魂魄妖夢の朝は早い。
日が昇る前には起きている。タイマーなどセットせずとも、身に染みた体内時計が妖夢を起こす。今日も五時ちょうどに起床してしまい、しかたなく部屋を引き払った。起きれば動くのが剣士たるものの基本だ。根が真面目なこの娘の価値観では、二度寝というものは時間の無駄でしかない。階段を降りて宿屋の扉を開けると、侵入した寒気が妖夢の顔と両手を打ってきた。だがそれよりも彼女の心を揺り動かしたのは、眼前に広がる灰色へと埋もれた淡い静寂だった。
「……冥界?」
夜の雪景色だと気付くのに、五秒を要した。なにをボケてるのだと、思わず頭を振る。妖夢の起き抜けは良いはずだが、昨夜は就寝が遅れ、さすがに疲れが取れきれていなかった。せっかくキリトの膝枕でのんびり語ってたのに、河城にとりの緊急招集を受け、日付が変わる寸前まで魂魄二刀流を事細かに調べられたからだ。アスナ&シリカ&リズベットの人間トリオも呼ばれていて、色々と愉快な剣舞を練習していた。にとりのテンションは終始ヤバくて、まるでマッドサイエンティストだった。
せっかくの風景であるが、まだ日が昇ってないので堪能はできない。いまは冥界のように暗く寒い低コントラストのカーテンが、地面から遠くの平地、はては天蓋までを一様に覆ってしまっている。妖夢のあるべき視力であれば、光量に関係なく事細かいディテールまで知れるはずなのだが、いまはただの人、暗視能力をはじめ、なにもかも失っている。SAOが提供してくれる達人級の視力は、モンスターやほかのアバターを相手にしたときの一瞬しかサポートされない。システム機能によるカーソル識別などだ。それ以外はいちいち派生スキルを育てる必要があるが、妖夢のスキルビルドは魂魄流に特化している。
息が白い。冬だなと実感できる。冥界であればこの景観でこれほど寒くはならない。それだけあの世界は灰でも被ったように均一で、変化に乏しい。
宿屋より出た妖夢は、そのまま湖のほうへ向かった。この村の名はコラル。第二二層の主街区ということになっているが、規模は完全にただの村だ。妖夢の記憶を探っても、これほど小さな主街区などほかになかった。
コラルは第二二層の中心に広がるおおきめの湖、その南岸に位置する。妖夢は郊外より圏外へ出て、さらに進む。BGMは主街区もフィールドもたいして変わらず、基調のピアノと主旋律のフルートがのどかに交わる、牧歌的でゆるやかな音律のままだ。したがって妖夢は武器を装備することもなく、ただし防具はしっかり身につけ、最低限の警戒を怠らず散歩をつづけた。一歩ごとに初冠雪を踏む感触と、シャーベットをスプーンでかき混ぜるような音が、彼女の五感を楽しませる。やがて湖の岸辺までたどり着いてしまった。
「……きれい」
対岸には第二三層へ連なる迷宮区タワーがそびえているが、それは妖夢にとってどうでも良かった。浮遊城アインクラッドの外で瞬く星空。その一部が、水上に転写されていた。空を切り取ったキャンバス。微風にゆらめきたつ湖面で、あまたの星々が今夜最後のダンスを踊っている。しばし見とれていたが、やがて数十メートル先にある木製の桟橋が目に入った。行ってみればまるで作られたばかりに小綺麗な桟橋で、水面の反射をより間近で観察できるポイントがあった。当たりに心躍らせ、雪を払って腰掛けた。おしりに冷たさが伝わってくるが、そんなことが気にならない美しい世界が、妖夢を魅了してやまなかった。やがて星達のきまぐれな踊りに唐突な終わりがきた。雲が立って、天より巡る光路を隠してしまったのだ。
「あ~あ」
つぶやいた妖夢であったが、ふいに見られてるような感覚があり、肩を竦ませる。なんとも滑稽にすぎた。水上の万華鏡に見入ってしまい、冥界剣士筆頭にあるまじき失態をおかした。いくら音楽が平和でも、システム上はあくまで圏外。その気になればプレイヤーによる殺人、プレイヤー・キルすら可能なポイントなのだから。
気配がしたような気のする陸側へ目を向けるが、とくになにもなかった。首をかしげた妖夢は、視線を湖のほうへ――
いた。桟橋の先っちょに。
間抜けだ、間抜けすぎた。
わずか一〇メートルと離れておらぬ間近に、ほかの人がいたのだ。いくら暗くて保護色みたいだったとはいえ、剣士としてうかつだった。どのような待ち伏せも奇襲も見破るのに、なんだろうこの敗北感は。感じたのはおそらくこの人の気配だろう。平和な雰囲気に感覚の遠近すらおかしくなっていると、ひとりで勝手に気落ちする妖夢であった。
その丸い人影は桟橋の先端で座り込み、じっと動かない。肩幅が広いので男のようだ。妖夢は立ち上がると、おそるおそるその男へ近寄った。
注目してキャラクター・カーソルを出現させると、色はグリーン。ほっと安心した。人間型モンスターではなく、イベントNPCでもない。ただの一般プレイヤーだ。もっとも妖夢はシステム上だけで説明された、ある色のカーソルキャラをまだ見たことがない。それはオレンジ色だ。システムが罪を犯したと判定されたプレイヤーは、そのカーソルがグリーンからオレンジ色に変わってしまう。噂では下層の一部で犯罪者プレイヤーが複数確認され、第一層にある監獄エリアも利用されはじめたというが、すくなくとも最前線でそういう物騒は聞かない。ディアベルや魔理沙のおかげで、攻略組は高いモラル水準を保ち続けている。マイナスがマイナスを呼ぶように、プラスはプラスを重ねるものだ。幻想郷の空気が、いい案配で攻略組を包んでいる。
「釣果はいかがですか?」
なんとなく男の背中へ話しかけてみた。その恰幅の良いプレイヤーは、鎧も着けず呑気に釣りをしていたのだ。竹製の釣竿がそよ風にうつらうつらと、まるで眠るかのように舟をこいでいる。
「いやあ、さすがに前線の湖は難易度が高いですね、お嬢さん」
返ってきた声は、想像以上に年嵩のものであった。
「釣りがご趣味なんですね」
「夜釣りが止まらなくて、恥ずかしながら徹夜になってしまいました。クリスマスと雪のせいでしょうかね。ろくに釣れておりませんが、もうじき釣り餌がすっからかんですよ。朝日まで持てばいいんですがねえ」
妖夢を見上げる顔は、シワを刻んだ初老の男。黒縁メガネの奥に愛嬌ある優しげな瞳が佇み、丸っこい目尻の皺も人の良さを印象づける。年齢は五〇歳台だろう。妖夢が見てきた中で、もっとも高年齢の人間プレイヤーだった。
「……おや、あなたはもしかして、みょんさんですね。顔に書いてあるから分かり易くていいですね」
「はい、みょんです」
思わず笑ってしまう妖夢である。左頬には『みょん』と黒マジック向こう傷。お務めをサボって秋葉原へ行った件で受けた罰だ。化粧でごまかすことも出来るが、トレードマークも同然なので、消すのもいまさら、結局そのまま。
「私はニシダといいます。見ての通り、あちこちの川や湖を巡っては、その日暮らしの釣り師をしております」
「ニシダさんは観光に来られたんですか? おひとりで圏外釣りは、いくら村が近くても危ないですよ」
「意外ですね。SAOの女神さまが、まだお知りでないとは――この層ですけど、モンスターが確認されていないんですよ。すくなくともこの湖と周辺に、モンスターは一匹もおりません。BGMがなによりの証拠です」
たしかに眠たくなるようなのんびり音楽だ。このようなBGMで敵に遭遇したことなど、妖夢は一度もなかった。アクティブMOBモンスターの潜む領域では、プレイヤーに注意を促し、戦意を高揚させる、勇ましい演奏が鳴り響くものだ。たまにまったくの無音で戦うこともあるが、それにふさわしい演出が行われた時である。もちろん集中や行動の妨げになるのであれば、個々人のレベルで背景音楽をオフにもできる。
妖夢はBGM機能をオフにしたことがほとんどない。それだけゲームとしてのソードアート・オンラインをちゃっかり楽しんでいるからだ。
そういえば幻想郷ではほとんどすべての人妖が、妖精から神族にいたるまでオリジナルのテーマ曲を持っている。外界から入ってきたものを変なふうに解釈してきた幻想郷では、いろんなおかしなものが流行しては消えていき、運が良ければ定着する。一五年ほど前に起きたのが個人テーマ曲ブームだ。幻想郷にはプリズムリバー三姉妹や九十九姉妹といったモノノケ奏者が一〇人ていど暮らしている。彼女たちには長年に渡って蓄積してきたストック曲が大量にあって、このときとばかりに発奮し、数百人いるほとんどの妖怪にテーマ曲があてがわれたものだ。妖夢にも『広有射怪鳥事』という、名前だけは純和風だが、内容はおそろしくハイテンポな曲があり、楽譜も貰って自室に保管してある。もちろん自分では演奏できない。最後に聞いたのはすでに三年近くは昔になろう。こういうことが好きな魔理沙はテーマ曲を五つも六つも抱え、宴会のつど三姉妹らに演奏させていた。ブーム当時の魔理沙はまだ人間だったので、おなじ人間の霊夢・咲夜・早苗たちも、テーマ曲をほぼ強制的に押しつけられた。そのうち霊夢はたしか三~四曲ほどはあっただろうか。歴代最強となる博麗の巫女だけあって、みんな積極的だった。ブーム終了後も慣習として残り、新参者はもれなく曲を頂戴する。
「うーん、手応えがありませんな」
竿をあげると、ニシダは残念そうに首を振った。釣り糸の先端には、さびしく垂れた針がふらふら揺れているのみ。
ついで彼は腰ポーチよりミミズみたいなものを取り出すと、器用に針へと絡ませた。この手の操作はメニューで一発なのだが、このように直で付けるのも可能だし、微調整が利く。服などを着るときも、メニューでリストより選択する手と、オブジェクト化したものを直接装備してしまう方法があるが、着たほうがアレンジしやすい。この餌を付ける手つきだけでも、ニシダが釣りへかける情熱とこだわりが伝わってくる。現実でも疑いようのない好き者だ。アルゴやディアベルのようなロールプレイではなく、リアルのニシダさんそのままなのだろう。
「今度こそ、お願いしますよ~~」
ニシダが大上段に構え、釣竿のキャスティングポーズを取る。やはりベテランらしく、じつに様になっていた。黄色いライトエフェクトが釣竿全体をまとい、聴き慣れたタメのサウンドがしだいに大きくなっていく。いくぶん時間をかけてその音が最大になった瞬間、プロのように鮮やかな手つきで前へと振った。釣竿用の上級ソードスキル、ロングキャストだ。むろん戦闘用ではなく、素人でも釣りを楽しめるよう設定されたものだ。もっとも期待通りに釣れるかどうかは、あくまでも目利きと腕にかかっている。
餌を付けた針はきれいな弧を描きながら鋭く飛んでいき、四〇メートルほど遠方の水面へと着水した。しかし勢いの割に波紋は小さく、水しぶきもほとんど立たなかった。浮きから釣竿の先まで伝う釣り糸も、美しい反りをなしている。
「およよっ!」
見事としか言いようのない投げ込みが少女の感嘆を誘った。剣の名手である妖夢は、ゆえに芸道の機微を知る。ただのシステムアシストでこうはならない。
「随所でブーストして緩急をコントロールしてますね」
ブーストの芸には、ときに遅延も含まれる。加速だけが正解ではない。
「お、分かりましたか。さすが第一人者は目が違いますな。水泡風土記の特集を参考に練習してるうちに、ある日できるようになりました。結果には影響しないのですが、やはり譲れないものもありましてね。私には三〇年越しの投げ方があるんですよ」
「私もソードスキルそのままでは使っていません。ゲームの仕様よりも優先すべき、流派の型というものがあります」
妖夢はたとえば、ソードスキルのタメをブーストによってほぼ最短へ縮めている。
『確実に当てられる状況でしか溜めてはならぬ』
それが敬愛する師、魂魄妖忌の教えであった。もっとも見て覚えろ、という主義であるので、当時の妖夢が気付くのに一〇年近くを要したのであったが。隙を最小限とするのは、並の妖怪に耐久力で劣る、半人半霊が到達した真理だ。例外はスペルカード弾幕であったが、あくまでもお遊びである。
「釣りと剣に、意外な共通点があるものですな」
ほがらかに笑うニシダ。彼のブーストは妖夢とは反対で、溜めを限界まで伸張している。極論すれば釣りとは、確率と運の勝負だ。祈りの念を、ソードスキルの溜めへ注入しているのだろう。そこまで来ると、なにかの道にすら通じる清々しいものがある。
浮きが沈んだ。ニシダはすかさず竿の戻しとあげを繰り返し、もれなく立派な魚を釣り上げた。赤紫に緑縦縞と色こそ変だが、四〇センチ近くはあるだろう。なかなかの大物だ。
「いやあ、釣れるときは釣れるものですな」
手首のスナップがキリトの剣に似ていると、妖夢は感じた。
釣りの名手を太公望と呼ぶが、妖夢にとってニシダはまさにその釣り仙人だ。幻想郷でニシダに並ぶ釣り師は一人としていないだろう。しょせん小世界である。
「もっと見て良いですか?」
「もちろん。大歓迎です」
それから妖夢は、日が昇る寸前まで太公望の釣りを見物した。
いろんな話をした。
リアルでのニシダは、SAO回線保守の責任者。開発側の人間だった。仕事の延長でログインしていたところを、デスゲームに巻き込まれてしまった。茅場の天才性をよく知っていたニシダは、この仮想世界からの解放をあきらめ、すっかり希望を失っていた。そんなとき、突如として救いの女神が登場した。緑色の服を着た女神は、仮の名を長野ちゃん。黒衣の少年を連れ、波濤のような勢いで世界を広げていく。ニシダが新しい層へいくと、そこにはいろんな川や湖が、そして釣竿があった。人生、捨てたもんじゃない。女神さまのおかげで、ニシダは新世界で生きていく活力と勇気を得られた。
なんども感謝され、銀髪の女神は恐縮しきりだった。こうも正面から全肯定され、かつ讃えられると、調子に乗りやすい妖夢といえども逆に困ってしまうのであった。
だから妖夢も自分の心境を、教えていい範囲でニシダに伝えた。剣を振るうのが楽しくてSAOにログインしたこと。敵があまりにも弱すぎて初日から無敵だったこと。剣の天才キリトとの出逢い。好きになって告白し、交際をはじめた。ボスを狩りまくっていた背後に、キス権をかけての競争があったこと。それは攻略組に入って以降も変わってない。彼氏の二倍も多くラストアタックを取っており、友人たちからよく色ボケと言われること。
「愛は強し、ですな」
ニシダの感想は単純にして明快だった。
* *
金色の陽光に彩られた遊歩道を、ひとりの少女が疾走する。銀髪をさらさらと棚引かせ、白い息も小気味よく弾ませて。
冥界を匂わせるほどの灰色へと没していた世界は、ようやく白銀へと移りゆき、ホワイトクリスマスの朝をおごそかに祝福している。
天気は快晴。良い攻略日和だ。死後の異界から一転、癒しの自然空間へようこそ。
妖夢の暮らす世界に似ているといえば、第一九層があった。層のテーマはよりによってサイコホラー。主街区ラーベルグはNPCが全員引き籠もるニート天下、ゴーストタウンも同然である。フィールドの多くに薄暗い霧が立ちこめ、昼間であっても夕刻と勘違いしそうな光量の少なさ。澱んだ空気が重苦しく、幽霊が苦手な妖夢をガクブルさせたものだ。幸いなことに雰囲気限定のホラーで、アンデッド系モンスターが登場するわけではなかった。おかげで妖夢は気を失うこともなく、無事に第一九層を戦い抜けたのである。
リアルの妖夢は半分生きて半分死んでる愉快な妖怪。つねに巨大な人魂を連れているというのに、オバケが嫌いである。もっとも人魂や霊であれば怖くない。かわいいものだし、普通に接することができる。怖いのはゾンビや怨霊のたぐいであり、RPGだとモンスターの定番だ。こういう連中が白玉楼へ迷い込んできたら、悲鳴をあげつついきなり大技で成仏させてしまうか、ご主人の西行寺幽々子さまに泣きついて祓って貰う。未熟もいいところであるが、楼観剣と白楼剣をまともに扱えるのは妖夢のみである。その霊剣で雨を斬り、空気をも斬れるようになった。天狗に匹敵する力を得たいま、妖夢の瞬間火力は最盛期の博麗霊夢に並んでおり、なお強くなる余地がある。魂魄流には固体・液体・気体・プラズマ――物質四態まるごと、時を斬ると比喩される最終奥義があるからだ。
もっともSAOの妖夢は妖力も霊力もなく、せいぜい人間離れしたアクロバット剣術で暴れ回るていどである。能力の九割は変わらず封印状態だ。それでもすこしずつではあるが、妖怪剣士としての力を回復してはいた。ほかのプレイヤーがフルダイブ環境下で初体験する高みというものを、妖夢はとうの昔、幼少時代に通過しており、レベルや熟練度によって増した強さを活かす術など心得たものだ。その成果はキリトへも反映されるので、二刀流コンビは常に最適化状態。したがって最強の名を欲しいままとしている。
最強であるがゆえ、妖夢は武器を持たぬまま圏外を走り回る。いざとなれば体術スキルがある。それで凌いでるうちにクイックチェンジ機能を使い、指定武器をさっとストレージより取り出せばいいのだ。単純に疾走スキルで全力逃走してもいい。ブースト技で爆走する妖夢に、追従できるモンスターはほとんどいない。プレイヤーですら、アルゴや忍者プレイヤーのような俊敏極振り型でないと困難だろう。
冥界より離れた良好な日差しを得て、第二二層が本来の景色を見せてくれる。景勝地のような自然の大地が広がっていて、観光地気分だ。静寂であるが、死の静けさではない。冬といえども生命に溢れた大自然。夏であれば命は躍動し、セミの大合唱が聞けることだろう。いかにニセモノであっても。
「……本当に、どこにもモンスターがいませんね」
走りながらつぶやく。
フロントランナーと呼ばれていた時期、妖夢とキリトはずっと走りながら移動していた。SAOのキャラクターには肉体疲労がないので、理由がなくとも走ることが多い。日が昇る前に歩いていたのは、文字通りの気分転換、ただの散歩であった。いまや攻略組プレイヤーはほぼ全員が走り回っている。
妖夢が確かめているのは、モンスターの有無だ。ニシダとの遣り取りで、BGMで判別できるとわかり、手当たり次第に走り回っている。攻略組の一員となって以来、妖夢の毎朝はこのような暇つぶしで始まる。ある日は単純なレベリング、ある日は単独クエストといったように。今日は先遣隊や探索隊の真似事だ。いや、真似というより再確認だろう。ニシダが知っていたように、すでに先遣隊がモンスター皆無の情報を、昨日の夕方のうちに報せている。それが第一層の巨大ギルドMTDに伝わり、速報を流した。ニシダ氏はそれを知って、ホームの第一層から夜釣りに来たのだ。妖夢がうっかり知らなかったのは、クリスマスパーティーを彼氏と楽しむことに熱中しすぎたからだ。そのあとも河城にとりの研究に付き合わされて、情報から遮断されていた。
蛇行しつつもニシダがいた湖の東岸を半周して、ついに迷宮区のすぐ近くまで来てしまった。この層の主街区と迷宮区は、最大の湖を挟んだ南北に位置しており、直線距離ではわずか三キロていどしか離れていない。こういう場合、いつもなら地形的な障害物がかなりの遠回りを要求するのだが、ごく普通の自然地形がずっと続き、湖を回り込むだけで近寄れた。
白亜の迷宮区タワーを見上げながら、妖夢は首を傾げる。
「……フィールドボスすらいないってことかしら?」
これでは、第二二層とは、ありふれた山中を円盤状に切り抜いてきた、箱庭ではないか。
しかもこの層は、外周を山に囲まれた盆地状の地形を成しており、植生も山地を真似て針葉樹中心だ。平地の半分は森林で緑豊か。土壌は力強くて保水力も高く、湖や池、湿地や川が点在している。豊富な水はそのまま飲んでOKなほど綺麗だが、水質は硬く透明度も高い。マップで確認した圏内表示はわずか四つ。主街区のコラルから考えて、いずれも集落ていどの規模しかないと見られる。NPCたちの総人口は一〇〇〇人といないだろう。あと雪も降る。これらの多くが、ある場所と共通していた。
「まるで幻想郷ね」
紫はきっと、風光明媚なこの層へギルドホームを構えるだろう。ほかの層はその地形や出現するモンスターどもが、どうしてもRPG的な要素を多分に想起させる。自分がゲームの世界にいるのだと、思い知らされる。無為自然を愛する妖怪たちにとって、なんの障害物もないこの第二二層は、好条件だ。
茅場晶彦はなにを意図してこのような憩いの層をデザインしたのだろうか。妖夢の素朴な疑問である。もっとも一〇〇層のすべてを茅場が作ったわけではない。個人には一〇年かけても不可能な、途方もない天文学的作業量だ。茅場はおおまかなコンセプトを指示し、あとはデザイナー集団が細部の仕事を分担していたはずだ。だから狂人の意志がどこに反映されているかなど、想像に任せるしかない。たとえば第三層でエルフNPCキズメルが語った、アインクラッドが浮遊城となった『大地切断』の話は、あきらかに茅場が直接手を入れたと伺える、数少ない例だ。
迷宮区を目指し、銀髪を揺らし、雪と針葉樹の遊歩道を駆けた。少女の吐く息が白く棚引き、背中へと抜けてゆく。ペースは快調だ。
だがまもなく麓につくという寸前で、想定外の違和感に気付いた。
「足跡?」
雪上にのこった、数パーティーの歩んだ痕跡。脇道からあらわれ、迷宮区直前で湖沿いの道へと合流してきた一行の、行く先は――
「まさか、抜け駆けした集団がいるというの?」
足跡の一群は、ある穴へと吸い込まれている。迷宮区の入口が不気味な音をたてつつ、我こそはと剣をかかげる挑戦者を待っていた。
いやな予感にかられた妖夢は、すぐさまメッセージを打つ。魔理沙・紫・文・にとり・輝夜・キリト・クライン・アスナ・ディアベル・エギル・リンド……思いつく限りの相手へ一斉に。すでに半分くらいは起床しているだろう。ヒースクリフとキバオウも意識的に含む。ここでうかつに除外すると面倒なことになる。ことは好き嫌いを超えていた。
『F隊のみょんです。重大な規則違反が発生したおそれがあります。事態は危急を要しますので、すぐディアベルとマリサを交えたトップ会議を。誰かが迷宮区へ先に入っています。雪に残された足跡から、規模は推定で四ないし五パーティー、二〇から二五人ほどの規模と見られます。出てきた様子はありません』
一分後にディアベルより指示が飛んだ。迷宮区の奥深くへ入った者をいまさら追っても仕方ない。せめて足跡のルートを、出所を可能なかぎり探ってくれと。
狩人プレイ用の追跡スキルというものがあるが、妖夢は持っていないし、相手が誰かあらかじめ知っていないとスキルが発動してくれない。だが今回は直接の足跡があるので、妖夢でも斥候役ができる。従来のゲームであれば雪面の足跡などすぐ消えてしまうのであるが、さすがSAOは一味違っている。
もっとも妖夢にとって、この逆探はあまり意味がないように思えた。どうせ出所は――コラルしかあり得ないのだから。
それに足跡はいずれも歩幅が広めで、走者のものだ。前線で走り回る人種といえば、みんなで走れば怖くないを実践している集団、攻略組と相場が決まっていた。だから妖夢は規則違反だと断定的に書いたのである。抜け駆けが部外者の仕業であるなら、そもそも文句を言う筋合いはない。
* *
事態は待ってくれなかった。
臨時任務を終えた妖夢がコラルへ戻ったとき、問題はすでに深刻化していた。ディアベルに向かうよう指示されていたのは、転移門広場。その門を示す石碑の上空二メートルほどに、新たな転移門へのアクティベートを知らせる文字が高らかに踊っている。
『Opening Iscariot to traffic !』
イスカリオット、またはイスカリオテだろうか。妖夢が見たことのない主街区の名を示していた。
それが意味することはひとつ。
抜け駆けは当事者たちにとって最高の、された側にとって最悪となる戦果をあげた。
第二二層のフロアボスが倒された!
辺りは静かなもので、攻略組の大半というよりほぼ全員がとっくに第二三層へ移動したようである。攻略組でない観光客なども、上層へ大挙して押し寄せているところだろう。
コラルの転移門広場――というより低い柵で囲われた野原には、キリトとリズベット、シリカの三人が固まって待っていた。ほかに因幡てゐと古明地さとりが、すこし離れたところで暇そうにあっちむいてホイを繰り返している。キリトたちとちがい、妖夢へとくに注意は向けない。多少の騒乱など、幻想郷の妖怪には日常だ。
「おかえり。追跡スキルもなしで探偵の真似事なんて、大変だっただろう」
「おかえりなさい、みょん」
「あの……おはようございます」
キリトはとくに動じた様子もなくいつも通りのマイペース、リズベットは恐々とし、シリカはただ不安に震えている。シリカの頭上でピナが啼いた。
それぞれの表情から、上でなにが起きてるのか妖夢はなんとなく予想できた。
「おはようキリト、リズベット、シリカちゃん」
妖夢は挨拶もそぞろに、転移門から第二三層へあがろうとしたが、その腕をキリトが掴む。
「ディアベルからの指示だ。F隊と若い女子は、別命あるまでコラルで待機」
「どうしてよ。教えて」
キリトは妖夢の前で指を一本立てた。
「ひとつ。俺たちが正義感にかられて激高したら、誰も強すぎるF隊を止められない」
もう一本追加。
「ふたつ。シリカたちへ見せるには、きつい事件が起きている」
さらに一本おまけ。
「みっつ。万が一のため、この四人の護衛役が必要だ」
どうやら妖夢の手に余ると判断されたらしい。たしかに感情的なうえ、短気で怒りっぽい。相手の出方次第では、なにをするか分からない少女だ。キリトはむしろ妖夢の抑え役としてここにいる。
「……抜け駆けまでしてこの層のボスを勝手に倒したのは、誰なんですか」
ルールのなかったフロントランナー以前とは違う。自由だった妖夢とキリトは気ままに攻略し放題だったが、組織に所属するようになって以降は大人しくなり、決められた範囲でしか動いていない。いまの攻略組はルールとマナーでしっかり固められている。
「聞いた瞬間、ヨウムが飛び出しそうだってディアベルが心配してた。それに落ち着いて話がしたい。だから、まず移動しよう。いきなりクラインに叩き起こされて目まぐるしかったものだから、まだ朝飯を食ってないんだよ。腹減った」
妖夢はメニューを呼び出して時計を確認してみた。すでに朝の八時近かった。
そのとき、お腹がいいタイミングでぐ~~って鳴った。人が少なくて静かだったこともあり、その場にいた全員に聞かれた。てゐとさとりも手を止めて、妖夢を面白そうに見ている。
あまりの鳴りっぷりにキリトが目を丸くし、つぎの瞬間には大声で笑っていた。
「さすがヨウム。今日も間抜けが堂に入ってるな」
「さ、行こう行こう。アスナがOKで私はダメだなんて、やけ食いしたい気分だわ」
すかさず入ったリズベットの自虐は妖夢へのフォローっぽかったが、あまり救われた気分にはならない。
「みょ~~ん!」
毎度の口癖が、転移門広場にこだまする。
――ケチがついたので、妖夢は昨晩とはちがう食堂を選んだ。
いくら村の規模しかないといっても、仮にも主街区である。一度に何百人が来ても対応できるよう、コラルには宿屋だけで一二軒もあるのだ。むろん食事処はもっと多い。
メインディッシュは、妖夢が持ち込んだお魚だった。川魚のくせに深海魚を思わせるどぎつい赤紫色で、なぜか海棲回遊魚のようなごつい胸びれを持っている。名称はランドロックド・アンバージャック。このゲーム世界限定の幻想種だ。料理したのはNPCの調理人である。岩塩をまぶして引き締めたものを焼き、レモン汁で味を整えた、単純な田舎料理だ。切り分けるようなこともせず、豪快な丸焼きに仕上げた。それが三尾三皿。
それぞれの皿を妖夢とキリト、リズベットとシリカ、てゐとさとりで仲良く食す。
「なんだこの魚。SAOでこれまで食べた中で、一番イケるぞ」
「グルメよ! これぞグルメよ!」
「……大きいですねえ。私に食べきれるでしょうか」
キリトたちには好評だった。C級食材とはいえ、調理方法との相性が良かったようだ。
「なかなかイケるわね」
「おいしい……」
てゐとさとりもご満悦のようだ。そのてゐがウサ耳をぴんと立てて、妖夢に聞いてくる。
「ねえみょん。この魚、どこで調達してきたんだい?」
「ニシダさんっていう、釣り名人に戴いたんです。熟練度はすでに完全習得間近だとか。釣りスキル限定でブーストを使えるほどの達人でしたよ」
完全習得とは、熟練度がマックスの一〇〇〇に達することで、コンプリートとも言う。余暇系のスキルは上昇速度がものすごく早い。具体的には釣りスキルなら一〇日ほどで六〇〇はいける。輝夜やアスナの料理スキルもすでに四〇〇をすぎた。完全習得が近づくほどに、どの系統のスキルも成長へ急ブレーキがかかる。
キリトが両手で釣りの真似をした。食事中に、はしたない。
「そりゃ見てみたかった。趣味スキルでセミコンプにブーストとは勿体ないな。ブーストが使える剣士はひとりでも多く前線に欲しいのに」
妖夢にはニシダが武器を手にする姿が想像できない。のんびりと釣りをしてるほうが似合っている。ブーストができるようになったのも、好きが高じた結果だ。剣を握ったところで、おなじように上手くいくとは限らなかった。モチベーションというものがある。
「人には向き不向きがあるんですよ。攻略組にもサポート専門でがんばってるスタッフが何人もいるじゃないですか」
「感謝しなさいよねキリト。私のおかげであんたの装備はいつもピッカピカなんだから」
「へいへい。お世話になってるリズには頭があがりませんよ。でもちょっと高くないか?」
リズベットは鍛冶系スキルを育て、純粋な生産職になっていた。攻略組にはほかにもメンテナンス要員が一〇人ほどおり、戦士職との兼業も混じっている。
「最近買った砥石がいいもので、値が張ったのよ。でもキリトなら、食事でも奢ってくれたら半額にしてあげるわよ」
サポートスタッフのサービスは基本有償であった。ギルドの枠を超えて活動するにはこれが一番効率がよい。
「……ちょっと待て、ヨウムが怖い顔してるから」
半開きのジト目でほくそ笑むリズベット。
「あれれ~~、変なふうに勘違いしたのかなー? エロキリト」
「エロキリトってなんだよ。ヨウム、リズになんとか言ってくれよ」
「私はキリトが多少エッチでも別にいいですよ。だってファースト・キス以来、なにもしてくれないもの。紳士すぎてつまんない」
「……おい、ヨウム!」
黙って食っていたさとりが、眠そうな声でぼそっと一言。
「色ボケみょん」
てゐも両腕を組んで、キリトになぜか流し目を向けた。
「誰も本気じゃないから、もっと落ち着きなよ。若いから仕方ないけど、まだまだ甲斐性が足りないねえ、少年」
「ウサミミ、前から思ってたけど、あんた本当に小学生か?」
キリトをネタに女子たちの適当な会話がつづく。参加しないはシリカのみ。
「もぐもぐ……おいしいです」
ちまちま魚を食べているシリカの仕事は、メッセンジャー。お遣い役だ。古明地さとりと組んで、おもに最前線と第一層との連絡係をしている。ピナというわかりやすいマスコットがいるので、彼女らはどこでもほぼフリーパスだ。
半時ほどかけて遅めの朝食をじっくり採った六人は、食事中、おもに釣り師のニシダ氏をネタとして会話を楽しんだ。妖夢もキリトも、あえて抜け駆け事件の話題を避けている。
だがそれも一段落したとなれば、解禁であろう。
NPCウェイターが食器を片付けたのを合図に、妖夢は改めて真面目そうな顔をみせた。
「ねえキリト。第二三層で、なにが起きてるの?」
「俺がディアベルとウィッチから聞いた話だが――抜け駆けしたのは先遣隊だ」
妖夢は大きなため息をついた。予想していた通りだからだ。
「犯人はやはり身内でしたか。追跡した足跡は、湖の西岸を廻って、途中で消えてました。このことから分かるのは、抜け駆け一行が雪の降ってる最中に出発した、というていどです」
「もっとも、俺たち攻略組じゃないと、こんな大それたことは、ましてやボス撃破なんて不可能だけどな」
攻略組の人員編成は以下の通りだ。
まずは攻略本隊。ひたすらボス攻略にあけくれる集団で、およそ七〇人前後になる。攻略組の主戦力だ。
つづけて先遣隊。主任務は本隊の露払い役で、迷宮区までのマッピングなどを担当し、ときにはフィールドボスを平らげる。三〇人ほど。
三番目に探索隊。フロア中をくまなく巡りクエストを消化しまくる。もしフロアボス戦との連動クエストを見つけたら、即座に本隊へ報せる。およそ一八〇人。
あとは二〇人ほどがサポートギルドに属し、さまざまな支援活動を行っている。
本隊・先遣隊・探索隊は固定化も強制もしておらず、入れ替わりは激しい。みんなそのときどきの気分でいろんな役割を演じたがる。魔理沙と紫がロールプレイの枠組みを明確に区分けすることで、余計な派閥争いや利害対立を――できるかぎり抑えようという――
仕組み……の、はずだった。
事はすでに起きてしまった。もはや過去形で語るしかないのは、妖夢にとって無念であった。
キリトの分析がつづいている。
「攻略組が効率よく前線の一次リソースを吸い尽くすものだから、レベルと装備を維持して前線で戦うには、攻略組へ所属するしかなくなったんだよ。たとえどれほど気に入らなくてもね」
「魔理沙は……魔理沙と紫は、わざと人の選択肢を奪ったわけじゃないですよ」
妖夢の反射的な発言はつぶやきにも似て、まるで自己弁護のようである。
「ああ、分かるさ。ディアベルとウィッチは、一日でも早く第一〇〇層を踏破するために、攻略組を作ったんだ」
キリトにとって、攻略組の指導者はあくまでもディアベルと魔理沙である。ほとんどのプレイヤーには、裏で君臨する八雲紫は見えていない。
いつも半分笑ったような表情で人と接する因幡てゐが、めずらしく真面目な顔でキリトに話しかけた。
「今回の件は、いつか起きるべくして起きた事件、というわけなんだね」
「ソロ中心で利己的に動いていた俺がそうだったから、迷宮区に突っ込んだ先遣隊の気持ちもたぶん分かる。ネットゲーマーにはいろんな考えを持つやつもいるよな。一刻も早く大活躍したい。ボスを倒して英雄になりたい。だけど彼らには、絶望的に足りないものがあった――」
キリトが五人を見回した。少女たちは気付いている。いまの攻略組で課せられている、唯一の『制限』に。
なかなか誰も答えようとしなかったので、古明地さとりが代表して、簡単な三文字を発声する。
「レベル……」
「そう、攻略本隊のレベル制限だ。この壁は悲劇的な戦死者を出さないために必要なものだと俺も信じている。実際、ディアベルの直接指揮した戦いでは、まだひとりの死者も出ていないだろ。あの男は第一層ボス攻略戦からすでに、レベル八の制限を主張していたからな。見上げた指揮官だと思う」
「ふふんっ」
てゐがない胸を張ったが、その真意に気付いてるのは幸せ兎の正体を知る少女四人である。
キリトはてゐの奇行に一瞬だけ首をかしげたが、すぐ関心を失ってまた自分の話に戻った。
「ここから先は、シリカやハッピーラビット、サトリには聞くに堪えない内容になると思う。気分が悪くなるかもしれない。構わないなら席を外してもらいたいが、どうだろうか」
だけどシリカは目をつむって、首を横に数回振った。ピナも真似してふるふるる。
「私はみなさんとピナに守られているおかげで、こうして今日まで無事に生きてこられました。そのみんなが事件と向き合っているのに、私だけが目と耳を塞いでいるなんて、いやです。たとえ泣いちゃうことになっても、ご一緒させてください」
てゐとさとりはジェスチャーだけで構わないと意志を示した。妖怪なので、見た目と違って荒事には慣れっこだ。たとえアバター自体は非力でも、肝の据わり方は幻想郷にいるときと変わらない。シリカが攻略組の庇護下にあるのと違い、進んで最前線にいるお子様であった。
「わかった。ディアベルから注意は受けていたけど、シリカたちがいいなら、話すよ――先遣隊は辿り着いた。たしかにボスも倒れた。でも代償も大きかった」
キリトの言い方は簡潔であるが、短い中に穏やかでないものを含んでいた。食堂に沈黙のとばりが落ちる。
今度の空白はこれまでと比べ、一段と重苦しいものである。
「……何人、生き残ったんですか?」
無音を破ったのは妖夢である。修羅の道をくぐり抜けてきた彼女はショックを感じない。弱者が強者に挑めば、敗者の席に列するのはごく当然のことだからだ。しかもSAOでの敗北とは、高確率で死を意味している。
「よりによって、そちらの数字を聞くのかよ」
キリトはどう答えたものか迷っていたが、そのとき鋭い靴音が食堂へ飛び込んできた。
「生存四、死亡一二よ。まさに壊滅ね」
アスナだった。かなり厳しい表情を貼り付けている。
一二人死亡という重みに、シリカの上半身がぴくりと跳ね、反射的に口元へ手を当てていた。目尻には涙が浮き上がっている。リズベットも辛そうな表情だ。幻想郷サイドの三人は眉をひそめたくらいで、とくに動じてはいない。長く生きていれば、一〇人単位で死亡する悲劇など、おのれが目撃者となることすら珍しくない。とくに因幡てゐは何千何万という死を看取ってきた。
アスナは閃光の名にふさわしい歩みでテーブルに近寄ると、シリカとてゐの間に残っていた席へ腰掛けた。シリカの背中を撫でながら、話をつづける。
「抜け駆けはいずれもギルド単位だったわ。ラフィン・コフィン四人、タイタンズハンド六人、さらにシルバーフラグス六人の、合計一六人。今回編成されていた先遣隊のざっと半数ね。ヨウムちゃんとキリトくんの個人的な知り合いだったコペルくんが亡くなってるわよ」
キリトが「うっ」と苦しそうな声をあげた。知らされていなかったようだ。妖夢は目をつむって数秒黙祷したのみである。会うつどコペルが見せた間抜けぶりに、いつか死への落とし穴に引っかかるのではと、第一〇層の時点で危惧していた。おなじ間抜けでも妖夢には力があり、隣にキリトもいる。だがコペルは普通だ。
「主犯はラフィン・コフィンのリーダーよ。おなじく先遣隊だったギルド黄金林檎から、いまごろになって報告があがったわ。黒ポンチョが誘ってきたけど断ったって。ほかにレジェンド・ブレイブスが、事件を知ってから真っ青になって申告してきたわ。遅いっつーの」
難を逃れた黄金林檎とレジェンド・ブレイブスは、ふたつとも攻略本隊を目指しているギルドだ。
妖夢はあれっと思った。
「一六とは、数字がすこし合いませんね。私が見た足跡は、少なくとも二〇人ぶんはありましたよ」
我ながら冷静な声質であると、妖夢は内心で自嘲した。キリトはもちろん、シリカとリズベットも、落ち着き払っている妖夢へ違和感を覚えたようだ。知り合いまで亡くなってるのに、少女の身で動揺していないのはおかしなことだ。まるで歴戦の軍人ではないか。でもその通りなのだ。
年相応に心の動乱を抑えようと必死なアスナが、妖夢の疑問へ答えた。
「……それは無謀な挑戦を止めさせようと、あとを追った助っ人のぶんね――血盟騎士団六人。これで合計二二人よ」
おっさん騎士団が? 妖夢たちの顔に、疑問符が点灯した。いかにヒースクリフ団長といえども、まずディアベルらに連絡を取ってしかるべきではないのか? 不測の事態にはみんなでもって問題にあたるべきだ。妖夢は異変に気付いた段階ですぐメッセージを打ったのに。
そこでアスナは深呼吸をはじめた。人間らしいなと、妖夢はおかしな感想を持った。妖怪たちがいまのアスナのように心を揺り動かされることがあるとすれば、それは自分自身へ直接関係する事柄にほぼ限られる。人間にもその傾向はあるが、妖怪はとくに強い。攻略組がリソース超独占集団になってしまったゆえんである。茅場対策会議と称した女子会もいつもヒートアップする。
アスナの口が開いた。
「血盟騎士団は全員が無事に生還したわ……団長が謎のチート級スキルを引っ提げたうえ、フロアボスをおっさん騎士団だけで撃破するという、凄絶な余録まで付けてね!」
アスナの顔に、シワすら寄っている。渋面というやつだ。せっかくの美人が台無しであるが、それだけのことをヒースクリフはやってのけやがったのだ。
――なるほどと、妖夢は思った。
ヒースクリフはラフィン・コフィンの面従腹背を利用して、前線で強力な地位を獲得するための勝負へと打って出てきたのだろう。
人の命を踏み台に!
妖夢は自分の中で、茅場晶彦に対する評価が音を立てて崩れていくのを感じた。
同時にどす黒い感情が芽生えてくる。そよ風が吹いていた精神の野原に、瞬時にして義憤の暴風雨が発生した。
茅場がいくら大悪党であろうとも、ことゲーム中ではフェアネスに徹するだろう。霧雨魔理沙と河城にとりはそう予言した。すくなくとも妖夢たちの二刀流が制限されなかったり、にとりのキャンセル体系が修正されぬことからも、公平の名に値する出来たゲームマスターだと思っていた。
思っていたのに!
妖夢を第二三層へ行かせなかったのは、ディアベルの意志ではない。まちがいなく紫と魔理沙だ。わざわざ因幡てゐと古明地さとりを残して「らしさ」を補強し、ディアベルが考えたと妖夢に思い込ませることで、内省をうながし、自重の可能性を高めたのだろう。さすがは幻想郷の賢者にウィッチ・マリサだと、悔しくも感心するしかない妖夢である。まんまと策にかかり、のんびり長い朝食をすごしてしまった。おかげでこうして、事実を知っても爆発せずに済んでいる。むしろ信用されておらぬ現実を突き付けられ、自分に嫌気がする妖夢だった。反省することばかりである。
短気を起こした妖夢が一度でも暴走すれば、魔理沙と紫の仕掛けてる作戦はすべてご破算になってしまうのである。このていどの屈辱、甘んじるべきだと、妖夢は自分を律した。
アスナが絞り出すような口調で、いよいよ本題を伝えてきた。
「マリサとディアベルさんが呼んでるわ。ヨウムちゃん、キリトくん。はじまりの街、黒鉄宮へ行くわよ」
* *
第一層、黒鉄宮。
その名の通り、黒鉄色の質実剛健な宮殿である。転移門広場のすぐ北にそびえる中世欧州風の城で、複数の聖堂型ドームといくつかの塔で構成されている。妖夢はこの建物に入ったことがなかった。利用したのは、はじまりの夜にクラインと待ち合わせたときだけで、それも目印としてである。
キリトが感想をもらす。
「……初日以来だな」
「私も」
「さ、こちらよ」
アスナがふたりを引き連れて、黒鉄宮の正門をくぐる。観光でもするかのように、ゆっくりと歩きながら。
最前線だと走り回ることの多い攻略組も、さすがにその特殊な習慣を第一層へは持ち込まない。何事かとみなを驚かせ、無駄な警戒を広げるだけだ。
黒鉄宮の内装はゴシック様式に近かった。外見とおなじく男性的で過度には飾られておらず、しかしなかなかに壮麗ではある。
最初の大広間には、この世界の本質を象徴している黒色の碑が鎮座していた。横幅十数メートル、高さおよそ二メートル。合金製であるが、表面には大理石のような加工がされている。そこにアルファベットの浮かし彫りが何列も整然と並んで、白色に淡く光っている。
デスゲームに強制参加させられた、プレイヤー全員の名簿で、『生命の碑』と呼ばれている。
この名簿にはひとつの機能がある。リタイアしたプレイヤーには打ち消し線が入り、文字も輝きを失うのだ。すなわち、生者と死者との区別。現在の死者数はおよそ七〇〇名強。
碑前にいくつか献花がなされ、いまも男がふたり黙祷を捧げている――妖夢は彼らを見たことがあった。片方はたしか、シルバーフラグスのリーダーである。今回の事件で八名中六人が死亡したシルバーフラグスは、ギルドとして事実上消滅した。レベルの高いリーダーは攻略本隊におり、難を免れていた。
墓参りの一幕であった。
SAOでは墓碑の確保が難しい。設置しても数時間で消滅するからだ。放置アイテムを維持するには、借りた部屋や買った家が必要である。どこでもシステム保護を受けられる特殊オブジェクトもあるのだが、生産できるのはマスタークラスの細工師のみ。ゲーム開始よりまだ一ヶ月半、誰も到達していない。
結果として、現状では生命の碑へ祈るのが一般的だ。
あの献花の群れには、コペルに対するものも含まれているだろう。第一層でオークションハウスを営むタイタンズハンドは、コペルをリーダーとする六人パーティーを攻略組に派遣していた。目的は宣伝と仕入れ、攻略行為による利益還元である。コペルたちの活躍は、ささやかなりにも解放の日を近づけるはずだった。その向上心にコペルは掬われた。ロザリア姐さんのことであるから、碑の前で大泣きしたに違いない。
広場を横断する間、キリトは生命の碑へ幾度か黙祷した。その理由を妖夢は察することができた。コペルのこともあるだろうが、本来ソロ指向の強いキリトである。献花を目撃して、ソロたちの運命に思いをはせたことだろう。情報屋アルゴの分析によれば、SAOでソロプレイへと挑戦したプレイヤーは、元ベータテスターを中心に五〇〇から六〇〇人ほどいた。しかしその半数がわずか二週間ほどで死んでしまったらしい。悲劇的な死亡率だ。妖夢は歩きながら、キリトに倣ってソロたちへ黙祷した。
SAO事件の犠牲者は、その何割かがすでに冥界の住人となっている。閻魔さまの判定は白黒、天国か地獄かの判決しか出さないが、じつは天国とは、天界と冥界を合わせてる。極楽浄土ともあらわすように、役割を分担しているのであった。善行と功徳を積んだ者は飽きるまで極楽に暮らせ、ただの良い人は冥界へゆき、魂の浄化を受けて輪廻転生に還る。よって冥界の別命は浄土。
冥界は死者の終点駅だ。天界で在りつづけるのに飽きた者、地獄の刑期を終えた者は、いずれみんな浄土につどう。
善人でも悪人でもなかったコペルは、まっすぐ浄土に向かったことだろう。いまごろはどこかの町で、呆然としているかも知れなかった。霊体は最初のうちは人型を保っているが、浄化されるにしたがって輪郭を失い、最後は人魂となる。それには数年を要するので、妖夢がSAOをクリアして目覚めても、コペルはまだ生前の姿を残している。だが妖夢とコペルとが顔を合わせることは、おそらくない。
白玉楼はそこにあるだけで、冥界の大半を調律してしまう。幽々子はただ暮らすだけであり、妖夢はただ守るだけである。人界とはまったく異なる摂理によって、あの世は支えられている。
――生命の碑を抜けて奥の廊下に入ると、いきなり人が増えた。
黒鉄宮は超巨大ギルドMTDの本部である。生命の碑より奥の区画をまるごと利用し、はじまりの街で余剰アイテムや食料、各種情報を共有していく、生活協同組合のような活動をしている。アインクラッドにはすでに社会と日常が出来上がっており、攻略組が上から降らせる新聞や雑誌だけでは足りない。
さまざまな仕事があるようで、ひっきりなしに誰かとすれ違う。妖夢たちを見ても、サインをねだるようなことはしない。すれちがいざま「生みょんを見たぞ!」とか「閃光のアスナじゃん……うわ可愛い」と聞こえてくる。おそらく今日、彼らの自慢話となるだろう。
みんな自分の任務へそれなりに集中しており、モラルは攻略組の『良心的なメンバー』並には高かった。妖夢たちがこれから会うのは、残念ながら『良心的でなかったメンバー』だ。
数千人が参加するMTDには、その巨大組織力を利用したもうひとつの仕事がある。
犯罪者プレイヤーの取り締まりと収監、および管理。
黒鉄宮はSAOでも特殊な施設である。生命の碑がある空間は、元々は死んだプレイヤーが復活する蘇生の間だった。デスゲームがはじまって蘇生機能はオミットされてしまったが、黒鉄宮に与えられたもうひとつの機能は、茅場言うところの『正式サービス』でもきちんと働いていた。
NPCガーディアンが捕まえた犯罪者プレイヤーを自動転移してくる、監獄エリアである。
監獄エリアの門は巨大な鉄格子だった。おおきく開かれた門の両脇を、フルプレートアーマーの男が守っている。ふたりとも身長は一九〇センチ近くあり、門番として申し分ない。長さ二メートル前後のポールアックスを握っている。第一五層の准レア物だから、すくなくともレベル一五には達しているだろう。目安は階層とレベルだ。筋力値を平均的に育てていれば、入手層と装備適性はうまく平行する。レベル一五ともなれば、第一層では絶対無敵も同然だ。たとえ圏内であろうとも、レベルの差は着実に生じる。この門番たちを実力行使でどかすには、レベル二〇以上の男が四人は必要だ。監獄エリアの守りを強行突破できるのは、最前線プレイヤーのみであろう。
右側の門番が形式的に挨拶する。
「アスナさんですね。シンカーさんより話は聞いております。どうぞお入りください」
声からしてまだ未成年だ。長身の男は物欲しげに妖夢を見下ろしていたが、すぐに視線を正面に向け、ゲートキーパーの仕事へ戻った。
門を通過すると、ひたすら薄暗い、地下への階段だった。こつこつと足音が反響する。
キリトが一瞬だけ振り返ってから言った。
「もしかしてヨウムのサインでも欲しかったんじゃないかな」
「いちいちサービスしてたら、いくら時間があっても足りませんよ」
「それもそうだな。ほかの連中もねだらなかったし」
地階に降りると廊下がすぐ曲がっていた。そこを折れると、格子で仕切られた部屋がずらりと並んでいた。牢獄エリアである。昔の欧州を再現するというコンセプトの影響で、どこまでも暗くかつ汚らしく、湿度も高くてジメジメしており、妖夢の不快指数が跳ね上がった。犯罪者プレイヤーへ精神的リンチを加えるための空間だと、すぐに理解できた。これがデスゲームでなければ、犯罪者プレイヤーは自分のアバターを解除し、さっさと新しいキャラクターで出直すだけだろう。だがいまのSAOはやり直しを許さない。犯罪者は危険がないと判断されるまで、延々と狭くぬめっとした小世界に耐えつづけるしかないのだ。光源は等間隔のかがり火しかなく、BGMも設定されていない。時間の感覚を失うような檻の中で、無音が精神力を削っていく。
一番手前にある最初の牢屋には、一〇人ほどの男性プレイヤーが押し込められていて、妖夢たちと目が合うや、じろじろと睨み付けてきた。眼光はすでに弱く、虚勢であると妖夢でなくとも見抜けられる。それだけのものをこの地下牢獄エリアは持っている。現代日本の刑務所に放り込まれるより、何倍もの速度で反抗心や攻撃性を奪い去っていくだろう。
彼らのキャラクター・カーソルは、全員オレンジ色だった。妖夢がはじめて見る犯罪者プレイヤーである。すでに俗称も出来ていて、単純にオレンジプレイヤーと呼ばれている。略称はオレンジだ。
「どうしてオレンジは犯罪なんかしたんでしょうね。プレイヤーの足を引っ張るなんて、解放の日を遅らせるだけなのに」
たとえ中下層で働かれた犯罪であろうとも、風が吹く日は桶屋が儲かる式に、いずれは前線へも悪影響を与えるはずである。常に未知の危険へ挑みつづける攻略組は、戦死によって数を減らすため、新規の補充を必要とするからだ。因幡てゐの加護は攻略本隊限定である。てゐの参加しない先遣隊と探索隊は死者を出している。失われた戦力の供給源は、ボリュームゾーンより上で戦う高層プレイヤーしかいない。高層プレイヤーが攻略組に入れば、あらたなプレイヤーが中層から高層へ入る。中層へは下層より入る。下層はさらにはじまりの街までつづく。すべては連なっているのだ。
「SAOがほかのゲームとはわけが違うってことを、奴らはいまいち実感できていないのかもな。攻略済みで情報に溢れた中層以下は、前線と比べたら何倍も安全な空間だ。前線ほどの緊張感は持っていないと思う。遊びすぎて食い詰めたら、かつてプレイしたMMOとおなじ感覚で、人から気楽に奪おうとする考えなしも出るだろう」
ベータ時代ほとんどいなかった犯罪者プレイヤー。それがベータ期間よりも短い一ヶ月半あまりで、すでにこの有様だ。かつて妖夢はキリトに、犯罪者は簡単には出ないだろうと言った。しかしその認識は甘く、現実は理想をへそで笑っている。
妖夢とキリトの遣り取りは、しっかりオレンジたちの耳へ届いていたが、はっきり言ってわざと聞かせたのであった。犯罪者たちからは反論はおろか、負け惜しみの声すらでてこない。最強戦士にダメ出しされて、心が折れたようである。妖夢はキリトがここまで堂々と言い切ったことにすこし驚いていた。彼の性格を考えればもうすこし自重するのではと思ったが、明確な犯罪行為に対して、キリトなりの考えがあるようだ。
アスナがなにかぴんと来たようである。
「もしかしてキリトくんって、狩られやすい人だったとか?」
「……ソロばっかしてたから、狙われても仕方ないだろ」
「キリトがとことん強さにこだわるようになった起源が、いま分かりました。意外と普通でしたね」
「じゃあヨウムはどうなんだよ。俺のいまの強さはきみの劣化コピーでしかない。オリジナルであるヨウムこそ異常だぞ。ステータスが足りなくて未再現の必殺技が、まだ七〇は残ってる」
彼氏がたまに見せる、軽い嫉妬の発露であった。朝食で遊んだ反撃もあるだろう。いまキリトが「かりそめの最強」でいられるのは、敵が「弱すぎる」からだ。それをキリトは自覚している。
キリトの必殺技七〇という発言に、オレンジどもがびくびくんと反応していた。強さへの憧憬と欲求は、ゲーマーにとって本能のようなものだ。
「およ? んー、オレンジには聞かせたくないので、ここではパス」
そのまま先への歩みを再開した妖夢であるが、キリトが反射的に投げかけた問いへは、簡単には答えられないだろうなと感じた。なぜそこまで強くなれたのか? 物心ついたときはすでに修行をしていた。しかも義務であった。そのうち正義の味方を気取るようになり――実際のところ妖夢の仕事は、世界秩序を守りつづける正義への奉仕である。SAOにログインしても妖夢の行動方針は変わらない。
独房、数人部屋、会議室ほど広いもの。さまざまな仕様があったが、最初の犯罪者がたむろしていた牢屋を除けば、あとは誰も入ってない空っぽの部屋が多かった。いても一人か二人ずつで、広めの空間をぜいたくに独占している。どうやら最初の牢屋は、NPCガーディアンによって転送された犯罪者が、自動的に放り込まれる場所であるらしかった。
牢獄エリアはかなり広く、道が何本も分かれていた。アスナの解説だと、総延長は二キロ。面積はコラルの村より広いらしい。一〇万人以上が遊ぶ予定だったタイトルである。犯罪者プレイヤーを収監するスペースは、余裕で一〇〇〇人ぶんは用意されていそうだ。そもそもはじまりの街からして、居住可能な人口は二万とも三万ともいわれる。
先導するアスナが、まっすぐ目的地を目指す。
その途中、ひとつの牢屋に、まとまって入っていた五人。妖夢とキリトは唖然とした。
「オルランドさん? ……え、なんでブレイブスがいるの」
レジェンド・ブレイブス。
先遣隊にいて、難を逃れた攻略ギルドのひとつ。平均レベルは二三から二四といったところだろう。一週間ほど前に攻略組へ入ったばかりの新参で、前線での余裕――安全マージンはほとんどなく、フルメンバー以下の小単位行動をディアベルより禁止されている。その構成員六人のうち五人が、ひとつの牢屋に大人しく収まっていた。誰が欠けているかなど、妖夢には分からない。挨拶に来たリーダーのオルランドだけ覚えていたから、ブレイブスだと分かったのだ。それに記憶はすでに薄れかけていて、これがもう一週間後であれば、もはや誰か分からなかっただろう。
キリトが五人をじっと見ている。
「カーソルはグリーン……自首か?」
リーダーのオルランドが立ち上がって、妖夢たちへ済まなそうに頭をさげた。
「今回の件は、心から反省している。だからこの罰は当然のことだ。俺たちがさっさとあいつを告発していたら、一二人は死なずに済んだ」
妖夢には話が見えない。
「ねえアスナ。なにがあったの?」
これ以上オルランドへ聞くのは酷だろう。どうせすでにディアベルらへ幾度か話していることだ。グリーンカーソルであるからには、傷をえぐるようなことは不要だ。
「先に行きながら話すわ」
オルランドたちの部屋をやりすごして、アスナは事情を教えてくれた。
「今回の件は、その起点を第一一層まで遡るわ……起きたのは、強化詐欺よ」
強化詐欺。
装備アイテムの強化に失敗したと見せかけて、装備品をネコババする行為だ。
SAOの武器や防具には、その性能を向上させる強化機能が実装されている。強化を行えるのは鍛冶屋だ。
レジェンド・ブレイブスがしでかしたのは、武器による強化詐欺だった。
強化には試行回数の限度があり、ついでに強化は確率と運の勝負でもある。もちろんすべての試行に成功することもあれば、反対に失敗しまくることもある。失敗した際はついでに強化一回ぶんのプラス効果まで失われる。その結果、おなじ装備でありながら、価値に大きな差がついてくる。なにしろ運勝負であるから、幸運な個体ほど付加価値が上乗せされる。ここに強化詐欺の苗床があった。
やりかたは単純だ。武器を落としたとき即座に予備武器へと切り替える、クイックチェンジという機能を使う。これは武器スキルを鍛えればすぐ取得できる。そのコマンドウィンドウを鍛冶用ツールの影に隠しておいて、強化演出で眩しい輝きが発している最中にすり替えるのだ。もちろん同種の武器に限る。
レジェンド・ブレイブス所属のプレイヤー鍛冶師が狙ったのは、あるていど成功を重ね価値の高まった武器である。それを価値の低いエンド品と取り替え、なんとその場で破壊してしまうのだ。試行回数のなくなったエンド品をさらに強化しようとすると、粉々に砕けて消えてしまう。これを稀にある不運な事故だと誤魔化し、まんまと価値の高い武器を手に入れるというわけである。儲かるのはクズエンド品との差額、ラッキー補正ぶんにすぎないが、高額なレア武器ばかりを狙えば一度で一万コル以上の儲けになる。路上鍛冶屋をしてると、エンド品の引き取り依頼は日常茶飯事である。インゴットに戻せば新たな武器や防具の材料になるからで、鍛冶師が欲しがるのをみんな知っている。プレイヤー鍛冶屋は武具屋でもあった。おかげでネタの仕入れには事欠かない。
あとは詐欺を繰り返し、強力な装備を準備する。こうしてレジェンド・ブレイブスは攻略組への合流に成功したのだ。
「まあ、ディアベルさんから六人行動を厳命されたおかげで、その後は大人しくなったんだけどね。おかげでレベルはずっとギリギリだったみたいだけど。きっちり強ければマージンの二や三くらい、一週間もあればすぐに上澄みできたはずよ」
「たしかに、挨拶してきたとき攻略組の感想を聞いたら、なんとか戦いについてゆくのが精一杯だって感じでしたね。装備の力を借りたは良かったけど、けっきょく分不相応で、背伸びに終わったんですね」
「あいつらが抜け駆けを断ったのは、単純に力不足だったからか」
「そうよヨウムちゃんキリトくん。それでね、レジェンド・ブレイブスに強化詐欺のアイデアを教えたのが、まさに今回の事件を起こした主犯なの。抜け駆け寸前に再度接触したみたいだけど、ブレイブスは皮肉にもレベル不足のおかげで助かったってわけね。オルランドさんたちが抜け駆けをすぐ報告しなかったのは、詐欺の件で後ろめたかったからよ」
「強化詐欺も、抜け駆けもおなじ――誰なんですかそいつ」
「どうせこれから会うわよ。名前だけは愉快な人よ。そのときヨウムちゃんの目で確かめて」
「そうですか……」
そいつを前にして、どんな顔をするだろうか。コペルを死なせた男。妖夢は両手を握り、こぶしへ力を込めた。
キリトが考え込む妖夢のかわりに、アスナへ聞いた。
「黄金林檎のほうはどうして誘いを断ったんだ? あのギルドは迷宮区に入れるていどにはレベルも高そうだった」
「待ってました!」
急にアスナの口調が弾むような調子を帯びた。
「それはそれはメロドラマだったわ。リーダーのグリセルダさんが常識的な女性だったのが幸いしたわね。サブリーダーのグリムロックさんがそれまでの物静かだったキャラをかなぐり捨て、突然『迷宮区なんてとんでもない! 暗いよ~狭いよ~怖いよ~!』と泣き喚いたのも後押ししたみたい」
妖夢の目が点になった。文字通り。なんかいろいろとぶっ飛んでいる。
「……なんでそんなチキンハートな人が攻略組にいるんですか?」
「リズやシリカちゃんみたいなものかしらね。なりゆきで、いつのまにか連れて来られたって感じで」
「ならサポートギルドに移籍したらいいじゃないですか」
「それが出来なかったのよ。グリセルダと、グリムロック。ふたりともG・R・Iで始まるわね。初めの三文字まで合わせちゃうなんて、これは偶然じゃないわ」
「恋仲か。しかも現実世界で」
「それどころか夫婦らしいわよ。羨ましい~~」
アスナの口ぶりは軽い。重い話をしていたはずなのだが。
「さらに奇天烈な後日談でもあったんですか?」
「うん。夫が本当は前線を嫌がっていたと知った妻は、今後のことを夜通しで話し合ったそうよ。そしたら盛り上がっちゃって、あらまあ、朝になったら、知らない間にあられもない姿でベッドインしていたではあーりませんか。手持ちぶさたで妙なコマンドを無意識でつついてて、うっかりなにかを解除。これでSAOでもアレが出来ちゃうってことが、判明しちゃったのよ」
とても嬉しそうなアスナに、妖夢とキリトはぼっと顔を真っ赤に染めた。
「アレってなんだよって、アレって」
「言っても言わなくてもアレですよ、みょーん。アスナのエッチ!」
妖夢はアスナに腹を立てていた。どうせアスナも最初に聞いたとたん、あうあう言葉に詰まり、いまの妖夢とキリトみたくオロオロしたに違いないのだ。人死にが出てる話の最中に、それをこうして遊んでくるとは。
「あらここにちょうど、可愛らしいカップルが一組――試してみる?」
アスナのからかう口ぶりに、妖夢はほほを膨らませて怒った。
「絶対にしません!」
ところが彼氏が。
「……まだ二年は早いよな、さすがに。進学してからじゃないと」
「およ?」
「えっ!」
空気が音をたてて凍った。
妖夢は大口を開いたまま、アスナは笑顔のまま何秒か硬直。
キリトだけが何歩かすすみ、女子ふたりが動かないのに気付いて振り向く。
「なんだよ? ――あっ」
その怪訝だった表情が、みるみる青ざめていく。妖夢は気付いた。キリトやっちゃった。うっかり独り言! 大失言! ありをりはべり、いまそかり! アスナの「試してみる?」を、この隠れエロ少年は聞いちゃいなかったのだ。なぜならば、そのときすでに、想像に忙しかったから!
……なにを、なにを妄想してた?
「そ、そんなに早く私とアレやるつもりだったの!」
「キリトくん年下だったの!」
妖夢とアスナ、同時にべつの意味で驚きまくっている。妖夢にとってはオオゴトだ。まだ隔年経――人間でいう月経――すら来てない未成熟な体で、アレに耐えられるわけがない。人間で一四歳相当といっても、栄養状態は幕末から明治初期の水準だ。現代日本人と比べ性徴的な発達は遅れている。キリトにはあと半世紀は待ってもらわないと……半世紀?
考えてもみなかった暗い未来に悪寒を覚える。回避するには「SAOにいるうちにバーチャルでアレをするしかない」などという絶望的な結論。当然、勇気も意志も、そちらの欲望すらない。下着を見られただけで大騒ぎなのに、そんなこと出来るかー! この怒りと悲しみをどこにぶつければいいのか。二刀を抜いた妖夢は、涙目で黙々と、キリトを切り刻んだ。毎度ながら圏内のことなので、ダメージもペナルティも発生しない。キリトも自業自得なので抵抗しなかった。目こそ回るが、どうせ痛くも痒くもない。アスナも慣れたもので、「わあ、これで二〇連撃!」などと拍手する始末だ。
本音を漏らした少年と、突沸した少女のせいで一時中断したが、話はようやく締められた。
「黄金林檎からの報告がまる一晩も遅れたのは、このようにグリグリ夫婦が愛を確かめてたからなのよ。まったく迷惑千万だわ。すくなくともこの超バカップルは攻略組をやめて一線から身を引くでしょうね。黄金林檎は解散か縮小、旧メンバーで攻略組への残留を望む者がいれば、聖竜連合などへ分散編入といったところかしら」
話が終わると同時に、アスナの足が止まった。
「さあ、本題よ。ここからはあまりにも重いから、前もって清涼剤が必要だったのよ。ごめんなさいね」
辻斬り彼女にしこたま刻まれたキリトがふらふら。
「清涼どころか冷凍だ」
「キリトもアスナも、エロ剣士です」
そこよりわずか数メートル、最後の分かれ道を曲がった先に、ゴールの牢屋があった。
牢の前で、四人の男女が佇んでいた。まずはおなじみ青騎士ディアベル。つづけて攻略女王の魔理沙。
三人目は……妖夢の記憶にない、目立たない男。特徴のない顔だが、どこか愛嬌がある。
四人目は攻略組とMTDの連携を取るという挨拶で会ったことがある。ギルドMTDのリーダー、三〇〇〇人を統べる最高責任者、シンカーだった。MTDは彼が現実で運営していた情報サイト『MMOトゥデイ』に由来し、妖夢も利用したことがあった。
目立たない名無し男が、右手をあげ、格子越しに指を差している。
「はい、間違いありません……あの男です。僕に強化詐欺をさせて、昨日も話しかけてきた、すべての張本人です。名前は――P・o・H、プーです」
ディアベルが牢の中へ、憎悪に歪んだ顔を向けていた。モデル俳優のようであるだけに、かえって怖い。
「これでレジェンド・ブレイブスのネズハくんによる証言も揃ったわけだが、ここまで証拠が揃って、弁解はあるかね、くまのプーさん」
牢屋の中より、舌打ちが響いてきた。音響効果でこだまする。
「Suck。俺は強化詐欺を強制した覚えはないし、ロイヤリティすら一コルも受け取らなかったぜ? クールな稼ぎ方のアイデアを教えただけだ。煽りはしたが、遊びなんだから当然だろう? わかってて選択したのは、貴様だ。楽しめないんなら、手を出すべきじゃなかったよなあ」
日本人の口調ではなかった。日本語以外を母語とする者に特有の、イントネーションのズレがある。妖夢がすぐ分かったのは、紅魔館のスカーレット姉妹や魔法使いのパチュリー、おなじく魔法使いのアリスと交流があるからだ。海外から幻想郷へと越してきた者たちで、後天的に日本語を学習している。
アスナがディアベルに近づいて敬礼した。
「ディアベルさん、くまのプーの要求にあった、みょんとキリト、ふたりを連れて参りました」
攻略指揮官になった直後はみんな指令とか閣下などと好き勝手に呼んでいたが、堅苦しさを嫌うディアベルが「ディアベルさんでいい」と言ったため、以来そのままとなった。魔理沙も影響を受けて「マリサさん」だ。
牢屋の中には、四人の男が座っていた。いずれも黒革のポンチョ――いわゆる雨合羽を被り、顔を深く覆っている。したがって表情もよく見えない。ディアベルがくまのプーさんとわざとバカにしている男は、四人の最前列にいた。そのフードの端より、妖夢を睨み上げる瞳が覗く。
妖夢と、くまのプーさんとの目線が交差した。その瞬間、妖夢はこの男を『ヤバい』と即座に評価した。
このPoHという男、あのハチミツが大好きで人気者の、黄色いクマさんでは済まない。本能が告げている。白玉楼へ攻めてくる連中に、共通した眼光だ。力を渇望し、まだ足りないと飢えている。不満をもって、世界を見ている。恨んでいる。欲しい。まだまだ欲しい。憎い、あいつらが憎い。持ってる者が、強い者が。俺のほうがふさわしい、俺こそがふさわしい! だから奪ってやる。だから貶めてやろう。
この男の心には、和がない。日本風土の心が。
白玉楼を襲撃する愚かなる連中は、和の心を知らぬ者だ。和風を解さぬゆえ、連中は滅ぼされる。日本で生を受けながら和の風土になじめぬ者は、たとえ異世界であろうとも、そこが日本の延長にある世界であるからには、おなじく和の正義によって裁かれるのである。
和の淘汰を執行する者として二振りの剣を扱ってきただけに、妖夢にはこの男の本質がすぐ掴めた。
SAOを乱す者。和を混乱させる者。
単一民族であるがゆえ可能な、信じる心でまとまりつつあるSAO。せっかく順調に登っているのに、あえて乱を望む者。
治政に乱を思うは、治平の姦賊なり。
おなじ外国人でも、エギルのように和へと染まった者とは、まったく違う。日本語を覚えながらも、和を……持たぬ。この男は自分以外のあらゆる人間を――
おそらく憎んでいる。
足下を掬い、殺しを重ね、解放の日を遠ざける。
こいつは本当に危険な男だ。
「……ディアベルさん」
「なんだい、みょんさん」
「この人は危険です。絶対に釈放しないほうがいいですよ」
「そんなことは俺もシンカーさんも承知だ。こいつらはSAO始まって以来、はじめて確認された『快楽殺人者』だ! おまけにくまのプーは人を扇動する誘導話術にも長けている! ここに至るまでには、どうせほかにも余罪がある! まちがっても野放しにできるものか!」
ディアベルの弾劾と恫喝に、プーさんは堪えた様子もない。
「ああ、やったぜ? 寝てる奴にデュエル申し込んで、一方的にキルするのは楽しかったナあ。いくら殺してもオレンジにならねえ。Wow、イッツ・ワンダホー」
牢屋の外側にいる全員が言葉を失う。デュエルモードではお互い了承したと見なされて、殺傷によるペナルティを科せられない。一見公平だが、相手の意識がなければ話は別だ。寝てる手を勝手に動かしてOKボタンを押せば、あとは圏内であろうが思いのままに殺人を行える。
デュエル悪用による睡眠PK。まさかすでに実行者がいたとは。河城にとりが出現を予言していたが、公開そのものは控えていた。できたのは宿泊施設での就寝を推奨するキャンペーンを張るぐらい。でもこれで前提は崩れた。大至急、睡眠PKを公にして強く警告するしかない。
くまのプーはまだ楽しく話している。
「だけど俺らは満足できなくなっちまったんだよ。やはりよお、もっと演出してやらねえと、相手のああいう顔を見ねえと、エンジョイできねえよな? ――殺人ってのは。すなわち、イッツ・ショウ・タイムだ」
「ショータイムですって! そんなことでコペルを殺したの!」
妖夢はPoHの頭部へ注意を向けた。するとポンチョの上側に、キャラクター・カーソルが出現した。その色は――
オレンジ色に灯っていた。
牢獄エリアで見たほかのオレンジプレイヤーは、大小こそあれ、みんな後悔の念にかられていた。どうしてやっちまったのか。捕まって運が悪かった。こんなところにはいたくねえよ――なのにこのプーさんは、くまのプーさんみたく、笑っていやがる。殺人者と紹介されて、肯定しつつ笑って返した。目だけしか見えないが、妖夢には分かる。悪人どもと切り結んできた経験が銀髪の剣士に告げている。
いろんな意味で、只者ではない。
キリトが、震える声でつぶやいた。
「なんて奴だ。一二人も死なせておいて……」
答えたのは魔理沙である。
「コペルが間抜けだろうが、腐っても攻略組だぜ。ひとりでもHP半減すれば、すぐ撤退しただろうな。なのに進むしかなかった。理由はこいつらが牙を剥いて、前進を強要したからだ。ボスを倒すまでの――死の行進を!」
「……っ!」
妖夢はまたもや絶句した。
亡くなった一二人の胸中は想像を絶するものだっただろう。どれほどの恐怖と悔恨、深い失意の中で死んでいったのか。迷宮区のせいぜい四~五階くらいまでで、宝箱アイテムを独占できれば満足だった。俺たちでもこのくらいなら出来るぞと、レベル制限をかける攻略本隊の鼻を明かしてやりたかった。コペルの性格を思えば、せいぜいそのていどの軽い気持ちだったはずだ。それなのに。
「そんなの、死が確定しているじゃないですか。戦力的に足りていません。なんの意味もない!」
「――意味ならあるぜ、フロントランナー」
ナイフを取り出してくるくる回しながら、PoHが割り込んできた。
「俺たちが楽しいだろ!」
PoHを囲うように座っていたほかのポンチョどもが、狂ったように笑い出した。
「日本の刑法だと、俺たちの罪はすべて茅場が被ることになるんだぜ?」
「いくら殺したところで、現実に戻っても罰せられねえ――」
「合法的殺人を、楽しめる、絶好の機会、じゃないかよぉ!」
未熟なりに正道を求めてあがく妖夢にとって、聞くに堪えない、身勝手な言葉の数々だった。許されるなら全員をこの場で斬り殺してやりたいくらいだ。
「ンだよ? 文句あんのか?」
ポンチョのひとりが妖夢を挑発的に睨め上げる。フードよりのぞいたのは、骸骨のデザインを持つ悪趣味なホラーマスクだった。ハロウィンなどで使うパーティーグッズだが、窪んだ眼孔が赤くかつ昏く光っている。カーソルは当然にオレンジ色。改めて見れば、全員がオレンジだった。カーソルは単純に犯罪行為しか示さず、その軽重は教えてくれない。
MTDリーダーであるシンカーがなにかしゃべろうとしているが、オレンジどもの異常な狂気に押されていた。
かわりにまたディアベルが発言する。前線にいるだけに度胸がちがう。
「せいぜい楽しんでくれたかい。証言は揃った。くまのプーさんが望んだF隊のふたりも連れてきた。罪を認めるか?」
「罪? そんなもの、誰が決めるんだ? 貴様らは警官でもGMでも、なんでもないだろ。システムで認められた行為なら、なにをしても構わない。だってこれは、ゲームなんだぜ――俺たちは、ルールに従って楽しく遊んでるだけじゃないか。いやあ楽しかったな、攻略組ごっこはよう」
「なぜ自分たちもやられかねない危険を冒してまで、一二人を死に追いやった」
骸骨マスクがけたけたと、バカにするように笑った。
「オレたちが、死ぬわけ、ねえんだよ。転移結晶も、回復結晶も、たらふく、持ってンぞ」
数音ごとに細かく止める、おかしなしゃべり方をする男だ。これもロールプレイなのだろうか。
骸骨マスクはポンチョの胸襟を開くと、じゃらじゃらと結晶の塊をいくつも取り出した。自慢にしても露悪的だ。どうせ人より奪ったものである。
ディアベルが張りのある美声で嘲笑する。
「迷宮区では良くても、そんなものが牢獄でなんの役に立つと? ザザといったかな。わざわざ言うまでもなく、ここは結晶無効化エリアだから脱獄は不可能だ。たとえ使えたところで、転移結晶では町や村にしかワープできない。オレンジはシステム的に圏内より排除されるが、ほぼすべての町が保護圏内だ。移動した瞬間、湧出したNPCガーディアンに拘束されて、舞い戻ってくるだけだ。唯一の例外はごく小規模な圏外村だが、まだ五ヶ所しか確認されていないから、足取りなんかすぐに追える。ワープ場所を自由に設定できる回廊結晶はひとつ五万コル以上もするし、流通ルートが限られるから、まずおまえたちの手には入らない」
犯罪者プレイヤーはシステム保護の恩恵を失う。オレンジからグリーンに戻る信用回復クエストも存在するが、具体的な発生場所はほとんど知られてない。むろん巨大組織のトップ連中はとっくに把握済みであるが、攻略組とMTDの協定により、一般への公開は完全に秘匿されていた。
回廊結晶とは転移結晶の上位アイテムで、最大数十人の人間を一度にワープさせることが出来る。現在四個しか確認されておらず、すべて聖竜連合が保管している。攻略組が一日でも早く第一〇〇層まで登り切るための貴重品として、大々的に法外な買い取り額を提示していた。資金源は妖夢とキリトだ。F隊はその立ち位置から、黙っていても大金が貯まり、とても使い切れない。回廊結晶をわざわざ集めてる理由はほかにもあるが、最高機密となっている。
PoHは青騎士の正論を歯牙にもかけてないようだった。
「ご高説、おつかれさん。Yet……そろそろ、この茶番にも飽きたな」
快楽殺人者は右手を振ってメニューを呼び出し、なにかを確認していた。手の動きから誰にでも簡単にわかる。時間だ。
そのどこまでも飄々とした態度に、妖夢は我慢の限度に来ていた。
「ねえPoH……コペルはどういうふうに死んでいったの?」
敬語は使わない。二刀をゆっくりと抜き、上下太刀の構えを取った。
「Who? 誰だそいつは」
「垂れ目気味の少年よ。私やキリトと、おなじくらいの年頃だったわ」
PoHは思い出そうと何秒か試みたようだが、肩を竦めるとそれ以上の努力を放棄した。
「いちいち負け犬どもの顔なんざ覚えてられっか。最期の表情だけなら覚えてるぜ。俺たちがヤッたのが四人、あとはみんな、モンスターとボスがクールに殺してくれてさ。床に這いつくばって消えるやつらの、愉快な死に顔ったら、笑うしかなかったな!」
「なら死んで」
独言した銀髪の姿がかき消えると、つぎの瞬間にはシンカーの隣にいた。彼の腰にぶら下がっている鍵束を一瞬で奪うと、また消えて牢屋の前に像を結ぶ。鍵穴に鍵をさし、がちゃんと開けるや――無表情の人形がゆらりと、格子の内側で、幽霊のように立っている。二本の曲刀が、ソードスキルの輝きを纏った。
「……Bitch!」
「だから死んで」
竜巻がPoHどもを襲った。
「千手纏縛剣!」
それからの十数分間、ラフィン・コフィンの四人は、文字通り生きた心地がしなかった。妖夢はありとあらゆる剣技を使い、無言のまま、半永久とも思える連撃を黒ポンチョたちに与えつづける。圏内なのでダメージこそないが、保護属性によるシステム障壁により、飛ばされる勢いは圏外の数倍である。復讐の女神によって牢屋の内壁へと押しつけられた彼らは、走ってきた車と壁との間に挟まれるような地獄を、延々かつとめどなく強制された。まさに纏いて縛る、纏縛の剣。エフェクトの轟音が鳴り響くたび、オレンジたちは泣き喚き、カエルのような潰れた悲鳴をあげるほかなかった。
牢内が阿鼻叫喚と化すほどに、牢外には桃源郷のような穏やかな空気が広がった。誰も妖夢を止めようとはしない。魔理沙たちこそ、許されるのならこういう罰を直接的に与えたかったのである。代わりに為してくれた辻斬りに、内心で歓呼の大フィーバーだった。
一〇〇〇連撃以上に渡った白銀の台風が温帯低気圧へと移ろったとき、そこには黒色の塊が四体、精神の屍となって倒れていた。アイテム類は周囲に飛散し、四人とも見る影もない。耐久値保護が適用されてなければ、装備は下着に至るまで完全消滅し、全裸で転がってただろう。圏内でこの保護を貫けるのは唯一、自分で自分の装備を攻撃したときだけである。
PoHの素顔も晒されている。野生児のような強面で、顎も割れているが二枚目である。ゆるく波打つ長髪は黒色で、先が癖のある巻き毛。アジア系ヒスパニックだった。その表情は圧倒的な恐怖に支配されている。
気の済んだ妖夢は、二刀を収めると牢屋より出て、鍵を厳重に締め直した。
「すいませんでしたシンカーさん」
鍵束をシンカーへ返し、深々と礼をする。
「我が流派に『真実は斬って知るもの』という教えがあるので、あの糞虫どもを裂いてみました。ですがまさか、千たび斬っても知れぬものがあろうとは、このみょん、不徳でした」
堂々として、時代劇がかっている。
「いや、いいと思う……よ。ただの圏内戦闘だし」
恐々と受け取るMTDトップが、この尋常ならざる沙汰を練習扱いで流してしまった。
すなわち、妖夢を咎めないことを意味していた。現実社会であれば大問題だろうが、なにしろゲーム世界のことである。PoHは得意げにしゃべった放言に、自らがまんまと戒められてしまったのであった。
ラフィン・コフィンの四人は何分もただボロ雑巾のようにぴくぴく震えていた。その間、魔理沙とディアベルはシンカーとアスナも交えて今後どうするか協議しており、妖夢とキリトはレジェンド・ブレイブスのネズハを牢屋へ連れていった。ネズハは妖夢のサインを貰いとても嬉しそうだった。またPoHを懲らしめたことを感謝していた。
妖夢とキリトが戻ってくると、ちょど牢屋の中で動きがあった。
メッセージの着信音である。PoHが小刻みにふるえる指を動かしている。
「――よ、ようやく、来たか」
メッセージを読んだPoHが、口元を歪め……た、のか? まだろくに体の感覚が戻っていないようだ。千数百連撃のうち、PoHが受けたのは半分近い五〇〇強発。妖夢はとくに狙って、PoHへと攻撃を集めていた。ほかの三人も人間が腐っているが、PoHの教唆と扇動さえなければ踏み外すことはきっとなかったのだ。元凶をこそ、じっくり成敗すべきである。
「へ、Hey、女フロント、ランナー。貴様の大切な、釣り師オジサマが、命の危機だぜ。大人しく、言うことを……聞くんだな」
そこで力尽きたPoHであるが、最後の力を使って示したものが、とんでもないものだった。
可視モードの拡大機能を使って投影されたのは、一枚の写真。
「……この、卑怯者!」
「イッツ・ショウ・タイム――クールな、遊びと、行こうじゃねえか」
体はぴくりとも動かせないようであったが、口だけはなんとか格好を付けた悪役である。
そこには早朝、妖夢がひとときを過ごしたニシダ氏の、縄に縛られた姿が写されていた。表情は悲痛としか形容できない。撮影場所はどこかの森にある空き家だが、窓枠より見える残雪と風景から、第二二層にまちがいないだろう。
本来なら愉悦の笑みでも浮かべたいPoHであったが、写真が空中に投影される下で、ただのボロキレとして転がるのみ。
* *
脅迫がされて、すでに三〇分が経過している。
PoHはリアルの脳神経がどこかヤラれでもしたようで、ずっとボロ雑巾状態だ。脅迫はようやく回復したザザがかわりに行っている。攻略組側の交渉役は魔理沙だ。ここまでの修羅場となれば、青騎士には任せられない。MTDのシンカーも口を挟まない。キリトとアスナは黙したままである。中学生には厳しすぎた。
妖夢は人間の悪意というものの根深さに参っていた。冥界の白玉楼を襲う連中で、知能的な搦め手を用いる者はほとんど皆無といって良い。なぜならばそういう人間的行為そのものが、彼らの存在証明からかけ離れた手段だからである。どれだけ命の危険があろうとも、いかに無謀であっても、あくまでも自分の能力と強さでもって、正面よりねじ伏せないと意味がないのだ。モノノケとはそういう在り方を宿命づけられている。
おなじく幻想郷の異変も、一見面倒な事件に見えるものでも、その本質は力押しである。妖怪たちの特殊能力と、持っているパワー。それ以上のものは使わない。したがって能力を見破れば、あとはパワーとパワーの激突となり、単純明快なストーリーとして成立する。それが人妖たちの矜持であった。小は妖精から大は神まで、みんな等しくそう在る。
SAOにログインした一〇人は、例外のオンパレードで動いている。だがそれは持てる力が限られ、どうしようもなく矮小であるからだ。手段の選びようがないなら、いかな妖怪でもそれを選ぶしかなかろう。それに一〇人のうち四人もが人間の属性を有しており、最大の影響力を及ぼした魔理沙の「正義の味方になろう」という方針に、一〇人全員が感化されていた。
したがって妖夢は、ニシダ氏を見捨てることが出来ない。幸いだったのは、妖夢とニシダがフレンド登録をしていたことだ。おかげでニシダの居場所はマップ追跡で掴めた。ただしその確認はザザらに見えぬよう、牢屋より離れて行った。
もしPoHが健在であれば、全員を視界に留めつづけることに固執しただろう。このくまのプーさん、人質作戦以外にも、強化詐欺やら睡眠PKを思いつくなど、嫌なほど悪知恵の利くやつだ。もっとも妖夢が刻んだおかげで神経をやられ、その狡知を活かせない。骸骨マスクは凡庸にすぎず、すでに綻びが出ていた。
ニシダを拘束しているのは、PoHやザザらの仲間で、ジョニー・ブラックというらしい。こいつはPoHの作戦が失敗したときの保険として、控えに回っていた工作員だ。
妖夢が湖の桟橋で感じた気配は、ジョニー・ブラックのものだった。妖夢はニシダと勘違いしたのであったが、SAOの妖夢が気配を感じる仕組みは、相手が妖夢に注目しているかどうかである。太公望は釣りに集中しており、妖夢がニシダを感知できる理由はなかった。ジョニー・ブラックは妖夢を観察した。これによってシステムが妖夢のデータを参照する。アバターにわずかな演算の遅延や多重処理が生じ、それを妖夢は気という曖昧なものとして知覚できてしまうのであった。妖夢がモンスターの待ち伏せをことごとく看破するのも、おなじトリックである。まさに達人としかいいようがない。あとは妖夢がニシダとの話に夢中で、警戒が完全に緩んでしまい、ラフィン・コフィンの影へ再度気付くことはなかった。
攻略組の作戦はすでに実行中だ。魔理沙は人質の交換を提案していた。
交換役となった蓬莱山輝夜が、ザザの指定した森の空き地へ急行している。PoHには別の考えがあったようだが、もう遅い。ジョニー・ブラックは輝夜を迎えにアジトを出たようだ。ディアベルによれば、ラフィン・コフィンの構成員はほかにもういない。たしかにこれほど強迫的な破壊衝動を持つ者など、そう多くはいないだろう。ジョニー・ブラックさえなんとかすれば、あとは安泰となると見られる。いちおう保険として犬走椛と因幡てゐがニシダ救出へ向かっている。もしほかに知らぬ敵がいても、てゐさえ有効距離にいれば、ニシダはなにがあっても死ななくなるだろう。椛は妖夢につぐ強力な女流剣士だから、数人くらい相手でも負けはしない。
「あのかぐや姫か。最高の、ごちそうだ。でも美人なら、殺せないと、思ってるなら、甘いなア」
ザザは魔理沙の思惑を誤解していたが、魔理沙もあえて放置していた。
魔理沙の役割は、ニシダの安全が確保されるまで、絶対にラフィン・コフィンを解放しないことだ。ザザの要求は多岐に渡っていたが、解放後の安全を保障させるべく、最前線よりすべてのプレイヤーを遠ざけよといった、実行不可能なことを言う。PoHと比べ精彩に欠ける男である。攻略組以外の前線プレイヤーがどう動こうが、それを掣肘する権利を攻略組は持っていないし、もしそんなことをすれば正義の味方プレイを心がけている魔理沙や、おなじく騎士道プレイに熱心なディアベルが黙っていない。だからせめて先回りしようと、攻略組は走り回っているのである。
これらの押し問答を、魔理沙はうまく遅延させていた。さすがのザザも時間稼ぎに気付いているようだが――
妖夢は、素朴に感じていた疑問をザザへしてみた。
「ねえザザ。今回の事件だけど、逃げられたとしても高確率で指名手配は免れなかったわよね。ブレイブスへの強化詐欺は匿名だったのに、どうして急に表へ出てきたの?」
ちなみにラフィン・コフィン四名を拘束したのは血盟騎士団である。彼らが追いついたのはまさにボス部屋であり、憐れな一二人は全滅したところだった。PoHたちはあとボス部屋より脱出すれば、攻略組大量殺戮作戦は無事に終了するところだったのだ。運良くバレなければ信用回復クエストでも受けて、あいつらが勝手に突っ込んで死んだのだと強弁し、新たな犠牲者を物色することすら考えていただろう。そこまでは妖夢も予想できる。
おっさん騎士団はレベルも実力でもPoHらより上だ。人数も上回っており、フロアボスを相手にしながらオレンジどもを捕縛するという離れ業に成功した。ラフィン・コフィンは転移結晶を持っていたが、義憤にかられたキバオウたちの反応は迅速で、圏外村への転移を許さなかった。
ここでヒースクリフがほぼ単騎でボスを倒してしまうというイレギュラーが起きたが、それはまた別の話だ。
「ブレイブスは、失敗だったと、ヘッドが言ってたぜ。選んだ連中が、悪すぎたと。前線はナチュラルに、大混乱する、はずだったンだ」
ザザは妖夢との会話を面白がっている様子だった。こんなやつに敬意のかけらも払いたくないので、妖夢も丁寧語は使わない。
「目的はなに?」
PoHが弱々しく顔をあげた。
「イージー。攻略組に、攻略組を断罪させる。うまくいきゃ、『処刑』が見られた、かもな……クールだぜ?」
「……馬鹿馬鹿しい」
「貴様らは、目障りで、邪魔なンだよ。蓋として被さっていて、どこを見上げても、攻略組しかいねえ。息苦しい」
ザザがわめき散らしている。あまり我慢強くないみたいだ。
「だから攻略組を自ら破壊しようとしたのね」
「試しに攻略組に、入ってみたら、簡単に、強くなれて、直後は楽しいかもと、思ったさ。でもヘッドが、言ったんだぜ? これはクール、じゃねえ。ゲームじゃねえ、って。気付いたんだよ。ただの攻略、ただの作業、ただの仕事だ。そうさ、俺たちは屈辱的にも、ゲームで、仕事をさせられてたンだって!」
「……その価値観は私と相容れないわね。いまはデスゲームよ。お遊びだなんてとんでもない。攻略組は解放のために存在しているわ。基本報酬は名誉であって、人より強くなれる喜びは余禄なのよ」
PoHがイモムシのように這いずり寄って、牢屋の格子に手をかけた。妖夢とPoHが、五〇センチほどの距離でにらみ合う。
「Shit、虫酸が走るな。お利口すぎる。これだから俺は……貴様らが、大嫌いだ」
妖夢にメッセージが届いた。輝夜ことルナーからだ。文面が楽しげに弾んでいる。
『ジョニー・ブラックが奇声をあげながらしつこく刺してきたけど、蒼白になってたわね。どれだけ攻撃しても私のHPが減らないものだから。ほかに見てる人もいなかったし、どれだけ話したところで、きっと誰も信じないでしょうね。うふふふふ。面倒だからチート剣技で捻り潰したわ。あ、この人カーソルがグリーンだったから、おまけでオレンジに変えておいたわ。加減が利かなくてカルマ最低値だから、信用回復クエストを数十回は受けないとグリーンへは戻れないでしょうね。制圧時に私もオレンジへ落ちたけど、一瞬で元通りよ。たまにはこういうチート全開のお仕置きも、裏稼業プレイとしていいわね。オレンジ狩りならいつでも歓迎するわよ』
蓬莱山輝夜のナーヴギアは特別製だ。ゲームシステムの範囲内に限られるが、輝夜の能力を及ぼすことが出来る。永遠と須臾の力を。
つづけて椛ことメイプルから。
『ニシダさんを無事に保護しました。アジトは無人。やはりジョニー・ブラックによる単独犯行のようです。てゐが活躍できなかったと悔しがってます』
因幡てゐも月人仕様により、人間を幸せにする能力を発動できる。ただ今回は出番がなかった。
メッセージはシンカーを除く全員へ届いていた。妖夢たちの正体を知らぬディアベルとキリトは内容を変えてるだろう。ひとしきり読んでから、魔理沙がザザとくまのプーさんへ手を振った。バイバイだ。
「じゃ、私はそろそろ行くわ。おまえの相手は心底から飽きた」
いきなりの手のひら返しに、ザザの口がぱくぱく。
「なんだァ? てめえ、人質がどうなるか――」
「なあディアベル、ものすごく疲れたな。今日はこのまま私とデートでもしないか? せっかくのクリスマスだろ」
「喜んで! 前線はリンドに任せよう」
ふたりの指揮官はもはや休暇モードである。
妖夢も満面の笑顔で、牢屋に向かってにこにことお辞儀をした。
「さようなら。つぎ会うとすれば、現実世界でテレビに写ってる私でしょうね」
戻ればいずれ、幻想郷を日本に認めさせる気長な戦いが待っている。そのとき妖夢はアイドル歌手として歌わされるらしい。何十年後か知らないけど。PoHたちはすでにいい歳だろう。人を恨みすぎて、ストレスから頭髪が大変なことになってるかも。事実を知って、年若いままきれいな妖夢を目の当たりとして、どのような顔をするのか、想像するだけで楽しみだ。
一行はすたすたと、忌々しい牢屋を後にする。「覚えてろよ!」といった負け犬の遠吠えがお決まりに放たれるが、もはや完全無視だ。ラフィン・コフィンの絶叫と怨嗟は、廊下を曲がるとすぐ聞こえなくなった。
オレンジどもの声が消えてまもなく、魔理沙が妖夢へ話しかけてきた。
「……みょん。頼みがある。私の独断じゃなく、紫の要請でもある」
「なんですか?」
「このままフロントランナーに戻ってくれ。キリトも」
「およよ?」
「わけを聞かせてくれウィッチ。やはり血盟騎士団か」
「悔しいがくまのプーは前線騒乱に成功した。最前線はこれまで通りの、お利口者のピクニックとはもういかないぜ。おっさん騎士団が攻略組を離れたからな。ボス撃破に感化された数ギルドを連れて――私の方針に不満を持ってたお調子者をみんな引き抜きやがった」
「……秩序もルールもない、純粋な競争か」
「攻略組には立て直しの時間が必要だが、おっさん騎士団は身軽だ。しかもあのおっさんどもは単独パーティーでフロアボスを撃破できる力を得た。ヒースクリフが見せた奥の手、謎のスキル神聖剣を」
妖夢にはなんの衝撃もない。茅場晶彦が自身のプレイスタイルの範疇において、妖夢やキリトと『実力』で対抗するには、伝説級の武器か、または特殊な攻撃スキルを用意するしかない。とっくに予想できたことだ。
「神聖剣とは……ヒースクリフさんはずいぶんと大きな中学生なんですね」
「そっとしておいてやれ。というかみょんの剣技もこっぱずかしい名前ばかりだろうが」
「私はまだしばらくこんなナリだからいいんです。魔理沙こそいまの姿でダークスパークとかスターダストレヴァリエとか、恥ずかしい~~」
高校生の魔法少女。アリではあるかもだが、一般は小中学生だ。次第に人妖も幻想郷外の価値観に浸食されている。
「も、戻ったらファイナルマスタースパークで焦がすぜ半人!」
事情を知らないのはキリトだけ。
「なにかヒースクリフに含むところでもあるのか?」
「だってあの人、たまに私を変な目で見るんですよ。私はキリトの彼女なのに」
「たしかに、まれに俺も見られてる気がするな」
「あのおっさんはですね、きっとキリトのことも好きなのよ。ショタ好きでロリコンな、バイセクシャルなの」
「それは困ったな。よしヨウム、第二三層はヒースクリフに勝つぞ!」
とくに深くも考えずモチベーションを得てしまったキリト。ライバルが登場し、ボスと戦えればそれでいいのだろう。
魔理沙が、アスナの肩を叩いた。
「ついでにアスナ、おまえもみょんたちに付いていけ」
ずっと黙っていたアスナが、いきなりのことに驚いている。
「私がフロントランナーに? ただの足手纏いよ?」
「みょんが暴走したらどうなるか、さっき見ただろ? 痛覚のない世界で、家庭用ゲーム機なのに、精神圧迫だけでPoHを半身不随にしやがった。だがいつも上手く行くとは限らないぜ。だからおまえがフロントランナーの頭脳となり、要らぬ破局を回避するんだ」
さらに魔理沙はアスナへ近寄ると、その耳へ囁いた。位置の関係で、みょんにも聞き取れる。
「今回、ヒースクリフのプレイスタイルが、あきらかに博打だった。公平の名に恥じなかったあいつが、主義を捨ててまで勝負に出ている。あいつは焦っている。幻想郷クラスタの存在に気を揉み、足掻いている。あいつとの闘争は新たなステージに入った……例外がすでに起きたからには、私たちは正直、いつ退場させられるか分からん。妖夢が消えたらキリトはきっとソロに戻る。勇者の孤立を止められるのは、閃光のアスナ、おまえしかいない」
「……わかりました」
妖夢は複雑な気分だった。自分がなんらかの理由で去ったあと、キリトの横にはハイスペック美少女が残る。だがそのほうがいいのかも知れない。妖夢はキリトと子を成すことが出来ない。初潮すらまだの妖夢が女として成熟したとき、キリトはすでに老人になってしまっているのだから。だが嫉妬がめらっとわきたつのを抑えることも出来ない。これが一番良いことだと分かってはいながら――
別れの予感に胸を苦しく打たれている。そんなことは告白したその日からすでに覚悟していたはずだったし、世界の解放へ向けて愚直にも全力でひた走るしかない。それが剣士としての存在理由であった。
「キリト。私ね、この一件で分かったことがあるの」
「……剣を振れなかったな。見て聞いてるうちに、受け身のまま終わっちまった。お仕置きはヨウムがやっちまうし」
さすがというか、相変わらずこの辺りは気が合い、息も合っている。戦いを求める剣士として。相性は抜群だ。
「そうよ。私たちは自分で率先して先頭に立ってないと、ソードアート・オンラインの、アインクラッド解放の主役になれないのよ。だからさっさと行きましょう。この世界の歴史を、私たちの剣と足で作るの。目撃者でなく、当事者でもなく、ましてや介入者でもなく――開拓者として」
大好きな相棒へ右手を伸ばす。似たようなことを、第二層でも行った。ただあのときと違い、今度は三人目がいる。
「よし! 行くか!」
手を取ってきたキリトの横に、もうひとり。
「アスナも行きましょう!」
こんどは左手だ。それをおずおずと取るアスナ。状況の急変に、頭が追いついてないようだ。
「フロントランナーの全速力について来てね。これまでとは、勢いが違うわよ!」
妖夢は左手でアスナ、右手でキリトを引っ張りながら、前方を見据えて走りだす。
いまは迷わない。
なんでも斬る。どこまでも駆ける。行けるところまで、全力全開で!
※まだ二年は早いよな
原作だとクラディールを退けた夜、キリトとアスナとおそらくアレ。Web版はガチ。
※SAOの殺人が合法
実際はいろいろありそうだが、原作に準拠した。