第五章 幻影者《イリュージョナー》

旭和ラノベ
ヴァルキリー・スプライツ/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 設定資料

「あはは……ナンめ。すごいな。精神面の弱点を、自力で克服してしまったよ」
 最前列の席に座っていた辰津美は、拍手を惜しまなかった。
「それとも仲間に恵まれたのかな?」
 その拍手に気付いたステージ上のナンは、なにかいいたけに顔を向けた。視線が辰津美と合わさる。真っ正面から受け止める辰津美。どちらも視線をずらそうとはしない。
『おお。ついに姉妹のにらみ合いが実現だ!』
 ファイト真が煽るが、辰津美はそのとんちんかんな言葉に笑いそうになった。ナンはともかく、辰津美はまだ本気ではない。
 その変化に気付いたナンが、急に鋭い目をした。
 ほほう。
 辰津美は感心した。
 ナンが、こんな凄い目をするとはね。
 睨んできた瞳。それはなにかを求めているというわけではない。ただひたすら、挑戦者として、超克してやるぞという感覚が心地よい。これは――合格かな?
 だから辰津美は、一挙に自分を戦士に昇華させた。その表情にぴりりとした張りと力みを入れ、ややうつむき加減に顔を下げ、腕を胸元で沈むように組んで、最後に強烈な視線をまっすぐに妹にぶつけた。
 その見えない圧力に、ナンはたじろいだ。
 ふふん。まだまだだね。
 と思ったがナンは踏みとどまり、両肩を怒らせてじっとこちらに念の籠もった瞳を返してきた。それは幼い情熱に任せた、燃え上がる炎のような純粋な視線に思えた。
 ――どうして帰って来ないの?
 ――どうして剣道をやめたの?
 ――姉さん、待っててね。
 複数の想いが同時に辰津美に注ぎ込まれた。いや、それはナンの素直すぎる瞳の光によって容易に想像できることが、辰津美の頭の中でナンの声となって再現されたのだろう。
 つまりはやはり、ナンにはそれなりの眼力があったということだ。
 これは私が火を付けてしまったかな?
 運命によって断たれた儀礼が、果たされるかも知れない。いや、断たれたがゆえに、誓いは絶対になってしまったのだ。
 この瞬間、辰津美の揺れ動いていた心は決まった。
 受けよう。妹の挑戦を。
 あまりの事件の重みで私がなにも伝えられないうちに、むこうが果たしに来てくれたのだ! しかも準決勝まで登ってきた。すなわちあと一回勝てば、決勝進出ということだ。
 もはや夢物語ではない。
 頼もしいぞ、妹よ!
 峰風辰津美はほんのすこし嬉しくなった。
「……いい目だな」
「清水」
「あんなに素直な闘志は、そうは見られない。峰風がなにも伝えていないのに、どうしてあんなに純粋でいられるんだ?」
「それはな、私の妹だからさ」
「言ってろ」
 清水の軽口を聞き流した瞬間、辰津美はいやに張りつめた氷のような感覚を覚えた。
 坂東がぼそり。
「またあいつの視線ですよ」
「わかっている。これは昨日から数度感じているやつだ」
 ゆっくりと壇上に視線を合わせる。
 剣ノ舞と入れ替わるようにステージに立った三人。中心に頬髯を生やした男がいた。太い腕を腰に当て、威嚇するような攻撃的な瞳で、ひたすら辰津美を睨んでいた。
「……ますます修行僧みたいな風貌になって来たな、斎藤剛」
 その声は周囲の音声に掻き消され、くだんの髭男には届かなかった。
 大男はふんと鼻を鳴らすような仕草をみせると、振り返ってステージの中央に向かった。その後を、女の子と少年が追う。女の子は小学校中学年くらいで、ツリ目気味だが可愛いとも言える顔立ち。少年はどこかの中学校の制服を着ていた。少年と女の子は兄弟なのか、どことなく雰囲気が似ていた。
『さて、三回戦第二試合は、八艘跳び対カンウだ。両チームとも初出場ながら、圧倒的な強さで勝ちあがってきたブレードマニアだ。これは好カードだぞ。ブレードマニアチーム同士の戦いは、今大会はじめてだ!』
 ファイト真の叫びにドーム内が乱れ打った太鼓のように騒ぐ。さっきの試合の後だ、観客はみな興奮している。
 相手チームは今大会の平均最高齢チームで、いずれもゲーム雑誌のベテラン編集者だった。平均で三五歳だという触れ込みだが、実際は三八歳であるのを辰津美は知っている。
 だが斎藤はその三人のだれよりも高齢に見えた。すべてはあの、豊かにすぎる悪趣味な髭のせいだ。ちなみにカンウのメンバーも名前だけは知っている。女の子のほうは今回の全国大会の最年少選手だ。この戦いは同時に、最高齢選手と最年少選手の戦いでもある。
「……この試合、見なくても結果は出ている」
 辰津美は席を立った。
 清水と坂東もつづく。
「おそらくは、カンウの勝ちでしょうね」
「鴨葱さんが勝てるわけねえさ」
     *        *
 ブリザード吹きすさぶうす暗くて真っ白の世界。そこは昼の底に広がる夜だった。
 彷徨える赤い鎌倉武士は、折れた刀を握ってよたよたと歩いている。体の各所からスパークが起こり、裂かれた装甲の合間から油がしみ出していた。体のあちこちが雪に覆われている。
 ぽたりと、油が落ちる。
 それは雪面に血かと見紛う点々とした跡を残していた。
 武士の前に、青白い影が出現した。
 赤い武士はのこった力をふりしぼり、右手の刀を構えて迎撃の姿勢を取った。だが刀は折れており、意味を成さない。左腕は力無くだらりと垂れ下がっている。
 やがて白い闇の彼方から、青い戦士が出現した。
 上半身が人間、下半身が馬という、半人半馬の戦士。古代中国武将の格好をしている。顔面からは胸元を広く覆う見事な、漆黒の頬髯が伸びていた。右肩には天を望む砲身が、鈍色にそびえている。
 赤い武士は、三日月の兜を揺らせて言った。
『落ち武者狩りとは、優雅なものだな』
『……来い、曲芸師』
 若い男の声が、髭の武将から漏れた。
 両手で握る槍。その刀状の穂先が風雪に光る。
『いざ!』
 赤い武士は折れた刀を赤熱させて走りだした。短くなったとはいえ、刀の機能はまだ生きていた。左手は相変わらず力無くだらりと垂れ下がって揺れている。
 頭と肩を前に突きだし、相手に刀を見えないようにする。肩の袖鎧が走行の振動で激しく上下する。貼り付いていた雪が落ち、下から「義経」という文字が露わになった。
 義経の突撃に、髭の武将は槍の巨大な刃を上段に構えた。刀身だけでも一〇メートルはあろうかという、偃月大刀である。
 義経はいきなり動かないはずの左手を前に出した。その籠手が外側に開き、中から小型の爆弾が複数飛びだした。
『くらえ、ナパーム地獄!』
 それに対し、青い武将は軽く頭部を前に突き出すだけだった。爆弾は頭部の兜に当たり、弾けた。ジェル状の燃料が散乱し、直後に燃え広がる。兜の中央には「関」と流暢な文字で描かれていた。
 義経は跳んだ。
 右に、左にトリッキーに連続跳躍し、カンウを惑わそうとする。
 カンウはほとんど動かない。大刀は上段に構えたままだ。炎が体中を走ってゆく。
『秘剣・八艘跳び!』
 火炎に包まれたカンウに対し、懐を取った義経は右側から剣豪のような凄まじい一撃を繰り出した。
『どあほう』
 だが、それに数倍する剣聖の神技的速度で、青龍刀が振り下ろされた。赤い閃光が白く冷たい粉雪の舞う空気を裂き、鋼鉄を砕いた。
 両者の動きが止まった。
 ただ吹雪のみが時間の流れを証明している。
 義経が揺れた。
『……無念!』
 頭のてっぺんから静かに裂けはじめ、ゆっくりと二枚に割れてゆく。股の下までそれは達し、義経は完全にまっぷたつになってぱたんと雪に倒れた。
『大道芸が儂に通じるものか』
 つぎの瞬間、大爆発が起こった。
 大量の雪が噴き上げられ、義経の残骸が四散してゆく。その爆発もすぐに強風に洗われ、黒と白の煙のなかから、微動だにしないカンウが相変わらず炎に撒かれたままの姿で出現した。その左脇腹には一振りの刀が、深々と刺さっていた。
 試合が終了した。
 剣ノ舞の三人はそのカンウの戦いぶりに、一種の戦慄を覚えていた。
「なんて大味な戦い方なの?」
「ですが自機の装甲がどのくらいまで大丈夫か、知り尽くしています」
「あのリーダー機、まるで自分の限界を試しているみたいだな」
 ファイト真のインタビューに対して、ほとんど無言で言葉を返さない。このインドの修行僧みたいな髭を生やしたリーダー、本当に寡黙な男だ。
「とにかく準決勝で当たる以上、対策を講じる必要がありますが……難しいですね」
 コミュコンノートを開いていろいろと情報を参照して、斬はため息をついた。
「どうしてだ? 弱点くらいあるだろう」
 力王がいぶかしげに斬のノートをのぞき込む。それにナンも続くと、斬が妙に意識してナンから体を反らせた。
「異名を持っているんだね」
「求道者……か」
「この二年ほど、常におなじ装備・おなじ編成・おなじ戦い方を貫き通す、VS界の奇跡。そのうえ集中攻撃やトラップに対してあえて真っ向勝負を挑む。リーダーの斎藤剛は、中華英雄に所属していたが離脱、とあります」
「姉さんとおなじチームに……だから似ているんだ」
 カンウは中華英雄に混ぜてもまったく違和感がない。まさに四体目の中華英雄だ。
 斬はネットに繋ぎ、さらに情報を集める。
「斎藤は第二回RBA全国大会の、個人の部で優勝しています」
「斬くん、RBAって?」
「リアルバトルエースの略です。戦車シミュレーターを土台とした、VSの前身ゲームですよ。脳波制御がはじめて導入された作品でもあります――優勝直後に現在中華英雄のリーダーである坂東と組み、半年後、第三回大会でダブルスの部を制覇……」
 いくつかのページを巡って、サイトを見つけた。
「スリーオンスリーに転向したのはVSが発表されてからですね。このときに清水が加わって、中華英雄が結成されています。このメンバーで、一七年度冬期と一八年度春期の全国大会、もちろん三対三形式のやつに出場しています。いずれも二回戦敗退」
 力王が素朴な疑問を投げかけた。
「となると、ナンの姉と斎藤はいつ入れ替わったんだ?」
「あ……」
 辰津美と戦うことばかりを考え、こういう基本的なことをナンは考えたことがなかった。
「チームカンウがはじめて東海地区大会に出てきたのは、一八年度夏期大会です」
「姉さんが剣道を止めると電話してきた、わずか一ヶ月後だ……」
 ナンのつぶやきに、斬が頷いた。
「これはもしかして、因縁の対決かも知れませんよ。ナンさんは直接は関係ないですけど、注意が必要で――」
 わっ!
 突如として沸いた声の洪水に、斬の言葉は掻き消された。
 ナンはすぐさまステージ上に注目した。そうだ、第三試合がはじまっていたのだ。
 だが――
 虹色の戦士が、青紫のマントを背負って哀れな獲物に襲いかかっていた。
 獲物は十兵衛とおなじ、トモエゴゼンカスタムだ。黒と黄のタイガーストライプに全身を塗り、虎頭である。名は阪神。それが補助装備の煙幕機構を発動させて難から逃れた。
 赤い斬撃の閃光が空を斬る。
『やるではないか……』
 濃い帯磁高温煙幕で多くの索敵系が使用不能となり、目視で敵を探す曹操。両手に握る矛は、常に相手を斬り裂かんと、ブーンと赤熱振動していた。
『きゃはは!』
 ――煙幕の中から、ビリケン頭の通天閣が出現した。ケツァールカスタムだ。それが長大な尾――ヒートテイルを赤熱させ、急降下して来た。斬撃を仕掛けるつもりだ。
『オーラー!』
 同時に曹操の後背から、曹操の二倍、全長四〇メートルはあろうかという、すさまじく巨大な斬馬刀が降ってきた。それを根で抱えるのはヴァルキリーカスタムの大阪城。全身で大阪城本丸をコスプレしている。
『罠にかかったな!』
 阪神も再出現する。真っ赤な十文字槍で曹操の正面から突きかかった!
 上から、背後から、正面から。
『くらえ、スモークストリームアタック!』
 三方向からの絶望的な同時攻撃。
 それを曹操は静かに待ち受けていた。
 そして――動いた。
『せいっ!』
 辰津美が一声発した直後、曹操の壮絶な舞踊が、灰色の空間を斬り裂いた。
 垂直跳躍して通天閣を突き倒し、刺したまま斬馬刀に叩きつけた。通天閣はあまりの衝撃に爆発する。斬馬刀はそのまま地を打った。通天閣の爆炎が巻き上げられる。
 炎の中から矛が突き出された。赤い穂先が斬馬刀を抱え上げようと両足をふんばる大阪城の胸元を思いっきり突く。大阪城は斬馬刀から離れて吹き飛んだ。そこに追撃のサヘッシュが放たれ、大阪城は潰れるような猛り狂う熱の中で燃え尽きた。
 大砲を撃つ行為で、曹操の動きが一時止まった。隙だった。
 のこった阪神が、がら空きな曹操の背中に向かって鋭い二撃目を突きだした。しかし突き刺さったと思ったつぎの瞬間、曹操の背中が薄ぼけて消え、槍の右側にぎりぎりでかわした曹操がふたたび像を結んだ。槍はマントの一部を貫いただけだ。
『え? イリュー?』
 曹操の両腕と矛が消える。高貴な青紫のマントがばっとひるがえり、そしてマントの外側に赤色の翼が広がったように見えた。
『火羅鳳凰斬!』
 赤い雷光が生じた。
 紅蓮の炎が阪神を襲う。
 阪神の上半身が、まるで巨人に捻り切られたかのように瞬時にしてばらばらになり、四散した。
 ――試合終了、わずか四九秒。
 曹操はまったくの無傷で、戦場に佇んでいる。
 周囲が爆発的な声でその壮挙を讃えている。
 今大会、一機で三機を倒したのは、峰風南につづいて二人目だとファイト真が絶叫している。コックピットが開き、中から戦士である辰津美が降りてくる。周囲の凄まじいまでの声援に対し、素直な凛々しく、かつ美しい笑顔を返し、手をゆっくりと振る。その両脇を誇らしげに清水と坂東が固めている。
 ナンはその様子をずっと見ていた。辰津美の一挙手一投足に注目し、すべての一瞬一瞬を記憶に留めようと、一生懸命になっている。
 だが、相手チーム・近畿地区一位のソウルオブオオサカから抗議が起こった。
 大学生くらいの三人がファイト真のマイクに強引に割り込み、しゃべる。
『バグやバグ! 通信対戦ちゃうのに、なんで補正突破現象《ミラージュフェノミナン》が起こるん? 無効や』
『筐体の型番確かめたら、一・八〇αってなんや? αなんて筐体、知らへんで』
『きっと新型の試験投入や。バグや!』
 会場が一転して静まり、ざわめいていた。
     *        *
「……まずったな」
 辰津美は平静を装いつつも、内心では少々焦っていた。まさかこの程度の相手に現象を起こしてしまうとは。さっきのナンとのやりとりが影響しているに違いない。それに三機斬りのチャンスが到来したから、つい張り切って現象を起こしてしまった。現象を利用して短時間で倒さないと、仲間が合流してくるのだ。できればいたずらにすぎないαは、最後まで起こらないほうがよかったのに……
「大丈夫ですよ」
 となりでタレ目の坂東が微笑んでいる……ように見える。タレ目のうえに目が細いので、じつはその表情はあまりよくわからない。いつも笑っているように見える。
 清水はずっと黙ったままだ。この男にしても現象を引き起こせるくせに。
『それでは――検証するぞ』
 ファイト真が言うと、係員が対戦記録をスクリーン群に映し出す。
 問題の場面が出た。ふたつの視点から同時に流す。ひとつは曹操側、ひとつは阪神側。
 曹操側の視点では、サヘッシュを放った直後、曹操は一瞬後退するそぶりを見せるや、いきなり右に移動して急速旋回した。マントにだけ阪神の槍が刺さった。マントは防火不織布で、飾りにすぎない。
 だが阪神側の視点では、槍の刺突はマントを貫通して装甲深くへ達しており、一瞬命中判定が観測されていた。その直後に曹操側の動きが阪神側に遅れて伝わったのである。曹操への命中判定は取り消されている。
 双方の動きが異なる。
 これはたしかに、一見ではバグとも言えたが――
『これは……バグというよりは補正突破現象《ミラージュフェノミナン》だと思えるが。だけどこの現象が通信対戦でのみ起こるのは、皆もよく知っていること。たしか――通信対戦のラグ補正技術を突き破るプレイヤーが、イリュージョナーのはず。全国大会は直接対戦なので、起こりうるはずがない……』
 首を傾げるファイト真のところに、スタッフの男性が走り寄ってきた。なにかを渡すと、早足で去った。
 それは紙切れのメモだった。
『うん? ちょっと待って』
 ファイト真はメモを読んでいる。その表情は真剣そのものだ。
 そして、発表があった。
『これは奇跡だったぞ!』
 ファイト真が手を振り上げた。
『今回の全国大会は、なんと通信対戦とおなじ状態らしいぞ! これはMNJ社の、秘密で粋なはからいだ。選ばれし者の現象を、会場のみんなに見せてあげようという!』
 五秒ほど沈黙があった。
 直後、ドームがわっと沸いた。
 辰津美の後方にある、筐体間の渡しがびりびり共鳴するほどに。
『よって勝利者は、正式に中華英雄!』
 皆がさらに騒いでいる。これまでにない巨大な音の連呼が、ドームを揺らす程に繰り返された。
「ね、大丈夫でしょう?」
 坂東の微笑みに、辰津美は安堵して息をふうと吐いた。
「策士だねえ坂東。党首様に前もって連絡してあったな? ということは、リアルタイムで観戦しているわけか。お暇なことで」
     *        *
 あれだけの戦いの後では、もはやどんな戦いもやりにくいだろう。三回戦第四試合は比較的凡戦に終わった。それは他の三試合に比べたらという意味であって、けっして程度が低いわけではない。あくまで七〇〇〇チームのベストエイトにふさわしいかという、基準の問題だったのだ。
 準決勝の組み合わせが決まった。
 第一試合は剣ノ舞VSカンウ。
 第二試合は中華英雄VSサクラガラス。
 準決勝前に一〇分の休憩となった。連戦はきついからだという。
 剣ノ舞の面々はナンが「のどが渇いた」と言ったので、廊下に出て自販機に向かった。
「私、豆乳ぅー」
 ナンは好物の豆乳を買った。当然缶ではなく、パック式しかない。
「ナンさん、変わったものが好きですね」
「背が伸びるってうわさがあるから」
「え! 僕も!」
 あわてた斬が、ナンとおなじ豆乳を買ってストローを口に含む。
「うう……へんな味」
「慣れるとけっこう病み付きになるよ」
「俺はすでに十分にでかいから、栄養のないやつでいいや」
 と言いつつ、カロリーの高そうなコーラを買った。しかも一・五リットルだ。
 三人でごくごくと飲む。
「……ねえ斬くん。イリュージョナーって、どうしてあれほど騒がれるの?」
「そうですね。数が少ないってのもありますけど、やはり人間が機械に勝つ、という部分が大きいでしょうか」
 衛星中継やオンラインゲームでよく見られるように、通信対戦にはどうしてもタイムラグが出る。つまりプレイヤーは、ゼロコンマ数秒過去の敵しか確認できない。そこで一瞬過去の敵情報から現在の敵行動を統計的に予測して表示する。直後に実際に届いた敵情報との誤差は、現在から一ないし二秒ほどの未来に渡って分散還元し、補正する。
 これを強制補正表示《DICOC》技術という。
「サーバでなく筐体で処理していますので、補正対象は敵のみになります。負担が少ないぶん強制補正《COC》はすさまじい精度を誇り、まずバグは発生しません。イリュージョナーとはそのバグをいつでも引き起こせる、奇跡のような存在なのですよ」
 通信対戦の黎明期においては通信ラグのバグは日常茶飯事であった。俗に「ラグ」と呼ばれた、主に混線的なトラブルも問題だった。混線はハード面の完備によって駆逐できたが、恒常的な軽いラグが問題だった。
 単位時間に扱う情報量が加速度的に肥大化し、その対処が最優先されてきた。その結果、通信ラグそのものの改善は現在でも遅々として進んでいない。
 鮮明な仮想現実環境下では、わずか〇・一秒以下のタイムラグですら違和感になる。そこで時差に対して、擬似的にリアルタイム性を獲得する技術が急速発達したのだ。
 その水準は現在、VSの強制補正表示がトップをゆく。だからこそこの最先端の疑似リアルタイムを崩せる者は、技術に勝ったと英雄扱いされるのだ。
「ふうん……すっかり忘れていたな。ときどき雑誌とかで解説を読むけど、この原理ってけっこうすぐに忘れちゃうんだよね――じゃあ姉さんって、奇跡なんだ」
「世界に現役では一〇〇人くらいしかいないって、いいますし」
「へえ……本当にすごいや。もしかしてそんな人と、戦えるかも知れないんだね」
 もはや夢ではない。あと一戦して勝てば、決勝で当たる。中華英雄が準決勝で負ける可能性を、ナンはまったく考えていない。
 三人で歩く。
「……僕が連れて行ってみせます」
 斬がぼそりと、ナンにつぶやいた。
「――俺もだ」
 力王も言う。それは有言によって、実行に最大限の力を発揮させるがための、儀式のように思えた。だからナンも言った。
「私も」
 剣ノ舞はチームだ。だから、集中するときは同時に。ひとつの目標に。
 そんな決意を確認して、三人は戦いに臨む。
     *        *
「〇・二秒のラグを仕掛けたα筐体の件は秘密でした。現象が起これば、すかさず事実を公表する。これが『演出』なのですよ」
 坂東がゲーム雑誌記者に語っていた。記者たちは三回戦でカンウに敗れた、八艘跳びの三人だ。彼らは選手でもあるので、こうして選手専用区画に入り、かつ独占取材が可能なわけである。もちろん坂東にしても、それを承知で答えている。
 漏れる最初の穴が狭いほど、情報というものは操作しやすい――というのが坂東の弁だ。さすがは若干二三歳でLD通信社の第二技術開発部部長を務めるだけはある。
 記者のリーダーであり、じつは雑誌の編集長自身でもある鴨葱がたずねた。
「今回の件で、MNJ社内とLD通信の連携はどうなるのでしょう? バグ容認派と否認派が、激しく対立することになりますが」
「すでに容認派の私によって、既成事実が作られました。なるようになるでしょう」
 細い目がいつもより笑っているように見える。
「失礼ですが坂東部長は否認派だと伺っていましたが? 中華英雄は一貫して補正水準の向上、すなわちバグ潰しのためにバージョンアップ開発に参加して来たのですよね?」
「人の考えが常におなじであり続けるとは限りませんよ。いまの私は峰風さんや清水さんと、等しい夢を共有しているのですから」
「それはつまり、世界大会制覇なのでしょうか?」
「そうなりますね」
「それが今回のα筐体と、どういう繋がりがあるのでしょうか?」
「ご想像にお任せします」
 辰津美は坂東たちから離れた位置で、壁に背もたれてぼおっとしていた。
「はあ……けっきょくαって、私にはほとんどなにも関係ないじゃないか。革命だ、って言っていた割には」
「そうとは限らないぞ」
 豆乳が差し出された。
「お、ありがとう清水」
 さっそくストローを差して飲む。
「うーん。おいしい」
「つくづく、変わったものが好きなんだな」
「背が伸びるからね」
「聞いたことないぞ」
「そうか? まあいいや」
「……あ、ところでそうとは限らないって、どういうことだ?」
「次の試合で峰風南ちゃんが現象を発動させるかも知れない、ということだ。気力と調子は極限にまで高まっているだろうし、なにより相手が相手だ」
「――なるほど。その可能性はあまり考えていなかった。実現したら、ミラージュバトルが体験できるかも知れないな」
 一気にすべてを吸い、近くのごみ箱に放り投げた。外れた。それを回収しに行こうとしたら、誰かがかわりに拾ってくれた。
「あ、すいません――」
 その親切な人の顔を見たとたん、辰津美の口が一時的に止まった。
 直接触れられるほどの距離に、妹がいたからだ。
「……ナン」
「姉さん」
 互いにどう反応してよいかわからないのが瞭然だ。
 辰津美はナンをまじまじと観察した。
 あいかわらず小五以来の、辰津美が褒めた髪型を守っている。右手には飲み終わった豆乳のパック。それを綺麗に折り畳む癖は、散らかし癖のある辰津美を反面教師として獲得した几帳面さだ。豆乳がまだ好物だったのか。背が伸びると教えたのは辰津美だったが、辰津美にしてもそれが正しいかどうかは知らない。思い込みかも知れない。
 いずれにせよ――ナンは、ナンのままだった。いや、二年前に比べて背がかなり伸び、男の子ぽかった顔は女の子らしい部分も増え、思わず抱きしめてあげたくなるような、中性的で不思議な可愛さを得た。
「ナン……」
「あ……」
 いきなり直接話しかけられて、ナンは緊張したのか豆乳のパックを落としてしまった。落ちたパックの口からわずかに残っていた豆乳がすこしはじけ、ナンの靴下を汚した。
「すまない」
 慌ててしゃがむと、辰津美はポケットからハンカチを取り出し、ナンの靴下に当てた。
「モーモーズ?」
 ナンが驚いたような声で言った。
 ハンカチは牛柄模様だった。
「よく知ってるな。マイナーだが、お気に入りでね。きっとそのうちブレイクするさ」
 汚れを拭き取ってハンカチをしまおうとして、辰津美はナンの靴下に気付いた。牛柄のワンポイント。
 思わず顔をあげる。
「……好きなのか? モーモーズ」
 ナンは恥ずかしいのか頬に朱を交えて視線を逸らした。
「うん」
 ちいさく頷きながら答えた。それがまるで好きな人に急に話しかけられた少女のような感じで、思わず辰津美をどきりとさせた。
 そうだ――この子はこうやって、人に好かれやすい仕草を自然に取れる。それは私にはない、うらやましい部分だ。この子を嫌いな人なんて、滅多にいないだろう。
 そんな可愛い妹は、辰津美にとってかけがえのない存在だった。いつも剣道に明け暮れる辰津美に、無邪気に心酔していたナン。親の期待はどうでもよい馬耳東風だったが、ナンの言葉だけは違った。
『優勝してね――』
『応援してるから。がんばって!』
 ナンの言葉にだけは魔力があった。だからより真剣になれた。とことん勝ち進めた。だからこそかえって、大事なことを話すことが出来なかった。その妹が、ナンが、こうして何気ない、しかしそれゆえに神聖な約束を果たしに来た。
 私にはそれに応える義務がある。
 もう逃げることは出来ない。
 さきほどそれを、自分で決めたじゃないか。
 一歩を踏み出そう。
「決勝で待っている。絶対に勝ちあがれ」
 立ち上がるや、ナンの右肩を右手でぽんと軽く叩いた。
 しまった。
 つい右手を引っ込める。
 ナンはしかし、赤面して緊張した顔を辰津美に向けているだけだ。
 ちいさく、こくんと、頷いた。
「……行くね」
 どうやら右手のことには気付かなかったようだ。
 辰津美はほっとして、胸をなで下ろした。
 だめだ。やはりまだ決心がつかないかも知れない。
     *        *
 少女は少年と男の前で、それを壊そうと言った。大切にしている悪い子が、ちっともへこたれていないからだ。なんのために取ってきたのか、まったくわからない。
 だけど少年は、少女の兄は反対した。
「そんなことをして勝ちたくないな」
 少女は反論する。
「だって、大きいお兄ちゃんが東京から帰ってきたのは、あの人のせいだ。せっかくのチャンスだったのに――あの人が悪い。だからあの人の妹も悪いんだ。私はみんなじゃましてやる」
 少年は、すぐ上の小さいお兄ちゃんは取り合わない。
「すべては承知の上さ」
 とおじいさんみたいなことを言う。それが少女には気にくわなかった。
 だから優しくて、少女のことをよくわかってくれる、大きいお兄ちゃんにせがんだ。
「ねえ、壊そうよ」
 抱きつくと、髭が揺れた。
 少女の力では、それは壊せない。だから大きいお兄ちゃんに頼むしかない。
 だけど大きいお兄ちゃんは首を振った。
「なんで? 私の、さゆりの言うことにはいままで反対しなかったのに」
「そろそろ返してあげよう。やはり悪いことはいけない。儂は修行の身、悪いことは見逃せない」
「そんな。褒めてくれたじゃない」
「すまない。儂も迷っていた。とにかく悪いことはいけない」
「兄さまも改心なされた」
 小さいお兄ちゃんが言った。
「なぜ? あの女の人も悪いことをしたのに、なぜ私だけはいけないの? 悪いことをした人には、悪いことをしていいんだよ? 知ってるんだ。目には目を、歯には歯をって」
 大きいお兄ちゃんはまた首を振った。
「それはかんちがいだ。その言葉の本当の意味ではない。屁理屈は通らない」
「へりくつ? 私の知らない言葉を使って、私を、さゆりをわるものにしようとしているんだ!」
 ――斎藤小百合は、ナンの竹刀を抱えてカンウの控え室を飛び出した。
     *        *
 準決勝第一試合は、いきなりとんでもない展開で幕を開けた。
 カンウが、棄権を申し出てきたのだ。
『ど……どういうことかな?』
 戸惑うファイト真に対して、髭面の斎藤剛はただ一言。
「妹が私用で出られない」
 弟の斎藤雅彦もうなずいて、短く、
「小百合はどうしても外せない用事です」
 それ以上、なにも言わずに審判を待つだけだった。なんとも寡黙な兄弟だ。
 困ったファイト真は、係員を呼んだ。八色の引き分けのときとおなじく、また協議になったが、誰もこういうときの対処を知らないようだ。今度は一分で冊子が届いた。
 その様子を、剣ノ舞の三人は固唾を呑んで待っていた。ナンは運良く戦わずに済みますように、と祈っていた。これが姉さんなら、ぜひ戦いたいと望むだろうな――とナンはふと思った。でもナンは本当の戦士ではない自分を自覚していた。
 私は、私になればいい。
 辰津美姉さんには、なれないのだ。
 そのことを斬に教えられ、思い知り、かつ自覚していた。自然に思ったことがナンという人間の、当然の姿なのだ。
 本物の戦士じゃないから、不戦勝でもおおいに喜ぶだろう。それを恥とは思わないのは、ナンという存在がそういうふうに出来ているから仕方がないこと、当然のことなのだ。無理に背伸びをして、自分を偽ることはない。戦士のふりをして「ああ、本当は戦いたいな」と言ったところで、その心は薄っぺらいにちがいないのだから。
 やがて対象のルールを見つけたのか、係員の一人がファイト真に耳打ちで告げる。真は面白そうだ、といわんばかりの顔をして、そしてアナウンスした。
『基本的にVSの大会では、棄権は認めてないそうだ。だからこの場合、スリーオンスリーでなく、ダブルスマッチになるぞ!』
「よっしゃ!」
 力王が戦える喜びを声に出した。
『剣ノ舞は、出るメンバーを決定してね』
「誰が出る? 出る?」
 力王はリーダーらしく、いちおう皆の意見を聞こうとする。だがその姿は、あきらかに自分が出たがっている様子だった。
「先輩って、やはり戦士なんですね」
 ナンがぽつりとつぶやいた。それは軽い嫉妬だったかも知れない。自分にない積極さ。姉さんと戦うこと以外は、本当はかなりどうでもいい、と思う自分がいる。それに対する嫌悪も手伝っていた。
 言葉に刺が混じらないよう、悟られないよう注意して、言葉を選んだ。
「ですから、先輩は出るべきですよ」
 力王は単純に顔をほころばせた。
「そうか? やはり、そう思うかナンは」
 すかさず斬が手を挙げた。
「なんだ、斬」
「この戦い、僕が参加を辞退します」
「え?」
 ナンは意外そうな顔をした。てっきり斬も出たがっていると思ったのだ。なにせ斬は、役に立ちたい、活躍したいと思っていたはずではなかったか?
「相手は『求道者』の異名を持つほどのチームです。こちらの奇策は通用しないでしょうし、同時にトラップの警戒も、ましてや対策も必要ありません。つまり軍師としての、僕の出番はありません――それに、剣ノ舞では僕が確実に一番弱いです」
 斬はナンをじっと見つめた。
 その真摯な視線に、ナンはたじろいた。
「な、なに?」
「ナンさん。僕はあなたを決勝に導くと言いましたよね。ですからそれを実行します。今回はこれが一番いいんです」
「あ――」
 言い終わると、斬は唇を噛んでナンに背を向けた。悔しそうに小走りで駆け、ステージを降りる。それを追おうとしたナンだが、力王の太い腕が止めた。
「先輩……」
「わかってやれ。やつも男の端くれだ」
「……はい」
 覚悟が決まった。
 ナンは女子だし、そんなに男友達というものがいるわけでもないので、「男のプライド」「面子」をあまり理解できない。だけど人間としての最低限のポリシーみたいなものはわかる。
 VSみたいなゲームのプレイヤーともなると、ノンポリの人間はむしろ少数派になってくる。誰もがなにかにこだわりを持ち、他の人がなんとも思っていないことに価値を見いだし、必死にそれを守ろうとする。
 斬が男の子として辛い選択をした。
 だから私は、それに報いよう。
 ――そう思ったとたん、急に胸が痛くなった。
 え?
 去っていったはずの斬の顔が、脳裏に浮かぶ。
 それを見ると、胸が、きゅーんと締め付けられる。痛い?
 いや、実際に痛みは感じないのだが、なにかこう不思議な感覚がこみ上げてきて、抑制できない。
 どくん、どくん。
 動悸がはやくなり、頭が熱くなって思考回路が一瞬消えてしまった。
 ――――。
 あ……
 斬の顔が、また浮かんだ。
 唇を噛みしめた、悔しそうな顔が。
 な? なに?
 思わず頬を押さえた。熱かった。
 斬を探す。いや、もういない。
 だけど、ずっと側に、無性に側にいたくなる。
 いっしょに斬の隣で、おなじ空気を吸っていたい。
 このような体験は、生まれてはじめてだった。なんだろう、この気持ちは。
 ――切ない。
 そうだ、切ないというんだ、この感情は。
 せつないよ、斬。
 ためいきが漏れた。
     *        *
 これでいいんだ。
 僕は、ナンさんの役に立てたはずだ。
 自分に何度も言い聞かせ、斬は本当は戦いたかったという願望を押し殺していた。
 だけど――だけど、やはり実際に戦うことで、ナンの役に立ちたかった。
 無念の思いで選手控え室の通路に降りてきたとき、声をかけた者がいた。
「廊下のモニターで見てましたわ、馬子斬くん……なかなか男らしい選択でしてよ」
 女性の声だった。
「――ああ、神無月さんですか。ところで、なにをしているのですか?」
 神無月律枝は物語から抜け出たような、時代錯誤でクラシカルな格好をしている。右手に持っているそれは、まさしく定番道具。
「これで竹刀を見つけますわ」
 まだ探していたのか……
「それで、当てはあるのですか?」
「う……」
 とたんに自信満々な様子が消える。
「盗難となると、もうドーム内にない確率のほうが高くありませんか?」
「そ、そう言われると」
 うろたえるように一歩さがる神無月。見ていて楽しい。感情を隠せない人なのだ。
「なら――剣ノ舞の軍師と言われている馬子斬くんには、なにか考えはありませんの?」
「そうですね。どうせ素人にはドーム内くらいしか探せませんから……」
 斬は神無月の姿を見て、適当に答えた。
「犯人は、一度は犯行現場に戻るといいますよね?」
「そうですわね!」
 いきなり神無月の顔が日陰から日向に切り替わった。そのままふり向いて走りだす。
「……といっても、それは物語でよくある話で実際には――あれ?」
 神無月はすでに一〇メートル以上彼方だ。
「行くわよ、ワトソン君!」
「ワトソン君? って、待ってくださいよ」
 斬は思わず追いかけていた。
 ……ま、暇だし、ナンさんの竹刀を探すのにすこしつき合ってみよう。
 どうせそれくらいしか、僕に出来ることはないし。
     *        *
 戦場は赤い大渓谷、グランドキャニオン。剣ノ舞は二体とも台地状の地形の上にいる。左翼が武藏、右翼が十兵衛。
 ダブルスマッチの初期配置は味方距離一・二五キロだ。正面の敵は二・五キロだから、四機の配置は美しい一対二の長方形になる。
 ナンは遠くにぽつりとしか見えない十兵衛を確認して、不思議に思った。
「いつもより距離がありますね」
 スリーオンスリーは八〇〇メートルだ。
〈俺は最初は斬とのタッグだったからな、実はこの距離にはわりあい慣れている〉
「そうなんですか」
〈ダブルスとはいうが、連携は取りにくい。ふたつの独立した戦いが生まれ、先に終了した戦闘の勝者がもうひとつの戦いに合流する、というパターンの試合が多いな〉
「大味なんですね」
〈そうさ。だから俺はよりハイレベルな駆け引きが楽しめるスリーオンスリーに転向したかったんだ。それを言ったら、斬がいきなりナンを連れてきたから驚いたな〉
「へえ……斬くんって――」
 言ったとたん、頬がまた火照るのを感じていた。
「――昔から、そういうところがあったんですね」
〈今にはじまったことじゃない、というわけだな。だから勝ちたい。あいつのためにも〉
「はいっ!」
〈気が入っているな、その意気だ〉
「あ……」
 過剰に強く大きな声で返事したことに気づき、口を押さえてしまった。
 ああ、そうか。
 ナンはようやく、自分の感情を理解できた。
 私はいま、生まれてはじめて、男の子を好きになったんだ。
 男の子に誘われてデートをしたことは、小学生のときに幾度かある。デートそのものは楽しかったが、結局それだけだった。
 それは恋愛の真似事にすぎなかった。
 斬はちがう。
 私を仲間に誘ってくれた。
 私が全国に行く参謀になってくれた。
 私を変な編集者から守ってくれた。
 私は私になればいいと教えてくれた。
 私をその胸で泣かせてくれた。
 私が敗れたグーで、最後の大勝負をしてくれた。
 私を決勝に連れて行ってくれると約束してくれた。
 私のために、自ら試合に出ないことを決めた。
 斬……斬、斬――初めての、気持ち。
 初恋か……
 なにかくすぐったくて、嬉しかった。
 正面のスクリーンに「戦闘開始」の文字が出た。
 ――戦闘が、はじまった。
 ナンは気を引き締めた。私は斬のために、いまは戦士にならなければいけない!
 辰津美と戦うというだけでなく、ほかに目標が出来て嬉しかった。
 ロックは不可能だ。なにせ相手は見えていない。敵は二機とも谷底が初期位置らしい。
「先輩、どういきますか? その気になれば二対一での待ち伏せが出来ますが」
〈相手は間違いなくまっすぐに突っ込んでくる。こちらもそれに応じよう。多少の小細工が通用する相手ではない〉
 つまりは一対一、というわけだ。
「了解!」
 通信が切れる。
 十兵衛の姿がふっと消えた。近くの崖から、空中に躍り出たようだ。
「……さてと」
 ナンも二〇〇メートルほど正面にある、崖のへりにまで走ってゆく。そこには、さらに雄大な景観が広がっていた。赤茶の大地に切り刻まれた深い絶壁。その底には茶色の激流が走っている。
 グランドキャニオンは巨大なスピーカーだ。常に聞こえてくる、かすかな風音。それは腹の底から絞り出されたような自然のうなりであった。幾筋もの渓谷から発せられた音が交わり、多重的でかつ均一の落ち着いた音響を奏でている。なんとも心地よい。
 現在立っている場所からは、さすがに無事に下に降りられそうな箇所はなかった。
 武藏を崖沿いに移動させる。同時にゴーグルの表示に注意する。いつ相手の狙撃を受けるかわからない。
 見つけた。かなり急だが、段々になっていて下に降りられそうな場所があった。さっそく一歩を踏み出し、その急斜面を滑るように降りてゆく。スラスターを噴かして加速度を殺す。砂礫が転がり、土埃が舞う。
 ――と、警告が出た。
 スラスターを解除して、自然の滑りに任せる。急に速度が増したその頭上をサヘッシュ砲弾が突き抜けていった。崖にぶつかって大爆発する。背中から崩れた土砂が落ちてきて、武藏は巻き込まれそうになった。
 壁面を蹴って横に跳ぶ。武藏の落ちていた空間を崩落が襲った。その赤茶色の煙の横を、武藏が滑り落ちてゆく。周囲につぎつぎと砲弾が命中し、爆発を起こした。
 大地全体が鳴動していた。
 ナンが確認するまでもなく、崖全体が大崩壊を起こしつつあった。
「……せいっ!」
 しかたなく崖から離れるべく、スラスターを噴かした。下までは一〇〇メートルを切っている。この高さなら、両膝のショックアブソーバーはかろうじて耐えられる。
 しかし地面に到達する前に、入道雲のような土煙が速やかに空間を侵食してきた。一寸先も見えない土嵐の世界に入り込む。
 ナンは慎重に足元に注意していたが、急に岩の尖塔が迫ってきて、あわててスラスターを激しく噴かせた。その姿勢制御がうまくいってほっとした瞬間、煙の中を貫いて、マッハ五近い暴力が駆け抜けた。
 それは武藏の頭部をかすめた。いや、もぎとった。
 サヘッシュは後ろの岸壁に激突し、爆発した。幸い命中での爆発は免れたが、爆圧で武藏は吹き飛ばされた。コックピットがくるくると回旋し、ナンは目を回さないよう必死に三半規管への攻撃に耐えた。
 コックピットが仰向けの状態で止まる。四点ベルトが食い込んでいた圧迫感がまだ残っており、少々体がきつい。
 にわかに暗くなった。壁面スクリーンが、正面をのこしてすべて暗くなったのだ。
「……頭が」
 全方向スクリーンは頭部がないと表示されない。武藏は首から上が、顎しか残っていなかった。
 むくりと起きあがる。コックピットも武藏に合わせて正常の向きになった。ほかの被害を確認するが、なんとか戦えそうだ。とにかく諦めるのだけは絶対にいやだ。だいいちそれはいままで頑張ってきた自分に対してだけでなく、力王と斬と、そして対戦相手のチームカンウに対して失礼であろう。
 足元は泥水であった。コロラド川かその支流かは知らないが、流れがはやい。歩くと音がばちゃばちゃとした。
「ん?」
 音をさせた直後である。またもや煙の彼方から超音速の暴力が飛んできた。頭部のセンサーが破壊されたので飛来弾警告が出ない。
 だからナンは、なんと事前に勘だけで伏せていた。
 頭上を素通りし、崖に当たって爆発するサヘッシュ。たちまち上のほうからガレキの山が降ってくる。
「……もう!」
 ここにいてもらちが明かない。ナンは武藏を川からあがらせ、岸沿いに貼り付かせた。
「水の音やスラスターのジェット光だけで当ててくるとなると、近くにいるはず」
 スナイパーは大砲を撃ってきた彼方にいる。
 武藏は用心して、しばらく煙が晴れるのを待った。だいぶ薄まり、遠くが見渡せるようになってきた。ナンはサヘッシュが飛んできたほうに注目――いや!
 とっさに真後ろを向く。そこに青白いVSがいた。肩の砲身が下がってこちらを狙う直前、武藏は斜め前に跳躍していた。紙一重で回避に成功する。そのままスラスターを噴かし、空中で一気に距離を詰める。
「いつのまに後ろを取ったの?」
 あれはたしか白竜《パイロン》。
 斎藤剛の弟、雅彦の機体だ。雅彦は中学二年で、ナンと同学年である。
 武藏は諸手を胸前で交差させ、二刀を抜いた。鶴の翼のように両手を広げて、パイロンに襲いかかる。パイロンは一見カンウの色違い機であるが、頬髯がない。鎧全体に細かい竜の意匠が施してある。胸板は見事な昇竜絵図だ。
 左肩の砲身でこちらを落とそうとしている。そうだ、大砲の位置も左右逆なのだ。カンウ・項羽・ユエフェイの大砲は右肩である。
 ナンはフェイントを使う。スラスターを下、上、右と短く噴出させた。サヘッシュは武藏の脇を通り抜けた。
 地に足がつく。川の中だ。本当は多少深いのだろうが、全長一七メートルの武藏には浅い水辺ぐらいにしか感じない。泥水をばしゃばしゃとあげながら駆け、武藏はパイロンに斬りかかった。加速機構を発動させる。
「……!」
 パイロンは後方に跳躍し、武藏の左の一撃はあっさりかわされた。その行動はナンには織り込み済みだった。武藏は左の斬撃を中断して一歩踏み出すと、右の太刀でパイロンの咽頭を狙い突いた。
 本来ならこの突きが避けられるはずがなかった。なにしろパイロンの体は飛び退く最中で、自由にはならなかったからだ。
 しかしパイロンは避けて見せた。背中から、真っ白な翼を生やして!
「そんな!」
 それは翼ではなかった。翼のように見える大型のスラスターだ。同時に下半身の馬の部分からも、ジェットが吹き出ている。
 ほとんど空を飛んでいるのと同然のゆるやかな軌道で、パイロンは空中に逃れた。
「なるほど。だから後ろを取れたんだね」
 狭い谷底である以上、後方に回るには空を飛ぶしかない。ナンはうかつにも、カンウの試合をひとつもチェックしていなかった。だからてっきり、カンウは三機とも中華英雄仕様だとばかり思っていたのだ。
 二年間まったく変化がないと斬は言っていた。つまりこのような身軽な機体を、雅彦は二年前から使用していることになる。
 ナンは一切攻撃しない。刀を抜いたまま、パイロンが降りてくるのを待った。
 一〇秒ほどして、一〇〇メートルほど離れた位置にパイロンは舞い降りた。
『――どうして撃たなかった?』
 少年の声が訊いてきた。
 ナンはコックピット内で肩をすくめた。武藏も刀を持ったまま肩をすくめる。頭がないから、なにか違和感がある。
「だって、どうせ避けられるでしょ? あなたはその機体で二年もがんばっているから」
 だいいち頭部消失で、ロックオン機能もフリー照準サークル機能も失われている。射撃精度は通常の数分の一に落ちているのだ。しかも相手はトッププレイヤーである。通じるはずがない。
 パイロンは納得したように頷いた。
『たしかにそうだな』
「だから、こちらで勝負しようよ」
 武藏は右の太刀を後方に、左の小太刀を正面に構え、腰をやや低くした。
『承知した』
 古風な物言いで受けると、パイロンはこちらに向けていた左肩の砲身を真上に向けた。そして背中上部に渡してあった棒状の武器を取り出した。それは二つ折りになっており、伸ばすと二倍の長さになった。
 棒の両端が振動、赤熱しはじめた。
 両先が刃物になっている、変形型の薙刀だ。その刃の湾曲はごくわずかであり、ほとんど直刃に近く、槍に似ている。
 ナンは雅彦が勝負を受けたことに驚いた。その気になれば、パイロンは空中からひたすら砲撃しつづけることも出来たはずだ。
 求道者という異名は、伊達ではないようだ。ブレードマニアとして、剣ノ舞以上に強いこだわりと高いプライドを持っている。まるで心地よい清風のようだった。
「…………」
『…………』
 武藏とパイロンは赤茶色の大地の底で向かい合った。構える武藏。薙刀を自由自在に旋回させるパイロン。
 武藏が一歩を踏み出す。
 パイロンも一歩を踏み出す。
 たがいに一歩、一歩と足が次第に速くなり、最後は水上を駆けていた。
 武藏は加速機構を使用し、スラスターを噴かせる。パイロンも翼状のスラスターを全開にし、水上に浮かんだ。
 全高も速度も間合いも、パイロンのほうが一枚上だ。当然先制攻撃はパイロンとなる。
 パイロンが薙刀を両手で回し、斜め上から見えないほどの速度で斬りつけてきた。武藏は身を縮めて横に回避したが、半周した薙刀のもう一方の刃が、武藏の左肩に赤い一閃となって叩き込まれた。
 ポッドに命中した。
「うっ」
 眩しい光にナンは目を閉じた。
 ミサイルのうち二本が勝手に飛び出し、パイロンに命中する。のこった二本はポッドごと誘爆した。パイロンも武藏も吹き飛ばされる。
「きゃっ」
『うぐふっ』
 泥水に胸から落ちる。衝撃でナンの体は前後に揺れた。コックピットが下向きになって気持ち悪いので、すぐに立ち上がる。
 左肩が完全に消えていた。当然左腕は影も形もない。
 パイロンのほうは薙刀の半分が消し飛び、右腕の肘から先が完全に消えていた。また右馬腹にかなり深い損傷が見られる。そこから油がひっきりなしに流れ出ている。
 パイロンは左手で薙刀をなんとか剣のように持つが、のこった柄が短すぎて半端だ。しかも足取りがおぼつかない。
 どう考えても、武藏のほうが被害が少ない。
『さすがだな。わざと当てたか』
「ごめんなさい、完全な偶然です」
『ふふ……本当に剣ノ舞は運がいい』
「否定はしないわ」
 二回戦、三回戦のことを言っているのだろう。いや、一回戦にしても運がいいと言える部分がある。神無月が正々堂々と戦ってくれたおかげで、なんとか勝てたのだ。
 辰津美と戦いたいという勝負の魔法が、数々の奇跡をもたらしているように思える。
 パイロンはまたスラスターで水上に浮かび、突きかかってきた。だがその動きにもはや精彩はない。
 大砲の砲身は、変わらず上を向いたまま。
「これが……求道者」
 武藏はほとんど反射神経的にパイロンの突きを左にかわし、同時にパイロンの胴体を右の刀で薙ぎ払った。わずかな抵抗感の後、人の部分と馬の部分が互いに別れを告げ、泥水の中に落ちた。
 武藏はすぐに上半身が落ちた地点に向かった。パイロンのモノアイはまだ光っていた。
「教えて。なぜ大砲を使わなかったの?」
『決闘だったからだ……』
 それだけを言うと、パイロンは沈黙した。目の光が失われ、切断面のスパークも消える。
「なんて純粋すぎるの。眩しいくらい」
 最初は理にかなった先制の奇襲砲撃をしておいて、斬撃戦に入ると一切撃たない。独自の倫理観によって、場面や状況によってはできるはずの最善の手を放棄する。
 このような戦い方をして、よく全国大会のトップまで来れたものだ。自身に課している制限を取り払ったら、チームカンウとはどのような強さを発揮するだろうか。
 そう考えて、ナンはすこし身震いした。
 だけど戦闘はまだ続いている。
「発信、こちらナン&武藏。先輩、パイロンを仕留めました」
〈…………〉
 反応はなかった。
 それは予想していたことだった。十兵衛の相手はカンウそのものだったはず……
 ナンは周囲に気を巡らせた。とはいえ頭部がない関係でカメラは正面しか見えず、また飛来弾報知機能もない。完全に勘だけが頼りだった――
 ――なにかを感じた。
「せいっ!」
 ナンが気合いを込めて叫ぶと、武藏が横に跳んで――いや、その行為を中断させ、右手を真上に突き上げていた。
 その手には太刀が握られており、そして刀身はなにかを貫通していた。
 青い高貴な中国武将の胸を貫いていた。
 武藏の胸元、ナンの鼻先に、赤熱が消えてゆく巨大な青龍刀が垂れ下がっていた。それは本来、武藏をかち割るはずのものであった。
 右腕の肘関節が限界以上の負荷を受けて、悲鳴をあげていた。
 武藏はたまらず刀を捨てた。
 胸を貫かれたカンウが泥水に落ちた。美しい頬髯が汚れる。間近でははじめて見るが、精巧な彫刻のような鋼鉄製の髭は、まるで本物のように細やかなディティールだった。
 すでにカンウは機能を停止していた。偶然にも隣にパイロンが眠っている。その左肩の砲身は、誇らしげに上を向いている。
 そしてカンウの右肩の砲身も、パイロンのそれとおなじ方向を堂々と向いていたのだった。
     *        *
 孤独な戦場から戻ってきたナンを、まず拍手が出迎えた。ナンは筐体からのそりと出てきた。現実感がないように思えた。拍手はなおつづいていた。
 力王が出迎えた。その顔は優しかった。
「よくやった」
 一言。
「そして、ありがとう」
 つぎの一言。
 ナンはなにかをしゃべりたいと思った。だけど、いざとなると声が出てこない。
 力王がナンの背中を押した。ナンは押されるままに渡しの階段に向かった。正面にカンウのふたりがいた。
 豊かな髭を揺らせて、斎藤剛が「強いな、さすがだ。儂の証明の旅はまた振り出しに戻ったよ」と言った。あきらめたような、開放されたような、力が抜けた顔をしていた。
 いままでは下品に見えていたその髭が、にわかに立派に思えた。その瞳は輝いていて、思ったより若いのが見て取れた。最初は三〇歳くらいかと思っていたが、弟・妹がいる以上、どう考えても二〇歳前後のはずだ。
 次に斎藤雅彦が無表情で礼をした。
「マスターと呼んでもおかしくないほど強かった。また手合わせ願いたい」
 と、ただ一言のみ。おなじ学年・年齢とは思えない。まるで高校生みたいだ。
「……はい」
 機械的に礼を返すナン。
 正直、カンウのことはどうでもよかった。
 階段を降りながら、ステージの下を見た。
 辰津美は拍手をしていた。まるで砂浜にうち寄せる波のように、永遠につづくかと思われるような、淡々とした拍手をしていた。
 なにを答えたらいいのだろう。
 ただ、軽い興奮がすこしずつ湧き起こりつつあるのを感じていた。
 姉さん、私はついに来た……
『来たー!』
 いきなりファイト真が叫んだ。
 ナンは心底驚いた。頭から一瞬なにもかもが消し飛んだ。
『この瞬間を見れたみんなは幸せだー! ボクも幸せだー! 日本で・七人目の・イリュー・ジョナー。幻影者《イリュージョナー》の誕生だー!』
 最初、誰のことかわからなかった。
『世界で現役一〇〇人前後しかいない、希有な存在。峰風南、ナンちゃんが、その一人に加わったぞ! 当然だがα筐体のおかげで、公式大会本戦での誕生は初のことだ!』
 ファイト真が力強く指さした。
 ナンは真の人差し指が示す先を、振り返ってまじと見た。
 スクリーンには、さっきの試合の最後の瞬間が映し出されていた。
 崖の影、七〇メートルほどの高さから跳躍したカンウは、飛び降りつつ巨大な青龍刀を最上段から一気に振り下ろした。武藏は青龍刀が当たる寸前、横に跳んで難を逃れた。
 地に降りたカンウは信じられない反応速度で縦斬りを横払いに繋げた。見事命中し、武藏の胴と腹が分かれた――と思った直後、一連の行為がエラー処理と判定され、カンウも武藏もその姿が薄れた。
 かわって現れたのが、刀で串刺しにしたカンウを右手の先に掲げて立つ、武藏の勇姿だった。青龍刀の刃先は、武藏の胸先一メートルほどの位置をむなしく泳いでいた。これは人間サイズに換算すると、わずか九ないし八センチほどである。
 勝敗の立場が逆転する。
 まさに、バグだ。
 だからまず最初は疑問に思った。
「……いいの? あれで」
『……いいの? あれで』
 ナンのつぶやきが、会場に広がった。
 口元にマイクが向けられていた。
『いいんだよ。それがイリュージョナーなのだから』
 ファイト真が、瞳をらんらんと輝かせながら頷いた。
『普通の人にはけっして起こせない。だから英雄なんだ。いいことなんだよ!』
『そ、そうですか……』
 強く肯定されると、ナンもなにかその気になってしまう。それでも現実感がない。
 決勝進出という夢が叶って、ふわふわ浮かんでいるという感じだろう。ナンはしばらく続いたインタビューの内容を、ほとんど呆然としたまま、適当に答えた。
 力王や斎藤兄弟への短い話が終わると、ようやく開放された。感極まって男泣きに力王が泣いている。三回戦のときのような大喜びはもはやない。あまりに感激すると、人はかえって騒げないこともある。力王もナンもそういうタイプのようだ。静かに絞り出すように喜び、感動するのだ。
『さて、いよいよつぎは、準決勝第二試合だ』
 ナンたちがステージの階段を下りる。
 それとは逆に、辰津美たちが昇る。
 姉を見て、ナンの脳は急に活発化した。やはり自分のこと云々よりもまず、辰津美だ。気になることを思い出す。
 そういえば三回戦後の休憩時、辰津美姉さんに肩を叩かれたけど、ちっとも……
 ナンは即席であることを思いついた。
 辰津美と左側通行で交わるよう、階段の左側を降りる。辰津美はゆっくりと頷いて、ナンから見て右側から昇ってくる。
「姉さん。私、やったよ」
 さりげなく右手を広げ、挨拶するように出す。
「よくやった。私もつづくぞ」
 辰津美も無意識で右手を伸ばし、姉妹はハイタッチで右手の平をぱんと叩き合った。
 渇いた音がしたが、しかしナンの手が一方的に辰津美の手を押したようにも見えた。
 右手が後ろに流れ、辰津美の上半身がそれにつられて右にすこしねじれた。
「おっとっと」
 バランスを崩したわけではなく、右手はすぐに歩くときの位置に戻ってきた。
 つとめて表情が変わるまでもなく、そのまますれ違う二人。だがナンは、確信を持っていた。
 ナンが住む家は二階建てで、姉妹の各部屋は二階にある。だから姉妹が階段ですれちがうことは日常茶飯事で、大会の直前とかはああやって気合いを入れていたのだ。
 その習慣を辰津美が忘れていなかったことがまず嬉しかったが、しかし同時に確信したことはナンにとって残念なものであった。
 辰津美が剣道をやめた理由の一端を、ナンは感じはじめていた。
 そして行動の意味も。
 姉さんらしいや……
 確信した内容は、納得できるものだった。
 よかった。
 姉さん、やはり剣道が嫌いになって止めたわけじゃなかったんだ。

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