第三章 盾と矛の戦い

よろずなホビー
ヴァルキリー・スプライツ/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 設定資料

 特急・新幹線・リニアと乗り継ぎ、一行は神奈川県横浜市にある、東京フロートアイランド文化通り駅に降り立った。
 いつもは閑散とした文化通りが、車両通行禁止になっている。その路面一杯を数千人の好き者たちが歩いてゆく。彼らの目的は、年に三回の一大イベントだ。
 ヴァルキリー・スプライツ。日本で生まれ、今や欧米・アジアでも数多くの若者を熱狂させている、アーケードゲームである。
 その日本一を決定する大会がはじまる。
 参加して栄誉を求めるため、あるいはその瞬間と過程を目撃するため――彼らは熱中症にかかりそうな暑さの中を、ひたすら歩く。
 彼らの足元には鋼鉄で仕切られた空気の空間があり、その下に海がある。日本最大の固定フロート。南北三キロ、東西一・三キロ。海面上昇に対する、現実的な適応であった。
 黒い頭のうねりは浮島《フロート》の中央にある、多目的イベントドームに吸い込まれてゆく。
 東京フロートドーム。
 これまでに開かれた幾多のVS大会。その最強を決める場所。三年前から、全国大会を目指す者にとっての聖地でもあった。
 聖地――そう、ついに来たのだ。
 VSの、全国の舞台、まさにそこに。
 フロートドームの屋根は青い。まるで空と同化しそうなほどに。快晴の空に溶け込むように青く、そして海のように淡いのだ。
 海のドーム。空のドーム。人によってその感想は様々だろう。今日のドームは、ナンにとって空だった。
 海は潜る。空は飛翔する。
 飛翔とは勝利、そして上昇のイメージだ。
 それがナンの意気込みだった。
 姉さんと戦いたい。
 姉さんに近づくために。
 現実の辰津美は、剣道の腕ではすでにナンより弱いかも知れない。だけどVSは思考と反射がすべてだ。そこに肉体的・体格的要素の入る余地はまったくない。
 ほかにも青い屋根を見上げる若者たちがちらほらいる。
 おそらく彼らの幾人かは、ナンとおなじ出場者かもしれない。いくつか顔を確認するが、とうてい戦士には見えない。普通に歩いてゆく連中と大差ない。
 VSはあくまでゲームだ。
 戦士たちは当然、戦士には見えない。
 それは私もおなじだろうな――とナンは思った。まるで男の子のような思考だ。今日は朝からどうかしている。戦士になりたいと思っているのだろう。だけどいくらVSを練習したところで、外見が戦士になるわけではない。鍛えられるのは、思考の反射神経と戦いのセンスだけだ。
「……ついに来ましたね、兄さん、ナンさん」
 横で斬が言った。
「ああ、ついに来たぞ。全国区に」
 力王と斬も、ナンとおなじく数十秒は見上げていたはずなのだ。どんな思いで見上げていたのだろう。
 力王は時計を見た。
「すごく早かったな。ぴったり三時間だ」
 現在の時間は正午。特急ばかりを乗り継いだからだ。
「……なんか旅した気分じゃないですよ」
「じゃあ帰りはゆっくり行こう。どのみち大会が終われば、余ったお金で東京辺りでも観光するか。すべて元はタダだからな」
 今回の旅の資金は、全額が支給されている。それほど力を入れているということだろう。
「さあ、この神奈川の地で暴れるぞ!」
 力王が叫んだ言葉に、ナンは思わず反応した。
「え……ここ、東京じゃないんですか?」
「は? 知らなかったのか?」
「だって、東京フロートドーム……」
「ナンさん、こういうのは国がらみ建設の宿命ですよ。近郊なら『東京』なんです」
「そんな……」
「なに泣き出しそうな顔をしてるんだナン。田舎者丸出しだぞ」
「ごめんなさい。だって、東京じゃないし」
 姉さんは東京の新宿でいつも戦っているから……とは、さすがに言えなかった。
「よほど東京が気になるらしいですね」
 後ろから、声を掛けられた。
「え?」
 振り向くと、そこには少女が三人。みんなおなじ学校のセーラー服を着用している。三人が三様の大人びた雰囲気を醸し出しているが、背丈から見て中学生だろうか。
 一番背の高い子が一歩踏み出した。
「あなたが天才の妹さんね」
「あ……はい」
 こういうチェックには慣れている。
 姉である峰風辰津美は現役日本最強の女性プレイヤーだ。公式大会の個人戦に出たことはないが、個人戦女子の部を制した優勝者を、一対一の野良試合で一方的に叩き伏せたのは伝説になっている。ナンは身内である以上、注目されやすい。
「私は神無月。イージスのリーダーですわ」
 ……面白い名字だな、とナンは反応的に思った。斬が小さい声で叫んだ。
「関東地区大会優勝の!」
 ナンはまじまじと目の前の三人を見つめた。関東といえば、東京・大阪・近畿と並ぶ、四強区のひとつだ。そういえばイージスという名は聞いたことがある。強豪だ。それにこの神無月という女の顔は、たしかに見たことがあったような気がした。
「わたくしは横浜市民として、この場に『東京』の名がついていることが気に入りませんの。今回こそは全国大会開催地に住む者として、優勝して見せますわ」
 神無月は、悠然とした笑みをナンに投げかけた。お嬢様三人は、そのままゆっくりとドームに入っていった。
 力王が冷や汗を掻いていた。
「……いきなり凄いのに目を付けられたな」
「私って、そんなに強くないのに」
「肝心なのは周囲がどう思っているかですよ。ナンさん、覚悟を決めてくださいね」
「え?」
 斬の意味深な言葉は、すぐ現実となった。
 群集の流れに混じって正面玄関の回転ドアをくぐった直後だ。
 剣ノ舞の三人は、いきなり多くの報道陣に囲まれたのだ。なにが起きたのかまったくわからないナンの前に、つぎつぎとマイクが突き出されてくる。
「峰風南さんですね」
「今回の大会への意気込みをお願いします」
「ナンさん、秘策はありますか?」
「姉との戦いが実現したら、どうしますか?」
 カメラのフラッシュも眩しい。
「え? え?」
 戸惑ってなにも言えないナンの手を、太い手が掴んだ。
「すいませんが、どいてください」
 筋肉パンダが報道陣を掻き分け、強引に人垣を突破した。ナンの瞳に、ようやく白いフロアが映った。白亜の底に、黒い人々のうねりが蠢いている。周囲は涼しく、そして同時にほんのすこしだけ汗くさかった。
 後方から報道陣が追いかけてくる足音がした。
「俺からはぐれるなよ」
 頼もしい力王の太い腕に引かれ、ナンは選手受付に滑り込んだ。後から斬が駆けて来る。受付嬢にMNJ社からの招待状を見せ、二秒でOKを貰った。選手腕章をほとんどむしるように受け取り、脇の通路に入る。
 そこで三人はぜえぜえと息をついた。
 そっとナンは外を見た。報道陣は入れないらしい。報道陣用のフリーパスで係員に抗議する人もいたが、それでも駄目な場所があるようだ。そしてこの選手控え室の区画がまさにそうだった。
 ほっとしたところに、さきほどのお嬢様軍団がゆっくりとやってきた。報道陣の質問に歩きながら答え、落ち着いて受付を済ませた。
 神無月は、ナンのほうを向いて、
「有名人は大変ですわね」
 と皮肉のように言うと、優雅な足取りで通路の奥へと消えていった。
「さすがは全国の常連。慣れたものですね」
「……あの人にだけは、絶対に勝ちたい」
 ナンの瞳には、静かな闘志が湧き起こっている。
「戦う機会を誰かが与えてくれれば……」
 力王の口調にも、怒りが混じっていた。
     *        *
 競技は演出があって面白いものとなる。
 演出で一番大切なのは舞台だ。理想的な競技空間は、数千年前にスタジアムとして完成されている。すり鉢の底で競技をし、周囲を観客が取り囲む。競技場は外の情報を内に入れない。そこでは誰もが、シナリオの存在しないドラマに酔える。
 そんなエアドームの底にナンはいる。開会式だ。周囲の観客席には、すでに競技者に二五〇倍する観客がいた。
『へい! VS夏の公式大会群のトップを切って、二〇年度夏期ヴァルキリー・スプライツ三対三《スリーオンスリー》バトル全国選手権大会をおっぱじめるぜ!』
 マイクの声が響く。元気な好青年、ファイト真が司会役だ。ゴールデンタイムを総なめにしているバラエティー界の風雲児で、前回から司会進行に起用されている。
『ノっているかー! 東京に来たぞー!』
 そのどうでもいい煽りに、周囲の選手たちは「おおぅ」と返事を返す。ナンはそれどころではなく、精一杯背伸びをして、ひたすら周囲を見回している。
「ナン、姉を捜しているのか?」
「……先輩、いません」
「じゃああの噂は本当か」
「噂?」
「中華英雄は報道陣の激しい攻勢を予想し、開会式には出ない」
「そんな……」
 深い落胆がナンを襲った。心なしか両肩が重くなり、沈鬱な顔で下を向いてしまう。そういえばチームごとに割り当てられた控え室群に、中華英雄の貼り紙をつけた扉はなかったような気がする。
「大丈夫さ。試合には必ず出てくる」
「……そうですね。ところで先輩も表情が冴えませんけど、嬉しくはないんですか?」
 力王はぎょっとしたようにナンを見て、数秒黙っていた。が、わははと軽く笑う。
「ナンも結構鋭くなってきたな。まあなんとなく苦手でね……自分で騒ぐぶんにはともかく、煽られるのはどうも、慣れていない」
「うるさいですしね」
 斬が付け加えるように言う。
 ナンはそれはよくわかると頷いた。
「剣道の大会よりも、ずっとね」
「まあこちらは興業だし、全国放送の収録もしているからな。厳粛な剣道とは違う」
 ステージの上には三台のカメラがあって、うち二台はカメラマンが直に手に持って会場を映している。おそらく下や観客席にもあるだろう。
「私は剣道を、厳粛だなんて思ったことは、ないんですけど……でも、この緊張した空気は、共通していますね。好きです」
「緊張だと? この騒がしいのが?」
「どういうことですか、ナンさん」
「周囲を見てたら、なんとなく」
 ナンは感じていた。
 選手達は一見楽しんでいるかのように見える。だがその胸の奥底には戦意と、そして深い緊張が刻一刻と溜まっている。
 競技の瞬間に戦士としての力を発揮できるよう、その意欲とほとばしる情熱を、表の部分だけ表現しているにすぎない。その本能の部分は、ひたすら競技の瞬間を待って雌伏しているのだ。
 それは海溝のように深い、人の闘志だった。
 ファイト真の煽りはつづいていた。
『さあ野郎ども! いや、一部には可愛い女の子もいるな。全国でおよそ七〇〇〇チームがエントリーし、勝ちあがった三二チームの最精鋭たちよ。おまえらは強い! なにせほとんど全員がプレイヤーランクの最高位、バーテックスクラスだ!』
 数秒の間を置いた。
『しかーし! 残念ながら、チャンピオンには一チームしかなれないのだぁぁ!』
 壇上のファイト真は、意味不明なオーバーアクションで絶叫した。
『見よ! これがトーナメント表だ!』
 ぱっと壇上のスクリーンに表示されたトーナメント表。
『この組み合わせで今日と明日、二日間で全三一試合を行うぞ! 目指せ、優勝!』
「……まじかよ」
 力王が信じられないという口振りで言った。
 剣ノ舞の名は、なんと第一試合にあったのだ!
 ナン、力王、斬はステージ上を凝視した。ファイト真の後方には六台の筐体が仲良く並んでおり、その前方には筐体へ乗り込む渡しが組まれている。
 これに最初に乗り込む名誉を、まさか自分たちが得られるなんて――
 だがそれは、開会式直後に敗退するという、いやな可能性も秘めているのだ。
 トーナメント式大会が持つ宿命だ。
 その宿命の、まさに「第一試合」に出ることになろうとは……
 ファイト真が剣ノ舞の名を呼んだ。
 そして同時に――
『もうひとつのチームは、イージス!』
 光の輝く白いステージには、なにかの女神か、あるいは悪魔が潜んでいるのではないのか? ナンは本気でそう思った。
     *        *
 壇上にあがると、ナンは心なしか緊張した。心細くなってチームメイトを見ると、馬子兄弟もおなじく顔がこわばっているように思える。おなじなんだ、と思うと、心の堅さがすこしほぐれたような気がした。
 剣ノ舞の三人と正対して、イージスの三人が並んでいる。背は高くはないのだが、三人ともまるでモデルのように見栄えがする。
『さて! 第一試合は関東大会を制したイージスと、四国大会準優勝の剣ノ舞だ。シールドマニアとブレードマニアの戦い。盾と矛との対決は、いきなりの好カードだぞ!』
 ファイト真はマイクを神無月に向けた。
『中三の神無月律枝ちゃんは今回で四度目の全国大会出場だけど、抱負はあるかな? なにせ相手には、話題の人がいるぞ』
『今回は過去最高順位を目指しますわ』
 神無月の声が会場に響く。すぐ正面にいるというのに、まるで周囲で大勢の神無月が一斉に唱和しているかのような錯覚に襲われて、ナンはすこし目眩を覚えた。
『となると、前々回、去年の冬期大会でベスト四というのが最高だけど、その上を狙うということ?』
『まさにその通りですわね』
『となると剣ノ舞は眼中にないと?』
『あるほうがおかしいと思いませんか?』
『峰風辰津美さんの妹がいるけど』
『虎の妹が虎とは限らなくてよ? それをわたくしたちが証明して見せますわ――それにわたくしたちはただのシールドマニアではありませんですの』
『ほう。どういうことかな?』
『わたくしたちは最高の達人、シールドマニアの中のマニア。すなわちシールドマスターですわ!』
 観客席が沸き「いいぞー! マスター!」という声援が届いた。余裕の顔でさも当然だとそれを受ける神無月の態度に、ナンは圧倒されそうになった。
『おお、それはすごい自信。よし』
 ファイト真は、マイクを力王に向けた。
『いきなり眼中になしと言われたけど、馬子力王くんはどう思う?』
 力王はそれどころではない。完全に体が硬直して、目の焦点も合っていなかった。
『……あ、まあ、あちらが格上ですし、せいぜいその胸を借りてどかんと一発』
 なにか変なことを言っている。ナンは恥ずかしくなった。と、その口元に黒くて丸いものが――マイクだ。
『峰風南ちゃん、大変だね。ここにいるということは、すでに強いということなのに。でも相手はそれを認めようとしないよ』
 これは軽い煽りだ。乗ってはいけない。
 わかってはいるのだが、言葉が……頭の中が真っ白になった。気が付けば、いつも試合前に必ず持っている竹刀を胸に抱いていた。竹刀袋は控え室に置いてある。
 竹の感触が心地よい。
 姉さん……!
 だからつい、本音を言ってしまった。
『えーと。私は姉さんと戦う!』
 会場がおおっとどよめいた。
『これはすごいことを……』
 ファイト真がスクリーンに投影されているトーナメント表を見上げた。
『ブロックがちがうから、決勝まで行かないと中華英雄との対戦は実現しないぞ!』
「え……えええ!」
 慌ててスクリーンを確認するが、もはや遅い。
「……倒して見せますわ」
 正面から、なにやら恐ろしい視線を感じた。
「絶対に、倒して見せますわ!」
     *        *
 筐体に入るやナンは嘆息した。
「こちらナン。どうしましょう、私」
〈相手を本気で怒らせたな……〉
「先輩」
〈それを逆用しましょう〉
〈斬、なにか妙案があるのか?〉
〈イージスはナンさんに攻撃を集中させるでしょう。ですので、こちらはナンさんの武藏を囮にして、左右から兄さんの十兵衛と僕の総司で挟み撃ちにします〉
〈そうだな。敵は四国の準決勝で戦ったのと同じ、待ち戦術だからな〉
 作戦が一通り決まったので、細かい部分は斬に任せ、エントリー確認となった。ナンはいつも通り、武藏のカードを認識させる。オウンカスタムという表示とともに、武藏のシルエットが出現した。十兵衛と総司も相次いで出る。だが――
 認識されたイージスの機体が出現したが、それが三機ともオウンカスタムと出たのだ。
〈なっ! これは……〉
〈斬、イージスの編成が妙だ。なぜ三機とも完全自作機なんだ? 関東大会のときはティラノカスタムだったはずだ〉
〈わかりません……これでは、事前の対策のしようがないです〉
〈くっ!〉
 内壁を叩く音が聞こえた。
〈これが全国大会かよ!〉
 イージスのシルエットは、ラグビーボールが立ったような長円形だ。ティラノカスタムなら、肉食恐竜の影が確認できるはずだ。
 その機体名はイージス四世という。
 今回の機体名は、イージス五世。
 まったく同じ機体が三機。イージスはチーム連携の完全同調を柱とする。
〈イージスである以上、あの機体もシールドマニアである可能性は高いでしょう〉
〈よし、シールドマニアを想定した装備だ〉
 先が見えない不安を抱えたまま、事前に考えた装備を選び、開始となった。「始動準備」の文字が踊る。
 戦場はイギリス、ストーンヘンジ。
 なだらかな丘の群れが広がる、のどかな風景だ。
 その丘のひとつの頂上に、黒い武藏が立っていた。その背後を上から見下ろす形で、ナンがいる。
 彼方にイージスが見えた。白い長円。
 距離、二・五キロ。
 辰津美姉さんと戦いたい。
 そのためには、あれを倒さなければならない。これは長い階梯の、第一歩なのだ。
 ――正面に、ふっと運命の文字が出た。すなわち「戦闘開始」だ。
 開幕と同時に、ナンは武藏に射撃をさせた。ロックして、右肩の機関砲を数秒撃つ。
 ゴーグルに警告が出た。
 武藏は横に跳び、イージスの砲撃をかわした。至近を超音速でアプカー《APKER》砲弾が飛んでいった。マッハ七以上は出ていただろう。灰色の推進炎が微風にたなびき、そして爆音と衝撃波が遅れて届いた。砂埃が発生し、一瞬視界が悪くなる。
 ナンはゴーグルの表示で、自身の攻撃がほぼ全弾命中したのを確認した。だがイージスに見かけ上の変化はまったくない。
「発信、こちらナン&武藏。イージスの堅さを視認しました。敵は間違いなく、シールドマニアです」
〈こちらも確認しました。やはりなんとかいけるかも知れません〉
〈というわけで敵弾をかわしつつ、各自距離を詰めるんだな斬?〉
〈はい。それで相手がナンさんに攻撃を集中させたら、僕と兄さんで挟み撃ちに〉
〈了解〉
「了解!」
 通信が切れた。シールドマニアとは巨大な盾の裏に隠れ、そこから射撃する戦術だ。だからこそ、近づき方が勝負となる。大火力でシールドそのものを壊す方法もあるが、剣ノ舞の火力ではそれは不可能な話だ。
 イージスは盾の脇から砲門を突き出し、アプカーを断続的に撃ってきた。
 加速徹甲弾の異名を持つ超音速の化け物が、推進燃料の炎をほとばしらせて幾度となく武藏を貫こうと試みた。だが武藏はそのことごとくを避けて見せた。
 ナンは僚機の様子を横目で確かめる。どうやら被弾した機体はないようだ。
 距離を一キロに詰めたときだ。イージスの真上に、なにかが飛び出した。ミサイルだった。
「…………」
 ナンが警戒していると、ゴーグルに連続で警告が入ってきた。見ると、戦場にミサイルがあふれ出している。
「ミサイルヘヴン戦術まで?」
 ただでさえ重い巨大な盾を持ち、大砲類を装備している。いったいどうやって大量のミサイルを積んでいるのだろう……
 考える暇はなかった。
 つぎつぎに飛来してくるミサイルをかわさなくてはならない。引き付けて――だめだ、絶妙な具合でアプカーが来た。アプカーを回避する跳躍を行い、空中で誘導妨害を使用してミサイルを逸らせた。
 その直後、横で爆発音がした。これはミサイルが土や石に着弾したのではない。直撃だ。味方の誰かが被弾したのだが、確認する余裕はない。
 アプカーとミサイルの火力で、イージスは徐々に剣ノ舞を押していった。剣ノ舞はVS用語で俗に言う回避地獄を強いられ、ほとんど進むことはおろか、攻撃もままならない。
 しかもたまに攻撃できても、敵の正面を覆う盾に阻まれる。
 せめて大砲だけでも――
 ナンは回避をやめ、思いきって前進する道を選択した。誘導妨害をぜいたくに用い、ミサイル飛び交う丘を走ってゆく。避ける対象はアプカーだけでいい。目の前にストーンヘンジが見えてきた。
 誘導妨害のタイムリミットがカウントダウンに入った。
 間にあって!
 ゴーグルに赤い文字が出る。五――四――三――二――一……
 ゼロ。
 誘導機能を回復したミサイルが二本、武藏の背中を狙って垂直に降りてきた。それはナンにとって死角だった。
 武藏は上半身だけ上を向かせると、クラスターロケット弾を発射した。至近でシールドをぶち叩くために用意した多弾頭ロケットだ。
 ロケットが割れてたくさんの子弾頭にわかれ、そこにミサイルが到来した。
 直撃、爆発。
 ナンは激しい振動に襲われた。コックピットが爆発の揺れを演出したのだ。回転しないところから見て、直撃は免れたようだ。
 灰色の煙が地を這い、黒い煙が空中に投げ出された。炸裂した弾片が周囲に飛び散ってゆく。その真下で、武藏は地面にめり込むようにうずくまっていた。
 ナンは落ち着いて武藏の被害を確認した。
 背中がやられていた。迎撃の弾幕をすり抜け、一本が武藏の背中を直撃したのだ。スラスターが完全に破壊されている。
 これで大跳躍と滑車モードが使用不可能だ。
 だが動ければいい。刀が使えればいい。
 匍匐前進でストーンヘンジに隠れ、ミサイルをかわそうとする。数本が頭上を飛ぶ。牛の群れが叫んだような飛翔音が耳を掠めた。
 こんな音は嫌いだ。弾幕で圧倒するのではなく、もっとスマートな戦いが好きだ。それはたとえば辰津美、すなわち曹操が得意とする美しい近接戦闘だ。だが実際の武藏はどうだろうか? 近づく間にみるみる傷つき、薄汚れていくではないか。このていどで地上機VS乗りとしては四国一の回避の名手と言われているのだ。
 なんという井の中の蛙か!
 理想とかけ離れた自分に対する怒りが、自然目の前の相手に向かう。
 ミサイルヘヴンめ。
 鬱陶しい!
 気合いを込めて、思わず叫んだ。
「せいっ!」
 ミサイルがストーンヘンジを破壊した。硝煙で燻り出される武藏。
 もはや遺跡は塹壕の役割を成さない。様子見で頭をあげると、緑の丘のくぼみに純白の盾を捉えた。
 距離三五〇メートル。
 砲門が一時動きを止めていた。脇からドラム缶状の物体が落ちる。
「弾切れで追加弾倉を装填中なのね……」
 補助装備の一種だ。とにかく隙だった。
「せいやぁぁぁ!」
 叫んで突撃を開始した。
 イージスが砲門をこちらに向ける。武藏も右肩の機関砲を撃った。砲身に直撃する。この距離なら、大砲だけに当てるのは簡単だ。
 大砲を失い、慌てて後退する盾。その動きはきわめて鈍い。やはりだ、重装甲・重装備の代償は機動力となる。
 ナンは両手を交差させ、腰の刀を抜く動作をした。ナンの腰には当然、刀などない。
 一心同体の武藏が、黒い二刀を抜く。それらはブーンという振動音をたて、たちまち赤く熱してゆく。
 武藏はクラスターロケット弾を三本放った。それらは数多の子弾となり、白い盾の右側に集中してぶちあたった。片側だけに急激な衝撃を受け、盾が左に回った。盾の裏側が、武藏の正面に露わとなる――
「なっ!」
 そこには、片手の白い女戦士がいた。
 姿はオリジナルVSのヴァルキリーに似ているが、部分的にかなり細かい意匠が施されているのが異なる。頭には鳥の羽で作られた冠を被っていた。
 白い女戦士は左手の先にあった巨大な盾を強制排除すると、右手の大剣で斬りつけてきた。その動きは思ったよりすばやい。
 意表を突かれたため、完全に相手が主導権を握っていた。ナンは武藏を後方へ跳躍させた。イージスの斬撃は空を斬る。
「なるほど……発信、こちらナン&武藏。イージスは全武装を内蔵した巨大な盾の裏に、本体として人型の軽装戦士を抱えています。近づいても安心できません」
『気付いても遅いです!』
 正面のイージスが言って、また赤熱する大剣で斬りかかってきた。振動刃のあまりの切れ味のため、VSの斬撃戦では、現実の斬り合いでよくある剣を剣で受けるということが出来ない。防御手段は回避のみ。
 だから武藏はイージスの動きを見切り、即座に右に避けた。
「加速!」
 大振りしたイージスが反応を回復する前に、加速機構で一挙に後背を取った。背中に素速い左袈裟斬りを叩き込む。イージスはたまらず吹き飛び、自身の盾に当たった姿で沈黙した。モノアイの光がゆっくりと消える。
「……通用した。私の斬撃は、全国大会でも通用するんだ」
 単純にうれしくなった。
 ただ、一機を倒す間にかなり消耗したのは残念だった。イリュージョナーである辰津美だったら、蜃気楼たる幻を見せて惑わせ、より華麗に美しく――だめだ、補正突破現象《ミラージュフェノミナン》は通信対戦環境でしか起こせない。通信対戦のタイムラグを利用しているからだ。
 これは全国大会、すなわち直接対戦である。だいいちナンはイリュージョナーでもなんでもない、一介の平凡なバーテックスクラスプレイヤーに過ぎない。幻を起こすことは、才能であり、能力である。練習でどうにかなるレベルではない。
 ないものを望んでなんになる。
 そうなのだ、出来る範囲で全力を尽くす。地道だがこれしかない。
 ナンはつぎの相手を求めた。新たなロックは、距離六〇〇メートルを示している。そのイージスは剣ノ舞のリーダー機である十兵衛と、激しい射撃戦を繰り広げていた。
 だが十兵衛は軽装のホバーなので、武藏より撃たれ弱い。武藏にしたって懐を取るのに無傷とはいかなかった。
 と、一本のミサイルが十兵衛の行く手に着弾して爆発した。おそらくロックを一時解除したダミー弾だ。その爆発で巻き上げられた土砂で怯んだ十兵衛の右足に当たる部分に、アプカーが貫通した。
 十兵衛の右足が吹き飛んだ。アプカーは徹甲砲弾なので爆発こそないが、すさまじい貫通力を誇る。大穴を穿つのだ。
 それは十兵衛にとって致命傷だった。肩や脇腹から吸い込んだ空気を、足に見える袴状の構造に出して、外との圧力差で浮かぶのである。肝心の袴をやられれば、移動が不可能になる。
 地に伏してなにもできなくなった十兵衛に、イージスは容赦なく連続してミサイルとアプカーを放った。手で地面を掻いてもがく十兵衛は、五回連続の直撃を食らって、派手に爆発した。
 そのイージスが新たな敵を求めようと、旋回した――その盾に、武藏が黒い手をかけた。
『え? なに?』
 むこうにしてみれば、いきなり盾の上に手があらわれて驚いているだろう。イージスは動こうとするが、機動限界までぶ厚くした盾と重武装で、ほとんど不可能だ。
 武藏は盾をよじのぼった。盾の高さは二五メートルはあるだろう。それはイージス本体が武藏よりわずかに背が高いていどであるのを考えれば、破格の巨大さだ。
「よっ」
 盾の上で、ナンはイージスに挨拶をした。
『あ……』
 イージスは慌てて盾の裏側に取り付けてある大剣を取ろうとしたが、すでに遅かった。
 武藏の右肩が唸った。機関砲の至近掃射を食らい、そのイージスは一五秒後に沈黙して数秒くすぶり、爆発した。
 吹き飛ぶ盾といっしょに空を飛び、衝撃をやりすごす。地面に落ちる寸前に盾から離れ、灰色の煙の中に着地した。爆発の煙がすぐ晴れてゆく。
 ナンは自分が信じられなかった。全国大会の緒戦で、いきなり二機も倒せるとは。しかもまだ余裕がある。
 東京地区大会の決勝を思い出す。
 あの戦いでは、辰津美は一機で三機を倒して見せた。ナンは常にチームプレイに徹しており、三機斬りなどという派手な戦いをしたことはない。仕方なく二機を倒すことはよくあるが、あくまで味方との連携の果てである。
 だけど――もしかして。
「あとは、神無月さんだけ」
 残る一体は、総司と壮絶な一騎打ちを繰り広げていた。斬はまだ中一だ。それが関東の覇者と対等に渡り合っていたのだから、まったくすごい。
「斬くん、大丈夫? 助けに行くよ」
 もしかしてはなさそうだ。
〈ナンさん! 僕は徹底して逃げていましたから、なんとか〉
 どうやら対等に戦っていたわけではないらしい。ズーム機能を使うと、たしかに総司の体はあちこちが損傷している。満身創痍だ。
 ナンは武藏に援護射撃をさせて、総司が最後のイージスから離れる時間を稼いだ。真横からの攻撃を受けて、イージスは旋回して対処した。いくら圧倒的な防御力があるとはいえ、その装甲は正面にしか通用しない。
「よしっ。これで大丈夫だね」
〈ありがとうございま――〉
「斬くん!」
 総司と武藏が合流する直前、総司の背中をアプカーが貫いた。ナンが来たことで、斬がうっかり気を抜いたのだろう。いや、ナンの攻撃を受けつつ、総司の隙を見逃さなかった、神無月のセンスが優れているのだ。
〈あああ! すいませんナンさん!〉
 胸部に大穴を開け、総司は力無く墜落した。
武藏の目前で地面に落ちるや火炎の塔を形作り、直後に黒煙の雲がもくもくと起こった。その爆風が武藏を撫でる。
「……強い」
 ナンは汗を手で拭うと、煙の彼方から浮かび上がった最後のイージスと対した。
 どうやら本当に「もしかして」を実現しなければならない状況になったようだ。そうでないと辰津美には届かない。なんという茨の道だろう、いきなり一度もやったことのないことをしろとは、勝負の魔法はきつい試練を与えてきたものだ。
 前触れのない強風が突風のように吹き渡った。砂漠の熱風が黒煙をなぎ払い、神無月機の姿を明瞭にする。このイージスは盾の左上に三日月のマークがある。隊長機の証だ。
『まさかこんなに苦戦するなんて。さっきのが最後の一発ですわ』
 三日月が倒れ込んだ。白い円がどかんと前のめりに落ちたむこうに、大剣を赤熱させ、正眼に構えた神無月機がいた。
 倒れた盾が地面の砂埃をまきあげ、うす茶色の幕が周囲を覆う。すぐに風に流された。
『やるじゃありませんこと、天才の妹さん』
「どうして私を、集中的に狙わなかったの?」
『そんな卑怯なことは出来ませんわ。ただでさえ防御力で主導権を握っているのに』
 なるほど。イヤミは言うが、戦いではあくまで正道を重んじるタイプか。
「ならば最後は、これで」
 武藏は近づくまでにすでに抜いていた二刀太刀を、鶴翼に広げて構えた。彼我の距離、およそ一〇〇メートル。
 数秒の沈黙があった。
「せいっー!」
 ナンは気合いを入れると、武藏に加速機構を発動させて駆けださせた。コックピットの中で、刀にさせたい軌道を手で演じる。
 その動きをLV入力が正確にトーレスし、複雑な動きを武藏の刀に伝達する。けったいな動作に神無月機は構わず、大剣を真上に掲げ、力一杯振り下ろした。
 その斬閃が武藏に重なると思った瞬間、武藏は空中に跳んでいた。イージスの剣は地に突き刺さり、深くめり込んだ。神無月機は慌てて剣を離し、後方へ飛び退こうとした――その両肩に、武藏の二本合わせた重い一撃が炸裂した。
     *        *
 試合後、筐体から出てきたナンは、歓呼と拍手を以て出迎えられた。あまりの騒ぎに、なにか悪いことでもしたのかと一瞬思ってしまった。
 それで手すりの脇に、いつものように立てかけてある辰津美の竹刀を取り、すがるように大切に自分の胸元に抱いた。すこし落ち着くと、なぜ自分が注目されているかを自覚できた。なるほど、三機斬りはたしかに、これほど騒がれてもおかしくない快挙だ。
 ナンにファイト真が駆け寄った。その顔は演技でない興奮に満ちていた。ナンも自然、顔がほころんできた。先は長いが、だがいまは喜んでいよう。
 下に降りると、思ったより長いインタビューが待っていた。
     *        *
 多目的用とはいえイベントを行う以上、東京フロートドームにもVIP用の特別観戦室がある。
 その一室で、峰風辰津美は満足そうに頷いている。総ガラス張りの壁のはるか下で、ナンは照れくさそうにインタビューに答えている。
「ナン。緒戦突破、おめでとう」
「派手な全国デビューだな。辰津美以外が行う三機斬りなんて、そうそう拝めないぜ」
 清水がソファに座り、煙草をふかしていた。カジュアルなジーンズにシャツ姿だが、高級ブランドをさらりと着こなしている。普段の清水はこうだ。
 その横では、真面目そうなスーツ姿の坂東が、コミュコンノートを広げてなにかのデータを見ていた。
「ですが残念です。αの現象は起きませんでした。せっかく〇・二秒に設定したのに」
「シールドマニアはしょせん罠師の亜種さ。現象を起こさなくても勝てる」
「きついな峰風。まあそれはいいとして、そろそろ下に降りようぜ。俺たちにも、俺たちの戦いがある」
「酔狂を、はたして戦いと呼んでいいのやら」
「ほう? 本当に酔狂だけかな?」
「いじわるだな、清水」
 辰津美は怒るように早足で部屋を後にした。右手で扉を閉めようとしたが、上手く閉められないので左手にノブを持ち替えて力任せに閉めた。
「おい、待てよ――ん?」
 追おうとした清水の腕を、坂東が掴んでいた。
「清水さん、あまり詮索しないでください。あの件もありましたし」
「……わかったよ坂東。でもな――」
 清水はさっと舞台の一画を指さした。
「――今回はいつもとは違う。あいつが来ているんだぞ? もちろんナンちゃんじゃない。党首様かと一瞬見紛う髭が、いまも憎々しいほど豊かなあいつだ」
 坂東はその指の先を向かず、ただ視線を清水に向けた。そのタレ目には、悲しみのようなものが溢れている。
「あれは悲しい事故でした。互いに責任は――」
「お利口ぶるな! だいたいあいつに送ったカンウ・白竜《パイロン》・花竜《ホワロン》をなぜ没収しなかった」
「二年前の話を持ち出されても困ります。あのとき話はついたはずです」
「だがあいつは来た」
「辰津美さんはまだ、克服していないんですよ。あの事件以来、辰津美さんは事あるごとに三機斬りにこだわっていています。だから――無理にほじくらないでください」
「なぜ克服してないとわかる? 俺だって機会があれば三機を一機で倒そうとするさ。辰津美ほどではないにしろ、トップクラスという自負と自信はあるからな」
「わかりますよ。ずっと一緒にいますから」
「絶対時間と本心を知れる密接度は別物だ。別に坂東は辰津美の恋人ではあるまい」
「それは清水さんにしてもそうでしょう?」
「……けっ!」
 清水は坂東の腕をふりほどいた。
「いいか坂東、辰津美は――」
「なにをしている? 早く来い」
 辰津美が戻ってきた。
「辰――峰風、すまん。今行く。さあ、行くぞ」
「……そうですね」
 坂東はノートをゆっくりと閉じた。
     *        *
 試合後、控え室に戻ろうとしたナンの元に、神無月が一人で駆け寄ってきた。つまりは二人のお供は連れていない。
「えーと……えーと」
 もじもじとして、顔を赤くして、なにか言いたげにしている。
 このようなシチュエーションに形こそ違ったがかつて遭遇したことがあるので、ナンはすぐに察しがついた。
「許してあげます」
「あ……」
 神無月律枝の顔に、朗々とした笑みがぱっと花咲いた。それは本当によかった、という感じが出ている。とても正直な人なのだな、とナンは感じた。
「優しいのね、峰風南さん。とにかくごめんなさい。わたくし、あなたを誤解してたみたいですわ。だって――あんなに堂々とした戦いをする人だなんて」
 ちょっと虐めたくなった。
「姉さんもいつも堂々だと思いますけど」
「ああん、だからごめんなさい。ね、ね、許してくださいます?」
 その姿があまりに可愛いものだから、ナンはこらえていた笑いがついに溢れてしまった。
 ひとしきり笑ったあと、ナンは言った。
「神無月さんは一コ上なんですよね? なら敬語なんか使わないでくださいよ」
「うーん。これはもう習慣ですし、仕方ないですわ――ところでその竹刀、インタビューの通りなんでして?」
「はい。辰津美姉さんが、私に贈ってくれたお守りです」
「……ちょっと、触ってもよくて? 実はわたくし、峰風辰津美さんが嫌いではなく、むしろ逆だったのですわ」
「ええ……なんとなくわかります」
 ナンは何気なく、大事な竹刀を渡した。
「本当によくて? 宝物なのですわよね?」
 古びた竹刀を手にとって、神無月は半ば興奮気味に目を輝かせている。
 基本的に単純だ。
 だからこそ信用できる。
 それがナンの、神無月に対する評価だ。
 気が付けば力王と斬がいない。どうやら気を遣って、二人きりにしてくれたようだ。
 二人は仲良く並んで、控え室の区画に入ろうとした。だがナンは係員に呼び止められた。
「選手腕章はどうしましたか?」
「あ……控え室だ」
 つい付け忘れていた。
 これでは入れない。
「困ったな……」
「ならわたくしにお任せください。剣ノ舞の控え室ですわね?」
「え、いいの?」
「罪滅ぼしでしてよ。ほかのお二人がすでにいますでしょう? どちらかに聞いて、持ってくればいいだけのお遣いなので、楽ですわ。ちょっと行って参りますわね」
 てくてくと奥に歩いてゆく。
 それを見送り、三〇秒ほどして気付いた。
「あ……神無月さん、私の竹刀!」
 神無月はナンの竹刀を持ったまま、お遣いに出かけたのだ。
「まあ、いいか」
 そういえばこういう場で辰津美の竹刀をひとときでも手放すのは、じつは初めてだったりする。それでもあまり心配にならないのは、神無月のキャラクターゆえだろう。
 ナンは呑気に待つことにした。
     *        *
「……まったく、けっこう抜けてるよなあ。ナンも」
 力王がナンの腕章を神無月に渡すまでに、わずか数分しかかからなかった。神無月はまるでなにかの偉業でも達成したかのような満足感のなかで、本人にしか聞こえない凱旋歌をしょっておおきな歩幅で行進していた。
 と、神無月はとつぜんトイレに行きたくなった。本人はこれを「突発性トイレ症候群」と呼んでいる。神無月は多くの対象に対して両極端の反応をする傾向があるので、あるていど尿意が溜まるまでの段階は、すべて単純に「大丈夫」となる。だからトイレに行くときは常に、余裕がないときだけとなる。
 それゆえ今回もまったく我慢ができなかった。神無月は迷わず近くの女子トイレに駆け込んだ。預かった大事な竹刀は、洗面台の下に隠すように立てかけた。
 ――そして事件は起こった。
 神無月が幸福な顔をして個室から出てきたとき……あるはずの竹刀が、きれいさっぱり消えていたのだ。
 ……神無月が鎮魂歌をしょって帰ってきたのは、二〇分も経ってからだった。
 あまりの遅さにすこしいらついていたナンは、神無月に走り寄った。神無月はまるで悪魔かなにかから逃げたいかのように、ナンから視線を逸らした。手だけで腕章を渡す。
「あ……ありがとう」
 ナンはその腕章を腕に付け、黙ったままのお遣い人を改めて眺めた。見るからに青ざめた顔をして、大人びた美人が台無しだ。
「どうしたの? 神無月さん。竹刀もないようですけど」
「……ごめんなさい」
「え?」
「……いくら探しても、ありませんでしたの」
「え? え?」
 そして神無月は、いきなり小学生のように泣き出したのだ。
 おかげでナンは、自らが泣く機会を逸した。
     *        *
 ナンと神無月の話を聞くや、力王と斬はすぐさま控え室を飛び出した。ナンがその竹刀をいかに大切にしているかを、一番知っていたからだ。
「……ごめんね、ごめんね」
 年上のはずなのに、まるで妹のように泣く神無月律枝の頭を、ゆっくりと撫でるナン。おかげで本気で怒る気力も起こらない。
「いいの――私が……」
 言いかけて止めた。私が気をつけていなかったから悪い、と言ったが最後、それは暗に神無月を責めることになる。いずれにせよ、どんな言い方をしても確実に棘が混じるだろう。ならばなにも言わないほうがいい。神無月は逃げ出さず、こうして一番気まずいはずの人間の前に、ちゃんと出ているのだ。
 とにかくここにいてもはじまらない。
 ナンは神無月を連れて控え室を出た。廊下にはずっと扉が並んでおり、チームごとに部屋が割り当てられている。共同の大部屋でないということは、それだけ運営側に資金面の余裕があるということだ。
 その部屋のひとつひとつを、斬がノックして他チームに竹刀のことを尋ねている。どうやら隠す気などないらしい。それもそうだ。これはあきらかに人為的な盗難事件だから、秘密で探しても見つかるはずがない。
 パンダ力王が廊下を駆けている。どこを探す気かは知らないが、その後を七、八名の男子がついてくる。どこかのVSチームのメンバーだろうが、見ず知らずの人ばかりなのに、よくもわずかな短時間で捜索メンバー隊を結成できたものだ。
「ナンちゃんとデートっ!」
 と、彼らのうちの一人が叫んだ。先頭の力王がすまなそうに一瞬手を合わせる。すれ違い際、男子全員がなにやらこちらに熱い視線を投げかけていった。
「ナンちゃんとデートっ!」
 全員が一斉に叫ぶ。見事に合っていた。
 なるほど……あの竹刀が見つかるなら、デートの一回や二回は安いものだろう。
 そういえばデートは中学に入ってからは一度もしていない。辰津美が剣道をやめて以来はいままで以上に剣道に打ち込み、この一年はVSもしている。VSと剣道以外のことには頭が回らないのが現状である。
 ナンも自分自身で探そうかと思ったが、後をてくてくと神無月がついてくる。とりあえず問題の女子トイレに行き、そこから周囲を詳しく散策しながら歩いてゆく。
 だけど竹刀は影も形もない。少々の焦りを覚えつつも、ナンは必死に集中力を維持しようと試みた。一度でも取り乱したが最後、竹刀はきっと返ってこない。かつて姉さん――辰津美が剣道をやめると電話をしてきたとき、両親が冷静さを失って大騒ぎした。激しい電話のやりとりの後、辰津美はいきなり引っ越して連絡を断った。
 携帯も変えた。大学も長期休学した。
 消えてしまった。
 父――励は世間体を気にして辰津美の行き先を調べようとはしなかった。母の冴子は事件に巻き込まれたのではと心配して東京の大学に向かおうとしたが、励が制止した。
 自らの意志で雲隠れしたのである。ならば辰津美はいつか連絡してくるだろう、というのが励の見解だった。
 だが、いつまでたっても辰津美からの連絡はなかった。
 ナンがテレビで偶然見るまで、完全に辰津美は姿をくらませていたのである。その後メディアで集めた情報によれば、辰津美が大学を休学したのはMNJ社の契約社員になって仕事をはじめたからだった。その内容は、VS開発の専属プレイヤーである。VS歴の紹介では大学を辞める二ヶ月前から、となっていた。大学の剣道部は、辰津美がVSにのめり込んでいったことを知っていた。
 励は失敗した。大学の剣道部に聞けばVSとの関連性ぐらいすぐに判明しただろうし、MNJ社に連絡して新住所もわかっただろう。冴子の行動を止めるべきではなかった。
 だいいち剣道界のホープがいきなり竹刀を捨てたのに、誰も騒がなかった。すこし考えれば、それは多くの者が辰津美がどうなったかを知っていたからだ、と気付いただろう。だけど励の頑固さが徒となり、肝心の身内だけが、辰津美の去就をまったく知らずにいたわけである。
 あまりにも馬鹿らしかった。
 それが気まずいのだろう。ナンが辰津美を発見して以来、励と冴子の力関係は完全に逆転している。ナンがVSを自由にプレイできたのには、そういう事情があった。
 それでいてその後も冴子は長女とコンタクトを取ろうとはしなかった。なぜならばナンがVSで挑むと宣言しているのを応援していたからだ。
 辰津美の住所は関係者に聞けばおそらく判明するだろうし、ネットを使えば辰津美本人が出入りするサイト経由で直接コンタクトを取れるはずなのだ。
 ナンは私は別にいいから、会ってきてよと冴子に勧めたが、しかし冴子は頑として辰津美の連絡先を知ろうとさえしなかった。
 こういう辺り、普通の母親とあまりにかけ離れているように思えてナンは首を傾げる。
 もっともあの励と結婚する以上、夫婦揃ってなんとやらという感じなのだろう。そのこだわる血は辰津美によく受け継がれている。ナンは辰津美が剣道をやめて一切連絡しなくなった理由を、どうしようもない事情があったからだ、と思うようになっていた。それが言いたくない内容であるのだ、と。
 だが――剣道が嫌いになったから? という疑問がどうしても頭を離れない。もし剣道が嫌いになってVSに走ったとしたら、ナンは辰津美を許せないだろう。だけどどうも違うように思えてならない。それは確信に近いが、しかし確かめようとは思わなかった。
 VSで直接ぶつかって、そして聞こうと思った。
 ――やはり自分も、両親の性格をしっかり受け継いでいる。
 基本的に親子揃って全員がバカなのだ。
 だからこそ、冷静にならないといけない。
 ナンは深呼吸した。
 焦ったらいけない。取り乱したらいけない。竹刀が、姉さんがまた消えてしまう。
 本当はそんなことはないだろうが、あの竹刀がまるで辰津美本人のようにナンには思えてしまう。
 ――と、肩を叩かれた。
「え?」
「どうしたんだい?」
 振り向くと、そこに記者らしき中年男性がいた。メモ帳とカメラを持っている。
「ええ? ここって報道は立入禁止……」
「ああ。私は選手でもあるさ」
 選手腕章を見せる。
「チーム名は八艘跳び。私はそのリーダーで今大会最高齢出場者の、鴨葱というんだ。ところでなにがあったのかな、峰風南ちゃん。ずいぶんと騒がしいようだけど」
 知られたくない……
 ナンが戸惑っていると、さらに鴨葱は突っ込んできた。
「なにがあったのかな?」
 知られたくない……
 体が硬直して、動かない。
「ナンさん! ここにいたんですか!」
 突然、斬の声が耳に入った。
 後ろから足音。斬がやって来て、そしてナンの右手を掴んだ。
「はやく行きますよ、こちらです」
 手を引いて動き出す。体の硬直が、氷が解けるように消えた。
「あ、ちょっと待ってくれよ」
「……すいません! 忙しいんです!」
 斬といっしょに、ナンは走って逃げた。気が付けば関係者の区画を出て、一般席にいた。
 ナンと斬は立ち止まるとぜえぜえと息を吐いた。
「はあはあ……」
「こ、これで大丈夫ですね」
「ありがとう、斬くん。助けてくれて」
「いいえ。これくらい」
 火照った顔に斬は笑みを浮かべている。その目がじっとナンを見つめている。見守ってくれているかのような優しい視線に、心なしか恥ずかしくなった。
「ぜえぜえ……疲れましたわ」
 いつのまにか横には、神無月もいた。
 息の落ち着いたナンは、周囲を見回した。人がいっぱいで、なんとも騒がしい。
「それにしてもここはどこ?」
「反対側ですね。センターです」
 一般席のセンターで、下の大画面が一番よく見える位置だ。
 四万人近くが収容できる観客席は、八割方埋まっていた。下のグラウンドには一万席あってほとんど一杯だから、合わせて四万人以上いる計算になる。
「すごい……こんなに来ているなんて」
 VSのプレイ人口は日本だけでも推定五〇万人はいる。世間の注目度は高い。
『さて次の試合は、いよいよ最有力の優勝候補、中華英雄の登場だ! 今年一月の世界大会で中華英雄《CHINA HEROES》の名で準優勝し、さらに三月の春期全国大会も制した、現在日本最強のチームだ! 今大会は連覇を狙うぞ!』
 いきなりのファイト真の声に、ぴくりと反応する。おもわずスクリーンに注目する。そこには三人の男女が映っていた。
 いずれも二〇歳前後だろう。男性のひとりはスーツ姿で決めて、残るふたりの男女はTシャツにデニムの下と、身軽な格好だ。リーダーは女性で、物憂げな瞳をした美人。
 VS界きっての有名人。
「姉さん……」
 紹介された後、辰津美はポニーテールを揺らして、コックピットに乗り込んだ。
 ナンの視線はすでにスクリーンでなく、生身を捉えるほうに変わっている。二年以上ぶりに見る、生の辰津美。思わず客席を駆け下りる。あまりの勢いだったので、転びそうになった。それを近くのおじさんが支えてくれた。ダンディに切りそろえた白髭を蓄えている。
「大丈夫かね、可愛いおじょうちゃん」
「あ……すいません」
「後々のためにも、慌てないほうがいいよ。余裕は〇・二秒しかないからね」
「え?」
「ああ、こちらのことさ。とにかく急ぐときほど落ち着くのが一番いいと思うよ」
「気をつけます。ありがとうございました」
「どういたしまして」
 おじさんは海苔せんべいをかじりながら去っていった。不思議な雰囲気を持つ人だった。
 深呼吸をしてフェンスのところまで歩いた。でもここから先は無理だ。物理的な距離に軽いいらだちを覚えた。
「ばかな私。あの下に、もっと近くにいられたのに、なぜこんなところにいるの……」
 ついやつ当たりが出た。追いついた神無月が聞きつけ、なにも言えずに肩を落とす。斬も「ごめんなさい」と言ったが、返事をする余裕はなかった。
 ナンと一〇〇メートル近くの距離を挟み、ようやく確認できた辰津美は輝いていた。きわめて男性的な強さに満ちた、そういう刀のような凛々しい美しさで。
 そういう人間は、えてして周囲の空間に強烈な影響を及ぼすものだ。辰津美が入ったコックピットは、まるで本物の兵器のようにナンには見えた。そういうオーラを放っているかのように――
 だからこそ、戦場に見えた。
 戦場に立つのは戦士だ。
 だがVSのプレイヤーは、コックピットに入ってから戦士になる者が当然だが圧倒的に多い。いつもは普通の、日本史上江戸時代に次ぐ長い平和を謳歌する、現代日本の若者だ。
 峰風辰津美は、そういう連中とは一線を画するように見える。
 辰津美はひたすら、戦士なのだ。
 真の戦士。
 ふと、辰津美が遠くにあるように思えた。
 そんな存在に、私が叶うの?
 私はおそらく、戦士じゃない。
 戦士に挑むのは、普通のにわか戦士。
 それは今回は、北海道東北大会二位のチームだ。三人兄弟らしい。
 そんな彼らが馬子兄弟とだぶり、ナンは心なしか彼らの運命が気になった。
 VSの認識画面が出る。
 中華英雄はケイロンカスタム二機を両翼に、ヴァルキリーカスタムを中央に配置した組み合わせだ。
 いつも通り。
 最強伝説は、すでに一年もつづいている。
 唯一の汚点は、今年一月の世界大会で準優勝になったことだけ。いや、世界二位の偉業を汚点などと言ってよいものだろうか。
 その完璧な布陣に挑むのは、緑・赤・青の、空飛ぶ天使たちだった。チーム名はエルフボマーズ。フェアリーカスタムだ。
 戦場はNASA基地郊外ステージ。
『戦闘開始!』
 ファイト真の合図とともに、バトルがはじまった。
『三位一体《トリニティ》対空砲火用意! ファイヤー!』
 いきなりの鋭い峰風辰津美の声が、会場全体に響き渡った。
 と、エルフの中央機が花火のように前触れもなく散華した。
「え?」
 なにが起きたのか、わからなかった。
 赤いエルフが炎に包まれて落ちてゆく。
『あーっと! なにが起こったのか? これはもしかして、中華英雄三機同時による、ビームやレーザーの集中攻撃なのか!』
「……いいえ、アプカーです」
 隣で斬が言った。
 ナンも頷く。光学兵器には、遠距離でこんな威力は出せない。
 見れば、中華英雄は三機とも仄かな煙に包まれている。そして消えたエルフの画面には、三方から迫った三筋の白煙があった。
 間違いない。
 最高でマッハ九・五に達するタングステン鋼とダイヤの槍が、三本同時にエルフを貫いたのだ。動力部に当たらない限り、一発でVSが死ぬことはまずない。だが三発は……
『トリニティ、ファイヤー!』
 また緑色の天使が空中で四散した。
「……すごいですわ。スナイプマニア――いいえ、スナイプマスターにもなかなか出来ませんわよ」
 神無月の額に、汗がにじみ出ていた。
「あれは中華英雄にしか出来ないです」
 斬が言うまでもなく、ナンにもわかる。
 普通に撃っただけでは、まず回避される。だから動きを予測し、先読みで狙撃する。そして三機同時にそれを成す。
 まさにバーテックスクラスを越えた、マスターにしか成せない神業だ。
 中華英雄はこの大技を大会用に温存してきたのだ。イージスが新型を導入したように、全国大会は駆け引きが勝敗を左右する。
『くそう。この化け物め!』
 最後の青いエルフはまるで復讐を誓うように突進してゆく。ユエフェイの真上を取るや、急降下してなにかを複数投下した。
 地面に筒状のものが突き刺さる。エルフが直後に機関砲掃射を行った。ユエフェイが跳躍回避して、筒の一本に近づいた。いきなりその筒の上部が飛び出して水平爆発した。ユエフェイはスラスターで降下を緩め、爆発の衝撃波と弾片群をぎりぎりで回避した。
 筒状のものはクラッカー地雷だった。
 エルフは爆撃機なのだ。
 だがもはや、わずか一機しかいない。
 エルフはなおクラッカーを投下しつづけたが、その離れ業は電撃のように起きた。
 エルフの正面が一瞬だけ陽炎のように揺れ、瞬間的に虹色の風が吹いた。
『な?』
 風が流れたあと、エルフは縦にまっぷたつに裂かれていた。
『速い……』
 空中爆発。
 その閃光を背に、曹操が地に帰ってきた。
 虹色の鎧に、青紫のマントが揺れる。
 その両腕には、エルフを葬った巨大な矛が握られていた。左肩の大砲は、勝利を宣言するかのように屹立と天を向いている。
『あ……あっという間! わずか三八秒! 中華英雄、ノーダメージ完全勝利!』
 興奮を隠しきれないファイト真の絶叫が、ドームの空気を揺らした。
 観客たちがわっと騒ぎ出す。中華英雄の面々がコックピットから出てきた。完勝のパフォーマンスで、テレビカメラにガッツポーズ。峰風辰津美が投げキッスをお披露目する。
 自然に湧き起こるなにか。ナンは全身の震えを止めることができない。
 にわか戦士は、あっというまに敗れた。
 真の戦士はそして、つぎの戦いに挑むのだ。
「姉さん……すごいよ、すごいよ」
 言葉が足りない。
 なんとすごい戦場に来たのだろう。
 それにしてもさっき、エルフを斬った曹操が見せた陽炎はなんだったのだろうか。
「……まさか、補正突破現象《ミラージュフェノミナン》?」
 いや、そんなはずはない。あれは通信対戦でないと起こらないはずだ。
「ナンさん、竹刀を」
「そうですわ。はやく」
「あ……」
 つい忘れていた。それほどまでに、辰津美との邂逅はおおきなイベントだったのだ。ただしそれはあまりに一方的な出会いだった。数万の観衆からナンを見つけるのは、誰にも不可能だろう。
 だからナンはふたたび歩き出す。
 自分の宝物を探しに。
     *        *
 ここにツリ目の女の子がいる。
 年齢は小学校三、四年ていどか。女の子の体は不安に押しつぶされそうに震えている。その胸には、竹刀が一本握られている。変色して、すっかり古ぼけた一品。だけど手入れは行き届いており、汚れはまったくない。
 女の子は竹刀を差し出す。
 受け取った太い大人の、男性の腕。
 黒い髭を蓄えた口元が、竹刀の根本に書かれた名前を見て「なぬっ」と言う。
 ――峰風辰津美。
 黒い油性ペンによる字だ。幼いが丁寧な字で、小学生が書いたような感じだ。
 女の子は不安にさまよえる黒い瞳を、おっかなげに男に向ける。
 髭の男はなにか迷っているようだ。
 かけっこをするような小さな心臓と、ゆっくりとした落ち着いた心臓の、ふたつの鼓動が交錯した。
 男はやがて、決心したかのようにその手をゆっくりと伸ばした。
 女の子のツリ目が閉じられる。広い手のひらが、小さな女の子の頭上に置かれた。
 女の子の体が一瞬痙攣したようにびくりと動き、そして止まる。緊張の時間がすぎた。
 男の口から、女の子にとって意外な言葉が漏れた。
「……よくやった」
 太い手のひらが、女の子の頭を撫でる。
 女の子はうれしそうに顔を輝かせた。

© 2005~ Asahiwa.jp