一五 承:永遠と須臾の対価

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ソード妖夢オンライン3/一三 一四 一五 一六 一七 一八

 活躍の場がない最強ほど、無駄で間抜けなものはない。
 傍観してるだけで終わってしまった事件に、妖夢とキリトは少なからぬフラストレーションを抱えていた。捕まったPoHを成敗したことで、かろうじて溜飲は下げたのであったが、コペルの死は痛恨であった。コペルニクスを発行していた彼は、妖夢とキリトに自分の作った雑誌を何号か手渡していた。友人といえるていどの付き合いはあったのである。遺体はおろか遺品すらろくに残らぬこの世界で、なにを寄る辺として形見に代えれば良いのか。こんな悲劇が起こるとは思いようもなかったので、貰っていたコペルニクスは妖夢もキリトもすでに処分していた。ストレージには限りがあるのだ。
 せめてあのとき迷宮区に突っ込んでいればと後悔する妖夢であったが、すぐに可能性を否定する。あの時点で誰が、先遣隊がまさかボス部屋まで登ってしまうと思っただろうか。それに迷宮区は名前の通り、内部は複雑なダンジョンだ。たった一人で追ったところで、補足できる確率のほうが低い。もし妖夢が実際に追ったとして、せいぜい五~六階くらいまでで諦めて戻っただろう。迷宮区では外部との連絡すら取れないのだから――
 ――ならば、なぜ血盟騎士団は、最上階ボス部屋まで行けた?
 急にわきあがった疑問を、妖夢は胸の内へと押し留めた。こんなもの、魔理沙や紫、さらにアスナもとっくに気付いている。ヒースクリフと会った際、追求はアスナに任せたほうが良い。どうせ自分ではすぐ話がこじれると、妖夢は正確におのれを評価している。できるのは、最強の名にふさわしい剣を、しかるべき時に振るうことだと。
 自身は最強でないが、頭脳なら最高のものを持つ八雲紫が、魔理沙とともに妖夢たちへと指示した。
『フロントランナーに戻れ』
 血盟騎士団の攻略組離脱を期に、状況は激変した。前線はふたたび群雄割拠となろう。
 そのとき最強はどう立つべきか、とっくに答えは出ている。
 攻略組へラフィン・コフィンという毒虫を呼び込んだのは、その構成と方針そのものであった。最強プレイヤーを懐に抱え、同時に集団としても最高峰となり、前線をアメーバーのように覆い尽くす。唯一無二。ゆえに英雄気取りを憎む外道のターゲットにもってこいだ。攻略組を狙えば、効果的にハイレベルプレイヤーへ横槍を入れられる。いかな攻略組とはいえ、下位メンバーはそれほど強くない。PoHらにとって、つけいる隙はいくらでもあった。攻略組メンバーが傷つけられれば、その心理的な衝撃は巡り伝わりトップ戦士にも及ぶのだ。実際、キリトは少なからぬダメージを受けている。
 ならば最強が個だけでなく、パーティーとしても徹底的に突き抜けていれば、どうなるであろう。
 返答がフロントランナーだ。そのプレイスタイルは極端にして単純。最強がひたすら大物を狙い、あらゆる些末を無視する。ゆえに誰も追いつけず、ゆえになにも届かない。
 それに現状で血盟騎士団と対抗できそうな者が、妖夢たちをおいてほかにいない。幻想郷クラスタだと椛や輝夜が強力だが、メイプルには新聞記者助手の仕事があり、ルナーもパーティーリーダーとしての責任がある。
 第二層から第九層までをぶち抜いたフロントランナー。誰も背中しか見ることの適わなかった伝説がいま、蘇らんと産声をあげた。
 時は満ち、引き絞った弓が放たれる。
 黒鉄宮より飛び出した三本の矢は抜けるように転移門広場へ駆け寄り、ゲートに入るやほぼ同時に『イスカリオテ!』と唱えた。
     *        *
 第二三層のテーマは農業。第二二層につぐ余暇・生活系スキル向けの層だ。
 主街区イスカリオテには農業プレイの学校があり、さっそく入学希望者たちで盛況だった。講師陣はもちろんNPCだ。農業系スキルは広い土地を必要とするだけに、なにしろ金がかかる。事業に失敗すれば借金を背負い、スキル育成すら覚束ない。そのため憧れてはいても躊躇するプレイヤーが多かった。
 イスカリオテのゲート広場に出現したフロントランナーは、そんな未来の農業経営者たちを横目に、一目散に駆けだした。目的こそ対照的であるが、思いは等しい。生徒たちは夢のため、妖夢たちも夢のために。
「あそこ、すごい人の山だったな」
「ファーマーズ……なんでしょう? アスナ読めます?」
「英語でユリーカ農業大学校って書いてるわね。みんな夢に向かっているのよ」
「よし、俺たちも夢に走るぞ」
「はいキリト! 私たちにしか出来ないことをしましょう」
 妖夢とキリトの夢は、最強の勇者でありつづけ、このゲームを自分の手でクリアしてみせるという野心に収束される。使命感もあろうが建前で、本音でいうなら優越感の次くらいだろう。誰よりも強く、誰よりも先行していくことの気持ちよさは、やはり何物にも代え難い快感であった。妖夢とキリトが最近見せなかった、ほがらかな表情によく表れている。攻略組より解放されたとたん、本性むき出しである。どしがたい狂戦士、最強ジャンキーだ。
「意外に熱血よねえ、あなたたち」
 新人フロントランナーのアスナにすら、その傾向はあった。彼女の人生はすべて、エリートを目指す競争だった。現実が根こそぎ絶たれてしまって以後、アスナの向上心はSAOで強くなることへと容易に昇華されている。いま魔理沙によって選ばれ、人よりもさらに一歩高きへ飛翔しようとしている。これで発奮せずにいられようか。しかもこれまで不明瞭だった敵が意志を示し、明確に動いている。おっさん騎士団を追い抜けばいいだけなのだから、単純明快でわかりやすい。
「うわっ、寒い」
 町の外へ出ると、冷たい風が銀髪少女の頬を打った。乾いた空気がちりりとかすめて行くが、気にしない。白い息を規則的に吐きながら、妖夢は全速力で放牧高原を駆ける。道の両脇には柵がつづいており、その向こう側はゆるやかなカルスト台地だ。妙な角を生やしたファンタジー世界の牛や羊が点在し、あちこちで寒風に身を縮めていた。先頭をいく妖夢のあとを、黒ずくめの少年と、おなじく白ずくめの栗毛少女が追いかける。三人とも忍者のような速度ながら、銀髪と黒髪は涼しい顔だ。白い少女が若干きつそうな顔を見せているものの、笑顔を失わずついている。
 牧草の匂いが妖夢の鼻腔をくすぐった。世界の性質から殺生をあまり好まない冥界では、食肉の習慣がほとんどない。みんな仲良く草食主義で、動物性たんぱくはお魚に頼っている。妖夢が牧畜の匂いを知ったのは幻想郷だった。肉の味を知ったのも幻想郷である。
「このまま外周近くまで進んでから、南進するわよ」
 ルート情報はアスナが仕入れていた。イスカリオテの外は東が牧畜地帯、西が農耕地帯で、どちらも外周まで広大な平地が広がっている。北は深い森、南は果てに迷宮区タワーが見えるが、直進路が険しい山に遮られ、マップ機能でも道は不明瞭。東回りと西回り、どちらが上層へ至るルートなのか分からない。したがって攻略組の先遣隊は塔を目指し東と西に分かれたのだが、うち東側にいた風林火山が、血盟騎士団らしき紅白の小集団が先へいくのを目撃した。
 よって三人の剣士は東へ進路を取り、カルスト台地を抜けているわけである。キリトは単純に追ってるだけのつもりだろうが、少女ふたりにはピンときた。ヒースクリフは偶然を装い、迷宮区への正しい路を選択しているだけだと。この世界唯一のゲームマスターとなった茅場は、全階層の「明瞭」なマップデータを持っているはずだ。それはもちろんチートに類する行為であり、ゲームキャラクターとして演じられていたヒースクリフの在り方にそぐわない。茅場晶彦はいよいよ本格的に、このゲームの『真のシナリオ』を実践しはじめたというわけだ。その補正のためなら、多少のチートは目をつむるということであろう。なにしろ幻想郷クラスタは一〇人もいるのだから、普通のやりかたで通用する道理がない。
 先頭を疾走するのは、あらゆる待ち伏せを見破る妖夢だ。すでに戦闘を四回行い、いずれも秒殺である。
「どうもオオカミ系が多いですね。家畜を襲うのはオオカミさんって、イメージ的にもはや固定概念なんですね」
 背中に長刀を、腰ベルトの真後ろへ短刀を装備し、剣の柄はいずれも左を向く。この冥界剣士が楼観剣・白楼剣を身に付けるお馴染みの佩刀方法で、剣の長短まで再現されている。レベルが十分に成長してきた妖夢は、魂魄流の基本技を限りなく正確に振るえるようになっており、長短二刀でないとかえって都合が悪くなってきていた。以前なら性能優先で選んできた武器も、よりバランス重視である。もっとも曲刀カテゴリーの武器なので、カタナと違って幅広で蛮勇的、どうしても優美とはならない。なお楼観剣は長さ一メートルもの大太刀であるが、SAOでこの剣に相当するリーチの曲刀を妖夢はまだ手に入れたことがない。すでにカタナの域を超え、両手用大剣に匹敵するサイズだ。
 銀髪少女の防具構成は低層からまったく変化していない。鎧といえるのは革の胸当てだけで、あとは四肢にグローブ、肘当て、臑当てなどを控えめに装着しているだけだ。背の低い妖夢だと、これにヘルメットでも被れば、まるで練習に行くスケートボーダー少女のようでもある。防具はすべてレア物であり、形状はおしゃれ、細かい刺繍や柄模様が入るなど、女物用としてのデザイン性は高い。妖夢の愛らしさをうまく引き立て、防具としての物々しさを軽減している。鎧下のアンダーは緑色と白で揃えている。冬なので上は長袖付き、下のスカートは例によってキュロット系で、黒スパッツの二重穿きだ。脚部はサイハイソックスで、防寒は確保している。靴も緑。
「みんなオオカミに見えて、違う種類のやつも混じってるな。なぜハイエナっぽいのまでいるんだ」
 妖夢の彼氏にして黒の双剣士、SAO最強を謳われるキリトは、上から下まで黒一色。もはやほかの色は皆無である。胸部の革鎧すら漆塗りで、じつは和風装備シリーズよりピンポイント拝借してるものだ。薄手のレザー装備でところどころを保護している。背中には長袖・長襟・長裾と三拍子揃った暖かいコートを着込んでいる。レアアイテムで、形状こそ地味だが質感および肌触りはすこぶる良い。足には黒革ブーツ。
 背中には交差した二本の鞘。鈍色の剣は両方ともおなじもので、細身だが長めで重い。名はセメタリー・キーパー、むろん現段階で最強のレア武器だ。重さと長さをできるだけ左右揃えるのがキリトのスタイル。妖夢のような真の達人と異なり、電脳世界の無勝手流剣士様である。二刀流における現実世界のセオリーなど、守る必要はなかった。一撃浴びせれば終わりのリアル剣術ではなく、何発も当てないと倒れてくれないゲーム剣術ゆえ、方法論はいろいろと違ってくる。妖夢の剣は最初から連撃特化なので、長短二振りに変わろうがSAOとの相性は抜群のままである。
「ヨウム、この大型リカオン、この辺のイベントボスみたいだ。体力が馬鹿でかい。乱舞いくぞ」
「任せて――」
 たまたま出会っただけだが、経験値・アイテム的に美味しい相手だ。勝手に倒してもそのうち適当に復活する。
黒銀乱舞(ヘイインらんぶ)!』
 ゲーム世界の天才と、モンスター退治の専門家。このふたりの相性もまた、最高であった。ときにお互いの優れた部分に嫉妬などもするが、致命的といえる痴話喧嘩に至ったことは一度もない。片方が怒ったとき、すでにもう片方は反省している場面が多かったし、本気で怒るより拗ねる形で止まっている。とくに妖夢のキリトへの入れ込みは、クライン評した通りのベタ惚れ状態にあった。真面目ゆえ恋も真剣なのである。でも怒ればしっかり制裁を下すので、辻斬りは恋をしてもやはり辻斬りだ。
 黒と銀の乱舞により、野良ボスは二〇秒ほどで砕け散った。青いガラス小片状のエフェクトをかぶったアスナが、感心して拍手する。
「鮮やかよねえ。私もなにか乱舞系の技が欲しいな。ヨウムちゃん機会あったら合体技でも開発してみない?」
「うーん。私は密着して斬る、アスナは遠くから突く。リーチも私のほうが一〇センチ以上は短いですし、相性、悪くないです? まだアスナとキリトとのほうが――」
「みょーん。可愛いヨウムちゃんとのほうがいいのに~~」
「アスナ、それ私の十八番!」
 魔理沙に請われるまま旅の共となったアスナは、上から下まで白い。いまのコーディネートで補色を入れたかったのだが、似合うと思われた赤を混ぜると、たちまちおっさん騎士団となってしまう。したがってあえて白の単色に染めていた。胴部は妖夢と違って軽金属の胸当てで防御効果は高いが、四肢の防具はない。かわりにやや厚手の長袖やオーバーニーソックスで覆っている。アスナの武器はレイピア類で、激しい刺突を実現するため、肘や足の運動がときにほぼ屈伸となる。可動範囲を限界まで確保するため、妖夢のような肘・膝への革装備を付けないでいた。手袋とブーツはクリスマス仕様、モコモコの縁飾りで可愛らしい。金糸で縁取りされたおしゃれな上着はセパレートタイプ。ベルトで支える下半身部はロングコート並の裾長で、腰周りのサイドとバックをブーツ上まで隠していた。じつはこれ、パンチラ対策だ。戦闘用なので前方だけ開いており、白いプリーツミニのスカートと、健康的な腿が見えている。
 銀髪緑服・黒髪黒服・栗毛白服の三人が、湧出する敵を追い散らしつつ、ひた走る。妖夢とキリトは三~五秒以内、アスナも一五~三〇秒ていどで、猛獣型モンスターをつぎつぎと平らげていった。並の戦士なら一~三分はかかる相手だから、ブースト技・コンボ技・キャンセル技を自在に操るアスナも相当にずば抜けて強い。妖夢たちが超越しすぎているだけである。なにしろ妖夢とキリトは、モンスターに攻防というものをろくすっぽ成立させない。蹴りだろうが一撃目さえ当てればジ・エンド。あとはひたすら攻撃につぐ攻撃であるから、戦闘時間も極端に短くて済む。あえて六文字のパターンとして書くなら、並の戦士は攻防攻防攻防、アスナのクラスは攻攻防攻攻防、妖夢とキリトは攻攻攻攻攻攻だ。
 アスナはたまにマップを確認して、勘だけで道を決めていく。頼りは解像度の低い適当な地図だけであるが、さすが偏差値七〇少女だけあって、正解と見られるパターンを高確率で引き当てる。キリトも成績は悪くないほうであったが、学年ひとつ違うのはかなり大きいようだ。
「なあアスナ、あの丘の形から見て、俺はまた右だと思うんだが」
「右、右と来たから、つぎは左よ。このフロアをデザインした人の癖というか傾向がだいぶ掴めてきてるの。三回連続はないわ」
「私もそう思います。左に行きましょう」
「ヨウムまで? 俺の味方はいないのか」
「あら失礼ね。私はお茶目なキリトくんの味方よ。保護者でもあるし。でも心は鬼にするの。そうしないと成長しないじゃない」
「なにが保護者だよ。俺のほうがあんたより強いだろ」
「そういう形で反論してくる男の子は、女の子からの評価を下げるわよ。剣では勝てなくとも、口では私のほうがはるかに達者なんだから。口下手なキリトくんで、ヒースクリフ団長となにを話せるのかしら?」
 キリトは口をすぼめて。
「……みょーん」
「キリトまで! それ私の! 真似しないで。男子が言っても気味悪いだけでしょ」
「尻に敷かれてるわねえ」
「板挟みだあ」
 年の差がバレてから、アスナのキリトを扱う態度は、もろに弟や後輩のそれへと変化している。つまり現在のフロントランナーは、アスナがリーダーも同然だった。妖夢は元よりどちらの言うことも素直に聞く。新生フロントランナーは出発より一時間とかからず、閃光のアスナ様が掌握するところとなった。
 フロントランナーが紅白集団に追いついたのは、カルスト台地が終わって峻険な山道へ入ろうとする扇状の広場だった。
「相変わらずおめでたい、お正月みたいな配色よねえ」
 アスナのつっけんどんな言い方には、とげが混じっている。現在のややこしい状況を招いた連中であるから、好意的でいられようもない。とくに攻略組と袂を分けたいまでは、これまで我慢していたことも、我慢しなくて済む。
 そのお正月なおっさん騎士団は、六人でフィールドボスを相手にしているところだった。
 敵はこのフロアとの関連性がよく見えない半漁人だ。三つ叉のトライデントを振り回して、紅白のおっさんたちへ果敢に攻撃する。半漁人のHPバーは二段あり、すでに二段目の三割ほどまで削れていた。中盤戦も佳境、まもなくフルアタックを意識した終盤戦となるだろう。
 妖夢たちは戦闘エリアに進入したものの、三〇メートルほど手前で止まり観戦に入る。こういうとき勝手に加勢するのはマナー違反だ。もちろん負けているなら助太刀プレイがおおっぴらに許されるが、おっさんは六人ともHPバーはグリーンのまま。とくに配色に赤の多いヒースクリフは、ボスの正面に立ちつづけているのに、おそらく一割もHPバーを削っていなかった。
 じつは観戦者はほかにもいて、クラインたち風林火山の六人と、あといくつかのパーティーが。風林火山は先遣隊活動ついでなのだろう。本隊にほぼ固定されていた強豪が先遣にいる理由は、推して知るべし。今後フロントランナーに追いつけるわけがないので、攻略本隊はさっさと解体されてしまった。つまり妖夢たち三人の出立は、とっくに規定事項だったのである。旧攻略本隊メンバーは、全員が先遣隊か探索隊に分かれている。そしてこの場にいる風林火山以外のパーティーは……おそらく血盟騎士団に同調して、攻略組をやめたにわか造反者たちだ。風林火山は全員がレベル三〇以上の強力集団なので、再編に時間を食いながらも、先行したおっさん騎士団たちへ追いつけたのだ。
 クラインが近づいて片手をあげた。
「よう、みょん吉にキリト。あとアスナさん。話は聞いてるぜ。また離されちまうなあ」
 その遠くを見るような表情は、すこし寂しげで、またかなり羨ましそうだった。クラインこそ妖夢たちのようなヒーロープレイを渇望しているはずだ。でも足りないのだ。力も技も、絶望的なほどに開きがある。レベルの差は五もない。だけど強さの差が、天と地ほども違う。フロントランナーは、わずか二人でフロアボスを撃破できるほどの化け物でなければ務まらない。アスナはその知謀と、妖夢およびヒースクリフの正体を知るがゆえに同行を許されている。
 野武士の様子にキリトも察したようである。
「クライン。俺は今後もずっとギルド風林火山のメンバーでいるつもりだ。どうしようもなくなれば助けを求めるし、また助けにも行く」
 妖夢もゆっくりと頷く。クラインの手を取って慰めるように。
「私もクラ之介さんの『四つ割菱』とずっとお付き合いしたいです。道は離れますが、ギルドメンバーでいさせてください」
 妖夢は自分のHPバーを見ている。その先端に、四枚の菱形が堂々と輝いている。もちろんキリトやクラインもおなじだ。
 クラインが男泣きをはじめた。ついでにクラインの後ろに控えている風林火山ほかの五人も、もらい泣きだ。
「いい子だ! おまえら、いい子らだなあ。ありがとよう」
 アスナがあっと気付いた顔をして、クラインへ話しかけた。
「そうだクラインさん。ついでに私の入団処理をお願いします。おなじパーティーでちがうギルドだと、共通ストレージなどでどうしても不都合が起こりますから。なにしろこれから大量のレアアイテムを戴きに行くんですからね」
 アスナはメニューをいじり、あっさりとギルド・マスタースパークを自主退団した。アスナのHPバーより、八卦マークが消失する。マスタースパークの全メンバーとフレンド登録しているので、実務的な不利益は生じない。
 しんみりした空気がぱっと消えた。クラインをはじめ、風林火山の男どもが色めき立つ。もちろんキリトを除く。
「いいのか? 俺ら見ての通り、モテないブラザーズだぜ? そんな中にアスナさんほどの美人で、しかも彼氏いない子が加わるなんて。いくら普段はフロントランナーと攻略組で離れてしまうといってもよう、なにかあれば顔を合わせんだろ? みんなアスナさんを好きになるぞ。俺はもちろんにとりさん一途だし、デートも出来る仲だから違うからな。こいつら五人のほうだ」
 期待に満ちた目で、五人がふるふると頷いている。重装鎧の童顔ハリー・ワン、トンガリ茶髪のやせ顔イッシン、赤布帽子にちょびヒゲのダイナム、オールバックの槍使いクニミツ、鉢巻きアフロの小太りデール。みんな彼女いない歴イコール年齢だけど、男としての爽やかさと気持ちよさはクラインと共通するものがある。いくら誰とでもすぐ仲良くなれるクラインも、その辺はきっちり友人を選んでいた。
 みんなより憧れる子供のように見つめられ、吐息の閃光さん。
「……ま、せいぜい撃沈されに来てください」
 野太い喝采があがった。アスナが念を押しているにも関わらずである。男とは現金な生き物で、フリーの可愛い子が仲間だ、という事実さえあれば、あとは意外とどうでもいいものだ。これが性差を逆にすれば、ただしお金もあればいいな……となってくるわけだが。
「よっしゃ、これで決まりだな」
 クラインが巻物をオブジェクト化した。約定のスクロールと呼ばれる、ギルド用の管理ツールである。それを開いてコマンドを選ぶと、アスナに入団意志を確認する矩形が出現した。むろんOKと即答したアスナのHPバーに、妖夢たちとおなじ四つ割菱が出現した。『風林火山の心得』と称したギルド規則がアスナの視界を流れる。ルールは少なく「壱・無謀な戦いをして死なないこと」「弐・好きな子ができたら報告すること」「参・彼女ができたら経緯を公開すること」と、わずか三項目しかない。
「……一番目を除いてなにこれ。論外じゃない」
 キリトがいやそうな顔をした。
「俺はこの変なルールのせいで、こいつらにヨウムとの赤裸々をみんな伝える義務を背負わされてる……」
「およよ! もしかしてキリトが私にファーストキス以来なにもしなくなったのって、クラ之介のせいなの? それより、いつのまにそんな下らない項目増やしてたんですか!」
 きつい目線ですでに曲刀へ手が伸びた妖夢である。クラインたちがたじたじとなって数歩後ずさった。妖夢が下した数々の「お仕置き」レジェンドを知ってるだけに、言い訳すら口に出ないようだ。ここは圏外だからポーズだけでなにもしないが、この南には妖夢がお仕置き空間として重宝する、大好きな圏内が待っている。フィールドボスの先には、町か村があると相場が決まっているものだ。
「仕方ないわね。ギルドメンバーとしてリーダーに奏上します。私はこの場で、風林火山の心得、第参項の抹消ないし改定を提案いたします」
 あまりな内容とバカバカしい展開に、アスナはさっそくギルド風林火山の内部改革を決意したようである。
 数分後、ショボ~~ンとうなだれるクラインたちの黄昏と、キリトの腕へ抱きつき、猫のように甘える妖夢の笑顔があった。しかもキツネミミなカチューシャ付きでみょんぎつね。公衆の面前でこんな露骨にデレる妖夢は、ほぼ一ヶ月ぶりだ。それを周囲の観戦者たちは、やっかみというより、和む目で見ている。妖夢がこの一ヶ月近く、人前でこういう行為をひそかにでもなく我慢してきたことを、よく知っていた。たとえ攻略組上層部の女性的な方針には賛同しかねても、個人への印象はまた別の話だ。キリトが賢者モードでいたことも妬み目をいくぶん緩和しており、たしかにいまも彼氏から彼女になにかするわけでもなかった。ただ超然として甘えるに任せているだけだ。そういうところも妖夢は好きである。まるで師匠のようだ。もっともキリトは妖夢のあまりの可愛らしさに、緊張によって単純にカチンコチンしてるだけであった。まだまだ青二才、慣れてない。
 フィールドボスが倒されたのは、それからさらに五分ほど経ってからだった。妖夢とキリトなら戦闘開始から終了まで一分ていどで済むが、これを基準にしてはいけない。
 ヒースクリフの謎スキル神聖剣。剣とは別に盾も白く光っていたので、どうも片手直剣と大盾の融合スキルらしい。神懸かるほどのすさまじい防御性能と引き替えに、戦闘火力は平凡なように見えた。目立つような連続攻撃があるわけでもない。ただ攻防自在なので、時間さえかければ多少の難敵でも着実に倒すことのできそうな、じつに茅場晶彦らしいスキルというべきか。
「凡庸な人を修行なしで英雄へと化けさせる、いかにも願望系かつ通好みなスキルですね。ただしあくまでも英雄であって、勇者ではない」
 英雄も勇者も似たような言葉だが、微妙に異なる意味を含む。この場合の英雄とは、人の上に立つ者、という意味だ。キリトはなに言ってんだというような顔であったが、アスナのほうは妖夢の意図を正確に掴んだ。もちろん茅場とヒースクリフの関連を知るからでもある。
「ヨウムちゃんもそう思う? あれって、うまく人の支持を集めるためのスキルよね」
「たとえ少数であっても、自己犠牲精神のパフォーマンスによって絶対的な信奉者を獲得できるでしょう。さすがですね」
 妖夢とキリトが称賛されるのは、このふたりが純粋な技術と剣技によって超人になってしまったからである。人の技倆というのはあるていどで据え置きとなる。そこより先は才能と不断の領域であり、通常の反復や努力では維持がやっと。先の世界に至れば、簡単には上昇のさせようがなくなるのだ。だからもし神聖剣が、妖夢並の爆発的火力を安易に得られる勇者系スキルであったなら、ヒースクリフは人よりかなりの妬みと反発を集めただろう。上手くもないくせにみょんと同じとはけしからんと。だが彼が獲得したチート級パワーは鉄壁防御だけ。これはボス攻略戦で、万能のタンクになることを意味しており、つまり攻撃役は仲間に任せた! ということだ。自らを最大の危険へ晒しつづける、誇り高き攻略指揮官。よって支持と好意的な羨望を得られる見込みが高い。
 通好み。
 神聖剣スキルから、茅場がこのゲームで望んでいる役割が見えてきた妖夢である。すくなくとも茅場そのものが孤高の勇者になろうとしているわけではない。司令塔かそれに近い地位を志向しており、それはすでに現状であるていど達成されている。神聖剣がスキル成長とともに高い攻撃力まで獲得する仕様だったとしても、すでに味方となった者はそのまま付いていくだろう。大切なのは現時点でどう見えるかだ。
 これは、わざわざこのおっさんと話すことはなさそうだなとアスナは判断したようで、さっさと先へ行くわよと、妖夢とキリトへジェスチャーを送った。
 妖夢・キリト・アスナは、ヒースクリフへ勝利の祝福はおろか挨拶すらせず、新しく出現した道へと全速で突入していった。
「がんばれよ~~!」
 それを手を振って見送るクラインたち風林火山。
 一方のヒースクリフは、数十人の賛同者に囲まれて勝利の胴上げを受けている。
 このようなことは、攻略組ではなかった現象だ。最前線での胴上げは、第九層のフィールドボス戦で当時の攻略隊が見事な指揮を披露して以来となる。その胴上げを行ったのは、戦闘を見ていたギャラリー。おっさん騎士団長を胴上げしている連中の、やんちゃなノリであった。
 たしかに攻略組は女性的であるのかもしれないと、妖夢は後ろを振り返りながら思った。ヒースクリフが中心としてまとめようとしているあの集団は、いかなる男性的なものを示してくるのであろうか。妖夢はMMOの本流を知らない。男性的なネットゲームの世界を知らない。プライドとメンツ、友情と孤独、ノリとマジ、高慢と嫉妬、成功と挫折、嘲笑と落胆に明け暮れる、泥臭いものを知らない。
 幻想郷のスペルカードルールはユルい。さらにヌルい。お約束と暗黙、本気と遊びが高度に融合したもので、華麗なる美の宴である。すぐ度を超しがちな男妖怪の手に余るがゆえに、スペルカード対戦はほぼ女の人妖しか行わない。その価値観がいまのSAOに持ち込まれている。紫と魔理沙が構築した攻略組は一種の温泉だ。整えられた舞台装置だ。誰もが一定の役割と範囲内でしか動くことを許されない。たしかに目と心の保養となる可愛い女の子はたくさんいる。だけど銀髪の子を除けば、どの子もけして誰へもなびかない。かろうじて男の噂がある金髪ウィッチと青髪ギークっ子も、交際という距離からほど遠い友達感覚止まりだ。ロマンスもロマンも足りなかった。だからヒースクリフの劇的な英雄譚を知ったとたん、離脱者が相次いだ。彼らは温泉旅行と美女観賞に飽きたのである。だが攻略組とて譲るわけにはいかない。ヒースクリフはただのプレイヤーではなく、その中身は七〇〇人以上の死に責任と罪科を負うべき男であったのだから。この忌々しい数は今後増えてゆくことはあっても、減ることはけっしてない。
     *        *
 一二月二五日午後一一時三〇分。
 第二三層のフロアボスが撃破された。
 第二一層のボスが沈んだのが二四日午後三時、第二二層が二五日午前七時半ごろであったから、わずか三〇時間あまりで連続して三階層が貫かれたことになる。最近でも滅多にない、超ハイペースだった。だが驚きはまだ止まらない。
 一二月二六日午後二時、第二四層のフロアボスが倒された。四七時間で四層は、さすがに類を見ない怪記録だった。効率なんて生易しいものを突破している。
 あまりの猛速度に、すべてのプレイヤーが前線で起きた変化に気付かされた。
 文々。新聞も重い腰をあげ、ようやく情報公開を行った。
 攻略組に起きた悲劇、ヒースクリフの活躍、謎の新スキル神聖剣、ラフィン・コフィンの拘禁、みょんの一〇〇〇連撃、血盟騎士団らの攻略組離脱、フロントランナーの復活。
 新生フロントランナーは攻略組と結託していて、ランナーの余剰アイテムと資金はすべて攻略組へ無償提供されることが掲げられていた。それはつまり攻略組が、フロントランナーが大食いしたリソースの受け皿であることを宣言してもいた。この格好の餌により、攻略組は目減りした陣容を短期間で再補填できた。おっさん騎士団は……相変わらずのようである。
 第二三層と第二四層のフロアボスをぶち殺したのは妖夢たちである。おまけのアスナは適当にうしろから突っついていただけだが、莫大な経験値でレベルがあっというまに三も四も上昇した。
 伝説を作ったはずのおっさん騎士団であったが、その後はことごとくフロントランナーに阻まれ、いまいち勇名を定着させるには至らなかった。ヒースクリフが強力な英雄系スキルを手に入れたといっても、たった一人。フロントランナー側の超人剣士は倍なのだ。しかもヒースクリフは重装備で足も遅く、妖夢たちにスピードでは追いつけない。フィールドでは全知全能ナビゲーターを有する血盟騎士団が先行しがちだが、アスナはすぐ対策を考えついた。要は適当に距離を置いてついていくだけでいい。フィールドボスがいそうならそのときだけ追い抜いて先に倒してしまう。マナー違反であったが、すでに仁義なき争奪戦でもある。その状況を作ったヒースクリフに文句を言われる筋合いもないし、あちらさんも理解してるようで、とくになにも言ってこない。せいぜいクラディールが悔しそうにほぞを噛んでるくらいだ。
 さらに迷宮区となれば完全にフロントランナーのもの。あっというまにおっさんどもを振り切って、巨大なフロアボスを血祭りにあげて終わり。初見殺しならぬ、初見殺され。名前すら知られず消えていく、憐れなボスどもだ。じっさいのところ、妖夢もキリトもボス名なんかまったく覚えていない。そんなことより女神と王子様のキス権が重要だ。愛は強いのである。いまのところ妖夢とキリトが一回ずつゲット。その場で行使せずストックしている。以前と違ってアスナがいるから、目の毒かなと思って遠慮した。攻略組時代はたくさんギャラリーがいたが、それがたった一人だけとなると、かえって恥ずかしくなる年頃の少年少女だ。
 ヒースクリフはおそらく迷宮区の詳細な地図も持っている。だがそれを団員の前で広げるわけには、たとえ不可視モードであっても絶対にできない。なぜ歩いてもない道を、マップを開いてちょっと眺めただけですいすい行けるのか。怪しまれる。どうしようもなく怪しまれる。さまざまなヒントがあるフィールドならまだしも、無機質で一様な迷宮区では通用しない。自分がゲームマスターであり、茅場晶彦であることを示すようなものだ。バレたとたん、たちまちキバオウやコーバッツが襲ってくる。フィールドであればまだルートは単純なので事前に暗記もできよう。だが迷宮区はどこも一五から二〇階はあり、内部も複雑なダンジョン、いかな天才といえども暗記など困難だ。天才といってもその方向性にはさまざまなベクトルと強度があり、知性型の天才である茅場の場合、短時間の大量暗記は凡人並らしかった。
 すなわち迷宮区はフロントランナーが勝てる。アスナの分析と作戦は見事に当たっていた。
 第二五層についた直後、三人は第二四層主街区パナレーゼに戻って、にとりとエギルにレアアイテムの山と大金を託した。これで攻略組もすこしは持ち直すはずだ。
 その後近くのレストランで休憩を取った際、キリトがアスナに聞いた。
「そういやアスナ。なんでこうも簡単にあいつの裏をかけるんだ?」
 アスナの指示がことごとくハマるのをキリトは不思議がっている。ただの少女が、大人たちを相手に真っ向勝負でおおきく勝ち越している。それはヒースクリフの裏事情を知ってこそのマジックだったが、キリトはもちろん事実を知らない。
「あの紅白団長はたぶん、地図や地形を読むのがうまいの。私はそれを利用してるってわけ。迷宮区はもちろん無理だから、私たちの足で稼ぐって寸法よ」
 迷宮区はあてずっぽうに走り回るだけだが、フロントランナーらしい攻略法で行っている。マップを表示しつつ未開地をどんどん埋め進むのだ。マップは行ったところが詳細に写り、行ってないところは不鮮明だ。フィールドだと不鮮明な部分もあるていど予測がつき、とくに圏内ポイントは確実に把握できる。だが迷宮区のほうは、未踏破域がまったくの暗中となる。これはかえって都合がいい。その道をまだ行ってないかどうか、簡単にわかるからだ。フロントランナーは人より足で稼ぐことができるので、走り回ってどんどん進めばよかった。
 だがこの攻略法だけでは通用しなくなる超難題が突発的に発生した。
 第二五層が一向に攻略できない。人々はさらなる解放ラッシュを景気よく期待していたが、それが裏切られる。
 一二月二七日、転移門は有効化の表示をしなかった。
 一二月二八日、おなじく。
 一二月二九日になって、彼らは心配しはじめた。これまでの行進があまりにもドラマティックであったがゆえに。
 一二月三〇日。まだ動きはない。
 翌日――二〇二二年の最終日となる、一二月三一日。
 第二五層に、運命の日が訪れる。
     *        *
 三レイド、一二〇人。
 これがディアベルとヒースクリフの用意した万全の布陣だった。
 第二五層フロアボス、第一九次の攻略戦がはじまろうとしている。
 第一次から第一〇次まではフロントランナーが仕掛けて退けられた。それからは第一八次まで一時休戦した血盟騎士団らも加わったが、どうにもこうにも、どうしようもない。
 血盟騎士団側はすでに死者も出している。おっさん連中の死者はないが、同調しているギルドのメンバーが三人、一撃で殺された。
 一撃で。
 このフロアボスが、あまりにも強すぎた。
 魂魄妖夢がはじめてSAOで出会った、簡単には手の届かぬ難敵である。
 妖夢にとって腹立たしいのは、このボスの強さが理不尽に高く設定された数字によって達成されているにすぎず、技や鋭さや正確さ、あるいはアルゴリズムによって実現された、真の強者ではないことだ。つまり力押しのくぐつ人形にすぎない。その戦鎚を跳ね返すことのできない自分にも、妖夢は怒りを持っている。もっと上手ければ、もっと早く反応できれば――妖夢はいまこのときほど、キリトの超人的な反応速度を自分が持ってないことを、悔恨したことはなかった。わずかゼロコンマ数秒。あるいは、さらに一〇分の一以下の領域。そこで妖夢は戦うことが出来ない。
 現実の妖夢はもちろんその超加速世界で戦うことが可能だ。だがSAOのメインサーバと妖夢の脳との間には、幻想郷まででも二〇〇キロメートルの距離があり、通信速度を上回る反応は不可能なのだ。なのにキリトはやってしまう。その速度は出会ったときより加速しており――おそらくいまのキリトは、事前に予想して動けるようになっている。それゆえの超反応。予測して動くなら妖夢も呼吸をする感覚で行えるが、頭で命令を出して体が動くまでに、リアルの妖夢とは明らかに違う時差が起こっており、いまいち体がついていかない。それがむずがゆい。要はフルダイブ環境への親和性だ。キリトのほうがSAOとより一体化している。そこに妖夢はまだまだ届かない。反応の遅さを純粋な経験と高度な腕前で補っているのが、妖夢の剣であった。
 攻略組とフロントランナー、さらに血盟騎士団とその仲間たちも加わって、一二〇人という大人数となった。この際、とても対立などしてはいられない。ディアベルの提案に、ヒースクリフは快く応じた。いかに神聖剣スキルが鉄壁の防御を誇るといえども、ヒースクリフだけ無事では意味がない。彼の仲間がついてこられる限界を、第二五層のフロアボスは超えてしまっている。なにしろこの大ボス、一〇メートル近くという、途方もなく長大なリーチを持っている。いつ狙われるかわからない恐怖は、前衛と後衛をなくし、回復ローテの概念をすらあざ笑う。とてつもないプレッシャーだ。
 レベル的にこのボスとまともに戦えるプレイヤーは、わずか四〇人しかいないことが判明している。彼らは全員が第一レイドに集中していた。ほかの戦士は……当たり所が悪ければ一撃で殺される。つまりどうしようもなくなったときの決死隊のような役割が、第二レイドと第三レイドに与えられており、悲壮の表情で出番が来ないことを祈っていた。決死隊員はみな重い金属鎧を着込み、頭には仰々しい冑をはめている。SAOでは頭部の装備を嫌う向きも多いが、今回ばかりはファッションやポーズを付けていられない。なにしろ一撃即死なのだから。第一レイドが敗退し、この第二レイドと第三レイドが投入された瞬間、ディアベルは総指揮官としての地位を永久に失う。むろんごり押しで勝てる見込みがあったときしか、第二レイド以下は使われない。第一レイドがボスのHPを半減すらできず崩壊するという、悪夢の事態もありえた。
 ボス部屋の門前で、ディアベルが第一レイド全員を見渡した。みな、覚悟を決めている。今回はさすがに死者を避けられないだろうという思いだ。
「俺から言うことはひとつ――死ぬな!」
 肺からの声はいつもより控えめで、青騎士の美声スピーカーが若干調子を崩していた。ディアベル自身がおのれの言葉を信じ切っていない。
 一体何人がここで果ててしまうのだろう。ディアベルの横には、これまでずっと寄り添ってきた、馴染みの金髪ウィッチがいない。魔理沙は要求レベルの三二に届かず、一撃死の対象だ。したがって第二レイドの指揮官となった。第三レイドは紫が率いており、珍しく表に出てきていた。ディアベルの参謀役はアスナだ。彼女はフロントランナー活動でヒースクリフらを散々出し抜きまくって、その優秀さを示している。
 つづけてヒースクリフが全員の前へ出てきた。合同攻略戦であるから、いくら小集団といえども、もう片方のトップもここでしゃべっておかないと形が付かない。
「困難な戦いとなるだろうが、諸君ならきっと切り抜けてくれるだろうと信じている。解放の日のために!」
 ディアベルとヒースクリフ、どちらに対しても男たちは吼えるように答えた。もはやヤケである。最前線にいるということは、ときにこのようなマジの命をかける大決戦へと挑むことでもある。武者震いなのか本当に怖いのかよく分からない者も多い。キリトは厳しい戦いでこそ、本当に戦ってる実感を得られると、これがSAOだと妖夢へ伝えたことがあるが、第二五層ボスに関しては感想をつぐむ。理不尽も過剰であればナルシスト閾値(いきち)を突破するのだ。これがただのゲームならまだいいだろう。数の暴力で押し切ればいい。だがSAOは死ねばそこで終わるのである。レベル三〇でも一撃で殺されてしまう敵というのは、もはやゲームバランス以前、無茶苦茶であった。すくなくともSAOプレイヤーたちにとっては。
 妖夢はヒースクリフの言葉にどこまでも白けている。どうにも空虚に聞こえる。
「……解放の日のため、ですか。白々しい。ならこのボスさっさと弱体化させなさいよ」
 幾度挑んでも、どうしようもなく退けられた妖夢たち。第一一次攻略戦の際、ヒースクリフに頭を下げて協力を要請したのは、アスナだった。
『これまでの非礼をお詫びします。血盟騎士団のみなさん。このボスを、共に倒してください』
 ヒースクリフは怒る素振りも見せずアスナらを赦した。痩身で神経質そうなクラディールが『いまさら何を……』と剣に手をかけたが、ライオン顔のゴドフリーが後ろより羽交い締めにして止めさせた。キバオウとコーバッツはどこまでも仏様のような寛容な団長相手に、もはや諦めの境地である。ただ一人、なぜ迷宮区最前線にいるのかよく分からないダイゼンが、ずっとニコニコしている。この四〇歳くらいの地味で陽気なおじさん、たしかおっさん騎士団の金庫番だったはずだったが、隠れたハイレベルプレイヤーらしい。人は見かけによらないの典型だ。
 アスナの言葉に、ヒースクリフは簡単には応じようとしなかった。どうやら妖夢たちの発言を待っているらしい。
 キリトは単純に頭を小さく下げて『頼む』とだけ言った。
 妖夢も彼氏につづけて礼をした。ただしヒースクリフ個人に対してではない。
『あなたがた血盟騎士団のみなさまがPoHを捕まえてくれたことに、心より感謝します。あのときラフィン・コフィンが野放しになっていれば、さらに多くの犠牲者が出ていたでしょう。あの事件で私とキリトは、友人のコペルを失いました。被害を最小限に止めてくださったあなたがたには、深いご恩があります。それとこれとは別と思い、フロントランナーとしてこれまで競争してきましたが、ここで恩を返させてください。あなたがたのボス戦攻略で、私たちを助っ人としてお使いくださいませ』
 ヒースクリフはわざと時間差をつけ、ラフィン・コフィンをあえてボス部屋まで放置した可能性すらある。そこまで悪辣だとは思いたくなかったが、妖夢はどうしても信用しきれない。だが目に見える結果だけで語るしかなかった。真相を知る機会は――ヒースクリフへ潜在的な不満を持つ、キバオウらのパイプがまだ残っている。
 妖夢の提案は、指揮優先権を血盟騎士団にそっくり譲渡するというものである。妖夢の勝手な行為にアスナが文句をいいかけたが、思い直して口を留めた。SAOはリアルの姿をそのままアバターに転写してしまった世界なのだ。少数の中高生女子が成人男性に共闘しましょうと言って、大人の側が気持ちいいはずがない。おまけにライバル関係でもある。
 全面的な譲歩と、最強戦士からの感謝と称揚。これで受けねば男が廃る。ゴドフリーの進言にヒースクリフも首肯し、一時休戦が決定した。
 ――もっとも、結果は連戦連敗であったが。どうしても人数と火力が足りない。HPを危険に晒した者は、すぐさまボス部屋より離脱するしかない。最後はいつも妖夢とキリト、ヒースクリフの三人しか残っていない状況となった。あとの者は全員がHP回復のため、部屋より出ていく。このボスは遠大な攻撃範囲を持っている。ボス部屋内の隅っこで回復するというこれまでのセオリーがまったく通用しない。HP回復には数分以上を必要とするが、十数秒おきに誰かが部屋の外へ逃げるような状態で、回復ローテーションは最初から機能していなかった。ついにキリトまで下がる事態となれば、妖夢とヒースクリフだけで支えるのは不可能である。妖夢がいかに回避に優れていようとも、SAOにはインパクトダメージというものがある。強力な攻撃を受け流すだけでも、衝撃がアバターに伝わったと判定されれば、HPはすこしずつ減ってゆくのだ。これが盾なら目減り量はずっと少ないが、妖夢は剣で受けるか逸らすしかない。妖夢が戦闘時回復スキルを取っていれば、最後までしのげたかも知れない。だが妖夢にも魂魄流剣士の事情があり、スキルビルドの都合があった。やがて最後の限界が訪れる。妖夢のHPバーが黄色になり、苦渋の転進を迫られると、ヒースクリフもほぼ同時に退くのである。そのような戦いを繰り返してるうちに、攻略組が迷宮区に入ってきて、レベルをガンガン上昇させ――
 こうして攻略組と血盟騎士団らとの、合同攻略戦へ至る。
 ボス部屋の扉をディアベルとヒースクリフが同時に押した。扉に浮き彫りされた、おぞましく猛々しい禿頭がふたつ。そのレリーフが割れ、自動的につぎなる挑戦者を呼び込まんと、死への招待をいざなった。
 中はほぼ正方形の暗黒空間が静かに広がっている。端までが見えない。
「第一レイド、突入!」
 四〇人全員が小走りで入ったが、内部に変化は起こらない。そもそも、ボスの姿がどこにもない。
「左右より散開! 中央を囲め! 前列に盾!」
 ディアベルの命令に全員がしたがい、部屋の中央部を開けて一八〇度を囲い込む。真っ正面にはヒースクリフと、メイプルこと犬走椛。もはや報道活動がどうのこうの言ってられない。全プレイヤー中第三位のハイレベルプレイヤー、レベル三八のメイプルは戦力として欠かせない。第二レイドに所属する射命丸文はレベルが足りずボス部屋へ入れていない。門前の小僧となって、メモ帳片手に望遠観戦モードだ。主義に反した重い鎧と兜を着込まされている。
 ボス部屋は真っ暗なままである。緊張で蠢く人々の音響が、空間にこだましてゆく。BGMすらなく、まったくの無音だ。
 黒銀乱舞ペアはふたりでワンユニット。左翼側に陣取り、並んで待っている。妖夢の頭がこつんと、彼氏にもたれかかる。
「キリト」
「……なんだい」
「勝ちましょうね。大好きよ」
「ああ、やってやる。俺もきみが好きだ」
 短いやりとりだったが、今回こそはという決意である。キリトはとくに燃えているようだ。見せかけの最強であることを、この第二五層フロアボスに証明されてしまったのだから。普段いくら先に雑魚を倒せていようとも、強敵が相手ならば再逆転される。その現実を何度も確認させられてきた。一八回の挑戦のうち、妖夢が先に退いたのはわずか二回である。彼氏として立つ瀬がないと思っているかもしれない。
 妖夢のほうは、勝利が「確定」しているとはいえ、やはり実力で制したいところでもあった。なにしろ今回、第一レイドには因幡てゐがいるからだ。妖夢たちからさほど離れてない位置で、輝夜といっしょに準備体操をしている。うすピンクのワンピース姿がキュートで、いつものように防具はろくに付けておらず、足はなんと裸足である。これで平気なのは、てゐことハッピーラビットが、一撃死などありえないていどのHP総量に達しているからだ。この小学生にしか見えないウサミミのナイフ使いは、レベル三六。クライン並のハイレベルぶりで、むろん強豪プレイヤーだ。妖夢は現在四二、キリトは四三だ。フロントランナー活動により、攻略組トップ集団をすこし離しはじめている。
 そう――因幡てゐがいれば、誰も死なず確実に勝てる。
 この場にいるすべてのプレイヤーは、隠しステータスの幸運値がマックスになっているはずだ。それはこれまで多くの戦いでひそかに働いてきた。あと一撃で殺されかねない状況で敵のターゲットが突然変わる。なぜか攻撃動作が遅れたり、狙いそのものが逸れる。高頻度でクリティカルとなる攻撃が、通常判定で留まる。状態異状化攻撃を受けても、さして影響がない。
 そのような強運がこれまで、攻略本隊には何度も起きた。もし因幡てゐがいなければ、すでに二~三人くらいは戦死者を出していただろう。妖夢などは第一層でゲームオーバーとなっていた可能性もある。
 八雲紫と並ぶ影の功労者、それがこの幸せ兎である。
 今回は第一レイドへ徹底的な戦力集中を行っている。不要となる第二レイドと第三レイドは、ディアベルが強引に編成したものだった。この公平を重んずる攻略指揮官は、今度ばかりは私情を優先した。愛するウィッチ・マリサを、危険きわまる凶悪なボスに曝したくなかったのだ。魔理沙はその役柄から、どうしてもレベルが遅れがちで、マージン量もほとんどない。それでも第二一層ボス攻略戦までスタメン参加していたのは、ギルド・マスタースパークの活動目的がサポートにあって、レベル制限の対象外だったからである。だがいまさら攻略戦に参加させないわけにはいかない。そのため第二レイドの指揮官職をあてがったのである。いつも第二レイドを担当するリンドは、戦力集中の名目で第一レイドに配されている。
 がたんと、異音が広がった。
 微音にはじまったそれはやがて振動となる。部屋の中央に青い線で魔法陣が描かれ、召喚術のように影がせり上がってくる。
 それは大仏のような、異質なシルエットだった。よっつの光だけが赤く、ルビーのように鈍く輝いている。深い血の色。まるで因幡てゐや射命丸文の、人を惑わす瞳のようだ。
 あぐらをかいていた双頭の巨人が、ゆっくりと立ち上がった。こんもりとした巨大な武器らしきものが脇に置いてある。それだけでも長さは人間二人ぶんある。
 ディアベルは手をあげたまま、第一レイドはまだ攻撃を仕掛けない。演出が終わらないと、当たり判定が解除されないのだ。
 妖夢は背中の長短二刀をゆっくりと抜いた。
 右手の長いほうが、これまでよりもずっと細身の刀剣に変わっている。この焦燥にかられた幾たびもの戦いの果て、ついに出現したエクストラスキル・カタナだ。これだけが妖夢の心をなぐさめていた。条件となった曲刀の熟練度は五〇〇であった。三〇〇までが半月とすこしだったから、成長がどんどん遅くなっている。武器系スキルは成長鈍化が早いようだ。
 長さ八〇センチ。両手用刀、無銘・石州貞綱(せきしゅうさだつな)。反りは少なく、勢いで叩き斬るのに適している。波紋はゆるやか。
 現在手に入るカタナでは最強のもので、クラインも持ってはいるが装備はしてない。クラインの曲刀スキルはようやく三〇〇になろうかというところで、先はまだ長い。武器はスキルがなくとも装備はできるし武器として使うこともできる。ただし設定以上に重く感じるペナルティが付き、スキル特有の補助効果も受けられない。なによりソードスキルが発動しなくなる。自分の命を預ける武器であるから、そんな状態で扱うわけにはいかなかった。
 妖夢の左手には肉厚の片手用曲刀、長さ六〇センチほどのヘッズマンズ・フォールチョンが握られている。こいつはもはや装備しておらず、ただのオブジェクト化アイテムとして持っているだけだ。妖夢の装備アバターデータは、両手がカタナで埋まっている。なにしろ両手用なのだから。それでもどういうわけか、曲刀スキルのおかげだろうか、ペナルティ重量が発生していなかった。今後曲刀スキルは成長しなくなり、新しいソードスキルも覚えなくなるが、妖夢にとってはどうでも良い。カタナのソードスキルはあきらかに曲刀スキルより強力である。
 巨大モンスターが、吼えた。
『ウォオオォォゥウン……』
 巨人の静かなる咆哮。声が重なって合唱のようなエコーをもたらす。頭がふたつあるので、口も二個あるのだ。
 妖夢にとってとっくに見慣れた名前が明かされる。
『The Dual Head』
 シンプルだが、単純な命名のボスほどかえって怖いことが多い。第二三層、第二四層のボスは名前も覚えていないが、こいつは妖夢の記憶に長く残る。残らざるをえない。
 とたん、BGMが鳴りだした。妖夢ら一部の者にはすでに馴染みだが、多くの者がはじめて聞く曲だった。バトル曲だというのにどこか大人しめな旋律。哀しげな印象があり、女性の独唱がこの戦いが尋常でないだろうという、悲壮と不安を誘う。おそらくこのボス特有か、あるいは特別なボスに与えられたものか――
 有効化した室内の壁面へ、一斉に全天の星図が浮かびあがる。現実を無視した紫を中心とする禍々しい色で、凶星どもがあやしげに瞬いて、走馬燈のように回転している。
 HPが五列も並んだ。初の五段バーモンスターだ。HP総量もおそらく過去最多。第一八次までは三段半まで削るのがやっとだった。ダメージディレイからの回復も早く、妖夢とキリトの狂剣をもってしても転倒ステータスをろくに発生させられなかった。
 ザ・デュアルヘッドにはほかにも新記録がある。体高一〇メートルあまりと、過去最大の巨漢である。みんな足をちくちく攻撃するしかない。ボス部屋も天井まで二〇メートル以上と十分な高さを持っており、確実に第二六層岩盤へ貫入している。
 その全身は地肌から革鎧に至るまで、すべて漆黒。皮膚の表面は薄毛なのか皮なのかすらおぼつかない。なにしろこのボス部屋は、ずっと暗いままなのだ。
 紅眼のデュアルヘッドが暗闇に輝く銀色の戦鎚を手にした瞬間、その体表を赤いラインが走った。標的有効化の合図だ。
 青騎士ディアベルが叫ぶ。
「戦闘開始! 正面タゲ取れ!」
 正面前列のヒースクリフとメイプルが、同時に大声をあげた。威嚇スキルである。盾持ちでも突出したこのふたりがボスのターゲットを集中的に引き受けようという基本作戦であったが――
 デュアルヘッドの頭が、なぜかカクカクとしている。右側の頭の目がさまようように動き、ハウルを無視してなにかを探している。視力を持つモンスターは、プレイヤーをきちんと視認してから攻撃するという、リアルなプロセスを踏んでくる。
「……迷っている?」
 妖夢は嫌な予感がした。黒大仏とは連日戦ってきたが、こんな反応、見たことがない。
「キリト、やってみましょうか?」
「どう見ても変だよな? わかった――仕掛けよう。ディアベルには俺が怒られてやるよ」
「ダメですよ。こういうのは仲良くです。あとで傷心の姫君を、黒づくめの勇者さまが慰めてくれるの」
「それは大役だな。じゃ、行くか」
 黒と銀は剣を軽く振り回しつつ数歩進んで、同時に叫ぶ。
『黒銀乱舞!』
 疾風となって突撃した黒と銀の嵐が、大樹の幹ほどに太い右足へと炸裂した。派手な花火とエフェクトが弾けるが、デュアルヘッドの反応がすこぶる鈍い――
 ディアベルが慌てて叱りつける。
「こら、勝手に攻撃するな!」
 だがやはり、双頭の巨人は棒立ちだ。まだ探している。なにをだ?
 アスナがディアベルに進言した。
「もしかして想定外のバグが起きたのかも知れません。ここは敵の急変に即応できるプレイヤーのみでの、強攻を提案します」
「……それもそうだな。よし、F隊につづき、ヒースクリフさん、メイプル、ルナー、フルアタック! ほかは引き続き、警戒」
 前線のトップ剣士たちが襲いかかった。五人中三人が幻想郷サイドなのは、長命ゆえの嗜みというものだ。ルナーこと蓬莱山輝夜は純粋な剣術ではそれほどでなくとも、自分の究極加速能力を利用したフルブースト技およびフルコンボ技によって、聖竜連合でも最強の剣士として名を上げている。ただしキャンセル技は苦手である。すこしでも調整を誤ればチート剣術となってしまうからで、ならば使わないほうがましだと、ブーストとコンボに限っていた。
 苛烈な閃光とライトエフェクト、音が響き渡る。デュアルヘッドはまだ動かない。だがHPバーが次第に減っていく。じわじわ、じわじわと。一本目の半分まで来たとき、それは一気に起こった。
 双頭が無言で揺らいだ。巨大ボスが半身をひねると、同時に動いた足から散るように、フルアタックをやめた五人が退いた。
 ボスの右腕が振り上げられている。金属の巨大な鎚が、破壊のエネルギーを振りまこうと、あるプレイヤーの脳天めがけて落とされた。
「げげっ! なんでー!」
 驚きにウサミミを立たせたハッピーラビットが、すばやい身のこなしで怪力の岩石落としをかわした。だが彼女の周辺にいた何人かが逃げ遅れ、いきなりHPバーを半減させる。こうなったらボス部屋の外へ退くしかない。
 デュアルヘッドの四つの瞳が、因幡てゐに集中している。あきらかにおかしい。
 大ボスの攻撃がウサミミ少女を追い立てる。俊敏重視で身軽なため、てゐも簡単にはヒットを許さない。しかし粉砕された床の破片を浴び、HPがすこしずつ減っていく。このくらいの超ボスになれば、ノーダメージでかわすというのは妖夢ですら不可能であった。ましてや因幡てゐはすばしっこいだけのトリックスターだ。その回避効率はより落ちる。てゐがどこへ逃げても簡単に大ボスの攻撃が届く。身長一〇メートル余、武器も三メートルはある。この双頭大仏の半径一〇メートルは、デインジャラスゾーンだ。
 ヒースクリフやメイプル、さらにほかの盾持ちたちも懸命にハウルでターゲットを取ろうと頑張るが、まるで無駄だ。妖夢とキリトがてゐの前へ出て大仏野郎の攻撃を引き受けようとしても、デュアルヘッドの戦鎚はさらにその上を通り越して直接ハッピーラビットを狙ってくる。体高一〇メートルもの飛び抜けた巨人に、二メートルに届かない人の身で、まともな攻防などあったものではなかった。並の大ボスは三メートルから六メートルまで。それでも苦戦することもあるのに、これが一〇メートルサイズにもなると、もはや脱力して笑うしかない。
 仕方なく妖夢とキリトはデュアルヘッドの足へ黒銀乱舞を再開する。狙うは転倒ステータス。妖夢は祈るしかない。持ってくれ! てゐが逃げ切れてくれ!
「――あっ」
 HPバーはまだ六割ほど残っていたのであったが、少女の終わりは唐突だった。
 粉砕した石ころにつまずいたてゐ。遠くで輝夜が手を伸ばしている。
「てーゐ!」
「姫様、ごめんなさーい」
 それが最期であった。
 無慈悲なる金属の塊が、主従の視界を遮り――ハッピーラビットを完全に押しつぶした。どしんという激しい振動と、土煙に、残響が余韻として響く。
 ガラスが砕けるような、陰鬱なサウンドがボス部屋を呑み込む。プレイヤーがやられるときの音は、モンスターのそれとは演出が違う。幾倍も美化されたサウンドであるが、それがゆえに耳障りで痛ましい。さらに青色の水晶がダイヤモンドダストのように飛び散るエフェクトが、ボスの武器を透過して、外側へと拡散していった。すでにアバター死亡および破砕演出は終わっている。デュアルヘッドがゆっくりと殺人の鎚をあげたとき……そこにはもう、なにもなかった。SAOの死は見るもあっけなく、かつ残らない。残さない。きれいさっぱりだ。
 攻略組本隊、初の死者が出た瞬間である。同時にそれは、ディアベルの完勝神話が崩れたときでもあった。
 数秒の沈黙があった。第一レイドの面々は、半ば放心していたが、すぐに激しい反応を見せ始める。みんなが心の底より恐怖を感じた。わき上がってくるどうしようもない震え。ここにいてはいけないと警告してくる、本能のシグナル。
「あ……」
「わっ、うわああ!」
「死にたくない、助けてくれ!」
 見かけだけとはいえ、最年少の幼い少女ナイフ使いが殺された衝撃は計り知れなかった。なにしろこのボスには、威嚇スキルが通用しない。つぎに殺されるのは、自分たちだ。彼らはそう思い込んだ。
 これまでが楽勝すぎたのだ。紫たちに飼い慣らされてきた攻略組の面々は、すっかり逆境に弱くなっている。一斉にドアのほうへと走り出すが、背中を見せて隙だらけだ。これでは殺してくださいと言わんばかりであった。ディアベルのカリスマも効かない。
 だがその総崩れの中にあって、冷静を保つ者が少数。黒の双剣士だ。
「落ち着くんだみんな! ――ヒースクリフ、メイプル、タゲを! 今度は『通る』はずだ!」
 キリトはボスを観察していた。気付いている。あのボスはもう、「元に戻った」と。
 頷いたメイプルと、ヒースクリフが、威嚇スキルを使う。無差別に手近なプレイヤーを攻撃していたデュアルヘッドがぴくりと反応し、ようやくヒースクリフらのほうへ向かってきた。
 だがそのターゲット取りが起きる寸前、デュアルヘッドが最後に振り下ろした戦鎚により、またもや生命の碑に横線を入れられる者が出た。
 床に倒れた重金属鎧のタンク戦士がひとり、HPバーを急速に減らしていた。妖夢が見れば、色はイエロー、レッド……消えた。もう、助からない。
 それを抱え上げるルナー。いつも冷静な彼女に似合わず、かなり慌てている。なにしろ彼は――輝夜のパーティーで配下だった男だ。
「リュフィオール!」
「かぐや姫さま、お慕い申しあげておりました……」
 その姿が青白く輝き、砕けた。誰も言い寄れなかった超絶美人へ初告白するという勲章と引き替えに、彼はおのれの生命を散華させた。
 てゐが重い鉄塊の下敷きで果てたのと比べたら、輝夜に抱かれて死んだのであったから、まだましだっただろう。だが彼の死は、はるかに重い。リアルの死でもあるからだ。ルナーは雪のように消えつつある、青い霧の散華を呆然と見送っていた。どこか知らぬ空の下で、リュフィオールだった者のナーヴギアが、処刑を執行している。
 妖怪のてゐはいまごろ、永遠亭で目覚めているだけだ。茅場の殺人レンジも、純粋妖怪にはまったく効果がない。ましてや因幡てゐは、幻想郷でも最長クラスの超長寿妖獣であった。これまで全身の皮をはがされたり、海の底へ沈められたり、丸焼きにされたり――さまざまな死にかねない目に遭ってきた。でも死ななかった。死んだように見えても、数日も寝てれば妖精のように復活していた。それは文字すらなかった大昔より日本人が月にウサギの姿を見つづけ、存在を無意識のうちに信じて、あるいは信じたいと願うからであり、その信心によってしぶとく命を繋いできたのである。強力なモノノケとは、そういうとんでもない存在だ。てゐは日本人がどれほどオカルトを信じなくなっても、消滅することがない。なぜならば月とウサギという連想が、日本人の魂に刻まれているからだ。
 戦況は完全に混乱している。四〇人いた第一レイドで、まだボス部屋に残っているのは、半数の二〇人ほどでしかなかった。
「……くっ!」
 妖夢はこの怒りをぶつけるため、キリトと三度目の黒銀乱舞を敢行する。だがデュアルヘッドは堅い。なんて鈍感なやつなんだ、さっさと転倒しろと、腹立たしい限りだ。
 攻撃しながら、妖夢はてゐが狙われ、殺された理由に思い至った。この場にいた全員が、幸運値がマックスだった。だがひとりだけ、そうでない者がいる。
 ハッピーラビットだ。
 因幡てゐは、自分自身を幸せには出来ない。彼女にできるのは、ほかの人間または人妖を、ささやかながら幸せにする能力である。それがSAOだと現実以上の強力さで働いていたのは、てゐが無意識に操作していたのが、幸運値という具体的な隠しステータスであったがため。その補正力がシステム的に優遇されていれば、効果は絶大である。
 このザ・デュアルヘッドは、これまでのボスと比べたら、とてつもない攻撃力を持っている。この場にいる全員を、クリーンヒット一撃半で殺すことができる。だけど幸運値が高すぎて、死なせるなという補正が強力に働いてくる。それゆえに双頭大仏は、誰を攻撃するかで大変迷うことになってしまったのだ。ようやく見つけたのが、因幡てゐ。この幸せ兎を殺す以外、デュアルヘッドに選択肢は残っていなかったのだ。
 背中で震える空気を、妖夢は感じた。
「……よくも」
「ルナー?」
 美しい顔を憤怒にゆがませたルナーが、ゆらゆらと立ち上がっていた。整った長髪が無惨にも乱れている。
「よくもやったわね!」
 風が飛んだ。
 空に浮かんだルナーが、ありえない速度で黒い大仏の胸へ突進する。その巨大な胸板へ、激しい剣戟のハリケーンを見舞いはじめた。
 それはチートであった。硬直や遅延、待機時間が、あらゆるそれらが無視される。ルナーが空を飛んだのも、ジャンプしてから下へ降りる処理を物理処理エンジンまるごとキャンセルしたからだろう。秘匿してきた最大加速の力が、大勢の人前で解放されている。
 ルナー以外の、全員が停止した。
 妖夢とキリトも、乱舞をやめて巨人より離れる。
「ルナー!」
 叫んでみるが、声は輝夜の耳に届いていない。
 巨人が武器を持たぬ左手で、自分の胸を叩いた。挟み撃ちにされるルナー。しかし紫色の反発が発生し、ルナーのHPバーは一ドットも動かぬ。
 それを見たディアベルやキリトたちより、不審の声がひびきはじめた。
「なんなのぜ! やっちまったぜ!」
 ボス部屋の外より声が聞こえた。魔理沙だ。おそらく紫も困惑しているだろう。これはもはや、隠せる隠せないといった段階を世界記録のような感じで抜き去ってしまっていた。
 クラインが口元を震わせ、悲劇の大道芸を見上げながら言った。
「……な、なんだありゃ? あの紫色は破壊不能ってこったよな。第一層のチュートリアルにも、たしか投石で。まさかルナーさんが、あいつ、茅場……晶彦とか?」
 キリトが意外と冷静な声で。
「いやそれはない。仲間を殺されたあの怒りは本物だし、ルナーほど優雅にふるまえる男なんかいてたまるか」
 さすがだなと、妖夢は思った。その彼氏が、妖夢を見つめた。
「なんらかの理由でシステムに干渉できる。そうだろヨウム。きみたちは警察やアーガス社から依頼でもされてるのか? 内部からこの愚かな事件を解決する、エージェントみたいに」
 鋭いなとも、思った。
「……ちがいますけど、否定もしません」
 ほかに答えようがない。
「アスナも知ってるようだったしな。俺やクラインは仲間はずれってわけか。なにか協力できることもあったはずだから、教えてくれても良かったのに」
「ごめんなさい――これが終わったら、みんな話すわ」
 なにが終わったらなのだろう。巨人はもはやルナーしか相手にしていない。与えるダメージが多すぎて、ほかの連中なんか巨人の目に入っていない。だけどいくら攻撃を受けようが、ルナーはすべて紫色の多角形障壁で跳ね返していた。空を飛びながら、凄まじいチート連続技で着実にダメージを稼いでゆく。まもなくデュアルヘッドのHPバー二段目が消える……。
「なんだこのBGMは?」
 クラインが耳を澄ませていた。
 あの物悲しかった悲壮な音楽が、変わっていた。
 穏やかな優しい調べより、一気に激しさを増し、弦楽器の響きへと移ろい、ロック調に和風の旋律が流れてゆく。
 まるで冷静でありながら狂っている、狂気で微笑み、永遠を笑う曲。
 蓬莱山輝夜の――テーマ曲だ。
「これは……竹取飛翔(たけとりひしょう)。なぜSAOで流れてるの?」
 竹取飛翔、副題はルナティック・プリンセス。絶世の美姫なくせに裏ではぶっとんだ性格の輝夜をイメージした曲だ。メイン楽器が変化してゆくこの複雑な曲をまともに演奏できるのは、幻想郷でもプリズムリバー三姉妹しかいない。
「おいっ! ルナーが!」
 クラインの声で妖夢が見上げると、ルナーの姿が変わっていた。
 ボスや転移門が有効化されるときのような、光のラインが全身を這い巡っている。その終わった箇所が、上等な着物へと姿を変えてゆく。
 変身が終わると、全身を赤紫系統の一目で最高級とわかる上流階級の衣装に身を包んだ、幻想郷そのままの輝夜が、宙に浮かんでいた。デザインは全体的に少女趣味で、輝夜の見た目を二歳ほどは幼くしてしまうだろう。これは幻想郷の女人妖に総じて共通する衣服の特徴で、各所のフリルが控えめに可愛らしさをアピールしている。上は長袖の洋裁風、下はやや和風テイストなロングのフレアスカート。ほとんど足首まで隠している。
「……あら、武器がなくなっちゃったわね」
 モンスターが攻撃してくるが、相変わらず不可視の障壁でことごとく遮っている。
「仕方ないか――」
 軽く右手を薙いだ。
 その瞬間、激しい輝きが輝夜を包み込む。正確には、大量の光球が右手の前に発生した。
「やっぱり出来るのね。それじゃあ、遠慮なく」
 右手を前にかざすと、それだけで光弾がデュアルヘッドへと襲いかかった。同時に輝夜の周囲に半透明の魔法陣が形成され、くるくる回り始めた。
 着弾と爆発の連鎖で、辺りが振動する。
「全員、壁際まで待避!」
 叫んだのはヒースクリフだった。その表情は驚きというよりは、これを待っていたと言わんばかりの驚嘆と興奮に縁取りされていた。
 ――知っていた?
 妖夢の疑問はだが、キリトに腕を引っ張られて中断された。
「巻き込まれるぞ! さっさと来い」
「あ、すいません」
 一方的でど派手な弾幕ゲームがはじまった。
「ブリリアントドラゴンバレッタ!」
 七色の光弾が四方八方へと散って行く。デュアルヘッドは的が巨大すぎ、動きものろいので、この眩しい飛び道具攻撃をモロに受けてゆく。
「サラマンダーシールド!」
 そもそも飛び武器が投剣や投石しかないSAOにおいて、モンスターにはこういうものを避けるという概念が、アルゴリズムとしてプログラムに組み込まれていない。
「月のイメルナイト!」
 デュアルヘッドにとってこの攻撃は、遠方よりしつこく突かれてくる、謎の刺突剣にしか見えないだろう。
蓬莱(ほうらい)の玉の枝!」
 おのれの巨大な体で受け、反撃につなげ――たくても、出来ない。敵が遠く、輝夜へ近づくことも不可能だ。
「蓬莱の樹海!」
 しかもときどき転倒して、タンブルステータスが発生している。むろんそこで止めるかぐや姫ではない。
「きれい……これがゲンソウキョウの、弾幕ごっこ」
 アスナがぼけっとして宙を見ている。弾幕の拡散はいずれもほぼ横方向に限定していて、下や上には飛んでこない。きちんと計算されたものだ。斜め下も斜め上も、せいぜい一五度くらいの範囲に収まっている。したがって真下より見上げれば、連続的に変化しつづける幾何学模様、光の万華と曼荼羅が見られるのだ。いずれもぶつかると痛いエネルギー弾であるが。これぞ弾幕、幻想郷の正しくも典雅な遊興、スペルカードルール対戦である。この弾幕は上下に回避すれば楽勝なのだが、褒められた避け方とはされない。あくまでも弾幕が飛び交う限定された空間内で避けてみせなければいけなかった。
 もっとも輝夜がいま、相手としている木偶には関係ない。なにしろ、ぶっ倒して復讐するのが目的なのだから。
 デュアルヘッドのHPバーはみるみる減少してゆき、あっというまに残り一段の半分にまで落ち込んだ。妖夢とキリトがおこなう黒銀乱舞の、五~六倍のペースである。とてつもない大火力だ。
「それじゃあ、トドメと行きましょうか」
 絶対的な強者ゆえの冷たい微笑みで、輝夜が軽やかに宣言する。
「新難題――金閣寺の一枚天井」
 それは蓬莱山輝夜、最難関と言われるスペルカードである。妖夢は連続二分が限界だ。
 膨大な白い弾が、ひたすら一枚の壁となり、えんえんと降ってくる。もちろん方向は横。
 ついでにランダム弾が螺旋状に渦を巻いて、デュアルヘッドを直接襲う。
 黒大仏のHPバーがごそっと減ってゆき、黄色に入ってもまだ下がっていって、赤色に達した瞬間に停止した。
「あら?」
 と輝夜は首を傾げたが、理由にすぐ気づき、かまわず弾幕をつづける。
 それはフロアボスによくあるバーサク状態への変化、その演出の無敵タイムであった。デュアルヘッドが自分の武器へと頭突きして縦に割り、強引に二刀流……むしろ二本流か? になった。鉄槌は割れて軽くなったことでさらに速度を増し、凶悪化する――という設定であろうが、無敵時間が終わったとたん、猛烈な天井板に圧殺され、ガシガシと削られ、まもなく巨大なふうせんみたいに膨らんで……その寸前で輝夜は攻撃をやめた。
「ほら妖夢、トドメを差しなさい。私はどうやらもう、お別れみたいなの。経験値とアイテムをあなたにあげるわ」
 輝夜の正面に、妖夢の見たことがない変わったデザインのメッセージウィンドウが表示されている。
「――わかりました。キリト、最後の攻撃、行きましょう」
「了解」
 黒銀乱舞によってデュアルヘッドが撃砕されたのは、それから一五秒後のことだった。
 デュアルヘッドが巨大な花火となって砕け散り――
 ほぼ同時に上空で、蓬莱山輝夜が、儚い輝きとなって蛍火のように掻き消えた。
     *        *
 第二二層主街区コラルより南西に行った小さな村。その郊外に、ログハウスが数棟、散らばって建っている。
 プレイヤーホーム用として設置された物件であったが、これらを五軒まるごと、一〇〇〇万コルという大金で豪快に買い占めた集団がいた。
 オーナーはプレイヤー名、ユカリ。さらに共同所有者としてプレイヤー名、マリサ。所有者を分けているのは保険だ。この世界より退場したとき、かならず相続権を主張する輩が出てくる。なにしろその用途は、ギルド・マスタースパークおよびギルド・マイスター組のギルドホームだ。攻略組のサポーター集団ゆえに外部の人間も増えてきており、質・量ともに初期の純粋さは保てなくなっている。攻略組に入ってくるような男は、総じて上昇志向が強い。キリトのように内への研鑽へ向けば良いのだが、外へ向いた場合は地位や権力もなければ満足できない。すなわち、虎視眈々と幹部職を狙ってくるものだ。トップがうら若い乙女たちなのだから、とくにその傾向がでる。
 マイスター組ではそれを懸念して、最初からマスターとして禿頭長身の黒人を据えていた。そのエギルは商人活動に奔走して多忙、職人たちを統括する事実上のトップは河城にとりだった。揉まれたおかげで、にとりの対人恐怖症はすっかり改善されている。ちなみににとりへ告白してきた一八人(あれからまた増えた)のうち、七人までもが、マイスター組の男子職人である。にとりがやたらと男の好意を集めるのには、本人の与り知らぬとある理由があった――
 ログハウスの一棟、その一室の扉には「マヨヒガ」と彫られた札がかかっている。薄暗い室内で、七人の少女がロングテーブルを囲んでいる。今回はアルゴやアスナですらシャットアウト。完全に幻想郷クラスタのみでの話し合いだ。
 ユカリこと八雲紫。マリサこと霧雨魔理沙。みょんこと魂魄妖夢。ニトリこと河城にとり。アヤヤこと射命丸文。メイプルこと犬走椛。サトリこと古明地さとり。
 ルナーとハッピーラビットはすでにいない。永遠亭のふたりは、SAOより去っていった。
 あとひとり、灰色髪の道士娘が同席していないが、彼女はまあ、不名誉な事情により、三日前からお邪魔すらできなくなっている。入室すればたちまち過激化したさとりのハリセンが炸裂、尻を蹴られて追い出されるだけだ。
 夕刻の黄昏が窓より差し込んでいる。あのなにもかもが衝撃的だったボス戦より、すでに四時間近くが経過していた。
「……結論から話すわ」
 水のように通る声で、八雲紫が言った。
「私たちの正体を、ありのまま、そのまま正直に、アインクラッド中へ伝える。ただし攻略組関係者のみに口頭で。あとは噂が広がるのに任せるわ。出版物は使わない。話しかけられたら、はいそうですよと答えること」
 文が手をあげた。珍しくメモを取っていないが、まるで紫の結論を知っていたかのようであった。さすが鴉天狗である。
「茅場晶彦に、私たちの奥の手を晒すのですか」
「あなたなら私の意企くらい察しているでしょう? わざわざ声に出させるのかしら」
「仕方ありませんよ。いちいち説明しないと、理解できないお子様もいますから」
 文の赤い瞳が、まっすぐ銀髪娘を射貫く。
「……みょーん」
 たしかに妖夢には、紫の心算がおぼろげにしか分からない。
 人心を鎮めるため、くらいだ。
 攻略組の面々は、なんでもいいから情報を欲しがっている。じつはこのログハウスの外にディアベルやクラインら三〇名ほどの男性がいて、妖夢たちの話し合いを見守っているのだ。キリトとアスナは第二六層で血盟騎士団の追跡をしている。ヒースクリフはなにも追求せず、仲間たちを引き連れるや、さっさと最前線の渦中へと身を投じていた。
「それでは新方針の概要と意味を伝えるわね」
 紫は新たなる戦略を教えた。
 どうせ幻想郷は二〇年以内に見つかる。遅かれ早かれ。ならばいま知られても時期が前倒しされるだけで、結果としては同じだ。ただしいきなり文々。新聞に書いたところで、法螺話として信用されない。ほとんどの人は目にしてないのだから。目撃者の噂と連動させるには、妖怪側の告白もおなじく噂の輪に乗せるのが妥当だろう。情報が正確に伝わるとは限らないが、多くの人に浸透したところで、あらためて出版活動によって正しい内容へと補正すればいい。
「……うまく、行くでしょうか」
「行かせるのよ、妖夢。これは私たちの生存をかけた大戦(おおいくさ)よ。この正念場でみんなの協力を得られるかどうかが、私たちの未来を決定付けるわ。攻略組くらい味方にできなくて、どうして日本を相手に生き残ってゆけると思う?」
 その後ヒースクリフ対策が話し合われた。
『茅場はとっくに幻想郷のことを知っている』
 妖夢が戦闘中にふと思ったことであったが、魔理沙らの出した結論も同様であった。したがって幻想郷のことを攻略組に明かすという方針へと、簡単に転換できたのである。
 茅場のさまざまな行動から、幻想郷クラスタがヒースクリフに気付き、追い詰めようとしていたことも把握していただろう。ヒースクリフが攻略組を離脱したことで、河城にとりと射命丸文が準備していた工作や、紫が蓄積していた正体見破りの作戦が、すべて灰燼に帰した。紫の「時間差睡眠」作戦は膨大な時間を費やしたものであったが、いまだサンプル数が足りず、確率論的に誤差の範囲だ。これが並の人間相手なら勢いで通すことも出来ようが、天才相手だから簡単に論破されるのは見えている。にとりたちの「左手メニューを使ったよ撮影」作戦も、まだ実行するための条件が揃っていないし、なにより相手が離れてしまった以上、仕掛けるタイミングがとてつもなくシビアになってしまった。幻想郷の妖怪たちは、自分よりはるかに若い茅場に、しかも一人しかいないのに、まんまとしてやられたわけだ。
 魔理沙が妖夢に、さらに厳しいことを伝える。
「アスナがおっさん騎士団を何回も出し抜いただろ? なのにヒースクリフは怒らなかったんだよな。あれもきっと『確かめる』ために、わざとやらせたんだぜ。一度や二度ならまだ偶然だろうが、あそこまで出し抜きまくったなら、茅場イコール、ヒースクリフだと私たちが知っているってわけだな。まったくアスナも、半端に頭がいいってのは困りものだな。抑えるってことを知らない」
「みょーん。魔理沙たちだって、茅場にいいように振り回されたくせに!」
 それを指摘されると、魔理沙と紫もため息しか出ない。
「……それなのよ。茅場晶彦は私たちが簡単に手を出せない理由まで知悉していそうね。これだから天才ってのはいやなのよ。私は一〇〇〇年以上をかけてやっと天才に近いていどの、自称で賢者と名乗って恥ずかしくないほどへと到達できたのに、あちらは生まれつきで最初から天元突破なのよ? たった二〇年かそこらで」
 幻想郷の賢者が、自分を天才ではないことを認めてしまうほどの落ち込みようだ。
 茅場が引き抜いた連中はすでに『解放軍』を名乗り、もうひとつの攻略組、男じみた前線世界を組織しつつある。メインギルドはヒースクリフ率いる血盟騎士団と、キバオウ率いるアインクラッド解放隊のふたつ。キバオウは血盟騎士団からの独立を餌に、完全にヒースクリフ陣営に取り込まれてしまった。ついでに解放軍の総大将という大役にも抜擢された。これで紫や魔理沙の対おっさん騎士団工作は、その実行役をも失った。解放軍の盟主はヒースクリフである。学校でいえば、理事長と校長の関係だ。人を集めるという意味において、これほど理想的な人間関係はないだろう。ヒースクリフは象徴として君臨していれば、あとは神聖剣という名が人を呼ぶ。それをうまく取り込むのが、キバオウの仕事だ。
「いまさら遅かったが、キバオウにはデートのひとつくらい応じてやりゃ良かったかな――いやダメだ。ディアベルといたほうが一兆倍楽しい。青騎士はちょっとだけだけど、香霖(こうりん)みたいだし。でもあのサボテン野郎はダメだ。下心丸出しすぎて怖気がする。すぐ私のスカート覗こうとしやがるし! 生理的に無理だぜ。うん、絶対にダメ」
 魔理沙が帽子を深くかぶり、テーブルに突っ伏していた。女を武器とするにしても、出来ないものもあるのだった。
     *        *
 第二五層、フロアボス攻略。
 文々。新聞が動かなかったので、かわりに発行されたMTD速報が、この戦闘での死者を三名と伝えた。
 ハッピーラビット、ルナー、リュフィオール。いずれも聖竜連合の騎士だった。
 自分のギルドに被害を集中させた責任を取り、ディアベルは攻略指揮官を自主退任。しかし当日中の臨時投票によってすぐ再選された。この困難な戦いでディアベルはずっと陣頭にあり、戦線崩壊の危機にあって皆を鼓舞しつづけた。いまさらほかの誰も、ディアベルの代わりにはなれない。涙を流しながら、ディアベルは魔理沙の再任申請を受諾した。そのあと魔理沙は青騎士へ長い話をした。それはそれは、途方もない物語を。
 この夜、同じことが攻略組のあちこちで繰り返された。紫は参謀陣へ。にとりはクラインへ、さらにエギルへ。文と椛もあちこちのギルドを回って。さとりは第一層へ向かって、シンカーとその補佐役であるユリエールへ。MTDは攻略組ではなかったが、活動の細部で協力関係にあるからには、噂でなく一次情報として知って貰う必要があったのである。
 シンカーとユリエール、さとりの三人は、ギルドMTDの執務室を出て、黒鉄宮旧蘇生の間、生命の碑へと向かった。
 そこには一万名の名が刻まれており、もちろんLunarの名も含まれている。
 いまLunarの文字には二重線が入り、死者として扱われている。だが知る人がその名に触れたら、ささやかな文字列が一時的に表示される。それは死因だ。ある者は斬撃ダメージ、ある者は貫通継続ダメージ、ある者は高所落下――
 はたして、ルナーの死因は。
 さとりが触れると、表示された内容にシンカーが「……おおっ!」と仰天した。
『アカウント停止処分』
 デスゲームらしからぬものであった。
     *        *
 西暦二〇二三年がやってきた。
 ふたたびフロントランナーとして出発した妖夢は、第二六層を走りながら『本当の自分』のことをいろいろキリトに伝えてゆく。ゆっくりと、ていねいに。
 目を丸くして聞くキリトであったが、実際にあの弾幕活劇を見せられては、幻想郷や冥界といった途方もない話を信用するしかないようである。
 なによりアスナが、全面的に妖夢を支持して、すでになにもかも知っているのである。ここで「信じてないよ」と言おうものなら、二対一で立場がなくなる。キリトはなにしろ、実年齢でもこの三人では最年少なのであるから。
「……で、ヨウムの本当の歳って、いくつなんだ?」
 六八歳だ。絶対にキリトは、おばーさんを連想する。もしこれが二〇〇歳とかであれば突き抜けたぶんまだいいのだろうが、妖怪として半端に若いというのも困りものだった。
「秘密」
「…………」
「秘密ですから」
「……そうか。じゃあな、えーと、初日に会ったあのアバターは」
「一一〇〇歳以上としか。私も正確な年齢は存じませんし、たぶんお師匠様ご本人もお知りではないかと」
「そうか……と、とんでもない世界だなあ。冥界か。たしかにヨウムの知識は仏教っぽく偏ってるし、どこか枯れてるしな」
 キリトの受けた衝撃は大きいはずだが、口に出る言葉は飄々として軽めだ。彼なりの処世術だった。
「枯れてるって……ひっどいキリト」
「ごめんごめん。それにしても、まさかヨウムが――」
 キリトの言葉がつづかない。口の中でもごもごと呟かれている。みょんっと、二回妖夢に聞こえた。おそらく、こんな内容でも言ったのだろう。
 『死後』の世界なのに『生きて』るみょんな住人で、ついでにその首府と管理者を守っている、みょんな守護剣士さまだったとは。
 呟きが終わり、また具体的な声として発せられた。
「――道理で、おっそろしく強いはずだ。でもこれでスッキリした」
「なんですか?」
「もう余計な嫉妬とか、悩まなくて済むからな。俺はヨウムより弱くてあたりまえって、納得できる。身の程ってやつさ」
「じゃあ私も今後、これまで以上に遠慮なくキリトに甘えますよ。いつ消えるのかって、別れる日が来たらどうしようって、怖かったんですから」
「だから初めのうち、俺にすぐ消えるかもとか、奇妙に意味深なことを繰り返してたのか。ここまで状況証拠が揃ってると、きみが本当に異世界の子だって、信じるしかなさそうだね」
「あのキリト……好きよ」
「またかよ。ここ何日かそればっかりだな。ああ、俺も好きさ。何度でも言ってやるから安心しろ」
 頬に手を添え、顔をまっ赤に染める妖夢だ。
「言われるたびに胸が熱くなってきます。うー、嬉しい! 解禁したイチャイチャ、楽しい!」
「それに関しては俺も賛成だ。クラインのせいでずっと賢者してた間は疲れた……でもやっぱ凄いよな。ヨウムは何十年経ってもほとんど変わらないなんて――」
 アスナがこんな口『ω』をして、にやにやとキリトの頭を小突く。
「なんだよ」
「いまエッチな想像したでしょ? そんな先のことは、せめてこのゲームをクリアしてからにしなさいね。未来のロリコンさん」
 妖夢も目をすこしきつめで非難をアピール。
「……エロキリト」
「いやヨウム、きみがそういうふうに言っても、可愛くて萌えるだけだぜ。なんだよその目、まるでヒマワリの種を取られたハムスターみたいだ」
「およ? そうですよ! キリトはそうでなくっちゃ、キリトらしくないわ」
「くっ、みょーんを聞きたかったのに、言葉を使いすぎたか」
「みょーん?」
「演技で言われてもな。もっと自然な感じでほら」
 アスナがぱんぱんと手を叩き、中断させる。
「はいはい、あんまりバカップルしてないで。あそこに敵が出てるわよ」
「キリト、あれ先に狩ったほうが、晩飯を奢るってどうです?」
「よっしゃ。そういう勝負ならヨウムにも勝てそうだ――あ!」
 青いポリゴンが爆ぜている。
「アスナ~~。なんで倒しちゃうの」
「隙だらけで馬鹿じゃないのあなたたち。私だって経験値とか欲しいし。潤いも欲しいし。ついでに彼氏欲しいし」
 てゐと輝夜の件でオオゴトになったはずであったが、フロントランナーからしてこんな感じであったから、攻略組のほうもたいして変わらなかった。幻想郷の空気はとっくに最前線を良い意味で蝕んでいたのである。
 攻略組は自分たちが人間でないおかしな生き物に操られていたことを知って戸惑ったが、不平を持ってた連中はとっくにヒースクリフらと離れていたので、多くはあまり気にしないようであった。なによりみんな可愛くて美人だし、言うことさえ聞いていれば適当かつ適度に活躍できる。ルナーとハッピーラビットも本当は死んでないらしいと知って安堵していた。むろん信用しない者も少なからず出たが、彼らの吸収先は解放軍としてすでに成立している。解放軍は急速に拡大するだろう。これでこの先、前線の二極化がほぼ確定した。
 幻想郷関連についてみなに知ってもらったわけだが、ただし――茅場晶彦の件だけは、誰にも新たに語られることはなかった。これは徹底的に女たちだけの胸に仕舞われている。その理由をあのとき紫は、こう説明した。
『命を賭けてでも行うべきものがある……そういう価値観でもって、彼らは簡単に挑戦してしまうわ。そのせいでいつも泣くのは女。茅場による全員道連れの危険が考えられる以上、男という生き物にヒースクリフの秘密は絶対に明かしたらダメよ。もし教えたら、判ってるわね? とくに妖夢と、あと、ここにいないけどアホの子、布都(ふと)!』
 名指しで注意されたら、妖夢としても身を引き締めるしかなかった。ちなみに布都ちゃんは相変わらず邪魔すぎて、この混乱劇でも足を引っ張るばかり、なんの役にも立たなかったらしい。ついにキレた八雲紫によって放逐されてしまっていた。物部布都(もののべふと)たる者、そんなことで懲りるわけもなく、中層付近に降りて様々なことへ興味本位で首を突っ込んでるうちに、わずか三日で誰もが知るアイドルプレイヤーになった。月夜の黒猫団というギルドに拾われて、楽しく過ごしているとか。
     *        *
 第一〇層は洋風的和風がテーマのおかしな層であるが、それでも和風を冠するだけに、神社みたいな謎のものが幾つかある。
 その一箇所でぱんぱんと、手を合わせる男女ペア。初詣だ。青い髪の少女と、中背ながらそこそこ肉付きの良い、赤髪の青年。見た目の年齢差は四つほどで、カップルとして見ればいい感じだ。でも実年齢は五五〇歳以上離れている。
 河城にとりより実年齢を伝えられておまけにすぐ信じてしまったクラインであるが、昨夜は「永遠に若い奥さん! ヒャッハー!」とか月夜に吠えていたらしい。気持ちは変わらないと宣言して、堂々のお年賀告白をかました。
 この神社っぽい社の裏で。
「にとりさん。この不詳クライン、あなたに惚れております。どうか結婚を前提のお付き合いを!」
 河童少女はたっぷり三〇秒は悩んだ。クラインには大恩がある。嫌いなわけがなく、好きだ。しかし愛とは違う気がする。交際するとしてもまだ尚早だ。というより、なんで結婚?
「……ごめんなさい。でも、めいゆーとしてから、なら」
「え、いま『から』と言いましたね? それって見込みがあるってことッスか?」
「ひゅいっ? あのそのようなつもりでは」
「ひゃっホゥ!」
「――ま、いいか。じゃあ、デートのつづき行こっ。めいゆー」
「おうよ! ……おおっ、顔が赤いじゃあーりませんか、にとりさん」
 クラインは知らない。にとりの要求水準が非常に厳しいことを。「頭がすこぶる良い」という、絶対無敵のハードルを。しかもそれで最低限なのだ。あとにとりは赤面症でもある。とくに好きでなくとも、すこし良い印象を持っていれば、顔が勝手に赤くなる。恥ずかしくても赤くなる。とにかくすぐ赤くなる。これが河城にとりが男をどんどん吸い寄せる仕組みである。無自覚な天然の男泣かせであった。
     *        *
 ディアベルは魔理沙にまだ告白しない。したくても出来ない。魔理沙の背中――もとい、帽子が立派すぎて。
 彼は悩んでいる。人生経験では、あきらかに魔理沙のほうが上だ。
 見た目は可憐で溌剌とした女子高生だが、実際は一〇歳は年上だった魔理沙。PoHがニシダ誘拐で脅迫してきたとき、ディアベルはなにも出来ず、けっきょく魔理沙がみんな解決してしまった。
 自分が魔理沙にふさわしいのか、青騎士は悩んでいる。そもそも自分がていよく操られていたことに、このお調子者もようやく気付かされた。第二二層へ呼ばれ、八雲紫――本当の支配者と面会したとき、ディアベルはその圧倒的なまでの存在感に、生きた心地がしなかった。
 こんな連中が影で支えてくれていたのかと知った結果、ディアベルの目標は、さらなる自己研鑽へと向かう。こうして本物の攻略指揮官が誕生する土壌ができあがった。今後、因幡てゐの加護はない。どうしても成長してもらわねば困るのだ。紫の狙いもそこにあった。立場が人を育てるのである。
 そのころ魔理沙は、第二六層のとある宿屋で絶讃寝坊中だった。いろいろあったせいで、うっかりタイマーをセットし忘れていた。金髪娘が幸せな寝顔で「こーりーん♪ 私のキノコ料理ですよー。ほら、あーん」と言いながら、布団を抱いてごろごろしている。
 憐れなりディアベル!
     *        *
 ジョニー・ブラックは、妄想癖があると疑われはじめている。
 彼は自分を捕まえたルナーが「茅場晶彦」だと主張してやまない。すんげえチート野郎だと。
 第二五層の顛末と、幻想郷および人外少女たちの噂が、攻略組からすこしずつ広まっている。だがそれが牢獄エリアまで降りてくることはない。牢屋は部屋ごとに細分され、お互いに話をしようにもせいぜい隣までだ。不味い餌を配給しにくる獄吏にもわざわざ外部の情報を教えるやつはいない。とくにラフィン・コフィンは侮蔑的に無視されている。
 この殺人ギルドは全員、仲間以外にフレンドがいなかった。したがって彼らは徹底的に外の情報より隔離され、ルナーがとっくにゲームオーバーとなったことや、チート剣技はおろか人間ですらなかった事実が広まりつつあることを知らない。ゆえにジョニー・ブラックがなにを言っても、PoHは取り合わない。
 ひとつの牢に押し込められたラフィン・コフィンは、ジョニー・ブラックという鬱陶しい爆弾を抱えて、すこしずつ内部崩壊をはじめていた。
 おなじころ、牢獄よりレジェンド・ブレイブスが釈放された。彼らはレベル的にも装備的にもとっくに前線から引き離され、強化詐欺の賠償で財産もすっからかんだ。
 そのままリハビリとして高層域に向かったが、最初のクエストで第二〇層ひだまりの森に入ったところ、たまたま苦戦していたパーティーがいて、なんとなく加勢して助けた。どうも中層から高層へチャレンジしに来たらしいが、やはりレベルと強さが足りずに困っていたらしい。心を入れ替えていたブレイブスは、元攻略組のよしみとして彼らへ手ほどきを行った。
 それが縁となり、以来このギルドとよく共闘するようになった。月夜の黒猫団と名乗ったギルドには、なんと可愛い女の子がふたりもいて、ブレイブスを喜ばせた。全員が男であるブレイブスにとって、自分たちとおなじ位置で戦う女の子は貴重である。ステータスである。サチという大人しい子は黒猫団の男連中がみんな狙ってるようであるが、灰色髪のフトという子は騒がしいせいか相手にもされていない。変わり者好きの六人はすっかりこの子のファンとなり、やがてフトちゃん親衛隊として中層域に留まり、無駄に名を馳せることになる。
     *        *
 一月五日の早朝。
 古明地さとりが幻想郷からの初メッセージを受信した。
 さとりの能力は、人の心を読むものだ。寝ている体へ誰かが近づけば、それだけでお外の事情がわかる。ただしさとりは旧地獄の管理者。地底深くの地霊殿(ちれいでん)に居住しており、地上の者は滅多に訪れない。だが輝夜とてゐが幻想郷に戻って、こちらの情報がずいぶん伝わっただろう。そのおかげか、ついに向こうもこちらへ接触を果たしたのであったが――
 頭が痛くなる内容だった。
『みんな久しぶり。私は元気よっ。ぴんぴんしてるから心配しないでって、聖竜連合の連中に伝えといてね。姫様が凄いことしたらしいから、どうせ私たちの秘密、教えちゃうんでしょ?/因幡てゐ』
永琳(えいりん)が悪乗りして、あなたたちのナーヴギアを永遠亭仕様に改造して回ってるわ。能力を使いたい放題だから、頑張ってね。そうそう、殺人機能のほうだけど、じつはデスゲーム二日目までに地霊殿と紫を除いて解除してたそうよ。いまさとりのを弄ってるわ。/蓬莱山輝夜』
『能力使用は計画的に。はりきりすぎて月の結界を突き破ってしまいますと、どれほどのチート・悪行・不公平も無視する怠惰なカーディナル・システムが、いきなり強制送還を発動するようなのでご注意ください。たかがハッキングなのに小心者ねえ。/八意永琳(やごころえいりん)
『さとり様! 先代と霊眞(れいま)のやつが地霊殿の酒蔵を勝手に! みんな集まってどんちゃん騒ぎが!/霊烏路空(れいうじうつほ)
『………………………………。わーい。………………………………。かいかーん。………………………………。/古明地こいし』
『あーうー、顕界のアジトが長野県警に見つかっちゃったよー。この酒うめー。/洩矢諏訪子(もりやすわこ)
『ごめん! ホント、マジでごめん紫! おいお(りん)、もう一本もってこーい!/八坂神奈子(やさかかなこ)
『おふたりとも、そんなあまり飲んだら、お体に悪いですよ~~。/東風谷早苗(こちやさなえ)
『守矢神社の役立たず! 運命をねじ曲げて刑事どもの捜査を攪乱するのもいいかげん疲れてきたわ。うー。日本の警察って優秀で困っちゃう。やりすぎて県警本部長のクビが飛んじゃったみたいだから、つぎは国が動くわよ。スキマ、あんた、さっさと内側から解決しなさい。/レミリア・スカーレット』
『私もささやかながら、お嬢さまのお手伝いをさせていただいております。おかげで紅魔館のお仕事が溜まっていく一方ですが……。/十六夜咲夜(いざよいさくや)
『紫さま。ちぇんが可愛いすぎてどうしましょう。いま私の膝枕で寝てるんですよ! ――結界は霊眞とレミリアと咲夜がうまくやっています。茅場晶彦は最初の隠れ家だけ突き止めましたけど、残念ながら逃げられてしまいました。恋人のルートから県警をけしかけられないか工作中です。/八雲藍(やくもらん)
『布都いるかしら? きみの顔、落書きだらけじゃぞ。あっはっはっ!/豊聡耳神子(とよさとみみのみこ)
『なぜ私がこんな地底に……文! あんたがずっと寝てるせいで私の担当が増えて大変なのよ! 聞いてる?/姫海棠(ひめいかいどう)はたて』
『ようむー、あなたに恋は早いわ恋は。私がまだなのにい!/西行寺幽々子』
『魔理沙……あんたの家にあった私のもの、すべて回収したから。ついでにあんたをアンティークドールみたいに可愛らしくドレスアップしておいたわよ。起きたら七転八倒しそうで楽しみだわ。うふふ。/アリス・マーガトロイド』
『やい魔理沙! 輝夜から聞いたわよ? あのゲームがそんな七面倒くさいことになってたなんて……生きて戻って来なさいよね! もし死んだら殺すからね! 約束よ!/博麗霊夢』
『声に出さなくても届くわよ霊夢。それに死なないって。死んだら殺すって……あ、魔理沙。私も回収させて貰ったから。なにもかも。ええ、なにもかもね。/パチュリー・ノーレッジ』
『きゃはっはっ! こんな、とんでもなーい大異変が、どうして私の代で起きるのよ! これが飲まずにいられっかー!/博麗霊眞』
 みんなずっこけた。
 第二八層で狼ヶ原を走ってた妖夢も、長いメッセージを読んで派手にずっこけた。
「おっと。あ、ごめん」
 受けようとしたキリトに胸をがっちり触られるラッキースケベ被弾。つぎの圏内に入ったとたん切り刻もうとした妖夢だが、アスナにハリセンで頭どつかれた。このハリセン、さとりからのプレゼントである。布都が離れて、さとりの毎日は平穏になった。
「なにするのアスナ!」
「いえ、なんとなくムカっと来て」
「……助けて辻斬りされてちゃ、彼氏として立場ねー。毎日、朝昼晩スキスキ言ってるくせに、この未熟者め」
「むっつりよねえ、ヨウムちゃん」
 もうなにがなんだか分からない妖夢であった。
「みょ、みょーん!」

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