〇五 結:フロントランナー

小説
ソード妖夢オンライン1/〇一 〇二 〇三 〇四 〇五 〇六

 西暦二〇二二年一一月一二日、早朝。
 デスゲーム開始よりちょうど一週間目である。
 指定された中央の噴水広場に一八人が集まった。誰一人として欠けていない。これより第一層のラストボスに挑むのだという事実に、緊張と戦意をみなぎらせている。
 昨日は迷宮区でレベリングに専念した。パーティーごとに数階ずつ割り当て、範囲ごとのリソースを完全に独占することで、効率の良いレベルアップと宝箱アイテムの回収に集中した。人数の多いグループほど割り当ても広くなり、おかげで一番レベルの低かった河城にとりもクラインたちの協力で五から一気に八へとアップした。一九階以上を割り振られた妖夢とキリトはもっとも経験値を多く獲得したにも関わらずいずれも一一止まりで、第一層での効率限界を感じはじめている。参加予定メンバーはおおむね八から九。ディアベルと犬走椛がレベル一〇に到達している。
 レベルは十分、迷宮区で人型モンスター相手の戦闘経験も得た。昨日のうちに勝算の高い作戦も立てている。これでコボルトロードとの戦闘準備は整ったはずである。
「俺たちがこの少人数でボスを倒せば、きっと皆の希望になるはずだ! コボルトロードを退け、第二層へ抜ける! この世界がただ外側からの解決を待ち、死に怯える精神の牢獄などではなく、あるべき手順さえ踏めば自力で脱出可能な、ちゃんと攻略できるゲームにすぎないのだということを、俺たちハイレベルプレイヤーには証明してみせる義務がある。フィールドで戦っている後発組や、はじまりの街に留まっている人たちを、鼓舞してあげるんだ。みんな……勝とうぜ!」
 ディアベルの力強い抱負に、拍手と同時に(とき)の声もあがった。ディアベルの髪が鮮やかな青色に変わっている。鎧の下の衣装もいまや青系統が中心だ。ブルーを自分のカラーとして据えた青い騎士は、いかにもファンタジー世界の英雄のような雰囲気を纏いつつある。
「……グッジョブ」
 キリトは自分に足りない物を多く持っているディアベルに共感し、その気質を高く評価しているようだ。妖夢にしてみれば半ば強引に先を急ぐような無茶を、適当に言い換えて正当化してるだけのような気もする。強力なダメージディーラーである妖夢やキリトがいないと、死者を覚悟の大苦戦は避けられないだろう。もっとも人より半歩でも強くあり、一歩は先んじておきたいコアゲーマーの本性は、大小あれど似通ったものだし、耳触りの良い表現と陶酔によって実力を最大限に引き出せるなら、それもありかなと思っている。それに妖夢は当初、キリトとふたりで一万人をことごとく出し抜いてやろうと大胆なことを企み、無謀がすぎてコボルトロードに跳ね返されたわけだから、あまり人のことは言えないなと、すぐに自省もした。ただ心配があるとすれば、さらにほかの集団が合流してきた場合、面倒になりかねないことだ。
 ――妖夢の心配どおり、細部のルール確認をしている最中に、不安が的中してしまった。二日ぶりに新たなパーティーがトールバーナへ到達したのだ。六人編成で、全員が男性だ。いやむしろこれが普通だった。女性のほぼ全員がいまだ、はじまりの街に留まっているだろう。最初期の段階で動こうと決めた連中は元ベータテスターを中心に一〇〇〇人ほどだろうが、その九割九分が男性にちがいない。たいした葛藤もなく本能的な恐怖をさっさと超克してしまう、異変慣れした幻想郷メンバーの精神力こそが異質なのである。さらに圧倒的な剣術も伴う妖夢に至っては、緊張感も適度に、SAOライフを心より楽しんでいる始末だ。
「わいはキバオウっていうもんや。ボスぶち殺しに行くってんなら、ぜひ参加させてくれへんか」
 パーティーリーダーは、がっちりした体格と奇妙なサボテン頭髪をもつ、二〇代半ばほどの男性だった。あちこち引っ越しを繰り返したような、独特の関西弁でしゃべる。名前の割にあまり強そうには見えず、どちらかというとキバオウの脇で副官のように控えている、背が高いスキンヘッド異人さんのほうが、よほどリーダーと言われて納得できる。
 対応はディアベルである。
「キバオウさん。失礼だが、きみたちのレベルはいくつだい」
「四から五やけど、それがどないしたんや」
 ディアベルの美声と対照的な濁声が、力強く男性的な野生を主張している。顔もいかつくて、妖夢にとっては苦手とするタイプだ。背中を預けるパートナーに女顔のキリトを選んだように、友達感覚で接することの出来る女性的な側面がないと、なかなか厳しい。
「……すまないが、それでは危険すぎる。俺たちは全員が八以上だ」
「せやったら、わいのパーティーが成長するまで、攻略を待ってくれへんか。こんボス討伐隊、見たトコ女だらけやないかい。男手もっと欲しいんちゃうか?」
「悪いが俺たちは二日かけて入念に準備を整えてきた。勝てる作戦も練っている。経験値効率も悪くなってきているし、いまさら待つなんて出来ない。もちろん俺たちの攻略が一度で成功するとは限らない。その際は再戦時にキバオウさんのパーティーも参加すればいい」
 キバオウはしかし頑として同行を求めてきた。話し合いは意外に一〇分以上もつづいた。妖夢だけでなくほとんど全員がうんざりしたころ、あまりの熱心さに、ついにディアベルが折れた。
「わかった。いざというときの穴埋め……リザーブ要員として連れて行こう。ただしボス戦そのものには基本的に参加できないと考えてくれ。きみたちのレベルでは、コボルトロードにあっというまに殺されてしまう。良くても取り巻きの相手だけだ」
「まるで戦ってきたみたいやな」
「そこのふたりが、実際に偵察戦……どころではない、見事な挑戦をしてくれたんだ」
 いきなり紹介されて緊張する妖夢とキリト。
「こんガキどもが? ――って、長野はん……やのうて、ヨウムはんやん!」
 妖夢は喜色満面へと大変化したキバオウに手を握られた。ぶんぶんと上下に強く振られる。
「はじまりの街ではおおきにな。おかげでわい、こうしてベータあがりどもに負けんでここまでぽんぽん強うなって来られたで。最前線は気持ちええわ」
 鼻息の荒さに閉口する妖夢。鼻毛を見せるなサボテン野郎、切り刻むぞ。キリトの鼻はとってもキレイで可愛い。鼻毛も見えない。
「あのう……私、あなたとは初対面なんですが」
「なにいうてはるんやヨウムはん。わいとあんたとの仲やん。いろいろリーダー職のありかた、ものごっつアドバイスしてくれはったやろ。あ、しもうたわ。あんノッポ男の牙王はもうおらんかったな。これがわいの素顔やで。ずいぶん背はちっこなったけど、なかなか男前やろ?」
 同郷の友人みたいに気さくだ。短時間で誰とでもこれほど仲良くなれる妖夢の知り合いといえば、クラインに、あとは一人しかいない。そもそも妖夢の姿と名前を無断で拝借していたのは、そいつだ。
「……ま~~り~~さ~~」
「だってキバオウのやつ、いまのディアベルほどじゃないけど、香霖(こうりん)みたいな優男で、なかなか格好良かったんだぜ。中身がそんなチビで短足のイガグリサボテンだって知ってたら、絶対に相手しなかった」
「問答無用よ悪即斬!」
 魔理沙は脱兎のごとく逃げた。全力で追いかける妖夢。当然すぐ捕まえた。頭ぐりぐり、こめかみぐりぐり。
「……ほかに変なことしてませんよね、魔理沙?」
「ろ、ロザリアだったかな? 楽してお金が欲しいって言ってた姐さんキャラにちょいと、ボロい商売のやりかたというか、悪党系プレイにふさわしい面白い金の稼ぎ方をな? レクチャーしたくらいだ」
「ほかには?」
「…………」
「ほかには?」
「たくさんの男に囲まれて握手とかしてたわよ」
 にとりだ。
「裏切ったな河童っぱ」
「あのとき私が男たちから声掛けられまくって困ってたのに、ずっと放置してた~~」
「で、なにやっちゃったんです、魔理沙?」
「……長野ちゃんサイン会を、ほんの小半時ほど」
 妖夢のほほが、ひくひくっと怖ろしげに震えた。
「まままま、まさか、私の本名で書かなかったでしょうね?」
「私を誰だと思っている。ちゃんと片仮名で書いたさ。ヨウムと」
「し・け・い♪」
「なんなのぜ~~!」
 数分で終わらせるつもりだった頭ぐりぐりの刑を、一五分に延長してあげた。もちろんフィールドを行進しながら。
 ――迷宮区へ入っても、キバオウはレクチャーしてくれた魔理沙へしつこく話しかけている。その内容はいかに自分がエギルやゴドフリー&クラディール&コーバッツ&ヒースクリフといった優秀な仲間を集め、ここまで来たのかという冒険譚であったが、自慢話と演出過剰で、魔理沙はうんざりしてる様子だった。先頭をゆくディアベルが時折、魔理沙とサボテン頭を気に掛けている。エギルと名乗った日本語の流暢な黒人大男が、たびたびキバオウに注意している。キバオウのパーティーは、暴走しがちなリーダーと、冷静なサブリーダーによって、かろうじて回っているようだった。
 解放された妖夢はすっきりしていた。キバオウパーティーは平均年齢が高いうえ、悪くいえば全員が変わっていて、なんというか、濃い。キバオウは二〇代半ばの妙ちくりんなおっさんだし、エギルは迫力のある顔ながら気さくで愉快な異人。この黒人さんの年齢はクラインと同程度だろう。最高齢のゴドフリーはアゴ髭と頬ヒゲともみあげが繋がっており、顔を一周してタテガミに見える。岩のようなライオン顔の三十路が、ずっと豪放に笑っているのが面白い。痩身長髪のクラディールはキバオウとおなじくらいの年齢だろうが、耽美系というかオカマ系というか、発散している雰囲気がやや陰湿めいている。コーバッツはひたすら直実そうな体育会系の空気を、色濃く漂わせている、強面で三〇歳前後。まるで軍人だ。最後のヒースクリフはほとんどしゃべらない無口な男だが、その目には高い知性を隠しているようにも見え、剣士というよりは学者の印象が強い。ホワイトブロンドの長髪をうしろにまとめた彼にはやや年齢不詳めいたところがあり、二三歳から二八歳といったところだろう。
 迷宮区の戦闘は、経験値目的というよりも人型モンスターとの経験をより積ませる意味で、クラインパーティーやディアベルパーティーが担った。妖夢やキリトはすでに十分な戦闘経験を積んでいるし、ほかの女性陣は強くなることにあまり執着がないようだった。キバオウたちも出てきた敵が一匹であれば戦闘に参加してきたが、倒すまでに時間がかかり、ダメージも大きく、やはりレベル四~五ていどでは厳しいようだった。
 妖夢が感心したのは、魔理沙がクラインに伝授した独特の戦い方であった。クラインパーティーは六人が横一列できれいに並び、陣形を維持しつつ戦い、最後には包囲殲滅へと収束する軍隊式の戦術を基本としていた。スイッチも横一列のままで行う、変わった方法だ。キリトによればウィッチ・マリサがベータ時代にボス戦でも使っていた戦術で、戦闘へ同時に参加できる人数が増え、簡単にはうしろを取られないという。横方向にプレイヤーが密集しているので、使えるソードスキルは縦斬りないし刺突系が中心となるが、乱戦になりにくいぶん安心して戦え、精神的な負担は小さいらしい。たまに二人が陣形より離れ、迂回して後方より突く挟撃戦術を行っており、カナ・トコと呼んでいた。ほかにも三人ずつふたつに分かれ、敵のターゲットを散々翻弄しておいてサンドイッチのように同時挟撃するブン・ゴウがある。段階的に「カナ!」「トコ!」とか「ブン!」「ゴウ!」とクラインが号令を発しており、なかなか様になっている。
「カナトコはアレクサンダー大王やハンニバル将軍が得意とした鎚と金床戦術、ブンゴウはナポレオン時代に流行っていた分進合撃戦術から来ているな」
 キリトの意外な博識に、妖夢はすこし見直した。
「すごいですキリト。私、クラインたちがなにをやってるのか、理屈的にはさっぱりなんです」
 調子に乗ったキリトがウンチクを垂れる。
「ちなみにナポレオン・ボナパルトは分進合撃を破って皇帝にまで登り詰め、分進合撃に負けて破滅したんだ」
「ふんふん。それでそれで?」
「鎚と金床のほうだと、ハンニバル将軍のカンナエ殲滅戦が有名だな……かなり長くなるがいいかい?」
「じゃあいいです」
 いまもクラインが第三の機動戦術を披露していた。
「ツリ!」
 クラインのかけ声により四匹のコボルトへと、ハリー・ワンとダイナムがわざと突出した。このふたりは盾を持っているので、少数でも多数を支えられる。
「ノブ!」
 第二のかけ声で、ふたりは一転して何メートルも下がってきた。コボルトどもが能なく追ってくる。後方のクラインたちも左右に分かれた。コボルトが反応しないていどに距離を置きつつ回り込む。
「セリ!」
 のこった四人が一気に左右より挟み込んだ。きれいに包囲してしまう。こうなると、あとは一方的に料理するだけだ。
「ツリ・ノブ・セリ? なんて理に(かな)った戦いかたなんでしょう」
「きっと元ネタは島津家の釣り野伏せだな。囮で釣り、伏兵で粉砕する、九州を制覇したお家芸だ。いくつかの戦いでは罠にかかった部隊が殲滅され、ほとんど生還者が出なかった。当時の戦死率を考えれば、えげつない戦術だよ。罠と気付いた武将がいても、勝ってると勘違いした状態から退かせるなんて、至難の業だ。それに連れ戻しにいったが最後、仲良くあの世行きだしな」
 妖夢は先行したキリトを追いかけ、いっしょに付いていった初日を思い出した。もし相手がプログラムのモンスターではなく、人間の構築した罠であったなら、たとえばモンスターがリトルネペントでなく上位のラージネペントで、一〇〇体単位で出現すれば、いかな妖夢といえども、キリトともども死んでいただろう。
「うわあ。戦国時代に生まれなくて良かった」
 バランスが重視され限度の存在するゲームであるから、いまも無事でいられるのだ。仁義なき時代と比べたらSAOのデスゲームはまだまだ生ぬるい。
 クラインの戦い方には本の虫である魔理沙の知識オタクぶりが発揮されている。というよりは、歴史オタクで固められたクラインとその仲間だから受け入れられる集団戦の手筈だろう。駒となって個を見事に捨てているが、歴史ファンゆえにかえって個人主義の産物ともいえた。歴史的な戦術を集団で勇壮に再現するという、個人の満足と達成感が結束となりクラインパーティーの強さを支えている。
 これらの戦術を伝授したマリサこと霧雨魔理沙は戦闘に参加するでもなく、ときどき鬱陶しいキバオウに話しかけられながら後方よりのんびり付いてくる。魔理沙の武器は両手用斧槍に変わっている。ほかに投剣が数本。魔理沙の隣にはずっとアバター名ニトリこと河城にとりがいる。彼女の武器は戦槌と盾だ。新聞記者のアヤヤこと射命丸文は両手用突撃槍、助手のメイプルこと犬走椛は曲刀と盾。ディアベルパーティーに所属して戦闘へ参加しつづけているルナーこと蓬莱山輝夜は細剣のみで盾なし、輝夜のお伴であるハッピーラビットこと因幡てゐも短剣だけ。これらが魂魄妖夢以外の幻想郷組の基本装備であった。防具に関しては全員が革メインで軽装気味だが、妖夢は防具をなにも付けておらず、完全にプライベート着で通している。因幡てゐをはじめ、見た目のオシャレ重視はほかの子にもいえた。魔理沙とにとりはごく無難にファンタジー系のチョイスだが、占い師プレイヤー用の魔法使い帽子と、おなじく情報プレイヤー用のキャスケット帽が目立つ。幻想郷クラスタが防具を軽視し素早さや外見を優先しがちなのには理由があり、それは幻想郷独特の決闘方法、スペルカードルールに起因していた。
 数時間後の午後一時。
 攻略隊二四人は、ボス部屋の前に到着した。
     *        *
 最前線プレイヤー中にあっておもに男性陣よりカリスマを獲得しつつあるイケメン、青い騎士ことナイト・ディアベルが、床に剣を突き立てて皆を見回した。キリトと違い、衆目を集めるほどに輝きを増してゆく男である。仲間たちをその気にさせるディアベルの話術と掌握術にはたしかなものがあり、指揮官クラスのプレイヤーとして、貴重な素質を有しているようだった。あとはコボルトロードを倒し、最初の実績を履歴へと記せば、名リーダーとしての評価を確固たるものにできるだろう。
「聞いてくれみんな。たったいまサーバのログイン総数を参照したら、ちょうど九五〇〇人だった。つまりおよそ五〇〇人が死んだことになる。あの悪夢のチュートリアル前に二〇〇人が不幸にも亡くなっているから、初日を除いたわずか六日で三〇〇人だ。だから俺からの命令はひとつ――」
 全員の気が引き締まるのを確認して、ガッツポーズを作ってディアベルは宣言する。
「死ぬな! 茅場晶彦のキチガイ野郎に負けるな!」
 雄叫びとおなじくガッツポーズで、皆はナイトに応えた。
『おおっ!』
 妖夢は軽い違和感を覚えた。声が一人だけ、感情を込めていなかった。誰だろう――キバオウパーティーのほうから聞こえた気がする。おなじことに、こういったことに鋭い射命丸文も気付いたようである。ちらちらとキバオウたちを検分している。その視線は、ヒースクリフ? 茅場晶彦への罵倒に反応しているとか?
「アイテム分配はどうする?」
 空気を読まない無神経さで、魔理沙がディアベルに聞いてきた。そういえば肝心なことなのに、決めていなかった。それを話そうとしたところで、キバオウ一行がやってきたからだ。
「単純に手に入れた者のものとする。これでいいかな」
「LAのご褒美もあるぜ?」
 妖夢もキリトに教えて貰ったが、ラストアタックの略だ。ボスへ最後に攻撃を当てトドメを刺したプレイヤーには、システム的にボーナスアイテムが贈られる。それへさらに人為的な褒美をプラスしようというらしい。
「そうだな……」
 ディアベルは考え込んでいた。魔理沙とキバオウへ視線を泳がせる。
 青髪の騎士は、髪をさっと手で梳いて、決定を伝えた。
「ラストアタックを取った者は、誰でも好きな人の、女神のキスをもらえる――これでどうかな?」
 ディアベルの頬には朱が差しており、彼の視線はまっすぐ、かつ熱く、魔理沙へと注がれていた。
「……はい?」
 魔理沙が自分で自分を指さして、首を傾げた。慌ててそこより、何歩か移動するが、ディアベルの視線がついてゆく。逃げ回ってみたが、追従する。
「なるほどですね」
 妖夢は不自然なように思えたディアベルの視線が持つ意味を理解した。青の騎士はウィッチをライバルとしてではなく、異性として意識するようになったのだ。おそらくベータ時代から気にはなっていたのだろう。女性だと確定すれば、競争心が恋心へと変じるのに、時間は必要なかった。
 レベル一〇のディアベルはLAを取る可能性があるが、レベル四ないし五のキバオウは万が一にもない。それゆえの提案。
 無自覚なうちに罪作りな女だ。霧雨魔理沙。
 何回か目線のおっかけっこを繰り返して、おなじ結論に達したらしく、魔理沙の顔が瞬間的にトマトのように熟れた。
「わかったぜ! ただし条件は私たち女性陣もおなじだからな!」
 男たちより一斉に、口笛や囃し立てがおきた。魔理沙はいつのまにか女性プレイヤーの代表みたくなっているので、魔理沙さえOKすれば了解と同義になる。ただほかの女子は妖夢も含め、多くが無表情だ。まるで景品みたいに扱われる気がして、こういうことには冷淡なのだ。ただ男連中でも反応しなかった感心な人がふたりいて、一人目がまたもやヒースクリフ。それを見た文がメモを開いて、ペンを手になにか書いている。鴉天狗の取材レーダーに引っかかるものを、この学者みたいな剣士は持っているらしい。妖夢の二〇倍は生きており、日々たくさんの人と接する射命丸文は、尋常ならざる人間観察力を誇る。無反応だった男子の二人目は妖夢の横にいるキリトだが、なにか考えているのか、視線を下に向けていた。
 湯気を立てながら魔理沙が金髪をいきおいよく揺らし、妖夢をぴしりと指名した。
「みょん!」
 突然振られて、戸惑う妖夢。
「およ? 私?」
「厳命だぜ。コボルトロードの首級は絶対に取れよ!」
 ディアベルは力強く首肯した。
「それくらいの障壁、乗り越えてみせる」
「よ~~し、言質だぜ! 男ならあとで違ってましたなんて誤魔化すなよ?」
 意気込む魔理沙であったが、こんどは妖夢が困惑する番であった。横にいるキリトがいつのまにか、妖夢に注目していたからだ。もしキリトがコボルトロードを倒せば、妖夢を指命する可能性が高い。しかるべき候補がほかにいないからだ。それは逆に、妖夢にも同様のことが言えた。コンビを組んでいる立場上、人がたくさんいる前で、キリト以外の男子を選ぶ理由がまったくな――
「なあ、みょん」
 思考のさなかに話しかけられて。
「は、はひぃ」
 なぜか裏声の混じった、おかしな返事となった。
「ベータ時代のLAボーナスは、つぎの層の街開きだったんだ」
「街……開き?」
 まったく違う。うかつにも自意識過剰だったようだと、反省する妖夢。
「ああ。転移門を有効化し、下層と連結するイベントだ。その大役がラストアタックを取った勇者への褒美だったんだ。俺は四回ほどやったかな」
「魔理沙もLA持っていかれて困ったみたいに言ってましたよ。キリトって、ベータ時代からかなり強かったんですね」
「たまたまLA狙いが得意だっただけだよ。それにしてもディアベルはなぜ、女神のキスなどという妙なものにしたんだろう。まあベータとちがってこれだけ女の子がいるんだし、奇しくも茅場のせいでネカマの心配もないから、こういった変わったボーナスも面白いんだろうけど」
 どうも本気で分からないようだった。妖夢はすこし安心した。
「ディアベルさんはね、魔理沙が好きなんですよ。惚れた腫れたです」
「……そうなのか?」
 キリトの顔がすこし赤くなる。青少年らしく興味くらいはあるようだ。
「きっと割り込んできたキバオウさんの存在が刺激したんだわ」
「あんなおっさんとディアベルとじゃ、勝負にもならないと思うんだけどな」
 ディアベルとキバオウの実年齢差は、せいぜい四~五歳ほどだろう。だが魔理沙の外見年齢という壁により、この差はとても大きくなる。一五~一六歳に見える魔理沙と並べたら、誰が見ても二〇歳くらいのディアベルが似合っている。キバオウでは容姿以前に、一〇歳前後に達するその年齢差が、もはや道義上どうしようもなく犯罪的だ。キバオウもおそらく魔理沙とそういう仲になろうと考えているわけではないだろう。それでもディアベルがあえて動いたのは――
「恋の駆け引きは理屈じゃないんですよ。魔理沙は超然としてるから、ディアベルも自信が持ちきれないんですね」
「みょんって、恋に恋するタイプか?」
 背中の柄に手をかけ、ドヤ顔で威嚇のポーズを見せる妖夢。
「刻まれたいんですか? コミュ障少年Kくん」
「こうして女友達と流暢にしゃべっているネイティブスピーカーのどこがコミュ障だって?」
 肩をすくめたキリトの鼻に、デコピン。
「ネイティブスピーカーの用法が間違ってます。それにキリトって人がそばにいたら避けてばかりですよね。ルナーにも挙動不審って言われてましたよ」
「リアル友達が大勢ログインしていたみょんに、俺の気持ちはわからないさ。最前線がまるで女子校じゃないか。クラインは大喜びしてるようだけど」
 あてつけのような形で不幸を聞かされると、妖夢としても気分が悪くなる。リアルでのキリトは、ほとんど友達もいない、一人ぼっちに近い境遇なのだろう。でも妖夢にとってのキリトは、頼りになる案内役で、可能性を秘めた強力な仲間だ。
「キリトの気持ちはたしかに私には理解しきれないです。知り合って日が浅いですし、男女の性差もあります。それでも私はすこしでも知りたい。とにかくキリトはもうすこし主体性を持ったほうがいいと思います。みんなが合流してきて以来、圏内でも私の後ばかり付いてくるじゃないですか」
「パーティーリーダーがみょんだからだろ。ヒラ隊員は隊長様のおしりにくっついていくもんだ」
「おしりって……エッチ」
「チタニウム」
「およ?」
「だから、チタニウム。む、だよ」
 しりとりの催促だ。安全地帯で休憩を取る際、ときどき遊んでいる。きっと痛いところを突かれてるのを誤魔化そうというつもりなのだろうが――
「……む~~、無間地獄?」
 つい受けてしまった妖夢。キリトの子供っぽい目線に合わせてしまう楽しさは、彼女にとって意外と抗いにくい誘惑だ。
「クチナシ」
「四国八十八箇所霊場」
浮舟(うきふね)――コボルトロードのソードスキルな」
涅槃仏(ねはんぶつ)
「通常国会」
今際の際(いまわのきわ)
「若作り」
輪廻転生(りんねてんしょう)
「裏山」
摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)
「なんのことか分からないんだが……ナポリ」
六道輪廻(りくどうりんね)
「熱水」
「イーハトーブ」
「ブロンテ」
天人五衰(てんじんごすい)
「一本松」
「付喪神」
「みどりの日」
非想非非想処(ひそうひひそうしょ)
「なんだそれ?」
「天界の最上層、有頂天のことですよ」
「毎度ながらみょんのチョイスは渋いというか、枯れているよ。仏教好き?」
「別にいいじゃないですか。次は?」
「しょ……食紅」
「ニライカナイ」
「インターフェイス」
「水素爆弾!」
 割り込んだ金髪の第三者が、彼女らしい物騒な単語で強引にしりとりを終わらせた。
「なによ魔理沙」
「ところかまわず突発的にふたりだけの世界を作りやがって。周りを見てみろバカップル」
 四〇個あまりの瞳がじ~~っと、妖夢とキリトに注がれていた。とくにクラインのにやけ顔が怖い。なにを勘違いしてるのだこの彼女欲しい病患者は。
「……みょ、みょ~ん!」
 穴があったら入りたい妖夢。
 闇を操るルーミアがいればすぐ隠れることが出来るのに。そーなのかー?
     *        *
 すっかり和やかな空気になっていたが、ディアベルは演技と話術によってなんとか皆の気を引き締め直した。これからの戦いは、ひとつ間違えれば命を失うのだ。だが命をかける価値があると、すくなくともこの場に来ている、おもに男性陣が感じている。はじまりの街に残る人たちに、エールを送るために。現実世界、すなわち外側もおそらく、全力で動いているだろう。それに内側も応えるべきだ――自力による解放のための第一歩が、ようやくいまより始まる。もっとも妖夢とキリトはすでに何回か体験しているわけで、緊張のかけらていどしか持てない。
「それでは、行くぞ」
 ディアベルが儀式のように目をつむると、ボス部屋の大扉を強めに一回だけ押した。それだけであとはゆっくりと自動的に開いてゆく。きれいに開ききった先には細長い空間が広がっており、ほぼ真っ暗。最奥の玉座に、相変わらず座っている、獣人王のシルエット。
 ディアベル率いる六名を先頭に、ゆっくりと侵入してゆく。二番手は妖夢とキリト。三番手にクラインたち六人。四番手にひとつのパーティーへと再編した魔理沙・にとり・文・椛。最後にキバオウらおまけ六人。
 キバオウたちは迷宮区で戦うにはまだ弱すぎる。結局ゴドフリーがレベル四から五にあがっただけで、経験値すらろくに稼げなかった。ディアベルや魔理沙たちは一八人でひとつの巨大なパーティー――レイドを組んでおり、戦っていなかった妖夢や魔理沙らもすこしずつ経験値やお金を獲得していたが、あとから来たキバオウたちはレイド連結より弾き出され、別集団扱い、おこぼれは皆無である。露骨なコバンザメプレイが、良い印象を持たれるはずがなかった。
 先を歩くディアベルが全体の五分の一ほどに達したときだ。暗闇だったボス部屋に変化が起きた。
 部屋全体が虹色の輝きに包まれ、玉座より獣人王の咆哮が轟いたのである。そいつは玉座より一〇メートル以上を跳躍し、着地とともにミニ地震を起こした。頭上に英語で『Illfang the Kobold Lord』と表示される。盾と斧を持った大ボス、全身真っ赤な、イルファング・ザ・コボルトロード。HPゲージは四段でフル。フィールドボスでも二段だったから、一挙に二倍だ。背丈は三メートルあり、まさに巨獣。持っている斧も分厚くて巨塊、重さだけでも五〇キロは下るまい。まともに食らえばどれだけのダメージを受けるか。妖夢もキリトもクリーンヒットは許してないので、データがない。
 コボルトの王がまた吼えた。すると王の取り巻き衛兵がライトエフェクトとともに湧出する。全身鎧を着込み、金属製の棍棒を持つ重武装の番兵、ルインコボルト・センチネル。
 コボルトロードとセンチネルどもが、おたけびをあげて突進してきた。
 ディアベルが剣を掲げ、振り下ろした。
「戦闘開始!」
 事前の打ち合わせに従い、ディアベル隊がコボルトロードの正面へ陣取るように展開、その左右より銀髪の少女と、黒ずくめの少年が飛び出した。さらにその後より左翼側をクライン隊が、右翼を魔理沙隊が固める。魔理沙たちは四人と少ないが、男三~四人ぶんくらいの働きを見せる犬走椛を抱えており、バランスは取れている。キバオウたちは三〇メートル近い距離を開け、後方待機だ。
 妖夢が先頭のセンチネルと二刀を交えた。炯眼剣で強制的な隙よりシャムシールの一撃目を入れると、いつものデスダンスがはじまった。キリトが脇を抜け、コボルトロードに突っ込んでいく。コボルトロードの振り下ろした斧に、キリトは軽い横撃を当てただけで反らしてしまった。明後日の方向へ流れる斧など構わず、懐を取ったキリトは、二本の剣で交互にコボルトロードの腹をかち割った。七回、八回――九撃目を入れる寸前でキリトは攻撃を中断し、横に飛ぶ。その直後、少年がいた空間を斧が走った。床へキリトが降りた瞬間、妖夢が相手にしていたセンチネルが断末魔とともに弾けた。四秒間の一二連撃である。ソードスキルを使わない通常攻撃のみなので手数が必要だが、一気にHPを削りきってしまうので、弱い印象はまったくない。しかも凡人がソードスキルを一発入れるかどうかの間に、妖夢の連撃はその最後までをことごとく打ち込んでしまうのである。効率など比べる必要もなかった。
 キリトは今度は最寄りのセンチネルへとアニールブレードを大上段より叩き込み、体勢を強引に崩したところへ連続攻撃を開始した。妖夢も最後のセンチネルにフィーバーを仕掛けている。残されたコボルトロードが憎々しいソードダンサーへ斧を振り下ろそうと試みるが、妖夢もキリトも連撃しつつセンチネルを壁にするように回り込み、大ボスの攻撃を阻害させる。コボルトロードはセンチネルを巻き込むようには動かない。
 初撃より一〇秒目にはセンチネルは全滅し、コボルトロードは丸裸にされていた。妖夢のダメージは皆無、キリトは数パーセント減っている。
 ここでディアベル隊が動く。コボルトロードへむかって、すこしずつ近づきはじめた。妖夢とキリトはふたりでコボルトロードへ旋風のような剣戟を浴びせている。何秒か経つとコボルト王の斧が暴れるが、すぐ沈黙させてまた合計二〇撃近くをコンスタントに刻みつけてゆく。
 気がつけば、妖夢とキリトは玉座側に回り込んでいた。コボルトロードは多大なダメージを与えてくれたこしゃくなふたりに執着し、後方への備えがおろそかとなる。ディアベル隊がその背中や尾へソードスキルの多重攻撃を見舞った。だがコボルトロードのターゲットは移動しない。妖夢とキリトがあまりにも攻撃を当てすぎているからだ。したがってディアベルたち六人の攻撃は一方的に終始し、楽勝の空気すら生じ始めていた。
 やがて狙っていたときが来た。前後より短時間で大量のダメージを受けたことにより、転倒ステータスが発生したのだ。派手に転んだコボルトロードの状態をタンブルと判定し、ディアベルが号令を発した。
「全力攻撃! 囲め!」
 待機していたクラインおよび魔理沙パーティーも動いた。全員がそれぞれの武器をもって殺到し、立ち上がれず弱々しくもがく赤い巨人にライトエフェクトを迸らせたソードスキルの一撃を加えてゆく。妖夢とキリトは彼らより離れ、つぎの攻撃に備える。というよりは、妖夢もキリトもその攻撃スタイルが全身を派手に動かすブースト剣舞なので、どうしても場所を取る。そのため一六人もが同時参加しているこの全力攻撃には、とても加われないのだ。
 二刀流ペアが待っているのは、HPの段が変わるときだ。全力攻撃がはじまってわずか五秒後、一段目のHPバーが消失した。同時にコボルトロードの後方で青い炎が三本立ち上る。ほぼ人の大きさだ。
「よし、あれを叫ぶぞみょん」
「……やっぱり言わないと駄目ですか?」
「あとでくすぐる」
「わかりましたよ。男の子ってホント、こういう背伸びが好きですねえ」
 炎の中より、人型のルインコボルト・センチネルがあらわれた。確認すると同時に、妖夢とキリトは戯れで決めたオリジナル技名を叫ぶ。
黒銀乱舞(ヘイインらんぶ)!』
 声はきれいに重なっていたが、自己愛と顕示欲に満ちたキリトのテンションと違って、妖夢のほうは恥じらいつつ、気も乗っていなかった。だが体のほうは目にも留まらぬ早足。キレの鈍りは露ほどもなく、キリトに先んじてセンチネルへとサーベルを打ち込んでいた。
 再出現の青い炎が止み終わる前に、狂乱の舞い踊りがスタートしていた。黒銀乱舞とは、ふたりで一体を挟撃しつつなぶり尽くす、えげつない重攻撃だ。センチネル三体の出現場所は個々に距離があるので、一体ずつ各個撃破してしまおうという理屈である。ただし妖夢もキリトも狂ったような連撃を誇るので、一体辺り平均二秒で済む。秒殺どころか瞬殺だった。移動時間も含めて一〇秒あまりで三体を平らげ、ふたたび大ボスのところへ駆け戻るふたり。仕切り直しの理由は、ちょうど時間が終わろうとしていたからだ。タンブルの、である。
 コボルトロードがふいに立ち上がった。どれだけ攻撃を連続で受け続けていようが、ボスはかならず状態回復するのだ。そうでないとゲームバランスが成立しない。
「下がれっ!」
 ディアベルの指示に全員が従い、すぐさま五メートル以上を開ける。コボルトロードのターゲットはしかし、いまだ妖夢とキリトに固定されたままだ。それだけこのふたりが与えたダメージ量は群を抜いていた。
「ようやくタンブル時にフルアタックできましたね。ダメージ効率も高いですし、やはりフォローがあると楽だわ」
 これまではコボルトロードがいくら転倒状態になろうが、リポップしたセンチネルが邪魔をして、なかなか追い詰めるところまで行かなかった。センチネルの出現条件が基本的にHP段の境界なので、HPを一気に削ることができるタンブルを、ふたりきりの攻略ではとても活かせなかった。
「俺たちも自由にさせてくれているし、ディアベルが意外と物わかりの良いやつで助かった」
 青騎士は自分のプライドを抑制し、赤の他人に依存する作戦を採った。ボス攻略戦の中心戦力を、手練れである妖夢&キリトに置いたのだ。それが今回もっとも勝率が高い堅実な選択であることは、誰にでも簡単に呑み込めるだろう。あとはそれを受け入れる度量が指揮官にあるかどうかだった。命がかかっているのに、リアルでいえば大学生が中学生を頼るようなものであるからだ。そのような重い選択に、すくなくともディアベルは耐え、クリアしてみせている。それだけでもリーダー職として標準以上の資質を備えていると妖夢やキリトは評価した。せいぜい数人のパーティーであればリーダー自身が最強であることの重みもあるが、数十人単位の攻略戦リーダーは求められるものが異なってくる。お山の大将である必要など、まったくない。実例として、魔理沙はブーストも出来ないし、それほど強いプレイヤーではないが、クラインたちをいっぱしの戦闘集団に育て上げている。
 繰り返される黒銀乱舞の壮麗な剣舞に、ディアベルやキバオウたち男性陣は見とれ、感心し、嫉妬し、対抗意識を燃やしている。なぜあれほど強いのか。どうすれば恍惚さえ覚える領域に到達できるのか。
 妖夢とキリトは軽々と一〇連コンボを繰り出していく。コボルトロードがディレイより回復しなければ、簡単に二〇連、三〇連と重ねる勢いだ。これではSAOがまるで、連続技を売りとするありふれた対戦格闘ゲームのようではないか。現実に限りなく近い物理演算エンジンを採用しているSAOは当然、そのような仕様ではないし、実際に体を動かす感覚であるから、格ゲーのようなアクロバティックをしでかすとたちまち目が回って大変なことになる。妖夢もキリトも大切な頭の動きそのものは比較的に穏やかで、激しく動いているのは肩から下だ。
 現状では四連・五連と出すだけで話題となり、皆の尊敬を集める連続コンボ。それがいきなり二桁! これほどの連続攻撃が常態化した武術が持つ制圧力は、どんな子供にも理解できる。たとえライトエフェクトの残像演出がなくとも、生半可なソードスキルなど消し飛ぶほどのインパクトを放っていた。男たちは観察と分析を重ね、記憶に刻み込もうと懸命だ。
 今後、最強のシステム外スキルとなった二刀流を試す者が続出するであろう。ただし妖夢の仲間である幻想郷の少女たちはとくに留意などしていない。幻想郷界隈で接近戦女子最強を謳われる妖夢のあの狂剣が、凡庸なゲーマー風情に真似しきれるはずがないと、最初から理解しているからだ。キリトでさえその技は力任せで、妖夢のようにほぼすべての攻撃が弱点狙い、鎧通しとはいかない。よくいえば豪快だが、しょせんは荒削り。単位時間のダメージ量では妖夢のほうが一・五倍以上は多いだろう。妖夢は次元が高すぎるので、常人の目指す二刀流の手本は当面キリトとなる。ただしキリト自身も妖夢が天才ではないかと評したように、フルダイブ仮想現実空間への適応は只者ではなく、純粋な反応速度では妖夢を軽く凌駕していた。であるから妖夢のパートナーたり得ているのだ。
 戦闘はハイペースかつ順調に進んだ。不安要素はちょくちょく顔を出すセンチネルだけだが、そのつど黒銀乱舞によって掃討される。攻略戦開始よりわずか五分あまりで、コボルトロードはいよいよバーサクのときを迎えつつあった。妖夢のHPは数パーセント、キリトも二割しか減っておらず、まだまだ余裕がある。ディアベルらは一度もターゲットにされていないので、誰も一ドットすら削れていない。二度あった全力攻撃時に運悪く味方に当たることもあったが、密集状態の同士討ちはシステムの配慮で特別にHPが保護される。不慮の事故を防止する救済措置だ。
「キリト、佳境です。念のためポーションを飲んでください」
「以前は飲む余裕すらなかったからな」
 赤い薬瓶を一口で飲み干すと、キリトのHPバーがすこしずつ回復しはじめた。数秒後、コボルトロードのHPバーが黄色からついに赤色へ変化する。演出のため一時的に無敵となったコボルトロードは、装備変更を行った。それまで持っていた斧と盾をバンザイして捨て、腰の後ろに収めていた総金属の巨大な板きれを抜いたのだ。カタナの一種、ノダチだ。その長さは二メートル近くはあるだろう。とんでもないリーチはプレイヤーのポールウェポンをも軽々と凌駕する。しかも長柄武器が先端にしか刃がないのに対し、このノダチは先から根本まで、全体が凶器だ。
 コボルトロードはバーサク開始で全身を沈め、強力なバネでいきなり垂直方向へ跳躍した。
「あれは旋車(つむじぐるま)――何度見ても、バカバカしいほど隙だらけですね」
「ちょっくら落としてくる」
 キリトは左の剣を背中に収めてアニールブレード一本にすると、手慣れた動きでソードスキルを発動させ、宙に跳んだ。対空迎撃も可能な片手用直剣の突進系ソードスキル、ソニックリープだ。青い輝きに包まれた剣身が、空中に静止して体を捻っていたコボルト王の体をあっさり捉え、その両足を深く抉った。ノダチが帯びていた真っ赤な燐光が消え、コボルトロードとキリトがいっしょに落ちてくる。旋車はやっかいな全方位攻撃だが、そのような強力なソードスキルは隙も大きいので、初級ソードスキルの後出しであっさり潰せたりする。基本技といえどもキリトなので、もちろんフルブーストによって威力は二倍近くドーピングされていた。
 どうやらクリティカルヒットだったようで、その前からの過剰ダメージぶんも加味され、コボルト王が腰砕けて立てなくなった。悲しそうにわめくだけで、手足の動きがにぶい。転倒状態ステータスがまたまた発生した。三度目だった。
 ディアベルが剣を振り下ろす。
「全力攻撃!」
 寄って集ってのたこ殴り大会が始まる。いよいよ総仕上げが行われようとしている。コボルトロードのHP減少ペースから見て、これで終わるのは確実だった。妖夢は女神のキスを思い出し、どうしようか悩んだが、キリトも動かないので安心し、ラストアタックを思い止まることにした。キリトは何秒か考えて、コボルトロードに背を向けた。玉座側に移動していく。
「キリト?」
「二回ほどHP段の境界以外で取り巻きが湧いただろ? おそらく攻略戦への参加人数に応じた、正式サービス版の追加POPかなにかだ。未知のセンチネルがダメ元で襲ってくる可能性がまだ残っている」
「……なるほど。ベータ時代と細かいところが違いますから」
 妖夢もついていって、玉座側へと距離を取り、備えた。コボルトロードのほうを見返すと、案の定、必死にハルバートを振るう魔理沙が鬼の形相を妖夢に向けていたが、キスをするのも貰うほうも、とても勇気が出ない。だいたいキリトを変に意識してしまったのは、魔理沙やディアベルが余計なことを言ったりしたからだと、妖夢はすこし根にも持っていた。キリトのおかげで言い逃れの理論武装を得られたし、このまま終われば、妖夢にとって事は楽に済むはずだった。
 だがこの後に及んで、イレギュラーが入ってきた。ずっと控えていたキバオウたちが、勝手に戦闘へ参加してきたのだ。
「いまならわいらでも勝てるやろ」
 ディアベルが苦々しい表情を見せ、攻撃を中断して両手を広げ、割り込もうとしているキバオウに注意した。
「キバオウさんたちが攻撃するには、もう空間が足りない。見ての通り、キリトさんとみょんさんは遠慮して離れている。俺たちだけでギリギリなんだ」
 実際その通りなのだが、キバオウの耳には違ったように届いたようだ。
「こないチョロいに、ジブンら、わいらをのけもんにする気やろ。こん糞ゲームをいっしょにクリアしよう仲やん。な、頼むでディアベルはん」
 サボテン頭の合図で、キバオウと仲間たちが勝手に割り込みはじめた。キバオウパーティーのうち、ヒースクリフだけが大人しくぽつねんと残っている。妖夢は彼のことを、なんか色々と変わった人だと思っていた。
 キバオウパーティーの良心といえるエギルが「おまえらやめろ」と両手斧で制止しているが、近視眼の輩には寝そべる獲物しか見えていないようだ。混乱によって目に見えてソードスキルのライトエフェクトが減り、コボルトロードのダメージペースが大幅に鈍化する。ディアベルやエギルがキバオウたちを押し留めようとしても、倍の四人が同時に動くのだからどだい無理な話だった。しかも割り込んだキバオウたちはレベルも装備も水準以下なので、攻撃したところでたかが知れている。
「これは――危ないぞ。みょん、いざとなれば突っ込む」
「……わかりました」
 コボルトロードに回復の兆しを見たディアベルが、大声で命令を発した。
「全員、下がれ!」
 号令一下、手慣れた攻略本隊はさっと退いたが、当然のようにキバオウたちだけが取り残された。サブリーダーのエギルがディアベルにつづけと促しているが、キバオウが剣を収めないのでほかの人も退かない。もちろんその報いが襲ってきた。指揮系統の異なる五人はなにが起きたか知るよしもなく、三秒後にはHPバーを一挙に八割から九割削られ、床に伏していた。コボルトロードの全方位ソードスキル旋車、その竜巻が荒れ狂ったのだ。妖夢やキリトにとっては隙だらけでも、初見の素人には見ていても回避は困難だ。体高三メートルあまり、武器のリーチも腕込みで三メートル以上。そんな巨人の重圧を、きちんとした実力の裏付けなしに、見たあとでどう対処せよというのだ。センチネルに備えていた妖夢とキリトは二〇メートル以上離れていたため、とても間に合わなかった。
「なんでや……た、助けて」
 自分の赤いHPバーにビビり、情けない声で助けを呼ぶキバオウ。変態野郎のクラディールなどは甲高い悲鳴をあげている。楽勝に見えていたのは妖夢とキリトの活躍があったからであって、本来なら苦戦は必至なのだ。大ボスの瞬間火力には凄まじいものがあり、終盤のバーサク化はとくにやっかいだ。その打撃をまともに受けたキバオウたちは、大量ダメージで硬直ペナルティを課せられ、ディレイ状態で動けない。レベル八なら四~五割ていどで済んだダメージが、いきなり全員がレッドゾーンだ。硬直時間はダメージ量ではなく率で決まるため、数十秒は動けないだろう。仲間を連れ出そうと反応が遅れたエギルが可哀想だった。
 コボルトロードの基本ターゲットは未だ妖夢かキリトにロックされているはずであったが、いまの範囲攻撃のように、最寄りに攻撃可能な敵がいればそれを狙うこともある。とくに手軽に倒せるHPイエローやレッドのプレイヤーがいれば、アルゴリズムはそいつを優先的に殺せと指示するようだ。ノダチにプレイヤーの生命を吸わせようと、狙いをキバオウに定めて死への一撃を――あれは浮舟だ。
 妖夢は届かないとわかっていながら、走り始めた。キリトも動く。
「危ない!」
 ほかに動いていて、間に合った者がいた。
 キバオウをとっさに庇う青い影が、身代わりとなってノダチの軌道に立ち塞がった。ディアベルは自分の剣で受けようとしたが、体勢が整わず無駄だった。
 ナイトらしく人のため盾となった攻略指揮官が、巨大鉄板のかちあげによって宙へ浮かされた。ディアベルのHPバーが一割ほど減っている。もしこの攻撃を受けていれば、レベルの低いキバオウは死んでいただろう。妖夢はもっと早く体が反応しなかった自分を恥じた。キバオウ個人への心象から、いつのまにか彼の命を軽く見てしまっていたのだ。心のどこかに、一度痛い目を見て反省しろと考えていた節もあるだろう。
 だがまだ危険な状態だ――つづく攻撃を受ければ、コボルトロードのターゲットがキバオウかディアベル、いずれであっても、確実に死ぬ。浮舟はあまりダメージが大きくないが、三連撃の推定即死級ソードスキル、緋扇(ひおうぎ)への繋ぎなのだ。妖夢の連続攻撃がちいさな蹴りから入るようなものだ。評価が推定なのは、きれいに防御ないし回避して、間抜けに宙を斬る赤犬王を横で見てるだけだったから。もちろん人の命で検証するなど論外だ。
「ええいっ!」
 妖夢は走りながら左手のサーベルを投げ捨てると、右手のシャムシールを肩にかかげ、ソードスキルの溜めに入った。〇・五秒で解き放つと、オレンジ色の輝きとともに、猛烈な加速で突進する。いまの状況で届く技はこれしかない。リーバーだ。
 苦い後悔はもう繰り返したくない。ディアベルはこんなところで死んで良い人間ではない。
 妖夢はコボルトロードとディアベルらの間に割り込み、武器ではなく王の体を斬ることで技を潰す気だった。しかしコボルトロードの赤い剣閃が急に軌跡を変え、自分を狙ってきたのを見て、妖夢は判断ミスを悟った。
 ソードスキルは自由意志でのキャンセルが簡単にはできない。とくに妖夢のような達人だと、突発的にわざと素人のような動きをしてモーションを停止させるなどということを、体のほうが無意識で拒絶するのだ。したがって銀髪の少女は無策のまま的となって当たりにいき、その通りとなった。
 緋扇の一撃目で、妖夢のHPはいきなり四割ほど削れた。さらにもう一撃でHPは黄色を通り越し、赤色までがくんと減る。上下の二連撃でコボルトロードは動きを一瞬止め、トドメのため溜めに入り――妖夢は多大なダメージで身動きがまったくできず、空中を泳いでいる。レミリア・スカーレットに生き血でも吸われたかのように現実感がない。ゲームなので痛覚は感じない。なのに奇妙に不快な違和感が体を縛り、全身が痺れて、指先くらいしか動かせない。
 こんなことで、私のソードアート・オンラインは終わるのか?
 妖夢の目に、涙が浮かんだ。
 アバターの魂魄妖夢がここで殺されても、人ではないので、人間を殺すためのナーヴギアが妖夢の脳にそう簡単に効くとは思いにくい。それに幻想郷の賢者を謳われる八雲紫あたりがすでに対策も終えているだろう。だがキリトはどうなる? ほかの人は? 妖夢はまだ、伝えきっていない。茅場晶彦によって閉じ込められた九〇〇〇人以上の生存者たちに、このゲームが内側よりクリア可能なのだと。楼観剣と白楼剣から繰り出される快刀乱麻な魂魄剣術をもってすれば、きっと大丈夫なのだと。
 なのにこんな序盤、第一層で果ててしまうのか……失敗の種明かしは単純だ。妖夢はうっかり忘れていた。コボルトロードの基本的な優先ターゲットが、自分やキリトとなっている意味を。技の本格発動寸前で攻撃可能範囲にわざわざ近寄ったのだから、ターゲットが移動するのは至極当然なのだ。
 すでに打ち込もうとしていた剣をとっさに別の狙いに向けるなど、これが生きた者同士の戦闘であったなら、よほどの実力者でなければ出来やしない。パターンが単純でありながら超反応。素人と玄人が並立するアンバランスなプログラム相手に、妖夢は素人の側面から玄人の要素を見落としてしまっていた。焦りによって冒したミスから致命的な失態へと転がり落ち、アバター消滅、ゲーム退場という取り返しのつかないペナルティを受け、SAOに負けようとしている。
 白玉楼に戻って……いくら対戦が多くとも、剣を剣と直接交えることが滅多にない、鬱屈した日々へとまた帰るのか。
 妖夢がソードアート・オンラインにログインしたのは、剣VS剣のバトルを求めていたからであった。なのに。
「幽々子さま……キリト……」
 三撃目、緋扇の最後となる赤い刺突が、妖夢の体を貫こうとしていた。妖夢は気丈にもそのさまをしっかり目に焼き付けようと、双方のまなこを強く開き、最終便が飛んでくるのを待ち受けた。深紅のエフェクトが炎のようにゆらめき、禍々しく燃えあがっている。
「ヨウム!」
 本名を呼ぶ男の子が、青白く輝く剣を手に、妖夢の視界へ飛び込んだ。その青さは火に対する水、鎮火の象徴に思えた。禍々しい炎が、青い正義の刃によって調伏される。
 したがって、死の迎えは来なかった。輝きを失い、ただの鉄塊に戻ったノダチの突きは勢いもなくし、妖夢の胸へ到達する五〇センチほど手前で動きを止めた。
 けしからぬコボルトロードの体躯に、強烈な縦斬りがヒットしていた。右肩より股へ抜けた剣の動きはとまらず、さらに全身全霊の気勢とともに斬りあげられた。股より入って、腹をすぎ、左肩に抜ける。獣人王の体へ、きれいなV字型のダメージラインが刻まれた。片手用直剣ソードスキル、二連撃のバーチカル・アークだ。モーションを終えた剣身が、アニールブレード本来の黒に戻る。キリトの背中が、救われた少女にはとても広く見えた。
 背中を見せていたキリトが空中できれいに半回転し、妖夢と見つめ合った。キリトが役目を終えた剣を捨てている。両腕を広げ、妖夢をキャッチ。そのまま妖夢はキリトにお姫様だっこされた。悲しみで目尻に集めていた涙に追加があり、内容も感激へと改まった。
 床へ降りながら、妖夢はコボルトロードが断末の遠吠えを放つのを聞いた。とたんにボスが、超新星のごとく閃光を放った。コボルト王の体が不自然に膨らみ、派手な効果音と演出とともに、破砕する。粉微塵だ。あっけないものだった。輝きは急速におさまってゆく。このとき、第一層フロアを塞いでいた主が、ボス部屋より退場したのだった。
 二〇二二年一一月一二日午後一時二一分。
 イルファング・ザ・コボルトロードは倒された。
     *        *
 第一層、攻略。
 全員が勝利に浮かれ騒ぐボス部屋であったが、キリトの顔は喜びの渦中とは正反対の悲愴なありさまだった。
「……ヨウム!」
 ふたり仲良く表示されたレベルアップのウィンドウも無視し、ポーションを取り出そうとする。だがお姫様だっこでは手が自由にならない。キリトは片膝を付き、その膝で妖夢の腰を支える形を取った。片手だけでコートのポケットより器用に赤ポーションを取り出すと、瓶の蓋を開ける。その指がすこし震えていた。ものすごい勢いで脈拍しているキリトの鼓動を感じる。妖夢の心臓もハイスピードで高鳴ったままだ。
「早く回復を!」
 妖夢はまだろくに体が動かないので、キリトが飲ませてくれた。きっとまた人目についているだろう。かなり恥ずかしい。HPバーがじわり戻りはじめるが、完全に回復するには何分もかかる。おまけに第一層のポーションではすでに回復しきれないほど妖夢のレベルは上昇しており、キリトはすでに二本目を用意している。同時に使っても効果がないので、一本ずつだ。
 妖夢はキリトの焦りっぷりを見て、かえって落ち着いてしまった。ただしあくまでも精神面であって、動悸は高速運行中である。とにもかくにも妖夢のSAOプレイは繋がった。もちろん誰のおかげかは、言うまでもない。伝わってくる体温とその絆が心地よい。
「キリト」
「よかった。助かって良かった、ヨウム」
「ありがとう。命を繋いでくれて」
 自然と笑みがこぼれる。ようやく動くようになった腕をあげて、キリトの目元をぬぐってやった。
「男の子が台無しですよ」
「ヨウムも泣いてるじゃないか」
「私は女の子だからいいんです」
「わかった。ヨウムは俺のぶんも泣いてくれ」
「その言い方では、まるでキリトが危なかったみたいですね。それにもう涙は引っ込みました」
 青かったキリトの表情にも赤みが差してきた。
「ならその残っている涙は、コボルトロードにビビったものだな」
「ええ。とても怖かったです。キリトといられなくなるのが」
「…………」
「あらら? どうしたのですかキリト」
「いや、いつもなら軽口が返ってくるところだったんで、そう素直に言われると――」
 血色の戻りを通り越し、キリトの顔はあきらかに赤面していた。
「言い淀んでいるみたいですね。なんて言おうとしたんですか?」
「……俺の事情だ」
「教えて」
 無意識のうちに、両手をキリトの首に回してしまった……我ながら大胆だと思いつつも、死にかけた反動から、心の欲求に任せる。
「おっと」
 バランスが崩れそうになり、キリトがふたたびお姫様だっこの体勢を取りつつ立ち上がる。なんという役得。
「教えてキリト。素直に言われると、なに?」
「……言わなきゃ駄目か?」
「知りたい」
 視線を逸らして、キリトは小声で言った。
「可愛いじゃねえか」
 とくん。
 妖夢の心に波紋が立った。ゆっくりと広がっていき、静かな歓喜が心の海に満ちる。クラインに言われたときの、何倍も嬉しかった。小躍りしそうなほどに。
「ラストアタックの英雄に、最大級の感謝を!」
「それは女神の――で、かな?」
「ねえキリト。このまま歩いてみてください。おもしろいわ」
 嬉しくて足が交互に振られる。犬の尾のようなその動きを見たキリトが。
「いや、もう動けるだろ? いいかげん恥ずかしいし、下ろすぞ」
 残念。もうすこしお姫様の気分を味わっていたかったのに――人に見られてる羞恥心よりも、刹那的な心境を優先する。妖夢は自身の変化に、軽いとまどいも覚えていた。
     *        *
「ただただ堪忍や!」
 潔いとは、こういうことを言うのか。
 キバオウは全面的に自分の非を認め、ディアベルや妖夢にパーフェクトな土下座を見せている。額を冷たい床へとこすりつけ、パーティーメンバーを庇い、自分がすべて悪いんやと、足の裏まで平身低頭だ。
 妖夢個人はキバオウへの腹立ちはあまりない。むしろあわや死にかけた自分の未熟を恥じている。おまけでお姫様だっこという希有なイベントに巡り会えて、ラッキーなのかハードラックなのかアンラッキーなのか、いろいろ混じって意味不明だ。
 ディアベルもキバオウの扱いに対するいくつかの判断ミスを自覚しているようで、またキバオウの謝り方が堂に入っていたこともあり、けっきょくは許した。その際、魔理沙を何度か観察していたので、寛大さをアピールする意図もあっただろう。思い人に伝わったかどうかは不明だが、ディアベルの行動原理は今後、魔理沙の存在がひとつの指標になるだろうと伺えた。
「わいはつい、アインクラッドを解放する大義名分に奢ってもうて――」
 許されたとたんキバオウが言い訳をはじめたので、妖夢はさっと囲みより脱出した。どうせ長々と自己弁護がつづき、しだいに修飾過剰へ盛り上がって行くのだ。そのような反省の弁には一グラムの興味もない。謝罪だけでケジメは十分だった。キリトは退屈なりに面白そうな顔をして、長話が確定しているキバオウの懺悔に耳を傾けている。
「よう、みょん。ドジが過ぎたな」
 魔理沙だ。覚悟はしていたが、からかうつもりの表情で接近している。
「直感に頼りすぎちゃいました。相手が生き物ではなくて、条件反射の超反応プログラムってこと、今後は肝に命じておきます」
「ラストアタック、なぜ挑まなかった?」
「……分かってるくせに。私に魔理沙の道化を演じる趣味はないですよ」
「キリトはせいぜいで仲の良い男友達だぜ。大丈夫だろ」
「初恋だのバカップルだの言っておいて、なんですか急に友達って」
「私が楽しむための煽りに決まってたさ。人の恋路は蜜の味。みょんもまんざらでもないようだな。キリトが好きなのか?」
「……命の恩人ですし、好きって言えば普通に好きって表現になるでしょ。ほかになんて言えばいいんです? 相棒でも友人でも、同性でも仲間でも、ペットですら好きは好きじゃない」
「慎重な返答だな。この一週間のはっちゃけた行動とは正反対だぜ」
「だって私、剣舞郷に舞い上がって……人間の子を相手に、間違って本気になったら、あとが辛くなるだけですよね」
「せっかくの初恋なのにな」
「ええ、せっかくのはつ――クラ之介!」
 油断していて、聞かれた。ふり返ると呑気な武士面が、さらに強めたニヤニヤ顔で、妖夢の頭へぽんと手を置いて撫でてきた。まるで妹扱いだが、男気あるクラインには好印象を持っており、くすぐったい思いはあっても不快感はない。
 そういえば魔理沙は、人間がいれば妖夢をアバター名のみょんと呼ぶ。それは妖夢もおなじ。心の中で妖夢は頭を抱えた。うかつだった。またもや間抜けなことを。近づいていたクラインに気付いていながら、魔理沙め、わざと聞かせるために、謀ったな?
「応援するぜみょん吉。キリトはあの訛りのなさからきっと関東在住だ。いつになるか知らねえが、リアルに戻れば長野と関東、未成年の遠距離恋愛はたしかに厳しいわな。いざとなれば俺が手配してやるよ」
 完璧に勘違いされている。だが本当のことを言っても仕方がない。距離どころか世界の位相、さらには生物としての種族、年齢や寿命まで違う。初恋うんぬんは魔理沙からだろう。冗談からどのようにおもしろおかしく伝えられているのやら。
「……私はクラ之介さんのは、応援しませんよ」
 妖夢にとって可能な、せめてもの抵抗だ。
「え~~、にとりさん支援してくれよぉ」
 クラインがにとりに視線をむけた。にとりは文や椛と歓談している。
「やはり見返りを求めるつもりだったんですね。その手には乗りません」
 妖夢がキリトと無事にコンビを組めたのは、妖忌アバターの際にクラインが接着剤となってくれた効果が残っていたからであった。感謝はしているし、恩も返してあげたいが、にとりの件は別だ。河童娘がSAOを遊ぼうと考えたのは、人間の中へ人として参加できるからだ。にとりの最初のアバターは、日本人を強く意識した黒髪黒瞳で、それ以外はリアルの姿そのままだった。人見知りでありながら人間好きの彼女が欲しいのは、良くてフレンド。それに対して、クラインが求めてる関係は……彼の年齢と性格を考えれば、交際はイコール結婚前提となる。かけ離れの度合いが、いささか大きかった。
 さて、まだ残っていたイベントがある。
 女神のキスとやらだ。
 ディアベルに連れられてみなの前へ引き出されたキリトは、当初あまり積極的ではなかったが、クラインとその仲間に囃されて、仕方ないといった感じに自分の頬を軽く叩いて気合いを入れると、まっすぐ妖夢へ視線をロックオンしてきた。
「みょん。きみを俺の女神に指名したい」
 予定調和だ。ここは素直に喜ぼう。
「おうおう、ありがたく受け取れやい!」
 キリトの気合いが伝線したようで、妖夢も張り切り、なぜか時代劇調になった。腕まくりをしながらキリトに近寄ってゆく。
「それで何処へご所望ですか? 手、頬、おでこ? まさか唇なんて言ったら末代まで切り刻みますよ」
「死にかけたくせに元気だなあ」
 妖夢の体温が上昇している。感情も喜びだけがひたすらに先行してくる。願わくばこれがマンガや小説やドラマの中だけでしか知らない、強烈な切なさや胸のうずきへと変化しないことを望みたい。いまはキリトを普通に、おそらく親友ていどに好きなのは確かだ。命の恩人に昇格したことだし。これでまた一歩。なんの一歩だろう。
「またお礼を言わせて。助けてくれて、ありがとうキリト。本当に感謝しています」
 今度こそ、きちんとしたおじぎだ。
「じゃあその感謝を頬によろしく」
「わかりました――届かないわ、屈んでください」
 軽く、男の子のほっぺたへキス。
 生まれて初めてなのに、なぜか自然にできた。胸にはずっと、暖かいものが灯っている。早鐘の鼓動すら快感だ。キリトに触れていたのはほんの数秒だったが、ずいぶん長くにも感じた。彼と自身の一挙手一投足を記憶に染み込ませ、記念碑付きで脳の一部に焼き印付きで格納する。たとえ仮想空間の出来事であろうとも、いまの現実はソードアート・オンラインだ。
「Congratulations!」
 きれいなネイティブ発声でエギルが言った。その聴き触りの良いバリトンをきっかけとして、拍手が起こった。祝福に囲まれたキリトと妖夢は、目を合わせて笑った。ふたりともほほが軽く紅潮している。
 女神のキスが終わると、あとは新世界への行進だ。ボス部屋の奥には螺旋階段が出現しており、そこを登る。第二層への登坂は、祝賀ムードの勢いのまま、全員でそろって凱旋行進。疲労よりも高揚がまさり、ほとんど遠足気分だ。最後を除けば攻略戦は圧勝だったし、誰も死ななかった。おもに男たちが達成感で興奮している。キバオウの謝罪がきちんとしていて、負の精算をその場で片付けてしまったことも大きかっただろう。どうも性根では悪い人間でなさそうだ。キバオウはディアベルと並んで、大笑いしながらバカ話を交わしている。攻略戦中の見えないギスギスが嘘のようだ。雨降って地固まるというが、妖夢にとってまったく興味もなかったキバオウの、あの長ったらしい懺悔演説が、男同士の仲を深める接着剤としておおいに役立ったらしい。人間の男とは妙な生き物である。
 男たちがハイテンションに楽しんでいるのを見て、妖夢は幻想郷や故郷がふと懐かしくなった。まだ一週間なのに。
「酒が呑みたいです」
 幻想郷や周辺世界で、人妖関係を取り持つのは酒だ。酒の力はすごい。腹を割って話すことができる。昨日の敵は今日の友というが、今日の敵が今日のうちに友となる。
「みょんって、お酒が飲めるのか?」
 しまった。横に青少年キリトがいるのに。今日は妖夢のうかつが連発する日である。顕界では建前上、お酒は大人にならないと飲んではいけないことになっている。中学生でゲーマー、以前は剣道もやっていたキリトに、たとえ飲酒の経験があったとしても、そう多いとは思えない。
「人に奨められるうちに、呑めるようになりました」
「あまり悪い人とは、つきあわないほうがいいと思うぞ」
 その悪い人の筆頭が魔理沙なのだが、ここは伏せておくのが良いだろう。妖夢が最初に杯を交わした人間は、普通の魔法使い霧雨魔理沙と、先代となる第一三代博麗の巫女、博麗霊夢(はくれいれいむ)だ。魔理沙と二〇年以上の悪友かつ親友である霊夢は、眠ったままとなった魔理沙のことをどのように案じているだろうか。人間としてすでに三〇歳をすぎてるのに、凄まじい霊力のおかげでいまだに二〇歳ていどの外見と肉体を維持している。体に引きずられて精神のほうも若いままだ。そのうえキリト以上にマイペースの権化だから、あまり心配などしていないかも知れない。むしろ魔法使い仲間のアリスやパチュリーのほうが、心理的にムキューなことになっていそうだな――と思いながら、妖夢は三段ほど上をゆく魔理沙に目をむける。その視線に気付いたキリトが、口を開いた。
「今後はウィッチや青騎士の指揮下で戦うことになるのかな」
 その口調に、わずかな失望やかげりの色を、妖夢は感じた。
「……不安なんですかキリト?」
「彼女の戦い方は、悪く言えば軍隊みたいで、なんといったかな。集団主義みたいなものか。マリサが指揮を執る戦いで、俺たちが今回ほど自由にさせてもらえるとは思えにくい。クラインたちの戦い方を見ただろう?」
「ええ。見事な機動戦でしたね」
「与えられた位置で、手が届く範囲内の敵を、決まった時間のうちだけしか斬ることを許されない。それがウィッチに従うということだ。もちろんボス攻略は誰が率いてもそのような傾向になるけど、マリサは役割分担を徹底させ、個人技をよしとしない」
 妖夢はきれいな戦い方だと純粋に感心しているが、キリトの思いはまったく別なようだ。
「そのかわり、安全は保証されますよね」
「たしかにな。マリサの作戦は俺が知る限り、敗北は一度もなかったはずだ。だから人気があまりなかった割に、ベータ時代ではフロアボスを何体も倒した。戦えば必ず勝つし、彼女は誰とでもすぐ打ち解けるから、人材確保にも意外と困らない」
「常勝無敗って、すごくないです? ディアベルさんはどうなの」
「青騎士の指揮には柔軟性とロマンがあるけど、あえて冒険に踏み出す危ういところもある。でもあの人柄だから人望があって、何度か負けたけどそのつど再起を果たし、マリサと並んだ」
 すこし考える。魔理沙は軍隊式なので人気がいまいち。だけど慎重でシステマティックで合理的ゆえに高い将才を持つ。ディアベルには人を率いて戦う将器があるが、読みの甘さに加え投機的な側面があり、将才を十全には伴っていない。そのディアベルが、あの魔理沙に惚れた。そして魔理沙は来る人を拒まない。
「ねえキリト。もしかしてこの先、攻略部隊が結成されるとしたら、あのふたりは――」
「いまは死んだら終わりのデスゲームだ。お互いの不足を補うため、いずれ結束するだろう。攻略リーダーがディアベル、参謀かサブリーダーにマリサ。こんなところかな」
「ディアベルさんが指揮しても、魔理沙の影響は避けられなくなりますね……個人技をよしとしない攻略戦」
「そこでは多分、俺たちの剣術はかなり出番を削がれる」
 なぜ魔理沙が生来の豪放な性格とまったく異なる方向性をリーダー職で発揮しているのか。理由は分からないけど、制限を受けるのは本意ではなかった。キリトが欲しているように、妖夢もボスと全力で思いっきり戦いたい。まだまだ足りない。魂を震わせたい。雑魚では相手にならない。
「駆け落ちしちゃいましょう」
「か、駆け落ち?」
 キリトの息を呑む顔が、面白かった。思わず声に出して「あはははは」と笑ってしまう。
「からかってごめんなさい。言い直すわ。また抜け駆けしようって悪巧みよ」
「……きみは死にかけたんだぞ。怖くないのか?」
「私がまとまったダメージを受けたタイミングを思い出してください。共通項があるわ」
 キリトはすこし考え。
「――とっさに弱い人を助けるとき」
「正解。コペルくんやキバオウさんやディアベルさんですね」
「俺も含まれるぞ。ボスからの撤退で盾になってくれて、二回くらい食らったよな。自己犠牲を厭わない精神は崇高だとは思うけど、自分を追い込みすぎて心配だ」
「もう大丈夫ですよ。だってキリト、私を救ってくれたじゃないですか。格好良すぎて、感激しちゃったんですから。もう惚れちゃいそうなくらい」
 昨日までならきっと出なかった言葉が、すらすら言えてしまう。冗談混じりの軽口として。また殻をひとつ破った妖夢に、キリトは照れてしまったようで、上を向きつつ頬を掻いた。
「……つまり俺とふたりきりなら、怖くはないと?」
「キリト以外は、私の足手まといになるだけです。それに私たちがいたから、キバオウさんの無茶が起きたんですよ。いなければ相応に戦って、そんなに無理はしないですよね。だから一緒に行きましょう。だって――」
 ふいに螺旋階段が終わった。予告もなく出現した光差す扉をくぐり、第二層の絶景が視界へと飛び込んでくる。
 振り返りつつ両手を伸ばし、妖夢はあたらしい世界をキリトに示す。キリトにとってのSAOはすでに見つかっている。妖夢も自分にとってのSAOを見つけた。
「――だって、ほら。この世界はこんなに広いんですから。私たちの剣なら、いくらでもどこまでも、先へ進めるはずだわ」
 第二層への出口は、絶壁の中腹に開けられていた。妖夢とキリトは、第二層を一望に見下ろすテラスへと足を踏み出していたのだ。台形状のテーブルマウンテンがたくさん連なる、草原と山と岩地の世界。はるか先に、第三層への迷宮区タワーがそびえ立つ。何キロも距離があるので、向こう側は大気の色にうす青く霞んでいる。
 後光に照らされた少女の銀髪が、そよ風に揺れている。限りなくリアルを追求した、しかしやはり現実より隔絶している異世界で、さらに浮き世離れした妖夢の立ち姿は、まるで本当の精霊か、あるいは女神のようだ。逆光に縁取られた笑顔を向けている相手は、ただ一人、キリトだ。ほかの者など、妖夢もキリトも、まったく視界に入ってはいない。
 ふたりにとって浮遊城アインクラッドの世界はいま、ふたりきりのためだけに在った。
「……あはははは、楽しい~~」
 まっすぐ横へ伸ばした両手をぴんと張り、笑いながらその場でくるくる回りはじめた妖夢。独占している女神を目を細めて眩しそうに見る、パートナーの眉へと力がこもった。彼の覚悟も決まったようである。
「本当におもしろい子だね」
 妖夢のほうはデスゲーム初日の夜、ホルンカの村において、泣いたキリトに自分のふがいなさを重ね、色々と後悔したのであるが、反省も含めてもはやどうでも良くなっていた。それだけ妖夢にとって、剣舞の世界が魅力的すぎるのだ。たとえ死の遊技場と化してしまったとしても。
 なにをしようか、なにがしたいのか。基本的に先に進むことが前提としても、細かい考えや行動はコロコロ変わっている。あまりにも激しい変動に妖夢自身がとまどい、ときに泣き、幾度か後悔しながらも、そのじつ、ずっと楽しんでいることに気付いた。
「私ね~~、やっと謳歌してるんですよ」
「なんだって?」
「青春よ! ――なんて遅かったのでしょう」
「訂正、変な子でもある。そんな顔なのに勿体ない」
 そんな顔という表現に、妖夢は心の中で勝手に『可愛い』という修辞を加えた。それ意外は考えられない。なぜならば、キリトが可愛いとすでに言ってくれたからだ。キレイでもウツクシイでもない。カワイイが正解だ。秋葉原でツボイさんことクラインに言われて以来、妖夢にとって魔法の言葉となっている。伊達に頭へおっきな黒リボンを結わえているわけではない。
「ありがとう~~」
「褒めてないって」
「いいんですよ、いまはなんでも嬉しいの」
 そうなのだ。いまのような異常なデスゲームでもないと、魂魄妖夢にとって青春といえるものは感じられない。このくらいの大事件で旅をしてようやく、妖夢の魂は震える。動く。
 浄土の首府、白玉楼の筆頭家人として、楼観剣と白楼剣を振るってきた魂魄妖夢。ときには命の危険を感じるほどの敵が襲ってくることもあったが、どんな強敵がやって来ようとも、あくまでも仕事、義務の範囲内であった。しかも敵のほとんどは素手の筋肉バカか、近寄られると弱い妖力バカのいずれかだ。おまけに妖夢の外見から舐めてかかることが多いため、先制攻撃が決まりやすい。一撃目さえ当てればあとは降参するか滅びるまで何十回でも切り刻んで、排除してやるだけだ。
 剣と剣で、思いっきり戦いまくってみたい。
 それも自分の自由意志にて。
 恒常的にそう思い、渇望するようになったのは、いつからだったか。
 二〇年前、幻想郷の力ある少女たちと知り合ったとき、妖夢の世界は一気に広がった。自分で決めて戦う、意欲的な戦闘の数々。スペルカードルールという、きちんとした決まりに則った、いわば安全な喧嘩だ。妖夢はこの対戦において、どれほど腹立たしく思っても、どんな秘奥義であろうとも、霊剣の封印をけして解かない。それは相手もおなじだ――しかし幻想郷の戦いであっても、剣と剣で直接戦う対決はほとんどない。妖力・魔力・霊力・法力・理力・神通力といった様々な力。あるいは単純な怪力……攻撃手段はいくらでもある。また、封印状態の剣でいくら斬られようが、せいぜい打撲ていどで済む。もっとも……まごうことなき真剣であるから、魔力や霊力の加護を得ていない生身の人間を斬れば殺してしまう。それだけ妖夢たち人間でない妖怪や神仙、あるいは人であっても特別な力を持つ者たちは、超越的なタフネスを持っている。
 したがって道具として武器以外の役割がない剣はむしろ、弱い者の象徴でもある。強者の持つ剣はスタイルや儀礼上のものにすぎず、スペルカードでもサブとして使うていどだ。剣がメインの妖夢や椛は、武器がなければパワーランキングのかなり下位に落ちてしまうだろう。妖夢の種族、半人半霊は、人間の属性に縛られあまり強くないのだ。だが里の剣士は弱すぎるし、男妖怪の剣士はパワーがありすぎて、かえって妖夢を相手にしてくれない。幻想郷は箱庭世界。男の人外が暴れるには狭すぎる。自制の利かない連中はとっくに追い出されるか、そうでなければ粛清された。
 戦闘スタイルと秩序バランスの狭間で、剣士でありながら剣士のありかたとしての戦いを抑制されてきた魂魄妖夢。女子人妖ではとっくに近接最強となっているが、男が勝負にすら乗ってくれないため、自分が幻想郷とその接続世界群の中で、本当はどれほど強いのかを知らない。
 魔理沙を通じてソードアート・オンラインのことを知ったとき、妖夢は自分の求めていた答えをそこに見出した。主人の西行寺幽々子(さいぎょうじゆゆこ)が不安がり、親友のスキマこと八雲紫に相談するほど心浮かれ、狂喜乱舞していた。だから生来の真面目な性格に反し、幽々子のお遣いをサボってまで、はるばる一五〇キロを闇夜に紛れて飛行し、東京でSAOの初回ロットを強引に購入してきたのだ。いや、真面目であるからサボリを超えたレベルで徹底的に脱線したのである。
 その暴走はログインして以降も変わらない。協調性をきれいさっぱり喪失し、これほど身勝手に振る舞えたことに、妖夢自身がびっくりしている。キリトの奔放に憧れ、そのあとを追い、出会い、同調するや、いつのまにか自分でキリトの手を取っていた。
 SAOの虜囚となったいまの妖夢は空を飛べないし、弾幕も放てない。必殺の超剣も使えないし、なにより冥界の霊剣・二振りの宝刀がない。だがゆえに戦闘となれば常に剣を直接、敵に打ち込める。さらに迷宮区の敵は多くが人型で、武器を手に取って襲ってくる。妖夢の常識だとやつらは、牙や爪や角で攻撃してくるのだ。それが武器で挑んでくる! これほど妖夢を心の底より喜ばせる世界はなかった。稽古を除けば妖夢はこの一週間あまりで、これまでの人生で戦ってきた武器対武器のリアル戦闘回数をあっさり突破している。
 デスゲームのせいで人間プレイヤーとは容易に剣を交えられなくなったが、剣をぶつけ合う相手ならモンスターにいくらでもいる。とくにボス戦は妖夢の魂が震える。どれだけ本気でぶった切っても、起き上がって復活する敵。これが燃えずにいられようか。レベルアップで次第に魂魄流を取り戻す過程も、まるで修行のようで興味深い。大勢の人間がすでに亡くなっているにもかかわらず、妖夢に焦燥はなく、精神は安定している。極楽と地獄の狭間にあって、穢れた魂を浄化し、輪廻転生の輪へと戻す冥界に住み、あまつさえ自身が多くの怪物を退治してきた執行者が、いちいち心を動かされも仕方ないのだ。それでもキリトのホームシックには簡単に泣いた。アンバランスなのは、妖夢がまさに未熟まっさかり、永き成長期のさなかにあるからだ。多感の反応する向きにも、人とだいぶ違った生き方をしてきた妖夢には刺激される条件やベクトルがあり――
 キリトは妖夢の機微をびしびし突っついてくる。頼りになる相棒でもある。だから一緒にいたい。キリトとふたりでいれば、いろんなものを感受し、情感も動く。なんでもないことでも未体験なように感動するのだ。なにもかもが新鮮だ。
 少女はあたりまえのように、キリトへ同意を投げかけた。
「行ける限界まで突っ走ってやりましょうよ。ね、キリト」
「――ああ、行こう。限界といわず、てっぺんの第一〇〇層まで登頂してやる」
「ええ。私たちが、クリアしてみせるんです」
 反射的に答えつつ、妖夢の胸は申しわけなさで一杯だった。はたしてそのときまで妖夢はログインしたままでいることを許されるだろうか。幻想郷の管理者を自認する八雲紫の能力を用いれば、妖夢をはじめ、寝ている幻想郷の少女たちを安全に起こすことなど、造作もない。紫の能力は、あらゆる境界を操ること。死の電磁波を強制的に遮断するなんて、朝飯前どころかほとんど一瞬で行ってしまえるだろう。妖夢たちがいまだ寝ているに任せられたままなのは、やはり紫に思うところがあるのか、幻想郷で有力者間の話し合いがまとまっていないか、慎重に顕界の情報収集でもしているのか、または単純に面白がって一定期間、実験なり罰ゲーム的に放置しているだけかもしれない。なんにせよ限度がいつか来るので、いずれ起こされる日は来てしまう。
 日本中の頭脳を結集しても天才茅場の構築したデスゲームをどうにもできていないのに、幻想郷ならナーヴギアのトラップをあっさり解除できる。そんなチート人材に事欠かない。そういう魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界だ。
 だから最後の日まで、妖夢は後悔のない日々を送りたかった。その選択がキリトと一緒にいることだ。
 どこまで戦ってゆけるだろう。どこまで登っていけるだろう。
 もしかすれば、起こされるよりも早く、デスゲームをあるいは本当にクリアしてしまうかもしれない。
 白玉楼に残してきた主人である幽々子への、それが一番の謝罪ともなるだろう。一日でも早く攻略してみせたい。すこしでも上に行きたい。妖夢がいない間、冥界の守りはいくぶんか低下しているが、西行寺幽々子はそのじつ妖夢よりはるかに強い。人間の関与しない世界にはたいてい警察や軍隊がない。だから世界の管理者が一番強く、従者や幹部は二番以下でいいのだ。妖夢の存在意義は保険である。トップがガチバトルで負ければ即、黄泉の均衡が崩されてしまう。それを防ぐ緩衝として妖夢がいて、先代として妖忌がいた。だが二番ていどの力量ということはときに手に負えない敵と遭遇するわけであるが、そんなときはすぐ幽々子と合流し、ふたりで完膚なきまでにぶちのめすのが、いまの妖夢の常套手段だ。まだまだ未熟だと自覚しているわけだから、死ぬまで戦うといった殉教者精神とは無縁である。それゆえ自分より弱いといっても十分以上に強く、SAOやMMORPGについて多くの知識と経験を持つキリトの存在はとても大きかった。妖夢だけでは右も左もわからない。呼吸するナビゲーターであり魂魄流二刀剣術も覚えた彼となら、アインクラッドをきっと戦い抜いてゆける。
 自分がいなくなるその日まで、キリトにより多くを伝えたい。そして……自らも剣をもっと自由に振りつづけたい。それが妖夢が定義したところの、青春の形だった。
 いろいろあったが吹っ切れた。
「行きましょう、キリト」
「ああ」
 妖夢が無意識に差しのべた手を、相棒は自然と握り返していた。妖夢はもう恥ずかしくなかった。キリトは積極的な彼女に手をひかれ、すこし顔が赤かった。ふたりは手を繋いだまま、何歩かゆっくり下がると、そっと歩みはじめる。
 攻略隊一行はにわかの観光を楽しんだあと、岩山の階段を降りて第二層の主街区、ウルバスへと向かう。だがその中に、銀髪と黒づくめの剣士はおらず、いずこへと姿をくらませていた。
 魂の震えを求めるため、現実世界へ帰るために。
 いつか必ず終わる――
 夢幻の道行きを。
     *        *
 二日後の一一月一四日午後八時ごろ、第二層が人知れず攻略された。さらに一六日午前五時半に第三層が、次の一七日には午前一時に第四層、午後一〇時に第五層が突破されると、人々は驚嘆するよりもむしろ喝采をあげ、奇跡のダブルヘッダーに万歳を送った。
 デスゲームだと? クリア不可能だと? 順調に登坂されているではないか。見通しは明るい。だが立役者の正体を知れば、誰もが唖然とするしかなかった。街開きのたび一番乗りで転移してきた集団が目撃するのは、背中を見せて逃げるように走り去っていく二人連れ。銀髪の少女と、謎の黒づくめ剣士。まさかあのコンビが、ふたりだけで駆け上っている? どうやって大ボスを倒せたのだ。しかも装備がおかしい。なぜ片手用武器をいずれも二振り持ちなのだ。システムのアシストもサポートもなくなる二刀流を、しょせん素人集団のコアゲーマーがまともに使いこなせたという話は聞かない。さらに銀髪が噂の長野ちゃんらしいと知れると、戸惑うよりもまず、誰もが情報を欲するようになった。一体最前線で、なにが起きているのだ。
 そのニーズに答える形で、プレイヤーメイドによる発刊物が立て続けに創刊されると、情報だけでなく娯楽にも飢えていた人たちが、群がるように求めた。文々。(ぶんぶんまる)新聞、水泡風土記(みなわふどき)、アルゴのガイドブック、コペルニクス――答えはすべて、そこにあった。すでに起きたこと。いま起きていること。生き延びるにはどうするべきか。これからなにをしたらいいか。求めていた道しるべとして。
 みんな、みんな書いてあった。涙を流し、何度も幾度も読み返す人も大勢いた。悲観が楽観に塗り替えられ、自棄が慎重へと置き換わった。自殺者が途絶え、死亡ペースは激減した。反対に無為の引き籠もりをやめ、フィールドに出る者が増えた。不毛な内輪もめも霧消した。元ベータテスターの大半はごく初期のうちにはじまりの街を出てしまっており、混乱のまま置いてけぼりにされた初心者たちには、ベーターを恨んでいる者も多かったのだ。だが先行する二人組のひとりは、初心者たちの希望だ。ネット番組のインタビューで、SAOは初めてで、とても楽しみだと答えたのだから。そもそもベータテストを受けていれば、優先購入枠があるので列には並ばない。SAO初心者で、おまけにあの可愛らしさであるから、象徴の御輿として担ぐのに都合が良すぎた。ベーターへの優越感から恨みはどうでもよくなった。元より茅場やデスゲームに対する不満の転嫁先を探していただけなのだから。上層と結ばれ、鬱屈の蓋が消えて、どんどん世界が広がっている。思考のエネルギーはいかに新世界で新しい生活をはじめようかという、プラス方面へと傾斜する。
 絶望の世界に、光明が差しつつあった。
 希望と感謝を大量生産しているなどとは、つゆも知らず、先行者の妖夢とキリトは、ひた走る。
 ほぼあらゆるクエストを無視し、ただ中・大ボスのみを狙いつづける極端なプレイスタイル。レベリング目的の狩りどころか装備強化も偵察戦もろくに行わず、出会った敵をすべて初見で全滅させ、装備もこまめに更新しつづけることで、成長と短縮に代える。まるでチートプレイだが、あくまでもルールの範囲内で戦っているにすぎない。
 何百年とかけて育まれ実戦の中で徹底的に合理化・最適化された魂魄流の戦闘スタイルが、高度にSAOのシステムとマッチしていた。本当の化け物を屠る専用剣術であるから、妖夢とキリトの剣は面白いようにモンスターどもを蹴散らしてゆく。SAOが最新の優秀な物理演算処理エンジンを積んでいることも大きい。もしこれが旧来型のゲームで開発者の都合に合わせられたエセ物理世界であったなら――力を封じられているはずの妖夢が、その剣技をここまで冴え渡らせるなど、とても無理な話であっただろう。
 本物を本物としたのは、茅場晶彦が創り出した世界の、まさにリアルさそのものであった。
 よって妖夢はその実力をいかんなく発揮して突き進み、コンビのキリトもメキメキ腕をあげつつ付いてゆく。見る者はキリトしかいないが、魂魄の技もつぎつぎと再現されている。さらにキリト自身もその技を覚えはじめていた。
 先頭をひたすら走る少年少女を、アインクラッド初となる情報屋プレイヤーがこう呼んだ。
 フロントランナー、と。
 それがこのふたりの代名詞となるのに、数日を要さなかった。
 有能を通り越したあまりにも猛烈な攻略速度に、もはや誰も追いつけない。一〇〇人ほどがいたとされる最前線集団はたちまち瓦解し、空虚な自称となった。第一層フロアボス攻略戦に参加できたわずか二〇人ていどの小集団のみが、先駆者のプライドによってかろうじてレベルを維持しているくらいだ。人数がいないので、彼らは攻略隊と呼ばれだした。

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