三四 転:幻想大戦・中編

小説
ソード妖夢オンライン6/三一 三二 三三 三四 三五 三六

 谷底で光の粒が立ちのぼっている。
 発生源はひとつの屍。逃げる仲間に踏みつぶされ激しく損壊したゴブリンの死骸が、青い灯火へ包まれていく。銃弾で散った肉片のひとつひとつ、まき散らされた血の染みにいたるまで、その亜人を構成していた粒子のすべてが光へと還元されていた。生者から死者へ、ただの有機物質と化したものが、さらに変化する。リアルにおいては腐敗・白骨化だが、アンダーワールドは違う。
 蛍の光みたいに儚い輝きに覆われていた死体が、空気へ溶けるように消えてしまった。
 まるで立ち上った煙が消失するように、幻の夢のごとく。あとには墓標のように鎧や剣、さまざまな布きれがのこされる。
 これまでになくリアルな現実感を持っている世界だが、宗教画のような「死後」の浄化をみれば、やはり仮想空間なのだと実感せざるを得ない。戦場を縦断飛行する妖夢の足下でそのような変化が断続的に起きている。
「……しょせん『ゲーム』ね。命をかけて戦ってる人たちには悪いけど」
 妖夢の隣を飛ぶ幽々子が、従者の内心を代弁してくれた。
「冥界で彼らと寝食を共にし色々聞いてましたが、実際に見るとでは大違いですね。将軍をはじめみんな心を持った人間なのに、不思議な光景です」
 SAOやALOでは耐久力を失えば人でも物でもすぐ爆散・消滅といった変化を起こすのだが、アンダーワールドは違う。あまりにも極端なダメージを受ければ天命の喪失と同時に消えるが、通常の死は遺体が残り、いっときの猶予を得る。どうも「死体の天命」や「残骸の天命」が発生するようなのだ。それらは状況や条件によってさらに白骨や枯れ木へと転じるが、多くは耐久力が尽きると同時に空気へ溶けるように消えてしまう。
 その喪失はまるで見えざる意思の手によって、天へ還るようにも見え――だからアンダーワールド人は耐久値を『天命』と呼ぶ。
 アンダーワールドの「現実」を確認できたところで、半霊に反応多数。
「幽々子さま、敵の増援です。気の高さからざっと七〇〇〇以上」
「弓や投石にあまり狙われないよう、低空で飛びましょう」
 高度わずか五メートルまで下げたタイミングで、土煙より湧いた、豚の頭を持つ低身長の重装歩兵たちと鉢合わせた。亜人のひとつオーク族。
 キイキイ言って武器を振り上げてるが、妖夢たちには届くはずもない。
 音もなく宙を疾駆する妖夢と幽々子に気付いたオークはごく一部にすぎなかったが、みなが戸惑い恐れている様子だった。白イウムが体ひとつで「飛ぶ」など、前代未聞の秘術だろう。妖夢が聞いた話だと、人が宙に浮く魔術は伝説にあるのみで、使える者は皆無という。それが浮かぶだけに留まらず、鳥のように自分の力で舞い馬より速く飛ぶ光景は、彼らにとって異質すぎる。ふつうは飛竜に騎乗するもので、しかも絶対数が少ないから虎の子の戦力として慎重に扱われる。味方の援護もなしに大集団へ突っ込むなどありえない。妖夢たちはお約束を一から十まで無視していた。
 オークを素通りした白玉楼一行は、峡谷を抜けて闇軍の陣地へと突入した。
 まずはゴブリン族。真っ先に逃げだした右翼部隊で、半数近くの二〇〇〇人に減っている。つぎにジャイアント数百人が茫然と立ちつくし、整合騎士が皆殺しにした連中より平均体格が小さく、なで肩の個体も多かったから、ごく若い戦士や戦える女性だろう。その先にテント並ぶ宿営地があり、ゴブリン族数千人とオーク族数千人が蠢いていた。合わせて一万人はいるだろう。巨人族と同様、小柄で細い者ばかりだった。彼ら彼女らの多くが谷のほうを見つめており、夫や兄、父の勇戦と生還を祈っていただろう。しかし谷より這い出てきた敗残の一隊、その少なさに怨嗟をあげ、泣き出している。最前線ではなおゴブリンの半数が人界軍の砦へ攻撃を仕掛けてるが、すでに一五〇〇人を切っているはずだ。オーク族もいずれ訪れる運命を予感して絶望の色へと染められつつあった。
「私くらいの『子供』もたくさんいますね。予備兵力でしょうけど、個人的には戦場へ出すのはまだ早すぎると思います」
 冥界や幻想郷の価値観に加え、日本の常識も身についている妖夢だった。実年齢は立派なのに、外見と判断力はまだまだ保護者同伴のお年頃だ。SAO初回購入時のドタバタやGGOでの「自滅切腹みょんワールド」に代表されるように、お間抜けな妖夢にとって単独行動は鬼門、誰かの同行はかなり重要だった。SAOだって初日からキリトと一緒で、そのナビゲーション能力からすぐ依存症になり、それが過ぎて惚れてしまうほどだ。
『序盤の戦果が出ました。画像解析と登録していた特徴の分析により、山ゴブリン族長ハガシ、平地ゴブリン族長クビリ、ジャイアント族長シグロシグを確認しました。お三方とも戦死してます。撤退した山ゴブリン族は藍さんが接触したコソギが率いてるようです。オーク族も族長らしき個体を確認しましたが、代替わりしてるようで若い族長でした』
 データは紫の提供だ。この二年あまりはユイがサポーターを務め、妖夢をよりベターな方向へ導いてきた。いまも量子世界へ携帯ガジェットごと実体化するという、科学の常識を逸脱した魔導の道行きを楽しんでいる。
「偶然とはいえユイと仮想世界で話し合えるなんて幸運です。よろしくお願いしますね」
『記録は任せてください』
 液晶画面の中にいるユイが、射命丸文(しゃめいまるあや)のコスプレをしてにこにこ笑っている。多くの命が失われる戦場への恐怖は微塵もない。妖夢の殺伐とした裏面にすっかり毒され、荒事に慣れてしまった。プログラムであるから感情と理性、得手と不得手のバランスは即座に切り替え可能なはずだが、茅場の方針で制作者が人間らしさを求めて組んだようで、ユイには遠回りな「慣れる」が実装されている。そのクッションが豊かな感情再現を実現した。カーディナルシステムで動くAIに共通する特徴だ。
 予備戦力の宿営地を抜けると、狼頭の亜人ども――オーガ族の大集団がいた。人間とジャイアントの中間ほどのサイズで、渓谷へ向けて進軍している。五〇〇〇人以上はいるようだ。
「幽々子さま、飛び道具を持ってますね。避けましょうか?」
 すでに侵入してから聞くあたり呑気なものだった。オーガはみんな弩弓を装備している。形状はボウガンないしクロスボウといったもので、中には一〇人くらいのチームで扱う巨大な弩まであり、移動式大砲のように車輪付き台車へ載せられている。その矢は軽く二~三メートルありそうだ。
 ひとつの巨弩を流し見して、幽々子が言った。
「おそらくバリスタの大型版ね。あの手の攻城兵器は火縄銃や弓矢より遠くから攻撃できるのに、なぜゴブリンたちの支援として序盤から混成させなかったのかしら」
 そのとき正面より空気を裂く音とともに、妖夢の眉間へ矢が当たった。しかし刺さるどころか「ふにゃっ」と奇妙なファンシー音を残しつつ額を撫でるだけに終わり、あっというまに後方へ流れていく。
「時速一〇〇キロは出してるのに、いい腕を持った兵もいますね。人間だったら死んでましたよ」
 飛来は察知していたが、本能が危険をまったく報せなかったので、避ける必要すら覚えなかった。目などの急所なら勘がヤバいと教えてくれる。
 下よりオーガどもの矢が浴びせられるが、妖夢たちが速すぎてほとんど当たらない。ユイの携帯だけは壊れるので半霊の内側へ取り込んだ。
「こんなチンケな矢、いくら当たろうがなんともないわ……このまま直進して妖夢。気になる気配がオーガのあちら側にいるわ」
 はたしてオーガの弓兵部隊を抜けた向こうに、いかにも魔法使いですって長衣とトンガリ帽子の集団がいた。しかもざっと三〇〇〇人、おまけにみんな人間族の女だ。オーガに守られるように戦場へ向かっている。オーガと違って「近接戦闘」は不慣れなようで、妖夢たちに気付いても反応が遅い。
 魔法の火や疾風が後方より襲ってくるが、勝手知ったる弾幕シューター、幽々子も妖夢も軽々と避けてしまう。矢と違ってこちらは痛そうなので、当たらぬに越したことはない。
『妖夢さん、幽々子さん。彼女たちは暗黒術師です』
「武器の扱いは体格的に男が有利だから、女は魔法使いってことかしら? ファンタジー世界らしい大胆な男女分業ね」
「ロングレンジに特化した一万人もの集団です。なにか仕込みがありそうですが、どうします? 直接介入は紫さまの意に反しますよね」
 戦争は一般的な感覚だと悪だろうし、妖夢たちにはこの戦いを止める力がある。だが妖怪が積み重ねた膨大な経験則がアクションを起こさせない。どの文明でも神々が人間の政治へ直接的に関わっていたのは「神代」までだ。神の時代が終わればかならず人の時代がきて、二度と覆らない。
 神はいう。
 人の世界は人の王が治めよ。あとは知らん。
 超常は人の世を加速させ、活発化させる役割を担ってきた。聖は信仰、邪は超克として。いわゆる飴とムチだ。アンダーワールドはとっくに神代をすぎ、幼年期を卒業している。一人前なのに頭ごなしで色々言われると、腹が立つ将軍や貴族も多いだろう。幻想郷が戦争を終わらせればどうなるか先が見えてしまうから、あくまでもアンダーワールドの住人たちで決着させようとしているのだ。この戦いで名をあげ、次世代の指導者となる人たちに「功績」を立てさせるために。民衆は英雄についていくものだ。この世界はアンダーワールド人のものだから、妖怪が英雄などになるのは避けるべきだった。すくなくとも妖夢はそう解釈している。
 紫は戦争後のことを考え、幻想郷の敵を明確にアメリカの干渉へ限定した。それを幽々子も正確に理解している。
「……いちおう紫に念話で伝えておくわ。知らせるだけならズルじゃないと思うから――整合騎士ならなんとかするでしょう。私たちの第一目標はこの先?」
「はい、この先に現代兵器の暴君がいます」
 ミサイルとはすでに一〇回はすれ違っている。
 そのまま敵中を通過した白玉楼の主従ペアは、暗黒界軍の陣地から北寄りに離れたひとつの丘へと向かった。
 いたっ。入念にカモフラージュしてるようでまだ視認できないが、戦闘に専門化した霊力レーダーは誤魔化せない。
「半霊走査による反応は七台で、いずれも金属の塊。おそらく現代兵器です」
 こちらで最新鋭と見られるバリスタは木製だったから間違いない。ターゲットはこの世界にないオーバーテクノロジーの使用者だ。
「妖夢、姿を隠して。紫からの注文なんだけど、完全隠密で闇の中から無力化するわよ」
 紫には境界能力を応用したテレパシーがあって、チャンネルを繋げていれば電話のような遠距離念話が可能だ。幽々子の能力ではない。
「――あっ、最初から隠れていれば良かったですね。矢とか余計なものに追われました」
「いつもの感覚で堂々としすぎて、すっかり忘れてたわ。私がこの戦いに参加する理由って、姿を消せるからなのに」
 なるほどと妖夢。亡霊の得意技だ。
 米軍の干渉がどのような形を取るにせよ、それを排除する上で姿を隠せる妖夢と幽々子の能力はとても重要だ。アンダーワールド人に知られなければ、活躍しても英雄とならずに済む。紫とアリス・マーガトロイドは迎撃専門なのだろう。
「忍者みたいで、わくわくしますね」
 完全に透明となった妖夢は、わずか半年だけの中学時代を思い返した。いつも透明となり、和人の周辺を守護霊みたいに浮かびつつ登校していたものだ。なにしろ有名人だから学外ではマスメディアや見物客が張っていた。
『以降は念話で』
 幽々子の声が妖夢の頭へ響く。ご主人も実体を持っていた亡霊の体を霧散させた。気配まで急速に散っていき、妖夢をもってしてもほとんど感じられない。
『兵士がいればどうします?』
『アンダーワールド人ならまた紫の判断を仰ぐから様子見で。米兵なら斬り捨て御免でいいと思うわ。どうせリアルでは死なないし』
『ペインアブソーバのないこの世界だと、死んだ体験で心的障害になる人もいるんじゃないですか?』
『そこまで責任は持てないわね。これは本物の戦争なのよ』
 ところが。
『無人ね』
『最高感度でも人の反応がありません』
 丘の影にミサイルポッドを載せた装甲車が六台いたが、人間はいない。デザート迷彩の車輌はうまく赤茶色の岩場に溶け込んでいたが、ミサイルを射出する瞬間は丸わかりだ。反撃を受ける心配がないと考えてるのか、撃って移動という機動防御はしてなかった。そこにじっとしている。もっとも無人だから動きようが――
 装甲車どもの前部にある重機関銃が無音で旋回し、宙に浮かぶ妖夢たちへ銃口を向けた。
『およ?』
 数挺による豪快な乱射がはじまった。危険を感じ回避行動に移る。赤外線センサーでも使ってるようで、対空掃射が見えない妖夢と幽々子を正確に狙ってくる。たえず動く妖夢と違い幽々子の「気配」はその場に悠然と佇んでおり、巨大な一二・七ミリ弾がスカスカ抜いていくだけだ。GGOでシノンが使ってる対物ライフルと同口径だから、一発で人間の頭が消し飛ぶようなやつだ。拳銃弾数十発を瞬時に受けるようなもの。妖夢でも当たればめちゃくちゃ痛いし、たくさん食らえば死ぬだろう。
『いいなあ幽々子さま。私も「幽体」になれますけど、服も剣も落としてしまいますし』
 透明になるにも二段階ある。姿を見えなくするだけと、完全に幽霊と同質化してしまうものだ。ただし妖夢は着てる服ごと透明にはなれても、その物性までも霊には出来ない。半霊に「持たせる」ことは可能だが……。
『妖夢、やつらには空を飛ぶ「目」がいるようよ。私がそれを倒してるから、あなたは下を』
 そういえば反応は七つあったのに下の車輌は六つしかない。最後の反応は――
『幽々子さま、一機が逃げてます! 方向は……南南西!』
『ま~~て~~』
 ご主人の気配が遠ざかっていくのを見送ると、楼観と白楼を抜き降下しつつ封印解除。
『言霊――名前知らないけど、軍用の砲車っぽいの!』
 楼観剣と白楼剣が青白い励起の輝きに彩られた。おそるべしは言の葉(ことのは)御霊(みたま)、いいかげんなターゲット指定でも効いてしまう。姿を隠した妖夢は見えず、二本の白刃のみが幽幻のように浮かびほのかに青く煌めいている。
 切れ味一〇倍のチート霊剣で、軍用装甲車をサクサク始末していくお仕事の開幕だ。世界最強の米軍であるから、装甲車クラスですでにアサルトライフルやサブマシンガンを跳ね返し、対戦車地雷すら効かぬ。それでも霊力と妖力で強化された斬鉄剣は想定外だろう。
 上下左右にマシンガンを避けながら数秒溜め、霊撃のパワーを解き放つ。
 結跏趺斬(けっかふざん)
 二刀の動きは下から上への同時クロス斬撃だが、そこより濃厚な剣気の塊がX字形に放散、哀れな装甲車をチーズのように撫で斬ってしまう。金属質の破断音が悲鳴のように響いた。物理的に斬るには大きすぎる獲物や、広範囲に散らばってるものを短時間で切り刻みたいときに便利だ。
 魂魄流の基本は急所狙いだが、妖夢は兵器どころか自動車にすら詳しくない。装甲車やミサイルポッドの弱点など分からないし、さきほどのように自分も巻き込まれたら息もできず大変だから、離れて大雑把に破壊すれば刃こぼれの心配もなく一石二鳥。
 さすがは複合装甲の現代兵器、一度で破壊するには頑丈すぎたが、四度目か五度目でガソリンに引火して燃え上がり、さらに熱を持った火薬が誘爆し黒い煙をあげながら爆発した。
 細腕でありながら生じる破壊力は想像を絶する。しかしこの結跏趺斬は魂魄流でも通常技のひとつにすぎない。
 おなじ要領で三台を倒したところで、残ったミサイル車輌三台がいきなり巨大な噴煙に包まれる。煙幕弾のような音とともに、束となって飛んでいく白い柱の数々。二〇発はあるが、生やした翼を震わせながら猛烈な速度で消えていく。無人運用のくせにすべてのミサイルを同時射出してしまったようだ。
 すかさずミサイルを追ったが、数が多すぎて五発しか破壊できなかった。妖夢の最高速は音速近くに達するも、長くはつづかない。ミサイルはその音速まで容易に加速し、さらに速度を増しつつあっというまに妖夢を置いていく。長さ二メートル以上、推定三〇〇キロの暴力。弾頭の炸薬だけで一〇〇キログラム以上ありそうだ。
 超音速ミサイルを追う能力など妖夢にはない。弾幕で倒そうにも妖夢自身の縮地がエネルギー弾より速いほどだ。あとは紫たちの迎撃成功を祈るしかなかった。
 視界の隅が明るくなったので見上げると、空にひとつの花火が開いている。
「幽々子さまがやったんですね。私も後片付けしないと」
 地上へ戻り、残ったミサイル装甲車へ引導を渡した。
     *        *
 暗黒皇帝ベクタの威光はすでに斜陽へ陰っている。
 アンダーワールドの時間軸で八日前、ベクタ神が降臨したダークテリトリー首都オブシディアは大興奮に包まれた。三〇〇年以上も不在だった皇帝が、大門崩壊の間際になってついに還ってこられたからだ。
 ヒューマンエンパイアに対する暗黒界人の数少ない優越感は、最高執政官が神であること。人界には神がいない。四人の皇帝が東西南北四つの帝国を統治し、中央に公理教会が君臨しているが、みんな人だ。ただダークテリトリーにとって不幸なことに、ベクタ神はず~~~っと不在だった。神さえ降りれば、ベクタ様さえ――長くつづく戦乱と餓え、悲観の中で人々は神の来臨を望み、やっと実現した。
 ダークテリトリー軍の戦意は最高潮に沸騰した。
 だが蓋を開けてみればどうだ? 先鋒となったゴブリン二部族とジャイアント族、さらにオーク族は攻城兵器の援護すらなく新兵器鉄砲の前に半壊、十侯のうち三人が戦死し、銃器相手に前へ出る愚を控えたオーク族長リルピリンのみが亜人部隊をまとめている。人界軍には損害らしい損害もない。アンダーワールドは「ゲーム」なので、上級貴族ユニットの継承はしかるべきイベントを執り行わなければならず、こんな荒野の真ん中では無理だ。つまりゴブリンとジャイアントはもはや統一的な行動が取れない。
 亜人の間隙を縫うはずだった暗黒術師の魔導生物ミニオン八〇〇匹は、整合騎士ベルクーリの心意が斬り裂いた。整合騎士長の神器はその名を時穿剣(じせんけん)と呼ぶ。普段はただの剣だが、心意を乗せれば時を斬る剣となる。いまいち曖昧で幅広い魂魄流の刻斬りと違い、斬った効果の発動に時間差を付けるだけの明快にして強力な技だ。今回は夜中のうちに飛竜に乗って谷の上空をくまなく切り裂いておき、ミニオンどもが突入してきたタイミングで「斬った記憶」を解き放った。
 現在は第二陣のオーガ族&暗黒術師が谷へ進入しつつある。これがやられたら拳闘士団および暗黒騎士団およそ一万が控える構図だが、亜人たちをはじめ彼らの高揚はすでに低下気味だ。
 その理由は人界軍の極端な堅さにある。将軍たちすら知らない謎の超高速飛翔体が、すべて砦に届いてない。
 いまも同時に一五本の疾風迅雷が襲ってきたというのに、すべて光る円陣と巨大な人形に阻まれ、特大の爆炎が連続でド派手に沸き上がる。すさまじいばかりに激しい熱風と轟音が起こり、人界軍も暗黒界軍も戦闘行為を一時的に中断した。
 衝撃波のエコーが消え巻き上げられていた土埃が薄まってくると、人界の陣地は堅固なまま、白煙の彼方に健在だ。砦の衛士たちは鬨の声をあげ士気も高い。暗黒界軍へ味方していると思われた謎の攻撃は、皮肉なことに亜人部隊へばかり被害を出している。爆風と破片がすべてオークたちへと降り注ぐからだ。オーク族を主力とするゴブリンとの亜人混成部隊がかろうじて戦線を支えているが、戦場は累々と転がる血肉で凄惨をきわめている。ゴブリン・ジャイアント・オークの死傷者はとっくに五〇〇〇人を超えているが、人界側はまだ二桁にも達してないだろう。
 あまりの「防御力」に、オーガと暗黒術師は悲壮感まるだしだ。整合騎士を倒すため何十年も研究してきた長距離術式が効くのかどうか、甚だしく疑問に思うのも仕方ない。
 ゲームシステム的な縛りによって命令に逆らえないので、死ぬ確率が高いと分かってる恐怖の戦場へしずしずと進む。自殺的な命令を発したベクタはダークテリトリーに一体しかいない「王ユニット」なのだ。その下は「諸侯ユニット」ないし「将軍ユニット」で、将軍・団長・族長・ギルド長・貴族といった名前で呼ばれる。彼ら将軍は王の命令に抗えない。その下には隊長がいて将軍に逆らえず――と、命令権の階層構造が末端までつづく。妖夢の目前でゴブリンの半数がいきなり撤退したのは、族長が死んで命令がリセットされ、次席にあったコソギが転進を指示したからだ。
 オーガの将軍・族長フルグルは第二陣集団の先頭近くにいた。伝統に習っただけだったが、今回はあまりにも相手が悪すぎた。
「放て!」「放て!」「放て!」
 人界軍の鉄砲が、射程外四〇〇メートルで火を噴く。
 ただし三段撃ちではない。一五〇〇丁による斉射だった。直接狙っても遠すぎて当たらないから、空へ向けて放ったのだ。矢のような放物線を描いた鉛の弾が、オークとゴブリンどもの頭上をはるかに抜いて、後方から来ていたオーガ族の戦士たちを襲う。妖夢たちの偵察で攻城兵器の情報を得たベルクーリが、この撃ち方を指示した。ゴブリンたちの尊い犠牲で有効射程を掴んでいたから、まさかの襲撃にオーガ族の先頭集団は混乱する。
 人界軍にとって幸運なことに、またオーガ族にとって不運なことに、最初の斉射でフルグルが戦死した。首領を失ったオーガ族はベクタ神の無慈悲より解放され、たちまちその足を鈍らせた。突撃が義務でなくなった時点で、ゴブリンとジャイアント、ミニオンにオーク、さらに謎の飛翔体がすべて退けられている悪夢が恐怖の形をとって足腰にからみつき、彼らの足を重くする。だが後方の部隊にはまだ恐怖が沈殿していない。足を竦ませた前列と、後方より詰めてくる健脚とが押し合いへし合い、第二陣は渋滞をはじめた。
「放て!」「放て!」「放て!」
 人界軍の鉛玉が雨あられとオーガたちを貫いていく。密集してしまった大柄のオーガがつぎつぎと倒れ、犬顔に苦痛の表情を浮かべ、命を散らせていた。ここに来てオーガも反撃を行った。アンダーワールドのオーガ族は元々草原に住まう狩猟の民。狼人間のような体型を持ちながら大きすぎて速く走れないオーガは、その不利を補うように弓術の名手となった。彼らのほとんどがクロスボウを持っており、その有効射程は水平撃ちでも二〇〇メートルはある。後方にいる魔女たちの攻撃術式を乗せて放つ手筈だったが、とても待ってはいられなかった。
 人界軍にも被害が生じ始めていた。八雲紫の弾幕結界はあくまでも対米専用で、アンダーワールド人同士の戦いには素知らぬ顔だ。鉄砲持ちにはオーガの矢も防いでくれるものと勘違いしていた者も多く、ひゅんひゅん飛んできた矢を笑顔で迎え、あっさり目や喉を貫かれ、笑い顔のまま倒れて死ぬ者もいた。不気味な笑顔の死体が二〇人を超えたところで、人界防衛隊もようやくこれが殺し殺される戦いなのだと思い出し、各所に設置された矢盾の裏へ寄せ集まるように隠れる。これからが戦争なのだと、ハンティングゲームの終わりを告げていた。
 八雲紫は動かず宙で戦況を督戦し、アリス・マーガトロイドの巨大人形も表面のあちこちを黒こげに汚したまま立ちつくしている。衛士たちは身を以て幻想郷のメッセージを理解した。
「うろたえるな! 私たちの勝利は、みずからの手で勝ち取るのよ! ――放てぇ!」
 副騎士長ファナティオの号令一下、弾ごめを終えていた衛士がオーガ目掛けて反撃の発砲を行う。
 鉄砲隊がオーガを相手にしているので、攻撃を受けなくなったオークとゴブリンたちは士気を高めた。これでやれると。
 オーク族長リルピリンが剣を振り、合図する。
「全軍突撃! 白イウムどもを殺し尽くせぇ!」
 豚顔の小男たちが果敢な特攻を開始した。軽装なゴブリンや無謀な死戦を行ったジャイアントと違い、オークは丈夫な装甲で身を固め、背が低く皮下脂肪も厚いので、鉄砲への耐性が意外に高かった。おかげで死傷者はまだ一〇〇〇人ていどで済んでいる……通常の戦いならすでに敗北同然の損害だが、いまは世界大戦だ。
 族長を失ったゴブリンもリルピリンの命令に従って走りだした。ダークテリトリーは力が支配する世界だ。上位者がいないなら、とりあえずほかの種族からの命令だろうが便乗してしまう。将軍ユニットの威光とはそういうものなのだ――
 彼らの突進はしかし、公理教会が二〇〇年以上をかけて構築した整合騎士の肉弾壁によって阻まれた。
 まったく音を立てずに登場した、漆黒の極細剣を構える、うら若き女性棋士。
「整合騎士シェータ……楽しく・無音に・壊すよ?」
 薄刃のブーメラン二枚を両手に握る少年騎士。
「ぼくは整合騎士レンリ。妖夢さんのような働きは無理でも――二刀の錆びにする!」
 無音の殺戮者とブーメラン剣の圧倒的な攻撃力で、わずか数秒のうちに一〇人以上の亜人が倒れる。だがオークたちは先陣を切った少年少女へ殺気剥き出しで蛮刀を振りかざす。いくら殺されようがつぎからつぎへと大将首めがけ洪水のように押し寄せる。シェータとレンリだけに任せておけぬと、デュソルバートとエルドリエが砦の門前に出て燃える弓と無限の鞭をぶっぱなす。さらに十数名の騎士が戦列へ参加し、最後にキリトとアスナ。
「アスナいいのか? 彼らは本物の『命』を持ってるんだぞ」
「……キリトくんの運命と苦悩を私も分かち合いたいの」
 腰のレイピアを抜いたアスナが、いきなりその細剣へソードスキル特有の輝きと溜めサウンドを纏わせた。
「ソードスキルが使えるって、変な世界よね」
 数歩の助走をへて、猛烈な超加速。妖夢の縮地を彷彿とさせる閃光が雷鳴とともに炸裂し、彗星の尾をひいたエフェクトが散った彼方に、五体のオークが吹っ飛んでいた。全員が血しぶきを残して一〇メートル以上は跳ね飛ばされている。フラッシング・ペネトレイター、細剣スキル最上級剣技のひとつだ。
 赤く染まったオークたちは全員が死体の仲間入りを果たしたが。
「……どうして邪魔をしたの?」
 アスナのすぐ前にゆったりとした衣装の背中があった。隆々として無骨な筋肉と無駄のない動きが彼の力量を物語っている。その彼が一グラムの贅肉もない右腕で長剣を下に振る。勢いで剣に付いてた血と脂が飛ぶ。アスナの剣は曇りなき銀色のままだ。
「嬢ちゃん、いくら『ステイシア神』さまだからって、あんたがオーク相手に戦う理由はねえ」
 颯爽ときびすを返した中年男性が、スーパーアカウント創世神ステイシアを諭すような目で見ている。
「幻想郷の妖怪が揃って『殺し』を拒否してんのに、その掟を破っちゃダメだぜ?」
 アスナの剣先が小刻みに振動しはじめた。武器を持たない左手のほうも寒風に当たったみたいな震えっぷりだ。
「……だって、私はこちらで死んでもリアルでは死なないわ。神さまユニットでチートな強さなんだから、みんなを守ってあげられるのに! お世話になった守備軍の人たちがつぎつぎと亡くなってるのに、アメリカ以外にはなにもするなって、藍さんや紫さんの考えが分からない」
「これがあちらで言う反抗期ってやつか? オレみてぇに長く生きてれば、妖怪どものおかしな思考もなんとか理解できるが……おい坊や、奥さんの暴走を止めてくれや。あちらじゃ殺人ってすげえ裁きに合う重罪なんだろ?」
 ダークテリトリーは力こそすべての無法地帯、ヒューマンエンパイアは禁忌目録で殺人が不可能だった。だから罰則規定をもうけた法律として、殺人を禁止するものがない。せいぜい努力目標だ。
 キリトがアスナの肩へ手を置く。
「考えるのは後でいいから、ここは黙って引いてくれ。俺も完全に納得できてるわけじゃないが、ベルクーリさんから指揮だけ許されて、直接は手出し禁止を言い渡されてるんだ」
 アスナが彼氏の背中を見れば、夜空の剣は鞘の中、背負ったままだ。砦から出てる危険な場所なのに、剣すら抜かない意味の重さに、アスナも気付かされた。
「これは本音だが、殺しの体験は妖夢と俺だけで十分だ。アスナには人殺しになってほしくない……これでいいのかおっさん」
 整合騎士長ベルクーリが短く刈り込んだ青髪を左手で掻きながら、説教じみた口調で語る。
「おっさんだとぉ? これでもオレ、総大将さまだぞ? なんでこんな説得役しなくちゃなんねえのかね。えーとな嬢ちゃん、若いさかりの義憤ってのは、不正と圧政へ立ち向かうにはいいんだよ。キリトみてえに革命を起こしちまうこともある。オレをはじめみんな救われたさ。だがいまやってんのは戦争だ。あいつらとは対等なわけでな、こういうのはどちらも善でどちらも悪って決まってるもんさ。嬢ちゃんはオレらの戦争に関係ない異邦人だろ? 天職で衛士やってるわけじゃねえし、守るべき大切な人もキリトだけだ。だからまぁ、アメリカって奴らの脅威がまた出てくるまで、大人しく待機しといてくれや」
     *        *
 戦闘後、姿を隠したまま空を飛んでいる。高度を取ってるので声を出して話す。
「紫からテレパシーよ。全弾迎撃に成功、人界軍は無事だって」
「良かった」
 胸をなで下ろした妖夢である。
 半霊に取り込まれた防護状態のまま、ユイが液晶内で手を挙げた。
『妖夢さん、データベースに該当する情報がありました。レギオン・システムです』
「レギオン?」
『米軍が開発しているAI兵器システムです。無人偵察機と無人自走砲で構成されていましたし、自己保存より作戦遂行を優先した「死蔵回避」の緊急行動を取りましたから、間違いありません』
 無人偵察機は長時間飛行が可能なかわりに武装が貧弱だから、その低火力を長距離砲撃でカバーするらしい。偵察機が目となり、見えない場所から一方的に痛めつける。前世紀末からアメリカが得意としてきた戦術を自動化したものといえる。
『偵察と攻撃をタイムラグなしに行えますから強力ですが、問題もあります。いまの全弾発射は正規軍同士の戦いなら妥当な判断でしたが、対テロ戦争・対ゲリラ戦で行えば過剰な火力で無辜の市民を大勢巻き込む可能性が高く、国際的な非難を浴びるでしょう』
「……人工知能の性能が、まだ人間の判断力に届いてないのね」
『皮肉なことに世界でもっとも進んだAIはゲームの世界、ザ・シード・ネクサスに潜んでいますよ。私やカデ子さんのことですが、経験と生活の蓄積はなによりも重要ってわけですね。民生基準で軍事技術を軽々と超越してしまう茅場さんはとんでもない大天才です』
 癖のようにえっへんと胸を張ったユイ。忌避される大悪党だろうとも、彼女にとっては畏敬すべき創造主だ。ザ・シードで動くVRMMOには風変わりなNPCが多く、自我に近い意識を持ってしまった個体もいて、最近もALOで嘉手納アガサが意識化NPCを救ったばかりだ。ユイほどになれば茅場と菊岡がともに霊魂なき自我と認めている。茅場の夢が詰まってるカーディナルシステムのコードには、人間のデザインや仕様を離れて独自化しようとするアルゴリズムが隠れている。エクスキャリバーのときのような「やりすぎ」をバグと見るかどうかは人次第だ。
 人工知能の自立は『具現化する異世界』の実現に必須となる隠れ概念で、心意とは対にある――
「ユイはアンダーワールド人たちをどう思いますか?」
『アリス・ツーベルクさんやユージオさんは人間以外の何者でもありません』
 強い断定で言い切ったユイ。妖夢も同感だ。
「……どうしてラースと菊岡さんは、人間の魂と文明をそのまま仮想世界で再現したのでしょう」
「妖夢らしいわね。そんな基本的なことすら考えず戦いへ参加してるなんて――紫が言ったでしょ? 人工知能、それも軍事的な研究だと」
「人工知能って、さっき倒したレギオンを操ってたプログラムのことですよね幽々子さま。でも暗黒将軍さんやユージオさんたちは死後の世界へ来ちゃいますし、とても人工知能には見えませんが」
「ユイ、妖夢に説明してあげて。私じゃ簡単には話せないわ」
 おつむが悪くてすいませんと頭を下げる妖夢。
『それにはまず私のことから説明する必要がありますね。高度な人工知能は限りなく人間へ近づきますが、私のようにプログラムベースで動くタイプは原理的に人間の真似しかできません。トップダウン型というのですが、最初から大人として産まれる知能と考えれば分かりやすいと思います。大人の脳って子供ほど柔軟じゃありませんよね? 知能指数と処理速度はいくらでもブーストできますが、どこまで行っても参謀が関の山です。このトップダウン型と並立するのがボトムアップ型といって、赤ちゃんから育てるイメージとなります』
「……だから世界から創った?」
『そうです。天文学的に膨大な無駄と体験を経て、アルゴリズムとコードそのものを自前で構築していくんです。原理的に人間とまったく同じ人格を得られ、究極的には適応性において抜き去ることも可能。ただしこれまでボトムアップ型の研究はろくに進みませんでした。理由はコンピュータの処理速度がボトムアップを実現するには遅すぎたからです。人間の脳を生体コンピュータと考えると、覚醒中は多くの脳神経細胞がたえず活動しており、たくさんのCPUが同時に動いてると仮定できます。CPUの数が限られる従来のコンピュータではとてもシミュレートが追い付きません。スーパーコンピュータはサイズが巨大すぎて根本解決になりません』
 最新のスーパーコンピュータは冷却装置だけで体育館サイズになるし、ヘクタール単位の土地が必要だ。
「そこで量子コンピュータなのね」
 量子と呼ばれるミクロ環境では、一個の電子が同時にたくさん存在しているようにふるまう。それを扱う学問を量子力学や量子論と呼び、おもにエレクトロニクス方面で二〇世紀後半から数々の技術や製品として実用化されてきた。情報化社会は量子の理解なくして成り立たない。その量子技術が掲げる究極目標のひとつが、コンピュータの心臓部CPU――中央演算処理装置を量子技術で動かす量子コンピュータだ。電子一個のふるまいを一〇個にも一〇〇個にも増やせるから、コスト辺りの処理速度を飛躍的に増大できる。
『おかげでSTLを実用化できたようですが、データ処理パターンなどの共通性から、基幹技術にメディキュボイドとその実証試験データが使われていますね。どこまでも茅場さんと繋がってます』
 茅場が発案したメディキュボイドのシンクロ率はナーヴギアやアミュスフィアどころの比ではない。さぞや膨大な有為のデータが取れたことだろう。
「ユウキはこの世界の母胎だとでもいうの? 彼女の闘病は兵器のためだったと?」
「妖夢、感情的になってるわよ。もっと酷い結論が待ってるのに」
 声の調子がやや荒くなってきていた。
「すいません幽々子さま……ユイ、もうヒントは不要です。小さなアリスが『普通になる』と言ったこと、そのアリスをラースが求めていたこと。アリシゼーション計画という名前」
 一呼吸おいて、妖夢はつづけた。
「ラースは『人権のない高適応人格』が欲しかったんですね」
 ユイの返答には若干の間があった。
『――私も推測を重ねてるだけですが、おそらく真実から大差はないと思います。人間でないならレギオンみたいにいくら「戦死」しようとも、倫理的に問題なく大丈夫だと強弁できます』
 電子の妖精にも葛藤と悩みがあると、妖夢も知っている。日本人として仮承認されてる妖夢と違って、ユイには人権がない。妖夢の所有物という形でのみ、法律的に保護される。日本政府は幻想郷を取り込む戦略として、妖怪の権利に前向きだ。与えるには基準が必要で、策定を目指して活発に議論を重ねているが、日本国籍の条件が「死後に霊界へ導かれる魂を持つ」と定義されてしまえば、ユイの未来は「道具」のままとなる。
『……そもそも戦争で無人兵器を使おうという発想自体が、人命・人権を考慮しなくて済む先進国のエゴなのですが、私のような従来型のトップダウンAIでなく、わざわざ人間の魂を量子コピーしてアプローチするとは、悪魔の所業と言われても仕方ありませんね。ボトムアップ型にはそのうち人間を超越して人類社会そのものへ牙をむくリスクがあるのに、それでも挑んでるのが軍事技術らしいです』
「ユイ――」
 あくまでも自分の件は置いて客観的に務めようとするユイ。その健気さに妖夢はすこし胸を打たれた。
「もぐもぐ……私が紫から聞いた話だと、魂のコピーは赤ちゃんを利用したそうよ。そこから何十という世代を重ねたから、もはや別物って解釈かしら? 詳細や真相は菊岡を絞らないと分からないでしょうけど。ちなみに限界突破した子がアリスって名前だったのは偶然よ。まるで運命的な一致ね」
「アリシゼーションのゴールがアリスだったのは、運命の神さまが仕込んだ抗議みたいなものだと思います。それにしても酷く(いびつ)な技術ですね。アリスの魂はいくらでもコピー可能で、しかも記憶ブロックも記憶操作も思いのままなんですよね? 労せずして死を怖れぬ優秀な兵器に仕立てられますよこれ」
『なにしろデータとして扱えますから……茅場さんは私をコピー不可能な仕様にしてくれました。メディア間の移動しかできませんから、おかげで魂魄ユイはただひとつ、唯一のユイとして存在できます』
 そこはユイの誇りであるようだ。
「和人からアルバイトの内容を聞いたときは、記憶を封じる機能の深刻さに、私も和人もそして明日奈さえ気付きませんでした。日本に長く暮らしすぎて、剣士なのに平和ボケしてましたね。不覚です」
 妖夢の手にかすかな感触が。どうも幽々子が手を繋いできたようだ。すこしは気が休まる。
「まだ妖夢が頭に入れておくべき情報があるわよ。それはアメリカと戦ってる理由。外交問題に発展するリスク覚悟で米国の特殊部隊が同盟国の研究施設に武力介入してきた目的はまさにアリスらしいのよ。ニードルス技術からSTLまで、茅場が牽引して蒔いた種はみんな立派に育ち、日本の仮想現実技術はあまりにも先行しすぎたわ。さらに無人兵器は二一世紀の戦場を支配すると言われてるから、これ以上離されないよう干渉してきたのよ。どうやって情報を掴んでるのか知らないけど、アリス・ツーベルクのデータレベルでの奪取が目的ね。肝心の制御技術がないのに襲ってくるのも変だけど、それほどあちらは心理的に追い詰められてるのかしら」
『冷戦の勝者となったアメリカはあらゆる軍事分野で世界最先端を行ってます。それが一分野とはいえ他国に大きくリードされるのは「世界の警察」として我慢できないのでしょう。元々アリシゼーション計画の前進までは、日米共同でニードルスのシミュレータ開発を進めていました。SAOのベータテストがあった時期を境に、統括リーダーだった菊岡さんが自衛隊独自へと切り替え、茅場さんの後輩だった比嘉(ひが)タケルを主任に招いてAI研究と統合したのです』
「米国には悪いけど、その傲慢なプライドをせいぜい利用しようってのが幻想郷の立場ね」
 比嘉タケルといえば、SAO事件終了後に菊岡から紹介されたことがある。妖夢がSAO復帰の活動で菊岡と接触したとき、車の運転手をしていた金髪だ。幻想郷に関係なく最初からそういう研究を志していたのだ。SAO事件に対策チームとして関わっていたのも、おそらく様々なデータを得るため。仮想現実を利用したAI育成はすでに計画されていた。ユイに色々と友誼をはかってくれたのも、ユイが自発進化型の高機能AIで、貴重な比較サンプルだったからだろう。ようやくいろんな情報の糸が妖夢の中でひとつに繋がった。
「……前も聞きましたが、ことを大きくしてアンダーワールド人の権利を日本に認めさせるんですね? それがレミリアの言っていた歴史の転換で、妖怪の人権もねじ込む――つまり何段階もすっ飛ばして日本人になる。この事件に乗らずとも私たちは一定の権利を得るでしょうが、日本側も無原則に解禁はしてくれないでしょう。最初は保護動物みたいな飼い殺しにして、日常生活の中ですこしずつ幻想郷を崩しにかかると思います。幻想郷が自立性を保ったまま門戸を開放するには、絶対的なアドバンテージが必要です」
「上手に答えたわね。いつもそれくらい頭がはっきりしてれば白玉楼の守りも安泰なのに」
 お互いに姿を消して表情が見えない状態に妖夢は感謝した。
「たびたび庭園を壊してすいません――壊れるといえば戦争でアンダーワールド人がたくさん亡くなってますよね。それを見逃してるのを責められたらどうしますか? 力を持ってるなら全力で干渉し戦いを止めさせるべきだと考える人も多いと思います。私も最初はそうするのかなと漠然と思ってました」
「異変でないと正義として動かないとか、アンダーワールド人が誇り高いとか、紫が適当なこと言ってたけど、あれはたぶん外向けの屁理屈よ。スマートに見えるとそういうものかって考える人もいるし、政治家はとくに建前に弱いから。私が思うに、本音は残酷な切り捨てね。あの人たちを人質にされないために。剣舞郷異変ではずっとリードしていたと思ってたのに、終わりはどうなったかしら?」
「異変として挑んだ結果、終始プレイヤーを人質に取られて行動を制限され、茅場に負けてしまいました」
「その通り。今回の敵は茅場以上に強大だから絶対に負けるわけにいかないの。政治だって与党は大義で動き、野党は博愛を叫ぶわ。かつて博愛で負けたのだから、今回は大義を優先し小義を捨てるのよ。しかも紫とレミリアのスケジュールはすでに狂ってしまった……私たちの第一目標はまず魂の研究を地球規模で禁止させる状況を創出すること。それは冥界の破綻を確実に防ぐし、妖怪を殺せる武器の登場を遅らせる効果もあるわ。その間に私たちは出来うるかぎりの安全を築く計画ってわけ。異国の神を使役できる者が相手なのに、正義の調停者を気取ってあれもこれもと欲張っても、すべてを得られるわけじゃない。アンダーワールド人の生命と私たちの未来は、とても天秤に掛けられない。なのに紫がユージオと幼いアリスの魂を救ったのは、変革者となる桐ヶ谷和人とアリス・ツーベルクへ恩を押し売るためよ。これからアンダーワールドを掻き乱すけど、たくさん人が死ぬのを見過ごすけど、許してねごめんと。この世界がどれほど荒廃しようとも、和人とアリスは返しきれない恩に縛られる。くっくっく、紫も(ワル)よのう」
 なぜに最後が時代劇口調?
「幽々子さま、どうして剣術家にすぎない私にそこまで話してくださるのですか?」
「それはね、あなたも原罪を負っているからよ。想定外だった『神々の進撃』はね――」
 妖夢の胸に数回の軽い圧迫感。透明な幽々子がつんつんと突いたようだ。
「――妖夢、あなたのために『和人が生還するルート』を守ろうとして、その隙を狙われて起きてしまった可能性が高いのよ」
 紫は意外な包容力から最大効率を求めず保守的に動くこともあり、幻想郷の命運を賭けた大勝負でも非情になりきれない。かつて茅場晶彦に勝てなかったゆえんである。それは今回も身内に対しては変わらなかったようだ。
「私に配慮したせいですか……プレッシャーを掛けてきましたね。気が引き締まりました」
 異世界の訪問と具象に取り憑かれていた茅場は幻想郷の味方となってくれたが、いまの敵は無尽の戦力を保有するアメリカ軍であり、さらに異邦の神々を使役する謎の誰かであり、これに勝ってもまだ日本との交渉や世論誘導の工作が控えている。二年前のように負けるわけにはいかない。
「分かるわね妖夢。人間の欲と望みと畏れが形になったものが妖怪だから、享楽と仁義と任侠に生きるヤクザ者にすぎないの。即物的なバケモノの本義に沿うのだから、恥でもなんでもないわ。むしろ人間の写し鏡らしい行動なんじゃない? ――さて、駆除すべき害虫は何処にいるのかしら」
 いつのまにか眼下に灰色の軍勢が広がっている。ダークテリトリー軍の本陣だった。
     *        *
 生命を的とした射撃大会に熱中しているオーガ兵団の、さらに後方で――
「勝手に撃つか、能なしの犬ども!」
 魔女たちを率いる高位暗黒術師の抗議は届かない。オーガのトップが死んでしまっており、指揮系統は機能喪失、小集団ごとに隊長が指示を出している。攻撃を受けてるのだから反撃は当然の流儀だった。
 肝心のオーガ部隊がバラバラに攻撃してる状態では起術できない。集団魔法はタイミングを合わせないと成功しないからだ。作戦中断の危機を回避するため、高位術師は伝令術師の遠話術で本陣にいる術師総長ディー・アイ・エルへ指示を仰いだ。遠征軍の参謀長でもあるディーは思い切った手を打った。オーガの前半分三〇〇〇人は各隊の判断に任せると正式に許可し、後ろ半分四〇〇〇人を指揮下へと置き、部隊再編に成功した。半数に減った弓兵に合わせ術式を再構成し、いよいよ集団魔法を実施する。四〇〇〇本の弓が引き絞られた後方で暗黒術師三〇〇〇人の共同詠唱が始まったが、すでに遅すぎた。
「大変です! 広域焼却弾の空間暗黒力が足りません!」
「なんだと?」
 人界で神聖力、闇界で暗黒力と呼ばれるものは、まったく等しい力だ。アンダーワールドの魔法は空間に満ちるシステムリソースを操り、物理演算から離れた仕事をライトキューブ・クラスター・サーバにさせる行為。空間力ある限り魔力は尽きず、行使権限が高いほど複雑な奇跡を起こせる。魔法使い同士の争いは域内リソースの効率的な奪い合いといえ――
 人界軍側が空間リソースの集中奪取に成功した証拠だった。暗黒界軍が整合騎士対策の秘術を開発していたように、整合騎士も対軍隊用の大規模破壊魔法を編み出していた。
「――未知の大型術式、来ます!」
     *        *
 軍需企業の依頼とアメリカ軍の協力を得てオーシャンタートルを襲撃したチームのリーダー、ガブリエル・ミラーの経歴や為人(ひととなり)を妖夢は知らない。彼に恨みはないが、同時になんの興味も持っていなかった。
 そのミラー当人が「闇神ベクタ」として降臨し、ダークテリトリー軍を率いているという。
 彼の目的はアリスの確保。内部より特定の操作をすれば、アリス・ツーベルクのライトキューブからフラクトライト情報をまるごと外へ転送できる仕様らしい。アンダーワールド人のログアウトを実現する機械があるようだ――ところが。
「紫の話だと、じつは間に合ってないらしいのよ、その実装。エイリアン・ショックで公表された様々なブレイクスルーによって、オーシャンタートルって予定より一年も早く運用段階に入ったから、方面ごとに完成度がちぐはぐなのね。まさか慣らし運転にすぎなかった初回の文明シミュレートで核心の『アリス』が誕生するとは、菊岡氏も思ってなかったようね。これもフルダイブの天才キリトが触媒となったおかげ。それまでのストレステストはなんの実りもなかったと聞くわ」
 ユイが補足する。
『次世代AIの要求レベルが高いので、簡単に誕生すると思われてなかったんです。忠実な一般兵なら私レベルのAIで済みますが、ラースや米国が開発しているのは下士官から上の個体ですね。高度な判断力を求められますから、白玉楼の前で難民プレイにふけるような人格では不適格だったと。世界そのものが極端ですから、アンダーワールド人の性質は偏りがちですが、ラースは普通でかつ優秀な人が欲しいんです。変化を起こすには刺激が必要で、ラースも数々のファクターを仕込んできたのですが、そのうち和人さんだけが突出して有効な影響を与え、アリスさんを「普通」にしました。おそらくユージオさんも同じだと思います。レミリアさん風にいえば、歴史はこのときから新時代の幕開けへ向けて走り始めたってところでしょうか』
 和人ってば、まさに主役。
「ユージオも突破フラクトライトの仲間なの? 和人ったらその場にいるだけでみんなの封印を破っちゃうなんて、すごいです! なんて素敵な人と恋してるのかしら……嬉しい。待って? 戦争前に突破個体が出現してますよね。それにアリスを外へ連れ出せないのなら、アリスが死ぬ危険もあるこの戦争って無意味なんじゃ?」
 全面戦争――最終負荷試験はラースのスケジュールにあったもので、科学的データを採集する最大の実験だ。戦いが終われば文明はおそらくリセットされる。フラクトライトに霊魂が備わってる以上、クリーンながらもおぞましい大量虐殺となるだろう。おなじ「人間」でない存在として、それだけは看過できない。
『みなさんの話を総合した推定ですが、ラースも内部意思を統一できてるわけじゃなくて、協議してる間にタイムリミットになってしまったのが実状みたいです。まだ初回で明確なルールがありませんし、ミラーがダイブしてきたようにアメリカ側へ情報が漏洩しています。楽しいことに自衛隊にはスパイさんがいる模様ですよ』
 スパイさん……妖夢にとってどうでも良かった。幻想郷視点では自衛隊も米軍も「悪」だ。悪と悪が争っているだけにすぎない。
「真っ先にミラーを倒しておけば済むのにそうしなかったのは、紫さまに考えがあったからですか?」
「私も詳しくは聞いてないけど、たぶん様子見してたのだと思うわ。ユイ、あの無人兵器、米軍がちょちょいとハッキングしたていどでこの世界へ持ち込める?」
『不可能です。アンダーワールドは世界初の量子コンピューター実用機「ライトキューブ・クラスター」で動いてますから、まずシステムを解析してオブジェクトデータに互換性を持たせなければいけません。それには米軍と軍需企業の総力を挙げても数週間は要すると思います。レギオンは紫さんと類似の能力によって、リアルよりアンダーワールドへ持ち込まれたオリジナルです。アメリカに協力した神の能力だと考えられます』
 ならばあの短時間で日本円にして何十億円かがぶっ飛んだ。
『さらに不愉快な予想ですが、その神の力を使えばアリスをリアルへ拉致することも可能だと見られます。ただし行使者がアリス・ツーベルクのすぐ近くにいなければ無理と思われます。だからミラーは暗黒界軍の総大将としてダイブしてきました。ほかのスーパーアカウントはラース側が遮断してましたので』
「紫みたいな神の介入とは面倒な巡り合わせね。じつは紫が想定していたルートはね、ミラーがアリスを『人質』に取ってオーシャンタートルを掌握し、アリスの魂が格納されているライトキューブを物理的に分離させようとするシナリオなのよ。ほかのアンダーワールド人は人質にならないけど、アリスだけは別。しかも日本人はとかく人質事件に弱い。ただ身柄を拘束されてもこの世界にしばらく留まってるから、隙をうかがって取り戻せばいいと考えていたわ。でも異邦神の参加で一挙にあちらが有利になったわね。アリス・ツーベルクとベクタ神ミラーが接触した時点で、アリスはアメリカの手に落ちる」
 神ユニットは整合騎士より格段に強い。それはステイシア神アスナの放出していた気からも分かる。
「幽々子さま。変化前のルートでは、私たちの敵はなんだったのですか?」
「ザ・シード・ネクサスを利用したプレイヤー軍隊よ。アンダーワールドの下位システムはザ・シード規格だし、オーシャンタートルは外部と回線が繋がってるから、アミュスフィアからでもログインは可能なの。ただしアンダーワールドの加速率を等倍に下げる必要があるそうよ」
 回線については妖夢も知っている。和人がバイトに通ってたのは六本木にある分室だ。そこにSTLが二台あるが、全身を覆うタイプで大きい。
「……つまりAI兵器でなく歩兵の一群がログインしてたらミラー暗殺はやらないわけですね。そもそもリアル側でメインコントロール室にいるテロリストどもを制圧すれば終わりなのに、それをしなかったのは和人生存ルートのためでしょうから――」
「そうよ。すでにシナリオは崩れてしまったけど、生還確率を維持するためにも、メインコントロール室はまだ襲えない。だからまずこの世界よりミラーだけでも排除するようね。死んだところですぐ戻ってこれるけど、スーパーアカウントは使用不能になるらしいから、すくなくとも指揮権は失うし、アリスにも勝てなくなるわ。紫がそうしろと指示してきた根拠はユイの推測で合ってると思うから、妖夢、ちゃっちゃと()っておしまい」
     *        *
 人界軍の奮闘を俯瞰する紫のさらに上空、矢も鉄砲も魔法も届かない高度数百メートルを遊弋する飛竜がひとつ。飛竜・雨縁(アマヨリ)にまたがる金色の鎧は整合騎士アリス・ツーベルク。
 公理教会の飛竜部隊はすべて合わせても二〇頭といない。だが騎手が全員整合騎士であるため、その合算戦闘力は凄まじい。そんな超人が大門崩壊前から唱えていた超ロング詠唱を終え、あとは術を解放するタイミングを伺っていた。アリスの眼前に直径三メートルのガラス球がある。雨縁の首と頭の間に保持させたそれの外側は鋼素の銀メッキに覆われ、内側に膨大な量の光素が詰め込まれている。時間をかけて集めに集めた空間リソースだ。
 彼女の下では土塁の寸前まで寄せてきたオークの群れを、少数の整合騎士が全力で食い止めている。それぞれの後ろでは鉄砲と弓の撃ち合いになっている。一五〇〇と三〇〇〇でオーガのほうが数で勝っており、ついでに練度も高い。威力は火縄銃のほうがあるが、オーガは食糧を得るため日常的に弩弓を使っている。そのため正確さにおいて秀でており、オークとゴブリンへ流れ矢を出してない。怖れていた大型バリスタも戦線参加し、一撃ごとに人界軍の衛士二~三人が吹き飛ばされていた。幻想郷は動かず、棒立ちのゴリアテ人形は四体とも大量の矢でハリネズミになっている。このままでは人界側が撃ち負けるのは目に見えている。人界では剣の道ばかりが幅を利かせ、弓矢はほとんど廃れてしまった。だからカデ子とキリトは素人でも短期間で強くなれる鉄砲に賭けたのだ。もっと兵力と準備期間があれば人界軍は安泰だったが――
 一刻も早く術を放つべきだが、アリスは戸惑っている。幼いアリスと一体化して、命を奪うことへの抵抗が生じたからだろう。これが記憶を失ったままであれば、どういう思いで大量殺人を正当化しただろうか。とても想像できない。
「大丈夫。きみの罪は僕も一緒に背負ってあげるから――」
 アリスの背中に手が掛けられていた。
「ユージオ」
 雨縁にはアリスのほかにユージオも乗っていた。新米整合騎士のユージオはまだ高等神聖術を扱えないが、剣の腕は確かだし、そこにいるだけでアリスの心は救われる。この術にも協力してくれた。規模のわりに仕込みは単純で、素因のひとつである光素をただ乱暴に閉じ込めただけの荒っぽいもの。光素の発生を延々と繰り返すだけだから、ユージオでも可能だ。ただし集めた数は常人の手に余る膨大な熱量であり、高い術式行使権限を持つ整合騎士にしか制御できない。
「たぶん僕もアリスも死後は地獄に落ちると思うけど、生き抜くって後悔しないことだと思うんだ」
「……一緒に落ちようね、地獄」
「この世でもあの世でも、アリスはずっと僕が守る。今度こそ」
 頬へ涙を垂らすアリスの顔へ、ユージオの顔がそっと重なった。
 ほんの半瞬の聖なる誓約をかわし。
「行くよ――」
 銀色の球体が竜の首より滑り落ち――手を繋いだふたりが揃って、最後の聖句を唱和する。
『バースト・エレメント』
 虚空の闇底へ、灼熱の獄炎が解き放たれた。
     *        *
 峡谷の切れ目に生じた白い閃光を、その男は無感動に観測していた。
 断頭台を思わせる白亜の塔が果ての山脈より生じ、谷を進んでこちら側の大地を薙いだ。ついで全軍の視力を奪う激烈なる輝きが襲ってくる。カメラのフラッシュライトをずっと当てられたような明るさが収まれば、天地を割るようなこれまでにない激しい爆発が起きていた。マーベリック空対地ミサイルを改良したレギオン一五発の同時炸裂よりも巨大な爆炎の雲が発生し、みるみる上昇している。山脈の峰とおなじくらいの高さへ達しそうな勢いだ。
 本陣へ地鳴りが届き、周囲の大地よりホコリが舞った。つづけて圧縮された衝撃波がすぎ、鼓膜を圧迫する爆発音。男の周囲にいる騎士や術師どもがうろたえ、おろおろしている。それに構わず、男は御座車で微動だにせず感想を述べた。
「……あれは神の光、巫女の光か?」
 ついには灰色のきのこ雲が誕生していた。核爆発などで生じる特殊な雲で、それだけ強烈なエネルギーが解放された証だった。
 カフェオレ色の浅黒い肌を持つ美女が、男へ平伏する。
「陛下、作戦失敗にございます。伝令術師の遠話が私の頭で悲鳴をあげておりまして――オークもゴブリンも、オーガまで瞬時に壊滅したよし。暗黒術師も少なくとも一〇〇〇人が……」
 女は暗黒術師の総長ディー・アイ・エルだ。この侵攻作戦を統括している。強い野心を持ってるようだが、外からきた男にとってどうでも良い。
「たった一撃で一万匹以上が死んだか。あの徹底した殲滅ぶり、幻想郷の仕業ではなさそうだな」
「……陛下のお言葉どおり、妖怪なる空飛ぶ者どもは亜人へ直接手は下しておりません。あれは……整合騎士によるもの。わずかな差で空間暗黒力を吸われてしまいました」
「これまで倒した整合騎士の数は?」
「――ゼロにございます」
 ディーの声は苛つきを抑えられない苦渋に浸っている。
「整合騎士は()がなんとかしよう」
「お待ち下さい、まだ手はあります。ゴブリンやオークの予備兵力を犠牲とし、その天命を破壊力に変えれば――」
「余がなんとかしようと、言ったのだ」
 魂の暖かみすら感じぬ無機質な絶対者の目に射貫かれ、女術師はおのれの野望が潰えたと悟ったようだった。
「……陛下のご随意に」
 参謀長が下がった御座車には、たった二人のみが取り残された。闇神ベクタのほかに全身真っ黒の暗黒騎士……というより子供がいる。宝石のように輝く上品な鎧で、騎士にしては背が低い。頬面の下では幼い活気を宿した眼光が遠方を睨む。
「殺せるか?」
 ベクタの問いかけに、少年暗黒騎士は首を横へ振った。
『幻想郷の連中とおなじで直接は無理だね。契約と義に反するから。僕は「姫」を回収し、悪を退治しにきただけで、悪に汚染されてるだけの被害者をただ強いからって理由で殺すのは駄目なんだ。僕の「物語」が、そういうふうに出来てない』
 語りは中国語だが、同時に日本語へ訳されている――神だった。ユイの言う、紫に似た境界能力を持つ神。
「間接的に倒せる状況へ誘導する、そういう手助けは良いのだな?」
『ああ、そういうことになるね。痛めつけるのもトドメも、あのディーとかシャスターでやってくれ』
「分かった。作戦を考えよう……」
 皇帝が目を瞑ったのと同時だった。
 事件は前触れもなく発生する。
『――言霊、ガブリエル・ミラー』
 無より生じた二本の青白い刀。それが目にも止まらぬ速さで振られるや、ベクタを中心に霊波の塔が現出した。
 断霊剣・成仏得脱斬(じょうぶつとくだつざん)
「……うおおぉおぉおおおお!」
 直径三メートル、高さ一〇メートルにも届く桜色のエネルギー流が、スーパーアカウント・闇神ベクタの天命をものすごい勢いで奪っていく。皇帝のいた椅子も指揮車もたちどころに粉々だ。馬が啼いて逃げだした。
 隣にいた暗黒騎士も飛び退いており、ベクタの周囲を見回し――
『そこかっ!』
 右手を宙へかざせば、なにもない空中より槍が出現した。実用性を無視した、いろいろ飾り物のついた派手なものだ。さらに少年騎士が小さく跳躍すると、その足下に小さな車輪がふたつ、ぽんと湧いた。炎を吐いている。
 暗黒騎士の両足が高速回転する燃える車輪をそれぞれ踏み付ける。飛ばされるはずだが車輪はなぜか騎士の足に吸い付くように馴染み、騎士の体重をしっかり支えている。その車輪が大きめの炎を吐き、少年騎士の体を急上昇させた。
 なにもない空間を騎士の槍が裂いて、火花が散る。
『姿を見せろ外道!』
 気迫とともに放射された「言霊」が、姿を消していた妖夢と半霊をたちまちのうちに浮かび上がらせた。
「……あなたさまはっ! 高名な神とお見受けします」
 鍔迫り合いより一度離れ、妖夢の放った剣気が騎士を覆う。黒い鎧がバラバラに弾け飛び、その下より少年道士が正体を示した。槍とおなじく原色さながらなおめでたい紅白緑青配色で、金色の鎧を着て薄い羽衣を背負う。
『僕は那咤(ナージャ)、日本ではナタまたはナタク』
 道教で人気の少年神だ。レギオンを転送したのはこの神だろう。アリスを現実へ拉致する役割も受けていると見られる。
「アメリカの兵器をこの地へ送ったのは、那咤さまですか」
『僕の仕事だが、それがどうした? いまは勝負を所望している』
 やはり。境界系の能力はおそらくこの少年の経歴から来てる。誕生こそインドだが、信仰が伝わっていった先でのみ生き残り、元の地や教えでは忘れ去られてきた。単純化すればヒンドゥー教・仏教を流転し最後の道教でようやく安住の教えに辿り着き、遅咲きのブレイクを果たした。ほかの仏神は信仰が広まったのだが、この少年神は「移動」しただけだ。おそらくこの辺りが『あらゆる間を移動する能力』となった。伝承や演義でも海の中をはじめ様々な界域へ自由に入り込み、自在に動き回る。なににも縛られない子供のままに。
「那咤さまといえば、伝説の英雄ですよね。いつかお手合わせ願いたいとは思ってましたが、まさかこんな場面で――」
 人口の多い大陸の神だから、集める信仰はアマテラス神の何倍もあるだろう。長い眠りより目覚めたばかりで、奇襲を察知できなかったり反応が遅れたように、戦士としての技量は妖夢にすら劣っているようだが、純粋な神力は底なしで体力の桁が違うはずだ。楼観剣でおそらく数百回は斬らないと倒せないし、倒せるだけでそれでも死にはしないはずだ。まともに戦って妖夢が勝てる相手じゃない。
『僕が名乗ったのに、なぜ名乗らぬか女! これでは戦いにならんぞ!』
 槍と剣が激しく交差する。
「……すいません、あなたは『英霊』でしたね。私は魂魄妖夢、冥界の剣士です」
『死界の戦士なら、さぞや彼の地の霊体で一杯なことだろうに、なぜ不届きなる魔の所業へ加担するか!』
「してませんしてません。やめさせる戦いしてるところなんですよ」
 那咤より妖夢への敵意が嘘のように消える。
『――きみの目には邪悪の濁りがない。むしろ僕の側にいる。話が違うぞ? おいミラー!』
 数々の英雄譚に登場する那咤の属性は、徹底的に純粋なる英雄。正義の味方というわけではないが、戦いに際して自分が「正しい」かどうかは、英霊にとって生死や勝ち負けよりも重要なことだ。
 妖夢たちの足下では、ちょうど剣気の塔が消え、全身血塗れのベクタ神がふらふら倒れるところだった。
「……最大威力だったのですが、通常の奥義では削りきれませんか」
 全身を襲う激痛へ必死に耐えながら、ミラーがすぐに起き上がっている。現実であればとっくに何回も死んでいる筆舌の痛みを受けているというのに、なんという胆力か。
「不変の若さとは恐ろしいな。まさか少女のたった一言で『解けた』のか? ――まったく優秀で、だから使えない神だ」
『騙したなミラー!』
 激昂した那咤の神気がみるみる増大していく。本陣で起こっている神話の光景に、周囲の騎士や術師はなにもできず見守るだけだ。
 その少年神と目が合った瞬間、ミラーが言った。
「我に従え、那咤太子(ナージャ・タイズ)!」
 ――強制服従能力!
『はい、ミラー』
 那咤の怒りがまた萎んでいく。予測はしていたが、実際に再現されると、やはりとんでもない能力だ。神を従えるなんて人の力をはるかに超えている。
「そこにいるゴースト・ガールを殺せ」
『はい、ミラー』
 槍が炎に包まれ、妖夢を狙って刺してきた。
「那咤さま!」
 楼観剣で受け流して語りかけるが、少年神の瞳は焦点を結んでいない。おそらく服従の深度にも段階があって、さっきまでは浅かったのだ。解けたので深く上書きしたのだろう。
 妖夢と那咤の激しい剣戟が始まった。もはやミラー暗殺どころじゃない。暗黒界軍も空中で戦うふたりをどうすれば良いのか分からず、絶対神ベクタの動向を待った。
「……あっはっは。はーっ、はっはっは!」
 いきなり皇帝が高笑いをはじめた。
「なぜだっ、なぜおまえが見える! アリシア・クリンマーガン!」
 神を自由に操る愉悦の笑いではなかった。ベクタ神が恐がっている。まったく感情らしい動きを見せなかった絶対的な存在が、動揺している。
 ――幽々子さま、やりましたね。
 那咤と戦いながら、妖夢は心中で胸をなで下ろしていた。ミラーのような強力すぎる特殊能力者は、早く退場してもらうに限る。
 アリシアとは、ミラーが子供のときに殺した娘らしい。それが怨霊となって取り憑いていると紫が言っていた。ちらっと見れば、ミラーに抱きつくように、ちいさく虚ろな影がベクタの背中にまとっている。
 西行寺幽々子の力は、死を操るていどの能力だ。幻想郷縁起に記される能力は自己申告、実状からずいぶんと幅があるが、幽々子は死に関する事柄を幅広くコントロールできる。その中には死霊を操るものがあり、おそらくその力で不可視状態だった背後霊を、実害レベルの悪霊へとランクアップさせた。
「冷たい、冷たいよ。離してくれアリ――」
『だめよゲイブ。さあ行きましょう』
「どこへ? だめだ、私にはまだやるべきことが……」
 そのとき、よろめく暗黒神へ斬りかかる黒い姿。
「神を騙るとは、偽りの皇帝が! リピアの仇!」
 渾身の勢いで打ち込まれた力強い斬撃が、ベクタの右肩から左脇までを綺麗に深く薙いだ。大量の血が流れるが、しかし肉体が上下に分かれることはない。スーパーアカウントの底知れぬ天命値が、ミラーにまだ死を与えない。
 襲撃者は人間としては長躯、オーガ並の体格を持つ剛健な戦士だった。黒髪黒服、将軍の身分を示すマントが堂々と揺れている。年の頃は四〇ちょっと。
「ダークテリトリーの勇者たちよ、よく見ろ! こやつは神などではない! 本物のベクタ神であるなら、なぜミラーという俗名を持つ? 外界の神などに頼る? 空を飛べぬ? 悪い霊に憑かれてる?」
 斬り掛かられ同時に糾弾されているミラーは、もはや鬼の形相だ。
「シャスター! 余は神なるぞ。我が意に従え」
 ダークテリトリーの掟は徹底した上意下達。無意識に刷り込まれたゲーム的なシステムにより、人々は命令を聞くしかなく行動を従属させられる。しかしその原則が転覆するときもある。それが強者の資格を失ったとき、威名の体現者としての失墜だ。変化を求められる文明実験に必要な、人間らしさを解放できる仕様だった。
 神を従えるミラーの眼力も、人間にはまるで効かぬ。強い能力は幅が限定される傾向にあると、妖夢も諏訪子の話で聞いていた。
「ふんっ、神の力など、借りてくれば俺のようなただの人間にも使える安っぽい心意さ! たとえばこれだ……エンハンス・アーマメント!」
 暗黒騎士長シャスターの持つ長剣、暗黒将軍が代々受け継いできた神器・朧霞(オボロカスミ)が夜霧の影を帯びた。
「――……――」
 シャスターが呪文をつぶやいている。その詠唱に合わせ、うねるように朧霞の影が成長して渦を巻く。周囲にいる騎士たちがどよめく。これはまるで、整合騎士しか使えないとされてきた、禁断の秘技。何百年かけて研究しても突き止められなかった、強烈なる武装の心意――
「リリース・リコレクション!」
 武器の記憶が蘇り、黒いミニ竜巻が発生した。シャスターが灰色の剣を振ると、そのつむじ風がミラー目掛け動いていく。
「……なぜだ、なぜだなぜだなぜだ!」
 心意力の竜巻に巻き込まれ、血煙へ包まれるミラー。全身を無数のカッターナイフで延々と切られている悪夢の状態だ。しかしどれだけ刻まれようとも、神の体はなかなか消えない。ベクタ神の天命がふたたび削られはじめた。
「ただの人間の分際で神を騙り、愛するリピアを殺し、我々を無謀な死地へ送り、二万もの死者を出した罪、いまここであがなえミラー!」
「シャスタァアアアー! アリシアァアアー!」
 壮絶な痛みが持続的に襲ってくるが、意識を保ち続けている。おそるべき精神力だ。だがついにベクタの天命が尽き、ようやく肉体の崩壊がはじまる。
『嬉しい。これでゲイブとずっと一緒にいられるわ』
 少女アリシアが笑顔でミラーの周囲を飛び回る。灰色のつむじ風の影響は蚊ほども受けてない。
 妖夢もシャスターも知らなかったが、アリシアの存在がガブリエル・ミラーへ心意のダメージを届かせていた。イメージが具現する心意は、システムの物理演算にも術式処理にも規定されていない、ニードルス技術のブラックボックス、茅場晶彦が施した天才の花園で発生する現象だ。心意を起こすのが魂の確信であるなら、効く効かぬも魂の確信であった。高所から落ちた幽霊がダメージを受けるかはイメージ次第と妖夢が言ったように、魂の強さは心意技の無効化率にも関わってくる。ミラーは強烈なる自我と意識によって確信の生き方をしてきた。ミラーの目的は殺しによって魂を食うことだ。なぜ魂があるのか、なぜ生き物は魂を宿しているのか――彼がこのミッションの実動リーダーに選ばれたのも、魂へ興味を持った過去の奇行的な経歴が影響している。
 ラースがAIの研究で魂の量子データ化と仮想現実をミックスさせたように、魂の探求者ガブリエル・ミラーもまた仮想現実に活動の一端を求めた。わざわざ日本語を覚え、GGOではサトライザの名で公式大会優勝もしたが……すぐに日本サーバで遊べなくなった。だから日本を相手にした作戦で、ミラーは心の底より期待していたのだ。また魂を食えるのではないかと。こういう歪んだ信念を持つ男に、心意の技は効きにくい。だがミラーの根源であったアリシアが、彼の魂より装甲をはぎ取っている。人生の価値観を最初に食った幼い魂より否定され、脆弱となったその霊魂へ、シャスターの確信、破壊と怒りの心意が直裁に叩き付けられた。
 ガブリエル・ミラーのフラクトライトは深刻なダメージを受け。
「……余は。余は、魂を奪う者なり」
 辞世の句のようなつぶやきを残し、スーパーアカウント闇神ベクタが霞のように消滅する。
     *        *
 ベクタが消えたとたん、正気に戻った那咤だったが。
『――あれ? きみって凛々しいのにとても可愛いね。ただの妖怪にしては強いし、僕の好みだよ……ぐえええええぇえええ!』
 魂魄流の連続攻撃は急には止まらない。命を狙ってくる敵を相手の真剣勝負で、試合モードへの切り換えは難しい。妖夢も「しまった!」と思ったときには、那咤へ二〇連撃をお見舞いしたあとだった。しかもそれで神さまの体がなぜか淡い光へ還ろうとしている。おかしい。このていどで倒されるわけがない。
「もしかして那咤さま、プレイヤーとしてログインしてたのですか?」
『「ヴァサゴ」のおっちゃんがそうしろって言ったから――』
 おそらく底なしの体力で反旗を翻されたら溜まらないから、天命の少ないプレイヤーアカウントでログインさせたのだろう。それでも空を飛べたり様々な力を使えたり、このクラスの神は色々とチートだ。
『それよりも強い子は好きさ。妖夢ちゃん今度、逢い引きしない? ねえねえ』
 那咤は一度か二度死んで甦ってる英霊なので、おなじ幽霊系妖怪の妖夢と共鳴する波長があるようだ。ただし見た目は妖夢より幼い。
「……私にはもう、将来を誓った男子が」
『――あ~~、また振られたか……まあ僕もきみも戦士だから、またどこかで会えるよね。今回は目覚めたばかりでまだ弱い僕だったけど、つぎは力を取り戻してると思うから、勝って振り向かせるよ。じゃあね~~』
 意外にナンパだった那咤がご退場あそばされた。過剰ダメージだったのかプレイヤー特有の現象なのか、死体オブジェクトも残らない。
「そりゃ浮気しそうな軽薄さだから、みんな断りますよ。妖怪にとって浮気なんて、存在の否定につながりますからね」
 もはや聞こえないので容赦ない突っ込みだった。精神生命体だから恋愛がらみのトラブルは人間より深刻なダメージとなるし、人妖の女が無駄に美しくて可愛い子ばかりなのも意味あってのことだ。
『……妖夢さん、いま盛大にミスしましたよ』
「およ?」
 半霊に包まれたユイが、液晶画面の中でぷんぷん顔だ。
『那咤さんからヴァサゴって知らない名前が出ました。ミラーとどう繋がってるのか、超常の協力者とか、もっと聞けたかもしれないのに』
「命かけて戦ってますから、無理よ~~」
 みょんな妖夢の眼下では、伝説のつづきが起きている。
 隙を見てたのか紫のスキマが開いており、中より登場した少女が演説を始めていた。
『わしはカデ子。万物の法理を司り、武具および術式、双方において最高権限を保有し、さらに世界の管理者権限を持つ唯一無二の存在である』
 杖を片手に両腕を広げたカデ子が、小高い丘の上でみなの注目を集めている。
『士官クラスには、不死者と怖れられる最高司祭を知っておる者も多かろう。わしはその半身で、同格者であったがために最高司祭と敵対しておった。こう見えて二〇〇年以上生きておる』
 謎の術によって遠くまで澄み渡っている。まるでたくさんのメガホンがあるかのように、カデ子の声がどこまでも届く。じつはシステムアナウンス機能を利用しており、空間リソースは消費していない。
『その最高司祭アドミニストレータは半年前、わしと協力者らが倒した。あの不死者はもう生きておらぬ』
 ダークテリトリー側の戦場にいるすべての者が話を聞いていた。本陣にいる暗黒騎士や拳闘士たち、暗黒術師たち、暗殺者ギルドの工作兵、商工ギルドの補給部隊。キャンプにいる予備兵力や、撤退したゴブリン。みんなが本陣の一画へ耳目を集めている。
『わしがここに来たのには理由があるが、まずはわしの力を示そう。いつわりの神を倒した勇者シャスターよ、おぬしはつい最近、失ったものがあろう?』
 幼女賢者の隣に立つ将軍が、虚空を見上げてつぶやく。
「……愛する女を皇帝に殺された。俺が理想など語ったばかりに、リピアは――堪え忍んだ甲斐があり、いま仇を討てた」
 多くは語らないが、大切な女性だったのだろう。おそらくシャスターの知らないところで皇帝に挑んで返り討ちに遭い、命を失った。いくら皇帝や王を名乗っても、力を見せてからでないと格下ユニットのシステム的な服従義務は生じない。ふさわしい者でなければその地位に留まれないダークテリトリーの仕組みは、リアル世界とよく似ている。
『ふむ、リピアか――この者じゃな? 暗黒騎士リピア・ザンケール、上級剣士ユニット序列一一位、性別は女、種族は人間、年齢二五歳三ヶ月。死亡日時は一〇月三一日夜、死因は頸骨骨折にともなう頸神経切断。加害者はスーパーアカウント闇神ベクタ』
 賢者はまるでSAOやALOのように空中へメニューウィンドウを開き、しかも「右手」で操作している。この世界にはシステムメニューはもちろん、アイテムストレージすら存在しないのに。呼び出せるのはステイシアの窓と呼ばれる簡易ステータスウィンドウだけで、それも「左手」でないと現れない。手品でも見るいぶかしさでその様子を眺めてるシャスターが、不審を隠さない声で応じる。
「リピアがどうしたというのだ? おまえには朧霞の支配術を教えてもらっただけで十分に感謝してる。おかげで皇帝を倒せた。だが死んだ者は還らない。いまさらなにをするつもりだ」
『保険を掛けておいて正解じゃったの。システム・コール! リムーブ・バン・シークエンス! ――…………』
 突然はじまった賢者の魔法。その詠唱がユージオを救った蘇生魔法であると、妖夢はすぐ気付いた。
 ――IDごとに内容の変化する独特の聖句が綴られた。さいごに賢者が杖の石突で大地を叩くと、そこより光の波紋が広がっていく。
『すまぬが負傷者を除いておまえたちの天命をすこしずつ分けて貰うぞ。リソースが枯渇しておるエリアで無からの創造など、創世三神にしか許されぬ超越の神徳でな』
 丘を中心に、蛍光のワルツが踊っていく。妖夢も含め、みんなの体よりひとつずつ、小さな黄色い灯火が宙へ漂い、丘にいるシャスターとカデ子のほうへと集まっていく。
 光の粒が集束し、しだいにそれが人の形を取っていった。空中およそ五~六メートルで仰向けに寝ており、ガスの抜けた風船のようにゆっくりと下降していく。
 シャスターがおそるおそる両腕を広げ、落下地点で待った。光が弱まり、ひとりの女性騎士が見えてくる。秒速数十センチでふわりと降りてきた女性を、将軍がしっかりと受け止めた。完全に輝きが消えたとたん、将軍の体が軽く前方に傾斜した。女の存在が、体重も含めて完全に戻ったのだろう。
「……リピア、リピアなのか?」
 声に張りのない将軍が、女の頬と髪を撫でる。そのうち女が「うー……」と小さな声をあげ、つむっていた目蓋がゆっくりと開かれた。
「――閣下? え、私は……死んだはずでは?」
「リピア!」
「閣下、閣下!」
 強く抱き合う将軍と女騎士。
 暗黒騎士団を中心に驚愕と絶句のうねりが広がった。妖夢は半霊レーダーを通じて人の感情があるていど分かるので、リピアという騎士が本当に死んでおり、いま甦ったのだと理解した。ユージオにせよ小さなアリスにせよ、さらにこのリピアにせよ、妖夢はそれぞれの生き様や死へ至る道筋、その最期のシーンを詳しくは知らない。奇跡の復活へ立て続けに居合わせているだけだが、冥界では死と成仏と浄化ばかりを諸行無常の諦観で見てきたから、こういう自然を超越した夢の実現にはやはり感動するものも少々はあって、不覚にも涙がでている。
「……未熟ですね」
 神の(わざ)をみせた聖女が語っている。
『アドミニストレータも蘇生術を研究しておったが、生と死、(こん)(はく)の秘密を読み解けず、ついに実現できなかった。つまりわしはかの者より上位におる。先に言っておくがこの戦いで亡くなった者を自在に生き返せるほどわしの手は長くない。この女ひとりを甦らせるだけで一〇人前の天命が必要になるし、事前に特殊な処理を天命へ掛けておかねばならぬ。それは創世神ステイシアおよび地神テラリアの摂理に反することゆえ、無原則には使用できないのじゃ』
 ユイがフォローしてくれた。
『おそらく天命がゼロになった瞬間にライトキューブ解放と初期化のシークエンスを……つまり物理データの消去を凍結したのだと思います。サーバ内のユニットデータ、すなわち肉体は朽ちますが、光量子雲の魂は変化停止状態でそっくり残っています。前もってそういう自動実行のコードを、リピアさんへ書き込んでいたのでしょう。シャスターさんみたいな協力者へのご褒美ですね――これはアンダーワールドが「ゲーム」だと知悉し、またリアルワールドにおける死後の輪廻転生システムを知っておかないと開発の難しい術式です。独裁者アドミニストレータには不可能だった、カデ子さんならではの奇跡ですよ』
 人工フラクトライトは二度死ぬ。アンダーワールド内のユニットとしてソフトウェア的に死に、つぎにクラスター内よりハードウェア的に排除される。これはソードアート・オンラインのデスゲームとまったくおなじだ。菊岡氏らが死後まちがいなく地獄送りにされると言われる根拠もここにある。アンダーワールドのフラクトライトはまだまだ生きていられるのに、強制的に「殺され」てるのだ。
「幻想郷は関係なくて、カデ子さん独自の御業ですか――紫さまのお言葉を借りますが、みなさん足掻いてますね」
 カデ子の独壇場がつづく。
『条件が限定されるが、以上のように死者の完全蘇生も可能じゃ。しかしそれでも神ではない。何百年生きていようが、あくまでも人の子だ。シャスターが整合騎士の絶技を示したように、またベクタ神の中身がミラーなる人間であったように、人でもやり方しだいで神に近づけるのがこの世界の真実なのじゃ! そう、神界からの使いとされてきた整合騎士すら、元はわしらとおなじただの町民であり村人なのだ』
 場はいきなり世界の深層を教えられ、沈黙に包まれている。
 遠くでは峡谷より敗残の一軍がリルピリンに率いられ出てくるところだった。オーク族の長は突撃に際し率先して前へ出てきたため、アリスとユージオの戦略級術式の餌食とならずに済んだ。だがあと数分アリスの攻撃が遅ければ、リルピリンはおそらく整合騎士に殺されていただろう。運が良いのか悪いのか。リルピリンを無謀な戦いへ向かわせていた命令は、部下たちが灰燼と化したショックでリセットされていた。神の鉄槌を間近にすれば、王ユニットの権威など塵にも等しい。リルピリンの中で皇帝はすでに絶対者ではなくなっていたのだ。その亜人唯一の族長となった彼の耳にも、カデ子の声が響いているようだ。
『最高司祭との争いが長引き、創世三神の恩寵を満足に受けられぬそなたらを放置して済まなかった。神聖術――こちらでは暗黒術であったな、この魔法大系はわしがみずから出向かないと発動不可能な術も多くてのう。ダークテリトリーで巨大な権限を行使するには、こうして我が身ごと運ばねばならぬ』
 みなが自然と頭を下げ、かしこまる。最強の権限レベルを持つカデ子は、スーパーアカウントにも並ぶ存在だ。謎の広域拡声に加え、蘇生魔術などという究極の威厳を示せば、年端のいかぬ幼女であろうとも関係ない。それがダークテリトリーだ。
『わしはここに、最高権限保有者としての義務を遂行する。ダークテリトリーはさきほど、何百年も留守だった狂王が消えた。ベクタ神は滅び二度と帰らぬ。不当に王位を独占し、無関心と放置によって人心の統一と団結を阻んでいた玉座の所有者が去った!』
 これまでダークテリトリーでは誰も王になれなかった。アンダーワールドは壮大なシミュレーションゲームなので、システム的な制限から前の王が退かねばつぎの王が立てない。諸侯を等しく服従させられるのは唯一、王侯ユニットのみである。なのに王が行方不明でしかも不老不死、誰も成り代わることすら不可能。そこに痩せた土地と過酷な環境が加わって、闇の土地では戦乱と社会不安が絶えなかった。
『したがって闇の王国はすみやかに二代目の王を迎え、史上はじめて名実ともにひとつへと統一されなければならぬ。その資格を持つ者は誰だ?』
 本陣が鎮まった。誰もなにも語らないが、答えはひとつしかない。
 剣一本で革命を成し遂げた威風が、カデ子の隣に堂々と立っている。
 たっぷり沈黙を堪能してから、見た目だけ幼い、二〇〇歳を超える賢者が振り向いた。将軍の両肩を交互に杖で軽く叩きながら。
『ビクスル・ウル・シャスター、アンダーワールド調律者カーディナル・システム・サブプロセスの名において、そなたにダークテリトリーの王位を授ける』
     *        *
「俺は何百年も隠れていた卑怯なベクタとは違う! 無視せぬ! 殺さぬ! 奪わぬ! 飢えさせぬ! 俺は皇帝号を名乗らぬ。それは征服者の称号だからだ。王を名乗り、あくまでも人の子として振る舞おう! ダークテリトリーは呪われた神より解放され、人の国としてようやく歩みはじめるのだ! 神話の最終章は終わった! 人智が世を照らす時代がきたのだ!」
 新王の方針が矢継ぎ早に告げられている。騎士団長をしていたので、その声は遠くまでよく通る。
「最初の勅令は戦争の中止だ! 停戦し和睦するぞ! このまま戦い続けたら、たとえこの大門で勝てたとしても俺たちはほとんど死んでしまい壊滅状態だ。なのに人界にはまだ四帝国の正規軍が残っている! 彼らは全員が暗黒騎士とおなじ秘奥義の使い手なのだ!」
 ソードスキルのことを指す。この世界ではゲーム的なステータス値のひとつに武具操作権限というものがあり、それが高ければソードスキルを発動できる。貴族階級を中心としてそういう剣士が人界には予備役も含めまだ一万人近く控えている。ただし権限値が低くて単発ソードスキルしか使えないし、見映えばかり追求して連続攻撃の型すらないのだが、そんな事情を暗黒界が知るよしもない。死んだ最高司祭が人界を気ままに「改造」した結果、武具権限のリソースは実戦を重ねる整合騎士へ集中してしまった。同数の兵力がぶつかれば、ソードスキルも絡めて鮮やかな連続攻撃を繰り出す暗黒騎士団が圧倒するだろう。もっとも暗黒騎士だろうが鉄砲一発で死ぬから、シャスター王の判断は間違ってない。火縄銃に対抗できるオーガ弩弓兵も熟練集団がほぼ全滅した。
「つづけて行うのは社会改革! 互いを監視して備えすぎたあまり、ダークテリトリーは過剰な兵を抱えてしまった! 軍隊とは殺し奪うことしかできぬのに、三人に一人が兵でいてどうする! 社会が停滞し、みなが飢え渇き苦しみ、争いが絶えぬのは当然であろう!」
 正規兵たちが鼻白む。彼らにとって廃業と特権の縮小を意味していたが、人界軍に完敗しており文句があっても強くは出られない。しかも提案者はダークテリトリー最強の戦闘集団、暗黒騎士団を率いている男だ。
「暗黒騎士よ、剣のかわりに鍬を持て! その腕力が大地をより深く掘るだろう! 拳闘士よ、狩人になれ! その壮健な脚で野山を支配せよ! 暗黒術師よ、森を拓き道を作り地域を盛り立てよ! その頭脳と術を発展の役に立てるのだ! 暗殺者ギルドよ、医者となれ! 毒を制する者は薬もまたおなじ! 商工ギルドは幹部全員を武官から文官へと任命替えし、権限を拡大させる! 関税は当面のあいだ撤廃し、通商の安全も諸侯に保障させよう!」
 熱狂的支持を得て王になったわけではないから、喜ぶ者、不安に感じる者、不満を顔にする者それぞれだ。シャスターの事業は困難の連続となるだろう。
「ゴブリンよ、オークよ、オーガよ、ジャイアントよ! おまえたちの領土は一挙に三倍とする! 王となった俺には、誰のものでもなかった土地の所有権を新規に設定する権限がある! 無駄に遊んでいた広大な原野から、いくらでもソルスとテラリアの実りを奪うがよい!」
 これには亜人たちも驚いていた。負けているのに大幅な加増を歓迎する向きだが、妖夢には「問題を先送り」にされたと読めた。シャスターはまず黒イウム――人間の社会を整えようとしている。一〇年もすれば亜人と人間との格差が顕著になるだろうが、シャスターはあくまでも人間族の出身だし、現実主義者であって聖人君主ではない。
 紫が手出し不要と言った根拠を、シャスターの演説で妖夢も理解した。これは絶対に安直な直接干渉で関わってはいけない。その正義は妖怪視点のものにすぎず、かならず後悔する羽目に陥るだろう。それだけダークテリトリーは難題山積で苦行な状態だから、幻想郷は面倒なやり方をしていたのだ。
 妖夢の両隣に、いつのまにか姿を見せてる幽々子と紫。
「もぐもぐ……時代の荒波を生で見物するのって楽しいわね……もぐもぐ」
 幽々子はどこで調達してきたのか、石焼き芋みたいなものを食べている。紫は恍惚の表情で色っぽい。なにしろ境界の妖怪だから、こういう歴史絵巻的な転換の瞬間はとっても好物、極上のご馳走だろう。妖怪の主食は千差万別で、怖れや悲しみといった人の感情だったり、岩や水みたいな無機物や、秋の紅葉や闇夜や降雪といった抽象的なものなど色々だ。妖夢は人の成分が強いので、生きていくため人間とおなじものを飲み食いする。
「なんて美味しいの――いい情景ね。藍に頼んで大門の崩壊をまる半日早めて正解だったわ。夜戦だとあまり遠くには見えないから、シャスターに従わない者も少なからず出たでしょう」
 シャスター王の登極は幻想郷が予定していたイベントだったようだ。人質無効化策でアンダーワールド人に手出しはしないが、裏のお膳立ては良いらしい。人心を掌握したのはカデ子とシャスターの才覚だった。
「紫さま、そんなことまで操作できるなら、門の崩壊を――すいません野暮でしたよね」
「謝ることはないわよ、あなたは白玉楼の守護剣士なんだからその反応は正しいわ。アスナとおなじで義侠心の抑制が大変みたいね。アメリカ側に勝てると思い込まさなければ歴史が動かないから、東大門の会戦は起きなければならないのよ。和人が昏睡してオーシャンタートルへ運ばれるのとおなじくらい、避けられない運命なの。許されたのは開戦時刻を日没から日の出へ変えるていどよ」
 なにか含むところがありそうだ。
「……このまま戦いは終わらないんですね?」
「あちらの大暴走がこれから始まるわ――忙しくなるわねっ」
 紫が楽しそうに微笑んでいる。外部からの来襲があるということは、せっかく戦いが終わりそうな気配なのにアンダーワールド人にまた死者が出るというわけなのだが、やはり来たる戦闘を嬉しがってる様子は変わらず、この辺は他人さまの混沌なら大好きな妖怪だった。かつて幻想郷を巡った大小の争いで、妖怪や人間がたくさん亡くなってきた。人が死ぬのは当たり前――妖夢ですらそう感じているから、紫ほどにもなれば悟る以前なのだろう。
 同時に妖夢の半霊レーダーに無数の奇怪な反応が灯ってきた。
「紫さま、幽々子さま――えーと。いきなり挟撃の模様ですが、大丈夫ですか?」
 幽々子と紫が、ともに扇子を広げて口元を隠す。秘かにでもなく待ちかねていた局面がやってきたようだ。
「妖夢、これからが本番よ。初回の相手は何万人いるかしら? レミリアが視た数万人ずつ数回なら私たちだけで十分に殲滅できるわ。神の力で多少は戦力が増えようとも――」
「えーと……幽々子さま。本当にこの数は――想定内なのでしょうか?」
 ついさっきまで荒野の会戦だったのに、いまではまるで都会の真ん中を飛んでいる気分だ。
「半径一〇キロに……ざっと一〇〇万人くらい新たな反応があるんですけど。これってみんなアメリカなんです?」
 おふたりとも扇子をはらりと口元より落とし、とっても間抜けな顔を並べていた。
     *        *
 大門から東には台地の荒野が、西には草原が広がっており、ところどころに小さな岩山が点在するていどで、両方とも地平線まで真っ平らな土地がずっと続いている。門を抜かれれば守るほうは何処までも容易に逃げられ、攻めるほうはいくらでも進撃できる。ラースがこういう地形にしたのは、門の近辺でグダグダとした陣地の奪い合いにならないよう考えたからだと思われたが、アンダーワールド人にとっては身も凍り付くほどの絶望を味わう結果になってしまった。
「――北から西に広がる謎の軍勢、総数二〇万以上! 地平の彼方まで一面に真っ黒です!」
「西から南側もおなじでーすっ! 黒い軍勢、一〇万か二〇万か数え切れない大軍! こちらへ向けて進軍中よっ!」
 人界軍の砦は大混乱に陥っていた。飛竜で偵察に出た少女整合騎士リネル・アナリシス・スリーとフィゼル・アナリシス・フォーが、たった五分で慌てふためいて戻ってきたほどだ。一〇~一一歳ほどにしか見えないこのふたりは、かつてキリトとユージオを毒でいたぶって返り討ちにされ、お仕置きを受けた経歴を持ち、整合騎士としては実年齢が見た目と合致する稀少なロリっ子だ。好奇心旺盛でアナリシス騎士へと生まれ変わっている。
「……困ったわね。背後から攻められるなんて想定してないのに」
 前へ出た騎士長ベルクーリに代わり、恋人のファナティオが下がって本陣の指揮に当たっていた。もし土塁陣地を破られたら、本陣であらたな正面陣地の防御ラインを形成する手筈になっているが、ダークテリトリー側へは見事な石垣と高い漆喰塀、難燃素材で組まれた櫓を構築しているのに対し、真後ろは万が一のさい楽に逃走できるよう、簡易的な柵があるのみだ。大門を抜かれても人界はそれなりに広く、ゲリラ戦で時間を稼いでいる間に公理教会の権威で四帝国を揺さぶれば、まだ一万近い戦力を準備できる。再戦の機会が確実にあるわけだから、貝のように閉じ籠もって全滅するような思考は最初から持ってない。
「……副騎士長さま、まず物資を柵のこちら側へ」
「籠城するしないと思います」
 補給部隊に所属する少女剣士がふたり、か細い声で意見を述べる。
「あなたたちはたしか――キリえもんとアスナ殿の世話係をしてる、ロニエとティーゼね」
 キリトとユージオが整合騎士になる前に通っていた修剣学院の後輩で、志願兵として従軍している。茶髪のロニエ・アラベルはキリトへ、赤毛のティーゼ・シュトリーネンはユージオに想いを寄せていたりする。
「こんなときでも勝利の可能性を探ってくれてありがたいけど、あえて副騎士長の立場で言わせてもらうわ。補給隊の一兵卒が、高度な判断を必要とする作戦立案へ、意見を述べる資格を持つと思う? 勇者キリえもんですら銃士隊の中隊長に甘んじてるのに」
「すいません」
 しょんぼりするロニエたちの後ろより、走ってくる少女剣士がひとり。さらにおまけで黒い剣士もいる。
「こらこら、あなたたちっ。先行しないでよ!」
 無自覚に絢爛なる神気を辺りへばらまいているアスナだった。彼女はベクタ神と同列のスーパーアカウント、創世神ステイシアでログインしている。顔と体格はリアルの明日奈だが、真珠色や虹色に輝く服装と装備は説話に登場するステイシア神そのままで、均整のとれた明日奈の美貌と合わせて女神そのものであった。客将でありながらこの場の最高責任者であるファナティオよりも上官らしく見える。
「アスナ殿、前方はどうされた?」
 中身がただの人間でキリえもんの恋人と聞かされても、ファナティオはアスナを呼び捨てにできなかった。それほどにアスナは美しすぎる。ファナティオは一〇〇年以上の恋を実らせ、ようやくベルクーリと結ばれたばかり。恋人を追いかけて戦場に身を投じるアスナの健気さと、ステイシア神の慈母的な伝承とが重なり、共感しまくってとても小娘とは見なせない。隣にはキリトもいるが目立たない。
「ダーク……」
 キリトがしゃべろうとしたが、アスナの声が遮った。
「前門のダークテリトリー軍はもう敵じゃありません。紫さんからのテレパシーがあって、暗黒皇帝ベクタが倒れ、シャスターさんという将軍が王に即位したそうです。彼はその場で戦争の中断と和議を指示しました。いま紫さんの取りなしでベルクーリさんとシャスター王が緊急会談してるそうです。あちらにも五〇万からなる黒い大軍勢が寄せてるらしくて、もう私たちと戦いをしてるどころじゃありません」
「……急転直下ね、でも和平派のシャスターなら信用できるわ。アスナ殿はそれを伝えに?」
「俺に……」
「私には黒い大海嘯を食い止める策があります。与えられた力を使って」
「あの途方もない黒い軍勢は、アメリカなる異界の悪魔が召喚したものか」
「はい。敵はアンダーワールド人ではありませんから、ようやく私の出番です。そのためには、おそらくロニエとティーゼが言ったと思いますが、柵の向こうにある陣幕とテントをすべて片付け、補給用物資を砦内へ引き入れる必要があります」
「なにをされるおつもりで?」
 副騎士長の問いへ、アスナは自信満々に答えた。
「――東大門の回廊を、難攻不落の要害にします」
 ついにキリトは自己主張すらできなかった。
「俺に出番はあるのだろうか?」
 作戦の具体案に入ったふたりの女性に置いてけぼりを食らい、キリトが大地に力なく伏し、両手両膝をついている。和人といると恋愛感情の比率が高くなる妖夢と違い、優秀な明日奈は物事に集中すれば彼氏だろうが平気で無視できる。八雲紫との念話チャンネルを持たないキリトは、この対策話に不要と意識外で判定されてしまったのだ。境界の賢者は男に失望しきっており、極度の女性主義。こんなときでもキリトを連絡網から弾いている。
「あのキリト先輩――私がいますよ? 先輩は私のなんですから」
 何十万という空前絶後の大軍勢が目前に来てるのに、チャンスとみて背中をさすってくるロニエ。だがその慰めもキリトには痛い。
「せっかく再会できた妖夢たちに斬り殺されたくないから、すまないが丁重に断るよ」
 今後も大勢の女性より好意を持たれてしまうだろうハーレム王子。男なら誰もが羨む天運の保因者も、さすがに成長はするのだ。
「……こうなったら、ベルクーリさんに持ちかけるしかないな」
 女がだめなら男だ。キリトにも深い思案がある。この世界に幼少時から暮らし育ってきた記憶があり、さらにいまのフルダイブはすでに三年も経過してるのだから……
     *        *
 果ての山脈に開いた大門の回廊、その全景を見下ろす崖のてっぺんに、黒いラインが天より降った。それは数字やアルファベットで構成された情報の塊で、落下地点に黒いサークルを描く。直径は数十センチ。その円を囲むように天よりつぎつぎと情報の黒い線が降ってきて、サークルを縦にくるっと巻いた。情報の塊が密度を増し、やがてひとつの形を取っていく。
 サイズは人間ほど。
 真っ黒な人となり、最後に色がついていく。単純な原色パターンから、急速にアンダーワールドらしい複雑な色合いへ。
 出来上がったのはキリトみたいに全身黒ずくめな、痩身の男だった。雨合羽みたいな黒ポンチョを着て、フードで頭部を覆っている。
 男はその場で伸びをして軽く何度か垂直ジャンプした。腰より四角刃の中華包丁を抜いて、短剣用のソードスキルをカラ打ちしていく。最初はソードスキルに使われてる感覚だったが、しだいにピンク色の発光と甲高い電子サウンドが強くなっていく。ブーストによるエフェクトの増大だ。五分もするころには、いっぱしのナイフ使いとなっていた。
「二年半ぶりだ……いいモンだなぁ、こんなチンケな仮想世界だろうとも、二本足でつっ立てられんのはよぉ」
『これで良かったのかヴァサゴ。ここまで強い「望み」を連続で使うと、残りはもうないぞ』
 どこかの言葉で語られ、日本語へ同時翻訳されている。老人のような、しゃわがれた声だ。
 いつのまにか男の背後にうす紫色のカゲロウが浮いている。山羊の角を生やし、頬のこそげ落ちた中東系の男性で、年齢は不詳。姿の輪郭すらはっきりしておらず、まるで煙へ投影された映像みたいだ。
「一〇〇万人だぞ? 最高にクールじゃねえかシャイターン」
 シャイターンと呼ばれた影は幻像のように揺れているだけで、とくに反応はみせない。
「痛覚遮断のねぇへヴィな世界で、妖怪どもに全力で惨殺される世界一〇八ヶ国一〇〇万人のプレイヤーども。最高の殺戮ショーだと思わねぇか魔王さんよぉ。これだけ人がいりゃあよ、リアルでもショック死する哀れな被害者サマが確実に何人か出るぜぇ? これでワールドワイドが幻想郷の敵となる。あいつらはバケモノ、日陰者として引き籠もるしかねえよなぁ? 今日を限りに連中の未来はジ・エーンド!」
 ポンチョ男の左側、人界の大地は真っ黒だ。おなじく右手の荒野、こちらも真っ黒だ。波濤のうねりが、果ての山脈にぽつんと開けた谷間を目掛けて殺到している。会戦により三万まで減ったダークテリトリー軍は防衛本能に従って峡谷のほうへ下がっていく。そのうち谷へ全軍が入るだろう。人界軍の砦も迎撃準備で大慌てだった。
 両手を大きく広げ、ヴァサゴ・カルザスの法悦が絶叫となってこだまする。
「イッツ・ショウ・ターァァァアアイム!」


※アンダーワールドの設定など
 初稿発表時点で刊行部分を追い抜いてしまいWeb版。一六巻以降で変わっていても修正しない。例によって独自もあり。

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