搬送。ナーヴギアを外せないため有効な手術ができず、治療のかいなく脳組織が部分壊死。たとえ生還しても下半身などに麻痺が残る見込みだそうです』
 快楽殺人の応報を確かめた。これでコペルに報告できる。義理は果たした。
「ユイ、生者死者に関係なく、一万人全員のデータをあなたにコピーしてください」
『イエッサーです!』
 圧倒されて言葉を失っていた菊岡が、ようやく声を絞り出す。
「きみたち、このデータベースは国家機密だぞ。なにをやってるか、分かってるんだろうね?」
 でもマイペース気味なしゃべりそのものは変わらない。演技でもなんでもなく、地のようだ。
「私たちに人権がないのをいいことに、あなたはやりすぎました。騙しておきながら、なにが機密ですか。門外不出のデータを軽々しく持ち歩くあなたも悪いんですよ――よくも無駄な手間を取らせましたね。私は最初からクラ之介さんに接触する必要すらなかったわけじゃないですか」
 このデータベースと憑依を用いれば、誰からでもSAOに飛び込めるようになる。とてつもない宝であり、武器だ。死者のデータも役に立てられるかもしれない。妖夢は冥界の住人なのだから。
 他人事のように首を振る菊岡。
「……これは、とんでもない子たちと手を結んでしまったねえ。たかが中学生男子ひとりのために、権力を相手にここまで強気に出てくるなんて。僕らの何倍か生きてるって聞いたよ? 魂魄さんは、あとのことを考えようとは思わないのかい」
 質問には答えない。いまさらだが、余計な情報は与えたくなかった。人間より力があるだけの、ただの恋する小娘だ。
「あなたの首が飛ぶようなことになってでも、レクトのCEOへ話をねじ込んでください。一刻も早く」
 もはや容赦するつもりはない。
 自身の能力や影響力を確信している奴らは、こちらの姿形(すがたかたち)から甘く見てつけあがってくる。妖夢や霊夢ですら同種の傾向があるのに、男となればなお強くなる。白玉楼へ進撃してくる命知らずがそうだし、交際当初のキリトもそうだった。妖夢が惚れてるのをいいことに、あれやこれやと茶化して遊んできた。もっとも妖夢も文句をいいつつしっかり楽しんでいた。それが恋愛というものの魔力だ。だから好きでもない男に騙されるのは、キリトと楽しんだ幼稚な()かし合いを穢されているように感じ、とても腹が立つ妖夢だった。理不尽とはわかっているが、感情が納得できない。そもそも妖怪には、正面から力をぶつけ合う真っ向勝負へ、爽快や美学を見出す風潮がある。
 菊岡や防衛省と袂を分けることになろうとも、いまはキリトだった。
 新たなスポンサー候補なら、もう見つけている。アスナの父親だ。
     *        *
『RCT所沢総合病院』
 結城明日奈の収容されている病院は、名前からしてご大層なところだった。RCTがレクトの略だと、安岐看護師に教えられる。
 霊夢がうらやましそうに病院を見上げている。
「本業が電子機器だっけ? 片手間でこんな巨大病院を経営してるなんて、とんでもない会社ね。しかも名前からしてほかにもありそうだし」
 門にはガードマンが常駐し、建物の表面は階段やテラスの部分が総ガラス張り。入院病棟は二〇階近くはありそうだ。敷地も広く、駐車場だけで大型スーパーマーケットが建てられる。クラインが収容されていた板橋区の病院とは規模が違う。
 テレビで現代日本の経済をすこしだけ見ている妖夢は、たしかめてみたいと思った。
「菊岡さん。もしかして結城家は資産家なんですか?」
 最高経営責任者にはおおまかに三種類ある。自分で築きあげたか、受け継いだか、雇われているだけか。最初であれば、レクトの規模を考えると英雄にも等しい。
「結城家――というより、結城グループというべきかな。本家は京都で二〇〇年以上つづいてる旧家だね。一族には官僚や社長がごろごろいるし、政治家へのコネクションも太いみたいだよ。結城彰三氏は、一代でレクトを巨大企業体に成長させた。グループでもっとも稼いでいる、繁栄の象徴ってところだね」
「とんでもない大金持ちね」
「妖怪もうらやむアスナのハイスペックは、これが理由だったんですね」
 人間の能力は遺伝と育ちで八割が決まるらしい。血筋は大切だが、環境も伴わないとダメだ。アスナはまさにサラブレッドだった。彼女の容姿も二〇〇年の歴史が育んだのだろう。器量好しを嫁に迎えてるうちに、アスナのような洗練された奇跡の子も生まれるようになる。
 それから高級ホテルを思わせる豪華ながら落ち着いたロビーで待たされること二〇分、ようやく係の人に呼び出された。通行パスを代表で菊岡が受ける。妖夢にやられた焦げアフロと割れメガネは待ってる間に綺麗に直していた。
 エレベーターに乗って教えられた階まで移動、さらに長い廊下を進んだ個室。そこに『結城明日奈』のネームプレートが掛かっていた。
 菊岡がパスカードを通すと、ドアが静かに開く。
「結城代表ですね。私は総務省SAO対策チームの菊岡と申します。突然の――」
「挨拶はいい。早く魂魄くんを」
 優しそうな声だったが、静かな中にうむを言わせぬ威圧感があった。これが何千何万という社員の頂点に立つ男の声か。菊岡のあとから病室へ入った妖夢は、これから強力な味方になってくれるかも知れないスポンサー候補へ、軽く会釈した。
「魂魄妖夢といいます」
「……たしかに、テレビで見たものと、まったくおなじ顔だ」
 明日奈の父親と対面した第一印象は――冴えないおじさまだった。
     *        *
 結城彰三との対話はチョロかった。
 妖夢は人間でないことを簡単に証明できた。アスナとSAOで過ごしてきた、たくさんの思い出を語ることができた。
 仕事柄たくさんの有象無象を見てきた結城氏にしてみても、妖夢のような異形は初めてだった。死後の世界の住人。すさまじい剣の達人。少女でありながらすでに七〇年近くを生きている。普通ならとても信じられない。だがこの小娘の背後には、なぜか総務省のSAO対策チームと名乗る連中が所在なさげに控えている。レクトの情報網を駆使したら、菊岡は本物だった。小娘の語る明日奈の姿は、どう控えめに取っても明日奈の行動規範と思考パターンに合致している。実際に明日奈を深く知っていないと、とても話せないエピソードの数々だった。
「……きみは、私の娘を、明日奈を救うことが出来るというのだね」
「正確には、明日奈さんの解放を早められます」
「具体的には」
 右手人差し指を立てて、結城氏へ示した。
「一ヶ月に」
「私が断った場合は?」
 手がふたつ開いた。すべての指を広げて。
「一〇ヶ月かかります」
 ソードマスターズ以外が満足に成長してからでないと、九〇層台の超ボス群とは戦えない。
「……そうなると、リハビリや学業を考えると、二年を失うことになるね」
 九ヶ月の差だが、実際にはまる一年だ。明日奈が一ヶ月後の四月中に目覚めれば、年度中にリハビリおよび受験勉強が間に合い、社会的に失う時間は一年で済む。一〇ヶ月後であればリハビリ中につぎのサクラが咲くだろう。もう一年を使わなければいけない。
「娘は最前線で攻略戦の司令官をしている。間違いないね?」
「はい。誇張抜きで九二〇〇人を導く自由の女神です」
「もし魂魄くんが憑依すると、娘は司令官をやめ、たえず敵と戦わなければいけなくなる。これまで以上に危険になると考えられるんだが、それについて総務省はどういう見解を持っている」
 菊岡がメガネの縁をあげた。
「……それはこの子の剣舞を見れば、おのずと結論が出ると思います。度肝を抜かれますよ」
 妖夢が背負っている二本の鞘を見て、結城彰三の目に懐疑の光がまたたく。妖夢には優しい目で接してくるが、菊岡には企業人としての顔を使い分けていた。
「最近の公務員は、ずいぶんと法律に甘くなったものだな」
 銃刀法のことだろう。
「その子たちに人間の作った法律は適用できませんよ。なにせご存じのとおり、人間じゃありませんから」
 妖夢の顔と、半霊が同時に頷く。その後方で浮遊しながら横になってる霊夢があくびをして、指パッチンで一升瓶を出現させた。どこぞの大吟醸辛口。
「菊岡くん。この面会、正規ルートではないね」
 すかさず菊岡が、一枚の名刺を出す。
「じつは私、こういう者でして」
 受け取った結城氏は、最初は真偽を図っているふうだった。やがて自身の中で答えを出すと、にやりと菊岡へ笑いかけた。
「なるほど。剣の一本や二本、きみたちにとってはオモチャみたいなものだな。武器を扱う専門家なら、武器でもってSAOを制しようと思っても、不思議ではない」
「私の部署も、いつもレクト社さまのお世話になっております」
「了解したよ菊岡三佐。きみが推進する研究に例の技術を使う件、一度は物別れに終わったが、再検討することにしよう。日進月歩の分野だから、どうせ類似技術で代替してしまうだろう。ならば技術が商品価値を失う前に、我が社が潤うよう努力すべきでもあるな」
「企業活動は慈善事業ではありませんからね。賞味期限の見極めも大切です」
「期限切れを思い煩う必要なんかないさ。我が社のスタッフは優秀だから、新商品がいくらでも湧いてくる。ライバルの賞味期限を強制的に期限切れへと追い込むことで、我が社はここまで大きくなったんだからね」
「河童に水練でしたね。これは軽率でした。いまの発言、忘れてください」
「例の技術がきみの部署でようやく形になったころには、悪いがすでに次世代技術ができてるよ。そちらもどうかね?」
「ご冗談を」
 お互いに挑戦的な視線を交わす。
「よほど自信があるようだね。あれを踏み台にどのようなものが飛び出すか、私も楽しみにしているよ」
 なにやら物々しいことを話してたようだが、妖夢には関係なかった。目的はひとつ。アスナに憑依できるかどうか。
 話をつけた結城CEOが、試験官の目に変えて妖夢を見据える。
「――では見せてくれたまえ。一〇ヶ月を一ヶ月に短縮し、愛娘へ貴重な一年をプレゼントしてくれる、剣の舞(つるぎのまい)を」
     *        *
『そうなんだ。父さん、妖夢ちゃんの剣舞を見て、安心したんだ』
『はい。五分ほど舞ってみましたけど、最後は年甲斐もなく子供みたいに喜んでましたよ。これで明日奈は救われるって』
 それこそ子供じみた自慢げな語気に、アスナがくすっと笑った。
『あの父さんが、そんなふうに――私、まだまだ必要とされてるんだ』
『アスナの悩みは伺い知れませんが、少なくともあのお父さんはものすご~~くいい人ですね。外に向けては戦う社長、内に向けては優しい父親。理想像そのままです。私も頭を撫でられました。いやあ、ほっこりしましたよ。子犬みたいだって言われましたけど、悪い気はしませんね。忠犬上等です』
『そういえば妖夢ちゃん、クラインさんやエギルさんによくナデナデをおねだりしてたわね。可愛がられたがり屋なんだ』
『親の記憶がありませんからね。私の両親は、剣術の才能……というよりは、霊力が絶望的に足りなくて白玉楼を去ったんですよ。物心つく前でした。お爺さま――妖忌お師匠は、厳格な人でしたから、甘えた経験とか、あまりなくて』
 アスナがひとりで木製の橋を歩いている。周辺は第二二層ののどかな大自然。
『だからキリトくんにあんなべったりしてたんだ。私は両親と一緒だったけど、勉強に追われてたから、やはりあまり甘えたことないのよね。だから……妖夢ちゃんみたいに素直になりたい』
『甘えるのって気持ちいいですよ。じつは私のご主人さま、冥界の管理をされておられる幽々子さまにも、一時期べったりしてました。亡霊なのになぜか温かい肌のぬくもりが気怠い快感というか、まあ幽々子さまからすれば私のほうが枕みたいで気持ちいいとか、そんなふうに言われてましたけど』
『その気持ちわかるわー。妖夢ちゃん、ちんまりしてて抱き心地良さそうだったもん』
『リアルの私は体温が三二度前後と低いので、人間相手にそんなことはもう出来ませんね。せいぜいナデナデくらい。それだけが残念です』
『でもバーチャルリアリティの世界ならまた話は別よね。SAO事件の影響で、このジャンルって壊滅とかしたの?』
『そういえばその辺の情報はまったく見てませんでした。SAOに戻ることしか考えてなくて――』
 BGMが変わった。ログハウス散らばるペンション村エリアに入る。このあたりのリゾート物件はマスタースパークとマイスター組が買い占めている。
『あ、まもなくマヨヒガよ。気分はどう?』
『かなり緊張してますね。クラ之介さんで肩すかしを食らいましたが、今回は確実ですし。でも心臓はあまり高鳴ってません。アスナの体にアスナの感情がついていってるからですけど、不思議な気持ちです。意識としてはアスナに重なってるわけですから。あっ』
『なに?』
『どうしてあんな店で労働クエしてたんですか? 罰ゲームと言ってましたよね』
『あー、キリトくんがね』
『キリトめ、エッチですね。切り刻みましょう』
『ちがうちがう。本当ならもっときついものでも良かったのを、あれで勘弁してくれたのよ。すでにほかの子もバイトしてるわよ。あとはにとりとシリカちゃんくらいね』
『きついものでも良かった? にとりとシリカちゃん?』
『だって私たち、ずっとキリトくんに黙ってたじゃない。キリトくんね、ほかの男性には、誰にも言ってないのよ。私たちがヒースクリフの正体に気付いていたってこと』
 やっぱり。想像通りだった。
『あれって茅場がいるらしいけど、誰かまでは不明って感じじゃありませんでした?』
『ヒースクリフったらね、あのときキリトくんに、誘導的な質問をしたのよ。教えられたのかみたいな』
『……キリトならそれで真実に気付きますね』
 マヨヒガ荘が見えてきた。攻略組の重要な方針はすべてここで決められてきた。
『もちろんよ。でも女性陣の立場が悪くなることを考えて、黙ってくれているの。事情も聞かないのよ――優しいわね、本当』
 アスナの心臓に、とくんとくんと温かい鼓動。ときめいている。しょうがないと妖夢は思った。キリト格好いいし。
『女たちが立場を守っているということは、茅場のほうも黙ってくれたんですね』
『あの人も空気を読んでくれたというか、紫さんがそのように演出したいって気配を感じて、ちゃんと受けて立ったのよ。紫さんとヒースクリフの話し合いは、舞台演劇でも見てる気分だったわ。あれこそ「黒幕」と「魔王」の対決ね。けっきょくキリトのデュエルを断ったけど。気障な言い方してたけど、あんた強すぎるから勘弁してちょ~~って、逃げたのよ。第一〇〇層の紅玉宮(こうぎょくきゅう)で待ってますだって。そのとき自分だけレベルをチートするけどごめんね~~って断ってたわ』
 アスナの口を通してコミカルになってしまってるが、かなり緊迫した流れだっただろう。
『紫さまが攻略組の真のオーナーってことはみんなにバレたわけですよね』
『対外的にはゲームオーバーになった魔理沙のあとを継いだって形を取ってるわ。だからいま紫さんって、攻略組の本隊と毎日戦場に出てるのよ』
『嘘も方便といいますけど、ささやかなプライドのため、絶世の美姫が土や埃にまみれてるわけですね』
『意外と戦闘の才能があって、レベルがどんどんあがってるわよ。魔理沙と違ってあまり指示を出さないから、前に出てみずから両手斧を振り回してるの。指揮はディアベルさんに完全委任ね』
 紫らしい。人をあごで使うくせに、駒がいなくなればとたんに自分の力を頼む。紫にとってディアベルはあくまでも魔理沙の駒だった。紫の価値観では、いまさら自分の駒にはしない。駒がいないから自分で戦う。そんなところだ。ディアベル当人はとくになにも言わずとも大丈夫な、完璧な司令官になってくれた。無理をせず安全第一だが、しかし最大効率を目指そうとする。その矛盾したふたつのバランスを高度に取ることのできる、戦略と戦術を同時に判断できるリーダーに。
『……ところで第九〇層から第九九層までの超ボス対策は、なにか考えてますか』
『そんなの、妖夢ちゃんがキリトくんと黒銀乱舞(ヘイインらんぶ)をぶちかましてたら、なんとかなるんじゃないかしら。第五〇層はあなたの暴走がなければ危なげなく勝てたし』
『その節は面目ございませんでした』
『謝らないでよ。こちらも後ろめたい考えとかしてたし』
『え?』
 アスナの胸に、ちいさな疼きが。この感情は、嫉妬? それとも誰かに済まない?
 マヨヒガ荘の扉に手をかけたアスナ。
『体がひとつだから、妖夢ちゃんは私の感情がみんな察知できちゃうんでしょう? だからその……』
「ようアスナ、罰ゲームお疲れ。珍しく歩いて移動か。もしかしてもうあんたの中に妖夢がいて、念話だっけ、頭の中で会話しながらだったのか?」
 いきなりキリトが声をかけてきた! 中じゃなく外にいたよこの少年。
 心臓がばくばくと、すごい勢いで動いている。アスナ緊張だ。妖夢みたいに緊張だ。でもなんだ、顔のほうはまっさらじゃないか。アスナは体の内部だけアツアツになって、外側はひんやりしたままだ。これが、もしかしてポーカーフェイスというヤツ!
「妖夢ちゃん、元気だったみたいよ」
「それは紫から聞いたよ。だからクラインとは会わなかったんだし。なあ、あんたの中にいるのか?」
 キリトがアスナを急かしているようだ。早く入れ替われって暗に言ってる。だいぶ改善されたけど、コミュ障の気がまだまだ残ってるキリトは、人が気分を害する行動を割合平気で取ってしまう。
 妖夢も久しぶりに生のキリトと会えて、とても嬉しい。抱きつきたい。でもアスナの許可を取っていない。
『アスナ』
『妖夢ちゃん、あなたに体のコントロール、渡すわ。思いっきりやっていいわよ』
『キスとかしても? たぶん抑えられないわよ』
『ごめんね。むしろ、嬉しい。魔理沙が妖夢ちゃんの憑依を食らったと聞いて、たぶん最終目標は私だろうってすぐ気付いて……意外なほど、楽しみにしてた』
「おいアスナ、なにか言ってくれ」
 黙ったままのアスナに、キリトがすこし苛つきはじめている。
『アスナ、あなた……キリトが好きなのね』
 急に。
 抑えていた外側の熱が、内側とおなじになった。びっくりしたアスナの全身がびくんと震え、精神が乱されているさまを妖夢も感じた。体が火照ってくる。体の力が抜け、ドアに体を寄せてしまう。
「大丈夫かアスナ! 熱か? 体調が悪いのか?」
 キリトがとっさにアスナの体を支えようとする。その手が触れたとたん、さらに全身に走るもの。
 喜びだった。アスナ自身の身体が、キリトとの接触を心の底より悦んでいる。
「な、なによこれ?」
「アスナ? ほらっ、立てられるか」
 一転して優しい言葉をかけてくるキリト。弱い部分をみればすぐ動き、フォローしてくれる。そんな今時の男の子だ。
『ねえ妖夢ちゃん、こんなこと、私はじめてなんだけど。怖いわ……』
『大丈夫よ、うん大丈夫だから。私なんかいつもだったわよ。ごめんなさいねアスナ。あなたずっと我慢してたのね。私のせいで』
「謝らないでよ妖夢ちゃん! 私はあなたが消えて、安心したくらいなんだから。汚い自分がいやになって。でもキリトくんをソロに戻したらいけないし」
 念話を忘れ、つい口に出たアスナだ。
「アスナ、やはり中に妖夢がいるんだね……」
 キリトがアスナから二歩ほど離れた。頭の中の話し合いにけりがつくまで、待ってくれる気になったようだ。
『……もう我慢しなくていいのよアスナ。私ね、キリトとずっと一緒にいたいけど、無理なんだ。だからいつか、誰かにキリトを託さないといけないの』
『ど、どういうこと?』
 アスナの感情が、期待と戸惑いと、さらに自己嫌悪が混ざったどろどろなものになった。
『私ね、キリトの子を産めないのよ』
『産めない? 妖怪と人間は子を作れるって聞いたわよ。魔理沙のいい人が半妖じゃない』
『恥ずかしいけど、ちまちましすぎて、まだ来てないの』
『来てない? ――ああ、そういうことね。でもあるていど成長してからは、二五年で一歳換算よね。いま一四歳相当だから、まだ生理が来てなくても、キリトくんが元気なうちに子を作れるようになるんじゃないの?』
『冥界の栄養事情は、明治時代水準なのよ……半人半霊の年経――人間の月経ね。その初潮が来るのは、人間でいえば一五から一七歳相当くらい。私が子を宿せるようになるには、まだ五〇年前後はかかるの。しかもそれだけじゃない』
 言うべきか迷ったが、つづけた。
『私の成長は今後、鈍化していくと思う。いいえ、すでに遅れてる。霊力の強い人間は妖怪化というか、良い言い方をすれば仙人に近づくから、器の本質が肉体から霊魂へ移って、そのぶん肉体が刻の束縛から離れていくのよ。半人半霊は最初から霊力を半霊という形で所有してるから、人間よりずっと寿命が長いのね。でもさらにそれが伸びる』
『それって――』
『下手をすれば私は、死ぬまで子を作れない可能性も高いわ。それどころか完全に止まって、半人半霊の仙女になってまうかも。半人の仙人も少ないけどいるのよ』
 アスナの心が、すこしずつ鎮まってきた。
『……妖夢ちゃん。あなた、SAOが終わったらキリトくんと別れる気ね』
 アスナの家はすごい金持ちだ。妖夢はアスナの父に気に入られた。その妖夢が後押しすれば、きっとキリトも結城家に受け入れられ、幸せになれるだろう。
『私ね。あなたになら、キリトを託せる。任せられる』
『イヤよ! 断るわ!』
 強烈な自負心の波動が妖夢を襲う。なにしろ心と魂を重ねているのだから、ただの人間であっても妖怪と接したときのようなひどい感情の圧力を受けてしまう。
『悲劇のヒロインを気取らないで! 妖夢ちゃんには嫉妬という感情がないの? 私はあなたにそれはもう、何度も何度も嫉妬してきたわ。どれほどのドス黒い悪口を投げかけたか分かる? そんな腹黒い女が、あなたとキリトくんの再会のキスだけで満足して身を引こうとしてるのよ。私にもプライドがあるわ』
『……自尊心を傷つけてしまったのね、ごめんなさい』
『妖夢ちゃん、すでに四〇年はお務めをしてるそうね。我慢や抑制ばかりしてたみたいだけど、恋の方面でこれまで破り放題。なのにこんな大事なところで、お務めの自分に従わないでよ』
『我慢?』
『ええそうよ! くそっ! もう――独占しようとか作戦とか、もう常識とか、なにもかも糞食らえよ』
 アスナの感情が渦巻いている。女と女の勝負みたいなものが起きるのだろうか。勝負事となれば、妖夢は条件反射で冷静になれる。透徹した閑かさで、妖夢は言った。
『女の子があまり、はしたない言葉を使ってはいけませんよ』
『妖夢ちゃん! あなたは冥界とかバーチャル世界での嫁! 私は人間界での嫁よ!』
『――え?』
『これは今後、私やキリトくんが生きている間、ずっとつづく協定よ! いい、一生涯つづく、重い決断よ。それを今ここで行うの。キリトくんは……別にいいや。私たちだけで話すわよ。わかった?』
 秀才娘の心がとてもホットだ。提案とか協定とか契約とか、頭脳面ではとてもアスナには敵わないし、いまはユイのサポートもない。受けたものかどうか。
『アスナ、あなたもしかして、かなり妥協しようとしていませんか?』
『妥協も妥協、法律とか感情も、むちゃくちゃ無視してるわよ! 妖夢ちゃんが身を引くとか言い出さなかったら、とても私もこんな馬鹿な提案、しようとも思わなかったわ。あなたね、いい子すぎるのよ! あまりにも良い子で、私がみじめになって来るわ。だから癪だけど、私もいい子になるのよ。そうしないと私が可哀想じゃない。あなたの土俵で戦ってあげないと、私が一方的にリードして、大勝して、キリトくんを独り占めして――』
 さっきと違う。
『独り占め?』
『ええそうよ。あなたに体を任せた勢いでキスをゲットで満足して身を引くなんて、大嘘よ。あなたがキリトくんとキスするたび、見た目は私よね。これを何十回ともなく繰り返したらどうなるかしら? キリトくんはまだ一四歳よ。しかもあなたは冥界にいるから、SAO解放後も簡単には日本へ来られない。だから私からSAO後もどんどん会って、そうこうして気付かないうちに、キリトくんは私のほうを好きになる。だって私、あなたより美人だし、胸もあるし、いくらでも可愛く演技できるんだもん……そんな陰謀だったのよ!』
『身も蓋もないですね。それバッサリ効果あるわー。キリトってスケベだし、私ぜったいに負けてたわー』
 妖夢も思わず、突っ込んでた。
『どうよ? 私って悪い女でしょ』
『いいえ、しょせん悪女になりきれない、私と同類のお人好しですよ。私を過大評価してますし。私はアスナさんがフロントランナーに指名されたとき、けっこう嫉妬したんですよ。あなたの役割が、私が消えてもキリトをソロに戻さないためだって魔理沙から聞かされて』
『……え、あなたが私に、キリトくん関係で嫉妬してた?』
『私は人間の外見をも欲しました。その理想がアスナ、あなたです。もうね、たぶん五〇回くらいはいろんなことでアスナ妬ましいって思ったかしら』
『五〇回! ちょっとそれって、多すぎやしない? 待ってよそれ。私とおなじくらい邪魔だとか思ってたってこと?』
 とたんにおかしくなった。これはもう、笑うしかない。
『あはははは! お互いさま!』
「……ぷっ」
 アスナが声に出して腹を抱える。
「ん? 解決したのか?」
 近づいてきたキリトを、手で制する。
「待って、もうちょっとで終わるから」
『アスナ。ここは私の大切な友人、河城にとりの口癖を借ります』
『盟友っでしょ?』
『あー、アスナひどーい』
『だって私は意地が悪いのよ。いちいち前置きしたあなたが抜けてるんだから』
『あははっ、あなたには簡単には勝てそうにありません』
『でも私がおばあちゃんになっても、あなたはずっと若くて綺麗なままじゃない。ずるいわ』
『そのかわり、アスナは普段ずっとキリトと一緒に暮らしてて、子供まで作って、孫の顔も見るわけですね』
『なーに気楽なこと言ってるの。どうせあなたのことだから、私とキリトくんの子孫を勝手に好きになって、誘惑してお婿さんにしちゃうんじゃないのー?』
『それよりもアスナ。すでにアスナがキリトのハートを射たって前提になっていますが、キリトはどう見ても私を好きなんですが』
『反撃してきたわね。じゃあ見ていなさい』
 急にアスナが目を潤ませ、両拳を胸元に抱いて、キリトのほうを向いた。
「……キリト、私よ、妖夢です」
『あっ、アスナずるい!』
 だがキリトは、眉をひそめて、たしなめるように。
「なにふざけてんだアスナ」
「え! 通用しない!」
「俺のこと好きなのは分かるけど、俺は妖夢が好きなんだよ。そりゃ体を乗っ取られるのはあまりいい気分じゃないだろうけど」
「知ってたのー! 鈍感なくせに!」
『あはははは! アスナ、自爆、自爆!』
「あんたと何ヶ月いると思うんだよ。妖夢がいなくなったとたん、妙な色目とか使ってただろう? こう見えて多感な妖夢のおかげで女の機微に慣れてきてたしな、いくらなんでも分かるって」
『さいこうー! 腹いたい! アスナおもしろすぎー!』
 ログハウスの羽目板へ手を突き、どんよりアスナ。
「……ど、どうしよう。なにもかも終わりだわ」
『待ってアスナ! 日本の嫁は、やはり必要なんです! それはあなたにしか任せたくありません』
「妖夢ちゃん」
『けっきょくほかにあまり選択肢はないんですよ。冥界の仕事がある私は、日本に長期滞在できません。暮らす世界を捨てるには、私の役職と立場は重すぎます。後継を育てるといっても、どう考えても私の息子か娘でしょう? または親族で才能のある子を養子にするとか。だいいち私はまだすべての奥義技を修得してません。みんな片が付くなんて、何百年後? おなじくキリトも日本で実現したい夢や目標があるでしょう。そもそも白玉楼に生きた人間など住まわせたら、たぶん半人半霊の里々から抗議が来ます。それだけ冥界にとって、特別で大切な聖地なんですよ。幻想郷にしても隠れ里の性格を持ってますので、まだ若いキリトには合いませんし、私も望みません。キリトは日本でこそ自由に羽ばたくべきです。だから遠距離恋愛に終始するしかないんです。あとはSAOみたいなVRゲームで会うくらい』
「うん」
『あと法律面ですね。日本が私たち妖怪の権利を認めなかった場合、法律的な結婚ができません。キリトがほかの女の子になびかないようにするため、私の息がかかって、かつほかの女の介入を許さないような、極上の本妻が必要なわけです』
 にわかにアスナが興奮した。
「本妻! まだ好かれてもないのに本妻!」
『というわけでアスナさん、あなたはさっさとキリトに精神的にはもちろん、性的な方面でも好かれてくださいね。私も精一杯フォローしますから』
「はい?」
『だって私、あそこが未成熟ですから、子を成す以前に決定的にアレな行為そのものが不可能なんですよ。エッチが。アスナに憑依したり、バーチャルでまあ楽しみ方はいろいろで』
「あなた精神年齢は私より幼いくせに、第三者に聞こえないとなると赤裸々ね! そういうことはまだ二年か三年は経ってから考えることでしょ? ――まちがえた、うっかり人間のスケールで」
『こう見えて六八年ほど生きてますからね。耳年増ですよ』
「おばーちゃん?」
『斬りますよ』
「冗談よ! 冗談!」
『それではアスナ、契約成立ということで、いいですね? キリトかアスナが死ぬまで有効です』
「死ぬまでとか、にとりさんがクラインさんとやったアレね。生涯ってのが、思えばすごい重いわね……大丈夫かしら。でも! 成立もなにも、私のほうから提案したのよ。断るわけないでしょ」
『ところでアスナ。さきほどからずっと声に出してますが……』
「はい?」
 見上げたアスナの目前に、興味津々で聞き耳を立ててるキリト。
「よく分からんけど、女と女で、またなにやら妙なことを企んでるようだな」
「キリトくん!」
『アスナ、体を借りますよ――』
「え? ……あうぅ」
 がくんっと、首を垂らすアスナ。体勢は衝撃を受けた膝カックン状態のままだったが、ゆっくり立ち上がると、軽くジャンプする。
「さすがアスナですね。良い体に仕上げています。これなら私が連撃を出すのも楽でしょう」
『うわあっ! これが乗っ取られている感覚なの!』
 アスナの声がすこし興奮状態だが、アスナの心臓は静かな鼓動だ。落ち着いた妖夢のもの。いまアスナの仮想現実アバターは、妖夢がコントロールを握っている。
 体を適当にチェックしていると、右手に見覚えのある指輪が。
「黄金林檎の指輪、まだ使ってくれていましたか。八〇層を超えても通用するんですね。さすが超レア」
『その指輪は妖夢ちゃんとの絆なんだもの。簡単には外せないわ』
「……入れ替わったのか?」
「キリト、お久しぶりです」
 まずはきれいに頭を下げる。たとえ彼氏であってもだ。
「今度はちゃんと妖夢だな。見た目はアスナなのに、妖夢だってわかる。不思議だ」
「落ち着いてますね。さすがです」
「いや、最初は結構、興奮してたんだけど。クラインで一度空振りしてしまったし、紫さんからも言いつかってたしな。おまけにアスナが長々ときみと話をしてたから――おかえり」
 大好きな微笑みを、向けてくれた。たとえ外見がアスナだとしても、きちんと中身を見てくれる。
「ああっ。だから私は、たまらなくキリト、あなたが好きなんですよ」
「経過を省いていきなり結論を言うとか、変わってないな。まちがいなく魂魄妖夢だ」
 ふつふつと体に溜まるエネルギー。行けよと、本能が押してくれた。
「ただいまっ」
 ジャンプして、久しぶりの彼氏へとダイブだ。頭の中でアスナが『きゃー! やったー!』とか騒いでいる。
 受け止めてくれたキリトが、アスナの髪の毛を優しく抱いた。アスナとしてではなく、妖夢として扱ってくれている。
「ねえキリト。私いま、とってもキスがしたい」
「アスナに悪い。我慢してくれ」
「大丈夫よ。アスナはキリトのことがただ好きなだけじゃないから。死んだら終わる戦いをずっと一緒にしてきたから、幼い初恋じゃとっくになくなってるのよ」
『なんで私のが初恋ってわかったのー!』
 キリトと額をこっつんこした。さほど変わらぬアスナの背丈だから可能なことだ。くすくす笑う。
「……ん? どうしたんだい」
「ねえキリト。現実に帰ってからのこと、考えてる?」
「あまり。考えたくないというか、せいぜいが妹や家族とどうやって仲直りするとか、そんなことを」
「そういうところは男の子ね。私ね、盟友アスナと協定を結んだわ。キリトは私とアスナ、ふたりの女の子を、同時に愛してください」
「え? なんだよそれ! そんな不実なこと、出来るわけないだろ」
「大好きよ」
 有無を言わせず、サード・キスへ突入した。同時にそれは、親友との生涯に渡る長き契約が成立した瞬間でもあり、その友人のファースト・キスともなった。一度キスを交わすと、キリトも倫理とか義理とかどうでも良くなったようで接吻を繰り返す。五秒ほどのキスを四回連続したところで、ふいに憑依を弱める妖夢。
『アスナ……体の自由を返すわ。思いっきり楽しんでくださいね』
『え? ちょっと待って~~。嬉しいけど、心の準備がー!』
 五回目で足腰がふらつき、六回目で意識を手放した。
     *        *
「……同時に愛してねぇ」
 八雲紫の前に、妖夢inアスナとキリトが並んでいる。ほかにはソードマスターの射命丸文と犬走椛、河城にとり、古明地さとり。以上の七人だ。アスナは気絶したままなので、妖夢が体を動かしている。物部布都はいない。よほどの大事でないと呼ばれないようだ。
「キリト、あなたは妖夢の絵空事がうまくいくと思う? 中学生の考えた愛の理想論よ」
「……分からない。でもたしかに、妖夢とアスナの案には一理あると思う。俺は冥界に住みたくないし、幻想郷に俺が求めるものがあるとも限らない。俺はあくまでも二一世紀の日本に生きる、一人の中学生だ。明治時代で止まっている世界に馴染めるかどうか、分からない」
「妖夢とアスナはとっくに覚悟完了して、結婚レベルで物事を考えてるわよ。キリト、あなたは将来に渡ってまで、いまの恋を維持できると思っている?」
 キリトと腕を組んで、るんるん気分で妖夢が言った。
「ちなみに私はまだ四~五年は無条件でキリトを好きなままで居続けますよ。それが半人半霊の種族的な特性です」
 彼氏が断るとか、まったく微塵にも思っていない。全幅の信頼を寄せられて、キリトも苦笑いを返した。
「ストーカーにでもなられたら困るな。大丈夫だ安心しろ。妖夢を好きでなくなるとかって想像できないし、俺の誇りが許さないと思う」
 クラインがいたら突っ込むだろう。努力して好きで居続けるのかよって。でもこれがキリトだ。
「文、あなたはどう思う? この中で恋愛経験がもっとも豊富なのは、あなたよね」
「そうですね――」
 新聞ネタにするつもりはないようで、メモは取っていない。
「妖夢さんは問題ありません。彼女の恋は一途で、好悪感情の固定も年単位。ですから、問題が起こりえるとすれば、それはキリトさんかアスナさんの側になります」
「どういうことだよ」
「まあとりあえずは計画を実行してみないと分からないでしょうね。不断の努力が必要ですよ。裏切らないことがどれだけ大変か」
 文がすこし遠くを見ている様子だった。妖夢が聞いてみる。
「……なにかあったの?」
「私がかつて報道しないことで罰を与えると言った、某夫婦がですね、あれほど深い無償の愛だと思ってたのに、簡単に別れましてねえ。びっくりするほど早かったですねぇ」
 グリムロックとグリセルダのことだ。
「どちらが愛想を尽かしたんだ……って、グリセルダさんのほうだよな、文」
「はいそうです。妖夢さん、茅場晶彦がこの世界からいなくなったことで、カーディナルがついにプレイヤーキルを廃止したことはご存じですか?」
「いいえ、初耳です」
「五日前にアップデートがあって、なにがあってもPKが不可能になりました。直接はもちろん間接も。MPKはHP保護で救済転移、外縁部から突き落としても転移で戻ってきます。なにをしてもプレイヤーがほかのプレイヤーを殺せなくなったんです。そして三日前、攻略組へ久しぶりにグリセルダさんが復帰しました。聖竜連合に所属して、今日は四〇層で戦ってますよ。ずっとソロでやってたみたいで、ブランクがあった割に高レベルです」
「どうしてPKが不可能になったとたん、グリセルダさんがグリムロックさんを捨てたんですか?」
「グリムロックさんが誰かに殺される危険がなくなったからです。グリセルダさんがレベルをあげてた理由のひとつが、どうも闇討ちを警戒してたからのようですね。愛情はとっくになくなってたけど、せめてSAOにいる間は命くらいなら守ってあげる、そういったところでしょうか」
 キリトがくらくら。理解不能のようだ。妖夢もすこし想像がおよばない。おかしな夫婦だ。
「……グリムロックさんは、それほど人から恨まれることを、あちこちでやってたんですか」
「私も詳しくは知りませんけど、なにしろあの恥知らずは自己正当の権化ですからね。グリムロックさんは恨まれてた連中に捕まって、いろいろされてるみたいです。いやあ人間って恐ろしいですね。暇な連中がオレンジに落ちずに痛めつける方法を開発してるようで、PK不能と知ったとたん、嬉々として利用してます。くわばらくわばら」
「グリセルダさんは、現実に戻ったらさっさと離婚するんでしょうか」
「さあわかりません。グリムロックさんはおそらく心の傷を抱えるでしょうから、私が保護してあげようとか言って、逆にまとわりつくかも知れませんね。まあいまは復讐を楽しんでるところでしょう。放置しておけば勝手に虐められるんですから」
 怖い話だった。
 キリトが力強く、頷く。
「妖夢、俺は正義の味方でいつづけるぞ。だから安心してくれ」
「クラ之介さんがいたら、おかしな理由でそんな決心すんなって突っ込まれますよ」
「妖夢さんがリアルで鬼のように強いですから、もしキリトさんやアスナさんが裏切ればどんな凄いことになるか、その一例を示したわけです。恐怖で縛るわけですが、これも妖怪流の愛の形ということで、ご容赦願います」
『……こわいわー。私、絶対にキリトくんしか愛さない!』
「あ、アスナ。気がついてましたか」
『キリトくん愛してるキリトくん愛してるキリトくん愛してる……』
「アスナはなんて言ってる?」
「キリトくん愛してるって念仏のように繰り返してます」
「変なやつだな。じゃあ俺も努力するよ。妖夢とアスナを同時に好きになる。それでいいだろ?」
 心が籠もってない。あんなにキスしたくせに。もっとアスナ自身に精進してもらおう。
「そんな投げやりでは、アスナの父君には通用しませんよ? いざというときは無償で命をかけるていどには、好きになってあげてください」
「……そんなことでいいのかよ、妖夢」
「そういえば私、あることをまだ言ったことがないですね」
「なんだ?」
 にとりがクラインへやったように、ウインク。
「キリト、魂魄妖夢もあなたを――『愛してます』よ。でもあなたは私たちを愛して下さいね」
 アスナの豊かな胸を思いっきり押しつけながら、彼氏の頬へと、おもむろにキスをする。
「…………うっ」
 黒の剣士の胸元へ、赤い筋が垂れ下がった。やはりアスナの肉体にはしっかり反応するようである。
『アスナ、エロキリトはあなたの体に興味がおありのようよ』
『……すくなくとも鼻血を出してくれるほどには、体のほうは好きってことね。あとは心! がんばるわ! 見てなさいキリトくん』
 紫が扇子でキリトと妖夢を扇いだ。
「とりあえずあなたたちは、おもしろおかしくリアル充実してなさい。問題はにとりのほうよ。あなた、気紛れでクラインと付き合うみたいだけど、このゲームが終わったら大丈夫なの? かなりの長距離恋愛になるわよ」
「ん? 幻想郷が開かれたら、私はさっさと日本へ移住してクラインとこで暮らすから大丈夫さっ。大学に行きたいんだ」
 堂々の同棲宣言に一同がどよめく。
「にとり、あなたあの野武士風情に体を許すつもり? クラインはああ見えて、キリトに輪を掛けて性欲の塊よ。きっと一日五回とか求められるわよ」
 落ち込んだキリトが座り込んで、床に「の」を描いた。
「……俺って」
「婚前で襲ってきたら撃退するから平気だよ。運悪く殺しちゃったら幻想郷へ逃げ戻ったらいいだけだし」
 クラインが聞いたら絶望しそうな、ぶっちゃけぶりだった。認めるまでキスやハグしか許さないということだ。
「まったくあなたは困った子ね。まあそれでクラインがかりそめでも幸せなら別にいいでしょう――それでは次の……」
 唐突にそれは起きた。
「……なっ?」
 紫を構成するアバターが不自然なポリゴン塊に一瞬覆われ、硬直したのだ。まるで死亡して弾ける寸前のように。
 姿がまた戻るが、八雲紫の眼前に小さなウィンドウが開く。システムの警告だった。
「藍! やってくれるわね! 私はまだこの世界で、戦い足りないのに!」
「なにが起きてるんですか紫さん!」
「椛、藍のやつが私のナーヴギアを強制解除しようとしてるのよ……くっ。文! 私の後継は最年長となるあなたに任せるわ!」
「え~~、私は裏方が気楽なのにー」
「子供みたいなこと言わない。こんな非常事態でなに楽しようとしてるのよ! 実力者のくせに、いつも好んで人の下につく。鼻持ちならない性格ね。たまには自分がトップに立ちなさい。たかだか五~六人の長じゃない――……!」
 ぱりんと、ガラスが砕け散るような音とともに、八雲紫はあっけなくSAOより退場した。青い輝きが薄暗い室内を染め上げ、あまりのことに全員が動けずにいる。
 場の時間を再始動させるように、ちいさな手が挙げられる。紫色の髪と、いつも眠たそうな半目が特徴の少女、古明地さとりだ。
「――緊急の読心通信よ。茅場晶彦が幻想入りしたわ」


※知性生物の霊魂は大部分が脳に集中している
 SAOにおける魂の解釈と設定に準拠。
※RCT所沢総合病院
 アニメ版より。

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