〇二 起:カタナへの一歩

小説
ソード妖夢オンライン1/〇一 〇二 〇三 〇四 〇五 〇六

 まず視覚が遮断され、なにも見えなくなった。つぎは聴覚。音が消える。三番手は嗅覚で、畳の匂いがなくなる。つづけて平衡感覚だ。横になっていたはずの体が、まるで水中にでも浮かんでいるような違和感へと変わる。上下が不明となる。
 すこしだけ、不安になった。
 変化はつづいている。温度覚が消え、自分の体温すら感じなくなる。さらに触覚と圧覚をほぼ同時に失い、白玉楼の自室で横になっている、たしかな布団の感触を失った。服を着ていることさえ不明瞭だ。さいごに舌の粘りを感じなくなる。味覚だ。ほかにも知らないだけで、いろんな感覚の制御を奪われているはずだ――ナーヴギアという、フルフェイスヘルメット型のゲーム機によって。
 からっぽ。
 何十年も修行してようやく得られる無の境地を、新世代のこの機械は瞬時に実現してくれる。だがその仙域への強制も、ほんの一時だ。無からの変化は、有しかない。巻き戻すように、奪われたものが返される。
 まず視覚と聴覚。
『Welcome to Sword Art Online !』
 異世界の始まりは無地のグレー画面にあらわれた、シンプルな文字列と、合成音による喚起だった。灰色の世界より、突如として周囲を走った虹の回廊を抜け――モニターを水中メガネで見ているような妙な感じであったものが、そこより唐突に、明瞭な視界へとシフトしていく。
 電子的に再現された感覚が、幻の体、アバターへ、続々と付加されていく。
 立っていることがわかる。重力がわかる。服を着ていることがわかる。体温がわかる。気温がわかる。臭いがわかる。心臓の鼓動がわかる。
 本能的な不安より解放されていく。感覚とは、動物にとってもっとも基本的な機能のひとつだ。事象を知覚するにも、まず五体満足であることが望ましい。
 すべての感覚機能が戻ったとき……大勢の戦士でごったがえす人混みの中に立っていた。感覚の代表である五感が正常に働き、堅い石畳の地を踏みしめていることを確かめる。
 両手を見ると、本当の瑞々しい自分のものではない。やや皺が入り、ごつごつして大きい。男の。
「……来ました」
 声をだす。深い渋みのある、歳をあるていど取った男性のもの。視界も高い。本体より二〇センチ以上は嵩上げされている。彼女――ならぬ、彼は、ためしに一歩だけ踏み出してみた。まるで高下駄でも履いている感じだが、転ばずに済んだ。
 体温がいつもより高い。それは気が高ぶっているからではない。現実にあるいつもの彼女は、人よりいくぶん体温が低いのだ。性転換により男となったアバターの彼は、まるで老いた剣豪のような鋭い気を放っている。真っ白く豊かな髭まで蓄えて。髪も白い。瞳の色は人間より外れた、深い青。海のような濃い紺碧は、もはや常なる人の虹彩ではない。
「素晴らしいです」
 渋い声に、周囲にいた何人かより注目を浴びた。物珍しそうな視線を感じたが、それもそうだろう。広場にいるほとんどの者が若く、かつ美男美女の集まりだ。背も高く、みんな痩せてまるでモデルや俳優のようだ。その中にただ一人、六〇歳近い高壮の男。
 眉目秀麗な集団に異色の中高年が混じっているが、彼の存在が相対的に貶められるわけではない。美しく老いるという言葉があるように、歳をとってなお気骨ある、衰えを知らぬ剣士。オールバックにまとめられた白髪と、長い顎髭に包まれた顔は、いくつかのシワを刻み込んでいるが、肌にはまだ精気が宿り、風雪に耐え磨かれた歴史を読み取ることができるだろう。両手両足の筋肉も残っており、かわりに贅肉は適度にそぎ落とされ、素早さを損なわない体型を維持している。一線より退きながらも、常日頃より鍛錬を欠かさない、そんな求道者の雰囲気を彼はまとっていた。
 理想的に歳を重ねたモデルのひとつを示しているアバター剣士は、自分の仮なる容れ物に満足していた。
 思った以上の体感だ。
 息で揺れる髭が唇を擦るさま、真新しい革靴の感覚、石畳を踏みしめている実感。はじめて着ている服の感触。露出した肌が微風を感じる。快適な日照と温度、そして湿度。臭いも独特だが、気にならないほどではない。とてもゲームの世界とは思えない。
 ただ、視力も聴力もおおきく落ち込んでいる。目は起き抜けみたいに霞がかかっているし、耳は近くの話し声しか聞き分けられない。ほかの感覚も相応に低下しているだろう。
「受け入れましょう」
 彼の頭はかんたんに納得する。それが人たるべき能力の限度であるならば。
 レベル一の凡人となった喪失感よりも、いまは好奇心のほうがずっと勝っている。元より承知のうえでSAOにログインしたのであるから。この世界で強くなり、見た目と中身をはやく一致させたいものだ。
 装備や体感面の基本的な確認がおわって、改めてまともに周囲を見回してみる。異邦の万象が目と耳に飛び込んできた。ゲート広場の第一印象は、軽い驚きにつきる。
 なんという剣士の数であろうか!
 視界の限りに、どこまでも剣士! 剣士! 剣士!
 直径一〇〇メートルほどの広場に所狭しとたむろしている者たちは、一様に布服と厚革製のベストを装着し、腰や背中に剣を帯びている。ソードアート・オンラインの初期装備だ。喧噪が耳の鼓膜を揺さぶってくる。これほどの人間は、彼にとって一週間ぶりとなる大人数だ。
 剣士だらけの世界!
 いずれ槍や斧に持ち替える人も多いであろうが、サービス開始直後のいまは全員が初期装備にしたがい、まぎれもなく剣士だ。ソードアート・オンラインは武器ひとつで身を立てる異色のゲーム。飛び道具の類は数も威力もなく、弓や魔法すらない。ただひたすら、接近戦用の近距離武器で仮想空間アインクラッドを駆け、戦い続ける。
 あらゆる感覚を総動員して。
 モニターやゴーグルを覗きながら入力機器を使う従来のRPGと、このソードアート・オンラインとは、なにもかも訳がちがう。ソードアート・オンライン。略してSAO。世界初となる、フルダイブ型バーチャルリアリティ大規模多人数同時参加型ロールプレイングゲーム。だからこその大人気、だからこその熱気と興奮。
 剣だけで戦う世界。
 彼の中身である魂魄妖夢。彼女が先日勝負したスキマのスペルカード『境符・剣舞四重結界』を引き合いに出せば、さしずめ剣舞郷だ。
 剣舞郷、アインクラッド。
 全一〇〇層よりなる巨大浮遊城は、近接武器で道を拓く世界。各層に山や川、森に湖、草原や砂漠などが再現され、さまざまな町や村、多くのNPC、あまたのクエストが用意されている。そういった箱庭世界がひたすら重なっているのがアインクラッドだ。城というにはあまりにも広大無辺。もはやひとつの世界そのものであろう。いま彼がいるのはその最下部に広がる第一層、南端に位置するはじまりの街。
「思った以上に新鮮で、素晴らしいですね」
 驚きの感情は短時間ですぐに、希望へとステージアップした。アドレナリンの放出を自覚する。これだけの人数だ。多くは剣の素人だろうが、中にはすごい技倆の者も混じっているだろう。
 右手を軽く縦に振り、メニューウィンドウを呼び出す。はじめての動作だったが、一発で成功した。パッケージ購入よりサービス開始まで一週間あったので、その間にマニュアルを幾度も精読し、隅々まで暗記している。オプション一覧よりサーバのステータスを参照してみる。接続数がものすごい勢いで増えていて――
「もう九五〇〇を超えてる……」
 SAOの初回ロットは一万人。その大半がサービス開始と同時にログインしている計算だ。おそるべき接続率が、プレイヤーたちがこのゲームに抱く想いを物語っている。
 一万人!
 彼となった妖夢は思う。
 私が満足するような強い者も、きっと何人かいるに違いない。
 いかなる刺激的な日々が待っていることか。すぐにでも強き者と並んで剣を交え、励みたい――でも、それが誰だか分からない。
 いまは情報がない。我慢だ。フィールドで雑魚を相手にする以外、やることはないだろう。だがそれよりもまず、することがある。教えられたことと、ネットで手に入れた情報に従って、武器を変えるのだ。
「片刃の刀剣群。曲刀が欲しいですね」
 いま装備している両刃の直剣は、彼にとって必要のない武器だ。腰にある鞘をぽんと叩く。このショートソードは、このアバターには似合わない。
 ネットで得た知識を頼りに、広場を出て、露店の街路市を目指す。この街では、屋内型の店舗よりも、露店のほうが安いものが多いらしい。最初の数十歩は慣れずに躓きかけたが、すぐにコツみたいなものを掴んで、なんとか歩けるようになった。身長差というのは、意外とやっかいなものだ。
 どの通りも人で溢れている。まるで祭りのような混み具合だ。じっさいお祭り騒ぎで、ぽんぽんと煙花火の音が、まるで間欠泉のように響いている。その軽い雷鳴も人々の歓声を彩るデザートにすぎない。誰もがソードアート・オンライン開幕とアインクラッド開城を祝っており、大いにはしゃぎ、周囲はひたすらうるさかった。
 人。人。人。
 あまりにも多くて目眩がしそうだ。彼は市街、というものにあまり慣れていない。一度に見る人間も、普段は里の祭りで、せいぜい数百人がいいところだ。これまで何度か長野市や諏訪市に出て行ったことはあるが、一週間前の東京小旅行はあまりにも都市の規模が違いすぎて、おのぼりさん丸出しで大変だった。いまも物珍しくてつい視線が彷徨ってしまうが、すると自身が周囲より視線を集めていることに気付いた。
「……なるほど」
 このような年嵩のアバターでログインするプレイヤーは、おそらくほとんどいないだろう。素顔よりも目立つかもしれない。だがこの姿でないと、彼にとっては意味がないのだ。迷わせていた紺碧色の瞳を正面に戻し、彼は進む。皆が喜び、浮かれている。伝染したように、彼も頬を軽く紅潮させる。目指す店を求めて。
 ――あった。
「すいません。そこの剣を見ていいですか?」
「はいよ」
 威勢良い鉢巻き姿のおじさん店主に聞く。NPC――ノンプレイヤーキャラクターだ。中身が自動プログラムにすぎないと知っているとはいえ、緊張からつい、いつもの丁寧語になってしまった。
 手に取ってみる。柄も刃も短くて小振りだが、使えなくはなさそうだ。
「この……カトラスって、えーと、曲刀カテゴリーですよね?」
「おうよ。まぎれもない片手用曲刀だ」
「二本欲しいのですが、お安いですか?」
「俺さまの武器はお買い得よ! おじさんにもぴったりだね」
 NPC店員はあるていど型に沿った返答しかしない。ベータテスターだった魔法使いが教えてくれたパターンだと、発言内容で大方読める。お買い得とNPCが言えば、本当にお買い得なのだ。相場より確かに安く売ってくれるわけで、嘘は言わない。ぴったりとは、いまのパラメーターで無理なく装備可能を意味する。
「剣豪風の白ヒゲとは、えらく凝ったアバターだな」
 隣でおなじくカトラスを眺めていた男性プレイヤーが、とつぜん話しかけてきた。
 高い力量を持つ者を除けば、人間よりタメ口を聞かれるのはあまり慣れてないので、彼はすこし戸惑った。
「え、あ、はい。ありがとうございます」
「いずこか名のある武芸者かい」
 その男は赤毛で、さらに濃い赤色のバンダナを巻いている。顔は無難な好青年だ。身長はおなじくらい。
「ご想像にお任せします」
 反射的にまたもや丁寧語口調になってしまった。だがもう修正する暇はない。ゲームの前提となるロールプレイが最初から崩れてしまった。丁寧語でしゃべる人ではないというのに。おそらく威厳などもまったく感じられないだろう。思えばログインした直後の独り言からして、ずっと素のままだった。
 その逡巡をNPCのプログラムがどう受け取ったのか。
「買うのかい? 買わないのかい?」
 店主が急かしてきた。
「――あ、二本下さい。足りない? これ下取りでお願いします」
 時間をかけすぎたようなので、あわててNPCに初期装備とお金を渡し、二本のカトラスを受け取った。残金は二五〇コル。コルはお金の単位だ。受け取ったカトラスはすぐ手の中より消えた。自動的にアイテムストレージへと収まったのだ。さすがゲーム世界。
「最初から予備のぶんまで揃えるたあ、思い切った買い物っぷりだな。もしかしてベータテスト経験者かあんた」
「いいえ。初めてです。この曲刀の基本装備がいずれ、刀に通じる道だと友人が教えてくれたので。その人がテスターです」
「カタナだって! ネットの噂でまさかなと思ってたんだが、やはりか。よっしゃ、俺も買ったぞ! おいおっさん、俺にもカトラス一本くれ。こっちの剣もういらねえや」
「兄ちゃん、まいどありっ!」
 即決の赤毛に、興味が湧いた。それにすこし濁ったこの声、ほんの一週間ほど前にも聞いたような気がする。ちょっとした既視感だ。おかげで軽い親しみを覚えた。
「刀がお好きなんですか?」
「まあなあ。俺の本名がよう、下の名前だけどよ、有名な歴史小説家とおなじなんよ。まるで昭和の昔にでも舞い戻ったような名だけど、気に入ってる」
「そんなきっかけで好きになるものですか」
「おまえさんほど凝ってはいねえけどな。そのアバターって、モチーフは歴史関係か?」
「歴史は好きですけど、お爺様――祖父です」
「ただもんじゃねえな」
「とてもお強いですよ。負けたところを見たことがありません」
「そりゃ凄いじっちゃんだな。そうそう――」
 赤髪バンダナは自分を指さして、陽気に言った。
「俺はクライン。歴史好き……といっても室町から江戸が専門だが、同好の士よ、よろしくな」
 ずいぶんと気さくな人間だなと、彼は思った。
「私は妖夢といいます」
「ヨウムか。中性的で、厳格っぽいそのアバターとちょっと合わねえなあ」
「本名なので」
「…………」
 クラインが絶句している。
「どうかしました?」
「あのなあ。なにかの拍子にリアルバレして、変な事件に巻き込まれでもしたら、どうすんだよヨウムさん」
「いけない事なんですか、クラインさん」
 顔に手を当てて、悩んだような表情だ。
「ヨウム、もしかしてこの手のネットゲームは……」
「すいません、初体験です」
「まあ今日はしょうがねえや。アバター再登録するなりして、出直したほうがいいぞ」
「ああ、きっとそれは大丈夫ですよ」
 右手をさっと縦に振り、メインメニューを呼び出す。そこでフレンド登録申請をクラインに送った。
 そこにはこうあるはずだ。
『Myon』
「……ミョンって、ぜんぜんヨウムと違うじゃねーか」
「すでにY・o・u・m・uが使われてまして。仕方がないので口癖……じゃなく、愛称で」
「U抜きや真ん中Hでもヨウムって読めないこともないぞ。数字を付ける手もある」
「――――およ?」
 時間が止まったように、おじいちゃん姿の妖夢が固まる。
「俺はこれから、おめえをみょん吉って呼ぶわ」
 申請OKが返ってくる。クラインのアバター名はちゃんとKleinだ。そのうちアップデートするであろうが、いまのところSAOのキャラネームはアルファベットでしか登録できない。
「みょん吉って――なんですかそれ」
「うかつなみょんは、吉で十分だってことさ」
「じゃあ私も、クラインさんをクラ之介(のすけ)さんって呼びます!」
「それでもさん付けなんだな」
「みょーん……」
「ああ、だからみょんってのか」
 そのとき妖夢の視界の隅を、レベル一とは思えない身のこなしと速度で駆けてゆく青い影が。
「おいみょん吉、ありゃきっとベータだぞ! 俺はあいつに用があるわ。またなみょん吉!」
 クラインがすぐに反応して追ってゆき、一〇秒と経たず視界より消えた。妖夢は置いて行かれた形となった。どのみちあの速さには、慣れていないこのアバターではまだ追いつけない。
「まるで魔理沙(まりさ)みたいに、嵐のような人でしたね……」
 クラインか。
 なんにせよゲーム開始早々にカタナを通じて人間のフレンドを得られた。期待以上の成果だろう。幸先は良い。
「もうすこし話をしてみたかったな」
 軽く肩をすくめると彼は自分の用意に戻った。
 何件か隣に道具屋を見つけ、一〇〇コルのポーション瓶をふたつ買う。いわゆる体力回復薬だ。残金は五〇コル。路銀としては心許ないが、どうせすぐ貯まるので気にしない。
 スキルメニューを呼び出し、片手用直剣スキルをスキルスロットより外した。スロットは初期状態では枠がふたつしかない。かわって指定したのは片手用曲刀スキル。それと武器防御スキルを選択すると、スロットはもう一杯だ。
 つぎは装備。メニューでアイテム一覧よりカトラスを右手に装備し、鞘の位置を背へ指定すると、背中に鞘入りのカトラスが出現――オブジェクト化した。つづけて左手へもう一本も装備し、鞘はベルトの真後ろに指定する。二本目の鞘が腰裏へとオブジェクト化すると同時に、警告表示が出た。
『左手イレギュラー装備状態:両手で抜き身中はソードスキル使用不可』
 ソードスキルとはSAOにおける必殺技のようなものだ。各種武器スキルをスキルロットに入れることで使用可能となる。
「およよ、やはり二刀流では使えませんか。でもスキルボーナスはあるから、たいして不利ではないかも」
 攻撃速度・武器防御・攻撃間隔などにプラス補正が付くので、スキルを選ばず特定の武器を扱うことは考えられない。熟練度があがれば効果も高まり、かつ増えてゆく。
 さらに装備メニューをいじり、胸を覆う革ベストや、両手の革グローブを外してみる。ベルト以外の革装備をすべて解除すると、防御力が下がったが、かわりに敏捷度が上昇した。体が軽くなる。
 防具など無用。それが妖夢の信条だ。
 ストレージに入れている限り、所有アイテムの重さを感じることはない。見えないキャリーバッグと考えたらいいだろう。盗難の心配もなくなる。
 二本の曲刀を実体化させ、防具も取り払ったおじいちゃん剣士を見て、通りをゆくプレイヤーが幾人か驚いたような、または呆れたような顔をしていた。
「――片手用武器の重複装備は推奨されていないんでしたね。でも私のスタイルは、二刀流で鎧なしです」
 自分は自分だと、確かめるように独り言として処理すると、最後にポーション二個を実体化させ、ベルト備え付けの革ポーチに入れる。こうしておかないと、とっさの時にアイテムを使用できない。
 これで腕試しの準備が整った。
 問題は戦う場所だ。はじまりの街周辺は北と東西の三方にフィールドエリアが広がっている。南はすぐ外周だ。
「試し切り、どこがいいのでしょう」
 マップを呼び出す。宙空に北を上とする簡易フィールドマップが表示された。直径二〇センチほどの円だ。水色をした円は第一層の形を示し、その中におおまかな地形が通行可能・不可能という単純な区分けによって仕切られている。各所に町や村を示す赤い小円が散開している。妖夢を示す白い点が、南の端にある赤円の中で瞬いていた。赤い点に触ってみると、その部分がすこしズームアップされ、同時に『はじまりの街』と表示が出る。白い点に触れると、あたりまえだが『Myon』。ほかの赤い円に触れてみたが、なんの反応もない。
「――これは?」
 白い点の横に、黄色い点がぽつんとあった。触ってみると『Klein』と出た。ステータスはフレンド。サブコマンドで『メッセージを送りますか?』とある。とりあえずNOを押しておいた。プロパティメニューで固有名詞のオンオフがあったので、オンにしてみると、はじまりの街・Myon・Klein・第一層の四つの文字が小さめにマップ上へと書かれた。
「便利ですね」
 黄色い点ははじまりの街から見て、西のフィールドに向かっているようだ。
「そっか……私も西に出てみましょうかな」
 またあの陽気な男に会ってみたい。
     *        *
 フレンジーボアというイノシシ型モンスター……モンスターというよりはイノシシそのものだが、最初は意外と苦戦させられた。
 属性はノンアクティブ。人間に対して中立的な、ただの動物扱い。こちらよりちょっかいをかけない限り反撃してこないタイプで、いかにも初心者向けだ。妖夢は高身長低能力アバターによる戦闘の感覚をすこしずつ掴んでいる。ただ動くのと戦うのとでは、必要とされる内容がまったく違う。とにかく実践かつ実戦あるのみだ。
 最初は一刀だけだったが、何戦かして慣れた頃合いだと判断し、カトラスを二本とも抜き、両手に持った。構えは二刀とも下段に垂らして力を抜いた状態。リラックスしたような姿勢だが、これがフレンジーボア相手には都合が良い。このイノシシは攻撃を当てるべき高さが低く、逆にこちらの背は高いため、下段でないと二刀流はうまく働かないはずだ。
「来い」
 と最寄りのイノシシを挑発してみるが、草をはむだけだ。やはりこちらから仕掛けないと無理か。
「あまり修練になりませんね」
 何歩か無造作に歩き、駆け足に。イノシシの寸前で足捌きを急に剣術のそれへと変え、制動をかける。足をあげず、地に付けたままわざとフレンジーボアの正面に回った。左右のカトラスをからかうように動かし、これ見よがしに視界を遮るような動きを見せる。
萃香(すいか)はこれくらいしないと勝負に乗ってくれませんし」
 案の定、属性がアクティブになったフレンジーボアが、雄叫びをあげて突っ込んできた。その牙を左のカトラスで受ける。がっちり受け止めた状態より、武器防御スキル補正によって曲刀を押し返すと、イノシシの動きが止まった。そこで引いていた体を一気に前へ押しだしつつ、右のカトラスを斬りあげる。狙うは首筋だ。
 体重を乗せた流れるような鋭い斬撃が、フレンジーボアの首を抉った。表示されているHPバーが三割ほど減る。悲鳴をあげて転倒するイノシシに、妖夢は追撃をかける。距離を詰めながら左のカトラスで刺す。鼻先へと回し蹴りを二度食らわし、回転の余波に任せつつ左右のカトラスで同時に喉元を突いた。ボアのHPがみるみる減って、一気にゼロとなる。
 HPの尽きたフレンジーボアが特徴的な音とともに砕け、ガラス状のポリゴン光点を散らせた。戦闘結果ウィンドウがポップされ、それを見つめる妖夢。
「どうして狩りと呼んでるのかなって思っていましたが、なるほど」
 モンスターを倒せば、経験値にお金、アイテムを拾う。報酬が得られるわけだ。ゲーム内で強くなり活動の糧となる資本だ。
 とりあえず二刀流は使えるようだ。小技として真っ先に選んだ武器防御スキルもどうやら正解だ。さらにネットの紹介にあったように物理演算も現実的で、蹴りや急所への打撃、きちんと勢いや威力を乗せた攻撃で、ダメージはどんどん加算される。
 周囲を見渡してみる。イノシシは視界の範囲にはまったくいない。どうやら狩り尽くしたようだった。
 二刀を鞘に戻すとメニューよりマップを呼び出し、クラインを探す。正面にある丘のむこうにいるみたいだ。
「背の高さにも慣れてきたようですね。走ってみましょうか」
 準備運動をして、駆けてみる。足の回転はけっこう早い。レベル一で数値は最低だが、体捌きでいくらでもカバーできる。それが分かっただけでも収穫はおおきい。
 丘を迂回するように二分ほど走ると、中腹でフレンジーボアと戦っている赤毛の勇者と、それを見守る黒髪の男がいた。赤髪のほうはクラインだ。
 へっぴり腰で手しか動かしていない。剣技の基本は体捌きだから、手の力だけで剣を振ろうがあまり威力はない。当然ながらイノシシモンスター相手に苦戦している様子だった。妖夢が注視するとクラインのHPバーが表示され、二割ほど減っているのが分かる。イノシシのほうは残り四割ほどだ。黒髪の男が先に気付き、妖夢の姿にやはり驚いていた。
「クラ之介さん。景気はどうです?」
 クラインは視線をフレンジーボアから離さない。
「その声はみょん吉かい。見ての通り、絶讃大好評に苦戦中だよ」
 突撃してきたフレンジーボアを間一髪でかわす。これでイノシシに致命的ともいえる隙が生じたはずだ。
 クラインはしかし敵の後を追うわけでもなく、見送るような態勢のまま、右手を折ってカトラスを肩の高さに掲げ、腰を低めに下げた。はじめて見る者がいれば、なに訳の分からないことを、と思っただろう。だがこれは必要なモーションなのだ。カトラスは果たしてにわかに輝いた。発生したオレンジ光が増幅するとともに、エネルギーを溜めるようなサウンドが鳴る。
 音と発光が最大になった瞬間、クラインは「うおりゃ!」と叫びながら右腕を前に振った。彼の腕と上半身が急に鋭く動き、つづけて下半身も追従する。体全体をバネとして剣に力を集中させるその動きは素人のものではない。まるで何者かに操られるように一迅の風となり、クラインはフレンジーボアへと突進した。光り輝くカトラスはその剣先を違わず獲物に命中させ、ようやく振り向きかけたイノシシの脇腹を数十センチに渡って切り裂き、さらに駆け去る。
 クラインの動きが止まったとき、すでにカトラスは燐光も音も発していなかった。哀れなモンスターはHPバーを完全に擦り切らせ、不自然に膨らんで破裂した。妖夢もすでに幾度か見ている、SAOの死亡エフェクト演出だ。ゲームゆえ、現実の死に方まではさすがに再現しない。破片が消え去ると、そこにはなにも残らない。
「剣術の基本は全身を動かすこと――ド素人でも剣をまともに扱えますよ~~って触れ込みは本当のようですね」
 片手用曲刀の初期ソードスキルのひとつだ。もちろん妖夢もおなじ武器種なので、使おうと思えば使用できるはずだ。
「よっしゃあ!」
 クラインが喜びを全身であらわしていた。フレンジーボアをはじめて倒したらしい。
「おめでとう」
 黒髪の男が祝福し、クラインとハイタッチを交わす。
「でもいまのイノシシ、スライム相当だけどな」
「え~~、マジかよう」
 かなり苦労しての初勝利だったようで、クラインの落胆ぶりに思わず妖夢は笑っていた。スライムは妖夢も知っている。ファンタジー系RPG定番の雑魚だ。
「クラ之介さん。いまのソードスキルは、リーバーでしたっけ」
「みょん吉も見ていたよな。おうよ、ソードスキル使えたぞ」
「クライン、この人は?」
「言っただろ。みょん吉だよ。初心者なのに、わざわざじーさんプレイに挑もうって酔狂なお孫さんさ」
「どうも、みょんです」
 妖夢は黒髪の男に軽く会釈した。まじと見てみると、あまり特徴のない顔に見える。どこかのドラマにちょい役で出ていそうな、ごく普通のイケメンだ。
「俺はキリトだ。えーと」
「さしずめあれだな。キリトは俺の、剣の師範ってところだな」
「それは言い過ぎな気もするが」
「キリトさんは、ベータテスト経験者です?」
「ああ、そうだ」
「そういやみょん吉のダチがキリトとおなじテスターだって言ってたな」
「魔理沙っていいます」
「マリサ……? どこかで聞いた気がする」
 思い出そうと記憶を探っているキリトと反対に、なぜかクラインが食いついてきた。
「みょん吉! マリサさんって名前、女の人だよな?」
「え? ――まあ、そうですけど」
「歳はいくつだ! あ、いや。それ以前に、彼氏とかいるのか?」
 彼女のいない独り身らしい。出会いのチャンスはすこしでも欲しいのだろう。妖夢はすこし呆れたように返した。
「SAOの正式版を初回ロットからプレイしてるとは限りませんよ。優先購入枠を彼女は仲の良い技師に譲りましたので」
「技師っつーと、エンジニア? なんだあ男へのプレゼントかよ」
「まあそんなところです」
 その譲った相手も女の子であるが、いちいち言わない。あとが面倒だ。それ以前に人間じゃないし。
 キリトが思い当たる節を見つけたようで、聞いてきた。
「みょん。もしかしてウィッチ・マリサのことか?」
「ベータ時代にどう呼ばれていたかは知りません。ほかに情報があれば言ってください」
「黒髪セミロングで、いつも占い師みたいなとんがり黒帽子を被っていて、口調や態度が男にしか見えない」
 本来の魔理沙は金髪だ。仮想現実で髪の色くらいいくらでも変更できるので、決定打が欲しかった。
「特徴的な語尾があったと思います」
「えーと……『だぜ』かな?」
「それなら、まちがいなく魔理沙ですね。ロールプレイじゃなくて素ですよ」
「てっきり中身は男だとばかり思ってたんだが、本当に女だったのか」
 キリトは単純に驚いていたが、クラインが同意するように頷く。
「そうなんだよな。女に見えて男、男に見えて女。ネカマやネナベを見分けるのは意外に難しいんだ」
「ですから、知己(ちき)経由の安全な出会いを求めるわけなんですね」
「不純だぞクライン」
「うわあ。キリトもみょん吉も、そんな生暖かい視線はよしてくれやい」
 両手でイヤイヤするクライン。ちょっと気持ち悪い。
「熱心に男女の出会いを求めても仕方ないと思うんですけど。ロールプレイで疑似恋愛でもするならともかく」
「いやさ。MMOストリームってネット放送あるだろ? アキバで俺、あれの取材受けたんだよ。SAO初回購入成功って、ダチや有象無象と寄り添って、十数人でパッケージ掲げてな」
 ぎくり。
「あのとき写ってた中に、クラインがいたのかよ」
「どいつが俺かってのはもちろん内緒だぜ」
「安心しろ。べつに興味はない」
 妖夢の顔が無表情になった。なるほど――クラインの声に既視感があったわけだ。
「そんとき隅のほうに入っていて、あとでソロでインタビューを受けてた、えらく可愛い子がいてな。ほら、はるばる長野県から来たっつー……仮の名前付いてただろキリト」
「長野ちゃんか。空想から抜け出たようなゲーム女子って、掲示板でも話題になってたな」
「そうそう。先天的に色素が抜けたアルビノの白……というより銀だな。エンジェルボブ風にやや崩した銀髪で、黒いリボンの似合う。目も青色で、まるで妖精か人形みたいだったぞ。表情はずっとクールで、緑で統一された服はフリル入りで、かなり少女趣味だったな。そんな不思議で可憐な子が列に混じって俺から五メートルと離れていなかったんよ。その状態で夜のうちから開店まで半日近くも待ったわけでさ、俺らダチもみんなすっかり緊張しちまってよう――そういやみょん吉も、髪はちょっと違うけど白で、瞳はおなじ青だな」
「……私に似た子がいたものですね」
「髪と目の色だけだろうが。さしずめ、おじいちゃんと孫って関係だろうな」
「あはははは」
 誤魔化すように空気みたいな乾いた笑い声を妖夢はあげた。クラインは気付いてないようで、そのまま話を続けている。キリトも同様であった。
 妖夢は心の中で懺悔してした。
 すまないクラ之介。その長野ちゃんっての、私だ。調子に乗ってネットの番組に写り、そのせいでお遣いのサボりがバレ、大目玉を食らった。罰ゲームも現在進行形で受けている……というか、聞き覚えのある声だったわけだ。そういえば赤いバンダナも共通している。あのとき私が列より逃げなくて済んだのは、あなたが可愛いって褒めてくれたからだよ。恩に着る、ツボイリョウタロウさん。
「ま、あんな子もプレイするソードアート・オンラインに、俺みたいな一人モンが夢を抱くのも仕方ねえと思うわけよ」
「俺も同感と言いたいところだが、モテたいなら、まず強くなるのが先決だ。順序が違う」
「自己弁護、お疲れさまです」
「おいおい散々だな。言うんじゃなかった」
 クラインが後悔すると同時に、彼のずいぶん後方より、青い炎みたいなものが沸き立った。
「そら、強くなる元がリポップしたぞ」
 キリトの一言でクラインが振り返る。エフェクトの演出が終わると、そこにはフレンジーボアが四頭いて、何事もなかったように草をはんでいる。
「気分直しに、スライム相当をまた倒そうかね。モテ男への第一歩として」
 カトラスの柄を握り直し、クラインが最寄りのイノシシ目掛けて雄叫びをあげながら走っていった。勝利の余韻からか、その足取りはすこし軽やかになっている。
「じゃあ私も」
 妖夢は両手を後ろに回し、背中と腰裏より抜いたカトラス二本を両手に持った。
「素人考えで二刀流は危ないぞ。後から装備したほうがイレギュラーと見なされて補正が付かないし、ソードスキルすら使えなくなる」
「まあ、見ていてくださいキリトさん」
 前傾姿勢を取り、忍者のように駆け足。たちまちクラインを追い抜き、のこった三匹のうち左端にいる個体を狙う。
 標的のイノシシは妖夢の殺意を感知すると、食事を邪魔された怒りからか前足を踏みならし、突撃してきた。
「はっ!」
 そのフレンジーボアを余裕でかわすと、避けざまに右手のカトラスでボアを斬りあげ、被ダメージ硬直が解けぬ間に、返す刀ではなく、左手に装備するもう一本のカトラスで追撃した。
 投げられるような勢いで転倒するイノシシ。
 そこに蹴りを加えてささやかながら削り、さらに踏み込みつつ中腰で中華拳法のように左拳を突き出す。カトラス自体は硬直待機中なので手首を操れないが、肘までは動くので、距離が詰まると同時に剣を持ったままの正拳突きが鼻先へと決まった。悲鳴をあげるフレンジーボア。その間に右カトラスの待機が解け、もう一歩踏み込みながら今度こそ本当の返す刀が急所の頸部に炸裂した。片手とはいえ、きれいな袈裟斬りだ。イノシシは声もあげない。
 ボーナスダメージ判定で一気に決まった。あっというまにHPを全消失したモンスターは、ポリゴンの欠片となって飛び散った。
 その横ではまだクラインが難儀している。
「ちょっ。なんでえ、みょん吉! どこがニュービーだよ、すげえ強えぇじゃねえか! しかも二刀流って。殴ったり蹴ったりもアリかよ」
「MMORPGもVRゲームも間違いなく初心者ですよ。剣のほうは違いますけど」
「やっぱ武道経験者が有利になるんだなこのゲーム。自分の体を動かして戦うぶん面白いけど、まったく運動音痴のゲーマー泣かせだぜ――ま、そのためにソードスキルがあるんだろうけどよ」
 妖夢の連続技に触発されたクラインが、ソードスキルでフレンジーボアを突き飛ばした。たしかにソードスキルを使っている間だけは、動作が直線的ながら洗練される。クラインと戦っているイノシシのHPは半分近く残っており、戦いはまだまだ続いている。
「いまのは全力の斬りあげに、上段からの袈裟斬り……」
 キリトが観察するような目線で妖夢に近寄ってきた。
「……剣道じゃないね。剣術か? 踏み込みながら流れるように澱みなくだから、ともすれば段位級? マーシャルアーツまで交えるとは、なんという超実践派の総合武術だ。トドメが二刀流か」
 褒められているのだろうが、妖夢にとっては当然のことなので感情は動かない。ただ、キリトというプレイヤーへクライン並に興味が湧いた。
「一見でそこまで看破するとは、キリトさんも剣術を嗜んでいますか」
 期待を込めた問いかけだったが、キリトは首を横に振った。
「残念ながらリタイヤ組だよ。それも剣道のほうのね。剣術と剣道の差は、SAOプレイの参考にするため知識で知っているだけさ。あんたが一切の防具を付けていないのは、居合道着の感覚を保つためかい?」
「むしろすこしでも軽くなるためですね。この体は重く鈍くていけません」
 両足を揃え、しゃがんでから垂直に跳躍してみる。現実であればこれで数メートルは軽いのだが、いまは二〇センチがいいところだ。総髪と美髯が半瞬遅れ、面白いステップを踏む。
「レベルがあがると凄いことになりそうだな。習熟した実力の裏付けがあるから、そんな老剣豪風のアバターを設定するわけだ」
「恥ずかしい話ですけど、このアバターは私の手ではなく、PCに詳しい魔理沙のサプライズというか、エディットでしてね」
「――みょん、頼みがある。俺に剣術を、できればその二刀流を教えてくれないか?」
 思わぬ提案に妖夢はびっくりした。
「……いきなり私に師事ですか?」
「身近に強い人がいてね。一度見れば十分さ――あんたの技は本物だ」
「それは否定しません。その辺の趣味でやってる習い事ていどの剣士には負けませんよ。あ、もしかして私、おだてられました?」
「どうかな。もちろんタダとは言わない」
 教えてよいのかどうか記憶や知識を掠ってみる。
 魂魄流剣術の使い手は二〇〇名ほどいるが、魔剣クラスの楼観&白楼を用いる白玉楼エディションは別格とされている。いわば流派中の最高峰だ。事実上、魂魄妖夢と魂魄妖忌しか振れない。だからといって……祖父はべつに一子相伝だとか、門外不出などとは言ってなかった。妖夢自身もいちおう幽々子へ形ばかりながら剣術を教えている。妖夢の特殊な魂魄流が白玉楼の外へ出て大々的に広まったことは、これまでない。なにしろ楼観剣&白楼剣をセットで扱うことを前提としているから、赤の他人が習得してもたいして意味がないのだ。
 もっともただの二刀流であれば、通常の魂魄流二刀剣術に収まっており、特別でもなんでもない。ゲーム中の妖夢は人間になっているので、白玉楼仕様はそう簡単に使えない。ノーマル魂魄流であればこの黒髪ハンサムに教えても、なんの問題もないだろう。ただし条件もある。才なき者に教えるほど妖夢は優しくない。妖夢がこのゲームで欲しているのは強者との仕合だ。身も蓋もないが、弱者に用はないのである。
「私はキリトさんの腕を知りません」
「それは暗黙に、弱いと駄目ってことだね」
「あ……すいません」
「いやいいさ。リアルでの俺は、あんたの足下にも及ばない。だけどこのゲームではテスター期間、二ヶ月は先輩だ。その証拠をいま見せる」
 キリトはしゃがむと小石を拾って、ふいに投擲モーションを取った。キリトの右腕が赤い輝きに包まれ、音が高まる。投剣スキルの基本技、シングルシュートだ。ごく短いタメですぐマックスとなり、小石を投げる。それと同時にキリトは駆けだした。ショートソードを背中の鞘より抜いている。
「ついて来てくれ!」
 赤い小石は加熱したような同色の尾を引き、一五メートルほど離れた位置で背中を見せて草をはむ、フレンジーボアの腰へと命中した。HPはほとんどまったく減らなかったが、怒った三頭目のイノシシが加害者のほうへ向き、突進の態勢を取る。
 キリトはその間に急加速しつつ腕を振り上げ、剣先を前方に向けた状態で水平に掲げた。規定されたプレモーションをシステムが感知する。ショートソードがライトブルーの燐光に包まれ、溜めの効果音が鳴る。格闘ゲームでいう必殺技、ソードスキルと呼ばれるSAO独特のシステム剣技がふたたび準備段階に入る。
「……なんだろう」
 妖夢はしっかりキリトに追従している。イノシシも突進を開始した。
 タメ音が頂点に達した。キリトがぐっと腕を軽く振り上げる。すると同時に、片手用直剣の基本ソードスキル・スラントが発動し、システムアシストにより腕が自動で旋回する。彼我の距離はベストタイミング。システムがエネミーを識別し、半自動的に標的目掛けて凶刃を誘導するが、そこでキリトの手がまるで早送りのように、猛烈に加速した。
「これはっ!」
 エフェクト閃光もクラインのリーバーとは一味違う。より複雑な軌道を描き、ショートソードが急所の首筋へとピンポイントに必中。命中を示す赤い斬撃のラインが深く刻まれ、勢いのまま抜けたキリト。哀れなイノシシは啼くいとますら与えられずにその体力をほぼ満タンよりゼロに削り切られた。
 フレンジーボアの体がふくらみ、軽い衝撃音とともにポリゴンとなって消し飛ぶ。あとにはなにも残らない。イチコロで昇天した。
「……一撃必殺、ですか。なんて速い」
 技後硬直――ポストモーションより回復したキリトが、無表情で振り向く。だがその目には得意そうな輝きが瞬いていた。
「どうだ? お眼鏡に叶うと思うが」
「こんなの見せられて、文句なんてありませんよ。どういう芸当なんですか?」
 現状では妖夢がイノシシを倒すのに数撃の連携を必要とする。それがソードスキル一発で済むのであるから、瞬間火力は比べるまでもない。疲れている状況や長期戦の場面であれば、魂魄流で繋ぐよりソードスキルで一刀両断にしたほうが楽ちんだろう。
「システム外スキルのブーストだ。アシストを自力で誘導し、ソードスキルの基本ボーナスへ、急所アタックや勢いによる付加ダメージ、カウンターなど、追加ボーナスをできるかぎり上乗せする」
「ブースト……」
 通常攻撃ですでにそれらしきことをやっているが、ソードスキルでも可能だという。
「理屈はみょんなら説明しなくても理解するだろう。可能だって分かってれば、それだけでいい。すくなくとも最前線のダメージディーラーを目指すなら、必須に近い技術となる」
「すげえなキリトよう。俺のリーバーはどんなに削ってもまだ四割がいいところだぞ。みょん吉といい、最初からどえらいフレンドに恵まれてるな俺は」
 クラインが追いついてきた。いつのまにか二戦目が終了していたようだ。赤髪の剣士は顔をほころばせて、弾むようにキリトの肩へと手を置いた。
「具体的にはどうやるんだ。俺にも教えてくれよ」
「悪いけど、クラインにはまだしばらく無理だ。体がモーションを覚え込むまで、力を抜いてシステムアシストに従ったほうがいい。武道の心得があるみょんだから、VRニュービーだろうが教えられる」
「……つまり下手に逆らうと、アシスト効果をマイナスにしてしまうことが多いということですね」
「素人が剣を振っても、九割以上が無駄な動作だからな。そのためのソードスキルだし」
「仕方ねえな。俺は下手なりに精進するよ」
 クラインはその場でソードスキルをカラ発動させはじめた。リーバー以外にも縦斬りや横斬りなどがある。いずれも技が実行されている間だけクラインが並外れて素早くなり、全身より素人臭さも抜ける。その綺麗だが素直な動きを見て、妖夢が評する。
「私に言わせれば、ソードスキルも型に沿いすぎて真っ直ぐといいましょうか、素人とはいかなくとも、やはり隙だらけですが――」
「その基本動作を達人技へと昇華するのが、ブースト系統の技ってわけさ」
「なるほど。その解釈であれば、私としてもソードスキルを覚えるに、やぶさかではありません」
「現金なものだな。なんにせよソードスキルには最初から結構なダメージボーナスが付いているから、通常攻撃の連携に混ぜ込めれば、より効率よく敵を倒せるはずだ。俺がみょんに教えることができるのは、こういったシステム面の裏技と、第一〇層までの攻略情報かな」
 妖夢にとって、良い取引のように思えた。ただの二刀流――剣と剣の理想的な繋げ方なら、魂魄流の基礎でしかない。たとえキリトからさらに他の者へ広がったところで、どうってことはないだろう。
 妖夢のサーカスのような二刀連携を現実で振れば、どれだけ頑丈な人間でもたちまち肉離れのオンパレードで、疲労骨折すら起こしそうだが、幸いこの世界のアバターにそういった野暮で面倒なパラメーターは数値として存在しない。ゲームは楽しくなければいけないからだ。魂魄の剣は、妖夢が妖怪であるがゆえに成立している。そしてSAOのアバターも、人間の限界を持久力の面で最初から超えている。つまりSAOを越えて人外の剣術が広がる可能性は低いのだ。もし広まったとしてもVRワールド内に留まるしかないだろう。必殺技クラスは……それはまた別の話となるだろうが、どのみちSAOで再現できる技は、人の手にもかろうじて負える範囲に限られる。
「道案内の対価として、私はキリトさんに剣術と二刀流を指南すればいいわけですね。魔理沙が初回ロットでプレイしない以上、キリトさんと一緒なら私の冒険もずいぶん楽になるでしょう」
 妖夢はフレンド登録申請をキリトに送った。キリトよりすぐ承諾の返事。つづけてキリトよりパーティー参加申請だ。もちろんOKで返す。すると自分のHPバーの下に、キリトとクラインの名前に、HPバーが小さく表示された。
 新たなパーティーメンバーのステータスを見て、キリトが感心した。
「HPが一ドットも削れていない。何頭か出くわしたと思うが、みょんはまさか、ここまでノーダメージか」
「突進するしか能のないイノシシごとき、簡単に攻撃は受けませんよ」
「剣術の稽古といえば型の習得が中心だと思っていたけど、実戦慣れしてるような物言いだね。本当に初心者離れしてるなあんたは」
「うらやましい話だぜ。道理でみょん吉は防具をまるごと外せるわけだ」
 妖夢は左のカトラスを腰裏の鞘に戻した。右一本だけでカトラスを軽く振る。
「それじゃあ、さっそくリーバーを試してみましょうか。もちろん最初からブースト狙いで」
 リポップしたフレンジーボアは四体。うち三体が倒されたので、のこりは一だ。
「いくらあんたが凄くても、初回からはうまく行かないと思うぞ。まず力を抜いて身を任せて、何度かやってからでもいいんじゃないか?」
「物は試しです。なんとかなるでしょう」
 五メートルほどに近寄って、クラインがしていたように右腕を曲げて肩口に掲げる。音と輝きがカトラスより生じ、片手用曲刀の基本突進技、リーバーが溜めに入った。妖夢が力を発しているわけではなく、ゲーム内のシステムが勝手に行っていることなので、妖夢にとっては楽すぎて気が抜けるほどだ。
 あとはタイミングだけ。
 オレンジのライトエフェクトに包まれたカトラス。そのタメ音が最大になったと判断した瞬間に、妖夢はソードスキルを解き放った。とたんに腕と上半身が勝手に動き、リーバーのモーションが再現されはじめた。狙いも自動的にフレンジーボアへ固定されているようで、ボアの背に合わせて腕が下がっていく。強制的に操られる体操か。おもしろい経験だ。
 ボアの野郎も妖夢の攻撃に反応して、牙をふりあげて雄叫びをあげた。ここからが勝負だ。
 力を加えて、剣先をボアの急所である、首スジへ誘導――
 空振り。
「え~~~っ!」
 橙色の光線を曳いてさらに何メートルか動き、そこで停止する。つい妖夢本来の感覚で腕を振るい、動かしすぎた。いまの妖夢はお爺様の姿。体格差でリーチもずっと長い。すぐ体を動かして仕切り直したいが、体が動いてくれない。いくつかの例外を除き、技後のポストモーション中は基本的になにもできない。
「来るな来るな」
 フレンジーボアの牙が襲ってくる。
 大口を叩いた手前、キリトもクラインも助けてはくれない。
「典型的な油断だな」
「自業自得、ドジ野郎だぜみょん吉」
 体ごと突き上げられるのを、妖夢はただ受け入れるしかなかった。
「あーれー」
 木の葉のように舞い上がる。
     *        *
 爽快な青だった世界がにわかに強い黄色味を帯び、夕刻へと移ろいつつある。
 一撃必殺の光跡を曳き、犠牲となったイノシシが弾け飛んだ。黙ってカトラスを背に戻す。妖夢の切り捨て御免も板に付いてきた。
 日もほとんど傾き、丘も草原も茜色に染まっていた。拍手が聞こえたので振り返ると、キリトが立っていた。
「フレンジーボアの必殺確率八〇パーセントくらいか? 最初に三回ほど飛ばされたのが嘘のようだな」
「ダメージを受けてもまったく痛くないのが利点ですね」
「そりゃたかがゲームで痛覚まで再現してたら訴訟モンだしな。ペインアブソーバだっけ。でもいくら痛くないからって、クラインはちょっとやられすぎかな」
 遠くで「うおっ」とクラインの情けない悲鳴だ。またフレンジーボアの突撃を受けてしまったようだ。
「クラ之介さん、キリトさんだけじゃなくて私のポーションまで使っちゃいましたね」
「なんにせよみょんはもう、ブーストに関しては免許皆伝かな」
 キリトが手のひらを向けてきたので、ハイタッチで返した。小気味良い音が響く。
「でもさすがに、疲れてきました……ブーストを交えると意外に楽しいですね、ソードスキルって」
「ソードアート・オンラインの核だからな。使わない手はない」
「今度――というか、明日になるでしょうけど、つぎは私の番ですね。キリトさんは私が見せた剣術で、まずなにを覚えたいです?」
「そうだな。一方の剣でフレンジーボアの牙を弾き、すかさずもう一方で斬ったやつがいいかな。強制的に隙を生じさせるあの技が使えれば、ソロプレイで重宝しそうだ。SAOだと二人がかりでやることの多いパリィ&アタックを一人で確実にこなせるなんて、カッコ良すぎだぜ二刀流」
 当身技のことだ。
炯眼剣(けいがんけん)を覚えるにはスキルスロットのひとつを武器防御にしなければいけませんよ。そうしないとタイミングがシビアになりすぎます。キリトさんはひとつめに片手用直剣スキル、ふたつめに投剣スキルを入れてますよね」
「たしかに優先度の低いスキルをこんな序盤から覚えるのは、すこし抵抗があるかな。あの技はケイガンケンというのか。いかにもどこぞの流派っぽくていい」
「ならいっそのこと、先に連続技を学んでみませんか? 私の剣術は連撃が中心です。炯眼剣も連続攻撃の始まりにすぎません。連撃こそが醍醐味なのですよ」
「連撃といっても二刀によるものだよね。でもみょんは一刀でも強いよな」
「初心者のころは修行といえばしばらく竹刀一本でしたし、実技でも一刀から二刀へ繋げることが多いですよ。一刀による連撃もありますし――それに二刀流は剣道でも大学からですよね」
「つまりみょんの評価では、元テスターの俺は基本十分だから、いきなり応用を覚えてもいいというわけか」
「そうなりますね。SAOはゲームとはいえ模擬レベルの実戦を繰り返しますから、現実の稽古より何倍も早く上達するのだと思います。生身は……おそらく反応速度や戦闘勘以外は鍛えられませんけど」
 キリトが破顔して、妖夢の肩に手を置いてきた。その感触がどこかくすぐったい。
「頼んだぜ先生。そのアバター、道場の師範として見たら、とてもよく似合ってるよ」
 キリトとの間に、ひとつの絆が生まれたような気がした。
「はい。頼まれましょう。剣術指南はリアルで私の仕事の一部でもあります」
「へえ、それは期待できそうだな」
「盛り上がってんじゃねえか」
 クラインが合流してきた。最後と決めた狩りを終えたみたいだ。
「けっきょく俺のリーバーは最高で七割削るのがいいところだったよ」
「クラ之介さん、ずっとブーストを練習してたんですか」
 イノシシの攻撃をたくさん受けていたわけだ。ブーストは諸刃の剣で、失敗すれば敵の反撃を呼ぶ。
「そりゃそうだろ。おめえらの一撃必殺をあれほど見せ付けられちゃよう。心がうずくぜ。ダメージたくさんもらっちまったが、失敗は成功の母ってな。おかげで、初日にしちゃずいぶん上手くなったと思う。恩に着るぜキリト、みょん吉。やっぱ聞くのと見るのとでは大違いだなこのゲームは。楽しいったらありゃしない」
「そりゃ楽しいさ。こうして腕や足を動かして、実際に武器を振るうRPGなんて、初めてなわけだしな。それに、世界も広い」
 三人で夕焼けの景色を楽しむ。
 データで作られたゲームの中の世界とは、にわかに信じられない、すごい光景だ。いまは遠くまで見渡せるちいさな丘のうえにいる。第一層のファンタジックな景観が、宝石のような彩りに沈もうとしていた。天はその大半が第二層の底で覆われている。SAOの舞台となっている浮遊城アインクラッドは、城といってもとてつもない規模を持っている。全一〇〇層から成り、一層ごとの空間は高度一〇〇メートル。広さは第一層だけでも直径一〇キロメートル。各層ごとにテーマがあり、平野やら密林やら砂漠やら湖沼やら極寒やら、多種多様なフィールドとなっている。街や村が点在し、大小無数のクエストが冒険者を待っている。クエストには開発者側があらかじめ設置した先天的なものと、システムが分析して自動生成してくる後天的なものとがある。特定の場所に人が集中すれば、冒険がそこでいくらでも増殖していく仕組みで、プレイヤーが飽きないようバランスを調整している。層と層を繋ぐのは、迷宮区と呼ばれる円柱形のタワーだ。そこを突破して最奥にいるフロアボスを倒せば、次の層へ誰でもゆけるようになる。これを繰り返して世界を広げ、一〇〇層のラストボスを倒すのが、ソードアート・オンラインの最終目的、剣舞郷のグランドクエストだ。
 何分か無言のまま黄昏の世界を堪能して、クラインがつぶやいた。
「こんな時代に生まれて良かったぜ。ゲームの歴史を目撃してるわけだな俺たちは」
「そうだな――」
 キリトが背中の剣を抜いて、その剣身に夕日を反射させた。
「この世界はコレ一本でどこまでも行けるんだ。仮想空間なのに、現実世界より生きてるって感じがする」
 その表情はアインクラッドが本当であったらいいのにな、という願望を語っているような気がして、妖夢も頷いた。
「そうですね。私も楽しいです。キリトさんやクラ之介さんと会えて、SAOがとても好きになりました」
「俺もクラインやみょんと知り合えて楽しかったよ」
「なあ。このあと俺、ヤボ用を挟んでほかのゲームで知り合ったやつらと落ち合う約束してるんだ。どうだ、おめえらもはじまりの街に戻って、フレンド登録しねえか?」
 妖夢はすこし考えた。クラインの仲間ということは、秋葉原のときの連中だろう。クラインによればネットゲームは本名をあまり言わないのがセオリーらしいが、彼らはリアルで一緒にゲームを買うに留まらず、本名で呼ぶ間柄だった。それだけ親しいということは、彼らも武術や歴史好きである可能性が高い。話が合いそうだった。
「私は別にいいですよ。お務めで一度ログアウトしますので、たぶん午後七時半ごろになりますけど」
 妖夢はOKしたが、もうひとりの反応が鈍かった。
「……あ……うん」
 キリトはばつが悪そうにクラインや妖夢から視線を逸らした。まるで別人のようだ。
 この態度の急変は――興味があるけど、一歩を踏み出せない。まるで妖夢の友人、河城(かわしろ)にとりのようだ。その属性は人見知りである。おそらくいまのキリトが素の姿なのだろう。クラインはすぐ誰とでも仲良くなれるタイプの人間だから、キリトの内側へ簡単に入り込めた。妖夢の場合もやはりクラインが間に入って接着剤の役割を果たしてくれた。老剣士アバターも影響していたかもしれない。クラインや剣術を通じた縁がなければ、キリトと仲良くはなれなかっただろう。
 その辺りを読み取ったのか、クラインはすぐ自分の提案を引っ込めた。対してキリトはなぜか礼を言う。
「……ありがとう」
「おいおいそれはこっちのセリフだぜ。今日のお礼はいつかきっちりするからよ。これからもよろしく頼むぜ」
「また聞きたいことがあったらいつでも呼んでくれ」
 ふたりが友情の握手をする。クラインが先導しているとはいえ、男の友誼もなかなかにいいものだ。
 メニューで時刻を確認すると、妖夢はふたりに言った。
「そろそろ夕餉(ゆうげ)の支度を手伝わないといけないので、私はログアウトしますね。キリトさん、クラ之介さん。ひとまずここまでです。どうもありがとうございました。クラ之介さんはまたあとで。キリトさんも明日よろしくお願いします」
 きれいなお辞儀に、クラインが両手を胸の前で広げ、よしてくれと止める。
「いいってことよ。フレンド登録してんだから、いつでも会えるしな。はじまりの街で待ってるぜ」
「俺は明日は午後四時くらいから大丈夫だ。今日中にホルンカという村まで行くと思うので、そこで明日の午後四時半に落ち合おう。はじまりの街の北門より、一人きりなら走りで一時間もかからず着く」
 キリトがマップを表示して、ホルンカまでのルートを示してくれた。その情報をそのまま妖夢に転送する。
「じゃあ私も明日の午後四時半までにホルンカに到着しているようにしておきますね」
 妖夢は送られた情報をマップに登録した。ナビみたいなものだ。
「みょん吉。ユウゲで思い出したんだが、晩飯でいいだろうに、おめえ時々、妙に古風な言葉使うんだな」
「この姿ですから、そういう語彙のほうがいいでしょう? それでは」
 右手をさっと縦に振り下ろし、メインメニューよりログアウトを――
「あれ? ログアウトが……」
「どうしたみょん吉」
「クラ之介さん。ログアウトが見あたりません」
「なんだって? 俺ももうすぐピザが来るのによう」
 キリトがそんなはずはないと確かめたが、本当だった。とにかく、ログアウト不能。
「どうしようかな……」
 このままだといずれ妖夢の主人である幽々子さま辺りが強制的に起こしに来るだろう。なんにせよ妖夢にできることはない。そう考えて黙ってるうちに、キリトとクラインの口調がやや、せっぱ詰まったものになりつつあった。なにか重大なトラブルが起きているようだと妖夢にもおぼろげであるが理解できる。
 SAOは商売で作られたゲームだ。そのサービスで無視できない欠陥が起これば、不具合が解消されるまで遊べなくなってしまう。場合によれば営業停止だ。せっかく大好きになりかけているゲームなのに、それがダメとなってしまうのは、妖夢としても嫌だ。大きな問題とならなければいいけど――
 そんなときである。
 遠くより、鐘楼の音が響いた。その音は妖夢にも不気味に思えた。なにしろ音源がどこか、まったく分からないのだ。まるで世界全体が鳴っているような――ありえない聞こえ方だ。そう、むりやり頭へと響かせているみたいに。
 キリトとクラインが立ち上がり、辺りを凝視している。正確には、はじまりの街を向いている。二人の顔は幽幻のように赤く染まった夕刻の暗がりを受け、慄然の感情を顔面に貼り付かせたまま。彼ららしくもなく、迷いの子羊のように立ちすくんでいる。
 そうか。
 妖夢は気付いた。この鐘は、街の鐘楼が鳴らす音だ。
 悪寒すら覚える音響は、一個のゲーム世界がその様相を変質させる、宣告の先触れとなった。
「……幻想郷でもないのに、異変でも起きるの?」
 青い輝きが沸き立つや、なにも対処できぬうちに、妖夢の姿はフィールドより失せてしまう。
 キリトと、クラインも共に。
 西暦二〇二二年一一月六日、午後五時半。
 ソードアート・オンラインは永遠に、そのありようを変えた。
     *        *
 ぼやけた視界が再構築されてゆく。夕方特有の黄色い世界にいるのはそのままだった、が。寸前まで鼻腔をくすぐっていた草の匂いが消えている。違和感がある。やや乾燥した、肌寒い空気だ。青い輝きに強制連行されたのは、無機質な人工の広場だった。いや、元いた草原もたしかに人工で――SAOを運営するアーガス社のデザイナーが組んだプログラムとテクスチャーによるものだが。
 それでも心揺さぶるものを、魂魄妖夢はあのイノシシうろつくたかだか初心者向きの練習用フィールドで感じていたのだ。それはキリトやクラ之介と共有した数時間がおおきく影響していたと分かってはいても、みょん吉こと妖夢にとって様々な初めてが立て続けに重なった、金字塔の黄昏時間にほかならなかった。感動へ強制的に水を差した犯人を妖夢は求めたが、そもそも事態を把握していなかった。すべては進行中ではなく、これから始まるのであったから。
 出来ることは、ただ観察することのみでしかない。石畳の空間はかなり広々としていた。だがそこにはつぎつぎと青い火が灯っており、新たな転移者を吐き出し消えていく。その密度はどんどん濃くなっており、幾重にも妖夢の周囲を囲っていった。
「最初の広場?」
 このつぶやきはおそらく当たっている。くだんの鐘が動き、鳴っている。昼間と黄昏どきでは、印象がまったく違っている。それでも妖夢は、自分の推測が正しいだろうと、半ば確信していた。パーティーメンバーのことを思い出し、二人を探した。いた。すぐ近くにおり、クラインがこちらに手を振っている。妖夢は早足で合流した。
「キリト、ここはどこだぁ?」
 クラインの問いに即答するキリト。
「転移門広場だ」
 ベーター経験者のキリトがいうなら間違いない。
 周囲の青提灯はやがて収まった。不自然な静寂に包まれている、はじまりの街の中央広場。事件という状態の変化は、ひとつの段階が終わったにすぎない。誰もがなんらかの感情を顔に出している。最多集団は不安げに、二番目に多いのが怒りを隠さず、さらに少数が公式イベントと思い込んで、期待を胸に。とんでもない人数だ。総数はおそらく一万には届くのではないか。妖夢にとっては目眩がしそうな数だ。
 やがて――急に周囲が赤くなった。
 夕方の赤みに沈んでいるとはいえ、実際の色は黄昏。つまり黄色の成分が強い。それが本当の真っ赤へと深く染まった。血のような色が不吉に広がってゆく。
「システムアナウンス……?」
 キリトがつぶやく。なんでこんな美男美女ばっかなんだろうと周りの人間を興味深く観察していた妖夢は、キリトの発見したメッセージを視認しそこねた。キリトの目線に合わせて見上げてもそこにメッセージはすでになく、巨大な不定形の塊がぶよぶよと浮かんでいる。まるでスライムだな、と妖夢は感じた。スライム相当――レベル一。アホな連想をしているのは、逃避の心理が働いているからだろうか。一万人を強制転移させ、世界の色を変え、空まで飛ぶ巨塊スライムが、レベル一などであろうはずがない。
 スライムが固まり、特定の形状を取るまでに、一〇秒ほどがかかった。
「……悪趣味ですね」
 妖夢の第一印象である。
 顔のあるべき部位が空虚な、巨大なフード付きローブである。大きさはゆうに二〇メートルはあろうそれが宙に浮かび、はじまりの街の広場に集められたプレイヤーたちを見下ろしている。両手に白い手袋をはめているが、見えるべき肉体が、つまり手首がない。透明人間がローブを着込んでいる、そんなうつろな姿だ。幽霊モンスター型の巨人は、根源的な怖れを呼び起こさせる。
 周囲よりゲームマスターとかGMという声が聞こえてくる。どうやら責任者あるいは管理者のようだ。
「どう出ますかな?」
 大事件の匂いがしてきた。ヤバいなにかが、起きている予感だ。妖夢はすでにそれへと巻き込まれている。
 悪趣味な透明人間ローブが、両腕を広げた。
『プレイヤーの諸君、私の世界へようこそ』
 男の音声だった。
 ようこそと言い切ると同時に、妖夢の一五メートルほど斜め右前方より、一本のナイフが放たれた。ソードスキル独特の燐光を発して。赤い輝きは、フレンジーボアを挑発するためキリトが時々見せた投石とおなじもの――投剣スキルだ。ローブの見えぬ顔面に当たると、鈍い音が響き、ローブ野郎があわてたように顔を覆う。ちいさなウィンドウが空中に開いてなにか表示されているが、遠すぎて内容が見えない。ただその文字も窓枠も青紫色だった。
 視力が低すぎる。妖夢は自身の能力が大幅に制限されている現状を歯がゆく感じた。ただ剣を振るのが得意な人間でしかない。
「システム的不死……」
 キリトがつぶやいた。どうやらあの表示は、色だけで分かる特別なものらしい。
「どういうことですか」
「あの巨人が、まちがいなく運営の演出ってことさ」
 ローブの巨体が仕切り直したようにまた手を広げるが、こんどは別人による槍が飛んでいく。
『私の名は――』
 また当たって、ポリゴンがブレる。
『やめないか、やめろ』
 つづけて石つぶてが連続で投げられており、濃紫の小ウィンドウがつぎつぎにポップし、その数を増していく。
 それらの動きに感化されたプレイヤーたちが、いろんなものをローブ野郎に投じてゆく。
『きみたち、私の舞台を汚さないでくれたまえ』
 妖夢は呆れていた。一体、なにを汚すというのだろう。こんなおかしなことをする奴に、正当に主張するなんの権利があるというのだろう。
 ローブ野郎は左手を縦に振り、可視化させたウィンドウでなにかの操作をはじめた。
「およっ?」
 たしかメニューを呼び出すのは、右手のはずだが――妖夢は自分の左手を試しに振ってみたが、やはりメニューは出なかった。やはりこいつは、普通と違うなにかだ。
 数秒後、投じられるアイテムがローブをすり抜けるようになった。もはやなにをしても、現状ではこの巨大ローブになんらの手を加えることはかなわない。それを察し、投擲行為は止んでゆく。
「ちっ! システムコマンドとは、とんだチート野郎だぜ」
 少女特有の高い音域で、はしたなくも鋭い一言が、最初にナイフが放たれた辺りより発せられた。
 よく知る声、よく知る語尾。
「思わぬ知り合いがいました。失礼します」
「おうよ」
「あ、ああ」
 キリトとクラインの反応が薄いが、こんな状況だから仕方もない。ふたりとはすでにフレンド登録しているので、メッセージやマップ追跡でいつでもコンタクトが取れる。
 人を掻き分け、妖夢は進む。誰もが宙に浮遊する巨人に注意を向けているので、楽に目当ての人物を見つけられた。
 その女の子は周囲よりかなり浮いていた。まず髪が銀色だ。その頭には黒いリボンを結んでいて、とても目立つ。髪型は古風なおかっぱ。顔は整っていて小粒。藍色の瞳が印象的だ。いわゆる碧眼だ。だが口には勝ち気の捻りが成分として加わっており、印象をずいぶんと活動的に見せている。妖夢とちがいきちんと胸当てを付けている。背中には片手用直剣。ミニスカート姿がけっこう似合っていた。
「……私の姿を劣化コピーしないで~~! 霧雨魔理沙(きりさめまりさ)!」
「おっと、もう見つかっちまったぜお爺様」
 投石騒ぎの火付け役が、ニヒルに笑った。異変あらば関係なくとも頭を突っ込みたがる目立ちたがり屋で、傍観者や余人でいることに耐えられない性格だから、手が早いったらありゃしない。
 妖夢は頭ひとつぶんは背の低い銀髪少女に抗議する。
「私はそんな言い方はしません! 私の声まで再現しちゃって――そっか。Youmuのアバター名を使ったの、魔理沙でしょ。なによ嘘付いてまで私に隠して」
「素に戻ってるぜ妖夢。おじいちゃんの妖忌だろうが今はよ」
「私にロールプレイなんて出来るわけないじゃない。ログインしてずっとこうですよ」
「違う違う、女言葉」
『あ~~、私の名は、カヤバアキヒコ――』
 老いた魔法使いのようなローブ巨人が仕切り直していた。だが一度発火した怒りの野火がすみやかに鎮火するわけもなく、鋭いヤジが燻るわけで。それらを一切無視して沈黙する、渦中のカヤバ某とやら。
 カヤバという人物を、妖夢は知らない。
「……誰?」
茅場晶彦(かやばあきひこ)は――このゲームの開発責任者。ナーヴギアの設計者でもあるよ」
 魔理沙の背後より、短髪の少女がひょっこりと頭を覗かせた。両サイドアップのツーテールがよく似合う、河城にとりだ。髪の色は黒、瞳も黒。それは本来の色とは違っていたが、いまは詮索する余裕もない。にとりは覚えている情報を確認する作業のようにつづけた。
「さらに量子物理学者……彼がいなければ、直接神経結合環境システム……フルダイブ技術ニードルスの実用化には、まだ何年もかかっただろうとも言われてるわ。ナーヴギアみたいな民生用ともなれば、さらに遅く。茅場が直接関わったからこうも短期間で実現したんだよ」
 魔理沙が付け足した。
「さしずめ世界を変えた、天才だぜ」
「うん。正真正銘の、天才だよ」
「世界を変えた、正真正銘の、天才ですか……」
 その天才が、なにをしでかそうと、しているのであろうか。
 世界を変えるほどの力を手にした天才が実際に起こすこととは……野次があるていど収まるまで辛抱強く待っていた天才は、何事もなかったかのように、というよりは、なかったことにしたいであろう焦るようなペースで、淡々と告知を続けていった。その内容は――
 狂気。
 としかいいようのない、恐ろしいものであった。
     *        *
 茅場晶彦の述べた長い内容を要約すると、こうなる。
 いまの状態が、ソードアート・オンライン本来の仕様である。
 ナーヴギアを外部の人間が強制的に解除しようとしたら、高出力波が脳を焼く。
 警告を無視してすでに二〇〇人以上が死んだ。
 ゲーム中でアバターが死んでも、同様にナーヴギアが脳を焼いて殺す。
 開放されるには第一〇〇層まで登り、最終ボス倒すしか手はない。
 ――このような状況下で説明されてもいまいち現実味のない内容であるが、ひとつひとつ、河城にとりが可能だと補足してくれた。
 茅場の手によって実際の報道画面がいくつも映し出されると、たしかに世間が大騒ぎになっているのを間接的にであるが、実感できた。これは現実なのだなあ、と。
 にとりは茅場を尊敬していたようで、反動からその顔には深い失望が溢れている。魔理沙にはそれに加え、してやったな、という半ば理解や共感にも似た、複雑な感情が浮かんでいた。
 妖夢はただ激変した事態に心の整理が追いつかない自分の心理状態を、無感情に置くことで冷静に分析していた。受け入れたわけではないが、現実は現実としてそこにあるのだと、知ることだけはできた。これは天才が望んで、変えた世界の、最終的な形であったのだと。茅場にとっては二〇〇人以上の命を永遠に奪ってまで実現しなければいけないもので、今後もおそらく、さらに多くの命を道連れにしてゆくであろう。
 さらに説明がつづく。
『プレゼントを確認してくれたまえ――』
 アイテムストレージを見ろと。右手を操作してメニューウィンドウを呼び出す。見覚えのないアイテム名がそこに加わっていた。
 手鏡。
 それをクリックし可視化する。素っ気ない四角形の鏡が、手の中に出現した。写っているのは、敬愛する師匠にして祖父の姿。白髪美髯の、人間でいうなら五〇歳台後半であろう、屹然とした武芸者の面相。長い髭と白い髪により、六〇歳以上にも見える。厳格でいつも無表情だった妖忌の顔は、いまも無表情ではあるが、不安におののくさまが眼光にしっかり刻まれている。そこに威厳は、カケラもない。
 未熟な自分。
 何処かへと隠遁し、もうずいぶん会ってないお爺様・妖忌は、妖夢の師だった。魔理沙が妖夢を驚かせようと作ったアバターをそのまま利用し、剣術の師にすこしでも近づきたくて、ソードアート・オンラインへとログインした。でも最初に出会った人間、クラインからしてロールプレイに躓き、とても妖忌にはなれなかった。油断からスライム相当の雑魚に直接ダメージも許した。
 魂魄妖夢は、魂魄妖忌には、なれない。
「未熟者ですね」
 とっくに自覚していることを、繰り返し思い知らされる。
 ふと、白い輝きが、体を覆っていた。
「……およ?」
 周囲一体から、叫びがあがっている。鏡より視線を離して辺りを見回すと、プレイヤーたちには戸惑いの感情、驚きの感情、畏れの感情など、マイナスに振った成分に充たされているように妖夢は感じていたが、これからなにが起きるのか、漠然とわかっていた。世界を変えたい茅場の目的はおそらく、真なる世界の創造だろう。だから死ねば本当に死ぬ仕様となった。真実には、無粋なものがある。真なる世界に暮らす住人は、嘘であってはいけない。
 ならば剥がそう。その偽りの仮面を。
 ……戻るんだ。
 妖夢はすこしだけ狂気の天才に感謝した。魔理沙に妖夢の格好を取りつづけられるのは気持ちの良いものではない。
 身長が一挙に縮むのを感じた。白飛びより抜け、急激にコントラストを取り戻す視界の中心に――見慣れた自分の顔があった。
 頭髪はばさっと短くなったが、白髪がつやを含んだ若い銀髪へと鮮やかに変貌していた。髪型はキレイに顔を包み込むボブカットで、やや流れている。いつものリボンがないので落ち着かない。あとで調達せねば。顔面は丸っこく整い、くりくりとした紺碧色の鮮やかな瞳が覗いている。シワはまったくない。ありていにいえば、愛らしいローティーンの少女だ。
 だがひとつだけ、ありがたくない再現があった。いまの妖夢の左頬には『みょん』の丸文字が、黒いマジックペンでしっかり刻印されている。妖夢のご主人、幽々子さまの恨みが。サボった罰ゲームが。みょん刑だ。
 欠点も含めて魂魄妖夢、アバター名みょんの、本来の姿に戻ったわけだ。やはり魔理沙のエディットした妖夢より、本物のほうが可愛いではないか。魔理沙の妖夢は髪型が昭和時代のような感じで、いささか古すぎた。瞳の青も鮮やかすぎる。あれは二〇年近く前、大結界異変のころの、顕界をろくに知らぬ昔の妖夢をモチーフとしたものだ。妖夢はその気になれば瞳の色を青でも緑でも赤でも灰色でも、道具もなにも使わず、自在に変化できる。
 それは、魂魄妖夢が人間ではないから。いまは消えているが、いつもは巨大な霊魂を常にまとわせている、半分人間、半分幽霊という、よく分からない妖怪種族の一員だ。天界と煉獄の狭間にある冥界。中間にあるからこそ、半分生きていて半分死んでいる、不思議な半人半霊が生まれた。そのような人でない存在が、住まう世界すら異なる者が、人間となって人に混じって、SAOで遊んでいる。
 その証拠とでもいわんばかりに、妖夢のふたりの友人も人間離れした元の姿へと戻っていた。
 霧雨魔理沙は金髪金眼。これだけですでに常人離れしているのに、顔立ちは完全に日本人で、白色人種の血は一滴も混じっていない。アルビノと周囲が勝手に誤解してくれる妖夢と違って、魔理沙の髪や目は、コスプレ用具を使わないと、つまりウィッグやカラーコンタクトのお世話にならないと、再現はまず無理だろう。この澱みない黄金色を地毛の染色で作り出すのは困難だ。魔理沙の髪は生まれながらのもので、それだけに美しいナチュラルな発色だ。髪は軽い癖毛でウェーブを描き、卵形の小粒な顔をきれいに囲っている。背中を半分覆うほど長い。背丈は妖夢とほぼおなじ。
 鏡を見て、金髪少女が軽く嘆息する。
「あ~~。せっかく三日もかけたのに。やっちまいやがったな茅場」
 強烈な自尊心を宿す瞳と眉をくいっと動かしながら、魔理沙は手早くカチューシャ結びのリボンを解いた。ロングヘアが完全にフリーで晒される。前髪からサイドの一部をまとめあげると、リボンでそれを結わえ、左肩の前に垂らした。手慣れたものだ。見た目の年齢は妖夢より高く、一五~一六歳ほどだ。服装を除けば、いつもの魔法使いがデジタル世界にやってきた。ただし幻想郷と違い、魔法は一切使えない。
「妖夢と身内道中ごっこが楽しみだったのに、頓挫しちゃったぜ」
「私はそんなのイ~~ヤッです。合わせ鏡でも見てるみたい」
「いろいろ言いたかったのにな。『私には斬れぬものなど、あんまり無い!』とか」
「黒歴史ですからやめてそれ……魔理沙がわざわざ以前の私を再現してたのって、それが理由ですか?」
「近年の妖夢は丸くなりすぎてるからな。二〇年くらい前のまだ尖ってた時期のほうが、羞恥プレイも遊び甲斐があるってものだぜ」
 魔理沙がフレンド申請をしてきた。
「まったく相変わらず趣味が悪いですね」
 いちおうOKで返す。すると魔理沙の上にアバター名が表示される。やはり『Youmu』だった。魔理沙のほうも妖夢のアバター名を見て突っ込んできた。
「妖夢のアバター名、口癖かよ。意外だな。どうしてYoukiにしなかった?」
「元に戻ったから、そんなのもう、どうでもいい話です」
「ま、リネーム用の救済アイテムくらいあるだろ。周りを見てみな。すごい光景だぜ」
 辺りで呆然としているプレイヤーの男女比は、さきほどとおおきく変わっている。九割以上が男性で、女性は少ない。平均身長も一〇センチ以上は低くなり、容姿レベルも美男美女揃いから並盛へと転じている。身長は下がったのに、横へは広がり、平均体重は逆に増えてしまったかのようだ。素材の良い妖夢・魔理沙・にとりは、容姿的にもプロポーション的にも抜群なままだ。スカート姿の男が大量生産された世にもおぞましい光景に、妖夢は身震いした。
「……たしかに、これで名前を変えることが出来なかったら、自殺者が続出しそうですね」
「顔から体格まで再現する……ひゅい! なんて高度な技術なの。ナーヴギアを魔理沙たち用に改造したのは私なのに、こんな仕掛けが隠されてるなんて、まったく分からなかったよ。本当に天才だね茅場――」
 河城にとりがつぶやいた。河童エンジニアのにとりは体格も顔貌(かおかたち)もそのままだったが、黒髪黒瞳から青髪青瞳へと劇的に変色した。肩にかからないていどのショートヘアはやや緑がかった青で、ツーサイドアップに結わえている。信じられないだろうが、河童少女なのでこれがにとりの地毛である。瞳のほうも快晴のような澄んだ、しかしやや濃いめの空色だ。この髪と瞳により、水中にあって目立ちにくくなる。背は妖夢と魔理沙より何センチか低いが、やや大人びて一七~一八歳くらいに見える。ついでにバストサイズもCカップ。AAカップの妖夢とAカップの魔理沙は……まあ頑張ろう。
「体のほうはきっとナーヴギアの初期設定だぜ。体を触らされたアレだな。キャリブレーション」
「顔はまちがいなく、電界網のスキャニング走査だわ。だから妖夢のみょん文字まで拾ってる」
 魔理沙もにとりもこの一〇年ほどですっかり最先端技術に詳しくなっている。妖夢がなにも言うまでもなく、あっというまに種を明かしてくれた。
『――私の目的はすでに達せられている』
 あの声がまた、上より響いてきた。そうだった。まだ続いていたのだ。おそらく史上類を見ないネットワークテロリストとなった、大胆な天才の犯行声明が。皆の混乱が静まるまで、待っていたのだ。
『この世界を創り出し、観賞するためにのみナーヴギアを、ソードアート・オンラインを造った。そしていま、全ては達成せしめられた』
 全ては達成……最後の言葉で改めて妖夢は納得した。
「彼はきっと、本当の異世界を創造したかったんですね」
「――だろうな」
「そうだね」
 魔理沙とにとりが即座に首肯する。三人には分かってしまうのだ。幻想郷という、本物の異世界の住人であるから。
 天才にしか出来ないこと。それは世界を変えるだけでなく、創ることだ。茅場という夢想家は、すでに世界を変えた。つぎにすることは、変えた世界を元に、異なる世界を創ること。ソードアート・オンラインは、その妄執より生まれ落ちた種なのだろう。あとは生えてきた芽が、どう成長してゆくのか。
 だから観賞する――おそらく茅場は、あまりに頭が良すぎて、オカルト的なものを本当は信じたいのに、科学者としてどうしても信じられないジレンマに、深く悩んだことだろう。でなければ、大勢の命を虜囚としてまで、世界を創ろうなどとは考えないのではないか。
「狂っていますね、彼」
「深い。どれだけの深い渇望が、茅場をいまのこの、最悪といえる演出へと向かわせたんだ」
「私たち、思いっきり巻き込まれちゃったね。新手の異変かな? あはは」
 現実逃避癖のあるにとりがすこしズレていた。
 テロリストのスピーチはクライマックスに差し掛かっている。
『最後に私からひとつ、君たちにメッセージを送ろう――』
 それまでの無機質な口調から一転、感情が読み取れた。
『これはゲームであっても、遊びではない』
 諭すかのような、気付いてくれと懇願しているような……茅場はふたたび単調な言い方に戻すと、チュートリアルの終了を宣言し、健闘を祈るとつぶやく。すべてが終わると、茅場の巨体は溶けるように空中へ溶けていった――
 赤い覆いが消え、元に戻った中央広場。空間は無音に近い静寂に包まれている。一万人がいて、これほどの静けさ。
「ゲームであっても、遊びではない……ですか」
 印象に残ったセリフだ。口に出してみる。ここだけ、感じが異なっていた。当初は言うつもりのなかった、挟み込んだ蛇足だと妖夢は感じた。魔理沙のちょっかいが原因かな? ならば茅場晶彦なる天才犯罪者の本音が隠れているのはおそらくここだ。
 やはり限りなく真に迫った異世界を創造したいのだろうか。それとも別に、妖夢では思いも考えもつかない、隠れた深淵があるのだろうか。妖夢は昨日、関連した言葉を投げかけられたことを思い出した。その相手は茅場とは関係がないはずだが、妖夢がこのゲームを遊ぶことを事前に知っていた。主人の幽々子が、SAOに浮き足立つ妖夢を心配し、相談していたからだ。
『世界を変える力を、あなたは望むの?』
 その人は、まるで茅場がそうしたようなことを、妖夢に問いかけるように伝えたのだ。だが返事は出来なかった。スキマも待たずに消えた。予言というわけではなかったが、世界初の世界は別の意味での世界初へと変わってしまった。アインクラッドの剣舞郷はもはや、いろんな意味で普通のゲーム世界ではない。
「さて――どうしたものかしら、魂魄妖夢」
 静かだったのは、三〇秒ほどだっただろう。
 阿鼻叫喚。
 一度だれかが悲鳴をあげると、後は無秩序に混乱が広がっていった。そこに社会生物としての人間の美点はなんら見出せない。茫然自失・押し合い・へし合い・倒れ・泣き崩れ・泣き喚き・祈り・怒り・転び・頭を抱え・ふらふら歩き・立ちつくし・大声で叫ぶ。マイナス的なあらゆる行動が、同時に起こっていた。誰もが救いを求めていて、誰もがなにかにすがりたい。一万人もいるのだ。一万のパターンで、絶望の創作ダンスが踊られている。
 悲壮がはじまりの街を覆っていく様子を、妖夢たちは意外と冷静に観察していた。現在ていどの危機になど、妖夢や魔理沙は幾度も遭遇してきた。
 危機ではあるが、危険ではない。
 街の中は犯罪防止コードで守られており、いわゆる圏内と呼ばれている。命の駆け引きとなる状況はそう簡単に起こらない。だからできるだけ落ち着いて、きちんと思考を巡らせるべきなのだ。
「どうしましょうか、魔理沙?」
「――そうだな。まず移動だぜ。この広場にいると、自暴自棄になった妙なやつに絡まれでもしたらやっかいだ。私たちは田舎モン丸出しの、しょせん山出し娘だからな」
「賛成。赤面症の私はたいていの男にとってチョロそうに見えるし、妖夢も有名人だから、そのうち好意の集中砲火を受けるわよ」
 たしかに幾人もの視線を感じている。ほかの人たちは凡庸に戻ったのに、まるでエディットしたアバターのように鮮やかな姿となった三人の、しかも少数派へと減じた女の子が、まとまって固まっているのだ。パニックの中、どうしても衆目を集めている。これが現実世界であれば、なんの心配もいらない。だが茅場のせいで、事情がまるで異なってしまった。注意すべきはモンスターだけではなくなった。
 妖夢たちはいま、能力をことごとく封印されている、ただの女の子にすぎないのだから。


※独自設定/ソードアート・オンライン
 公式側はWeb版・原作・アニメ・ゲーム版が混在。展開の都合でないこと書くので注意。いちいち触れない。
※NPC露店&おじさん
 アニメでクラインがカトラスを覗いてた店。こういうのがあちこちで登場する。東方側と同じく、以降この手の仔細は割愛する。
※ベータ時代の到達点が第一〇層
 原作一巻は六、アニメは八、プログレッシブは一〇。このようなブレは沢山あり、当作での採用基準はごちゃ混ぜ。

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