〇三 承:はじまりの夜

小説
ソード妖夢オンライン1/〇一 〇二 〇三 〇四 〇五 〇六

「着替えは済んだか?」
「う……うん」
 借りた宿屋の一室で、妖夢が女物の新しい服に変わっていた。上は緑色の肩出しシャツ、ミニスカートも黄緑色だ。
「似合ってるじゃないか」
「下がスースーして、張りついて、ちょっと恥ずかしいです。おまけに縞模様ってなんですかこれ? あの魔理沙……こんなショーツタイプじゃなくて、ドロワーズとかないの? ズロースでも妥協しますよ」
「緑と白のボーダーは妖夢に一度穿いて貰いたかったお似合い紋様だ。それに残念ながら私の知るかぎり、肌にフィットするタイプの下着しかないぜ。さらに上から穿くスパッツやレギンスもあるが、売ってる町はまだ先だな。幻想郷とは違うから、あきらめろ」
「う~~」
 スカートを押さえてしまう。仮想空間とはいえ、あまり穿き慣れないタイプの下着だ。どうしても違和感が。
「はき心地が似てるからって、妖忌アバターのトランクスで行くわけにもいかないぜ。ありゃもう変態女だ」
「……それくらい分かってますよ」
 魔理沙の衣服は上が黒、下が白に変わっている。にとりは最初から青だ。妖夢が緑、魔理沙が黒白、にとりが青。これはそれぞれのトレードマークともいうべき象徴的な色であった。プライベートはほとんどそれぞれの色系統の服しか着用しない。姿が戻ったので、さっそく習慣に従っているのだ。魔理沙はさらにどこで買ってきたのか、ツバ広の黒いとんがり帽子を被っている。先端が折れていて、まるで魔法使いに見えなくもない。にとりも緑色のキャスケット帽をちょこんと頭に乗せていた。
「あとは妖夢にこれをやるぜ。ほらよっ」
 魔理沙が自分の髪を束ねていた黒リボンを妖夢に投げてきた。それを黙って受け取る。魔理沙はすでに白いリボンを新たに取り出して、おなじように結わえていた。
「ありがとう。使わせてもらいます」
 黒リボンを頭に回し、カチューシャ結び。右側頭上部におおきなリボンを作る。銀と黒のコントラストが映える。逆に魔理沙は金と白で目立たなくなったが、それが狙いだ。
「とりあえずこれで、基本装備は完了だわ」
 にとりが手を打って、善後策の話し合いが始まった。
 問題はまず、今後をどうするかだ。
「私たち幻想郷クラスタは、簡単に現実へ戻れるはずだぜ。早ければ今夜中にもこの世界から解放される可能性すらある」
「たしかに。紫や咲夜(さくや)の能力なら、ナーヴギアの電子レンジを無効化するなんて、わけないわよ。萃香が怪力で殴っても一撃粉砕だよね。衣玖(いく)のフィーバー落雷もいいかな?」
「にとり、萃香や衣玖は痛すぎるので、勘弁願いたいです」
「紫といえば昨日の午前中だけど、八雲紫(やくもゆかり)から謎の問答を受けたぜ――『世界の魔法を引き出せる力を手に入れたら、どうする』ってな。キノコ狩りに夢中で知るかって答えたら消えてったけど」
「え? 私の住む滝にも来たよ。『世界のカラクリを自由にできる力を手にしたら、どうする』だったかな? 毎度のように抽象的でよく分からなかったから、のびーるアーム量産って適当に答えたら、笑いながらスキマに戻っていったわ」
 妖夢は意外な共通項に驚いた。八雲紫が事前に動いていたとは。
「魔理沙、にとり。白玉楼にも来ましたよ紫さま。『世界を斬り伏せる力を手に入れたら、どうする?』って。面倒だったから斬れば分かるってスペルカード戦を挑んでみましたけど、もう一息のところで新作の四重結界に負けました。あとはいつもの説教を受けておしまい」
 魔理沙とにとりがあきれた顔を向けてきた。
「さすが辻斬りだ。どうせ一息どころか大敗だろ」
「ほぼ確実に負けるとわかってて吹っ掛けるなんて、ブレないわねあなた」
 バレバレである。
「辻斬り言わないで……SAOで気が高ぶってたんですから。でもこれで、あの紫さまがソードアート・オンラインに並々ならぬ興味を持っていたことがわかりました。サービス前日でしょ」
 魔理沙が腕組みした。
「八雲紫のやつ、幻想郷の管理者を自認してるからな。私たちが外の人間と必要以上に関わる可能性を警戒したのかもしれない」
「でもおかしいじゃん。結界の一部を開放して内外をインフラで繋げ、ネットゲームを遊べるようにまでした大元は紫なのに。おかげで人間の里も急速に文明開化が進んで、昨今は車まで走ってるよな。インターネットで筆を滑らせる人もいるから、いまじゃ検索エンジンにも幻想郷は何百何千件とヒットするわよ。結界のおかげで検証の仕様がないから与太話と思われてるだけだし、いまさらなにを用心するのかな?」
 にとりの話からひとつの可能性を思いついて、妖夢は身震いした。
「……もしかして、茅場晶彦がいまの事態を引き起こすことを、予期していたとか? 私が負けたあと、紫さまは最後にこうおっしゃたのよ。『世界を変える力を、あなたは望むの?』と。私がSAOを遊びたがっていた件で幽々子さまから相談を受けておられました。幻想郷の賢者ですし」
 三人は黙ってしまう。
 世界を変えた茅場晶彦。それと不思議な一致をみせる、紫の行動。
 数十秒の空白を置き、魔理沙が口を開いた。
「――もし、だぞ。もし妖夢の予想通りだとすれば、私たちはスキマの都合による謎の実験かなにかで、すぐには起こされない可能性もあるぜ……これはまいったな。なんにせよ何日かは様子見がいいと思うが」
 妖夢は頷いた。
「紫さまが興味を持っておられたように、ほかの仲間がログインしている可能性を探るのが先決よね。幻想郷からは私たち以外にもまだ、誰かログインしてるのでしょうか?」
「正直なところ私にはわからん。みんないろんな能力を持ってるから、ソフトを手に入れる方法なんていくらでもあるしな。私はにとりへ譲ったあと、自分のぶんは普通にネット通販の予約突貫だったぜ。あの数秒で売り切れたやつだ」
「強運ね」
「ま、てゐ(てい)の幸せ能力を使わせてもらったけどな」
 妖夢はすこし腹が立った。こちらは自称鬼と戦っていて予約に挑むことすらできなかったのに。自分の左頬を指さす。そこには『みょん』と。
「ズルじゃない。私は決死の覚悟で八ヶ岳から東京まで寒空の中を延々飛んでって、地図を片手に三時間迷ってようやく秋葉原で列に並んで、なんとかソフトは手に入れましたけどネットテレビに写って、おかげで幽々子さまより散々お叱りを受けて、頬にこんな文字まで書かれちゃいました。ナンパも痴漢も経験しましたし、補導員や警官からも逃げましたし、怖かったですあの大都会」
 東京では行きがけ、間違えて降りた新宿駅で正しい乗り口を探して迷ってるうちに、大学生くらいの男が「道案内してあげるよ」と親切に声をかけてきた。ところが妖夢がOKしたとたん、慣れ慣れしく肩に手を掛けて、駅と反対方向に連れて行かれた。眼前に広がる妖しいネオンサインの群れと、周囲にあふれた夜遊びの雑踏。不安を覚えた妖夢であったが、男がついに怪しげな建物のひとつに入ろうとしたので、反射的に巴投げでぶっとばした。
 秋葉原駅の周辺には目を光らせる中年の男女が何人もいて、SAOの列へ紛れ込もうという青少年を取り締まっていた。妖夢は銀髪と目立つうえ中学生にしか見えないので、ふたりの補導員に学校を聞かれ、当然、追われた。購入列では建物側へ隠れるように並んだ。
 帰りもトラブル旅程だった。環状線の列車内で嫌な目に遭った。どうして新聞とスカートごしにオシリへ手を当ててくるのか妖夢は不思議に思っていたが、そのおっさんが息を荒げて生理的嫌悪を感じたので、なんとなく股間を蹴ったらその場で泡を吹いて大人しくなった。
 好奇心か心配してか、構ってくれた中年女性に事情を話すと、それが痴漢というけしからん行為だと教えてもらった。検挙されたおっさんと一緒に警察へ行くと、まず住所を聞かれ、答えられなくて家出娘と勘違いされ、這々の体で逃げだしたお間抜けな妖夢であった。
「それって、たんに因果応報じゃないかな……」
 にとりの突っ込みに、がくりと肩を落とす。
「苦労性だな。元人間ってだけで私に効いたんだから、てゐの能力は半人の妖夢にもすこしは有効なはずだ。使えるなら使っとけ」
 魔理沙はいくつかの理由から一〇年以上前に人間をやめている。おかげで歳を取らなくなった。
「まさか一〇〇〇人限定のベータ当選も、因幡(いなば)てゐ絡みですか?」
「あたりまえだ。倍率を考えろ。あっはっは、絶対にバレないチート万歳。私の魔法は確率操作なんて繊細なこと、まだできないからな」
 男みたいに笑う魔理沙。これが彼女のスタンダードだ。
「それで魔理沙。てゐにちゃんと報酬はあげました?」
「里で買ったニンジンを何本か。他愛ないぜ」
 妖夢は幸運の素兎に同情した。これでは、ていの良い――ああ、だからてゐなのか? まさかね。あの子は日本語が成立する前から生きてるし。
「話を戻すか。ほかの連中がログインしている可能性で、私は心当たりがない。妖夢はその様子じゃないよな。にとりはどうだ?」
「あるわよ。魔理沙と妖夢以外に、(あや)からナーヴギアの改造依頼受けた……数はふたつ」
「文なら、アバター名は限られるな」
 魔理沙はインスタントメッセージを打った。文面は『テスト。いるなら返事くれ。マリサより』とシンプル。宛先は複数同時――Aya・Ayaya・Ayayayaya・Bunbunmaru・Shameimaru・Syameimaru・Aya Shameimaru……など、一気に一〇種類以上を打ち込んだ。これらのうち大半はエラー表示が出たが、一通だけちゃんと届き、二分後に返事が来た。
「いたぞ。アバター名はアヤヤだ」
 魔理沙はさっそくこちらの現状を伝える。むこうの返事も簡潔だった。
射命丸文(しゃめいまるあや)は取材中だからしばらく合流しないってさ。あちらも同行者がいて、犬走椛(いぬばしりもみじ)だ。にとりと妖夢によろしくだって」
「そのまま文々。(ぶんぶんまる)新聞のスタッフご一行ですよね。異常事態の割には、使命というか趣味優先なのですか?」
 にとりが首を振る。
「ううん、いつ現実に引き戻されるかわからないから、きっとできるだけ詳しく取材しときたいんだと思うわ」
「天狗たちも考えることは同じってことだな」
 犬走椛は妖夢ほどではないが強力な剣士なので、文を十分に守ることができる。ただの人間になったといっても、ふたりきりでの行動にさほど支障はないだろう。
「にとり、ほかに思い当たる人はいませんか?」
「ナーヴギアの改造はべつに私でなくても、電子機器関係に詳しい仲間なら出来るよー。意外な人がログインしてるかもね。たとえば――迷いの竹林の姫とか」
輝夜(かぐや)か。あの超越趣味人ならありえるぜ。私がゲームに填ったのも元はあいつの影響だし、ナーヴギアとの親和性も、べつに河童を使わずとも月人(げつじん)の謎技術でなんとかしそうだ」
 適当なインスタントメッセージを送る。宛先はKaguya・Houraizan・Houraisan・Hime・Hourai・Kaguya Houraizan……おなじく一〇種類以上。残念ながらすべてそのアカウントは存在しませんとのエラーだった。
「もしあいつがいたとしても、ストレートではない名前を付けてる可能性が高いぜ。すぐには分かりそうにないな」
「SAOはこれまでのゲームとわけが違いますから、輝夜が一人だけでログインするとは思えません。お伴の可能性は?」
「そうだな。試してみよう」
 今度の宛先はTewi・Inaba Tewi・Tewi Inaba・Shiawaseusagi・Happy Rabit・Reisen・Udonge・Udongein・Inaba・Reisen Udongein Inaba……。
「返ってきた。因幡てゐのほうだな。名前はハッピーラビットだぜ。輝夜が代筆してるようだ。デジタル音痴のてゐがこれほど早くボードを打てるわけないし」
 返信を打つ魔理沙。
「……てゐの体格だと、頭が小さすぎてナーヴギアは被れないんじゃないですか? ほら、私がSAOで遊ぶって知ったチルノと大ちゃんが試して、ぶかぶかでしたよね」
「だから月人の謎技術さ妖夢。きっと見た目は圧倒的な年少プレイヤーだぜ」
 返事が来た。気になったのか、にとりが身を乗り出してくる。
「輝夜は合流しそうかな?」
「狩りの真っ最中だから遠慮するとさ。うまいこと仲間を見つけて六人のフルパーティーを組んでるらしい。逞しいゲーマー魂だな」
 妖夢もさすがに驚いた。
「あの衝撃から、まだ一時間ちょっとしか経っていませんよ?」
「輝夜は永夜異変で俗世に出てからこちら、いろんなタイトルをリアルタイムプレイしてきたベテランゲーマーだぞ。私のようなにわかとは年季が違う。的確なメンバーをその場で探し当てる嗅覚にも優れている。それに以前からの課金プレイヤー仲間かもしれないぜ」
「五年も遊んでる魔理沙のレベルでもにわかって……」
「あちらは二〇年選手だ。比べるほうがおかしい」
 因幡てゐが従者をしている理由は不明だが、輝夜のほうはわかりやすい。ヘビーゲーマーとして遊ばずにはいられなかったといったところだろう。ナーヴギアを独自に調整していたように、魔理沙は無関係だ。むしろ輝夜がいたから魔理沙のSAOプレイ、さらに妖夢のログインへと繋がった。幻想郷ゲーマーの源流だ。
 その後、三人の話し合いはいくつかの提案と協議がつづき、最初の数日は外より救助が来るまで待機する方向で固まりつつあった。紫の動向が不明だった。
「あっ」
 妖夢は思い出した。時刻は午後七時をすぎている――そういえば七時半に、クラインと会う約束があったはず。
 マップを表示すると、クラインはちゃんとはじまりの街にいた。ところがもうひとつの点、キリトを示す光点が、なんと北西に離れた森のど真ん中にあるではないか。最寄りの安全地帯……圏内は、キリトが教えてくれたホルンカの村。
「どうしたんだ妖夢――うわあ。もうこんなとこまで進んでるアホがいるのか。この速度は間違いなくベータ経験者のソロで、位置からきっと村の秘薬クエだぜ。どれだけ急いでもどうせボスモンスターで足止め食らうってのに。ほんのちょっとのスタートダッシュと、命をかけるリスクからいったら、とても割に合わない選択だ」
「どうして?」
「ソードアート・オンラインが、パーティープレイを前提としたゲームだからだぜ。敵のバランスがそうなっている。ほとんどのボスはソロの手に余る難敵だし、ソロプレイというだけで死亡率も高いはずだ。死んだらマジで終わるってシチュエーションなのに、よくやるよな」
 自分を認めてくれた人を悪く言われて、妖夢は本能的な反感も含め、すこし複雑な気分だった。でもたしかに、魔理沙の発言にはもっともなところも多い。キリトの行動はいわゆる若気の至りってやつだろう。
「キリトさん。魔理沙とおなじテスターだった人です。あちらはウィッチ・マリサを知っていますよ。『本当に女だったのか』って驚いてました」
「へえ……誰だろ。キリト? わからん。知り合いなんて多すぎて覚えきれないぜ。なんにせよ、私に言わせればこいつはバカだ」
「魔理沙は今夜はもう動かないんですよね」
「ああ。スキマの動きが気に掛かるが、幻想郷とて一枚板ではない。いまにもほかのやつが起こしてくれるかも知れないからな。この状況はそれに、異変じゃなくて事件だぜ。もはや顕界の警察に任せるべき事案だから、住む世界――テリトリーの異なる私たちが動くいわれもない。いくら紫が事前に知っていた可能性があってもな。それにナーヴギアの電子レンジが私たちの脳髄に効果あるか分からないが、体験するような可能性は回避するに越したことはないだろう」
 にとりが相づちをうつ。
「私はそれでいいと思う。でもさ、万が一事態が改善されずに戦うしかなくなったとき、先行者たちにレベルで後れを取るってことにならない? せっかく妖夢がいるのに」
「経験値効率の壁ってやつがあってな、いくら狂ったように戦いまくろうが、すぐにレベル上昇の限界が訪れる。二~三日様子見してから動いても、先にいったようにソロ組はフィールドボスの通せんぼを受けるから、パーティー組がレベル的におおきく出遅れるってこともないはずだ。つまりSAOの攻略速度を決めるのは、あくまでもパーティープレイヤー集団ってわけだぜ」
「なら、キリトさんを連れ戻しに行きたいです。救いたいの」
「動くいわれはない。だいたい、キリトとやらは自分の意志で危ない道を選んだ。救うとは大言壮語だな妖夢」
「でも私、彼からこのゲームの技を教わったんです。キリトさんの思いは知りようがありませんが、恩は返したい。それに知ってる人を死なせたくない……」
「一見、筋は通ってるかもな。ただし行くなら私とにとりを巻き込むな。あくまでもソロで行け。行ってきて、確かめて来てみろ」
 妖夢は軽い後悔を覚えた。自分の都合を優先し、魔理沙とにとりのことを失念していたのだ。
「……キリトさんが出来るなら、私でもたぶんソロで行ける、と思います」
「だが妖夢が今夜のうちに帰ってくるとは限らない。私たちをエスコートしてくれる護衛剣士が、一時的とはいえ、いなくなるぜ」
 妖夢と魔理沙・にとりの技倆差は、考えるまでもない。妖夢は純粋な剣士だが、魔理沙もにとりもそうではない。SAOには魔法の類がなく、投擲武器も貧弱だ。
「テスターだった魔理沙は、ブーストを使えないんですか?」
「あれは適性がないと無理だぜ。まともに使えるやつなんて一〇人に一人くらいしかいない。私はとっくに諦めた」
 つまりキリトはすくなくともゲーム内の剣技に関しては、上位一〇パーセント以内に入る才能を有しているわけだ。もしこのデスゲームが何週間何ヶ月とつづき、本当に浮遊城アインクラッドの第一〇〇層まで攻略するしかなくなったとき、クリアに貢献できる貴重なプレイヤーのひとりとなるだろう。その原石が危険な状態にあるらしいというのに、砕かれるリスクを見過ごせるだろうか。
「……彼女欲しい病患者ですけど、私の代わりとなりそうな人がいます。その人にはブーストの才と、リーダー職の経験があったの。ベータテスターではないですが、ネットゲーム歴は長そうです」
 クラインはブーストを覚えかけている。おそらく魔理沙のいう一〇人に一人のうちに入る側だ。
「男だよなそいつ」
「ごめんなさい。でも信用していいと思います」
「にとりはどうだ?」
 人見知り……とくに男に対してのそれが激しい河城にとりが、いまの判断基準となる。男勝りの魔理沙はどんな環境へも平気で入っていけるが、にとりは人好きなのにそうではない。だからにとりが無理なら、ここはさらにほかの手を考えることになるだろう。
 にとりは青い瞳に葛藤の光を揺らし、思考の渦を惑わせていた。
「――ねえ魔理沙。このゲーム、ほとんど男の人しかいないんだよね」
「ああ。九割以上が男だ」
「じゃあ、もう逃げても仕方ないよね。川も滝もないし」
「……妖夢。その男は、女に手を簡単には出せないようなタイプか? 離れて愛でるだけで満足できるタイプか?」
「そうですね――あの様子だと、相思相愛でもない限り、手を出すなんてとんでもないって考えじゃないでしょうか。だからナイト役としてもってこいだと思います」
「案内してくれ。そこで私が直に見分する。変なやつだったらマスタースパークで焦がしてやる――っておいおい、いまは使えないだろ私」
 マスタースパークは魔理沙を代表する攻撃魔法だ。
「ノリ突っ込みです? 反応する暇もないじゃない」
「にとりのトラウマ解消に光明が見えたからな。妖夢の見立てをとりあえず信じてみるぜ」
 まるでウブな少女みたいに、にとりもこわごわと頷いた。
「紳士なら、もしスケベ君でも怖くないかも」
 自分で紹介すると言っておいて、妖夢はすこし心配になった。それでいいのか河童娘?
「……魔理沙、にとり。私の我が儘を受け入れてくれて、ありがとう」
 妖夢はフレンドメッセージを打った。相手はもちろんクラインだった。
     *        *
 指定した黒鉄宮正門前で、近づいてきたみょんを視界に入れた瞬間、二〇歳ちょっとすぎと見られる推定変態紳士はカチコチに固まった。
「なななな、長野ちゃんじゃ――ないですか~~あ?」
 声が裏返ってしまっている。絵に描いたようなあがりっぷりに、思わず笑ってしまった。
「クラ之介さん。私です」
「おおお話できて光栄です。あののののの、どどどどど、どこかで出会いましたっけ。ああああ、一週間前に、秋葉原のおショップで、お会いに、でもあのときはお会話はまったくなかったと、ごきききき記憶しているでありますよ」
 マシンガンのような連射ドモリに、妖夢のうしろで魔理沙が「童貞だな」と失礼なことを呟いた。にとりもすこし嬉しがっているみたいだ。たしかに成人式を終えた人間であちらのほうがまだ未体験なら、女にとってはある意味、都合の良い安全な男だ。もっとも妖夢と魔理沙は花より団子で、ご立派に生娘(きむすめ)だが。にとりの純潔については、さすがに妖夢も知らない。この河童は妖夢の一〇倍近く、六〇〇年は生きてきた。
 クラインの棒立ち自動トークはずっとつづいている。このままでは話が進まないので、強引に打ち切った。
「みょんです。装備を見てくださいよ」
 背中側を見せてみる。鎧なし、後ろ腰と背中に二本のカトラス差し。クラインも目が覚めたようだ。
「――え! まさか、みょ、みょん吉さんか! いやたしかに、頬にもみょんって律儀に書いてるよな。本名、ヨウムさん?」
「はい。妖夢ですよ~~」
 クラインの顔は、アーティストみたいなあの好青年はどこいった! って感じだった。突っ込みたくなるほどの変容だ。クラインのひょろっとするもすこしだけワイルド成分を含む本当の顔が、こちらを唖然と見ている。妖夢もクラインの素顔を改めて見てみたが、彼女が欲しい年頃なのもわかる。髪の色はワインレッドから茶髪になっていたが、赤バンダナはそのままだ。声のほうもさほど変化はしていなかった。
「陽気な野武士ですねえ」
 鈴のような凜とした声だと、自覚している。任務として遠くへ届く発声をこなしているうちに、透き通った音になった。
 そんな声にアテられたのか、クラインがまた赤面した。
「まいったな。こんなに可愛いんじゃ、もうみょん吉って言いにくい」
「褒めてくださってありがとうございます。みょんでもみょん吉でも妖夢でも、呼び方はどれでもいいですよ」
 サプライズはひとまず終わり、お互いの仲間を紹介し合った。クラインの友人は五人もいた。一万人から無事に合流できたのは、アバター名を教え合っていたからだろう。
「クラインです」
「ハリー・ワンです」
「イッシンです」
「ダイナムです」
「クニミツです」
「デールです」
 古風っぽい日本語を元にした人がふたりもいて、やはり歴史関係が好きなようだ。やや童顔のハリー・ワンはすでに革鎧を全身レベルで着込んでおり、イッシンは茶髪トンガリ頭、ダイナムはお祭りで被るような赤い布帽子にちょび髭、クニミツは黒髪のオールバック、デールは鉢巻きアフロヘアの小太りさん。全員が二〇歳前後だ。
「みょんです」
「魔理沙だぜ」
「……にとりです」
 お互いを代表して、クラインと魔理沙が話をはじめた。魔理沙の目的は守ってくれる人探し。ぶっちゃけると男避けの男。言葉を偽らず、きちんと話して伝えるのが魔理沙のやりかただ。クラインたちは最初、日本人離れした神秘的な妖夢たちに見とれていたが、女の子より守ってくれと言われて断る理由はない。安請け合いのようにクラインは胸を叩き、魔理沙とにとりをしっかり護衛してみせると意気込んだ。魔理沙の審査にこの野武士は合格したようだ。決め手となった理由は、彼の名誉のため永遠に伏せておいたほうが良いだろう。クラインのパーティーはすでにシステム上限の六人に達していたので、魔理沙とにとりが別のパーティーを組み、さらにクラインパーティーと連結した大規模パーティー、レイドを組んだ。これは最大四八人までが参加できる、攻略戦用の拡張仕様だ。
「それでは私は、キリトさん救出作戦に出発してきます」
 丁寧なお辞儀に、クラインと仲間も思わず会釈で返す。男たちは夜中にソロで出立する長野ちゃんを心配していたが、実力は保証するぜと、クラインがフォローを入れてくれた。
「長くなるが、ひとつ忠告しておくことがある、みょん吉」
 けっきょくみょん吉かよ。じゃあこちらもクラ之介で通そうと、妖夢はおかしな決意をした。
「なんでしょう」
「キリトがソロを選んだのは、若気の至りとか、そんなもんだけじゃねえ。男には自分の世界ってもんがある。あいつは最初、俺を連れていこうとしたんだよ。コンビプレイに誘ってきた。ふたりなら、ソロよりはいくぶん安全だな。だが俺にも俺の世界があって、元ギルマスって個人的な立場から、いわゆるリーダー職としてダチどもを優先するべきだって心が語っていてな……その結果としてキリトが、危険を承知のソロになっちまったってことを、できれば理解してやって、心に留め置いてくれ。そしてな。きちんと手をさしのべてやってくれ。言い訳にしかならないが、俺は俺の事情から、キリトの世界を守ってやれなかった。みょん吉、いや、ヨウムさん。キリトを宜しく頼んます」
 真面目な顔で、クラインは自分の胸中を告白した。この人は見た目より大人なのだなと、妖夢は軽く感銘を受けた。
「クラ之介さんって素敵な方なんですね」
「よせやい。照れるじゃねえか」
「……男の子ほど広くはないかもしれませんが、女の子にも自分の世界くらいあります。私は私の世界と耳目で、キリトさんと会ってきますよ」
 もはや救うとは言わなかった。それが上から目線の傍観にすぎないことに気付いたからだ。自分が当事者になればどんな選択をするのか、このような異常なゲームであるからには、妖夢も実際に経験しないと分からないだろう。たとえそれが他人から見て、魔理沙のように「バカだぜ」と一蹴されるような、一見愚かなチョイスであったとしても。いや、すでに妖夢はそう言われても仕方のない行動を取ろうとしている。筋が通っていそうだという曖昧な理由だけで、魔理沙は妖夢の私情に満ちた自己満足を容認してくれた。
 みんなが手を振って見送ったが、最後になって「思い出した!」と魔理沙が声をあげた。
「キリトは、ソロのくせにLA取り常連だった、困ったちゃんだ」
「えるえー?」
 妖夢はLAがなんの略語なのかを知らなかったが、クラインたちが絶句した様子で瞠目していたことから、どうも大層なことらしかった。その常連ともなれば、キリトは想像以上に強い。
「簡単にいえば、協調性に欠けてるくせに腕は立つヤンチャ坊主ってことだ」
 協調性……いまの妖夢には痛い単語だ。妖夢が自分の強さを盾に我を通そうとした結果、魔理沙&にとりをクラインたちに預ける面倒な展開になったのだから。キリトの開幕ダッシュも、実力者としての自負が根拠となっているのだろう。
「追いつけるでしょうか」
「キリトはソロだけにかえってこの第一層を知り尽くしている。対してみょんはろくに知らないし、能力も九九パーセントを封じられている。無理はするな。駄目と思ったら諦めて引くんだぜ。命が一番大事だからな」
「え~~。アレで実力の一パーセントかよっ!」
 いつもの調子に戻ったクラインの驚きを合図に、妖夢はスタートする。
 首尾も上々と判断し、妖夢は駆け足。時間はすでに午後七時半をいくぶんか過ぎていた。
 北門よりフィールドへ出ると、すでに真っ暗だ。明かりはない。ほぼ闇の中、すぐに目が慣れてゆく。現実の妖夢であれば月がなくともまるで昼のように細部のディテールを掴めるのだが、いまは凡庸な人間としてゲームシステムに認識されており、人智を超えた能力を発揮するには、スキルを覚えて鍛えるしかない。スキルスロットはすでに満杯で、これを増やす手段は、レベルをあげることのみ。
 だから妖夢は、出会う敵をすべて斬り伏せていった。逃げる、かわすという選択肢はない。カトラスを一本だけ右手に持ち、ブーストさせたリーバーの一撃必殺でひたすら斬り捨てる。イノシシだろうが狼だろうが、三頭くらい固まっていようが、ダメージは一ドットも受けない。しかも戦闘のために足を緩めるようなこともしない。ずっとフル走行のままだ。一五分ほど走ったところでレベルが二にあがり、金色のライトエフェクトが全身を覆うと同時に、わずか二五〇しかなかったHP総量がいきなり四〇〇へと増えた。ステータスアップ値三を筋力値か俊敏値に振り分けられるが、迷わず三とも俊敏に入れた。現状だと十分に攻撃力過多なので、より軽く、より速くだ。
 さらに数分走ったところで、さっそく選択を強いられる場面に出会った。
「道が曲がっていますね……」
 マップを見れば、このまま森に突入したほうが、ルートをずいぶんカットできる。キリトの教えてくれた道筋はおおきく迂回しろと指示しているが、いまは時間が一分でも惜しかった。
「ええい、ままだわ! 愚策でもいい。チャレンジです」
 妖夢は構わず、森へと入っていった。なぜ安全を顧みず逸るように動くのか、自分でも理解できない、えもいわれない衝動に突き動かされている。キリトにSAOで求めていた強者の予感を覚えているからだろうか。
 森の中は意外と木の間が開いていて、まるで人間に管理された山林のようだ。おかげで割と楽に走ることができた。出てくる敵はすこし耐久力が上昇して一撃とはいかなくなったが、それでも一刀を二刀に増やし、ソードスキルを使わない連撃へシフトしただけで、あっさり倒せるようになった。どいつもこいつもたいしたことはなく、四~六回も連続で当てれば死ぬ。妖夢の隙はまったくない。
 森の中でも移動しやすいのは、おそらくこういった戦闘もこなすためだろう。森林をあまり現実的に再現すると、誰も森に入らなくなり、エディットしたアーガス社員も苦労が水泡だ。誰もが必ず通る最序盤の街道筋だから、脇道といえる周辺部も楽に渡れるよう作っているのだろうし、これから先も似たような作りかもしれなかった。
 森のモンスターで唯一、気をつけなければいけないのは大型の蜂だ。しつこく針で刺そうとしてくるので、ステータス異常の付加攻撃だと思われた。道具屋で調達したポーションの中に解毒薬というのがあったので、おそらく毒針だろう。どのみち妖夢は森を抜けるまでどのモンスターからもかすり攻撃すら受けなかった。HPバーはずっとMAXのままである。
 気が大きくなってより大胆になった妖夢は、森を抜けて街道に合流すると同時に、そのまま道を横切り、目の前の森に再突入した。街道にプレイヤーの六人パーティーがいて、うちふたりはよく見知った顔だったが、構わずスルーした。
「妖夢なの?」
 風鈴のような透明感のある女の声で――蓬莱山輝夜(ほうらいざんかぐや)だ――誰何の問いが投げかけられたが、答えない。妖夢はマップを開き、ルートを確認する。目指すは真っ直ぐに白い点、キリトがいる地点だ。妖夢の剣術とレベルであれば、この辺の敵はことごとく雑魚中の雑魚であると分かった。であるなら、まどろっこしい道の選択など無粋であろう。実力に応じた道程とは、正面よりすべての抵抗を粉砕する、すなわち猪突猛進である。
「メッセージくらい、送ったほうがいいですよね……」
 無視はさすがに失礼すぎる気がしたので、魔理沙より教えられたアバター名Lunarへインスタントメッセージを打つ。もちろん走りながらだ。
『急ぎますので失礼を許してください。野暮用で、利己的で無謀なソロを拾いに行きます』
 相手は目上の貴族令嬢だが、妖夢にしても適当な丁寧さだ。
 すぐに返信が来た。
『火中の栗を気に掛けるとは、あなたらしいわね。健闘を祈るわ。ただしネペント類の腐食液は装備の耐久力を持っていかれるので、注意すること。横に回避しなさい』
 さすがベテランゲーマーだ。似たようなことはすでに魔理沙からも教えられたが、妖夢の直進方向だけで目的地を当ててしまうとは。輝夜は元ベータテスターではないが、相当な研究で大量の情報を仕入れ込んでいるのだろう。ベータ版の内容は口外してはならないという建前があったが、実際は匿名掲示板を中心としてリーク情報がけっこう流れていた。虚実入り混じった中より正しいと見られるデータを集めるのはさぞや苦労したことだろうが、その辺りは年の功。なんであれ趣味にかける行動力は見習いたい。
『恩に着ます』
 短く返礼したところで、モンスターMobが眼前に湧出した。醜悪な大型芋虫が一匹。二刀を構えた妖夢は芋虫へと体重を乗せて切り上げ、宙に浮かせたワーム型モンスターへ二度・三度・四度と、左右交互で縦の回転斬りをお見舞いした。その動きは流麗としかいいようがなく、まるで剣舞だ。当てられるたび芋虫は宙を跳ね、六連撃目で爆散した。ポリゴンのシャワーを掻き分けるように、銀髪の剣士は先を急ぐ。
「レベルアップ様々ですね。二刀での疑似再現とはいえ、無跳躍の弦月斬(げんげつざん)がこうも簡単に使えてしまうなんて……」
 左右で交互に切り裂いたのは、武器使用の硬直時間があるからだ。だがレベルが二になったことで、すこし短縮されているのを感じた。よりレベルが上昇すれば、ほかの魂魄剣技もつぎつぎと使用可能になるだろう。もっともその機会が与えられるかどうかは別の話だが。
 時間から考えて、魂魄妖夢はいつ起こされてもおかしくない。茅場晶彦がいかな天才でも、人間の範囲という、限られた領域での才である。人を超越する超常能力の数々には、多少の科学や常識など、なんの制約も持たない。だが妖夢がこのゲーム世界より一向に解放されないのは、やはり八雲紫が関与しているのか、それとも前例のない異変に騒ぎとなっていて、博麗(はくれい)の巫女辺りを中心に、対策を話し合っているからだろうか。いずれにせよあちらの結論が出るまでに、キリトともう一度会っておきたかった。彼の素顔にも興味がある。
     *        *
 ひたすら駆ける妖夢。森を走っているうちに、やがてモンスターの内容が変わってきた。一気に人間サイズへと肥大させた、気色悪い食虫植物型の怪物である。名前はリトルネペント。いよいよキリトが戦っている現場に近づいてきた。
 二匹いるネペントが、長い触手で攻撃してくるが、妖夢はあっさりかわして懐へ入り込む。そこより二刀を別々の箇所へ同時にお見舞いし、ネペントの反応を見る。何回か攻撃して弱点を体の一番細身になっているくびれ部分と見定めると、集中攻撃して一気に倒した。その間、もう一匹が妖夢を攻撃してこないよう、つねに対峙しているネペントを盾とするように動いていた。初見の敵が複数いたときの、基本戦術だ。
 ようやく攻撃できる位置についたもう一匹が、息を吸い込むモーションを取った。輝夜の警告にあった腐食液だと判断し、回り込む。リトルネペントはタメ動作より追尾するといった動きは見せず、そのまま妖夢の消えた虚空へ液を吐き出した。隙だらけのネペントに後ろより連続攻撃を当てる。すべて弱点のくびれ部分で、五撃で倒せた。
 やっかいな特殊攻撃を持つかわりに、体力または耐久力が低めのようだ。地面に染み込む体液のいやな臭いが鼻をついた。ダメージおよび死亡時のエフェクトでは若年プレイヤーに配慮して残酷演出を避けてるのだから、ゲロなんか再現しなくてもいいのに。
 マップの拡大率をあげ、キリトの方角を確認しつつ、妖夢は進む。モンスターとの遭遇率が上昇して、その多くが歩く食虫植物だが、ことごとくをあっというまに屠ってしまう。一度は四体同時に現れたが、難無く倒せた。だがそれは戦っているのが妖夢だからであって、キリトがおなじ状態で楽勝とは限らない。腐食液を食らって武器を失えば、逃げ回るしかないだろう。
「もうすぐ会えますね――私の姿を見て、どんな顔をするかしら」
 いたずら心から、楽しみで胸が弾む。クラインの反応は、もしカメラがあるなら記念撮影をしておきたかった――
 ぱあんという破裂音が、妖夢の足を止めた。
「およ?」
 注視して音のしたほう……キリトがいるはずの正面を見てみる。すると敵を示す赤いカーソルがいくつもあらわれ、音源にむかって吸い寄せられているのがわかった。ただし夜の森ということもあり、リトルネペントの姿はろくに見えない。カーソル表示の融通性は、凡人を即席の達人に変える補助機能のひとつだ。たとえ暗闇や霧であまり見えずとも、敵がいて隠れるようなそぶりを見せていない限り、注目すればいるはずの、見えないはずの存在を確認できる。その恩恵を妖夢も受けていた。もちろん現実の妖夢はこのていどの気配を感じるなどお手の物であるが、いまは高感度センサーの半霊もいないし、人より多少すばしっこしだけの仮想アバターにすぎない。
「……急ぎましょう」
 全力疾走に切り替え、急行する。リトルネペントが襲ってくるがこれまでの主義を翻して避け、キリトがいるはずの闇に向かって滑走するように加速した。ノーマルの走行速度を超えたシステム外スキルのブーストを発動中であるが、妖夢は自覚していない。元より通常攻撃時のブーストはほぼ最初から自然に使えていたので、通常動作もさほど意識はしていなかった。ソードスキルのブーストにすこし手間取ったのは、それが強制的に動かされる中での制限付き所作ゆえだ。
 リトルネペントどもをつぎつぎと追い越し、一分とかからず妖夢は目的の人物を見つけた。少年が大量のリトルネペントに囲まれて戦っている。
 ……ふたりも。
 なぜソロと聞いたキリトに、おまけが付いてるんだ。
「どっちよ!」
 注目すると、片方にアバター名Kiritoが表示された。フレンドやパーティーメンバーであれば名前が出る。暗いので顔はまだよく見えない。だがキリトでないほうのHPが二割を切って危ない。円盾で必死にガードしているみたいだが、やがて押し切られるのは時間の問題だ。三面を木に囲まれた茂みの袋小路に追い詰められているようで、逃げ場もなく、かなり体力を削られている。HPバーの色が赤いのは、たしか危険域のシグナルだ。一方のキリトはまだまだ安全圏の黄緑色。ここはキリトには悪いが、助けるべきはまず名無しくんだろう。
「魂魄妖夢、推参! 押し通ります!」
 景気づけに叫んで、群れへと斬りつけた。
 面倒なので、再現ホヤホヤ非跳躍タイプの弦月斬をひたすら連続で、かつ無差別に繰り出す。延々と回転しながらリトルネペントの壁を突破し、むこうにいた瀕死の少年と合流した。突然沸き立った銀髪の少女に一四~一五歳ほどと見られる名無しは自失の体を晒していたが、妖夢が「ここは私が支えます! 回復して!」と叫ぶと、真面目そうな表情に生気を戻し、すぐに行うべき最優先の行動を取った。
 妖夢が自分のHPバーを確認すると、いきなり三割弱も減っていた。胸当てすらつけてないのに強引な突撃を敢行したので、何回かちいさな攻撃を受けたようだ。だがこれからは簡単にダメージは許さない。二刀を構え直し、妖夢は一〇匹以上いるネペントどもを一気に始末しに掛かった。
「斬ります!」
 正面と左右より、同時に襲いかかってくるネペントども。だが妖夢にとってこのていどは何度も抜けてきた試練で、まだ修羅場ですらない。いかに能力を制限されているとはいえ、確実に回避し、着実にダメージを与えれば、敵はいずれ倒れる。しかも妖夢の攻撃は一度削りはじめれば、雑魚ならば高確率でその体力を最後まで吸い尽くしてしまうのである。一度の連携技は開始より終了まで二~三秒しかかからない。リトルネペントはツル攻撃の間隔が五秒以上は開くので、ほかのネペントの打撃を受けないタイミングで狙った相手を倒すのは、それほど難しいことではなかった。おまけに通常攻撃のみでのラッシュアタックであるから、ソードスキルと違い、隙はまるでないに等しい。
 妖夢は両手のカトラスとその柄を握る拳、さらに両足はもちろん、肘や膝、さらには肩まで、体中のあらゆる部位を使って連続技を放ち続けた。全身凶器の舞いは間欠泉のように一分近く踊られたが、やがてその舞いも終わるときが来た。相手がいなくなったのである。
「シマシマ……どうして長野ちゃんがこんなところに」
 振り返ると、名無し少年のHPはまだ黄色の注意域だった。SAOのHPは特殊なアイテム使用を除けば、すこしずつしか回復してくれない。とりあえず少年に接近するリトルネペントの影がないことを確認すると、妖夢はさらになにか言いたげな彼を手で制した。黙したままもうひとつの戦場へ向かう。こちらはもっと多く、二〇匹近くがウロウロしているではないか。数が多すぎてキリトを包囲しきれず、外周のネペントはターゲットを求めて彷徨いはじめてすらいる。
「キリトさんっ!」
 第一声にキリトと見られる黒髪の少年は、「誰だろう?」というように首をかしげた。その余裕ある態度に妖夢はすこし安心し、一刀目を最寄りのネペントに打ち込んだ。さきほどと違って合流しようとはしない。あれは名無し少年の命が風前だったから緊急に行ったことで、十分な戦闘センスを持つキリトを助けるには、個別に戦って負担を軽くしてやるだけでいい。
 両手両足を臨機応変に繰り出す連続技の数々で、妖夢は一匹、また一匹と変幻自在にリトルネペントを退治していった。途中で変わった花のようなものを付けた個体を倒したような気がしたが、検証はあとだ。いまは戦闘に集中する。妖夢の乱れ打ちが伝播したのか、ショートソードを振り回すキリトの動きも加速してゆく。ふたりの乱舞で内側と外周より崩されたネペントたちは、やがて挟まれるように黒髪と銀髪のふたりに料理されていった。ついに最後の一体となったネペントに、正面側より水色の閃光を棚引かせた横薙ぎ技ホリゾンタルが打ち込まれ、背後側よりカトラスの鋭い刃が二本同時に突かれ――
 妖夢は四散し弾け飛ぶポリゴンガラスのむこうに、キリトの素顔を見た。よほど無心で戦っていたようで、彼は突然なにかから醒めたような、唐突に目の前で手を叩かれたときに見せる、やや冴えない顔をしている。
 キリトの印象は、女の子のような中性的な容姿というものだった。女装させれば、ハンサムな女の子で通用してしまうだろう。そういう隠れ美少年。目立つような顔ではないが、それなりに整った顔で、きっと好きな子は一途に惚れてしまうだろう、そんなツボに入りそうな、無自覚女垂らしの相を秘めた男の子だ。年齢は、ざっと一四から一五歳くらいか。垢抜けない髪型から見て、すくなくとも高校生ではなさそうだ。まだ中学生だろう。でも多くの人にはおそらく、不思議な雰囲気を持つキリトの実年齢は把握しづらいだろう。たくさんの人間と接してきたから彼の年齢がなんとなくわかるのだ。身長はキリトのほうが一〇センチ近く高い。キリトの装備品には新しい防具が加わっていて、茶革のハーフコートを着ている。
 妖夢の瞳にキリトが映っているように、キリトの瞳にも妖夢が映っていた。銀髪青眼の一見儚げなくせにそのじつとんでもない豪剣少女が、暗闇で二〇メートル先も見えない夜の森にあって、物騒な曲刀を二本も握って立っている。しかもその正体は、東京秋葉原からオタク限定で全国区になってしまった、プチ話題のゲーム女子だ。
 ふたりはネペントにトドメを差したポーズのまま、軽く一五秒は見つめ合っていた。戦闘終了と大量の経験値やコルを得た表示が出ているが、いずれも気にしない。剣を引き、ようやく口を開いたのは、キリトの側からであった。
「……まさか、みょんなのか? 頬にわざわざ書いてるし、間違いないよな」
 これだけ凝視していれば、銀髪少女のステータスにしっかりアバター名が表示されていることにキリトも気付いただろう。フレンド登録した者の証だ。やや無感動なキリトの声だが、若干の緊張を成分として含んでいる。そのように妖夢は感じた。クラインほどでなくとも、内心では相当に驚いている様子だ。
「どうも、みょんです。キリトさん、可愛い顔をしていますね」
 いきなり内心を吐露してしまった。妖夢は浮ついた自分の物言いに動揺した。少なからず緊張しているのは、お互いさまだったのだ。クラインの素顔を見たときとは、反応がまるで異なる。その理由を妖夢は特定できず、困惑した。
 すこし傷ついたようにキリトは視線を逸らせた。
「クラインにもおなじことを言われた」
 拗ねたようなキリトの声は、別れる前とさほど変わっていなかった。クラインとおなじく、ボイスエフェクタにほとんど手を加えてなかったようだ。ただ妖夢には効果覿面な魔法の言葉も、男子には逆効果になるらしい。せっかく会えたのに最初がこれでは拙い。妖夢は内心でさらに焦っていた。
 えーと、男の子が喜びそうな単語は――
「まだ中学生なんですから、仕方ないですよ。放っておいても高校にあがれば格好良くなりますから」
「あんた……いや、きみも中学生だろ? まるで長生きでもしてるような口ぶりだな」
 流れから妖夢が持つ秘密の核心にキリトが触れてしまった……ので、妖夢はいきなり注意を逸らすことにした。どうも歯車が合わない。なんだろうこの恥ずかしい空気は。
「そ、それよりもHPを回復しておいたほうがいいですよ」
 キリトのHPバーが黄色く変じている。五割を切った注意域の表示だ。妖夢は最初の強引な突撃を除けば無傷のままだった。
「ああそうだな」
 変なこの空気から逃げたいとキリトも感じていたのか、あっさり受け入れて赤ポーション瓶を飲む。すぐ使用できるようポケットに入れていたようだが、戦闘中は使う機会が取れないことも多い。回復する様子をなんとなく見物していた妖夢だったが、HPバーが黄緑に戻ったキリトがおもむろに歩きだした。
 向かう先は、さきほどの名無し少年がいた方向だ。途中で不思議なアイテムを拾った。転がっていた、こぶし大の球体だ。光っているそれをキリトが手に取ると、『リトルネペントの胚珠』と表示ウィンドウが出た。
「なんですかこれ?」
「クエストのキーアイテムだよ」
「モンスタードロップのアイテムって、勝手にストレージへ蓄えられますよね。直に拾うって、はじめてみました」
「この手のアイテムは、獲得の達成感を得るために、オブジェクト化して現れることが多いんだ。だから実際に手にしないと取得できない。報酬アイテムもおなじだな」
「そういえば魔理沙が森の秘薬クエストって言ってました。それですか」
「けっきょくウィッチはログインしていたのか。だからみょんは俺のところに来ることができたんだな……ありがとう。もしきみが助太刀してくれなかったら、俺は早々に死んでいたかもしれない」
 キーアイテムを手の中でこねていたキリトは、投擲動作を取ると、目の前の藪へと投げ込んだ。あれっと妖夢は思った。投擲用ソードスキルの光芒は起きず、ただ放物線を描いて飛んでいく。たしか昼間、イノシシの挑発に投剣スキルを使っていたはずなのに。
 藪に吸い込まれた胚珠は、なにかにぶつかって音を立てた。
「大事なアイテムですよね?」
「もうひとつあるんだな、じつは」
 キリトが左腰のベルトポーチを開いて、おなじ球体を取り出した。
「ということは?」
「アレは、あいつ用だ」
 誰もいなかったはずの藪に、菱形の緑色カーソルが立っている。プレイヤーを示すカラー表示だ。頭にぶつかった胚珠を慌てるように拾い上げると、あの少年がこちらを向いて、また消えようと体が薄まるように見えた――が、妖夢がそれをさせなかった。防具なしを活かした全速力で駆け寄ると、名無しの腕を掴んで逃げないようにする。
「それって隠蔽――ハイディングスキルよね。命の恩人の前から、なぜ逃げるように消えようとしたのかしら?」
 礼を失する行為を目撃して、わざと丁寧語を使わず誰何する。
「……ごめん……ごめん」
 少年は小声で謝るだけで、妖夢からもキリトからも、顔を反らしてただうつむくだけだ。これでは埒が明かない。
「キリトさん、なにがあったんです?」
「簡単にいえば、MPKってやつが行われようとしたってところかな。ハイディングスキルを利用した」
 キリトにはなぜか、あまり怒っている様子が見られない。MPKは有名な略語なので、初心者とはいえ聞きかじっているだけの妖夢にもわかる。モンスター・プレイヤー・キルまたはキラーの略で、モンスターを利用してプレイヤーを殺害する行為だ。
 キリトとコペルは、おなじ森の秘薬クエストを別個に受けたという。このクエストは片手用直剣プレイヤーには重要なアイテムが手に入る。森の中で知り合ったふたりは、狩りの効率を高めるため一時的に共闘していたらしい。二~三匹のリトルネペントが出ても、ソロなら指をくわえて見送るだけだ。だが結果はコペルの裏切り行為となった。
「どうしてキリトさん、ひどい目に遭ったのに怒ってないんですか?」
「いやまあ。ゲームだし。ルール内だし」
「でも死んだら終わりなんですよ? デスゲームですよ?」
「誰もそれが本当か、確かめるすべがない。そのリアリティの薄さが、SAOの怖いところかもな」
 キリトの言い方は淡々としていた。
「まあこうして俺は助かったわけだし、コペルも勘違いから死にかけたわけだし、十分にキモは冷えただろう。今後は気をつけて上手くやれよ。ただし、敵意の押し売りはナシだぜ」
 コペルと呼ばれた少年が、なぜか小さく笑う。癪に障った妖夢は少年の腕を捻って行動の自由を完全に奪った。感覚遮断によって痛くはないだろうが、本能的に抵抗しづらい。元より気弱そうなこの少年は、妖夢の異次元めいた無双ぶりをなまじ見ているだけに、逃げようとするなどあまり考えられなかった。
「勘違いって?」
「ハイディングは、目のないモンスターには効きにくいって話。ほかの感覚で周囲を見てるって設定だからね。ちなみにリトルネペントを呼び寄せる方法は、頭に実のついた個体の、実を破壊することだ。胚珠を落とすのは、花を咲かせた個体だな」
「つまりリトルネペントを呼び寄せたあと、コペルは隠蔽スキルでターゲット回避しようとしたけど、効かなかったのでMPKしようとしたキリトさん共々、危機に陥ったってわけ――これでいいんですか?」
「胚珠がなかなか出なかったからね……ようやく一個手に入るまでは」
「我慢してもうすこし頑張っていれば、MPKで奪おうとせずとも、ちゃんとコペルのぶんも手に入ったわけですね」
「結果論だけど、そういうことかな。もういいだろう。コペルも反省してるようだし、俺はゲーマーとして彼の気持ちもわかる。直接PKならともかく、MPKはまだ善良なほうだ。解放してやってくれ」
「……キリトさんの容赦も結果論だと思いますけど、被害者当人が許せと言うなら、わかりました」
 手を離す。コペルは一言も発しないまま、その場で謝罪のつもりなのか何度か頭を下げる。あまり見たくない光景だった。だから妖夢はコペルより視線を逸らしていたが、そのわずか五秒足らずの間に、コペルは無言のまま完全に姿を眩ませていた。がさがさと誰かが歩き去る音だけがする。
「言ってるそばから、隠蔽スキル使ってますよ?」
「潔癖症か? せめてケジメ付けくらいは見ていてやれよ。ハイディングは見破れば無効化されるけど、視線を一定時間外すとすぐに再発動するんだ。でも俺には意識さえ集中していれば効かないけどな。そこを歩いてるよ」
 キリトが指さした地点で、草が不自然に揺れていた。もちろん妖夢にはなにも見えない。
「『俺には効かない』って、もしかしてキリトさん、投剣スキルを外して、索敵スキル使ってます? だからさっき、シングルシュートが発動しなかったんですね」
「サーチングやハイディングは、ソロプレイで重宝するからな。投剣は優先度で劣るスキルだよ」
「そのサーチングをまたシューティングに戻す気はありませんか?」
 キリトが一瞬、黙った。
「それは俺にソロをやめて、みょんやウィッチと行動を共にしろと言ってるのか。ちゃんとした仲間のいるしかも女子が、俺みたいなのと関わってもなんの得もないぞ。ウィッチから俺がどういうプレイヤーか、話くらい聞いてるだろ?」
「魔理沙が言ってました。ソロは死にやすいだろうって。キリトさんは、ベータ時代もソロだったんですよね」
「ああ。ほとんど」
「失礼なことを聞きます。何度死にました?」
「……数えるのもいやになるくらい、黒鉄宮にある蘇生の間へ再出現したよ」
「私は懸念しています。キリトさんのソロプレイを。死の危険を」
「どうして予言者のように語るんだい」
「SAOには痛みがないからです。だからつい命を軽く扱ってしまいかねません。とくに誰も引き留める者がいなくなる、ソロプレイでは」
「ちょっと待ってくれ。何段階か飛ばしてないか?」
「すいません。えーと。SAOはゲームなので、痛覚が遮断されますよね。その悪影響は、どこに出てくると思いますか?」
 妖夢は痛覚のない特殊な病気の人間がすぐ限度を超えた無理をしてしまい、日常的に骨折や火傷など、生傷というには痛々しい負傷を抱えやすく、ときには死んでしまうことを挙げた。先天性無痛無汗症という難病だ。幾度体験してもなお、危険を危険としてどうしても理解できないのだ。学習はしても、たんなる知識でしかない。記憶と理解とは別物である。
「リアルに近いくせに痛みを感じない世界ですから、どうしても引くべき線引きを見誤りがちで、それだけに死にやすくなります。気がつけば遅かった……それをすこしでも防ぐのには、お互いに注意し合える、パーティープレイをするのが一番だと思います」
 説明を終えると、キリトは考え込んだ。何分も沈黙がつづいたが、妖夢は辛抱強く待った。やがてキリトが絞るように返事をする。
「……俺は、じつはさっきの酷い戦いで、ようやくこれがSAOだと、本当の意味で戦っていると、思えたんだ」
 それが戦い終了直後にキリトが見せた表情の理由であったと、妖夢は理解した。パーティープレイ前提のソードアート・オンラインをソロで戦えば、さきほどのような大乱戦をたびたび経験するだろう。そこを抜ければたしかに、一種の恍惚ともいえる達成感があるのかもしれない。何千メートルもの雪山に登る登山家のようなものか。とくに標高六〇〇〇メートルを超えるような本物の孤峰絶岸は、挑戦者の何パーセントかが死ぬ。それでいて賞賛されることも少ない、ハイリスク・ローリターンの極み。もはや自己満足の究極だ。彼はすでにその迷惑千万ながら魅力的でもある心境に至っているのだろうか? 最初はただ他人との繋がりが苦手だからと、安易にソロを選んでいるようにも見えたが、異なっているのかもしれない。判断が難しくなってきたが、妖夢はとりあえず良いほうに取っておくことにした。
「キリトさんの世界ですね」
「みょんがなにを言いたいのかよく分からないけど、俺がソロでプレイするのは、ひたすら強くなりたい――最強になりたいってのもあって。だから最前線に立ちつづけたい。この体は単なる動体オブジェクトではないし、剣も武器アイテムではない。なにか先の領域があって、SAOはそれを見せてくれる。俺はまだその入口しか見てない――きっとみょんが、見ている世界を。そのためには、できるだけソロでいたほうが、都合が良い」
 身に覚えがあった。その段階を飛び超えて、いまの妖夢がある。キリトはこれから、剣士としてひとつの山へ突入しようとしている。だから見てみたくなったのだろうか。
 あの乱戦でわかった。キリトは間違いなく強い。一〇人に一人どころではない。一〇〇人に一人か、あるいはそれ以上か。その才能ある人間がこの仮想世界で、どこまで強くなれるのか。時間が経てば、どれほどのバーサーカーが生まれるだろう。
 さらになぜ妖夢は、自分が全力でキリトに追いつこうとしたのか、わかった気もした。ソロプレイに飛び出したキリトを、うらやましく感じたのかもしれない。自由に羽ばたき、どんどん先へ行こうとする彼を、無鉄砲なくせに眩しいと。だから魔理沙がキリトを批判したとき、反感を抱いたのか。
 キリトはソロでも平気だ。妖夢も平気だ。でも通せんぼするボスは、ソロだと倒せないという。
 ならば――組もう。
「私を一緒に連れて行ってくださいキリトさん。そうすれば、きっと凄い世界を見せられます。ラインナーズハイの剣術版を」
 自然と、言葉が出ていた。その決断と先の行動が意味する重みも考えずに。
「なに?」
「私の強さをできるだけ盗んでください。私がいなくなる前に」
 意味深なように聞こえただろうか。キリトが言葉の真意を掴みかねているようだ。
「……それは、俺がみょんとコンビを組むってことだよな」
「はい。そうなりますね」
「友達は――マリサはどうなるんだ?」
「残していきます」
 妖夢はいつ起こされて、この世界より消えるかわからない。だからすこしでも多くをキリトへと伝えるために、一緒にいたい。魔理沙の基本作戦は安全優先の待ちだ。別れのとき、キリトが弱いままでは、幻想郷に帰っても妖夢の心にしこりが残る。
「それはちょっと無責任じゃないのか? いやまあ、クラインを逃げるように置いてきた俺が言うのも説得力はないけど」
「彼女はすでにそのクラ之介さんへ託しました。大丈夫だと思います」
 結局のところ、魂魄妖夢の根本は求道者的な戦闘狂なのだ。似たような属性をキリトに感じ、共感した――妖夢はそう自己分析した。妖夢と違ってキリトの場合は絶対的な若さから、やや自分勝手な空気が読める。それが持つ危うさ、さらに輝きや強さへ、うらやむと同時に惹かれているのかもしれない。だからだろうか。妖夢自身も、協調的よりもまず利己的に動いてみたくなった。魔理沙たちより強引に離れた時点で、すでにそれは始まっている。
「クラインに……そうか。彼は俺のことを、なにか言ってなかったか?」
 表情がすこし暗い。後悔しているのだろう。
「キリトさんが、危険を承知でソロを選んだことを理解していました。クラ之介さんは彼なりの事情から、キリトさんの世界を守ってやれなかったことを、残念に思っていましたよ。けして怒ったり、ましてや失望など、していません。彼は社会人で、ちゃんとした大人です」
「そうか――」
 すこしは救われたようで、キリトの頬が緩んだ。暗にキリトは精神的に子供だよと言ってるも同然であるが、考えが及んでいないみたいだ。どのみち妖夢はキリトの幼い面も含めて気に入っていた。だから育ててみたくもなったのだろうか。相変わらずの上から目線には違いないが、妖夢は自分の心理を説明できない。
「そして私に言いました。『ヨウムさん。キリトを宜しく頼んます』――と」
「ヨウム?」
「あ。やはり私は肝心なところでうっかりですね。私の……本名です。クラ之介さんには初対面で、つい言ってしまって」
「ヨウム、きみのゲームバランスを超えた神掛かり技を教えてくれるっていうのなら、俺にとってまたとないチャンスだし、ぜひお願いしたい」
「そもそもそういう約束だったじゃないですか。ではこれで、コンビ成立ですね」
 パーティー申請を送る。キリトのOKが返ってきて、妖夢のHPバーの下へキリトのバーが簡易表示で追加された。これで二度目のパーティー結成だ。一度目は気がついたら解除されていた。きっとキリトがよほどの覚悟でソロを決意したときだろう。
「パーティーのリーダーは、みょんがやってくれないか」
「私は初心者ですよ? キリトさんのほうが、はるかに詳しいです」
「この手のゲームでは、仲間内で一番強い者がリーダーになることも多いんだ。それに俺は手ほどきを受ける側だし、弱いくせにリーダーをやるってのもほら、なんというか、男として情けない話だろ。俺にもプライドがある。だからみょんが、リーダーだ」
 キリトがパーティーメニューを操作すると、妖夢の左前方へパーティーメンバーの一覧ウィンドウが表示された。最上位に大きめの文字でMyonと来て、二番目がKiritoだ。妖夢のパーティーで、メンバーがキリトという扱い。たしかクエスト進行やパーティー単位の操作でシステム的に優先権や決定権を持つ。
 ベテランゲーマー、しかも男の子を率いる身分になってしまった。こちらは初心者なのに……妙な気分だった。
 これもクラインが言うところの、キリトの世界に属する価値観、若いなりの矜持なのだろう。
「――わかりました。ただし私はせっかちですので、いろいろなクエストを素通りするかもしれませんよ。キリトさんは私を納得させ、説得する役回りになります」
 キリトが困ったな、という表情を見せる。
「俺が引き受けたほうがよかったかな?」
「私はおそらくキリトさんに、見たことのない世界を、見せられると思います。それでトレードといきましょう」
「大きく出たね。それは楽しみだ……あ、コンビ結成したての早速で悪いが、パートナーとしてみょんに頼みがある」
「なんでしょう」
「男アバターだったときのスラックスというかズボン、まだ持ってるか?」
「ありますよ」
「それを出来れば、スカートの下にでも穿いていてもらいたい」
「え?」
 妖夢がマジとキリトを見る。なにか変な性癖でも? キリトはすこし頬を染めて、ばつが悪そうに言った。
「きみの戦い方はほら、足を思いっきり蹴り上げるだろう? チラチラその、見えるんだよ。シマシマが。ごめん」
 言わんとする意味に妖夢も気づき、なんとなくスカートを押さえつつ、羞恥で顔を思いっきり真っ赤にした。だからドロワーズが欲しかったのに。あれはスパッツに類する、露出しても平気な見せパンツだ。
「……みょーん」
 戦いに夢中だったはずのキリトですら、しっかり覚えていて柄まで当てたほどだ。これが男のサガというものか。ならばもうひとりは……思えばコペルの野郎は、ずっと下半身を見ていた気がしたかもと、妖夢はうかつな自分を呪いたくなった。それにしても――妖夢は思う。自己申告してくれたキリトは許せるが、コペルは許せない。エロいのは男の罪、それを許さないのは女の罪という。だがコペルのタダ見は、いくら妖夢に隙があったとはいえ、命を救ったのだからなにか言ってくれても良かったろうに。
     *        *
 夜の九時になって辿り着いたホルンカは、村というよりは集落で、こじんまりとしていた。建物ははじまりの街と比べたら通りひとつぶんもなく、閑散として寂しい。その中央広場に何人かのプレイヤーとおぼしき影がいて、話をしていた。キリトが彼らに悟られないよう外側より隠れて回り込もうとしたが、ホルンカの村には夜間プレイのサポート用に夜でも開いている店がいくつかあり、その明かり――ファンタジー世界なので、かがり火のたいまつだが、橙色の輝きが妖夢の銀髪を照り返した。昼だろうが夜だろうが、どうしても妖夢は目立ってしまう。
 広場の連中が妖夢を指さし、手を振ってきた。自分が長野ちゃんとして知られているのを妖夢も自覚してるので、ファンサービス的にちいさく手を振り返してみる。
「置いていくぞ」
 小声で注意してきたキリトに両手を合わせて「ゴメンね」のジェスチャーを返し、妖夢はわざとキリトと距離を取ってついていった。キリトは黒髪に黒や深い青系の服で固めてるから、夜間のステルス度が妖夢とはまったく違う。妖夢がキリトに近寄りすぎれば、広場のプレイヤーはキリトに気付いてしまうだろう。キリトには人を避けたがる傾向があるので、それに配慮した形だ。俺に関わるなみたいに言ってたし、やはりただのコミュニケーション障害かもしれないと、やや後悔も感じていた妖夢である。だからといってあのとき見せた表情やキリトの告白が嘘であるとも思えず、拠り所となる強さも無謀でないていどには備えている。単純に見えて意外と複雑なキリト少年の内面が読めず、銀髪の少女は振り回されつつあった。
 インスタントメッセージが届いた。
「……なにかしら?」
 差出人はLunar、蓬莱山輝夜だ。開けてみると、なんてことはない。
『挙動不審だけど、想像以上に若い子ね。西行寺のお嬢様から離れたとたん、もう男の子と一緒だなんて、やるじゃない妖夢。早速クエストをクリアしたのね。その子がよほど先へと進みたいのか、強さの究極を目指しているのか知らないけど、生き急いで死なれるのも寝覚めが悪いでしょうから、手綱を引き締めて、離さないようにしておあげなさい』
 広場にいたのは輝夜のパーティーだった。彼女は魔理沙とは正反対の道を選択している。広場を見返してみると、一人だけやたらと背の低い影があった。あれは因幡てゐだろう。幻想郷とおなじくウサ耳が再現され、こちらを向いて揺れている。妖夢の半霊は再現できなかったが、ナーヴギアが優秀なおかげで、頭部に直接付随しているものは可能だったようだ。ハードな旅に付き合わされる因幡てゐも、いい面の皮だ。輝夜はどうやっててゐの耳を仲間の人間に説明したのだろうか。
 直に会って情報を交わしたいところであったが、いまはキリトとの用件を優先すべきだった。お互いに最前線を征くから、いくらでも機会はあるだろう。それにしてもキリト、隠れるのに失敗して、思いっきり見られてる。それに挙動不審って……。
『手綱の件、承知しました。そちらもあまり無理はならさず、とくに幸せウサギの健康にはぜひご留意を。輝夜さんについて行けなくなったら、てゐは魔理沙にでも預けてやってください』
 慇懃無礼とはこのことだろう。輝夜は身分こそ高いが、やってることはゲーム・盆栽・珍品コレクション・妹紅(もこう)とのファイトなど、ひたすら多趣味に没頭するアクティブ系楽隠居というよく分からない新ジャンル好事家なので、本来の身分にふさわしい扱いを友人たちからまるで受けていない。権威の裏付けとなる地位や影響力もなく、竹林の屋敷にて趣味の物品に囲まれて暮らしている。一目置かれているのはむしろ守り役的なポジションにある同郷の八意永琳(やごころえいりん)で、薬師として信頼も篤い。その永琳は、眠ったままで起きてこなくなった輝夜のことを、どのように案じているのだろうか。
 キリトの案内で外れの民家につくと、ちょうどあのコペルが出てくるところだった。偶然とはいえ鉢合わせの格好となり、互いに気まずい思いをする。だがキリトだけはどこ吹く風で、「クリアおめでとう」と祝福していた。キリトの他人事のようなマイペースぶりは、いまいちなにを考えているのかよく分からない。コペルの右手には抜き身の黒い剣が握られている。腰にはさっき会ったときなかった赤い鞘。おそらくこれらが、森の秘薬クエストの報酬、アニールブレードだろう。キリトの話によると、第一層最強の片手用直剣だ。
 コペルは黙ったまま去っていこうとした――が、ちらりと妖夢の足を見て、残念そうな表情を垣間見せたのを、妖夢は逃さなかった。
「……むっつりスケベ」
 ぼそっと言った単語は、なぜかコペルの琴線に触れたようで、にわかに瞳を輝かせた彼は一瞬だけ妖夢と目を合わせ、頬を染めて駆け足で去っていった。
「これであいつはしばらくの間、みょんに首ったけだろうな」
「仕返しのつもりだったんですけど、なにか変でした?」
「俺たちのようなオタクには、みょんみたいな強い子に言われると、かえってご褒美になる男も多いんだよ。そういう動画、見たことないか」
 まさか自分がその立場になるとは思わなかった妖夢である。
「ふ……複雑な思いです」
「貸しができたわけだから、コペルには後日、なんらかの形で役には立って貰えることもあるだろうさ」
 飄々と言うと、キリトは家に入っていった。
「クエストクリアの演出ドラマがあるから、何分か掛かるかもしれない」
 だがキリトは、なかなか出てこなかった。一〇分近くは経って、妖夢も心配になってきた。
「キリトさ~ん……」
 おそるおそるドアを開けると、はじめて見るNPCの家は、幻想郷でも見たことのある内装とあまり変わらなかった。欧州の田舎にある、ちょっと古めかしい家。イメージはおそらく、一八世紀から一九世紀くらい。
「アリス・マーガトロイドの家に生活感を足したようなものでしょうか」
 感想を口に出して、目的の人物を探すが、三〇歳ほどに見える奥さん以外、誰もいなかった。台所で鍋をかき回しているそのNPCが振り向いて「こんばんは、旅の剣士さん」と言ってきたが、続きの自動発言を手で制止して、尋ねた。
「この家に入ってきた人を知りませんか?」
 奥さんは言葉には出さず、指で奥の部屋を指すと、また鍋をかき回す作業に戻った。NPCである彼女は、何日だろうが何ヶ月だろうが、朝から晩までおなじことを延々と繰り返す。鍋はずっと煮込まれたままで、その中身がなくなることも、永遠にない。プレイヤーの質問には、許される範囲で簡単な受け答えしかできない。そんな自動人形にすぐ興味を失い、妖夢はすこしだけ開いている扉に手をかけて――聞いてしまった。
「……スグ……母さん」
 キリトの嗚咽を。
 泣いている!
 突然に沸いた妖夢の葛藤は激しかった。見てはいけない。入ってはいけない。でも聞いてしまった。知ってしまった。キリトの聖域を荒らして良いほど、妖夢はまだ彼とは親しくない。入って良いのか――妖夢は扉より離れることもできない。キリトは新しい相棒だ。知っておきたいという好奇心もある。欲求と押し留めようとする理性とが、妖夢を前にも後ろにも動かせなくした。
 どうしてもすべての音を聞き取ろうと、耳を澄ませてしまう。キリトの震えでなにかが擦れる音に混じって、かすかにほかの音が混じっている。これは、髪を梳くものだろうか? いや、どちらかというと、広い面積を撫でる……キリトが誰かに、やさしく頭を撫でられている? 妖夢の脳内で戦われた葛藤の勝負は、知るほうに軍配があがった。
 音をできるだけ立てずに扉をあけると、ベッドと少女と、キリトがいた。ベッドに横たわるのは一〇歳にも届かない少女で、病床にあると一目でわかる体格と恰好だった。その痩せた細く白い腕を、キリトの頭に乗せている。少女は森の秘薬クエストのキャストなのだ。胚珠の妙薬で元気になるという設定だろうが、年端のいかぬ彼女が本当に病気より回復することは、その母親とおなじく、永遠にない。
 ベッドに縛られることを運命づけられたNPCは、キリトをやさしく慰めていた。キリトは膝を折り、ベッドに頭を埋め、声を殺して泣いている。その姿を確認した瞬間、妖夢は激しい自己嫌悪に苛まれた。
 そうなのだ。これが普通なのだ。キリトはスグ――おそらく妹だろう。身内をこのNPCの少女……たしかキリトがアガサと言っていたかに重ねて、突発的なホームシックにかかったのだ。なのに妖夢は、元の世界の身内、ご主人である幽々子がそれほど心配ではない。魂魄の剣士がいなくとも、あるていどあちらは回るはずだ。それだけ強者で溢れかえっている世界だから。
 帰るべき世界のことを気にせず、この世界のことばかり考えていた妖夢。情けなくて思考が真っ白になる。同時にキリトへの強い同情も込み上げてきた。平和な日本に暮らしている中学生の男子が一人で、死んだら終わってしまうゲームへ挑む。なのに最初のクエストでいきなり裏切られて死にかけた。その事実をあまり重く取らず、軽く流していたように見えたのは、いま泣いているように簡単に押し潰されるようなことがないよう、わざと自分自身への関心を薄めているからではないのだろうか。そうしないと心を保てないほど、キリトの心には穴が、闇が存在する。意識もないただのプログラム人形アガサに対してうっかり心の防波堤が決壊してしまったのは、想定外だったため。または、誰も見ていないため。
 誰も見ていない? ――いや、私が見ている! 妖夢は、してはいけないことをしてしまったのではと、激しく後悔した。動揺から不自然に体重がかかり、扉がきしむ。ぎしっと、音を立ててしまった。キリトの肩がびくんと上下に振動し、しかし頭はあげない。
 ばれた。
 お互いに動かず、音が部屋より消えた。いや、村に入ってからずっと聞こえるBGMだけが変わらない。ゲームはゲームであり、背景音楽はオンオフにできるが、なにもしなければ流れ続けて――場の緊張と比べれば、あまりにものんびりとした、まぬけな音律であった。
「……ヨウムか」
 キリトがあえて、本名のほうで聞いてきた。その声を妖夢の耳が聞き取ったとたん、妖夢の胸がうずいた。気まずさで体がうまく動かない。ぎくしゃくとした壊れかけの機械人形のように何歩かすすみ、アガサの寝所へ入る。叱られた子供のように、妖夢は頭を下げた。
「ごめんなさい。遅かったので」
 キリトは謝罪した妖夢の姿を見ていない。おなじ姿勢のままだ。
「俺はすぐ戻れる。心配をかけた」
「……ぐすっ。ごめんなさい。キリトさん――」
 軽く嗚咽がでる。もうだめだ。妖夢の精神も一気に崩れ、涙が止まらない。キリトへの憐憫と同情と、聖域を侵したことへの申しわけなさと、自分へのふがいなさと幽々子への謝罪と、なにもかもが混ざって、胸がつまる思いだ。だから泣いてしまう。泣くことしかできない。キリトからのもらい泣きも時間差で含まれていただろう。
 他人が泣くと冷静になってしまうタイプだったようで、キリトは頭をあげ、妖夢に背を向けたまま、顔に手をやる。涙を拭っているんだろう。
「見てしまって、ごめんなさい。見てはいけなかったのに……」
 キリトへの共鳴が過ぎて、心臓の鼓動が倍速だ。溢れかえった涙で、すでに焦点が定まらない。
 繰り返す。
「……キリトさん、ごめんなさい」
「いやいい。俺のほうこそ、変なところを見せた」
 キリトが妖夢に顔を向けた。泣きはらしたあとは、まだ消えていない。だが表情は落ち着いている。キリトは妖夢という第三者がこの空間に入ってきたことで、ふたたび心へ不可視のベールを掛けたのだろう。これもまた、キリトの世界だ。妖夢は彼女なりに、妖夢の世界で泣いている。
「いいえ。キリトさんは私なんかより、ずっと人間らしいです」
 妖夢は自分を恥じつづけている。クエストの演出に胸せまり家族を思うキリトと違って、妖夢は剣舞の世界に浮かれていた。デスゲームになっていてもなお、自分の実力が突出してまず安全であるという余裕から、浮かれたままだった。だからキリトを救おうと増長し、だから魔理沙やにとりを勝手に置いてゆき、だからキリトと先に行こうなどと大口を叩く。だめな娘だ。決めておいてすぐ痛感させられた。妖夢という子が、いかに未熟で軽率な女の子であるか。魔理沙が正しかった。だが妖夢が動かねばキリトは死んでいたかもしれない。いったいなにが正道なのだろうか。
「……みょん。もう大丈夫だ。泣きやんでくれ。俺のために泣くことなんて、ない」
 ついには、妖夢がなぐさめられる。キリトの手がすこしためらっていたが、やがて妖夢の肩へゆっくりと置かれた。
 男の子の頼もしい体温を感じ、安心からか、妖夢もすこしずつ落ちついてゆく。キリトが泣きやんだのに、私が泣いていてどうする。どうにもならない。反省すべき事の数々はすでに動いた。ならば妖夢は、後の祭りとなったいまの状況で、出来ることをすべきだと腹をくくった。
「ありがとうございます……行きましょう、キリトさん」
 アガサというニセの妹がいて、自分の醜さも見せつけられるこの部屋には、もう一秒もいたくない。先にキリトを送り、扉を閉めると、もう開かなかった。そんな些細なことにすら安堵を覚える。情けない。民家を出て、なにを話したのかわからない。覚えていない。
 気がつくと宿屋のベッドへ頭より飛び込んでいた。
「みょ~~ん……」
 しばらくじっとしていたが、足をジタバタさせる。
「……どうしたらいいのか、わかんなーい」
 魔理沙たちになんて言い訳をしよう。
 キリトとはいつ別れるかわからない。やはり浮かれて決めたことを、贖罪として決行すべきだろうか。せめてボスを駆逐して、新しい世界を見せるほうがいいのか?
 そんなことを考えながら、妖夢の意識はまどろみに溶けていく。
 キリトが頭から離れない。まだ会って半日と経っていないのに、これほど気になる異性の登場は、妖夢にとって生まれて初めてであった。


※人間をやめた魔理沙
 強い魔力を持つ魔理沙がいずれ人間でなくなる可能性を、神主自らが述べている。
※ハリー・ワン&イッシン&ダイナム&クニミツ&デール
 アニメ版。名前は第一四話の一斉ログアウトシーンで判明。今後登場する「一見オリキャラ」の多くも同様。

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