第二章 葬式注意報!

よろずなホビー
憑依注意報!/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章

 ――暗転した意識が戻ったとき、憲は空中にいて、自分を見下ろしていた。
 ……ちっとも痛くなかった。
 それが最初の感想。
 間抜けだが、憲は自分がどうなったかすぐに理解できた。
 せいや。死んだ、んだよな。
 カーブに備え付けられた灯り。その下で、仰向けで転がっている憲。
 血だらけ。
 頭が血の海だ。
 傷口は見たくもないが、おそらく頭のうしろかてっぺん。耳からもだらりと血に混じって、半透明な液体が流れ出ている。
 紛うことなく、完全に死んでいた。
 そこまで呆然と観察して――いや、眺めていた憲だが、にわかに怖くなってきた。
 ……おい。
 事実、ですか……?
 生きていた自分が、とつぜん死んだ。
 死にたくない。
 もう、だめなんですか……
 巻き戻しはできませんか?
 ――あ。
 ああ。
 生きていたい。
 なぜオレは追ったんだ。なぜ……
 盗撮……それぐらいで、人を殺しますか?
 オレを殺しますか?
 どうして?
 なぜオレなんですか。
 なぜ時間が巻き戻らないんですか?
 なぜなかったことに出来ないんですか?
 ちがう!
 なにに対して敬語を使っている!
 死にたくないだけ。
 生きつづけたいだけ。
 乞うているのか?
 なにに?
 運命? 神?
 未来は誰も知らないこと。
 だから後悔。後悔したから敬語で乞う。
 だが、誰も答えない。
 答えるとしたら、後悔するくらいなら追うな?
 ちがう!
 追う……殺したやつを追う!
 生き返る!
 生きつづける。
 死んだなんて嫌だ!
 そうだよ。まだオレは一五歳で死ぬには早すぎるし、キスもまだだし、それ以上もまだだ。高校総体に出たいし、記録も狙いたいし、世界をもっと見たい。
 可能性が消える。
 オレの可能性、オレの未来、オレのすべて。
 オレの日常!
 オレは死ぬなんていやだ!
 絶対に認めないぞ。
 なにかまだ出来ることはないか?
 可能性。
 可能性!
 そうだ、戻ろう。
 これがただの幽体離脱という可能性もあるはずだ……
 生きたい!
 死ぬのは嫌だ!
 消えるのは嫌だ!
 憲は思いっきり手足をばたつかせ、自分の体に戻ろうとした――
「うひゃあ!」
 平良だ。平良が誰かに押され、だるまカーブに落ちてきた。
『平良さん!』
 幸運なことに、平良はあまり高いところから落ちずに済んだ。それでも三メートルはあっただろうか。下半身から落ち、足や腰を打ったようだ。
「くふう……」
 苦痛に顔をゆがめる平良。
 そして憲は上を見る。いた。男の影。
 こんどこそ顔を拝む!
 憲は男のほうに寄ろうとした。泳ぐ要領で空中を移動する。空気はどうやら、幽霊にとっては水のように働くらしい。
 うおおお!
 一〇メートルほど泳いだところで、とつぜん憲はそれ以上進めなくなった。まるでなにかゴムのようなものが全身にからみつき、先にいけない。
『くうう!』
 憲はなお抵抗をこころみたが、その間に影はささっと走って上のほうに逃げていった。
『ちくしょうおおお!』
 オレをこんな目に遭わせたやつが!
 オレを奪ったやつが!
 逃げる。手が届かない!
 どうする?
 生きているやつがいる。
 平良さん!
 なにかできるか?
 なぜオレがこうなって、平良さんが無事なのだ。平良さんにはなにかあるのか。
 憲は平良のほうに行こうとした――が、またある距離から先には進めなくなった。
 体を縛る!
 誰が縛る? なにが縛る?
『悪夢にちがいない……俗に言う「地縛霊」ってやつじゃねえかよ……』
 おもわず口を押さえる。
『だめだ! オレは認めない、オレは霊じゃない。まだ可能性は消えていない』
 憲は自分の体に近寄った。地面に降り立つ。アスファルトを半透明の足で踏むが、どうやらそこから下にはめり込まないようだ。
 まさか……体にも入れないのだろうか?
 物語でよくあるように、なにかに取り憑くというのはできるのだろうか?
 ちがう、取り憑くのではない! 体に戻るだけだ。
 自分の体に手を添えた――
 すいっ。
 あ、めり込んだ。
 よし、もしかしたらうまくいくかも。
 憲は自分の体に重なるように、寝そべった。
 …………。
 ………………。
 ……………………だめか。
 起きあがる。
 取り憑くこともできない。ただ、すり抜けるだけだ。感覚すらない。
 やはり死んだのか。
 ――と、なにか急な脱力が憲を襲った。
『え……』
 手を見ると、おそろしく薄くなっている。
『消える……そんな』
 死を認めたとたん、消えるのか?
 もしかして成仏? 悪すぎる冗談だ!
 消えたくない、在りつづけたい!
 誰かいないか? 助けてくれる人は!
『平良さん!』
 憲の死体に平良がうつぶせの状態で、腕だけを使って近づいていた。
「室っち! 大丈夫か!」
『平良さーん。助けてください。助けて、オレを生き返らせて! 成仏したくな……』
 憲は必死に泳ぎながら、平良に近寄ろうとした。
 ――と、その意識が急速に弱くなってきた。
 すさまじい眠気が憲を襲う。
『……きえ……るの……は……い……』
 憲は平良に手を伸ばす。
 平良さん――
 平良の顔が見えなくなってゆく。
 手の感覚がなくなる。
 ぽとりと落ちる半透明の腕。落ちて蒸発している。
 体が消える。
 あ、足が。
 腰が。
 いよいよ全身が消える。
 おそろしく眠い。
 ……ちま……り……す……まな……
 智真理、済まない――なぬ?
 突然体に奇妙な力が流れ込んできた。
 消えていた足が、腰が、手が、全身の各部が急速に復活し、また憲の意識もはっきりと戻っていた。
『なにが起こったんだ?』
 見れば、憲の体は平良と重なっていた。平良から奇妙な力が流れ込み、それで憲の霊体が活性化しているようなのだ。
 憲は平良の背中からすり抜けた。
『生者から活力を得たのか……』
 また自分の死体のときと異なり、平良の体から抜けるときは、なにかかるい不快な抵抗感を感じていた。
 自分の血を流す体にはなかったもの。
 それが生きている者の証か……
 悲しくなりながらも、憲は幽霊にも五感が揃っているらしいという大発見をしていた。
 憲が振り向くと、平良は憲に恐る恐る触ろうとしていた。
「室っち……おい、おい!」
 全身を震わせながらその肩を触り――わずかに触れたとたん、ぴくりと拒絶反応を示すかのように、手を離した。
 そのショックで憲の死体は首ががくんと横を向き、さらに血が溢れた。閉じていた目がすこし開く。
「ひいっ!」
 その目がまるで生者を恨めしそうに睨んだかのように見えたのだろうか? 平良はあわてて立ち上がろうとし、
「痛っ!」
 激痛に顔をゆがめ、なかば立ち上がった状態から腰砕けに転び、そのままの状態で後ずさった。
「し……死んでるぅぅ」
 全身の体をうつ伏せにし、駐輪場のほうへ腕だけを使ってゆっくりと逃げていった。
『おーい……平良さーん』
 声は届かない。
『どうすれば声を届かせるのかな?』
 物語では、よく生身の人が霊の声を聞くというが――
 だが、こうなっては憲に出来ることはない。
 死んでしまった。
 受け入れるしかないのか?
 生き返るのは不可能だろう。
 よりによって、死んだ場所からたいして移動できない地縛霊になってしまうとは……
 せめて霊になるなら、おなじ霊でも智真理を守れる背後霊のほうがよほどましだ。
 どうしてこんなときでも、智真理の名だけが出てくるのだろうか。
 憲は自分の感情が不思議だった。
 頬を伝う水が、なによりも――
 水?
 憲は指で目元を拭った。
 半透明な水が、おなじく半透明の指の上でぷるぷると震えていた。
 どうなっているんだ幽霊ってやつは?
 憲はショックを和らげるため、なにかに没頭したかった。自分の一生を振り返っても、哀しくなるだけのような気がした。
 ……幽霊のことを調べてみよう。
 まず幽霊といえば足なし――なんと、足はちゃんとある。
 憲は足を触る。半透明な足。マンガであるような、不透明で先が消える、そんな足ではない。先までちゃんとある。死んだ瞬間の靴下の状態で。
 裏を見ると、裏道を降りた際の出血まである。靴下は当然ぼろ切れになり、血で汚れていた。だがあるはずの土が一切ついていない。服は残り、土は残らない。面白い。
 死んだときの状態になるわけか。
 頭を探る。
 傷も血もない。きれいなものだ。
 死んだ瞬間は関係ないようだ。
 幽霊はどこまで生前の姿でなってしまうのだろうか? この場合、たとえば拷問を受けて首を飛ばされて死んだ場合、拷問の傷は残るが、首は繋がったままの幽霊になるということだろうか?
 現実逃避的にそんなことを考えているところに、サイレンの音がした。
 パトカーだ。平良が後部座席に乗っている。智真理が呼んだものに拾われたのだろう。
 パトカーが憲の側で停車した。
 そのあと、つぎつぎと警察車両がやって来た。
 ああ、やはり死んだのだな。
     *        *
 その後はじつにあわただしかった。
 憲の死体は数時間ほど動かされなかった。
一時間ほどして来た刑事たちがあたりを細かく調べ、なんでもかんでも道に落ちているものをかき集めていった。
 また連絡を受けたのか理事長をはじめ、先生が幾人も現場にやって来た。だが先生たちは多くが呆然と遠くから事件現場を眺めるだけで、なにもしていなかった。
 平良は救急車で治療を受けたあと、骨が折れているとのことで病院に向かった。刑事が同伴し、同時に事情を聞くとのことであった。
 憲はいろいろと自分の存在を示そうと試みたが、誰も気付かなかった。
 ただ誰かの体をすり抜けたとき、数人に一人がなにか悪寒のようなものを感じているらしいことに気付いた。
 それで現場で指揮をとっていた岡島という中年刑事を幾度もすり抜けたが、どうやらこのオヤジは鈍感なようだった。
 憲は精神面はともかく、霊体面ではすっかり元気になった。生きている人間の体をすり抜くと、幽霊はその生命力をちょっとだけ吸収するようだ。
 消えるところだったのを偶然とはいえ助けてくれた平良には感謝しなくてはなるまい。
 そうなるとすることもないので、憲は空気中を泳ぐのと、地面の上を歩く練習をした。
 だが慣れてくると、やはり空中を泳ぐほうが速いらしいことが判明した。
 霊にとっての空気は水よりも抵抗がすくなく、それでいてなぜかひとかきで進める距離は水よりはるかに長い。もはや飛ぶといったほうがいいだろう。
 またじっとしていると、すこしずつだが下に引っ張られているようだ。どうやら幽霊にも重さがあって、重力に引かれるらしい。そして風が吹くと、わずかに影響を受けて流される。くらげの気分だ。
 幽霊という存在が、やけに物理の制約を受けているのが憲には新鮮だった。
 そして深夜近く――これは誰かの腕時計を盗み見て把握したのだが――になり、いよいよ憲の死体が運ばれることになった。
 救急車に白い布にくるまれた憲が運び込まれようとした、そのときであった。
 上から一台のパトカーが降りてきて止まると、後部座席から半泣きの智真理が飛び出してきたのだ。
「憲! 憲!」
 目元が腫れている。智真理はすでにかなり泣いていた。
 救急隊員が構わず台車を運び込む。智真理は警官に制止されている。と、完全に台車から離れた寝台が固定されたところで岡島刑事が合図を送り、警官は智真理を開放した。
 智真理は兎のように救急車に入り、憲の体に――躊躇することなく、抱きついた。
 そして泣きじゃくる。
「憲! 憲……けん……」
 それしか言葉は出ない。
 その姿に、さすがに幽霊の憲は動かずにはいられなかった。
 憲は智真理のところまで泳ぎ――もとい飛んでいき、智真理の肩に手を置こうとした……が、触るのが怖い。どうせまたすり抜けるに違いない。
 もどかしい。
『オレは、ここにいる。智真理、オレはここにいるぞ。死んだけど、智真理を見ることができるんだ!』
 でもだめだ。声は届かない。
『くそう……どうすれば!』
 その場で救急車の壁を蹴る。反動が戻ってきて、憲は反対側の壁までゆっくりと飛ばされた。
『ちくしょお……』
 鉄や石といった物体には触れられる。なのに、肝心の生きている――いや、死体も含め、生き物に触れない。
 ひたすら悔しかった。
 なぜ殺された。なぜ殺した。
 なぜオレなのだ?
 なぜ、なぜ、なぜ……
 後部ドアが閉じ、救急車が動き出した。
 そのままどこかの病院にでも行くのだろう。
 たしかこういう場合は、検死で司法解剖とかされるのだが――いやだな、自分の死体が刻まれるのは。それにしてもなぜ智真理も病院までいっしょなのだろう?
 そういえば検死ってどこの病院でするのだろう? 市役所の近くなら智真理もすぐに帰られるのでいいけど。
 つきそっている救急隊員が、憲の顔の部分の布を取る。そこには、あらかた血を拭った、しかし死んでいる体があった。
 それを涙ぐみつつ、呆然として眺める智真理。けっして顔を逸らせようとはしない。
 このあたり、平良とは大違いだ。
「憲……」
 智真理はじっと憲の顔を見つめている。
『智真理――ごめんよ。死んで』
 憲も暗い気分で智真理の向かい側に座る。
 と、救急車が止まった。
 まさか、もう病院についたとか?
 憲は窓の外を眺めた。
 救急車は私道を出て、農道を下りきったところで脇道に寄せて停車していた。
 そして対向車線に、一台の外車が……あれは、桂川玲華を送った車に似ている。
 憲はいぶかしく思った。
 後部座席の窓がすいっと降り、そこから黒眼鏡をかけた若い女性の顔が現れた。
 だれだ? 女性はこちらを見ている。
 その女性は救急車の窓を観察している様子だ。見てる――見ている。まさか?
 まさか、このオレを?
 憲は驚いた。死んでから誰も、憲に気付いていない。
 憲はためしに、救急車の前のほうに動いてみた。
 するとどうだ、女性の顔の動きは、たしかに憲を追いかけているように思える。
『オレが……わかるのか?』
『ええ』
『せいや! 桂川女史!』
 とつぜん頭に届いた声に、憲は心臓が破裂しそうな衝撃を受けた。実際に心臓がばくばくと動くのを感じる――憲はまた驚く。
 たったのいままで、自分の心臓が動いているとは思ってもいなかった。いや、内蔵が働いているということを。
 そういえば涙が出るのだから、心臓が動いてもおかしくない。また思考ができる以上、脳も働いていることになる。五感があるのだから、目耳鼻舌に、神経もだ。
 心臓の霊、脳の霊、神経の霊、諸々。
 それらが集まって、室崎憲の霊体となる。
 まったく幽霊とは、どこまで生きていたときの現象をひきついでいるのだろうか。まさかトイレも出来るのではないか?
 それにしても、いまは桂川だ。
 このオレを知覚できる。
 オレは孤独ではない!
 憲は桂川にコンタクトを取ろうとする。
『桂川さん、どうして見えるのですか?』
『その話はあと。わたくしは、室崎君がちゃんと幽霊になっているかどうかを確認しただけなの』
 桂川女史は口を一切動かしていない。
 それに通常だと大声でないと届かない距離を挟んでいる。憲は奇妙な気分だった。
『はあ……確認ですか』
『それに室崎君は、自力で存在を維持する術を発見できたようね』
『存在を維持?』
『霊魂は生物学的には生きてないけど、多くの現象で生物とおなじく、自然の摂理に支配されているの。エネルギーを補充しないと、すぐに霧散――消滅するのよ。とくに生身の死亡直後が危険ね』
『そ……そうなんですか』
 憲は実感が湧かないが、さすがに体が震えた。平良のエネルギー、捜査員からもらったエネルギー。それらがないと、とっくに消滅していた、というのだ。
 やはりそうだったのか……消えるところだった。よかった。
『かなり力を蓄えたようですね。これなら大丈夫でしょう。ついでに、「切り離し」を行いましょう』
『切り離し?』
『いまからそちらにわたくしの手の医者が移乗するわ』
 救急車の後部ドアがゆっくりと開き、二名の医者が入ってきた。なにやら救急道具を持っている。
「……だれ?」
 智真理がとまどい混じりの視線で医者たちを睨めつけた。どうやら智真理は、たったのいままで救急車が停まっていたことにも気付かなかったようだ。
 医者は構わず智真理を押しのけると、憲の遺体の頭部に、まるで生きた怪我人に対するかのような治療をはじめた。
 救急車の救急隊員は、打ち合わせでもしていたかのように、その手伝いをする。
 いきなりの出来事に、智真理が怒った。
「死者になにをするのよ!」
「犯人を見つけたくはないのか?」
 医者の一人が言ったことに、智真理の怒りは水のように引いた。
「……え?」
「きみの大切な人を殺した犯人を、見つけたくはないのか?」
「見つけたいわ」
「ならば邪魔はしないことだ。これは解決への近道なのだよ――ということらしいが」
「そうなの? ……なら、せめて私はここにいていいわよね?」
「好きにするがいい。私の名は沖だ」
「沖先生、憲を頼みます」
「任せろ。もっとも死体を治療するなんてことは、私もはじめてだが」
 智真理は医者の邪魔にならない位置を見つけ、そこで憲の体をまた見つめはじめた。
『なかなかいい女の子じゃない』
『そこから智真理の声が聞こえるのですか?』
『桂川家のたしなみよ。でもいまの室崎君にも、慣れればできるはずよ』
『すごい人ですね――あ、智真理は彼女じゃないですよ』
『わたくしは、女の子、と言いましたわ』
『げ!』
『修行が足りませんわね』
『まいったな。智真理は、家族ですよ』
『家族……いい関係ね。それにしても死んだ直後でこういった遣り取りができるのはいい傾向だわ』
『え?』
『生者全体に恨みや妬みしか持てない幽霊が、けっこう多いのよ。まあそういったのはよほど根性がないと、いずれすぐに成仏か自殺的消滅の運命を辿るけど……』
『オレは幽霊になった以上、オレを殺した犯人を見つけてやりたいです!』
『その意気よ。まちがっても関係ない生者に当たってはだめよ。それは室崎君、あなたを悪霊にするわ』
 憲の身が震えた。
『悪霊……』
 その可能性を考えなかった。
 そういえばすっかり死を受け入れているようだ。死んだ直後は騒いでいたのに。
 どうやら積極的に幽霊を知ろうと働きかけたことが、うまく精神を静めるのに役立ったようだ。
 いずれにせよ死んでそれで無事に幽霊になれた以上、これをある意味の幸運と割り切って犯人を見つけることに専念したい。
『桂川女史、頼みがあります』
『わかっているわ。犯人を捜しましょう』
『え……あ、ありがとうございます!』
 憲は感動して体の底から喜びの震えがわき起こっているのを実感した。
 死んでも、生きているときの感情はそのままそっくり残っているじゃないか。
 ある意味すばらしい再発見だった。
『さて本題よ。救急車の外に出てちょうだい。わたくしと合流しましょう』
 憲は戸惑った。
 事件は解決したい。警察が見つける前に、自分を殺した奴を見つけてやりたい
 だが同時に気に掛かることもある。
 つい天秤にかけてしまう。
『でも智真理が……』
『あら。彼女でもないのに、近くで見ていないと不安なの?』
『司法解剖とか』
『もはや空の器となった死体が傷つくのは関係ないのではなくて? 大事なのは室崎君、あなたの現在の体――霊体のほうよ』
『霊体……切り離しとやらですか』
 たしかに現在の状況の改善がより大事だった。なにが切り離しということかは知らないが、なんとなく自分にとって益になることのような気がした。
 憲が救急車の後部ドアからさっと抜け出ると、対向車線にいた外車が、こちら側に寄っていた。運転手が出てきて、後部ドアを開く。
『入って』
 ドアの奥で、黒眼鏡を外した桂川女史が微笑んだ。
 憲は無言ですべり込む。
 と、ドアが閉じた。同時に、桂川女史側の窓もゆっくりとあがっていく。
『なにをするのですか?』
「だから、切り離しよ」
 桂川玲華は、こんどは口に出した。
「邑居さん、あちらに連絡よ。出して」
 運転席に指示をだす。運転席に戻った体格のいいおっちゃんが、無言で無線をつけた。
「出せ」
 ドスのある濁った声でそれだけ。
 すると、前の救急車が後部ドアを閉じ、エンジンをかけて出発したのだ。
 こちらは動かない。
 ――ああ!
 憲はとたんに、全身を縮もうとするゴム膜でくるまれたかのような抵抗感と、激しい吸引力を感じた。
 前の、救急車のほうに!
 これは――これは、そうだ。この感じは、地縛霊だと気付いたときの、あの感覚。
 だけど、そういえば救急車に乗ってからはすっかり忘れていた。死んだ場所を離れたのに、この抵抗感をぜんぜん感じなかった。
 オレが地縛霊でないとするなら――もしや、オレは死体に縛られているのか?
 憲はいまさらながらの事実に気付いたが、すさまじい力は憲の全身の骨をきしませている。霊になって骨がきしむとは、やはりなんともおかしな体験だが。
 憲はいまや後部座席から飛ばされ、フロントガラスに背中を押しつける形でへばりついていた。
 体がきしみ、ぼきぼきと骨が折れる。
『痛え!』
 一本、二本……どこが折れているのかわからない。
 しかも目の前にはむさい運転手のおっちゃんの顔がある。地獄だ。
「室崎君、痛いと感じるから痛いの。いくら霊の感じる世界が生きているころに近いとはいえ、生者にはまず真似できない芸当もあるのよ!」
『そ、そんなこと言ったって』
「しかたないわね――痛いの、痛いの、飛んでけぇー」
『じょ、冗談は……あれ?』
 桂川女史が指を差して言った言葉が、憲になぜか効果をもたらした。
 痛みがすうっと引いてゆく。
 体は相変わらず激しく救急車のほうに引っ張られているが。
『せいや、すごいや』
「言霊って知ってる? 言葉には多少の力があるのよ。霊は純粋な精神体だから、とくに効果絶大ね」
『はあ』
 痛みがなくなったので気付いたが、憲はこれほど激しく引っ張られているのに、車がまったく動いていない。
 霊に重さがあるらしいことはすでに体験済みだから、よほど軽いのだろう。羽根がフロントガラスでぱたぱたやっているていどかも知れない。
 と再発見をしたところで、憲の体はとつぜん後方のほうに飛ばされた。
『せいやー!』
 目の前に桂川玲華が! 玲華はおもわず腕を組んで顔を守る。やはり見えているのだ。
 憲は桂川の上半身をすり抜けた。
 ――おお!
 憲の霊体に力が一気に漲る。これほどの生命力を持つ人だったのか!
「やんっ」
 桂川が、やけに可愛い声をあげた。
 憲の吸い取りに反応している。
 憲はそのまま、後部ガラスにべちゃりとぶつかった。
「お嬢、どうしたんで」
 邑居運転手が反応した。
「いえ、なんでもないわ。いま終わったから、もう救急車を追っていいわよ」
「了解」
 車が出る。
 憲はよろよろと桂川の隣に座った。
『……なかなか疲れる儀式ですね』
「これをしないとあとでいろいろ不便なのよ。どう? 骨も治ってるとおもうけど」
『便利な体ですね』
「霊でうまくやっていくには、言霊は使いこなせるようにしておかないとね」
『……疲れた』
「しばらく休みなさい。霊も寝るのよ。いまので一気に数日分の力を補給したから、睡眠中に消滅することはまずないでしょう」
 さりげなく怖いことを言われた気もするが、思考力が追いつかない。
 憲はその場で、眠りについた。
 眠る幽霊。
 ほんとうに、死後の世界は不思議だった。
     *        *
 気が付くと、朝だった。
 ここは――大きなガレージか。
 数台の外車が停まっている。
 その一台に、憲は乗っていた。
 うむ。そのままにされた。
 まあ考えてみれば、どうやって眠る幽霊を動かす手段があるというのか。
 仕方がない、とりあえずここがどこか調べますか。
 おそらく桂川の家だろうけど。
 ガレージは裏と右手が壁だが、正面と左は開けている。正面は門までつづく舗装路と、そして見事な日本庭園があった。
 左は巨大な古い屋敷のようだ。憲がやっかいになっている十市屋も広い部類の日本家屋だが、桂川の家は外見だけからも、格といったものが感じられる。
 憲は車から出ようとした。
 だけど出られない。生物で造られた部品は抜けられるようだが。ハンドルの持ち手やら、シートの表層部分やら、革の部品にはさっと抵抗もなく手足が入る。
 だが――どうにも無生物はだめだ。鉄やガラスがダメだ。またプラスティックはなにか混ざっているためか、生物の残骸である石油から作られているはずだが通りが悪い。
 一〇分ほど格闘して、車から出られないことを知った。
 幽霊退治は簡単だな。脱出不可能な密室状態にして、しばらく放っておくだけで勝手にエネルギーが切れて消滅する。
 あ、これは人間もおなじか。餓死するな。
 とりあえず邑居さんか、桂川女史が来るまで、のんびり待つとしますか――あん?
 なにやら半透明なものが、こちらに近づいている。
 ふわふわ。
 ひらりと遊んでいるように。
 うーむ。
 せいや!
 あれはもしや、先輩か?
 死ぬ前なら身震いする出会いだったはずだが、幽霊の実状をかなり知ってしまった以上、恐怖する要素は憲から消えていた。
『おーい~!』
『ほいな?』
 しわがれた老人の声が憲に返してきた。
『聞こえますか~? ここです~』
 憲は窓を叩くが、どんどんという音は当然しない。
『ふうむ。おお、そこか』
 気付いたようだ。老人の幽霊はすいーっと降りてきた。
 泳ぐ様子もない。見事な幽霊っぷりだ。
 窓を挟み、憲のまえに立つ。
 江戸時代のような、白い死装束を着ている。頭にはなんとこれまた江戸時代の怪奇物に出てきそうな三角形の布が、ぴんと天を向き立っている。見事だ。そしてなにより、足がない! 見事に幽霊だ。
 老人の幽霊は、風もないのに揺れる髭を撫でながら言った。
『なにをしているんじゃ? そんなところに閉じこめられて。うかつじゃのう』
『面目ないです。うっかり眠ってしまって』
『おまえさん、いつ死んだんだね』
『たぶんまだ半日ぐらいかと……』
『ふぉふぉふぉ、そりゃまたとびきり若いのう。それでいきなり閉じこめられて、よく消えずにおられたものじゃ』
『どうやら消えないていどの力をちょうだいしたようで』
『だれにじゃ?』
『えーと、この家のお嬢さんです』
『ハルさんかのう』
『ハルさん?』
『髪の長いおさげの似合うおなごじゃ』
『ほかに長髪の女性はいませんか? わたしとおなじくらいの年齢で』
『おまえさん、髪が長いのう。それくらいかね?』
 老人がちっちと手を動かすと、憲の髪が勝手にふわりと浮き上がった。
『まるでハルさんのようじゃ』
『はあ……でも彼女はもっと長いです』
『ところでハルさんや、こんど隣町に街灯ができたそうな。見にいかんかね』
『はい?』
『いやいや、だいじょうぶ。この源吉の力車は、県下一だっての評判だからさ。だれよりも速く、だれよりも一番よく見える場所を――』
『ちょい待ち!』
 憲は制したが、しかし源吉老人は延々と、あきらかに平成はおろか昭和も飛び越えた古い時代のことを朗々と語っていた。
 幽霊が『ハルさんはどこじゃね』と飛び去ったあと、憲は息をつく暇もなく、つぎの霊を迎えた。
 こんどはサッカーをする小学校低学年くらいの男の子だった。足があるが、服装はどこか古めかしい。特番で見た、三~四〇年前のフィルムに出てきそうな姿だ。
『あんちゃん、そんなところでなにしてんのさ』
『せいや。はずかしいことに、閉じこめられたのさ』
『ばっかでー。隙間があるから、そこから出ればいいじゃん』
『隙間?』
『そうさ、扉の隙間さ』
『無理だよ』
『できるよ。 ♪ぼくは酢を飲むやわらかく~』
 子供はいきなり歌い出した。
『♪そして今日こそ鉄棒を回るんだ~』
 子供の体がいきなり細い棒のようになった。
 するり。
 扉の間を抜け、憲の前にあらわれた。
『♪~田村屋のお酢!』
 どうやら古いCMのようだ。
『えーと、平らなままだけど』
『ええ。わー。元にもどるの失敗したよ。まあいいや。とにかくこれで大丈夫』
 子供は平面のまま、また隙間を抜けていった。
『やってごらんよ』
 まだ平面のままだ。
 まるでマンガの世界だが、まあ仕方がない。
 えーと、いわゆる言霊ってやつだよな、これも。
 憲はわざわざ子供のすることを真似しなくとも、抜けられるのではと思った。
 というよりは、平面になるのが趣味に合わないと感じたのだ。
『よし……瞬間んん――』
 憲は車内で格好をつける。
『――移動おぉぉ!』
 テレビヒーローのように派手なポーズを取る。せまい空間なので上半身だけだが。
 ぱっ。
 つぎの瞬間、憲は見事に車外にいた。
 だが――
『ああ、なにしてんのさ。そんな大技、うまくないと出来ないって』
 子供があわてている。
『せいや?』
 憲が見ると……
『ぬをををを』
 車外に出ているのは上半身だけで、腰あたりから下が、車内でもがいていた。
 腹部は扉の鍵穴を通して細長く変形し、胸元から上が普通の姿のままだ。
『どうすればいいんだ!』
『うわーん。わからないよー』
 急に痛みが襲ってきた。
『うげ。痛みよ、消えろ!』
 消えない。
『うぐぐ……いた、たた』
『だいじょうぶ? あんちゃん』
『き……きみのほうが、死人の、だ、大先輩、だろう? こう、いう、と、ときは……』
『うん。痛いの痛いの飛んでけよー』
 すう――それであっさり痛みは引いた。
『あ、ありがとう……これは共通か』
『なに?』
『いや。それでまた聞くけど、これはどうすればいいかな?』
 下半身は相変わらず意志に反してばたばた足を揺らしている。のびた腹部はだらりと垂れ下がっていた。服ごと伸びているのがいかにも幽霊らしい。
『ぼくにはわかんないよ』
 そういえば少年はまだ平面のままだ。
 おもしろく変形した霊が二人、なにもできず騒いでいる。
 そんな珍奇な風景に、さらなる霊がつぎつぎに集まり混じってきた。
 中年サラリーマンや相撲取りといったのがいたが、多くが老人だった。うち半分ほどはさいしょの源吉じいさんとおなじ、幽霊幽霊した白ずくめな格好だった。
 だが、みんな妙に元気で明るい。
 憲と子供はいい見せ物になっていた。
 どうしてこんなに素直に笑ってるんだこいつら? どうやら死人に対するイメージを変えなければいけないようだ――憲は頬を引きつらせながら思っていた。
「みんな、どうしたの?」
 そんな集まりに、聞いたことのある声が届いた。
『桂川女史!』
 てくてくと、雅な浴衣を着た起き抜けの桂川玲華がやってきた。
 すると笑っていた老人たちが、うやうやしく女史に道をゆずった。お年寄りたちの顔には相変わらず笑みがあったが、しかし嘲笑ではなく、見守り敬う笑みに変わっている。
 桂川は憲を見るや、あきれたように口をあんぐり。
『姉ちゃん、これなんとかしてよー』
 平面が桂川に駆けてゆく。
「たっちゃん、また変なことを新入りに教えたわね」
『ちがうよ。ぼくは……』
「いいから。膨らめー膨らめー」
 桂川がたっちゃんの頭をぽんとなでる仕草をするや、子供は風船のように膨張した。
 顔と胴体が一体化したたっちゃんは、みじかい手足をぱたぱたさせながら空中に浮かんでしまった。
「しばらくそうしてなさい」
『うーうー』
 子供は太りすぎてしゃべれないので、言霊も使えない。
 身から出た錆とはいえ、憲は同情した。
『ちょっとかわいそうじゃないですか?』
「見かけがお子さまだからって甘く見たらだめよ。あれでも生きていたらいまは四五歳くらいなんだから。幼い口振りは演技よ」
『そんなものかな?』
「そうなの。で、室崎君ももちろん、元に戻りたいでしょ?」
『まあ、たしかに』
「ならここのルールには従ってね。ルールはひとつ。わたくしが法律よ」
『……はい?』
「だ、か、ら、わたくしが法律なの。わかった? 少年」
 ウインクがやたら怖く感じた。
 憲は冷や汗も自覚した。
 どうやら桂川玲華という同級生、思った以上にとんでもない女のようだ。
     *        *
「桂川の家はね、運命を視る力で成功してきたのよ――」
 車の中で、玲華は知られざる伝説を語ってくれた。
 戦国時代から林業で栄えた桂川の家。
 しかし三〇〇年ほど昔の秋、山の奥で見つけた古い杉の大樹を、切るか切らないかでおおいにもめた。
 その数ヶ月前に藩の城下で大火が起き、再建の木が不足していたのだ。
 切っても切っても木が足りず、山を切り進む果てに見つけた巨大な杉。これを切れば、家が五〇軒は立つだろう。
 天にも伸び、山の形そのものであった大杉。家は切る側と祀る側に分かれた。下働きの者は、切ると祟られると怖れた。
 そんななか、一人の少女が申し出た。
 私が神木と契りましょう。
 木を慰めましょう。それで人のために切られてくださいと頼みましょう――
 木は切られた。
 そのあとにささやかな神社が建てられ、桂川の少女は社に入った。
 だれも死ななかった。
 だれも祟られなかった。
 大木で作られた家は、その後二〇〇年はいかなる地震、台風にも耐え続けたという。
 ――いつしか社も廃れ、いまや木のあった場所もわからない。
 だが桂川の直系の女性には代々、大杉の巫女としての不思議な力が備わっているという。
『木と契ったのに、巫女の力が血として受け継がれるって、へんな話ですね』
 と憲が素朴な疑問を口に出したが、
「神話だもの。どこまで本当かわからないわ――でも、力は本物よ。おもに運命を視るのと、そして霊感だけど。桂川の家紋って、杉の葉なの、知ってた?」
『はあ……』
 実感の湧きようがないのであいまいに頷くしかない。
 桂川の家は大正時代になっていきなり多角経営にのりだし、山を下りて河地市に居を移した。
 そしてあれよあれという間に成功をおさめ、現在の規模になっている。これで県外にあまり経営を拡張しないのは、大杉の力がおよばず、運命を視る力がほとんど働かないからだと言う。
「その時々の、直系女子の勘で運営してきた家だもの。経営ノウハウの蓄積なんかほとんどないわ。だから冒険はしないの」
 たまに系列会社の社長や重役が勘を最優先する経営体質に嫌気をさし、反乱を企てることがあるらしいが……
「そのときはもうひとつの力、霊能力の出番よ」
 桂川家が抱えるもうひとつの秘密、幽霊部隊。
 それで様々な怪奇や怪異を起こし、行動に移す前に相手の出鼻を挫くという。
 桂川に関するそういう噂は、憲はじつは耳にしたことがある。
 勝手に隣県に子会社を作った系列社長が幽霊におびえてノイローゼで引退したとか、反抗した重役が移ったライバル会社の株価が幽霊騒動で暴落したとか。
 古い家であるだけに、そういう話はデマだと思っていたが、まさか本当だったとは。
 昨夜とおなじ後部座席に座っている憲は、そろりと前部の助手席に目を移す。
 そこには、半透明の鎧武者がでんと座っていた。顔には般若面をつけており、表情を伺い知ることはできない。
 名を凪影といい、死んでかれこれ四五〇年になるという。一〇〇年ほど前から桂川の家に世話になっているらしい。
 この鎧を見るにつけ、噂は本当だったと実感せずにはいられない。
 憲を元に戻してくれたのも凪影だった。
 ただそのやり方は乱暴一筋だったが。
 玲華の呼びかけで煙のように空中にいきなりあらわれた凪影は、無言で打ち刀を抜くや、憲の胴体を一刀で輪切りに伏したのだ。
 そして切り離した胴体をお年寄り幽霊たちの助けでふたたびつないで、それで終わり。
 憲には凪影の剣筋がまったく見えなかった。
 おそらく生者のなかには、凪影に匹敵する技を持つ者はひとりもいない――そう玲華は語っていた。
 それにしても、なぜ凪影はついてきたのだろうか。物騒なことでもあるのだろうか。
 車はやがて、桂川病院河地本院の前で停まった。
『あれ? 学校は?』
 玲華は制服を着ている。
「今日は先山高校は臨時休校にしたわ。行っても警察関係者とマスコミ、応対する教師と事務員しかいないわよ」
『へ……』
「どうしたの?」
『いや、なんかまるで女史が、学校の経営に口を出せるような感じですので』
「あら、わたくしが理事長よ」
『……え、でも、たしか入学式では』
「ああ、あんなのダミーに決まってるじゃない。先山高校はわたくしが小学生のときからお母様にねだって、やっと作っていただいた夢の学校なの」
『……せいや』
「ああ、自分の一存ですべてがどうにでもなる学園生活! 山の上の学校。近隣すべての高校を一方的に見下ろすのよ。なんてすばらしいのかしら!」
 先山高校では急なイベント系の行事がよくあるが、まさかこんなカラクリとは。自由な校風と聞いて入ったのだが、奔放のまちがいだ。死んだからもう関係ないけど。
 なるほど。女性の勘に頼る経営ということは、裏を返せば直系の女子はわがままも通せるということだ。
 桂川は宝石店やブティック、美容院をいくつか抱えているが、うちどれほどが本当の運命視による投資だろう。
 究極が学校まるごとと来た。
 憲にはカルチャーショックだった。
 金持ちのすることはわからん……
 目を輝かせる玲華であったが、邑居運転手が扉をあけると、とたんにいつもの澄ました真顔に戻った。
 さっと無駄のない優美な動きで車から降りる。
 まったく、すぐに猫を何枚でも被ることができそうだ。
 憲もあわててその後を追う。だが邑居はわかっているのか、憲が出るのに充分な時間、ドアを開けていた。
『ども』
 聞こえるはずはないが、つい礼を言ってしまう。
 邑居はついで、だれもいない助手席も開けた。いや、そこには武者の凪影がいるのだが。
 凪影はゆっくりと腰をあげ、重役のように威厳をもって車から出た。
 邑居はバカ正直に凪影に頭を下げていた。軽く一〇秒はしてから頭をあげ、ドアを静かに閉めた。
『見えないのに大変ですね』
『邑居さんは凪影の濃い血を引く子孫なのよ』
 道理で邑居は無口なわけだ。ちなみに憲はまだ凪影の声を聞いていない。
『子孫ですか。どうやって見つけたのですか』
『わかるらしいわ、凪影には。わたくしのお母様が凪影の要請に応じて、邑居さんを召したの。いきさつは知らないけど、邑居さんは凪影がご先祖様だと知っているわ』
 人目があるからか、玲華女史は心に響く言葉に切り替えている。
『こちらにとっても、邑居さんのような人材は貴重だわ。なにしろとても口が堅いから』
 納得できる。そうでなくて、超常の力と多くの秘密を持つ、桂川家の運転手としては信用されないのだろう。
 邑居が車を駐車場に移動させて合流すると、玲華を先頭とする四人は警察署に入った。もっとも、生きている人には二人組にしか見えないだろう。
 邑居は周辺に注意を向けつつ歩いている。体格がいいので、ボディガードの役割も兼ねているようだ。
 喧嘩慣れしている憲にはわかるが、歩き方などの何気ない動きが素人離れしている。訓練よりはむしろ、実地で鍛えた猛者のようだ。
 逆に凪影はあまりにも自然体すぎて、一見では憲にもその強さがわからない。だが一度斬撃を体験しているので、その恐ろしさは身にしみてわかっている。
 病院のロビーに入ると、受付嬢でなく中年の医者が三人待ちかまえていた。その一人の胸元には、沖院長との名札が。
「玲華様、こちらへどうぞ」
 院長が玲華を恭しく案内する。
「出迎えは一人でいいって言ったのに」
「いいえ、そうは参りません」
「……まあいいけど」
 玲華一行は、そのまま奥へと通された。
     *        *
 そこは病棟最奥の部屋だった。
 玲華と憲、凪影は入ったが、邑居は部屋の前で残った。
 部屋にはベッドがあり、一人の若い誰かが眠っていた――
『げ、オレ』
 それは室崎憲その人の死体であった。
 死亡時の制服でなく、清潔な白っぽい服に着替えさせられている。
 憲の驚きをよそに、玲華は沖院長に質問をした。
「院長先生、彼の状態はどう?」
「完全に死んでいます」
「蘇生は無理?」
「勘弁してください。医学にも不可能なことがあります」
「そう。でも本当に死んでいるの? 顔が青くないけど。気の早い葬儀屋が来て化粧をしたわけではないわよね?」
「まさかそんな。そのままですよ」
 憲も不思議に思った。
 そういえばそうだ。
 まるで眠っているようなのだ。
「とても不思議な現象が起こっています」
「ふうん」
 玲華の瞳に、興味の光が灯った。
「腐らないんでしょう」
「え……なぜそれを」
「それどころか、死後硬直や死斑といったものが、一切出ない、とか」
 玲華はおもむろに憲の死体に近づくと――いきなり胸元に添われた手をさわり、ぶらぶらと揺らしてみせた。
「さすがに体温はないわね」
 沖院長をはじめ、同席している医者たちは玲華に驚愕の視線を向けている。なぜこの人は知っているのだ、と。
「まあこれで、彼を検死に回さなかったことが正解だとわかったでしょう?」
「は……はあ」
 沖院長は額に溢れる汗を抑えきれないようだ。ハンカチで拭っている。
 玲華は憲の腕を元に戻した。その後になぜか凪影がやって来て、憲の死体をじっと見下ろしている。
 玲華は三人の医者を見渡した。完全に玲華が主導権を握っている。
「さて、今度は室崎君を埋葬させないようにしないとね。火葬にされたら台無しだわ」
「か、勘弁してください! 今回はいつもより危ない橋を渡っているんですよ」
 沖院長の額にどっと汗が噴き出ていた。
 それはほかの医者たちも同様のようだ。
「それにこんなことをして、本当に桂川の利益が守られるのですか?」
「検死に関しては大丈夫よ。だいいち死体が消えたのに、警察が騒いでないじゃない」
「桂川の圧力、ですか――でも報告書のほうはどうしますか?」
「それは確実に完璧な報告書を作れるわ。書類上で司法解剖したことにすればいいし」
「そんなむちゃくちゃな……」
「おだまり!」
 しいん。
 玲華の睨みに、一同は硬直した。
「今回の殺人事件でわたくしの学校が被る風評被害は大きいわ。だからこそ、ぜったいに桂川グループの手で捕まえるのよ!」
 沖は食い下がる。
「警察に任せるというのはだめですか」
「河地市のなんたるかを決めているのは、だれ?」
 玲華の視線が一層鋭くなり、医者たちを襲った。
 医者たちは一人として動けない。
 沖の咽が、ごくりと音をたてる。
「……か、桂川章子会長様です」
「ちがうわ! いまはお母様だけではなくてよ」
「し、失礼しました! 玲華様もです」
 玲華は満足したように頷いた。
「わかればよろしい。警察も役所もだいじょうぶ。みんなわたくしが、力で抑えているわ。あとは十市の家だけど――これは一般だからやっかいね。そういえば室崎の家のほうは、今回の彼の死を知っているの?」
「はあ――確かめてはいませんが、全国ニュースで流れましたので、おそらくは」
「そう。ならそちらはわたくしのほうで手配しましょう。では室崎君の保存は任せるわ。研究に関しては、血や一グラム以下のサンプル採集以外、解剖行為はだめよ。スキャン走査で留めておきなさい」
「わかりました……」
 深々と礼をする沖院長と医者たちをのこし、部屋を出ようとする玲華。と、忘れ物があったかのようにその足を止める。
「これはヒントだけど――彼の刻は止まっているわ。だから腐らないのよ。あと、今回の手当は二日以内に、記録に残らない現金支給で出すわ。給料四ヶ月分でいいかしら」
「ははあ!」
 さらに礼が深くなる。
 憲は感心した。
『絶妙だな』
『こうすれば、秘密が外に漏れる心配はまずないわ――約一名を除いて』
『え?』
 玲華がおもむろに扉を開けると、そこには両手に花を抱えた約一名が立っていた。
『智真理ー!』
 私服の智真理は邑居に通せんぼされ、扉の前から動けずにいたようだ。
 智真理は玲華を見て、あきらかに戸惑っていた。
「桂川さん……」
「お嬢、お知り合いで?」
「邑居さん、その子はいいの。通してあげて」
 邑居は黙って智真理を通した。
 智真理は玲華にちいさく会釈をすると、早足で病室に入った。
 沖院長に挨拶すると、憲の死体に歩み寄り、その胸元にそっと花を添えた。
「すごい……なんてきれい。沖先生、ありがとうございます」
「いや――私はなにもしていないよ」
「いえいえ。沖先生がよくしてくれたおかげで、憲はまるで生きているみたいに……」
 智真理はこみあげてくる涙を抑えきれなかった。
「今日はもうだめ。でも憲、これから毎日来るからね」
 涙を散らして、病室を走り出た。
「さすがに彼女だけには、秘密にする必要はないわね」
 玲華はふうっとちいさく息を吐く。
『ちょっと耐えられないわね、わたくしは室崎君の意識が存在するのを知っているから』
『桂川女史……』
『玲華って呼んでよ。それに「ですます」はもういいわ。わたくしは正直、室崎君と十市さんの関係がうらやましいのよ』
『せ、せいや……そうですか』
『「です」はなし!』
『はい。玲華さん』
『「さん」、ね。まあいいでしょう』
 玲華は沖院長を向いた。
「院長、彼女にはわたくしの指示通り、ちゃんと言い含めているの?」
「会いに来るのはいいけど、家族には言うな、と」
「よろしい。でもやはりある意味つらい秘密ね。まあ十市さんなら大丈夫でしょう。では後は任せたわよ」
 そして憲や玲華らは、病院を後にした。
     *        *
 三日ほどして、葬式が行われた。
 世間体があるのか、けっきょく喪主は室崎の者になった。だが葬式の会場は十市屋の母屋になった。そのあたりは裏でなにがあったかは憲に知る由もない。
 憲は自分の葬式を見物するという、希有な体験をすることになった。
 十市屋は大正時代に建てられた古いおおきな木造家屋で、表が和菓子屋、裏が屋敷と作業場になっている。屋敷には軽く一〇〇人は入れる畳敷きの広間があり、そこで葬式が執り行われていた。
 つぎつぎに参列者が訪れたが、泣く者、悲しむ者はやはり憲と実際に日々を過ごしたなじみの者、知る顔ばかりであった。
 勢多部長などは男泣きに大粒の涙で会場から去った。おなじクラスの女子が「じつは好きだったの」と霊前で告白したときは、なんともこそばゆい想いをしたものだ。
 室崎の一族からも三〇人ばかりがやって来たが、憲にはさっぱりだった。七年前の交通事故で父と母が死んだとき、だれも憲を引き取ろうとはしなかった。その理由は知らないが、いまさら来てなんのつもりだ、というのが正直な感想だ。
 遠縁にあたる十市家のほうは、智真理をはじめ、みんなお世話になった方々ばかりだ。
 憲が室崎姓のままなのには理由がある。十市の家は憲を養子にはせず、憲の後見人という形になっている。憲が本当の両親のことを忘れないようにと、智真理の両親が薦めてくれた形式だった。
 いま思えば、それは智真理が確実に十市屋の財産を相続するための現実的な打算だったかも知れない。だがけっきょく智真理の両親は憲を気に入り、実の息子のように褒め、叱り、育ててくれた。
 智真理の母は、普段は気丈だが気が細い部分がある。憲が死んだとき警察から連絡が来たとたん、智真理の母はショックで倒れたという。父は妻のつきそいで、現場に来れなかった。
 また一人娘の智真理も同様で、悲報を聞いたとたんその場で気を失い、現場に来るのが病院に運ばれる直前になったそうだ。
 智真理のあの気の強さは、いつ切れるかわからない気力を維持するため。憲はそう思っている。
 智真理には顔も知らない喪主一家の隣の席があてがわれている。本当はもっとも憲に近い場所にいるべきなのに、血のつながりが遠いがゆえ、離されてしまう。
 焼香する者に、てきとうに挨拶する喪主一家。その後人を強いられる十市家の三人は、飾りの喪主以上に参列者に感謝の礼をする。
 なにもかもが奇妙な葬式だった。
 外では私服の刑事が怪しい者がいないかどうか目を光らせている。
 またマスコミが騒いでいる。若者が殺されれば絵になるからだろう。
 憲はちらりとテレビを見たが、陸上界の損失だとか、妙におおげさに報道していた。
 憲は高校生になってからはまだ結果をのこしてないというのに。
 それにマスコミは憲を殺した犯人を盗撮団カメレオンの関係者だとして、派手に取り上げた特集を組んでいた。
 盗撮団に殺された少年。
 ……ある意味絵になる。
 金のために殺す。
 愛憎の末に殺す。
 なんとなく殺す。
 これらはよくあることだが……盗撮のために殺す。
 これはあまりない。
 客観的に見て、格好悪いこと甚だしい。
 殺した側も、殺された方も。
 それゆえかえって悲劇には相違ない。
 マスコミはどうしてもそこに注目を集めて取材をし、垂れ流す。
 もっともあのときはどう考えても逃げるため、というのが妥当だろう。
 捕まるのがいやだから逃げた。
 そのはずみで憲は殺された。
 盗撮の最中で憲に見つかったというわけではない。盗撮の秘密を憲が握ったから殺したわけでもない。
 そういう反論を憲はしたいのだが、いかんせんできるはずもなく。
 死人に口なしとはよくぞ言ったものだ。
 好き勝手に煽られ、室崎憲の体は現在日本で一番有名な遺体になっている。
 だいいち智真理を襲ったあの野郎が、同時にカメラを隠した盗撮団の一味であるという確証はまだない。
 捜査はこれからという段階なのだ――もっともそんなことは大多数の日本人にとってはどうでもいいことだし、憲にとってもどうでもいいことだった。
 憲にとって大切なのは智真理を襲い、自分を殺した者を見つけること、それのみだ。死んでしまった以上、盗撮団カメレオンそのものは正直どうでもいい。
 というわけで、マスコミたちの行動自体に憲はあまり興味がなかった。ぼんやりと見物している。
 あ、私服刑事――たしか岡島さん――が間違われてマスコミの取材を受けている。だがさらりと受け流すあたり、さすがにプロだ。
 さて、奇妙な葬式がやっと終わった。
 憲の白木の棺桶は霊柩車に乗り、火葬場へと向かう。
 そこまで進むと、人々はぱっと散ってゆく。あれほどいたマスコミもだ。さすがに火葬風景まで撮ろうとは思わないようだ。
 一転して静けさを取り戻した十市屋。その裏口から、ワゴン車が走り出た。桂川葬祭のものだ。
 ワゴン車には本物の憲の死体が収まっていた。葬式場ですり替えたのだ。顔が出る以上、さすがに葬式本番で偽物を使うわけにはいかない。
 それなら火葬場に向かった遺体は、どこで入手したのだろう――車内で憲は不思議に思ったが、同乗する玲華に尋ねようとはしなかった。正規に手に入れたはずがない。
 これで墓ができる。嘘の墓が。
 葬式は、最後まで奇妙に終わった。
 憲の体はふたたび病院に帰っていく。
 それを知るのは、ごく一部の関係者と、そして智真理だけだった。

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