いまさら高知城 漫遊 おでかけフォト よろずなホビー

撮影:2014/05/17

いまさら地元の城をまともに見てきた。 高知県高知市 高知城やあ魔理沙だぜ。今回は現存12天守の高知城を見よう。 地元なのでこれまで何度も登場してきた高知城だが――じつはまともに撮影レポ対象としたことがなかった。現存天守をいくつも見て個々のページへまとめてるというのに、高知城がないのはあれだなと思ってこのたびの撮影となった。 下の写真は敷地内にある築城主・山内一豊公の銅像。関ヶ原の戦いの功績により遠江国掛川5.1万石から土佐一国9.8万石へと加増移封されたが――改めて検地してみたらじつは20万石以上あった。棚からぼた餅でまさかの大出世を遂げ、目立たぬ小大名から一躍、諸侯に列する国持大名となる。当時の慣習から「そのままでいいよ」となり、この高直しにより外様中の格上を示す従四位下へと昇叙、さらに武家官位として正式な土佐守となる。4~5万石の同格同僚はみんな8から10万石ていどで従五位止まりだった。正確な地図のない時代になまじ地方へ飛ばされたおかげで、かえって大封を得た強運の出来人。 高知城は高知平野のほぼ真ん中にある標高44メートルほどの小山(大高坂山)に築かれた。初代天守は1603年に完成。環状に巡らせた堀を持っている。南北を河川に囲まれてる立地もあって最初は単純に河中山城と呼ばれたが、洪水の起きやすい土地ゆえ河中は縁起が悪いとされ、1610年に高智山城へ改名。城下も含めしだいに「高知」となった。それが高知の由来。土佐藩のごく初期からすでに高知城だった。廃藩置県で高知の名が選ばれたのは唯一の選択だったともいえる。 定番の構図だ。記念撮影のスポット。 国宝高知城の碑。国宝の基準が変わったため、いまは国指定の重要文化財だ。天守など15棟を残している。とくに天守本丸は江戸時代当時そのままの形を「完全」に残している日本唯一の城となっている。 追手門(大手門)
江戸時代そのままの形。この手の門はいろんな都合から天守以上に残りにくいので意外と稀少。 めっちゃ太い横木だぜ。細かい強度計算とかできなかった昔は、こういうシンボル的な建物は必要以上に頑強に作る習慣があった。古い神社仏閣でもこのような雄々しいほどに太い木がでんとしてる。そういうやつは度重なる地震や洪水を耐え抜いていまにその姿を伝える。 ガチの戦乱で攻撃に耐えるべくこしらえられた扉。木製であっても火矢とか余裕で跳ね返す。 「ちょうつがい」もごつごつだぜ。 暗殺未遂事件で「板垣死すとも自由は死せず」の名言を残した自由民権活動家、板垣退助像。 高知城の石段は攻め手が疲れるような作りになっている。人間工学的な理屈でそう設計されている。 それがこの「斜め」だ。石段が平行じゃなく、わざと傾斜を付けられている。登るほうは疲れ、降りるほうは楽だ。攻めがたく守りにやすい。 石垣より伸びた石樋は水捌けのため。伸張させてないと樋より流れた水が石垣を傷めやすいらしい。落差の勢いで根元を「えぐる」のだそうだ。とりあえず400年以上、無事に機能している。 一豊の嫁さん、山内千代の銅像。夫のためありったけの金を工面し、名馬を買った。内助の功。 武者返し
いまに伝わる見事な反り。最初は登りやすそうだぜ! と楽勝気分だが、上ほどほぼ垂直となり、登る武者の負担が加速度的に増加する。またこの反りのおかげで上から攻撃する側は的へ「当てやすい」。 井戸だぜ。事故防止のためいまは封印されてるけど。籠城などを考えてこういうのが城内に掘られてるのが普通だった。 下から見上げる。 詰門
本丸と二の丸に掛けられた櫓門。寄せ手の侵攻ルートを限定させる役割を持っている。 ここは普段閉じられてるが、梅が咲く時期にだけ開放してたりする。自前のストックでいくらでも写真が出てくるな。 ときおり天守閣をぱしゃぱしゃ。 二の丸から。 ここから高知城の心臓部だぜ。 詰門上部を抜け―― 天守閣と本丸御殿
1723年に一度焼け再建。日本の基準では明治維新の段階で残っていれば「現存」とされる。天守と御殿が両方とも綺麗かつ完全な形で現存するのはきわめて珍しい。城とは本来、このように天守とその周辺にある構造とが一緒になった複合的な施設が多かった。わざわざ孤立させる場合は天守台という天守楼のみを建築するためのお立ち台を用意するが、それでも連絡通路で多聞(長屋のこと)などと繋がってることもあった。 いま日本中で再建されてるやつは天守だけぽつんと建ってるものが多い。現存天守でも天守閣のみ残されてるのがけっこうあって、あるべき往年の姿と比べたら寂しいものがある。 城の内部はよくある資料館だ。
これは土佐藩山内家の家紋だな。三つ柏紋。これをモチーフとして三菱グループ(創業者は高知出身の岩崎弥太郎)のスリーダイヤが誕生した。 龍馬の羽織。 殿様の陣羽織。 大河ドラマの衣装。 殿様が人と謁見する部屋。国元の大名御殿そのもので残ってるものが数えるほどしかないから、日本中でもきわめて珍しい空間ということになる。 ドラマでよくある武者隠の実物。宝物庫みたいに偽装している。 ここにいつも武士がいて、いざとなれば殿様を守る。 天守一階のジオラマ。 発掘で出土したもの。 階段はとても急峻だ。現存天守で普通に見られる構造。これも籠城戦のため。天守へ攻め込まれたら普通の感覚ならもうおしまいだが、それでもわずかな可能性のため、徹底的にしぶとく戦うためのカラクリがあちこちに。 最上階だ。4重6階、屋根の上まで高さ18.5メートル。 いい眺めだと思うぜ。平野部の狭い高知だからあまり遠くまでは見渡せないけど。すぐ山になる。 しゃちほこだぜ。 ちょっと休んで降りた。 まだまだ撮影はつづくぞ。 黒鉄門
閉められてることも多い。今回はうまく開いてた。 狭間
現存12天守の「格」を示す構造がこれだ。狭間だぜ。 矢を射たり、鉄砲を撃ったり。 鐘楼だな。 城の中に鐘があるのは珍しくない。時を告げるものだから。 石落とし
こいつも現存天守の格を示すもの。狭間は観光用に整備された復元天守でも作られることが多いが、この石落としはさすがに再現されにくい。 岩でもなんでも落として迎撃する。スキマの大きさは鎧を着た武者が通り抜けられないていどに調整されており、ここから侵入とか都合良くいかない。もし入れても鎧を脱いだりして無防備に近い状態だから見つかれば簡単に討ち取られる。 岩落としのある部分は、石垣がこんな感じに登りやすそうに組まれてたりする。二重の罠だぜ。 天守の岩落としなど。天守閣にも狭間があり、普段は封印されている。 武者返し(忍び返し)
この針金どものこと。目的は「石垣の武者返し」とおなじ。同時に忍者を撃退する仕組み。武者とちがい忍者は軽装だからこういう構造には弱そうだ。ただ金属だから朽ちやすいので、日本で唯一、高知城にのみ現存するらしい。この手の石垣の上部にある武者返しには、ほかに木製や石製がある。 岩落とし、武者返し、狭間がみんな揃った写真の図。現代なら簡単に攻略できるが、江戸時代ならじつに攻めにくそうだぜ。 あとは石垣かな。この辺の石垣を見てみよう。 こんなふうにきっちり組んでいて登りにくい石組みだ。武者返しを施してる部分とはまったく違う。登られたら困るので、最初から拒否してる感じ。大人しく階段登れやってね。 このくらいで終わり。江戸時代そのままの姿を残す現存天守は普通の「観光用に建造された城」とは違ったものがいろいろと見られる。狭間ひとつとっても命のやりとりをするものだから、計算された配置や大きさになっている。最近鳴門市で模造天守を見る機会があったが、そこの塀にある狭間は小さすぎ、また高さも低すぎて「実用」に耐えないものだった。まさにただの飾り。 最後に大手筋沿いにある時計台を。「海がきこえる」というアニメに登場したものだ。


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