第六章 みんな馬鹿だったんだね

よろずなホビー
ヴァルキリー・スプライツ/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 設定資料

 徹底的にしまった……
 辰津美は内心でおもいっきり冷や汗を掻いていた。テレビやビデオによく出る関係で、ポーカーフェイスが上手くなったのが幸いした。妹が気付かなければよいが。
 なんとはなしに、右手の甲を左手でさする。これは二年前からの癖になった。まるでなくした握力よ、戻れといった感じで。
 そうなのだ。
 このせいで、剣道をやめることになった。
 なくしたものは大きい。辰津美のすべてだといってもよいくらいだ。
 それを取り戻すための手段として、VSを選んだ。LV入力のVSしかなかった。
 世界大会。それを制するまでは、なくしたものを取り返したことにはならない。剣道で極めた高みは、世界一ぐらいでないと等価として相当しない。
 剣道とVSでは、本気でやっている人の率がちがう。いくらVSのプレイヤー人口が世界五〇〇万人といっても、これは遊びだ。徹底的に青春をぶつけているのは、うち五万人もいればいいほうだろう。
 だからあくまで世界制覇なのだ。
 ――それにしても、さっきは思わず泣きそうになった。我慢するのに必死だった。
 決勝進出。
 こういう場面は間近でよく見てきた。
 なにせこちらは決勝の常連だ。逆に相手は決勝がはじめてということが多い。
 なんにせよ、はじめてというのは一番感動するもので、同時に一番覚えていることなのだ――それを毎回再確認しているだけ。なのに。やがてそれを見ても心動かされることはなくなっていた。
 はずなのに。
 私が、妹のドラマに酔っているのか?
 たしかに劇的ではある。
 姉妹の間には、誰も知らない、さりげない神聖な約束がある。
 それを履行するため、ナンはやって来た。
 ――そしてここまで上り詰めてきた。
 本当は簡単なことなのに。
 東京にふらっと単身で来て、VSでのサシ勝負を挑めばいい。VSは別に三対三で戦う必要などない。辰津美がスリーオンスリーにこだわるのは、それが一番優勝するのが困難だからだ。日本個人優勝経験者は、すでに全員を野良試合でのしている。
 ナンが野良試合を望めば、もちろん快く受ける。別に来なくても、通信対戦で指名希望すればいい。通常ならあまりにも対戦希望の多い中華英雄と戦える可能性はゼロに等しいが、前もって連絡しておけば、最優先対戦登録をするだろう。
 現在の電話も住所も家族には教えていないが、ネット上での連絡取りは可能だ。なにせ辰津美はVS関係のウェブサイトでボランティアの講師を務めているからだ。それをナンが知らないはずはない。
 ……なのにナンはおろかにも一番困難な道を選び、かつ這い上がってきた。
 その苦労に、私は心動かされているというのか?
 ――恥ずかしい。
 ファイト真の説明があるが、まったく耳に入らない。辰津美は心臓の鼓動が早くなるのを感じつつ、自分の興奮と動揺を抑えようと必死になっていた。
     *        *
 鹿児島県からやってきたサクラガラスというチームにとって、全国大会ベストフォーは場違いであったかも知れない。ただでさえ卑怯扱いされやすい逃げ系戦術で参加しており、しかも大会に参加した同種のチームの中では格下とされていた。
 今大会参加した逃げ系チームは五つ。五チームともが純粋逃げだったが、大会前に峰風辰津美が記者に答えた評価は、いずれも厳しいものだった。
「私が叶わなかったPHOENIXは、ため息が出るほどの逃げっぷりでしたよ」
 たしかにそうだ。純粋逃げを世界ではじめて披露したのが、いきなり世界大会を制覇したチームだったのだ。すべての模倣チームがオリジナルより弱いのは当然だった。そして戦術発表から二回目の公式大会であるが、日本ではいまだ純粋逃げの優勝はない。
 その歴史を俺達が作る! と意気込んだのは薩摩勇人らしくてよかったが、いかんせん相手が悪すぎた。
『トリニティ対空砲火用意、ファイヤー!』
『ひ、ひええ!』
 最後の黒いカラスがエジプトの空に散った。クフ王のピラミッドに墜落爆散し、ピラミッドの中腹を盛大に破壊して、それで戦闘終了となった。
 試合時間、わずか二四秒。
 中華英雄の、ほぼパーフェクト勝利。
 ほぼパーフェクトというのは、サクラガラスが緊急の対策で開幕レーザーを使用したからだ。だがレーザーとアプカーでは、あまりに威力の差がありすぎた。
 コックピットの外に出た辰津美の顔は、一仕事を終えたというよりは、妹への約束を果たせることの安堵で一杯だった。
 もしかして万が一にも、負ける可能性があるかも知れない。
 という緊張を感じていたのだ。すべてはナンの起こした魔法だ。今大会にナンがいなければ辰津美はごく冷静に戦い、九州沖縄一位のチームを無感動に葬っただろう。
 ファイト真のインタビューに無表情でこたえた辰津美であったが、その実胸の内では踊り出したい気分であった。
「峰風、ちょっと無表情すぎたな。見る人が見れば、我慢しているということがバレバレだぞ。ポーカーフェイスだけでなく、そろそろ演じることも覚えたらどうだ?」
 決勝前の休憩時間、裏の廊下で清水に釘を差された。
「わかったよ。じゃあ、まず気を抜くぞ」
 ふうっと息をはく。辰津美の顔がみるみる変化した。それは喪失の寂しさと、新たなものを得た自信と、そして得たものを守ることへのかすかな不安と……隠し事をしている慚愧の念が入り交じった、なんとも言えない複雑な表情をしている。
「……おいおい、悩んでいるのか怖いのか嬉しいのか、はっきりしてくれよ」
「嬉しいさ。でもな、決心がつかない」
「いずれ話さないといけないだろう? 斎藤も来ていることだし、いっそのこと――」
 清水がなにを言おうとしているのかが、辰津美にはすぐに理解できた。
「それはやめてくれ」
「……そうか」
 残念そうに清水は言った。
「――期せずして、清水さんの提案が実現しそうですね」
 ずっと黙っていた坂東が、飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れた。
「どういうことだ?」
「来ましたよ、峰風さん」
     *        *
 黒いビニール袋を持って、少女は隠れている。トイレの個室の中で、じっと。音がするたび少女はビニール袋を抱いて、息を殺した。目の前のドアが引かれるたび、この世の終わりと思うような緊張を覚えた。かけた鍵のおかげで、こうして見つからずにいる。
 少女が抱いているビニール袋は、不自然に縦に長い。剣状のものを包んでいるのだ。少女は試合前だというのに、感情にまかせていきなり逃げ出したことを後悔していた。ポケットの中のカードが気になって、ごそごそと取り出した。
[花竜《ホワロン》]と書かれてあった。
 真っ赤で、身軽な強い戦士。二年前に大きいお兄ちゃんがくれた、大事な贈り物。ずっと乗りつづけ、いまではホワロンに乗っている間は、なんでもできる気がする。
 悪い人を、どんどんやっつけるんだ。
 そう。ホワロンは正義の味方なのだ。
 どんどん悪人を退治して、ついに大きなところにやってきた。ここでも悪人を退治して、最後にソーソーという大魔王を倒すのだ。
 だけど気になる。
 試合はどうなっただろう? もしかしてさゆりが来なかったので、ハンソクで負けになったのだろうか? ごめんなさい。あの人をこらしめるためにずっと戦ってきたのに。
 ついと視界がかすれた。涙が溢れてきたのだ。
 斎藤小百合は目を拳でこすった。ガタンと音がした。びくりとする小百合。と、カードが手から滑り落ち、床を転がった。
「ああ!」
 慌てて拾おうとするが、カードはトイレの扉の下側にある、わずかな隙間を抜けて外にでていった。
 一瞬どうするか迷った。すこし前に誰かが入ってきて、一番奥のトイレに入ってまだ出てきていない。たぶん大きいやつだ。だから外には誰もいない。
 小百合はドアのロックを解除し、外に出た。もちろん片手には黒いビニールを巻いた竹刀を持っている。
 カードは反対側の壁が止めてくれていた。大事なホワロンのカードを回収し、ほっとする小百合。
 だがその小さな心臓を二度どきどきとさせることが起きた。
「馬子斬くんの言う通りですわ。犯人が犯行現場に一度は戻るというのは、本当でしたのね。まさかこんなお子さまだったとはね」
 小百合の体がびくんと硬直した。
 トイレに入っていたはずなのに――数秒かけて、こわごわと声のしたほうを向く。
 窓際に女の人が立っていた。知っている。昨日、後をつけた人だ。でも妙な格好をしている。セーラー服の上に茶色のコートと革製の帽子。そして右手には、なぜか虫眼鏡。
「なんでわかったの……?」
「あらいきなり図星? こんなカマに簡単にひっかかるなんて、未熟ですわよ」
「あ……」
 ビニールの中身が問題の竹刀かどうかは、言わないかぎりばれない。
「名探偵・神無月律枝の登場ですわ。その竹刀、返しなさい!」
 追いかけっこがはじまった。
     *        *
 決勝までの休憩ということで、準決勝の模様が通路備え付けの壁掛けテレビで再放送されていた。
 眺める斬の体は、しずかに震えていた。
 ナンさん、勝ったんだ……
 心から嬉しい。
 しかもイリュージョナーにまでなって……
 戦闘中は苦戦の連続でハラハラしっぱなしだったが、自分の選択は間違っていなかった。
「……はやく出てこないかな」
 一刻も早くナンと力王の元に行きたかったが、神無月に断らないと、という思いもあった。神無月が目の前の女子トイレに調べに入ってから、もう五分以上になる。その間、他人の出入りは一切ない。
 と、駆け足の音。トイレからいきなりツリ目の女の子が飛び出した。その腕には細長い黒ビニール。形があきらかに、竹刀だった。
「いっしょに追ってワトソン君!」
 名探偵・神無月が通過した。
 斬もほとんど反射的に駆けだしていた。
 なんだなんだ……瓢箪から駒か?
 とにかくナンの竹刀を取り戻せる好機が巡ってきた。
 ここで男を見せよう。
     *        *
 というわけで、斬と神無月に追われる小百合が、中華英雄の前に出没したのだ。
 盗難の件を辰津美は知らなかったが、竹刀がなくなったことは知っていた。それらしきものを抱える小百合が逃げていて、追う片割れが斬であるのを見て、なにかあると直感で判断した。もちろん坂東もおなじだ。
 辰津美はとっさに通せんぼをして、小百合の逃げ道を塞いだ。あわてた小百合はその場で足踏みをしながら左右を見回し、近くに階段を見つけて逃げ込んだ。
 それを辰津美、斬、神無月の順で追った。坂東がやや遅れて追う。最後に清水があくびをして、ほかの方向に歩いていった。
 小百合は階段を行き着くところまで駆け上がった。階段にはあちこちにいろんな道具や木の板などが無造作に置かれている。終点の大扉が見えた。かすかに開いており、日の光が射し込む。後方から複数の足音が迫っているので、小百合はそのまま扉に手をかけ、光の中に飛び出した。
     *        *
「話がある」
 休憩がはじまると同時に、力王はそういってナンをここに連れてきた。
 二回戦のあと励ましてくれた、狭い作業用の屋上に。
 道すがらの階段でも、そしてついてからも、力王はなにも言わなかった。ただナンのほうを向いて、口を魚のようにぱくぱくさせるばかり。頬をわずかに染めている。
 ナンは少女漫画な空気を察知した。
 どうしよう……
 もし力王が勇気をふりしぼって言いたいことをちゃんと言い切れば、それはナンにとって生まれてはじめての体験になる。
 漫画やテレビではよく見る光景だったが、まさか自分が経験できるかも知れないとは思わなかった。
「ナン……」
「はいい」
 声がうわずっているのが自分でもわかった。とっさになにかで誤魔化そうとする。
「ざ、斬くんと合流しなくて、いいんでしょうか先輩?」
「あいつがいないほうが都合がいい。それに信じられない奇跡がつづいているときだからこそ、今のうちに言いたい」
 ああ、やはり。
「ナン、俺はナンが……」
 どうしよう、先輩としか思えない。体格がよくて顔はパンダみたいに和んでいるので、横にいると頼もしくて安心する。身長差が四五センチもあるけど、特に嫌いではない。
 だけど……
 だけど、ナンはほんのわずか前に、斬を、馬子斬を好きになってしまったのだ。
 こればかりは、どうしようもない。
 どうやったら傷つけずに済むだろう。
 そのとき。
 ギイィ。
 鉄製の扉が開いた。
 女の子が飛び込んできた。背丈はナンよりかなり低く、幼い顔立ちとぷにぷにした頬が、あきらかに小学校中学年だと物語っていた。胸に黒いビニールを抱えている。それはまるで、刀剣のように長かった。
 そのツリ目がナンを確認するや、にわかにおびえた態度を取った。あわてて扉に戻ろうとするが、扉から斬と辰津美が出て来ると、方向転換して屋上の隅のほうに駆けていった。
「ナンさん、兄さん。ふたりとも顔を赤くして、なにをしてるんですか?」
 ぜえぜえと肩をゆらしながら斬が聞いた。
 力王は口をつぐんでなにも言わない。逆にナンが答えようとした。
「あ、これはね」
「……は、それどころじゃない! ナンさん、兄さん。あの子が竹刀を盗った犯人です!」
「え?」
 表情に驚きを浮かべると、ナンは直後に反応して駆けていた。
 隅で少女は、ビニール入りの竹刀を抱いて、じっとこちらを睨んでいる。
 それを辰津美が問いつめていた。
「盗ったと聞こえたが、穏やかじゃない話だな……」
 少女は竹刀をさらに強く抱く。
 ナン・斬・力王が合流してきた。
 被害者であるナンが戸惑った顔をして、辰津美と少女を交互に見る。想い出の品と、そして当人が共にいるからだ。
「姉さん……」
「ナン、盗まれたなら、素直に盗まれたと言うべきだ」
「ごめんなさい。でも……」
「発見ですわ! ……って、どうして峰風南さんまでいらっしゃるの?」
 神無月が屋上に出てきた。
「……ふうふう。さすがに疲れますね」
 坂東もだ。すれ違うのがやっとの狭い屋上は、すっかりにぎやかになった。各人が適当に情報交換しているが、ナンと辰津美、斬は少女をじっと見つめている。状況把握は後でもできる。いま大事なのは、竹刀だ。
 得心したように斬が言った。
「思い出しました。この子、斎藤剛の妹です。名はたしか、小百合」
「え? チームカンウの子?」
 私用で試合に出られなかった子だ。
 辰津美が声を抑えて、
「異名が泣くぞ。なにも聞かないから、妹に竹刀を返してやってはくれないか?」
「……いや」
 小百合は首を振った。
 低い手すりの上によじ登る。手すりを跨ぐ格好で、竹刀を空中に投げ出そうという形で持つ。
 場に緊張感が走った。
 やや焦りを含んだ声で、斬が一歩前に出て諭すようにゆっくりと言った。
「小百合ちゃん。危ないから、そこから降りてくれませんか」
「みんな大きいお兄ちゃんの敵だもの。だから不幸にしてやる」
「……なにを言っているの?」
 わけがわからず、不思議がるナン。
 ひときわ巨大な鉄の音がした。
 全員が驚いて、振り向く。
 豊かな頬髯を持つ、斎藤剛が立っていた。その顔は仁王のように赤く、怒っていた。
「こらあ! 小百合!」
「なんで……なんで、その顔をさゆりにするの? あの人に見せる顔を!」
 小百合が身を震わせた。
 剛はきつい面を和らげつつ、近寄ろうとした。
「……小百合、敵なんていないんだ」
「いやあー!」
 その小さな体が、ふいにバランスを崩した。
 傾く方向は、外側。
「……あ」
「だめぇぇー!」
「せいっ!」
 ナンと斬が小百合の体を掴もうとしたが、しかし間に合わなかった。
 小百合のちいさな体が、すっと空中に消えた。竹刀ごと。
 あまりにもあっというまの出来事だった。
「あ――!」
 ナンはさらに手を伸ばしたが、バランスを崩す。ナンも落ちそうになったが、その体を斬と辰津美が支えた。ナンは上半身の大半が低い手すりを越えた状態で、小百合が落ちてゆく様を凝視していた。
 竹刀と、そして小百合はばらばらに落ちてゆく。
 下はアスファルトだ。高さを考えれば、確実に死ぬ。悪夢にしか思えなかった。
 どうして、こんなことに?
 ――と、下を走る男が、一人。
 ものすごい速度で走っている。ダイビングした。その先には、小百合と竹刀が落ちてゆく。
 ビニール入りの竹刀は地面に落ちると、思った以上に激しい音を立てて跳ねた。ビニール全体が不自然な形に曲がっている。竹は衝撃に強いというが、それでも折れた。
 竹が折れる高さから小百合も落ちた――ナンは怖くなった。しかし小百合の「嫌な音」はしなかった。男がキャッチしていた。とっさに小百合を胸に抱え、固い地面の上を転がる。すくなくとも五メートルは転がって、ようやく止まった。
 男は仰向けになって、両手を広げて大の字に寝た。その胸元には、ほとんど無傷同然の小百合が、呆けて周囲を見回していた。
「冗談きついぜ剛さんよう……落ちてくるのは竹刀だったはずだろう?」
 風に乗って、男のつぶやきがナンに届いた。
 男は、中華英雄の清水だった。
     *        *
「すまない。儂のこだわりのせいで、小百合はなにか勘違いをしていたようだ。すべては小百合に甘かった儂の不徳だ」
 頭を地に深々とついて、斎藤剛が土下座をしていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 隣では歳の離れた兄を真似て、小百合もつづく。なぜか関係ないはずの雅彦も謝っていた。
 ここはドームのVIPルームだ。
 中華英雄が特別扱いされているのがナンにとっては複雑な気分だったが、とにかくここが中華英雄専用の控え室だという。
 人がドームの屋上から落ちたというので、大会は一時ストップしていた。観客たちはしかし思ったより落ち着いているようで、やがて決勝が行われると信じて疑わない。目撃者がすくなかったことが幸いしている。
 剛を呼んだのは清水だった。階段の先には屋上があるのを知っていたのだ。おいつめられた小百合が竹刀を投げ捨てるかも知れないと剛が言ったので、ドームの外に出て待っていた。するといきなり子供が落ちてきたので、慌てて受け止めたという案配だ。
 その後大会運営側が慌てて二人を特設医務室に運び込んだ。VSは激しい体感を伴うゲームシステムのため、大会中は万一に備えた医者をドームに招いているのだ。二人とも内出血や骨の異常はなく、内臓の異常もとくに発見されなかった。清水の左腕が軽い肉離れを起こしていただけで、すでに包帯を巻いて治療してある。だがこれはあくまで簡易診断のため、二人とも大会後にその足で病院の精密検査を受けに行くことが決まっている。
 つまりは大事なしということで、先の決勝実施が決定されたのだ。
「すごい……どうして平気なの?」
 話によると、清水は元々陸上の短距離走者だという。そんな体育会系がなぜVSをしているのかは謎だが、今はどうでもいい。
 竹刀が折れた……
 ナンは真ん中できれいに折れた竹刀を持っていた。繊維が繋がっていて、ふたつにはならなかった。竹さえ総交換すれば竹刀は直る。だけどそれは新しい匂いがする別物だ。あの竹刀とはもう違う。お守りはもはや、二度と元に戻らない。
 それをわかってはいるはずだが、しかしナンは涙が出てこない。これは竹刀をなくしたときとはあきらかに違っていた。なにしろ、思ったほどには悲しくないのだ。
 むしろ気が晴れたのを感じる自分がいて、そのことに驚いているほどだ。
「ナン」
 辰津美が歩み寄ってきた。
「姉さん……」
「大事な話がある――すまん清水、坂東。人払いを」
 辰津美の要請で、部屋はナンと辰津美だけになった。神無月が最後まで抵抗したが、清水がぽかんと頭を叩いて無理矢理連れ出した。
 姉と妹が、ひさしぶりに二人きりになった。
 いざとなると、ナンはどう言ったらいいかわからない。
「……姉さん」
「ナン。なにから話したらいいかな。あの斎藤は見ての通り、根はいいやつだ。ただ新興宗教の教祖の跡継ぎということで、独自の倫理観を持っている」
「……そんなの、どうでもいいよ」
「どうでもよくはない。人が落ちた以上、警察が来る。ナンも証言することになる」
「あ……」
「だから教えよう。斎藤と中華英雄の関わり、歴史を。そもそも中華英雄は当初、坂東のデータ取りのために結成されたのさ」
「データ取り?」
「坂東は飛び級枠を利用して一四歳で東京大学を出た天才だ。IQも一九〇近くあるらしい。現在はLD通信社の部長をしている」
「知っています。坂東さんはVSの通信対戦システム開発に携わったとか」
「基本原理すべてをやつひとりで構築した。なにやらよくわからない怪しげな予測技術で、瞬間未来をどうのこうのとか。一方斎藤にも、人は未来を知れるのか、という宗教的疑問があった。だから坂東と斎藤は意気投合したのさ――」
 電脳に携わる研究者たち究極の夢は、五感を含めた完全な仮想現実だ。その途上技術であり、現在最速の入力系であるLV。
 そしてこれを開発導入したのがVSだ。
 遅速化視認化調整なしの実際の弾速・物理法則を採用して、人間の反応で回避・射撃し、斬り合いまでできる唯一のゲーム。その売りは見事にヒットし、三年で全世界五〇〇万人のプレイヤーを獲得するに至った。
 だが画期的であるがゆえ、VS開発は一筋縄ではいかなかった。
 とくに開発の最終段階で、通信対戦がネックとなっていた。あまりの超速反応ゆえに、従来のタイムラグ補正技術では、表示がバグだらけになる。
 そこで未来を予測することになった。
 当時斎藤は、将来に不安を抱えてゲームに溺れていた。坂東は斎藤独自の容易には理解できない予測不能な戦いに興味を持った。
 互いのニーズが合わさった。
 斎藤をメインテストプレイヤーとして研究がスタートし、一年ほどで強制補正が実用レベルに達した。坂東が定めた基準は、一〇〇人が一〇〇時間ずつプレイして、一回もバグが起こらないという厳しいものだった。
 こうしてRBAの次世代ゲームとして、VSが発表された。まもなくイリュージョナー問題が浮上する。
 予想外だった。
 繰り返しバグ表示を引き起こせる者。
 機械の常識を越えた人間。
 マスコミや雑誌はこの希有な存在を、英雄同然に祭り上げようとした。
 坂東はそのバグに愕然とし、絶対に取り除く決意を固めた。
 イリュージョナー本人として清水が呼ばれ、三人で中華英雄が結成された。あくまでデータ採集用のチームだった。
「どうして公式大会とかに出ていたの?」
「坂東もRBAやVSが大好きだったのさ」
 なんとも単純明快な答えだ。
 だがどうしても補正突破現象《ミラージュフェノミナン》をなくせない。いくら強制補正表示の精度と水準を高めても、イリュージョナーの「読み難さ」たるや、技術の限界を嘲笑うかのようだった。
 坂東はイリュージョナーの特徴を調べた。すると多くの者が、身体能力や反射能力に優れていることがわかった。
 すなわち、スポーツマンだ。
 かくいう清水も陸上をしていた。
「そこで確信的にイリュージョナーを探し出せないかと、スポーツマンが集められた。そのなかに私もいたのさ。東京に出て来た直後でなにもかもが物珍しかったし、面白そうだったのでつい参加した」
「変な話。バグを取りたいのに『探す』の?」
「虎穴に入らずんば虎児を得ずってね――それでその場でいきなり、私だけが現象を起こしたってわけだ」
 ナンの口があきっぱなしになる。
「さ、最初で?」
「そうさ。最初で」
「うわー、天才だね。さすが姉さん!」
「ナンだってまだ新米だけど、立派なイリュージョナーじゃないか」
「よくわかんないや。自分で実感できないし」
「すぐに現象を起こした瞬間がわかるようになるさ」
「ふうん……」
「話を戻そう。私は研究に組み込まれた」
 中華英雄は四人となった。辰津美に合わせた機体を作るべく、試作機としてパイロンとホワロンが作られた。だがケイロンカスタムはどうしても辰津美に合わず、仕方なくヴァルキリーを元に曹操を作った。試作機のエッセンスが腕に組み込まれ、ブースターを応用した神速の斬撃が編み出された。
 研究ではイリュージョナーのデータを取るため、中華英雄で辰津美が加わる率が増えた。清水も外せない。対戦の指示を出すため、坂東も自ら乗り込む。となるとどうしても斎藤がもっぱらの仮想敵になってくる。
 斎藤には物事に変に集中しすぎる癖があった。データ取りの対戦だというのに、常に本気でかかってくる。当初は辰津美も弱かったので、一方的に撃破されることが多かった。
「へえ……姉さんも弱かったんだ」
「おいおい。剣道でも私ははじめから強かったわけじゃないぞ」
 やがて辰津美も強くなり、斎藤と互角に張り合うことが多くなった。カンウと戦っているときにやたらと現象を起こすので、坂東は斎藤と辰津美を意図的にぶつけるようになった。
「思えばそれが不幸だった……私と斎藤は私的にも急激に対立するようになった。互いに負けず嫌いだしな」
「それで斎藤剛は、ついに中華英雄から出ていったと……」
「斎藤はあの性格だったからな。知の真理よりも、実践の追求が面白くなったのだろう」
 辰津美が中華英雄に混じって一月経つか経たないか、二年前の六月のある日、斎藤剛が突然辞めると言ってきた。理由は公式大会で、大舞台で辰津美とライバルとして戦いたい、という単純で純粋なものだった。
 坂東と清水は止めたのだが、斎藤は聞かなかった――結局坂東はカンウ・パイロン・ホワロンを斎藤に餞別として送った。
 そこで辰津美はため息をついた。
「あいつが私たち三人の前から、ドアの向こうに消えたとき、なにか胸騒ぎがしたんだ。思えば武道家の勘というやつだった。気が付けば私は斎藤を追っていたのさ」
「姉さん……」
 いきなり辰津美がナンから視線を逸らした。いつもこちらをじっと見てしゃべるまっすぐな辰津美が、である。
「いよいよ核心だね。どうして……」
「ナン?」
「姉さんが剣道を止めることになったか、その理由。怪我をしたんだよね?」
「ナン、それは――」
「――姉さん、もう剣道できないんでしょ?」
「…………」
「姉さん?」
「……ものの見事に見破られたな。ナンには隠し事はできないよ」
 辰津美はナンから離れた。その顔はなんとなく赤い。ナンも体がなんとなしに火照っているのを自覚していた。
「あまり驚かないんだ、姉さん」
「ナンがどんどん勝ちあがってきて、本当に私の前に立っている――これ以上、なにを驚くべきことがあるのだろうね? で、どこで確信したんだい?」
「……私、準決勝で姉さんとハイタッチしたよね? 姉さんが東京に行く前は家の階段でよくしてたから、きっと反応してくれると思って。握力、ぜんぜんなかったよ」
「あれはわざとだったのか――はあ」
「それでね。姉さんらしいや、と思って嬉しくなったんだ」
「嬉しくなった?」
「うん。なぜ姉さんがなにも言わずに私やパパ、ママから隠れるように姿を消していたのか、なんとなくわかったから。今はもうみんなわかる気がする」
「外にいる神無月じゃないが、それで美少女探偵はどう推理したのかな?」
「姉さん潔癖性で完璧主義者だから、怪我を恥だと思って報告できなくて。ならリハビリに成功したら言おうとして、だけど失敗して――だから握力がなくても出来るVSで一番になったら言おうと決めて、それも世界大会で準優勝に終わって言いそびれて、今に至るんだよね?」
 辰津美は決まり悪そうに頭を掻いた。
「私は別に潔癖性ではないけどね……」
「それは怪我の後だよね。清水さんや坂東さんの影響を受けたなら、わかるよ。あのふたり面白そうだもの――昔の姉さんは、それはもう真面目だったよ」
「……正解だよ、正解さ、ええ。大正解!」
 辰津美は両手を広げ、肩をすくめて降参のジェスチャーをした。
「まったくこの子はすごいね。いいさ。あの日、なにがあったかを教えてあげるよ――」
     *        *
 部屋の外で斎藤小百合はびっくりしていた。
 悪が悪ではないと、大きいお兄ちゃんが言ったからだ。
「ソーソーは大魔王じゃないんだ」
「そうさ。誰も悪くないんだ。むしろ峰風辰津美は正義の味方だな」
「え? 勇者さまなの?」
「そうさ、勇者だ」
 勇者と聞いて体が震えた。
「お父様のように、世界を救うの?」
「そんな力はない。だけど、正義の味方なんだ。しかも儂と似たような」
「ならどうして敵だと言っていたの?」
「ライバル、だからな」
「らいばる? またさゆりが知らない言葉」
「負けたくない相手のことさ」
「どうして負けたくないの?」
「理由はいろいろあるが、そうだな、一番はやはり、似たもの同士ってやつだな。あのときはじめて気付いたが、儂と峰風は心の輝きが似ているのだ」
「あのときって?」
「儂が寺に帰ったときさ」
「じゃあ東京で?」
「ああ――儂はな、愚か者だったのさ。努力さえすれば、真剣に取り組みさえすれば、人はなんでも出来ると勘違いしていた。あの日はちょうど一大決心をした日で、気も高ぶっていた。だからとんでもない失敗をした」
「失敗?」
「つまらない喧嘩だった。街のちんぴらに注意した儂は、英雄気取りだった――」
「兄者。その話はまだ小百合には……」
 ずっと黙っていた小さいお兄ちゃんが、横から口を挟んできた。
「いい、雅彦。もう小百合も知ってよい頃だ。それに教えてなかったことによる誤解が、大事なかけがえのない竹刀を折ることに繋がったのだぞ」
「本当にいいのですか斎藤さん? この子にはショックがあるのでは?」
「いいのだよ坂東」
「なにがあったのですの?」
「神無月だったっけ? おまえは黙ってろ――というかおい斎藤、部外者がいるこの場で、本当に語るつもりか?」
「部外者だなんて、失礼でしてよ清水さん。私はこの事件を解いた名探偵ですのよ」
「元のアイデアは僕ですけど」
「あ、ごめんよろしくてワトソン君」
「ワトソン君……」
「でもあくまで名探偵は私ですわ。見なさいこの曇りなき虫眼鏡を」
「なんか汚れてないか?」
「馬子力王さん、イギリス舶来アンティークのすばらしさがわかりませんの? コートも倫敦《ロンドン》十九世紀末モデルですのよ」
「ロンドンって……徹底的にホームズだな」
 なにやらどうでもいいおじさんやおばさんたちが騒いでいる。それを大きいお兄ちゃんが手で制した。一言もなしに静かにしたのだ、すごいと小百合は思った。
「語らせてくれ。とにかく儂はな、誰しも言って聞かせれば通じるなどと、甚だしい思い込みをしていた。だが……」
     *        *
 ――二〇一八年六月某日。
 LD通信開発研究所から駅までの帰り道。暴走族ふうの若者たちが横断歩道の真ん中をバイク群で占拠していて、たむろしていた。人々が往来できず、困っていた。だから剛は注意した。
 返答は、いきなりの鉄パイプであった。
「なにわけのわからねえこと言ってんだ、この仙人野郎。暑苦しくて鬱陶しいんだよ!」
 思わぬ攻撃に反応できずに動けなかった。
 なぜ? と思う前に、その銀色の塊が降りかかってきた事実が信じられなかった。
「はっ」
 鋭い声とともに蹴り。
 鉄パイプが弾け飛んだ。
「いってー」
 痺れる足を振る辰津美がいた。
「……峰風。なぜここに?」
「なに棒立ちになってるんだ? 怪我したいのかこのアホウ」
「なんだと? 偏屈女が。それより研究はどうしたんだ、まだ勤務時間中だろう」
「せいや! せっかく助けてあげたのに、なんて言い種だい」
「儂は助けてくれと頼んだ覚えはない」
「おいこらインド人。この落とし前はどうつけるんだよ」
 鉄パイプを持っていた緑髪に染めた男が険悪な顔で言ってきた。いつのまにか辰津美と剛は囲まれている。その数、およそ一〇人。いまにも殴りかかってきそうな雰囲気である。
「――暴力はいけない」
「なんだと? 貴様が先に仕掛けてきたんだろうが」
 一瞬、緑髪の言ってることがわからなかった。剛が返答に困っているあいだに、辰津美が横から出てきて答えた。
「あんたが先じゃないのかい?」
「――なんだとう? このインド人が先に因縁つけてきたんだろうが!」
「あんたたちの価値観じゃあ、注意と書いて因縁と呼ぶんだ」
「女! 殺してやる!」
「まずったかな?」
 辰津美は足元に転がっていた鉄パイプを拾って、正眼に構えた。
「女、この数の差でやる気か」
「……私にかかるからには、相応の覚悟が必要だよ」
 まったく怖じ気づいた様子がない。
 その気に呑まれたのか、暴走族たちは怯んだように戸惑っている。普通なら一〇対二ともなると、許しを乞うたり逃げようとするのが普通なのだろう。
 剛は小声で警告した。
「峰風――だめだ。ここで暴力沙汰に及べば、ばれたら大学の部から除籍されるぞ」
「わかってるさ……だけどね、こういう連中には説教なんか通用しないよ。とくにあんたみたいな目立ちすぎるいかつい汗苦しい顔で説法なんかした日はねえ」
「ひどいな偏屈女」
「なんだと、極めて客観的な真実だろ」
「儂は主観的だと思うが」
「そんなことはどうでもいいさ。とにかく勝手に助太刀するからな」
「巻き込んですまん」
「なに。好きで顔を突っ込んだのは私さ。あんたは正義の味方らしく堂々としてな――とにかく、一点を突破するよ」
「……わかった」
「なにをこそこそ言っている! かかれ!」
 緑髪の男の叫びで、乱闘がはじまった――
     *        *
 ――まぬけな仙人といっしょに逃げ出すことには成功した。
 だが……
 右手の付け根の静脈辺りから出血が止まらない。よく自殺者がかみそりなどで切る部位に近いので、不安になる。
 まったく力が入らない。右腕全体に鈍痛が走ったように重く、右脇がひりひりと腫れている。左手で必死に出血を抑えようとするが、溢れる血が止まらない。左手はすでに真っ赤に染まっている。
「……くっ。しくじったね」
 辰津美は路地裏の影で壁に背をもたれ、両足を投げ出して座っていた。初夏の暑さと額からひっきりなしに流れる汗が鬱陶しいし、流れ出た血がズボンに浸透して気持ち悪い。
「峰風……すまん」
 近くで剛がなにやら自分のシャツを破り、さらに裂いている。
「なに謝ってんだい。あんたのほうもあちこち打たれてるじゃないか」
「こんなのは平気だ」
「私が倒れかけたのを背負って突破したのは、見事な暴れっぷりだったな。ありゃ何人か入院ものだね。やれば出来るじゃないか」
「……暴力を、使いたくはなかったが」
「仕方がないさ。それに専守防衛に徹していたじゃないか。立派だよ――うっ」
 激痛が走った。
「ははは……一世一代のおおへまだねえ。日本一が聞いて呆れるよ」
「仕方がないさ。剣道は常に一対一でしか戦わない競技だ。一対多で遅れを取っても恥じる必要はない――それよりも止血させろ」
 斎藤はシャツから作った三角巾で辰津美の怪我をしたすぐ近くの血管を強くしばって止血した。きつい圧迫感が腕に来たが、感覚が鈍って痛みが大幅にやらわいだ。さらに左手やズボンの血をシャツで拭ってくれている。
 その様子をじっと見ながら、たった今の言葉が気になった。
「なあ斎藤」
「ん?」
「最強というのは、やはり一対一だけを制するだけじゃ、だめだよな?」
「そうだな。儂はRBAで個人とダブルスを制覇しているからわかるが、ふたつはあきらかに異なる。ダブルスマッチはときに二機を同時に相手にする必要がある」
「中華英雄は……スリーオンスリーだっけ?」
「これをまだ儂は制覇できていない。場合によっては一機で三機を相手にしなければならない。いわゆる集中攻撃というやつだ」
「そうか……すごいんだな、VSって」
「ああ。だから止められない」
「そうか――」
     *        *
「私がVSに本格的に取り憑かれたのは、その瞬間だったな……ナン?」
「あ……」
 辰津美の話を聞いているうちに、ナンは知らず涙を流していた。
「だから……だから姉さんは、スリーオンスリー一筋なんだね」
「そうさ。それで怪我をした情けなさから、一切の説明を家族にしなかったのも……大学にも怪我のことは必死に隠した。包帯を巻いた腕を見せないよう、季節外れの長袖まで着てたんだ――」
 治療費は斎藤の教団が責任を、と全額出してくれた。怪我をしている間は竹刀を握れないし、季節はこれから暑くなる。いつまでも長袖で大学に通うわけにもいかず、思い切って休学届けを出した。その隠れ蓑として、坂東が提携しているMNJ社の社長に話をつけてくれて、契約社員という肩書きをもらった。給料もしっかり出るのがありがたかった。
 こうして新しい生活がはじまった。
 その後リハビリを重ねたが、しかしどうにも握力が戻らないことが判明してきた。筋をまともに切ってしまっていたのだ。治すにはもはや移植しかないというが、お金があまりにもかかる。教団はさらにそれも負担しようと言ってきたが、さすがにこれ以上おんぶする気はなかった――
「どうして? 治ったかも知れないのに」
「ナン。私は自分の過失で怪我をしたんだよ。斎藤の教団は本来関係ない。だいいち手術とその後のケアを含めたら、サラリーマンの年収三年ぶんが吹き飛ぶ、多額の費用がかかる。それは受け取る善意としてはあまりにも大きすぎる金額だとは思わないか?」
 さらに悲しくなってきた。
「真面目すぎるよ、姉さん」
「それだけではない。私はねナン、一対多での最強を極めたいのだよ」
「あ……」
「手術をすれば、長期間のリハビリが必要になり、それに専念しないといけなくなる。そうなるとVSの腕が大きく落ちる。剣道はいまも大好きだが、一対多の最強を極めるまでは、私はVS一本で行きたい。それに私は、一本で行く道しか知らなかった――」
「姉さん。そこまで考えて」
「……ところで、パパやママは健在か?」
「うん。パパは相変わらずだけど、ママはね――あなたはまだ、うちの家族だ。わたしの娘だ――と伝えてって、言ってたよ」
 辰津美はいきなり笑った。
「あはは……パパはともかく、ママはその気になれば連絡を取る方法もあったのに。あくまでナンを使者にするとはね」
「姉さんもずっと連絡しなかったじゃない。私もだけど」
 ふと、辰津美はナンの頭を抱いてきた。
「……ナン、みんな馬鹿だったんだね」
 辰津美の匂いを側で感じる。姉の落ち着いた鼓動がナンに届く。なんて、心地よい。
「うん。家族揃って、大馬鹿だよ。こんなの、他にはそういないね。勝負事でしかまともにコミュニケーションできないなんて」
「知っていたかナン? 私はね、ナンの応援があったから、剣道で三連覇できたんだ」
「え?」
 意外な言葉に戸惑ってしまう。
「面白いだろ?」
「うん!」
 よくわからないけど、なぜか嬉しくなって頷いてしまった。
 そのとき、いきなり辰津美の腰の携帯が鳴った。
「……なんだよこんなときに」
 露骨にいやそうな顔をして電話を取る。
「はい、峰風です――あ、党首様」
 党首様?
 辰津美はふんふんと聞いている。
「……そうですか。ありがとうございます。いえいえ、こちらこそ。それでは――はい。そちらこそ決勝を楽しんでいってください」
 電話が終わった。
「すまんな。途中で」
「党首様って、誰ですか?」
「ああ……万字勇一氏だよ。テレビの世界でよくある悪の組織ってやつに憧れてるらしくて、プライベートではそう呼べってさ。そして正体というか表の顔は、MNJ社の社長なんだよね」
 VSの開発と興業元だ。提携しているLD通信社は通信対戦システム全般を取り仕切っている。
「姉さん、顔が広いんだね」
「お世話になりっぱなしだからね。現在の私は形式上MNJからLDに出向していることになっている」
 そういえばMNJ社の契約社員だった。
「それで社長さんはなんて?」
「普段からVS興業の広告塔として貢献しているから、α筐体のミラージュバトルを楽しんでこいだってさ」
「ミラージュバトル……」
「まったく会社ではαの革命で進退問題が起こっているはずなのに、呑気に観客席で観戦してるんだよ。また好物の海苔せんべいでもかじってるかな、あの白髭おじさん」
「はあ……」
 なんとなく会っているような気がした。
「αの革命ってなに?」
「VSほどの規模になると、運営意志は一枚板ではいかなくてね。MNJにもLDにも、イリュージョナーを毛嫌いする否認派と、奇跡善いかなという容認派がいる」
 そこで容認派が既成事実を作って否認派を一気に黙らせようというのが、αの革命だ。
 全国大会にはイリュージョナーが集まってくる。通信対戦とおなじ環境を再現する筐体を用意すれば、既成事実を作りやすい。
 問題は技術屋の多くが否認派ということだ。なにせ開発者当人にとって、バグが奇跡と賛美されるのは不機嫌な話にちがいない。容認派は営業畑に多いのだ。だが営業畑には特別な筐体を作る力はない。
「そこで坂東の裏切りさ。というよりは、私がVSにかける情熱があいつを変えたというのが事実みたいだけどね。坂東もすっかり丸くなったよ。ちなみに私はこの革命にはほとんど関与してない。どうでもいいからね。でも現象環境で戦えるのは嬉しいよ」
「はあ……」
 よくわからない。おそらくかなり複雑な隠れたドラマがあったのだろう。
 扉が叩かれた。
「峰風、悪いが時間だ。決勝戦がはじまるぞ」
 清水の声だ。
 辰津美はふっと笑った。
「ナン、いよいよ夢の決勝だな。存分に奇跡のドラマに酔わせてもらうぞ」
 ナンはもう頷かない。
 竹刀の折れた部分をさっと撫でる。
 静かに辰津美を見つめ、そして笑った。
「姉さん。私が勝つからね」
「いや、私が勝つ。全力で行くぞ」
 辰津美は白い歯を見せて笑った。
 扉をあけて外に出ると、斎藤小百合が声をあげて泣いていた。なぜか神無月も一緒に涙をしずしずと流している。こちらはさすがに声は出していないが、嗚咽を漏らしていた。
 小百合の頭を清水が撫でると、小百合はとたんに泣きやみ、頬を可愛らしく桃色に染めてちょこんとおじぎをした。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「どうもな」
 そして辰津美とナンを見て、深々と頭を下げた。
「……すいませんでした!」
 その小学生らしからぬ堂々とした謝りっぷりに、ナンも辰津美も一瞬返す言葉を見つけられなかった。
「どちらもがんばってください!」
 思わぬ幼い子からのエールに、ナンはぷっと笑ってしまった。
「……私は平気だから。応援ありがとう」
「はい!」
「清水、坂東、行くよ」
 辰津美は小百合に構わず、仲間を呼んだ。
 清水と坂東は無言で頷き、辰津美についてゆく。
 もう戦闘態勢に入っている。
 こちらも、行こう。
 ぱしん。
 振り向くと、気力十分な力王が、胸元で拳を合わせた音だった。
「先輩――行きましょう」
「ああ……行くぞ。栄光を掴みに」
 頼もしいリーダー。
 ありがとう。
 リーダーの隣には、目を合わせただけで顔が火照ってしまう人が立って、こちらにまっすぐな視線を送っている。
「斬……くん。行こう」
「はい。ナンさんの、約束の戦いに」
 はじめて好きになった男の子。
 ありがとう。
 剣ノ舞は揃い、そして中華英雄とは別の方向に歩き出した。下に降りる道はひとつではない。気を集中させるべく、つぎに出会うのはステージの上がふさわしい。
 それを見送る、チームカンウの斎藤三兄弟妹と、ようやく涙を拭った神無月律枝。
「峰風南さん、聞きましてよ。いい話でしたわ。だからこそ絶対にお勝ちなさい!」
 背中からの神無月の声援に、手を振って答えた。
「……がんばるね」
 ナンは誇らしげに胸を張った。
 ――東京へ行っても、また戦ってくれる?
 ――来なよいつでも。のしてあげるから。
 何気ない二年前の約束がいま、ついに果たされようとしていた。

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