三二 起:心意と心眼 ~ Alicization Youmming.

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ソード妖夢オンライン6/三一 三二 三三 三四 三五 三六

 魂魄妖夢の心は平静だった。
 七色の魔法遣いによって、和人が死なないと保証されたから。
 魂魄妖夢は同時に怒ってもいた。
 望む未来へ行き着くためには、紅い悪魔に従うしかないから。
「で、私はどうすればいいんですか?」
 恋人がサクシニルコリンに倒れた翌日、妖夢は幻想郷の一角、霧の湖の岸辺に建つ赤い洋館にいた。その名を紅魔館という。
 (あるじ)の私室でスカーレット・デビルと面会しているところだ。ほかに十六夜咲夜(いざよいさくや)とパチュリー・ノーレッジが同室している。
 揺り椅子に座りつつティーカップを優雅に一口飲んでから、くすくすとレミリアが微笑む。
「やはり面白い動きをするわね貴方は。剣舞郷異変からこれまで一度も接触してこなかったのに、昏睡した彼氏を後回しにしてでもこのタイミングで会いに来るなんて――私は自分の運命を視られないから、半人半霊の訪問は予想外だったわ。事件のキャストに端役とはいえ混ざれるなんて、楽しいハプニングよ」
「和人には明日奈が付いてます。だから私は自分にしかできないことをするの」
 妖夢は少ない情報を元に紅魔館へとまっすぐ飛んできた。幻想プロダクションには私用で冥界へ帰ると適当に伝えている。
「その冷静な様子だと、すでにアリスも気付いてるわね。あの子もあなたもお人好しでお間抜けさんなくせに、自分がどういうパズルの欠片(ピース)であるのか正確に理解している」
「吸血鬼のジグソーパズルに興味はありません。あなたの行動はどこまでも幻想郷の首尾に留まり、冥界には及ばない。白玉楼(はくぎょくろう)へ迷惑が掛からないかぎり、向ける剣はなく――ゆえに和人の無事と生還を願うばかりです」
 妖夢の立場はどこまでも冥界のガードマンだ。幻想郷には住んでいるわけでもなく、関係が深いだけである。極論すれば幻想郷の命運より桐ヶ谷和人の安全のほうが優先度は高い。妖夢がおらずとも幻想郷を守ってくれる者はいくらでもいる。
「すこし会わない間に公私の分別をそこまでつけるようになるとは、恋を通じてだいぶ成長したわね。永遠に幼く傲慢である私には、着実に変化していくあなたが十六夜(いざよい)の月みたいに瀟洒(しょうしゃ)で眩しい。いままでのあなたは単純にしてまっすぐ、十五夜(じゅうごや)の満月だったわ。でも思うのよ。満月よりすこしずれたものこそが、真に美しいのではないかと」
 吸血鬼の視線が一瞬だけ従者と重なった。咲夜の名字はレミリアが付けたというけど、想像もつかない深い絆があるようだ。
「ひとつ確認します。和人はアリシゼーション計画で、どのような役割を受け持つ運命なのですか?」
「……アリスからそこまで聞いたのね。まず開帳してみてよ」
「はい。万能の魔法使いアリス・マーガトロイドは頭脳明晰、深い考察を披露してくれました。アリシゼーション計画が軍用技術の研究で、それが幻想郷の未来と結びつくだろうと。人間の既存技術で科学的に和人を治療するには、魂からしか拾えない欠損情報を脳のシナプスへ上書きできる、ソウル・トランスレーターを使うしかありません。ならば和人はキリトとなってアリシゼーションの仮想世界で過ごしていることになります。脳死の危機にある和人を幻想郷が放置しているのは、アリシゼーションの責任者、菊岡誠二郎(きくおかせいじろう)が動くと知っていたからですよね」
 ティーカップを咲夜に渡したレミリアが幾度か拍手した。静かな室内に乾いた反響が吸い込まれていく。
「ご名答よ。SAO事件で幻想郷から一方的にやられた菊岡氏は、内にも外にも得点を稼ぐ必要がある微妙な立場だから、魔法に頼らずとも治せる機械があればそれを迷わず使用するわ。法律を無視してでもね。おそらく世界で一番高価な医療機器ね」
 妖夢は頷いた。菊岡には法規を超越できる権限がある。ただの公僕としては異常なほどの采配が、より上位者によって与えられているのだ。電子の妖精ユイが大活躍してきたのにも、菊岡を通じてそういう特権を借りてきた側面がある。
「あなたの操る運命が目指すのは、アリシゼーションへの直接干渉ですね? どうしても和人が治療されている状況が必要だったと。そこでなんらかの異常事態が起こるか、あるいは起こされている――私やキリトが戦うべき『敵』はなんですか?」
 妖夢の強調した単語、それは敵。SAOでは茅場晶彦(かやばあきひこ)、ALOやGGOではラフィン・コフィンの幻影が敵となった。それらとの対立で幻想郷はしだいに団結、外部世界への立場を強化し、主導権を取ろうとさまざまに画策してきた。妖夢はただゲーム世界の英雄キリトと自由に冒険し、好き勝手に正義の味方ごっこをしていただけで、つねに前線で剣を振るう現場の人である。今回もそうだろう。
 レミリアも首肯する。
「単純な構図ね。正義が正義でいるには、どうしても悪と敵が必要。多くはゲームの用意するモンスターが該当するけど、魔王の位置には人間が座ってくる」
「……人間ですか。まさか今回は日本そのものとでも?」
「すこしずれているけど、『そちらのほう』はあなたの愛しい恋人と、彼を見守ってくれている盟友が独力でも大方は解決してくれる。そのためだけに私たちは準備してきたわ。この二年と数ヶ月、『幻想郷が関与しなかった世界のキリト』にすこしでも近づけるため、色々と手を尽くしてね」
 妖夢にとって頭が痛くなりそうな表現が飛び出してきた。
「紫さまですね。パラレルワールドにまで造詣が深いとは……」
 思えば茅場晶彦の幻想入りに際し、そのパラレルワールドが関わっている。パラレルワールドの規模は宇宙サイズであり、人間の想像力が紡ぎ出す異世界どころではない無辺さだ。物理学的に存在している、真実の自然現象そのものなのだ。重力と電磁気力の違いこそが「別の宇宙」が実在する証拠だという学説もあって、大真面目に研究されている。オカルトでもなんでもない正統な理論科学、超弦理論だ。異なる宇宙のすこし変わった地球に暮らす、「人間の紫さま」ことマエリベリー・ハーン。彼女が書いた同人誌を数奇な巡り合わせで手にした茅場は、幻想郷の実在を確信するに至った。彼がわざわざ長野県を潜伏先に選んだのは偶然ではない。
 八雲紫とレミリア・スカーレットの組み合わせは、宇宙と世界と未来を乗り越える最強のタッグだ。
「いくら私が運命を操るといっても、対象やシチュエーションを知覚していないとどうしようもないからね。あちらの世界――『日本人だけのSAO事件』においても攻略を果たすのはキリトなんだけど、とてつもない苦難の数々をくぐり抜けるのよ。事件は二年つづき四〇〇〇人も死ぬ。その後もALOやGGOで色々と辛く重い経験をして、最後にアリシゼーションを迎えるわ。『アンダーワールド』を戦い抜くあちらの彼は、それらをバネとしてあらゆる試練を自力で突破していくけど――妖夢といるこちらの桐ヶ谷和人は、強力な剣術を得て強くなるのと引き替えに、何事も楽勝で逆境には弱いまま。リアルで血を見ないし、殺人もしないし命の危機にすら寸前まで遭わない。あちらで死ぬ人やひどい目に遭う人がいつのまにか救われてるから、悲しみも少ないわね。だから強引にでも成長させないと、アンダーワールドの戦いをとても勝ち抜けないの。とりあえず私たちが仕込んだのは、SAOの幻想郷オンライン、ALOのグランドクエスト、GGOの恋人対決……あまり数は多くないけど、すくなくとも戦士の目――心眼の開眼と定着には成功したわ」
 目眩がしてきそうな話だった。八〇〇人死亡でも大騒ぎだったのに、四〇〇〇人とか……
「……それはたしかに、私に黙ってるわけですね。二年以上も秘密にしておく自信なんかまったくありません。サクシニルコリンの件は回避しようと思えばできたのに、わざわざアリスを利用して事件を誘導したのは、それほどアリシゼーションでの戦いが幻想郷に必要となる――という解釈でいいんでしょうか? ただし返答によっては剣を向けるかもしれません。和人はいま、アンダーワールドとやらで苦しんでいるのかもしれませんから」
 妖夢の威嚇にも似た発言に、レミリアの忠実なしもべが身構える。すべての指にナイフを挟んで。そんな血の気の多い咲夜をパチュリーが手で制した。
 軽く笑ってレミリアが答える。
「それは杞憂ね。なにもしなくとも和人が死の淵に立ち、ラースによって助かるルートは定まっていたわ。だからアリスには悪いことをしたけど、幻想郷のコントロールがよりしやすいよう軽く誘導したまで。バタフライ効果って知ってる?」
「ちょっとしたことで、結果が大きく変化する例えですよね。蝶が飛ぶか飛ばないかでハリケーンが起きる起きないが決まるという」
「でもそれが通用しないのが運命の本質なのよ。そうでないあらゆる出来事はただの偶然だけど、運命とは『運ばれる』もの、つまり行き着くものなの。ほかの世界の和人がおなじく筋弛緩剤に倒れるように、運命はときに強力な拘束力・修正力を持つのよ。生じる結果だけはおなじだけど、そこへ至る道筋はたくさんあるのね。たとえば加害者や動機すら大きく変化する。幻想郷が関わらない世界の和人はね、シュピーゲルじゃなくジョニー・ブラックに刺されるの」
「……あちらのデス・ガンは金本(かねもと)が逃亡に成功するんですね」
「そうよ。あちらではデス・ガン事件は数名の死者を出すわ。逮捕者にはシュピーゲルの正体、新川恭二(しんかわきょうじ)も混じっていた。彼の兄はラフコフの幹部・赤眼のザザ」
「恭二は捜査に協力的だったと聞きます。あちらは違うんですね」
「ええ。こちらではすぐ捕まったラフィン・コフィンも、あちらでは一〇〇人以上を殺害した恐怖の殺人ギルドだった。ゆえにザザは蛮行の数々を自慢として弟に語って聞かせた。ここでバタフライ効果ね。何事も一線を越えれば英雄視の対象となる。リアルに慢性的な不満を持っていた弟は大量殺人行為を賛美し、兄といっしょに共犯となった。結果、逮捕者が替わり、実行者もずれた」
「現実に不満を……ここは同じなんですね」
 取り調べはまだ始まったばかりだが、当人がぺらぺら供述しまくるおかげで詳細のかなりが分かっていた。犯行に使われた筋弛緩剤は兄の新川昌一(しんかわしょういち)が隠していたもので、警察の目を盗んで自分のものとしていた。つまりなにかを攻撃・破壊したいという衝動がすでにあったのだ。対象はそのときの気分でいくらでも変わる。
 恭二がアリスを狙った動機は、幻想郷の住人と関わってきた延長の果てにある。最初は鈴仙(れいせん)。GGOで妖怪の噂を聞いたシュピーゲルは、幻想郷へ興味を持ちリアルで長野県諏訪市のイベントに参加してみた。そこで会ったのが洩矢諏訪子(もりやすわこ)。まだ妖怪を信じていなかったので最初は見えなかったが、奇跡を見せられたらもう信じざるを得なかった。
 それまで見えなかった存在が見える。そこに運命かなにかを勝手に感じたようで、強烈な承認欲求から半ばストーカーと化し、執着が過ぎて警察のお世話にすらなった。仕方ないのでGGOのほうで鈴仙に接近してみたようだけど、シノンのブロックでなかなか「懇意の仲」になれない。デス・ガンの騒動があり彼がサクシニルコリンを手に入れたのはこの時期だった。やがて鈴仙とシノンがALOへ出て行くと、取り残された彼は収まりが付かなくなる。
 恭二は夢の投影というより、完全な恋愛対象として妖怪を見ていた。だからすでに彼氏のいる妖夢や魔理沙は追っかけの対象外で――そんなとき歌手デビューしたのがアリス・マーガトロイド。諏訪子とおなじ金髪のアリス。天使の笑顔に癒された恭二がどれほど(よこしま)な妄想を持つようになったのかは、妖夢自身がすでにアリス本人から聞いている。
 やつがダイシー・カフェへ潜り込めたのは度胸と演技のなせる技。当日は幻想プロダクションのスタッフも参加してたし、お互いにリアル顔を知らない者も多くいた。だから「それらしく大胆に振るまう」ことで、恭二はまんまと内輪のパーティーへ混ざってしまったらしい。あくまでもプライベートな祝賀会だったので、招待状といったものはなかった。鈴仙と個人的なフレンドで、情報を得やすかったのが災いした。
「やはりと考えてしまいます。どうしても和人は筋弛緩剤の犠牲にならなければいけなかったのですか?」
「運命には変えられるものと変えられないものがあって、キリトのアンダーワールド放浪は容易に改変できないほど強力なのよ」
「どうしてですか」
 ティーカップをテーブル上に置き、翼を二度上下に震わせてから、宣告するように吸血鬼は言った。
「――この事件が『人類の歴史』そのものを変えるから。これから一週間ほどで起きる出来事を境として、世界は大きくその在り方や価値観を変化させるわ。その起点となるのが桐ヶ谷和人なの」
「……みょーん?」
 かなり間抜けなツラを見せてたようで、パチュリーとレミリアが笑った。
「胸を張りなさい魂魄妖夢。あなたが選んだ男の子はね、革命児のような影響を世界にもたらす運命の相を持つの。それは最初から決まっていた奇跡で、すでにSAO攻略やザ・シードの拡散に寄与しているわ。つまり主役と呼ばれるような強くて太い人生を歩む、そういう星の下に生まれついた希有な人間なのよ、彼は」
「主役ですか」
「物語でいえば主人公ね。私たち妖怪が和人を選んだように見えるけど、運命史観的にいえば逆に選ばれたとも取れる。この世界のSAO事件は幻想郷の介入で楽になったから、そのぶん和人の役割や負担が大幅に減ったのよ。だから補うような修行や試練を私や紫が与えた。というよりはそのように動かされたとすら言える。幻想郷の未来のため、和人には最後まで勝者でいてほしいと私たちはかならず願うわ。『勝てる和人』になってもらうべく、彼の運命に干渉し支えた。より大きな運命にそう強制された――すべては変革の転換点となる、アリシゼーションのため」
 どのような戦いが待っているのだろうかと、妖夢も武者震いする。『キリト』が主役なら、間違いなく剣による戦いだ。であれば妖夢にも出番があるだろう。
「その転換に、幻想郷は便乗すると」
「便乗というよりは、ここで片を付ける、という表現が適切かもね」
「片を付ける……」
「いまなら明かせるわね。日本に妖怪の人権と、人に由来しないあらゆる知性の人格権を認めさせるための戦い。さらにもうひとつの巨大な敵への先制パンチ」
 そういえばレミリアは先に言っていた。敵は複数いると。片方は和人がキリトとなって倒す。さらに明日奈も加わるらしい。もう一方を妖怪たちが相手にする。
「いよいよですね。私が戦うべき巨大な敵」
「とっても遊び甲斐があるわよ。まだ揺らぎがあって正確なところは不明瞭だけど、バトルフィールドはおそらくリアルとアンダーワールドの双方になるわ。地上最大にして史上最強の暴力組織――アメリカ合衆国軍よ」
「アメリカさんですか……」
 レミリアが残念そうに眉を寄せた。
「反応薄いわね、あまり恐がってなさそう」
「どのような戦力を投入してくるか知りませんが、現段階で妖怪の本体へ直接的にダメージを与えられる武器はまだ登場していないんですよね」
「そうね、たしかにいまのアメリカ軍はたいした脅威じゃない。私たちを制圧するには重機関銃や戦車などが必要だけど、日本国内でそういうのを使うなんて無理だし、妖夢ひとりを無力化するだけでも戦車数十輌がスクラップになりそうね」
「それよりもアンダーワールドという世界で過ごしているキリトが心配です。無我の境地――心眼だけでは正直、まだ不安といいましょうか。銘刀は持ってるけど、その剣に足腰が伴ってません」
「練習不足のことね。でも彼なら大丈夫よ。魂魄の二刀流をすぐ覚えたように、キリトはアンダーワールドの秘技にいずれ目覚めるの」
「……また裏技ですか。まさに攻略そのもの、生粋のゲーマーですね。ゆえに世界を救う勇者とならん、みたいな」
「あら意外、SAOの二刀流が裏技だったと認めるのね」
 含むように微笑む吸血鬼に、肩を竦める妖夢。
「魂魄流がそのまま通用したアインクラッドの攻略活動は、終盤を除けば真の意味では『戦闘』じゃなかったですよ。稽古の延長、極論すれば作業でした。でなきゃキリトと楽しいデート道中なんてしてませんって」
 ゲームバランスは一般プレイヤーを基準として調節される。そのためチートな魂魄流を前にすれば、大半の敵が相対的な弱体化の定め(さだめ)にある。
「それ聞いたらあの世界で命を落としたプレイヤーや、必死に戦ってきた人たちが腹を立てそうね。なにを代償としても絶対に届かない孤峰の高み」
 べつに魂魄流でなくとも、武芸に覚えある人や運動神経の優れた者が有利となるのがフルダイブ・アクションの真理だ。こればかりは覆す方法がチートしかないのに、魂魄流には両面の不条理が揃っている。カーディナルとザ・シードを設計した茅場が「本物だから規制なんかすべきでない!」と勝手に感動してくれたものだから、いまもって魂魄流は仮想現実の最強剣術になってしまっている。
「認識の差ですね。もちろん魂魄流の妖怪二刀剣術がたまたまSAOのシステムとマッチしていたのは認めますよ。けして肉離れや骨折を起こさないアバターで、筋肉を激しく痛めつけるような妖怪の動きを行い、リアルならとっくに死んでるはずの敵を延々と刻みつづける残酷で無慈悲な剣。バケモノがバケモノを倒すため一〇〇〇年以上かけて進化させた剣術ゆえ裏技となれました――でもあれほど短期間で鮮やかに習得したキリトの才能もまた、天才と呼ぶに値するものです。それがアンダーワールドと幻想郷を救うんですね?」
「そういうことになるわね。ただし『人間の魂魄流』はアンダーワールドでは通用しないわ。彼はこれまでの利を一度失い、再出発した中でまた天才を発揮して、その天才性が最終的に私たちの大切な砦、幻想郷を守ってくれるのよ」
 魂魄二刀剣術が通じない世界とやらに、妖夢は強い興味をそそられた。人間が人間として剣を振る仮想世界か。
「和人がアンダーワールドで覚えるその裏技を教えてください」
 妖夢の要請に、レミリアはすこし勿体ぶってから答えた。
「いいわ……その名を『心意』という」
「しんい――真なる意思? 心の意思?」
「心のほうね。心意の太刀、心意の力といった呼び方をするけど、具体的な内容はあなたもいずれ遭遇するから楽しみにしておけばいいわ。じつはその技、紫を通じて私が視てきたもうひとつのSAO、四〇〇〇人が死んで二年もかかったデスゲームの世界で、極限状態のキリトが目覚めてるのよ。ヒースクリフとの一騎打ちで『届かなかった剣』を、心意の力で『届いた剣』へと変えた。その背景には二年に及んだ辛い日々と愛するアスナの姿があった。妖夢のいないあちらでも和人の相手は明日奈なのよ。こちらの明日奈が和人を好きになったのも、ごく当然のことね」
「じゃあ私はたまたま先に会っていただけ……運が良かったんですね。下手な片想いをせず済みました」
 もし先にキリトとアスナのカップルが出来ていれば、知力・美貌・気立てで劣る妖夢に付け入る隙はなかった。彼氏の恋愛耐性は妖夢自身が知っている。妖夢が好きだからキリトも好きになった。おなじくあちらのアスナも積極的にアプローチして攻め落としたのだろう。妖夢はどうだ? キリトを攻略? 難しそうだ。クラ之介がキリトをけしかけたおかげで、妖夢は派手な告白を決行、無事にキリトとの恋人ごっこへ移れた。自分で誘惑したわけじゃない。しかも妖夢が和人にそういうものを仕掛けるとき、たいてい自分で言ってしまう。これから媚びますよと。
 黙りこくって自分の世界へと突入してしまい、すっかり顔の赤い妖夢。そんな熟したトマトにむけて、レミリアの右手が扇がれている。
「熱いったらありゃしない。まだまだ恋愛脳ねえ。心意についての感想や疑問はないの? アインクラッドとアンダーワールドでおなじ技が使える理由とかさ」
「和人が無事で、キリトがその心意で活躍できるならどうでもいいです。現実の剣術にも『無』の上にさらなる高みがあって、お師匠さまや天魔さまが使えるんですけど、おそらく似てるんですよ。意思の具現力といいましょうか、そういう心の技。キリトならバーチャル世界で達するかもな、とはたまに思ってましたが、半世紀以上も剣を振ってる私よりも本当に早く覚えちゃうんですね。もう呆れるほどメチャクチャな人です。好きで良かった」
「呆れた幽霊だこと。好きって予防線でジェラシーを誤魔化してるわね。恋人だから許すんじゃなくて、なにくそと奮起して研鑽なさい。どうせあなたも――まあいいわ、いずれ時がくれば分かる」
 咲夜とパチュリーは最後まで一言も口を開かなかった。妖夢の訪問は紅魔館にとってそのていどの小事だったのだが、軽く扱われた当人にとって収穫は巨大だった。どうせ運命に踊らされるにしても、知らぬまま大海を漂流するよりはずっと良い。
     *        *
 そのままお茶会に突入し、一時間ほど取り留めのない会話を楽しんだ。すでにあらゆる手配が終了しており、幻想郷に負ける要素や不安材料はないらしい。ただレミリア・スカーレットはまだなにかを隠してるように思えてならないと妖夢は考えていた。あの幼女吸血鬼の発言がすべて正しいとすれば、この会合は「なくても良かった」もので、裏を返せば妖夢が信じるままに行動した結果は、なんにせよ自動的に正解として導かれるということだ。
「つまり私は、思うよう適当に動けばいいわけね」
 SAOで恋に落ちた彼氏のことを思い返す。つきあい始めた当初、どってんばってん転げ回りたいほどアホなおままごとラブコメをやっていた。中学生らしい暴走だったと妖夢は考えている。いまでは一四歳相当と一六歳――精神年齢の差はもはや埋めようがないが、やろうと思えばたぶん和人は乗ってくれるだろう。たまには周囲が眉をひそめるほどイチャイチャふざけたくなる。もし無事に逢えたなら、思い切ってネコミミ妖夢になってみようか。だが和人はいま、キリトとしてアンダーワールドで戦っているらしい。魂だけでログインするから、あちらの仮想世界は現実の何倍かで進んでいると和人より聞いた。たしか三倍速くらいだろうか。ならすでに二日くらい経過している計算だ。もし一週間も寝れば、体感で三週間はログインしっぱなしになる。まるでSAO時代のようだ――
 真面目な性格が出てしまい、気がつけば幽明結界(ゆうめいけっかい)の門が間近に迫っていた。幻想プロダクションに「冥界へ戻る」と言った手前、なんとなく有言実行しようとしていた。
 幻想郷と冥界をつなぐ結界は物理的な施設として見えている。どんな天候だろうとも消えない謎の雲上に、高さ二〇メートルほどの扉が立っている。木製だが金剛石や緋々色金(ひひいろかね)の物理攻撃すら受け付けない。正面には四本の柱が整然と立ち、結界の中にさらに結界を形作っている。さてこの結界の扉、じつは誰でも簡単に開けられる。空を飛べ、あるていどの魔力や霊力を使えるという最低限の条件がつくが、死後の世界と幻想郷は自由に行き来できるのだ。
 扉はいま、つねにすこしだけ開いている。雲の上をケーブルや電線が走り、扉へと吸い込まれる。ケーブルは雲の端より下界へと垂れ、人間の里方向へとまるで巨大なロープウェイのように繋がっていく。河童の秘術によって特殊強化ワイヤーで支えているライフライン。これを通じて白玉楼は電力やテレビ、ネット環境を得ている。
「……もうどのくらい帰ってなかったのかしら」
 つぎの瞬間にはもう門の隙間を抜けていた。空高くを飛んでいたはずなのに、いきなり数メートル下は地面だ。時間帯も昼から夜へと迷い込んだよう。暗い闇に登り階段がずっと延びている。あちこちに灯籠が置かれ、霊力で自動点灯して石段を照らしている。冥界は昼であってもまるで夜のような黄昏に包まれている。ただし黄色くはない。ただ暗いだけの、奇妙な夕暮れなのだ。しかも謎の太陽まで出ている。
 階段を歩いて登るなんてバカはやらず、空を飛んだまま一直線に白玉楼を目指す。
「ユイ」
『ふわぁー、やっと呼んでくれましたね』
 半霊に下げているいつもの携帯が待機状態より復帰し、画面内で愛らしい白ワンピースの少女が両手をあげ伸びをしていた。
「レミリアの話、どう思いました?」
『いま録音ログを早回し参照中ですが、私を起動してなくて正解でしたね。口答え(くちごたえ)したい生意気なお年頃ですから、きっと話がおかしな方向にいってました』
 録音機能だけでオフにしてと、ユイのほうから頼んできたのだ。
「私はどう行動すればいいと思います?」
『それにはどちらの敵と戦うかですね。もし私の能力を活かすのならリアルでしょうけど、妖夢さんは量子コンピュータが構築したアンダーワールドへキリトさんを助けに行きたいんですよね』
「……やはりログインする方向になるでしょうね。いくらキリトが自力で解決可能といっても、米軍なんかレミリアとフランだけで艦隊ごと壊滅できるわ。私はやはり剣を持つ敵と戦いたいわね――心意の使い手とか」
『心意の使い手はただの特殊能力者にすぎませんが、妖夢さんにふさわしいやっかいな敵がいます。レミリアさんの発言からプロファイリングしたところ、米軍はリアルだけでなく、アンダーワールド側にも「大挙ログイン」して出現すると見られます。おそらく幻想郷の援軍はこの部隊も受け持つでしょう。妖夢さんのおもな敵はどちらに転んでも地上最強の軍隊になります』
「へえ――ログインした米軍なら、思いっきり斬り捨て放題ですね」
 殺しだろうとも正当化できるなら平気で行えるのが妖怪というものだ。百年単位で生きてると必ずそういう瞬間が不定期にやってくる。そこで上手に行動できた殊勝な子だけがさらにつぎの選択機会まで生き長らえる時間をゲットするのだ。幻想郷は美人で溢れているが、見た目に反して殺しを知らない子のほうが少ない。あの人見知りな河城にとりにすら殺人の経験があるらしい。トラウマと関係した事案だろう。
 食糧事情もある。大結界で異世界化するまえは幻想郷の妖怪もたまに人を襲って喰っていた。いまでも幻想入りの際に死んでしまった人間はいつのまにか死体ごと消えており、荼毘に付される例は少ない。死体を運ぶ妖怪、火車(ひぐるま)のお燐はもっぱら葬式の場を狙うので、のたれ死にはあまりそういう対象ではない。人の味を覚えた野犬や熊なら人里の人間を襲うはずだがそういう話も聞かないので、身元不明の行き倒れや新鮮な死体に限定し、知らぬところで隠れて殺し食べてる不届き者がいるわけだ。宵闇の妖怪ルーミアが霊夢に言った「食べて良い人類?」との失言もあって――つまりそういうことだ。
『紫さん辺りからお迎えが来るか、なにか導くイベントが起きるでしょうから、それまで適当に自由行動していて良いと思いますよ。たぶん無駄な行為はありません。私の予想では、すぐにアリシゼーションに関連した社会問題と直面しますから』
「社会問題?」
『ええ、冥界などでにわかに発生しているとおぼしき問題です』
「……聞いてない」
『聞かれませんでしたし。とりあえず着けばわかりますよ』
 いじわるだ、レミリアはなにか隠してるし、ユイまで。今回の対話はアリスがいなければ起きなかったし、もっと自力で気付けということか。でもね、しょうがないと妖夢。
 阿呆だから。
『いま妖夢さん、頭があまり良くないから仕方ないって思いましたね?』
「ユイったら、エスパー?」
『顔に書いてますから丸わかりです。ダメですよ思い込みは、本当にそうなってしまいますからね。SAO時代のことを思い出してください。妖夢さんが自分で決めて動いて、悪い結果になったことも多かったですが、同時に良い結果もまた様々にもたらされたと思います。とくにキリトさんとの出会いはみんな、妖夢さんが感じたことに従い、周りの助言を無視したからですよね?』
「およよ」
『妖夢さんは人間でいえば一四歳、失敗して当たり前なんです。それを過度に恐がってどうするんですか――和人さんと将来、どうしたいんです?』
「できれば結婚とか……」
 ALOはシステム的に重婚禁止なので、アスナに遠慮してパートナー止まりだ。リアルで明日奈が和人と入籍して初めて、妖夢も心おきなく仮想世界のお嫁さんとなれる。すくなくとも妖夢にとってはそういう価値観だ。むろん現実でも可能ならば――
『なのにお付き合いのほうは停滞してませんか? 最後のキスはいつでしたっけ?』
「去年末にALOのクリスマスデートだから――もう半年も前ですね」
『SAO時代は何回?』
「七回」
 そのうち五回はアスナに憑依してた。
『最初の四ヶ月で七なのに、そのあとが二年以上でわずか三回。しかもリアルでは一回しかしておらず、今年に入ってからはゼロ。間隔は延びていくばかり……妖夢さんは周りの目を気にしすぎています』
「……だって同級生だったりその次はアイドルしてるから、あまり恋愛関係は目立たないほうがいいかなって。魔理沙も我慢してるもの」
『それが間違いなんです。マスパみょんメンバーがふたりとも彼氏持ちだなんて、ファンはみんな了解済みですよ。フリーで清らかな乙女じゃないと嫌だって人は、最初からファンですらありません。だから妖夢さんは猫の皮を破り捨て、堂々とお付き合いに(いそ)しむべきです。いくら見た目が成長しているといっても、桐ヶ谷和人さんはまだ一六歳なんですよ。でもすでに一六歳ともいえます。やや落ち着いてきた彼に合わせて自分を抑え、賢い彼女でいるつもりなのでしょうか? 本当はもっと抱きついたり甘えたりしたいんじゃないですか?』
「面目ない。むちゃくちゃデートしまくって遊び倒したいです」
 ごもっともで、ほかに返す言葉がない。
『妖怪と人間は違いますよ。人間はあっというまに成長し、変化します。二〇二五年に入ってどれだけのチャンスを逃してきたことか。魔理沙さんはいいんですよ、あちらのカップルはすでに悠久の刻を生きる間柄ですし、体も心も変化しませんから。ですが異種族恋愛のあなたはまったく事情がちがいます。妖夢さんは彼ともっと一緒にいて、女の子らしく甘えてしまえばいいんです。中学生女子らしく、積極的に思い出を深めるべきです。でないと――取られますよ?』
 すこしカチンときた妖夢。
「明日奈はそんなことしない」
『それを思考停止というんです。「結城明日奈(ゆうきあすな)さんはすばらしい女性で、安心して和人さんを任せられるから、私は芸能活動に集中して幻想郷のため頑張ろう」……妖夢さんの悪い癖、奇妙な自己犠牲の精神。でもそんな建前なんて距離と感情のやっかいな魔物にかかれば、脆くも崩れ去りますよ。異世界の明日奈さんは自力で和人さんと恋仲になったそうですが、妖夢さんは魔理沙さんと壺井さんの後押しがあったからでした。しょせん幸運で得た彼氏なら、その後の沙汰まで幸運に期待するなんて、運の神さまに失礼ですよ? 守るためには動かないといけません。なんのためにアルヴヘイム・オンラインがあるんですか?』
「みょーん……」
 ALOへログインしている本来の目的がまさにそれだった。遠距離恋愛のデメリットを解消できるツールだったはず。あの世界にキリトがいるから、妖夢はアミュスフィアを被るのだ。
『妖夢さんの良いところは、好きなものに対して徹底して積極的になれるところだったはず。だからキリトさんと恋人になれたし、一時リタイアを挟みながらSAOをわずか五ヶ月で攻略できた。その良さを自分で殺してどうするんですか。あなたのポジションは甘えん坊でいいんです。あまり聞き分けの良い妹でいると、いずれ本当にただの妹役へと落ちてしまいますよ。長続きしているカップルに共通している特徴は、絶えず愛を再確認しつづけている点です。妖夢さんはすでにそれが必要な段階に差し掛かっているんですよ。さもないと明日奈さんも疑問に思って妖夢さんが引いたぶんを埋めようと前進するか、反対に遠慮して同等に退いてしまうでしょう。どちらに転んでも三人の関係は悪化しますから、妖夢さんは和人さんの恋人であるときちんとアピールし続けなければいけません。それが妖夢さんのためでもあり、和人さんのためでもあり、むろん明日奈さんのためでもあります。変化に対する義務なんですよ。時間が経てば何事も変わりますが、人間のそれは妖怪とは比較にならないほど早いんです。だからこそわずかな変化ごとに細かく上書きの必要があるんです』
 プログラム的な存在にすぎないがゆえに、人へ憧れるユイは心の機微を深く研究し、一家言をもつ。元はカウンセリング用の人工知能で専門家だ。
「人を無原則に信じるのは、かえって害。信用するにもされるにも、まずそれに足る行動を取らなければいけない――ってわけね。ありきたりだけど、つい忘れがちですね」
 ドラマでは長く留守にした夫や恋人をずっと待ちつづける女がよく出てくるけど、あれは滅多にいないから理想像として語られる。それに似たことを自分も真似できると思い込むのは、おそらく物語に対して失礼だ。なかなか実現しないから、物語には「物として語る」価値が出てくる。あくまでも理想であって真の目標とはならない。凡人が天才とおなじことが出来ると考えてはいけないように、鵜呑みとせず参考として折り合わなければいけない。一途にも限度があるのだから。
『恋愛という精神に即した情動で積極的なアクションを取れるのは、基本的に知能指数の低い人です。なにしろ動物の本能ですから、頭が良いほどブレーキが強くなってしまう。この三人だともっともブレーキが緩いキーポジションにいるのが魂魄妖夢さんなんですから、それを自覚してください』
「うっわー、きつい現実です~~。ユイも突っ込みが激しくなってきましたね」
『その割には妖夢さん怒ってませんよね? すでに二年も付き合ってるから言えるんですよ。今日はいい機会だったので、溜まっていたぶんを精算しました。とにかくこれでどう動けばよいのか、策源の太い支柱ができたと思います』
「これ以上のお灸はそうないわよ。恩に着るわユイ、あなたをサポートに持ったことを光栄に思います」
 気合いも入って、頭スッキリの妖夢だった。
     *        *
「……で、これが冥界に起きてる社会問題ですか」
 一目で異常だと分かった。
 階段の上部が近づくにつれ、たむろしてる亡者がぽつぽつ見て取れたからだ。しかも顔つきや服装がおかしい。
「どうしてみんな、中世か近代の欧州みたいにファンタジーな格好を? ここは日本の霊界なのですが」
『こうも予想通りだと、張り合いがないですね』
 ユイはあまり驚いていない。さも当然のように最初から現実を受け入れている。その影響か、妖夢も不安に感じたり必要以上に警戒せずに済んだ。
 一挙に階段を抜け、白玉楼の門前へと降りる。辺りにはテントが立ち並び、難民キャンプの様相となっている。貴族屋敷の情緒が台無しだ。みんな死者で老人が多いぶん、見た目のわりに静かなのが助かる。ただし数がとんでもない。テントの群れは左も右も見渡す限り、壁の端までずっと続いている。白玉楼は冥界でもトップクラスの広さを持つ施設だが、その外周を一面に覆い尽くすほどの霊とは、何万人いるのだろう。
 門番の人魂たちに会釈し門を潜ろうとしたところ、声を掛けられた。
「……あんた半人半霊だよな。ここのモンか?」
 返答する前に、流暢な日本語に軽く驚いた。相手は四〇歳くらいの幽霊だが、彫りの深い顔で目は青く完全にヨーロッパ人。なのに滑らかな日本語で話しており、まるでALOやSAOみたいな感じだ。ゲーム世界でどれだけファンタジーを楽しもうとも、言葉だけは代替できない。
「はい。家人(けにん)です」
 もっともこの二年半ほど仕事らしい仕事をしていない。日本ならとっくに解雇だが、一〇〇〇年以上の寿命を持つ半人半霊ではあまり深刻には受け取られない。人間の感覚では一ヶ月ていどの長期休暇だし、西行寺幽々子(さいぎょうじゆゆこ)もアイドル業を許可している。妖夢が白玉楼を出て行って以来、襲撃は一度もないと聞く。妖夢の強さが広まって安全になったうえ、元から幽々子のほうが妖夢の数段は強いのだ。妖夢の役割は保険と代理。世界の管理人がいつも自分で戦っていれば、一度の敗北で取り返しが付かなくなる。
 そんな事情を知るよしもない男が、焦るように要求してきた。
「西行寺さまに、早く町をなんとかしてくれって伝えてくれよ」
 なんのことかさっぱりだし、情報がなくてちんぷんかんぷんだ。それでもなにか答えようとしたが、ほかに文句を言いたいであろう男が何人も群がってきたので、思わず後ずさった。門の内側に入ってしまう。
 男たちと妖夢の間を、二本の槍が交差に遮った。
『……ココカラ先ハ、西行寺サマノ許可ガ必要デス』
 人魂は口や言葉を持たないが、思念波で語るのは可能だ。
「でも俺は、もう半月も――」
「どうやって食っていけば――」
「水が! 川の水はもう飲み干して干上がってしまった!」
「半人半霊のお嬢ちゃん、話を、話をー!」
 男たちの抗議に、ふたりいる人魂のもう片方がきつめに言い放つ。
『冥界ニハ冥界ノ「禁忌目録」ガアリマス』
 たったそれだけで、とたんに男どもが収まった。まるで怖いものでも見るように人魂へ深く頭を下げ、無言で散っていく。
「禁忌目録?」
 宗教的・民族的なものだ。生活習慣の全般を縛ってしまう多種多様なルール群で、合理的な律令が整備された文明国・先進国ではとっくに廃れてしまっている。地域差が激しいので、度が過ぎれば交通や経済の妨げにしかならない。ゆえに最終的には国の事業として統一していくしかなく、その成果が法律と呼ばれる。
『あの人たち、独自の異世界を創造できないほどマイナーな宗教の信者さんですね』
 無宗教の人も含め、行き場のない魂はとりあえず彼岸(ひがん)に送られるのが日本のローカルルールだ。なぜなら日本語には仏教や神道の用語がこれでもかと散りばめられており、会話したり考えるだけで、薄い信仰として勝手にカウントされていく。たとえば「ちくしょう!」と叫べばすでに仏教だ。天国・冥界・地獄の三界は仏教・神道にはじまり陰陽道・儒教・道教まで幅広く包括し、日本の死後世界で圧倒的なシェアを占める。神仏習合が一〇〇〇年以上継続した結果、現世でいくら宗教紛争が生じようともけして分割しなかった。
「共同生活でもやってる新興宗教かしら。でもなぜみんな西洋系の容貌? 少なくともキリスト教ではないみたいですし」
 日本にはキリスト教徒専用の死後世界がある。分派宗派新興に関係なくまとめて放り込まれる。
『あの人たちは「アンダーワールド人」です。レミリアさんとの会話を総合しても、ほかにありません。紫さんが予言していたデジタル的な魂の記録・複製に成功したんですよ』
「……およ?」
 妖夢は一瞬、ユイが狂ったのかと思った。だってまだ二年だ。
『根拠はありますよ。まず彼らの数があまりにも多すぎます。異世界を生み出すのに十分な信仰がすでに備わっていると見て良いでしょう。倭の人たちが高天原(たかまがはら)を創造したとき、西日本の人口は十数万人しかいませんでした。諏訪子さんによれば、神の発生なら一〇〇人もいれば十分だそうです』
「じゃあなぜ冥界に?」
『それは時間が足りなかったからですよ。神が誕生するには半世紀から一〇〇年は必要みたいですね。神の種そのものは簡単に生じますが、それが完全な一柱の神として具象化されるには、人間の一生涯ほどの期間がいるんです。異世界が生じるのにどれほどの時間が必要かデータ不足で判りかねますが、すくなくとも数ヶ月では無理でしょうね。ラースのSTLは本格稼働してからまだ三ヶ月の運用実績しかありません』
「三ヶ月……まさかっ!」
 和人は三倍速の時間を過ごしているらしいと言った。
『三倍なんて、部外者への嘘に決まってますよ。だって軍事技術なのに。アンダーワールドの加速率は自在に変動可能で、リアルとおなじ等倍はもちろん、何千倍という途方もない速さでも運用できると見られます』
「じゃあラースの築いた世界はデジタルゲームなんて生易しいものでなく、リアルのシミュレートそのものだというの? 彼らはNPC(エヌピーシー)じゃなくて、人として産まれ成長し、喜怒哀楽の一生を送って死んでいく、デジタル世界の生きた人間だと」
 静かな怒りが胸の奥底より湧いてきた。超常と死後の世界の実在を知りながら「人体実験」を良しとする菊岡誠二郎の倫理観に対して。彼は死後まちがいなく地獄へ落ちるだろう。レミリアや紫はおそらくこれを知りながら阻止させなかったが、修正力とやらが働いてしまうのだろうか? それとも幻想郷が第一なのであえて犠牲になってもらったのだろうか――だとすれば、幻想郷の踏み台とするにしても数と規模があまりにも桁外れだ。
『私の言ったことはすべてまだ推測にすぎません。幽々子さんに会えば、はっきりとした回答が得られると思います。怒るのはそれからでも遅くないですよ』
     *        *
 お茶の間にいた幽々子へ二年ぶりとなる帰宅の挨拶をおこない、近況報告もそぞろにさっそく話へと入った。
「ええ、まさにユイちゃんの言う通りね。彼らは死者の町と日本的な死生観に馴染めず、噂などを頼りにここへ自主的ないし受動的に集まってきた流浪の民よ」
 幽々子の返答はあっさりで、かつ淡々としている。まるで他人事だが実際にその通りだ。祖霊信仰より生じた原住民の半人半霊などを除けばみんな死んでる世界だから、ほかの世界と違い社会を維持する労力は格段に低い。
「食糧の提供や配布などは?」
「近隣の半人半霊を結集しても五〇〇人くらいしかいないのに、物理的にここの六万人をずっと養うなんて可能だと思う? 最初は配給もあったけど、すぐ止んだわ。半人たちが冬を越せなくなるから私が中止させたの」
「よく暴動になりませんね。いくら餓死しないといってもお腹は空くし喉も渇くのに、白玉楼へ侵入した形跡すらないなんて」
 死者となっても基本的な五欲五感は残っている。おもに地獄で苦しみ、同時に天国で極楽を満喫するためだ。だから冥界の死者は人魂になるまで生前とおなじ生活をする。働いて稼ぎ、食べて遊んで語って寝る。地獄の食糧事情は知らないけど、天界では桃が主食だ。違うのは生命維持の必要がないため、空腹を放置してもそれ以上は死なない。
「あの人たちには禁忌目録という膨大なルールがあって、それを忠実に守っているのよ。『世界が違う』んだから死ねばもう関係ないんだけど、やはり身に染みついてるようね。支配者にとっても従順で、逆らうってことを絶対にしないの。でも犯罪行為をしないかわりに文句ばかりは一人前なのよね。とくに貴族と皇族って連中は特権に溺れていたものだから、要求だけ大きくてみんなを煽動するのよ。レミリアを一〇〇倍くらい陰険にした感じ。あの子はまだ幻想郷の利益になることをしてくれて愛嬌があるけど、貴族どもはただ自分が楽をして、生前の生活水準を保ちたい怠け者なの。資源に乏しい冥界で王侯のぜいたくが許されるわけがないから、最初の決裂でまとめて僻地へ飛ばしてやったわ。残った民はみんなああして犬みたいに大人しいから、彼ら用の都市ができるまで放置してるの。その町を建造してるのが、強制労働してる皇族と貴族だけどね。冥界の禁忌目録なんて嘘八百を示したら、なぜか従って黙々と働くのよあいつら。笑っちゃうわ。いくら私でもここにいる全員を転移させるなんて無理だし、冥界の中に独立国を造られても困るから、まず上下ってものを身体に叩き込んでるところ」
 呆れるような話だった。
「……知らない間に凄い感じになってたんですね。私には一言も、招集すらありませんでしたよ」
「紫が黙ってろってしつこいのよ。妖夢を通して和人に知られたらいけないって。幻想郷でも知ってる人はまだ少ないんじゃない? 幽明結界から外に出るなってお触れ出してるから、禁忌を破れない彼らにはどうしようもないわ」
「あの人たちは人間なんですよね」
「そうね、間違いなく人間よ。生前に生身の肉体こそ持っていなかったけど、きわめて純粋な魂たち」
 義憤が立ち上る。だが反射的なものだ。
「紫さまとレミリアはそれを知りながら――なんて(むご)いことを」
 レミリアへ剣を向けないと誓ったことを後悔していた。そのときはまだ冥界の変化を知らなかった。
「むろん様々な検討を行ってきたわ。でもね、世界中で似たような研究が行われてるの。わかるわね妖夢」
 幽々子もご承知というわけだ。なら従者として妖夢も外道の行程に同伴するしかない。懸命に情報を整理する。
「……感情的に納得できませんが、理性的には。この手のことで幻想郷が直接干渉し断罪できるのは日本国内だけです。犯行前に止めても、ほかの国で悲劇が繰り返されてしまうだけ。それに国内でも第二第三のアリシゼーションが企画されるでしょう。だから実際に事件になってくれないと、その後の国際的な規制へと繋がらない」
「よく言ってくれたわ、それでこそ私の一の従者よ。死後の世界がパンクしたらみんな大変だから、確実に規制を求める運動が起きる。それがきっかけとなり、妖怪の人権獲得へと繋がるらしいの。今回の件では幻想郷の頭脳を結集して一〇日に渡り一〇〇パターン以上のシナリオを考えたけど、最終的にアリシゼーションの実験をあえて見逃す結論になったわ。いくら私たちが強力な妖怪であっても、政治の世界ではド素人もいいところで、頼れるのは世論を味方につけることくらい。でもそれには目に見えるものが必要なの。たとえば抜本的な災害対策は何千人も亡くなり莫大な財産が失われて初めて行われるものなのよ。実害が伴わないと世論や国は本腰を入れて動かないの。ここに集まっている霊たちは、世の改革のためどうしても必要な犠牲者だし、彼らの主観ではちゃんとした生涯を送ってきたはずで、生け贄の羊などと認識すらしていないはずよ。それに運命の修正力や強制力もあって、それがどう働くか予測が付かない。もはやレミリアや紫の力が及ばない深さにあって、見通せるとすれば龍神さまくらいしかいないわ。歴史の転機とは、私たちの手が届かない領域の事象なのよ」
「それはあの吸血鬼も言ってました。どうせ回避できないから、せめて有効活用してやるわけですね。いかにも妖怪らしく幻想郷にふさわしい選択だと思います……運命に遊ばれるアンダーワールド人の魂は、何万人いるんですか?」
「白玉楼へ集まってるのはほんの一部で、冥界中ですでに七〇万人以上はいるわね。そのうち七割が禁忌目録に従う『人界』の人たち、のこり三割は無法の『闇の土地』で、暴力に虐げられた民草や、悪行を犯さぬまま死んだ戦士よ。そちらのほうには人間に加え、亜人種ってのもいるわね。ゴブリンとかオークとかジャイアントとかオーガとか――魂は人間そのものだけど」
 どんどん事件が大きくなっている。これは思った以上の話だった。
「アンダーワールドって、さらにエリアが分かれてるんですか」
「なにせ『精神の人体実験』だそうだから――決まりを破れぬ光があるなら、その対極となる闇もある。その土地はダークテリトリーと呼ばれているわ。そのうち光と闇で全面戦争でもさせる気じゃない? 社会発展の実験かなにかで何百年ぶんか回してて、すでに一二〇万人ほど死んじゃってるけど」
 一二〇万という総数に妖夢は絶句してしまった。
『質問いいですか?』
 ユイが話に割り込んでくる。
「もちろん構わないわよ。あなたのほうが妖夢より賢いし」
 立つ瀬がない。
「みょーん……」
『天界や地獄でもおなじ問題が起きていると思いますが、どういう対策を取っていますか?』
「いい質問ね。両方とも冥界と違って『日常生活』のない世界だから、意外と単純ね。まず天界だけど、傲慢な人間がお呼ばれされることはないから、天国で反乱を起こしてやろうって貴族は出ないでしょう。だから普通にのんびりしてるんじゃないかしら。生活習慣がまったく違うから多少の問題はあるでしょうけど、あの博麗霊夢(はくれいれいむ)みたいなのが数百人単位で守護してるから大丈夫よ」
『地獄のほうは? 短期間で何十万人もやってきたら、混乱など起こりませんか?』
「こちらも万全でしょうね。強力無双な妖怪や魔神も、地獄の鬼のさらにトップ、羅刹(らせつ)たちには勝てないわ。鬼族が龍と並ぶ妖怪の頂点とされてるのは地獄の守りを絶対とするためだし、集団戦を好むから一層その強さも引き立つ。さらにアンダーワールド人の意外な弱さもある。凶暴なダークテリトリーの住人は過半が地獄行きなんだけど、見た目がオーガやジャイアントであっても、生前のパワーや特殊能力をほとんど発揮できないのよ。たとえばダークテリトリーの人間族には魔法使いの集団がいるんだけど、その魔法を死後はまったく使えない。既存のあらゆる魔術からかけ離れた、ただの英文だから。英語の平文で『機能を呼ぶ・裂ける大気』とか『機能を呼ぶ・燃える空間』なんて無機質に叫んでも、現実の魔法はまったく発動しない。おそらく魔力のかけらすら持ってないから、正規の術式で唱えたところでなんの現象も起こせないわ。まだALOのほうが魔術っぽいわね。毒物などもそう。死後裁判で閻魔に毒の投げ針を放った不届き者がいたそうだけど効果なし。そもそも神族だから人間向けの毒は効かないんだけど、それを抜きにしても毒薬として機能しないただの水と化していた」
『となればアンダーワールドはかなりゲーム的な架空・空想の大地なんですね』
「そうね、いくら現実の魂を住まわせているといっても、実験で社会の再現なんて想像力にも限度がある。だからあの世界はおそらくザ・シードを根底に持っていると思うわ。あのパッケージにはそういった基本デザインが満載だし、発声で実行するシステムコマンドが英語と日本語の合体なのよ。アンダーワールドの魔術はまさにその単純な英語だから」
 これはレミリアの話からも推測できることだ。心意という共通項がある。
『ダークテリトリーから冥界に来た人は、どうしてるんですか?』
「大半の人が社会へ馴染んでるわね。もうなにも奪われないから、生前よりかえって生き生きしてるんじゃないかしら。意外なことに社会問題を起こしてるのは、もっぱら白イウム人のほうなのよ――あっ、これはダークテリトリーの亜人が人界の住人を指す俗称ね。ダークテリトリー側の人間は黒イウム。まあ白イウムでも勝手に難民化して苦労してるのは少数派だし、今後は増加も抑えられるはずよ。冥界の絶対君主・西行寺幽々子が高邁な皇族や貴族どもを成敗したって話と、アンダーワールド人のための都市を造営してるって噂が広まってるはずだから。まだ質問ある?」
『それだけ聞ければ十分です。妖夢さんはなにかあります?』
 ため息をつく妖夢。
「こちらの問題はすでに大方が解決してるんですね、安心すると同時に拍子抜けです。これまで何千年もかけて揉まれてきた死後世界が、いまさらこのていどの騒ぎで転覆や存続の危機に陥るわけがありませんし。閻魔さまたちは大変でしょうが、それでもたった三ヶ月で一二〇万人の死後裁判をこなしてしまうなんて、改めてすごい方々ですね。私の出番、まるでありません。アンダーワールドへキリトの援軍として突入するまでの間、なにをして待っていればいいんでしょうか。剣がうずいてます」
 妖夢の背中には楼観剣と白楼剣が久しぶりに出現している。幻想郷や冥界に戻ってきた以上、日本みたいに隠しておく必要もない。
 幽々子がくすっと笑った。バカにしてる感じではなく、楽しそうに。
「久しぶりに恋をする前の妖夢が帰ってきたわね。それでこそ魂魄家の当主よ」
 ユイに諭されたのもあってすっかり吹っ切れていた。和人の肉体は明日奈が見守っているし、すでにレミリアがあちらはあちらで解決すると教えられた。なら妖夢がいま合流しても意味はない。来たる時まで、できることを手近にやっていくしかない。
 妖夢は自分の心理状態に内心で苦笑していた。もし人間の感性を持っているなら、たとえ何があっても和人の近くに居続けることを優先するだろうし、それが恋人としてあるべき姿、愛の証左となる。だが妖怪の自分はどうだ? 吸血鬼やご主人にさまざまな情報を教えてもらう前から、すでに独自の別行動を取っている。これでは後日、明日奈や和人から非難されても文句はいえない。すでに七〇年ほど生きて、あまたの経験をしてきた。人間ならもはや晩年であるが、妖夢の人生はいまだ青春時代の始まりでしかなく、これからが長い花盛りだ。人間とはさまざまな感覚が違う。なにより和人は、妖夢がこの先も一〇〇〇年以上生きていく中で初めて恋をした――そう、最初の恋人という役回りでしかないのだ。熱愛の麻薬から抜けた妖夢は、すでに和人よりも自己愛を優先する、そんな思考にすら到達していた。
 和人は唯一の男とはならない。なぜなら魂魄妖夢は桐ヶ谷和人の子を作れないからだ。
 そのため妖夢は自分の代理として結城明日奈を選んだ。これで和人は人間としてまともな生涯を送れるだろう。妖夢はあくまでも初恋の男の子として和人を扱うのだ。たとえ結婚しても実質上の本妻は明日奈だ。成長の遅い妖夢は、和人が老いる日まで高確率で初潮を迎えることはなく、おままごとのお嫁さんにしかなれない。奇跡的に間に合って子を作れる体になったところで、高壮から老境に達した彼を生理的に受け入れられるだろうか? 女性ホルモンの束縛は残酷にも愛情を超越した生理的感情で若い肉体を強烈にコントロールしてくる。すべては動物の本能が編み出した生存戦略であり、老いてエラーの蓄積した遺伝子を回避するため。女も男も若くて健康な遺伝子を好むものだ。すくなくとも妖夢が惚れてしまったキリトは、一四歳なりたての和人だった。
 不変の若さ……その誘惑にこの二年幾度も捕まりそうになったが、かつて和人はレミリアの甘言をあっさりと退け、運命を視る吸血鬼もそれ以上なにも言わなかった。不老化の秘法はいくつかあるが、和人には霊力も魔力もなく手段は限られてくる。もし妖夢が強引に和人を超常の存在へと変化させたら、恨まれそうな気がして怖かった。ならば好き合ったまま彼に人間の生涯を送らせるほうが、より自然な幸せではないのか? だから「その先」を考えるのだ。
 たったそれだけで行動がこうも変化する。妖怪最大の目的は存在しつづけること。かつて八雲紫が語った真理だ。まだ結ばれるかどうかすら定かでないのに、すでに和人が死んだあとの未来へと思いを馳せている――それはさらに強くなりつづける最強への階梯! いまがその好機に思えた。死線で戦う彼氏の近くに佇んで時間を無為にすごすよりも。見守る行為を無駄と考えてる時点で感性がやはり常人とズレすぎている。しょせん剣一本で生きてきた武士、戦いたいだけの馬鹿なのだ。ならば戦士の本能に従い戦うべきだろう。なによりアンダーワールド戦争の前哨戦として、ほどよい腕馴らしになる。
 妖忌(ようき)お師匠との一戦以来、真の意味で腕を高める戦いなど一度としてなかった。技量をただ維持していただけだ。和人を含め仮想世界の弟子はたくさん増えたが、最強の桐ヶ谷直葉(すぐは)ですら不足、まだまだ足りない。妖夢は自分のオンライン練習台とするためにみんなを鍛えていたわけで、直葉を剣道のチャンピオンに育てたのも桐ヶ谷家へのポイント稼ぎにすぎず、崇高な理念や剣術の精神など露ほどもない。現役最盛期の武人が道を説いたところで、感心はされても感服されることは滅多にない。スポーツ選手も大半が模範解答に終始しており、引退が見える前夜まで本音を隠すものだ。強い者が心も立派だと限らないのは世の常で、妖夢は「どうだ強いでしょ」と自慢するけしからん娘だ。指導者が尊敬を得るのはたいてい曲がり角を過ぎてからだし、五輪の書を記した宮本武蔵は老いてようやく筆を手にした。謙虚になるには若すぎる妖夢は生意気まっ盛り、かくも妖怪は人間の写し鏡、きわめて利己的である。
「そうだ! 幽々子さま、不肖のお爺さまをご存じありませんか? どうせ冥界の何処かにいるんでしょうけど、この際ですからリアルできちんと勝負したくて。つぎはいつまとまった休みが取れるかわかりませんからね、お師匠さまを一発ぶん殴っておこうと思います」
 無を超えた境地など、会得はまだ当面は先だ。でも未熟なりにせめて突端には掛かっておきたく、その近道は現物との手合わせに決まっている。
 そんな妖夢の情熱を受け、待ってましたとばかりに幽々子が立ち上がる。
「最高の質問よ! 簡単なヒントをあげるわ。私はアンダーワールド人が生前の能力をほとんど発揮できなくなると言った――つまり死後の世界へ持ち込める例外もあって、それがなんであるかは剣士の妖夢にならわかるはず。アリシゼーションの実験場、とくに闇の土地はリアル戦国時代で、これほどあなたにとって燃えるシチュエーションはまたとないし、それはあの人もおなじ。はいヒント終了」
 戦・国・時・代? 妖夢の全身を熱くたぎった血潮が駆けめぐる。これはもう、いてもたっても!
「ユイ、いますぐ出立するわよ! あの戦士の町、八幡神市(やはたのかみし)へ!」
     *        *
 奇遇とはこういうときのためにある言葉だ。
 妖忌お師匠が幼い孫娘を放り出し、ふいに姿を隠したのは四〇年とすこし前。妖夢はまだ未熟以前、剣士として卵の殻をやっと割ったばかりだった。おかげさまで苦労の連続だったが、半ば自己流でなんとか奥義の数々を修得していき、つぎに出会ったのがいきなり女性へと化けていたオカマのお師匠。さらにそれから間もなくSAOの最終決戦で涙の……再会とはならなかった。幽々子によれば悟りを開いたとのことだが、本意がよく分からない。人間でいえば小学生に跡目を継がせるようなもので、とても正気の沙汰には思えない。真相を知りたくもあったが、ゲームクリアと同時に姿を眩ましていた。
「……こうもあっさり見つかるとは、幽々子さまのおっしゃる通り、分かりやすい方ですね」
 ある道場の前に人がたくさん群がっていた。とっても目立っている。
 八幡神市で剣士が集まる場所といえば八幡(はちまん)さまだ。参道に沿ってたくさんの道場が軒を連ねている。イメージとしては観光地化された大規模な神社仏閣が近いだろう。観光客向けのお店や宿が集まっているのを、そのまま道場へ置き換えれば良い。観光客のかわりに武芸者や門下生で賑わっている。
 白玉楼よりまっすぐ全速力で飛行してきた妖夢は、どこにも寄らず八幡宮に直行した。空中より剣術道場エリアを見下ろし、道場破りかなにかの場面を見つけたわけで、「魂魄」という声がしきりに耳へ届いてくる。ビンゴ。
 とりあえず地面へと降りて、近くにいた道着の剣士を捕まえる。いきなり豚頭の亜人、オーク族の男だった。はじめて見るダークテリトリー人だろうけど、オークなどSAOやALOで見慣れていたし、もっと野獣みたいな顔の妖怪をいろいろ見てるので驚きもない。まん丸な顔なのでどちらかというと愛嬌すら感じる。
「ずいぶんとめんこい半イウムっ子だな、なんの用だぎゃ」
 半人半霊だろうが亜人はイウムと呼ぶようだ。
「あの騒ぎはなんですか? 魂魄と聞こえましたが」
「御法度の道場破りだとよ。魂魄流とかいう老人剣士が暴れて、妖怪で誰も敵わないものだから、暗黒将軍さまが相手なさってるところだぎゃ。無想の力でぶったぎってくれるはずだぎゃ」
 神域で道場破りとは、たしかに無法だ。ここに道場がたくさん集まってる理由もなんとなく分かった。
「そのご年配の剣士って、私みたいな服装をしてませんか?」
「そういや全身緑の服で、髪もおなじ銀色で、やたらでかい人魂も連れてるだぎゃ……まさか」
 確定だ。
「不肖の師匠がご迷惑を掛けて申しわけありません。すぐ止めさせますので」
 人混みをかきわけ、ぐいぐいと進む。妖夢の怪力に日本人も人界人も闇界人もカーテンを開くように簡単に押し除かれていく。みんな腹を立てたり抗議するも、小娘にすぎない妖夢を見てまず驚き、少女の背中に浮かんでる半霊の大きさでさらに身を縮みこませる。半霊のサイズは半人としての強さを間接的に示しており、その生きた証拠が騒ぎの中心で暴れている最中だ。そこへ強そうな半人の娘がさらに加わる――
 妖怪と人間との間には、最初から大きなパワーの差がある。人間の属性が強く妖怪として弱い部類に入る半人半霊ですらこうなのだから、ほかの妖怪は語るまでもない。人間の武術家が道場破りを禁制とする神宮へ修行場を構えるのは自然のならいだろう。
 最後は面倒なので空を飛んで頭上を飛び越えていた。足下は以前なら日本人だらけで単調な配色だったのに、いまや雑多な人種のるつぼと化している。一番多いのはやはり日本人で、黒髪で肌の色も濃いめの黄色、さしずめ黄イウム人か。白色人種からラテン系の外見を持つのは白イウムこと人界人だろう。さきほど白玉楼周辺の難民キャンプにいなかった、黒っぽい肌が闇の領域に暮らす人間族・黒イウムと見られる。黒色人種ほど深くはないが、南方系の浅黒い肌だ。人でない見た目の者は、妖怪の霊とダークテリトリーの亜人が混じっている。妖怪の霊はみんな手当を受けていて、つまり人間よりパワーがあるから魂魄流を止めるため先に挑んで負けたのだろう。
 妖忌お師匠が暴れてる「戦場」はすでにめちゃめちゃに壊れていた。かつて道場だったものの木材や瓦がかけらとなって散乱し、礎石までごろごろと転がっている。竜巻が襲ったみたいに徹底的な破壊ぶりで、どれだけこの場で戦い続けているのか。もはや道場破りなんて生易しいものじゃない。
 妖夢の視界へついに目標とする深緑色の和装が入った。武士の略式服、紋付長着と羽織に袴。人魂をくるっと巻いた魂魄家の家紋まで確認できる。それは冥界の守護を示す象徴の印。それが武人の町でお社さまのルールを無法に破るなんて。
「お師匠さま! なにをなさってるんですか!」
 二年ぶりだけどいきなり怒鳴りつけ、地へ降りながら楼観剣を抜きはなった。言いたいこと聞きたいことは多くあるが、とにかく今は騒ぎを止めるのが先決だ。
 振り返った魂魄妖忌は変わらないお姿のままで、ただ全身に浅い傷が生じており、服もところどころ破けてかなりボロボロだ。妖怪剣士から火炎の術でも喰らったのか、美しい髭も先が焦げて縮れている。すでに何百試合とこなしている様子だ。
「邪魔するなよ妖夢。久方ぶりに楽しい時間を過ごしてるところじゃからな」
 対峙してる戦士がいきなり斬りつけてきたが、それを右手の木刀で見ずに受ける。顔は妖夢に向けたままで。
「なんて奴だ……この無想までも届かぬかっ」
 全身を黒い洋装に包んでいる剣士が、すこし残念そうに言った。歳のころは五〇前後、肌黒いから闇界人だ。右腕が肩の箇所で欠け、左手だけで太い竹刀を握っている。
「背より『無』で打つとは一軍の将にあるまじき所業じゃな」
 思った通りだ。アンダーワールドの武人には無の技、心眼を使える者がいる。かつて日本に大勢いた、真の戦士が持つ心の目だ。デジタルの世界からこちらへ持ち込める数少ない特殊技能。
 真の戦士は背後からの奇襲をなんら悪く思ってない節だった。
「将軍であればこそ戦いは好機を見るものだ。騎士の習いに従って無駄に負けたところで、どうして部下に示しが付く。(いくさ)に勝利し、みなを生かして家族の元へ帰すのがわしの仕事だった。弟子のビクスル・ウル・シャスターヘすべてを任せたいま、わしは自由。おぬしを倒しこの町に秩序を回復するのが果たすべき役目」
 竹刀と木刀が押し合う、激しいつばぜりあいとなっている。妖忌お師匠も対戦者へ向き直った。
「それが一軍を率いてきた将の道か。わしのような流れの剣客とは根っこから考えが違うのう、じつに面白い」
 妖忌お師匠の木刀が霊力のオーラをまといはじめた。将軍の竹刀が圧迫され、折れそうなほど曲がっていく。霊力が竹刀を浸食していた。
「生涯をかけても達しなかった『整合騎士』の技をこうも簡単に使えるとはな……妖怪め、人間を超越しておきながらその優れた力を秩序壊乱にしか使えぬとは、魂魄の名が泣くぞ。弟子の娘っ子が泣いておる」
 べつに泣いてないよと首をかしげる妖夢。
「この町に来てまだ日も浅いだろうに、魂魄流の名を知ってるか」
「たしかに死んだばかりでまだ二週間も経っておらぬな。じゃが新米ながらこれでも道場主なんでな、昔の話を色々と聞いておる。四〇年ほど前に起きた連続道場破り事件、その犯人と同一人物だろう、おぬし?」
「……当時の霊はとっくに成仏してるはずじゃが、そういや逸話として語り継がれてたな。これは失念しとったわい」
「無差別に三〇〇箇所近くも襲ったそうだな。お社へ道場が一極集中し、市域の外周が加速度的に寂れる元凶となったくせに、なにを言うか。ベクタ神の迷子にされても文句は言えんぞ」
 人の上にたつ将軍だっただけあって視野が広いが、おかげでお師匠の悪行を知れた。町の造りが変わってしまうような馬鹿をしてたとは、なにが頓悟(とんご)だ。悟りを開いた者のやることじゃない。幽々子が妖忌お師匠の行方を知ってたわけだ。きっと各地で暴れるつど、白玉楼へ報せが届いていたのだろう。妖夢には幽々子宛の手紙を取り次いでも中身まで読む権利はない。
「お師匠さま、剣を向ける無礼をお許しください。ここは将軍さんに助太刀します」
 楼観剣の切っ先を向ける。
「なっ、おまえほどの腕達者でわしに二対一で挑むじゃと? SAOのときとは事情が違うだろ。剣の道はどうした」
「例外です」
「適用外じゃな」
 妖夢の参戦宣言で流れが変わった。いつのまにか野次馬たちも手に木刀や竹刀を構え、秩序壊乱者へ打ちかからんばかりの勢いだ。これまでみんな武芸の常道に従って少しずつ挑んでいたようだ。それが突然の包囲網。偶然ではなくおそらく将軍の機転で仕向けられたんだろうけど、妖夢はそのまま乗ることにした。将軍の言うとおり、まず勝つのが大事な戦いもある。自分の限界を見極める修行や試合ならともかく、境内で道場破りなんてただの阿呆な狼藉者だ。
「あまり魂魄流の名に泥を塗られても困ります。アンダーワールドの方々と戦いたくてどこぞより涌いて出たんでしょうけど、やり方が間違ってますよ」
「人を害虫みたいに言うな!」
「お師匠さまって……不器用な生き方をされてるお方だったのですね」
「おっ、おまえに言われとうないわ!」
 哀れみを込めた妖夢の断定に、妖忌お師匠の心がやや乱れている。何時間も戦って疲労しており、冷静を保ちづらくなってるようだ。
「女流剣士に化けて修行したり、いろいろ楽しい老後生活を営んでおられるようで」
「人の勝手だ。そちらこそなんじゃあのALOでの『マニュアル』は。魂魄流を世に知られすぎてしまいおって、もはや秘剣でもなんでもないじゃろ。真実に命をかける時が来たらどうするんじゃ」
「そのときは未公開の秘技や、即興の連携技でぶちのめすだけです」
 長い歴史を持つ魂魄流は一〇〇種以上の必殺技を持つ。世界を守る剣だけに猛烈な破壊力を持つ技も多く、内容を知っていようが対策不能な場合もあるだろうし、対策されたなら攻撃パターンや軌道を変えてしまえば良い。戦闘センスに頼る領域で、近接最強の呼び名は伊達じゃない。バトル物の物語ではパターン解析などで達人が素人に負けるシーンも多いが、わざわざ破られると分かってる動きを愚直に提供してやる義務もない。初心者が強力な技や術を覚えてごく短期間で達人へと到達する王道の成長ストーリーは、現実ではほぼ一〇〇パーセント叶わない夢だ。異常にして異端である。すべては基本と修練と経験の地道な蓄積で決まり、必殺技などというものは獲得したパワーを効率良く引き出す動きの集大、基本よりつづく応用のさらに延長にようやく輝いているものなのだ。SAOでキリトがあっさり魂魄流を使えるようになったのも、以前からの積み重ねで基本ができており、二刀流への高い適性を育んでいたからだ。
 武道に近道はない。
 だから妖忌お師匠も最強へ至らんと強者(つわもの)との実戦を所望し、この地で暴れている。
 しかし最強になりたいのは誰でもおなじこと、お師匠だけ特別扱いして良い理由はない。
 ゆえに妖夢はわがままな老人を――止める。
「魂魄流の現当主として、お師匠さまといえどもご乱行は成敗せねばなりません」
「南無三っ!」
 斬りかかった妖夢の楼観剣を、妖忌お師匠はなんと木刀できれいに受け止めた。鋭利な刃物の打ち込みを木の棒で正面より防いでいる。
 神業に男どもが色めき立つ。
「どうじゃおのれら? これでもわしに斬りかかるか?」
 逃げる隙を伺うため、師匠の牽制だ。
「ハッタリです、みんな騙されないでください! 魔力や霊力を持っていれば人間でも妖怪と弾幕ごっこができますよね?」
「……念で金剛を得る技か。なおさら遠慮はいらぬというわけだな? おもしろい! おもしろいバケモノだぞ妖怪!」
 暗黒将軍が殺気をこめた鋭い袈裟斬りを師匠へ見舞う。竹刀の振り方が見るからに変化しており、まるで戦場で重い大剣を扱うがごときだ。この疾風がまともに当たれば、人間なら一撃で骨折するだろう。
「ふんぬっ」
 妖忌お師匠が縮地で急速回避、将軍の剣は空を斬ったが、すでに妖夢が追撃へ移っている。免許皆伝レベルであるなら、師匠が使える技は弟子も等しく覚えている。半瞬的に高速移動する妙技も、おなじ技術にかかればほぼ無効化される。妖忌お師匠はすでに疲れて動きがにぶっており、小柄な妖夢でも追尾できた。
 魂魄流と魂魄流の激しい剣戟が始まった。
 お師匠の心技体はいずれも万全ではなく、妖夢はそこへ付け入る。平常であれば妖夢には万が一の勝ち目もないのだ。幽々子へお師匠をぶん殴ると大きな口を叩いたのは、あくまでも勢いあってこそ。本心では反対に痛めつけられることで、心意とやらに目覚めるキリトへ半歩でも近づきたかった。
 地に足をつけて戦っていたのは最初だけだ。機会あらば周囲の剣士たちが竹刀や木刀で妖忌お師匠へと攻撃を加えるので、鬱陶しく思ったのかやがて宙へ飛んだ。むろん妖夢も追い、神宮の上空で魂魄流の空中殺法が彩られる。
「――くっ。強くなったな」
「はっ!」
 お互いにスペルカード宣言はもちろん、技名の叫びもない。スペルカードルール対戦はほぼ幻想郷内限定でかつ子女のものだし、本当に集中している戦いで技を言うなど無理な話だ。一流同士の戦いでは、些細なことが致命的な隙となる。どれだけ有利であろうとも瞬時に敗北へ転落だ。SAOの終盤で天魔や妖忌お師匠と剣を結んだとき、戦闘の最中で会話はあまりなかった。
「システムコール・ジェネレート……やっぱり無理か」
 下のほうでアンダーワールド人が遠距離攻撃でもしようと試みてるけど、なにも起こらない。幽々子のおっしゃった通り、あちらの魔法や術はこちらでは使えないようだ。単語を並べただけで奇跡は起こせない。力ある言葉を紡ぐには文章にせねばならず、しかも日常であまり使わない語彙や言い回しを用いる必要がある。日本語なら「~~よ、~~たまえ、~~!」といった独特の構文で、女子のおまじないから冠婚葬祭、物語に登場する架空の魔法まで幅広く使われており、起源は古神道に遡る。ルールがあるのは人々がそう思い込んだからで、歳月を重ねるうちに奇跡を示すようになった。お経はサンスクリット語を中国語へ音訳・意訳したものだが、翻訳すれば同様の構成を取る。ルール化すれば縛りも起こり、神道の祝詞は固有名詞を除いて大陸由来の語彙を頑なに嫌う。漢語が混じれば効力を失うからだ。こういった面倒な決まりに縛られないのは、最初から能力として持ってる者だけである。
 人間の都合などお構いなしの妖怪は、念じるだけで効果を引き起こせてしまえる。なんとかの能力は多くがそうやって実行される。魔法などと似たパワーを発揮するのに、呪文の詠唱など必要としない。後付けの力や大きな技はさすがに術式のお世話になるが、すくなくとも魂魄流の術は大半が剣の物理動作だけで片が付く。「斬れば分かる」とは妖夢の迷言だが、実際のところそれで正しい。元は妖忌お師匠のお言葉であり、さらにその師匠もおなじことを口伝してきた。
 刀を振る動作そのものが、魔導的な現象の発動条件となるのだ。
 妖夢が楼観の刃で虚空を撫でれば、光弾の数々が生じる。霊力で発生させたエネルギーの弾だ。お師匠も反撃の斬撃でやはり弾をまき散らす。剣と剣との技勝負だったはずが、空中戦へ移ってから自然と弾幕を解禁していた。
 ふたりの体を別個に魔法陣が包み、高速回転をはじめる。超常のパワーで戦い始め、異能力のチャンネルをつねに開放したスタンバイ状態で見られるのが光で空間に描かれた魔法陣だ。弾幕ごっこなど「定型の術」で頻繁に出現する。魔法陣といえば召還魔術だが、この場合は超常現象を召還してるとも解釈できる。弾幕とは仕掛ければあとは勝手に動くもので、プログラム的なふるまいだ。そういう制御には魔法陣があったほうがフルオートで便利だった。
 ゆえに弾幕シューターは魔法の円陣を背負いながら戦う。
 虚空を切り裂き、光弾のラッシュがほとばしり、膨大な光のシャワーが一面を覆い尽くす。いつもの弾幕ごっこではなく、相手を制圧するための「避けさせる気がない」戦場の弾幕だ。四方八方へ広がるのではなく、ひたすら相手を直接狙いあるいは周辺へ散らす破壊エネルギーの射出、遊びでない実戦的な弾道。どちらにしても弾幕の大半が無駄なエネルギー放散となるが、人間よりずっと高い視力と反応速度を持ち、空も飛べる妖怪に光弾を命中させるのは至難の業だ。したがって基本的に数で勝負するしかない。それを逆手に取って美しさで競うようになったのが幻想郷の安全な決闘システム、スペルカードルール。
 幻想郷であればきれいな絢爛の舞いとなる技が、いまは殺人剣術としての暗い姿を晒している。妖夢が妄執剣・修羅の血を宣言なしで敢行した。そもそもガチ勝負に宣言はないが。弾幕ごっこでも対戦者へと直接斬り掛かるヤバい高速斬撃だが、妖忌お師匠ほどの剣術家を単純な動きで襲うのは得策ではない。確実に逆撃を受けてしまうので、わざと擦り抜けるような騎兵突撃とする。斬り抜けざまに桜の花びらの形をした弾幕をお土産として残していく。みんなお師匠を狙ってくるホーミング弾なので、妖忌お師匠も最低限にかわしつつ木刀で弾を斬って捨てていく。そこへまた妖夢の修羅の血が重ねられるが、先代宗家の格で跳ね返される。妖夢もこんなことで勝てるとは考えておらず、しつこく弾幕を送り出す。
 戦闘開始から三〇分、光弾の熱量に耐えきれず焦げた木刀が折れた。妖夢が斬りかかるチャンスと見て近づいたがすぐ離れる。妖忌お師匠が背中の鉄剣へ手をかけ、居合い抜きの態勢を取っていたからだ。距離をおく弟子の「正しい選択」へ満足げに頷いたお師匠が、ゆっくりと剣を抜く。反りのある日本刀ではない。刀が発明される以前、太古の時代に活躍していた直剣だ。剣身全体がほの明るい燐光を放っている。ただの剣ではなく由来がある。ヤマトタケルの武器だった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、それの精巧な複製品である。どこぞより幻想入りしたのを魔理沙が拾い、香霖堂(こうりんどう)が引き取って非売品となっていたのを、見初めた妖忌お師匠が失敬してしまった。魔法金属で鍛えられており、性能は国宝のオリジナルに及ばずとも遠からずだろう。
「来い」
「お手柔らかに」
 戦闘の中断はほんのわずかで、また賑やかな弾幕が再開される。さきほどと違うのは、妖忌お師匠の側に突風の特殊攻撃が加わったくらいだ。天叢雲剣の別名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)という。
 足下では人間の剣士たちが異形のバトルに見入っていた。弾幕空中戦が冥界で遊ばれるとしても大半が白玉楼とその近辺だから、噂に聞いてても実物を見る機会はすくない。妖怪でも空を飛べてかつエネルギー弾を出せる者の割合はそれほど高いとは言えない。光弾の無駄撃ちという戦闘スタイルも人間が発明した機関銃からヒントを得てからで、それまでは高い威力の一撃をどうやって当てるかというスタイルが普通だった。妖怪らしくみんな大技と大技のぶちかまし合いを好んで行っていた。そこに発想の転換が起こり、小技の集合として弾幕という大技を表現するに至った。これにより妖怪の戦いも形が微妙に変わっていく。隙のすくない遠距離空中戦の概念だ。
 剣士なのに斬撃の剣気を飛ばし合っている。射撃行為の集まりでひとつの技とする弾幕は、当然ながら隙が小さい。単発型の技と比べたら気楽に出せてしまうので、多用するようにもなる。
 ほぼすべてが流れ弾となり空中へ拡散していくも、下方へ向かってしまい建物にぶつかって迷惑な破壊をまき散らす光弾もある。それでも人々は意外なほどに気にせず、エネルギー弾の斬り捨てへ挑む者もたくさんいた。修行の機会はなんでも使う人種だ。それにすでに死んでいるから被弾したとしてもあまり気にしない。回避や迎撃に失敗した戦士は周囲の人から「まぬけ」と笑われている。弾幕ごっこ用の光弾とちがってそれなりの殺傷力を持っているのだが、二度や三度死ぬようなダメージを受けても幽霊だから寝てれば回復する。さすがに過剰なダメージを受ければ死のさらに死、この世あの世ふくめた意識と霊魂の完全消滅へと至ってしまうが、拡散弾幕ごときにそんな大それた攻撃力はない。
 たまに近づいて剣と剣がぶつかり、霊力のオーラが火花を散らす。そこより離れてまた撃ち合いへ戻る。そんなことを繰り返す。
 ――お師匠さま、私に「稽古」をつけている!
 最初は本気の撃ち合いで周囲へも被害もあった。だが妖忌お師匠の射出弾が水平より上へ限定されるようになった。妖夢のほうはそれを最初から無意識で心がけていた。幻想郷で戦ってるうちに染みついた環境への配慮だ。それを「弾幕ごっこ」初心者のお師匠がやってるということは、余裕が生じてきた証拠であった。妖夢も疲れて剣圧や衝撃がにぶり、元からある絶対的な技量差で離されつつある。
 あまりに没頭して気付くのが遅れた妖夢だが、流れを変えるわけにもいかない。序盤猛攻で撃退しそこねたいま、魂魄妖夢の勝利はよほどの幸運でもないと望めない。妖夢にとって「願ってもない対戦のチャンス」だったから、焦ることもなく本懐といわんばかりに戦って戦って、さらに何時間も師へ挑みつづけた。
 どの方面でも実力を伸ばす最良の方法は本物を見て覚えることだが、同時に上位の者と競う実習も必要だ。自身が正統であり上級者にもなってしまった妖夢には、さらなる高みへと昇っていく有用な階梯がとかく不足している。いまの位置ですら鴉天狗(からすてんぐ)族と並ぶのがやっとなのに、どうして神々の領域へ届くだろうか。せっかく超長寿で頑強な肉体に生まれついたのだから、ヤマトタケルのような超絶の剣神と渡り合えるほどになりたい。それが妖夢の望みで、桐ヶ谷和人と結ばれるより優先される最強剣士の夢だ。彼氏と交際しつつも剣の稽古を欠かしたことはなかった。SAOにあっては常に最前線にあり、日本に留学して以降は剣道の指南役として剣を握る。財界での活躍が期待される和人や明日奈と違い、妖夢はすでに現場の人であり、今後も現場の剣豪でありつづける。だから強引にでも理由を作っては剣を振っていた。アイドルのステージショーですら模造刀を持ち剣舞パフォーマンスで魅せる。
 より強くなりたいがために。
 宮本武蔵や柳生十兵衛をはじめ、死後に祀られ神霊となった剣豪が幾人もいる。神格化によって生前よりパワーアップした彼らは空を飛び弾幕も使えるわけで、妖夢との差は純粋な技量に限られる。武蔵クラスの剣聖にいまの妖夢ではまだ勝負にもならないだろう。天魔は弱すぎる妖夢に稽古を付けてくれない。真実の強者はおなじ強者しか相手にしない。だからより強くなればいずれ彼らとの対戦も叶うはずだ。死後世界の公務員という立場は、それだけで剣豪たちと会う障壁を取り払ってくれる。
 やがて日が暮れたが、まだ戦っている。通りにいた人々もしだいに減っていったが、首を空へ向ける目はいずれも真剣だ。減った人も半分以上がまた戻ってきた。飯を食べてただけだった。
 空飛ぶ迷惑どもは夜通しバトルにふけった。戦士の町だけあって日が変わっても熱心な観戦者がいまだ一〇〇〇人単位で空を見上げている。
 妖夢と妖忌お師匠は互いに魂魄の名を背負ってきた自負があり、その名にふさわしい孤絶の気迫で戦いつづけた。一度でも連続攻撃へ入れば終わる剣技でありながら、どちらも態勢が崩れない。妖夢の剣術はすべてお師匠には無効化される。無の心で放つ剣がなんの効果もない。お師匠の無へキリトのような反撃を試みても、どうしたわけか見破られてしまう。それも一〇〇パーセント。
 無なのに無ではない、心眼を超えたなにか。
 読みが効かぬ、勘も届かぬ。目で見て耳で聞いた平凡な情報へひたすら対処するしかない。超感覚が無効化される辛さと苦しみ。達人になったのに、凄腕の要素を封じられてしまう。ただ上手なだけの剣士として戦うことを強要される、神と戦っているような絶望感。
 こんな凄いものが必殺技でない通常の剣戟で用いられる。地味な小技であるだけに、その効果は如実でおそるべき差となる。もっぱら妖夢が押されているが、師匠が稽古モードで手加減してくれてるおかげで薄皮一枚で繋がっている。すこしずつ小さなダメージを受けているので、もしゲームみたいなHPバーがあればとっくにゼロになってるだろう。妖怪の体のおかげだった。
 ついに一晩耐え抜き、また日が昇ってきた。
 冥界の太陽は暗い。この異世界のはるか上空には天空の雲を縫うように天界が広がっている。そこではこの太陽も日本で見られるおひさまみたいに温かく明るい。しかし冥界ではべつの天体みたいにとことん暗い。地平近くだろうが最高度の南中だろうが変わらない。
 灰色の世界の朝日を背負った妖夢へ、ついに限界の瞬間が訪れようとしていた。
 一五時間の戦いに終止符が打たれる。
     *        *
 ――意識が戻った妖夢の目に入ったのは、二年数ヶ月ぶりとなるタレ目気味で優しげな少年の顔だった。記憶にあった最後のイメージと比べ、かなり色白。ラフィン・コフィンに殺された薄幸の男の子。ただし変態。
「……コペルくん?」
「お久しぶりです。また会えるとは思ってませんでしたよ」
 妖夢の耳と頭へ、同時に声が入ってきた。まるでエコーが掛かってるようだ。
 身を起こすとふとんに寝かされていた。見覚えのある道場の奥、客間のひとつだ。頭に軽い痛みがある。触ると右側頭にこぶが出来ていた。剣のまともな一撃を受けたようだ。
「ああ、負けたんですね」
 どのように敗北したのか、まったく記憶にすらない妖夢だった。最後は疲れ果ててしまい、自動人形のように本能と反射だけで戦っていた。
「途中から見てましたけど、すごい試合でした。感動しましたよ! 妖怪の剣術って派手なんですね」
「……私はずっと本気だったのですが」
 霊剣の封印だけは禁忌として解かなかったが、終始一貫して全力で挑んでいた。だけど見る者に試合で片付けられてしまうのは、妖夢がまだまだ弱いからで仕方ない。この服はあちこち破れすぎてもう使い物にならない。
 その妖夢の内心を理解できないコペルくん、長時間の空中戦を褒めちぎりながら朝飯を薦めてきた。すでに小さなちゃぶ台に置かれている。
 川魚とたくわんと味噌汁と玄米による質素な和食を口へ運びつつ、客間を観察する。壁に掛かる白い道着には『アインクラッド流』と刺繍されている。どこから手に入れたのか、アニメ絵キャラクターのポスターやカレンダーが所々に貼られてるのが「それらしさ」を演出している。SAOプレイヤーはほとんど全員がオタクだった。ALOになってからは一般層に近いライトなオタクの割合も高いけど、ソードアート・オンラインは違う。数十万のニーズに対し、初回ロットはわずか一万本しか用意されなかった。手を出してさらに届いた者は、情熱あるマニアばかりだった。SAO以降の幻想郷がオタクを第一ターゲットに信仰獲得の活動を広めているのも、まず交流を持った日本人がコペルくんのような人たちだったからだ。
「すっかり染まってますねこの道場」
「おかげさまで繁盛してますよ。若者ばかり一〇〇人くらいいます」
「コペルくんもすっかり白くなりましたね」
 彼の向こう側がかすかに透き通って見える。透明化が始まっていた。脳へ直接聞こえる念話が混じっているのもその証拠だ。
「いやあ、無念さが足りないらしくて、この三ヶ月で急に白くなり始めましてね。このままだと来年の冬には人魂になってますね」
 人の形をとる霊魂が人魂へと形を崩す浄化には、個人差がある。生前への未練が多く執着が強い者ほど冥界で暮らす期間が長くなる。人魂になればあとは同等だが、それまでは何倍も開きが生じる。推定四年で人魂になるのはかなり短いほうだろう。それにしても気に掛かる数字がひとつ。
 ……三ヶ月?
「ごちそうさまでした」
「コペルさん、膳をお下げしてもよろしいですか?」
 妖夢が食べ終わると同時に女性の声がして、若い女の子が客間に入ってきた。一二歳くらいだろうか、南洋の島からやってきたような色黒の肌を持つ外国人風の少女、アンダーワールドのダークテリトリー人だ。上が簡素な道着なのはいいとして、おかしなことに下がミニスカート。
 少女は怯えるような視線を妖夢へ向け、おそるおそる膳を下げるべく身をかがめ――その後ろ側へコペルがさりげなく回り込んでいる。その耳を妖夢が引っ張った。
「見・る・な」
「痛い、痛いですよみょんさん」
「コペルさんっ」
 お客さんの暴力に驚く少女剣士へ、妖夢がたしなめるように注意。
「あなたパンツ見られてましたよ」
「……はい?」
 どうも自覚してる様子がない。あちらでは見られて恥ずかしいという文化がなかったのか、それとも知らないのか。
「コペルくーん。まさかきみが速攻で成仏への道を進んでるのって、毎日が充実しまくってるからだとか?」
「そうです! 生足とぱんつに囲まれた生活最高! みんな素直にミニスカートを穿いてくれます! 可愛いくて無垢で、スレてない美少女たち!」
 やはりコペルはコペルだった。死後に再会したときの壊れっぷりそのまま。
「……もしかして私がお爺さまと空中戦をしてる最中は?」
「むろんスカートの中をじっと見ていたに決まってるじゃないですか! ホットパンツでも見慣れてくるといいものですよ! 内側に隠れてるヒップラインを妄想したりとか。つぎはかぼちゃパンツへ興奮できるよう特訓したいところです」
 だめだこいつ、やはり早く何とかしないと。
 少女をこのままにしておくのも不憫に思ったので、強引に男子用の袴を着せて道場へ移動した。
 ユイを起こすと時刻はすでに午前一〇時すぎ、広めの道場では六〇~七〇人ほどの男女――全員が二〇歳以下の未成年が、クラブ活動みたいな元気さで稽古にはげんでいた。二〇人前後いる女子はみんなアンダーワールド人でミニスカート、動きが激しいから思いっきり見えている。これは若い男の子が集まってくるわけだ。
「コペルくん、女の子は袴に替えなさい」
「でもアインクラッドでは、女の子はミニスカートが多かったですよね。ここはアインクラッド流の道場ですよ?」
 現実ではソードスキルなんて便利なものは使えないのに、アインクラッドもなにもない気がする。
「あれはSAOを開発したチームが男性中心で、自分たちの欲望をそのまま投影してしまった結果です! それに私たち女子プレイヤーも好きでミニスカートを使ってたわけじゃなくて、部位破損への対策が大きかったんですよ。面積の広いズボンやロングスカートだと、下半身への大ダメージでアンダーをロストしたら、下着完全露出になっちゃうじゃありませんか」
 ALOでも未だにそうだが、部分的に壊れていくんじゃなく耐久力全損でいきなり消える。下着姿で恥ずかしいところを晒してしまう危険を考えれば、パンチラで済ませたほうがましだ。しょせんは仮想現実のできごと、リアルではない。
 コペルをスケベに目覚めさせた一端が自分にあるかもとすこし思い込んでる節のある妖夢は、即席の道場改革に乗り出そうとして。
「みなさーん、集まってくださーい!」
 手を叩いて稽古を中断させ――
 なぜいる?
 数時間前まで戦っていた彼を見つけた瞬間、妖夢の中で信じていたものの最後が崩れた。
「妖忌お師匠! なに不潔な顔しておられるんですかー!」
 敬愛していた厳格だったはずの師匠が、男子に混じって女子の尻を視線で追いかけてる。頬がすこし赤くて、スケベ面が気持ち悪い! 威厳もなにもかもぶち壊しなありえないさまを目撃し、反射的に手が動いていた。
 白楼剣を抜き身で思いっきり投げつける。妖力を強く込めた怪力で。
 ぶすりっ。
「……あべしっ」
 脳天へきれいに家宝の剣が突き刺さった魂魄妖忌、ここに一千数百余年の人生へ幕を閉じる。
     *        *
 残念なことに閉じなかった。
「ちっ」
「おいこら妖夢、いま舌打ちしたじゃろ!」
 道場内で突如として発生した殺人事件にちょっとだけ騒然としかけたが、みんな死んでるのであまり騒ぎにはならず――でも半人半霊が冥界では珍しい「生者」であることを思い出した彼らがやはり騒ぎはじめたところで、ご老体が口を開いたのだ。
「危なかった。いま一歩で三途の川へ案内されるところじゃったわい」
 妖夢は一瞬だけ蒼白になっていたが、すぐ自分を取り戻して思わず舌打ちした次第だった。
「人間の属性を持つ半人半霊なのに、脳天ぶち割られて死なないなんて、どういう生命力を持っているんですかお師匠さま」
「そんなの根性で再生したに決まっておろう。死んだと思った瞬間に死んでないと強く思い込めば、このていどの『かすり傷』など妖怪の属性でなかったことに出来るのじゃ」
 おおっと周囲より拍手がわき起こる。どういうノリだろうか、妖夢には理解できない。
「妖怪なら特殊な力を使わない限り斬られても怪我で済むはずなのに、なぜ人間みたいに刺さったんですか?」
「それはむろん、おぬしの殺気というか精神が一時的に純粋化し、助平に油断しきったわしの防御を貫通したからじゃろうな。アンダーワールドではたしか、なんと言っておったかの? あの暗黒将軍が使ってた『ありふれた技』のさらに上じゃが」
 首を捻る妖忌お師匠だが、間抜けな絵姿だ。
「そんなことより白楼剣を返してください」
「おおっ、忘れておった」
 眉間に刺さってる白楼剣を軽々と抜いて妖夢へ投げる。老人の額より血は一滴も流れず、受け取った刀身にも脂すら付いてない。まるでマジックショーみたいだ。
「そうじゃ思い出した。『無想の太刀』とか言っておったの。あちらでは妙技か奥義か知らぬが、ただの『無の境地』とか『心眼』じゃな。うまい剣士ならいずれ誰でも覚える領域じゃが、最近の日本は平和すぎて人間ではろくに使い手を見ぬから、久しぶりに歯ごたえのある相手だった。あの将軍の言い分じゃと無想の上に『心意』があって、整合騎士とやらがどうのこうのと奇妙なことを言っておった。いまの大道芸みたいな根性は、あいつに言わせれば心意にあたるらしい。おぬしがわしの頭へ剣を刺せたのも同じことよ」
 いきなり秘密がぶっちゃけられている。激発のあまり、知らないうちに妖夢も使ってたらしい。
「えーと、私はその大道芸を学びに来たのですが、根性ですか?」
「根性は根性だ。人間の常識を妖怪の非常識すなわち妖力で上書きするのが、わしの辿り着いた技じゃ。最低でも妖怪でなければいけないから、ただの人間には絶対に使えぬ技よの。あちらの心意は異世界流の妖怪級奥義といえるかな? どうせ天魔やわしの使ってる不思議な妖術を知りたくて来たんじゃろうが、強く思い込むこと以外に方法などない。わしは最強、わしは最高、絶対無敵! それしかないんじゃよ、この手の技にはな。一種の能力だ」
「無で戦ってるときは相手の殺気を察知できなくなりますが、お師匠さまはそんなのお構いなしに防御・反撃できますよね。それがすべて妖怪なりの根性ですか?」
「むろん。察知できると思い込めば知れるようになる。無といっても脳みその活動をすべて放り投げてるわけじゃあるまい? 心臓は動いておるし、筋肉は収縮と伸びを繰り返し、血は体を巡っておる。それらを制御してるのは脳であり心のなにかじゃ。言葉にしにくいがの。わしは神経そのものじゃとでも思い込めば、妖力かなにかが働いてくれて、無で一時的に消えるはずの感覚が残るんじゃよ。とにかく意識を高く強く持つことだ」
 お師匠のしゃべりがおかしい。たとえ昨夜の健闘で教えを受ける権利を得たのだとしても、ざっくばらんにすぎる。
「ひとつ疑問があります」
「なんじゃ?」
「お師匠さまはこんなにホイホイと剣の極意を教えてくださる方ではありませんでした。私は技の多くを見て覚えたのですけど、いったいこの数十年でなにがあったんです? 女に化けて人間に混じってましたし、すっかりお変わりになられてます。まるで未熟な私がそのまま男になったみたいじゃありませんか。うかつで間抜けで正直でスケベ。ちがうのは豪快さくらい」
 妖夢は自分がむっつりスケベだと自覚している。ファースト・キスもセカンドも誘った。
「ふむ……この子あればこの親あり、ならば祖父もおなじじゃの。妖夢に似せた妖忌ではない、妖忌に似たのが妖夢だ。つまりいまは単純に『素のわし』でいるだけじゃ。光奈水刃(みなみずは)でいたのは道場破りをやりすぎたカモフラージュ、追っ手から逃れる意味もあったが、素のわしでいるには男のしかもこの外見ではボケ老人と馬鹿にされるだけでな? 主観的にも我ながら残念な性格ゆえ、若い女でいるほうがまだ人付き合いも良好に行くわけじゃ。霊力も妖力も大幅に制限しておけば、対戦相手がいくらでも見つかるから、剣の鍛錬や技量維持には事欠かぬ。あの日に悟ったんでのう」
「悟った?」
「妖夢、当時のおまえがなぜ一向に強くならないのか、その理由をな。わしが強すぎるせいで成長できぬ。崖から突き落とすような覚悟でわしとおなじ境遇へと置かねば、こやつは弱いままで終わるじゃろうと」
 ここまで聞けば分かる。生きてきたすべてが答えを示している。
「……失敗すること、ですね」
「うむ。これが正しいと分かっていても、知識と理解と実践はそれぞれ別物じゃ。わしは失敗しながら一〇〇〇年をかけて剣を磨いた。白玉楼へ勤めるようになってからは、強くあるため本当の自分を隠して偽りのわしを演じつづけておった。おなじくおぬしも失敗しながら、真のおのれを隠さねば成長できぬ。うっすらと分かっておったから、剣を教えるときも見て盗んで教える方針でいたんじゃ。なのにおぬしは忠実で素直すぎた。どこまでも、いつまでも愚直であった。純朴でありすぎた。悪くいえば(おのれ)の核、心に『芯』がなかった」
 図星だ。妖夢の人格は間抜けで素直な部分と真面目で頑固な部分が複雑に混じっている。辻斬りと笑われるほど変な方向に真面目な妖夢は、師匠失踪後に必要から作り上げた偶像だ。そうでなければプレッシャーに負けていただろう。
「で、職務を放り投げて、人間でいえばまだ一〇歳相当だった幼い孫娘へ強引に跡目を継がせたと。いくらなんでも未熟すぎますよ? 白玉楼を狙う連中にはすごい魔物もいるのに、死んだらどうするおつもりだったんですか」
 お師匠はなぜか堂々と胸を張った。
「じゃからわしはおまえの祖父じゃと言っておろう。愚かで短絡な、誤った浅慮に決まっておる! わっはっはっは」
「開き直るな~~~!」
 今度は楼観剣が老人剣士の頭にぶっ刺さった。


※原作情報を語るレミリア
 シュタインズゲートやハルヒシリーズなどの手法。メタフィクションの一種。
※死後世界にアンダーワールド人
 SAO原作は死後世界の実在を予感させる描写を散りばめており、アンダーワールド人も等しく扱われている。
※一二〇万人
 原作での描写や説明などより、死者の累積を算出。平均寿命・出産率・成人率などを上下させるだけで大きく変動し、概算で最小八〇万・最大二〇〇万。ダークテリトリーは人界より多産&短命。

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