暗い。
ここはどこだろう。
波打ちの音がかすかにする。
「――点灯だ」
闇で低い男の声が響いた。
ぱっとライトが点く。
だがその灯りはわずかで、光の届く領域はわずか。
かすかな光の中に、青白色とおぼしきカバーに覆われたなにかがある。
それを囲む人間が四名。
ひとりだけ光の中にいる。若い男で半袖のシャツに長ズボン。顔は暗くて見えない。
のこる三名は暗すぎて、服すらわからない。
「イーブン」
さきほどと同じ声。
それに若い半袖の男――イーブンが畏まり、頭を深く下げる。
「我々は出来うるかぎりの準備を尽くした」
ほかの男の声が語る。
すると三名のうちの一名がなにかを操作した。かちりという音とともに、小型クレーンが上に巻き取る駆動音。
カバーが上にあがってゆく。クレーンがあるということは、どうやらここは倉庫のようだ。
青白いカバーの下には、一台の白い車があった。セダンタイプの四ドアだ。
そして大衆車の横には、なぜかゴルフクラブ一式のセットが収まった縦長のバッグも置いてある。ほかにはいくつかの四角い機械。これらはなにかの装置だろうか。
三名は振り返った。
「あとは貴様のがんばり次第だ」
「かならずや成功させろ」
「我々は見ているぞ」
そして彼らはかつかつと靴音を響かせて去っていった。
おぼろな光の下でひとり、イーブンはなお頭を下げつづけていた。
* *
「なんで怪しい者がいないのよ」
葬式の翌日、夜。
玲華は教室ほどもある広い、しかし暗い部屋で高級な革椅子に座り、テレビ画面たちとにらめっこをしている。
画面には、葬式の様子が映し出されていた。録画ビデオだ。
その数、五画面。
五台のテレビが扇状に展開され、その中央に玲華がいる。ビデオを操作しているのは邑居と――意外にも凪影と源吉じいさんだ。
邑居はともかく、幽霊の二人はなにやら念力が使えるようだ。玲華の指示に合わせて静止画面にしたり、早送りしたり。
凪影はビデオのまえで座禅を組んで、源吉じいさんは実際にスイッチに手を添えて。それで勝手にビデオが動くのは異様な光景だ。
だが源吉じいさんは時々役立たずになる。
『おお、ハルさんじゃ』
そのたびに玲華の言霊が飛び、源吉じいさんはくるくる回転して目を回していた。
するとなぜか元に戻り、真面目に作業を再開するのだ。
葬式のテープは一五台の隠しカメラで撮ったものだ。その数四五本。すべてを見終わるのにどれほどかかるだろう。
玲華は聖徳太子でもあるまいに、どうやら五本同時観察を見事にこなしているようだ。
憲も怪しい者がいないか見るよう玲華に含められたが、言われなくてもそのつもりで必死に画面を追っている。
偽物の検死報告書を作成するため、憲から詳しい話を聞いたあとであった。
「……もしかして、学校の関係者かも」
犯人が裏道を知っていたというのが玲華には気に掛かるらしい。となると憲の知己の可能性も出てくる。だが知り合いでなくても、教員ならば――
「犯人は葬式に来る可能性があるわね」
根拠はないが、玲華はそう結論づけて隠しカメラを用意したのだ。というよりは警察がすること以外で玲華にできることは、それぐらいしかなかったのだが。
なにしろ警察関係者に桂川の手の者がいるので、捜査情報はすべてとはいかないが、半分以上は入手できる。警察とおなじことをする必要はないのである。
必死に画面を睨む玲華女史。その姿には鬼気迫るものがあった。
「なぜいないのよ!」
夕食直後から見はじめ、日付が変わったところで、ついに玲華はギブアップした。テープはまだまだ山積みである。
「――これ以上は集中力が持たないわ。悪いけど寝るわね。みんなも適当に解散して」
玲華はすこし足下をふらつかせながら、部屋をあとにした。
これで二日目も徒労に終わった。
邑居はすべてのスイッチを切って、そして誰ともなく一礼すると、部屋を出ていった。おそらく凪影に対する礼だろう。部屋の明かりは黄色い豆灯が一個。扉は閉じていない。
『ふう……疲れた』
憲は凝った肩をとんとんと叩いた。まだ慣れないが、幽霊でも肩が凝るし目も疲れる。
『♪ハァルさんの薬でェ、みんな治るゥゥ~』
源吉じいさんが上手で粋な口振りで歌って、自分の疲れを癒していた。さすが人力車一筋四〇年の人生を送っただけはある。歌で客を掴んでいたらしい。
言霊を使えばすぐに治せるようだが、先日のこともあるので、憲はよほどのことがない限り使いたくない。
だが――
『おい』
とつぜんの予期せぬハスキーな声に、憲はひゃっと飛び上がった。
天井にぶちあたり、全身が縦にひしゃげ潰れ、ふらふらと落ちてくる。アニメだ。
潰れた憲が空中に浮かんで声のほうを向くと、そこには凪影が。
『あ、もしかして……』
『ああ。わたしだ』
はじめて聞く声は、まるで女性のようだが――
凪影は、般若の面をゆっくりと取った。
『せいや! お、女』
その下からあらわれたのは、健康的な日に焼けた肌をした、しかしかなり美しい均整な顔立ちをした女だった。
見かけの年齢は二〇代半ばほどか。野性的だが粗野ではない。むしろ知性派と肉体派が同居する、「ハンサムな女性」の顔と言えるのではないか。
『この数日、おぬしを観察しておった』
『はあ……』
『拙者の本当の名は、凪という――』
戦国時代は、家によっては女でも男並に武芸に手を染めないと生きられなかった。凪の家はそんな弱小勢力のひとつだったらしい。なぜ死んだかまでは教えて貰えなかった。
『……おぬしの体、見させてもらった。あれは「泊まりの体」というものだ』
『とまりのたい?』
『室崎殿は走馬燈を見ておらぬであろう』
『あ……』
聞いたことがある。死ぬ直前、人はそれまでの一生を一気に見るという。それを馬などがすばやく駆ける影絵の燈籠――走馬燈にかけて、おなじく走馬燈という。あるいは走馬燈のように、と比喩の形で用いられる。
『あれは死を感じた者にしか流れない。それゆえ死にかけた者でも見る。だから一般にも知られている――おぬし、死を感じずに死んだな』
何事が起こったかも把握できずに死ぬ。
そういうことはかなりある。
眠る以外の意識不明で亡くなるとか、戦争や交通事故で瞬間的に死ぬとか。
そういったとき、走馬灯のスイッチが入らない。なんのスイッチかというと、生命が終わったという合図だ。
『……合図?』
『合図を意識が受け取り、儀式が終わる。死への儀式だ。それが走馬灯なのだ』
『儀式ですか――』
『だが走馬灯を経験しないと、死んだ状態でなにもかもが止まる。それを泊まりの体という。泊まりとは仮の宿、自然でない姿だ』
――もちろん例外はある。走馬灯を見ても死ななかった場合、その儀式は無効となるし、また走馬灯を見ていなくても、霊魂が完全に消滅すれば有効となって体は腐る。
うまく出来ているものだ。
『となると、世の中にはけっこう腐らない死体があるということですか?』
『そうはいかない。走馬灯を経ない魂は非常に不安定なのだ。すぐに消える。多くの動物の魂は刹那で消滅するが、人間だけは精神力が大きいので、長くて一分というところか』
『……せいや!』
『だが室崎殿は偶然か知らぬが、死亡直後に活力を補給できたようだ。また話を聞くぶんには、補給まで二~三分はあったようだが――なにか強いこだわりが、おぬしの許容時間を異常に伸ばしたようだな』
憲には自覚があった。
言うまでもない。智真理だ。
とにかくそのあたりの珍しさが玲華の運命視のアンテナに捉えられ、「生きていながら死を体験している」というおかしなイメージとして降ってきたらしい。
運命視の力はしかし大杉――植物が理解できないことには働かないそうだ。死もそのひとつだが、腐らない死体がなぜか大杉の力には反応したようだ。
もっともその運命視はやはりずれていて、事実は単に幽霊になった、というだけなのだが。しかしただの幽霊ではなく、希有な「泊まりの体」出身の霊だ。
凪影によると、桂川の女性には霊魂コレクター的な気質もあるらしい。そうでなくて、好きこのんで幽霊部隊を作ろうとは思わないだろう。
憲は体と一セットで、はじめて希少価値がでる。
『オレはおもちゃですか!』
怒ったショックで、潰れていたのが元に戻った。言霊でなくとも、気力でなんとかなる部分もあるようだ。
『おもちゃだろうが、自由を得たのだからよしとせよ。切り離しだけは、これは知識がないとなかなか上手くいかないのだぞ』
大半の霊はなにかに縛られる。それが自分を殺した相手か、自分の死体か、死んだ土地か、あるいはたまたま近くにいた人か、どれかはわからない。が、自由に動けない状態は、とくに生者に縛られなかった場合、エネルギーを補給できずに消えやすくなるということでもある。
消滅――それは本当の意味での死だ。
とくに強力な言霊の存在がある。「消えたい」と願いながら言ったとたん、成仏してしまうらしい。
それゆえ長く存在する幽霊は、えてして真性の楽天家であったり、あるいは求道者であったり、なにかに執着する者であるという。ふつうの者ほど、何気ないことであっさりと成仏する。
なるほど……だから玲華お抱えの幽霊たちは、やたらと明るいのか。
それでも年に三、四体ずつは成仏するらしく、桂川の女は常に有望な霊をスカウトしているという。最近は寿命が長いので、どうしても老人が多くなるのは仕方がない。
『さて、本題だ。鍛えてやろう』
『……せいや?』
凪影は般若面をかぶり、おもむろに刀を抜いて憲に正対した。
『えーと』
『朝まで時間はある。さあ、逃げまくれ!』
『ひえええ! 源吉さん、助けて』
『ハルさんはどこじゃね』
源吉じいさんはどこからともなくお茶を出し、すすっている。茶は自分の霊体の一部だ。
『またかい!』
『さあ、よけろ』
『せいや、望むところです』
* *
翌朝、学校に行く準備を整えた玲華が玄関に出ると、邑居のほかには「誰も」いなかった。もっとも玲華以外で「誰か」を確認できるのは、桂川の家では母、祖母だけだが。
「邑居さん、悪いけど待ってて」
「……おりませんか」
「ええ。いないの」
玲華は廊下を戻りながら、思念波の網を全方位に張った。
『室崎君、室崎君』
…………。
返事はない。
おかしいわね。
玲華はもうひとつの力、運命の網を張った。
指向性を「室崎君」に関することに集中させる。
力のアンテナが集めたことが、勝手に言葉になって頭に響く。
――明日は雨が降るので、傘が必要。
ちがう。
――テスト業者が売り込みに来るが、後日より優秀な業者が来る。
ちがう!
――三丁目のボス猫が妊娠した。
それがどうしたの!
――側溝のタニシがおよめさん募集中。
だからいいって。
――十市屋のお化け饅頭を貰えば、待ち人来たり。
なんの話よ……うん?
最後のが正解のようだ。調子が下降気味なのか、指向性の精度が悪い。
どうやら室崎君がいきなり消滅した、ということはなさそうね。思念波の届く範囲にいないだけだわ。
悪い類の予感はまったくない。
大杉の力かどうかは知らないが、体調が悪くないときの的中率は百発百中だ。
それに憲には、幽霊頭の凪影がついているはずだ。
玲華は学校に行くことにした。
絶対的な権限があるとはいえ、学業をおろそかにするつもりはない。それに玲華が理事長だと知っているのは、学校でも一部の人間だけだ。
そうそう。校長先生にテスト業者来訪の件を伝えておかないと。
* *
憲は山の中にいた。
目を閉じて自然の音を聞き、休憩とばかりベンチに腰掛けている。
『ああ、夜は疲れたな』
まったく生きた心地がしなかった。
凪影は問答無用に斬りかかってきた。
憲は空中に逃れ、本気で逃げるしかなかった。
幾度も切られた。切られるたび痛みが走った。だが言霊を駆使して、切られても痛みを感じないようにすることができるようになった。
するとこんどは、切られたときの傷が一挙に深くなった。いままでは手加減していたのだ。腕や脚を切断されるようになった。
そのたび言霊で治した。やがて切られた直後に治せるようになった。
するとこんどは、見えない気の爆弾みたいなものを放ってきた。ぶつかった部分が消滅して穴になった。憲はその都度傷口を埋めた。
そうやって攻撃はしだいにエスカレートしていった。
さいごは憲も攻撃していた。
気がつけばなにやら気の弾みたいなものを発射し、そして源吉じいさんみたいに、相手をわずかに動かすとか、そういったことが出来るようになっていた。また心なしか、飛ぶ技術もだいぶ上がったようだ。
朝日が昇る頃、凪影は刀を鞘におさめると、居合いの体勢を作った。
憲はその動きからいよいよ本気中の本気の攻撃が来ると判断し、逃げながら考えていたある攻撃を試そうと決めた。
憲は念じて真下に見える山に降りた。それは中山だった。先山高校の北西にそびえる山だ。
夏休みに憲は、自主トレーニングをかねて週に一度、中山に登っていた。だから罠を張れる。
凪影もそのままの体勢で追いかけてきた。
憲は山のなかを、木々を掻き分けるように飛んだ。凪影は木にまったく構うことなく、すり抜けながら迫った。
目の前に遊歩道が見えてきた。
ビンゴ! ちょうどあのベンチがある場所。
憲は念じた。
石よ!
ベンチの下にある石が、ふわりと浮かび上がった――そんな感覚を憲は感じていた。
もちろんそんなことは見えないのでわからない。
だが確信はある。なにしろその石を置いたのは、憲本人だからだ。来るたび麓から持ってきた小石をベンチの下に置いていた。それが証だった。目的がないと継続させるのは困難なのだ。
憲は遊歩道を一気に抜けた。
さっと後ろを向くと、もくろみ通り、拳大の石が木の裏に浮かんでいた。
よし!
凪影は木をすり抜けても、石に当たるはず。
そこに気力の砲弾をぶつけてやる。
憲はさっと止まり、臨戦態勢を取った。
『マグマム!』
右手に大口径の拳銃が出現する。憲が知っている中では最大威力のやつだ。
凪影が迫る気配を感じる。
憲の額に、霊の汗がたらり。
――と、急にその気配が消えた。
どうしたのだ?
憲がきょろきょろとすると、上に!
凪影が凄まじい速度で降りてくる。居合いの体勢のままだ。
『ちくしょう!』
がうん、がうん。
マグナムを発射する。反動で憲は転んでしまう。言霊でどうにでもなるはずなのに、まだ現実的なイメージに縛られている。
霊弾の一発が凪影の般若面を吹き飛ばす。
その下からあらわれた凪の顔は、冷静で無表情だった。
憲は念じる。
せいや!
凪影の右腕に力がこもり、凪の居合いが炸裂し――なかった。
憲がやけくそで念じた浮き石が、凪影の背中を打ったのだ。霊体はとても軽いので、石一個が凪影を吹き飛ばす。
『くう!』
虚を突かれた凪影は空中に放り出された。
いまだ!
『髪よ襲え!』
憲はありったけの力を言葉に込めた。憲の長い髪に生命力が宿り、蛇のように伸びて凪影を貫いた。
細い数千本の針に貫かれ、凪影は動きを止めた。目を閉じ、口元から血が滴る。
そのままの状態で、憲は呆然としていた。
『か……勝ったのか?』
しかし実際問題で考えれば、普通相手は死んでいる状態だ。
憲は凪影が心配になった。
いくら幽霊とはいえ、やりすぎで消滅する、といったこともあるかも知れない。
『もしもしー』
『…………!』
凪影の目がいきなりかっと見開かれた。
その目は赤い。
凪影が消えた。
『え?』
いや、憲の髪が貫いた鎧だけが。
すい――
憲は、自分の視界が縦にずれているのを感じた。
あ、切られた。
視界が完全にふたつに割れた。
凪影がいた。カラスのように黒い忍者装束みたいな格好で、無表情で居合いの体勢で。
刀は鞘におさまったままだ。どうやらさっと切り、つぎの瞬間には納めたのだ。なんという技量か。空間を裂く音は一切しなかった。
『接着!』
憲が条件反射で言霊を発すると、憲のずれていた視界が元に戻っていく。
一番すばやく治るのがこれだった。子供のころ憲はプラモデルを作っていたのだが、そのとき填め込み式では飽きたらず、接着剤を使っていたのだ。
言霊にはどうやら、人によってそれぞれベストなものがあるらしい。
凪影はもはやなにもしようとしなかった。
訓練とやらは終わったようだ。
憲が髪もみじかくしてから凪影に近寄ると、凪影はゆっくりと降ってくる鎧の部品をひとつずつ装着していた。
『稽古、ありがとうございます』
『すまん、つい本気を出した。おぬしには筋がある。まさかいきなり石を動かせるとは』
『光栄です』
『ここから高校も近いだろう。帰るのが面倒なら、お嬢とは学校で合流するがいい』
そう言い置くと、凪影は煙のように空中に消えた。
そういえば最初にあらわれたときも、いきなり空中からだった。ほかの霊は飛んでくるのに、凪影だけは違う。これが格というものだろう。
朝日が昇った。
憲はまぶしい朝日に目を細め、疲れてその場で休憩することにした――
――ふう。そろそろいいかな?
あれから数時間が経過した。
街が活性化し、車の音が平野に響いている。
道々には通勤や通学の車、自転車で溢れ、繰り返される日常がはじまっていた。
憲はそれとともに山に響き渡る蝉の声と鳥のさえずり、風に草や葉がすれる音も聞いていた。
自主トレーニングのときも、こうしてこのベンチでおなじ音を聞いていたのに。そのときは、山と平野の音が混じっていることに気付かなかった。
聞こえていても、考えはしなかった。
自然の時間と、人間の時間。
人間がいくら急いでも、自然は自然だ。
自然には自然の流れがある。
ふたつは完全に異なっている。
しかし容易には調和しないはずのふたつは、音によって重なることができるのだ。
面白い。
死んでからこういうことを発見するとはね。
そういえば自主トレのとき、すれ違った遊歩道巡りの人々が幾人もいた。
その多くは中年以上だったが、憲ほどの若者も何人かいた。
彼らもいまのオレとおなじようなことを考えて山道を歩いたのだろうか。
人と自然の音が混じる、この境界で。
境界の道か――オレを殺したとされる犯人は、この道を逃げたのだろうか。
逃げ切った以上、どこかの遊歩道を通ったことになる。そのルートはいくつかあるが、できればオレがお気に入りのこの道は通っていてほしくない。
だがもし通ったとして、彼はオレが感じたように、人と自然の音が混じる境界の面白さに気付くのだろうか? 気付いたことがあるのだろうか?
まあそんなことはどうでもいい。
準備体操をすると、憲は歩いて先山を目指した。
先の旧道に合流すれば、先山高校に行ける。
その旧道とは、まさに憲が殺された裏道への口とも合流する道であった。
ふつうなら怖いだろう。
だが憲は平気だ。
なによりもう死を経験している。
「ねえ、死んだことある?」
「はい」
当の自分自身が幽霊なのだ。なにを怖がる必然がある。さあ歩こう。
飛んでもいいが、せっかく音を楽しんでいたのだ。学校まで楽しんでも罰は当たるまい。
せいや? もしかして幽霊の心情とは、こういう「怖いもの知らず」を基本にしているのだろうか。
新たなる発見に、憲の心はすこし躍った。
* *
智真理は自転車に乗り、慣れない坂に挑んでいる。ずっとバス通学だったが、今日はぜったいに自転車で行こうと思っていたのだ。
その黒い自転車は、憲のものだった。
スポーツ自転車でなく普通のタイプだ。だからスカートでも運転に差し障りはない。
こんなに疲れる坂を、憲は毎日毎日、平気な顔で登っていたんだ。
幾度も自転車を押そうという誘惑が襲ったが、智真理は頑として漕ぐ足を止めようとはしなかった。
自転車通学の生徒は、当然ながら男子のほうが圧倒的に多い。坂は体力的に女子にはきついし、親が自転車通学を許さないことも多い。なにしろ坂を下るときはスクーター並の速度が出るのだ。
智真理は汗だくになって、ようやく駐輪場までたどり着いた。
駐輪場にはすでに二〇台ほどの自転車がある。憲によると、晴れた日は七〇台は来るらしい。ちなみに全校生徒は一年二年合わせて約三〇〇人だ。創立二年目なので、三年はまだいない。
智真理は適当な場所に自転車を置くと、ハンカチで汗を拭った。
「十市君じゃないか。今日から来るのか」
葬式以来二日ぶりの声が横からした。
「あ、勢多部長。おはようございます」
「おはよう」
勢多は智真理の隣に自転車を止める。あちこちに錆が浮きまくった年代物だ。
「――これは、ケンの」
「ええ。ぜひこれで来たくて」
「おととい十市屋のワゴン車が持って帰ったと聞いたが、そういうことか」
「はい。これからは毎日これで来るつもりです」
「だいじょうぶか? 十市君の体格では、ケンの自転車は……」
「調整はしてます。それに――これなら毎日帰りに寄れますし」
「寄る?」
「ああ、なんでもないです。それでは行きましょう」
「お、おお」
勢多と智真理は、私道を歩きはじめた。ここから一・四五キロの道がつづく。
「ちょっと待て」
勢多が止まった。
「はい?」
「ここで待っていたら、バスが停まるが」
「ああ……歩きます」
「おいおい、いきなり歩きは足に来るぞ」
「いいんですよ」
「だめだ。バスに乗れ。だいいち十市君が部活でマネージャーをしているのは、体が――」
「いいんです!」
勢多につづきを言わせなかった。
言われなくてもわかっている。
智真理は母の特質をうけついでいる。
強いショックを受けたら、すぐに気を失う。血が足りないからだ。病気のレベルではないが、日常的に貧血の状態がつづく。
子供のころはそうでもなかったが、中学二年のころからしだいに気絶の回数が増えてきた。だから激しい運動は自粛している。
だからといって、歩くぐらいは大丈夫のはずだ。そう主張して、押し切る形で親から自転車通学の許しを得た。
なぜかはわからない。でも、歩きたいのだ。
「飛ばすと体に響くぞ」
「え……ああ、すいません」
智真理は気がつかないうちに、早足で歩いていた。
三分ほど歩いて、問題のカーブに来た。
「だるまカーブ……」
調査の痕跡がいまだになまなましく残っている。さすがに血は学校側が洗い流したが、人間の形をした白い線やら、いくつかの線や数字が、路面に描かれたままだ。
「辛いならすこし戻れば、第二カーブへの裏道があるぞ」
「いいえ、行きます」
「強いな」
勢多は道の外側に出て、智真理に路面の線が見えないような位置を取って歩いた。
紳士なんですね……
智真理はしかし、声には出さなかった。
事件のことが頭によぎったからだ。
歩きながら智真理は、あのときのことを思い返していた。警察に詳しく話したので、すでに一生忘れられないほど、生々しく記憶に焼きついている。
だが事件の核心に関係する肝心の部分は、ほんのわずかしかない。
コピー機が稼動してせわしく紙を吐き出しはじめると、智真理にすることはしばらくなくなった。それで憲の後でも追おうかとコピー室を出たところで、トイレのほうで音を聞いた。
それは本当に、かすかな音だった。
智真理は憲に聞いた盗聴器のこともあったので、しずかに東トイレに移動していった。
音がそこから聞こえたという確信があったわけではない。反響しているので発生源はわからなかった。まさに当てずっぽうだったのだ。
だがそれは的中していた。
そおっと耳を扉に当てると、かつんと音がした。タイルの床になにかをゆっくりと置いた音だ。昼間ならまず気が付かないだろう。
例の、東トイレだった。
智真理は憲を呼ぼうとした。
相手が本気でかかってきたら智真理ではひとたまりもないことを自覚している。憲をはじめとする陸上部員たちは、智真理の体のことを知っているからこそ大人しくハエ叩きアタックの犠牲になってくれるのだ。
河地署で指摘されたことだが、そのとき智真理は平良に連絡して、ついでに警察に通報する道もあった。だが智真理は憲を呼ぶことしか思い浮かばなかった。
裏を返せばそれだけ憲を信用し、頼っていたことにもなる。自覚した智真理はその場で泣きだし、刑事がなだめる場面もあった。
――どの選択を取ったにせよ、結果はおなじだった。智真理が音をたてたからだ。
東トイレのドアは建て付けが悪かった。智真理がドアから耳を離したとたん、ぎいっと鳴ったのだ。
つぎの瞬間にはトイレの中で誰かが腕かなにかを壁に当てる音が響いた。
それで智真理が動かなければ、トイレの中の曲者は出てこなかったかもしれない。
だが動転した智真理は、つい足音をたててコピー室――いや、憲が去った方向に歩いていった。
その音で曲者はトイレから飛び出した。
いや、飛び出したというよりは、そっと外を確かめた、というほうが正しい。
互いに消音の駆け引きをしていたなかでは、智真理にとっては飛び出した、と形容したほうがしっくりくるのだ。
その場面を智真理は直には見ていない。というのも、智真理は背中でトイレのドアが開きはじめる音がしたので、予定を変更してそそくさとコピー室に入って息を潜めたからだ。
ドアが開いた。
智真理の心臓が高まった。
どきどき。
ドアはゆっくりと閉まった。
どきどき、どきどき。
すりっ、すりっ。
かすかにそのような音がする。
こちらに近づいている。
心臓が一気に早まった。
どきどきどきどき。早鐘を打つようとはこのことだろう。
だめ!
このままでは気絶してしまう。
智真理は自分の意識を保とうと必死になった。
その場でゆっくりとうずくまり、心臓に手を当てる――だが、このうずくまる動作が相手を呼び込んだ。
背中が壁に当たって擦れたのだ。
ずずっと音がした。コピー機の印刷する音に紛れてほしいけど……すでに冷静ではないはずなのに、人は案外いろんなことを考えられるものなのね。
どきどきどきどき。
すりっ、すりっ。
それは靴の音ではない。
聞いたことがあまりない足音。
強いていえば、靴下を履いて廊下を歩けばこんな感じだろうか――
智真理が耐えきれずに体を震わせ、そして見知らぬ恐怖に心臓がさらに高鳴った。
ようやく考えられない恐怖の状態? だけど自覚するということ自体が、余裕のあらわれかしら。
そう思いこませ、かろうじて気絶せずに済んでいた。
そしていよいよ、そいつがあらわれた。
智真理はそいつの顔を見た。はっきりと見た。若い男だった。しかし残念なことに野球帽のような白い帽子をかぶり、髪型はわからない。だけど顔は見た。
そばかす、そして眼鏡。
一見では、真面目そうな顔。
だが、どこにでもいそうな少年。
――おそらく、智真理とおなじくらいの年齢か。
警察でモンタージュを作った。
全校生徒の写真を見せられた。
だけど髪型がわからない。目から上がわからない。
そして首や顎のラインもわからない。ジャンパーは前を閉じ、襟を立てて着ていた。首周りはおろか顎まで覆っていた。
顔の真ん中しかわからない。
特徴がそばかすだけ。情報がすくない。そばかすの男子の写真を見ると、みんな犯人に見えてしまう。
だからわからない。いたとしてもわからない。
智真理は悔しい。どうして犯人はもっとわかりやすい顔でなかったのだろう。
とりあえず警察は外見から高校生等の可能性を考え、近隣市町村の高校および高専、専門学校の男子生徒の写真を集め――これはクラス写真などの類があるのですぐ集まる――智真理は数日間、警察でにらめっこの日々を送った。
けっきょく成果はあがらなかった。そばかすのある男子生徒。それだけで一〇〇人以上いる。
眼鏡はこの際考慮の対象外だ。印象ががらりと変わることを想定して、目撃を警戒して度のない眼鏡を掛けることが考えられる。なにより帽子とジャンパーが効果を発揮し、智真理を混乱させた。眼鏡着用はやはり攪乱目的だろうと警察は判断した。
混乱したのは事務員の平良も同様だ。彼も犯人をはっきりと見たが、智真理とおなじくそばかす以外に特徴らしい特徴を言えなかった。
警察はとりあえず一〇〇人以上の高校生のアリバイをひとりずつ埋めてゆく根気のいる作業に入っている。
ジャンパーや帽子のほうは現物がないので、残念ながらメーカーが特定できない。智真理も平良も、ブランドにはあまり詳しくないのでサンプルを見せられても答えられなかった。どれもおなじに見える。
だいたい暗がりのアクションシーンで、素人が服の詳細を憶えるのは困難だ。
現物がない。
凶器がない。
指紋がない。
ないないづくしで、捜査は困窮を極めている。なにしろ突き落としという殺し方では、凶器の有りようがないのだ。
かろうじて見つけたのは、裏道を駆けたとき枝に引っかけたジャンパーの繊維、そしてふたつだけ見つかった完全な足跡。わずかなものだ。
ジャンパーの繊維からは四種類まで絞り込まれた。しかしあいにく大手メーカーのノンブランド品で、かなり数が出回っているものだった。それに繊維一本では、製造時期や店までは特定できない。
足跡は……これだけが希望の光だった。なにやら珍品の類らしく、データベースにはない。現在情報を集めている最中である。
そしてこれは盗撮団カメレオンの件としての捜査だが、東トイレで発見された隠しカメラの存在もある。こちらは現在慎重に分析が行われているが、自作のようだという。
部品の入手経路しだいでは、なんとかなるかも知れない。もっとも隠し撮りの犯人が、殺人犯と同一人物であるという保証はない。それにカメレオンなら、足が付く部品は使っていないだろう。
あと問題は犯人のトイレへの侵入経路だが、これは窓から侵入したことが判明した。
窓の外側はすぐに山になっており、学校のなかでもっとも人気のない場所のひとつだ。
しかも窓の脇には雨水の排水管が通っており、それをよじのぼれば簡単に窓にたどり着く。足跡がその排水管の下で見つかったのが決め手だった。
窓の鍵はたまたま開いていたようだ。もっとも二階なので閉めていることのほうが少なかっただろう。盗撮騒ぎの直後はきっちり掛けていたようだが、夏休みを挟んで元の習慣に戻ってしまっていた。
智真理は警察からこれらの細かい捜査状況を教えて貰っていた。なにせこの数日、毎日朝から晩まで警察で捜査に協力していたのだ。なにやら同士意識も芽生えていたかもしれない。
だが智真理はあくまで学生である。学生の本分が勉学である以上、自分にできる仕事がなくなれば、本分に立ち返るのが当然であった。
そして智真理とはべつに警察に協力していて、本日智真理と同時に自称社会人一年生の本分に立ち返った青年が一人。
「十市ちゃん」
「あ、平良さん」
最終カーブを曲がったところで、後ろから来た軽自動車が止まり、平良が顔を出した。
「足はもういいんですか?」
「腰の打ち身と左足首の骨折だからね、このスーパーカーはAT車だから右足だけで運転できるよ」
「平良さん」
「ん?」
「なにか気分がすぐれないようですが、どうかしたんですか?」
「あ……ああ。まあいろいろあったからね」
「そうですね」
「おまえこそ、がんばれよ」
「はい」
智真理は笑って見せた。
平良はその笑みにすこし気圧されたのか、二秒ほど反応が遅れた。そして黙って手を振るとふたたび車を出した。
平良と智真理は毎日警察で顔を合わせるうちに、すっかり知り合いになっていた。
もっとも事情聴取や捜査協力はべつべつの部屋で行っていたから、時間的には一緒だった瞬間はかなり短い。
この笑みには、勢多のほうもすこしびくりとしていた。智真理は大切な人を亡くしたのだ。
それでがんばれの応援に対して、これほど短期間で笑顔を返せるのだろうか。
勢多の顔はあきらかにそう語っていた。
智真理は勢多の面持ちからそれを察し、しまったと内心で反省した。
自分が短時間で立ち直りつつある理由――それは間違いなく、なぜか腐ることのない眠るような憲の遺体の存在だろう。
生き返るかもしれない。
そう思わせてしまう。
なにしろ病院の先生方が研究しているぐらいだ。
桂川玲華女史がどういういきさつで憲の体を病院に運び込んだかは知らない。
だけどそれは智真理には関係ない。
希望。
憲が生き返るかもしれない。
それがある限り、智真理にとっては些細な事情などどうでもいいのだ。
昨日警察の帰りで病院にいったとき、寝不足なのか、目にクマのできた桂川女史に出会った。そこで彼女に智真理は、友人になってくれないか、と頼まれたのだ。
なぜいきなりそんなことを言うのか、智真理にはわからなかった。「友人になって」というのは、まるで小学生か中学生の言葉ではないのか?
だけど秘密を共有しているうえに、自分より多くのことで恵まれている相手からの頼みである。
智真理は素直に頷いた。
――そこまで思い出したときである。
いきなり智真理の首筋に、いい知れぬ悪寒が走った。
いや、これはなんというか――気持ちがよい感覚だった。運動をしまくって熱い状態で、体に悪いとわかっていながら、ついアイスクリームを一気に食べた満足感。そのような陶酔を――いや、もっと上だ。
快感?
「ひゃあ!」
おもわず声に出した。
腰がくだけ、ぺたんと路上に座ってしまう。
「どうしたんだ、十市君!」
顔を赤くして、勢多が近寄る。
智真理も赤い。いくらなんでも悩ましすぎる声だった。生まれて初めて出したと言ってもよい。
あんな声をいきなり近くで発されたら、年頃なら誰でも赤くなるだろう。
智真理は深い後悔にかられ、頬を押さえて首を振るのであった。
それがまたやたらと可愛く、さらに勢多をあわてさせるのを知らずに。
* *
しまった!
憲は後悔している。
中山からの旧道を抜け、先山高校への私道に合流したとたん、いきなり平良の自称スーパーカーと智真理、そして勢多部長がいた。
憲はうれしくなってつい『おおいー』と声をかけて近寄ったのだが、無意味だと気付いた。
まだちょっとした念力を覚えたばかりの憲に、自分の声を聞かせるとか、姿を見せるといった芸当はできない。だいいちそんなことをしてもホラーになるだけだ。
それでもやはりなにかアピールしてみたい。
憲はまよわず近寄り、智真理に触ろうと――したが、救急車のときに触ろうとしてためらったのを思い出し、後込みした。
ではまずこいつで、という感じで、勢多を一気にすり抜けた。すると力をぐぐっと補給できた。漲る力。憲は勢多の健全な生命力に感謝した。
ついでは智真理だ――ここで憲は、霊が生者の体を抜けるとき、その活力をすこし失敬する本質を忘れかけていた。おっと、そうだった。
しまった。えーと。どうしよう。
智真理はあまり体が強くない。
べつに健康に問題があるわけではない。だが健康であるとも言えない。半端に体が弱い。だからやっかいだ。無理もできるし、しかし無理をしたら反動が来る。
智真理は無理をしがちな傾向がある。
そもそもなぜ坂を歩いているのだ?
自転車で来ないと、歩くというのはない。
憲は智真理の真意を理解できなかった。
智真理……
と、智真理が笑った。
憲はその顔に一瞬だけ魅了された。
きれいに笑うんだ。
なにか切ない気分になった。
オレが死んでいるからか?
つい、智真理から顔をそむける――
と、そこには平良の顔が。
あん?
なにか腑に落ちない。
平良の表情がだ。
そのありふれたあっけに取られる顔が。
自称スーパーカーが発進した。
それを見送る憲。
ぼうっと突っ立っている。
あ、なにかが触れた。
はっと気付く。
智真理が歩いていた。
憲に重なる。
しまった。憲はあわてた。
智真理には触ってはいけないような気がした。だが……ああああ!
そして――憲はすり抜けなかった。
* *
玲華はいらいらしていた。
友人たちが怖がって話しかけてこない。
どうやら近づきがたいオーラのようなものを感じているようだ。
もっとも霊能者だから、その気になれば玲華は強い結界を展開できる。近づくと「あ、離れないと」と生者死者関係なく思わせてしまう特殊なフィールドだ。
いまはそれがなくても誰も寄ってこない。
よほど顔に出ているのだろう。
理由はわかる。
憲が来ないのだ。
この数日、玲華はずっと憲を引き連れていた。捜査協力が名目だが、正直いっしょにいて楽しいのである。
わずか数日なのに、玲華は憲が近くにいないと、機嫌が悪くなるようになってしまった。
章子お母様に相談すると、章子も若いころはスカウトした年頃の霊に似たような感情を抱いたらしい。
その「似たような」という部分を章子はやたらと強調して、玲華をからかった。
玲華は「ちがいますわ!」と否定したが、なにがちがうのか、よく自覚できない。
とにかく学校に来てから憲に絞っての運命視を頻繁に行っているが、精度はますます悪くなっている。
――校長先生が新しい入れ歯にご満悦。
――桂川かまぼこが地場産賞を獲得。
――ただいま保健室でウッフン中。
――ツクツクボウシが脱皮しました。
わけのわからない運命視ばかり。
室崎憲と十市智真理は、まえから知っていた。二人はよく目立っていた。喧嘩する関係をうらやましいと思っていた。
夏休みが明けて再会――といっても偶然見かけるだけだけど――すると、そのうらやましさはますます募っていた。
あのふたりは、わたくしにないものを持っている。わたくしがどれほど欲しても、決して手に入らないものを……
どうにかして、話しかけたい。
だけど理由がない。
玲華は常に理由が存在する世界で生きてきた。
子供は理由なしに行動できる。
だが玲華は幼い時分からなにをするにつけ、理由を周りから求められた。納得できる理由を説明できなければ動けなかった。
理由が欲しい。
玲華は理由がないと動けない。
そうしたいという自然な欲求も充分な「理由」なのだろうが、なぜか納得できずに動けない。
だからある日、つい出来心で運命視をしてしまった。
室崎憲で。
運命視は指向性――すなわち対象を決めていないと、あまりにも多くの答えがきて大変なのだ。
室崎君と、わたくしが会える方法は?
そして来たのは……
――室崎憲は、死なずに死んでいる。
たったこれだけ。短いフレーズ。
どういうものか、よくわからない。
だが幽霊コレクターとしての血が、ちょっとだけ騒いだ。
どうしよう。悩んでしまった。
数日悩んだ。
また占った。答えはおなじ。
どういうことだろう。
そして勇気を出して、聞いたのだ。
ねえ、死んだことある?
最悪だった。もっといい言い方があったはずなのに、相手はすっかり困惑していた。こちらも平静を保つのがやっとだった。
家に帰っていきなり死んだと聞いておどろいた。気が動転して泣いていた。どうして運命視の力で助けてあげることが……
章子お母様にうち明けた。
章子は怒った。
「なんてことを占ったの! 桂川の運命視力は、大杉様が理解できないことには働かないのよ」
「それぐらい知っておりますわ」
「いいえ、わかってないわね。死、金、罪悪――この三要素は、まず無理なの」
それゆえ桂川は金融業には手をだしていないし、玲華は犯人を運命視で特定することができない。犯罪者が罪悪感をもって行動したからである。真性の悪人であるほどかえって楽だったのだ。
植物には、お金や罪悪は理解できないという。それで愛や生や欲は理解できるのが面白いところだが、そういえば植物は花をつけるし、種から生えてくる。生きるため日光を求めて葉をひろげる。
もっとも玲華は大杉様とやらの御利益に懐疑的だ。玲華の運命視力は発現してまだ一年に満たないが、霊感は小さなころからあった。霊感は死の領域だ。なぜ運命視で死を知れないのに、霊感があるのだろう?
「わかってますわ……でも、勝手に死の返事が降ってきたのよ!」
たしかにおかしい。玲華は混乱した。わざわざ死を題材に視たことがなかったので、ついおかしさに気付かなかったとも言える。
「お母様、わたくしは、ただ……」
「そうね――ちょっと激しく反応したのかも。ごめんなさいね、玲華。とにかくその運命視は、大杉様が理解できることだからこそなのよ。となると、もしかして……」
章子は、死んでいるのだが完全な肉体の死ではない、不思議な「泊まりの体」について教えてくれた――なにか矛盾している気がしたが、玲華の胸は希望で膨らんだ。
もしかしてまた会えるかも知れない。
玲華は急いで想定されることを考え、各方面に手配した。運命視が発現した桂川の女は、その時点から絶大な権限を手に入れる。章子は娘の暴走を止めるどころか、手助けしてくれている。祖母はすでに一線を退いており、事実上章子会長が桂川の最高権力者だ。
そして準備は整い、待っていた。
憲を待っていた。
会えた。
幽霊の憲に。
彼を現世に繋ぎ止めたものがたとえ智真理だとしても、どうでもいい。
できれば生き返らせてあげたい。
盗撮――そのような下らないことで殺人をおこなった犯人。そして殺された憲。下らないがゆえに怒りはおおきく、また同時にやるせない。
できれば……
いつのまにか玲華は落ち着いていた。
友人達がそそっと寄ってきた。
「おはようございます玲華さん」
「今日もいい天気ですわ」
玲華はにっこりと微笑みを返した。
「おはよう、みなさん」
* *
三時限目が終わって、智真理は友人らと集団でトイレに向かった。
だがそれは、憲にとっては死活問題に等しかった。
『だー! やめてくれえ! オレは痴漢になりたくないー!』
必死に暴れる――ようとしても、なにもできない。
なにしろ憲は、ただいま、智真理の体に同居しているからだ!
智真理の五感は、すべて憲に感じられる。だけど智真理の思考は感じられない。そして憲は行動することもできない。
ただ、五感を感じるだけである。
智真理はまだ、それほど尿意がない。こんなことまでいまの憲にはわかってしまう。それで集団でトイレに行くとは、女とはどういう生き物なんだ?
憲は困っている。
それもそうだ。
性転換でもしないと、これからの体験はまず男にはできないものだ。
『頼むー。まだ女の子に幻想を抱いていたいんだよー!』
さんざんその女の子に叩かれていながら、憲はなお夢を見ている。
さて、当のトイレにはいきなり玲華がいた。
憲はこの幸運に喜んだ。
『玲華さん! 玲華さん!』
反応はない。憲の声は届かないようだ。
『…………』
幸運は去った。
「あ、玲華さんじゃないですか」
智真理がぱたぱたと玲華に寄る。
「智真理ちゃん」
玲華もていねいに会釈する。
智真理の友人たちがほうっとため息をつくのが聞こえる。
それで智真理の体温がすこし上昇する。憲は智真理が得意になっているなと判断した。
智真理と玲華はなにげない世間話から入っている。
どうやら知らないところで仲良くなったらしい。玲華と智真理が会っていたとき、憲は桂川邸で玲華が警察から入手した捜査資料とにらめっこしていたので知らない。
やがて二人の会話に智真理の友人たちも参加する。さらに玲華といっしょにいたらしい女の子たちもだ。華やかだった。
数分ほど話をしたあと、玲華は智真理に手を振ってトイレを出た。玲華のクラスメイトたちもついていく。
憲は話の最中に何回か叫んでいたが、声はついに玲華には届かなかった。
それで智真理がトイレを実際にしたかというと――仲間の半分ほどがトイレに行き、あとは洗面所の鏡で軽く髪を整えながら、また雑談に興じているだけだった。
本当にトイレが目的だった連中を待っているらしい。誰かが買った新発売の口紅を試すというメインイベントもあったようだ。きゃっきゃと騒いでいる。校則にないのでべつに違反ではない。すべては玲華が決めた基準だろう。
憲はほっとした。男には理解しにくい女の行動パターンのおかげで助かった。
智真理の友人たちは、どうやら玲華と知り合いの智真理がうらやましいようだ。それが智真理にはくすぐったくて心地よいようだが、必死に隠そうとしているのが長いつきあいの憲にはバレバレだった。
智真理の一側面を知ったようで、憲には新鮮だった。最近は気の強い智真理しか知らなかった。普段はこうして、場所によっては女の子らしい姿も見せているのに。
それに気付かない自分。
見えていても、見てなかったのかも知れない。ほんとうに、死んでから気付かされることだらけだった。
「ありがとう――」
ぽつり。話の最後に智真理はそう言った。
智真理の友人たちは黙り、そしてはにかんだように笑った。
そうか……この口紅品評会は、智真理を励ますために。
「みんな、わたしは元気だよ」
「いいっていいって」
鐘が鳴った。
「さあ行きましょ。つぎは玉城先生だよ」
「あー、古文の宿題するの忘れてた!」
「そうなの恵子?」
「智真理はいいよね。どうせ許されるもの」
「あら、忘れる以前に、宿題があったことも知らないわよ」
「そういえばそうね。数日缶詰だったから」
「犯人、はやく捕まるといいね」
「うん。ありがとう」
これが一連の話で唯一、憲に触れた内容だった。
憲は胸が裂かれるような気持ちに襲われた。
いけない、いけない。
いま一番大事なのは、犯人を捜すことだ。憲は思考を切り替えようとした。
とにかく玲華になんとか連絡して、この状態をなんとかしないといけない。さっきは玲華に伝わらなかった。いったいどうすれば。
智真理らはクラスに戻った。
先山高校はSAKIYAMAからS組、K組、Y組、M組の一学年四クラス編成になっている。憲はY組、智真理はM組だ。
智真理はM組の教室に入り、席に座った。
憲は焦った。もうなにも出来ない状態でいるのはいやだ。
『だー! 玲華に伝えないと!』
「伝えないと!」
智真理の口が智真理の声で、いきなりぽんと憲の言葉を吐き出した。それは完全に同時のタイミングだった。
!
おもわず自分の口を押さえる憲――いや、智真理が自分の口を押さえた。
周りの視線が智真理に集中する。智真理の席は教室のほぼ中央にある。先生を含め三二人、六四個の視線にきれいに囲まれる。
智真理は首を小さくする。
いや、憲も首をちいさくしている――つもりだ。
「どうしたの? 十市さん」
教室に入ってきた玉城先生が、智真理に声をかけた。
「…………」
智真理は答えない。
どうした智真理、なにか言ってくれ。
憲は焦った。
「十市さん、十市さん?」
教室内がざわめく。
玉城先生があわてて智真理に近づいた。
「十市さん、だいじょうぶ?」
『あ――』
「あ――」
また憲が言ったことを智真理が声で発した。
「どうなったんだ……」
憲は自分の手をみた。いや、智真理の手をみた。
「ああ!」
「十市さん、やはりまだ来るのが早すぎたのよ」
憲はやっと気付いた。いま十市智真理の行動を律するのは、憲の意識だ。
完全に乗っ取っている。
「ごめんなさいね。あの日、やはりあくまで私がコピーするべきだったのよ。そうすればあんなことには――」
玉城先生が目元にハンカチを当てながら、急に謝りだした。
「いえいえ。そんなことは……」
そういえば普段聞く智真理の声とはすこし異なる音として耳に届いている。それまでは五感を感じていたとはいえ、完全ではなかったようだ。いまや智真理のすべてを、憲は支配していた。
「十市さん。今日はもう帰った方がいいわ。早退届は私が出しておくから」
「……はい」
あまり多くをしゃべりたくはない。どうせすぐにぼろが出る。言葉も少なく、智真理の憲は荷物を適当に鞄に入れて席を立つ……
思い直した。
鞄をまた開き、机のなかの教科書やノートすべてをまとめて鞄に入れた。
鞄がうすいのは憲であって、智真理は成績学年上位一桁の真面目な生徒だ。
鞄を持つと、智真理の憲は歩きだした。ううむ、視線が恥ずかしい。
心臓の鼓動がにわかに速くなる。
それにしても歩きにくい。憲とは体格がまったく違うのだ、慣れない。
だいいちスカートが恥ずかしい。
いやそれは男がスカートを着るべきでないという常識ゆえに感じることで、いまは正真正銘の女子であるから、恥ずかしがることではないはずだが……
智真理の憲はぎこちない足取りで教室をあとにした。
出る間際、ちいさく礼をしたが、顔をあげたときに智真理とトイレに行った女の子の一人と目が合った。たしか、恵子だ。
恵子は小刻みに震えていた。無言でごめんね、と謝っている。
「恵子、ちがうの」
智真理の憲はそれだけ言って、済まない気持ちで扉を閉めた。
* *
四時限目が終わり、昼休みになった。
一年S組。
玲華の元に、いつもの仲間が弁当を持って集まる。
いずれもクラスではお金持ちのほうに属するお嬢様ばかりだ。玲華が望んでこういう交友関係になったのではなく、自然とむこうから集まってきたのだ。
そんな玲華に、ほかのクラスからの訪問者がいた。
玲華が自分からはじめて進んで友人になろうと働きかけている、元気な女の子だ。
「……智真理ちゃん」
玲華の口元が自然とほころぶ。
まさかわずかな期間で、智真理から来てくれるほどになるとは。
「あ、ども」
智真理はぎこちなく手を振ってきょろきょろと玲華の友人達を見回している。
友人の一人が智真理の手元を見た。
「十市さん――ですよねたしか。どうして鞄を持っているの?」
「せいや!」
智真理はあわてた。
せいや?
玲華はぴんと来た。智真理の体をじっと見つめる。波動がちょっと違う。やはり。
「すいませんみなさん、今日の昼は大事な用事がありましたの」
席を立つと、玲華は自分の弁当を持って智真理の背を押し、さっと教室を出ていった。
あまりのすばやさに、玲華の仲間たちはぽかんと見送るだけだった。
玲華が智真理を連れ込んだ場所は、教務棟の三階にある鐘楼室だった。先山高校は本物の鐘で時を告げる。
生徒は立ち入りできないが、玲華は鍵を持っていた。
鐘楼室は二階ぶんの高さがあり、上にまだ新品同様できれいな鐘がぶらさがっている。
それをぼうっと見上げる智真理の手を取る玲華。
「さ、こっちよ」
「あ……ああ!」
智真理はさっと玲華の手から離れた。
「あ、ごめんなさい。いきなり女の子に触られたら、緊張しちゃうわね」
「え、玲華さんわかってたんですか」
玲華に敬語はやめてと言われているが、憲にはどうにも無理のようだ。
「室崎君すごいじゃない」
玲華は内心のうれしさを隠せない。
霊になってわずか数日で、まさか憑依を行い、しかも意識を乗っ取る術まで覚えるとは。
鐘楼室の奥にある扉を、玲華のほかにはお母様しか持っていない鍵で開ける。
玲華専用の隠し部屋が、そこにあった。
「さあ、お入りなさいませ」
「きれいな部屋ですね」
ちいさなシステムキッチンを備えたリビングルームだ。壁は半分が外が見える総ガラス張り。
そのガラスの外側を、巨大な時計の針が回っている。床からは、大時計のからくりの振動が足に響く。
智真理――憲はすなおに驚いている。
「大時計の裏がこうなっていたなんて」
「もちろん外からは見えないわ。ちなみにガラスも壁もすべて防音なので、となりの鐘は振動は来るけど音は大丈夫よ――ちょっとそこらへんに座ってて」
玲華はキッチンにいくと、イングランドから個人輸入した紅茶をふたつ用意して、トレイにのせて戻った。
智真理の憲は、ふかふかなソファーに座って外を眺めていた。
「室崎君、見えてるわよ」
「げ」
智真理の憲はあわてて足を閉じる。
「女の子は大変だな」
「飲む?」
玲華はガラステーブルに紅茶を置いた。
「いや、勘弁……トイレだけは行きたくないんですよ」
「じゃあ食べるほうは?」
玲華は自分の弁当を開ける。
日本食だ。豪華な食材がずらり。じつはこれ、秘かに調理師免許を持つ邑居が作ったのだが憲に教えるつもりはない。
「数日ぶりの本物の食事よね」
「いいです。それよりも、なんとかして智真理から出たいんですけど」
「……え? もしかして出られないの?」
智真理の憲は頷くと、あらましを説明した。
玲華は話を聞きながら昼食を食べた。
「――なるほど、偶然ってわけね。でもそれはやはり凪影の訓練の賜物だわ。一晩でそこまでいくとは、室崎君もやるわね」
「恐縮です」
「さて……これは言霊で解決できるけど」
玲華はいきなり智真理の憲の眉間に指を突き立てた。
「せいや!」
憲の口癖を短くかつ鋭く叫ぶ。
「あ……」
すう――憲は後方に飛ぶように、智真理の体から飛び出した。
智真理は数秒ほど呆けていたが、正体をすぐに回復した。目をぱちぱちとさせ、驚いたように目の前の玲華を見つめる。
「玲華さん? え、玉城先生の授業は? なに? ここはどこ? 玲華さん?」
玲華はふっと笑った。
「智真理ちゃん、ようこそ秘密のティー・パーティーへ」
* *
一〇分後。
「玲華さん、それではこのあたりで……」
「またいらっしゃい。智真理ちゃんに対して閉じるドアの鍵を、わたくしは持っておりませんわ」
「はあ……ではごちそうさまでした」
智真理が頭を捻りながら退出した。それでもお茶とお菓子はしっかりごちそうになっている。
待っていた憲は、玲華に用件を伝えた。
『今後、昼間は単独で行動させてください』
「いきなり、どういうことかしら?」
『オレを殺した犯人を、なんとかして挙げたいんです』
直に飛んで、隠しカメラ騒ぎの現場をすべて当たりたい。
それが憲の主張だった。
困ったわ……
玲華はすぐには返事をせず、しばらく黙っていた。なにかを図るかのように、憲を見たり歩き回ったり。
室崎君といたい。だけど、たしかにそのほうが効率がいい……困ったわね。
憲のほうは、まさか玲華がそういう理由で迷っているとは思わないだろう。
玲華は一分で葛藤に結論をつけた。
「わかったわ。ただし夜はわたくしの捜査を手伝うこと。そして昼間の捜査の状況をかならず報告すること。以上よ」
『恩に切ります』
憲は玲華に礼をすると、あきらかに嬉しそうに飛んで――しかし部屋の出入り口は閉じている。
『すいません玲華さん、外に出た――』
玲華を振り向いた憲は、いきなり煙のように消えた。
「室崎君!」
玲華は驚いて走り、扉を開けた。
扉の向こうで憲が浮かんでいる。
『せいや……これも訓練の成果でしょうか』
「室崎君。あなた、すごすぎるわ」
『それでは、行ってきます』
憲は鐘楼室の上部から、外に出ていった。部屋の上部は鐘の音を響かせるため、四方の角柱以外に壁がない。
見送ったあと、玲華はため息をついた。
「わたくし、なにをしているのかしら」
残りの弁当を食べる気にはならなかった。