第五章 白夜決戦 BELLUM

よろずなホビー
夢幻のフムスノア/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章

 水音が響く暗闇の中で、彼は目覚めた。
 ――我が求める者は、昨日も来なかった。
 だが、今日にでも、我は死ぬであろう。
 餌がなくなったわけではない。
 そんなものはいくらでもある。
 彼は感じてた。
 すべてを打ち砕く、破滅の息吹を。
 我は《あるがまま》の理に殺されるのか。
 まあ、それも一興だろう。
 だが、できれば戦って死にたいものだ。
     *        *
 太陽が地平線の下に沈み、白夜が来た。
 世界はうす暗くて淡い。なのに、明るさの元締めは晴れた空のどこにもいない。
 太鼓が鳴り、戦士たちが舟上で鬨の声をあげる。シャーマン・キアと《知る者》チニグ、そして白の部族のシャーマンの三人が、戦士たちの勝利と生還を精霊に祈る。
 そして、船団は動き出した。
 日没を合図に、いよいよ出陣だ。
 ケツァは一人、矢倉の上で河を見ている。
 風はない。水面は凪に近い。
 わんわんと唸る氷穴ツルナロタスの音が、小さく響いているだけだった。
 ケツァの横を、出陣の船団が通り過ぎてゆく。戦化粧で分かりにくいが、ある者は勇みの破顔で、ある者はつくり笑いで、ケツァに手を振った。
 ケツァは彼らに手を振り返した。笑顔で答えた。もう後戻りはできない。
「ケツァ!」
 下から、トナティの声がした。
 カトルに股がり、こちらを見上げていた。
「そろそろ、俺たちも位置につくぞ」
「わかりました!」
     *        *
 トナティを乗せて歩いていたカトルは、ケツァを待つブルクの前で止まった。トナティが動けと命令したが、カトルはブルクを見据えたままだった。
 戦闘の予兆におびえているブルクは、媚びるように首をゆっくりと揺らした。
 するとカトルはいきなり突進し、ブルクに牙を向けた。ブルクは驚いたが、カトルの攻撃を牙で受けた。
 かぁんと音が響いた。
 しばらく、ブルクとカトルは牙を合わせ、力比べをしていた。カトルの背上で、トナティは勝手にしてろと諦めていた。
 勝負は年長のカトルが押しつつあった。と、そこにケツァが駆けつけた。
「ブルク、どうしたんだ」
 とたん、ブルクは一声鳴くと、足踏みして進み出た。すると、あのカトルが一気に押し切られてしまった。勝負はブルクの逆転勝利に終わった。
 勝利のおたけびをあげるブルクをよそに、カトルは何事もなかったかのように歩みを再開した。
 それをケツァが不思議げに見送った。
 トナティは、カトルの頭頂を小突いた。
「やるな。わざと負けただろ」
 カトルは平然としてした。ただ、機嫌が良い証拠に、牙に鼻を巻いていた。
 すっかり自信を戻したブルクは、ケツァの言うことも聞かずに、元気に辺りを駆け回っていた。
     *        *
 ミクトラン族、アツァアスル・白の部族連合水軍はゆっくりと進む。陣容は方船シパクトリ、方船レン、二艘のカヤック、一二艘のカヌーと、多彩だ。カヌーのうちの三艘は帆付きだが、火矢の危険があるのでたたんである。それは二隻の方船にしても同様であった。移動は櫂のみで行なわれている。
 総大将は、《隻腕の風》ことシン。シンは三人の部下を従えて一艘のカヌーに乗り、緊張の面持ちで陣頭に近い位置にあった。
 対陣する敵、赤の部族の水軍が動きだす。
 およそ、五〇艘。
 一艘には五人前後が乗り込んでいる。
 シンは、すばやく計算した。
「けっ、赤はざっと《両手指の二五倍》人かよ。こちらは白が《両手指の六倍》、ミクトランが《八倍》だから、合わせても《一四倍》人がやっとなのにな」
 やがて敵水軍は全体を三つに分けた。三方向から同時に迫る構えだ。
「……包囲か。後方は岸だし、こちらはさしずめ、崖に追われる野牛の群れかな?」
 その言葉に、部下が嫌な顔をする。
 だがシンは構わず、
「つまり、あいつらは狩人を気取っているのさ。ならばおれたちが、獲物じゃなく戦士だってことを――」
 おおきく息を吸い、シンは吠えた。
「――たっぷりと思い知らせてやる!」
 すると、
「ほう、なにを思い知らせるだと!」
 敵陣の中央から、声が返ってきた。
 オウィだ。
 真赤だ。全身を赤く塗っている。
 オウィは、二艘のカヌーに板を渡した赤い双胴舟に乗っていた。
 シンの体が、軽く武者震いした。
「太鼓だ!」
 敵将を確認したので、シンは太鼓を叩かせはじめた。規則正しい音が響く。櫂漕ぎたちの腕に力がこもり、弓に矢をつがえる戦士たちは、心の張りを一段と高める。
「よう! 《血羽根》、来いよ!」
 シンは両拳をたたき合わせた。
 しかし、オウィはシンの挑発に乗らず、
「来いやあ、精霊の反逆者たち!」
 と叫び、槍を回して逆に誘い返してきた。
 そして敵陣でも、太鼓が鳴る。
 まもなく、決戦がはじまる。
 そんなときである。
「……来いか。ならば、お望みどおり!」
 シンが、自分より大きく重いマンモスの曲牙を抱え、いきなり跳躍した。
 四、五人を寝並べたに等しい距離を飛び、シンは味方の舟に落ちた。そのカヌーは大いに揺れ、波が周囲に立った。直後、シンはもうその舟にはいなかった。
「矢を射れ! 突入!」
 シンは、空中で叫んだ。
 直後、
 両陣から、雨あられと、矢が放たれはじめた。矢は空中で交差し、すぐに互いの敵めがけて降りかかる。戦士たちは矢を放つのを止め、あわてて革や木の盾をかかげる。
 白夜の決戦がはじまった。
 矢の中を、シンだけは何物をも恐れずに飛ぶ。もはや近くに味方はいない。すでに敵陣の中だ。シンはしかし飛び移った舟の敵が迎撃するすきも与えず、次々と跳躍してゆく。四艘、五艘、六艘――風のようだ。
 空のシンを射貫こうとする矢と投槍があまた放たれる。が、シンの軌跡を流星の尾のように追従するのみ。すべての切先はシンではなく、シンのいた空間を裂く。
 敵も味方も、すっかり仰天していた。
 そして八艘目で、シンはオウィの舟に落ちた。衝撃で渡し板がずれ、双胴舟は不安定となった。六人いる敵と、二頭のオオカミがふらつく。
「《血羽根》覚悟!」
 シンの怒声に、五人の戦士とオオカミが硬直する。
 しかしオウィはさすがに揺るがない。無言で距離を詰め、槍を突き出した。
 シンはすばやく避け、ついでに槍の柄を踏み折った。
「なんと。やるな」
 武器を失ったオウィは後方へ下がり、かわりに赤の酋長直属の親衛隊が襲いかかる。
 シンは隻腕に力を入れ、象牙を横に打った。一撃で二人を気絶させ、返す勢いで残る三人を水に叩き落とした。
 シンは、辺りを睨んだ。
 すでにオウィとオオカミたちは別の舟に移っている。
 今や、シンのいる双胴舟は渡し板が離れて傾きつつある。いずれ沈むだろう。シンは唾を吐いた。
「けっ、一発逆転のチャンスを逸したか――まあいい。まだ本来の作戦がある」
 これ以上の深追いは無理無用と判断すると、シンは水に飛び込んだ。
 その直後、シンのいた場所に数十本の火矢がささった。オウィの指揮座舟は、開戦まもなく、燃え上がって果てた。
     *        *
 河の戦いは激しさを増していった。
 男たちの声と木太鼓の音が、水路脇でブルクに乗って待機するケツァに届く。
 ケツァの体は、意志に関係なく刻み震えている。体に張り付いた汗が、振動で散る。
「武者震いか」
 トナティが、カトルの上から声をかける。
「はい……そうです」
「強がらんでいい。おれも恐い」
「恐い?」
 ケツァは、不思議そうな顔をした。
「ははは、変なことを言ったと思ったか。まあいい。たしかに、こんなことは他の戦士の前では言わぬ。なにせ俺は、戦の精霊が味方する狩長様だからな」
「ならなぜ俺に?」
「ケツァの魂は戦士ではなく冒険者だから、いっこうに差し支えないのさ。それに言うべきことも言わないほど、口が固いからな」
 ケツァの顔が、赤くなる。
「からかわないでください」
 トナティはそれを面白そうに無視して、
「つまりだ。恐さを味方にしろ、ということさ。そうすれば、無謀者とも臆病者とも、ちがう戦いができるだろう。一度はじまったら、物事は成るようにしか成らないからな」
「成るようにしか成らない……」
 トナティは、強くうなずいた。
 ケツァの震えは、いくぶん軽くなった。
     *        *
 河上の戦闘は膠着した。
 最初はいきなり乱戦によって開幕したが、大将同士の一騎討ちが終わったあたりから、両陣営は距離を取るようになった。
 主に飛び道具による、慎重なさぐり合いが続く。ときおり接近戦が行なわれるが、その場に必ず一人の戦士――シン――が踊り込み、赤の戦士たちを蹴散らしてゆく。
 いつしか連合水軍は、二隻の方船を軸にして、ジャコウウシのような外向きの防御円陣を組んでいた。
 それを囲もうとする赤の水軍。しかしシンの個人技の凄まじさにおののき、積極的に距離を詰めようとする舟は少ない。
「火矢!」
 オウィの指示で、集中的に火矢が放たれた。連合水軍の舟は、たちまち多くの小火にさらされる。だが密集しているので、互いに助け合い、すぐに消火してしまった。
「応酬せよ」
 シンの指示で、連合側も火矢を放つ。
 赤側は散開しているので、助けが来るまでに時間がかかる。集中して矢を受けた舟は、消火する間もなく、火が回る。こうして赤の部族側が、逆に混乱に陥りかけた。
「なんということか! 攻めろ攻めろ!」
 オウィは腕を回し、怒鳴り散らした。赤の部族は、数の有利を活かせないでいた。
     *        *
 決戦には、見物人がいた。
 赤の部族だ。
 赤の集落の岸辺には、多くの人々が集まり、決戦を祈るように見守っていた。彼らは、赤の部族で戦に参加していない負傷者、女子供、老人、特殊技能者たちであった。その数は、軽く五〇〇人に達していた。
 そんな彼らを横目に、一艘のカヌーが河に漕ぎ出た。
 カヌーには、漕ぎ手の若い戦士と、一人の青年が乗っていた。
 アメジストの首飾りをつけた青年が、戦を見物する群集から視線を逸らして言った。
「余裕だね、まったく呑気なものだ。みんな、最初から僕たちの勝利だと、信じて疑っていないみたいだ」
 それに漕ぎ手が楽天的な表情で、
「またですか、ニル様。いまさら私たちが負けるとは思いませんが」
「タトラ、僕はそんな意味で言ったのではない。赤の部族は、いつから戦いを見物する悪趣味な部族に成り下がったのだと、批判しているんだ」
 戦士タトラは、すこし考えた。
「オウィ様が、酋長になってからですね」
「戦闘中は家にこもり、戦士の武運を精霊に祈るのが、道理というものなのに」
「ですが私には、ニル様の父君であるオウィ様こそが、戦の精霊に見えます。オウィ様が酋長になってから、赤の部族は負けなしですから――それに、今回の戦がすめば、いよいよアツァアスル統一です」
 タトラは、興奮気味に言い終えた。しかしニルの顔を見ると、恐縮したように首をすぼめ、カヌー漕ぎに専念した。
 ニルの表情は、悲しげだった。
「アツァアスル統一か……」
 戦の太鼓が、高らかに響く。
「そんなものは空しいですよ、父上」
 カヌーは、戦場を目指して進んだ。
     *        *
 膠着状態が、すこしずつ崩れだした。
 動員兵力は、赤の部族側が倍近くも多い。
 小数の連合側は、シン個人の活躍で、ようやく五分五分の戦いをしていたのだ。しかし数の差はいかんともしがたく、しだいに赤が連合を押しはじめた。
「そろそろだな」
 シンは限界が来たと判断すると、木太鼓を短時間だけ激しく打ち鳴らさせた。
 すると、すべての連合側の舟は、これまでになく激しく、矢や槍を放ちはじめた。
「シンめ、ヤケになったか」
 オウィは、全軍に防御を指示した。
 赤の戦士は、一斉に盾をかざす。徹底して防御しているので、被害はほとんど出ない。
「いいか、飛び道具なぞすぐに切れる! そこを一挙に突くぞ!」
 しかしシンは、
「今だ、逃げろ!」
 と、意外な命令を出した。
 連合水軍は、極端に不利というわけでもないのに、なぜか逃げに転じたのだ。
 怒ったのは、オウィである。
「《隻腕の風》ともあろう男が、なんと恥知らずなことを! 氷の果てまで追え!」
 だが赤は防御に専念していたので、初動で追撃がにぶった。そのため、すべての連合側の舟が、赤から距離を取ることに成功した。
 決戦とは思えない、なりふり構わぬ追いかけっこがはじまった。
「オウィは自分の正義に固執する男。プライドは人一倍強い……」
 シンは、心の中で祈った。
 ――来い!
 やがて連合水軍は、本拠の池につづく水路へと入っていった。その後を、赤の部族水軍が追う。そしてさらに後を、オウィの息子ニルと、戦士タトラのカヌーがつづいた。
「父上……これは、罠です!」
 ニルの叫びは、伝えたい人に届かない。
     *        *
 赤の戦士たちは、水路から池に入って仰天した。
 連合水軍が、方船やカヌーを捨て、池沿いの燃え残った集落にこもったのだ。
 滅びた緑の部族の集落跡は、今や臨時の改修を受けてちょっとした砦となっている。ミクトラン族および白の部族連合は、そこから飛び道具で攻撃してくる。
 オウィは、判断に迷った。
「このままなおも攻めるべきか? だが、地上戦になるな……マンモスを使わせないために、水上の決戦を挑んだのだが――」
 そのときであった。
「うわあ、水路が……水路が!」
 後方の声で、オウィは振り返った。
 水路が、閉じられていた。
 水路脇に隠れていたマンモス・ブルクとカトルが、木を二本、倒したのだ。
「図られた!」
 オウィは、拳を舟底に叩き付けた。
 赤アツァアスル軍は、池に閉じ込められたことで動揺している。今は――
「焦るな! 数で我らが圧倒している」
 オウィの叱咤で、赤は士気を保った。
「全員、陸にあがれ! 総力戦だ!」
 もはや、これしかない。
 オウィは勢いに任せることにした。
     *        *
「ケツァ、おまえはここを守っていろ!」
 はやるように言うと、トナティはカトルとともに戦場に向かった。
 ケツァは聖域を守る石像のように動かずに、遠方の戦の声を聞いていた。
 ケツァは、ぼんやりと考えた。
 ――戦は、恐い。
 そのとき、後ろから風を切る音がした。
 投槍か!
 ケツァは振り向き、とっさに盾をかざす。
 槍が刺さった。盾の重心が狂い、盾構えを維持できない。ケツァは迷わず盾を捨てた。
 見れば、カヌーが一艘いる。封鎖した外に、まだ敵のカヌーがいたのだ。乗っているのは二人の若い男。一人は戦士で、もう一人はチニグに似た服装から、おそらく《知る者》の類か。二人とも緊張の面持ちだ。おそらく彼らから見るケツァの顔も、同じだろう。
 ケツァは、さらに考える。
 ――戦が恐いのは、あたりまえだ。
 戦士がまた槍を構えた。ケツァもすでに、槍の準備を終えている。しかし戦士が早い。
 と、ブルクが鼻をあげて威嚇した。
 戦士が驚き、動きがにぶる。
 あのブルクが、こうも変わるとは。
 ――恐いのを認め、克服したからだ。
 ケツァはすかさず、投槍を振り下ろす。投槍器アートラートルが手に残る。
 飛んだ槍は、戦士の右足に刺さった。
 戦士は転んだ。カヌーが揺れる。
 ――だからこそ、覚悟ができる。
 ケツァは、また槍を構えた。
 戦士はもう戦えない。もう一人の青年は、武器を持っていない。
「降参しろ、殺しはしない」
 ケツァに呼応して、ブルクが牙を揺する。
 さぞや恐ろしいにちがいない。青年は、青い顔で幾度もうなずく。
 ――それが、本当の強さだ。
 ケツァは、初手柄をあげた。
     *        *
 二人の捕虜の扱いに困ったケツァは、すっかり勇者気取りのブルクに場を任せて、林の中に二人を連れていった。
 そこには女子供などの非戦闘員が集まっていた。避難しているにしては、なぜか手に手に武器を持っている。
 ミティが、ケツァに気づき、寄ってきた。
「ケツァ! どうしたの?」
「すまない、チニグを」
 呼ばれたチニグは、二人を、とくに青年を見て、驚きの声をあげた。
「シャーマンのニルではないか」
 ケツァは納得した。この小綺麗な青年は、赤の部族のシャーマンなのだ。
 チニグは、ニルを睨めつける。
「だが、なぜ穢れの戦場に来たのだ?」
 ニルは、弱々しく漏らした。
「……父上を、止めるためだ。この戦は、どちらも精霊の加護を受けていない」
「父上?」
「ニルは《血羽根》の一人息子だ」
 ケツァは驚いた。
「赤の酋長の……」
「オウィの子は、なぜかほとんどが、乳飲み子のうちに死んでいる。ニルだけが、精霊に生きることを認められた。だからかは知らぬが、精霊の声が聞けるのだ」
 そのニルが、早口で言った。
「精霊たちが騒いでいる。戦を止めないと、大変なことになるぞ!」
 しかしチニグは、首を横に振った。
「無理だ……シンが言うには、動きだした戦いは、終わるまで止まらないそうだ」
     *        *
 一連の戦で、もっとも激しい戦闘が繰り広げられていた。
 双方とも、すっかり乱戦の中にある。
 その渦中にあって、トナティとカトルの活躍はめざましい。マンモスは、茶色の嵐となって戦場を駆ける。その後を、狩長の直属部隊がつづく。
 とても目立つので、よく矢が飛んでくる。トナティは、矢をすべて盾で弾き、槍を投げ返す。カトルに至っては、いくら刺さっても意に介しない。逃げる赤の戦士を牙ですくいあげ、鼻ではたく。けっして踏まないのは、紳士の現れか。
 シンは例のカトルの曲牙を振り回し、思う存分暴れている。リーチが広すぎるせいで、ときどき味方を巻き添えにするのがやっかいだ。振るうたび、大牙がうなる。シンの走りはすばやく、まさに風のようだ。
 しかし、一番激烈なのは、オウィだ。
 二頭のオオカミとの連携で、つぎつぎとミクトラン族や白の部族を倒してゆく。しかもそれは激しい動きではなく、歩きながらであるから、なおさら無気味だ。ほとんどの者に、一合も打たせない。なんという技量か。すでに全身が返り血で赤い。べたべたな赤の塊だ。古い血で茶色だった頭の羽根飾りが、またもや鮮血色に染まる。
 やがてオウィは、シンと対峙した。
 オウィが、先手を取った。
「行け、マルス、アナカ」
 銀のオオカミたちが、シンを囲む。
 そしてオウィは距離を詰め、いきなり短剣で突く。
 シンは象牙を振る。火花とともに、石の短剣が欠ける。オウィは横に避け、崩れた体勢のまま、腰ベルトの骨ナイフを投げた。
 シンは避けようとするが、オオカミのマルスが襲いかかってくる。シンは躊躇し――
 骨と骨が合う音がした。
 オウィはにやりとしたが、しかしすぐに真顔になった。
 シンは、骨ナイフを歯で受け、オオカミ・マルスを、蹴飛ばしていた。
 オスのマルスはきゃんきゃんと鳴き転げている。妻のメス・アナカが、心配そうに夫マルスに寄る。
 シンは、骨ナイフを噛み砕いた。
「《血羽根》、やるじゃないか。だが、青の部族の仇、今こそ討たせてもらうぞ」
 オウィは、槍を構える。
「《隻腕の風》よ。アツァアスル統一という正義の前では、小さな犠牲だ」
「言うか! 戦の悪霊め!」
「夢などにうつつを抜かすおろか者が!」
 風と血は、ふたたび激突した。
     *        *
 乱戦は、最初から赤が優勢であった。
 ミクトランも白も赤も誰もが、この一戦にすべてが掛かっていることを理解している。それゆえ戦闘は激しい。戦士たちを、避けようのない疲労が襲う。
 数で、ミクトラン族・白の部族連合は不利である。一人あたりの負担は大きく、したがって疲れやすい。
 連合側は、不利をカバーすべく、しだいにあちこちで数人ずつが集まって戦うようになった。それを察知したトナティは、小さな集団同士を合わせはじめた。
 赤の部族はそれを阻止できない。カリスマのオウィが、シンとの対決に集中していたからだ。シンとオウィは、すでに一〇〇合以上も打ち合っている。オウィの武器は二〇合も持たずに壊れる。そのたびに近くの部下から拝借し、得物を更新していた。その隙に攻撃しないシンは、ある意味では律儀な戦士であった。味方の視線はやや冷たかったが。
 やがてトナティの努力により、連合側は一カ所で合流した。半分は休憩している。
 乱戦の終結を悟ったオウィは、後を考えてシンとの対決をやめた。シンはなぜか、オウィを追おうとはしなかった。しかしその顔には、笑みがあった。
「これで……終わったな」
 そんなシンの独言に気づかないオウィは、やがて赤の部族を集合させた。
 しかし赤の部族が態勢を整える前に、連合側は密集して突撃を開始した。
 オウィは、驚いた。
「ばかな、早すぎる。むこうのほうが損害が大きいはずなのに!」
 しかもそのときであった。いままで静かだった林から、多くの石が飛来してきたのだ。
 やがて、林の中から女子供が出てきた。整然と横一列で、一番先頭が木の大盾を構え、二列目以降が投石紐で石を投げている。中には、男勝りに槍や矢を放つ者もいる。本当の男もいる。それは傷を負った戦士だ。
 数は、二〇〇人を超える。
「ほい、放て」
 指揮するのは、白の酋長スヌルク。
「次の列、石を入れよ」
 補佐は、スヌルクの娘チニグ。
 正確ではないが、緻密な攻撃であった。
 赤の部族は、うろたえた。
「うわあ……挟み撃ちだ!」
「しかも、両方ではこちらより多いぞ」
「助けてくれ、殺される!」
 相手が戦の素人であるということは、このさい関係ない。予想すらしなかった、新手の伏兵がいるという事実が大きかった。
 なぜならば、赤の部族はすでに疲れ、多くが傷ついているからだ。消耗しきった戦士一〇人は、元気な戦士五人にも、勝てない。
「うろたえるな! 敵は女子供だ!」
 というオウィの叱咤は、役に立たぬ。
 勢いは、完全に連合側だ。
 女たちで体力のある者が、四〇人ほどの束となって突入して来た。先頭には、出番を待っていたケツァとブルクがいる。ブルクは鼻を丸め、牙を突き出し、女たちの盾となる。矛でもあった。しかも特大だ。
 ブルクに、矢が飛んでくる。しかし散発的で無意味だ。多少の矢など、剛毛が弾く。
 女たちは、盾を構え、頭を低くして矢を受け流す。
 背後からの援護射撃も、すさまじい。カマク爺も伏兵組にいる。カマクは槍を投げるが、かなり下手糞だ。
 そして突入組には、ミティがいる。超抜カリブー・黒いキキンナクにまたがり、ケツァのブルクの後ろに、ぴったりとくっつく。
 女と男たちとの挟撃は、最高のタイミングで決まった。
 次の瞬間、赤の部族は、崩れた。
 総崩れだ。
 戦う力はない。
 いや、戦う意志はあるが、本能と空回りする。生存本能がわずかに勝り、逃げる。
 こうなったら、もはや戦士ではない。
 そこに、連合側がようしゃのない追撃をかける。赤はつぎつぎと槍や斧に倒れる。
 突入していった女たちの、半分は未亡人だ。殺された夫の無念を怒りとし、復讐の悪霊と化して赤の戦士を追う。一方的だ。
 赤の戦士たちは、四方八方に逃げ散る。
 中には、女たちの壁に向かう無謀者もいる。白の酋長スヌルクが号令するたび、飛び得物の群れが飛んでくる。前座で飛来した重付連投細綱ボーラに足を取られ、転んだところに本番の石や槍が降る。一人、また一人と倒れ、痛みにのたうつ。石や力ない者の槍では簡単に死ねないので、悲惨だ。
 ケツァは、この狂乱から抜け出た。「その気」が起こらない。赤に対する怒りや暴力衝動は、不思議と沸いてこない。
「やはりおれは、戦士じゃないな」
 ケツァは戦場を離れ、監視に回った。
「おれは、じゅうぶん働いた」
 暴れたがるブルクを、叱り抑えた。
     *        *
 そのころミティは、ケツァからすこし離れたところでキキンナクから降り、苦しそうにしていた。黒のキキンナクが、心配げに耳を揺らす。
「……ううっ」
 ミティはずっと悪寒を感じていた。戦場に身を置いている以上、どうしようもないことであった。ミティは、危険感知能力に伴う不快感を、必死に我慢していた。
 ――!
 いきなりミティは、妙な方角から、別の種類の強い危険を感じた――その予感は戦の危険をはるかに凌駕し、飲み込んでしまった。
 かつて感じた、ある感覚に似ていた。
 あれは――あれは、そう。
 六年前の……
 ミティは、いきなり記憶の世界に入った。
 あの夏、ミティは両親とともに、野生のカリブーを捕えるべく、イナアから二カ月ほど南でキャンプを張っていた。少しでも母ナミの故郷に近い位置で過ごそうという、冒険者・父ヴェイのはからいであった。
 まもなく粋のいいカリブーが出揃い、ようようとイナアに帰れるはずであった。
 ただ、近くに常の火の山があって、活動中であった。火口付近には溶岩ドームができていたが、ここ一〇日は安定していた。
 そこに油断があった――その日、ナミは一人で山の裾野の森に、山菜を採りに出かけた。ナミは獣の位置を知ることができたから、野獣の危険とは無縁であった。昨夜雨が降ったことで、森の草たちが元気になっているのよ、と言っていた。
 昼頃、ミティは強い圧迫を感じた。土の底から押上げ、しかし地の表面を覆う異な予感であった。
 火の山が怒る!
 幼いミティは叫んだ。
 ミティの能力は、二歳で萌芽して以来、たびたびイナアの人々を救っていた。
 ミティの能力はシャーマンの母と異なるもので、しかも限定されたものであった。だが、確実に当たるという《絶対性》があった。それは気分や体調によって力が上下する、ナミにはない要素であった。
 カリブーを調教していたヴェイは驚いて、ミティの制止を無視して妻を助けに行った。
 だが間もなく、地響きとともに――
 雨を吸って重くなっていた火山砕屑物が斜面崩壊を起こし……やがて下側にあった高熱の溶岩が誘導され、高温ガスと灰が混じった火砕流へと発展した。
 白煙の雲が立ち、森が燃え……
 ふと、痛みに近い感覚が、心を縛った。
 ミティは元の世界に帰ってきた。
 体を押さえた。考えた。
 そう、今は戦闘中であった。
 だが、火砕流の時に似た、しかしわずかに違う危険が、じわじわと寄っている。
「戦すら呑む災厄が来る……早く終わってよ、こんなわけのわからない戦は!」
 ミティの視界が、にじむ。ミティは目をこすり、涙を拭った。それで視力が回復したが、そこには見慣れぬ物があった。
 いや、人?
 真赤だから、すぐには分からなかった。
 ミティはいやな臭いに気持ち悪くなった。
 ――これは、血!
 そして気づいた。
 血の色の羽根冠だ。
「《血羽根》……もしかしてオウィさん?」
 思わず丁寧語で聞いてしまった。
 その男は、うなずいた。
 ミティは、泣くように短剣を振るった。
 だが、一発ではたき落とされる。
 キキンナクが怒ってオウィに向かってきたが、オオカミのマルスとアナカに追い払われた。キキンナクは駆け去った。
「おまえは……人質だ」
 オウィは、ミティの手を乱暴に引いた。
     *        *
 ケツァのところに、キキンナクが来た。
「やあ、ミティはどうしたんだい?」
 ケツァは気軽に声をかけたが、しかしキキンナクの様子がおかしいのに気づき、あわててブルクを急かした。ブルクは、元気に動きだした。
「ミティに、なにが起こったんだ!」
 ケツァは先導するキキンナクを追った。
 やがてケツァは、水路を封鎖した場所についた。そこにはニルと戦士タトラが乗ってきたカヌーがあったのだが、それがなくなっている。
 ケツァは、ブルクを水路の出口、すなわち河まで走らせた。
 やがて河に出て、ケツァは驚いた。
 河にあのカヌーが浮いており、そしてミティが、いたのだ。
 ただし、《血羽根》付きで!
 キキンナクが一声鳴くと、ミティとオウィは、ケツァに気づいた。
 ミティは、悲しそうに手を伸ばした。
「ケツァ――!」
 ケツァも大声で、
「ミティ――!」
 ミティはとっさに、水に飛び込もうとした。しかしオウィに髪を引っ張られる。
 かわいそうなミティは、痛みに顔をゆがめた。そして引き倒された。
「小娘、今度逃げようとしたら、殺すぞ」
 オオカミ・マルスとアナカが、ミティを監視する。オウィは、漕ぐのに専念した。
 カヌーは、そのまま赤の集落を目指す。
 ケツァは悔しげに拳に力を入れた。
 そのとき、ケツァの後ろで音がした。
 見ると、方船レンが、水路を封鎖していた倒木に体当たりして、排除したのだ。
 方船レンは、猛スピードで水路を漕ぎ進む。方船の屋根上には、白の部族とミクトラン族の戦士たち。血気盛んに息巻いている。
 ケツァの顔が明るくなった。
「乗せてくれ!」
 しかし方船レンは、ケツァを相手にせず河に出た。ケツァの笑顔が凍りつく。
 方船が目指しているのは、対岸の、赤の集落だ。
 その進路上には、オウィがいる。
 オウィは、ミティを示した。
「この人質を死なせたくなかったら――」
 しかし、方船の戦士たちは、無視して矢を射る。暴走している。どうやら方船レンには、理性のあるトナティやチニグといった指導者層は、乗っていないようだ。
 オウィはあわてて方船を避ける。
 方船レンは、カヌーには目もくれぬ。
 カヌーは方船の波に遊ばれた。
 そのころ、水路の奥から、数艘のカヌーが出てきた。
 中にはチニグやトナティ、シンが乗っているものもある。
 それを見たオウィは、進路を変えた。
 新しい行き先は――氷穴ツルナロタスだ。
 ケツァはブルクから降りると、同乗を求め、カヌーのひとつに乗せてもらった。
 カヌー群は、半分が方船レンを、半分がオウィを追っている。
 ケツァの乗ったカヌーは、運良くオウィを追うほうだ。オウィ組には、シン、チニグ、そしてなぜかシャーマンのニルもいる。トナティは、方船レンのほうに向かったようだ。
 オウィはカヌーを操るのが下手なようだ。みるみる追いついていく。
 しかし、追いつきかけたところで、オウィがミティに短剣をつきつけた。
「この者を死なせたくなくば、動くな!」
 それにチニグが応対した。
「オウィ、無駄だ。戦はもう終わった」
「……終わっておらぬ。おれが生きているかぎり、アツァアスル統一の正義は生きつづける。つまり、精霊は味方するのだ! ならばおれは死なぬし、おれは勝つ!」
 そのまま、ゆっくりと穴に漕ぎ進む。
 チニグは、何も言い返せない。
「ちっ、まともじゃあなくなっている」
 シンがくやしそうに吐く。
 ケツァの体が、震える。
 ――ミティ!
 守るって、決めたのに。
 なんということだ。
「ミティ、待ってろ!」
 我慢できず、ケツァは叫んだ。
 それにミティは、
「ケツァも、みんなも、逃げて! 災いが来る! 戦よりも大きな破壊が、破滅が! これは洪水、火の山の大洪水だよ!」
 と、大声で警告を発した。
     *        *
 氷穴ツルナロタスの中は、暗い。無気味な音が響き、湿った風が吹いている。
 その中に、一艘のカヌーが漕ぎ入っていた。カヌーには、ケツァ、シン、そしてニルが乗っている。シンとケツァが漕ぎ、ニルは松明を持っている。
 ケツァは、氷穴の天井を見上げた。太陽の光がわずかに通り、まるで青い洞窟に迷いこんだみたいだ。ところどころは崩れて穴が開いており、空が見える。
 入口は、すでに遠い。単なる、光の点だ。
 ケツァは、不思議な感じがした。
 この美しい氷洞に入ったオウィとミティを、誰も追おうとはしなかった。しかしケツァは懸命に皆に働きかけた。だが、
「精霊を、怒らせたくない……」
 と、開明的なチニグですら嫌がる。
 しかし――
「アツァアスルは、おしまいだ」
 と、シャーマン・ニルが宣言した。
「あの少女は、ひとつの分野で僕より強い力を持っている。彼女の言ったとおり、たぶん洪水だろう。かつてアツァアスルを作った洪水大禍が――この地は洪水によって生まれ、洪水によって滅びる定めだ」
 真顔で、恐いことを言い切る。それに、チニグはやや閉口気味に言葉を濁す。なぜかチニグは、同じシャーマンであるニルが苦手なようだ。負い目でもあるのだろうか。
 いきなり、シンが手を挙げた。
「いまさらタブーなど関係ないというなら、話が早い。ケツァと共に俺が行こう」
「僕も行く。父上を説得したい」
 ニルも志願した。
 こうして、三人で穴に入ったのだ。
 ただ、見送る一行の中で、チニグはシンの行動に、裏切られたような顔をしていた。
 ――こんなに青くて美しいのに。
 アツァアスルのすべての恵みは、ツルナロタスがもたらす……だがこの奥に、なぜ誰も行かないのだろう。
「……恐いからさ」
 シンが、ぽつりと漏らした。
「えっ?」
 ケツァは、いつの間にか疑問を口に出していたことに気づき、気恥ずかしくなった。
 シンは続けた。
「みんな恐いのさ。精霊の怒りをもらって、理想郷を失うのが。追われるのが――」
 そして遠い目をした。
「そうだ、いい機会だ。話してやろう。新天地からの旅人との戦いを……」
 ――二年前、理想郷を恐怖に陥れた銀毛で片牙のサーベルタイガー。シャーマンの与えた名はレンディックストカックス。呪いの長名だが、名は獣を縛らなかった。通称はレン。これは後に、方船の名となった。
 当時、アツァアスルには赤・白の他に、黒の部族が残っていた。強大な赤と黒が対立し、弱小の白は二強の間を口と調子のよさで渡り歩いていた。しかしアツァアスル始まって以来の伝承的大事件に、三部族は一時休戦して、レン退治に乗りだした。
 しかし禁断の氷洞を拠点とするので、うまい作戦が取れない。
 それで当時一六歳で、無邪気な正義感と使命感にあふれていたチニグが立ち上がった。
 こうなったら、ツルナロタスに直接、乗り込むしかない――
「こうして、チニグの提案で、俺とチニグ、それに二人の仲間が、年寄りどもに内緒で、勝手に氷穴に潜り込んだのさ。当時のチニグの性格はまあ、一言では恐いもの知らず、だ。禁止されている決まりを破りたくなる、罰当たりなお転婆だった。俺もだったが」
 ――牙の王は、やはり強かった。仲間のエミッシとオクラムはチニグを庇い、主にシンが戦った。やがてシンはレンと取っ組み合いになった。レンはシンの槍を落とそうと、シンの右腕に噛みついた。しかしシンは猛烈な痛みに耐えながら、槍を右手から左手に移し、そのままレンの目を両方ともなで切ったのだ。結果として、レンは光を、シンは利き腕を、永遠に失った。
 その戦闘後、ゆっくりと去るレンの背中に、チニグたちは虹の絵を見た。
 見覚えのある、絵柄……そう、新天地から飛来する鳥の脚に結わえられていた、革紐の絵の絵柄とまったく同じだ。
 こうしてレンが憧れの新天地の獣であることを知ったのは、戦いが終わった直後であり、すべては手遅れであった。名だけはせめてもと、後に魔除けを込めて方船に与えた。
 とにかくチニグは、レンのことを、あくまで悪霊だといい張った。そうしないと、生身の獣を倒すために禁を犯したことになり、全員の命が危なかったからだ。下手をすれば、赤や黒が、白を攻める口実にもなる。
 チニグの判断は正しかった。至高の精霊の住まう場所を荒らしていた悪霊を倒すため、やむなく禁を犯した、という判断で落ち着き、チニグたちは無罪放免となったのだ――
「もともとチニグは頭がいいので、たしなみていどだが語部の修業をしていた。そこに悪霊を見抜く力となると、特別な別名が必要になってな……それで、《知る者》だ。今じゃ、本物より影響力が強くなっちまった」
「だからこそ、本物が苦手なんですね」
「ほう、よく気がついたな」
 一方、ニルは険しい顔をしていた。
「魔除けに悪霊の名を与えた船レン……確かに、強い悪霊は悪霊を挫く……だが、悪霊は悪霊を呼ぶともいうが――」
 そして三人は、そのまま黙った。
 舟は、風音を遡りつづけた。
     *        *
 オウィは、暗闇の中をひたすら漕いでいた。もはや周囲は、完全に闇だ。
 松明はない。自分と、オオカミ、ミティの息遣いが、存在を証明する全てだ。
 時々ふり返れば、ちらつく炎が見える。オウィは死に物狂いでカヌーを漕いだ。
 ふいに、ミティが言った。
「洪水が、迫っているよ」
「またか。何を根拠にほざいているのだ」
「ないけど……私には危険が感じられるの」
「ならなぜ俺に捕まった」
「洪水大禍が強すぎるんだよ! 他の危険が、ぜんぶ消し飛ぶほどに」
「黙れ! 嘘つきが」
 オウィの威圧に、ミティは黙り込む。
 そのとき、オウィは進行方向に、かすかな光を感じた。
「おお! 光!」
 どうやら曲り角があるようだ。光の空間は、その先。
「ほほう!」
 オウィは、さらに櫂持つ腕に力を込めた。
 やがて、光は目立つようになり――
 オウィとミティのカヌーは、天井が大きく崩れた、光降りる空間に出た。水は澄み、深い。氷と水の、大テントだ。氷の洞窟は、空間の奥にも延々と続いている。
 二人の視線は、しかし洞窟の奥ではなく、光の広間に向けられていた。なぜならば、空間の中心に、氷の島があったからだ。
 氷の島には、巨大な茶色の塊が、半分埋まっている。
 オウィが、つぶやいた。
「マンモスか……」
 それは、氷漬けのマンモスであった。
 だが、ミティが震える声で、
「食べられてる……」
 露出した部分が、かなり喰われていた。血肉が黄色く乾きこびりついたあばら骨が、厳しくそびえる棍棒状の柵となっている。
 そしてオウィの目がうごめく影を捕えた。
「なんだ……あれは……」
 影は、こちらに気づいている。
「獣――もしや、レン……か」
 オウィの顔が蒼白となった。
「レンディックス……トカックス」
 短い尾、頑丈な手足、そしてなにより、短剣並に太い、強力そうな一本牙だ。
 剣歯虎・サーベルタイガーであった。
 牙の王レンは吠え、
 そして飛び上がった。
 かるがると、カヌーに着地した。
 カヌーはまったく揺れない。小さな波紋が立っただけだ。なんというバランスだ。
 オウィは、状況を忘れて感心した。
     *        *
 光を失った闇の中にありながら、彼ははっきりと二人の臭いを識別していた。
 片方は、《敵》の波動であった。
 だが、もう一人――少女には、懐かしい匂いが混ざっていた。獣が持つ、とびきりの能力――ふつうの人には絶対に持てない、ある種の磨ぎ澄ました感覚の臭いだ。
 ――ほう。
 彼は、少女に興味を持った。
 だが、もう一人は邪魔だ。目が光を感じていたころ、一度ならず嗅いだことがある。思い出したぞ、赤い妙な格好をした群れのリーダーだ。まだリーダーなのだろうか。
 他には、知らぬ種類のオオカミらしき獣が二頭いるようだ。《敵》と同じ波動だ。
「チクショウ、生キテイタトハ……」
 声がした。人語は分からぬ。
「ヨシ行ケ。まるす、あなか」
「ダメ、危険ヲ感ジル! 死ヌヨ」
「ホザケ小娘。サア行ケ、我ガ牙タチヨ!」
 獣どもが襲いかかってきた。
 ――愚かな、獣の不文律を忘れたか。己より強い波動の獣には、爪牙を出さぬという掟を。鈍感な《人》と共にいて、墜ちたな。その報い、死をもって受けよ!
     *        *
 うす明るい空間に出たとたん、ケツァ達は予期せぬ戦闘と遭遇した。
 そこにはマンモスを閉じ込めた氷の小島があり、カヌーが打ち上げられていた。島にオオカミが一匹転がり、近くの水面にもう一匹が浮かんでいる。いずれも死んでいた。
 そしてオウィが、すでに全身を傷だらけにして、銀色の獣と対決していた。
 それをすこし離れたところで、ミティが見守っている。
 巨大な銀色の獣が、新たな臭気に吠える。
 とたん、シンの目が輝いた。
「レン! レンディックストカックス!」
 シンは、氷の島に、カヌーを寄せた。
 そして上陸すると、カトルの曲牙を持ってオウィとレンの間に割り込んだ。
「こいつは、俺の獲物だ」
「……好きで戦っていたわけじゃない。貴様みたいな狂戦士といっしょにするな」
「《血羽根》が言えた義理か」
 オウィはそれを無視して下がった。
 シンは、レンをまじまじと見た。
「それにしてもレンよ……二年ぶりだな。チニグが何もせぬので機会がなかったが、おれはずっと再戦を望んでいたのだ――まさか、本当に生きていたとはな!」
 シンとレンは対峙した。ニルの松明にほの赤く照らされ、一人と一匹は血の色に染まる。そして、水面に雫が落ちた音を合図に――
 因縁の激しい戦闘がはじまった。
 爪と象牙がぶつかり、野性の火花が散る。
「なんと、二年のうちに心の目を得たか」
 シンの額に、汗がにじんだ。
 一方、ケツァはミティと抱き合った。
「ケツァ、助けにきてくれたんだね……」
「もう、離さないよ」
 安心して、見つめ合う。
 ――だが、
「危ない!」
 ミティが、いきなりケツァを押し倒した。
 その直後、ケツァの頭があった空間を、鋭い軌跡が走る。
 ケツァはあわてて転がり、距離を取って起き上がった。背負っていた槍が折れた。
 襲撃者は、オウィだった。
「よう、死ねや」
 オウィは無表情で、歩いてリーチを詰める。右手に握るは、片刃石斧だ。
 ケツァは、イッカククジラの短剣を取り出す。縫針の巨大なやつだ。いささか物足りないが、手持ちで一番強力なのはこれだ。
 そんなケツァの前に、ニルが庇い出た。
「父上、もう戦は終わりました!」
「なにを言うニル。決戦は終わっておらぬ。おれが認めないかぎりは!」
 だが、ニルは必死だ。
「もう止めてください……精霊の罰が下ります。もう、アツァアスルは終わりなのです」
「貴様まで言うか!」
 とたん、オウィの表情が一変した。
 松明を持っていたニルは、父の急変に心から驚いた。オウィの顔に、多くの皺が生まれ、目に血筋が入った。深い皺群はオウィを醜い悪霊へと変貌させた。見たくない顔だった。
「おれは今、最後の望みを砕かれた!」
 オウィは、天を仰ぎ見た。
「おれは若いころ、ミクトランの地に新しい生活を求めた。しかしミクトラン族は問答無用に攻撃し、全ての友が死んだ。おれは結婚して、多くの子を望んだ。しかし精霊はニル以外をみんな奪った。おれは酋長となり、アツァアスル統一を考えた! しかし最後の最後でつまずいた! おれはニル、おまえを俺の跡取りに育てたかった! しかしおまえは、父を理解せぬ!」
 ケツァは思い知った。
 オウィは、夢を知らないんじゃない。夢に幾度も裏切られた末に、とうとう多くの者が理解できない夢を選んだのだ。
 こういう苛烈な夢追人の姿もあったのだ。
「父上……そんなの、無理ですよ。だって、父上が今なさることは……破壊ですもの」
 ニルは、頭を垂れた。拒絶だ。
「おれは! おれは!」
 オウィは、完全に切れた。
 振りかぶり、のしのしと歩いてくる。
「死ね」
 ニルは目を閉じた。
 と、そこにケツァが走り込んできた。
 ケツァはイッカクの短剣で、オウィの攻撃を受けようとした。
 だが、歴戦の勇者オウィの攻撃は重い。斧はイッカクの短剣をへし折り、ケツァの胸を突いた。まともに当たった。ケツァは派手に吹き飛んだ。
「ケツァ!」
 恐怖で動けないミティが、叫んだ。
 オウィは無言で、あとずさるニルに迫る。
「避けるなよ」
 無茶なことを言って、斧を構える。
 そのとき、
「こっちを向け!」
 誰かの声がした。オウィは思わず、その方向を向いて――ケツァの蹴りが、オウィの鼻に決まった。
 オウィは血を散らせてよろめいた。鼻の骨が折れたオウィは、きつい痛みに鼻を押さえて暴れた。
「あなたの生き方は――」
 ケツァは途中で言葉を飲込み、無言でオウィの斧を奪った。
「なぜ……平気なの?」
 ミティが、おそるおそるケツァに聞いた。
 ケツァは、胸元から象牙の首飾りを取り出して見せた。首飾りの中心は、一撃を受けて陥没していた。
「父さんが、俺の命を救ってくれた……」
「ケツァは、私を、救ってくれた」
「なんだい?」
「いやっ、何でもないよ」
 ミティは、うれしそうに水を蹴った。

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