第四話 迷信をぶっとばせ!

よろずなホビー
竜しかいない!/第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話

 ラナン海海戦でラクシュウ王ニンの慢心と油断が敗者側の被害を無秩序に増大させたとするならば、この海戦を小規模で再現した未知なる北海海戦では、ミリ将軍の無能さとサイオスへの嫉妬が、サーナンド艦隊の死傷率を九割という突飛で不名誉な数値に高めたといえよう。
 軍司令官は兵士の命を預かっている。極端に言えば、兵士たちにすこしでも効率よく人殺しをさせて、できるだけ生きて国に帰らせることが、上に立つ現場指揮官の役目であり、これは軍隊という組織が歴史に登場した瞬間から、彼ら将官に生じた義務であった。
 そういう意味では、己の自我すら抑制できぬ二人は、軍人としては完全に失格である。下で働く一般兵に上司を選ぶ権利があるわけないから、上に立つにふさわしい者を育成選出する機関――士官学校の存在意義は巨大である。だが、今の中原で士官学校があるのは、近年激戦を繰り広げ、軍事改革の必要があったセル公国とウゼラ=セルだけであった。
 すなわち、こういう不適合指揮官を産む土壌は、中原中に散らばっているのである。自己中心的な考えによる愚かな作戦や、誤解による無意味な出兵が後を絶たない。そのたびに多くの民衆が、大義という名の元に、無念の屍を野にさらすことを強要されていく。
 とにかく、ほとんどミリの自滅という形で終わった未知なる北海海戦は、その事後処理でやっかいな問題を抱えていた。
 大量の捕虜である。
 ウンラー、ガナス、ターエン、クアーダ、ブルーギルといった勝者側の首脳部は、セル公国船団旗艦、ギルガンデツに集まっていた。
 目的は、もうすぐここに来る帝国将軍との面会である。
 両国の若い司令の、事実上の補佐を担当するガナスとブルーギルが、お互いの意見を交換していた。
「一兵も傷つけずに降伏したあの見事な帝国艦隊は全部で八隻で、こちらより一隻多い。そのうえ帝国軍船はわれわれの帆船よりも多くの人員を必要とする櫂船だ。あきらかに総人数はこちらより多いはずだぞ。どうする?」
「櫂船にはそれほど食料は積めないから、数日もすれば我ら同盟側が提供することになる……そうなれば、一月せずして飢えに苦しむことになるわ。どう考えても、彼らを連れて東へと行くことは無理ね」
「そうだろうな。やはり彼らを連れていったんラクシュウまで戻って、沿岸警備艦隊当局に引き渡すしかあるまい」
「それなら、我が船団だけでも出来ましたが――王子が勝手に貴国の公子とあんな約束をしなければ……ご迷惑をおかけしてすみません」
 ブルーギルは責任感が強くて真面目一方なため、悩んで落ち込むことが多い。そんな彼女に、ガナスは昔の自分を重ねた。
「謝らなくてもいいさ。こちらは、迷惑どころか感心しているくらいさ。腰抜け王子に、不屈の挑戦心があったとはな。北の冒険航海が駄目になったから、我が国の東進冒険航海に参入させてくれ――とは、まったくあっぱれな王子じゃないか」
「だが、こちらの船団がかけた迷惑はそれだけではないだろう、ガナス殿……戦闘局面を無視した敵前逃亡は、王族でなかったら軍法裁定で将軍でさえ死罪になる大犯だ。こちらから勝手に同行した上に、この罪までまったく問わないとは……私は、詫びとして積荷の一部を貴船団に譲渡するつもりで来たのに――」
 あまり気負いしない性格である親衛隊長は、本気でそう考えている真面目なブルーギルに急速に親近感を抱いた。
(こいつは、過去の俺だな……ウネラー様に仕えるまでは、俺もこんなんだったっけ)
 ガナスは肩をすくめて、とことん軽い口調で同胞国の補佐官に言った。
「そんなことは関係ないさ、ブルーギル女史。我が船団に、君の王子に対する不満は確かに存在するだろう。この俺自身にもないとは言えぬ。ツエッダは即刻帰ってくれ――これがセル公国の総意だろうな。だが、あくまでうちの総責任者は若だ。ウンラー君の意志は、船団の意志となる。その若様がクアーダ王子を許すとのたまわった――まったく、最高に甘いというか、あるいは懐が深いというか――とにかく、われわれは公子に従う。よって、ツエッダ側に非はなかったし、つまり最初から責任など存在しない。これにて一件落着、気にするな」
「ガナス殿、そう言ってくれるか」
 予想と正反対の反応で、ブルーギルはあっけに取られつつも、心が楽になった。そんな彼女の変化を表情から読み取って満足したガナスは、視界の隅にクアーダを捕えた。
(しかし、航海成功の暁には、交易の権利は半分ずつだとは……国力比を考えれば、こちらが損な話じゃねえか。取らぬ紫竜の皮算用というから、今はまだ何も言わぬが、いずれは公式の場でちゃんとした利率の話をつけないとな。お人好しなうちの若様とはいえ、一国の世継ぎを相手によくやるよ、クアーダ王子。これは侮れぬ。気弱な性格さえなければ、どんな大物に化けるやら)
 ウンラー公子は、責任や権利というものに無頓着な世間知らずである。それは冒険公爵ウムラーの影響もあったが、本人に世子であるという自覚が決定的に足りないことが最大の要因であろう。師ターエンの教える内容にも片寄りがあったが、ウンラーは世継ぎというよりは、理想を求めがちな書生論で行動する学生活動家に、物事を自分で体験しないと気がすまない冒険家を足し合わせたような、そんななかなか困った人物であった。
 お人好しのウンラー公子は、ラー二一六から一雙の小船がやってくる様子をじっと見ていた。
 もちろん小船の目的地はウンラーの船、ギルガンデツ。ギルガンはこの惑星ではまだめずらしい、被子植物の草花の名前である。花詞は「成功」、デツはセル公国独特のもので、「丸」や「号」にあたるから、さしずめギルガンデツは「成功号」という意味であろうか。
 ギルガンデツの三隻の僚船は、ネルフォムデツ、リーマデツ、クラデツという名で、おなじく花の名である。それぞれの花詞は「勇気」「友情」「冒険」というなかなか中年青春親父的な趣味であり、もちろん名付け親は冒険公爵ことウムラーであった。
 ちなみにツエッダ王国王子、クアーダの船ウイルは「天下」という意味で、特になんの願いもない。他の二隻はアグナータ、ユーリプテリドといい、「起源」「海賊」という意味である。三隻とも、おおげさな名前が好きなだけのツエッダ王が、一秒で考えた名だ。クアーダも「覇者」という意味であり、王の趣味が生来のものであるのはいうまでもない。
 名前負けしているクアーダ――この海戦で、周囲から最低と評価を下された――王子は、会わせる顔がなさそうな様子で、ウンラーの隣に立っていた。
「すまない、ウンラー。もうあんなことはしないからさあ、許してね」
「気にするなよ、クアーダ。あの場合は、君の行動にはそれなりの理由があったじゃないか。卑屈になるなよ」
 さらっと言うあたりが、気弱なクアーダにはかえって恐ろしかった。戦場からの逃走という行為に、さすがのウンラーも完全に寛大ではいられなかった。
「う……」
 それっきり、クアーダは沈黙する。ウンラーは、すこしせいせいした気分で、また奇妙に豪勢な敵軍の小船のほうに注目した。
 神聖ムック帝国の艦隊は、無傷である。しかし、すっかり同盟の帆船に囲まれ、なにかしたらいつでも大砲や火矢、鉄砲を撃てる態勢になっている。しかし、ウンラーはそんなものは必要ないはずだと思っていた。
(この将軍は、大砲を見てもまったく戦意をなくさず、果敢に挑戦してきた。そしてかなわないと見るや、いさぎよく降伏した――部下を無駄死にさせないために。これを惰弱だと笑い非難するやつは、恐魚竜に呑まれて死んでしまえ。これこそ、お祖父様が生涯をかけて求めていた戦い方だ。本当の武人とは、この様な人のことをいうのだろうな)
 ウンラーは、亡き祖父ウネラーをその将軍に重ねた。ウネラーは、理想の武人であった。敵にたいして容赦はなかったが、降伏した者には寛大であった。部下をはげまし、卑怯を嫌い、正々堂々を重んじた。その祖父のような戦いかたをしていたのが、まさにこれから会おうとしている敵将である。
 ただ、ウンラーは勘違いをしていた。個々個人に差があるように、軍の将にもそれぞれの理想とする戦いがある。サイオスの能力は、希代の名将にさえ為しえないところを理想として実現するに足りるものであった。すなわち、味方に血を流させず、かつ敵にも流させず、勝利をおさめるのだ。
 サイオスは初陣から一六年間で巡った二六カ所の戦場で、部下の平均損失率は二パーセント、敵に与えた平均損害率は四パーセントである。そして彼自身が指揮した二二回の戦闘では、この未知なる北海を除いた二一回で勝利をあげている。完全な戦場の天才である。
 故人ウネラーは大戦略を立てる天才ではあったが、戦場では常に敵に圧倒する戦力を揃えようとする堅実な合理主義者であった。それゆえ、数にまかせて奇を嫌う正道に準じた戦いが常にできたのである。正道は戦術の硬直化を招き、時には大損害を被ることもあった。
 二人とまったく異なるのが、海の奇才、海賊バッタである。彼は自分を討伐しようとする艦隊に対して、日常的に寡兵で戦わなければならない状況にあった。とうぜん敵将の心理を巧みにつく罠を用意した、卑怯とそしられる奇策の類を頻繁に使用する。そのうえ、自分たちが生き延びるためには敵の再反撃の意志と能力を駆逐する必要があるので、常に徹底的で陰惨な殲滅戦を展開した。
 戦争の天才とは、むしろ彼のような人物を指すのかもしれない。サイオスやウネラーはまだ、戦いに明らかな礼儀と理想を求めている。だが、火器の出現が示す高死傷率の戦いが、軍指揮官をして、いずれバッタの冷徹な戦いを是とする結論に行き着かせるだろう。
     *        *
 総指揮官に各櫂船の船長たち、そしてふたりの女性――これが、帝国軍側からやってきたメンバーであった。サイオスが一同から進みでて、ウンラーたちに自己紹介をした。
「小官の名はサイオス・テス・メルギルナンテス。神聖ムック帝国第四軍所属天牙竜騎士団長。階級は陸戦中級将軍、爵位は伯爵だ」
 サイオスには姓がある。帝国に住む貴族のみが許されている世襲の名字は、周囲国の王家でさえ認められない。なかには名字欲しさに、神聖ムック帝国に領地をすべてさしだした王の実例がある。とうぜん、ムック教と反発するウゼラ教圏でこの慣習が広まることは、けっしてない。
「セル公国公子、ウンラーです。サイオス将軍閣下、われわれは三国同盟戦時捕虜待遇条約にのっとり、あなたと部下の身柄の安全と公正な処遇を約束します」
「ほう、同盟にはそんな法律があるのか。帝国なら、異端だというだけで皆殺しだぞ」
 ウンラーは将軍をじっと見つめた。夜のような黒髪黒目、戦場で焼けた茶色の肌、ぜいにくなど微塵もない立派な体躯、そして天牙族独特の、腕半分の長さはあろうかとおもわれる立派な双角。装備している皮鎧は地味だが、丁寧に手入れがゆきとどいている。
 ウンラーはサイオスに、亡祖父ウネラーの、肖像画にしかない若き日の姿を重ねた。雰囲気が似ている。だけど、やはり別人である。
(彼に祖父を求めてはいけない)
 そう言い聞かせて自分を納得させると、ウンラーは将軍の同伴者に視線をすべらせた。
 可愛らしい女の子。おそらく、サイオス将軍の姫なのだろう。赤髪赤目、長髪がそよかな風に揺れている。着ているドレスは、伯爵令嬢にしてはなかなか質素だ。将軍の主義であろうか。
 ただ、その表情は暗く、涙目の周囲は腫れて痛々しい。悲惨な戦場を目撃して、ショックで気落ちして塞ぎ込んでいる。ときどきウンラーをちらっと見るが、まるで巨大な鬼竜でも見るかのような、恐怖を含んでいる。
 そしてその後ろにひっそりと付き随う、姫の侍女とおぼしき若い女性と目を合わせたとき、ウンラーは何かはっと来るものがあった。
 ショートの金髪に中原北方ではめずらしい黄色い目――黄色い目――澄んだ目だ。強烈な意志。このおしとやかそうな女性のどこに、この目の爽快さを形作る魂の力強さが隠されているのだろうか。
 そしてウンラーは、さる四カ月まえの、クノース城での出来事を思い出した。白い翼竜で去っていった間者――その人は、この女性とおなじ目をしていた。
 女性も、ウンラーを凝視する。まるで運命の出会いをしたかのような、そんなふたりの見つめ合いではあったが――
 とつぜん、娘が笑った。
 小さな笑いであったが、ふたりの間をつなげていた一種の空間は、胡散霧消した。
 フィーンのかすかな笑い声がゆいいつ聞こえる位置にいたアーシャは、なぜか心が落ち着いた。そしてフィーンを見て、その視線の先に目をやり――
「ふふっ」
 と、可愛らしく笑いはじめる。さっきまでの落ち込みとは、えらい差だ。フィーンの価値が、ここにある。雰囲気を支配するのだ。
 ウンラーは、ようやく原因に気がついた。自分をふくめ、甲板にいる者は、ひとり残らずすすだらけで灰かぶり状態なのだ。大砲を船の中に入れて、専用の窓を設けて撃つという段階には、初期の大砲であるから、まだ至っていない。ただ、甲板の上に無造作に設置しているのだ。灰だらけになるのは無理もない。
 それにしても、いままで命をかけた戦いをしていたから、自分やまわりの様子に気がつかなかった。いざ死線が過ぎれば、もう緊張する必要はない。存分、おかしな灰かぶりを笑うだけである。
 それぞれに笑う。全員が笑う。たとえ敵味方でも、戦いでないときに、緊張は必要ない。
     *        *
 互いのわだかまりも消えて一気に心を近づけあった両軍の将は、短時間で折り合いをつけた。
 ウンラーたちは東に行く。しかし、そのためには捕虜たちを連れていくわけにはいかない。あまりにも人数が多いのだ。約一二〇〇人の帝国軍兵士は、勝利者である同盟船団の総人員九二七人よりも多い。ウンラーたちは五〇日分の食料、水を用意しているが、帝国側は三日分だけ。これでは合わせても三週間とすこししかもたない。そのうえ、帝国の櫂船は竜骨(木造船の海面下の中心軸を走る柱。脊椎動物でいう背骨)の強度が突進優先の構造で弱く、波の荒い外洋では、嵐を無傷で乗りきることは不可能にちかい。
 同盟船団は帝国艦隊を武装解除して、ラクシュウまで送る。帝国艦隊はそこで投降。そして同盟船団は再び海流に乗り、東へ向かう。それであっさりとサイオスは納得した。
「ところで、ひとつ質問してもよろしいかな」
「なんですか? サイオス将軍閣下」
 ウンラー、クアーダ確認署名の降伏受諾書を受け取ったサイオスが、ウンラーに不思議に思っていたことを尋ねた。
「どうして東へと行くのです、あそこには果ての吸い込み竜がいます。わざわざ死にに行く必要はないと考えますが」
 やはりだが、同盟側はそういう反応を予想していた。神聖ムック帝国軍の者は、教会の教義を頭から信じている。サイオスの言葉に、帝国側から連れ添った者たちは何とも思わぬ。将軍とおなじ疑問を同盟船団に抱いているからだ。ただ、ふたりの女性を除いて。
「ねえ、お父様。果て竜って、ムック教だけの考えだそうよ。北、西はもちろん、南のウゼラ教ですら、大海洋の流れを巨大な竜がつくっているとは、教えていないんだって」
 後ろからの突然の声に、サイオスは驚いた。そして思い出した。彼自身も知っている。自分が子供の頃に信じていた天牙族土着の信仰では、世界は永遠なる海に浮かぶ陸地で、高原がその中央だというのだ。すくなくともその神話には果て竜などいないし、ムック経典にはあるような果ての境界は存在しない。広大な高原世界らしい悠久の世界観のみがある。
「……だが、果て竜はすくなくともムック教の経典にははっきりと出ているではないか」
「そうよね、おかしいわよね。『東の果てには二頭の超巨竜がいる。天にも昇らんとする首は、誰も見たこともない――』って、書いてあるわよね。でも、誰も見ていないのに、どうして姿がわかるの? やっぱり果て竜って、嘘じゃないかしら」
「それは神ラーが経典をお創りになったからだ。見なくても、すべてを知っておられる」
 そしてサイオスは押し黙った。
(なぜアーシャは他宗教のことを知っているのだ。地方都市メルギルナンテスには、情報源である本は全部でせいぜい一〇〇〇冊あるかないかだ。しかもすべて教会の厳しい検閲を通過したもの、アーシャが読んだ冒険物語とて……娘に教会が許すはずのない情報を与えたのは――もしや)
「アーシャ。その知識、誰から教わったのだ」
「フィーンよ。彼女、とっても博識なの。いろんな国のことを知っているのよ、まるで見てきたみたいに」
 父将軍はフィーンを凝視する。大人しい彼女が、しかし将軍に怯む様子はまったくない。
(修道学習院でムック神学以外のことを教えているはずがない。全寮制だから、外部の本を入手する機会もそうそうないはずだ……)
 しかしフィーンはどう見ても普通の娘だ。
(ま、いいか……)
 武人であるからか、サイオスは小事にはこだわらない、さっぱりとした性格をしている。どうでもいいことには、あきらめが早く寛容なのだ。これはバッタやガナスにも共通する部分である。こういう淡泊さが、将軍の人気の秘密かもしれない。
「フィーン。君に聞きたいが……君は『果て竜』をどう評価する? 大丈夫だ、俺は軍人であって神官ではない。教会裁判所に突き出すなんてことはしないさ」
 サイオスの問いに、フィーンは即座に返答した。
「迷信だと、結論づけます」
「してその論拠は?」
「経典には、多くの不都合があります……」
 それは、なかなか壮大な理論展開であった。
 ラーの御名による「聖戦」は、加護により絶対に負けないはずなのに、少なくとも未知なる北海海戦敗戦でその効果が否定された。
 経典ではラーを絶対神としながら、ムック教以前に存在していた宗教の神々を、邪神教団ウゼラとしてひとまとめにし、魔神たちとしてその存在を事実上敵としてだが認知している。この矛盾はどう整合されるべきか。
 ムックは死してラーとなった。以後、教皇帝は人界における神の代理人であり、死して神ラーとなる。三四一年間に一八人のラーが誕生したことになるが、ラーは唯一神である。よってこの解釈は千差万別、いまだに結論が出ない。
 たくさん存在するこれらの矛盾――問題点から、経典が正確な編纂作業を経ていないのではないのかという疑念を抱かざるをえない。すなわち、経典がかならずしもラー神の意志を表わしているとはかぎらないということである。神の意志が誤って理解される可能性があるいじょう、すべての節についてそれを翼竜呑み(鵜呑み)にするのは危険である。
 すでに節文のなかに矛盾が存在する果て竜の伝説は、まさにべつの話を曲解した節の一つではないのか。ならば信者が信じる「果て竜」像は、高い確率で嘘の話――迷信ということになる。
 武人であるからそういう論議をしたことはないが、直感でサイオスは納得した。
「なるほど、それなら同盟の連中が東に行っても死ぬとは限らないなあ」
「そうよ、お父様。私も東に行ってみたいわ」
 いきなりアーシャが元気に叫んだ。
 サイオスは驚いて娘を見る。今日はアーシャが思わぬことをよく言う日である。
「どうしてだ? 果て竜がいないと決まった訳ではないのだぞ! 果ての概念も……」
「大地は、丸いらしいわ。東に行ったら、いずれ西から中原に戻って来れるのよ。面白いじゃない!」
 はしゃぐアーシャに、サイオスは困惑する。
(これもフィーン、お前か?)
 鋭い将軍の視線に、金髪の侍女は動じない。アーシャは期待しながら、父の反応を待っている。サイオスが駄目だと言おうとしたとき、
「勝手に話を進めないでくれぬか、伯爵の姫よ。こういうことは上の者に任せるものじゃ」
 ずっと蚊帳の外にいた同盟側から、ついにターエンが話に入ってきた。この場合、彼という人選はうってつけかもしれない。
「帝国の将軍よ。お主、『果ての竜』を信じておるのかね」
 深い皺の老人がサイオスに話しかけた。
「……失礼だが、あなたは?」
「わしゃターエンじゃ。知っておろう」
「同盟成立の立役者か」
「知らぬ。わしはただ、自らの信じる学問を実践しただけじゃ。ムック教が科学文化との共存を望まぬから、わしらは同盟してムック教から離脱した。ちがうかね?」
「それでは討伐軍司令の俺は悪者ではないか」
「将軍に責任はない。責任は出撃を命じた上の者にあるはずじゃろ」
「…………」
「信じる、信じないは別として、わしの意見を聞いてくれぬか、帝国の将軍よ」
「勝手にしろ」
「『果て竜』伝承の正体はこうじゃ。あるところにムックというひとりのブルガゴスガ人救済に燃える修業者がいた。若いころムックは、東のはしまで行ってきたという船乗りに出会った。船乗りは、自分の村に伝わる伝説をたしかめるために、東にいく海流を漁船で渡った。ある日、だんだん速くなる海流の彼方に、天にものぼるおそろしく長い首を目撃して、あわてて逃げてきた。ムックはその話を信じ、のちに経典を編集するさいに、村の伝説をそのまま利用した」
「なんだ。見たのなら、果ての吸い込み竜はいるということではないか。その話を神学会で披露すれば、ムック経典第五三節の正しさが証明されるだけだ」
「確かめなき理論は科学ではない。経典では誰もいないはずの目撃者が、わしが数ヶ月かけて調べてみただけで、ラクシュウ北部の図書館にあったムックの弟子の日記から、いま言ったような史実が明らかになりおった。すくなくともこの時点で、ムックは嘘つきになる。経典は神の――わしはラーなど信じてはおらぬが――意志を反映しておらん。フィーン殿といったな、あの聡明な侍女の言ったとおりじゃ」
「……確かに」
「わかるかね、これが『科学』の方法じゃ。学問とは、本来こうでなくてはならん。神学だと? あんなものは、宗教の範囲内で納まっているうちは許すが、絶対無二の事実として強制するから、わしとしては神官どもを、嘘つきの書いた本を眺めて、ぎゃあぎゃあ騒いでいるあほうな同人たちじゃと非難するしかなくなるんじゃわい。だから政教分離を提案したんじゃ。まさかラクシュウの王があそこまで徹底させるとは思わなかったがな」
 ターエンの指摘する「科学」は、物の見方のことであって、本来の意味ではない。この時代、博物学という総合的学問が、ようやく人文系と理学系に分かれはじめていた時期なので、ターエンの「科学」とは、あらゆる学問の正確な見方を示す、一種の指標的なものと受け取ってもらいたい。
 同盟にある、「科学文化」とは、正しい物の見方で、よりよい文化を築こうではないかという願いが込められている。同盟結成の理念は、すなわち現実的理想主義であった。
「ということは、ターエン殿がこの航海で確かめようとしているのは、東にある目撃されたところの巨竜そのものの正体だと?」
 サイオスはターエンに押されて、すでに目上の者にたいする彼流の接し方になっている。
「ふぉふぉふぉ。帝国の将軍よ、若いのう。そんなことはこの航海の一部にすぎぬわ。わしの仮説では大地は丸く、そして東には陸地があるんじゃ――いずれ着くであろう西方諸国もな。これがわしらが東に行く理由じゃ」
 サイオスはその言葉を聞いてしばらく考え込んでいたが、突然ウンラー公子を見て、
「航海責任者たる卿に聞くが、この航海、成功すると思っているのか? 失敗すれば死ぬのだぞ」
「成功させますよ、将軍閣下。そのための準備は怠っていません。心身物資両面で可能な限りの選出と技術投入を行なっています」
 純粋に返答するウンラー。サイオスは周囲を見回す。ターエン、ガナス、クアーダ、ブルーギル、だれの顔にもウンラーの言葉に疑問を持つ表情はない。これにはたまらず、サイオス将軍は大笑いを始めた。
「わはははははははは! お前らもそう思っているんだな。こういう未知の冒険では死ぬ確率のほうが高いことは、重々承知のくせに、なんて素敵な大馬鹿野郎どもなんだ! これが時代の先端を行く、なんたら同盟の精神なのだな。結構結構!」
 ムック教圏の陸上封鎖、ラナン海の敗戦で追いつめられたはずの同盟なのに、なおこの鋭気、この進出の気風。これこそサイオスが好きな空気、草原の匂い、若い息吹である。
「おい、公子よ、このサイオス・テス・メルギルナンテスを連れていけ。天牙竜カーリヤに乗って、狩り、伝令、捜索、なんでもござれだぜ。かならず役に立つぞ」
 すっかり小気味良い平民口調に戻ったサイオスは、同盟側に有無を言わせない。船団の者は、意外すぎる反応にとまどっている。
「わああ、お父様、分かってくれたのね!」
 アーシャもご機嫌である。一刻前まで戦いに夢を見ていた少女は、こんどは冒険に夢を馳せようとしているのだ。素早い。
 そして姫の侍女フィーンであるが、彼女も一緒に行くといって聞かない。
「私の役目は姫様のお供ですから」
 そしてにっこりと微笑むだけである。
 将軍が本気だと察知したラー二一六の船長はあわてた。自分たちはどうなるのだ。
「あん、帝国への義理だと? それは妻が死んだ時の作戦でとっくに返したはずだがな。メルギルナンテス領? ナイヤーに預けるさ。俺はな、帝国の頽廃的弊風にはもううんざりしていたんだ。あ、これは報告するなよ。とにかく俺は、俺本来の風を見つけた。高原の掟にしたがい、ついていく。それだけだ」
 こうして、帝国艦隊の全権は旗艦の船長に譲られ、艦隊は武装解除を行なった。
「有能な統率者がいないのなら、組織的な海賊行為を起こす心配もあるまい」
 ガナスの意見が通り、帝国艦隊はその場で開放された。三人とその荷、そして一頭の天牙竜を同盟船団にのこし、艦隊は既知の世界へゆっくりと帰っていった。
「まったく、なんで誰も反対しなかったんだ」
 すでにくつろいでいる三人を横目に、ブルーギルが小言じみた声を発した。ガナスが返す。
「あの連中が、俺たちとおなじだからさ」
 ブルーギルは肩をすくめた。自分もなんら変わらぬ結論を出していたからだ。
     *        *
 人柄からすぐに信用されたサイオスと、お転婆姫アーシャ、その侍女フィーンは、それぞれが各々の理由で無害と判断され、捕虜待遇とはいえまったく束縛されることなく、帆船ギルガンデツの一画を与えられた。
 サイオスが一室、姫と侍女が一室。天牙竜カーリヤは動物区画に移った。ここには陸地に上陸したときに、騎乗用や荷運び用としてつかう鎧竜や走牙竜が数頭いる。
 アーシャ姫とフィーンはようやく落ち着き場所ができて、ベットに座ってすっかりくつろいでいた。すでに船内自由行動が約束されているから、束縛という圧迫感はない。
「ねえ、見てよこの部屋、壁がまっさらよ。すべすべして奇麗。フィーン、知ってる?」
「さあ――もしかして、なにか塗っているのではないでしょうか。ここ二〇年ほどで、ラクシュウとセルはものすごい技術発展を遂げていますから。たとえば防腐剤のような――」
「御名答。スカルン木の樹液に、地下の黒い油から抽出した半透明液を混ぜた防腐効果をもつ薬さ。船の寿命が二倍になったんだよ」
 女性がいる部屋にいきなり入ってきたのは、クアーダである。ただたんに若い異性に健全な青少年がふつう持つ好奇心を示したからであろうが、物事にはマナーというものがある。
「きゃあ、なにいきなり入ってくるのよ!」
 アーシャは革鞄を投げつける。鞄は無礼者の顔面にあたって盛大な音をたて、自業自得の王子は気を失った。顔を赤く腫らせている。
 そのなさけないクアーダの後から、ウンラーがあらわれた。
「またこいつは……すまないね、レディー。友人がとんだ迷惑をおかけして。彼は、ただ私と一緒に、可憐なあなたがたに会いに来ただけなのですよ。許してやってください」
「いやだわ、可憐だなんて……本当のことを」
 洗練とは無縁の、ガサツな父親との野性的生活に慣れていて、アーシャは貴族として常識の女性への接し方に、すっかり照れている。
「あ……」
 伯爵令嬢ははじめて、まともに公子を見た。
 甲板上では灰かぶりでわからなかったが、男性としてのウンラーは、物語の王道でかなりのハンサムだ。青髪青目にととのった顔は、ブルガゴスガ人の美的ステータスとして高い。そして数万人にひとりという、白い双角。
 もしあれば恋愛少女小説を読み漁りそうな夢見る娘アーシャが、ウンラーに一目で魅かれないはずがなかった。
「姫様、私の入室をお許しねがいませんか?」
「……はぁ~」
「アーシャ姫?」
「――はっ! あ、はいはい。どうぞどうぞ」
 ウンラーは、アーシャ姫の部屋へ入室をはたした。
     *        *
 一刻後、もう夜になった頃。
 ウンラー公子はようやく部屋からでてきた。
「公子、どうでしたか、アーシャ姫は」
 通路で待っていたのは、公子付侍従長ヒムケットであった。とはいえ、贅沢をきらうセルの風潮で、ヒムケットに部下はいない。侍従長だけの、ウンラー侍従班である。
「……う~ん。かわいいのだが、苦手だ」
 ヒムケットにそう答える。
 ウンラーを白竜の王子様といわんばかりのいきおいで扱う勝気な少女に、ウンラーは振り回されっぱなしであった。
(黄色目のフィーンとほとんど話せなかった)
「そうですか。それにしても、なぜ姫に会いにいったのですか? 公子」
 考え中のウンラーは、ヒムケットの問いにすぐには反応できなかった。
「……なんだ? ヒムケット」
「姫はまだ一三歳というではありませんか。もう結婚できる年齢ですが、公子ではすこし歳が離れすぎているのではないかと、皆うわさしておりましたぞ」
「い、いや……それは」
「おや。それではもしかして、あの麗しき侍女のほうですか、ほんとうの目的は」
「な、なぜわかったんだ!」
「やはりそうでしたか」
 うわさは嘘であり、これはたんなる初歩の誘導尋問である。ヒムケットは、ときどきこうしてウンラーをからかう。幼少のころから公子の兄がわりをしてきたこの五歳年上の侍従は、すこしいじわるだ。
 ウンラーは、すっかり顔を赤くしている。怒っているのではなく、恥ずかしいのだ。
「ちがうぞ、ヒムケット。ただ、あの黄色い目が気になるのだ」
 ウンラーの目的はフィーンであった。ウンラーはべつに女性にたいしてやり手でも奥手でもなかったが、一八年の人生で特定の女性とつきあったことは一度もない。アーシャ姫の裏にいるフィーンに興味をもったのはいいが、アーシャ姫の攻勢をかわしてフィーンと話をするにはまだまだ技量不足であった。
 ヒムケットは、ただ笑みを浮かべて人生の後輩を見守っている。
(それが十分な『目的』なのですよ、公子)
 一八歳にしてはじめて異性にまともな興味をもったこのやや内気な不精公子を、意地の悪い侍従長は、もちろん応援する気でいた。
     *        *
 それから数日後。
 天候は良好、風もよく吹いて、航海は軌道に乗っている。灰にまみれた甲板の清掃もようやく終わって、七隻の帆船はふたたび絵画のような凛々しい姿をとり戻した。
 サイオスは異名である「酒飲み」を、自分の部屋で実践していた。相方は甲板でつかまえたガナスである。
「まったく、何もすることがなくて暇だというのは、耐え難い苦痛だと思わないかね、ガナスよう」
「そうだそうだ、わかるじゃないかサイオスの親父。聞いてくれよ、俺が鈍った体をやわらげようとしたらな、得物が中柄槍なので、たくさんある帆のロープがからまってな、水夫に邪魔者あつかいされるのさ」
「ガナス、俺はまだ二〇代だ。『親父』っていうなよ」
「なにぃ! じゃあ、アーシャちゃんはあんたが一六以前でつくっちまった子かよ」
「わるいか?」
 トントン
「たしか帝国では、武人は貴族といえども一七まで寮で集団生活だろ? どうやって抜け出してヤッたんだよ、ヘヘヘ」
 トントントン
「ヒック。わはは、俺は天牙族だー。それくらいお茶の子さいさいだぜ!」
 トントントントン!
「カーっ、うらやましいぜ。若気のいたりってやつか~この色男」
 バタン!
「さっきからずっとノックしていたのに、なに変なこと言っているんですか!」
 フィーンだ。アーシャにもっとも身近な者である。ふたりはあわてた。姫の侍女はそれに気がつかず、部屋の臭気に顔をしかめる。
「酒くさ~い。昼から飲んでどうするんです」
 どうやら内容は聞かれなかったようだ。サイオスは安心し、酒の件で侍女に弁解した。
「フィーン、俺もこいつも武人だ。平和なときには訓練ぐらいしかできぬ。が、甲板で武器を振り回すと邪魔者あつかいされる。だから、こうして飲んでいる。わかるか?」
「運動したらいいじゃありませんか」
『う……』
 ライオスとガナスは小さくなった。この娘には、将軍や親衛隊長の威厳は通用しない。
「とにかく上まであがってください。巨大な化物が、船団を囲っているの!」
 汗を浮かべて叫ぶフィーンのこの言葉は、ふたりの酔いを一気に覚まさせた。
     *        *
 甲板についた三人を、ウンラーが出迎えた。
「サイオス将軍、ガナス」
「ウンラー公子。化物とは、いったい何のことだ? どこにいるんだ?」
 サイオス将軍は周囲を見渡す――が、なにもない。すべての方向の水平線まで、大海原がひろがるだけである。
「よく海面を見てください」
 サイオスとガナスは船のへりまで行って、下を見た。なんということだ!
 青いはずの海が、乳白色!
 まったくちがう色なのだ。
 サイオスは視野を拡大する。白の範囲はひろい。草原の民出身で視力が高いサイオスでさえ識別できないほど、青と白の境界は遠く、うっすらとして、把握できない。
「半刻前からいくら帆が風を受けても、これは動かないんだ。つまり、船と一緒に移動している。あきらかに意志をもった、生き物だ」
「……なんなんだ、これは?」
 サイオスは内陸育ちで、海にはこれまで数回しか来たことはない。生き物だといわれても、まったくぴんとこない。
「まさか、巨大スルー……?」
 ガナスがつぶやく。それにウンラーがうなずく。サイオスは愕然とする。
「スルーだと? あれはもっと透明じゃないのか?」
 スルーはクラゲのようなものだ。半透明で体のほとんどが水。中原のスルーは、最大でもせいぜいブルガゴスガ人の背丈ほどだから、これは常識以前の大きさである。
「大きすぎて透き通っていないだけじゃ」
 ターエン老が話に入ってきた。
「スルーならいくらガタイがでかくても無害じゃないか。水の上には来られないんだろ?」
 とガナス。
「ところがそうでもない。これに触ろうとした馬鹿がいてな。案の定、痺れておるよ」
 二〇分前、ツエッダ船旗艦ウイルから降ろされた小船に乗ったクアーダが、素手で巨大スルーに触った。そっと触れた瞬間、体が麻痺して動けなくなった。現在、ウイル船内はブルーギル指揮の元、看病で大騒ぎである。
「こんなに大きくなるからには、それなりの防御手段を持っておって当然じゃ。興味本意からじゃろうが、あの王子はうかつすぎるわい。ま、自分からすすんで実験台になってくれたから、いいとするかのう」
「ありゃりゃ。それでは、釣りができないということか」
 ガナスがうなる。釣りは、時間潰しの手段であるとともに、大切なたんぱく質供給源でもある。保存食は穀物がおおく、バランスある食生活のためには、魚の肉は貴重なのだ。
 この巨大スルーが居座るかぎり、小船でスルーのいないところまで行って魚を捕らなければいけない。しかも、その間は帆船は帆を降ろして風で流されないようにしているから、海流の速さをのぞいて、船は先に進めない。
 ゆゆしき事態である。
「変なの~」
 と、横で緊張感のないアーシャが巨大スルーをからかっているが、スルーにわかるわけがない。
「しばらく放っとくしかないですね、老師」
「そうじゃな。公子よ、明日になってもこのままじゃったら、あらためて対策を考えよう」
 結局、巨大スルーは無視された。
 つぎの日、やはり船団が飽きたのか、スルーは消え、海はふたたび青さをとり戻していた。ヒムケットが言うには、
「物珍しくてついてきていただけだよ」
 ウンラーは、
「私たちはここでは異邦の者だからな」
 アーシャは、
「えー、変なのもういなくなったの?」
 フィーンは、
「……大変じゃなくてよかった」
 ガナスは、
「おお、これで釣りができる!」
 ターエンは、
「しまった! 記載を忘れておった」
 サイオスは、
「またあんな化物がいるかもしれないんだぞ。まったく、こいつらもしかして恐いものがないのか? もうすぐ『果ての竜』だというのに……」
 クアーダは、
「…………」
 まだ痺れていた。
 ブルーギルは、
「なさけなや……」
     *        *
 巨大スルー事件は約一名をのぞいて被害はなかったが、ああいう未知の巨大生物の存在が現実にあったということは、船団のクルーには衝撃であった。
 もしかして「果ての吸い込み竜」はいるのかも……
 ほんの三年前まで、ほとんど全員がムック教徒であった。とうぜん、幼いころからたたき込まれた迷信という宗教的常識が、後から教えられたターエン客観視主義によって簡単に頭から抜けるわけがない。
 意識の奥底にある原始的恐怖――それが、知的生物であるが故に逃れられない、想像という能力を動員した妄想という活動を活発化させた。
 ほとんどが不吉な内容の、いろんな憶測や流言が飛び交う。たちまち、船団は暗雲低迷。冒険への挑戦心に燃えていた頼もしい連中が、なぜこうなったのか、やはり未知による不安の威力は恐ろしい。
 しかしその中にあっても、幼少のころからターエンの教えを受けていたセル公国の指揮官たちは健在であった。
 まるでなにかを待っているかのように……
 そしてそのなにかがやってくる瞬間が、ついにおとずれた。
 巨大スルー事件から五日後、早朝。
 風が止んだ。
 波も静かだ。
 凪である。
 あたりをうすいもやが覆う。水平線がかすみ、視界がすこし悪くなった。
 船団は海流に乗っているはずであったが、まるでちいさな湖沼に浮かぶ小船のように、ほとんどそうとは感じさせない。
 そんな状況になってから半刻後、クアーダが小船で、ギルガンデツにやってきた。ウイルはブルーギルに任せてある。
「ウンラー、どうしよう」
「……待つしかないさ」
 答えるウンラーは、額に汗を浮かべる。理性で抑えようとしても、どうしても緊張する。これまでだれも疑わなかった謎、「果ての竜」に、いよいよ挑むそのときが来たのだ。
 そうウンラーは直感した。間違いない。
 数年前、ラクシュウ国立図書館でターエン老師が発見した古文書。それは、三〇〇年以上昔、ムックの八弟子のひとり、トランキオが残した日記であった。
 それにあったのは、「果て竜」伝説に関する裏話――ムックが経典編纂に利用した、ある漁師が見た「果ての吸い込み竜」の話が含まれていた。
 漁師が見た超首長竜は、まさに、凪ともや――現在の状態で目撃されたのだ。
 漁師が村の伝説を確かめるためにここまで来たと、日記にはある。ならば、漁師のいる村では、彼以外にも、ここまで来て、おなじ「竜」を見た者が過去にもかならずいたはずである。
 「果ての吸い込み竜」が本当にいるならば、海流の規模を考慮にいれると、すくなくともふたり以上の者が無事に生きて帰ってきたというのはおかしい。ターエンや助手たちの試算では、竜の姿を見たときには、すでに脱出不可能な状態になっているからだ。
 ターエンはムックの確かめなき真理をうちやぶるべく、いろいろと考えた。その結果、「竜」はある自然現象ではないかという仮説を立てた。自然現象なら、条件さえ合えば、いつでも「天にものぼる首長竜」を見ることができるはずである。
 ギルガンデツ甲板上では、みんながざわめいている。竜があらわれて呑まれて死ぬのではないかという不安感が浸透している。おそらく、他の六隻すべての船で、このような状態になっているだろう。
 ヒムケットがウンラーに懸念を具申した。
「公子、みんなの心が安まっておりません。このままでは、いつ激発するか」
「ええ~。どうしよう、ウンラー」
「こら、勝手にひっつくな、クアーダ……わかっている、ヒムケット。だが、今はどうすることもできない。ただ、待つだけだ」
「ふぉふぉふぉ、苦労しとるの、公子よ。これもあの巨大スルーのせいじゃな。未知や無知なものには、みんな弱いものじゃ。せめて、あそこの姫様たちを見習えぬかのう」
 ターエンの指さした先には、アーシャとフィーンがいる。
「はやく出ないかな~竜さん」
「はい。正体はなんでしょうね」
 のんきである。そこだけまるで見物観光旅行の雰囲気だ。
 それを見てウンラーは気がついた。
「そうか、『情報』だ。老師、たしかふたりは先日から老師のご教授を受けていると聞きましたが」
「いい生徒じゃぞ、彼女たちは。もちろん例のことについても教えてある。だから安心しておる。よく気がついたな。さあ、不安がっているあいつらに、わしらがはじき出したゆいいつの『竜』を教えてやれ、公子よ」
     *        *
「見ろよ、みんなのうろたえぶりを。いよいよ果ての竜様顕現だ」
 サイオスはこの瞬間を待っていたといわんばかりである。ターエンに示されて以来、自分の胸でわだかまっているムック教への疑問が、ここでひとつの結論を出そうというのだ。
 しかし、ムック教自体はべつに残虐な教義を掲げているわけではない。弱者救済、目上への礼、規律かつ余裕ある生活の奨励――社会的には、むしろ善、儒、仁の教えであって、それがムック教の人気なのだ。
 ところが問題なのが、ムック教が絶対唯一神ラーを崇めるあまり、他宗派、宗教への寛容さというものが微塵もないという、極端な排他性を持ったことである。
 ムック教圏とまともに交易できるのは、あいだに内陸砂漠を挟んだ、西方諸国だけである。物理的距離を取らなければ、宗教の壁をこえた経済活動すらできないのだ。
 それが証拠に、おなじ広大な中原の南部に根を張るウゼラ教圏とは、三〇〇年以上も流血の間柄。妥協、協調など微塵もない。
(ムック教はすべてを敵とする。唯一の味方であるはずの経典が嘘だとしたら、われわれ帝国軍人は、なにを支えとすればよいのだ)
 そう考えたら、部下の死を長年戦場で見てきたサイオスには、きついことであった。
(これは、もしかしてムック教を見直すいい機会かもしれない。排他、悲寛容を排除できれば、これに過ぎたるものはない。ターエン主義とムック教との融和が、もしかしてわれわれが進むべき本道ではないのか?)
 多勢力、文化の共存共栄――理想である。理想主義の多くは無力であるが、同盟は現実的に実現可能な力を持っている。
 とにかく、ターエン客観視主義の、お手並み拝見とサイオスは決めこみ、周囲の喧噪とは無縁であった。正しければ生き残り、間違っていたら死ぬ。ただ、それだけだ。
 即席哲学者となっていたサイオスのとなりにガナスがやってきた。酒を一緒に飲んでから、このふたりは気が合うのか、よくつるむ。
「よう、冷静じゃねえか。さすが一軍の将だ」
「どうした、ガナス。不安か?」
「いや別に。それよりも見ろよ」
 サイオスはガナスの指した先を注目した。そこはギルガンデツの後部甲板室上デッキで、船の上ではもっとも目立つ場所である。
 デッキにいるのは、ウンラーとヒムケット。
「演説か」
「若様はみなを安心させようとしているのだ」
 ウンラーはギルガンデツの甲板を見回した。船のほとんどの者が、不吉な凪に、何事かと甲板に上がっていたため、まさに船上パーティーのような混みぐあいである。
 アーシャとフィーンは、甲板上の変化を感じて、みんなが見る方向に注目した。
「あら、ウンラー様、なにをするおつもりかしら」
 公子に気がついたとたん、顔を火照らしたアーシャがうれしそうに言った。
「もうすぐ『竜』が出るから、みんなに説明するんでしょう」
「そうなの? フィーン」
「おそらく、それ以外には考えられないと思います、アーシャ」
 アーシャ姫はフィーンに、自分を呼び捨てにしてと頼んでいる。貴族ながらも父親の影響でいい意味で市井に近いアーシャは、フィーンに対等の立場で接してもらいたいのだ。
「ふうん。上の人っていろいろと大変なのね」
「はい。私の父もよく言いますよ」
 アーシャはウンラーのほうに気が向いてて、それ以上会話はつづかなかった。フィーンは、自分の父に思いを巡らせていた。
(父上……ポンパーは、無事に海を渡れたかしら)
     *        *
 いつの間にか、風がかすかに復活した。もやが少しずつ晴れはじめる。しかし依然として人々は、なにかがかならず起こると確信していた。
 公子の青い髪がなびく。
 ウンラーの青い瞳には、いずれもこちらを向く人々の顔がある。場が自分に注目したと判断すると公子はよく通る声で語りはじめた。
「われわれは、われわれが立つこの大地が丸いという、数々の証拠を知っている。つまり、西方へと行くには、東へと行けば、いつかたどり着くのだ。そのための航海であり、これはわれわれの考えを証明する大冒険である」
 そこまで言うと、ウンラーはみんなの反応を確かめた。やはり、みんな落ち着きはじめている。初心を思い出たようだ。
「しかし、ムック教の経典では、大地には境界があるとし、東の海には『果て竜』がいるとしている。これは、われわれの試みとはまったく相反するものであり、われらが正しいと証明するためには、『竜』の正体を暴く必要があるのだ――」
「あ……あれは、あれはなんだ?」
 そのとき、ウンラーの言葉をさえぎる一声があたりに響いた。
 全員、ひとりの兵士が示したほうを見る。
 それはちょうどギルガンデツの行く手にあった。天までとはいわないが、妙に細長い柱。
 しかも動いている。意志をもった存在だ。
「竜だ! 果ての竜だ!」
 誰かがそう言い出した。たちまち船上に衝撃が走る。恐怖がみんなに伝染し、パニックになろうとしたとき、
「あれは蜃気楼だ! 自然にだまされるな!」
 ウンラーの、誰も聞いたことのない一喝。
 船の上は静まりかえる。
「あれこそ、中原人を東に行かせなかった張本人だ。正体を暴くぞ。全船に旗で伝達、帆を張れ、風に乗って、『竜』に近づけ!」
 ウンラーの剣幕に、誰も逆らえない。すぐに命令にしたがう。騒ぐ者はいない。
「すごいよウンラー。まるで亡くなったウネラー老公爵みたいだ」
 クアーダが興奮して叫ぶ。ウンラーの毅然な態度に、彼も安心して正気を保っている。
 船団はギルガンデツを先頭に、一路「細長い正体不明のなにか」へ進む。これはたしかに変だ。海面が、あるはずのない空間に浮かびあがり、そこに例の「竜」が映っている。
 全員が疑問に思う。たしかに変だ。あるはずなのに存在感がない――変だ。
 そして「竜」を目撃しはじめて半刻後――
 「竜」がとつぜん縮んだ。
 みんなあっけに取られる。
 約四分の一の長さになったそれは、もう肉眼でも正体を判別できる。
 ただの、一頭の首長竜だ。
 海面に背中の一部と首から上を出している首長竜は、生まれてはじめて見るのか、帆船を興味深そうにながめている。
 呆然、自失。
「愉快愉快、こんなことだったのか」
 沈黙を破り、サイオスが豪快に笑った。
 それにつられて、みんなも笑う。
 果て竜の、正体見たり、首長竜。
 蜃気楼――ただの自然現象に、自分たちは恐怖していたのだ。まったく滑稽なことである。
 だからこそ、力の限りに笑った。堰を切るとはこのことであろう。
     *        *
 この日、ひとつの伝説が否定された。
 迷信はうち破られたのだ。
 船団はさらに東へ、東へと進む。その先になにが待ち受けているのか、誰も知らない。

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