果て竜さわぎから、時間をすこし戻そう。
ムック歴三四一年六月七日、ウンラー公子とクアーダ王子の初陣であった、未知なる北海海戦から二日後。
ラクシュウ王国首都、アヒナール。
この都市はやや内陸に位置するが、海まではわずか半日の、三方を山に囲まれた天然の要塞である。
海洋国家の首都にふさわしい立地条件に恵まれた人口六〇万人の都市の主、国王ニンは、町の中心にあるひときわ高い丘に作られたコランダム城、三層の天守閣の二層目にある王の間で、ある報告を聞いていた。
「ほう。ということは、『海賊』は帝国とサーナンドの仕業だったというのか」
「はい、我が王。リートで投降した帝国の者が、たしかにそう申しておりました。それから、これはまだ未確認ですが、帝国とともにセル、ツエッダに無謀な戦いをしかけたサーナンドの残党どもが、我が国沿岸を南下中とのことです」
「数は?」
「七隻だとか。これは複数の帝国兵士から同じ回答があり、まちがいないと思われます」
「それなら、沿岸警備艦隊で十分だ。敵の指揮官はたしか『間抜け』ミリだったな」
「はい」
「大河河口で捕まえるのが確実だが、それまで海賊行為を欲しいままにされてはたまらん。アットナ岬からイオクチノール沖までに警備艦隊を集中させろ。ここ以北の漁村、港町は、全員避難だ。ただし、食料は置いておかせろ。食料を求めて内陸まで来られたのでは、一網打尽にできなくなる。『間抜け』ミリていどなら、これで簡単に捕まるだろう」
「わかりました……捕まえるのですか」
「不服そうだな。でも仕方あるまい、将軍を殺したとあっては、サーナンド、そして聖戦を唱えるムック帝国と全面衝突になる。いくらこちらに鉄砲があるとはいえ、兵力に差がありすぎる。南方親征を控えているこの時期に、無意味な戦いはしたくない」
「わかりました」
そう言うと、三重臣のひとり、国内防衛総監ホルンフェルスは下がっていった。
ホルンフェルスは、王の間から出て、廊下で部下にニンの指示を伝えながら思った。
(だが、我が王が南で行なおうとしている戦いも、無意味ではないのか?)
ニンは、戦いに関しては素人。だからこそ、無謀王という不名誉な異名を授かった。ラナン海の大敗からまだ半年にもならないのに、無謀王はふたたび大規模な作戦を行なおうとしている。
(ラナンではラクシュウ全軍の三割を半日で死なせたというのに。嫌な予感がする……)
しかし彼には、国内警備に関する統帥権しかない。我が王、ニンに意見することは許されないことなのだ。
王意の完全伝達。これが大国ラクシュウの強みでもあり、同時に弱みでもあった。小国、新興であるセルやツエッダでは、臣下の良い意見が上に通りやすい。意志の強力な統一はラクシュウほどにはないが、あやまちを犯しにくいのはたしかである。
防衛総監のところに、三人の若者が通りかかった。一目で高貴だとわかる服装だ。
「ホルンフェルス殿、なかなか騒がしいな。例の海賊退治か?」
ホルンフェルスに話しかけたのは、紫という派手な髪と茶色の目を持つ、やや痩せすぎで三〇半ばほどの男であった。名はリソス、ニン王の長男で、第一王位継承者である。本人は道楽に長けた、いっぱしの風流人だ。
「これはリソス殿下。それにアセノス殿下にマントル殿下も。三兄弟おそろいで、我が王に面会ですか」
「まあな。貴殿も職務に励めよ」
「ははあ、ありがとうございます」
総監を形式だけだが励ましたのはちじれ毛で三〇ほどの、武人体型の男で名はアセノス。ニン王の次男で、同時に陸軍元帥であった。
そして重臣を無視して押し黙っているのが、二〇代半ばと思われる、なかなか精悍な顔つきをした赤髪薄紅目の男。名はマントルといい、ニン王の三男。王立学院の学生である。
三兄弟は、そのまま王との面会を申し出た。
「何事だ、忙しいのに」
突然やってきて目の前でひざまづく息子たちを、ニンは腹立たしげににらむ。
(どうやら機嫌が悪かったようだな……)
ふたりの兄に父王の説得を提案した末弟マントル王子であったが、どうやら試みは徒労に終わりそうである。
* *
けっきょくニンは出征を取り止めなかった。大軍で、南のウゼラ=セルに海路から挑もうというのだ。詳しくは、三人の誰にも明かされていない。海軍の上層部が知るのみである。
「なあマントルよ、なぜ我が父が南のウゼラ教徒を征伐するのがまずいんだ? 聞いたところ、こちらの数には問題はなかったではないか。相手の海賊は五〇〇〇人足らずだ」
長兄リソスが、間抜けな調子で弟に聞く。それに次兄アセノスも続く。
「そうだな、俺は海軍のことはよく知らぬが、三万を越す大軍だというではないか。それに新兵器も搭載している。戦う前から、負けるなどと言うのは不吉だ、おかしいぞお前」
「兄上たちは、新艦隊の内容を知っても本気でそう思っていられますか? 大半が新兵、訓練期間も短い。おまけに戦列軍船は新造船ばかりで、慣らし航海すらしていない」
末弟マントルによる不吉な見解の、もっともな理由に、長兄リソスが不安になった。
「それは困った。もしやラナンの繰り返しか」
「いや、そうでもないぞ、兄者」
次兄アセノスが、得意そうに胸を張った。
「新兵器大砲の戦法は単純だ。一カ所に集めて動かず、ただ目標に撃ちつづける。それでいいらしい。長期訓練の必要な機動部隊とちがい、火器は短期間で戦力になるはずだ。セル公国による鉄砲という前例もあるぞ」
「おおお、本当かアセノス。それならば、我が父の艦隊の完全なる勝利は疑いもないわ」
軍事専門家である元帥王子アセノスの言葉に、長兄はしがみついた。
そしてリソスはパーティー、アセノスは訓練があるという理由で、マントルのもとから去っていった。
暗い廊下にひとり、末王子は立ちつくしていた。そしてちいさな声が、口から漏れた。
「……撃つだけならな。どうせ言っても無駄だから話さなかったが、大砲を当てるにはもっと長時間の訓練が必要なのだよ、愚兄ども」
兄弟の中で頭脳と判断力は一番であったが、マントルは弱々しい外見と三番目という生まれ順のために、その才能が認められ、意見が国政に反映されることはなかった。彼の中では、兄たちへの怒りと嫉妬が渦巻いている。
(神よ、一体なにが、父王をして海賊バッタをこれほどまでに憎悪たらしめているのですか? 準備期間がみじかすぎた。どう考えても無謀です、死ぬおつもりですか、我が父!)
窓より外界をにらむマントル。紅色の瞳には、強烈な意志の炎がほとばしっていた。
* *
三日後。ただし、場所はラクシュウ首都アヒナールからはるか南に移動する。
ウゼラ=セル王国の首都、海に面したミ・ボス。ミ・ボスから沖を臨むとかすかに見える、ちいさな諸島がある。正式な名前がないこの環状諸島には、たくさんの翼竜とともに、昔から海賊が住み着いていた。
そして現在の諸島の主は、ここを住処とする海賊「黒旗」で、諸島は通称「黒旗諸島」と呼ばれている。頭目はウゼラ=セルお抱え海軍の将軍、「逃げの天才」バッタである。
そのバッタひとりだけを目指して、この諸島に、生まれ故郷に戻らんとしている一羽の翼竜がいた。
名はポンパー。彼は生まれつきが突然変異の脱色症で、体全体が白色であった。それがゆえに親に子と判別されず、餌を貰えずに衰弱し、兄弟に追われて巣から落ち、死に瀕していたところを幼いバッタの娘に拾われた。
主人である彼女が、自分に「父に」と託した手紙がある――彼は人語を理解しないが、長年寄り添った彼女の感情は理解できる。
彼は、帰巣本能ではなく、これは自分のすべき義務であるという意志から、力のかぎりに飛びつづけた。幾度となく疲労から墜落しそうになったが、最低限しか休まなかった。
そしてポンパーはいよいよ、海賊たちが黒旗諸島と呼んでいる、目指した故郷を視界に入れた。
諸島でいちばん大きな島、その西側に六〇ゴスガ(九〇メートル)ほどの偉容をほこる、一枚岩の岩山がそびえている。そこには岩山をくり貫いた、海賊たちの本拠地がある。
黒旗砦。砦の岩肌に面したある部屋の、ベランダにポンパーは着地した。植物繊維を編んで作った日除けのカーテンをくぐる。じつに四カ月ぶりの、なつかしい部屋である。海賊にしてはめずらしく本棚があり、たくさんの本が並んでいる。教養深い主人と自分が、共同で暮らしてきた愛着のある部屋だ。
「クー」
彼は低い声で鳴く。そしてそのまま、疲れたように皮張りの床に崩れ、眠りだした。
* *
「お頭、大変だ!」
粗野な足音、暴力的な声。黒旗の副頭目ヤイドノである。彼はいくら生来の性格がそうでなくても、周囲の反応が粗暴な性格に変えてしまうような、悲劇的容姿、声をしている。
聞けばおそらく可哀想な人生ではあるが、しかしヤイドノは自分の境遇にべつに悲観もせず、こうして海賊としての生活を謳歌してきた。その開き直りと意外な統率力をバッタに認められ、自身で一五〇〇人からの海賊たちをまかされている。
「なんだ、ヤイドノ」
大男バッタは砦の最頭頂、岩山の上を平らにした広場で、体操をしていた。
剣舞である。巨大な片刃剣は、常人には持つことはできても、自由に振り回すことはかなわない、とんでもない代物である。
それを自由自在にあやつり、剣に陽光が反射した見事な剣閃を周囲にひらめかせさせながら、バッタは腹心に言った。
「ちかくを同盟船が通らないかぎり、訓練を邪魔するなと言っておいたはずだぞ。なんの用だ?」
「そうじゃないが、とにかく大変だ。お嬢の翼竜が帰っている。手紙付きだ」
「なんだと、ポンパーが?」
バッタは剣舞をやめ、ヤイドノに近寄る。
「フィンからの手紙はどこにある」
さきほどまでの平静さは、まったくない。すさまじい形相、迫力。それでこそ、黒旗五〇〇〇の頭目たることがかなう。
その気迫に圧倒されたヤイドノは、さすがに生まれつきの弱気を顔に出し、あわてて懐から折り畳まれた紙切れを取りだした。
「これだよ、お頭」
バッタはヤイドノから手紙を乱暴に受けとり、そして急いで紙をひろげ、くいいるように文章を見つめた。
ひととおり読んだあと、海賊の頭目は片手で手紙をにぎり、そして体を震わせた。
「あの馬鹿娘、誰がそこまでしろと言った!」
そして背中に大剣を背負うと、無言で広場のはしにある階段にむかって歩き出した。
ヤイドノはすっかりバッタに畏怖の感情を持っている。ふだんは部下思いで頼り甲斐のある伊達男も、娘の危機と戦いの場では、鬼神に変貌するのだ。
副頭目が仁王立ちのままで失禁したからといって、誰も責めることはできない。一〇〇人のうちのなんびとが、さっきのバッタの恐怖に耐えることができただろう。
* *
ヤイドノがあわてて自分のズボンと下着を替えているころ、バッタはようやく落ち着いたのか、また伊達男に戻っていた。
一〇人隊長以上の海賊たちがたむろする上官娯楽室兼作戦会議室に、バッタは機敏な足取りで入ってきた。部屋にいた五〇人ほどの男たちは、頭目を見るやいなや、顔に親愛と忠誠の笑みを浮かべる。
身長一・三ゴスガ(二メートル)のバッタはあまりにも体格がありすぎるため、専用の座席を用意している。船長の一人が頭目の椅子を運んできて、バッタはそれに座った。
「海甲竜背液酒を飲みやすか」
「ありがとう。でも今はかまわん」
「わかりやした」
船長は自分のしていたカードゲームに戻っていった。バッタはひとり、瞑想をはじめた。
しばらくして、部屋にバッタの侍従でカーズ・シャ切り込み隊長のメノカが入ってきた。
彼はバッタの姿を確認すると、安心したように息をはいて、そして主人に近寄った。
「バッタ様」
「……メノカか。フィンは海に行ったよ」
「例の、東行きの航海ですか」
「そうだ。まったく、あいつは使命感と情熱に燃えすぎていかん」
「二月のクノース城潜入の件ですね」
「……俺はな、フィンにもっと外のことを知ってもらいたくて、ムック教圏への潜入留学を許可したんだぞ。それがなんだ、いきなり諜報ごっこなどをはじめおって」
「お嬢様は、バッタ様のお役に立ちたいと思っているんでしょう」
「わかってるよ、メノカ。だからこそ、あいつには……まあいい。とにかく決めた!」
バッタは勢いよく立ち上がり、なんだと頭目を見る周囲の者たちに向かって、高らかに語りはじめた。
「野郎ども、俺についてくるか!」
「おお~!」
「フィンが、同盟のやつらに連れていかれた」
「なんだとう、なんてひどいやつらだ」
「お頭、連中の町を焼いてしまおうぜ」
「ありがとう。俺は今からフィンを助けるための航海に出る。前人未踏の、命がけの航海だ。俺についてくる命知らずは名乗れ!」
バッタの宣言に、すべての者が即座に名乗りをあげたのはいうまでもない。
* *
ムック歴三四一年六月一一日。
セル公国首都、港町ボスに、ラクシュウの艦隊が入ろうとしていた。
ラクシュウ王ニン。彼は、部下たちの報告を聞いていた。
「先日、アットナ岬南に網を張っていた沿岸警備艦隊二五隻がサーナンド残存艦隊七隻と接触。戦闘となり、サーナンド船二隻を撃沈、五隻を捕縛しました。敵の指揮官ミリは、最後まで抵抗すると言い張ったところを、見放された部下に縛られて、かわりに副官が降伏したということです。こちらの被害は軽微」
「間者の報告では、敵国ウゼラ=セル首都ミ・ボスはいまだ動かず。どうやら、まだ今回の遠征は知られておりません」
「わが艦隊はもうすぐボスに入港。分艦隊の入港順序を指示願います」
これらの報告に細かく指示をだすニンは、今年で四二歳になる。
彼が生まれたころ、すでに侠勇ウネラーの活躍で、戦線は大河ムック以南にうつり、ラクシュウ本土までは、国土回復戦線の血生臭さは届かなかった。そのうえ、西に接する古国サーナンド、傭兵立国トアットといった国々が神聖ムック帝国の内戦に干渉し、中立を決め込むラクシュウは平和であった。
そんななかで、彼は二五歳の若さで王位を継いだ。ラクシュウ本土はウネラーによる経済と結びついた国土回復戦線による莫大な利益から特需景気となり、空前の勢いで発展をとげた。
長年平和なラクシュウであったが、いささか力をつけすぎたために、ニンは野望というやっかいなものにとり憑かれた。
もっと発展しよう、そうしよう。
その心の衝動にかられるように、ツエッダを受け入れ、政教分離を実施し、同盟を結成し、ムック教圏分離宣言を出した。すべて、ニンが急進的に行なった政策である。
ターエン主義ですら、ニンにとっては、あくまで自分の目的を達成するための道具でしかない。しかしニンにも、自分の求めようとする野心の帰結はまったく不明である。
その無軌道さが、ムック教圏による経済封鎖という事態を引き起こし、ウゼラを敵に回し、商人の口車に乗ってラナン海への出兵を決定させ、大敗した後も、冒険航海という難事業を思い起こすにいたった。
冒険航海において、現実的な最大の利潤追求可能地点は、南にある南洋諸島であった。
冒険航海には、仲間である以上、他の二国も参加させる必要があった。しかしニンは南航路をラクシュウに独占させたかった。そこで彼は北、東という、荒唐無稽に等しい冒険を考案、二国にまんまと押しつけた訳である。
無謀王ニンの思惑に強制的に振り回される小国セル、ツエッダは、いい面の皮である。
* *
「ツエッダ、なんというか、すごい数だぞ」
「まったく、勝敗は心配することもないだろうさ。この大艦隊を出陣直前まで秘匿していたんだから、おそらく他の敵国は、ウゼラ=セルへの援軍には間に合わぬさ。ほとんど奇襲に近いうえに圧倒的な数の差だな」
ウムラーとツエッダである。セル、ツエッダ二国合わせても、人口、経済力、軍事力はいずれもラクシュウの六分の一である。よって、目上となる国王をそろって迎えるのはとうぜんであった。
ふたりはつい三日前に、ニンから突然のラクシュウ新設艦隊によるウゼラ=セル親征の報を受け取った。ツエッダは急ぎボスまで駆けつけ、ウムラーは大慌てでニン艦隊の最終中継港であるボス港の受けいれ準備をした。
ボスに入港したのは、大砲付帆船三〇隻、新型の六段櫂船五五隻。計八五隻である。
とくに目立つのが、ギルガンデツが五隻は作れるくらいの木材をつかった、旗艦の超巨大帆船セレムスコル。まちがいなく、中原史上最大の船である。側面に片舷で二六門、計五二門の大砲を備え、はじめて四本もの帆柱を立てた浮かぶ要塞である。
セレムスコルから降りたニンを出迎えたふたりであったが、ふたりはその場で、息子たちが東に無事に行ったことを教えられた。
ツエッダは複雑だった。クアーダは、北がだめだと知るや、ウンラーと合流して東に向かったというのだ。短期航海で帰国するはずだったクアーダ王子が、なぜそういう行動にでたのか、ツエッダには理解できなかった。
ウムラーはとりあえずほっとした。ウンラー公子はムック教圏からの追手を払いのけ、航海は今のところ順調だという。
それぞれに独自の思いを抱きながら、三国の首脳は、その晩、公爵ウムラーと公妃フォーが主催した盛大な晩餐会を楽しんだ。
* *
ウゼラ=セル王国首都ミ・ボス。ミは「新しい」という意味である。ボスはかつてウゼラ=セルの首都であったところで、ウネラーが国土回復戦線の末期に占領した都市である。ところがセル公国がボスという名称を変更しなかったため、しかたなくウゼラ=セルの新首都はミ・ボスと名づけられ、今にいたる。
そして現在のミ・ボスの主人は、ウゼラ=セル七代国王、グンヌクス。老齢である。同世代では、壮健であったウネラーと、衰えているノーラ三世の中間くらいの元気さだ。
彼の治世は、まったく不名誉なものであった。一〇〇年前に獲得した領地を、わずか数十年でうしなった。それは全国土の数分の一にもあたる。しかも戦乱で国土は荒廃し、国力は一気に減退――絶頂からの下降といういやな時期が、すべて彼一人の治世時代に起こったことなのだ。
しかし老王はその晩年において、ようやく気運をつかんだと信じていた。奇才、バッタの登用である。
さいしょバッタは、ただの海賊の頭目であった。ミ・ボス建設にさいして、沖の諸島に居座るバッタたち「黒旗」を一掃するべく、グンヌクスは海軍を派遣した。しかしバッタは巧みに逃げまわり、数で勝るウゼラ=セル軍をうまく諸島におびき寄せ、地の利を活かした奇襲戦法で返り討ちにしたのだ。
以来、バッタはおなじような、しかしいつも異なる「逃げ――奇襲」の戦術で、数の不利をおぎない、海軍は連続敗戦の記録を更新し続けた。いつしかバッタはウゼラ=セル軍の兵士から、皮肉をこめて「逃げの天才」という異名で呼ばれるようになった。「奇襲」を入れなかったのは、兵士たちのせめてものプライドだったのだろう。
そんなことが数年もつづくと、さすがにグンヌクスはバッタの才能を認めざるを得なくなった。そして王はバッタを登用した。バッタがあっさりと臣下になったのは彼をあぜんとさせたが、それはバッタにも事情があった。
名が高まったバッタは、彼に憧れて急増する仲間を食わせる必要があったのだ。とにかくこうして、海賊が海軍になるという、奇妙なことが中原史上はじめて実現した。
グンヌクスはかれらの使い方に苦心した結果、襲う船を敵対国の船に限定するという条件で、従来の生活を保障した。おおやけに海賊行為を認可されたバッタ海軍は、私掠船としてウゼラの海で存分に暴れ回った。
そのなかでムック歴三三三年、大砲が発明された。巨大な火器である。陸上戦よりもずっと早く、ウゼラ教圏の海戦に革命がおこった。突撃櫂船は戦場から消え、大砲の弾をたくさん積める帆船が軍船になった。
そして帆船は急速に大型化し、たくさんの大砲を積めるようになった。そうなるとただの石弾や青銅弾では、大型船相手には不十分になった。需要に対し、一人の天才によって、詰めた火薬を爆発させるものが発明された。
それらをいち早く導入し続けたのは、つねにバッタ軍であった。国内で最大の戦果をあげる軍隊である以上、グンヌクスは海賊将軍に最大限の援助を惜しまなかった。黒旗艦隊はさらに強くなった。バッタは大砲をつかった有効な戦術を研究し、新戦法を編みだした。
ラナン海海戦は、その集大成である。広いラナン海に布陣して数で勝る同盟の油断をさそい、徹底的な火力集中運用により、ぶ厚い弾幕を張る。これだけであった。
これはとても有効な戦法であった。ラナン海海戦ではこれを無視して適当に撃っていたトウルの将軍は死に、未知なる北海海戦では、この戦法を真似たセルとツエッダが戦力を合わせ、数倍するサーナンドを打ち破った。
ウゼラ=セル宮廷、謁見の間。
今、グンヌクスの目前にいる大男こそ、ウゼラ=セル海軍史上最高の知勇をそなえた将軍、バッタである。
バッタが来たとき、グンヌクスは訝しんだ。彼はこの海賊の頭目が、どういうわけか王族、貴族という人種を心から嫌っているのを知っている。子爵に叙するという自分の好意を断ったのは有名な話だし、必要なときにしか宮廷には参上しない。
そのバッタが、呼びもしないのに来た。いや、呼ぶまえに来たというべきか。今ミ・ボス宮廷は、先日もたらされたある情報により、混乱をきたしている。
「グンヌクス王におかせられましては、私めの急なお目通りをご寛大にもお許しいただき、このバッタ、まことにありがたき幸せにございます」
「バッタ、今日はなにしに来たのだ」
王の質問に、バッタは自分にできる最大限の虚飾に満ちた言葉をつかって返答した。
それはただ一つ、長期の休暇願いである。ほんとうは自分の娘を追うための期間を稼ぐためのものだが、そのことは伝えてない。
「……たしかに、海は今や安泰だ。わがウゼラ=セルに敵対しようという海洋国家は、数年はあらわれないだろうよ。わかった、二年という条件で許可しよう」
「ありがとうございます」
「ただ、ひとつだけ条件がある」
「……なんでしょうか」
「ラナンの亡霊がここに来る。それを打ち破れ。それが成れば、どこにでも行くがよい」
* *
ニンがなぜふたたびウゼラ教圏に戦いを挑もうとしているのか。重臣たちの間でいろいろな憶測が飛び交ったが、いずれも的をおおきく外していた。ただ表面的にわかることは、ニンがラナン海海戦の復讐戦をしようとしていることである。相手は――バッタ!
ニンは、自分のなかにある日々増大の一途をたどる野心が、どうしようもないほどに自意識を拡大させ、それがラナン海海戦敗退での雪辱感を、個人の心に納めておくにはあまりに巨大なものにさせてしまったことを知らなかった。ストレスは発散させないと、いつか自己崩壊を起こす。ニンはラナン海で自軍を壊滅させた張本人バッタを、日々夢のなかで殺し、復讐を果たしていたが、それでも我慢できなくなった。とうとう、妄執という前進せざるをえない衝動のままに、短期間で編成した新艦隊でもって、ウゼラの海をミ・ボスに向けて出港した。
この艦隊は、本来ニンが目指す南洋諸島群への冒険航海のために新造されていたものである。南洋諸島は、セル公国首都ボスから南東に約二〇日の距離にあるとされる。現在の技術では、無寄港で六〇日はもつだけの食料と水を積む外洋航海帆船を作ることができる。商船ならば、積荷の三分の一を食料と水にすれば、まだ三分の二を取引用の荷を積むスペースに回すことができるのだ。
制海権というものは、この時代、まだ海岸線近海を保つのが限度である。つまり、三国同盟の港から十分に沖にでて南洋諸島を目指せば、広い外洋でウゼラ教圏の軍船に妨害される心配はほとんどなく、採算のとれる航海が事実上可能なのだ。
それなのにニンは、南洋航海の後背を突かれるのを未然にふせぐという名目で、ウゼラ=セルに、いや、バッタに私戦を挑もうとしている。もはや彼にとって、憎たらしい海賊の頭目をこの世から抹殺しないことには、枕を高くして眠ることはかなわないのだ。
ニンの戦力は大砲付帆船三〇隻、高速六段突撃櫂船五五隻、計八五隻。動員数は三万四四〇〇人である。とくに突撃櫂船はもはや海しか移動できない大型のもので、片側の一垂直軸にたいし、三本の長櫂があり、それを各ふたりづつ、計六人で操作する。一隻の櫂船につき櫂が二一〇本、漕ぎ手は四二〇人もいる。これは明らかに、大型化によって大砲への耐性を高めようとしたものであった。
この戦力をわずか数ヶ月で準備したラクシュウの工業力は、おそるべきものである。しかし、兵士はほとんどが初陣である。
それに対するバッタ海賊軍「黒旗」は、大砲付帆船四〇隻、兵力は精鋭だがわずかに五〇〇〇人ていど。
船の数で二倍、兵力で七倍もの差がある。そのうえ一隻あたりの平均的な大きさは、ラクシュウのほうがはるかに大きいのだ。
ボスに潜伏していた間者からの、ラクシュウ軍来襲の報がミ・ボスに届いたのは六月一二日である。迎撃準備の期間は短く、ウゼラ=セル海軍は一国だけでこの大艦隊と戦わねばならぬのだ。
* *
ムック歴三四一年六月一四日早朝。
ミ・ボス港。そこにはいつもの、商人たちの威勢のいいざわめきはない。かわりに、重装備の兵士、鎧竜騎士、砲兵がおおぜい、整然と陣を敷いて港を埋め尽くしている。
ラクシュウ軍のミ・ボス攻撃にたいして、迎撃をするために陸軍の精鋭約三万が港を固めている。さらに市街地、城、周囲の山野に配置した兵二万、計五万の兵で、ラクシュウ軍の上陸を阻止しようという作戦である。
そして港口には、三〇隻の黒い帆船がいた。
グンヌクス王からの勅命で、ラクシュウ軍迎撃の先鋒をになうバッタ軍精鋭である。本来は四〇隻全艦で出撃するのが本道のはずが、なぜか一〇隻をどこかに温存している。
「バッタ様、さきほどから陸軍からの使いが、なぜ全艦で出撃しないのかと訊ねていますが」
侍従のメノカがバッタに報告する。
「ふん。そんなことをしたら、俺たちが全滅するからだと伝えろ。それから、おまえたちにも大勢の死人がでることになる――ともな」
「いいのですか?」
「かまわんメノカ。これは策略なんだぞ。それに、もし俺たち海軍が破れて制海権を同盟に奪われてみろ。やつらは港外から、砲兵以外にたいした反撃手段をもたない陸軍を、一方的に砲撃するだけで簡単に無力化できる」
バッタはそう言うと、そのまま眠り出した。
「余裕ですね……今回は圧勝ですか」
メノカは頭目への全幅の信頼でもって、かすかな笑みを顔に浮かべながら、陸軍の使いにさきほどの言葉をそのまま伝えにいった。
* *
午前一〇時。
「敵艦隊発見! 数不明!」
物見の声にバッタは即座に起きて、カーズ・シャの帆柱横のネットを器用によじのぼり、高いところから敵船影を確認した。
「やはりな……数不明ね、当然だよ。そうせざるを得ない艦隊編成だからな」
バッタは独自の情報網を持っている。ボスに潜入している部下が、翼竜で伝えた情報によると、なぜか突撃櫂船を、しかも見たこともない大型のものを主軸とした艦隊であったという。それでも、大砲装備の帆船三〇隻は、なかなかの数である。
先に得たポンパーからの情報では、セル、ツエッダも、大砲を実用化していた。さすが火薬発明の地、どうせラナン海海戦でトウル国の大砲を入手したのだろうが、真似をするにも、それなりに技術の蓄積が必要なのだ。
「いちおう大砲船を前に出しているが、やはりまだ突撃櫂船に幻想を抱いているようだな……作戦はそのままでいいな」
バッタは一気に下まで降りると、周りの者に大声で叫んだ。
「作戦開始、亡霊退治だ、黒旗を掲げろ!」
* *
「我が王、敵艦隊約三〇、三並縦列陣形で港を出ていきます」
「こちらに向かっているのか?」
「いいえ。に、逃げているようにしか見えません」
「なんだと、なぜミ・ボスを守らない! これではこちらの作戦が使えないではないか」
せまいミ・ボス港にバッタ艦隊を押し込んで、動きを封じたところに突撃櫂船の特攻をかける。それが、ニンが海軍の将軍に考えさせた作戦である。
そのために、前面に大砲付帆船を、後方に突撃櫂船を配置した、八五隻という数の多い艦隊ではまずやらない、縦長という特異な陣形を取っている。この陣形のため、黒旗艦隊の物見は数を数えられなかった。バッタは、すこしこの陣形を見ただけで、すぐにラクシュウ軍の意図を見抜いたわけである。
さすがに自分の作戦がラナンの大敗を招いたことを反省して、今回の作戦は専門家に考えさせたのだが、親征と銘打つ以上、現場で指揮をとるのはニンである。無謀王はあせったが、すぐに都合のよい結論をだした。
「敵は、こちらの数に恐れをなしたのだ」
「それならば好機です、我が王。一気にミ・ボス港に雪崩れ込みましょう」
ニンは、側近の言葉にいきなり怒鳴った。
「キンバーライト、俺の目標はあくまでバッタ海軍の殲滅だ。口出しするな!」
「す、すいません」
「全艦、陣形を広げつつ、逃げる敵艦隊を後方から包囲!」
* *
「バッタ様、いまごろミ・ボス港の陸軍兵士たちは、私たちの行動に驚いて、激怒していますよ」
「笑いながら言うなよ、メノカ。大丈夫さ――」
上から物見の声が響いた。
「お頭、敵艦隊が、こちらに進路を変えたぜ」
「――やつらはラナン海敗戦の屈辱が産んだ、亡霊艦隊だからな。狙いは、ずばり俺たちだ」
「そうですね。この出兵自体が無意味なものであるのは明白ですから、考えられるのは、個人的な復讐戦です」
「わかってるじゃないか、メノカ。そのとおりだ。つまり、こちらが敵の思惑どおり、わざわざ動きの取れないせまい港で迎撃する必要などないのだ。さてと、幽霊どもに俺から大切な時間を奪ったそれなりの返礼をしなくてはな……」
バッタは静かに怒っている。当然である。
(フィンを追いかけようとしたら、いきなり邪魔しやがって……絶対に許さん)
バッタはいざ戦いがはじまったら血の気が多くなるが、それまでは物静かで冷静である。そして冷静なときのバッタほど恐い存在はない。冷静なときのバッタに死の宣告を受けた者は、血の気が多くなったときに貪られる。
いま、ラクシュウ艦隊がその宣告を受けた。
* *
ラクシュウ艦隊は、ひたすら東進するバッタ艦隊を追った。いつの間にか陣形は崩れ、横に広がっている。
しかしすこしずつラクシュウ艦隊は細長い黒旗艦隊を後方から半包囲する形を整えていった。やがて、三〇隻の帆船がバッタ艦隊の後ろ半分を射程に捕えた。
「我が王、敵艦隊は射程内です」
「うむ。撃て」
三〇隻の帆船に備え付けられた大砲が、一斉に撃ちはじめた。しかしいかんせん素人である。マントルの予想どおりかすりもしない。
「なにをしている!」
超巨大帆船セレムスコルの大砲も煙を吐きながら一斉射撃をつづけるが、轟音が轟くだけで、大量の派手な水柱がバッタ艦隊の周囲に立ちのぼるだけである。
無理もない。かのラナン海海戦でラクシュウ海軍は全軍の九割以上を失っており、これはセル公国の五割、ツエッダ王国の七割を大きく上回る。熟練の兵は新兵器でも短時間で習得するが、新兵の多いラクシュウ軍に、セル、ツエッダが航海用に選出した小数の精鋭にやったような濃い訓練はできなかった。
しかし下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるという。ある砲撃手の撃った一発が、とうとうバッタ艦隊最後尾に位置するある船を直撃した。
爆発! ニンは喜びに震えた。
……?! なんと、炎上しない。
「なんだ? あの船は」
その後もたびたび弾が当たるが、いずれも爆発はすれど、まったく船が燃える様子はない。しかも着弾した敵船の甲板上に、人影を確認することができない。
これこそバッタ海軍の新兵器、鉄甲装甲。
ラナン海海戦でウゼラ各国に大砲での戦い方を伝授してしまったバッタ海軍は、さらにライバルたちの上をいく手段を考える必要に迫られ、その結果として考案されたのが、この対大砲装甲である。各国は大砲にただ船を大きくすることで防御となしてきたが、バッタはそれではだめだと思っていた。バッタ海軍は船こそ小さかったが、それを人一倍の鍛練による技術でカバーしてきた。
そのため、帆船でありながらの高機動を実現していた。大きい船はたくさんの大砲を積めて、攻撃力はあがるが、動きが鈍くなるし、一隻あたりの操船要員もうなぎ登りに増える。
さらに、動きが鈍いと、集中砲火を受けてすぐに沈没する。それでは駄目だ――そこで、船の大きさを変えずに、防御力をあげるという発想の転換をおこなった。バッタ軍の船は小さいので、そのままこの応用が利く。
船の外側と甲板上に指一本分もの厚さの鉄板を張り、操船機能を船内に移動させた。
便宜的に鉄甲船という呼び名を与えられたこの新バッタ艦隊は、敵の集中砲火を浴びるようなときを想定して、全員が船の中に移動してそのまま操船する訓練をおこなっている。
砲撃は甲板からしかできないので、反撃ができないというまぬけな欠点もあったが、まちがいなく大砲に対する絶大な防御力を持った。重量増加による機動性の低下は、全帆の四角帆化と大型化で解消した。
指一本分の鉄板で、じゅうぶんに爆発の衝撃を吸収できる。さすがにおなじところに二回も受ければ駄目だろうが、そんなことが滅多にあるわけがない。
いくつかの着弾があり、いくつかの爆発があったが、いずれも炎上には至らず、すこし帆が燃えたという船が一隻あるだけである。
無謀王は怒った。
「突撃船、突撃開始!」
しかし、突撃船を突進させるために大砲の射撃をやめたとたん、敵鉄甲帆船の甲板上に砲兵がでてきて砲撃をはじめ、突撃を開始していた櫂船はたちまち炎上した。
「いかん、引き上げろ」
ニンの指示で攻撃はすぐに中止されたが、二隻が沈没、六隻が炎上でダメージを受けた。
ニンはふたたび砲撃を再開させたが、すぐに敵兵は船内に隠れた。ときどき弾があたるが、相変わらず燃えないし、貫通もしない。
「櫂船で接近、火矢で帆を焼き、航行不能にさせろ!」
砲撃を続けさせながら、包囲陣の一部から五隻の突撃船が突出し、バッタ艦隊最後尾の鉄甲帆船に近づいた。
そのとき、ラクシュウ艦隊の射程外にあるバッタ艦隊前衛が砲撃、かわいそうな五隻の突撃船は集中砲火を浴び、たちまち炎上。派手に船体を折りながら五隻すべてが沈没した。沈没があまりに早く、船内にいた者はひとりとして脱出できなかった。
「ウムム……脆い、なぜ防御できぬ」
ラクシュウ軍部は突撃櫂船を大きくしたらよいと考えていたが、それは誤りである。突撃船はその構造上、横の幅に対し、あまりにも縦長なのだ。そのため一定の損傷を受けたら、船の形を保てない。軍船としての櫂船がウゼラの海から消えたもう一つの理由である。
とにかく万策つきたラクシュウ艦隊は、バッタ艦隊を半包囲で追いながら、ただ無為な砲撃をつづけた。
* *
「ヤイドノお、お頭が獲物をたくさん連れてきたぜ」
「おお、そうか……」
黒旗諸島である。軍では副司令官、海賊では副頭目になるヤイドノは、バッタから与えられた使命をはたすべく、砦で部下一五〇〇人とともに待機していた。
すこし寝ていたようだ。あくびをしながら、ヤイドノは指示を出した。
「ふああ、帆船をだすぞ。強襲船も予定位置に配置させろや」
「がってんでい」
部下が去っていく。副頭目はぐちを漏らす。
「なんで俺様はいつも裏方なんだ? くそう、侍従のくせに、メノカの若造がいつもお頭のとなりにいやがる」
ヤイドノはメノカを憎悪している。バッタはヤイドノを重宝し、海軍でいう分艦隊司令にまでしているのに、ヤイドノにとっての副司令のありかたは、あくまで指揮官のとなりにいることなのだ。それは、ヤイドノのバッタに対する同性愛的な感情の結果であったが、この倒錯的愛情がもたらす事件が発生するのは、もうすこし後のことである。
* *
すでに戦闘開始から一刻が経過している。戦線は膠着し、被害は一方的にラクシュウ側に出ている。ニンは包囲網を縮める作戦にでてみたが、こちらが加速すれば敵も加速する。まったく相対距離が狭まらない。
「馬鹿にしやがって!」
ニンはだんだん精神の平静を失いはじめていた。いつの間にか自分の艦隊が黒旗諸島に入っていることを気にもとめない。
「我が王。敵は、こちらが仕掛けるのに熟練の腕ですばやく対応することで、数の不利を補う作戦です。すこし追うのをやめて、相手の出方を待つのがよろしいかと」
「だめだキンバーライト。そんなことをすればバッタは逃げ切るぞ。やつは『逃げの天才』だというではないか」
こうしてニンは、まだ逃げきれた最後の機会を、自分から断ち切った。
それからほとんど時間をおかず、とつぜんラクシュウ艦隊の後方が混乱をきたした。
「撃ちまくれ! さもないと死ぬぞ」
ヤイドノが指揮する一〇隻の小艦隊が、どこからともなくラクシュウ艦隊の裏手に出現し、滅多やたらと砲撃をぶちかます。あまりの勢いに、あっという間にラクシュウ艦隊は陣を乱した。
「なにをこしゃくな。左翼、右翼は後方の小艦隊を撃滅せよ!」
ラクシュウ艦隊の両翼が反転し、ヤイドノ分艦隊を包囲しようとしたそのとき、バッタは勝利を確信した。
「馬鹿が、敵前回頭しやがった。自分から進んで負けてくれるとは、この艦隊の司令官は無謀なやつだ。亡霊だから脳味噌がないのかもな」
それが無謀王ニンのことを的確に指しているとは気づかず、バッタは大声で叫んだ。
「いままでよくぞ耐えたな、野郎ども。今こそ反撃のときだ。十字剣旗を掲げろ!」
「おおう~!」
カーズ・シャ――海神娘という意味の誇り高き船に、徹底攻撃の意味である「十字剣旗」がひるがえった。
「海神カーズと戦神クーズよ、我らを守り給え。全船左舷旋回、反時計まわりに移動しながら、敵主力部隊に総攻撃! とくに、反撃手段のある帆船を集中的に狙え!」
黒旗軍、今やすべての帆船が錆止めの焼入れをいれた黒い鉄甲装甲で黒くなっているため、名実ともに黒い艦隊である。その艦隊が全力で攻勢にでた。
急襲!
ラクシュウ艦隊は、なす術がない。練度、戦意、地の利、そして戦いの主導権の、すべてでバッタ艦隊が勝っていた。黒旗艦隊はせまい環状諸島の端を移動しながら、ラクシュウ艦隊を中央に押し込み、集中砲火でラクシュウの帆船を撃破していく。突撃をしようとした櫂船は、たちまち砲撃を受け沈没する。
いつの間にか左翼、右翼艦隊も、中央艦隊に合流させられて、諸島の中央で右往左往している。バッタ艦隊にヤイドノ分艦隊が合流し、ラクシュウ艦隊はただの的となっていた。
「うむむ……『逃げの天才』とはこのことだったのか……」
ニンはようやく気がついた。バッタは逃げ上手ではなく、逃げるふりの天才だったのだ。
副将キンバーライトが意見具申した。
「我が王、このままでは各個撃破されるだけです。はやく陣形をととのえ、すみやかに一点突破で脱出しないと」
「……無念」
* *
午後一時。五分の三にまで減ったラクシュウ艦隊は、なんとか円陣に陣形を再編して、諸島に進入してきた一番ひろい海峡部分へと移動を開始した。
その進路をバッタは妨害しなかった。前に出てラクシュウの必死の反撃をさそわず、後ろから執拗に、遅れた船を撃沈していった。
「こしゃくな、バッタ……しかしどうやら逃げ切れるな」
ニンの楽観は、見事に裏切られた。
「うわあ、強襲船だあ!」
海峡部分の島影にヤイドノが伏せておいた二〇隻の小型強襲船が、一気にラクシュウ艦隊を両側面から突いた。
強襲船は海賊である「黒旗」が、もっとも得意とする奇襲戦法でよく用いる。これは小型の漕ぎ船であるが、極端に船底の角度が浅く、製作が難しい。すばやく移動するためだけに作られた船なのだ。
海賊一〇〇〇人が、つぎつぎとラクシュウ軍船を襲う。ラクシュウ軍は兵士の三分の二が漕ぎ手、四分の一が砲兵手である。のこりの水夫や兵士がいちおう直接戦闘要員であるが、ほとんどが新兵、実戦経験などない。
それに、海賊は無理をしない。一隻のラクシュウ船に三隻以上の強襲船で乗り込み、ラクシュウ船の戦闘要員のかならず一・五倍以上の兵士で戦いを挑む。
そうやって、たちまち二〇隻ちかい船が降伏した。いずれも大型のラクシュウ軍船は、せまい海峡を一度に数隻ずつしか突破できない。強襲船は、我物顔で暴れ回る。そのうえ、背後からは砲撃の嵐である。もはやラクシュウ軍は戦意を喪失し、総崩れになった。
旗艦セレムスコル以下、かろうじて黒旗諸島を脱出できたのは、旗艦を含めた帆船三隻、突撃櫂船二三隻だけであった。
「逃がさないって言っただろ!」
バッタはラクシュウ艦隊に死刑判決を下している。彼はあくまで海賊なのだ。無益な殺しはしないという、騎士道精神などを持ち合わせているはずがない。
「ミ・ボスに押し込め!」
バッタのとんでもない指示は、ちゃんと実行された。ひたすら北に逃げようとするラクシュウ艦隊は、東から北にまわりこもうとするバッタ艦隊から逃れようと、自然と進路を西に取る。漕ぎ手も疲れはじめており、バッタ艦隊のほうが足がはやい。
バッタ艦隊は砲撃をつづける。そしてとうとう櫂船に見捨てられ、列の後方に剥き出しとなったセレムスコルが、集中砲火を受けた。
「ぐわああ!」
運わるく、ニンは着弾点にいた。彼の四肢は千切れ、ラクシュウの無謀王はその無謀さゆえ、とうとう自分の命を失った。
新造超巨大帆船セレムスコルが沈没したのは、それから数分後のことである。さいごは一対の聖戦槍を持つ船首像「海鎮の乙女」が哀しげな姿を煙の間に見せながら、碧い深淵の底に消えていった。野心とともに……
* *
ウゼラ=セル陸軍は、ちゃんと活躍の場を与えられた。
しかしそれは、バッタ艦隊によってミ・ボス港に押し込まれ上陸、死兵となって玉砕特攻を敢行した約五〇〇〇人の狂戦士退治であった。死にもの狂いで恐いものなしのラクシュウ兵との戦いで、ウゼラ=セル陸軍の死者はラクシュウ軍の倍ちかい八五〇〇人にもたっした。降伏したラクシュウ軍の生存者は、わずかに六〇〇人あまりであったという。
午後五時、戦闘は終結した。
バッタ艦隊は、帆船小破三隻、強襲船沈没一隻、中破二隻。動員数五〇〇〇人のうち、死者はわずかに一二五人であった。
ラクシュウ艦隊は、軍船八五隻のうち、沈没五二隻、補縛一八隻、ミ・ボス港上陸後炎上一五隻。動員数三万四四〇〇人のうち、戦死二万七三一六人、降伏七〇八四人であった。
ラクシュウ遠征艦隊は、故国への未帰還率一〇割。文字通り、全滅であった。ラクシュウ王国は南洋諸島へ冒険航海をする力さえ、しばらくはなくなるだろう。そのうえ、急進力たるニンを失った大国は、どういう展開を見せるのであろうか。とにかく、三国同盟で当初どおりの試みに挑戦しつづけているのは、ただセル公国一国のみとなった。
* *
つぎの日、ミ・ボス宮廷、謁見の間。
「バッタ将軍、本日早朝に諸島を出発。そのまま北に向かったとのことです」
「……そうか。して、船数は?」
「一二隻だとか」
「艦隊のわずか三割だけか。いったい、どこに行くつもりやら」
グンヌクスは窓から見える黒旗諸島を見つめた。
最長でこれから二年間、ウゼラ=セルは強力な海軍の指揮官が不在となるのだ。先日の戦いぶりを見て、グンヌクスはあらためてバッタのすごさを思い知った。
「生きて帰ってこなんだら、許さぬぞ」
誰にも聞こえぬように、そうつぶやいた。
* *
神聖ムック帝国、聖紫竜宮、教皇帝専用の食事の間。
高級神管が、食事中のノーラ三世からはるかに離れた場所から、大声で報告をしている。
「サーナンドおよび我が水軍の連合艦隊は、いずれもラクシュウに投降しました。サイオス将軍は果ての吸い込み竜に飲まれて死亡、ミリ将軍は捕虜となりました」
「……はい?」
しかしノーラ三世は耳が遠い。高級神管コペポーダは、さらに大声で同じことをその後十数回くり返し叫ぶ羽目になった。これもしょうがない。なにせ、教皇帝の周囲には、入ったら死を賜る紫色のじゅうたんが敷きつめられているからである。
* *
久しぶりに聖紫竜宮から自領へ戻ろうとしていた皇太曽孫フェスドナンド公フェスドナは、竜車に乗ろうという直前で、小姓から嫌な知らせを耳に入れた。
「サイオス将軍とその姫が、果て竜に飲まれただと?」
「……はい、確かな情報です」
「……わかった、下がれ」
青年は苦渋に満ちた顔をした。軍港ヤトトーウで見た、姫の姿が脳裏に浮かぶ。
(アーシャ姫、風のように溌溂として気に入っていたのに。任務から戻ったら、伯爵に正式な許婚を申し入れるつもりだったが――仕方あるまい、我慢してあの醜女と結婚するか)
そして竜車に乗り込む。立派な四つ足の三角竜が歩きだし、車が動きだす。
周囲を数百名の衛兵に守られながら、フェスドナは帰郷への旅に出発した。
* *
ニンが死んだ瞬間、
読書中だった無謀王ニンの三男、マントルは突然、嫌な悪寒を感じた。
「うっ」
「どうしました、マントル殿下」
侍従が心配そうに痩身の王子をながめる。
「大丈夫だ……なんでもない」
そしてまた自分の机に向かう。
「とりあえずシルル水を用意しましょう」
「すまないな、そうしてくれ」
侍従が書斎から出ていった。それを見届けると、マントルは頭を押さえた。
(もしや我が父に、何かあったのか!)
彼の懸念が現実として報告されるまで、なお五日の時を必要としていた。