第七章 先駆追道 PRIMUM

旭和ラノベ
夢幻のフムスノア/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章

「同じ船の漂流者か……」
 アトルは、生まれたての赤子のところに歩み寄った。目を閉じて泣く赤子は若い産婆によって水桶で洗われている。股の間に、かわいい一物がある。男の子だ。切られたばかりのヘソの緒の末端が、うす赤い水に揺れる。
「確かにこの子は何も知らぬ。それを教えてやれるのは、もはや――」
 アトルは、方船のすみに視線を送った。
 そこには語部のククルカンが座っている。
「――ククルカン、おまえだけだな」
 だが、ククルカンは反応しない。憮然として、あらぬ方向を見ている。
「……そうか、語りたくないか」
 彼は方船レンでの一件以来、シャーマンだけでなく、大抵の者に口を閉ざしている。
 そしてアトルは、チニグを見た。
「語部の口は固い。開けて見せな」
「……わかった。これも試練だな」
 チニグは、ククルカンのところに向かおうとした――が、チニグの歩みを、遮った者がいた。シャーマン・キアだ。
 キアは顔を寄せ、小さな声で言った。
「《知る者》にはトラルの件で恩がある。ここで返させてくれ」
「それなら、ミクトラン族を説得するときに味方してくれたことで……」
「ククルカン殿に、言いたいことがあるのだ。すまない、私にまかせてくれ」
 そしてチニグから離れると、ゆっくりとククルカンのところに向かった。
「……ククルカン殿」
「なんじゃいキア殿。ワシは過去にすがる存在だ。未来に興味はないぞ」
「ククルカン殿、私に未来は見えぬ」
「なっ」
「私は未来が見えない。精霊も見えない」
「……なにを言っておるのだ、キア殿」
「ミクトラン族にはこの数世代ほど、本当のシャーマンはいないのさ。新天地の精霊が虹だと予言したのは最後の本物だ。巨木が流れ着いたときに方船を作れと私が言ったのは、そう解釈するのが、皆の気持ちを鎮める意味で一番妥当だったからだ」
 ククルカンは、この告白にすっかり驚いていた。キアの声は小さく、他の者にはまったく聞き取れない。だが誰もが、この二人の対話に注目していた。
「すまない。ククルカン殿こそが、唯一のミクトラン族の心なのだ。だから頼む、私に免じて、皆に語ってくれ」
 ククルカンはしばし沈黙していたが、ようやく落ち着くと静かに口を開いた。
「……謝る必要はない。ワシの役目は、皆に一族の誇りを育むことだ。そしてシャーマンの役目は、皆に指針を示すこと……シャーマンがおらねば、誰もが明日を不安に思い、何もできなくなる。キア殿を非難する理は、ワシにはないよ……」
 ククルカンは、ゆっくりと立ち上がり、キアの肩を叩いた。
「不安を背負うのは、一人で十分だものな……キア殿こそ、いつも大変だっただろう」
 そして、上層の中心に来た。
 ククルカンは、アトルと視線を交わした。アトルが頷くと、ククルカンも頷いた。
 ククルカンは、諸手を挙げた。
「さあ、語るぞ。長老と族長だけが知る、ミクトラン族の悲しくも勇ましい過去を……」
     *        *
 ――かつてミクトランには、氷床地帯間際まで、一面の草原地帯が広がっていた。そこはマンモスやジャコウウシ、カリブー、鳥たちが彩る精霊の楽園であった。
 祖先たちは、草と力の精霊に守られて、長い謳歌の時を過ごしていた。
 ところがある年の初夏、鳥が逃げ、獣が去り、地がよく揺れた。そして地の揺れが一日に五度起きた日、北の氷が割れ、溢れた水はすべてを流した。洪水の大禍だ。
 水は海が凍る頃、ようやく引いた。
 跡には、夏になってぬかるむ湿地帯が、かつての草原を覆っていた。
 夏草の精霊カリブーと、力の精霊マンモスは南西に去った。わずかに生き残った祖先は、飼うことで力の精霊マンモスを引き留め、ミクトランの精霊王・風のオオワタリガラスから、生きる資格を得た。
 しかし草の加護を失った祖先は、海と魚の精霊に助けを求めた。精霊は答えてくれた。カヤックを与えてくれたのだ。だがそれでも生活は苦しかった。
 そのころであった。自信と力に溢れた勇者が、洪水大禍の跡地を遡り、恵みの大地・アツァアスルを発見した。
 だが、アツァアスルは有限の大地であった。豊かさは全員に与えられない。
 よって、戦乱が幕明けた。
 戦乱が幾年に渡ったのか、また詳しい経過などは分からない。一〇編近い枝話と二〇人以上の英雄が登場するが、つながりはまったくのちぐはぐだ。
 そして、いつしか勝負がついた。勝者がアツァアスル族、敗者がミクトラン族となった。勝者アツァアスルは、敗者ミクトランに絶対不可侵の宣誓を強制した。
 疲弊していたミクトランは屈辱を飲んだ。そして一族全体が復讐戦を挑んで争いを繰り返さぬよう、すべての秘密を、族長と長老格だけが継承することにした。
 やがてミクトラン族は、飢餓と病、事故、沈みゆく大地に苦しみ、心の糧・支えとなる、希望を求めるようになった。
 そんな時であった。
 今度は、智に溢れた勇者が登場した。
 昔から渡り鳥の存在により、氷床と海の彼方に大地があることはわかっていた。
 見知らぬ大地を目指そうと主張した者もたまにはいたが、人が住んでいたら戦になると、長老たちは反対していた。
 そこで智の勇者は、渡り鳥の足にミクトランの様子を描いた革紐を結びつけ、氷床の彼方に送ったのだ。
 人がいれば、返事が来るだろう。
 一年、二年……そして一〇年、勇者は根気よく紐を結わえ続けた。当然、返事はまったくこなかった。
 結論が出た。
 氷の彼方には、人など住んでいない。そこは前人未踏の、新天地である。
 新天地。
 新天地だ!
 そうか、ならばやってみるか。
 長老たちは、重い腰を上げた――
     *        *
「……後は、皆が知る通りだ。ミクトラン族の若い世代は新天地に夢と希望を馳せ、近くにある理想郷アツァアスルを、タブーとしてすっかり忘れてしまった……」
 ククルカンは語り終えると、疲れたように座り込んだ。
 そして族長アトルが、話を継いだ。
「……だからこそ、五年前、地の揺れとともに海流が変わって巨木が流れ着いたとき、俺の脳裏には洪水大禍がよぎったのだ。俺は感にまかせて、シパクトリを、ミクトラン族全員が乗れる大きさに作らせた。それは当たり、しかも三人目の勇者テスカによって証明されたが、結局は多くの者を死なせてしまった……おい、トナティ」
「……なんでしょうか」
「ミクトランの洪水からこっち、一連の大事で、何人が生き残った? たしか、いろいろと調べていただろ」
 トナティは、部下に言って数本の縄紐を持ってこさせた。結び目の位置や大きさで、数を記録したものだ。
「……男が《両手指の二三倍に指一本》人、女が《三一倍に四本》人……」
「元々の人数は?」
「ミクトランに白赤アツァアスルを合わせると、おそらく《両手指の一五〇倍》弱かと」
「ずいぶんと減ったな、精霊の輪が溢れるんじゃねえのか? そうなったら、悪霊がごまんと増えて大変だぞ……だから、こんなところにはもういたくねえ」
 そしてチニグにむかって肩をすくめた。
「そのための新天地だ、チニグ」
 チニグは、しばらく黙っていた。
「まったく……」
 チニグは、ふいに顔に手を当てた。
「まったく、なんて正直で脳天気で愚かで、救いようのない真面目な馬鹿どもだ! だから私なんかのつまらぬ同情から来た口車に乗って、結果として赤の《血羽根》と戦う羽目になったのだぞ!」
 そしていきなり、大声で笑った。
 ケツァもアトルも、他の者も、チニグのはじめて見せる大笑いに、しばし絶句した。
 チニグは、さらに早口でまくしたてる。
「アツァアスルが狭い理想郷にしがみついている間に、目的と夢を持っていたとは。こちらが勝者の奢りで多くの過去を忘れたというのに、律儀に不可侵の決まりを守って! さらに先祖が一緒だというのが傑作だ! 憧れのミクトラン族が、なんてことはない、遠い親戚だと? なんとも愉快だ……真偽や裏、考証はともかく――」
 そして疲れたように座った。
「――ともかく、よき伝承ではないか」
 皆は、チニグの変化に気づかされた。いや、これが本来のチニグなのだ。仮面を捨てたチニグの、なんという破天荒な口振りか。
 シンが来て、チニグを起こした。
「大丈夫か」
「予想と違った話で、頭が混乱している」
「こうなれば、行くか」
「実によいな――いつ?」
「俺は今がいい」
「おまえも馬鹿の一人だな……来年だ」
「来年か。たぶん正しい考えだろう」
 シンは、アトルに向いた。
「次の夏ならいいとさ」
「次の、夏ね……」
 アトルは、仕方なさそうに頷いた。
「わかった。今は西に向かおう……」
     *        *
 話は決まった。
 方船は、西に漕ぎだした。
 しかし、
「トナティ、東に流されているだと!」
「間違いありません。小島との位置関係から見て、方船は東に流されています」
 アトルは、足踏みして焦りを見せた。
「なぜ西に向かえぬのだ!」
「東への流れが強すぎるのです」
「潮の干満なら南北だし、潮流にしてはここは浅すぎる。東に何があるというのだ」
「……もしや洪水の穴と関係が」
 要請を受け、屋根にケツァとチニグが上がった。なぜか、ミティもついてきた。
「ケツァ……何が見える」
 ケツァは、目を凝らした。
 東の果て、灰色の地平を睨んだ。
 もやが薄く覆う氷原の合間に、崩れた谷が見えた。間違いない。ミクトランを沈めた、洪水大禍の捌け口だ。そこに、点のように小さな氷塊が次々と入っていく。
 ケツァの額に汗がにじり湧いた。
「大穴が、水を吸い込んでいます……」
 チニグは、両頬に手を添えた。
「信じられぬ。氷の穴は、水を出すものだ」
「……ですが《知る者》、事実です」
 そのとき、屋根の隅を占領しているレンが立ち、大きく、鋭く吠えた。
「レン君……」
 ミティがレンに向かった。
 レンは、氷に向かって吠えていた。
「レン君が、行きたがっている――」
 ケツァも、レンに走り寄った。
「レン。あの向こうに、テスカがいるのか」
 レンは、ケツァとミティの顔を嘗めた。
「すごい。レン君、本当なんだね!」
 チニグは、恐る恐るレンに近づいた。
「ケツァもミティも、レンディックストカックスが恐くないのか」
「チニグさんは、恐いの?」
「……ああ。レンも……あの氷の穴もだ」
 そして、にわかに体を震わせた。
「ケツァ……私はな、シンがレンによって片腕を失うまで、恐いものはなかった。だが、あの時、恐さを知った」
 チニグは水を無気味に吸い込む穴を見た。
「あの先には、何がある――ケツァ、言ってみろ。私が恐くてあきらめた、それを!」
 ケツァは、ゆっくりと、頷いた。
「……氷原の中を貫く、新天地とこの地を繋ぐ内陸の大通路……《無氷回廊》です」
 チニグは、混乱した。
「精霊よ、なにを考えている。私は回廊の夢を拒んだのだぞ。内陸の旅路を! ……私は、どうすればよいのだ……」
     *        *
「野郎ども、心して聞け!」
 チニグの報告を受け、皆で話し合った結果、指導者陣は結論を出した。それを一番声の大きいトナティが、船内にふれていた。
「今、俺たちは、ミクトランの地を沈めた、ほやほやの大穴に吸い込まれている!」
 皆に、動揺が走った。
「アトル族長があの穴に、ミクトランの洪水の精、チャルチウトリクエの名を与えた。我々は新天地まで貫く陸の回廊を目指し、氷穴チャルチウトリクエに突入する!」
 反対の声がいくつもあがった。
「覚悟を決めな! 帆すらない今の方船では、どのみち穴から逃げられねえ」
 続き、アトルが叫んだ。
「いいか、我々は身軽だ。なにもない。大地も、しがらみも。全員が、精霊に見放された流浪者だ。おかげで、どんなことにも全力で向かえる。この後に及んで何を恐れる! 櫂漕ぎ用意。目標、無氷回廊! そこで、先駆者テスカが待ってるぞ」
 アトルは、ケツァを見てにやりと笑った。
 しかしケツァには、笑い返す余裕はなかった。
 ――精霊よ、いつまで俺たちを試す気だ。
 ケツァは、チニグを探した。
 いた。
 チニグは、固い表情のままで、あらぬ宙に視線を迷わせている。
 穴の彼方に、チニグは、俺は、どんな答えを見出すことが叶うのだ!
 オオワタリガラスよ、テスカ父さんよ、答えてくれ!
     *        *
 もやが立ち込める中を、方船シパクトリはゆっくりと進んでいた。上には氷床の端が覆うように塞がり、そして先は白灰のもやに隠れて見えなくなっていた。
 シンがつぶやいた。
「無気味だぜ。まさに正念場だな……」
 もやが霧に移ったころ、妙な、獣のような音が聞こえてきた。
 ニルが即座に判定した。
「ツルナロタスと同じ種の反響音です」
 いよいよ、《穴》の入口が近づいていた。
「火を!」
 トナティの指示で、船の内外に、多くの松明が灯った。
 流れが急速に速まってきた。
「行くぞ!」
 誰かが叫んだ瞬間、急に暗くなった。
 皆を圧迫感が襲った。
「左舷、氷壁!」
 直後、屋根上からケツァの声が聞こえた。
 アトルが号令した。
「左は前に、右は後ろに、漕げ!」
 シパクトリは、右に動き、壁から離れた。
「正面、氷柱!」
「右休め、左全力」
 方船は急に右にスライドし、水中から生えていた巨大な氷柱をかわした。
 左舷窓際にいた者は、黒い針山を目撃した。話は伝わり、船内で喝采が起こった。
 アトルは、ガッツポーズをつくった。
「いいぞケツァ! さすが目がいい。このまま氷洞の導き手となってくれ」
     *        *
「わかりました!」
 ケツァは、頬を紅潮させて頷いた。
 しかしその高揚もつかの間であった。ケツァの後方から、襲いかかった者がいたのだ。
「危ない」
 後ろから女の声がした。ケツァはとっさに一撃を避け、かろうじて難を逃れた。
 ケツァは、松明で暴漢を照らした。
「オウィ!」
 オウィは血走った目をしていた。いつのまに縄を解いたのだろう。オウィはどこで拾ったのか、手斧を持ち、ケツァを狙っていた。
 ケツァは慌てて自分の体を探ったが、武器を持っていなかった。
「忘れたか、貴様は氷塊でみんな捨ててしまっただろう。そこのすばしっこいオオワタリガラスを救うためにな」
「私、カラスじゃないもん」
 ミティが、オウィと距離を取って叫んだ。
「ミティが救ってくれたのか」
「だってケツァ、私には危険がわかるもの」
「小娘、邪魔するな」
「オウィ、なぜこんなことを」
「ケツァだったな……俺は負けた。だから皆を巻き添えにしてやるまでよ。《目》である貴様を殺せば、船は氷壁に激突して木端未塵だあ!」
 そしてオウィは、力強く踏み込んだ。
 ケツァはとっさに松明で受けた。
 松明は一撃で折れ飛んだ。
 火種は屋根を転がり、水に落ちた。
 あたりは少し暗くなった。
 オウィは横に振りかぶった。
「ケツァ!」
 ミティが、短剣を投げた。
 オウィが手斧を振った――ケツァは垂直に跳躍した――斧は空を切った――ケツァは短剣を受けると同時に、オウィの胸を蹴った。
 オウィは、後方によろめいた。
 ケツァの右手には、短剣が握られていた。
 ケツァは切先をオウィに向け、やや前屈みでステップを踏んだ。
 オウィは構えず、じわりと歩いてきた。ケツァは、その余裕を見てにわかに恐怖が沸いた。オウィの技量を思い出したのだ。
 ケツァは、緊張の汗を垂らした。
 その時、
「ケツァ、アトル様がそろそろ状況を教えてくれと……」
 ニルが、屋根に上がって来た。
「……父上! 何を」
 オウィが、眉間に皺を寄せた。
 そして、
「来た! 危険が!」
 ミティが座り込んだ。
 それを合図に、オウィは間合いを詰めた。
 ケツァも、深く沈みこんで弾みをつけた。
 オウィは、ケツァの目を睨んだ。
 ケツァは恐くなって、オウィの目を狙って短剣を突き出した。
 オウィは、その短剣に斧を叩き込んだ。
 短剣は脆くも弾けた。ケツァの眼前にオウィの斧が迫った。オウィがゆがんだ笑みを浮かべている。ケツァは体勢が完全に崩れている。どうしようもない。ケツァの頭が真っ白になった。ケツァは目を閉じ――
 どん。
 ……痛くない。
 ケツァは、目を開けた。
 白い獣が、ケツァの前にいた。
「レンディックストカックス……」
 レンが、助けてくれたのだ。
 オウィは屋根の端まで飛ばされ、うつぶせに倒れている。斧は水に落ちたようだ。
「父上――!」
 そこにニルが駆け寄る。
 ケツァはほっとした。
 そのとき、方船が大きく揺れた。
 ミティが悲鳴気味に叫んだ。
「氷壁だよ!」
 右舷側に、氷壁が迫りつつあった。
 ケツァは急いで半座りになり、
「右舷、氷壁!」
 と、屋根に怒鳴った。
「右は前、左は後ろ……」
 だが、とうてい間に合わない。
 櫂が氷に当たって折れる音が下で響いた。
 右舷の氷壁が、のしかかった。
 櫂の一部が、屋根にまで飛ばされてきた。ニルの頭を直撃し、ニルは倒れた。
「畜生!」
 ケツァは、ニルに走り寄った。ニルはまだ意識があったが、気が動転していた。
「血が出てる。キアに見せるぞ」
「いやだ……父上を……助けなくては」
 その次の瞬間、
 方船は、氷壁にぶつかった。
     *        *
 凄まじい衝撃が、方船を襲った。
 上層はめきめきと音を上げ、激しい揺さぶりに皆はパニック状態となった。
 右舷漕ぎ場では、折れ暴れた柄棒の餌食となった櫂漕ぎたちが、痛みに苦しんでいた。
 窓から、大量の氷粒が入ってくる。
 さらに下層のセコイア丸木船構造が、大きくきしみはじめた。
「駄目だ。折れちまう」
 とカマクが呻いたとき、
「どけどけ!」
 シンがトーテムを抱えてやってきた。そして右舷の漕ぎ穴に思いっきり差し込んだ。
 カラスの翼が、穴枠に当たって千切れた。
 どっ。
 氷壁を突いた。
 しかし木塔は、痺れるように揺れるのみ。
「くそっ、俺だけでは無理だ!」
 シンの叫びに反応し、回りの男たちが、トーテムを抱えた。
 皆は、思いっきり氷壁を押した!
 だが――人の力ではどうにもならない。
 トナティが、叫んだ。
「カトル!」
 すると、下層でカトルの鳴く声が響いた。そしてとつぜん、上層の床板の一部が、盛り上がった。その場にいた人々は、大急ぎで逃げ――大きな音とともに、床板が派手に散り飛んだ。
 そこから、マンモス・カトルが現れた。カトルの目前には、トーテムの末端がある。
 しかし、カトルの鼻はともかく、頭が届かない。カトルは鼻をトーテムに巻き、悔しそうに鳴いた。
 その間にも、方船の下層に亀裂が生じ、一部からは水が漏れはじめていた。人々は懸命に草や毛皮などを押し当て、水の流入を阻止しようと懸命であった。
 もはやこれまでか。
 そのとき、もう一頭のマンモスが動いた。
 ブルクだ。
 ブルクは、大勢の子供をしょったまま、カトルの上に乗って上背を稼いた。そして一気に額を、トーテムの底にぶつけた。
 すごい音がした。
 ブルクの上から子供たちが落ち、トーテムを押さえていたシンたちも吹き飛んだ。
 と――方船を襲っていた振動と音が、ふいに消えた。
 方船は、氷壁から離れはじめた。
 人々は安堵とともに、歓喜の声をあげた。
 ブルクは誇らしげに堂々としていたが、下敷きのカトルが重いと呻いた。慌てたブルクがどくと、怒ったカトルは牙勝負を挑んだ。
 ……カトルが勝った。
     *        *
 衝撃に倒れたケツァとニルは、屋根の傾斜にそってすべり落ちていた。
 それを救ったのはレンだった。二人の下側で、すべり止めとなってくれたのだ。
「すまない、レン」
 ケツァは、レンに感謝した。
 そのとき、ニルが悲痛な声をあげた。
「父上! 何をするんです」
 ケツァが見ると、オウィは、屋根の縁に立っていた。一歩先は、濁流だ。
「赤の酋長、やめろ!」
「ケツァ……だったかな。見ろよ。おれはもう助からない。腹の臓をみんなやられた」
 見れば、オウィの腹は真赤だった。レンに突かれたとき、おそらく大牙によってであったのか、それで致命傷を負ったのだ。オウィの顔はじょじょに青くなりつつあり、顔は汗に塗れていた。
「……ケツァ。おまえ……この水路の先が闇だったら、どうする気だ」
「…………」
「夢は、あくまでも幻にすぎぬ。たとえ実現しても、こんどはその現実を守るという、果てぬ夢の戦がはじまるのだ……そして最後には、幻だ。いつまでも、幻を追ってろ」
 オウィは、血を吐いた。
 ニルが、ケツァの前に出た。
「父上……」
「ニル、お前にはすべてを伝えた。もう一人で歩けるだろう――」
 オウィは、苦悶の顔で両腕を広げ――
「――赤の民を、頼む」
 そして満足げな笑いの表情となり、
 ――水に落ちた。
「!」
 ニルは手をのばし、
「……父……上」
 そして気を失った。
「なんで、なんでよう……」
 近くで伏せるミティが、呆然と言った。
「……くそっ」
 ケツァは舌打ちをすると、負傷したニルを引き摺って上層に降ろした。
 話を聞いて、チニグが同情的に語った。
「そうか……最後まで哀れな奴だったな。それでも子は育ったが」
     *        *
 それから、方船シパクトリに大きなトラブルはなかった。
 氷穴の構造は複雑で、流れの急な箇所や狭い部分では、操船は慎重に行なわれた。
 そして、一回の食事を経て、皆に多少の疲れが見えはじめたころ……
 方船シパクトリは、急に空の下に出た。
 昼下がりだ。皆は、すべてを忘れて屋根上や窓から外を眺めた。
 氷穴チャルチウトリクエ、そして氷洞を経て、無事に抜けたのだ。
 辺りは氷の大渓谷で、後方には方船の一〇〇倍はある、途方もなく巨大な穴があった。
 方船はやがて、渓谷も抜けた。
 そこは湖に思えた。波が穏やかだからだ。
 水は土色で、岸の半分は見えない。けっこう巨大な湖であった。湖の岸には、岩片が崩れた壁と氷の壁が混在していた。湖の壁はゆるやかだが高く、外界の様子は見えなかった。空は晴れていた。
 妙な臭いが、鼻をついた。
 濁る湖水上には鳥も何もいなかった。
 やがて方船は、湖上で停止した。
 皆は屋根上に出て、不思議な空間にすっかり心を奪われていた。だが、感動していたわけではない。
 シンが、きな臭そうに鼻を嗅いだ。
「なんとも、薄気味悪いな」
 トナティがうなずいた。
「洪水大禍の、大水槽の跡ってわけだ」
「いやいや。じつは死んで精霊の輪に迷い込んでいるのかもしれないぞ」
「シン、縁起でもない。息はしている」
「とにかくここがどこか、確かめないとな」
「ならば、高いところに登るのが一番だ」
 チニグが割り込んできた。
「――そう。たとえば、あの山はどうだ?」
 チニグが示した先には、一つの峰があった。灰色の霞の合間に、透明な青の孤峰が、輝くようにそびえていた。
 氷から生える山は、一峰しか見られない。
 そのとき、屋根の端でレンが吠えた。
 峰に向かって。
「もしかして……ユルユレムル山!」
 ケツァが、弾けるようにレンに近寄った。
「あそこに、父さんが、テスカが?」
 レンは、ケツァを無視して、ひたすら峰に向かって吠え続けていた。
 やがて山は霞に消えた。
「俺が、行こう!」
 ケツァは、手を叩いて叫んだ。
 それに、皆が悪霊レンなどを信用するな、と猛反対した。屋根に居座るレンの存在を知りながら、恐いので手も足も出せなかった不満が、いきなりケツァに襲いかかったのだ。
 だが、絶大な助け船がケツァを救った。
「レンが悪霊だったのは昔のことだ。今は洪水によって浄化され、新天地の精霊となった。彼にふさわしい別名は――《導く虹》だ」
 と、《知る者》チニグが皆を諭したのだ。
「嘘も方便……」
 ニルが独言を言って、小さく笑った。
 そして族長アトルが言った。
「ケツァ……先駆者テスカの子よ。最初にこの地を見渡すのは、おまえの役目だ」
「冒険者ケツァの、誕生だ!」
 トナティが煽り、みんなは勢いでケツァを冒険者に認めた。
 するとミティが、慌てて志願した。
「私も行く。登山の危険回避に最適だよ」
 こうしてミティとケツァは、レンとともにカヤックで山を目指すことになった。荷物運びに、カリブー・キキンナクも同行する。
 チニグとシンは、その様子を抱き合って見送っていた。
「……シン、きっと二人は、いい報告を持ち帰って来るだろう。私は、そう願いたい」
「ああ、そうだな」
 そのとき、後ろでごほんと咳がした。
 二人がふりかえると、そこに白の酋長スヌルクがいた。
「……シンよ。チニグが欲しいなら、条件がある。白の部族の酋長になれ」
「うっ……」
「いやか?」
「いやではないが……困ったな、面倒だ」
 シンは頭を掻いた。
 カップルを後目に、狩長トナティは溜め息をついた。
「そうか。チニグはシンが好きだったか」
 そして、空を仰ぎ見た。
「かわいい嫁さん、降ってこい……」
 族長アトルは、カマクに握手を求めた。
「トナティが言うには、方船レンはやはり、洪水でたちまち壊れたそうだ」
「ふん、偽物は柔だったか」
「舟の翁、強いシパクトリをありがとう」
 カマクは照れたが、
「だが、この船はもう引退だ……」
 と、さびしげに折れた帆柱に触った。
 ククルカンは、キアに語っていた。
「……キア殿、人は平穏に感謝し満足するため、物語を必要とする。だがやがて飽きるので、たまには新たな物語が必要となる。ワシは語部として最高の気分だ。新たな口伝が生まれる現場に、旅の道にいたのだから」
 キアはあきれた顔で、
「なんだ、ようやく気がついたか」
 ニルは、赤の女性たちに囲まれていた。
「赤の将来は、僕に任せなさい」
 それを、赤の男たちがうらやましげに見ている。
 そんなニルの元に、タトラが来た。妻ユリの赤子を抱いている。
「ニル様。俺の子に、ぜひ名をください」
「……僕なんかでいいのかい」
「はい。ニル様は、新たな赤の酋長です。最初の命名の栄誉を、ぜひこの男の子に」
 ニルはすこしはにかんで、そして真面目な顔でしばし考えた。
「そうだ、思いついたぞ……」
 ニルは、タトラから赤子を受け、空に掲げた。赤子は、うれしそうに笑った。
「君は、ミチャボだ。かつて、最初の洪水大禍から皆を救った、《復活》の名だ」
     *        *
 嵐が吹きつけ、激しく揺れる簡易テントの中で、ケツァとミティ、レン、キキンナクは、体を寄せ合い厳寒をしのいでいた。
 外は吹雪の闇。明かりといえば、テントの中央で燃え残るわずかな炭の橙光。下に敷いた毛皮は雪の冷たさを遮断できなくなって久しい。毛皮と火の間に盛った耐火用の土に、霜が張りついている。
 ケツァは炭の光を見つめていた。
「ミティ、おれは不思議なことを考えたよ」
「……なに? ケツァ」
「南に新天地がある。そして、アツァアスルもかつて新天地だった……もしかして、ミクトランの地も、イナアの地も、かつては前人未踏地だったのかもしれない」
「ケツァ、なんだかおもしろい。それで?」
「うん。そして……かつて大地は、みんな新天地だったのではないか、とね」
「ええっ――ケツァ、なら昔の人は、つぎつぎと新天地に分け入って精霊と契約したことになるよ。どうして、そんな危険な冒険を繰り返すことになったの?」
「わからないよ。ただ、最初の人は大変だっただろうな、と思ったけど……」
「さいしょの、ひと……」
「うん。最初の人さ。何事にも、はじまりがあるだろ?」
 ケツァは、白い息を吐いた。
     *        *
 短い夜が明け始める頃、外の嵐が止んだ。
 軽い食事の後、簡易食料に短い杖、火種として赤熱の炭《おきび》を湿らせた草に包んだもの、長縄などを持ち、テントを出た。多くの荷はテントに残し、身軽で頂を目指す。
 ケツァとミティは、雪の照り返しから目を守るため、木片に横穴を通した遮光ゴーグルをつけた。二人とも三枚も毛皮を被り、さらにイナア族直伝の草縄紐編みの大マントを羽織っている。靴裏には急きょ作った骨スパイクのアイゼンが光っている。
 空は暗い。もっと上に行こう。
 ケツァとミティは、杖を突きながら、深い湿原を進むように氷河を登っていった。
 やがて氷河の生まれる地点近くで、新たな道を探す必要が出た。そこから上は、凍結破砕風化で角ばった礫が転がっている。
 道はレンが見つけた。頂上まで続く、尖った稜線の上。人がなんとか歩ける幅だ。
 稜線に出たとたん、強い風に曝された。二人の毛皮服やキキンナクの毛に霜が晶出した。顔に刺すような痛みが走る。ケツァとミティは、深帽子で顔全体を覆った。
 風がきつすぎる。万一のため、ケツァは自分とミティ、レン、キキンナクを、縄で直列に繋いだ。歩きを再開したとたん、縄の遊びが風に吹かれ、空に大きな弧となった。
 足下の雪は固い。先頭のレンが、歩く速度で道を確保してくれる。命綱の存在もあり、一行の足は数倍に速まった。
     *        *
 山頂を目前に控え、ケツァはいつしか、死んだ親友、トラルとロックに導かれた。
 ――さあケツァ、頂上よ。
 ――ほらっ、終点そこだ。さっさと来い!
 親友たちと共に、ケツァは山頂を踏み締めた。それと同時に、二人の幻影は消えた。
 ――ついた。
 狭い頂は、うす明るい世界であった。
 日の出が輝いていた。
 しかし、普通の太陽ではなかった。
 ケツァは、思わずゴーグルを外した。
 見えた。
 筋のような淡い雲間から、光る三つの太陽が登っている。空気層間の急激な温度差と光の屈折が生み出す、蜃気楼の一種だ。
「幻の日……精霊め、俺を惑わせる気か」
 仲良く並んだ白い太陽たちは、空気の塵の乱反射によって大きく輝いていた。
 ミティも、ゴーグルを外す。
 ケツァとミティを、捕えて離さない。青白銀の幻想空間に、二人は魅入っていた。
 しばらくしてケツァは、《導く虹》が、山頂の一部を掘っているのに気づいた。
「そこに……」
 命綱を解き、ケツァもいっしょに掘る。
 やがて雪の底、凍った岩の狭間から――短剣ほどの牙と、毛皮の包みが現れた。
 毛皮を開けると、そこには――緑色の、美しく長い羽根があった。そして、赤や、黒、青といった、美しい色鮮やかな羽毛も……だが、色はともかく、形に統一感がある。
「もしかして、これはすべて一羽の鳥……」
 のぞき込んだミティが、
「きれい……まるで虹みたい」
「虹の鳥……虹の精霊ケツァールか!」
 そしてケツァは、震える手で牙を掴んだ。
「レン……おまえのか」
 レンは、自分の失われた牙のにおいをゆっくりと嗅いだ。
 そのとき、ミティが叫んだ。
「ケツァ! 危険が来る……レンだよ!」
 ――いきなり、レンが牙を剥いた。
     *        *
 いつになるだろう。
 我はある群れのリーダーだった。
 ある日、我は見慣れぬ二本足の獣を興味本意で襲った。だが二本足の《人》は強く、返り討ちにあい、我は牙を一本失った。
 牙を失った我はリーダーの座と群れを追われ……あろうことか、《人》の世話を受けるようになった。
 それから、長い連れ合いの旅だ。
 草原、森林、山、氷の湖、南の深森……
 我はたびたびその者に勝負を挑んだが、すべて跳ね返された。それでも彼は、我を殺さなかった。なんとも奇妙な関係だった。
 彼は毎年、同じ時期になると、何かを描いて鳥に結わえた。《絵》というものだが、我にはまったく理解できなかった。
 ある春、彼と我は、はるかな南に進み、とても蒸し暑い緑深い森に入った。
 そこで彼は、緑を基調とする、長い尾羽根の、虹色の鳥を捕まえた。彼はこれまでになく興奮し、我の背に虹を描いた。
 その次の日、我は数十度目かの勝負を挑んだ。我は、いつもと同じで、負けるだろうと思っていた――だが、その日に限って……
 彼は、笑って死んだ。
 死ぬとき、彼は北を指さし、毛皮と牙を託した。
 なぜか知らぬが、意識が通じた。
 ――氷の彼方に、俺と同じ臭いの者がいる。その者に、これを。名は、ケ……
 それで終わりだ。
 我は困惑し、そして気づいた。この者は、目的を果たして安堵から疲れが出たのだ。だから、我と全力で戦えなかった。
 我は困惑した……我は戦士だ。戦うことでしか意志を示せない。牙のない我は死に場所を求めている。だから戦った。なのにおまえは死に際して、我に生きろと言うか。
 わかった、行こう――
 やがて我は前に見知った氷原を貫く谷から無氷回廊に入り、さらに北に向かった。そしてある日、大きな湖のほとりの山に妙な波動を感じ、その山頂に彼が託した物を埋めた。
 ふむ、いつしか我は、ここでケなんとかと対峙するのだな。だが我は、我の方法でしか、伝言を伝えることができないぞ。
 すなわち、我と殺し合うことで、だ。
     *        *
 ――ケツァよ、我を殺せ!
 という波動がケツァを襲ったとき、ケツァの意識に、すべてが流れてきた。それは断片的なイメージの羅列にすぎなかったが、ケツァは、目の前の獣が、父の仇だと知った。
「テスカ父さん!」
 ケツァは、とっさにレンの牙を短剣にして、レンの眉間を狙った。
 レンは――かわせたのに、飛び込んだ。
 ――我は、我の牙によって死ぬ。
 これこそ、本望……
     *        *
 レンは勢い余って、山頂から転落した。やがて止まった先で、桃色の水溜りを作る。
 動かない。孤独な牙の王、レンディックストカックスは、息絶えた。
 ミティが泣いた。
「なんでよ。死ぬことが夢だなんて……」
「ミティも感じたのか」
「うん……」
「……《導く虹》――」
 ケツァは、レンに緑の羽根を投げた。
「――これは手向けだ。精霊の輪への……父さんに、よろしく……そして、さようなら」
 虹の精の尾羽根は、風に飛んだ――
 するとにわかに、辺りが明るくなった。
 ケツァとミティは、光に驚き、周囲を見渡した。幻日は消えている。世界を照らした光が、すべてのもやを吹き払ったのだ。
 北西のはるかな地平に、灰色の霞に囲まれ、頂が赤く輝く正層火山が現れた。
 ミティが、おそるおそる、指さした。
「……あれ、火の山だ。見て、麓の氷が、みんななくなってる。たぶんすごい量だよ」
「火の山が氷を水にかえ、アツァアスルの洪水大禍が起こったのか……」
 納得できる。アツァアスルの洪水で、群発地震がなかった説明がつく。
 ケツァは、南に現れた他の山に気づいた。
 氷から生えた孤立峰だ。
 二人は、目を大きく凝らした。いくつかの山がある。今立っている峰より、はるかに高い峰たち。剣のように氷から生えている。遠く空と交わり、青い。見事な山脈だ。
 ユルユレムルは、ここではない。
 そして――北側。氷と氷の狭間に、いくつもの池、湖が、散らばっている。川筋が縦横に走り、延々と続いている。池に草や木が生えている。アツァアスルを理想郷だと言っていたのが恥ずかしい、圧倒的に広い大盆地。山脈の裾野に、信じられない幅を持って、ベルト状に続く南北の一大回廊だ。
 そして動物。
 鳥が、たくさん飛んでいる。透明な湖面に群がっている。ムナグロが魚をついばむ。ハクガンのV字群れが空を遊覧している。沼には灰色のミカドガンが巣営し、氷床の間際には虫をついばむユキホウジロが目立たぬ巣を作る。それらを狙うハルランノスリ。そして峰では、シロハヤブサが気流に舞う。
 他にも、カモ、ハクチョウなど、視界内だけでも、一〇万羽以上が群れている。
 動物は、多くが鳥。重力に従う四つ足はほとんどいない。水鳥の楽園。支えるのは、夏になると一斉に溶ける水だ。大洪水が起きるのは当然だ。
「ここを歩けば、簡単に新天地に行けたんだね。精霊って、何を考えているの? こんな路を氷原の中に作るなんて」
「……海より低い、湖の存在もだ。もしかして氷床が重いので、陸が沈むのか」
 そこでケツァは、首を振った。
 ――そんなことはどうでもいい。
 ケツァは、これまでの旅を思い返した。
 なんという偶然が重なったのだ。
 レンの存在、三つの洪水の時期、父の旅、オウィの妄執、無氷回廊……すべてが絡まってひとつとなり、俺をここに呼んだ。
 意味もなく連なるはずがない。
 ――意志だ。
 その意志とは……
 精霊の試練だ。
 友の命を奪い、父の命を奪い、皆の命を奪った。だが、俺はこうして生きている。
 夢は、今、叶った!
 ケツァは、大地に向かって両手を広げた。
「ざまあみろ。精霊よ! 俺は勝っ……」
 ――空しい。
 突然、それが脳裏をよぎった。
 ケツァは、勝利宣言を途中で止めた。
「ケツァ、どうしたの?」
 ミティが、不思議そうな顔でたずねた。
「ミティ……最初の人の気持ちが、なんとなく分かったよ」
「ケツァ……」
 ケツァは、無氷回廊を見渡した。
 ――ロックやトラルは、こんなものを見るために死んだのか? ちがう。代償として、俺は絶対に認めない。何が試練だ。精霊は、臍曲がりの嘘つきだ。みんな悪霊だ。
 ならば、なんだ?
「自然だ。ぜんぶ、自然だ。無意味に厳しい試練を与え、それでいて忘れたころ、まるで褒美のように、心を奪う景色をくれる……理不尽だ。あまりにも」
 だから、あるのは自然なんだ。
 何も考えていない、あるがままの。
 しかしミティは、首を振る。
「精霊だよ。これは精霊の意志だよ」
「ちがう……もっと、別のなにかだ」
「……?」
 ミティは、不可解だと言いたげな顔だ。
 そうだろうさ……
 だって、俺にも分からないのだもの。
 なぜ、こんなことをふいに口走ったのか。
 そうか……そこにあるだけ、というのが気に食わないんだ。
 ならば、《意志》を、信じよう。
 自然の――なにかだ。
 たとえ、勘違いだとしてもいい。
 《在る》と感じたことに、責任を持てば。
「つまり、それを知ろうとして、最初の人は新天地に足を踏み込んだにちがいない――」
 ケツァは、太陽を見た。新天地の方角だ。
 太陽を指さす。
「俺は、テスカの子として、父さんが伝えてくれたイメージの版図を、コヨル母さんの瞳で、さらに南に、東に広げてやる!」
「ケツァ! 新しい夢だよ。すごい!」
 するとミティは、なにか悟った顔をした。
「ケツァ、旅には私も連れていって」
「ミティ――」
「私はね、父さんと母さんが死んで以来、ずっと止まった夢しか見れなかったの。でも……私、ケツァを支えたい。だって、私が好きになった人は、途方もない夢を平気で追う脳天気な馬鹿なんだもの。私の支えがないと、きっとのたれ死んじゃう」
「ひどいや」
 しかしケツァは、すぐに真顔になった。
「――よし、行こう!」
「えっ! 本当?」
 ケツァは、両手でミティの両肩を挟むように掴んだ。二人は紅潮して見つめ合う。
「ミティ、俺も気づいたんだ。君と行きたい。いや、ぜひ、共にいてくれ。俺はブルクに乗って、ミティは黒いキキンナクで旅をしよう」
 ミティの顔が、朱色になる。
「……ケツァ、夢が、重なったよ」
「叶った夢は、新たな夢に連なる……オウィの言う通りだな。だが、こういう夢なら、俺は歓迎だ。やはり、いいものだよ。これは」
 オウィは夢は幻だと言った。それがどうした。幻など承知の上で、それでも夢を見る。つまりあたりまえの行為だ。夢を見るにまかせ、夢に散るにまかせ、しかし心の器に新たな夢を注いでゆけば、すむではないか。その中で、叶う夢もあるはずだから――
「ミティ、俺はきっと、新天地に交じわり、混じるだろう……やってみせる」
「混じる……新天地の精霊と混じるんだ」
「精霊……そんなものはどうでもいいんだ」
「ケツァ、罰が下るよ!」
「もう十分に下っているさ」
 ケツァは笑って言った。ミティは、何だか不思議な笑い顔をした。つられたのと、困惑が混じっている。
「いいか、俺たちは、これから新天地を席捲する。地の果てまで歩き見るぞ」
 するとミティは、この言葉に理解不能の逃避先を見つけたようだ。急に意地悪気味な眉運びとなり、
「その先は?」
「うーん。そうだ、水の世界をすべて巡る」
「その先は――」
「地の底に潜ってやる!」
 ミティも乗って、手を翼にした。
「よおし、次は空だよ!」
「ならばその先は――星々だあ!」
 ケツァは、跳躍して天を掴んだ。
 そしてミティをいきなり抱き寄せた。
「天よ! 俺はミティが大好きだぞ!」
「私も! 精霊たち、見ていてね!」
 二人は恥ずかしさを勢いで乗り越え、陽光眩しい山頂で、軽く、くちづけを交わした。
 風が吹き、世界が、祝福した。
 キキンナクが、寒さにくしゃみをした。
     *        *
     了 1999/04

Copyright 2005~ Asahiwa.jp