戦士たちは、栄光と挫折が交錯する、勝負の世界に舞い戻った。
『……来たぞ! 決勝戦だ! 全国七〇〇〇チームの頂点を決する、夏休み最初の一大イベント。泣いても笑ってもこれで終わり。さあドームに集ったみんなよ! 歴史が生まれる瞬間を一緒に目撃するぞー!』
東京フロートドームが割れんばかりの大音声に満たされた。薄暗いドーム内でレーザーライトが飛び交い、意味もなくドライアイスが吹いて白煙が充満する。
『北海道東北三・関東五・東京三・東海三・北信越二・近畿四・大阪三・中国三・四国二・九州沖縄四――全国から集った三二チーム。そのうち三〇がすでに健闘報われず敗退した。すばらしい戦いが、涙があった。そしてここに、一チームにしか許されない頂点に、手を掛けた二チームがいる!』
音と騒ぎが洪水となった。ナンはその騒ぎを、誇りをもって受け止めた。
斬も力王も、無言で胸を張っている。
『さあ、決勝戦の前に、挨拶と行こう!』
顔見せとなった。
ファイト真の誘導で、剣ノ舞は並んだ。左にナン、真ん中に先輩、右に斬。観客席が眩しい。いや、天井のライト群がだ。
周囲をカメラが激しく動き回る。どんなふうに編集されるのかつい気になる。
『剣ノ舞は、初めてづくしのダークホースだぞ! まず四国のチームが全国大会で決勝に来たのが初の快挙! 一三歳二ヶ月の馬子斬くんは、決勝進出プレイヤーの日本最年少記録を更新したぞ!』
おもに女性の声で、斬くんコールが起こった。素直に照れる斬。ナンはすこし胸にもやもやと黒いものを感じた。即座に正体を自覚する。軽い――嫉妬、だ。
『そして峰風南ちゃんは若干一三歳八ヶ月。女性プレイヤーの決勝進出最年少記録! そしてなにより、日本公式最年少の、イリュージョナーだー!』
わっと観客たちが沸く。ナンはまだ実感が湧かない。なにせ対戦相手側の表示にしか現れない現象だからだ。自分や味方ではリアルタイムに確認できないのである。
『そしてリーダーの馬子力王!』
先輩は数歩前に出て、観客席に手を振ってアピールしている。
『すまない。彼には、なにもない!』
こけるパンダ。わっと笑うドーム。
怒り眼の力王をよそに、ファイト真はつぎに進んだ。
『対するは常勝・中華英雄!』
ふたりの青年に、辰津美。大舞台は慣れているようで、三人とも自然体だ。
『清水将治に、坂東寅彦!』
手を振る二人。それぞれにファンがいるらしく、女性たちの黄色い声が飛ぶ。
『清水は日本で二人目のイリュージョナーで、無音の殺戮者として名高いブレードマスターだぞ。ブレーンの坂東はよく勘違いされるが、実はチームリーダーだ。VSを離れれば、強制補正表示の開発者としても名高いぞ』
そういえばリーダーって坂東さんだった。
気をつけないとすぐに、中華英雄のリーダーを辰津美と勘違いする。それほど辰津美が輝いているということだ。いや、そういえば中華英雄の試合を見ていると、いつも辰津美が号令をかけている。坂東は名だけ貰い、実はふさわしい人材に任せているのだ。
『そして峰風辰津美!』
ひときわ大きい声援が響く。
『剣道女子、インターハイ三連覇の偉業を持つ強者! 最強のブレードマスター!』
手を振る辰津美の顔は涼しげだ。
『三人がはじめて全国を制覇したのが、一年前の夏期大会。以来、冬・春と制し、グランドスラムを達成した! 残念ながら世界大会は準優勝だったが、はたして今回、前人未踏の四連覇と、同時にこれまた前人未踏の夏連覇を成すか?』
双方のプレイヤーたちが向き合った。
ナンは辰津美しか見ない。
『これはすごいにらみ合いだ! 決勝の見所は、やはり史上初の身内対決! はたして数分後、軍配はどちらに上がるか? ブレードマニア同士の戦いに刮目せよ!』
姉さん、約束を果たしに来たよ!
* *
コックピットに入る直前。
ナンは渡しの手すり、いつもの指定席に、ほぼ一日ぶりに返ってきた竹刀を立てかけた。まっすぐに見えるよう矯正しかつガムテープで補強はしてるが、すぐに自重でくにゃりと曲がってしまう。
「いままでありがとう。だけどこの試合だけは見ていってね」
竹刀に話しかけて、顔をあげた。
ふと、ステージ下に二回戦で戦ったチーム轟山の少年三人を見つけた。こちらに手を伸ばして、涙顔で口をぱくぱくとさせている。おそらく「ナンちゃんとデートぉ……」と力無く言っているのだろう。
「……あいつらに見つからなくてよかったね。見つけてくれたのが斬で、本当によかった」
竹刀を大事に撫でただけで、頬の温度が高まるのを自覚した。胸もどくどくと鳴っている。だめだ、どうにも抑えられない。
隣で力王の筐体が動き出した。
慌てるように筐体に入る。
〈こちら斬&総司〉
さっそく斬の声だ。
聞くだけでも顔がさらに赤くなるのを感じる。体全体がすっかり火照っている。人を好きになるとは、やっかいなことだ。筐体内では外を気にしなくてよいから助かる。
〈中華英雄はたぶん開幕で、あの恐ろしい集中砲火で僕を落としに来ると思います〉
〈ありえるな〉
トリニティ砲火は飛行VSにしか効果がない。一部の戦場を除いて、地上は障害物に溢れているからだ。
「どうするの、斬くん」
〈開幕レーザーを使いましょう。それぞれが正面の一体をいきなり撃ちます〉
〈準決勝でサクラガラスが中華英雄に使った手だな? だが失敗しているぞ〉
〈あれはあからさまな牽制で照射が短かったからです。一度に照射できる最大時間の三秒をきっちり当てないと〉
「つまりちゃんとした攻撃のつもりで撃つわけね」
力王は数秒の沈黙のあと、短く言った。
〈他に手はない。決定だ〉
決定となれば迷わない。武藏の装備を選ぶ。右肩は超短パルスレーザー砲、左肩はヘラロケット四本。左右の腰はいつもの固定装備、二刀太刀を佩刀している。補助装備は加速機構の二連装。斬撃勝負となれば、素速いに越したことはない。
戦闘フィールドが出る。
――そこは、大都市の真ん中だった。
大都会の高速道路に、武藏がぽつりと立っている。見渡す果てまで灰色のビルが立ち並ぶ。VSのシステム上ミニチュア都市を見ている感じなのだが、それでもなにか息苦しさを覚えそうだ。
「こんな戦場、見たことないよ……」
黄文字で「始動準備」の表示。
〈こりゃすげえ! バージョン一・八〇筐体から採用された、東京ステージだぜ〉
〈いつもの南新町の筐体は、一年前の一・五五ですね〉
つまり東京ステージは、通信で戦うにしても双方が一・八〇でないと選択されない。ここは剣ノ舞が体験する、はじめての戦場だ。
「東京……」
辰津美がいる街。にわかに怖くなって体が――いや、これは武者震いにちがいない。
戦場を見渡すと、テレビで見慣れた赤い鉄塔が立っていた。東京タワーだ。
タワーは位置的に戦場のほぼ中央にある。
正面スクリーンに「戦闘開始」と出た。
辰津美と戦うというのと同時に、斬を救うのだという緊張とともに、
「ロック!」
即座に正面の敵をロックし、開幕レーザーを放った。一秒、二秒、三秒――消える。これで数秒は撃てない。反動も光もなく、急速充電と冷却の音だけがする。
ゴーグルには命中表示が出ていた。世界クラスのプレイヤーが開幕レーザーに当たるとは、間違いなく集中砲火に神経を注いでいたのだろう。名前は「項羽」とある。
あれ? たしか項羽は左翼だったと思うけど――反応が消えた。隠れたのだ。
〈うわああ!〉
回線を通じ、ボンボンと衝撃音が響いてきた。斬の総司が被弾した!
だが視認はしない。相手は世界レベル、下手な隙は絶対に作ってはならない。
武藏を車輪走行モードにして、高速道路の上を走りはじめた。道路はちょうど北に伸びている。剣ノ舞は東京タワーの南側に整列していた。その左翼――西側にいたのが武藏だ。北側には中華英雄が並んでいる。
〈斬、大丈夫か?〉
〈正面の曹操からは、東京タワーが守ってくれました。ですが兄さん担当の、敵左翼機から食らいました。被害は右袖の消滅です〉
〈すまない。芝浦からだと浜松辺りに高いビルが幾つもあって、日比谷が見えなかった〉
「私はなんとか阻止できたみたい。斬くんはどうしてるの?」
〈ビルの間に隠れて低空飛行で抜けています。東京タワーの方面に行きたいと思います〉
〈だめだ。タワー周辺は芝公園や学校があって、隠れる場所がすくない〉
〈詳しいんですね。そうか、兄さんは修学旅行で行ったから〉
〈一年前に歩き回ったからな。戦い易いとなれば、電線の埋没化が完了した麻布だろう〉
〈どこでしょうか?〉
〈斬が向かっている辺りだ。ナンの位置からだと、東京タワーの左だな――俺は国道一五号に出た。これから北上する〉
〈広い学校に入りました。慶応大学です〉
〈そのまま北上すれば麻布だ。標識でも頼りにしろ〉
とっさに思いついた。
「私も麻布で合流しようか、斬くん」
〈ありがとうございます――了解〉
〈残念。斬とかわりたいものだ〉
ナンは赤面した。力王は加速度的に自分の心を隠さなくなっている。だけどナンが一緒にいたいのは、あくまで斬なのだ。
「……あ、先輩」
〈なんだ?〉
「先輩が出会うのは、項羽じゃなくてユエフェイになりそうです。中華英雄は今回、左右で入れ替わっています」
〈坂東を俺に向けてくるとは。気をつけろ、そちらはイリュージョナーふたりが相手だ〉
「用心します――了解」
通信が切れた。
おっと、目の前に標識板だ。環状線? とにかく軽く跳んで避ける。
会話の間に、ナンは高速道路の分岐点に来ていた。一本はそのまま北上し、一本はほぼ東に――項羽を再ロックオンした。同時にゴーグルに警告!
ナンはとっさに右に跳んでいた。その脇を二本の推進炎が抜けてゆく。アプカーによる同時砲火だ。
どうやら前に出過ぎていたようだ。
この跳躍で武藏は高速道路から市街に降り、三階建てビルにぶつかった。ビルは潰れて粉々になり、土灰色の煙が地を這って広がる。
「なんて脆いの」
そこから抜け出て一歩を踏み出すが、道路に置いてある車を踏みつぶしてしまう。まるで紙粘土だ。これで本当に人がいたら大惨事になるだろう。
すこし歩くと腹が電線に引っかかった。この辺りはまだ電線の埋没が進んでない。ぶちぶちとショートして、黄色い火花が散る。
「せいや……蜘蛛の巣みたい」
背中のスラスターを噴かし、左手の高速道路に沿って、隠れるように走る。上に戻るのはだめだ。おそらくあの砲火が来る。体当たりで、電線をつぎつぎに切ってゆく。
――そのとき、目の前の高速道路が突然崩壊した。煙の中に半人半馬の影。顔のシルエットの真ん中で、モノアイが緑に光る。光はひとつのみ。
「項羽……イリュージョナー、清水さん」
VSはたいてい目がふたつあるのに、項羽はわざわざひとつにしてある。
『ナンちゃん。悪いけど、ここで終わりだ』
「いや! 私は姉さんと戦うの!」
武藏は肩のレーザーを照射したが、煙が邪魔で拡散し、ほとんど威力をなさない。それを見越して構わず突っ込んでくる項羽。煙から抜け出た姿は血のような深紅で、両手に握るは、長大な戟だ。
その槍と鎌が一緒になった得物をさっと振りかざして突撃する。なぜか音がしない。
『加速!』
項羽の速度が急上昇した。
「加速!」
おなじく武藏もブーストスラスターでとっさに上空に避け、難を回避する。
項羽の衝撃力が空を裂いた。振り下ろされた戟は武藏のいた路面をざっくりとかち割った。水道管が破裂し水が吹き出てきた。仮想現実空間なのに、妙なところで凝っている。
――ゴーグルに警告信号!
間に合わない。横腹に命中する。
アプカーの凄まじい衝撃がナンを襲う。筐体がきりもみ回転し、一瞬目を回しそうになった。だが屈してはならない。負ける。
武藏は地面に激突する寸前で体勢を整え、スラスターで低空飛行した。弾芯の貫通は免れた。アプカーは初速マッハ二・九で以後猛加速するから、近距離ほど威力は低い。刺さったアプカーを抜いて捨てた。
「姉さん……」
項羽が突撃し、曹操が離れたところから援護射撃。連携が働いている。後方で警告があり、さっと避ける。項羽の砲撃だ。
被害を確認する。胴と腰を曲げる部分がやられた。運良く駆動系は死んでいないが、機動に対する影響は必至だ。
不利すぎる。
「発信、こちらナン&武藏。項羽・曹操と抗戦中! 斬くん、来て!」
〈煙が昇った場所ですね。正面すぐです!〉
近くをミサイルが通過した。警告が出なかったから、斬の援護だ。
「正面? 私はまっすぐ行ってたけど……」
〈ナンさんは、東に来てましたよ〉
「高速が東に……方向がわかりにくいよう」
大通りの角を曲がると、総司が見えた。撃たれるのを警戒し、走りながら来たようだ。
〈ナンさん〉
「よし、こちらも連携を取れるよ」
現金なことに嬉しさで胸が熱くなった。アプカーを一発被弾した総司は、右袖がなくなっているのがすこし痛々しかった。
〈こちら力王&十兵衛。ナンと斬は合流できたようだな。俺は――くそっ!〉
爆破音が響いた。
〈兄さん!〉
〈ユエフェイの待ち伏せ砲撃を横から受け、左腕を失った。追うユエフェイを連れて南に下がる〉
「健闘を祈ります……」
〈――了解!〉
力王が通信を切った。
現在のところ、一方的な展開だ。
〈ナンさん、中華英雄の連携はどうですか?〉
「……ストームトルーパーの項羽に、スナイパーの曹操」
〈ならこちらは各個撃破で。撃たれないよう低くから、まず項羽を挟撃でどうです?〉
「いいよ。通信は切らないほうがいいね」
〈そうですね――では、僕はあちらから〉
南北の通りが五〇メートル間隔でふたつ並んで走っている。その西側を斬が、東側をナンが行く。ロック、ロックと念じているが、項羽も曹操もどこにも見えない。おそらく隠れているのだろう。
「……麻布決戦の構想が外れちゃった」
〈予想のうちですよ。相手は日本一ですから〉
斬の声はそっけなくて冷静で、怯んだ様子がまるでない。ここまで来た以上、勝ちたい、という思いで充実しているようだ。
「斬くん。大会がはじまった瞬間から、中華英雄は日本一でなく、挑戦者になった――そう考えれば、立場はおなじなんだね」
〈……あはは、たしかにそうですね〉
そう、立場はおなじだ。頂上に立っても、最強は次の大会までの栄光である。次の大会で敗れれば元最強となるのだ。栄光は名誉になり、過去の記録となる。
だからこそ平静を保って、全力で戦わねばならない。立場は同じだ。
「いた!」
ロックサークルが三〇〇メートル先で、踵を捉えた。
「頭隠して尻隠さずってね。三つ先の角で項羽が、斬くんを襲撃すべく寝そべってるよ。斬くんから見て、右側から襲ってくる」
〈ということはこのまま同時に進むだけで、完全に先制で挟撃できますね〉
待ち伏せる項羽を逆に、ナンが後ろから、斬が正面からで、挟み撃ちにできるのだ。
武藏の両手に太刀を握らせた。電線を切らないよう注意しつつ、一歩一歩距離を縮める。
さすがに緊張してきた。
椅子のもたれにかけた手に汗がにじむ。
こういったとき、VSがLV入力であるのを自覚する。手持ちぶさたとはこういうことだろう。手はなにも持っていないのに、武藏は刀を持っており、項羽を斬り倒そうと辻斬りのように忍び足で接近しているのだ。そしてナンの足もなにも感じていない。
これこそ遠隔操作の気分だ。
大好きな斬と一緒にいるという喜びよりも、次第に本当に辰津美たちと対決しているのだな、という実感が高まってくる。
無限にも思われる時間をかけて、ようやく一五〇メートルほどまで近づいた。
「斬くん」
〈なんでしょうか?〉
「まだ御礼言ってなかったね。竹刀見つけてくれて、ありがとう」
〈……光栄です〉
「緊張するじゃない。かしこまらないでよ」
〈は、はい。とにかく――勝ちましょう〉
「うん」
なにか顔全体がくすぐったくなり、ナンは左手で鼻を掻いてしまう。目の前の武藏も猿のように鼻を掻いていた。
〈ではナンさん。合図で同時に、加速突撃〉
「……わかった。じゃあ合図は私が」
武藏に踏み込む体勢を取らせる。
「――三、二、一……零! 加速機構!」
武藏の背中にあるスラスターがびくんとしなり、白の噴煙が赤く光った。さらに地を蹴る足の回転が一挙に素速くなる。武藏は猛獣のように駆けた。
左隣では総司が空中に飛び出した。すでにレーザーガンを撃っている。
避けたのか、項羽の踵が消えた。
電線や車、ビルから突き出た看板を蹴散らしつつ、一五〇メートルをあっという間に走る。項羽のいた十字路の直前で急制動し、左に方向転換した。
項羽がいた! 馬の尻が丸出しだ。ビルの影に隠れて総司の攻撃をやりすごしている。
そこに後ろから、一撃を――
ガッ!
馬尻の脇から光が飛来し、武藏の胸を強打した。
衝撃で倒れる武藏の視線の向こうに、通りを挟んで左肩の大砲を向けた曹操がいた。
『甘いなナン』
「そういうこと!」
視界が空になる。武藏が仰向けに倒れたのだ。もちろん筐体も倒れている。曹操の放ったアプカーは武藏の胸部を陥没させた後、ずれて空の彼方に飛んでいった。
『ナンさん、大丈夫?』
通信でない直話モードで斬の声が聞こえる。それほど近くにいるということだ。
「なんとか。姉さんたち、二重の罠を張っていたよ」
歩み寄る曹操の足音。
『いくら夢の姉妹対戦といっても、スリーオンスリーはあくまでチームの戦いだ。私とマンツーマンで戦いたいのがナンの希望だろうし私もそれならいいと思うが、願うなら自力で状況を作ってみるがいい』
矛をふりあげる音が聞こえた。
『逃げてナンさん!』
派手な音がした。斬がナパームでも投げたのだろう。
『殊勝だね。いいよ、相手になろう斬ちゃん』
『子供扱いするな!』
その間にナンは起きあがろうとした……が。
脳髄を刺激する悪寒を唐突に感じた。
とっさにスラスターを発動し、寝たままで頭のほうに逃げる。前触れもなくすごい破壊音がした。ジェット推進のままで起きあがると、ビルを丸ごと斬った項羽がいた。すでに追撃の斬撃体勢に入っている。
『無音斬が通じないとは、やるね』
「光栄です!」
つい感激した斬の口癖を真似てしまった。
バックしながら右の長い太刀を前に出し、左前に跳躍した。この動きに項羽はついて行けない。勢いがつきすぎている。
道路から外れ、ビルの屋上に着地する武藏。その重さに耐えきれず、ビルはあっけなく二階ほど陥没する。だが崩れきるまえに、ナンは武藏を再跳躍させていた。
まるで三角跳びの格好で、項羽の裏を取った。加速機構を使い、斬撃体勢に入る。項羽は旋回の最中だ。
武藏の右袈裟斬りが項羽の左肩に入った。ずぶずぶと肩が震える。そこに左で刺そうとした――そのとき、項羽がふっと消えた。ゴーグルの命中判定も消える。
「!」
とっさに後方に退くと、武藏のいた空間を凶悪な赤い爪が走った。項羽は無事だった。ぎりぎりでかわし、裏拳の要領で戟を横に薙いだのだ。
「……これが、補正突破現象《ミラージュフェノミナン》」
『ライブで体験するのははじめてかい』
「はい」
コンピュータの予測を突き破る人間。
プログラムがチェスや将棋で人間を圧倒して久しい。が、VSに関しては超反応・超先読みの最強CPU機VSでも、世界クラスのイリュージョナーには叶わないという。
『なら、これはどうかな?』
上段に構えた項羽が襲ってきた。またもやほとんど音はない。項羽はあらゆる関節や駆動部に徹底的な消音装備を施しており、無音の殺戮者として怖れられている。ただ振動刃の空気を揺さぶる音しかしない、しかし恐るべき速度にて振り下ろされた一撃を、ぎりぎりで後方に避ける。
『当たれ当たれ当たれ!』
近くでは斬も苦戦しているようだ。
よし!
項羽の斬撃動作が終わった直後に、武藏を斬りかからせた。絶妙なタイミングだ。
だが項羽も予期していたのか、すでに大砲が動いている。黒い砲門がこちらの胸元を狙っている。警告も出ている。
当たる!
思った瞬間、武藏は踏み込みを中断し、とっさにしゃがんで左の小太刀を突きだした――項羽の大砲があらぬ宙を撃った。
「私のしゃがみに反応しなかった?」
武藏の突きが項羽の胸を突く。
……いや、しかし項羽がまた消えて、離れた場所に出現した。
「すごい……まるで幻と戦っているみたい」
『ナンちゃんもたった今、幻を作ったよ』
「え?」
『これが稀にしか実現しない、イリュージョナー同士の、ミラージュバトルさ!』
項羽がふっと消えた。
いきなり、煙のように。
これも幻……つまり現象か。
ならつぎは――ナンはとっさに勘で判断した。
「上!」
見上げると太陽があった。幻影の戦いに興味など示さず、ただ圧倒的な輝きを無人の東京に降らせつづける。そのピュアなまでにひたすら白い輝きの彼方から、項羽が舞い降りてくる。すでに斬撃体勢だ。
「斬撃潰し!」
武藏のレーザー砲が炸裂した。頭にまともに照射を受ける項羽。
『なんで読めたんだ?』
斬撃を中断して横に逃げるが、ナンは先読みで照準を狂わせなかった。三秒間のまともな至近照射を受け、項羽の頭が熔けた。モノアイの明かりが消えて燃え上がる。
項羽が逃げ出した。それを追う武藏――
『え? 待ってー!』
『火羅崩壊突!』
ずん。
釘を木に打ち付けたような音がして、直後、左で光と音が発生した。
「斬くん! 斬くん!」
通信途絶。
急いで首を振ると、墜ちた総司が道路に倒れていた。もはや動かず、燃えるだけだ。その残骸を見下ろすように、曹操が火柱のむこうで揺らいでいた。
音は一回しかしなかった。しかし総司を破壊に至らしめた刺突の傷は、あきらかに四つはあった。
すさまじい速度での連続攻撃だ。
しかも一撃一撃がちゃんと総司の胸を完全に貫通し、反対側が見える大穴となっている。火羅と名のつくブレードアタックを受ければ最後、確実に倒されるということだ。
『ナン。これで一対一で戦えるな』
姉さんが、私の斬を倒した! にわかに強い怒りが胸を覆った。仇を――いや、冷静になろう。これはあくまで試合だし、神聖な約束の本番、最中だ。
「……発信、こちらナン&武藏。先輩、斬が、斬くんがやられました!」
虹色の曹操が炎の間を抜けて、こちらに向かってくる。ナンは武藏を後退させた。
〈苦しいな。十兵衛は情けないことに、芝浦埠頭まで逃げている。海の上に出て、なんとかユエフェイの追撃をかわしたところだ〉
十兵衛はホバーなので、水の上も大丈夫だ。
水がばしゅんと叩かれる音がした。近くを砲弾が掠めたのだろう。
〈おっと! とにかく俺は手一杯だ〉
「わかりました。私は東京タワーで戦います――了解」
通信を切ると、武藏をスラスター最大出力で大跳躍させた。
『逃げるのか!』
ゴーグルに警告表示が出る。
手を軽く動かして移動ベクトルを変動した。紙一重でアプカーが嵐のように抜ける。
『……消えた。ナンが消えたぞ! やるな後輩、新米イリュージョナー』
辰津美のうれしそうな声が響いてきた。
どうやら現象でかわしたようだ。神経を張りつめて高い集中力を維持している。いつもなら回避できない攻撃をかわせている。
一気に高度五〇メートルまで上昇し、降りる。一回で一五〇メートルは稼いだだろうか。それを三回繰り返し、東京タワーの麓にある駐車場に降り立った。
右手に広い公園が見える。
これが力王の言っていた芝公園だろう。公園の中に寺だろうか、木々に埋もれるように瓦葺きの大屋根があり、その前に血色の戦士の上半身が見えていた。
『近くで消火用の水はここにしかないからね――ナンちゃん、勝負』
頭の熔けた項羽が大砲を向けてきた。
武藏はすでに斜め前に避けている。項羽の砲撃はむなしく駐車場に突き刺さった。残った燃料で、全長二八〇センチ弾径一九三ミリの怪物砲弾は激しく揺れながら地面にめり込んでいった。
「姉さんが来るまえに倒す!」
武藏は走りながら加速機構を起動した。ナンの左右を抜ける風景が早送りになる。正面の項羽は戟を持ち、迎撃の構えを取っている。そこだけがまるで静止画のようだ。
公園に入ると、いきなり小さな池を踏みつぶす。大量の泥が周囲に飛び散った。
その後は芝生と林だ。木々をなぎ倒しながら、最短距離で項羽に迫った。
――背後に違和感を感じた。ナンは武藏を横に跳ばした。直後、警告が出て脇をアプカーが通過した。勘に従って助かった。
「姉さん、速い!」
だが距離はまだあるはずだ。それに大砲は連射が利かない。つぎの砲撃までに……
距離、五〇メートル。
『ナンちゃん、行くよ』
項羽が戟の刃先を背面に隠すように構えた。
「……これじゃあ、間合いが読めない」
だが構わず突撃させる。項羽がぴくりと動いた。いや、これはフェイントだ。武藏の足を止めさせない。
項羽はまたぴくっと動いた。これもフェイント。次だ! 回避は取らない。
やはりだ。項羽が体と腕を大きく旋回させて、今度こそ一撃を放ってきた。
遅い!
ぽんと上に跳ぶ武藏。
「いまだ!」
必殺の一撃をかわした勢いで、右の太刀を一閃。
項羽の左脇腹に一撃を入れた。命中判定!
「まだ!」
左の小太刀を動かさず、左肩のポッドからヘラロケット弾を二本放った。
そして……ヘラが項羽をすり抜けた!
項羽のむこうでなにか金属に命中し、悲鳴のような衝撃音と爆音がする。
斬が一撃を入れた項羽がゆっくり薄れてゆく。その残像が消えると、離れた位置に胸から腹にかけて激しく表面の熔けた、丸焼け項羽が立っていた。両手に持つ戟は、ロケット弾の直撃で二つに折れている。
『なぜ……』
「表示がおかしくなるなら、相手がどう行動するかを予想して対処すればいいですよね」
『さすがだね』
武器を失った項羽は、ゆっくりと大砲を向けてきた。それにとどめをさそうと歩き出した武藏は――つぎの瞬間、左に前転した。
背中からアプカーが飛んできたのだ。
完全に勘での回避だった。ゴーグルの反応はまったく見ていないし、項羽をロックしている以上、反応を見てからでは回避は不可能だった。
アプカーは武藏でなく、つっ立っていた項羽に命中した。ロケット弾直撃で装甲が脆くなっていた項羽の、右肩と大砲があっけなく消し飛ぶ。
『ちょ……ちょっと待てよ!』
貫通した。
砲弾はそのまま煙を吐きつつ加速して、さらに後方にある寺の大屋根を直撃した。瓦が粉々に砕け散り、灰色の煙が寺の上部を覆った。
『せいっ! 清水、なにをしているか!』
『す、済まない峰風』
いまだ。
「倒れろー!」
加速機構を発動させ、連続で突きかかった。幾筋もの残光が煌めく。
項羽は左、右の突き二撃を避けたが、すでに精彩がない。武藏の衝撃力が勝り、左の三撃目が項羽の胸を捉えた。胸を抉られた項羽はその場で反転し、なりふり構わない逃げに移った。しかし突きから斬りに転じた武藏の右四撃目が馬部分の右後ろ脚を切断し、バランスを崩す項羽。
『は、速い』
「これで終わりです!」
一気に追いついた武藏は、項羽の背中に五撃目を左で加え、六撃目の右で上下半身を完全に分断した。
項羽の上半身がその場に落ち、下半身は勢いを残したまま寺に突っ込んだ。寺の本堂らしきものが爆発炎上する。血色の戦士の上半身は、機能を停止していた。
「すいません、たぶん有名な寺さん。悪いけど私は名を知らないの」
『あれは増上寺っていうのさ』
――ゆっくりと振り向く。
「姉さん」
曹操が立っていた。
『ずいぶんと加速機構が長持ちしてるねえ。もしかして二連装かい』
「当たり」
『そうか……最初から二対一は覚悟の上、というわけか。だから項羽を追ったんだね』
「後顧の憂いは絶ったわ」
『そちらもチームプレイに徹するとはね。さっき対面したとき、私はついぞそのまま一対一になると思って喜んだのだぞ』
「手負いの項羽を逃す理由はなかったもの」
『あはははは!』
辰津美が笑った。
曹操も同調して肩を上下させる。その姿は、モデルのような見事な八・五頭身だ。虹色の鎧に、すらりとした二本脚。項羽のような馬脚ではない。
そういえばベスト八以上で機動手段も姿も人間なのは、曹操と武藏しかいない。
「姉さんも……」
ナンは思わぬ共通点に気付いた。ナンが一番しっくり来るVSはヴァルキリーだった。だが体格が合わないので、斬の協力を得て武藏を作ったのだ。
峰風南の体格を持つ専用機を。
辰津美の曹操はヴァルキリーカスタムだ。大人なので体格は合うのだろう。
「人型は、剣道の間合いで戦えるVS……姉さん。いざ、勝負」
ナンは武藏に、鶴が翼を広げたような、見事な二刀流の構えを取らせた。
ついに来た。
二年と数ヶ月の時を経て、約束の日を果たすときが。
決勝の、この舞台で。
一対一で、誰の邪魔もなく。
それを辰津美も心得ている。
『これで心おきなく戦えるな』
ゆっくりと戦闘態勢を取る曹操。
矛を中段に構え、切先を正面に向ける。玉虫のような虹色に輝く曹操。総司と一戦交えたのに、損傷も汚れもない。
傷を容易にはつけられない高貴な装甲。
最後に曹操が撃破されたのは、もうどのくらい前なんだろう。世界大会ですら一度として撃破されなかった。
ならば――
ナンは奇策を取ることを考えた。
普通にやりあってもまず勝てない。ここは……
ちらりと東京タワーを見上げるナン。武藏も意識を反映して余所見する――はっ!
ほとんど無意識で武藏を横に跳ばすと、急襲した曹操が矛を振り下ろしていた。
『勝負に集中しな!』
動きが速い。加速機構を作動させている。
「加速!」
こちらも加速機構で素速く後方に逃げる。
『やるね。ならこれはどうかな?』
曹操の矛が両腕ごと急に消え、胸元に赤いもやのような塊が出現した。
だめ!
火羅崩壊突だ。
迷うことなくレーザーを牽制で撃とうとする。だが連続突きは先に発動し、武藏の胸に爆弾のように襲いかかった。後方へ逃げていたため胸元に浅い穴がいくつか開く程度で済んだが、しかし衝撃で後方によろけた。
怪我の功名でチャンスが生まれた。曹操の体勢が伸びきった状態で一瞬、止まった。ナンは崩れかけの姿勢で無理矢理照準を合わせた。無事に照射されたレーザーは、矛の穂先に命中し、それを熔かして破壊した。
曹操は斬撃武器を失った。
やった、これで斬撃戦で圧倒的に有利に――と衝撃に耐えながらナンが思ったとたん、曹操の姿が急にぼやけ、互いの命中判定がエラーとしてキャンセルされた。
「え?」
左に曹操があらわれた。大きく跳躍しすぎ、軽く四〇メートルは移動している。
穴だらけだった武藏の胸元も、いつのまにか綺麗に戻っている。
「姉さんの現象……」
『肉を切って骨を断たれるのはいやだからね』
「……すごい」
やはり正攻法ではだめだ。
ナンはおもむろに武藏をジャンプさせた。空中でスラスターを最大に噴かし、一気に距離を稼ぐ。向かうは――ナンの瞳に、東京タワーが映り込んだ。武藏が空中で刀を鞘に戻した。
『どこに行くつもりだ。待てよ』
辰津美の言葉を無視し、着地するや、また大跳躍。
タワーの下につく。そのまま後ろも見ず、上に跳ぶ。鉄骨を踏み台にして、どんどん昇ってゆく。踏んだ箇所は戦車数台分の重量を受け、一発で変形する。おなじ場所には瞬間しかいられない。上へ、上へ。
――幾度目かの跳躍で、地上一五〇メートル辺りの大展望台にたどり着いた。その屋根に乗ったとたん、重みで天井を踏み抜いたので、あわてて近くの鉄骨に手をかけた。そこもすこしずつ変形していくので、足と手でバランスを取って、ようやく安定した。
「……これで大丈夫だと思うけど」
安心すると、力王が心配になった。
東京湾のほうを見てみると、輸送船の影に隠れている十兵衛がいた。埠頭には黄色いVS――ユエフェイがいて、大砲で十兵衛のいる船を狙っている。なかなか撃たないのは、アプカーが最大二〇発しかないからだろう。
ユエフェイが海に入れない以上、これは完全な膠着と言ってよい。
下を見てみる。曹操は確認できない。
「上がってこないのかな?」
突然下で、金属が裂かれる音がした。また音だ。微振動が武藏まで届く。その音が幾度か繰り返されると、タワーがふいにぐらっと揺れた。
「まさか……」
大砲の音がした。直後に命中音がして、またタワーが揺れて――今度はわずかに傾いた。斬る音と砲撃が数回交互にあり、そのたびにタワーがぎしぎし揺れた。
そして――ついに、タワーが一気に傾きはじめた。もはや持たない。
「姉さんいつから木こりになったのー!」
倒れゆく鉄骨の上を走る武藏。急いで下に向かう。いくらスラスターで減速しても、一〇〇メートル以上の高さから落ちたらただでは済まない。
目の前に緑が見える。ということは、東京タワーは芝公園と反対側に倒れ込もうとしていた。
「姉さん!」
ナンは殺気のようなものを感じた。とっさに武藏が跳躍した。下を砲弾がかすめる。鉄骨の上を駆け上がる曹操を確認し、レーザーで応酬する。
さっと避けると、曹操がスラスターを噴かして矛を横に構えた。
武藏も両腰の太刀を抜き、鶴翼に構えて降りた。二機が接近する。
「……姉さん」
『いくぞ。いまこそ、あのときの――二年前のつづきを! 加速!』
急加速して突撃した曹操が横薙ぎから上にぶちかますように矛を振り上げる。その死の一撃をナンは読んでおり、わずかな微制動で右にかわし――その矛が途中でぴたりと止まるや、横から迫ってきた。
「加速!」
カキン。
加速機構の加護により、左の小太刀でなんとか逸らす。刀が斬り折られたが助かった。
壊れた小太刀を曹操に投げつけ、一回鉄骨に足をつけて横に跳ぶ。そしてまた跳んで、一気に曹操の裏を取った。ナンが得意とする、三角跳びだ。
滅多に行わない攻撃も取る。
「巌流島!」
刀を突きに構えつつ、勘でヘラロケットを曹操の右に放つ。
ロケット弾に怯んだのか、曹操の回避の動きが遅れた。その背中の紫マントにずぶりと太刀を突き込んだ。
やったか……いや!
「ちがう!」
勘が告げ、とっさに後方に逃げようとした。
と、マントの中央からいきなり、矛が伸びてきたのだ! あり得ない。曹操はこちらに背中を向けているというのに。
武藏の体はすでに後方跳躍体勢だ。
矛が武藏の胸部を襲った。浅い。だがそれでも装甲が抉られる。バランスを崩しかけつつもしっかりと後方跳躍を成功させた。矛の赤熱する先端が胸から離れる。焦げ茶色のくすぶるようないやな煙を残して、武藏は死の間合いから生還した。
「……ふう」
紫マントがぼやけて消えた。その向こうに矛を突きだした無傷の曹操が現れた。またもや現象だったのだ。
「やるね」
どうやってかわしたのだろう。
巌流島はナンの行う斬撃で、珍しく名前のついている「技」だ。斬り込みつつ先読みでロケット弾の置きみやげを放ち、逃げをあるていど封じて斬る。名付け親は力王である。それが利かないとなると――
――ナンの思考を邪魔するかのように、辰津美が斬りかかってきた。急に曹操の両肩に赤い翼が生え、武藏を覆うように迫ってきた!
「これはまさか?」
加速機構を使用しつつ、武藏は一気に後方に跳んだ。
赤い稲妻が空を斬り、まるで電気が走ったかのような感覚が空間に満ちた。おそるべき往復の二撃を、紙一重でかわしていた。
曹操は追撃を行わない。
すでに武藏が刀を構えていたからだ。
ナンは体にしびれが走ったかのような緊張を味わった。同時にそれを楽しく思う気分。
『……ナン。えらいな』
辰津美の声はなぜか誇らしげだった。
「かわせた――火羅鳳凰斬を」
……私は姉さんと、五分で渡り合っている。
二年前はまったく叶わなかった。
だが――いまの辰津美は筋肉もなく、昔日の強さは魂の迫力以外には感じられない。対戦せずとも、剣道の実力が逆転しているのは明白だ。いかな剣豪とて、二年のブランクは長きにすぎる。
それに辰津美がずっと剣道をつづけていたら、ナンは辰津美には永遠に勝てないだろう。七年の年齢差はあまりにも大きすぎる。しかも元々の素質が天地ほど違う。
それゆえにVSが肝心となる。
VSでは純粋にLVによる反応がものを言う。移し身であるVSは精神力そのものであり、そこに年月差は関係ない。体格も、力も。あるのは経験と勝負勘、そして気迫のみだ。
うれしかった。
かつての約束はこのような変則的な形で果たされることになった。だが剣道でなくVSであるがゆえ、こうして物理的な差を超越した対等な立場で戦うことが許される。
許されるのだ。
そしてちゃんと渡り合っている。
辰津美の鳳凰も避けた。
ならば……私もやってやる!
いまや倒れ行く赤い鉄骨の上で、二機は対峙している。四隅にある太い柱の上なので、じっとしていてもへこみはしない。
「……つぎの一撃で、決める!」
『こちらこそ、望むところだ』
一本になった太刀を、両手で握っている。
正眼中段の構えで、曹操に対した。刃先をわずかに上下に震わせる。足も軽く動かし、間合いとタイミングを図る。
土壇場で剣道の基本に立ち返るとは。
それゆえかえって一番得意な形でもあった。
数秒の静寂。
曹操の彼方に、辰津美の顔が見えた。
辰津美は、微笑んでいた。楽しんでいる。
あの、向日葵の笑顔だ。
ナンも笑う。行くよ、最後の斬撃。残った加速機構の時間は、わずか二秒。
「せいっ!」
『せいっ!』
ふたり同時に声を張り上げた。姉妹の声がハーモニーとなり、戦場に広がってゆく。
そして。
先に動いたのは、武藏だった。
風のように突っ込んだ。
奇を用いず、正直に真正面から行く。
これまでのすべてを、一刀に込めて。
一振りに込めて。
――姉さん!
「加速、逆巌流」
急加速した高速の振り上げから、情念の一撃。
さっと左に回避されたが、しかし構わず曹操がいた空間に一閃する。
神速だった。
その速度は、これまでナンが行ってきた斬撃の中で、もっとも速いものだった。剣圧が刀本体に遅れて空気を裂き、避けた曹操の脇を、暴風となって抜けていった。
火羅鳳凰斬を凌駕する驚異の縦斬り。
余韻が残った。斬撃が津波のように幾度も繰り返されるかのような残照が、武藏の周囲を厳粛に支配している。
外れはしたが、ナンは満足していた――しかしこれで終わりではない。
なにせ「逆」巌流なのだ。
斬撃硬直が切れるや、反撃が来る前に右に軽く跳び、空中で左の曹操に斬撃潰しのヘラロケット弾を放った。
ゴーグルにゼロのサインが出る。加速機構が完全に切れたのだ――ロケット弾が曹操の顔面に命中した。曹操の顔が弾ける。
とレッドサインが点滅した。なにもいないはずの右の空間から突然に、矛が伸びてきた。着地前だったので対応できなかった。
……読みが外れたの?
赤い矛が、武藏の右肩を激しく突いた。
灼熱の穂先がレーザー砲を貫く。
肩からそれを根こそぎもぎ取った。
仰向けに倒れる武藏。そのまま赤い鉄骨の間から滑り落ちそうになるが、四肢が偶然の支えとなり、くぼみに座るように収まる格好になった。
ナンは不思議な矛を眺めていた。空中に輝く矛は、空中から前半分が生えている状況なのだ。その矛の後方が急になにかの輪郭を得て、矛の持ち主がまるで蜃気楼のように実体化した。
左の曹操が消えてゆく。同時に出ていたロケット弾の命中判定がリセットされた。
ああ、やはり思いっきり外れていた……んだね? え? えええ!
その虹色の甲冑が、右肩から胸にまで深く裂かれ、内部の構造が露わになっていた。激しい油漏れとスパークが痛々しい。誇らしい無傷の曹操が、まともな一撃を食らって死に瀕していた。
斬ってたんだ。
同時にゴーグルに新たな修正の命中判定が出た。斬撃のクリーンヒット。
なるほど、あの満足感は手応えというやつだったのだ。
いきなり激しい地震が来た。東京タワーがいよいよ倒れきったのだ。そういえば斜めだった足場がだいぶ水平に近い――が、まだ完全には倒れていないようだ。なにかのビルにでもひっかかっているのだろう。そのせいか振動は予想ほどではなかった。それでも鉄骨の隙間から落ちそうになったので、必死に踏ん張る必要があった。
その衝撃の中、曹操がふらふらと病人のように歩いて来る。振動など我関せずという態度が不気味だ。ナンは辰津美の並はずれたバランス感覚に驚嘆を覚えた。あれほど傷ついたVSで、どうやって倒れずに歩けるのだろう。プレイヤーはVSの痛みを感じることは出来ないから、損傷した機体をなお自在に操るというのはまず無理な話なのだ。
倒れた東京タワーが破壊した建物の破片が、大量に巻き上げられた。コンクリートの煙が火山の噴煙のように辺りを覆う。すさまじい濃さの粉塵が一帯を夜に変えた。
煙の中を曹操が歩いている。胸元で火花が散り、小爆発を起こした。それで体がふらつくが、なんとか体勢を戻してこちらへの歩みを再開した。両手にはなお赤く微振動する矛を握っている。矛の先には武藏からもぎ取ったレーザー砲がぶらぶらと揺れていた。刺さった部分から高熱による煙がぶすぶすと出ている。
一瞬の夜が晴れてゆく。曹操は歩いてくる。矛を持ち、武藏を斬りに。
コンクリート片がいくつも降ってくる。それらが装甲をとんとんと叩く。まるで諦めろよ、といわんばかりだ。
ああ、いよいよ最後か。
せっかく追い込んだのに。
負けてしまうのかな。
叶わないのかな。
ナンはさすがに弱気になったが、すぐに首を振った。武藏も首を振った。諦めたらだめだ。まだなにか出来るはずだ。
武器を確かめる。右手に太刀が一刀。左手はなにも持たないが、骨組みの隙間から落ちないよう鉄骨を掴んでいて自由にならない。両肩の武装は、右は破壊され、左のポッドは全弾撃ち尽くした。
やはり刀しかない。
赤熱する振動刃に降り積もるコンクリート片のひとつが偶然当たった。それはたちまち振動刃によって真っ二つになり、鉄骨の隙間からさらに下に落ちていった。
これがあれば、まだ戦える。
だがこの座ったような体勢では負ける。
武藏は体をよじって、なんとかまともに起きあがろうと試みた。とにかく自由に動けないと話にならない――と、左足がアプカーに撃ち抜かれた。膝から下が爆発して消滅する。
「ああ!」
バランスを崩し、鉄骨の隙間から落ちそうになった。必死に右肘をふんばってようやく留まる。これで右手の刀を自由に振れなくなった。
曹操が左肩の大砲をこちらに向けている。虹色の砲身が不気味に光った。
近づきつつ狙いを定めてまた撃った。
武藏の頭の右側を通過し、鉄骨の一部を吹き飛ばした。どうやら狙点固定が上手く働かないらしい。
さらに数発撃つが、至近なのにいずれも外れた。一〇秒ほどしてナンの元にたどり着いた。砲門をぴたりと武藏の胸元に合わせるが、合わせた先からすでにふらふらしている。
『ナン……いい戦いだった』
「姉さん――」
ナンは目を閉じた。
だが、アプカーは発射されなかった。
『最後はこちらでやらないとね』
意味深な言葉に目を開けるナン。
曹操の大砲がゆっくりと上を向いていた。そして傷ついた体とは思えない勢いで矛を振り上げる。レーザー砲が抜け飛んだ。
なるほど。ブレードマニアなら、とどめは斬撃だろう。しかも辰津美はブレードマスターと呼ばれるほど、名手中の名手だ。
そのときだった。
ぐらりと世界が傾いた。
左に。
東京タワーが回転をはじめたのだ。
どこかのビルにひっかかっていたのが、負荷に耐えかねてずれたのだろう。
先ほどまでとは九〇度異なる方向への傾きに、曹操がバランスを崩した。
『なっ』
同時に武藏には好機だった。回転によって三点で支えていた体が、二点で構わなくなったのだ。すなわち右肩が自由になったのである。
見逃すナンではなかった。
「……姉さん!」
ナンは背中のスラスタージェットを噴かし、体ごと曹操に体当たりした。すでに右手を突きだしている。三点でなら距離的に右手は間に合わない。なにせ足が片方ないのだ、外ればそれきりである。二点になったからこそ行える奇襲であった。
すなわち突き上げる形の刀が、曹操の腹を完全に貫いたのである。
曹操の顔と武藏の顔が、角突き合った。スラスタージェットが切れ、武藏は曹操に寄りかかる形になる。曹操のほうが背が高い。
『ナン……』
辰津美の驚いた声が届いた。
曹操の眼光が急速に失われつつあった。
勝った?
と思った直後、曹操がいきなり武藏を足蹴にした。どこにそのような力が残っていたのだろう? とナンが思うや、本当に最後の力で、曹操は矛の一閃を武藏に浴びせかけた。
武藏の右腕が竹割りとなり、さらに胸が――というところで、曹操の動きがぴたりと止まった。
ようやく完全停止したのだ。
片足のない武藏はそのまま鉄骨の隙間から地面に落ちていった。二枚にされた右腕が燃え、爆発した。ナンは回転するコックピットの中で、懸命に曹操を見続けようと頭と目を動かしつづけた。
曹操はまるで彫刻のように、じっと動かずにいた。矛で斬りかかる最中の、戦士の姿で。腹に武藏の刀を残したままで。
仰向けの体勢で武藏は土の地面に落ちた。どうやら学校のグラウンドらしい。おかげで思ったほど衝撃はなく、ナンは比較的楽に周囲の状況を確かめることができた。
天を覆い走る赤い鉄骨群。
そこから差し込むバーチャルな太陽光が眩しかった。タワーの回転は三〇度くらいで終わっていた。あちこちで崩れた建材による粉塵煙が発生していたが、さいわいナンのいる鉄骨の底には煙は届かない。
まるでジャングルジムの中にいるような気分だった。幼いときしか体験できない光景を、小学校低学年以来に味わっていた。
すべての武器を失い、いまや這うことでしか移動が出来ない状態。いや、這うにしても左手だけではおぼつかない。
ナンはため息をついた。
もう武藏を動かそうとはしない。
なにせゴーグルには、戦闘終了へのカウントダウンが表示されていたからだ。
見上げると、鉄骨のジャングルジムの上方に、黒い戦士の像が見えていた。逆光で輪郭しか見えないその戦士は、機能を停止して佇む曹操であった。
倒れないとは、なんという勝負に対する意志の強さだろうか。まるで辰津美の魂そのものであるかのように思える。
ナンは身震いした。
まるで曹操の消えた瞳がいきなり再点灯し、復活した勢いで矛を振りかざして舞い降りてきそうな気がしたからだ。
だが、黒い戦士の影に動く気配はなかった。
二〇秒後、タイムオーバーの表示がゴーグルに出た。
ようやくほっとできた。
* *
筐体から降りると、大会に来てから幾度目かとなる、歓呼による出迎えを受けた。
『ゆ――優勝は、残機判定で、つ……剣ノ舞いぃぃー! 中華英雄の、公式大会四連覇と、夏の大会二連覇を、見事に、ものの見事に阻んだぞぉぉ!』
ファイト真の絶叫に近いアナウンスが耳に届く。
勝ったのか……
けっきょく十兵衛とユエフェイは膠着したままに終わったようだ。武藏と曹操の決着がそのまま勝敗に結びついたことになる。
ナンは思ったより冷静に勝負を分析できていた。
『素晴らしい戦いに、拍手だ!』
ただでさえ沸きっぱなしのドームがわっと大合唱したように思えた。
あまりにうるさいので、両耳を塞ぐ。
だが手を通して会場の震えが響く。
なんて大音量だろう。
数秒して耳が揺れなくなったので、そっと耳たぶを空気にさらした。それでもまだかなりうるさい。どのくらいかというと、筐体間の渡しがびりびり共鳴するほどだ。
その共鳴にびくりとしつつ、渡しから降りる。お守りの竹刀を胸に抱いて。
「うををををー!」
「やりましたよ、すごいですよ!」
すでに降りていた力王と斬が全身で喜びを表現している。それを半ば呆然とした感じで見つめるナン。あまり嬉しいという気がしない。
いっぽう中華英雄の面々は悔しさを露わにして、坂東と清水が剣ノ舞へのリベンジを誓っていた。辰津美はどうでもいいやといういかにも無関心な態度で、これらもナンはまるで他人事のように眺めていた。
『それにしても、決勝にふさわしい凄まじい戦いだった! 武藏・曹操・項羽。補正突破現象《ミラージュフェノミナン》の激しい応酬は、VS史に残るすばらしい蜃気楼戦《ミラージュバトル》だったぞ!』
繰り返し流される戦いの記録。そこには幾度と無く現れた幻影たちが映し出されていた。
会場はもう蜂の巣をつついたような大騒ぎである。あまりの声の大きさに、ナンは幾度と無く耳を塞ぎたくなった。
だが体がだるくて、なにか動きたくない。
心地よい脱力感だ。全力を出して、それで果たした。なにを感動すればよいのだろう。
満足した?
理由がわからない。
表彰式のあと取材があった。ありきたりな質問しかなかったので、おなじく適当に答えて置いた。偶然性で勝利できたこと、運がよかったことを努めて強調しておいた。事実そうであったのだ。あそこで東京タワーが動かなければ、曹操には絶対に勝てなかった。
最後に記者の一人、竹刀をなくした時に会った鴨葱さんという人が、意味深なことを言った。
「峰風南ちゃん、これからが大変だぞ。全国的にマークされることになる」
「はあ……そうですか」
実感が湧かない。そういえば中華英雄は非常に多くの野良試合をこなしているというから、そういうことだろうか? 忙しくなりそうだ。狭い四国に来る物好きはそう多くないだろうと信じたい――いや、通信で挑まれるだろう。今後もVSをつづけるとしたら、面倒な日々になりそうだ。
手に抱える優勝トロフィーまでもが、どうにも現実として思えない。
なぜだろう。
疲れる取材が終わり、三人で控え室に戻ると、感極まるように斬が泣き出した。よほど嬉しいのだろう。力王もつられて涙を流す。弟の背中をとんとんと叩く兄。そこには言葉を必要としない絆を感じる。こういうとき、兄弟はいいなと思う。
そっとして、部屋を出る。
「――姉さん」
峰風辰津美が、目の前にいた。
そういえば私も姉妹だったんだ。
あたりまえのことにようやく思い至る。なにせ二年以上も離れ、ひとりだったのだ。
「よくやったな、ナン」
辰津美の目は優しかった。あのうららかな春の日と同じだ。
「ありがとう」
いまの私の目もたぶん。
「ん? どうしたナン」
「姉さん……」
ふっと、辰津美の顔がぼやけた。
世界全体が、廊下が歪んで淡く見える。
「なにを泣いているんだ」
「だって……私、やっと……」
「見事に私に勝ったからね。偉いよ」
「ちがうの!」
叫んでいた。
「ナン?」
「私――勝ったことなんて、本当はどうでもいいの。私は、私はね姉さん、本当は、姉さんと会えたことが、なにより嬉しいの。ただそれだけなの」
そうなのだ。会えたことが、嬉しいのだ。
理由を作ってここまで来たが、それは馬鹿で不器用なだけだったからだ。勝負という理由を作らないと、辰津美になりたいとでも思わないと、会いにこれなかったのだ。
だけどもう気付いてしまった。ナンはナンにしかなれない。決勝前は平気で話していたが、あれはまだ魔法が――
「勝負の魔法、もう解けちゃったんだよ」
「ナン……すまなかった」
辰津美がゆっくりと、かつしっかりとナンを全身で抱きしめてきた。ナンは軽く驚いた。孤高な辰津美がこういうことをしてくるとは、かつてならあり得なかった。
「姉さん変わった?」
「私が変わっていると指摘したのは、当のナンだろ?」
「……うん」
そういえばそうだった。
「ひとつ聞きたい。私は不器用だから勝負の魔法とやらがよくわからないが、それが解けたとなると、ナンはVSをまだ続けるのか?」
「どういうこと?」
「ナンの目標は済んだ。これからどうする?」
「あ――」
考えてなかった。
「私は目標を果たしてないし、すでにVSを愛してもいる。だからとことんVSをする」
「姉さん、剣道は?」
「そうだな。目標を果たしたら賞金で手術を受けて、復帰を目指すかも知れない」
「え? 世界大会は賞金が出るの?」
「ほとんど使ってないが、二位でも日本人の平均年収に匹敵する額だった」
「お金持ちだね」
「海外には賞金で食うプロもいる。私はゲームでプロを目指したい」
「剣道もするのに?」
「ナンは剣道とVSを両立させてきたじゃないか」
「なら私ね、これからもする。剣道も、ヴァルキリー・スプライツも」
「いいのか? そんなに簡単に決めて」
「だって私、好きだもの。VSも、姉さんも」
さらりと言ったつもりだったが、最後は小声になっていた。胸が熱くなっている。
「――そうか。姉として正直、嬉しいよ。すごいライバルが増えるからな」
「ライバル……」
「ナンにとっても、目標からライバルに変わるのは、いいことじゃないのか?」
「姉さん――今度は、冬の大会で会おうね」
「ああ。つぎは私が挑む番だな」
嬉しい。心の底から弾むようなうれしさが、急にこみ上げてきた。まるで優勝したときに抑えていたものが、一挙に吹き上げてくるように。
だからナンは自然にガッツポーズを取り、辰津美に笑いかけた。
「来なよいつでも。のしてあげるから」
それが向日葵の微笑みになっていたことに、ナンは気付いていなかった。
* *
ナンが姉を連れて家に帰ったのは、それから二日後の夕方である。その日は奇しくも峰風辰津美、二一歳の誕生日でもあった。
母親の冴子は大泣きで出迎え、さすがの辰津美も泣いていた。
父親の励はふてくされて会おうともしなかったが、しかし道場の影で静かに泣いていたのをナンは目撃した。そんな励の前に辰津美は防具をつけた格好でいきなり現れ、竹刀を以て帰宅を告げた。もちろん励が圧勝した。
腕にいくつか痣をつくった辰津美は笑って夕食の食卓に参加した。そこに無言の励も合流してきて、いちおう家族勢揃いの食卓が二年と数ヶ月ぶりに復活した。
辰津美はまるで何事もなかったかのようにこれまでの話を聞かせた。冴子は涙ぐみながら、励は興味がなさそうな振りをしてしかし耳をぴくぴくとそばだてながら聞いていた。
その夜、辰津美はナンの部屋で寝た。姉妹で多くのことを語り、次の朝、辰津美は東京に帰っていった。
ナンが四国中学総体の剣道女子個人で初優勝をなしとげたのは、それから二週間後のことであった。馬子兄弟――とくに斬がはじめて応援にかけつけてくれたので、心となしに大奮起できたからだ。
「ナンさん、いまです!」
「せいぃっっ!」
優勝が決まった瞬間は、斬とともにいた気がして心が弾んだ。これが姉さんのいっていた効果なのかな、とナンは頬をわずかに染めて斬の声援に応えた。
表彰式の後、応援してくれたみんなの元に戻った。クラスメイトや剣道部のみんなに混じって、馬子兄弟がいた。
ナンは興奮しておめでとうを連発するみんなに適当にありがとうと言いながら、まっすぐに斬の元に向かう。
「ありがとう斬。私、優勝できたよ」
言ってからあっと思った。つい呼び捨ててしまった。
「あ、お、おめでとうございます」
顔を赤らめる斬。
慌てて力王を探すと、幸い聞こえる位置にはいなかった。見れば、すこし離れてナンの写真を撮ろうとカメラを持っていた。
「はい、撮るよー!」
にかっと笑って見せた。
「今度は僕が撮りますよ」
「可愛く撮ってね、斬」
聞こえないとなると、遠慮はしない。
「は、はい」
顔をさらに染めてゆく斬。それがどうしようもなく愛しく思う。斬は間違いなく、ナンがわざと場合によって呼び捨てていることを感じ取っているだろう。普通は呼び捨てぐらいではせいぜい親密度があがったくらいにしか感じないけど、この場合はちがう。一年近くも「くん」付けだったのがあの夜を境に突然だし、二人きりのときだけ斬と呼ぶようにして、力王の前では従来通り「斬くん」だ。その差別化が効果的だろう。
ナンが思うに、斬は脈ありだと踏んでいる。こうやって事あるごとにつついていけば、いつか向こうから告白してくれるかも知れない。そう思うだけでも楽しい。
届け、この想い。
ナンは新しく発見したそのような自分の側面を意外だなと思いつつ、素直に受け入れてもいた。それがナンになる、ということだからだ。
斬は力王からカメラを受け取り、ナンに向けた。その周囲をナンの同級生や部の仲間が取り囲む。出遅れた力王はさすがに外周にぽつねんと立つしかなかったが、体格が体格なので目立つだろう。それはどうでもいい。
大事なのは、優勝を運んでくれた斬に、写真を撮って貰うという行為だ。
「それではナンさん、賞状を広げて、こちらに見せてください」
「うん」
胸が温かくなる。
斬、ありがとう。
好きな人が、シャッターを押した。
後日ナンは斬が撮ったその写真を見て、自分の表情に驚くことになる。
* *
了 2001/10