八雲紫はいつものように前触れもなく忽然と姿をみせた。
「……ここまで期待通りに励んでいたとは、殊勝な剣士ね。ほかの子と違って貴方だけは徹底的に足掻いてくれる」
コペルの道場で暗黒将軍と乱取りしていた妖夢が、竹刀をおろすと紫へ軽く頭を下げて挨拶した。また頭をあげると、水滴のように爽やかな汗が散る。
「お待ちしてましたよ紫さま。ただ、褒められてるのか微妙な評価ですね」
「勝利すると聞かされても努力を怠らない。私へ挑んできたSAO前日を思い出したわ」
「私は半人ですから、人間と簡単に恋をできたように、人間みたいに無駄な努力もします」
妖怪が新たになにかを得ようと思っても、人間と違って時間がかかる。寿命が長いと吸収は悪くなるもので、一週間ていどの集中修行で魂魄妖夢のなにかが劇的に変化するわけでもない。人間なら道場に篭もって七日七晩も竹刀を振れば、素人からでもいっぱしの剣道少年少女になるし、ブランクあるベテランも体や勘が戻ってくる。だが妖夢はとくに手応えを感じてなかった。何ヶ月もみっちり稽古して、やっと効果を実感できるていどだろう。
「最大限に褒めてるのだから、無駄だなんて言わないで。がむしゃらなアプローチこそ今後の幻想郷に必要なものなのよ。継続こそ力なりってね」
妖夢の肩へ背中より手が掛けられた。暗黒将軍だ。
「……いよいよ出立か、故郷を頼んだぞ妖夢どの。作り物かもしれんが、わしらにとってかけがえのない世界。『最終戦争』を生き残り、下らん連中から守ってくれ」
「任せてください。弟子の方はシャスターさんでしたっけ? もし会えば将軍のことを伝えておきます。うまくいけば味方とできるかも」
「それなら工作はとっくに終わってるわよ」
妖夢と将軍が同時に「えっ?」と嘆声をあげた。大きな声だったので周囲で稽古していた人間たちが竹刀を止める。ようやく紫の登場に気付いた者もいた。宙に二メートルほどの切れ込みが走っていて、その両端にリボンが結わえられている。スキマ賢者はその切れ込みから出てきて、さらに腰掛けていた。凄絶な美女の登場に、見とれる者も多い。
「ダークテリトリー最強の暗黒騎士団を放置しておくわけないじゃない。アメリカ軍は関ヶ原合戦でいう西軍の総大将だわ。有利なように見えて、じつはすでに――というわけ。暗黒将軍シャスターはヒューマンエンパイアとダークテリトリーをつなぐ、和平のかけ橋となるでしょう」
紫の断言に、先代将軍は前へ倒れそうなほどの深い礼でもって応えた。
「そうか……あやつは無事に将軍となって、世界を守る立場にあるのか。わしが死んだ三週間前、ビクスルは二一歳だったが、いまは何歳だ?」
アンダーワールドはリアルより時の流れが圧倒的に速かった。リアルの三ヶ月と二週間であちらでは四五〇年近くも経っている。和人を含めた日本人での検証実験で最近は遅くしてるようだけど、それでも凄い勢いで歳月がすぎていった。アンダーワールドにいる人々はその緩急を自覚できない。時の流れは当事者にとってずっと一定だ。早くなれば思考も物理現象も早く回り、遅くなれば同等に緩む。
「和人の治療で倍率が下げられてるから、おそらく四一か四二歳だと思うけど、藍が最後に接触したとき三九歳だったかしら。それまではずっと断られてたけど、協力に応じてくれたわ。整合騎士長ベルクーリに敗北して気が変わったみたいね」
すると先代将軍が自分の右肩へ視線を落とした。彼は利き腕をベルクーリ・シンセシス・ワンという人界最強の整合騎士に切り落とされている。妖怪とおなじ不老のバケモノで、二〇〇歳とも三〇〇歳とも言われている。
「大丈夫よ五体満足だから。あなたの師のさらに師までは首を切断されるなど即死してたけど、あなたの師は違っていた。ベルクーリの心意剣技に胸を突かれ瀕死の重傷を受けるも、戦場からの離脱に成功し帰城途中まで生存、その弟子であったあなたは右腕を喪失しながら生還した。さらに剣士としてまっとうな道を歩んだおかげで、殺生にかかわりながら歴代の将軍では唯一地獄へ落ちず済んだ。そしてビクスル・ウル・シャスターは負けながら無事に帰還でき後遺症もない――不老にして最強の整合騎士長へ挑みつづけるうちに、暗黒将軍は着実に強くなってきた。おかげでシャスターの代でついに世界を救う重大な役目を負う」
「わしらのやってきたこと、その生涯は無駄でなかったんじゃな……教えてくれてありがとう。情勢の変化に敏感な男であったが、整合騎士との対決などさっさと捨てて、外敵に備えるわけなんだな?」
「とっても柔軟な頭を持っている人だわ。暗黒界に国と王の『設定権限』さえあれば最高指導者として立てるほどの傑物なんだけど、邪魔よね何百年も不在の皇帝、スーパーアカウント闇神ベクタ。禁忌目録とはまたべつの縛りでシステム的に誰も王になれない仕組みだから、暗黒界は戦乱が絶えないよう構造的にデザインされている。殺人事件すら起こらない人界と比べたら、いくら一〇侯でまとまっても慢性的な内乱状態よ」
「わしらの苦しみが創造主より強制されたものだと教えられたときは、ラースとやらの若造どもを皆殺しにしてやりたいほど憎悪したが、まあどうせそいつらは死後に仲良く地獄行きじゃろうから、果報は寝て待つとするわい。妖夢どの、肉体持つ者は『げえむ』で死んでも現実では死なぬと聞いておるが、痛いものは痛い。死などあまり経験しないほうが良いものじゃから、お体を大事にな。味方はたくさんいるようじゃから、無理をせず戦って参れ」
「私は手の届く範囲のことをこつこつやるだけです。お任せあれ」
こうして妖夢が出立しようとしたときであるが、紫が思い出したように足を止めた。
「あ――ちょっと待って。将軍、その右肩を晒してみて」
「なんじゃ?」
着流しと道着をめくって露出させた上腕の切断面へ、紫が軽く触れた。すると元将軍の全身が輝きに包まれる。
「右腕を想起してみて。腕があると思うのよ」
「おう」
するとどうだ、見る見るうちに腕が生えてくるではないか。まるで植物が生長する様子を早回しで見てるように。
光が消失すると、張りのある右腕が完全に仕上がっていた。ぽかんとする将軍が、真新しい右腕をこわごわと動かしている。左腕と違って色がやや白い。筋肉のよく付いた四〇歳代くらいの剛腕だ。
「これは驚いたわい。いくら念じても生えてこなんだに」
「思い込みの境界をちょっと取り払ったわ。忌憚も迷いもない不屈の精神力ってときにはマイナスに働くのよね。負けたイメージが強すぎて、斬られたままで岩のように固定されたのよ。でも死ねば魂は自由なんだから」
妖夢も頷く。
「私も教えたんですけど、どうしても変化できなかったんですよ」
事故や災害などでバラバラになって亡くなる人もいる。戦乱の時代なら戦士は首を刎ねられていた。死の状態で霊となれば、死後裁判すら受けられない人が続出する。だから人間たちが考えたのだ。死後は健康で綺麗な体になれると。そのうちに死者の魂は健康な状態でいられるようになった。ただし暗黒将軍みたいに修練にあけくれた人生を送ると、たまに便利機能が働かなかったりする。異世界の法則に本人の思念パワーが勝ってしまうからだ。超常を信じない人間に妖怪が見えないのと似たようなものだ。
「どうせ腕が生えるなら、若い時分の姿に戻れたら良かったのにのう」
そう言ったとたん、また将軍の全身が光に覆われた。輝きが収まると一八歳ほどのイケメン剣士が立っている。暗黒界人は肌黒いから、まるで沖縄出身のモデルか俳優みたい。
見違えた手足を見て、若武者となった元将軍がすっかり感心していた。
「……幽霊とは面妖で、なんでもありなんだな」
「霊もモノノケの一種なんだから、生きた人間に出来ないさまざまな能力を持ってるのよ。壮健を取り戻すのは全自動だけど、変身するほうは懐の深い魂を持ってるあなたのような人でないと難しいでしょうね」
道場の少女たちが「キャー!」と黄色い声をあげて、元将軍を一斉に取り囲んだ。みんな白袴姿で、むろん妖夢の指示だ。子女のたしなみ教育としてミニスカートは完全廃止されている。
コペルくんやイケメンらに見送られ、妖夢と紫が出発した。スキマへ入らず、空を飛んで冥界を漂う。
町の郊外で、作付け前の畑で木刀を振ってる筋肉おっさんがいた。上下ジャージ姿のおっさんが棒を一閃するたび、黄色い粉状のものが空中に生じてはぽろぽろ畑へと落ちていく。
魂魄妖忌だった。
「あらあなたのお爺さん、なにしてるの?」
「気体斬りの技で、空気から窒素肥料を斬り出してますね。ボランティアです。むこう一年は無報酬で野良仕事にご奉仕だそうですよ」
資源に乏しい冥界だから、妖忌お師匠のお手軽堆肥は引く手あまただろう。ただあの肥料斬り、副次的にアンモニアが発生する。かなり臭うはずで、お師匠も目にゴーグルをつけ、鼻を洗濯ハサミで挟んでいた。こちらに気付き、悔しそうな顔で手を振ってくる。
「幽々子から聞いたわよ。たいそう暴れて壊しちゃったそうね」
今回の狼藉はとっくに報告済みだ。天叢雲剣も没収され、およそ一五年ぶりに香霖堂へ戻った。幽々子のご裁断には師匠も逆らえない。世界最強の米軍と矛を交えられるのだから、本来ならご自身も作戦に参加したいところだろう。だけどお師匠と同等かより強い妖怪が幻想郷にはいくらでも転がっているし、今回は紫さま自らご出陣なさる様子だ。
「ところでどちらへ行かれるのですか? まるで時間を調節するみたいに飛んでいくなんて」
「寄るところがあるのよ。神祇の町、神在市よ。そこに小生意気な聖女がまもなく降臨するわ」
* *
三〇分ほどで整然と区画整理された市街が見えてきた。
神在市は生前に神道系の職に就いてた人や、格別に熱心だった信者が送られる町だ。「死んだ神」も良くやって来る。人口は一五万人ほど。出雲地方の旧一〇月を示す言葉、神在月に由来する。出雲以外は神無月だ。
信仰の町にふさわしく市域の半分近くが神社の敷地というぜいたくな区割りだ。家はほとんどが木造瓦葺きで、文明レベルはやや古く江戸時代後期くらい。伝統に則した暮らしを守っており、近代以降の物質文明を嫌う傾向にある。
「早苗の予知ですか」
「レミリアの運命視にはブレがあって、条件分岐によって結果が細かく変化してしまうのよ。だから正確な時刻を知るために守矢神社のお告げを借りたわ。幻想入りした茅場を出迎えたのも早苗と聞いてるから」
守矢神社の巫女、東風谷早苗は奇跡の能力保持者だ。その力の源は妖怪の山に暮らす住人たちの信仰。彼女が数年前に得た奇跡に「予知」がある。ただし天のお告げを使うには、天狗や河童、仙人が使用を認めなければいけない。今回は幻想郷の未来に関する大事なので、神託は無事にくだった。
予言された時間に合わせるためわざわざ飛んできたのだが、それでもまだ余った。
神在市の役所前で暇をもてあます。死後裁判を終えた死者がそれぞれの町へ転送されると、自動的に役場へ連絡がいき、死者ごとに半人半霊の案内役が割り振られる。この辺りは日本から学んでシステム化されている。
「あと何分でしょうか……」
「一五分くらい?」
「…………えーと」
無言に耐えきれず、強引に話題を探す。さすがにこの賢者を放置してユイ相手に暇つぶしなどもってのほかだ。
「……紫さま。考えたくなくてあえて想像の外に置いてたんですけど、和人は倒れたあと、あの世界でキリトとして何ヶ月くらい過ごしてるのでしょうか」
口に出してからしまったと思ったがもう遅い。脳内の片隅へ強引に押し込めていたものが、焦った拍子に顔を出してしまった。紫も妖夢の表情から内心を読み取って、嘆息するような低めの声で言った。
「ここでそれを聞く? ……レミリアの情報と送り込んでる藍の報告を合わせたら、再会時点でおそらく二年半から三年は経過するわ」
あっさりと軽く返されたのだが、しかし妖夢にとって比類なくヘビーな数値だった。
ねん?
ネン?
年?
三年!
一瞬、ショックで目眩を覚えた。倒れそうになるのを紫が支えてくれる。
「せ、成人間近、一九歳の和人ですか。まさか私と出会ってからの期間とおなじかそれ以上の時間がすぎてるなんて……」
「相変わらずうかつな幽霊ね。心の準備や覚悟もなしに聞くんじゃないわよ」
にわかに体が震えてきた妖夢である。思考停止で抑えていた不安が、じわじわと全身を浸食してくる。
「――ご、強引に阻止するか、早めに救出してしまえば、運命の強制力が働いて不測の事態になるんですよね? そうなれば歴史がどう動くか不明になってしまう」
「いい子ね妖夢、幻想郷を優先してくれてありがとう。稽古に没頭して、不審と不満を解消していたのよね? あなたの選択は正しいわ。我慢して耐え、分かってる筋道を進むのがもっとも安全で、逸れない限り和人は確実に生きて戻ってくる。もし見えない道へ迷い込んでしまえば、たとえば米軍の突入を水際で食い止めたりすれば、運命が変わって彼氏は最悪……という事態もありえるの。歴史が求めてるのは変革という現象であって、転機の引き金をにぎってる者の生命は関係ないから。彼らの役割は新時代の幕を開けた時点で終わるの」
「和人は凶弾に倒れたケネディ大統領や、病魔で早世したアップル社のジョブズみたいには決してさせません。過去の人と笑われるほど長生きした、アインシュタイン博士みたいになって欲しい。天寿をまっとうして欲しいの」
「やはり『おなじ時を生きる者』にはしたくないの? 私なら和人や明日奈を仙人にできるわよ。さすがに半人半霊は無理だけど」
紫が切り込んできた。妖夢は試されていると感じた。本音を言ってはいけない。これこそ選択を誤ってはいけない。
「それは和人たちが望めば――ですが、もし仙になれば、かならず世間から多くの無茶な要求が出てきます。俺たちも妖怪や仙人にしてくれと。おそらく和人もそれに気付いているから話題にしたこともないし、紫さまも公式の場では提案してませんよね」
「こちらのほうも模範解答でお利口さんね、さすが私の数少ない親友・幽々子の従者だわ。試すようなことを言って悪いわね妖夢。おなじ質問をにとりにもしたけど、やはり婚約している遼太郎の妖怪化・長寿化を望んでないわ。可能だけどやらない。理由は日本で安寧に暮らせなくなる危険性が高いから。それは技術者として成功したい河城にとりのキャリアを閉ざしてしまう。幻想郷へ逃げ戻り、ふたたび篭もる明日しか見えない。ゆえに遼太郎がにとりの夢を潰さず百年単位で共にありたいのなら、自力で妖怪になるしかないの」
「……しょせん私たちは妖怪なのですね。人間ならまず子孫へ継がせたり任せようと考えますから、そのときの感情や想いを大切にする。ですが私たちは自分自身がずっと残りますから、はるかに長いスパンで見てしまう。先の生活や安全をどうしても考えて動いてしまう。本音や本能で動けばたちまち身を滅ぼすから」
「ちょっと違うわ、『生き残ってきた妖怪』の性質と言うべきね――」
紫は言葉を濁したけど、それはしょっぱい雰囲気をさらに重くするからだろう。
種族として発生し三〇〇〇年、世代を重ねていくうちに半人半霊は穏和な性格へと収斂していった。妖夢や妖忌は半人半霊としてとても熱しやすく喧嘩っ早いほうで、戦士に向いている。一〇〇〇年を生きる者として子孫繁栄に有利な形質が凝縮していて、それは半人半霊の飛び抜けて長い平均寿命が証明してる。一〇〇〇歳以上は理想値でなく絶対値なのだ。自然発生した妖怪の第一世代は、最初の数年で九〇パーセントが滅びる。妖怪なんて平均すれば好戦的で考えなしの愚かな奴ばかりで、ついでに見た目も恐ろしいから、そりゃすぐ死ぬしかない。まるでゲームのモンスターみたいに次々と殺し殺されていくのが、ありふれた妖怪の哀れな実態だ。銃弾が効かないほど存在力を高めるにも時間がかかる。
「私やにとりの思考は生き残りやすい妖怪のそれ……ということですか」
「長生きが苦手な妖怪はとくに男に多いけど、命を張った賭けに負けてつぎつぎと死んでいく。そのときはそうするしかないと考えてるけど、あとになれば不思議に思うほどにちっぽけなことでね。そんな連中に未来を託し、安全を任せてなんかいられないわ。人間ていどの生存期間なら良くても、私たちは潜在的に何百年と生きられるんだから。そのため幻想郷を創ろうと思ったのだし、私の式神はすべて女だし、いくら男に恋をしようとも愛し合ったことはないのよ」
試した詫びだろうか、賢者が珍しく胸の内やプライベートを明かしてくれた。おかげで楽になった妖夢は、自分の本音もすこし伝えてみようと考えた。誰にも教えたことがない秘密の思いを、聞いて欲しかった。
「……ずっとおなじ時を生きたいと考えるときがあります。でも私が愛する和人は英雄気質です。まるでテレビの中のヒーローそのもので、SAO時代スカルリーパー戦後に茅場晶彦へ命懸けの攻撃を仕掛けたように、またアリス・マーガトロイドを暴漢の凶器から庇ったように、どうしようもないほどの命知らず……」
深呼吸をした。ここからはユイにすら語ったことのない内容だ。その相棒はいつものように半霊の先でおとなしく耳を傾けている。
「……もし人間以上のパワーを与え不老の存在にすれば、和人は一〇〇歳を迎えず戦いの中で命を落とすと思います。実際すでに死にかけましたし、血の海に倒れる彼など見たくありません。たとえ短くとも、与えられた自然の摂理にしたがって生き抜いて、寿命によって亡くなったほうが幸せではないかと思うんです。桐ヶ谷和人には死ぬまで仮想世界の英雄に留まってもらいたい。バーチャルリアリティでなら和人は無敵の勇者でいられます。最強になれます。あちらで死んでも現実では死にません。彼にはどこまでも無事でいて欲しい。そんな女のわがままなんです……和人を勝手に人妖にすればきっと怒られる、永遠の若さを望んでいないだろうと、根拠もなく思い込んで誤魔化してました。かならず訪れる問題と正面から向き合ってこなかったし、我が身かわいさに責任を彼氏へなすりつけてたんです」
沈黙が落ちた。ふたりが並ぶ目抜き通りは人通りも少なく、うつむいた妖夢の表情を伺う者など幸いにしていなかった。紫も妖夢へ目も向けず、灰色の空を見上げている。扇子がぱちんと音をたてた。
「――暗い話になったわね、話題を変えましょう」
そのくらい結論は自分で出せと、幻想郷を愛してやまない境界の妖怪に示された妖夢だった。ユイもやはり黙して語らない。ことは人の生涯どころではない長期に波及する重大なもの、簡単に答えを出せるようなものでもなかった。
* *
まるで童話から抜け出たような少女だった。
元気に波打つ金髪でくりくりとした瞳。すこし日焼けで色褪せた青色の田舎風ドレスに、白いエプロン。年の頃は一一から一二歳――これで魔法使いの帽子でも被れば、すこし若い魔理沙の青いバージョンといったところ。腰まで伸びる長髪を背中で結わえている。日本の死後世界、ましてや神道系の町に来るには、違和感ありまくりの娘だ。
彼女は担当になったとおぼしき中年男性の半人半霊に手を引かれ、予定時刻ジャストに役場へやってきた。
「ねえ……ユージオは? ユージオはどこ? 並んで裁判受けたのに、いないのよ」
「ごめんなさいね、それは照合してみないと分からないから。もし冥界に来てて一緒に住みたいなら、手紙を送って呼び寄せればいい――あら、そちらは半人の剣士さん? 珍しい家紋。しかも二刀流で……半霊も大きいし……まさか!」
妖夢を見かけて一〇秒とかからず、頭を平身低頭に下げた。白玉楼に暮らす魂魄家の者は、半人半霊ではかなり上位の身分になる。国家公務員にたとえるなら中央政庁のキャリア組だ。たとえ給料が安くてお遣いに出されるような生活をしてても、妖夢はそういうお高い立場にある。対して彼はヒラの地方公務員にすぎない。現代日本のような身分の公平性や職に貴賤なしといった建前など、旧態依然とした冥界では通用しない。
「頭を上げてください。すいません、驚かせるつもりはなかったんです」
腰の低い妖夢に、半人半霊はすっかり恐縮している。妖夢はその気になればいくらでもご無体なパワーハラスメントが可能であるが、性格が性格なのでそういう強権をふるったことは幸いにして一度もない。それにもし偉そうに振る舞えば、おそらく幽々子に「生意気だ」と意地悪される。
妖夢の前に八雲紫が出てきて、金髪の少女を見分した。
「確認するわ。アリス・ツーベルクね」
凍えるほど冷徹な美女に誰何され、少女の体が硬直している。しかし気丈にもにらみ返してきた。
「……だ、誰ですか? 私は死んだばかりで、こちらに知り合いはいませんよ」
「運命の紡ぎ手に導かれて迎えにきたのよ。ユージオに会わせてあげるわ」
「ユージオがどこにいるか分かるのね!」
簡単に乗ってきた。
こうして容易に運命の少女、アリス・ツーベルクを確保できた。
* *
移動前に甘味屋で休憩となった。どうもまた時間稼ぎのようだ。
「アリスが神在市に飛ばされたのはね、人界の公理教会に通って、あちらの魔法――神聖術を学んでいたからよ。日本語で祈ってきた以上は神道として解釈されるから、おそらく人界と暗黒界の敬虔な神職は多くが神在市に来てると思うわ」
「じゃあユージオは騎士とか剣士の町かしら? 私が暗くて冷たい空間に閉じ込められてたのを解放してくれたんだけど、なんと彼ったらすごい能力を使う騎士さまになってたのよ……武運及ばず死んじゃったけど、仇は私から分かれたもうひとりのアリスと、黒の剣士キリト、あと丸メガネのちっちゃい魔法使いが取ってくれたわ」
まんじゅうをほおばりながら、いきなり重要な発言をした。妖夢が身を乗り出す。
「キリトを知ってるの?」
「銀髪で白いオバケを連れてる剣士だから、あなたが妖夢さんよね? 閻魔裁判の待機中にユージオから聞いたのよ。キリトのお嫁さんその一って……あ、恋とかそういう感情はないから安心してね、私にはすでに意中の人がいるから。キリトは自然にいたずらっ子で色々と恥ずかしいところを見られたりしたから、あの行動力を羨ましくは思ってもすこし苦手だったかな」
小学生くらいなのに、あちらで一九歳くらいのキリトを堂々と恋愛対象かもと言ってのける剛胆さがすごい。だがここは正規の彼女として謝っておくべきか。
「ごめんなさい。キリトがいたずらとかラッキースケベでいろいろと迷惑をかけたんですね」
「そりゃもう、剣士の真似事に女の私まで巻き込んだり、どういう偶然からあんなにってくらい、私の裸を見るわ、着替えを覗くわ、下着を――数え切れないわねえ。禁忌なんか知ったことかってくらい自由で、記憶にある最古のイタズラは四歳くらいから」
「四歳から? 紫さま、二年半から三年とおっしゃいましたよね」
この子の外見から逆算すれば、すくなくとも六年以上は経過してないといけない。
「治療のほうじゃなくてもっと前、アルバイトと称して行われた実験のほうよ。日本人を幼少に巻き戻して人界へ放り込んだら、どういう影響が出るかって軽い負荷実験。むろんラース側が記憶をブロックするから、目覚めた和人は一切合切を覚えてないわ。ついでにあちらにいる間も日本人としての記憶がなくて、ないないづくしね。現行法でも裁ける立派な人体実験で真っ黒な犯罪だけど、あの菊岡氏のやることだし――その実験で腕白なキリトの影響を受けて『限界突破フラクトライト』となったのが、じつはあなたよアリス」
「私? 記憶? 限界を突破? フラクトライト? そんなことどうでもいいから、早くユージオに会わせて」
どうもキリトはこのアリスやユージオという人と、あちらで幼馴染みの関係だったらしい。歳が離れてるのにこれほど親しいとは、アリスの立場になりたいと妖夢は思った。妖夢と和人はリアルですでに二歳離され、精神で五年離れようとしている。
「そういえばこの子ですが、禁忌目録に縛られて育った人界人とはかなり言動がずれてますよね。まるで日本人の普通の子とおなじみたい」
「自分で考え、自分で律し、自分で行動する。そういうあたりまえのことが、アンダーワールドでは難しいのよ。なんでもありの暗黒界ですら、上位者の決まりは理不尽でもかなり忠実に守られるわ。権限とかそういうものが、かなり厳密に働くのよ。ユニットごとにゲーム的な役割が設定されてるから、その辺りが悪影響をもたらしてると考えられるわね。たとえば天職システムというものがあって、定められた仕事は本人が嫌がっても変えることができないの。剣士は剣士、農夫は農夫、木こりは木こりとして生涯を過ごすのよ。その職をまっとうしない限り転職すらできない。なにせデジタルデータによる『魂への刻印』だから、義務への拘束力は凄まじいものがあるわよ。人間の自由意思と尊厳を無視した強引な上下秩序は、プレイヤーのNPC化といえるわね。開発母体が自衛隊だから仕方ないけど、そういった絶対の決まり事へ無意識で抵抗してるうちに違反指数を増幅させ、限界を観測範囲で初めて突破できたフラクトライト――ラースが定義した魂のことだけど、それがアリス・ツーベルクってわけ」
「おかしな話ね。要約すれば『普通になる』ってだけなのに、そんなに凄いことなの? 制限がないなら誰もそうなるってだけの話よね。私はキリトという実例が間近にあって、一〇年とすこしを過ごしたわ。普通の例がたまたま偶然そこにいただけ」
言うべきことを済ませると、アリスはお茶を口に含んだ。初めての味に興味津々と目を輝かせている。苦味が口に合うらしい。
妖夢は驚いていた。自分が生きてきた世界のことを異常だと仮定し、こちらの視点に立ってすらっと意見を述べる。白玉楼の門前にいた「好きで難民やってます」な連中とはまるで違っている。
「紫さま! この子とても頭がいいですよ」
「たいていの子が、みょんな妖夢より賢いと思うわよ」
即座のつっこみにアリス・ツーベルクがお茶を噴きこぼした。よほどツボに填ったようで、苦しそうに腹を抱えて笑っている。アリスを観察しているユイは――こちらも携帯の中で笑っていた。こんなときまで人間らしくしなくていいのにと、妖夢は頬をふくらませた。
「……みょーん」
* *
紫と一緒にいると、何事も早くて助かる。
だけど――
「わあ~~、平屋なのになんておっきなお屋敷! 不思議な造りね。こちらもなにこの玉のような砂利、きれいー」
まさかの白玉楼ですか。
表の庭園の枯山水、その近くへスキマが繋がっていた。紫は妖夢にアリスのお守りを任せると、寝殿へ飛んでいった。幽々子に挨拶でもするのだろう。
アリス・ツーベルクがはしゃいでいる。死んだばかりとはとても思えない積極さで、好奇心の塊だ。
「この変わった庭を整えた人はきっといい腕をしてるわね! 細かいところまで配慮が行き届いてる」
「えっへん、じつは私です。表向きはここで庭師をしてます」
「ユージオから聞いてるわよ、もう二年以上も本業から離れてるって。だからいまの状態はほかの人が維持してくれてるんでしょう?」
「みょ~~ん」
和人がユージオとやらにバラしまくっている。日本人でいえばまだ小学生にすぎないアリスに、又聞きの情報を元にいいように言われまくってる。幼馴染みだったキリトの影響で、女の子版キリトになってしまったのだ。最近の和人は落ち着いて妖夢をからかうことも少なくなっていたが、歳が下がればこうなるわけで。つきあいはじめたとき、一四歳のキリトは暇さえあれば妖夢をからかって楽しんでおり、ついでに妖夢も喜んでからかわれていた。いま思えば剣術や対人関係に秀でた妖夢へ、和人なりの妬みがあったのだろう。それと好きという相反した感情を同時に満たすには、からかうのが最善ではないのか? 妖夢にも彼氏のたわむれを赦しつづける余裕があった。デスゲームの難易度を大幅に低下させた魂魄流のおかげだ。
ならアリスとユージオの関係はどうだったのだろうか。
「ユージオって、どういう人なんですか? お歳は? 彼もキリトの幼馴染みなんですよね」
「んー、優しいキリト、大人しいキリト。行動力は控えめで正義感は同等かしら。年齢はキリトとおなじくらいよ」
「キリトが水準なんですね」
「紫さんの話を聞いてたら、キリトが基軸じゃない。なら影響を受けて『普通』になった私たちはキリトを元にすればどこが本来の自分かすぐ分かるわね」
まるで大人のような発想を持つ。とても小学五~六年生レベルの知性ではない。
「……本当に見た目通りの歳なんですか?」
「悪い司祭に何年も封印されてたから正確には違うけど、主観的な活動時間では間違いなく人間よ。封じられてた間はずっと成長も精神も停止してたの」
アリスが小さい理由がようやくわかった。そういう事情なら「幼馴染み」で間違いない。
「ごめんなさい。てっきり年上の和人――キリトと過ごしてるうちに、ませてしまったのだと勘違いしてました」
「こちらの常識は知らないけど、私のいたノーランガルス北帝国では一〇歳から仕事に就くわ。まだ親の世話にはなってるけど馬鹿にされたくないから、さっさと一人前になるしかないのよ」
そういえば幻想郷の人間も知性レベルで早熟な子が多い。魔理沙は一〇歳くらいで独り立ちしたし、霊夢も若くして妖夢よりはるかに深くて豊かな教養を持っていた。稗田阿求や本居小鈴も十代前半にはすでに里で一定の地位を築いてた。
待てよ? と妖夢。とんでもない地雷を踏んだ気がしてきた。人間だと一〇歳相当で就労していながら、いまだに未熟で子供然としている魂魄妖夢。人任せにする部分も多くて、今回などは和人の命が危険に晒されたというのに、紫やレミリアの誘導へ大人しく従ってるだけだ。端から見ればなんと情けない! 可愛い妖夢のままで和人に甘えてればいいと悟ったはずなのに、今度は成長や主体性の方面からコンプレックスが降りかかってくる。
頭を抱えて悩んでしまった妖夢の百面相に、アリスがまた笑った。
「妖夢って見てると飽きないわね、お姉さんなのに妹みたい。それで何十年も生きていて、ユージオやキリトより強いって信じられないわ」
強いもなにも、現実では和人が一〇〇〇人いても妖夢には勝てない。ただし口ではまるで逆だ。
「お師匠さまは私の男バージョンでしたが、アリスはキリトの女バージョンですね」
「ふーん。こんな短い会話で私の中のキリトを見つけ出すなんて、本当に好きなのね。愛してるの?」
アリスの問いは自然で照れもなにもなく、また妖夢も恥ずかしがることもなく返事ができた。
「はい。愛してます」
「いい顔ね、私もそんなふうに素直になりたいわ」
この一言で、アリスが誰を好きなのか妖夢は理解した。
「アリス、教えてください。あちらで和人……キリトがどう育ち、なにをしてきたのか」
* *
アリスの話はあまり長く聞けなかった。すぐユージオなるアンダーワールド人の男性がアリスに案内されてきたからだ。
……ややこしい。アリス・マーガトロイドに連れてこられた。
「アリス! すまない、まさか違うところに送られるなんて思ってもなかったんだ」
ユージオは剣士だった。氷のような青い魔法剣を佩刀してるけど、途中でぽっきり折れている。服も腹部を中心にボロボロと破れており、死の寸前まで激闘をかわしていたと伺わせた。年齢は一八から二〇歳くらいだろう。
「ユージオ遅い! というか『心意』でさっさと小さくなりなさいよ。これでは身長差がありすぎるわ」
「ごめんごめん。アリスはそういうことが出来ないんだったね――」
全身を将軍みたいに輝かせた若者。光がおさまると、うす茶色のショートヘアに翡翠のような緑色の瞳を持つ少年が立っていた。アリスと同年齢くらいにまで若返っている。これは幽霊としての能力であって、心意などじゃない。心意はSTLのシステム外スキルとして発動する裏技だから勘違いなんだけど、再会の名場面で突っ込むのも野暮だ。妖忌お師匠が言ったように、この手の妖怪パワーは根性の強さで決まってくるもので、おそらく心意も似たプロセスで働くのだろう。確信するほどに実現してしまう、熱血アニメの補正力みたいなものとして。
「ユージオ!」
少年へ抱きついてしまうアリス・ツーベルク。心細かったようで、いきなり泣きだした。このあたりはやはり小学生相当だった。妖夢たちの前では気を張ってたのだ。
「好きな人と会えて良かったですね」
妖夢のなにげない一言が、思わぬ爆弾になった。
小さなアリスがいきなりユージオを突き離す。
「違う……違うのっ!」
頬が桜色を通り越して真っ赤へと染まり、さらに顔全体まで広がっていく。かなり色白だから、感情の起伏が肌へ出やすい。
「……アリス?」
ユージオが困ったように手をうろうろさせる。妖夢の半霊レーダーにも彼から「期待」の感情が伝わってきた。どうもそういう関係になっていないようだった。
「あーあ、空気が読めない子ね妖夢」
大きなアリスに注意されて、首を縮めるみょーんな妖夢だ。でもすでに相思相愛みたいだから、放っておいてもいいだろう。
「――えーと、そうだ。アリスはどうして白玉楼に?」
「あの人がアリス・ツーベルクを探してたから冥界だろうって思って案内しただけよ。情報収集ならまず白玉楼じゃない? そしたら驚きの連続よ。外の難民とかすごい数だし、中へ入ればまさかいきなり本人がいるなんて思わなかったから、手間も省けて楽だったから良かったけど、こちらこそどうしてって聞きたいくらい……ああ、紫のやつがまた糸を引いてたのね。それはなによりで」
妖夢が振り向けば、紫と幽々子が歓談しながらこちらへ歩いている。それを見てアリスは察したようだ。
「すいませんアリス、こたびは幽々子さまも共犯のようです」
「詳しいことはあとで聞くわ。とりあえずこちらの話をするわね。彼はアンダーワールド人のユージオ。公理教会という組織の悪事を暴こうとして、愛と正義に殉じた義士で、その功績で天界行きになったの。でも待っていたアリスが一向に来ないので、冥界への浄土転送門をくぐろうとしたところを天子が邪魔して通せんぼ。せっかくの天国をいきなり去るんだから、彼女らしい興味本位の行動だったみたいね。でもそれをあの折れた剣で退けちゃったんだから驚きよね彼」
天子とは天人族の比那名居天子のことだ。一般では天女といえば分かりやすいだろうか。特殊な剣を持っていて、地上戦に限定すれば妖夢より強い。SAOの幻想郷オンライン計画で戦ったときは能力の大半を封じられていた。日本へ遊びにいったことはまだないが、天界人のふれこみから結構な人気を誇っている。
「ただの幽霊が天人に勝った? どれくらい強いんですかあの人は」
「謙遜してたけど、話の節々から『キリト』と同等くらいには強そうね。天子にしてもなんの落ち度もない霊を消滅させるわけにいかないから、能力を使えなかったみたい。で、うっかり負けたと。アリスのことを聞かれた天子は私だと早合点して、幻想郷への道を教えたのよ」
「……え? 冥界と幻想郷を繋ぐ幽明結界、幻想郷側じゃ空に開いてますよね」
なりたての幽霊がいきなり空を飛べるとは思えない。幻想郷へ迷い込む霊は大半が人魂だが、それは浮遊できるからだ。人間の形を残してるうちに飛べる率はかなり低い。
「インフラ用の導線があるじゃない、河童の妖術で強化されてるケーブル。あれを何キロも伝っていったそうよ。すごい身体能力ね」
なんとも信じがたい情熱だ。
「幽霊だから雲の高さから落ちてもたいしたことありませんが、生前の常識がありますから、修行してないと『思い込み』で大ダメージを受けるんです……下手すれば消滅ですよ? ただの人間ですよね彼」
「ええ、剣が達者なだけよ。でも行動して実現しちゃうのがあのユージオで、さらにキリトだったらしいわ」
妖夢の懸念してる死に急ぐようなキリトのたくましい正義感が、アンダーワールドでも存分に爆発しまくってたようだ。しかもこれまでの会話を思い返せば、味方に死者を出しつつも勝利したみたいだった。詳しいあらましが知りたい――と、ユージオたちのほうを見れば、ちっちゃいアリスが告白するところだった。
「あなたの勘違いよ! キリトは違う。おまけ、そうおまけよ。本当はユージオともっと話がしたくて、でもキリトのほうが話しかけやすかったから――しょうがないじゃない、無意識のうちに緊張しちゃってたんだから、いつも強気にいくしかなかったのよ!」
全身をふるわせてとても興奮してるね。棒立ちのユージオも緊張で体中が真っ赤だ。
「自覚したのは愚かにも死ぬ寸前よ。何年もかかって助けに来てくれたじゃない? 命を失ってまで……ユージオのこと考えてるうちに、気付いたのよ。すす、すすす、好きだったんだって。そうよ、あなたが想ってくれてるように、私もずっと前からユージオが好きだったの……」
少年の肩へ頭を寄せる少女。金髪がそよ風に揺れている。
もう言葉は必要なかった。
頷いて。
少年がOKする。
少女は彼の顔を見てないが、動きの感触が伝わり、最良の結果を教えてきた。
肩をふるわせ、ちっちゃなアリスがすすり泣きをはじめる。でもそれは嬉し泣きと呼ばれる種類の、すこし甘酸っぱい涙だった。
* *
洋上にそびえる黒いピラミッド。
その姿を目にした妖夢が持った感想は、ごく自然なものだった。ほかにどう呼べばよいか分からないほど、それはピラミッドでしかなく。
水平線の果てまで島影ひとつもない真っ青な海がどこまでも広がっている。高度五〇〇メートルくらいを飛んでいるが、気温はゆうに二五度を超えていそうだ。ついさっきまでヒンヤリした白玉楼にいたものだから、たちまち汗が浮かんできた。
一行がスキマを抜けて出てきたのは、まさに外洋のただ中だった。天気は晴朗、風も波もおだやかだ。
「紫さま、あれはなんですか?」
「……時間がないわね。話はあと、まず突入するわよ」
紫が黒いピラミッドのふもとへと下りていく。
妖夢たちも後を追う。メンバーは白玉楼に集まった六名だ。ちっちゃいアリスとユージオはアリス・マーガトロイドの魔法で浮遊している。はじめての飛行体験に小アリスは『これが海なのねー!』と興奮しっぱなし、ユージオは大人の余裕でエスコートする。
謎の黒い四角錐へ近づくにしたがい、どうもメガフロートらしいと妖夢は思った。メガフロートとは水上に浮かぶ巨大施設のことだ。さまざまな理由によって埋め立てより有利と思われる際に選択される。多くのメガフロートは埋め立て地とほぼおなじ運用をされるが、まれに移動式もあってタグボートなどで牽引される。しかしこの人工ピラミッド島、どうも自力航行能力を持つようだ。その証拠に長辺の先端にブリッジとおぼしきビル構造があり、その屋上にはヘリポートがある。さらにピラミッドの四辺よりヒレのような安定板が伸びていた。これらとブリッジを合わせ、ある動物を連想させる。
海亀?
この亀さん、第一印象こそピラミッドだったが、海亀の形をした船のようだ。甲羅の基部は正方形ではなく長方形で、さらに亀のイメージを強めていく。ただし船と呼ぶにもサイズが大きすぎて、窓や連絡通路の大きさから短辺三〇〇メートル以上、長辺は五〇〇メートル以上ありそうだ。航行能力を持ったメガフロートとでもいうしかない。
表面はメタリックに光っている。ピラミッド構造が表面積の九〇パーセントほどを占めており、どうも表面を覆う黒いパネルはすべて太陽電池のようだ。多くが正六角形をしていて、ますます亀みたい。
『これが……こんなのがアンダーワールドだというの? ルーリッド村より狭いじゃない』
『大きいけど、なんと小さい。どうやって封じ込めてるんだ』
小アリスとユージオの声は思念波に変わっている。霊界を出た霊体は人魂に近い文字通りの幽霊となる。体は半透明化し、音声で会話できない。ただの霊が肉体を持てるのは死後の世界だけで、外で実体化するには超常の才能が必要だ。神と同列のパワーを持つ幽々子は「浄化されない華胥の亡霊」で、体温すらあるし人魂を消せば生者と見分けられない。
『キリトの世界はとても広いのに、僕たちが生きてきた世界のすべてが、これぽっちだなんて』
この黒い塊はあくまでも施設の外観にすぎず、STLの本体やサーバはもっと小さい。覆いを取ればアンダーワールドの縮小ミニチュアが箱庭みたいに収まってるわけもないが、ユージオたちの常識やイメージでは、デジタルのデータや記録素子の理解には時間がかかるだろう。幻想郷だって紫の方針転換から現代日本へ慣れるのに一〇年も掛けた。
巨大海亀まで一〇〇メートルほどの地点で、前をいく紫がいきなり急停止した。空中に巨大な赤い魔法陣が出現して、紫の前進を阻んでいる。デザインはふたつの四角形が四五度で重なり、内側に円。漢字と梵字と陰陽玉が踊っている。神道を中心とする破邪の魔除けだ。
「――霊夢ね」
紫がつぶやくと同時に近くの海より水しぶきがあがり、細長い魔物が飛び出てきた。四枚の翼を生やした緑と赤と青のど派手な極彩色の大蛇だ。全長は二〇メートルはあるだろう、苛烈なまでの聖なる気配が妖夢の半霊レーダーを掻き乱す。
「……ケツァルコアトル神がなぜ?」
メキシコの蛇神を追って、水中より光の玉が浮かんできた。玉が水上ではじけ、中よりひとりの若い女性が姿をみせる。水面に立ちながらお払い棒を空飛ぶ蛇へ向け、問答無用の攻勢祝詞を唱えはじめた。妖夢も知っている高度な封魔スペルカード、それの限定解除バージョン、いわゆる真言だ。魔法陣も背負っている。
博麗霊夢だった。紅白の巫女服はあちこち焦げ、あるいは破け、激戦の様子を伝えてくる。よくみればケツァルコアトルのほうも表面のうろこが欠け、ケツァール鳥の翼もボロボロになっている。
真言の夢想封印が発動、封魔の霊力が蛇神を縛り付けようと強烈な波動となる。霊夢周辺の海水がまるで生き物のように波打ち、小さな津波みたいに広がっていく。津波はメガフロートの手前で紫を止めた結界に阻まれ、先へ進めない。
大小の光弾が密集し閉じ込めようとしたが、蛇神は気合いだけで弾いてしまった。ただの蛇ではない。三〇〇〇年以上も生きてきたマヤおよびアステカ文明の天空神だ。日本でいえばアマテラス級に匹敵する大神で、本来なら霊夢であろうとも対抗できる御方ではない。それが拮抗しているのは、古代神ケツァルコアトルの集める信仰がまだまだ弱いからだ。彼は二〇二四年に世界を驚かせたエイリアン・ショックの一環で五〇〇年ぶりに甦ったばかり。いくら神の実在が知れ渡ったといっても、信仰してくれた民はとっくに滅び、その子孫は多くがキリスト教徒――復権の日は遠い。
ケツァルコアトルとガチの術比べをしながら、霊夢が妖夢たちを睨んだ。目で「行け!」と言っている。
「……情報局の手管ね」
幽々子が犯人を推定した瞬間、またもや水柱が立ち、こんどは古代中国の鎧武者が登場した。長大な矛を持ち、強面でおひげが立派。
『その方ら、これ以上は中へ誰も入れぬ!』
中国語で言われたのだが、日本語へ自動翻訳されて脳へと響いてきた。なんという高度な言霊。神気も非常に高く、後光が差すほどに眩しい。
武将を追ってつづけて四人が水中より飛び立つ。
花の大妖怪・風見幽香、正体をなくすていどの能力を持つ封獣ぬえ、無双の剛腕を誇る鬼族の星熊勇儀、化かしを得意とする狸賢者の二ッ岩マミゾウだ。いずれも幻想郷ではパワーバランスのかなり上位にランクされる。
全員が激闘を伺わせるボロ雑巾状態だ。四人でようやく中国武者に釣り合っている。
「……関羽さままで」
武人の正体は関帝聖君だった。妖夢が剣士というより求道者として目標とする超人のひとり。忠義に厚く死後神格化された。ケツァルコアトルとは比較にならない莫大な信仰を集めてるので、龍神や羅刹のように強い。
青竜刀を振り回した関羽が、歌舞伎役者のような大見得を切った。
『オーシャンタートルの邪悪な装置をのさばらせるは、神々への挑戦、節理を曲げる悪徳。これを捨て置けぬ!』
ケツァルコアトルも傷ついた翼を羽ばたかせる。
『我ら義によってアメリカへ助太刀する所存!』
よく見渡せば波間に神とおぼしき連中が気絶してぷかぷか浮かんでいる。すでに霊夢たちが退治した神々だろう。妖夢が判別できるだけでもムフウエセ、ロア、ラクシュミー、媽祖、ゴラ・ダイレン、ルーカイラン、トラロック、アバイ・ゲセルなどがいる。みんな環太平洋地域あるいは近隣の神さまだ。幻想郷側にも被害が出ていて、因幡てゐと古明地こいしに今泉影狼が目を回して浮かんでいた。こいしと影狼の襟を掴んで泳いでいる人影がいた。人魚のわかさぎ姫が救護に当たっている。ワカサギは淡水の魚と思われがちだが、汽水や海水でも順応するし、沿岸でわりと釣れる。敵味方に関係なく海へ落ちた者を仰向けに直し、息ができるようにしてるみたいだ。神や妖怪は致命的な傷でなければ放置しておくだけでそのうち治る。
蛇神へ脳天チョップを喰らわしながら、霊夢が張りのある通る声で叫んだ。
「紫、幽々子、妖夢、アリス。ここは私たちが食い止めてるから、さっさと中へ入りなさい!」
妖夢の半霊レーダーに、遠くより接近してくる神々の気配。拡散走査モードで精度が低いけど、半径二〇〇~三〇〇キロ以内におよそ一五から二〇柱。さらに特定の方角より飛んでくる頼もしい味方の気配が一〇ほど。幻想郷の妖怪と外国の神々が海上で喧嘩祭りに明け暮れている。神たちは起きて日が浅く平均的にまだ弱いから、数で勝負する作戦のようだ。各地よりなんの考えもなく飛んできては、霊夢たちによって各個撃破されているみたい。幻想郷側も戦力の逐次投入になりつつあり、戦略としてあまり良くないものだから、紫が知っていたとすれば下策だ。
「……頼んだわ、霊夢」
済まなそうな紫の表情から、これが想定外だと伺えた。賢者の裏を掻くとはアメリカ側に誰がいる? そういえばこの場で戦闘に参加している幻想郷勢は、霊夢と勇儀を除けばさまざまな方面の特殊能力に秀でている。戦うというよりそれを回避する方向、単純な守りへ重きを置いた人選に見えた。だが神々は戦う気まんまんだ。レミリアが運命を視てるから、バトルロイヤルならもっと違う子を連れてくるだろう。ならいまの状況は埒外か。
スキマを発生させ、弾幕の閃光と爆炎を背中に残しつつまた瞬間移動。しんがりは場慣れしてる妖夢だ。楼観剣を抜いて周囲を警戒する。
最後にスキマをくぐった妖夢が、後ろ髪をひかれる思いで憧れの闘士を見収めた。狂った嬌声をあげた幽香と拳の殴り合い。
「うらやましいな~~」
心の底から関羽と戦いたかった。だがいまはアンダーワールドだ。
* *
謎のSTLサーバや久しぶりの菊岡氏かと思ったら、まるで違っていた。
いきなりの砂煙。
いきなりの絶壁。
乾いた深い渓谷の底へと転移してきた。ついさっきまで昼間だったのに、こちらの時刻は早朝で、まだ日が昇る寸前。世界は夜のとばりをあげ、新たなる一日の訪れとともに人々の営みがはじまる……というわけではなさそうだ。
肌寒く薄明るい中に、軍隊がいた。空堀と石積と木柵でこしらえた砦があり、その上に革鎧や槍、さらに銃で完全武装した人間の一団。堀と柵は谷底を端から端までカバーし、おなじく兵も埋め尽くしており、すくなくとも一〇〇〇人以上が確認できる。その最前列にいる兵士たちが銃口をこちらへ向けている。銃はいずれも狩猟で使われるような銃身の長いもので、おそらく単発式と思われた。手元よりちいさな煙があがってて、かなり原始的な火縄銃だ。具体的には戦国時代や江戸時代級。
火薬と銃は妖夢も初耳だった。いつのまに技術革新が起きたのだろう。
歩兵の合間に等間隔で並ぶ、士官級と見られる騎士。強い気力を感じるので、おそらく彼らが公理教会の切り札、整合騎士だろう。見える範囲では一〇人ほどか。
砦の反対へと振りかえれば、そこには谷を塞ぐ巨大な岩壁が反り立っていた。表面がきれいに整えられたあきらかな人工物で、高さ何百メートルもあるふざけた規模だ。アンダーワールドの技術水準はこの一週間すごした道場の人たちから聞いている。こんなものを彫り込んでこの場へ運んでくる技術を彼らは持たない。しかもこの岩壁は継ぎ目ひとつない一枚岩なのだ。
たしか『東の大門』――ここに紫が飛んできたということは、つまりこの地が最終戦争の最前線か。
視線を戻せば兵士たちが目立って殺気立っている。すべての銃口がとつぜん現れた異質な少女集団へと注がれていた。もし誰かが発砲すれば、勢いのまま射撃大会となり、無惨な蜂の巣は避けられない。もっとも妖怪と幽霊しかいないからあのていどの火力で死にはしないが――
「やめろー! 味方だ味方っ! リアルワールドの援軍だ!」
聞き慣れた声が、妖夢の耳に届く。
黒髪の騎士が堀の前まで躍り出て、兵士たちに銃を下ろすよう指示していた。頭から足先まで黒い。総黒ずくめの衣装だ。
彼が何者であるかを確認する前に、妖夢は飛んでいた。
生きていた。
ちゃんと生きていた!
宙に浮かんで急接近し、一週間ぶりとなる彼氏へと感情のままダイブする。
「和人~~♪」
勢いで押し倒してしまった。
感激の洪水にまかせ、彼氏がなにか言うのを待たずその唇を奪取。半年以上ぶりのキスを堪能する。リアルではほぼ一年ぶりで、それも略奪キスだった。いやおそらくここはアンダーワールドだからリアルとは言えないのだろうが、五感に飛び込んでくるあらゆる情報と感触が、ここがリアルだよといってくる。ほとんど現実と変わらないバーチャルリアリティ、量子コンピュータのキャンバスだ。
伝わる触感、湿り気に鼓動、さらに体温。みんな焦がれるほど欲しかった和人のものだった。いまの妖夢は短時間であれば体温調節もできる。人間とおなじ体温へいっときの上昇だ。そこへ興奮もプラスされて、まるで熱気を帯びた赤い肌、瑞々しく恋する娘のできあがり。
満足するまで味わってから、ようやく和人より離れる。いやこちらではキリトか。聞かされたとはいえ、もう見た目に少年らしさはない。背はのび、骨格もしっかりして肉もついている。妖夢との身長差は二〇センチも開いてしまった。大人になった未来の和人で、同時にいまのキリトだ。
「何年も待たせてごめんなさい。愛してるわ」
和人――キリトが妖夢の頬をそっとさすってくる。
「妖夢は変わってなさそうだね」
「援軍に来ましたよ。アメリカ軍は任せてね」
「アメリカ軍? そうか、テロリストどもはやはり米軍で、アスナの言ったとおりあちら側でログインを――」
テロリスト? アスナ?
「キリト。か、か、彼女は? 妙な白い浮遊生物も連れてるようだが、ダークテリトリーの亜人とは違うのか?」
冷静さに欠ける若干震えた声で、ひとりの女騎士が声をかけてきた。金髪青目の美人で、歳のころはいまのキリトとほぼ同じ。みれば砦の門がひらかれ、この女を含む幾人かの整合騎士が妖夢とキリトを囲んでいる。
「紹介するよアリス。この人が俺と――将来を約束している、魂魄妖夢だ」
将来を約束、という部分で女騎士の波動が強まった。妖夢へ嫉妬を向けている。
あれ? もしかしてキリトに想いを寄せている人だったりする? だからキリトはわざと彼女以上として妖夢を紹介したのだろう。余計な勘ぐりを招かないためにも。
「えーと、初めまして。魂魄妖夢といいます。冥界の剣士です」
剣士と伝えられ、妖夢が背負ってる二本の剣へ注目した「アリス」。ちょっとした仕草がちっちゃなアリスとそっくりに思える。
「アリス・シンセシス・サーティである。整合騎士だ」
「……もう一人のアリス・ツーベルクさん?」
「――幼い私を知ってるのか!」
「そこにいますよ」
振り向いて指をさすが、騎士アリスは怪訝そうな顔をしている。歩いてくる幽霊のアリスを確認できないようだ。教会に忠実な騎士であろうとも、信じてない人や概念を知らない人には見えない。
一方キリトのほうは「ユージオ! 生きてたのか!」と叫んで駆けだしている。こんな谷間の暗がりで日の出前だと、遠目では幽霊と生者の区別は付きにくそうだ。
「幽々子さま、実体化をお願いします」
「宗教観が違うって面倒ねえ。悉皆彷徨」
右手で指を軽く鳴らすと、幽々子の右腕に桃色の霊気が宿っていった。八個くらいの小さな狐火が円となり舞いながら移動し、優しくアリス・ツーベルクとユージオの霊体を包んでいき、その冷たい炎が燐光となって散ったあとには、冥界にいたときの肉体を持ったふたりが立っていた。ユージオは青年の姿へと戻っている。
そこへ飛び込んだキリトがユージオと強く抱き合っていた。ホモ~~じゃなくて男の友情って感じで。
「生きてる……ってわけじゃなさそうだな」
軽く体を身震いさせるキリト。体温差が大きい。
「冷たいだろ? 藍さんの警告を思い出して、むりやり死者の国から戻ってきたよ」
他方、アリス同士はあまり友好的でなさそうだ。
「ユージオが間違いないなら……おまえはア、アリスなのか? カセドラルの神界の間で水晶に閉じ込められていた」
片膝をついて分身を見つめてる騎士アリスの脳天に、ごちんとチョップ。たったいま霊夢がやってたよりも見事に決まった。
「なにをする!」
「だめよ大人の私、婚約者のいるキリトに横恋慕なんてメッなんだからね。アリス・ツーベルクは初恋を実らせてユージオと結ばれるんだから」
図星超特急で動揺しまくったのは騎士アリス。
「はっ、初恋だと? たしかに最高司祭を倒すとき記憶の一部が飛び込んできた気はするが……それとこれとは別だ!」
「ふん。同一人物なんだから、私は私のことをよーっく理解してるわ。ユージオが死んじゃったから、キリトへ目移りしたんでしょう?」
「ただの村娘が騎士に向かってなんという口の利き方をするか!」
「私が私に文句をいってなにが悪いの? 整合騎士だからって気取っちゃって偉そうなのよ」
恋愛相手となる当人たちを前にして、ふたりのアリスがはっちゃけまくっていた。臨戦態勢だった兵士たちも、砦の前で始まったいきなりのマイセルフ痴話喧嘩に緊張を保てないで困惑している。きっといつもの整合騎士とかけ離れすぎた姿なのだろう。
「こうなったら――勝負だ!」
剣を抜いた騎士アリスに、ファイティングポーズで小アリスも応じた。
「騎士にあるまじき単純さね。まあいいわそれだけあなたが真剣だってことでもあるから、受けてあげる。勝ったほうが好きな彼と結婚するのでどう?」
「剣を向けて済まなかった。刃物を見ても動じないとは、さすが私は私を知るだな。公平な勝負を提案しよう」
「あのー、勝手に人の彼氏をですね?」
妖夢が突っ込もうとした瞬間。
「システムコール! ヒューマンユニット・コンバイン! アンノウンオブジェクト・トゥー・アイディー、エヌエヌディー――……!」
幼い少女の声でアンダーワールドの神聖魔法が朗々と唱えられた。
ふたりのアリスが金色の輝きに包まれていく。
なおも長い聖句を唱える茶髪の少女が、アリスたちに触れていた。外見は一〇歳に届くかどうかで、近世欧州で学生が着用していたアカデミックドレス姿。小粒な頭がゆったりした帽子に埋もれており、どこか頼りなさげだが、小さな丸メガネを通した瞳には高い知性と深い智慧が宿っている。
魔法の詠唱を終えた少女が、脇に挟んでいた杖を右手へと持ち直した。両手を使って魔法を行使していたのだ。
似ている。何歳かおおきくすれば幻想郷の外交官にそっくりだ。
「……嘉手納アガサ?」
「キリトと藍にも聞かれたが別人じゃ。わしの名はカデ子。アンダーワールドのカーディナル・システムが肉体と人格を得たものだと思ってくれ」
「カデ子さん? まるで日本人みたいな名前の付け方ですが――キリトのせいなの?」
「カーディナルと名乗ってたけど、一般名詞だし愛称のつもりで短縮したらそのままになったんだよ」
肩を竦めて首を横に振った。そんなことで斬られたら溜まらないってばかりに。SAOでもALOでも、妖夢はそんなきついお仕置きをやっている。
「彼氏に責はない、勝手に採用して改名したのはわしよ。日本人に憧れたまでじゃな」
しゃべりかたまで似ている。元がおなじだから、人格化すれば似るのだろう。
ふたりのアリスが華燭なクリスマスツリーみたいに輝き続けている。アリスたちの姿はまったく見えない。
「アリスの『融合』は時間がかかりそうじゃな。その前にこちらを済ませておくかの――ユージオ」
「はい」
「いまからおぬしのフラクトライトを人界人として再定義しようと思うが構わぬか? 悪いがアリスには強制した。意識が互いへと集中しておるほど成功率が高いし、キリトに惚れておるアリスを放置しておくのも、幻想郷との連携に支障を来すでな」
「……それは僕が生き返る、ということですか」
「カーディナル・システムのメインプロセスを吸収し悪用しておった魔女、最高司祭アドミニストレータ亡きいま、サブプロセスであったわしがバックアップとして自動的にメインへ座っておる。よって神にも等しい膨大な権限を持っておってな、リアルワールドで不可能とされる『人間のままでの蘇生』すら可能になったのじゃ。ただしいまは人界存亡の危機、おぬしほどの使い手を平民ユニットとして遊ばせておくのはもったいない。すまぬがわしの盾、整合騎士になってもらうぞ。どうせアリスと結ばれるのなら、おなじ身分でおなじ不老の身が良かろう」
「望むところです。ぜひお願いします」
カデ子が首を捻った。
「……そういえばアリスはまだ不老処置をしておらなんだな、そろそろ止めてやらぬと美貌の曲がり角を過ぎてしまいかねん。ユージオは何歳くらいが好きかの? 一五? 一八?」
「僕もアリスもいまの状態で固定を。それが記念になりますから」
「そうか、ありのままも良かろう。わしも外見年齢を自由に変更できるようになったのに、あえて以前のままでおるしの。ちょっと触るぞ――システム・コール! リムーブ・バン・シークエンス! リリース・アイディー、エヌエヌディーセブン・シックススリーシックスワン!」
いきなり始まった魔法だが、妖夢にはおぼろげに意味がつかめた。剣士のままGGOの射撃大会に出てアカウントBAN――接続禁止処分を受けたみょんな経験のおかげだ。おそらく凍結していたIDを復活させるつもりだろう。ユージオが入っていた光量子の器『NND7-6361』は、再利用されないようカデ子がロックして守っていたのだ。魂を扱う装置でも機械である以上、リサイクルを考えた設計と仕様になっているはずだ。
ユージオもアリスたちと似たような光に包まれたが、輝きは短時間で終了した。魂と魂を合体させる大技と比べれば、古巣へ返すだけの魔法はたとえ蘇生という奇跡でもすんなりと処理されるらしい。
「システムコール! リカバリー・デュラビリティ・マキシマム!」
ユージオの胸元へ触れながら幾重にも魔法を重ね掛けしてゆくカデ子。白かったユージオの肌に赤味がさし、体温が戻ってきた。四回か五回の神聖魔法を通過して、騎士アリスと似た壮麗なプレートアーマーを着込んだ騎士ユージオが立っていた。
「今後はユージオ・アナリシス・ファイブと名乗るがよかろう」
「これが――整合騎士。青薔薇の剣も元に戻ってる」
鞘より抜いた剣は、先から根元まで完全に修理されていた。折れていた剣身が見事に戻っている。氷河や氷床より切りだしたような、深い水色と表現すべき透明感のある青。普通の剣ではないと妖夢にもわかる。またユージオ自身が持っていた気のパワーが何倍にも増大していた。そういえばキリトもまるでSAOの終盤みたいな力強い気を放散している。
「キリトも整合騎士さんですか?」
「ああ。カデ子の整合騎士第一号、キリト・アナリシス・ワンだ」
右手を背中にやり、こちらは先から根元まで漆黒の剣を抜いた。なぜか左手まで背中に――
「あれ? ユージオの形見がいつのまにか消えてる……そうか、復活してあちらへ吸収されたんだな。生き返ったならもう不要だ」
キリトは背中に鞘をふたつ背負っている。いま鞘は両方とも剣がなく、手にしてるのも黒い剣が一本だけ。
「鎧も剣も同色なんですね。騎士のキリト、格好いいです! でも騎士名が、アナルに近い響きはちょっと……かも」
「お尻とか、三年離れててもムッツリだな妖夢は。記憶分離で人格改造してた非道なシンセサイズと真逆ってことで、分析を意味するアナライズから来てるんだよ。個人ごとに最適化した希望どおりの整合騎士になれるんだってさ。シンセシス騎士のうち何人かがアナリシス騎士へ転向してるよ」
キリトたちが勝ち取ったもの、倒した悪もまた大きかったようだ。
「三年ですか――長かったんですね。私の中では一週間にすぎないのに。ごめんねキリト、本当はもっと早く来れたんだけど……」
「知ってるから謝るなよ。八雲のところの藍さんが何度か接触してきたから。俺を死なせないためなんだろう?」
甘えるチャンスと思った妖夢、しかしすこし緊張してペンギンの雛みたいな動きで不器用に近づくと、ぴとっと寄り添って体重を預けた。
「はあ……落ち着くー」
一方、アリスの融合がようやく終わったみたいで、ひとりに減った美貌の整合騎士が目をぱちくりしていた。
「……あーあー、私はアリス。アリス・ツーベルク? 神に呼ばれて降臨したって偽の記憶がごっそり消えてるわね――記憶が倍になってるわ倍! 物心ついてから禁忌目録をやぶって中央まで連れて行かれ、あの糞ババアに人格改造される寸前までの記憶をまるごとなくして。神に選ばれました、あなたは特別な騎士ですって頭おかしいこと言われたのに純粋無垢だからその気になって、幼いほうの私、ユージオはじめルーリッド村のみんな大好きだよって俗物で田舎娘のアリスはよりによってべつの魂とか! なにそれ! 魂を二個に増やせるなんて意味不明じゃない。わお、悪口声高に叫んで禁忌違反しまくってるのに罰せられないなんて、新生した人界は最高よね! こいつはぜひとも勝利しないと」
口汚い独り言で楽しい演芸会をしてる整合騎士アリス。とても騎士には見えない変わりようだが、これもまたアリス・ツーベルクだ。普段は外へ漏らさない心の声をそのまま垂れ流している。キリトとユージオが心配そうに話しかけようとするが、妖夢とカデ子が手で遮った。これは記憶の整理、自分との格闘だ。違和感を摺り合わせて自己を確たるものとするには、精神の荒波へ乗り出した小舟を転覆させないよう、自我と認識の嵐と戦うしかない。
「水晶に封じられて五年か六年して、呑気に木こりやってたユージオとキリトがゴブリンどもと遭遇して心意へ覚醒した瞬間の衝撃で一時的に目が覚め、遠くにいる木こりどもへ伝えたのよ。塔の上にいるぜー、待ってるから助けに来いやーっ! つぎに意識が戻ったらいきなり糞ババアとの最終決戦、これはなんとしてでも助けなければ! 思考停止の痴呆騎士だった私もキリトたちに感化されて残酷な無垢から抜けたぜ。おおうっ、これが世界の真実だったのか! なんだ騎士の私も頑張ってたじゃん、やるぅ――え? ユージオ?」
キャラ崩壊アリスがその青い瞳をらんらんと輝かせた。
「もしかしてユージオも生き返ったの? しかも整合騎士? なんという幸せなのかしら、これで人界は守られるわ!」
ふたりの男性騎士を交互に眺める。
「さていまの私はどちらにときめくのか? ちょうど目の前にふたりが並んでいますよ。アリス特派員はどう思いますか? そうですね。キリトはやはりユージオがいなくなったから好きになった代用品なの。私の恋の起源はあくまでもユージオ。しかも死んだ勢いで告白して見事に掴んだわ愛を。さらにテラリア神もびっくりな展開でふたりとも生き返ってしまったからには、こうなったらもう結納まで突き進むしかないでしょ! ごめんねキリト、あなたは可愛い妖怪娘や美人の細剣士と末永くイチャイチャしてなさい」
ユージオの腕を取って自分のほうへ引き寄せてしまう。
「……なんだこのビッチ」
カチンときたキリトの口が滑った。暗黒界軍との開戦を待っていた緊張から、いきなり恋愛がどうのこうのと桃色空間で騒ぎだし、挙げ句の果てに幼女がインストールされ、美貌の騎士が酒場みたいな軽口の嵐でわめくものだから、もうビッチとでも言いたくなる。妖夢にとってはキリトとアリス、両方とも冥想斬ものだが、再起動中で余裕のないアリスも悪気なく反省など皆無、眉間がおそろしく歪められる。
「なんか言った? ビッチ? 意味わからないけど、その単語ってあっちの方面でアレなとっても失礼なものよねきっと。私はまだ口づけすら経験してない純潔な体なのよ? ソルス神もいっておられます。やられたらやりかえせ。ユージオがいなかったこの半年間キリトがどれだけ変態だったか、妖夢に教えますよー? あれれ~~、どうして顔が蒼白になってるのかしら」
キリト完全敗北モード。
「妖夢、違うんだこれは」
ためいきしかでない。
「……いつものラッキースケベでしょ? まったく困った人ですね。狙ってなくとも勝手に女の子の下着が目に入ってくる、しかも頻繁に。偶然で胸を触ったり、なぜか添い寝したり、入浴や着替えを覗いてしまったり、年下にお兄ちゃんや先輩と懐かれたり、年上から誘惑ごっこでからかわれたり――複数の女の子から好かれてしまったり」
「すまん、この三年でみんな体験した」
たまらずに土下座した彼氏の頭をすりすりと撫でる。
「いいんですよキリト。英雄色を好むでしたっけ? ちょっと毛色が違いますが、あなたはそういう主人公みたいな星らしいんですから。人間にも能力者はいますが、キリトはたぶんそういう『能力』だと思います。私はまっさきにその運命の漁網に引っかかったといいましょうか、『最初に捕まった』おかげで彼女になれたラッキーな子です。まあだから許しますし理解もできますし、さらに逃がしませんけどね?」
「生涯きみだけを愛します!」
とっさの発言にも聞こえたが、願ったりの強い断言が妖夢の胸を熱く打ってきた。
……うわっ。
久方ぶりの甘い感激がわき起こってくる。つきあいはじめたときは毎日のように感じていた、心地よくもくすぐられるような感動。
たっぷり二〇秒は思考が止まっていた。
「妖夢?」
「ぼ、菩薩さまになってみるものですね、いまのは最高に嬉しかったですよ。プロポーズと思っていいですか?」
手を取って土下座してた彼氏を起こす。
「妖夢――」
見つめ合って自然と顔が近づいていくふたりだったが、小さな世界はあっというまに崩された。
「ちょっと待ってよキリトくん! それ昨日、私に言ったばかりじゃない」
あっ。
見慣れた仲間にして親友、和人をともに愛すると誓った盟友が先んじて来てたらしい。そういえばアンダーワールドは仮想空間のうえザ・シード規格で動いている。菊岡氏の側からも「ログイン」可能なのだ。
妖夢の恋愛脳が切り替わっていく。盟友がSAO時代とおなじリアル顔でフルダイブしてた。ALOでは青髪になってるので、じつに二年ぶりだ。豪奢な服装こそアンダーワールド側のデザインだが、腰の武器は毎度のレイピア。そこにいるだけで関羽に優るとも劣らない強烈な気だ。キリトやユージオよりも上位の存在だと感じるから、割り振られたステータス値はずっと高そうだ。どういうチートなアカウントなのだろう。アスナの放つオーラのおかげで、恋色に染まってた妖夢の頭もさっぱりした。
「明日奈も援軍ですか? 複数の子に『君だけ』とのたまう黒ずくめの小僧などもうどうでもいいので、戦況を教えてください」
女子たちに振り回された小僧が、真っ白に燃え尽きて捨て置かれる。
* *
人界暦三八〇年一一月七日、午前六時二五分。
妖夢たちがやってきてわずか三〇分、『東の大門会戦』が勃発する。
冥界で剣を振ってた一週間、妖夢はアンダーワールドの歴史を霊たちから教わっていた。
当面の敵となる闇の世界では、かつて『鉄血の時代』と呼ばれる無秩序な戦国乱世がつづいていた。およそ一〇〇年前、一〇侯会議という統治機構がようやく発足したが、「平和」にはならなかった。紛争や内乱は小規模化しただけ、人買いなど社会不安も多い。その原因は暗黒界の自然が過酷で、大地も痩せてるからだ。しかし彼らは互いに反目し憎しみ合いながらも、統一的な集団心理の意識でもって人界への全面侵攻に打って出ようとしている。
地平より太陽が昇った瞬間――轟音とともに、軍勢の眼前二〇〇メートルで一枚岩が崩壊をはじめた。破壊不能なオブジェクトがなぜか崩れて消えていく。これはラースによってあらかじめ予定されていた「イベント」だ。
見上げてる妖夢たち幻想郷クラスタは観光気分だが、人界人にとって歴史はじまって以来となる試練への、不気味にして散文的な序曲だった。この門の反対側には暗黒界軍が五万人規模で詰め寄せているという。人界軍は半年前に公理教会の騒動があって、動員できた兵力は少なく、わずか五〇〇〇人足らず。四帝家の正規兵を借りることがついに出来なかったが、整合騎士の名や聖戦との触れ込みに、かろうじて軍と呼べる義勇兵集団をまとめることができた。人界の総人口は九万人なので、その中の五〇〇〇人は文明レベルを考えればすごい率だ。もっとも暗黒界のほうは総人口一〇万のうち五万……老人と子供を除けば、戦える者は女であろうともほとんどを動員してきた、民族大移動状態だった。それほどまでダークテリトリーにとって待ちわびた日なのであった。
兵力差が大きすぎるので、人界側の基本戦術は峡谷の狭隘な地形を利用し、大軍の突破を防ぎつづけることにある。
アスナによれば、菊岡氏はこれを最終負荷試験と呼んでいた。アンダーワールドの文明シミュレーションで決められていた、最終戦争への誘いである。ラースはわざと人界を優遇し、暗黒界を冷遇してきた。実り多き安寧の人界、荒れ地ばかりが広がる暗黒界。人界は病気も貧困も少なく、多くの人が長生きできる楽園。暗黒界は飢えと戦いと絶望が支配する、終わりなき争乱、末世の地獄だった。ダークテリトリーは喉から手が出るほど人界の豊かさを求めたが、このふたつの世界は果ての山脈と呼ばれる高山帯で遮られており、山越えで軍を送り込める谷も道もない。木の一本も生えてないはげ山ばかりだから、部隊を隠して進軍させるのは困難だし、山道を作ろうにも工事に取りかかった端から飛竜に乗った整合騎士に潰される。山脈には北と西と南にそれぞれひとつずつ人界と通じる洞窟があったが、狭いのでゴブリンといった小柄な弱いユニットしか派遣できないし、人界へ侵入できたとしても即座に整合騎士が飛んできて殲滅された。
これらの話を聞けば、整合騎士の個人としての強さが際立っているように見える。整合騎士とは公理教会の支配者、半年前にキリトが倒したアドミニストレータが独自の研究で編み出した超越の戦闘人形だった。暗黒界人はどれだけ戦闘技能や経験を蓄積しようとも、寿命によってすべてが失われる。暗黒将軍のように弟子から弟子への継承によって少しずつしか強さを上乗せできない。期間の多くは弟子が師匠に追い付く修行に費やされてしまう。対して整合騎士は最初から不老で、しかも天命と呼ばれるHPも、魔法を使う権限値もきわめて高い。苦戦して腕を失うような重傷を負っても、最高司祭が最高度の神聖魔法を使えば瞬時に再生してしまう。とても強力な戦士たちだが欠点もあって、さまざまな理由によって整合騎士は「量産」も「乱造」もできず、現時点で三〇人とちょっとしかいない。そんな中でたまたま幼馴染みだったキリトたちが三人とも整合騎士になったのはおそるべき奇跡だった。
整合騎士と暗黒将軍のドラマを聞いていた妖夢は、まるで妖怪と人間の関係だなと思った。しかし人界を幻想郷にたとえるのは無理だ。日本のほうが豊かで活力に溢れているのだから。アンダーワールドの事情はあくまでもこの世界のもの、妖夢たちに共感してどうこうするものは少ない。妖怪たちが人界軍側につくのは、単純にキリトとアリスとユージオがいるからだった。もしキリトたちが闇の軍勢にいれば、妖夢はまっすぐそちらへ飛んでいっただろう。そのていどの間柄でしかなく、あくまでも敵は「米軍」だ。ただしいまのところ妖夢は、直接的にはアメリカの兵隊をひとりとして目撃していない。
現実側だとあのオーシャンタートルは、なんと米軍によってすでにシャフトとメインコントロール室が制圧されてるらしい。潜水艇を使い、テロリストを装った米軍の一隊が侵入してきたのだ。さらにアンダーワールドへ手出ししてきたので、サブコントロール室へ籠城した菊岡氏たちの中から、明日奈が「応援」としてこちらに駆けつけた。紫が装置などを介在した安全なログインを行わずいきなりこちらへやって来たのは、神々の襲撃があって時間がなくなったからだろう。実際ぎりぎりだった。
キリトやアスナと違って、いまの妖夢たちはもし死ねば本当に死んでしまう危うい立場だ。でも妖夢は不思議なほどに不安を感じてない。
情報がまだまだ足りないが、紫が教えてくれる様子はない。すでに神々のちょっかいというイレギュラーが起きてしまったように、レミリアにすら読み切れてないのかもしれなかった。運命とは行き着くものであるのだから、途中経過はいくらでも逆説的に分岐する。神たちの来襲ですでにお先真っ暗、こうなれば行き当たりばったりだ! な心境なのかもと思っている。それに――諏訪子の話で思い出したが、能力には無効や反射もある。レミリアの運命視をごまかせる、または効かない能力をアメリカ側が手にしていたとしても不思議ではない。
もはや事は高次のコントロールから逸れてしまった。
むろん紫がそういう弱みを見せることはない。妖夢はうかつな性格だから、本当のところを知ってしまえばきっと周囲へ表情などとして漏らし、そこよりさらに広がり、人間の兵士たちを怖じ気づかせる危険がある。ひとりの剣士として戦いに参加するのが、妖夢にできる仕事のすべてだった。情報は必要なときになれば明かしてもらえるだろう。
考えてるうちに大門が完全に崩壊した。大地を揺るがせていた微振動が収まっていく。土煙がもうもうと立ちこめているが、ガレキが積もっている様子はない。ご丁寧なことに大門の欠片がつぎつぎと消滅するよう設定されていたのだ。
工兵の工事なしで、峡谷がきれいに開かれた。人界と暗黒界を分けていた果ての山脈に、創世記はじまって以来の通路が誕生する。
谷の向こうより昇る朝日を背景に、キーキーと野蛮な猛り声をあげながら亜人の集団が突入してきた。おそらく第一陣で、サイズの小ささからゴブリン族だろう。その後方からは巨人たちの群れが追っている。平均身長三・五メートルにも達するジャイアント族だ。妖夢は八幡神市でゴブリン族の霊を数えるほどしか見なかったし、ジャイアント族にいたっては話に聞いてるだけで今日が初見だった。ほかの町は知らないが、すくなくともゴブリンやジャイアントの「戦士」は大半が地獄行きになってしまうのだろう。それだけ性質が攻撃衝動や欲望へ偏った種族――
「妖夢、私たち妖怪は基本的に傍観者よ。まだ治療中でSTLから出せないキリトか、明日の歴史を握るアリス・ツーベルクが危なくなれば別だけど、敵はあくまでもアメリカの干渉。理由は分かるわね?」
さっそく紫が来た。やはり必要なときに情報をくれる方針みたいだ。
「今回は『異変』扱いしてませんよね……つまり私たちは『正義の味方』じゃないから、人間たちの争いを仲裁しない」
「天界・冥界・地獄の三霊界へ負担を押しつけて申しわけないけど、幻想郷そのものに被害が出てないから、最初から異変として定義できないの。純粋な幻想郷の利害のみで動くわ」
妖怪には独自の流儀がある。人間の信仰で成り立ってる神族ですら、自身の安全が関係しなければ人間の戦乱には不干渉だ。
「――正義面でしゃしゃりでて強引に平和にしたところで、私たちが去ったとたん内乱になるからですか?」
「珍しく正解ね。平和を押しつけたならしばらく安全を保障して面倒も見る責任が生じるけど、勤勉からほど遠く無責任な私たちは性質的に向いてないわ。それはもう破滅的なほどに」
「真面目といわれる私ですら、咲夜の忠実な仕事ぶりには遠く及びませんからね」
白玉楼は妖夢のほかに大勢の人魂が従事しているから、妖夢がおらずとも廻っている。対して紅魔館の庶務と運営はほとんど十六夜咲夜に頼り切っている。妖精メイドはあまり役に立たない。
「ほかに認識の差があるわ。藍がつぶさに観察してきたけど、アンダーワールド人は誇り高いのよ。その理由は彼らが『生の肉体』を持たない『純粋な精神生命体』だから。私たちが手を出せば人界軍の圧勝に終わるけど、それは暗黒界人の憎悪をかえって増幅させてしまうわ。アンダーワールド人の戦いはあくまでも当事者同士で決着を付けなければいけない。そうでなければ彼らは勝利を素直に喜べないし、また敗北を受け入れられない。納得できないの」
「八幡神市では白イウムと黒イウムがとくに争うことなく生活してました。いまのこの状況をみれば、とっても不思議な光景です」
「それこそ誇りゆえの行動ね。冥界送りになったアンダーワールド人に多いのが『郷にいれば郷に従え』志向よ。見えないところで小さな衝突が多々あるでしょうけど、妖夢には一切を見せてないの。尊敬すべき冥界屈指の剣豪、しかも一輪の小さな花を前にすれば、無理にでも紳士として振る舞い呉越同舟、酒を酌み交わすほどに仲良くする。それが彼らなりの倫理観のあらわれなの」
「面倒くさそうですが純粋な人たちですね」
「この戦いにしても、いくらラースの実験といっても当人たちは真剣よ。誇りと誇り、意地と意地、正義と正義のぶつかり合う最終戦争。たとえばあの鉄砲はね、この世界の時間でつい半年前までは影も形も存在しなかったのよ。以前の禁忌目録が民間での素因の合成――火薬の発明を禁止してたから。でもカデ子がキリトの協力を得て無理矢理に間に合わせたそうよ。私が妖夢たちを迎えに出て、帰ってきたらいきなり火縄銃。一〇〇年はかかりそうな技術革新をたった数ヶ月で成し遂げた。勝って生き残って、可能性へ足掻くためにね。幻想郷の介入を知りつつも、最大限の努力を怠らなかった。私がとっくに失ったものだから、とても美しいわ。それなのにガブリエル・ミラーのせいで掻き乱されようとしている」
「ガブリエル・ミラー。それがラストボスの名前ですか?」
「ミラーはただの軍人モドキよ、優秀で尊大な野心家にすぎないし、アリシアって少女の怨霊に取り憑かれている。やつは幼少のとき、魂を見たいがためだけに幼馴染みを殺してるのよ。そのアリシアがミラーの命数を吸い取って、枯死させようとしているわ。放置してても自滅の命運にある彼はどうでもいいの――たぶんやっかいな真のボス、見知らぬ黒幕がいるわ」
「神々の来襲ですね……」
「あそこにいたのは全員がこの一年ほどの間に眠りより目覚めた神よ。神族として新たな信仰を得なければいけない、または神威を示さねばならない。そういう微妙でデリケートな立場にある彼らをピンポイントで狙い、舌先三寸で動かしたズル賢いやつがいるわ。おそらくCIA――アメリカ中央情報局などを使って。アンダーワールドの実験は神の立場にたてば、理論展開しだいでいくらでもとんでもない愚行、神への挑戦だと思わせられるものだから。ラースだけでなく、幻想郷もどこまで悪人へと仕立てたのやら」
「でも実際、悪人ですよね」
裏ではいろいろと腹黒いことをやっている。妖夢自身もSAOへ復帰する活動で犯罪そのものをやらかしてきた。
「まあね。善人でいたら幻想郷なんかとっくに人間どもに食い尽くされてるわよ」
激しい戦闘が始まっていた。鉄砲の一斉射に醜悪なゴブリンどもが倒れていく。あれの中身が人間の魂そのものだと知っていても、妖夢の心は揺れない。戦争で人が死ぬのはあたりまえだし、彼らの少なからずは好きで戦場に来ている。それに死後の世界で生きてきた妖夢にとって、死は終わりではない。輪廻の中で状態が変わる過程のつながりである。和人が人間のまま生きて死んだとしても、コペルのように冥界なり天界なりで会えてしまえるのだ。妖夢の立場で死はまだ別れではない。妖夢がこだわるのは、和人がこの世で長生きできるかの一事だ。明日奈と結婚して幸せに生き、子をなして血を次世代へつなげる。それを見届けるのが妖夢の目標だ。明日奈が冗談で言ったことだが、和人の子孫へ恋をしてお婿さんに――ありえるから苦笑するしかない。女として未成熟の妖夢は和人の子を作れないが、その子孫となら話はべつである。
「放て!」
問題のキリトは整合騎士の義務として、砦の上で鉄砲発射を指示している。城壁に見えていたものはじつは土塁で、石が葺かれてるのは正面側だけだった。高さこそ四メートル足らずだが、奥行きが一〇メートルほどもあって、多くの兵士が上部に展開できる。織田鉄砲隊が武田軍を敗走せしめた長篠の戦い、そこで披露された三段撃ちがそのまま再現されている。前列が射撃してうしろへ移動、弾ごめをしてる間につぎが撃ち――これを三列で行う。何十秒もかかる火縄銃の射撃間隔を三分の一へ短縮できる。鉄砲隊は高さ二メートルもの格子状の柵で守られており、心理的な安心感はかなりのものだろう。ゴブリンから見れば、城壁のうえにさらに柵がある状態で、合わせて高さ六メートルの障害物となる。格子柵は飛び物に弱いから、矢避けの木盾が数メートル間隔で配置されていた。
「放て!」
黒服の騎士が号令するつど、耳をつんざく射撃音と煙がもうもうと立ちこめ、一〇〇から二〇〇メートル先にいる亜人どもがばたばたと倒れ、その命を散らせてゆく。だが整合騎士キリトにためらいはない。妖夢には分かる。キリトはこちらの世界ですでに人を殺めてしまったようだ。それも生き延びる必要から何人も。だから本当の戦闘に慣れてしまった。アンダーワールドの戦いはリアルそのものだ。ゴブリンたちは鉛玉が当たればそこより血を流し、内蔵をまき散らせながら倒れ、痛みにのたうち回り、そして死んでいく。ザ・シードとカーディナル・システムを採用しながら、SAOやALOとあまりにも違いすぎる。ペインアブソーバなど機能せず、死体はそのまま残っているし、火薬と血が混じった悪臭が砦に満ちていく。そこにはなんの配慮も保護もなく、ロマンのかけらもない戦いと、尊厳からほど遠い死があった。
妖夢は「死」へ慣れたキリトの変貌を残念だと思ったが、わずかばかりの嬉しさも抱いていた。自分とおなじ領域に踏み込んだ暗黒面の仲間だから――まったく不思議な感情だ。ろくでもない。三年間で重ねてきた経験と人界を守り抜きたい強い意志が、キリトに非情のセリフを言わせる。
「放て!」
みじかい発声ごとに、前列にいる一〇〇丁の火縄銃が一〇〇発の鉛玉を発射、一〇パーセントあまりが命中して一〇人前後の死傷者を戦果として積み重ねていく。鉄砲隊は五隊に分かれており、キリトが受け持つのは最右翼の五番隊だ。全体で五〇〇丁の銃が個々のタイミングで放たれる。それが三列だから一五〇〇丁、なかなかの数だった。妖夢たち幻想郷クラスタとアスナは、キリトの近くで彼の指揮を見物している。アメリカ的なものが蠢動すれば出動だ。
ゴブリン兵団七〇〇〇余は紫が予見したとおり、殺到する破壊へ死を怖れない熱狂でぶちあたってきた。どれだけ殺されようが構わず突撃しつづける。味方の死体を乗り越え、あるいは担ぎ上げて盾とし、じわじわと接近してきた。ワンサイドゲームなのに退く様子もないのは、数百年の怨念がそれだけ深いからだろう。暗黒界は人界に一〇倍する版図を持ちながら、総人口で並ばれている。大地の恵みはもとより、平均寿命から社会制度にはじまり、文化の洗練度まで人界のほうが上。住人の容姿も平均すれば人界のほうが優れている。ここまで格差があれば人界人を残らず屈服させ、その全土を支配せねば収まらない。人界人がなにかしたわけではなく、手が届く範囲に桃源郷がある事実と状態がいけなかったのだ。人界側もその豊かさを暗黒界へ還元しなかった。そもそも武器を手に襲いかかってくる連中に恵んでやるなど無理な話だが、これはラースが亜人に施した邪悪な調整が両界の協調を阻んでいたのだ。
奪え! 殺せ! 支配せよ!
豊穣ある人界の大地を手にすれば、暗黒界人の生活は劇的に改善される――だが最終テストの終わったアンダーワールドをラースが維持するだろうか? それを考えるのはあとだ。アメリカに勝つのが先決だから。リアルから干渉せずこちら側で行動するのにも、紫なりの思惑と意味があるのだろう。それと冥界の盟主・幽々子が来た理由も。
「……幽々子さま大変です、ゴブリンたちが鉄砲の死角に入っちゃいそうです」
土塁に近づくほど段差で狙いにくくなる。おそらく敵もそれを期待している。
幽々子がおにぎりをもりもり食べながら指で正面やや下を示した。
「もぐもぐ……地形をよくご覧なさい、やつらは自分から当たりに行くわ……もぐもぐ」
「あっ、すこし盛ってますね。ていうか幽々子さま、こんなときによく胃に物が入りますね」
最初からスプラッタが予想されてたので、なにも食べてない兵士も多い。整合騎士を除けば老いも若きも全員が初陣で、人を殺すのも初めてだ。
土塁まで五〇メートルを切った地点で、ゴブリンたちは緩いのぼり傾斜へ差し掛かった。それは彼らの足をすこし鈍らせ、また銃口へ無防備な肉体をさらけ出す結果しか生じなかった。一斉射が轟けば、煙が風で流れていく先に血と肉の塊が累々と転がっている。火縄銃は有効射程こそ短いが、弾が大きいので騎士のフルプレートアーマーすら貫通できる。命中率の高い近距離ほど破壊力を加速度的に増大させるのだ。
死体を量産しながらもかろうじて傾斜を突破しても、ゴブリンたちは報われない。いきなり奈落へまっさかさまだ。
深さ五~六メートルの空堀があって、亜人たちがつぎつぎと絶望の穴へと転がり落ちていく。その数が一〇〇の大台に達したところで、騎士のひとりが片手を天へ伸ばした。
「システム・コール! ジェネレート・サーマル・エレメント!」
角度が急すぎて鉄砲では狙いにくいが、かわりのものを使えば済む。
彼へ追従するように整合騎士たちが攻撃魔法をとなえると、火炎や突風や氷雪、ときに雷鳴が轟いた。整合騎士はすぐれた剣士であると同時に、高度な術も操る魔法戦士であるようだ。全員がそうであるとは限らないが、すくなくとも何人かは間違いなく両道を修めている。
熾烈にして容赦のない魔法攻撃が終われば、堀の底で生きている者はなにひとついなかった。完全な全滅である。幸いにしてキリトはこのオーバーキルに参加しなかった。そんなことで胸ときめく頭のおかしい妖夢である。殺しを知った彼氏に親近感を持ちながら、同時にできるだけ潔癖でいて欲しい。戦争の真っ最中なのに正反対の矛盾を求めており、その異常さに自己嫌悪でしゅんとなった。
ゴブリンどもは似たような波状突撃を三度繰り返し、三回ともおなじように退けられた。その間に追い付いたジャイアント族が一〇〇〇人まとまって谷の中心を突き進み、弾幕をものともせず突貫してくる。子供くらいの体格しかないゴブリンは鉛の塊ひとつで動けなくなるが、体高三メートル以上、体重一~二トンに達するジャイアントは被弾しても動けるなら痛みを無視してなお歩みつづける。人間よりはるかにタフな肉体と筋肉を持っており、しかも横に広がるのでなく縦に並んでるから、火縄銃ではなかなか食い止められない。巨人たちが持つ戦槌は人の頭ほどの大きさがあり、あんなのを食らえば人界人なんてミンチのように潰れてしまう。
兵士たちに余裕がなくなってきて、弾ごめに失敗し不発を起こす者が続出した。
「焦るな! ジャイアントは私たち整合騎士が始末するわ! おまえたちは落ち着いてゴブリンを撃て!」
薄紫色の鎧を着た女性整合騎士が全軍に届くほどの大声で叫ぶと、監視用の物見櫓を駆け上る。遮るものがなくなった高台で神聖魔法の詠唱へ入った――
「システム・コール! エンハンス・アーマメント! ――……――リリース・リコレクション!」
途中で高速詠唱が入った長い術式だったが、起きた現象は劇的だった。
彼女の持つ銀色の長剣が、まばゆく輝いた。まるで戦場に出現した太陽のように。狭い谷底に集光された剣の先がふるえ、一条の熱線が灯台の光のように巨人の列を襲った。
レーザービームだった。太さは直径一〇センチ以上あるだろう。
ジャイアントたちがバタバタと倒れていく。おそるべき貫通力で、たった一撃で三〇人は倒してしまった。ほとんどが即死だろう。
女騎士の剣がまた震えて光を溜める。つづけての一撃も巨人へ――まったく向かわず、あさっての方角へ放たれ、谷の崖を穿った。その後も物騒すぎるレーザービームはあっちこっちへどかどか破壊しまくってる。彼女の正面にいた鉄砲隊は逃げてしまった。
「……くそっ。こんなときに暴れないでよ! 意に従え天穿剣! 我が名はファナティオ・シンセシス・ツーである! まっすぐ突き刺され~~! 私たちの世界へ明日を! ベルクーリ閣下とまだ半年しか暮らしてないのよ!」
ファナティオが最後に解き放った言葉へ反応するように、ひときわ剣がまぶしく煌めいた。
「貫け、光!」
それから剣は振動しなかった。暴れ馬が嘘のように大人しく固まったまま、彼女の思う方角へ殺人光線を発射していく。それはひたすらに正面、ただ巨人たちの胸へ、頭へ。当たれば確実に死ぬ箇所を執拗に狙っていく。ジャイアントも左右へ拡散しはじめたが、ファナティオは攻撃の手を緩めない。
「副騎士長だけでは負担も大きかろう。熾焔弓デュソルバート参る! リリース・リコレクション!」
「幻想郷のお客人、アリス様の記憶を届けてくださったこと、心より感謝します。我らが神器の支配術を照覧あれ――霜鱗鞭の使い手エルドリエである! リリース・リコレクション!」
遠距離攻撃を得意とするらしい整合騎士が、各自の武器から派手な攻撃を解き放っていく。炎の矢を放つ弓、七つに分かれてどこまでも伸びていく無限の鞭。分散した巨人たちを着実に刈り取っていった。
整合騎士たちの活躍に戦意を取り戻した鉄砲隊が、元の三段撃ちペースを回復していく。
およそ一〇〇〇人いた巨人が、ついに一人残らず戦場に倒れた。まだ生きている者もいるようだが、起き上がれない以上はもはや敵ではない。
――と、戦場の半分がいきなり白煙に包まれた。
敵右翼のゴブリンたちが煙幕弾と思われるものを投げて、煙をバックに撤退へと移っていた。我先に逃げだしており、総崩れである。
部隊の半分が消えたとたん、のこったゴブリンたちの動きから積極性が消えた。がむしゃらな特攻を控え、味方の死体や盾に身を隠し、弓矢や投げ槍をいまさらのように使い始める。だが火力の差は圧倒などというレベルではなく、なんとも無駄な儚い抵抗だ。
「すでに遅すぎますけど、ようやく軍勢らしくなりましたねあのゴブリンさんたち。幽々子さまはどう思います?」
幽々子が扇子で顔を扇いでいる。火薬の使いすぎで気温が上昇している。
「どうやら部族が違うようね。敵の総司令官がライバルを競わせてたのよ。かえって被害を増大させる結果に終わったけど、やり方は間違ってないわ」
「よくある目論見違――」
前触れもなく前方で白銀の大爆発が起きた。
呑気な妖夢のセリフが遮られ、言おうとしてたつづきも頭の中より抹消された。大門のあった奥、高度数百メートルの空間が、赤茶色の煙で濁っていた。峡谷全体が血煙に埋め尽くされ、破壊の規模を物語っている。ちっちゃな塊がたくさんヒラヒラと下へ落ちており、逃げる最中だったゴブリンどもが大混乱に陥っていた。人間なら遠すぎてなにか分からないだろうが、妖怪の高い視力で妖夢には見えた。
「……ワイバーン? ガーゴイル? あんなのに何百匹と奇襲されたらやっかいなことになってました」
正体を知らない魔法的な動物の残骸だ。翼の生えたなにか。おそらく暗黒界軍の秘匿兵器だろう。人界軍にも後方に整合騎士の飛竜隊が控えており、アリスとユージオの新米カップルもそちらで出番を待っている。
人界軍より勝ち鬨があがった。
「――ベルクーリのおっさん、やるなぁ」
キリトが技の正体を知ってるようだった。ベルクーリといえば妖夢がまだ姿を見たことのない凄腕の整合騎士、この世界で一番強い男だ。騎士団長で軍の総司令官だから、後方の本陣にいる。彼氏に聞きたいけど次の「放て」が間近なので無理だった。キリトは鉄砲発射の合図を取っている。
妖夢の顔色を読んだ紫が代わりに教えてくれた。
「さっきから整合騎士たちが見せてる大技は、武装完全支配術というのよ。武器の持つ由来、彼らは記憶と呼んでるけど、それを解き放つ技よ。心意の一種ね」
キリトが剣を振り下ろす。
「放て!」
すっかり聞き慣れた多重の破裂音と、それにつづく硝煙。これで次の射撃まで大丈夫だ。
「キリトも使えるんですか、武装なんとかの心意」
「使えるけど、この剣が巨木のこずえに戻ったのを振り回す大雑把なモンだぞ」
「……戻った? 巨木?」
キリトが黒い刀身を手でなぞる。
「夜空の剣はギガスシダーって大木の先っちょから鍛えたんだよ」
木が神器級とかの特別な剣になる……SAO時代を思い出した。ファンタジー系ゲームのアイテムは、リアルの感覚で考えてはいけない。妖夢が知る実在の武器は、伝説であろうかなかろうが、どれも鉄や鋼など伝統的な手法と製法で作られる。後付けで特殊能力が付加されることが多いので、著名な剣には平凡で地味な銘も多い。最初から名刀として作られる剣はない。その剣が辿った歴史が剣に能力と想いを与える。
こちらのアイテムはゲームみたいなノリで作ってしまうよう――なに?
なにか恐ろしいものが来る!
妖夢の半霊レーダーに、視界の外、はるか前方で射出された暴虐の気配が捉えられた。
飛行する魔法生物の群れにすら気付かなかったのに、こちらは察知できた。生来が間抜けだが真面目でもある妖夢。すぐ油断するくせに実戦で死んだことはない。意味不明な表現だが、つねに命を危険へ晒す仕事をしてるからそう述べるしかない。戦士として戦場で油断など言語道断でありえないのに、気を緩める愚行をして許されるのが、妖夢という女の子の特性だ。それは「身の危険が高いほど勘が冴え渡る」体質で支えられていた。もっともこれは達人と呼ばれる人種にあるていど共通するものだ。四六時中気を張ってるようではいざというとき実力を出せない。緩急を知ってるからこそ負けてはいけないときに勝利を手にし、達人たり得るのだ。なぜなら達人とは人から呼ばれるものであって、名乗るものではない。結果を出せる者にだけ許される称号だ。
つまりあちらにとって秘密兵器だったものは、達人の妖夢には腕馴らしていどで倒せる雑魚にすぎなかったのだ。だが今度のは違う。「着弾」を許せば人界軍は壊滅的な被害を受けるだろう。これこそが紫を怒らせる「余計」なもの。
「妖夢、なにか来るのね――許可するわ。迎撃しなさい」
「はいっ!」
賢者の命令で楼観剣を抜いて空を飛ぶ。時間がない。超高速で理不尽が迫っていた。
迷ってる暇はないので、この技を使う。ぴったりの名前と威力だ。
断迷剣・迷津慈航斬。
霊力と妖力で一〇倍にも巨大化させた楼観の刃を振りかぶり、一挙に砦の前方へ飛翔する。一〇〇メートル以上は突出して停止、足下にゴブリンや巨人の死体が折り重なってる地獄絵図の上空で、タイミングを合わせてあの世への慈航を振り下ろした。
氷のように透徹した輝き、破邪の太刀。
妖夢がその飛来するものを視認できたのは、攻撃が当たるゼロコンマ秒の寸前だった。
ミサイル!
たしかな手応えを感じたつぎの瞬間には、灼熱の爆炎に包まれていた。とっさに目を閉じ息を止める。
見えない高速飛行体の軌道を完全予測し、ピンポイントで斬り捨てるなど、この場では魂魄妖夢にしかできない神の技だ。半霊という妖怪の能力に、人間を起源とした剣術の絶技がブレンドされている。
また新たなる理不尽の気配が遠来してきた。つぎのミサイルだろう。
『迎撃は私と人形遣いが受け持つわ――妖夢、それと幽々子。潰してきて』
まだ熱と噴煙の渦中にいる妖夢へ、念話による紫の指令が届く。人間なら鼓膜がやぶれるどころか四肢が飛散して確実に死んでいるが、妖怪の妖夢には関係なく五体無事、緑色のかわいい洋服も妖力による金剛の保護で無傷だ。
爆発の煙より抜けて振り向けば、人界軍の陣地に体高六~七メートルの巨大なメイド人形が何体か姿をあらわし、のっしのしと歩いている。アリス・マーガトロイドが召喚したゴリアテ人形だ。五メートル近い大剣や一〇メートルもの巨槍を握り、やってやんよと「えいえいおー」のポーズを取った。その上空では紫が浮かんですでに魔法陣を背負っている。神話時代の銅鏡みたいな古代風の紋様と、雪の結晶を合体させたような独特のもので、八角形の花。
「なにしてるの妖夢。さっさと行くわよ」
真横に長年付き従ってきたご主人が浮かんでいた。
「幽々子さまとの連携は久しぶりですね。楽しい破壊の宴になりそうです」
「私と妖夢が力を合わせたら、神奈子と諏訪子の旦那さんにも勝てるわよ。現代兵器なんか敵じゃないわ」
曳航とすれ違ったが無視。砦のほうで紅蓮があがるも、紫の弾幕結界が防いでいた。ミサイルの破壊力は人界軍へまったく届かず、飛び散る破片と爆風が真下にいるゴブリンたちを襲っている。後方の守りは大丈夫だ。
白玉楼の主従が、光の粒となって闇の彼方へ飛んでいく。
※いきなりアンダーワールド大戦編
原作のアリシゼーション編があまりにも長すぎ大胆にカット。