翌六月九日朝一〇時頃。
大阪の桃コンサルタント株式会社大阪支社。ここに、同社災害調査部門の本部室があった。部の本部を東京の本社に置かずに支社に置いているのは、部の最大の取り引き相手である自然災害対策局が、大阪の近くの神戸に、本部を置いているためである。
自分の席で、桃太郎は七日夜に遭遇した、大規模崩壊事故について考えていた。
(一週間の大雨、謎の男、『逃げろ』というセリフ、大見山大空洞、そして常識を越えた崩壊の仕方……これらは、必ず一つの事象に整合する……)
そこに、体格がいい部下の内藤がやって来た。内藤は、桃太郎に報告書を渡した。
「部長、先日部長の指示で営業部門に回して出しておいた例の大事故の調査の入札ですけど、最終候補に残ってやしたぜ」
災害調査部門部長の桃太郎は、おとつい宮沢憲司に広島駅まで送ってもらい、鉄道で大阪の社宅に帰ってきた。そして翌日、自分の遭遇した事故の調査の入札に参加するよう、電話連絡で部下に伝えた。一つの仕事が片づくたびに一日以上休むというポリシーを守って、社宅でぶらぶらしながらである。
「――そうか。ま、僕にとっては当然の結果だがな」
「部長の予想額は本当によく当たりますな。こんな滅多にない大きな仕事の金額まで分かるなんて。おかげで、仕事が多いんで助かりますぜ」
桃太郎の入札提示額は、彼独特の感と推測力、情報分析力とが結合して、驚くべき正確さで依頼主の予想額に近い金額をはじき出しており、入札が専門である、営業部門の本部長も頼るほどであった。現場指揮者としてはまだまだの桃太郎であったが、仕事を多く獲得できるこの能力は、それだけで彼の価値の高さを示している。
「――今回の大仕事は、ぜひ獲得したいな、やりがいは十分だ。今のところ、確率は数分の一か」
最終候補の詳細を記した入札経過途中報告書を読みながら、桃太郎は自信満々に言った。
「今回の入札はずいぶんと熱心ですね、部長。たった一日で休みを返上するとは、今回の仕事の獲得に何か秘策があると?」
「いや、無い。ただ、今回は最終候補などという特例を使ってきたからな。そうなれば、装備や技術、実績の面ではこの中でもっとも有利な我が社が、選ばれる確率が高いというだけだよ、内藤」
「ということは、これは勝算あっての自信であって、根拠の無い自信ではないということか」
内藤は、おそらく推測した内容は正しいが、論点のとんちんかんなことを言った。勝手にうんうんとうなずいて納得している。
「論点が変だぞ、論点が」
「まあいいじゃないですか、部長。とにかく、今回の入札にずいぶんと力を入れてることは分かりますぜ……ところで部長。実はこんな怪文書が、報告書の後に送られて来やしたぜ。一応報告したほうがいいと判断したんで」
桃太郎は内藤の差し出した一枚の紙切れを受け取った。それは、短い文章だった。
「『M・Kガナニカタクランデイル。キヲツケロ』……なんだ、こりゃ?」
* *
ほぼ同時刻、岩国市のボロ研修施設で、天野は上司から調査同行指令を受けた。
衛星映像通信室にいる天野は、自分の直接の上司である、予防部二課防人部隊課長の能戸と話をしていた。
能戸は三七歳で、これからが働き盛りの中年おじさんである。本人はデスクワークよりも外に出ているほうが好きだと言っており、外にあまり出なくなる課長に出世したときは悲しんだほどである。
「私もさっき、例の大事故現場で救助指揮を取り続けている、原部長から正式な命令を受けたばかりでね。とにかく天野君、君の分隊を使わせてもらうよ。そのためにわざわざ、事故現場の近くに君たちを移動させたのだからね。とりあえず四小隊ほど割いてくれ」
「分かりました。これは、私自ら指揮を取りましょう」
「それがいいだろう。事後調査の同行だとはいえ、今回は大きな災害だったからな。それにしても、私もかつてのように外で活躍したいよ。日がな机上では腰が疲れるだけで、仕事をしてるという実感がなくていかんな」
「能戸課長はその分給料が多いから、家族に楽をさせてあげられるではありませんか」
「――そうだな。夫個人の我儘など、家族の幸せには変えられないな。天野の言う通り、そう納得させとこうか」
「ところで、この調査にたずさわる会社はどこになりましたか?」
冷房もなく相変わらず蒸し暑い中で汗をたらしながら、ナイスガイの天野は仕事相手が誰かを聞いた。
画面の能戸は、冷房完備の涼しい部屋にいる。どうでもいいことだが、天野はそれをなんとなくうらめしく思った。しかし、顔には出さない。
「桃コンサルタントにしたよ。あそこの部長はまだまだ若いが、技師たちの職人芸はすごいからね。こんな大仕事にはぴったりだろう」
「桃コンサルタントですか、分かりました。その部長なら個人的に知っています。あの若部長は父親の社長と同じく、見たところなかなかのやり手ですよ。将来どこまで伸びるやら」
「桃の若部長は、下の名前を『太郎』というらしいぞ。全体で『桃太郎』で、縁起ものだな。本人も名前負けしてないし――そういや君も、下を橋立といったな。日本三景の天橋立と同じだ。狙った名前どうしで、気が合うんじゃないか? では、後の打ち合わせ等はすべて君に任したぞ」
そして能戸の映像は消えた。ファックスが動きだし、正式な命令書が転送されてきた。
その命令書を手に取って読みながら、天野は思った。
(彼の下の名前は太郎ていうのか……知らなかった)
天野は初対面の時に、桃太郎のフルネームによる自己紹介を聞いたはずだが、その時は観測網の事で頭が一杯で、とても彼と名前仲間である事実に気が回らなかったのだ。
初めて自分と同類の名前に出会って、天野橋立は年甲斐もなく嬉しかった。しかし彼はまだ知らない。自分の新しい部下に、もう一人自分の仲間がいることに。
* *
自然災害対策局、災害予防の要である自動常時異変観測網。センサー類にガタが出始めたとはいえ、まだまだ観測網は十二分に役に立つ。
その観測網の管理を一手に引き受ける、情報部の若い技術者の一人が、ある異変を見つけた。
「――何だ?」
技術者は、瀬戸内海の地図を表示している画面を見つめた。すると、海域に最初はちらっとしか見えなかった白い光点が、みるみるその数を増やしていった。
「……もしかして――いや、あせるなよ……確かめないと」
技術者がキーボードを素早くたたく。すると真上から見た瀬戸内海は、ななめ上から見た、地下も含んだ立体図へと移行した。
立体的に見る瀬戸内海の白い光点は、一定の深さに集中的に分布していた。技術者が再びキーボードを操作すると、画面全体に赤い光点の集合が重なり、その一部は白い光点と重なっていた。二色の光点が重なった地点が黄色に変わり、いくつかの黄色い光点から黄色の線が伸び始めると、他の黄色い光点を次々に結んでいった。
そして地底にほぼ東西に伸びた、何本かの黄色い線が出現した。それらのほぼ真中を走っている一本の線が、やたらと長く、太く強調されていた。そして、画面の右下に、いくつかの数値が表示された。
その様子を見て、技術者は驚いた。
「な――なんてこった!」
* *
自然災害対策局本部の副局長室で、金取護は薄気味悪い笑みを浮かべながら、独言をつぶやいていた。
「ククク、これでワシは局長だ……長かったな……これであの計画も上手く行けば、将来政界に出る資金も出来るというものだ。ククク、まだ一〇歳と若いこの組織はスキだらけだからな。これからもたっぷりと吸わせてもらうとするか。ククククク、カカカカカ、ぎゃははははは~!」
局長室の一階下にある広い緑色の壁の部屋。局長室と同じ広さであったが、簡素な局長室とは違い、豪華な内装であった。黒皮の豪華な椅子に腰掛けながら、最高級の酒を片手に、金取は将来の皮算用にひたっていた。
「――はあはあ。高笑いは、さすがにこの歳ではつらいな。さてと、どの手段であの脳味噌筋肉馬鹿を追い落とそうかな……」
金取は、すでに計画が成功したかのような錯覚に捕われていた。そのときドアが開いて、調査部部長の貝塚が現れた。何かに動揺している様子である。
「金取副局長、大変です」
貝塚は一枚の紙切れを金取に差し出した。すっかり自己陶酔に酔った、いい気分をさまたげられて、金取は不機嫌そうにグラスを机の上に置き、それを受け取った。
「いったいなんだね、貝塚。私は忙しいのだよ――何だこの文は!」
『M・Kガナニカタクランデイル。キヲツケロ』
このイニシャルは特定個人を明確に表わしているものではなかった。しかし金取は、自分が普段から公金横領などの犯罪を犯していたので、これが自分を中傷している文章だと、すぐに理解した。
「例の大崩壊事後調査入札で最終候補に残った三社と、局内の一部に流れた怪文書です。候補の一つに残っていた犬山氏から連絡があり、調べてみたところ、分かりました。発信源は……残念ながら、今のところは特定できておりません」
「犬山が知らせてくれたのか。あいつに入札額を教えておいて正解だったな。まあいい、策はある……おい、貝塚、発信源は分かるのか?」
金取は凄味のある目を向けた。自分より下の者に対しては、とことん横柄な態度を見せる。覇気を失って久しい貝塚にとっては、これで十分であった。
「ただいま全力で捜索中です。必ず発信源は突き止めてみせます」
自分より九歳も若い金取にすっかり小さくなって、貝塚は言った。金取の機嫌を損ねたら、まだわずかに未練のある自分の出世の望みは断たれてしまう。人事にも口出しできるほど、金取の黒い根は深い。
「それとは別に、局でワシの他に『M・K』のイニシャルを持つ者を探せ。もしいたら、そいつに何らかの罪を偽造し、なすりつけてスケープゴートにしてやるのだ。行け!」
自然災害対策局で働く人員は、全体で三万人を越す。怪文書と同じ、金取護のイニシャル『M・K』を持つ者は、他にも一人くらいはいるだろう――金取はそう考えた。
「は、はい~」
貝塚は慌てて出ていった。金取は懐からライターを取りだし、紙切れに火をつけて灰皿に放り込んだ。その燃える様を見ながら、金取は考えた。
(ふん、小物が――しかし、誰がこんなものを――高栗の野郎か……これは面倒臭いことになりそうだな……)
ルルルルル――ルルルルル
金取が思いを馳せているところに、緊急連絡が入ってきた。
「なんだ、さっきから。今日は騒がしいな」
金取はうっとうしそうに映像通信機のスイッチを入れた。画面が明かるくなり、一人の壮年の太った男の上半身を映し出した。
「金取だ。徳山、いったい何事だ? 災害事故のことはみんな任してあるはずだぞ」
金取は厳密に言えば、本来の自分の仕事をしていない。副局長としての仕事は、すべてこの後衛八部の要、統括部部長の徳山に任してあり、金取はこの部屋でいつも、自分のための時間を存分に味わっていた。
そしてここ二、三日では、彼の楽しみは高栗局長を追い落とすことを考えることに集中している。その楽しみを連続で邪魔されて、彼はすっかり機嫌が悪くなっていた。
「ワシは忙しいのだぞ、早く用件を言え!」
金取は立て続けにわめきたてた。しかし画面の徳山は、そんな金取の激昂を気にする余裕がまったくないほど動揺し、興奮していた。
「大変です、副局長! さきほど情報部から連絡があり、観測網が特別緊急異変を探知したということです。災害種別は地震、危険度は――」
そこで徳山は少し声が詰まった。突然のことに現実感覚が半分マヒした金取が、とっさに理解せぬまま怒鳴る。
「どうしたのだ、早く先を言え!」
「――危険度は、特Aです! 西関東大地震クラスですよ!」
「何だと!」
さすがの金取もこの台詞には、愕然とする以外に対処の方法を見い出せなかった。
* *
局長室で高栗将人局長は、事故現場から緊急用ヘリで来た、予防部部長の原に会っていた。
原は、形式的だが重要な口頭報告を行なっていた。しかし、その口調はどこか沈んでいる。長時間労働の疲労と、多い犠牲者が原因であった。
「六月九日午前八時四〇分現在で、死者は六二名、負傷者は二七名、うち重体は一四名、行方不明者は一三六名です。行方不明者はさらに増える可能性あり。最終的な死者数は、二〇〇人以上に達する可能性が極めて高い――そして今のところ、二次崩壊の危険は小。これらの情報は、さきほどマスコミ各社に伝えてあります。ただ……」
「どうした、気になることがあるのなら何でも言え」
「はい。ただ、これは崩壊原因とは関係ないかもしれませんが、大見山の大空洞の出入り口の一つが、開けっ放しになっていたとの報告がありました。これは私が自分で現場まで行って、この目で見て確かめてあります」
今回の大崩壊が、あまりにも常識外れの規模と崩れ方で起こったために、事故の原因に大空洞が関係あると見るのが、早くからの大方の見解であった。当然、大見山の周囲はくまなく調べられ、宮沢憲司と桃太郎の見た開けっぱなしの大扉は、既に発見されていた。
「ほう、それは怪しいな……それで、そこはちゃんと封鎖してあるだろうな。調べるにしろ、国の許可がいるからな、あそこは」
崩壊の原因を握っていると思われる、大空洞に関する具体的な謎が浮上したことは、究明の第一歩である。高栗の口調は真剣さを増した。
「はい、その点は大丈夫です。ところで、この件についてはどうしましょうか」
「人為的な可能性がある。出入り口の事は一応、警察にまかせておこう。ただ、これとは別に、国に大空洞探査の許可を申請しておく。これで問題はないだろう」
「分かりました。それでは私はこれで失礼させてもらいます」
「ごくろうだったな、原、二日間ぶっとうしで指揮をしてくれて。後は作戦部の村田に任せよう。一日の休暇をやるから、家に帰って疲れを癒して来い」
「はい」
原は疲れた顔に少し笑みを浮かべて言った。しかし彼のその喜びは、すぐに掻き消された。
突然、二人の持っている幹部専用の緊急連絡用携帯電話が、けたたましく鳴り出したのだ。
「……すまないな、原、前言撤回だ。それにしても、わずか三日間で二回もこの音を聞くのは初めてだな――もしもし、高栗だ。何が起こったんだ?」
「分かってますよ、高栗局長――しょうがないな。ま、これが仕事ってもんか……原だ、何事かね?」
二人は親指ほどのサイズしかないマイク状の携帯電話に出た。そして、二人とも一〇秒もしないうちに顔が険しくなった。
『何だとう!』
二人は同時に叫んだ。そして、原は何も言わずに会議室にすっ飛んで行った。
「やれやれ、疲れているというのに相変わらず速いな。どちみち、ある程度人数が揃わないと、緊急会議は出来んのにな――」
高栗は、まだ四〇歳と若い原の体力をうらやんだ。そして彼は椅子から立ち上がると、秘書のほうを向いた。
「北条、我々も行くとするか。自然は私が引退する前に、とんでもないもてなしを用意していたぞ」
局長専属秘書の北条萌は、静かに頷いた。
* *
現場が好きな管理職、能戸課長から直々の命令書を受け取った天野分隊長は、研修施設の食堂に全員を招集した。
昨日までこの施設にいた八五人の新人研修生たちは、そのうち七七人が、その日のうちに神戸に移動している。
現在このボロ研修施設にいるのは、入れ違いに入ってきた予防部二課防人部隊第一分隊の全員である。このうち八人は、この分隊に配属された新人たちであり、施設に続けて残留している。宮沢憲司と季も、これに含まれていた。
隊員はさらに五人一組の小隊に分けられ、全部で二一小隊、計一〇五人でこの分隊は構成されている。第一小隊は天野分隊長、第二小隊は高栗美佐副分隊長が小隊長を兼任し、他に一九人の小隊長と二一人の副小隊長、そして六三人の平隊員がいる。
昨日より一〇人以上も多い人数で、狭い食堂は過酷な熱気を充満させた。
その温室の中に、昨日付けでこの分隊に配属されたばかりの宮沢憲司と季は、風の入る涼しい開けっぱなしの窓際を選んで、二人で並んで立っていた。
「つまり、学習の勝利ってわけだ。体験したことを活かして、よりよく自分に還元する。これこそ、生物に本能的に与えられた能力的な義務だな――」
調子に乗って宮沢憲司が臨時講義を行なっていたところ、風向きが急に変わり、今まで涼しかった窓際は、温風が外に放出される換気口となった。
「しかし、学習の結果の行動が常にむくわれるとは限らない。違いますかな?」
突然の熱気に襲われながらも、日本より暑い台湾出身の季は割合平気そうな顔をしていた。
「……そうですな」
宮沢憲司はそんな季の皮肉の応答に、苦い同意をした。
そこに、天野分隊長と高栗美佐副分隊長が入ってきた。部屋は静まり、二人の会話もここで終わりとなった。
「どうやら全員集まったようだな」
天野は周囲を見回した。
「今日は皆の予想どおり、仕事の話だ。我々がここで待機しているのは、例の大事故の予備人員としていつでも動けるよう、能戸課長の配慮があったからだ。事故現場に比較的近いこの岩国市なら、素早い行動が出来るからな」
天野の話を聞いてる宮沢憲司の斜め前で、顔に立派な顎髭を生やした男が、となりの女性に話しかけた。
「また能戸課長の独断専行だぜ。まったくあの現場おたくは……」
「まあいいじゃんか。能戸のおっちゃんの判断は、結構いいセンいってるんだ。今回も、何らかの命令を受けると判断してたんだろうさ」
宮沢憲司はその女性をちらりと見た。後ろ姿しか見えないが、短い髪で、耳にイヤリングを付けている。
(男みたいなしゃべり方をするな……高栗副分隊長といい、こんな職場じゃ女性は、気を強く持たないとやっていけないみたいだな)
宮沢憲司はなんとなくそう思った。
「そして我々の仕事は、今回の大事故の事後調査をするコンサルタント会社の同行だ。残念ながら我々の活躍する場はないが、滅多に見れない海上での調査だ、面白いぞ。それでは今から、参加小隊を発表する。全部で四小隊だ、まず私の第一小隊、そして高栗の第二小隊、第八小隊、第一五小隊、これで全部だ。なお、該当しなかった者はさらに予備人員として、この仕事が終わるまでここに待機するものとする。また、該当者は全員残留せよ。以上だ、質問はないか?」
一人の男が手を挙げた。宮沢憲司の斜め前にいる、立派な髭を生やした男である。
「天野分隊長。分隊長、副分隊長の二人ともが現場に行っている間、残留組の最高責任者はいったい誰になるんです?」
天野は一瞬動きが止まった。どうやら、何も考えてなかったようである。
「うむ、それは――高栗副分隊長に決めてもらおう」
(よくもまあ、こんな狭くて暑っ苦しい部屋に一〇〇人以上も入れたわね。これで、この建物では一番広い部屋だなんて――え、何だって?)
暑さに弱い高栗美佐はすっかりばてぎみであった。昨日と同じく、一言も話すつもりはなかった。しかし、突然天野から予想もしなかった問題をまわされて、思考回路が暑さで満足に働かない彼女は、少しだけ考えて、いきなりとんでもないことを言った。
「……昼に残留組で何かの大食い大会を開き、優勝した小隊の隊長が最高責任者になるってのはどうかしら」
ぎょっとして、天野は隣の高栗美佐を見た。一瞬当てつけかと思ったが、突っぴょうしのないことを提案した本人の様子は、別に怒っている様子もなかった。天野はいきなり話を振った手前、彼女の提案に無下に反対することは出来ない。しょうがなく、みんなに提案の可否を問うことにした。
「――この意見に反対の者は?」
しかしみんなは暑いこの部屋からさっさと出たいため、少しでも話を長引かせるようなことをあえて言おうとする者は、誰もいなかった。あきらめて、天野は言った。
「……今日の昼に大食い大会を開く。具体的な話は、残留組の者たちで話し合うこと」
真面目な公式の場で、余興の決定を下すという、前代未聞の事態を招いた事に、天野は自分自身にあきれていた。
「それでは天野分隊長、この大食い大会でかかる食費は、すべて局が持つということですか?」
誰かが、止めの質問をした。
「ああ、分かったよ。今日の昼飯代は、全部公費から出してやる。残留組だけではなく、全員の分だ。そうしないと、不公平だからな。思う存分食え!」
もうヤケになって天野は言った。
「分かるじゃん、分隊長!」
「やったあ――、美佐お姉様、ありがとう!」
「さてと、何を食べようかな……」
「ふふふ、とうとう俺の底無しの腹が役に立つときが来たぜ」
とたんに、部屋中が歓喜の嵐に包まれた。
自分の何気ない一言が招いた事態に、高栗美佐は驚きながらも、結構話の分かる天野を再発見して嬉しくなった。
(ああ~。また笑い話が一つ増えてしまった。それにしても、どうやって経理部を納得させようか……)
天野はいきなり現出したやっかいな問題を抱えて、悩んだ。
* *
神戸の自然災害対策局本部。その五階の一区画を占める広い会議室に、約二〇人の男女が広い円形テーブルを囲んで座っていた。
この緊急会議に出席しているのは、高栗将人局長、金取護副局長、前線二部と呼ばれる予防部、作戦部の部長二人、後衛八部と呼ばれる統括、情報、調査、整備、備品、経理、開発、事務、各部の部長八人、他には、北条萌ら秘書が数人、書記が二人、そして、痩せた背の高い男が一人。
全員が揃ったことを確認すると、上座にいる、局長であり、同時に議長をすることになる高栗が緊急会議を切り出した。
「本日の議題のことだが、みんな改めて言わなくても分かっているだろう。二〇二五年の西関東大地震に匹敵する大地震の予兆が、瀬戸内海西部で観測された。危険度は特Aであり、この危険度は五年ぶりのことである」
ここで、高栗はいったん説明を止めた。長年現場にあって仕事をしてきた彼であっても、今回は容易ならざる事態であり、どうしても心の整理をつけながらの説明となった。
「私は仮にこの地震を伊予灘大地震と呼ぶことにしたが、とりあえず、今回の異変を最初に観測した技術者に説明してもらおう。柿本君、説明を」
高栗が一人の男を見た。彼の視線を受けた痩せた背の高い若い男は、すっかりこの会議の緊張感に萎縮しながら、ゆっくりと立ち上がった。
「情報部の中四国埋没センサー専門監視技師の柿本素吉です、よろしく」
その言葉は弱々しく、学者によくある内向的な性格をあらわしていた。
「本日六月九日午前一〇時四〇分頃、愛媛県伊予灘沖で活断層S5439が、M2・4の深度性地震を発生させました」
柿本は始めは緊張していたが、いざ説明を始めるとすぐに、研究者である自分を取り戻して、落ち着いた様子になった。
「この断層活動後、周囲一〇本ほどの断層が続けて活動。それに伴い、一〇〇本以上の断層がひずみを増加させつつあります。そのうちのいくつかは、特に巨大なひずみを集中させています」
柿本が自分の手元にある端末を操作すると、全員が座っている円形の机、その中心の何もない空間に、巨大な立体映像が投射された。それは、愛媛県北西岸沖の伊予灘を中心とした、瀬戸内海西部の映像であった。
映像の中で、海底よりもさらに深いところに、海岸線に平行なほぼ東西にのびる、二〇本あまりの線が表示された。
地震は、地中に長年蓄積されたひずみの力が、ときどき開放されることによって発生する。
日本列島は、アメリカ西海岸沖で誕生した太平洋の海洋プレートが、地中に沈み込む所に位置している。そのため、日本列島は常に海洋プレートに押され、それに対して押し返す力とが、地中にひずみを発生させやすくする。
そのために地震が多い日本であり、一回の大地震が与える被害の大きさを考えれば、その予知の必要性は重要であった。では、いったいどうやって地震を予知すればいいのだろうか?
二〇世紀末現在の技術では、観測機で地面のひずみ量の具体的な変移を見たり、地震前に見える、微震や発光現象、自然に敏感な動物の反応などを調べるしかない。これら地上からの観測方法では、地震の具体的な発生日時を特定するのは、とても困難である。
そこで二一世紀に入り、活断層の調査が本格的に行なわれた。地震は、地面のひずみの力が、断層で地面がずれて開放されるという、断層活動そのものの副産物で発生する。ならば、元凶を直接監視すればよい。
自動常時異変観測網の一部に組み込まれた地震監視システムでは、活断層の近くに直接センサーを埋め込み、従来の観測方法とからめて、地震の予知はかなり正確に出来るようになっていた。
そして立体映像に映し出されている、二〇本ほどの線はすべて、急激にひずみを集中させつつある、地震源となる断層であった。
「この地下約三〇キロの地域が、膨大な蓄積ひずみの急激な開放準備に入っています。とくに、この中間深度活断層S0174を中心とした約二〇本の断層に応力が集中しています。いくつかの小さな地震で周囲のひずみがここに集中し、とうとうここが物理的弾性限界に達すると、表層活断層H3021が連動した複合断層地震となり……」
「――研究者でないと理解できない話などどうでもいい。それで、具体的にはどのような地震が起こるのだ? 結論だけ言ってくれ」
予防部部長の原が、柿本の専門的な話を中断させた。
「……すいません。では、結論だけ言いいますと、体感レベルの前震(大地震の前の小さな地震)はなく、いきなり本震の大地震が発生する高い可能性が、三日後の六月一二日から、一週間以内にあります。その際は、断層のずれは海底まで達するので、間違いなく津波も発生します」
そこまで言うと、柿本はいったん言葉を止めて、息をして心を静めた。そして、資料に目を通しながら、観測網のデーターからコンピュータが予想した驚愕の数値を示した。
「この地震が発生したときの予想規模は、M七・三からM七・四。予想震度は長浜を中心とした愛媛県北西部沿岸が七から六、松山、八幡浜、屋代島が五、岩国、櫻井、北条、宇和島が四、広島、大分、山口、今治が三。津波は海底表層の『ずれ』の規模により大きく変化しますが、最低でも四メートル規模のものが発生し、瀬戸内海西部全岸を襲います。この地震の予想被害は……対策なしだと、金額にして概算で約三一八兆円(今の三〇兆円ほど)あまり、人への被害は、死者だけでも、最低二〇〇〇人を越えるでしょう」
ひととおりの説明をして、柿本は肩の荷を下ろして安心した。全員の端末画面に、そのデーターが表示された。
「本当にこの伊予灘大地震が起きたら、まさに三〇年前(二〇二五年)の西関東大地震の再来だな。あのときはM七・七、死行方不明者は二万にも達した。当時は本当に直前になって、地震の兆候をつかんだ。しかし対策の時間がなく、混乱の中で結局は大震災となってしまった。しかし今回はちがう。我々には時間がある。たった三日だが、それだけあれば十分だ。被害を最小限に抑えるべく、最善の対策を話し合おう。ここにいる全員の建設的な意見を聞かせてくれ」
高栗局長がそう宣言し、全員での真剣な討議が始まった。いつもは仕事にけっして興味を持たない金取や、本来は発言権を持たない随行の秘書や書記までが、いろんな意見を述べた。
三時間にも及ぶ話し合いのすえ、次のような緊急対策が決まった。
* *
ひとつ、明日速やかに伊予灘大地震の有無、起こるならその発生時間の特定をする、現地での事前調査を行なう。
ひとつ、直ちに政府に通達。はっきりとした状況がつかめるまで、民間に報道管制を敷き、混乱を防止する。また、自衛隊、警察、消防、海上保安各位に協力を要請する。
ひとつ、津波の危険沿岸地域に展開している、移動に時間のかかる大型海上浮遊施設『浮島』は、事前調査の結果が出る前から、沖合への避難を要請する。(津波は、深度が浅いと波立ち、猛威をふるう。従って被害は海岸近くに限定され、深度の深い沖合では、どんな大津波も、海面が少し膨らむだけである)
ひとつ、明日行なう大見山南岸大崩壊事故の事後調査には、伊予灘大地震による、二次崩壊の予測の事前調査を追加する。
ひとつ、伊予灘大地震の事前調査の結果が出しだい、二回目の緊急会議を開き、必要なら大規模な予防作戦を協議する。
* *
「なお、この事前調査は桃コンサルタントにやってもらう。今回は特別だ、入札をやっている時間などない。私が知る限り、瀬戸内海での海上調査船の装備も、技術も、この会社が業界一だ」
「しかし高栗局長、あの会社は、明日の大見山の件を任してあります。桃コンサルタント災害調査部門の部長の体は一つですよ、他の会社にしたらどうです?」
どこかおどおどしながら、調査部部長の貝塚が言った。こんなときでも、彼はかつての出世競争相手だったライバルの高栗を意識していた。
「貝塚部長、それはいい。私は、最初からあそこの若部長に依頼する気はない。彼の親父さんである社長に直接頼む気だよ。社長とは昔馴染みでね、こんな大仕事にはぴったりのベテランだ」
「意義あり。緊急とはいえこんな大事な仕事に、局長一人の独断だけで、勝手に依頼会社を決めていいものでしょうか」
何かの機を狙っていた金取は、ここぞとばかりに高栗の判断を非難しだした。高栗局長の果断で迅速な判断力と実行力は、時としてワンマンな行動を取っていた。結果として、これは常に良い方向に働いていたのだが、このときは、結果が出る前に金取が非難したので、結果として、金取につけこむスキを与えてしまうことになった。
金取の手駒には、調査部部長の貝塚と、統括部部長の徳山という、二人の部長が含まれている。彼らも、ここぞとばかりに金取に賛同した。これは金取にとっては、局長追い落とし作戦という壮大な計画の一環であったが、他の者にとっては、単なる中傷にしか聞こえなかった。
彼らは高栗局長の人柄に魅かれており、高栗のワンマン的な欠点などは、それに勝る魅力と能力で補われた。しかしこのときの金取の主張は、確かに真理としては正しかった。たとえ己の欲のためだけの主張であったとしてもである。
「それでは、金取副局長の推してる犬山コンサルタントも、その仕事に同行させよう。ただし、現場指揮権は桃コンサルタントが持つ。それでいいかね」
「はい。お聞き入れてくれて光栄です」
相変わらずの能面に形だけの笑顔をつけた金取が言うと、高栗は汚いものから逃げるように、金取から視線をそらした。
「それはいいとして高栗局長、伊予灘には、被害を受けると、とんでもないことが起こるものがひとつ浮いていますよ」
作戦部部長の村田が言った。作戦部は、実行部隊の予防部を直接後ろから支える指令塔となる部である。彼の服は、予防部の原、局長の高栗と同じ群青色であった。
「……あの海上原子力発電所だな、村田部長」
その言葉を聞いて金取が一瞬体を震わせたが、誰も気がつかなかった。一人、北条萌を除いて。
「はい、新聞やテレビが騒いでいましたが、このたびの梅雨の大雨の影響で、あの原発は今、愛媛県長浜特別専用港にいます。柿本君の報告では、長浜は、地震の予想最大震度地点のうえ、確実に大津波に襲われる最大危険地域です。いずれにせよ、あの施設には早急に、しかも直接に移動を要請する事が肝心です」
全員に聞こえるよう、村田は小さい背を震わせながら言った。四八歳、中年の彼は背が低く、身長は一六〇センチもない。
高栗はうなずいた。
「分かった、そこは最重要施設だな。放射能の被害は、地震火災の比ではないからな。これは本来は予防部部長である原の仕事だが、越権になるが、私が直接移動要請に行こう。原部長は、どう思う――」
しかし、原はいつの間にか眠っていた。
「――彼はここ二日もろくに寝てないからな、一日ぐらい休ませてやるか。すまないが、村田部長、原部長の代わりに一日、予防部の指揮をしてもらいたい。大地震の事前調査同行の指揮を頼んだぞ」
「はい」
* *
かくして、緊急会議は終わった。
しかしこの会議のイベントは、まだ全て終わったわけではなかった。
高栗局長が会議の閉幕と解散を宣言して、ひさしぶりに開放された全員が、それぞれの仕事をすべく会議室から出ようとしていた。
そのとき、席を立った金取の背中を見て、統括部部長の徳山が驚いた。
「ふ、副局長、背中に変な紙が……」
「ん、何だね?」
徳山が紙を剥がし、金取に渡した。そしてその短いが見知った内容に、金取は体中を怒りに震わせた。
『M・Kガナニカタクランデイル。キヲツケロ』
その様子を見ながら、北条萌は心の中で舌を出していた。そして局長室に戻る高栗局長のほうを見て、小さな声でつぶやいた。
「桃コンサルタントの若部長……」
局長専属秘書の北条萌は、高栗局長とは反対の方向に歩きはじめた。
(海上の原子力発電所……金取は、なぜその言葉に反応したの?)
一人金取と戦う彼女は、また一つ分からない謎を抱えながらも、自分の信じる行動を取るしかないと思った。
* *
その頃、調査部である。
一人の技師が、しぶしぶとした表情で、端末を叩いていた。
「まったく、部長にも困ったよ。怪文書のイニシャルを持つ者を探せだなんて、単なる悪質な個人攻撃の悪戯に決まってるじゃないか――わざわざここまで調べるか? 覗き見趣味も度が過ぎると、己の心の貧しさを宣伝する事になるぞ。自分でやれよな、自分で」
金取の指示で命令した事ではあったが、貝塚も酷い言われようである。しかし口から出る不満とは別に、技師の調査は確実に終わりに近づいていた。
小さく音が鳴り、技師の端末画面に、メインコンピュータが最終報告を返して来た。
「やっと終わった。何せ三万人以上だからな――イニシャル登録簿なんぞあるわけ無いから、だいぶ時間を食っちまった――ずいぶんと少ない。珍しいんだな、『M・K』は」
そこには、二人の名前が表示されていた。
『M・K 柿本素吉 金取護』