「おねむから覚めた挨拶じゃなかったの? どうしてそんな気色悪いこと、私が協力しなきゃいけないのよ!」
きつい返答と同時に、ばたんと締められた玄関の引き戸。立て付けが悪くて、ギイギイ嫌な不協和音を鳴らしていた。中から鍵が掛けられる。
「……どうしましょう、いきなり躓きました」
相方へ助けを求める半人半霊の額には、退魔のお札まで貼られている。このボロ屋の家主にやられたものだ。
「おまえはストレートすぎるんだよ。私に任せろ」
妖夢とバトンタッチしたのは、黒白の魔法使い。箒の先でトントンと戸を叩く。
「おーい霊夢~~、米は足りてるかー?」
二秒後、どどどどどっと、廊下を走る足音。ついで漫画みたいな急ブレーキ音。戸は開けてくれない。
「おおお、お米がどうしたって!」
妖夢に「食いついたぜ」と小声でささやく、得意顔の魔理沙。
「ちょうど私の家に、冬ごもりのがたんまり残ってるんだよなー。なにせ四ヶ月も寝てたからなあ? 余って場所を取って、ちょっと邪魔なんだぜ。どうしようかねこれ」
大急ぎで鍵が解除される音。引き戸がたったいま閉じられた数倍の速度で猛烈に開かれた。元気あまって外れてしまう。
「……し、仕方ないわねえ! 貰ってあげるわよ」
口からよだれを垂らしながら、貧相な村娘の格好をした博麗霊夢が言った。
* *
「――へえ、それで憑依の練習をしたいってわけね」
客間……らしきもの、へ案内され、詳しい話をしている。
引退後の霊夢は人間の里に戻り、郊外にあった空き家をただで借りて暮らしている。一〇年あまり放置されていたものを半年ほどかけて修理したのだが、築一〇〇年以上経過しており、あちこちガタが来ている。ちゃんとした大工でもないと綺麗に直せないが、現役の時分から貧乏神に憑かれてたような霊夢にそんな金があるわけもなく、素人工事と応急修理で、雨風をしのげるていどの状態に戻したあたりが限度だった。
妖夢がちらりと観察した範囲でも、生活の苦しさがにじみ出ている。世話役が誰かまでは知らないが、あてがわれたのは家までで、あとは放置のようだ。田畑を耕している様子はなく、現金収入は内職に頼ってるようだった。魔除け札や作りかけのお守りが、いくつかの段ボール箱に分けられて、部屋の隅に置かれている。正しい様式で作られた霊験あらたかなものではなく、金糸や銀糸を使った一般受けしやすい見た目重視のものだ。書かれている文字も平易で、読みやすい。こういうものは気休めにすぎないが、妖夢の半霊レーダーに反応がある。霊夢の手製ゆえどれにも霊力が注入されているのだ。弱い妖怪や妖精風情であれば、歴代最強巫女の気を感じただけで逃げだすだろう。
問題は箱に書かれている納入先だ。古巣の博麗神社ではなく、信仰上のライバルだった守矢神社や命蓮寺になっている。もっとも人里から遠すぎる博麗神社には、お守り売り場――授与所の類は最初から存在しない。たまにあるお祭りで屋台として臨時開店するていどだし、そのイベントすら多くが霊夢自身の企画というありさまだった。名目上のライバルというだけで、最初から勝負にさえなっていない。守矢神社も人間が訪れにくいところにあるが、こちらは妖怪たちの信仰を集めており、普通に運営できている。博麗神社のおもな役割は大結界の維持管理と悪さをした妖怪の調伏なので、信仰の対象である必然はないのだ。
むろん寂れた神社のダメージはそのまま博麗の巫女に降りかかってくる。貧乏、という形で。多くの巫女は持ち前の機転でなんとかしてきた。実家や先輩に頼ったり、里へ加持祈祷の出張サービスをしたり。博麗の巫女という立場を使えば、なんとかなるものだ。ところが霊夢はなにもしなかった。現役時代ずっと、馬鹿正直にほとんど寄進とお賽銭だけで暮らしてたのだ。さらに商才もないくせに神社そのものを盛り上げようとした。人里にいけば簡単であったのに、わざわざ貧乏を背負い込むようなことばかりしていたのだ。ついたあだ名のひとつに『貧乏巫女』がある。
その貧乏性が、まさかお役目を引退したあともずっと疫病神のように憑いて回ってたとは、妖夢も知らなかった。引退後の霊夢とはたまに会っていたが、家にまで来たのは初めてである。霊夢もそう簡単に弱音は吐かないし、いまも悲壮感のかけらも見せない。
引退した博麗の巫女といえば特上のお嫁さんだから、里でもいい家に嫁入りし、ぜいたくな暮らしが約束されてるはずなのだが……霊夢の場合、魔理沙といい勝負の強気な性格と、現役時代にやらかした数々の逸話があって、よほど豪の者でも尻込みしてしまうのであった。見た目こそ二〇歳ほどと若々しく、かつかなりの美貌であるが、霊夢の実年齢もまたネックになっている。巫女を平均の倍となる一八年も務めた結果、引退した時点で二九歳だった。それから三年――三〇すぎといえば、幻想郷の価値観では結婚適齢期を大きく過ぎている。テレビとネットで外界の情報が入ってきてはいても、そう簡単に長年の慣習が変化するわけではない。
歴代最強と謳われた巫女が住む家にしては、質素であばら屋にすぎる。すきま風が身に寒いようで、魔理沙と霊夢の体がときおり震えている。幻想郷よりも寒冷な冥界に暮らす妖夢は慣れたもので、背筋をぴんと伸ばした正座の体勢で、みずからのいきさつを話した。ついでに魔理沙も。にわかに外界への興味が出てきた魔理沙は、妖夢に共感してSAO復帰計画へ全面協力してくれることになったのだ。
「恋とか愛の力ってすごいわねえ。でもさ、憑依をうまく覚えたからといって、肝心の相手がいないとダメよね。だって人間にしか憑依できないなら、対象が眠ってるのは顕界――だだっ広い日本のどこかなんでしょ? 大丈夫なの?」
霊夢の疑問はもっともだ。
『ご心配ありません霊夢さん。私がすでに計画を立てています』
半霊より下げられた携帯の液晶画面で、ユイが胸を張っている。
「小生意気そうな式神ね。言ってみなさい」
『妖夢さんが覚えていたリアルネームで調べてみたところ、その人が見つかったんです』
データが表示される。ずいぶんと細かい。写真は茶髪のすらっとしたお兄さんだ。
『この方は名を壺井遼太郎さんといいます。SAOではクラインのキャラネームでログインしていて、妖夢さんが本命とする人と、簡単に接触できる立場にあります』
壺井遼太郎の住所から経歴、年齢や身長、務めている商社に、これまでのゲーム歴、いま入院してる病院や健康状態まで、これでもかと仔細に渡って調べ上げている。すべてユイのお手柄だ。
もとは秋葉原でSAOパッケージ売りの列に並んだときまで遡る。そのときクラインのダチたち、風林火山のメンバーが「ツボイさん」「リョウタロウ」と呼んでいた。妖夢がクラインの本名をずっと覚えていたのは、お世辞抜きで「可愛い」と言ってくれた最初の人間だったからだ。妖怪にいくら可愛いとか言われても、人妖の女はほとんど全員が美人なので、さほど感動もない。幻想郷の人間は妖夢の正体を知っており、お世辞としか感じられない。だから容姿に自信を持てるようになった壺井遼太郎との一件は、妖夢にとってターニング・ポイントだった。東京では無自覚ゆえ失敗もしたが、SAOだと自分が可愛いと思われていることを前提として、当初から正しい行動ができていた。とても忘れようがない。
「ふーん。まずこの壺井さんに憑依して、本命の人から名前を聞き出し、こんどはその本命に憑依して復帰が完了というわけね?」
数々の異変を直感の任せるまま解決してきただけに、霊夢は飲み込みが早い。一を聞いて十を知るとまでは行かないが、三くらいは理解する。のこりの七は勘だ。
妖夢が頷いた。
「問題はただ憑依するだけではダメってことです。意識を乗っ取ってしまっては、憑依主と情報の交換ができません。また体の自由を残したり、逆に奪ったりのコントロールもできないといけませんし、さらに大事なのが、相手を傷つけないこと。つまり霊障を起こさないことです。これらを覚えないことには、とても復帰なんて考えられません」
霊夢は幻想郷でも最大級の霊力を持つぶん、悪寒や金縛りといった霊障にも高い耐性があるはずだった。
「優しいわね妖夢、じつにあんたらしいわ――わかった! 稀少な人間の友達として、練習台になってあげる。お米も食べられるし!」
「あ、ありがとうございます!」
* *
「――で、なんで出来ないわけ?」
「みょーん……どうしてでしょうね。魔理沙のときはもっとすんなり入り込めたんですけど」
練習をはじめてから三〇分が経過していた。布団で横になった霊夢に、妖夢が何度も半霊を重ねているが、うまく浸透できない。ユイの携帯は魔理沙が持っている。
「なあ霊夢、悪寒みたいなものは感じるか?」
「いいえ、なにも。くすぐったいだけね。この半霊って、よく見たらけっこう可愛いわよね。枕みたい」
魔理沙の質問に、霊夢は気楽なふうだ。
「……うむむむ。私よりも上のステージにいるのか。これはもしや、もしかしてだぜ」
「なによ気味が悪いわね。教えなさいよ」
「私も気になります。このままでは、練習にすらなりません」
すこし悩んだ魔理沙だが、意を決したように口をひらいた。
「霊夢、おまえ、たぶん仙人になってるぞ」
「…………はぁ? なにそれ」
想像外の単語に、霊夢が布団から起きた。妖夢も半霊を離す。
「いやだから仙人。しかもかなり高位のやつ。ほかに思いつかん」
「それって特別な修験とかして、俗世のいろんなものを捨てて、やっとなれるものじゃない。神子と布都は一度死んでようやく昇仙できたほどだし、復活に失敗した屠自古は亡霊になったわ。力のありそうな青娥ですら正式な仙人じゃないし、正体が純粋妖怪っぽい華扇にしても、仙でいるのは大変みたいよ。どうして適当に巫女してただけの私が、仙人なんかになれるのよ」
「だっておまえ、天才だろ。巫女修行する前から自力で飛んでたしな。霊力なしで重力コントロール、ふーわふわ」
妖夢も思い返してみる。博麗霊夢は空を飛ぶていどの能力をもつとされている。でもあくまでも最初に発現した力というだけであって、長じて霊夢が獲得した能力は多岐に渡っている。あまりにも多芸多才なので、かえってその特殊性が論じられることはなかった。ただ単純に『天才』と評されるだけである。
天才と言われると機嫌を損ねる霊夢だが、今回は別のことに気を取られているようだった。
「仙人ねえ……もし本当だったら、結婚の重圧から解放されるわね! やったじゃない! ――おまけで不老長寿になってみるのも面白そう。でも私が仙人かどうか、どうやったら確かめられるわけ?」
結婚を考えなくて済むのが、不老になれることより嬉しいのかよ! 妖夢、心の中で激しく突っ込んだ。霊夢は紫から『次代へ血を残しなさい!』と厳命されている。歴代最強のDNAが老いと死によって失われるのが惜しいからだが、当人が妖怪変化の仲間入りを果たすのであれば別だ。
魔理沙も似たような感想を持ったのか、苦笑いしながら霊夢の肩を軽く叩いている。
「酒は酒屋に茶は茶屋に、仏の沙汰は僧が知る。本物に見て貰うのが一番だろ。とりあえず華扇のとこでも行ってみたらどうだ? 神子の仙格はたぶんおまえより低いし、青娥娘々は邪仙でタチが悪い」
「……そうしてみるわ。すまないわね妖夢、あんたの役に立てそうになくて」
まったく悪びれた様子はない。さっぱりしまくってるのが霊夢という存在だ。この女に裏表はなく、天衣無縫、あるがままだった。
「いえいえとんでもない。霊夢と今後も一〇〇年単位でのお付き合いが出来そうだと分かっただけでも、私は嬉しいです」
一〇〇〇年以上の寿命を約束されている妖夢にとって、これは失意以上におおきな収穫だった。かつて魔理沙が人間をやめたときも妖夢は祝福したものだ。
それから数分ほど話をし、霊夢の家を発とうとした二人であったが、見送りの貧乏人に釘を刺された。
「あ、米の件は別だからね! しっかり報酬はいただくわよ!」
* *
練習台になってくれそうな人間に、なかなか目星がつかない。
人間の里を散歩しながら、ない知恵を絞っていく。霊夢のいた郊外はのほほん田園風景だが、里の中心部に来れば、景色もガラっと変わる。この一〇年でコンクリートの舗装路ができ、オンボロ車が走るようになり、木製の電柱も立っている。石造りや三階・四階と高い建物もできはじめた。医療の充実で人が死ににくくなり、人口は急増している。きちんとした学舎が作られ、慧音先生も大喜びだ。文明開化のまっただ中である。妖怪が里中を歩いても、以前ほど煙たがられない。
「――私も魔理沙も、人間の友達が少なすぎるのが難点ですね」
人とは難儀な生き物で、友情が成立するにはあるていど同格である必要も多い。人外であれば妖精と神族などという極端な力量差の友誼もしばしば見られるが、人間にはそれが難しい。妖怪と友好を結びえる人間は、異能を持つ者が大半だ。歩み寄るとすれば、妖怪の側が力を抑えて大人しくする例が多かった。人間の里で教鞭を取る上白沢慧音や、人形劇を開くアリス・マーガトロイドがその代表格だ。
魔理沙と妖夢、共通の友人で人間といえば、ほかに十六夜咲夜と東風谷早苗がいる。というより、これでもうほぼ打ち止めだ。だがこの両人、いずれもレミリア・スカーレットの下に所属し、剣舞郷異変の対策で活動中なのだ。ユイのお守りに暇を出された妖夢であるから、あまり個人的なことで彼女たちに頼み事はできない。その辺りも含めて話し合っている。
「たとえ練習に付き合ってくれても、咲夜も早苗も、霊夢みたいに憑依できない可能性があるぜ。若いままで留まってるし」
「……たしかに、私もそう思います」
咲夜は一五歳前後、早苗も一八歳ていどで外見年齢が停止している。なんらかの神秘的な力によると思われるが、霊夢の件もあるし、妖夢も魔理沙もあまり気にしたことはなかった。咲夜は時間を操る破格の能力者だし、早苗も守矢神社の現人神として奇跡を行使する。霊力・魔力だけが不老の原動力ではない。そもそも咲夜は知り合ったときから歳をまったく取っておらず、実年齢すら不詳だ。
「そうだ……ここは私の友人で、こういうことに好奇心旺盛なあいつに頼んでみるか」
魔理沙が向かったのは、一軒の貸本屋だった。
「いらっしゃいませ――って、あんたか。いつのまに目覚めたんです?」
「よう、元気にやってるか? SAOの件は後回しだ。客を連れてきてやったぞ」
「魔理沙さんのことだから、どうせ妖怪でしょう?」
「どうも。お久しぶりです」
のれんから店内へ顔をのぞかせた妖夢。紺碧色の目に入ってきたのは、壁面にずらり並んだ本棚と、店内の一画で巻物を広げながら、優雅に茶を飲む女盛りの美女だった。コップを置いて、その店主が妖夢をじっと見つめてきた。茶髪に結えた四個の鈴がりんと鳴る。
「花果子念報で読んだわよ。盛大に自爆して強制送還のお間抜け妖夢さんじゃない。私の店へは二年ぶり、客としては四年半ぶりね。なんの用ですか?」
若作りの愛嬌ある顔だが、口はけっこう言ってくる。
鈴奈庵の店主、本居小鈴。歳は二六。二年前に親より店を引き継ぎ、その記念パーティーで会ったのが最後だった。妖夢が人間の招宴へお呼ばれされたのは、この小鈴が妖怪好きという変わった人間であるから。魔理沙の友人枠として幽々子とともに招待されたのだ。ここぞとばかりに半霊を触られた。稀少な本も多いので、鈴奈庵そのものは以前から何度か利用している。
「はい、じつは……」
用件を伝えようとした妖夢だったが、奥より子供の歓声。
「ママ~~」
四歳くらいの女の子と、三歳くらいの男の子。
ふたりのお子さまが鬼ごっこ、小鈴の周りを駆け回る。
「ほらほらおまえたち、店に出てこない!」
知り合ったときは妖夢より小さな子供だったのに、すっかり母の顔である。幻想郷の人間は、とくに女は総じて早婚。これでも小鈴は子を産んだのが遅いほうだった。三二歳の霊夢が敬遠されるのも無理はない。
「お母さんらしくなったなおまえ」
「慣れただけよ。私はまだまだ若いわよ、体力は十代のままで元気なんだから」
足に抱きついてくる子供を適当にあやしながら、小鈴がガッツポーズを取った。
「よし、その体力を見込んで頼みたいことがあるんだぜ。どうだ小鈴、幻想郷の歴史に名を残す気はないか?」
「なによそれ。幻想郷縁起に書かれそうな大事でも起こそうって腹なの? 私のような妖魔本マニアより、阿求んとこ行ったほうが早くない? それとも私の能力が必要なのかしら」
小鈴はあらゆる文字を解読するという、考古学者や翻訳家が七転八倒してうらやましがる夢の力を持っている。なんでもありの幻想郷だから、知らぬ間に妖怪や神の血でも混じってきたのか、里で生まれた人間にも大小さまざまな能力者がいる。魔理沙と霊夢もそのひとりだ。
阿求と聞いて、妖夢が慌てて手をぶんぶんと振った。
「あ、阿求さんとか、とんでもない! ずっと寝たきりの彼女に素人の私が憑依なんか仕掛けたら、霊障で寿命を吸い取ってしまいますよ」
「憑依? ――なになに、面白そう! くわしく聞かせて!」
妖怪やそれにまつわる事件・お話が好きな本居小鈴。大人になって結婚し、母親にもなったが、生来の好奇心は三つ子の魂そのままであった。
* *
「――それで結局、ほかに手がなくて、雁首そろえて私のところに来たわけなんですね」
「はい、すいません」
「世話になるぜ阿求、もう私らにゃ伝手がねえ」
「阿求、無理させちゃうけど、ごめんね」
小鈴当人は乗り気だったが、憑依の件は当然のごとく家族の猛反対を受けた。下手な憑依は、霊障という副作用を伴うからである。いかに妖怪のほうが力があるといっても、一方的に人間を搾取していたのは遠くはるかな過去、江戸時代以前のことだ。異変を除けば、話し合って合意を得るのが常識である。だから妖夢もとくに誰の許可も必要としない魔理沙を練習台にしようとしたくらいなのだ。ついでに連絡も取れればこれ幸いと。うまくいけばクラインを使うまでもなく一足飛びに最終目標へ辿り着けたところだった。
無理はしないと誠意をもって話した結果、本居家側もようやく折れてくれた。条件として、きちんとお金を支払うこと。さらに人間側より有識者の立ち会いもあること。お金はなんとかなるが、妖夢・魔理沙・小鈴に共通する人間の識者となれば、あまり多くない。稗田家の当主、稗田阿求に頼むくらいしかなかった。
稗田家は姓と名の間に「の」が入るほど、とても古い家だ。家名の成立は飛鳥時代にまで遡る。大和の国より将来幻想郷と呼ばれるようになる地へ移り住み、同地にて幻想郷と人と妖怪の歴史を記録しつづけてきた。始祖にあたる稗田阿礼には、一度見聞きしたものを忘れないという能力があった。その莫大な知識で転生の秘術を編み出し、百数十年おきに子孫へと転生を繰り返して、貪欲に知識と情報を蓄えつづけてきたのが、阿求の正体である。名に「きゅう」の読みを持つように、九度目の転生体だ。転生するつど記憶の大半を喪失してしまうが、記録として残してきた膨大な書物が代々継承されており、補完することなど造作もなかった。なにしろ見たものを忘れない能力そのものは、転生によって受け継がれているのだから――
この転生にはしかし、もうひとつ重大な弱点があった。
体がどうしようもなく弱く、どれほど長くても三〇年と生きられないのだ。
今生の阿求はすでに二八歳。数年前より寝たきりとなっている。八代目までならとっくに亡くなっているところであったが、優秀な薬師の八意永琳が主治医をつとめているおかげで、しぶとく延命している。重体や危篤に陥ったことは一度もなく、もしかしてこのまま意外と長生きするかもしれない。
「事情は分かったわ。たまには『長生き』してみるものだわ、面白くなりそう」
こんな言い方ができるのは、御阿礼の子ならでは。
住み込みの家人に半身を起こしてもらう。紫色のおかっぱ髪が揺れた。幻想郷で異能力を持つ人間は、髪や瞳の色が黒ではないことが多い。魔理沙はど派手な金髪金瞳だし、霊夢も髪こそ黒だったが瞳のほうは赤みがかっている。小鈴は茶髪だが、脱色したように明るい。
「たしかにこの一案、場合によっては幻想郷の歴史に残りそうね」
「――そのご様子、立ち会いの件、受けてくださるということでしょうか」
「ええ妖夢さん。人間の側からの、ちょっとした返礼になれそうなんですよ」
微笑んだ阿求であったが、歳の割に若く見えてしまう。闘病により体はやせ細っており、日光にほとんど晒されぬがゆえ綺麗なままの肌から、十代後半にさえ錯覚しかねない。
「返礼? 誰に対して、ですか」
「むろん妖怪たちよ。はっきり言って――この稗田阿求を舐めんじゃねえ、ですね」
「剣舞郷異変ですね」
「はい、そうです。幻想郷の命運に関係している大異変でありながら、里の人間は一切の関与を許されておりません。博麗神社へ幾度となく使いを送ってもなしのつぶて。定期検診にいらっしゃった永琳さんもなにも教えてくださらない。五三六年前の妖怪拡張計画のときも、一三八年前の博麗大結界のときも、稗田家は協力を惜しみませんでした。なのに今回はそれがない――これほどの屈辱がありますか。まあ仕方ありませんけどね。八雲紫さんが寝てるわけですから、私へ要請が来るはずありません。でも門前払いはないでしょう? 一言の説明くらいあってもいいんじゃないですか――あれを持ってきて」
阿求の指示に頷いた家人が引っ込み、一分と経たずノート型パソコンを持ってきた。二〇〇八年くらいのオンボロだ。すでに電源は入っており、スタンバイ状態だった。受け取った阿求が、マウスを繋げ、慣れた手つきで操作した。つづけてボードに手を置き、ものすごい勢いで打つ。余裕のブラインドタッチだ。
「見てご覧なさい。呆れるような杜撰さよ」
三人で液晶モニターを見てみる。そこにはニュースサイトの記事や、動画サイトのニュースがずらりと並んでいる。
――その丸い影は『あなたは食べていい人間?』と、女の子の声で囁き、なぜかハンバーガーが消えていた……
――朝になったら取材班の車が謎の氷塊に押しつぶされており。昨晩、小さな女の子の声で『パーフェクトフリーズ』という叫び声を聞いたとの……
――つぎの瞬間、目の前にナイフが大量に出現して、私たちは慌てて逃げだした。メイド服のコスプレ少女がいたとの情報もあり……
――『うふふっ!』と女子児童くらいの笑い声がしたと思ったら、炎の形をした剣のごとき光が我々のヘリコプターに迫り……
――ちくちく刺されたズボンに、なぜか縫い針が刺さっていた。私たちはたしかに、ちいさな小人の、それも女の子の姿を見た気がした……
――たしかに見たんだよ。あそこの水辺に、人魚姫をな! でもどういうわけか和服だったんだぜ? おかしいだろ人魚なのに和装って……
――なにもない空間にたくさんのお面が浮かんでいて、踊り始めた。見てるうちに気を失い、起きたら朝になっていて、山のふもとに……
開いた口がふさがらないほどお粗末な対策だった。幻想郷らしいといえば、幻想郷らしい。
「おいこの写真! 緑色の髪って、早苗じゃねえか?」
「……空を飛んでるとこ、もろに写されてますね。しかもパンチラ。うわあ、派手なの買ってますね」
「いいなあ早苗さん。外の世界の下着ですよねこれ。可愛いから私も欲しいけど、里の職人には技術的に難しくて、まだ試作にも成功してないみたいなんですよ。妖夢さん、妖怪のほうでどうにかなりません?」
「どうにかなるなら私もとっくに一〇枚は持ってますよ。あれってシンプルなように見えて、すごい技術の塊らしいんですよね。石油化学とか」
「木綿や絹でも作ってますから、幻想郷の職人にも可能だと思うんですけど」
「さあ。魔理沙はどう思います?」
「おなじコットンやシルクでも、幻想郷と顕界じゃ繊維の強さがまったく違う。機械が正確でムラもないからな」
「そういえば以前こんな話を聞きました。幻想入りした洗濯機を集めて修理して売ってた人がいたんですが、すべて返品されたそうです。着物がすぐ破れたって」
「私たちの着てる服はそれだけ弱いってわけだ」
「丈夫だから外ではこれほど布を減らせるんですね。小さくて軽くて可愛い。残念なのは殿方の目線ですよ。めくれたところを見られたら負けです。とにかく空を飛ぶときは、日本のショーツは穿かない。穿くとしても上からドロワーズなどで保護。鉄則ですね」
「飛べない私は関係ありませんね。ねえ妖夢さん、つぎ日本に行ったとき、ひっそりと私に買ってきてくれません? もちろん謝礼はしますから。できればブラジャーとかいうのも一度、付けてみたいと思ってまして」
「そういう話なら私も乗るぞ! SAOで着てたけどフィットすりゃ擦れないから着心地は最高なんだよ。動きやすいし」
「問題はサイズ合わせです。あちらの単位とこちらの度量衡はまるで違いますよ」
黙って聞いてた阿求が目線だけで指示を送り、ぱんぱんと家人に手を叩かせた。口をつむぐ三人娘。
「はい脱線終了。女って三人も寄れば喧しいわね」
「すいません」
「ごめんだぜ」
「みょーん」
『話に加わらなくて正解です。えっへん』
携帯の中でユイが胸を張った。
「下着とかそんなもの、どうせ何年か後にはいくらでも買えるようになりますから、すこし我慢してください――あれを。第三の文面で」
また家人が隣の部屋に行き、数十秒で戻ってきた。
妖夢が渡されたのは、手紙だった。封がされており、中身は見えない。
「これは……宛先がすごいんですけど。幻想郷の妖怪勢に対する裏切りとかになりません?」
「いいのよこれくらい大胆なほうが。いくら大半の人間には姿すら見えないからって、妖怪たちの活動はあまりに愚かすぎます。あちらのほうでも、幻想郷の実体や、信州美人たちの正体について、とっくにあるていどは把握してると思いますよ? 文献や伝承などが各地に残ってるはずですから。私が小鈴での憑依練習に立ち会うのは、これを彼らへ渡すことが条件です。どうせなにも出来ないだろうと、里の人間を、稗田をなめくさった妖怪たちこそが悪いんですからね。頭数はこちらのほうがずっと多いんですから、情報を共有して知恵を絞れば、いくらでも良い案が出てくるはずなんですよ」
かなり鬱屈しているようだ。手紙の内容がどういうものかは分からなかったが、妖夢は悪いパターンを想定してカマを掛けてみた。
「……でも私、みんなを売るような真似はしたくありませんけど」
「私も馬鹿じゃありませんから、この大異変が解決せぬうちに、外の人間をこの地へ踏み込ませるような真似は望んでません。ですから安心してください。それに――あなたたち、憑依をうまく行かせるには、日本人の協力もあったほうが有利でしょ? それは切符になるわよ、成功へのね」
とても病弱人とは思えぬ元気なウインクをしてきた阿求。その顔がめずらしく、いたずら娘の生気で輝いていた。
* *
「小鈴さん、どうもありがとうございました。きっと成功してみせます!」
「いえいえ、こちらこそ。冷え冷えで、ゾクゾクして、なかなか楽しい一週間でしたよ。こんなこと、なかなか体験できません」
それもそうだ。魔理沙とともに稗田家へ逗留し、通ってくる小鈴相手に毎日三時間は憑依しまくってたのだ。妖夢は半人半霊にしては霊力が強すぎるので、軽めに憑依してもなお瞬間的に意識を刈り、体の自由も奪ってしまうほどだった。二輪で例えれば、小鈴はママチャリ、妖夢はレーシングバイクである。同調には繊細な技術が必要で、小鈴を失神させないフェザータッチを学び、寒気を完全に抑え、また憑依しつつコミュニケーションを取る方法を修得するまで、一週間もの期間を要したのだった。
その間、小鈴は悪寒に震えること一五回、気絶すること八回、硬直すること六回、痙攣すること四回、心配して覗き込んだ魔理沙におでこアタックすること二回。もし被験者が霊夢であれば、一度の悶絶で妖夢をぶん殴り、即終了していたところだ。気丈にも笑顔で大丈夫と言いつづけた小鈴は、ついに最後まで乗り切ってみせた。あげく楽しいと断言してしまうところが彼女らしい。好奇心のためであれば、多少の痛い目なんのその。本居小鈴ほど妖夢の練習相手として理想的な女は、幻想郷にはほかにおるまい。
念入りにトレーニングできて良かったと、妖夢は本気で安堵している。ろくな練習もなしでクラインに憑依しようものなら、下手をすれば殺しかねかった。SAOにログインしている被害者は、ナーヴギアという処刑装置に見張られているのだから。素人憑依で引き起こされる副作用は、意識途絶や体温低下だけでは済まない。やっかいなのは交感神経の混乱だ。現象としては、金縛りや痙攣などとして発生する。これがナーヴギア装着状況下でどのような悪影響を及ぼすのか、妖夢たちの知識レベルではいかんともしがたい。憑依した相手とコミュニケーションを取るよりもまず、とにかく霊障を起こさない。これに尽きた。
「本当にこんなお安くていいんですか?」
約束していた謝礼を封筒入りで渡す。一日二貫文との取り決めだったため、小鈴のバイト代は総額一四貫文。日本円にして約一万五〇〇〇円、時給七〇〇円ほどだ。幻想郷の物価は日本の数分の一だが、何度も気を失うほど大変な内容であったことを考えれば、負担からいって安く思える。
「契約を違えるなんてことはしません。これ以上はビタ一文いただきませんよ。妖夢さんの月収って、一〇〇貫文ほどですよね? その中からの一四貫文って、けっこう大きくありませんか? これから超物価高の日本へ殴り込みに行くというのに、お人好しもたいがいにしてくださいね」
金額じゃない、気持ちなんだよ。そう小鈴は言いたいようだった。
「お心遣い、感謝します」
妖夢の収入はひとつの世界を守る筆頭剣士としては少なすぎるのだが、幽々子がケチというわけでなく、理由がある。神仙思想的な背景から白玉楼の運営費は寄付に頼っており、施設の重要度に比して歳入が低水準なのだ。そもそも空気が斬れるようになるまで、何十年も無給で奉仕していたほどだ。給料が出るようになったのは、空気から窒素肥料・固体燃料・純水などを斬り落とせるようになり、庭園やお屋敷の維持費が浮くようになったからだった。
「下着の件、よろしくですよ」
「サイズも測りましたし、お任せあれ」
小鈴を門前で見送ったあと、屋敷へ戻った妖夢はそのまま阿求の寝所に向かった。
稗田家の者たちが笑顔で妖夢に会釈し、案内をする。妖怪なのに敬語で話し腰も低いので、家族や家人の覚えもめでたくなっている。SAOでの体験があってから、以前と異なり人間相手でも無条件で柔和な態度を取るようになっている。良いのか悪いのかわからないが、結果的には阿求と浅からぬ奇妙な交友を持ってしまった。
家人に半身を起こしてもらった阿求が、微笑みながら話しかけてきた。
「出立するんですね」
「この一週間、お世話になりました。食客なりにお礼をしたいところですが、いまの私には余裕がありません。後日ということで、お許しください」
「日本の物価は目の玉が飛び出るほどですものね。金銭的な負担は私も欲しておりません――それよりも東京でのお話が、最高のお返しになるとは思いませんか?」
「……幻想郷縁起ですか」
「ことが終わったら、事細かに教えてくださいね。縁起のあなたの頁へと、追記させていただきます。妖怪と人との恋愛を現在進行形で見られるのは、珍しいので」
稗田家で代々編纂している幻想郷縁起は、妖精や妖怪や神、さらには特殊な力を持つ人間など、幻想郷に住まう、または関係している人外と能力者についてまとめた書物だ。ついでに各スポットの案内までも扱っており、昨今は幻想郷のガイドブックと呼べる形式になっている。歴代の御阿礼の子は、生涯をかけてその時代の幻想郷縁起を執筆、改稿しつづけてきた。
「……私のコイバナが一〇〇年以上も残るわけですか。いまさらですから、ご自由に」
「つれないですね。まあいいです。私は嬉しいんですよ? あなたを含め、三四二人。これほど多くの妖怪たちが、私の生きてる代で新たに幻想入りしたことが。SAOの大事件をこうしてまだ生きていながらにして目撃できていることも。ともすれば妖夢さん、あなたの追補が、最後の仕事になるかもしれません」
「そういえば阿求さんは――すいません」
三〇を過ぎて生きた例がない中で、阿求はもう二八歳だ。まだ重篤の場面はないが、いつ身罷ってもおかしくない。
「お気になさらず。私が短命なのは宿痾です。摂理に背いているのですから、報いは受けねばなりません。でもやはり、考えてしまいますね」
「考える?」
妖夢から目を逸らした御阿礼の子が、床の掛け軸を見つめている。それは妖怪どもの陽気な行進、百鬼夜行図だった。
「一〇〇〇年を超える長い付き合いですから、妖怪たちがなにを考えているのか、おおまかながら理解しているつもりです。幻想郷がオープンになっていく未来は、どんなものだろうと、空想してしまうんですよ。つぎの私は、いきなり跳んで一〇〇年後ですからね。変化の終わった成果だけ見ても、あまり面白くないかなあと。あ、ここだけの話ですよ。冥界に暮らすあなただから、つい口が滑ってしまいました」
「……阿求さん、いまの転生の輪から、抜け出したいと思っているのですか?」
「さあ、それはどうでしょうか。まあたしかに、今後数十年、幻想郷はエキサイティングなことになりそうですものね。死んでなんかいられるか! というのが正直、私の思いです」
「……あの、じつは私の剣術に……もしかしてそれを使えば、その数十年を得られるやもしれません」
稗田のことだからおそらく知っているだろうが、いちおう秘密なので、あまり大声ではいえない。ところが阿求のほうが――
「物質四態はおろか、刻をすら斬るという、魂魄流の究極にして最終奥義ですね。楼観剣で振れば神と魔、相反するものを虚無へと帰する事象の破断剣となり、白楼剣で振れば星霜と運命と八苦を断つ、究極の活人剣となる――宿因滅土。この技にかかれば、博麗大結界すら一刀両断でしょう」
どうやらこの家では、タブーというものはないようだ。当主ともあろう者が妖怪相手に弱音を吐いてるし、いまここにいる家人も口が固そうだった。
「え、あの技って、そこまで凄いシロモノなんですか」
阿求が噴き出した。妖夢のあっけに取られた顔が、よほど面白かったようだ。
「継承者が知らないって、どういう冗談なんですか。白玉楼に秘伝の書がありますよね。四代前の私が幽々子さんから借りて拝見しています」
時期的に妖怪拡張計画だろう。なにかひとつの大事を為すには、まず情報がその一〇〇倍は要る。
「すいません。読んでるうちに眠くなって、つい枕にしちゃいまして」
「超一級の妖魔本を枕にするなんて、ぜいたくな妖怪ですね。いずれにせよ、あなたが覚えるのに、まだ一〇〇年以上かかる秘奥義なのでしょう? とても間に合いません。もし『次の私』が望んだら、そのときはお願いします。閉じた輪廻の環を断ち切ってやってください」
本気で言ってる様子ではないが、内容だけはどえらい話になってきた。
「……一〇〇年も待つ必要なんかありません。妖忌お師匠さまなら宿因滅土を使えます。ただ、どこにおられるか分かりませんが、見つけたら阿求さんの代で終わらせることも可能ですよ。のこりの半世紀を得ることも」
「――そうですか。あなたの目に写る非転生体の私は、まだ五〇年の余命を残してるわけですね。それだけあれば、幻想郷の行く末を見届けるには十分な期間です。とても魅力的な提案です。でも稗田家の伝統を終わらせることにもなる。私の体はこのように軽いですが、魂のほうは一三〇〇年以上の重みがあるんですよ。心の片隅に留めて置きましょう」
やはりこういう結論になる。予定調和だった。
「すいません、浅慮でした」
「いえいえ。私も愉快なあなたと話せて心の荷がすこしは軽くなりました。そんな可愛らしい妖夢さんを好きになってくれたキリトさんは、きっと素敵な殿方なのでしょうね」
馬鹿にされてるはずなのだが、不思議と怒りはでてこない妖夢だった。阿求が話題の変更を望んでいるようなので、妖夢も喜んでそれに乗ることにする。それも思いっきり友人ライクで。
「……それがですね、けっこうスケベなんですよあいつ」
阿求が妖夢の急変を見て、楽しそうに目を細める。
「へえ、興味がわいてきました。ぜひ教えて下さい」
「任せて下さい! もうね、たくさん話しちゃうわよ!」
阿求の背に手を添えて能面だった家人が、はじめて相好を崩した。
* *
連れが来ない。
妖怪の山のふもと、待ち合わせ場所に、いつまで経っても魔理沙が姿を見せなかった。あざ笑うように季節外れの雪まで降ってくる。
「ユイ、いまの時間は?」
『午後九時二分ですね。一時間オーバーです』
「……仕方ない、探しに行きましょう。私の半霊レーダーなら、半径一〇〇メートルに魔理沙がいればすぐ分かります」
魔理沙は今朝方、書き置きを残してとつぜん稗田邸を出て行ったのだ。
『軍資金を調達してくる。午後八時に○○で』
練習が軌道に乗っていたので、昨晩のうちに今夜の出発を伝えてあった。今日の練習は最後の確認作業にすぎず、憑依した小鈴と精神世界で世間話に興じていた。体の自由を奪ったり返したり、いろんな動作を試したが、三時間なんの失敗も起きなかったので、クラインとうまく話をする自信がついた。
『妖夢さん、魔理沙さんはたぶん、香霖堂にいると思います』
「そういえば幻想郷で妖怪相手に日本円を扱ってくれる店なんて、ほかにありませんものね」
雪の中、空を飛んでまっすぐ香霖堂へ向かう。
香霖堂は魔法の森の入口にある古道具屋だ。人里よりけっこう離れているが、店主の森近霖之助が半妖なので、平気な顔をして暮らしている。人間でないというだけで、幻想郷では安全度が格段に上昇する。霖之助がわざわざ僻地に店を構えているのは、「仕入れ」が楽だからだ。売ってるものはもっぱら幻想入りした物品。結界の性質により、外の世界で忘れ去られたもの、そう願われたもの、逃げだしたものが幻想郷へと迷い込むことがある。それを幻想入りという。
魔法の森とその周辺は幻想入りの発生しやすいスポットで、霖之助にとって宝の山だ。長命の余裕から富むことへの執着がないため、店が繁盛する必要もない。じつは店内に積まれてるガラクタの少なからずが非売品らしい。妖夢がこれまで欲しがったものはすべて売ってくれたので、その線引きは知らない。趣味性の高いものほど売らないらしいが、趣味イコール仕事という妖夢にとって、用のないものだった。
香霖堂が蓄えている日本円は、落とし主が諦めたもの、落としたことすら気付かなかったもの、なんらかの理由で捨てられたものだ。硬貨はもちろん、新札もあれば旧札もある。日本の法律では古くても通貨として使用できるので、外の世界で買い物をしたいとき重宝する。妖夢もかつてこの店で五万円を換金した。今回も数日前に一七万円を用意している。何日かかるか分からないので、ありったけの現金を準備したのだ。
店の明かりは付いていた。天井のほうが光っている。文明開化の恩恵でこんなところまで電気が通ってるから、ロウソクや植物油ランプは急速に廃れつつある。電灯なら楽だし、火事の心配もすくない。さっそく半霊に走査させると――いた。店内に魔理沙の気配がある。
「ユイちゃんビンゴ。えらいです」
『えっへん』
野ざらしで一時間も待たされた苛立ちから、扉を強めに開ける。
「魔理沙~~、さっさと行く……まあっ!」
キスしてた!
白髪と金髪が、接触するほど接近していて、本当に接触していた。
キスといってもカップルによるアツアツな接吻劇ではない。魔理沙が白髪の男性に密着して、その頬へと照れるように立派なキスをぶちかましていたのだ。
「……えへへっ。どうだ? これがSAO名物だった、女神のキスだぜ」
離れた魔理沙が、恥じらうように笑う。
白髪の男性――霖之助のほうといえば、眼鏡が半分ずり落ち、髪と首のチョーカーも乱れている。魔法使いの求愛に抵抗したらしい。でも戦闘慣れしてない穏和な半妖が、弾幕ごっこに明け暮れ人妖となった魔理沙の攻勢をかわしきれるわけもなく。和洋折衷の服もしわだらけだ。
霖之助はほぼ無表情だった。眼鏡を直し、衣服を整え、こほんと一息ついてから、近くの椅子に腰掛けた。
「……で、何万円に換金して欲しいんだい、魔理沙」
「好きだぜ」
わおっ。さらなる決定的瞬間だ。良く言ったわ! 妖夢は心中で魔理沙に拍手を送った。ユイも液晶内で「わくわく」している。
言われたほうは困惑の様相だ。
「…………」
「本気で好きだからな」
「……で、何万円」
「一六年も我慢してきたんだ。これからはずっとこうだから、覚悟しておけ香霖」
霖之助は嘆息した。
「……どうして僕を好いてくれるんだ。孤独を望む僕の性格は知っているだろ。面倒なんだ」
「元はといえば、おまえが私にこれを作ってくれて、しかもただで贈ったのが運の尽きだぜ」
帽子よりミニ八卦炉を取り出す魔理沙。
「家を飛び出したばかりで、お金も持っていない客から取れるわけない」
魔理沙は親の反対を押し切って魔法使いになったため、勘当されている。
「じゃあなんで私にお金が出来てからも請求しなかったんだ? こいつに関しては、故障したときの修理も、緋々色金で補強したときも、私が求めた機能を追加したときも、みんなタダだっただろ」
「魔理沙の実家には香霖堂を建てるまでお世話になったからな、サービスだと思ってくれ」
霖之助の反論は、妖夢にはただなんでもいいから言い訳を探してるように聞こえた。
「そんな理由でくれるにしても、高性能すぎるんだよ。こんな宝物を家出した一〇歳のガキがぽんと貰ってさ、右も左も分からぬ魔法の森に隠れ住んで、心細くて、しばらくはこれ以外に頼るマジックアイテムもなくて。実際こいつにはずいぶんと助けられたよ。最高のボディガードだぜ。おかげで一年も経つころには生活も安定してきて、霧雨家に戻らず済んだ。その後もミニ八卦炉の世話になりまくったさ。そのたび、くれた奴の顔が浮かぶわけだよな。何年かするうちに、大恩人のことをどう思うようになるかなんて、結論は簡単だろ。おまえは男だし、私は女なんだぞ。だから――」
魔理沙はいったん口を止め、静かに息を吸い込み。
「――髪の毛から骨の髄まで愛してるぜ」
まるで魔法薬の材料でも愛でるような言い方が、魔理沙らしい。
「今日は朝から逢い引きと称して連れ回されただけでも驚きだったのに、SAOでなにがあった」
「求婚された」
「……それはおめでとう。魔理沙のことをそこまで深く好きになる男がいたのか」
「だけど私はおまえしか見たくない」
「僕は幼少の魔理沙を知っている。家族で妹みたいだった。いまさらそういう目では見にくいと思う」
ようやく本当のことを言ったなと妖夢。魔理沙も本音を言わせて区切りがついたようで、何度か深呼吸した。
「それじゃ拙いんだよ。やつは成功して迎えに来るみたいなことを宣言しやがった。あのディアベルのことだ、一〇年かそこらで一角の人物になっちまうだろう――幻想郷が外に開かれたら、私は妖夢といっしょに歌わされる。お茶の間のアイドルだ。そこに実業家か政治家か知らんが、地位と名誉を得たあいつが登場だぞ。日本中のマスコミが騒ぎ立てて、スキマの奴がきっとこう指示してくる。あいつが生きてる間だけでいいから、結婚してやれって」
魔理沙の顔は必死だ。ほとんど泣きそうで余裕もない。
「SAO以前のきみはもっと自由で、あるがままの女の子だっただろう。紫の命令に従うまでもないはずじゃないか」
「香霖、私のなにを見てきた。あるがままだったらとっくに告白してたし、不安に駆られてこれほど早く人間もやめなかった! ――ディアベルはな、格好良すぎるんだよ! 好きでもないのに勝手にときめいちまう! だけど私はどうしようもなくおまえが好きなんだ。義理でディアベルと結婚したとして、良心の呵責がのしかかってくる。どちらにも済まないって思ったまま、宙ぶらりんの心で何十年も過ごすのは大変だぞ。割り切るにはディアベルは男として魅力的すぎるから、きっと私は良くしてやろうと尽くしてあげるに違いない。SAOがすでにそうだったぜ。あいつが死んだあと、そんなことしてた売女がどのツラ下げて香霖と向き合えるんだよ。私は自分勝手で現金な女だが、色恋に関しては厚顔無恥になりきれないし、なりたくない」
「…………」
妖夢から見て、いまの霖之助は狩人に睨まれた小動物のようだった。想い人の態度をどう取ったのか、魔理沙がさらに切り込む。
「この不感症が! 決めたぜ。妖夢の件が片付いたら、本格的に押しかけ女房してやる。霧雨魔法店はしばらく休業だ。この古道具屋に工房も移して、おまえの部屋で寝起きするぜ」
霖之助の頬にわずかな朱がさした。
「……お、おなじ室内にいるからって、僕が手を出すと思うのか?」
さすがにあちらを想像し、動揺したようだった。妖夢から見て、この男は一五〇年あまりを生きながら、重厚謹厳の素人大童貞である。妖怪は男の比率が低いため、一〇〇歳以上を経て未体験であるのは非常に珍しい。しかも霖之助はけっこうな二枚目なのだ。
「逆だ逆! 自分の操をこそ心配しろよ香霖」
数秒後、意気揚々と飛びついた魔理沙が、霖之助の唇を奪ってみせる。
* *
「妖夢、もしかして待たせたか?」
三〇分もしてようやく香霖堂から出てきた。
「いいえ別に。ユイと話してましたし……なんですかその巾着袋、ずいぶん膨れてますけど」
周囲は闇夜に沈む、森のそばだ。積もった雪のためほとんど無音。吐く息が霧のようだった。降雪はさきほど止んだ。
「香霖が餞別を多めにくれた。その代わり泥棒ごっこは今後一切するなってよ。努力目標くらいにはしておいてやるぜ」
魔理沙が開けてみせた袋状の財布には、日本円の、しかも万札がぎっしり詰まっている。一〇〇万円はありそうだ。
「大金ですね」
「もしかしたら何週間も戻って来れないかもだろ。なら軍資金がたんまりいるぜ? 日本はなにかにつけて金がいるらしいし。なあユイ?」
『はい。とくに東京は大変ですよ』
「よく霖之助さんがそれほどの長期滞在を認めましたね。命の危険があるかもしれないのに」
「拳銃ていどなら食らっても死なない体になってるのに、危険もなにもあるかよ」
「……たしかに。私も拝み屋の祓い幣のほうが怖いですね」
人間の本質は肉体だが、そうでない異質な存在は魂のほうが本質となる。まだ人間の属性を残してる魔理沙や妖夢は肉体への依存も高いが、それでも魂へ分けるぶんだけ、肉体の損傷は気にならなくなる。正確には肉体が「傷つきにくく」なる。理屈は妖夢も知らない。魂の秘密へはまだろくに科学のメスが入ってない。
「すっかり遅くなったし、じゃあ行こうか」
「そうですね――魔理沙、内縁の妻に昇格、おめでとう。いきなり私を追い越しちゃいましたね」
誇らしい顔で魔理沙がはにかむ。全力で照れている。
「妖夢のおかげだ。私の数千倍で進むおまえの恋路を見てるうちに、悩んだり後悔してる暇があるならさっさと動けって気付かされた。せっかく綺麗な顔に生まれついたんだから、活かさないと神様のバチを受けるぜ」
「まあ……私も自分の容姿を武器にしたことは否定しませんけど」
キリトが好きになってないうちに、さっさと男女交際ごっこへ入った。妖夢の並外れた可愛さと、誰もが欲しがる高い剣技がなければ、けして実現しなかっただろう。
宙へと浮かぶ妖夢と魔理沙。魔法使いは箒にまたがるのではなく、横向きに腰掛けている。乙女モードのままだ。おそらく今後もしばらくは。
「じゃあ行ってくるぜ香霖」
窓から霖之助が手を振っていた。顔中にキスマークを付けている。
『あのお顔、無表情に見えますが、やけくそですね。諦観の境地です』
ユイの画像解析能力も驚くほど高くなった。SAOから飛び出して心理パラメーターを視る力こそ失ったが、探せば代わりの手はあるものだった。
「まさかキスの嵐だけで落とせるなんてな。これほど楽勝なら、好きって気付いたその日のうちに奪っておくんだった。無駄な一六年を過ごしちまったぜ」
低空を飛びながら、妖夢は忘れ物がないか再チェックした。楼観と白楼はもちろんとして、着替えにお金、いろんなもの。いちばん大事な――阿求の手紙。
「――魔理沙、高度をあげる前に気配と姿を消しますので、合図したら私の半霊に重なってください。一度重なればあとは勝手にホーミングします」
「おっ、幽霊の隠し芸だな? じゃあ私からも妖夢に追跡魔法を掛けるぜ。見えなくとも聞こえずとも、ちゃんと付いていってやる」
半人を霊体化し、半霊を幽体化し、さらにどちらも隠すこともお手のものだ。それを利用した魂魄流剣技もいくつかある。もっとも長時間は消えていられないので、あくまでも妖怪の山を抜けるまでだ。半霊のほうも姿隠しこそ長時間できるが、気配隠しは短時間にとどまっている。
「ユイ、携帯の電磁波があると見つかりやすいので、すいませんがつかの間、電源を落としますよ」
『うわさの大結界を観察したかったんですけど、今回はしょうがないですね。それでは一時、おやすみなさ~~い』
携帯の電源をオフにして半霊より外し、背負ったリュックへと入れる。
「では……いきます」
「こちらも魔法発動だ」
妖夢がふっと消え、さらに魔理沙――正確には魔理沙を覆った半霊が消え、音だけが高くあがっていく。風を切り、それに煽られた木々の枝より雪が落ちた。
目指すは妖怪の山にある、大結界のほつれ。どうしてここにだけ外界との出入り口が開いたままなのか妖夢も魔理沙も知らないが、どうも妖怪の山という霊的スポットそのものに原因があるらしい。天狗や河童、さらに仙人や妖獣といった者共が暮らし、山頂には守矢神社が、ふもとには命蓮寺が興り、夢殿大祀廟も安置されている。その気になれば三途の川の河原へ生きたまま行けるし、旧地獄の入口まである。
妖怪の山とその周辺は、幻想郷でもとにかく「すごい場所」だ。危険そうなのに、人間の里も大昔より比較的近くにあるのが謎だが。
高度を取って一気に加速。迷わず一直線で進む。
妖夢と魔理沙は、難なく日本へ出られる――と思った。
「待ちなさい、お尋ね者」
目前にいきなり数百本のナイフがあらわれ、こちらに向かってきた。ナイフで妖夢の視界が染まっている。
とっさに楼観剣を抜き、剣圧を乗せた一閃にして数十本を落として進路を確保、まっすぐ突っ込んでいった――が、魔理沙のほうが間に合わなかったようだ。回避は得意でも近接戦は苦手とする。弾幕を破壊するにはマスタースパークでもぶつけるしかないが、それだと自分の位置を知らせてしまう。
一〇〇メートルも後方で魔理沙の声。
「咲夜! 邪魔するな!」
「姿を見せないと、無差別にナイフを投げるわよ! 当てる気で行くぶん、弾幕ごっこじゃ済まなくなるから」
「昼間は見て見ぬフリしてくれただろうが」
「空気を読んであげただけよ。デートを邪魔するような不埒な女は、瀟洒じゃないの」
魔理沙が十六夜咲夜の足止めを食らった。
半霊がクラインに憑依してる間、妖夢の本体は意識を失い無防備になる。今回の計画には、憑依中に肉体を見守ってくれる協力者がどうしても必要なのだ。ユイだと本当に見守るだけで、なにかあったとき助けてはもらえない。だからこの魔法使いを見捨てるわけにはいかない。
「ごめんなさい咲夜!」
ルール違反を承知で、姿を隠したまま紅魔館のメイド長へ斬りつけようとした寸前――
「奇跡――客星の明るい夜」
スペルカード宣言とともに、白い光線の渦が妖夢に迫ってきた。これは回避するしかない。奇襲は失敗だ。
「なっ、どうして」
「妖夢さん、私にあなたの隠蔽術は効きませんから」
緑色の長髪、青と白の巫女装束。霊夢よりも若い姿で成長を止めている、守矢神社の巫女にして、現人神。そして妖夢と魔理沙の友人。
曇天の闇夜に浮かぶ東風谷早苗が、姿と気配を隠しているはずの妖夢をしっかり見下ろしている。
* *
「彗星――ブレイジングスター!」
「時符――デュアルバニッシュ!」
魔法使いとメイド長が激突して、すでに二〇分にはなる。通常のスペルカードルールであれば、同時にスペルカード弾幕を展開するのはボムという特殊状況に限られているが、今回は意地と意地のぶつかり合いなので、互いにずっとスペルカードを使いつづけていた。おそらくどちらかが被弾するまでこのままの変則勝負がつづくだろう。魔理沙と重ねていた半霊は、とっくに元へ帰している。
一方、妖夢と早苗の対決は、妖夢が姿を戻すやいなや、早苗のほうから身を引いた。ならさっさと先へ進みたいところでもあったが、妖夢ひとりだけで東京に行っても仕方ないし、ここで咲夜に攻撃などしようとすればすぐ早苗が邪魔してくるだろう。魔法使いの勝利を祈って、勝負の行く末を見守るのが次善というものだ。
「……私たちの目標は、魔理沙さんだけです。大人しくしてくれるのなら、妖夢さんをどうこうしようとは思っていません」
「どうして?」
「博麗神社から出頭命令が出てるのは魔理沙さんだけですよ? 目覚めておきながら、肝心の報告がまったくありません」
「あ……そういえばずっと私と一緒に行動してましたものね」
起き抜けから魔理沙を連れ回している。魔理沙も「私に任せろ!」とついてきた。妖夢や阿求はSAOがどういう事態になってるか魔理沙より聞いているが、肝心の異変対策本部が誰もなにも知らない。魔理沙がゲームオーバーになった理由も、ヒースクリフの正体をキリトが突き止めたことも、茅場とスキマが直接交渉に至ったことも。ほかの子が起きてくる様子がないので、SAOのデスゲームはなお継続中だ。妖夢はすこし焦ってるのだ。はやくクラインに憑依して、SAOの状況を知りたいと。キリトがどうなったのか、無事でいるのか。
「早苗、お察しと思いますが、私はユイを連れて日本へ行くつもりなんですよ。だから夜逃げみたいな隠密行動までしてたのに、どうして許してくれるんですか?」
外へ出れば、永琳のネット規制も届かない。スパイ疑惑の晴れないユイが、すでに幻想郷のあれやこれやを見聞した人工知能が、野放しとなる。
「人間の里で噂は聞いてましたよ。憑依ですってね。SAOに好きな方がおられるんですよね。彼と一緒にまた戦いたいという思いだけで、こんな大胆不敵な行動に出る。素敵だと思います。応援しますから、頑張ってください」
「――ありがとうございます。でも憑依を行うには、私の体を守ってくれる人がいるんですよ」
「……それなら、ほかにお仲間がいるんじゃないですか?」
「え――」
早苗が指を示した真下。よく注視してみると、うっすらと霊力の放出が。半人半霊の霊感レーダーに感知されないとは、高度な使い手だ。
「霊夢?」
「もう……魔理沙たちを喜ばせてあげようと隠れてたのに」
風が渦巻き、紅白の美女が姿をあらわした。
黒髪をきれいに結い、頭の後ろにおおきなリボン。上着は袖の根本部分がなく、肩とワキが露出している。下はスカートでフリル付き。博麗霊夢が現役時代そのままの姿でそこにいた。三年ぶりに見る霊夢の巫女装束だった。両手にはなにも持ってないが、妖夢とおなじく革製のリュックを背負っている。
「なぜいつも分かるのよ、あんたには」
霊夢の問いに、ためいきの早苗。
「何度言ったらいいかげん覚えてくれるんですか。私の能力は奇跡。ですから、そうありたいと願えば成就できるんですよ。かくれんぼしてる本当の場所を見たいと思えば見ることができ、気配を知ることができ、また今夜のこの時間、魔理沙さんがここを突破しようと試みることも前もって知ることができたんです。最近になって覚えた上級技、予言です」
「予言~~? なんでもありで、つくづく便利な能力よね。そこら中に落ちてるお金の在処を知ることもできるかしら?」
「さすが霊夢、発想がいちいち貧乏くさいですね」
「うるさいわね半人!」
「そこら中のお金ですか?」
早苗が首をかしげている。彼女にとって想定外な使い方のようだ。
「――それはいささか無理ですね。持ち主に落としたお金が戻るよう誘導することなら出来ますが。奇跡といっても私のそれは善行に属するものですから、不純な動機には用いられません」
不純と言われ、図太い霊夢も鼻白んだ。
「そ、そうだったわね……あんたは私とちがって必要から正義の味方をしていたんだったわ。神の御業ってのも不便ね」
「信仰あってこその奇跡ですよ――ところで霊夢さん」
「なに?」
「しばらく見ないうちに、ずいぶんと神気を高められたようですが、なにかあったんですか? 博麗神社へ霊眞さんの監督に来てるようですが、その様子を見た神奈子さまが、けったいな仲間が増えそうだって、楽しそうに笑ってましたよ」
「なんですって? 気付いてたならさっさと教えなさいよあの注連縄! ――どうも私、いつのまにか仙人になってたみたいなのよね。修行もしてなかったのに」
「仙人ですか。巫女時代の大活躍がおそらく修行と同等の効果として働いたのだと思います。それに巫女を引退して無位無官になったことと、一貫したつつましく清貧な生活。これらで条件が満たされ、無意識のうちにクラスチェンジしたのでしょう。おめでとうございます」
「なんだ、早苗に見てもらったほうがもっと早かったみたいね。まがりなりにも神だからやっぱ並の仙人以上ねあんた。華扇が私の正体を調べるのは、まる一日がかりだったのよ」
「ならいま隠れていたのは、仙術か法術ですね? 陰陽玉なしの霊夢さんに、姿を隠す術は使えなかったはずです」
驚いたのは妖夢のほうだった。
「え? たった一週間で、もう仙人の術を覚えてしまったんですか!」
まるでキリトのようだ。天才とはそういうものなのだろう。
「初歩を数えるほどだけどね。どうも私、華扇よりも上位の仙だったらしくてさ。『私は地仙に退行したせいで死神を追い返すなんて面倒が増えたのに、あなたは神々しすぎて死神どころか閻魔もひれ伏しちゃうわ』とかなんとか、珍しく嫉妬してたわ。あいつって、やっぱり元が純粋妖怪だったみたいね。寝食を共にしてるうちに気付いたんだけど、あの気配って萃香に近いから、鬼かしら? 必要もないのになんでわざわざ制限だらけの仙人なんかやってるんだろ」
すこし考え、早苗が言った。
「……これはびっくりです。霊夢さんは、ずばり天仙ですね」
「地仙を飛び越えて天仙ですか。自力で不老不死になれるとは、すごいですね」
仙人にも何種かあるが、不老長寿の段階を超え、完全無欠の不老不死に至った者を天仙という。本来は天界に暮らし、高位の者として扱われる。天界の住人、天人ですら五衰と呼ばれる死の前兆から逃れられないのに対し、天仙は世俗の苦しみから解脱した、神のごとき存在――いや、神は信仰を失えば消えてしまう宿命にあるから、見方によっては神をも超越している。東アジア圏に生を受けた人間が至ることのできる、考えうる中で至高の存在のひとつだ。
「負けた~~!」
オシリにナイフが刺さったままの魔理沙が、ふらふらながらに飛んできた。
「聞いてたぞ霊夢。神仙クラスなんて、どこまで果てしなくデタラメなんだ」
「集中を欠いて被弾したの? 未熟ね」
「なっ、行かず後家のくせに! 私なんかさっき、香り――んぎゃわわ」
言い足りない魔理沙の首根っこを、咲夜がふんづかまえる。灰色の髪を持つ、ミステリアスで粋のある美人だ。ただし今は顔も衣装もかなり煤けている。
「ほら魔理沙、負けたなら潔く出頭しなさい。いますぐ神社に行くわよ」
「――くそう。妖夢、霊夢といっしょに先に行っててくれ。私は何日か絞られたあとに合流する。追跡魔法で場所はすぐ分かるから、心配するな!」
「最後のお別れは済んだわね? じゃあ連行するわよ」
そのまま飛んでいきかねないので、妖夢が慌てて止めた。
「待って! 路銀の大半は魔理沙が持ってます」
なにしろ一〇〇万円だ。
「早くして妖夢。お嬢さまがおかんむりで、こっちも急いでるんだから」
「路銀ですって? 魔理沙、私にそのお賽銭を寄越しなさい」
いきなり割り込んできた霊夢の目がちょっと変だ。お賽銭とか根っこから間違ってるし。巫女時代よりも苦しい生活をしてたようで、お金と聞いて簡単に自制が利かなくなってるようだ。
むろん魔理沙は抵抗している。
「おまえにお布施なんかした覚えはないぞ。まるごと奪うつもりかよ、無一文になったら私が東京行けなくなるだろ」
「そんなの、ずっと飛んでいきゃいいじゃない!」
「アホか! 下手すりゃ自衛隊が飛んでくるぞ! 長野と東京じゃ違うんだよ」
「寄越しなさい、賽銭箱~~!」
「あのー、いいですか霊夢さん。大事なことなので」
うしろから早苗が、申し訳なさそうに言う。
「なに? いまちょっと忙しいのよ」
「その財布を受け取ってはいけません。金銭欲などの俗念が満たされたら、霊夢さんは人間に戻ってしまう可能性があります」
「……はい?」
「自力で仙人へ昇ってしまいましたから、正式な秘術や儀式のお世話になってません。自然現象ですね。ですからまだ安定していないと思うんですよ。この場合、いましばらく清廉とした慎ましい日常に身を置いておかないと、簡単に元に戻ります」
「…………なんですって! じゃあ、日本でこのお金使って豪勢に飲み食いとかもダメってこと?」
「暴食なんてもってのほか! 一回のドカ食いで人間に逆戻りですよ? 肉もできるだけ採らず、菜食中心で、多くても常に腹八分目。精進料理などもいいでしょうね」
よほどショックなのだろう、霊夢がほとんど無表情になってる。
「……たっ、食べ物だけでそんなに制限されるの?」
「基本的な欲の大方が対象です。たとえば色欲もタブーなようですよ。大陸の仙は宗派によって可なのですが、日本の仙は古神道と同列ですから、恋愛はよくてもプラトニックを貫き、清らかな体でなければいけません」
巫女は基本、処女または未婚の女性とされている。
日本へ出立する動機が男女交際まっしぐらな妖夢にはとても耐えられない追い打ちだが、霊夢は一転してケロリとしたものだ。
「ああそれは大丈夫よ。紫が結婚しろって言ってたけど甲斐性なしだらけで誰も言い寄らなかったし、男に抱かれてる私なんて自分でも想像できないわ――じゃなくて、お金よ肝心なのはお金! 大金!」
女らしさの根源を真っ向から否定するとは、さすが歴代最強。なぜ天はこの女をとびっきりの美人へと仕立てたのか。
呆れる妖夢とおなじ感想をもったようで、早苗は大上段から切って捨てた。
「大金は仙にとって穢れそのものですよ! ほとんど持たないほうがいいです。買い物は最低限で済ませ、大きな買い物であれば支払いは自分でやらない。不安なら管財まで人に任せる。そこまで徹底した生活を、そうですね――これまで生きていた期間以上に行えば、ようやく固定されると思います。それを過ぎたら、もう贅沢な生活をしても大丈夫だと思います。ただしこんどは仙人としての格が下がりますから、天仙のままでいるには功徳を積みつづけなければいけません」
口をあんぐり開けて、固まってしまった霊夢。一〇万円ばかし抜いた巾着袋を妖夢へと渡したあと、魔理沙がよほど面白いのか、腹を抱えた。
「こ、今後三〇年以上もあのあばら屋に暮らすのかよ。霊夢らしいや!」
頭を抱え、雲に隠れた夜空を見やる先代の巫女。その表情には、絶望に近いものがあった。
「……び、貧乏なんか嫌いよー!」
* *
薄暗い喫茶バーで、豪勢な飲みっぷりを見せている酒豪がひとり。カウンターは彼女のいる近辺だけ空けられた瓶と中身のないコップで占拠されている。ほとんどが清酒だ。
「霊夢、飲み過ぎですよ」
「これが呑まずにいられるかってんの。ホント、お酒だけは良くて助かったわ」
妖夢と霊夢はいま、日本人らしい服装をしている。妖夢が長袖の草色ワンピースに、下は黒のレギンス。半霊は姿を消しており、楼観剣と白楼剣はその半霊に包んで隠している。霊夢はニットのセーターにレザーのパンツで、ロングダウンコートを羽織る。
「たしかに、仙人といえば酒ですからね。仙薬も多くが酒の形をしてますし」
「店員さん、もう一杯!」
「お客さん……私も飲み過ぎだと思いまス。お体に障りまスよ」
二〇歳ほどの女性店員が、心配顔で霊夢を覗き込んでいる。発声にすこし癖があるが、顔立ちは日本人。結婚指輪をはめており、まだ若いが既婚者だ。
「うっさいわね。見なさい私の顔を。まだまだシラフでしょう? このていどじゃ酔わない体質なのよ」
仙人になってしまった影響で、天狗や鬼並に酒が強くなった霊夢だった。以前からも酒は強かったが、数段強化されて底なしとなった。貧乏なので普段あまり飲めないにも関わらずだ。水みたいに飲めるようになったせいで、少量の酒でちょびちょび楽しむなんてことが不可能になった。飲んだ気がしないというやつだ。
「じつは清酒ばかり飲まれましテ、もうストックが」
流暢だが、この店員すこしアクセントがおかしい。日系人だろうか。
「ほかの種類でもいいわ。まだあと一〇〇杯はいけるわよ」
「……勘弁してください。商売はこれからが本番なんでス。このペースで飲まれまスと、来客のピークには出す酒がなくなってしまいまス」
「仕方ないわね。じゃあ、あと一杯で打ち止めにしてあげる。このジンジャー・ミストで」
神社でジンジャー。全力で我慢する妖夢であった。突っ込んだら負けな気がした。
「すいませン、取り置きが少なくて」
深々と頭を下げられてしまった。霊夢は平然としているが、妖夢が済まなそうに若い店員をなだめる。
「まだ慣れてないようですね。これから忙しい時間帯でしょうに、マスターはどうされてるんですか」
「……お恥ずかしい話でスが、この店はいま、私だけで切り盛りしていまス。以前は昼の喫茶だけ担当してたんでスけど、夜のほうはマスターが……夫は、とある事件で意識が戻らず眠ってましテ、私が昼も夜も」
霊夢がははんと頷いた。
「SAOね」
「ハイ。このダイシー・カフェは、夢だった店でス。まだ支払いも残ってるのに、潰させたりはしませン! アンディと育ててきた店。思い出が詰まってまス」
被害者の家族に合うのは初めてだ。
「アンディさんって、外国の名前ですよね」
「アンドリュー・ギルバートはアメリカ人。でも日本育ちの江戸っ子でス。逆に私は日本人でスけど、合衆国のボストンで生まれ育ちましタ。帰国子女でス」
「そうですか。だからアクセントが」
「私は日本語の発音がすこし変でスが、アンディは英語の発音がちょっと変でス。あべこべ夫婦でスね。アンディは優しい人だから、きっと神様のご加護がありまス。生きて帰ってくると信じてまス!」
記念というわけではないが、妖夢は名前を聞いておきたくなった。
「――もしよければ、アンディさんのキャラクターネームかなにか、ご存じではありませんか?」
「もしかしてゲーマーの方でスか? 夫はそれほど有名なプレイヤーではないと思うんですガ、えーと、たしか、エギルだったかナ?」
まえのめりに突っ伏した。
「どしたの妖夢?」
「いえ、菊岡さんがここを指定してきた理由がなんとなく分かりました。どうせ金を落とすなら、ということでしょうね。大黒柱を失ってる家族への、ささやかな援助でしょう。奥さん、エギルさんはあちらでも元気にしてると思いますよ。商人プレイヤーとしてお店など構えて、縁の下からSAO攻略の手助けをしていることでしょう」
「はあ、おっしゃられている内容はよく分かりませンが、やはりお友だちの方でしたか。たしかにアンディは、いろんなゲームで店を開いてる様子でシた。その趣味が高じたのがこのカフェでス。あなたはそんなにお若いのにしっかりしてまスね。私を励ましてくれているんでスよね、ありがとうございまス――はい、ご注文のジンジャー・ミストでス。これもなにかの縁でスから、この一杯はサービスしまスよ」
できたカクテルが霊夢の前に置かれたが、元巫女はそれを妖夢へと流す。
「ほら妖夢、この人が奢るそうだから、あんたも一杯くらい飲みなさい」
「だめですよ」
そのグラスを辞して、妖夢は手元にあるオレンジジュースに口をつけた。
「どうして飲まないの? 奢りであろうとなかろうと、どうせタダなのに。まあいいわ、最後の一杯、私が味わうわよ」
味わうと言いつつ、たった三秒で飲み干した。感心を通り越したエギルの妻だったが、ほかの客が手をあげたため、注文を受けに離れた。
「霊夢、昨日も言いましたけど、人の目がありますから、今の私は酒を飲めません。日本の妖夢は中学生で、酒を飲んだら捕まるのよ」
「なによその中学生って」
「ああ、そういえばあなたはテレビもネットもなかったんでしたね」
「なにしろ貧乏暇なしの生きた見本だから。文々。新聞だけは読んでたけど」
「中学生は中学校に通う生徒のことです。中学校とは寺子屋よりも高度な学校で、一二歳から一五歳くらいの男女が通います。全員が通わされる、義務教育ですよ。人間の里にも近々開校するらしい――わね、制度的にどうするつもりなのかは知りません」
「義務ねえ。そんな歳になっても学校行く必要があるなんて、覚えることが多そうで大変ね」
物心つく前に空を飛んでしまった霊夢は、三歳にして巫女と定められ、八歳で修行に入り、一一歳で継いだ。寺子屋へはろくに通ってない。
「さらに高校と大学もありますよ。広大な国ですからね。一億人以上が住んでますし」
「頭に入れることも多そうだけど、見るほうもあれよね、想像もしてなかった巨石文明よね東京。いまでも目がくらくらするわ――あら、遅かったわね」
霊夢の隣に、すらりとした細身の男性が座った。眼鏡をかけている。
「いくら国が代わりに払ってくれるといっても、ちょっとこれは飲み過ぎだ。事件が大袈裟になってるせいですっかり金食い部署だけど、あまり予算を無駄にしてると、国民がうるさいんだよ」
「菊岡さん、首尾はどうでした?」
この男、その正体は総務省に設置されたSAO事件対策チームの職員で、いわゆる官僚だ。いまは役人の立場からいろいろ動いてる。名を菊岡誠二郎。アポもなく総務省へ乗り込んだ妖夢たちに唯一、まともな興味を示した男だった。
「気が早いね魂魄さんは。じゃあこちらも余計な前置きは抜きにして、さっさと本題に行こう」
スーツの懐より、数枚の写真を取り出した。
「あの手紙に書いてた場所には、たしかに面白いものがあったよ」
妖夢と霊夢に示された写真は、ぎりぎり廃墟のような神社だった。全体的にうす汚れ、瓦はひび割れ、障子は破れ、礎石と柱が一部ずれている。誰もまともに管理する者はいなさそうだが、形は残しているし、雑草も適度に抜かれ、掃除もされている様子だ。
「どこかで見た気がするわね」
「あ、この鳥居のところ、博麗と書いてますよ」
「――外にあるもうひとつの博麗神社ね」
「その通り。この神社は博麗さん、きみの名字とおんなじだ。不思議なものだね。長野から飛んで来たきみの起源が、東京から正反対の東北にあるなんて、それが幻想郷の不思議な特質というものかな。この神社は数奇な歴史を辿っている。唐突に忘れ去られ、誰にも維持管理されなくなったのが推定で明治一八年ごろ――すでに一三八年が経過していた」
「明治一八年……ん? なんの数字だったかしら」
巫女だったくせになに忘れてるんだ、と妖夢。
「幻想郷が異世界化した、博麗大結界ですよ。結界維持のため紫さまによって初代巫女が据え置かれた年です」
常識と非常識を分ける博麗大結界は、非常識しか持たぬ妖怪には長期維持できない。両者を併せ持つ超常の巫女だからこそ、結界を守っていける。
「そうだったの? へー、詳しいわね妖夢」
呆れる妖夢のことも知らず、菊岡が話をつづける。
「不思議なのは、この神社が一三八年も放置されているのに、不自然に綺麗すぎることなんだよ」
「そうなんだ。十分に汚いと思うけど」
「一〇〇年もすると、もっとオドロオドロしい具合になるんだよ――ユイちゃん、いいかな。メールしてあった内容で頼む」
『おまかせ! シミュレーションです!』
カウンターに置かれてる携帯のユイが、アプリケーションを立ち上げた。物理計算なんたら。そこに架空の博麗神社がぽつんと置かれ、境内を掃除する三頭身の巫女もいる。黒髪だが霊夢よりショートヘアで、気弱そうな顔をしている。巫女服も紅白ではなく青白だ。第一四代博麗の巫女、博麗霊眞。
『霊眞さんが住むのに飽きて立ち去りましたー』
CGの霊眞が消えた。とたんに境内が雑草だらけになる。
『誰もいなくなって五年が経過。台風が来ましたよー』
対策なしの神社が荒れてしまう。草の浸食もすごい。
『五〇年が過ぎました』
もはや一帯は草だらけで、木まで生えてきた。鳥居はまだわかるが、社はほとんど見えない。
『一〇〇年後!』
神社のあった場所は完全に森に沈んだ。鳥居と参道の石段だけが、ここに神社があることをかろうじて伝えているが、その石段も植物が繁茂しまくっていて、人がまともに上り下りするなんて、出来そうにない。
『最後に一三八年後です。途中で東日本の大震災があり、鳥居を除いてみんな倒壊しました』
俯瞰図が示された。建物は完全に朽ちて、崩れている。石段にも木が生えてきてその根が段の並びを壊している。道そのものは跡形もない。残存しているのは唯一、鳥居だけだが、赤い塗装は消えてしまい、博麗の文字も読めない。
「へー、世の中には不思議なこともあるのね」
「幻想入りの影響でしょうか? 歴代の巫女が維持しているのが、逆に顕界の神社も守ってきたとか」
「この神社は一部のオカルトマニアに有名な霊的スポットでね。酒を奉納すると、翌日には消えてしまうらしい」
「なんだ、たまに神棚に幻想入りしてた清酒って、そんな理由でやって来てたんだ」
「その件についても稗田の手紙に書いていたよ。なお、この怪現象と幻想郷とを結びつけた考察などほかにひとつもない。長野から離れすぎているからね――あの手紙の主からは、ついでにリクエストを受けた」
菊岡が新たな写真を見せてきた。
「この酒をぜひ奉納してくれってね。そしたら三日もしないうちに、妖怪どもの騒ぎは収まるだろうって――で、奉納してきたのが今日の昼。残してきた部下はまだ確認してないけど、僕は疑っていないよ。きっと無事に届くさ、あちらに」
写真を見た瞬間、霊夢が笑った。
「これは効くわ! やるわねあいつ!」
妖夢も、まさかこんなお茶目をしてくるとは想像もしていなかった。
「……阿求さん、わざわざ迂遠なことを」
菊岡もふたりの反応を見て楽しんでるようだった。
「まだきみたちが幻想郷の住人であるという証拠は揃ってないけど、トリックなしで空を自由自在に飛べるってだけで、検討に値する。僕でよければ全面協力させてもらうよ。SAOに直接エージェントを送り込めるなんて、実現できたら願ってもないチャンスだからね。中の人たちとようやく連絡がとれるし、被害者救出の本分に立ち返ることができるよ」
彼が所属しているチームは最初、『SAO事件被害者救出対策本部』と呼ばれていた。幻想郷が絡んだせいで管轄対象がややこしく広がり、名前が短くなったのだ。
「エージェントとしてお役に立てるのでしたら、私も嬉しいですよ」
妖夢も内心で面白く感じている。キリトが以前、妖夢とアスナの正体を、アーガスや政府の極秘任務を受けた特殊工作員かなにかじゃないかと冗談で言ったことがあった。まさかそのものになろうとは。
「いくら茅場先生が正体を見破られてあの世界から逃げ去ったといっても、なお九〇〇〇人以上のプレイヤーが閉じ込められたままだ……仕様通りであるなら、第一〇〇層まで登り切るしか、被害者を安全に救う方法はない」
最後のほうで、菊岡の表情にかげりが見えた。
「なにか懸念があるのですか」
「第七五層のフロアボスがとんでもない奴だったそうだね」
「はい。私は見ていませんが、魔理沙がアカウント強制停止と引き替えに倒しました。もしまともに戦っていれば、最良の戦士を数十人揃えたとしても、一〇人以上の死者は出しただろうと」
「それに匹敵する理不尽なボスが、第九〇層から第九九層まで、一〇体いる」
事情をろくに知らない霊夢が首をかしげるが、妖夢のほうは蒼白に近かった。
「……六体倒せても、まだ四体残りますね」
「そう。ゲームオーバーと引き替えにチートな戦闘力を解放できる信州美人たちは、のこり六人。でもボスは一〇体。あとの四体は、純粋にプレイヤーたちの力で、対処しなければいけないんだ。残念だけど、僕たちではボスを弱くできない」
「頑張ります!」
妖夢の悲壮な決意とは裏腹に、彼女が手に握ってる写真は、対照的なほどひょうきんだった。
外界の博麗神社、もはや役目を果たさぬ賽銭箱のすこし奥に置かれた、一本の清酒。
そのラベルが貼り替えられ、とある短文がでかでかと記されている。
『稗田なめんな!』
※稗田阿求の年齢
公式設定で一九九四年八月生まれ、二〇二三年三月時点で二八歳。小鈴は二歳引いた。
※第九〇層以上の超ボス群
原作設定。アニメおよびゲームでは無視されたが、アニメ一二話に登場した「九〇層クラス」の死神で片鱗が伺える。