第二章 黄昏大禍 CASUS

旭和ラノベ
夢幻のフムスノア/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章

 五〇歳以上の男性が族長のテントに集まった。夏村は穏やかな雰囲気が払われ、一転して緊迫の空気に満ちた。
 族長のテントはトナティらミクトラン族屈指の戦士たちに守られている。
 そんな時であった。
 いきなり北の岩場からねずみがおしよせ、集落を縦断したのだ。灰茶色の敷物となったねずみたちは、つぎつぎと海に飛び込み、沖に向かって泳いでいる。
 ケツァは思った。
 まるで、逃げているようだ。
 おかしいのはねずみだけではない。海鳥や水鳥がいつもより高い空を飛んでいる。カリブーやイヌ、マンモスも怯えていななく。
 ――なにから、逃げているのだ?
 もしや、洪水……
 だが、ケツァは首を振る。
 いくらなんでも、唐突すぎる。アツァアスルの女から聞いたのは昨夜だし、族長に話してまだたいした時間もたっていない。これは気のせいだ。
 だが、状況は刻々と変化する。昼だというのに、空に発光が起こった。ごくたまに見られる昼のオーロラであった。だがそれは、赤と紫の、無気味な空のしみだ。普段が熟練の絵師による傑作なだけに、天空に合わぬ絵師見習いの習作が、皆の不安を煽った。
 さらに風が止む。風音が生活の一部であるミクトラン族には、無音は気味が悪い。
 いったい、なにが起こっているのか。
 日常ではない変化が、加速して起こっている。けっして、季節の変化ではない。
 人々は広場にかたまり、精霊に祈った。
 だが――
「空気が、ざわついてる!」
 ミティが、前触れもなく叫んだ。
「こわいよ……なにか、なにかが来る!」
 カマクが、姪の肩をはげしく揺さぶる。
「どうしたんだ、落ち着け」
 ミティは、がたがたと震えている。こんな反応ははじめてだ。ミクトラン族も、ミティの力を知っている。息を呑む者、頭を抱える者、座りこむ者。いったい、どんな恐ろしい何物が来るというのか……
 ケツァが、カマクにかわりミティに語る。
「……いいか。具体的に、何が、来るんだ」
 すこし心を静ませたミティは、こわごわとうなずき、ゆっくりと東を指さした。
 皆は、いっせいに東を向いた――
 その瞬間。
 目の前で、いきなり、氷が、
 ――爆氷した。
 昨日も、その前の日も、前の年も、ずっと変わることがなかった大氷原が、青白い爆発を起こしたのであった。
 空気中に飛び散る大量の氷が、銀に輝く。
 そして氷片が舞う煙の中から、塔が生える。泡立つ、白い塔。水だ。水の塔だ。
 塔の高さは、とうていわからぬ。マンモス一〇〇〇頭を重ねたより、高いだろう。
 天を貫く塔は、やがて、ゆっくりと崩れ、直後、すさまじい煙の円輪が、地面を這いだした。
 衝撃波であった。
 その煙を追うように、水が、白い水が地面を浸食していく。陸津波だ。水はたちまち、茶へと濁る。
 そのとき、ケツァは気づいた。
 すべてが無音の中で起こっていたことに。
 ケツァは叫んだ。
「来る! 耳を塞いで!」
 皆は、それで硬直が解け、いっせいに地面に這い、あるいは震え座った。
 そして――衝撃波の前に。
 大揺れが、地の揺れが来た。激震だ。
 地震はあらゆるものを撫で、破壊する。家は倒れ、岩は転がり、人も転がった。
 風は唸り、大地はしゃっくりをあげた。人は跳ね倒れ、一人として動けない。悲鳴は聞こえぬ、届かぬ。無力だ。
 続いて、煙とともに衝撃波が、第二撃が重なった。空気を伝わってきた、濃い音の塊が、ミクトランの夏村に殴り込む。
 服は唸り、石が踊り、テントは震えた。気持ち悪くなったり吐き気を覚えたりした者が大勢いたが、音の嵐は容赦ない。
 そして、地震と騒音がようやく一段落したころ、人々はなけなしの自由を回復した。
 ケツァはあらためて見た。
 氷原から溢れた水が、灰色の大津波となり、こちらに押し寄せている様を。それは岸に寄せる波のスローモーションであった。ただ、あらゆる波より高く、強大にちがいなかったであろうが。
 それは夢ではなかった。
 また、幻でもなかった。
 ケツァは、その様子を、しばらくじっと見つめていた。まるで彫刻のように動かず、幻影を見ているような呆然の表情で。ケツァには、この事実を受け入れる覚悟などなく、準備があったわけでもない。
 なぜならば、災いは本当に突然、わけもなく降りかかったのであるから。
 ケツァの脳裏に、前兆が蘇っていた。動物が減り、地震が増えた。それだけだ。それで、こんなことがわかるわけがない。
 氷原がぶち飛び、洪水が起こるなんて。
 誰に予測できただろう。だからこそ、納得できない――だがこのままでは、死ぬ。
「に……逃げなくては」
 ひとりの男が、ぽつりと言った。
 次の瞬間、恐怖は一気に伝播していた。
「う、うわあ、走れえ!」
「高いところに……西の精霊の丘だ!」
「だが、遠いぞ」
「ならば、どこに逃げればよいのだ」
「死にたくない!」
 混乱は恐怖を生み、我先にと目茶苦茶な方向に走りだす。
 ケツァはようやく、みんなが同じことを考えていたことに気づいた。だが、慌てるあまり、ある存在を失念している――
 ケツァは、声を張り上げた。
「俺たちにはシパクトリがある。方船に乗るんだ!」
「そうよ、船よ。方船にいって!」
 ミティも手伝ってくれる。
 だが誰も、聞く耳を持たない。
 二人は幾度も繰り返し叫んだが、効果はなかった。やがて二人があきらめかけたとき、
「まかせろ」
 と、カマクが助勢を買ってでた。
 カマクは、おもいっきり息を吸い込んだ。大腹がさらに膨れ、胸も倍近くに膨れた。
 ミティがあわてて自分の耳を塞ぐ。
 それをケツァは不思議な顔で見ていた。
 と、地面が震えあがる大声が広がった!
「し、ず、ま、ら、ん、か――!」
 ケツァとミティは、落雷を受けたかのように硬直した。
 あわてていた連中も、びくりと止まった。
 ケツァはくらくらだ。
 カマクは、皆に言った。
「落ち着け。洪水はまだ遠くだ、いますぐ来たりはしない――あのでかぶつに、方船に乗ろう。食い物と、怪我人を運ぶのだ」
 みんなは頷き、さきほどまでの醜態がうそのように避難の準備をはじめた。顔に緊張を浮かべつつ、倒れた家から怪我人を救助し、手当をした。
 ケツァはまだふらふらとしながら、カマクに礼を言った。
「あ、ありがとう」
 それにカマクは、
「なあに。霧の森で弟子どもを可愛がってるうちに、身に付いた技だよ」
 と言って、豪快に笑った。
「いつ聞いてもすごいわ。これってもう、凶器のレベルよね、うん」
 ミティは一人で納得して頷いていた。
     *        *
 地震で族長のテントは無惨に潰れていた。このテントは飾り付けで普通のテントよりはるかに重い。よって、会議で詰めていた長老たちの救助は困難を極めていた。
 長老たちは半地下に掘った穴とテントの合間にサンドイッチ状に挟まれ、全員が負傷していた。狩長トナティの指揮で救助作業が進められていたが、テントが重く、まだ一人も助け出せない。
「急げ、水がやって来るぞ」
 トナティは、もどかしさで苛立ちながら、部下たちを叱咤していた――ふとトナティは、奇妙な音を聞いた。笛を吹いたような――いや、これはなにか飛んでくる音であった。
 誰かが悲鳴をあげた。
「うわあ、氷だぁ!」
 空から、氷のつぶてが落ちてきた。
 それは近くの岩を直撃した。粉々になって飛び散る。岩は、人の頭ほどある岩は、まっぷたつになった。
 トナティは驚いて空を見る。
 おそるべき光景があった。
 空が光っている。最初の爆発で吹きあがった大量の氷が、天を銀に染めていた。空に青白い雪原があらわれたみたいであった。
 その光が、大量の光が降ってくる。
 雹だ。
 カマクの喝で戻っていた秩序が崩壊した。
 救助作業は止まった。ある者は精霊に祈り、ある者は隠れ場所を求める。
 氷は次々と降ってくる。雹の地獄だ。
 トナティは、雹弾から逃げようとする戦士たちを叱咤した。
「おまえら、戦士の義務を怠るな!」
 幾人かの気概ある戦士が残る。トナティと力を合わせて、族長たちを救助すべく力をふり絞った。だが、テントは動かない。
 それどころか、一人の戦士が背中を雹に打たれ、負傷してしまった。
「加勢する!」
 卒倒して暴れる男の穴を若武者が埋めた。
「ケツァ、すまん……いくぞ、せいやっ!」
 トナティの号令に合わせ、ケツァを含めた戦士たちは持てるすべての力を込めた。
 重いテントが、すこしずつずれだした。
「よーし、一気にずらせぇ」
「おおうー!」
 テントが、家坑の半分ほどずれた。そしてようやく、土まみれの長老たちがあらわれた。みんな弱っている。
「大丈夫ですか!」
「……すまんな」
 トナティの問いに、族長アトルは弱々しく答えた。それに満足すると、トナティはアトルを診た。左足が腫れている。
「骨が折れてる」
 そこにケツァが来た。
「ここでは手当できません。シパクトリに」
「二人でゆっくりと運ぶぞ」
 ケツァとトナティは、慎重にアトルを穴から出した。
「他の長老たちも、早く!」
 トナティが言うまでもなく、戦士たちは長老たちを介抱しはじめていた。
 そのときであった。
 巨大な、とてつもなく巨大な影が、族長のテントに重なり――すさまじい音がした。穴にいた者は、なにが起きたのか理解する間もなく、二度と戻ることのない意識の喪失を迎えた。
 トナティはとっさにアトルをかばった。トナティの背中に、大量の氷粒が当たった。
 そしてそれが止んだとき、トナティは穴が巨大な氷塊の直撃を受けたことを知った。
 穴は、赤く染まっていた。
 トナティは一瞥で顔をそむけた。生者はほとんどいなかった。長老組で生き残ったのは、族長アトルと、すべての口伝を一子相伝で伝えてゆく語部のククルカンだけであった。
「トナティ狩長……ここは危険です。はやく方船に……」
 ケツァの声は震えていた。
「ケツァ、お互い悪運が強いようだな」
 トナティはアトルを背負い、船に向かった。その後を、語部ククルカンを背負った戦士が追いかける。負傷した戦士たちがさらに後につづいた。
 ケツァは空を見上げた。
 巨大な氷塊が、次々と空から落ちてきていた。それは本当に美しく、壮大であった。
 ケツァは走った。
     *        *
 ケツァやトナティは、あちらこちらに氷の死弾を受けた骸が転がる地獄絵図の中をひた走り、方船シパクトリにたどり着いた。方船は丈夫な屋根が幸いして、多少の雹ではびくともしていなかった。
 戦士の一団はマンモスが歩けるほどの幅がある盛土の登口をあがり、船の中腹に開いた入口から方船シパクトリに入った。
 方船の中は上層、下層の二層構造になっている。入口から、どちらの層にも行ける。下層は巨大杉――セコイアメスギの半円柱塊からくりぬいた広い空間で、多くの人々でごったがえしていた。上層の屋形には食料などの荷物が運び込まれている。カマクがイナアから持ってきた木材も搬入されていた。
 人々は三種類に分かれていた。黙って精霊に祈る者。ひっきりなしにしゃべる者。そして、傷を負ってうめく者とに。イヌはひたすら吠えつづけている。
 そこにはあらゆる負の感情が渦巻いていた。地鳴りはしだいに大きくなっており、決定的瞬間がもうじきであるのは確実だった。
 ケツァとトナティはシャーマンのキアを探した。シャーマンには医術の心得がある。キアに、族長の治療を頼みたいのだ。
 だが、キアはどこにもいない。
 あせりだしたケツァとトナティであったが、そこに少年ロックが駆けよってきた。
 ロックは涙顔でケツァに抱きついた。
「大変だよ! トラルが丘に行った!」
 ロックは動転していたので、わめく中でケツァが聞き取れたのはそれだけであった。
「トラルはキアの娘、もしや……」
 トナティは、皆にキアの行方をたずねた。
 すると、キアは一〇〇人ほどひきつれ、精霊の丘に向かった、という情報を得た。おそらくトラルも含まれているだろう。
「なんと馬鹿な! 間に合うわけがない、引き返させないと……」
「俺がマンモスで行きます」
「だめだ。俺のカトルのほうが、おまえのブルクより速い」
「長老連が全滅した今、一族を指揮するのは、狩長、あなたしかいないのですよ」
 トナティは、はっと気づいた。
 狩りや漁、あるいは戦時の総責任者である狩長は、将来の族長候補がつとめる。いわば、副族長だ。焦りで、トナティは自分の立場を失念していた。
「だから、俺が行きます」
 ケツァは走り出した。
 ふたたび、試練の園へ向かって。
「……死ぬなよ、ケツァ」
     *        *
 集落の外れに、二頭のマンモスがいた。若いブルクは、すっかり怖じ気づいて右往左往していた。もう一頭、円弧に近い牙を持った年長のマンモスは、なにかを信じているのか、じつに泰然としている。
「ブルク!」
 そこにケツァが駆けつけた。
 ブルクはとたんに鼻をあげて喜んだ。おちついているほうは、無感動に鼻を揺らせる。
 ケツァは器用にブルクの前脚からよじ乗り、すぐに出発した。
 ケツァは出発の間際、平静な象に教えた。
「カトル、おまえの主人は責任ある立場となった。待たずに、自分で方船に行け!」
 そしてブルクを駆けさせた。
 ケツァが去ったあと、カトルはしかたがないなという感じで、ゆっくりと歩きだした。
 カトルは途中で、迷子になって泣いている子供と出会った。
 そのときカトルは、子供めがけて落ちる巨大な雹を見つけた。
 カトルは急いで子供の上に覆い被さった。
 巨雹は、カトルの左牙に当たって砕けた。
 すごい音が響いた。
 血が、散った。
 カトルの牙が根元から赤くなった。
 カトルは、しかし何事もなかったかのように鼻でその子をつまみ運んだ。カトルはまた、怪我をして動けない女性を見つけた。彼は子供を右牙に抱きつかせると、その女性を丁寧に鼻で運んだ。
 そしてシパクトリにつくころには、彼は二人の迷子、四人の負傷者を背や牙にまとわせていた。
 カトルは堂々の入船を果たした。
 下層は大人六〇人ぶんに等しい重量のカトルを受け入れ、少々きしんだ。
 方船に入ったところで、カトルの象牙が根元から落ちた。
 雹に耐えられなかったのだ。
 血が溢れ、船内にいやな匂いが充満した。
「えらかったぞ……カトル」
 子供から事情を聞いたトナティが、手当をしながらカトルを誉めた。が、カトルは無愛想な鼻息を主人に吹きつけただけであった。
     *        *
 ようやくおさまりつつある雹の中を、ケツァはブルクで駆けた。
 もはや廃虚に等しい村を抜け、西をめざす。大河のほとりの、精霊の丘だ。
 ……精霊の丘はこのあたりで一番高度がある。とはいえ、せいぜいマンモス一五頭ぶん。出水の勢いを考えると、たとえ水没しなくとも、丘の頂上まで厳しい洪水の洗礼を受ける。だいいち遠すぎる!
 やはり無理だ!
 ――なぜ、方船に乗ってくれないんだ。
 無論、方船にも命の保障はない。だが丘への行進は自殺行為そのものだ。
 ――トラル!
 ケツァは内心でいらだちを沸騰させつつ、キアやトラルを追った。
 それにケツァは、方船ではっきりと探したわけではないが、ミティやカマク、カリブーたちを見いだすことができなかった。もしや、という気持ちが、ケツァを駆り立てる。
 そのうちケツァは、不運にも大雹を受けて帰らぬ人となった死体が点在して、西にのびる様を見た。ケツァは目をそむけ、嘔吐をこらえるのが精一杯だった。それらは皮肉な道標となり、ケツァを導いた。
 ケツァがある小さな段差を越えたとき、一台のカリブーゾリと二〇人ほどの歩きの集団と顔を合わせた。
 九頭のカリブーが引くソリは、ミティと力持ちヤハランが指揮していた。
 出会頭に、ミティの顔が火照った。
「ケツァ!」
「ミティ、ヤハラン、丘を目指した者はこれでみんなか?」
 ヤハランが首をふった。
「キア殿を、親方と口のうまいアシが説得している。俺とお嬢は、戻ることに同意してくれた者と、怪我人を運んでいるのだ」
 ソリの荷台には、負傷者が数名いた。
「ミティ、トラルはキア様といっしょか」
「ケツァ、あの子が気になるの?」
「今はそんなことは関係ない!」
「ごめん……トラルはこの先にいるよ。私がいると彼女が興奮して説得できないから、カマク叔父さんが帰れって」
 ミティは、悔しそうな顔をした。涙がひとすじ、頬を垂れる。
 ケツァは、ミティを慰める言葉が出ない。
「――わかった。おれはカマクのところに行く。ミティは……はやくシパクトリに」
 これだけしか言えなかった。
「うん……あ、待って」
 ミティはケツァをじっと見た。そして、安心したようにうなずいた。
 危険は感知されなかった。
 ケツァも安堵した。
 そしてミティ、ヤハランと別れ、ケツァはいよいよブルクを急き立てた。
 ケツァの思いが伝わったのか、ブルクもその酷使によく耐えた。
 やがてケツァは、探していた集団に追いついた。五〇人ほどの集団は、雹で消耗したのか、歩みは遅かった。
 彼らはまだ、見えぬ丘を目指していた。
 その集団の先頭に、カマクとアシがいた。カリブーゾリを引き、荷台には負傷者らしき数名が乗せてあった。
 ケツァは驚いてカマクの元に向かった。カマク爺は、皆を説得していたはずではなかったのか。
 ケツァはブルクをソリの横につけ、マンモスの上から話しかけた。
「カマク爺」
「ケツァか。ミティに会ったか」
「もう方船に着いた頃です」
「そうか、ならばいい」
「カマク爺も、はやく船に。精霊の丘は間に合いません!」
「そうはいかん。もはや戻る余裕はない」
 カマクは、後ろを指さした。
 ケツァは――驚愕した。
 刻一刻と、広がりつつある水の台地。扇状に一面とミクトランを覆い、かすむまで離れてしまった集落の手前に迫っている。
 いつの間に、こんなに水が出て来たのだ。
「揺れるマンモスの上では、まったく気づかなかったようだな」
 たしかに、地鳴りは無秩序な旋律を奏でていた。それがすべて水の音であるということを自覚すると、ケツァは背筋が凍った。
「カマク爺、おれは……」
「いまさらあの波のプレッシャーに逆らって戻ることは、誰にもできんよ……」
 無念そうに口をつぐんだカマクのかわりに、隣のアシがつづけた。
「ケツァさん、こうなったからには、丘を目指す助けをするほうが建設的なのです」
 選択の余地はなかった。わずかな可能性を祈りつつ、精霊の丘を目指すしかない。
「では、歩き疲れた者をブルクに」
「恩にきります、ケツァさん」
 ケツァは、どうしようもなく疲弊していた七人をブルクの背に乗せた。その最後のひとりは、シャーマン・キアであった。
 憔悴の声で、キアは謝った。
「すまない……だが、これだけは言わせてくれ。私にはどうしても、方船が精霊の祝福を得ているようには見えなかったのだ」
「シパクトリを最初に作れとおっしゃったのは、あなたではありませんか。とにかく、お詫びはアトル族長にしてください」
 すると先に乗っていた者がわめきたてた。
「謝ることがあるか!」
「浮いたこともねえぼろ船だぞ!」
「そうよ、薪にすればいいのに」
「長老たちが新天地にかける情熱は異常だぜ。この一〇〇年で、何人死んだと思う」
「なんで俺たちが苦労する道理がある!」
 全員が方船計画に賛同しているわけではないことは、ケツァにもわかっていた。だが船や長老連への反目だけで、無謀な道を選択する大人の意地と理屈は、若いケツァには理解できない。
 ケツァは苛つきのあまり、腹に据えかね、
「だまれ!」
 と叫んだ。その勢いが、言い訳に夢中であった連中の口を、一様につぐませた。
 そこに、少女の声がつづいた。
「今は、逃げることのみを考えましょう」
「トラル……」
 トラルはブルクの下から見上げている。
「ごめんね、巻き込んで……」
「らしくないぞ、いつもの強気はどうした」
 ケツァは長い鞭でトラルの頭をはたいた。
「へへっ、私のために来てくれたんだ」
「ちがう。キア様を連れ戻しにきたんだ」
「わかってるわよ」
 そしてトラルは、
「父さま、生きのびましょう!」
 と、ない力こぶを作ってキアを励ました。
「……そうだな。生きよう、皆で」
 その言葉が利いたのか、この後、一行の進行速度はずいぶんと回復した。
     *        *
 ミティは、迫る水にむかって進みつづけるという忍耐に勝ち、方船に戻ってきた。道中で四人ほどが恐怖に耐えきれずに丘のほうに去ったが、それでもミティは、五人の怪我人を含む二一人と一頭のイヌを導いてきた。
 水の音は無視できないほどはげしくなっていた。人々は急いで方船に乗りこむ。ミティたちの後から、食料を積んだミクトラン族のイヌゾリが勢いよく走りこんできた。クジラのあばら骨でできたソリが段差で跳ねる。
「ソリはこれでさいごだぞ!」
 急停止したイヌゾリの男が大声で言った。
 そのとたん、ミティは寒気を感じた。鳥肌が立つ。そして目を大きく見開き、口をなかば開けて震わせた。
「なんでよ……」
 ミティはいきなり一頭のカリブーにまたがると、弾けるように方船から出た。
 しかし出入口から出たところの傾斜路で、しんがりの狩長トナティに通せんぼされた。
「だめだ、イナアの女」
「感じたの、行かせて!」
「死ぬ気か!」
「……叔父さんが、ケツァが」
「もう間に合わん」
「だって、だって……なんで私の力って、いつも、いつも間際に……」
 ミティの頬が濡れた。
「六年前、ナミ母さんが、怒った火の山の、熱と灰の流れに……私、危険を感じたの。でも本当に直前で。だから、母さんを助けにいったヴェイ父さんまで……今も、ケツァが、カマク叔父さんが、アシさんが……」
「……彼らは、勇者だ……きっと精霊の丘に向かっているだろう」
 だがミティは、いつまでも丘の方角を見つめていた。その合間も、水音はみるみる大きくなっていた。強い風を感じたトナティはじれったい様子で洪水を見て――とたんに青ざめた顔となり、ミティを抱えあげた。
「きゃあ、何するの」
「黙ってろ!」
「うっ……」
「まったく、自分こそ危ないくせに……」
 そしてトナティはミティを小荷物のように右脇に抱え、方船に乗り込んだ。後からカリブーどもがついてきた。
 水音に、にわかに風音が混じっていた。
「閉じろ!」
 すると、内開きの大扉のそばにいた者たちが、汗塗れのゆがんだ顔をして一気に扉を閉め、横木をはめた。最大の入光口を失った船内は一転して暗くなり、人々は心細くなって身をよせた。
 その直後、
 激しく叩きつける音。膨大な水だ。
 音は滝のようだ。船がはげしく揺れる。
 人々は目をつむり、抱き合う。すべては見えぬ、暗がりのなかで起こっている。音は次第に、連続する轟音へと移っていった。
 つづいて、方船が、大きく傾いた。
「きゃあ」
「うわあ!」
 シパクトリの中は、大騒ぎになった。
 木々がきしみ悲鳴をあげた。
 人も悲鳴をあげた。
 そして各所から、とくに大扉の隙間から、勢いよく水が入りだした。
 それを見た族長アトルが、よわよわしい声でそばの者に指示を出した。
「……草だ。マンモスの草を詰めろ」
 下層のすみには示し合わせたように、マンモスの餌となる草が大量に積んであった。皆は草束をリレーで運んだ。そして出水の箇所はともかく、あたりかまわず力まかせに草を押しつけ、ねじり込んだ。
 しばらくして彼らは報われた。水の流入をなんとか阻止できたのだ。
 だが、船はまだ傾いたままだった。
 トナティは祈った。
「頼む、もってくれ!」
 やがて船は、徐々に水平をとりもどした。
 船は左に、右に揺れた。外では轟音が聞こえ、ときおり浮遊感もくる。
 どうやら、無事に浮いたようだった。乱暴きわまりない浸水式は終わった。皆は安堵し、トナティも安心した。
「はは……助かった。さて、どうす――」
「いいかげん離しなさいよね」
 真近の声が、トナティの言葉を遮った。
 ミティであった。抱えたままだ。
 トナティは慌ててミティを脇から開放し、心底からあやまった。
「すまぬ、イナアの女。気がつかなかった」
 だがミティは怒っている様子でもなく、
「……まあ、助けてくれたんだし……ありがと……」
 ばつが悪そうに礼をし、
「それから、私はミティだってば。トナティさん、悪い人じゃないんだけど、せめて、もうすこし女の子の扱いを勉強してね」
 とつけ加えた。
     *        *
 ブルクの背上で、ケツァは集落が水に巻きこまれる様を目撃していた。
 人並み外れて目が良いため、生々しい光景を見ることとなった。家々が形あるまま飲まれ、次の瞬間には、ばらばらになっていった。集落の輪郭は、ひと瞬き、ふた瞬きの間に、溶けるように水に消えてしまった。方船は壊れなかったが、浮いたかどうかは、波が荒れていてわからなかった。
「ちくしょう!」
 ケツァは、いよいよさかんにブルクに鞭を入れた。ブルクは足を速め、精霊の丘を目差す一行の先頭に躍りでた。
 ブルクの上下する背上にいるキアは、振り落とされないよう必死にしがみついている。
 いつのまにか、人々は走りだしていた。
 いまやカマクとアシも、カリブーたちを急かして、きつい掛け声を連呼している。
 走るうちの数人が、加速したカリブーゾリに飛び乗る。だが、ソリの速度はまったく衰えなかった。
 もう全員がひた走っていた。誰もなにもしゃべらない。そこには、あえぎ声と足音と、遠くから聞こえる水音だけがあった。
 地衣類や草が生えている地面は、ずっと平らだ。草原をすべるよう作られた夏用の軽ソリは、ときおり石に乗りあげて跳ねる。そのたび、ソリ上から悲鳴がもれた。
 水音が、耳を突くような音にかわった。音は加速度的に、巨大になっていく。
 人々は、うしろを見た。そこには、迫ってくる水の壁があった。色は灰から茶へと変わっていた。砕け、そしてせりあがり、また砕ける波頭の濁流。えんえんと連なっている。
 そしてひきつらせた顔のまま、彼らは前を見た。丘は――精霊の丘は、ようやく遠くに頭が見えだしたばかりであった。
 もう――駄目か。
 ついに、幾人かが走るのを止め、あきらめたように腰を落とした。
 ケツァもあきらめる人を見た――その中に、トラルがいた。
 腰砕けのトラルは、泣きそうな顔をして、ケツァを見ている。
 片手をのばし、そして心細げに後ろを見た。波を、だ。
 動きが止まった。
 首だけ動かし、ケツァを見る――涙で顔がしわくちゃだ。短時間で、こうも変わるものなのか。
 ケツァの瞳に、印象深く焼き付いた。
 助けてやりたい。
 トラルを、ブルクの背に――
 だが、戻る余裕はない。トラルは、すでにはるか後方だ。父親のキアは、娘の脱落に気づいていない。ケツァは、どうしようもない現実に、やけくそに首を振った。
 もはやそこには、確固とした競争原理しかない。不合理な二足よりはるかに脚腰の強いマンモスとカリブーは、走る人々をひき離しつつあった。ケツァもカマクも、生きのびるため、遅れる人々を見捨てた。自己嫌悪のゆとりさえない。
 本能と力が、すべてを支配していた。
 音は容赦なく大きくなっていった。
 丘は、かすかな希望の丘は、その全体がようやく見えたところであった。
 ブルクは走った。カリブーも駆けた。カリブーたちの先頭にいるのは、超抜に速いキキンナクだ。だが、彼らの健脚をもってしても、魔の水をひき離せぬ。
 音響は、急速に加速した。そして、後ろから風が吹いた。水が空気を押しているのだ。ソリが轢き潰した、草の酸臭が届いた。
 するとケツァの脳裏に、ふと、ミティのことがよぎった。
 彼女は、無事だろうか。
「ミティ……」
 せめて、方船が浮いたかどうかを、ケツァは確認したかった。
 いきなり、突風が後方から襲った。
 そして――そして影が、なにもない荒野なのに、影が、いきなり覆ってきた。
 ケツァは、上を見た――そこには、灰茶の泡だった波頭があった。
 ケツァもカマクもアシもキアも、ブルクもカリブーたちも、そして乗っている他の人々も、祈った。死の精霊からの招待状が落ちてこないことを、願った。
 だが、無慈悲な絶対公平者である物理法則が、それを許さなかった。
 彼らは、音とともに波にもまれた。
     *        *
 水は――氷から沸いた水は、雪解けのミルキーウォーターよりも冷たかった。
 ケツァは急激な脱力を味わっていた。
 暗闇のなかでかきまわされている。息苦しいはずなのに、体がそれを知覚しない。
 ふと、体が刺すようにしびれ、強烈な痛みが全身にまわった。体の中心に向かうしびれる痛感。
 ――痛っ!
 息苦しくなった。手をのばす。しかし水流によって、腕はすぐに水の乱舞に従った。
 すべてが、思うようにならない。
 やがてケツァの意識は弱まり、もうろうとし、そしてぷつりと消えた。
     *        *
 ブルクは、目をつむり、暗い暴れ水にただよう現状を自覚した。毛の間から漏れる空気がこそばがゆくて鬱陶しい。
 ブルクは、乱雑な外部刺激に集中していた。背中の人が、つぎつぎと剥がれている。
 一人、また一人と、水の渦に消えてゆく。ブルクの五感は、視力を除いてはっきりとしていた。ブルクはさらに集中した。彼はついに、ケツァが離れた感覚を認めた。
 ブルクは、暗闇に鼻を、伸ばした。
 すさまじい水流が、鼻の自由な動きを阻害した。しかし、ブルクは耐え、力をふりしぼり――毛皮を、掴んだ。そして、一気に鼻を丸めた。そこには、彼がいつも親しんでいる主人が、一人、くるまっていた。おまけも一人いた。誰かは知らないが、ケツァの服を掴んでいたようだ。
 ブルクは、二人を牙と鼻の間に押しつけた。そして、厳しい水流に我慢した。
 やがてブルクは自然に浮きあがり、激流で渦巻く水上に顔を出した。
     *        *
 カマクはすでに浮いていた。
 カマクの課題は低水温だった。肥満気味のカマクは、厚い体脂肪のおかげでなんとか体力を維持できた。しかし冷気の刃は、脂肪の薄い脇や顔面、指、足首を攻めてきた。カマクはひたすら耐えた。
 しばらくしてカマクは四肢に力を込めた。にぶい。さすがに筋肉が緊張力を失いつつあった。彼は、流される方角を見た。その先には丘があったはずである。だが、荒れる水しか見えない。カマクは失望した。
 そのときカマクは、轟音にかすむわずかな音を聞いた。カマクはあたりを見回した。うまく首が動かない。
 いた――カリブーであった。見えたのは首から上だけだった。顔も首筋も黒かった。
「キキンナク!」
 黒のキキンナクもカマクに気づいた。しかしキキンナクには、あまり余裕がない。
 カマクは仕方なしにキキンナクに向かった。濁流が邪魔をするが、泳ぎには自信がある。やがてキキンナクにたどりついた。が、そのとき、カマクは引力を感じた。
 ――足を、吊った?
 なぜだ! 運動不足のはずはないのに。
 立ち泳ぎが維持できない。口に水が入る。息が苦しくなった。おそろしい。思わずキキンナクにしがみついた。キキンナクも悲鳴をあげた。さらに恐怖が高まった。完全に混乱した。カマクは、カマクは叫んだ。
「ナミー! ミティー!」
 カマクとキキンナクは絡み合い、水の渦に消えた。
     *        *
 ブルクは流れの急変を感じた。
 見ると、先に見覚えのあるトーテムポールがあった。これは丘をかわす水の動きだ。
 ブルクは決心した。
 流れるままにしていたが、体力が激減するのを知りながら、あえて流れに逆らう。
 精霊の丘は見えづらかったが、そこにつけば地に四つ脚がつくはずであった。
     *        *
 ――ここはどこだろう。
 ケツァは、まどろみの中で覚醒しつつあった。触覚……味覚……嗅覚……聴覚……五感がひとつずつ復活し、意識に統合される。
 さいごに、視覚が回復した。
 ケツァはしずかに目を開いた。
 ぼんやりとしたおぼろげな白が、水色を帯びた世界に変わった。それが空だと気づくのにしばし時間がかかった。
「回復したか」
 女の声が聞こえた。
「……うっ」
「どうだ、私の声が聞こえるか?」
「……ああ、どうやら、助かったみたいだ」
「そうか、それはよかったな」
 ケツァは、顔を動かした。
 そこには、あの女が、洪水を予言したアツァアスルの女が、背を向けて座っていた。
 ケツァを無視して、なにかの作業に没頭している。
「……あなたが、助けてくれたのですか」
「いや、マンモスだ」
「……ブルクが」
 ケツァは、自分がブルクの首筋の合間で寝ていることに気がついた。あたたかい。ブルクは疲れたように目をつむっていた。
 ケツァは起き上がった。そこは島だった。灰色の濁流に浮かぶ、小島だった。
 ケツァは、水の流れを呆然と見つめていたが、急に寒気を覚えた。ブルクの保温が切れたのだ。ケツァは、ふんどし状の下着だけになっていた。
 見れば、そばに毛皮服が置いてあった。すでに余分な水分は絞り取られている。女がやってくれたのだろう。ケツァは服を着た。アザラシ革が肌に張りついた。
 服を着終えると、ケツァは気を紛らわすかのように、ブルクの鼻を擦った。
「ありがとう、ブルク」
 すると、女の声が背中越しに届いた。
「主人思いのマンモスだ。おまえはやはり、正しい者のようだな」
 物言いは相変わらずそっけないものだったが、ケツァは不快に感じなかった。
 ケツァは興味を持って女を見た――すると女が屈んだ。女は、上半身を裸にした、髭面の太った男に人工呼吸を施していた。
 その横では、黒いカリブー――キキンナクが、心配そうにのぞき込んでいる。
「カマク!」
「この爺やはカマクというのか。だいじょうぶ、死んではいない。ただ、息をする力が、弱くなっているだけだ」
 そしてまたカマクの口に息を吹き込んだ。ケツァはそれが救急活動だとわかってはいたが、間近で見る接吻に胸が高まるのを留めずにはいられなかった。
「……俺は、どのくらい気を?」
「――ほんのわずかだ」
 カマクの介抱は、まだ時間がかかるようだ。ケツァは島を歩いた――と、ケツァは、見知っているトーテムポールに気がついた。トーテムは斜めになり、下半分の塗装が水流によるのか、だいぶ剥げていた。
「ここは……精霊の丘、なのか……」
 丘が、洪水で島になってしまったのだ。
 ケツァは、ショックでふらふらしながら、トーテムに近寄った。先端のオオワタリガラスまで、泥で汚れている。水は、ケツァの予測通りいったん丘全体を覆いつくしたのだ。
 ――ミクトランは、滅びた。
 そんな想いが、ケツァの脳裏をよぎった。
「いや、そんなはずはない!」
 ケツァは、否定しようとした。
 だが、
「滅びちまった、滅びちまった……」
 悲壮な嘆きとともに、シャーマン・キアが丘の反対側からふらふらと歩いてきた。
「……キア様、助かったのですね」
「おお、ケツァ、気がついたか。あの女が言うには、私もおまえも、ブルクが助けてくれたらしいな」
 そして疲れた顔で笑い、
「ケツァ、私のトラルを知らんか」
 ケツァの全身が強ばった。
「い……いいえ」
「そうか、ならいい……ああ、トラル、トラルはどこだ……水の悪霊よ、トラルだけは連れていかんでおくれ」
 そして、また丘をさまよいはじめた。
 ケツァは、トラルの形相を思い返していた。おそらく、あの顔を見たこと、トラルを見捨てたことを、一生キアに隠すことになるだろう――ひたすら後ろめたかった。
 とたん、ケツァの体は、小刻みに震えだした。足ががたがたと揺れた。立てなくなった。ケツァは座り込んだ。
 こわかった――
 そう、恐ろしかった。
 緊張がとけたケツァは、久しく出さなかった涙を流した。もはや、ミクトランは沈み、泥水の底になっているのだ。
 自分を抱いた。暖かい。生きている。おれは、まだ、生きている。
 水没した先を見た。はるか先、元凶の氷原は大きくえぐられ、水の山盛りが吹いていた。そこにはもやが立ちこめ、幻想的な雰囲気がただよっていた。ケツァは、しかし美しいと感じることはできなかった。できるわけがなかった。なぜならば……
「……なにが新天地だ、なにが冒険だ」
 ミクトランの大地があったからこそ、夢を語っていられたのに……
 精霊よ、ひどすぎる。未曾有の大洪水。俺たちが、どんな罪を犯したというのだ。
 自然に落ちる涙を拭う。それは風に散る。
 ケツァは、他のものを探す。いやな気持ちから逃げる、何かが必要だった。
 ふと、ケツァは、知らない形の舟を見つけた。丸木舟だ。それは割れ壊れたカヌーであった。帆柱つきという、珍しいものだ。ミクトランは風が強すぎて、帆の舟はない。だが、カマクがよく話していたイナアの舟にしても、胴が長すぎる。どこのカヌーだ。
 さらに観察してみる。カヌーは櫂も失われていた。横には、二人の男が寝ていた。
 不自然な眠り方だ。まったく動かない。
 ケツァは近づき、そして震えた。
 死体だった。見知らぬ男たちだ。遺体は白い草織服を着て、手を合わせた胸元には羽根飾りの冠が。これでわかった。
「アツァアスル族……」
 すると女が言った。
「エミッシにオクラム……私につきあってくれた、優しくて気のいい連中だった。あと一人いたのだが、彼は流された」
「…………」
「わかっていながら、結局はこのざまだ。まさか、こんなに早く来るとは……」
 カマクの心臓マッサージをしながら、女は悲しそうに言った。ケツァは、この女がはじめて感情を表に出したことに気づいた。
 そのとき、カマクが急に咳き込み、口から水を吐いた。
「カマクとやらが蘇生したぞ」
 タフなカマクはすぐに起きあがって痰を吐き、あっという間に覚醒した。
「ここは……美しい女よ、あなたが助けてくれたのか。ありがとう、感謝する、精霊殿」
「なんて元気な爺やだ。だが、私は精霊ではないぞ。人だ」
「そうか、精霊殿」
 カマクはおもむろに服を着始めた。女の主張は、どうでもよいみたいであった。
「昨夜から、どうも人外扱いばかりされる」
 女はあきれたが、それも一時のことで、やがてケツァに対した。
 女は何かを取り出し、ケツァに見せた。
「マンモスの戦士、これはおまえのか?」
 それは、ケツァの大事な、象牙の首飾りであった。ケツァは胸元に手を当て、ないことを確かめると、すこし怒った目で頷いた。
「父の形見です」
 女はすまなそうに、首飾りを返した。
「いい彫絵だな」
「テスカ父さんは部族一の絵師でした」
「そうか、テスカというのか……そこでだが、おまえにはぜひ、これを見てもらいたい」
 女は腰の革のポーチから、一枚の革紐を出した。それは半分腐り、汚れていた。
 紐をもらったケツァは訝しんだが、すぐに驚きの顔となった。その紐には、絵が描いてあったのだ。灰墨と獣脂を混ぜた絵具による絵だ。
 樹木の林が、りんと立っている。ただの木ではない。下を、ウシが走っている。ウシの大きさと比較すると、その木は、一本一本がマンモスより太い幹を持っていることになる――それは、方船シパクトリの原料となった、巨大杉セコイアの森であった――そう、これは、新天地の風景の絵であった。
 だが、なにより驚くべきは、その緻密で繊細な絵柄、絵柄であった。
「父さん!」
 その叫びは、思いがけないものに巡り会った叫びであった。
 父さんが、新天地についた?
 だが、ミクトランは沈んだ。
 なんで今更なのだ。
 ケツァは、どう反応してよいのか、まったくわからなかった。
「やはりか……これは、私がこたびの洪水を予測する初端となった、貴重な絵だ」
 ケツァは、頭がすっかり真っ白だ。かろうじて単純な質問を捻り出した。
「……ど、どうしてこれを?」
「六年前、アツァアスルに飛来したカオジロガンの足に結わえられていた。まったく同じものがほかにも二枚、別のカオジロガンに」
 挑戦に成功した者は、渡り鳥を探し、その脚に新天地の絵を結わえるように、と言われてきた。絵師であり、戦士にして冒険者であるケツァの父テスカは、無事に、おそらく唯一、新天地にたどりつき、約束通り革紐の鳥を送ったのだ。
 だが、革紐の渡り鳥は、ミクトランではなく、アツァアスルを目指した。そして皮肉なことに、両族は交流がない。ケツァは悔しくなった。完全な落とし穴であった。
 女は、別の一本をさし出した。
「……山? 氷原から生える峰……」
「五年前のものだ。テスカは新天地のことを調べ歩いている」
 そして、さらに一本。
「これは四年前の絵だ」
 峰と氷床。そこには、同じ場所が描かれてあった。しかし、氷原が割れている。そこから、川が流れ出ていた。
「……一年の間に、川が生まれた」
「五年前、地の揺れとともに、新天地の巨木が流れついたらしいな」
 そして、もう一本。
「これも、四年前のものだ」
 最初に見せられた、巨木の森の絵とおなじだ。だが……
「森が、死んだ……」
 木々が、薙ぎ倒されている。その合間を、川が流れていた。絵のすみには、海がある。川は、海に注ぎこむ。
 ケツァの体が、震える。
「そういうことだ」
 女は、説明しなかった。だが、これらの絵は、あることを述べている。ケツァは、さすがに興奮した。
「……方船の木が、洪水によってもたらされていたなんて……しかも、ミクトランを沈めたような、氷から溢れた水によって……絵は、絵は、もうないのですか?」
 女は、口元を迷わせた。
 ケツァは、いやな予感がした。
「……いま見ているこれが、四年前のものが、手元にある絵としては最後だった」
「手元の絵、としては?」
 しかし女は、ケツァを無視して氷床に生える孤峰を指さした。
「この山を、私は特別な山、ユルユレムルと名付けた。おまえの父テスカは、洪水でできた割目から、ユルユレムルを目指した」
「え……」
 ケツァは、いきなり突飛なことを言われ、戸惑った。
「どうしてそんなことが分かるんです?」
「なぜならば、テスカの相棒が、アツァアスルにたどり着いたからだ」
 新天地から来た者がいるという。氷床は、新天地とミクトランの間にまたがって存在している。氷床を突っきれば、たしかに行き来はできる。だが――
「そんなばかな! あの広大な氷原を渡れるはずがありません。必ず迷うし――だからずっと、海から挑戦してきたのに……」
「だが成功した。これは事実だ」
 ケツァは、すっかり分からなくなった。
「教えてください。一体どんな秘密があるんですか……アツァアスルに」
 女は、強い視線でケツァを見据えた。
「……私はチニグ。アツァアスル・白の部族の《知る者》だ。真理を求めるのなら、アツァアスルに来い。冒険者テスカの子よ、おまえには、知る権利がある」
 そしてチニグは、空を見上げた。
 ケツァは、チニグを見つめた。チニグはとても神々しく見えた。乾いた心が求めている。ケツァは、自分の心に素直になり、チニグの指針に乗る決心を固めた。
「俺はケツァ。ミクトランのマンモス使い。《知る者》よ、導いてください」
「そうか。ならその革紐はケツァに譲ろう。それはおまえが持つべきだ」
「ありがとうございます」
 やがて、勢いがおさまりつつある洪水の彼方から、シパクトリの姿が浮かびあがった。
 ケツァは四本の父の絵束を握り締め、方船に手を振った。
 赤い方船は、どうやって用意したのか、なかった櫂を数本用いて漕いでいた。
 ケツァは手を振り、カマクも手を振った。
 話を黙って聞いていたカマクは、ケツァと《知る者》を横目で見た。
「……やれやれ、途方もない話だな」
 そしてくしゃみをした。
 チニグは、仲間の亡骸のところに向かった。壊れたカヌーを眺める。とても浮きそうにない。チニグは嘆息した。
「私も同乗させてもらうか。それにしても……氷から溢れる水……いざ体験してみると、伝承以上にとんでもない出来事だ」
 はるかな氷原を見る。
「氷の原は消えつつある……今は、ひとつの時の秩序の終わり、黄昏だな……繰り返し起こる洪水大禍は、次代の陣痛なのか……」
 独白を聞く者は、誰もいなかった。
     *        *
 カリブー・キキンナクは、沈んだミクトランの大地を見渡した。氷山があちこちに浮き、水は濁って汚い。
 キキンナクは、ある氷山の上に白い熊を見つけた。肩に茶に変色した出血の跡がある。河で遭遇した氷の熊であった。熊は恐るべき生命力で、大洪水を生き延びたのだ。
 キキンナクは震えた。氷の熊は泳ぎ潜りの達人だ。この島に渡ってくるかもしれない。
 だが、杞憂であった。氷上の王は疲れているのか、あくびをして寝てしまった。
 キキンナクは安心した。
 そしてキキンナクは崩れた氷原を見た。陥没し、奥は霧がかって見えない。
 キキンナクは、一声鳴いた。
 それは王に召された妻ヤチナウトと、洪水で溺れ死んだ仲間への、追悼の叫びにちがいなかった。
     *        *
 方船が健在だったことにも気づかずに、小島のすみを歩いていたキアは、たったいま流れ着いたものを見て、体を震わせた。
 キアは、ゆっくりとそれに近づき、抱え、そして波間から持ち上げた。
「……おお……」
 キアは、愛しそうに頬を寄せた。
「――冷やっ?」
 キアは、とたんに驚いてそれをゆすった。
「おおい……」
 我に返って激しくゆすった。
「おいっ、おい!」
 顔を、にじませた。
「動いてくれよ……頼むよ……」
 ついに、男泣きに泣きだした。
「…………トラル」

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