第三章 銀色旅路 GLACIES

よろずなホビー
夢幻のフムスノア/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章

 方船シパクトリは、慣れぬ様子で四枚の櫂を漕いでいた。
 小島に、ゆっくりと近づいている。
「おーい!」
「だれが生き残っているんだ――」
 屋根の上では、ミティやトナティをはじめとして、多くの人々が陣取っている。窓という窓、隙間という隙間からは、希望にすがるたくさんの顔が覗いていた。
 だが、小島のほうでは、さきほどまで余裕で手を振っていたのが、一転してなにやら騒々しくなっていた。
「どうしたのだ」
 トナティはわけが分からないので焦った。
 小島の生存者は、全員が島の裏側に隠れてしまった。
「はやく島につかんか」
 トナティは、動きいまいち緩慢な方船に苛つきを覚えた。
 方船はやがて、音をたて、揺れた。
 船底が岩に当たったのだ。
 トナティはすかさず、方船の一角、屋根の窪みまで走り、剥き出しに置いてある綱つきの岩の上に乗った。
「もう近づけぬ。錨を投げるから手伝え」
 トナティは男三人とともに岩を持ち上げた。せいやという気合いで、流れと逆の方向に投げた。巨人が息を飲んだような音とともに、派手な水しぶきが立った。
 男たちは綱を牽き、余りを錨置場の太い立杭に巻いた。櫂は所在なげに揺れた。
「よしっ、残った三つも放りなげろ!」
     *        *
 方船が安定した。
 内開きの大扉が開かれ、船内に置いてあった革張舟カヤックが水面に下ろされる。
 カヤックにはトナティと数名の戦士が乗った。カヤックはすいすいと進み、すぐに島に乗りあげた。そして島の裏側を目指す途中で、戦士たちは見知らぬ者の死体を発見した。
 トナティは眉をひそめた。
「アツァアスル族……」
 戦士の一人が、死体を調べた。
「狩長、これは、アツァアスル式の死者への作法にまちがいありません」
「生者のアツァアスル族もいるのか」
 すると別の戦士が、不安げに言った。
「まさか、生者はアツァアスル族のみではないでしょうか。だから隠れたのかも」
「殺されると思った、か。まあ、我々との過去の関係を考えれば、しかたあるまい」
「遭難者とはいえ、この地の精霊の許しを得ておらぬ侵入者です。殺しますか」
「ばか言え。殺す殺さないを決めるのは、シャーマンの仕事だろ、とりあえず助けるぞ。だいいち、生存者がアツァアスル族だけだと、まだ決まったわけではない……」
 最後は、自分に言い聞かせていた。
     *        *
 チニグは、小島の岸辺で、トラルの遺体を洗っていた。トラルは泥塗れだ。チニグは器用に手で水をすくい、ていねいにトラルの髪をすいている。
 キアはすっかり消沈し、娘の遺体を呆然と見つめている。
「墓を作ってやろう」
 カマクは穴を掘りはじめた。それをブルクが牙で手伝っている。
「トラル」
 ケツァは、ゆっくりとトラルに歩みよった。トラルは、一見すると寝ているようだ。
 泥が流され、きれいになった顔に手をそえる。冷たい。トラルは、あたたかくない。
「死んだ……」
 しんでしまった。
 死は、日常にあふれている。
 人は、いつ病で、戦争で、事故で、飢えで死ぬかわからない。生まれた子の半分しか大人になれないし、みんな四〇歳前後で亡くなる。わずかに四、五〇人に一人が五〇歳まで生き、長老として敬われる。
 ケツァは思う。
 一生は短い。
 だからこそ、悲しいという心は、死者に対する冒涜だ。死んだ魂は、命の輪に還るか、精霊となって一族を守るのだ……
 ケツァは、トラルのやすらかな顔に安堵していた。死が訪れた瞬間、トラルはあの恐怖と哀願が混ざった、ゆがんだ顔ではなく、この静かな顔でいたのだ。おそらく、水の中で意識をゆっくりと失ったのだろう。
「あまり苦しまずにすんで、よかった」
 ぽつりと、言葉が漏れた。
「……そうだな」
 キアが、乾いた声で答えた。
 と、そこに、
「キア様! ケツァ!」
 トナティであった。
 ケツァたちのところに来たトナティは、チニグを確認して警戒の面となった。
「……これは、昨夜の女ではないか」
 トナティは、黙って合図をした。
 戦士たちが槍先を揃えて、チニグを囲む。
 槍を持つ戦士たちの腕が震える。チニグは、刺してしまうにはあまりにも美しい。
 だが、チニグはいっこうに構わず、トラルを洗いつづけている。
「……アツァアスルの女、この洪水では、おたがい運がよかったな」
「うむ。たしか、トナティ狩長だったな」
「あのときケツァが叫んだのを覚えていたのか。今の俺は族長代行だ……ところで女よ、トラルの魂をなぐさめてくれているのか」
「…………」
「答えろ」
「私にはチニグという名がある」
 トナティは面倒くさそうに、
「……答えろ、チニグ。なにゆえ、アツァアスル族のおまえが、ミクトラン族のトラルをなぐさめる」
 すると、チニグはトナティを見上げ、
「当然だろ。死者は平等だ」
 と、無愛想に言った。
 トナティは、しばらく黙っていた。
 戦士たちは、槍を下げない。
 ケツァとカマクは、固い面持ちで見守っている。二人とも、いざというときはチニグをかばう構えだ。
 そして、トナティが口を開いた。
「キア様」
「……なんじゃい」
「キア様、チニグは、ミクトランの精霊に認められていますか?」
 シャーマンであるキアは、チニグを横目で見やった。そして嘆息し、
「……オオワタリガラスから見放されたのは、むしろ私らミクトラン族のほうだ。彼女は生き残った。それだけでも、精霊がチニグ殿の味方であることは、明白だろう」
 戦士たちは槍を下げた。
     *        *
 小島に、トラルと親しかった者がつぎつぎと渡ってきた。カヤックは二艘しかなく、全員が渡るまでにかなりの時間を要した。
「ケツァ! カマク叔父さん!」
 上陸組にまぎれこんだミティは、ケツァとカマクとで抱き合った。
 ミティは、ケツァの体温を感じた。
「ケツァ、暖かいね」
「ああ……ミティも、暖かい」
「――ミティ、よく生き残った」
 三人は、ひとつのぬくもりを共有した。
 抱擁が終わると、ミティは、今度はキキンナクを抱いた。
「君も、がんばったね」
 キキンナクは、ミティの鼻を嘗めた。
 そして、ミティはいない人物に気づいた。
「アシは? 叔父さんといっしょに……」
 カマクの弟子アシも水に飲まれたが、精霊の丘にはあがっていない。
 師匠は、しずかに目を閉じた。
「おそらく……死んだ」
 つぎの瞬間、ミティは、派手に声をあげて泣いた。まわりの者がびくりと驚いた。
「許してくれ……アシが精霊になった。イナアでは、死者を泣いて送るのだよ」
 そしてカマクは、ミティの頭をなでた。
「泣け。できるうちに、自然のままに」
     *        *
 カマクとブルクが掘っていた穴が、力自慢たちによって拡張された。
 手当のかいなく船内で亡くなった者を加え、洪水の犠牲者はきれいに穴の底に並んだ。頭は日が沈む南西に向けられた。
 トナティが、キアに話しかけた。
「水の精霊は残酷です。弔うことが許されるのが、わずかにこれだけとは……」
「溺れた者の多くはシャチの餌だからな」
「キア様! どうかされたんですか」
「すまん、私の心は濁ってしまった」
「でも、精霊に仕える者はあなただけです」
「……わかった。では、はじめるか」
 シャーマン・キアは、杖を振った。
「死者の魂よ、死は、輪への回帰である。汝ら、精霊の輪にすべてを委ねよ――」
 丘で、方船で、皆が祈る。
 精霊が導いてくれますように。
 魂が悪霊となりませんように。
 無事に新たな命になれますように。
 許されるなら守護精霊となりますように。
 祈りの言葉がえんえんと続く中、二〇人ほどの男が穴を埋める。アツァアスル族とミクトラン族が、ひとつの共同墓に眠ることになる。まさに、死者は平等であった。
 せっかくきれいになったトラルの顔が、ふたたび土で汚れる。それをケツァは、不思議な気持ちで見つめていた。
 そのケツァの肩に、手をかけた者がいた。
 ケツァはふり向いた。ロックだった。
 ロックの目は、赤かった。
「いいか、トラルはおまえが好きだったんだぞ。なのにケツァ、おまえはトラルを助けられなかった……おれは、おれはトラルが好きだった。だから、おまえを一生ゆるさない」
 ロックは興奮気味にたたみかけると、ケツァから離れた。
 ケツァは、ずっと黙っていた。
 ――覚悟くらい、できていたさ。
 拳を強く握る。爪が皮膚を破り、血が垂れる。だが、こんなものは痛くない。
 ひとりの死が、三人を永遠に分かつ。
「……わかっていたはずだ」
 だが、友情の終わりが、体の痛みよりもつらいものだったなんて――
     *        *
 葬儀の後、チニグがトナティに言った。
「トナティ族長代行。すまんが、私をアツァアスルまで運んでくれないか」
 トナティは一瞬困惑したが、
「チニグ、残念だが無理だ。俺たちは日の沈む方角に向かう」
「最果ての森、霧の森か」
「イナア族以外に、どこが俺たちを受け入れてくれる?」
「アツァアスルには行かないのか」
「ミクトランは沈み、すべてがなくなった。薬も肉もいずれ不足する」
「イナアは時間がかかりすぎる。アツァアスルは、あの大船なら一〇日もあれば着く」
「……もしや、アツァアスル族が、我らを助けるとでもいうのか」
 これにチニグはゆっくりとうなずいた。
「なんの酔狂だ、にわかには信じかねる」
「私には反対する声を封じる発言力がある」
「その言葉を信じる根拠は?」
「ない。しいて言えば、招かれざる立場にいながら、洪水を生きのびた事実だ」
 トナティは迷った。
「……おまえは精霊に認められ、そして正しい行ないをした。その者の好意に乗るのは、甘えであっても恥にはなるまい。だが、受け取るのは気持ちだけにしておこう」
「なぜだ」
「アツァアスル族にとってミクトラン族との交流がタブーであるように、その逆もまたタブーなのだ。精霊の罰は恐ろしい。みんな反対するだろう」
「そうか。ならば、私が試しに皆を説得するのはどうだ」
「そういうことなら勝手にやればいい」
「構わないのか」
「戦士に二度も言わせるな。いいか、失敗したときは、当初通りイナアに行くからな」
「ありがとう」
 いままで無表情だったチニグが、無邪気に微笑んだ。トナティは一瞬言葉が出なくなった。チニグは、冷たい美貌の下に、暖かさを隠していた。その差におどろいたのだ。
 チニグは、すぐに元にもどった。
「とにかくこれで、私も気がすむ」
「気がすむ?」
「いや、なんでもない」
「まあいい……ところで、説得とやらに、誰か協力者は欲しいか?」
「トナティ、おまえ」
「な、なんだ」
「いい奴だな」
 チニグは、また笑った。
 トナティは、柄にもなく赤くなった。
     *        *
 位置を変え、島に極限まで近寄った方船の大扉から、幅広で長大な一枚板が伸びた。
 それで、島との間に橋が掛かった。
 皆はシパクトリに戻りはじめた。
 ミティが口をあんぐりと開けた。
「これって、下層の内壁の一部……まさか、こんなふうに外れるなんて」
 そこに、ケツァがブルクを伴ってきた。
「マンモスのためだよ」
 ブルクは恐る恐る板に脚をかけたが、ぶ厚く弾力ある板は軽くしなっただけだった。ブルクは安心して、大板に乗った。
 ミティはブルクの横を歩いた。
「この板でわかったよ。新天地には、ブルクを連れていくつもりだったんだ」
「力作業用にね。だから俺はマンモス使いになった。確実に行けるから」
「それほど冒険に……」
「だけど、こうなってしまっては……」
 ミティはすこし綻んだ顔で、
「行かないんだよね」
 しかしケツァは微妙な言葉に気づかずに、
「……ああ、行けないんだよ――」
 ミティは、とたんに眉を寄せた。
     *        *
 方船シパクトリにチニグが入ると、全員が奇異の視線を寄越した。だが、チニグはまるで気にならないようであった。
 チニグは、上層の床板が、五分の一ほど消えているのに気づいた。
「床板を櫂にしたのか」
 そしてうす暗い船内を見歩いた。
 怪我人、泣く者、疲れ寝る者、赤子、子供――雰囲気は、かなり重い。
 チニグは下層の内壁を叩いてみた。
「頑丈だな、本来は何百人乗れるのだろう」
 そして勝手に自分の居場所を確保した。
「シパクトリ……たしか、慈愛と大地・母の精だったな。なんとも似合う名をつける」
 疲れたように、横になった。
「やはり、新天地冒険のためだけの……船ではない。最初から、一族全員を……乗せることを考えて……作った船……だ…………」
 独言がつきたころ、眠りについた。
     *        *
 キアは、族長アトルと面会した。
 アトルは、折れた足を固定して寝ている。
 キアは、心持ち緊張していた。
「アトル様……」
「よう、反対者。見たか、精霊は方船シパクトリに味方したぞ」
「皮肉を言わないでください。私はじゅうぶん反省していますから」
 そしてアトルの足を診る。
「腫れてますね。すこし悪い霊が入ったかもしれません。薬を塗りましょう」
「医の術を心得たおまえがおらんかったから、腫れるのを許したのだ……」
 気まずいキアは、話題を変えた。
「……それで、何人生き残りましたか」
「あん? 丘で拾ったケツァとおまえを含めて、現在のミクトラン族は《両手指の二五倍に指四本》人だ」
 キアの顔が白くなった。
「半分も死んだんですか」
「なあに、また生めばいいことさ。俺がガキのじぶんにも、飢餓でずいぶん減ったことがあった。あのときはよく増えた」
「ねずみじゃないんですよ」
「うわ、痛いって」
「もっと塗り込みますよ」
「なぜ、涙を流しておる」
「えっ……」
「トラルか」
 キアは、肩を落とした。
「――あの子は、まだ一三だったのに」
 アトルは、無言でキアの背中をなでた。
     *        *
 しばらくしてアトルの治療が終わった頃、二人の所にトナティがやって来た。
 アトルが、手を挙げた。
「手伝いか? 族長ごっこは慣れたかい」
「狩長、怪我人の面倒は私だけで十分だよ」
「そうではありません。アトル様、キア様、すみませんが、ある事に協力してください。これには、我々の生存がかかっています」
 二人の顔が、引き締まった。
     *        *
 風が吹き渡っている。
 幸運にも、強い追い風だ。方船シパクトリは大帆に風を受け、濁った水上を疾走している。丈夫なマンモス革の帆は、風の圧力にびくともしない。櫂は、こういうときは邪魔になるので、水上にあげている。
「何をもたつく! 気紛れなイナア風に比べたら、ここの風は力まかせなだけだぞ」
 帆柱の真下、屋根上で、イナアのカマクが指示を飛ばす。男たちが汗まみれで右に左に走りまわる。風が変わるたびに、索具の縄を、結び、緩め、引き、帆の向きを操る。
 だが操船は、いまいち風と連動しない。みんな素人だ。カマクは頭を掻いた。
「ワシは悪霊に好かれとったか。訓練もなしにいきなり本番で仕込まにゃならんとは」
 作業には、ケツァも混じっている。
 ケツァは忙しさを紛らわすかのように、汗を飛ばして水面を見た。
 延々と広がる混濁水のところどころに氷山が浮いている。遠方の氷床の爆散した箇所は、濃密の霧雲に包まれ、まったく見えない。
 そしていま、方船は北の内陸に向かっている。地平には水色の氷原が連なる。そのどこかに河が流れ出る狭間があり、さらに奥にアツァアスルの地があるはずであった。
 本当にアツァアスルに向かうことになるとは、運命とはなんとも不思議なものだな。
 ケツァは、朝のいきさつを思い返した。
     *        *
 ミクトランの出水は、一晩たっても引く様子はなかった。海沿いに連なる丘陵地形が、排水を妨げているのだ。方船のある大河の口には海への流れが集中し、運ばれた莫大な土砂で蓋がなされていた。それが地平まで続く河口地帯全体を、一面に覆っている。
 まるで干潟のようであった。
 皆は、変わり果てた異質な風景に、ただ呆然とし、あるいは泣き、またはうめいた。
「我々は、精霊に嫌われたのね……」
 ある女がつぶやいた一言が、皆に波紋となって広がった。
「おれたちは、新天地を目指そうとした」
「そして、この方船を作った」
「この地を、捨てようと思っていた」
「だから、精霊が怒ったのよ!」
 誰もがうちひしがれ、自分を責めた。
 だが、そんなときであった。
「ちがう。気紛れなミクトランの精霊は、ミクトラン族を試しているだけだ」
 チニグが、大声で言ったのだ。
「おまえになにが分かる? 異なる民よ」
「私はアツァアスル族のシャーマンだ」
 シャーマンという言葉に、皆はどよめいた。チニグは説明した。アツァアスルの精霊が、ミクトランに行けと告げたのだ、と。
 さらに、皆は驚いた。
「アツァアスル族・白の部族は、ミクトラン族に食料と薬を提供する準備がある」
 おいしい申し出であった。だが検討する以前に、もしかして罠か、という危惧が皆の脳裏をかすめた。
 ミクトラン族とアツァアスル族の間には、敵対の記憶だけがある。なのに、アツァアスル族が援助をする。
 前例がない。罠だろうか。
 だが、その前にひとつの疑惑が浮かんだ。
 精霊が告げたというが、なぜその予言を洪水の前に知らせなかったのだ。
 これに関してチニグは、間に合わなかったと、あっさりと答えた。
 だが、皆は信じない。
 ここでケツァがチニグの味方についた。ケツァは、洪水大禍の直前にチニグが、洪水を予言していたことを伝えた。
 いきさつを聞いて、皆は怒った。なぜ、その晩のうちに伝えなかったのか――と。
 ケツァは、予想もしなかった非難に言葉を失った。そんなケツァを、病床の族長アトルが庇った。
「一昨日の晩は、地の揺れで大変だっただろ。だから俺に伝えるのが直前になってしまったのだ。だいたいおまえら、洪水が起こる前に予言を聞いて、信じられたかい」
 皆は、しかし洪水の《責任》を誰かに押しつける好機であったので、弱った族長の言葉を受け入れようとはしなかった。
 それで、かえって疑い深くなった皆は、ミクトラン族の権威のひとつである、シャーマン・キアにたずねた。
 あの女とケツァは、うそつきか、精霊に聞いてくれ。
 だがキアは、皆の期待に反して、女もケツァも正しいと答えた。さらにキアは、女が言ったとおり、ミクトランの精霊は、我々を試しているのだ、と付け加えた。
 皆は迷いはじめた。
 彼らは、別の実力者にすがった。
 しかし語部のククルカンは中立を決め込み、狩長トナティはチニグがトラルの魂に行なった正しさを誉め返しただけであった。
 さすがに、皆の心は自分たちをみつめ直す方向に傾きはじめた。
 思い返したら、チニグはミクトラン族を中傷することを、なにも言っていない。それどころか「精霊が試練を与えた」という考えは、実はまったく根拠がないが、自分たちが精霊から嫌われているのではない――という、発想の転換へとつながる。
 そして冷静になれば、ケツァが嘘つきでないのは明白であった。ケツァは正しい者だからこそ、力の精マンモスに認められたのだ。
 こうして皆の心から感情の高まりが消えつつある時を狙い、チニグはまた口を開いた。
「アツァアスルの精霊は、おまえたちを助けよと、私に伝えた。多くの人が怪我をし、家族友人を失って悲しみに暮れている。アツァアスル族・白の部族は、そんなミクトラン族に手をさしのべたいのだ。さあ、ミクトラン族の考えを聞かせてくれ」
 この言葉で、ミクトラン族の思考回路は現実的な方角を向いた。すなわち、感情論があらかた排除されたのである。
 残るは利害論であった。
 アツァアスル族は、どういう見返りを求める――という問いに、チニグはなにも求めない、と答えた。それを疑う者もいたが、
「精霊の望みにしたがうことができれば、白の部族としてはそれでよいのだ」
 と、チニグはあくまでそっけない。
 それが、怪しいというよりも逆に信用できた。それにチニグは、ミクトラン族の不平によく辛抱している。話を積極的に聞いてくれる態度そのものが、心理的に閉塞していたミクトラン族にとって実にありがたかった。
 皆は、イナアとアツァアスル、どちらが近いのかを検討した。カマクが推測するに、イナアは帆船で二〇日かかるという。そしてチニグは、アツァアスルは一〇日ですむと伝えた。倍もちがう。
 皆は、食料を調べた。
 水槽の飲料水が八日分、肉が一二日分。イナアを目指せば、途中で飢えがはじまる。あいにく漁具は失われており、また陸には一度に二五四個もの胃袋を満たす獲物はそうそういない。だからこそ、クジラ漁の時期以外は分散して暮らしているのだ。いざとなればマンモスのカトルとブルクを食べれば済む話だが、確実に一〇日でつくというアツァアスルの存在が、皆にその手段を捨てさせた。
 考えは、すこしずつ固まっていった。
 やがて皆の意見をまとめ、族長代行のトナティがチニグに伝えた。
「鳥の大地・アツァアスルを目指す」
     *        *
 ケツァは、チニグを見た。
 チニグは錨石の上で風にあたっている。髪は風に揺れ、長いスカートのひだが流れる。整った顔は、遠くを見ている。美しい。それは色気というよりは、神秘的なものだ。ほとんど無表情で常に思索している。
 ケツァはチニグに見とれていた。ミティやカマクが精霊と見間違えたのは、たしかにうなずける話だった。
 ――《知る者》は、俺を導いてくれると言った。彼女は今、ミクトラン族の全員を導いている。
 アツァアスルには、何があるのだろう。
 ケツァは、腰帯に結んである革紐の束をつかんだ。父テスカが、新天地から送ってきた絵。洪水の秘密を示す、大切な絵……
 ケツァは思う。
 ――チニグの言う通り、精霊は俺たちを罰したのではなく、試しているのか。
 なぜならば、すくなくとも一人の人間が新天地にたどり着いているからだ。冒険者を送りはじめて一〇〇年、精霊は、その苦労をようやく認め、テスカを祝福して新天地に迎えたのではなかったか。
 ……だとしたら、精霊の「試練」とは何なのだ……もしや……方船シパクトリが向かうべきは、むしろ新天地ではないのか――
 ケツァはその考えを否定した。
 チニグは精霊に認められた、正しい者。その彼女を疑うのは、自分をおとしめることにちがいない……
 ケツァの迷いは晴れなかった。
     *        *
 ミティはケツァを観察していた。
 行かないんだ、に対する返事、行けないんだ。その意味を、ミティは理解できた。
 ――ケツァは、新天地のことをまったく諦めていない。冒険に夢中なままだよ。
 親友の一人が死に、一人が離れていったというのに、落胆するでもなく、なにかの悪霊に憑かれたかのように想いにふけっている。
 ミティは、チニグを見る。
 島で、チニグさんとの間になにが……ケツァは、大事なことを隠しているのね。
 行けないんだ――その後につづく言葉は、こうだ。
 ――今は。
 ケツァはいつか、きっと離れてゆく。
 いやだ。いやだよ。
     *        *
 昼近く、方船は洪水の北の端まで来た。
 シパクトリは河に乗り入れ、そのまま川登りを開始した。
 川の両岸を見て、皆は青くなった。
 そこには、泥と石しかなかった。
 土壌は完全にえぐられ、灰色の永久凍土層や太古の礫が露出していた。残り雪も、新緑の草原も、萌色の湿地も消え、沼という沼は泥によって埋められていた。ところどころに土塗れの氷塊が転がっている。
 引き水は無数の溝を掘り、すべてが河に注ぎ込む。水からは異臭が漂っていた。
 動物はいなかった。オオワタリガラスが一羽、ある岩の上で鳴いているのが、ゆいいつだった。精霊王オオワタリガラスのみがいる風景は、皆を愕然とさせた。
「氷の津波が、みんなさらいやがった」
「水が引いても、これじゃあ……」
「ミクトランは……死んだのか?」
「――あたいに聞かないでよ」
 だれもが、ミクトランに訪れた破局を、再認識したのである。
 ――と、そのとき、一人の子供が、動くものを見つけ、はしゃぐように叫んだ。
「生きてる、人が生きてるよ!」
     *        *
「なにっ」
 櫂漕ぎに回っていたケツァは、その声を聞きつけるや、急いで屋根への梯子を昇った。
 多くの人が、窓に殺到していた。
 みんな、生者を渇望していた。
 ミティもカマクも、トナティもチニグも屋根に登った。全員が、西の岸に出現した人影に注目していた。
 岸は遠すぎて、影は誰だかまったくわからなかった。人々は手を振り、叫んだ。
「誰じゃあ!」
「男か? 女か?」
 目の良いケツァだけは影を識別できた。
「男だ! 青と白の服……アツァアスル?」
 すると、人影がいきなり水に飛び込んだ。誰もが我が目を疑った。
 凍え死ぬ気なのか。
 しかし、ミティだけは平静だった。
「何も感じない。彼は溺れないわ」
 人影は水飛沫もあげず、ものすごい速度で泳いでいた。一〇拍、二〇拍……だが、速度は落ちなかった。
 トナティが下に指示を出した。
「大扉を開けろ! カヤックだ!」
 その声に反応したわけではないが、となりにいたチニグが、小さな声で言った。
「……シン」
 気づいたトナティがたずねた。
「チニグ、あの者を知っているのか」
「――シン!」
 今度は、喜ぶように叫んだ。
「あの超人はアツァアスルゆかりの者で、シンというのだな」
 チニグのかわりに、ケツァが答えた。
「そういえば、一人仲間が流されたと」
「……よし、彼女には舟で出迎えてもらう」
 チニグは我を忘れたように、走って下に降りていった。その頬には、興奮による赤い火照りがあった。
「意外だな」
 ケツァはチニグの後を追った。
     *        *
 アザラシ革の小舟は、シンを迎えるためにシパクトリから離れた。ケツァが器用に舟を漕ぎ、チニグはもどかしげにシンを待った。
 しばらくしてシンは舟にたどり着いた――
彼はケツァの助けをかりて、舟に這いあがった。
 舟は傾き、ケツァは尻餅をついた。シンは下着だけだった。冷水で体に鳥肌が立ち、唇は白かった。シンは無言のままで、頭上に丸め結わえていた服を着はじめた。
 ケツァもチニグも、ずっと黙っていた。ケツァはシンを観察した。とても目立つ男であった。背はミクトラン族の誰よりも高く、筋肉はよく鍛えられ、引き締まっていた。だが一番の特徴は、右腕がないことであった。根元から完全になかった。しかしシンは、左手だけでじつに上手に服を着た。
 やがてシンは着付けを終えた。泥に汚れた服はチニグと同じ草織の染め布で、白と青を基調にしていた。
 そのシンが、そっけなく言った。
「チニグ」
 チニグの口が震えた。
「……シン、助かったんだな」
「流れる氷塊の亀裂でふんばった」
「……よかった」
 今やチニグは、喜びにあふれている。
 対してシンはマイペースだった。
「エミッシとオクラムは?」
「……死んだ」
「――そうか」
「私は方船でアツァアスルに帰っている」
「というと、成功したのか」
「成功もなにもない」
 チニグは肩を落とした。シンは一本しかない腕で、チニグの背を軽く叩いた。
 シンはケツァを見た。
 ケツァは緊張した。
「チニグと共に来たということは、多少の事情を心得ているようだな」
「……マンモス使いのケツァです」
「俺はシン、白の戦士だ」
 後は、落ち着いたチニグが説明した。ケツァは、カヤックを漕ぎ出していた。
 話が終わると、シンはあきれた顔をした。
「ケツァ、礼を言おう。だが、おまえはお人好しすぎる。甘いな、すこしは人を疑え」
「えっ?」
「ミクトラン族とは、これほどまでに素直に話を聞いてくれる、素朴な連中だったのか」
 ずけずけな物言いだ。
 さすがにケツァは面食らった。
 そしてシンはチニグの髪を強烈に掻きまわした。チニグは悲鳴をあげた。
「チニグもチニグだ。頭がいいくせに、運と要領が悪い。そのうえ勝手に変なことを決めやがって」
「私はミクトラン族を救いたいだけだ――」
 チニグは子供みたいな叫びをあげて、シンの手から逃れた。舟が揺れた。
「まあいい、なんとかなるだろう……」
 そしてシンはケツァから櫂をもぎ取り、その隻腕で乱暴に舟を漕ぎ出した。
 左、右、左、右……
 その操りは精霊の業であった。カヤックは水上を怒るように震え走った。
 方船につくまで、ケツァは揺れる舟縁にしがみつかなければならなかった。
 しかしチニグは平然としていた。
 ケツァは、地震にも耐えるチニグの超バランスが、いかにして鍛えられたかを知った。
     *        *
 シンは、方船一の漕ぎ手におさまった。彼は太い左腕一本で四人分は働いた。
 何も求めず、何も語らなかった。
 ケツァは、シンの変貌に絶句し、
「……俺たちが、素朴な連中?」
 と、ただ首をひねるばかりであった。
     *        *
 次の日、南風が吹き、方船はきわめて順調に進んだ。
 河幅はずいぶんと狭くなっていた。そのぶん水深は増した。水はようやく透明さを回復しつつあった。洪水が到達したと思われる最北端は、しかしまったくわからなかった。
 なぜならば、このあたりは最初から緑が存在せず、強い風が吹きすさぶ不毛の荒野が広がるばかりであったからだ。川の両岸には、かつて氷床が運んだ巨大な岩塊や、洪水に運ばれた礫がごろごろと転がっていた。
 北の氷原は、地平線の果てまで広がっていた。あちこちに熊手にひろげた指で砂をひっかいたような模様が、深く刻まれている。そこから幾筋もの氷河が流れでていたが、荒野に出たところですぐに水となり、多くの澄んだ池を作っていた。
 目前では大氷原の谷が河を飲み込んでいた。河はそのまま氷原の渓谷に吸い込まれ、そして奥に果てしなく伸びていた。
 昼頃になって、方船は氷の谷に突入した。水は透明度が高く、黒灰色の川底が見えた。流れは緩やかで、川をのぼっているとは思えぬ静けさだった。両岸はほとんどないも同然で、急に氷の灰色壁に変わっていた。
 風は常に下流から上流に吹いていた。決して強くない、穏やかな風であった。四角帆が風を受け、船は加速した。
 船内も船外も、人々はすっかりざわめいていた。
 すべてが初体験の景色であった。
「この川は何かちがう。特別だ」
 ケツァがつぶやいた。
 そしてミクトラン族の多くが、同じことを考えていた。
 この日は、暗くなってから錨を下ろした。
     *        *
 次の朝になると、川底がなんと氷になっていた。暗がりで氷に変わったのに気がつかなかったのだ。
 まわりには氷しかなかった。氷の谷を流れる水。まるで精霊の世界に迷いこんだかのようであった。
 錨上げの作業は困難を極めた。錨が氷に食い込んでしまったのだ。しかし超人シンにかかると、あっさり抜けた。
 昼、ケツァは屋根で空を見ていた。はるか高みの空は雲で塞がれ、強烈な嵐になっているらしかった。反対に谷底はまったく静かなものだったが、心なしか空気が肌寒い。
 そこにミティが来た。オーロラ見物で一晩を明かしたような、神妙な顔だ。
「ケツァ、上が吹雪だよ」
 雪がちらちらと降っている。ケツァは手を広げた。てのひらに落ちた雪が、水になる。
「風の雪だ。悪霊を呼ぶ死の」
「だけどここは安全だね」
「不思議すぎる谷だ。だいいち凍らない水だなんて……」
「すべてが氷、川底まで。氷の谷を流れる川なんて、実際に渡っているのに信じられない……ねえケツァ、不安がない?」
「どうしたミティ、いきなり」
「私、アツァアスルが恐いよ」
 ケツァは、頭を掻いた。
「おれはチニグを信じている」
「チニグさんが正しくても、他の人は……」
「ミティ――」
「なんでイナアじゃなくアツァアスルに行くの? 私……イナアに帰りたい」
 ミティは、泣きだした。
「このところ、ずいぶんと泣くな」
 ケツァはすこし迷ったが、とりあえずミティの肩に手を置いた。
「大丈夫。銀色の旅路は無事に終わるよ」
「本当? イナアに帰れる?」
「ああ、本当だ」
 ミティの肩の震えが、おさまった。
「ケツァ、私を霧の森に送ってくれる?」
「俺とブルクで、ミティを送るよ」
 それでミティは泣くのを止め、妙にうれしそうな瞳でケツァを見つめた。
「約束したからね。新天地じゃなく、イナアに来るって!」
 そしてガッツポーズを作ると、わけもわからずに呆然とするケツァの手を取ってむりやり跳ね踊った。
     *        *
 それから三日間、人々は上に嵐が、下に氷が、左右に氷壁がつづく単調な薄暗い渓谷世界を旅した。
 氷の壁は今や頂がかすむほどの大絶壁となり、太陽を一日中隠していた。
 風はひたすら川下から川上に吹き、水流はおだやかで平均的な川幅も変わらない。また日照時間がとても長いので、一日の五分の三は操船をつづけられた。信じられないほど効率のよい旅路がつづいた。
 水中にはときおり、美しく照り返すカワヒメマスなどが見られた。
 そして、渡り鳥の群れが方船を飛び越していく。そのたびに、みんなは白い谷間を飛ぶ水鳥たちに見とれた。
 氷壁はところどころで崩れた跡があり、そこでは岸が完全な直壁になっていた。
「まるでそこだけ水が溶かしたみたい」
 とミティが言った。
 それをケツァも不思議に思ったが、事実は意外な事件から明らかになった。
 ここ四日、朝になると錨が氷に食い込んでいた。錨を引き抜けるのは怪力男シンしかいなかったのだが、この朝はあまりにも力を込めすぎて、綱が切れてしまった。皆は困ったが、シンが迷いもせず、水に飛び込んだのである。
 先の長泳を見せられていたとはいえ、人々はまたもや心臓が止まる思いでシンを見守った。シンはしばらく浮かんでこなかった。
 やがてシンは、見事に岩錨を抱えて浮きあがってきた。だれもが驚いた。あわてるように男たちが綱を投げ込んだ。シンは左手で器用に石を結わえた。そして引揚げは男たちに任せ、方船の大扉から上がってきた。
 ケツァとトナティが、シンを迎えた。
 二人は心配していたが、しかしシンはまったく震えていなかった。
 ケツァが不思議な顔をしてシンに断わり、その鍛えられた筋肉に触った。
「……暖かい」
「水が冷たいとでも思ったか?」
「はい」
 するとシンはにやりとした。
「本当に伝承を封印していやがる」
 トナティは驚くとともに、シンが静寂な夜の精霊を装っていたことを知った。
 ケツァは思うところがあるのか、大扉の端でかがみ、水に手を入れてみた。
「……やはり冷たくない」
 トナティも続いた。
「本当だ……」
 大河の水は、いつの間にか凍える死の水ではなくなっていた。
 そこで腐りはじめていた貯水槽の水を、木桶リレーで入れ替えた。ついでに船内を一斉清掃し、大量に溜まっていた汚物の類を川に流した。
 水の件で一番の恩恵を受けたのは、大水飲みのマンモスであった。
 ブルクは新鮮な水を飲んで上機嫌だった。
 一方、カトルは鼻に含んだ水を、器用に霧にして、傷病者にかけていた。
「涼しいわ」
「いい霧」
 しかしカトルは無愛想に去った。
 離れて見ていた主人のトナティが、感心したようにうなずいた。
 これにブルクはすこし恥ずかしくなった。
 そこで先輩の善行に触発され、自分も水槽の水を含んだ。
 そのとき、カリブー・キキンナクを連れたミティが現れた。
「ブルク、飲み終わった? 次、キキンナクが飲みたいって」
 ブルクは、いいよと鼻を揺らした。
 とたん、ミティは小さな危険を感じた。
「来るっ、どこ?」
 水が降ってきた。
 何の弾みか、ブルクが鼻の水をミティとキキンナクにぶちまけてしまったのだ。
 キキンナクは驚いて、船内を飛び回った。
 ミティは、びしょ濡れで、
「とんま!」
 ブルクはしょげた。
 主人のケツァは、顔面を押さえた。
     *        *
 次の日、すべてが激変した。
 これまでの氷の谷から、にわかに明るい大盆地に出たのだ。
 川底は深くなり、見えなくなった。水も澱んでうすい緑青色になった。
 氷原ははるか彼方に去り、暗青白から白灰色になった。奥に広がる氷床さえ見えた。
 川岸は、盆地に入ったあたりから土石に戻っていた。数日ぶりの土だ。岸にはミクトランの海辺とはやや毛色の異なる地衣類やコケが生えている。
 そして多くの人々の視線は、岸に沿ったあるものの群れに、釘付けになっていた。
 それは、かつての林であった。黄土色に苔むした大地の中に、針葉樹トウヒの倒木の群れが、沈むように広がっていた。
 多くの者が、呆然と見つめている。
 立っている木は一本もない。
 朽ちた林。分解されゆく、静かな林。
 ケツァは、口を大きく開け、つぶやいた。
「森……」
 ケツァの口元が震えるのを、しかしミティは不思議そうな顔で、
「これは林だよ。森は地平までつづくんだ」
「……林か……生まれてはじめて見た。河口の木が、こんなところにあったなんて……」
 ケツァが言うには、河口の周辺にはよく流木があがっていたという。良質なイナアの木にかなわないが、それらはすべて大切な資源や燃料として使われていた。
「あまりに河の周辺で拾うものだから、木は南の陸からではなく、河の上流から流れて下っていたのではという説もあったんだ――だけどまさか、こんな氷の世界で本当に大木が育つなんて……」
     *        *
 盆地は、南北に細く、延々と続いている。
 河は緑の湿地帯の中をくねくねと蛇行し、複雑に入り組んでいる。方船はその中をひたすら漕ぎ進んだ。シンとチニグの先導がなければ、とっくに迷っていただろう。
「どうやら、いつの間にか北東に進んでいるようだな」
 トナティが太陽を見てそう判断した。
 死んだ林は、ずっと続いていた。
 ところどころに、腐った水で死んだ沼が、ちらほらと見え始めた。
 渡り鳥は、それらをすべて無視するように飛び去っていく。
 ケツァは不思議に思った。
「なんでみんな枯れてるんだ」
 ミティが説明した。
「寒くなっちゃったんだ」
「……アツァアスルは、大変なことになっているのか?」
 次の日、シパクトリは捨て去られた集落を発見した。
 木組み草葺きの朽ちた家が、二〇軒ばかり寒そうに縮まり、腐り崩れていた。それは枯れ立ち木に囲まれ、気味が悪かった。
「終着は、あと一日だ」
 チニグがそう皆に教えた。皆は貴重な木を贅沢に使っている廃村をうらやましそうに遠目で見ていた。
 その日は、一〇の廃棄された集落を見つけた。集落はしだいに規模が大きくなっていた。そして七つめの集落を越えたあたりで、ついに枯れかけだが生きている一本の木を見いだしたのである。
 人々は、目に穴が開くほどその木を眺めた。カマクの説明によると、それはトウヒの成木であった。生きてしかも立っている《木》を生まれてはじめて見る者は、ミクトラン族の大半にのぼった。彼らにとって、種類などはどうでもよかった。誰もが、トウヒの黒い緑を脳に焼き付けようと、目と記憶能力を総動員していた。
 チニグとシンは、その様子を嬉しさと戸惑いの混じった目で見守っていた。
 それから景色は、急激に緑を帯び始めた。
 生きている木が増えだし、緑は水面にうつって水の緑みをより強めた。風が緑の匂いを運び、人々ははじめて味わう空気に、ひらすら心の鈴を弾ませていた。
 沼はきれいなものが増え、草など寒さにあまり強くない植物が生え始めた。
 気温もあがっていた。
「うわあ、霧が晴れたイナアみたい! それになんだか暖かいよ」
 ミティがはしゃいでいた。
 だが、カマクは無気味さを感じていた。
「美しいが、寂しすぎる……」
「――鳥が、動物がほとんどいないんです」
 ケツァのつぶやきに、トナティがあることに気づいた。
「なら、途中で見た渡り鳥はどこに消えたのだ。数が少なすぎる」
「わかりません」
 ケツァは首を振って答えた。
 だが、その小さな不審はあっという間に心の隅にどけられた。
 皆は、また緑の壮観を楽しみだした。
     *        *
 不思議なことに、この二日で日照時間は信じられないほど長くなり、夜が急に明るくなっていた。真夜中でも天の川が見えなくなった。人々はいよいよ精霊の地かと畏怖したりした。一連の体験で、アツァアスルの地に、神聖な思いを抱きはじめてもいた。
 深夜、ケツァは屋根上で、明るい夜を染める、オーロラの舞踊を見物していた。
 空は吹雪のように淡い。はじめて体験する空間だった。
 チニグが来た。
「眠れないか」
「わからないことだらけで……不安です」
「不安、か。私も不安でいっぱいだ」
「《知る者》なのに?」
「このさらに北ではな、一年のうちで昼が一季節、夜が一季節続くのだ。今は一季節の光が支配している」
「…………」
「光はいいが、闇では何者も生きられぬ。木も、獣も、そして人もだ。アツァアスルはもう寿命なのだ」
 ケツァは、いろいろと質問したいことがあった。だが、口がどうしても開かない。
 やがてチニグは、黙るケツァを残して去った。梯子を下りる音が、背中越しにケツァに届いた。
 ケツァは落ち込んだように沈んだ顔をして座ると、新天地の革紐を広げた。
 オーロラの光で、父の絵はよくわかる。見ているのは、氷原から生える山の絵だった。
「ユルユレムル山――テスカ父さん、まだ生
きているか? 相棒って何者だ? 知っているか、ミクトランが沈んだぞ。さっさと現れて、新天地へ導けよ……」
 父テスカの絵は、なにも語らなかった。
     *        *
 アツァアスルを目指す旅路の、最後の朝が来た。ほとんどなかった闇夜の明けからしばらくたって、人々は動きだした。
 帰る分の食料はなく、薬草も薬骨も薬石も底をついていた。十分なのは塩だけだ。だが、アツァアスルにつけば、すべて補充できるはずであった。人々は大きな希望と小さな不安を感じていた。
 緑の林が両岸を飾り、水は白い日光を照らし返す。遙かな氷原は堂々と構え、何事も起こらずに旅が終わるようにと祈ってくれているようであった。
 帆を張り終えた赤い方船は、無理をせずゆっくりと進みはじめた。
     *        *
 昼過ぎ、遠くで聞き慣れぬ水の音が響いてきた。
 皆はそれから先日の洪水を連想し、条件反射的に身を震わせたりした。だが、チニグがそれを否定した。
「あれは、水の出る大穴ツルナロタスだ」
 代表で質問者となった狩長トナティは、
「ツルナロタス?」
 と首を傾げる。
「そうだ。すべての水はツルナロタスから流れ出す。氷原の巨大な穴だ」
「ほう、面白い。ぜひ見てみたいものだ」
 トナティの余裕ある発言に、皆は心を落ち着かせてその場はおさまった。
 それを後でシンが誉めた。
「族長代行よ、だいぶ風格が出てきたな」
 トナティは肩をすくめてみせた。
「……お前ほど役者じゃないさ」
 音はしだいに大きくなっていった。それは巨大な滝のような音であった。手の空いているすべての者は、興味津々の様子で屋根上に集まり、わいわいと騒ぎながら先を見つめていた。
 行く先は緩い右カーブとなっており、音の元はまだ見えなかった。
 カマクは皆を見てすっかり感心していた。
「なんとも余裕だな」
「ツルナロタスが終点だって、なんとなくわかってるんだ」
 ミティがそう言って笑い、走ってケツァの元に向かった。
 カマクは屋根の端であぐらを組んた。頬杖を突き、
「……いい旅だったな」
 と大胆なあくびをした。
 銀色の旅路は、我々を深く癒してくれた。
 まったく、誰もが、洪水以来ずっと心にのし掛かっていた、怒りや、悲しみ、緊張、絶望、不安といった負の感情が、どこかへ飛んでしまったようだな。
     *        *
 心の安息は、脆くも破られた。
 遠くに黒い煙が立っているのを、母コヨルが宿るケツァの瞳が見つけたのだ。
「なんだ、あれは!」
 ケツァは叫んだ。
 その煙は、しばらくたってようやく他の者にも見えだした。
「……狼煙か?」
 トナティの推測を、カマクが否定した。
「いんや――火事だな」
 くつろいでいた人々は、一転して、なんとも嫌な気分に襲われた。
 しかし方船は減速することもなく、そのまま煙を目指して進んでいった。
 チニグとシンは、屋根の最先端に立ち、煙を見ていた。チニグは不審げに、シンは探るように。
 そこにトナティが来た。
「シャーマン・チニグ、何事だあれは」
 だが、チニグでなくシンが答えた。
「トナティ、武器の用意だ」
 恐い顔で下に降りていった。
 トナティは嫌な予感がした。
「チニグ、あれは林が燃えているのか」
「……ちがう、家だ」
「家、だと」
「すまん……戦に、なった」
 チニグの額から、汗が噴き出していた。
 トナティは、半ば呆然とした。
「戦……」
「夢を知らず、ここにしがみつく者。夢を知って、ここを出る者。二つが、互いの正義を信じて争っている」
 とたん、トナティは精神の高揚とともに極めて冷静になった。彼は戦士だった。
 トナティは素早く計算した。
「よそ者に、チニグはなにを求める」
「……できれば、一緒に戦ってほしい」
 と、そこに幾人かの戦士が、血相を変えて飛び込んできた。ケツァもいた。
 戦士たちがわめきたてる。
「狩長、シンがいきなり戦の準備を!」
「シンもチニグも、おれたちを戦力に使うつもりだったんだ」
「うまいこと言って、よくも騙したな!」
「二人を殺して帰ろうぜ、トナティ」
 だが、トナティは手で制し、
「道を戻る食料はもうない……こうなれば、俺たちだけが高みの見物とはいくまい。日和見は孤立を招き、アツァアスル族全体から侵略者の扱いを受けかねない。いずれにせよ誰かの味方をせねば、早晩餓えてしまう」
「…………」
「チニグ。おまえは、最初からミクトラン族を戦に巻き込むつもりだったのか?」
「トナティ狩長、彼女はそんな人では――」
「ケツァは黙ってろ! おれはチニグに聞いてるのだ」
「……すいません」
 その間にチニグは、言葉を選んでいた。
「……違う、と言えば嘘になるだろう。弁解はしない」
「この内乱は予想外だった、というわけか」
「信じてくれ」
 トナティは、猛獣の眼でチニグを見据えた。チニグは、全身を小刻みに震わせつつ、それを凌いでみせた。
「――シャーマンは、どちらの陣営だ?」
「…………」
「夢を知らぬ者か、夢を知る者か」
「私は、夢が好きだ」
 チニグは、確かめるように言った。
 すると、トナティは満足げに頷いた。
「――わかった。チニグの味方をしよう」
 戦士たちが不服そうな顔をして騒いだが、トナティが、
「もちろん、とりあえず今は、だ」
 と言うと、しょうがなさそうに口をつぐんだ。
「……すまない」
 チニグは力が抜けたように座り込んだ。
 と同時に、シンが帰ってきた。
 頭に巨大な羽飾りをつけ、顔には顔料で勇壮な戦士の化粧を施していた。左腕に身長を越す長大なマンモスの円弧牙を抱えている。洪水大禍時に雹弾から子供をかばい、折れ抜けたカトルの牙だ。
 迫力に押され、戦士たちが道を譲る。シンはもはや自分を隠していない。
「本当のシンがあらわれたか」
「トナティ、アツァアスルの地理と勢力分布を教えておきたい」
「気にいらん。最初から味方をすると決めつけた言い方だ」
「チニグならうまくやる。それに貴様には正しい者を見抜く力があるはずだ」
「……シン、おまえは馬鹿だろう」
「そうだ。だから洪水を生きのびた」
「ふんっ、なら俺も相当の馬鹿者だな」
 そして何事もなかったかのように、戦の話し合いを始めてしまった。
 もはや乗り掛かった船であった。屋根の上にいた者は、事情もわからずに戦の準備に散った。
     *        *
 下層は大騒ぎだった。
 シャーマン・キアは、船内全体にいる傷病者たちを、下層の後方に集めていた。
 怪我人の一人は、とくに気をつけて運ばれた。
 族長アトルであった。
「戦だと……忌まわしい物語め……こんなことまで繰り返そうというのか」
 苦しそうにつぶやいた。

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