第四章 迷走紛争 LABYRINTHUS

よろずなホビー
夢幻のフムスノア/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章

 方船シパクトリは、加速した。
 櫂は四本を足し、八本に増えていた。さらに背後から風の支援も受け、船は、誕生以来最高の速度で進んでいた。船の頭で飛沫を散らした波立ちは、両舷後方にいつまでも広がっていった。
 女子供は怪我人とともに下層に寄り集まり、体力のある者は櫂漕ぎを買って出た。
 一二歳以上のすべての男は、顔に黒や赤の顔料を塗り、戦士となった。彼らはみな、上層に集った。その中には、ケツァやカマク、カマクの弟子のヤハラン、ケツァに絶交宣言をしたロックもいる。
 戦士たちは、一〇〇人近くに達した。その半分が、洪水で何らかの傷を負っている。
 シンはすこし不安げだった。
「怪我人ばかりで、心細いな……」
 トナティがシンの脇を小突いた。
「成り行きで味方してやるんだ、我慢しろ」
 そしてトナティは、戦士たちに弓の弦を張るよう命じた。
     *        *
 黒煙はいよいよ大きくなった。
 シパクトリは煙を目指し進んでいた。やがて方船が大河のゆるやかな曲がりにさしかかったとき、視界が一気に開けた。
 ツルナロタスの水音が大きくなった。
 ミクトランの戦士たちは、窓外の景色に目を見張った。外見たさのあまり、急いで屋根に登る者もいた。
 ケツァも屋根に上がった。そして目に入ったものに圧倒された。
 そこには幻想の景色があった。
 巨大な氷の袋小路。
 青い氷床は、奥の一点に向かって凝縮し渓谷となっていた。V形谷の最奥には、氷壁の下に、横長の黒い穴が開いていた。氷穴ツルナロタスであった。それは遠目にも、かつて見たどんな穴よりも巨大だと分かった。穴からは、水が次々と流れ出ているのが見て取れた。穴の奥は、ただ闇のみ。これが、風洞よろしく低い音をたてつづけている。
 ケツァは感嘆のため息を漏らした。
 だが、隣の男が騒ぎだして、ケツァは視点をより近くに戻した。
 網膜に、煙の出所が飛び込んだ。
 左岸沿いの集落であった。はじめて見るアツァアスル族の生きた集落は――
 燃えていた。
 白い逃げる者、赤い追う者。燃える集落の中で白と赤が混じっている。
 火事の集落と距離を置き、大きな集落がある。そこから赤い人が、つぎつぎと燃える集落をめざしている。
 とたん、下のほうから、聞き知った声が飛び込んできた。
「……いやぁ、多くの人が……人が!」
 ミティであった。戦に反応して、危険感知能力が発動したのだ。
 そう。あの白と赤は、殺し合っている。
 戦争の現場に、ちがいなかった。
 これからそこに飛び込むのだ。
「――せっかく助かった命だというのに、いったい何をしているのだろう」
 ケツァは下に戻り、トナティに報告した。
「赤服の大きな集落が、白服の小さな集落を襲っているようです。我々は、どちらに加勢するのですか」
 戦士たちが、一斉にケツァとトナティに注目した。
「……実にいい質問だ――」
 トナティはゆっくりと頷いた。
「――で、ケツァ、どちらが不利だった?」
「白服の、小さな集落です」
 トナティは、皆に聞こえるように、
「俺たちはそちらに味方する」
 とたん、戦士たちはざわめき出した。
「なぜわざわざ負けてる方に加担するんだ」
「我々は食い物が欲しいだけなのに」
「有利な方の手伝いをしたほうが――」
「うるせえ!」
 トナティは鯨顎骨の大槌を抜き、空に一閃した。すごい音がして、皆は押し黙った。
「白の部族こそが食料を持っている。赤の味方をしても、腹は満たされぬ。白の味方をしてこそ、我々は飢えずにすむのだ!」
 そしてトナティは、大扉の横棒を外しておくよう指示を出した。
「マンモスで突っ込む。アツァアスルの連中は見たことがないというから、必ず混乱するはずだ。ケツァもブルクで出ろ!」
 戦士たちが呆然とする中、トナティはさっさと歩き出した。
「俺はカトルの背上で待機する。シン、後は貴様が指揮をしろ」
 下層に降りていった。
 後をケツァが追った。
 やたらと張り切るトナティが消え、辺りは静かになった。立ちつくす戦士たちは、新参で正体も知らぬシンに注目した。
 シンはマンモスの牙を肩にかけて、
「よろしく」
     *        *
 ブルクに乗ろうとしたケツァは、後方から声をかけられた。
「よう、マンモスの力がないと何もできない臆病者!」
「ロック……」
 ロックは、ケツァをにらんでいた。
「いいか、ケツァ。おれはこの戦で活躍し、おまえに勝つ! トラルの精霊は、このロックのものだ!」
 言うだけ言うと、上層に戻っていった。
「……ロック、どうしたんだよ」
 トナティが、肩をすくめた。
「キアが、落ち込むロックに言ったのだ。トラルが精霊になったとな。トラルの性格を考えれば、強い者に味方する精霊だろうな……だが、ロックは初陣のはずだ。狩りも下手だし、悪いことにならなければよいが――」
 そしてケツァを見る。
「ケツァ、おまえも初陣だから無理をするなよ。この戦にかかっているのは正義でも名誉でもなく、食い物なのだからな」
 ケツァはうなずき、そしてブルクに乗ろうとした。が、ここでようやく相棒の異変に気がついた。
 ブルクは耳を小さく畳んでいた。
 視線を迷わせている。
 まるで、なにかを恐れるように。
「大丈夫だよ、ブルク」
 ケツァはブルクを軽くなだめた。
 ブルクはおびえるように鼻を吹いた。
     *        *
 方船シパクトリは、岸辺に突入した。
 アツァアスルの人々は、あらゆる行為を中断していた。褐色巨体の珍入物が何物であるか、注目していた。
 そして――そして、方船の屋根に、青と白の服を着た隻腕の戦士が現れるに至り、人々の反応は両極端に分かれた。
 赤服は恐れた。
「《隻腕の風》だ!」
 白服は喜んだ。
「《知る者》と《隻腕の風》が、ミクトラン族を導いて来た!」
 シンは左腕で、錨の岩を抱えていた。
 岩をおもいっきり投げる。石ころのようにかるがると飛んだ岩は、岸に落ちた。泥が飛び、赤い戦士たちは土塗れになった。
 この個人技に、白の部族は喝采をあげ、方船の戦士たちはびっくりし、赤い戦士たちは度肝を抜かれた。
 そしてシンは、
「今だ、矢と槍を!」
 とすかさずに叫んだ。これを合図に、方船の屋根に展開したミクトランの戦士は、一斉に矢と槍を放ちはじめた。
 物騒な雨が赤い戦士たちに降り注ぎ、幾人かが骨や石の鏃を受けて倒れた。彼らはすっかり混乱していた。
 その間にシパクトリは距離を詰め、まるで止まることを知らないかのように、一気に岸に乗り上げた。
 ちいさな地震が起きた。方船では、抜群のバランスを持つトナティとチニグを除く誰もが衝撃に倒れ、岸にいたアツァアスルの人々もよろめいた。
 シンだけは、方船が岸にぶつかる寸前に飛び降りていた。彼は振動を物ともせず、ほとんど真円に近いカトルの弧牙を振り回し、けしからぬ赤い戦士たちを張り倒す。
 そしてシンは叫んだ。
「開門! 突撃ぃ!」
 直後、方船の大扉が開き、そこに二頭のマンモスが現れた。
 トナティ操るカトルと、ケツァ操るブルクである。
 カトルは大扉と岸辺の段差を無視して飛び出し、ブルクはケツァに急かされて嫌々飛び降りる。
「行けえ、カトル!」
 トナティの号令で、勇敢なカトルは鼻を丸め、一〇〇人近い赤の戦士に突撃した。
 驚いた赤い戦士たちは矢を放った。
 だが、カトルは矢が何本刺さっても、痒い程度にしか感じないのか、まったく気にしない。トナティ自身は、巨大な革盾で身を守っていた。
 反対に、ケツァのブルクは怖じ気づいてしまった。恐縮して進まない。
「どうしたんだ、ブルク!」
 ケツァは焦り、懸命にブルクを鞭打った。
 しかしブルクは動かなかった。
 その横を、味方の戦士が追い抜いてゆく。
 ロックなどは、あからさまな軽蔑の眼差しを向けた。ケツァは恥ずかしくなった。
 だが、戦局はカトル一頭で十分に動いた。
 赤い戦士たちは、完全に恐怖に駆られていた。動く赤茶色の小山が、片牙とはいえ、白い巨牙を突き出し、襲いかかってきたからだ。戦意を瞬間的に喪失してしまった。
 トナティが投槍器を構えたとき、すでに赤の部族は逃げだしていた。トナティは槍を投げつつ、そのまま追撃態勢に移った。
 それにミクトランの戦士も加わった。矢を放ち、槍を投げ、赤の部族を追った。
 カマクなどは、キキンナクを駆って短槍を連投していた。イナア一の速さを誇る超抜カリブーのキキンナクは、トナティとカトルを追い越してしまった。
 カマクの後からは、別の勇ましいカリブーにまたがる、弟子のヤハランがつづく。
 これらの攻撃によって、一〇人前後の敵が傷を受け、倒れた。
 だが一方的な戦いは、赤い戦士が林に逃げ込みはじめた時点で終了した。
 林の手前に、敵の主将らしき者が立っていた。赤茶色の羽根冠をかぶり、白い雪のオオカミを二頭、連れている。
 トナティは、その男があまりにも悠然と構えているのを見て、罠だと判断した。
「止まれ、潮時だ」
 カトルを踏み止まらせる。
 これで、追撃していた戦士たちが止まりかけた。だが、トナティの前に出ていたイナアのカマクとヤハランには届かない。二人はカリブーで駆けつづけた。
「戻れ!」
 トナティが叫ぶが、二人は気づかない。
 しかも、イナアの二人につられて、若い血気盛んな戦士たちが一〇人ほど突出した。
「馬鹿野郎、罠だ!」
 トナティはカトルで追おうとしたが、そんなことをすれば他の戦士までもが暴走しかねない。トナティはとどまり、ただひたすら、カトルの上で叱咤した。
 しかし――
「ていやっ」
 師匠に先んじたヤハランが、カリブーの勢いにまかせて敵主将に石斧を振り下ろしたそのとき、
 いきなり、斧の狙いがずれた。
 そして、赤茶羽根の男がすばやく動いた。
 何が起こったか、
 ヤハランはわからなかった。
 喉から血を飛ばし、カリブーごと倒れる。
 その次の瞬間には、もう、ヤハランは血塗れで絶命していた。
 カリブーにオオカミがかみつき、ヤハランの体勢が崩れかけたところを、男がフリント石の短剣で突いたのだ。
 なんという連携の早業か。
 これに慌てたカマクは、急いできびすを返した。他の戦士たちも動揺した。
 敵将はすかさず、なにやら号令した。
 すると、林の中から、蜂の塊のような大量の矢が襲いかかってきたのだ。
 突出していたミクトランの戦士たちは、あっという間に倒れていった。倒れた後も、つぎつぎと矢が刺さる。死ぬまで射る気だ。一方的な殺りくだった。助かったのは、素早いキキンナクに乗っていたカマクだけであった。それでも、二本の矢を背に受けた。
 その様子を、トナティをはじめとする戦士たちは、戦慄をもって見ていた。
 トナティは、屈辱に拳を震わせる。
「先制攻撃だったのに、こんなにも早く反撃されるとは……」
「それが《血羽根》、オウィという男だ」
 となりに、シンが来ていた。
「《血羽根》?」
「赤の酋長オウィの、冠の茶羽根は、あいつが殺した者の返り血で染まったものだ」
 トナティは、悔しさをあらわにした。
「オウィめ……」
 やがて赤い戦士たちは、ほぼ全員が林に隠れた。オウィとオオカミたちも隠れた。
 その後でようやく、ケツァとブルクがやって来た。ケツァの顔は羞恥で真赤だった。だが、皆は初陣のケツァを責めはしなかった。それどころではなかったのだ。
 ミクトランの戦士たちは、矢が届かぬていどの距離を取り、林の前で陣取った。
 両者は完全ににらみ合っていた。
 シンが数歩進み出て叫んだ。
「赤の酋長、オウィ。約束を違えた卑怯者、出てこい!」
 すると、林の影から、声が返ってきた。
「何を言うか、《隻腕の風》――」
 オウィの声は、しわがれていた。
「――もう騙されぬ。《知る者》の口車にも、《隻腕の風》の盲従にもだ。ミクトランの野蛮人まで連れてきおって。渡り鳥にでっちあげの絵を結わえ送った、うそつきども!」
 事情をわずかに知っているケツァとカマクは驚き、知らぬトナティは訝しんだ。
「鳥に結わえた絵……だと? もしや、誰かが新天地挑戦に成――」
「ほざけ。新天地だと? そんなものがあるわけがない。夢だ、理想だ。あるとすれば、ここアツァアスルこそが、理想卿だ」
「ちがう――」
 ゆっくりと歩み出て、チニグが言った。
「――違う。アツァアスルが夢の楽園だったのは、はるかな昔だ。今、アツァアスルは死を待っている……」
「そのごたくは聞き飽きた。一〇日と少し前、五年ぶりに地の揺れが起こった。だがなにも起こらなかった……もう騙されないぞ、洪水大禍は起こらぬ……」
 それに思わず、ケツァが答えた。
「洪水は起こった! ミクトランの地で」
 だが、もはやオウィは答えぬ。
 どうやら、撤退したようであった。
「追えるか?」
 とトナティがシンに聞いたが、
「逆撃を受けるだけだ」
 シンは厳しい顔で唾を吐いた。
 トナティは、引き上げを命じた。
     *        *
 ケツァは、惨劇の場に足を踏み入れた。戦死者は、みんな気心知った仲間だ。
「初陣で、狩りのうまい者ばかり……」
 狩長トナティの号令を無視して、反撃を受けて死んだという。
 みんな、せいぜいで一三歳から一九歳くらい。若すぎる。結婚の経験もなく、子を残さずに逝った者が、半分以上いた。彼らは、何を思って死んでいったのだろう。
 せっかく洪水を生き延びたのに。
 と、そのとき、ケツァは思考が止まってしまった。
 見たくないものが、そこにあった。
 足が震える。だが、ゆっくりと、一歩一歩、近寄る。
 無視したい。だが、無視できない。
「なぜだよ!」
 ロックは、一〇本以上の矢を受け、天をにらみつけて死んでいた。
「おまえ、狩りが下手じゃないか!」
 ケツァは、ロックを抱く。そして、トラルが死んでも流さなかった涙を、流した。
     *        *
 アツァアスル・白の部族の生存者は二〇〇人前後だった。しかし、焼き討ちの死者はわずか二〇人ほどだという。元から数が少ない部族のようであった。
 ともかく、方船の突入は白を救ったのだ。皆、窮地を救ってくれたミクトラン族に感謝し、シンとチニグの帰還に喜んでいた。
 ケツァは、警戒のためにブルクに乗ったままであった。トナティは指導的立場もあってカトルから降り、あちこち歩き巡っていた。
 自然、アツァアスル族の注目は、ケツァとブルクに集中した。マンモスを見上げる瞳は、いずれも好奇と驚愕に満ちていた。
 ケツァは気恥ずかしかった。
 やがて、そこにミティが寄ってきた。ミティはケツァに断わりもせず、勝手知ったるブルクの後ろ脚からよじ登った。
「やあ、ミティ」
「……怪我がなくて、よかったね」
「戦わなかったから――」
「ケツァ、戦、はじめてよね」
「うん……」
「なら、それでいいじゃない――」
 ミティは、涙ぐんだ。
「――ヤハランさんが、死んじゃった。カマ
ク叔父さんも怪我をして……私、もう嫌だよ。なんでつぎつぎと嫌なことが起こるの? しかも私、すべてを事前に感じていたのに」
 ミティの体が、小さく震える。
 ケツァは、だまってミティを見る。ミティの瞳には、炎が映っている。焼け落ちゆく集落は、ミティの顔を血のように照らす。
「チニグさんはミクトランの精霊の試練って言うけど、私はイナア族なんだよ……」
 ケツァは、むしょうにミティが愛しくなった。理由はわからないが、胸が熱くなり、動悸が速まった。ケツァは、すっかり気落ちしているミティを、いきなり抱き寄せた。
「ミティ――」
 ミティの顔が、火照って赤くなる。
「ケ、ケツァ?」
「ミティ、おれのもっとも大切な人たちが、みんな死んだよ……ロックは、どんな夢を持っていたのだろう。語れなかった。おれは馬鹿だった。新天地のことばかり考えて、結局、親友と、仲違いのまま永遠に……」
「ケツァ……イナアに行こうよ」
「イナアに――」
「夢は、生きるために見るんだよ。だから……見ていれば、それでいいと思うんだ」
「それが、精霊が俺に教えようとした試練の結末なのだろうか……ならばなぜ、期待させるような情報ばかり……」
「ケツァは、疲れたんだ――」
 ミティはケツァの胸に顔をうずめた。
 ケツァは、ミティの髪をなでた。
「ミティ、君はきっと守ってみせる」
「一生?」
「……いいとも」
     *        *
 ――この集落を捨て、対岸に移る。
 チニグの提案を受け、大移動が始まった。
 白の部族は、半分がシパクトリに、半分が二〇艘のカヌーに乗ることになった。
 人の問題はすぐに解決したのだが、難題は荷であった。
 燃えた集落から少し外れた巨大な倉庫に、大量の鳥と魚の肉を保存してあったのだ。
 その倉庫は地下マンモス三頭分ほど掘り下げていた。そこに薫製乾燥で長期保管処理した鳥肉を積み上げ、氷原から切り出した氷のブロックを挟んで冷凍していた。
「なんとも、《両手指一〇〇倍》人が一年は食べていけるな……」
 目を丸くしたトナティに、チニグが短く説明した。
「戦の原因の一つだ」
 これを運び出すのに、ほぼ全員の人手を必要とした。リレーでシパクトリやカヌーに積み込んだのだが、作業を終えるのにほぼ半日を要した。しかもスペースや時間の関係で、けっきょく半分以上は、もったいないが派手に燃やした。敵にくれてやる道理はない。
 そして集落の外れに穴を掘り、死んだ戦士や白の部族を、手厚く葬った。
 やがて日が沈んだ。とはいえ、この地ではもはや闇が訪れない。方船とカヌーの船団は、早朝のような不思議な深夜――白夜――に、河に出た。
 ケツァは屋根上でため息をついた。目がよいので、警戒の物見を命じられていた。
「白い夜……太陽は沈んでいるのに、なんて不思議な地なんだ」
 船団は、氷穴ツルナロタスに近い対岸で、水路に入った。人工の水路の幅は、方船がぎりぎりだが通れる程あった。
 その奥には丸い池があった。岸では一つの小集落が朽ちていた。集落は火災でうち捨てられたようであった。
 だが、ミクトラン族を驚かせたのは、そんなものではなかった。
 池の中心に、なんだか見慣れた形のものが、悠然と浮いていたのだ。
 方船であった。
 ただし、大雑把に巨大丸木船に屋形をつけたミクトランのシパクトリとちがい、全体が精緻な丸太組のものだ。木はみんな細かい。帆柱が二本もある。
 チニグが、ミクトラン族の前で会釈した。あの無邪気な笑顔を存分に振舞って、
「ようこそ、方船レンに」
     *        *
 方船シパクトリは、方船レンの横につけた。方船レンのほうがやや小振りだ。
「すべてを説明しよう」
 とチニグが呼びかけたが、
「いや……まず、腹の補充だ……」
 トナティは食事を求めた。
 さすがに一戦した後で疲れており、だれもが腹を空かせていた。戦士たちは至高の贅沢メニューのひとつ・焼肉を求めた。
 みんなは、湖岸にあがった。
 一〇以上の焚火が組まれた。
 煙が派手に立ちのぼる。
 鋭気を養うべく、皆はたらふく食う。
 さらに贅沢に、塩だ。海辺の民ミクトラン族がさしだした白い塩の塊は、白の部族をおおいに喜ばせた。アツァアスルは内陸なので、粗悪な灰塩ぐらいしかない。
 塩ふり肉は、旨い。
 肉の中には、先の戦いでオウィのオオカミに噛み殺されたカリブーが含まれていた。ヤハランが乗っていたものだ。
 カリブーの肉はめずらしいのか、みんなが求める。そのついでに、ミティがイナアの話を披露していた。
「イナアには、カリブーがたくさんいるの。夏の霧が森に恵みをもたらすころ、西の湿原に、春の子鹿をしたがえた、カリブーの大群が生まれるんだ――地平から地平まで、象牙色に染めて、辺り中に餌があるのにみんな無視して、ひたすら走るの。その中で、子鹿は素早くたくましくなっていくんだ」
 すると、ケツァがうなずいた。
「見てみたいよ。きっと、奇麗なんだね」
 ミティはよろこんだ。
「うんっ、見てたらつい矢で射殺してやりたくなるほど。だって肉がひきしまっておいしいもの。足の腱もすごい音をたてるの。あの時期ほど弦にふさわしい……あら?」
 みんなは、すこし困った顔でミティを見ていた。ミティは赤くなって口をつぐんだ。
 今度はケツァが、海の話をした。
「海氷の割れる轟音が消え、海に流れが戻るころ、南からクジラがやって来るんだ――」
 それにしても、白の部族は不思議にも話を楽しんでいる。住む場所を失ったばかりだというのに――ケツァは、話しながらこの疑問を感じたが、すぐに自分の会話に夢中になって忘れてしまった。
 やがて皆が話に乗ってきたころ、
「ようし、とっておきの話だ」
 ケツァは得意気に人差指を立てた。
「クジラは賢いけど、ときどき間抜けなんだ。数年に一回は、引潮のタイミングを間違えて浜に上がるんだよ。大きいものだと、まもなく骨が折れて死んじゃうん……あれ?」
 空気が固い。失敗したようだ。
 ケツァは頭を掻いた。
「ケツァ、明るいな」
 チニグが座に混じってきた。
 アツァアスル族があわてて礼をする。《知る者》は、かなり上位の者のようだ。
「なにか、ふっきれたようだな」
「精霊の試練の答えが、自分なりに出たような気がして……」
 チニグはケツァをじっと見た。
「――そうか。さてと、私にも話をさせてく
れ。アツァアスルの鳥の話だ」
「美しい鳥を見るとよだれが出る……」
「まったくちがうな、ミティ」
「まぬけな鳥がいて勝手に死んじゃう……」
「ケツァ、それも大いにちがう」
 あきれた顔をして、チニグはアツァアスルの方船レンを指さした。
「あそこで、これから大事な話がある。その席に、ケツァを招待したいのだ……ミティもよければ、来るといい」
     *        *
「方船レンで、すべての話をしたい」
 チニグはミクトラン族の主な者に声を掛け回っていた。
 ケツァと狩長トナティ、シャーマン・キア、語部ククルカン、族長アトル、各家族の大黒柱や好奇心旺盛な者など、三〇人ほどがついてきた。部外者ながら深くかかわった、ミティとカマクも合流した。そしてアツァァスル族・白の部族からは、チニグ、シンに、数人の戦士、一人の老人が参加した。
 方船レンへは、カヤックやカヌーで渡った。方船の入口は船首の中腹にあった。皆は縄梯子をのぼって船に入った。
 ケツァは、レンへと入るとき、あらためて湖岸を見渡した。話の輪があちこちでできている。昨日までの他人同士が、これほど心を許し合えるとは。
 白の部族は、なぜ心から陽気なのだ。
 ――白の部族は、覚悟を決めている。アツァアスルを出る気だ。
 ケツァは、なんとなくそう結論づけた。
 方船レンの船首を見上げる。
 この船を見たときから、ミクトラン族は白の部族に、奇妙な連帯意識を感じていた。
 それは幻想だろうか、それとも……
 そのとき、船首の彫刻に気がついた。
 なんだろう。ネコ? いや、口元から生える巨大な牙と、短い尾――牙の精霊、牙の王、剣歯虎・サーベルタイガーだ……
     *        *
 中は意外と暗かった。一行はカラマツの松明を持ったチニグに先導された。
 皆は方船の奥へと入っていった。松ヤニが燃える独特の臭いが、みんなの鼻をくすぐった。方船レンは単層構造だが、シパクトリとちがい、細かい部屋に区切られている。
 やがて一行は、方船の最後尾と思われる、やや広めの部屋にたどりついた。
「これを見てくれ」
 チニグは、ある壁を明かりで示した。
 色石等の顔料や炭粉を獣脂で練り合わせた絵の具による、見事な木壁画の大作が描かれていた。
 皆は、絵に釘付けとなった。
 ケツァが、つぶやいた。
「洪水……」
 大洪水の絵であった。
 氷原が爆発している。その奥から水が溢れていた。そして水は木々を押し倒し、草原を埋め、人を、動物を飲み込んでいた。
 ミクトラン族はだれもが圧倒され、まったく口を開けなかった。
 それはつい先日体験した、洪水の絵に他ならなかった。
 チニグが、ゆっくりと語りはじめた。
「鳥と獣が減り、地が揺れたとき、氷の大地を破り、精霊の試練・大水が押し寄せた。洪水は一季節つづき、すべてが流れた――」
 そして松明を動かした。その先には、もう一枚の絵があった。
 洪水の跡に、一本の河ができていた。河は氷の奥まで続き、そこで緑の小宇宙を作っていた。風の精とおぼしき者が、緑を守っていた。アツァアスルであった。
「――あたたかい水を出す穴ツルナロタス、
氷を掘り穿ち大地を作る。木を育て、そよぐ風、嵐より木を守る。やがて鳥と魚の来たる豊かな奇跡の理想郷となる。精霊の意思、これ、アツァアスル族に与え給う……以上がアツァアスル創世伝承の要約だ」
 トナティが、うめくように聞いた。
「チニグ……おまえは、シャーマンではなく、語部だったのか……」
「両方だ。私は《知る者》。それは精霊の未来と、一族の過去を、共に知るだからだ」
「信じられぬ話じゃな」
 老いた語部ククルカンが立ち上がった。
「シャーマンだと言うのでワシの専門外だからずっと黙っておったが、もう限界じゃ、言わせてもらうぞ。そもそも語部とシャーマンは、部族の心の二本柱じゃ。過去と未来を一つの人格が束ねることは、専制者が出ぬよう、侵してはならぬタブーの――」
 そのとき、いきなり一本の腕がククルカンの目前に伸びた。
「――は……ず……」
 驚いたククルカンは言葉を失った。語りを遮ったのは、シャーマン・キアであった。
「だがそれは、ミクトランやイナアの話。アツァアスルではどうかな」
 ククルカンは、目を険しくした。
「キア殿はこの女のたわごとを信じるのか」
「私のトラルは、チニグ殿の助けによって精霊になれた。ククルカン殿、察してくれ」
「また精霊か……ワシには精霊は見えぬ。人生のすべてをあらゆる口伝の記憶に費やすでな。どうせワシは過去に生きるを宿命とする者、未来はおまえらで決めるがいい」
 語部はふてくされてしまった。
 どうやらそれでおさまったようなので、トナティは質問を再開した。
「……ところでチニグ、このアツァアスルが洪水でできたと言うのは、本当か」
「その通り。ミクトランを沈めたものと、同じものだ」
「そうか、《知る者》は過去を知り未来もわかる。だからミクトランの洪水がわかったのだな……だが、まだ納得できぬ。なぜ、白の一族も方船を作ったのだ。そして、ミクトラン族に好意的な理由だ」
 チニグは、すこし迷った。ふいにチニグは、ケツァを見やった。
「ケツァ、あの革紐を見せてやってくれ」
 ケツァは、なんとなく分かっていた。
「……はい」
 父の革紐を取り出し、トナティに渡した。
 トナティは、いぶかしげにその汚れた紐を観察し――すぐに真面目な目になり、くいいるように見つめた。
「テスカだ!」
 トナティは、皆を見回した。
「テスカが、新天地探検に成功していた!」
 ミクトラン族はわけがわからず、ただ驚くにまかせていた。
 ケツァは、今までのことをすべて話した。
 カマクが証人となり、内容を保障した。
 トナティは、ため息をついた。
「まさか新天地でも氷の洪水が起こり、シパクトリの巨木を流して来たとは……その方船で助かったのだから、なんという皮肉か」
 そしてケツァをにらむ。
「なぜ、黙っていた」
「――話してはいけない気がしたからです」
「話してはいけない?」
「チニグが、俺がテスカの子だと確認してから教えてくれたから――」
 チニグは首を振った。
「ケツァには意外と、一人で抱え込むところがあるようだな。私としては、ケツァが皆に話すことを前提としていたのだが」
「チニグ、ケツァに教えたのは、なぜだ?」
「正当な権利があると思えたのでな……それにケツァには、最初に洪水を伝えたから」
「……まあよい。それでこれらは、アツァアスルの方船とどう関係するのだ?」
「それは、私から話させてくれ」
 チニグの横から、一人の黒服の老人が歩みでてきた。腰を患っているようだ。
「ワシはスヌルク。白の部族の酋長で、チニグの父じゃ」
 チニグが心配げに口を惑わせたが、スヌルクの優しい瞳を見て、言うのを止めた。
 スヌルクは、老いを感じさせない声で話しはじめた。
 皆は、話に聞き入った。
 ――アツァアスルの恵みは、沸き水があた
たかな氷穴ツルナロタスのごく近辺にしか供与されない。ツルナロタスは氷をとかしながら北に移動していく。それに合わせ、森も人も移動していくのだ。
 しかし三〇年ほど前から、その恵みが急にしぼみはじめた。原因は、ツルナロタスが一年の一部が夜、一部が昼という、わけのわからぬ世界へと迷いこんでいったからである。
 長い昼はいい。だが、長い夜――この期間
の太陽は地平線をかすめるだけで、飯を食っている間に沈んでしまう――では、貧弱な木
しか育たず、動物も減る。
 人々は、どうしようか迷った。
 そんなとき、アツァアスル・六色の民のひとつ、赤の部族はタブーを破り、たびたび下界に降りて新世界を求めた。
 ところがそこには小数精鋭のミクトラン族がいて、狩場権を巡る戦となった。
 赤の挑戦はことごとく失敗した。
 そして外界を諦めたアツァアスルでは、食料を奪い合う内乱がはじまった。赤・白・黄・黒・青・緑の六部族は互いに滅ぼし合った。弱小の白は元々交易部族で交渉に長けていたので、他の部族に攻撃の機会を与えないよう配慮していた――
「そんなとき、変わった鳥が来た。知らぬ大地の便りを添えた……ミクトラン族が妙なことに挑戦していたのは、昔から有名だった。調べてみれば、なんと新天地だというではないか。アツァアスルに嫌気を感じていた白の一族が、ミクトラン族に憧れるのも無理はあるまい……うぐっ」
 スヌルクは、咳き込んで倒れた。
「父上!」
 チニグがいたわるように、酋長スヌルクに寄った。
「やはり、私が話す……」
 チニグが、後を継いだ。
 ――とはいえ、白の一族がアツァアスルか
ら脱出する覚悟を決めたのは、ある出来事がきっかけであった。二年前、氷穴ツルナロタスから、悪霊と化した銀色の牙の王、サーベルタイガーが出現した――
 ケツァが、立ち上がった。
「悪霊……それが、新天地から来たテスカ父さんの相棒なんですね」
 チニグは、深くうなずいた。
 ――その前代未聞の悪霊は片牙で、出会う
者を片っ端から殺した。こちらが狩ろうとすれば、精霊の聖地である禁断の氷穴に逃げ込む。どうしようもない――
「それで私とシン、洪水で死んだエミッシにオクラムで、精霊の怒りで呪われる覚悟で、禁を破って氷の穴に入ったのだ。今から考えれば、なんとも無謀なことをしたものだ」
 ――壮絶な戦闘となった。そしてシンが右腕と引き換えに、牙の王の両目をつぶすことに成功した。銀色の悪霊は狂い、穴の奥に消えていった――
「だが、私は見た……そのサーベルタイガーの背には、見覚えのある絵柄があったのだ。そう、革紐の絵の主と同じ者だった」
 ケツァが、感激するように、
「だから……だから、親父の相棒だと分かったんですね……」
「それで《知る者》、絵とはどんなものだ」
「……虹だ、トナティ。虹だった」
 すると、キアが叫んだ。
「すばらしい! テスカは、新天地の精霊王ケツァールと、契約したのだ!」
 これに、ミクトラン族は沸き立った。しばらくしておさまると、チニグはつづけた。
「……この事件をきっかけとして、白の一族はミクトラン族をさらに詳しく調べた」
 ――すると、ミクトラン族が作っているものは、なんと方船だ。新天地に行くのか。白の一族はついに決意した。新天地に行こう。南から木材を運び、緑の部族が滅びた跡地で、方船レンを作ろう……その間も、他の部族は戦をつづけ、ついに弱小の白と強大な赤のみが残った。
 そして今年、異常な夏が来た。魚や鳥が、なかなかアツァアスルに来ない。白は脱出のために食料を備蓄していたので、食料不足の赤の圧力が、にわかに強くなった。
 私はあせった。異常はまるで、洪水大禍の前兆に似ているのだ。私はそれを赤の酋長オウィに話し、全員で脱出するという条件で攻撃を控えてもらう約束をつけ、ミクトランに向かった。勝手で悪いが、方船レンでは運びきれぬ人員を、ミクトランのシパクトリで運んでもらおうと考えたのだ――
「ところが……ミクトランはさらに悪かった。アツァアスルにない地の揺れが、ひんぱんに起きているのだ。なのにミクトラン族はのんびりとしすぎていた――私は、この時点であ
る思いを抱いた。ミクトラン族は、洪水大禍伝承を失ったのではないか、と。だが方船シパクトリの大きさが、否定していた」
 ミクトラン族はにわかにざわめいた。
「――結論は、一つ」
 チニグは、ミクトランの族長アトルを見た。負傷して以来、すっかり目立たなくなっているアトルに、にわかに注目が集まった。
「ミクトラン族は、長老格だけが洪水大禍の話を知っていた……だからこそ、シパクトリはミクトラン族全員が乗れるほど巨大でなければいけなかったのだ」
 キアに支えられ、アトルは立ち上がった。チニグを毅然と見据えた。無言の態度が、チニグの言葉が正しいと告げていた。皆は愕然とした。
「アトル、言う必要はないぞ」
 いきなり、語部ククルカンが言った。
「過去など、今はどうでもいいことだ」
 それにアトルはうなずき、ゆっくりと座った。ミクトラン族の秘密は、族長アトルと語部ククルカンだけが知っているのだ。
「そのとおり……いまさら過去はいい――た
とえば私が、ケツァを通じて洪水大禍の危機を知らせようとして叶わなかったように……とにかく今は、勘違いから暴走している《血羽根》を、どうかわすかだが……戦に巻き込んですまない、ミクトラン族よ」
 チニグは、深々と礼をした。
「この戦が終わったら、私はともかく、ぜひ白の部族を受け入れてもらいたい……そして供として、新天地に行かせてくれないか」
 そしてケツァを見る。
「ケツァ、私にとって、精霊の試練とは、こういうことなのだ」
 皆は、黙り込んでしまった。
 話があまりにも大き過ぎた。
 チニグを許す、許さないという問題ではない。話を整理するだけでも大変であった。そして当面の敵、オウィという恐るべき男のことを思うにつけ、皆の気は重くなった。
     *        *
 ケツァは、気になることがあった。
 牙の王の生死は? そして、ツルナロタスを通じて新天地と繋がる内陸の路の存在に、どうしてチニグが言及しないのか?
 だが、それ以上に気になることがあった。
「……なんでまた、新天地なんだ!」
 ケツァは、頭が混乱した。
 ――夢は、あきらめたんじゃないの?
 死んだトラルの声が、頭に響く。
 だが――父の相棒や、新天地についての話
を聞いているとき――
 ケツァは、自身の高揚を感じていた。
 そう、心地よかった……
 ――夢を、やはり捨てられないのか!
 力がないからあきらめたのに?
 ロックの声だ。
 ほら、俺は力がないから死んじゃったよ。力のないケツァが、新天地に行けるとは思えないなあ――
 わかったよ!
 力だ、力があればいいんだろ。
 実力こそが、夢を見続ける資格だ。
 力を得よう。
 この戦で、活躍してみせよう!
 だから――ミティ、すまない。
 とたん、ケツァは胸を押さえた。
 なんだこの感じは。なぜ胸が痛いなどと感じるのだ……痛みがないのに!
     *        *
 休憩を取ったころ、一〇〇人近い赤の部族が、水陸から同時に攻め寄せた。
 トナティとケツァは、陸側の敵を迎え撃つべく、マンモスで出ることとなった。
「ケツァ、昨日の今日だ。ブルクは戦に向かぬマンモスかもしれん。無理をするな」
 そしてトナティは何事にも動じないカトルを操り、戦に出立した。
 ケツァは、恨めしげにブルクを見上げた。
 ブルクは鼻息を荒あげ、飛び交う矢石に興奮している。ケツァはそれを無視して、前脚からブルクに乗る。
「氷上の王との戦いを思い出してくれよ」
 だが、ブルクはすっかり怖じ気づいていた。矢が飛んできただけで、耳を激しく打ち揺らす。
「――音?」
 ブルクの背上で、ケツァは気がついた。
「戦の争乱は、洪水の音に似ている……」
 何気なく口にしただけだったのに、とたん、ケツァは自分の異常を感じた。肌に寒気が走り、体が震えた。
「……俺も……音が恐い、のか?」
 ケツァもブルクも、洪水で溺れた体験が、体に染み込んでいた。
「くそっ!」
 ケツァは悔しそうに拳を握った。
 ブルクから飛び降りる。
 そして震える体を無理矢理抑えて、盾と槍を持って敵の列に突撃しようとした。
 そこを後ろからはがい締めにされた。
「死ぬ気か、あほう!」
 シンであった。
「離してくれ」
「未熟者が一人で突入して、生きて戻れると思うのか!」
「……ちくしょう」
 ケツァは、槍を打ち捨てた。
     *        *
 この一戦は完勝であった。
 トナティとシンが縦横に暴れ回り、陸の敵を蹴散らした。水上側でも二隻の方船が頑張り、敵カヌー群を追い払った。
 結局ケツァは、また何も出来なかった。ケツァは、戦闘後、ブルクを前にぼうっとしていたが――
「ミティ……」
 いつからか、目の前にミティがいた。
「ケツァ、なんであんなことをしたの?」
 ミティの声は、震えている。
「林から見ていたんだね」
「答えて」
「……力が、欲しいんだ」
「力?」
「おれは、また新天地を夢見てい――」
「ロックみたいに死んじゃうよ!」
 ケツァの言葉を遮り、いきなりミティが叫んだ。突き放すように、走り去る。
 ケツァは、驚いた。まだ言いたいことがある。なのに、ミティがこれほど早く拒絶するとは――ケツァは、ミティを追い出した。
 その一部始終を、チニグとシンが、興味津々に見ていた。
     *        *
 ミティは、外れの林に隠れた。
 この辺りの林は、幹が異様に細い木が密生している。木材用の木をすべて南から調達しているという話が納得できる。
 生気のない林は薄暗く見渡しが悪い。
 そのためか、ミティを追ってきた足音はやがて途切れた。
 ミティは安心するとともに、とたんに緊張の糸が切れ、泣きだした。
「戦なんかに、夢中にならないで……」
「――それほど、あの少年を好いておるか」
 いきなりのチニグの声に、ミティは肩をびくりとさせた。
     *        *
 ミティを見失って林をさまよっていたケツァは、シンと出会った。
「《隻腕の風》、ミティを知りませんか」
「あちらでチニグが相手をしている」
「ありがとう」
 ケツァは礼をして行こうとしたが、
「女と女の話だ。行くな」
 と、シンに押し止められた。
「シン、なぜ」
「ケツァ。ミティが大事なら、追うな」
     *        *
 ミティは目をこすり、チニグのほうを向いた。
「チニグさん。夢って、意味があるの?」
「意味……か――」
 ミティは、チニグの返答を待った。
「――ないな。すくなくとも多くの者にとっ
て夢は、理想や希望にすぎぬ。幻だ」
「幻……なのに、なぜ――」
「なぜ、男は夢に夢中になれるのか」
「……うん」
「私はケツァではないからな。分からぬ」
「ケツァは、私とイナアに来るって言ったのに……」
「男とはそういうものだ。ケツァのようにまっすぐな者ほど、夢にとりつかれやすい」
 ミティの目がいっしゅん座った。
「……それって、ケツァが馬鹿ってこと?」
 チニグは、頭を掻いた。
「誉めているつもりなのだが……それに、ケツァの心は外に開かれている」
「えっ」
「遠くから見物していただけだが、実は私は君たちを四年前から知っていた。ケツァは異なる民であるミティ、君とよく一緒にいた。私もミクトラン族にとっては異なる民だ。だからケツァに色々と話した」
 ミティは、頬を染めた。
「うん、そうなんだ。五年前、見知らぬミクトランに来て不安だった私に、最初に笑いかけてくれた男の子が、ケツァだったの……だから私……」
「……いいな。私にもそんなときがあった」
 チニグは笑った。ミティはそれに見取れ、思わず赤面してしまった。
「私は《知る者》などになってしまったために、一八になっても夫がおらぬ」
「チニグさん……」
「その心、大事にしろよ」
 そしてチニグは去ろうとした。
 だが、ミティは、
「待って!」
 チニグの足が止まる。
「教えて、私はどうすればいいの? 私は、ケツァと一緒にいたいだけなのに!」
「ミティは、心に枷があるようだな」
「枷?」
「分からぬか? ケツァの夢は動いている。だが、枷で止まった夢は、あまりおもしろくないぞ……それでは、意味がないではないか。意味は夢が与えるのに」
 そして、天を見上げる。
「まあ、女の多くが枷の夢しか見れないのは、主に男のせいだが……ミティの場合は、ちがうものが働いているようだな」
「わからないよ、私」
「自分を見つめていれば、そのうち悟るさ」
 チニグは見守るように目を細めた。
     *        *
 ケツァはつぶやいた。
「ミティが大事って……」
 シンはうなずいて、
「俺が見るに、お前は夢に食われすぎている。一番そばにいる者の心に、気が回らないほどにな。もう少し回りを見ろ」
 ケツァは自分の手を見た。
「俺が……俺が、夢に食われている? そんなことはない。マンモス使いになれたし、上手くやっている!」
 ケツァは、敬語も忘れて怒鳴っていた。しかしシンは冷静に、
「ケツァの夢は何だ?」
「新天地!」
「ならなぜ戦で手柄を求める」
「強くなれるからだ。新天地が近づく」
「夢を甘く見るな!」
 とたん、シンは恐ろしい顔となった。
 ケツァは、表情が固まった。
「夢は怪物だ! 追い続けたいなら、時には距離を置いて冷静になれ!」
 そしてシンは、いきなり袖をまくり、右腕が根こそぎ奪われた傷跡を見せた。潰れた唇がたくさん生えたみたいで、ひたすら痛ましかった。骨が一部残っており、そこは小さな袋状に盛り上がっている。
「さもなくば……自滅するぞ」
 そして、服を直した。
「俺たちは、軽率にも勇者を気取って甘い夢を抱き、好奇心だけで動いた。そのせいでこのていたらくだ……チニグなどは人が変わった。ツルナロタスの向こうにある道に気づきながら、目も向けない。語りもしない」
「……なぜ」
「知らぬ。だが求めぬ。俺は赤に滅ぼされた青の子。白に救われた身ゆえ、白には多くを求めぬ。ただチニグを信じて待つだけだ」
「……すみません」
「なんだ?」
「すみませんでした」
「何に対して謝っているのだ。必要ない。俺は説教したのではない。忠告したのだ」
     *        *
 林から戻ったケツァは、ブルクを連れて近くの小さな池に向かった。
 池の中には先客がいた。
 トナティとマンモス・カトルだ。
 水浴びをしていたトナティが、手を振る。
「おお、来たか。ケツァも早くブルクを洗ってやれ。虫がけっこういるだろ」
 そしてトナティはカトルの肌についていた寄生虫を一匹つかむと、ひねりつぶした。
 ケツァはうなずき、上半身裸になって、ブルクと池に入った。
「狩長、それで何の用ですか」
「聞いたぞ……おまえ、無理をしたな」
「……はい」
「まさかとは思うが、ロックやトラルの後でも、追うつもりだったのか?」
「いいえ……夢を、実現させるために」
「夢か……ケツァの夢は、冒険者のはず。そうか、ロックのように勘違いをしたな」
「勘違い?」
「ロックは日頃から、ケツァのようになりたいと言っていた。ケツァは何でもできる、とな。つまり、うらやましがっていたのさ」
「ロックが……」
 ケツァは驚いた。ロックが、そんなことを考えていたなんて。
「だがロックは、別にケツァを憎んでいたわけじゃないぞ。そうでなくて、親友でいるわけがないだろう。あくまで、目標としていたのだ……ただ、トラルが死んだことが、ロックを変えたようだが……」
 トナティは、ケツァの肩をつかんだ。
「ロックは自分を戦士だと勘違いして死んだ。いいか、力に迷うな、惑わされるな。ケツァの心は戦士ではない。冒険者だ!」
 ケツァは、何も言えない。なぜ、トナティがこんなに熱くなるのだ。
「……おれのすべては狩りだった。群れを追い、矢を放つ。うまく獲れたときは精霊に感謝し、失敗したときは悪霊に悪態をつく。そんなことをしているうちに、狩長になれとさ。狩猟道楽に夢中で、結婚もしない大地母精シパクトリの敵が、なぜか戦の総大将……まあ今は、それなりに戦士を楽しんでいるが」
 そしてケツァの肩から手を離した。
「すまんな、話が逸れてしまった……つまりだな、自分に合うものを求めろ、と言いたいのだ。俺はろくでもないことに好きで命を張っているが、ケツァはちがう。戦手柄による名誉など、求めるもんじゃない」
「わかりました。もう、力に迷いません」
「それから、もうひとつ……夢を掴むなら、まず、思い込め! そして、急ぐな! おれはこの二つを実践して、思い描いたとおりの獲物を狩ってきた……女を除いてな」
 ケツァはトナティをまじまじと見た。
「夢とは、強いものなんですね」
「そうさ。だから夢を知っていると言った、チニグの味方をすることにした。夢を知らぬ赤の戦馬鹿なんか、お断りだからな」
     *        *
 次の日、ケツァは、トナティに物見を命じられた。
「実戦ができないなら、せめておまえの母コヨルの精霊が宿る人一倍な目を使え」
 ケツァは先日のこともあったので、おとなしく物見を承知した。ケツァのために湖岸に即席の物見矢倉が組まれた。
 方船を巡る小競り合いは二日間続いた。
 ミクトランと白の部族の連合は、小数ながらよく耐えた。五回の小競合いで、一二人の戦死者とその三倍の負傷者が出たが、すべて勝利に終わった。マンモス・カトルの力が大きかった。
 ケツァの物見ぶりは実に優秀で、敵の奇襲攻撃までも見破ってみせた。
 そして三日目が来た。この日、赤の部族はいきなり戦法を変えた。
 朝、ケツァは、赤の部族の変化を作戦本部テントに知らせてきた。
「対岸に赤のカヌーが出揃い、まったく動きません。さきほど数艘がこちら岸まで来て、挑発の火矢を放ちました。木が数本燃えましたが、火事は自然におさまりました」
 そしてケツァは矢倉に戻っていった。
「だいぶ板についてきたな」
 とトナティが評した。
 そして作戦会議が始まった。
 作戦本部の白い革テントには、シン、トナティをはじめ、白の酋長スヌルクなど、一〇人ほどの主な戦士が集まっていた。
 敵の戦略変更に対する会議は、燃えるような激しい論争となった。焚火の煙ですすけた外輪支柱が、大声を受け揺れた。
「赤の酋長は総力戦を望んでいる! 受けなければ、戦の精霊に笑われる!」
「だめだ! われらは小数だ。この池に籠もっているからこそ、マンモスも生きる」
「だからといって、籠もったままでは、いつまでたっても戦は終わらぬ」
「食い物がある。あせる必要はない」
 意見は二分し、長らく平行線を辿った。
     *        *
 チニグはテントの前で、作戦会議が終わるのをじっと待っていた。白熱する声が、辺りに響いていた。
 チニグは、じっと無表情で立っていた。その回りに、会議に参加している男の妻や子供たちが、不安そうな顔で寄り集まっていた。
 そこに、族長アトルがやって来た。
 杖を突きながらであったが、一人で歩いていた。その両隣には、キアとククルカンがついていた。
 チニグは会釈をした。
「足の傷はよくなったみたいですね」
 女子供も、敬うように挨拶した。
 アトルは軽く応えてから、
「チニグ、さすがに今回は会議が長引いているようだな」
「はい」
「不満かね、チニグ……」
 チニグは一瞬眉を動かした。
「何のことでしょう」
「いやなに。よい策があるのに、戦に参加できぬ女の身を、呪っているような恐い顔をしていたのでな」
「いいえ、私はただ……」
「行くがよい」
「…………」
「この戦は、《血羽根》の私事な妄想が生んだ、愚かな迷走だ。そんな私戦に、男たちが勝手に定めたタブーなど関係なかろう。踏み出すがよい、《知る者》。私は、馬鹿げた口伝を繰り返させたくない」
「私の知らない、ミクトランの伝承……」
「いずれ時が来たら教えよう。だがな、その前に、この迷走の戦はなんとしても勝たねばならん――それには、男だけの力ではとうてい無理だ。分かっているから、こうして集まって来たのだろう?」
 チニグは、自分を囲む女たちを見た。
 女たちは、迷わずにうなずいた。そして女たちは、胸に溜めていた不満を吐いた。
「戦闘のたびに林に逃げるのは飽きたわ」
「そうだい。役に立てるのに、立ったらいかんという男の了見、もう我慢できん」
「私たち、枷の夢を強制されるのはいや!」
「戦って、自分の手で命を勝ち取りたい」
「さあ、行ってきて、《知る者》」
 声に後押しされ、チニグは正面を向いた。
 白いテントがあった。
 覚悟を決めた。
 一歩を、踏み出した。
     *        *
 会議は、すっかりしぼんでいた。いまや話をするのは、トナティとシンだけである。
「だからシン、いっそのこと、赤の部族を無視して河を下ろうぜ。どうせ捨てる里だ」
「のろい方船だから追いつかれるだけだ。だから、したくもない戦をしてるのだぞ」
「ああ……そういえばそうだったな」
「疲れているなトナティ。なら、そろそろ決めようぜ。やっぱり決戦だろ」
「シン、決戦をしたところで、勝てる作戦がないと言ったのはおまえだろうが」
「うっ……」
 そして二人は黙った。ついに発言する者がいなくなり、テントに異様な静けさが漂う。
 ――そのとき、
「私に考えがある」
 と、チニグがテントに入ってきた。
 男たちは、一様に驚いた。
「チニグ様! ここは男の聖域です。いくら白の酋長の娘でも」
「そうだ……引いてもらおう」
「《知る者》、悪いが出ていってくれ」
 と口々に退場を望んだ。
 だがトナティとシンは心底困った顔で、
『……ぜひ聞かせてくれ』
 と、同時に言った。
 これに男たちはびっくりして、口をつぐんだ。
 スヌルクも目を丸くして、勝手にしろとでもいうように、両手を挙げた。
 チニグは、何の運命のいたずらか、奇跡的に発言権を得られたことを皆に感謝し、作戦を話しはじめた。
「決戦をする。しかし、この池を使う」
     *        *
 晩、ケツァは物見矢倉の上で、物見を兼ねて武器の手入れをしていた。
 いよいよ決戦だというので、池の湖岸は準備に大わらわであった。携帯食調理に多くの焚火が囲まれ、いつもの数倍の煙がもくもくと立っていた。
 ケツァは矢倉の揺れを感じた。
「ここにいたんだ」
 ミティが昇ってきた。
「ねえ、すごい煙。今までは偽物を燃やしたりして、いつも同じ数にしていたのに」
 ケツァは、作業を続けながら答えた。
「チニグが言うには、敵がこちらの意思を了解して、奇襲の心配が減るって」
「へえ……」
 ミティは対岸を見た。そこにも多くの煙が昇っている。風は穏やかで、煙はのんびりとうす暗い空に棚引いていた。
 静かで落ち着いた時間であった。
「……明日は、とても騒々しい一日になりそうだね」
「そうだな。それにしても、すごい決断をしたものだ」
「私、戦って嫌い」
「……ミティ」
「だけど、もうやるしかないってチニグさんが。私もなんとなく分かるの」
「そうか。あの人も、ミティも偉いな――」
 ケツァは風切羽根を填めて完成したばかりの矢を調べ、満足して革の矢筒に納めた。
「終わりだ」
 それを待っていたかのように、
「――ねえケツァ、カマク叔父さんが呼んでいるんだけど、いい?」
 と、ミティが早口で言った。どういうわけか、顔が青い。
「なんだろう。行くよ」
 ケツァは、物見を近くの男に頼んで、ミティとカマクのところに向かった。
 カマクは最初の戦闘で背中を負傷しており、他の怪我人に混じって木陰で寝ていた。
 カマクはケツァに気づくと、草の蒲団を払って座り起きた。
「ケツァ……なんだか目の光が変わったな」
「そうですか?」
「ああ、変わった。迷いがない」
「……それで、何の用でしょうか」
「――ミティと、結婚の約束をしたってな」
「!」
「だが、おまえは夢が大きすぎる。ミティの夢を守ってやることが、できないほどにな」
 カマクは、ケツァを正面からにらむ。鋭い。あの豪快だが根は温厚なカマクのどこに、牙のような心が潜んでいたのだ。ケツァの顔は汗であふれた。
「それで聞きたい。ケツァ、おまえが迷いを消した、今の、心の内を語れ!」
 ケツァは、ミティを見た。ミティは、祈るように視線を合わせる。
 ――ミティの実の両親は、すでに他界している。ミティの親は、カマクだ。
 これは、試験であった。
 ケツァは自問した。
 おれは、ミティが欲しいのか?
 欲しい。
 ロックが死んだとき、心の穴を埋めてくれた、ミティが、欲しい――
 ケツァは、カマクを見据えた。
「テスカ父さんが夢に挑んだのは、二二のときでした」
「それで?」
「……おれは、まだ一四です。あせる必要は、ありません」
「つまりいつかは、新天地を目指すのだな」
「はい。それまではひたすら力をつけて、夢を追う準備を整えたいと思っています」
「それでは、答えになっておらぬ」
「……そして、ミティの夢も叶えてみせる力を、つけるのです」
 カマクは、唖然とした。
「おのれの夢だけでは飽きたらず、ミティの夢までしょいこもうというのか!」
 ケツァは真面目な顔で、
「はい」
「これは、なんという大言家か!」
「思い込み、あせらなければ、夢に食われずにすむでしょう」
「――その器はあるのか?」
「でなければ、ミティがおれを好きになるはずがありません」
 ミティの顔が、真赤に火照った。
 言ったケツァ自身も、かなり赤い。
 とたん、カマクは笑った。
「なんという奴だ! こんなに正面からぶつかってくるとはな……ワシでは、とても耐えられぬわ」
 そしてしばらく、カマクは何も言わずにあらぬ空を見ていた。
「よいよい……常に意識を持ち、構えておれば、できぬこともできるだろう」
 カマクは、ケツァに握手を求めた。
「ワシはな、木舟一筋だった。あまり熱心だったので、はやり病で死んだ妻と子たちを幸せにできなんだ。それで屈折したのか、二度目の恋をしたのは、弟の人妻だった。忍ぶ片思いだったが――」
 ケツァとミティは、顔を見合わせた。
「……その者が死んだとき、ワシは自分へのせめてもの慰めと思い、忘れ形見を養子にした。むろん、その子自身も幸せにしてやろうと思うてな」
 そして、ケツァとミティを見る。
「その心意気が精霊に通じたのか、こんな歳になって、方船シパクトリだ。職人として、これほど誇らしい仕事はなかった――」
 方船シパクトリを愛しげに見る。
「――しかもおい、浮いているぜ」
 カマクの目尻が、にじんだ。
「ワシのささやかな望みは、待つことで達成された……」
 目をこする。
「イナア族とミクトラン族は、共にオオワタリガラスを精霊の主と仰ぐ民。それに外からの血縁は勇者をもたらす。おそらく、誰も異を唱えまい。ケツァ、ミティを頼む。だから――絶対に死ぬなよ」
「わかっています」
 ケツァは、強くうなずいた。
 俺は、なんという勘違いをしていたのだ。
 心のみが、夢を追う源泉なのに。
 夢は、想う行為こそが大切なのだ。
 きっと、そうにちがいない。
 ケツァは確信に近い思いを抱いていた。
 死んでたまるか。
 だからこそ、ミティを、みんなを守る。
 オオワタリガラスよ、俺はこの《試練》を、きっと乗り越えてみせるぞ。

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