僕はおよそ三ヶ月ぶりに月に在った。
うまくカムフラージュして地球から見ても分からない基地の窓から、美しい地球を眺めている。
おそらく僕は幸せなんだろう。
多くのことで人より抜きんでて、受験も楽々終了、もったいないほど好いてくれる人もいる。将来は約束されたも同然だと、誰もが思っている。
僕は傍目からだとさぞやうらやましく映るかも知れない。
だけど――僕には在るべき自分がない。
本来の僕ではない。
リアルでも本物でもない。
助けるために存在している、代行者。ニセモノの人格。
元々の僕は……本来この体を受けて成長し、暮らしてゆくはずだった凡人の武田月彦は、どこにもいない。「対抗者」から優秀な人格を与えられたとき、合体して解け合った。やがて圧倒的に聡明で圧倒的に非動物的な外来の人格が大部分を占め――おそらく本物は、欧州でネアンデルタール人が現世人類と混血しつつ全滅していったように、残滓だけ残して死んでしまったんだろう。
生まれてから物心がつき、いままで成長していった記憶はちゃんとある。ただ、絵の具が水をしずかに汚してゆくように、徐々にリアルの武田月彦は消えていったんだ
元々の彼は、あまり優秀だとは言えなかった。小学校に入ったとたん幼稚園時代と似たようないじめを受け、おなじように逃げ、図書室に亀のようにこもって適当な本を読んでいるだけ。それは勉強にはならず、ただの逃避だった。そのときから彼女は側にいたけど、幼稚園のときに保母さんがやはり側でご本を読んでくれた記憶が浮かぶと、同情されている、と思ってしまった。
保母さんだと甘えられるから平気だったけど、それが同い年となると自分の甘えと惨めさと弱さが悔しくて、情けなくて、意地になって彼女の好きなジャンルは読まなかった。それでいて彼女を前にするとはっきりとは拒絶できない気弱さに打ちのめされ、自分がますます嫌いになった。
――そんなときだった。毎晩おなじ時刻になると、頭の中で囁いてくる声が聞こえてくるようになったのは。
ワレノコエヲキケ。ワレノコエヲキケ。
それは不特定多数に向けられたラジオのようで実際その通りだったけど、僕は卑小な自分だけに語りかけてきたものだと思い込み、藁にもすがる思いで飛びついた。
僕が受け入れると、声の主は僕の頭に住み着き、そして頭を作り替えていった。
およそ一年かかったけど、僕は爆発的に聡明になり、世界のいろんなことが霧を払ったように見えてゆく様が非常に面白く、その過程をおそらく心から楽しんでいた。そうなると彼女をよく観察する余裕も出てきて、いつしか自分の一部として受け入れるようになっていた。
最初僕はただ新しい人格の本能に任せて成長してゆくだけだった。父を自然と操作して戦略ゲームを買わせてそれをこなし、指揮能力とロジックの腕を上げていった。
はじめて僕が地球に近い将来訪れる危機を知らされたのは、五年生のはじめだった。地球に一光年とすこしまで近づいていた「対抗者」の意識が、僕に数年ぶりに囁きかけてきた。
ヨクセイチョウシタ。アリガトウ。
それから毎晩決まった時間から一時間ほど、僕は様々な情報を得た。
――そして僕は、自分の運命を知らされた。
* *
激しく揺れる艦橋で、シアムミーアはまるで倒れる様子を見せない。ものすごいバランス感覚だ。智真理は目を回して「うーん」と唸っている。
『どうしたの?』
「右舷後方から光子砲の照射を受けた。センサーをいくつかやられたぜ危ない」
シアムミーアはシエセマを急反転させ、防御の態勢を整えた。すぐさま二撃目が襲ってきた。防御帆が青白く輝き、その燐光で三面スクリーンの外が眩しく見える。
今度は艦橋の揺れは大人しい。サブスクリーンのシエセマを見ると、急ピッチで自己修復と放熱を行っていた。
「危なかった。あと四秒同箇所への照射を許していたら、下手をすれば艦橋まで熱が届くところだった。そうなったら消し炭だぜ」
艦橋は中央ブロックのさらに奧、周囲すべての装甲が一番厚くなる安全な位置に存在している。
こうなると軍艦の象徴ともいえる一番目立ち、かつ高い上部構造、「艦橋」という言葉のイメージから離れているので、操艦室とでも表現するのが正確だろう。現在の宇宙船の大きさからすれば単純にコックピットで構わない気もするけど、今の私やシアムミーアは身長一五センチほどしかないから、相対規模から艦橋でいいかも知れない。
「ブルガゴスガめ、おそらく艦橋の位置を知ってたな。ということは、あのときの奴か」
この事情は私も記憶の共有で知っていた。シアムミーアは巻き込んだ人たちを生き返すのに必死で、空から情報のハッキングを許して私の設定を少なからず盗まれたのだ。その蠅をたたき落とす余力は、実体化した直後のシアムミーアにはなかったし、ブルガゴスガ側にも物理的攻撃を仕掛ける力はなかった。
それにしても艦橋は静かだ。
山が一瞬で消し飛ぶ砲撃を一〇秒、二〇秒と継続して受けているのに、平然としている。
『正面から受けるとこんなにちがうんだ……』
ちなみに敵の攻撃はエネルギー兵器なのでまったく見えない。攻撃してくる方向の雲が蒸発して筒状の道を空に穿ってるのが間接的に語っているだけで、はるか彼方にある敵の船を肉眼で見ることは出来ない。
「角装甲様々だぜ。いい設定を考えたものだ吉野」
シアムミーアはもう私をフルネームでは呼ばない。
スクリーンを見ると、角装甲は先端から徐々に溶けているようだ。真っ正面からの攻撃を物理装甲で受け止め、余剰パワーを防御帆の力場で逸らす。これが防御の基本姿勢だった。
『でもこれ、元々あなたたちの技術でしょ?』
「わずかな断片から角装甲の正確な理論と運用を導いた武田の勝利というわけか。修正も最小限で済んだし、嬉しいぜ」
サブスクリーンでピッと音がして、赤い点滅が起きた。
「修復完了、冷却安全圏。これから反撃に移るぜ――アメネセキーノニ!(全砲門開け)」
* *
一〇歳にして、僕は「代行者」だと知らされた。
代行者。
それは「対抗者」がスムーズに防衛戦闘を実施するため、下準備をしておく役割。さらには、対抗者の各人格が実体化するときの情報を提供し、融合する器となる。
僕は自然と、自分の成長を対抗者に夢という形で報告していたらしい。それらはすべて光によるものだったので、送信に一年以上を費やし、受信から返信にさらに一年とすこし、計二年半をかけた気の長い手紙だった。
それから僕は意識して勉強するようになった。
未来、というものを得るためには、僕と、そして世界中に散らばっている約一〇〇名の同胞とがあと五年でどれだけ成長できるかにすべてが掛かっていたんだ。
代行者同士で連絡を取り合えば、どれほど効率よく準備が進むだろう。だけどそれは許されないらしい。
バカバカしい。
命がかかってるというのに。
僕は対抗者のシステムに疑問を感じ、自分なりに作戦を立てた。そしていつのまにかそのプランに、彼女を巻き込んでしまっていた。
北条吉野。
彼女を危険な戦いの道具として、利用しようとしてしまった。僕はおそらく精神的にかなり彼女に助けられたのに、利用し、いま成功しつつある。僕は自分がある行動をすれば幼馴染みがどう反応するのか、ほぼ正確に掴んでいた。目的のため小さい頃から幾らでも演技をしてきたし、それで今回は吉野の友人が何気なく助言するよう会話中にヒントを混ぜて気付かせ、彼女に物語を書かせることに成功した。
あとは時間をかけて誘導し、吉野さんを年齢不相応な濃い設定で書いてしまうSF少女にしてしまう。対抗者は現地の「最先端の設定」を用いて自らの超科学で戦う。たとえそれが思索的に未熟でも、効率が悪くても。そして社会的影響を最小限に抑えるため、世間に対し未発表のものが望ましい――ならば僕はそれを用意しよう。
それが北条吉野だった。
普通ならそれは代行者たる僕が行う作業だったが、僕は自分でやりたいことがあった。だから孫請けで行ってくれる人材が必要だったのだ。
対抗者とブルガゴスガの戦いは一種のゲーム。地球は半世紀以上に渡って宇宙に放出した電波により存在を知られ、嗅ぎつけてきた連中の起こす代理戦争に巻き込まれただけ。
彼らは滅ぼす、守るの二陣営に分かれ、一〇回競い、その結果によって自らの優位と誇りを示すのだ。
けっして全面戦争は行わない。
それをすると彼らはたちまち互いに滅亡してしまう、それほどの超越的な戦闘能力を持っている。
彼らの保存本能から来た「抑制」の手段として、神の祭壇に捧げられた生け贄の羊としては力無く笑うしかない。
馬鹿げた話だ。
だからこそ、その超科学を引き出す設定の与える影響は大きい。
僕は対抗者が教えてくれる情報の断片から、彼らが編み出した戦い方をできるかぎり合理的に反映させようと吉野さんを鍛えた。おかげで彼女の書く物語は一四、五歳でないと感じない迷いや思い込み、つまりほろ苦い青春っぽさがなく、感性にやや欠ける男性的で理性的なものになってしまった。
吉野さんは本来もっといろんな若く青々とした物語を紡ぐことが出来たはずだ。それほどの読書量を、彼女は誇っている。
可能性を永遠に摘んでしまった僕の罪は、おそらく想像以上に大きいだろう。
だけど――そこまでしてでも、僕は時間を作り、地球人だけで出来ることをやりたかったのだ。
* *
「砲撃しつつ前進、敵機体に肉薄する!」
シエセマは急発進した。
雲がすさまじい速度で後方へと流れ、スクリーンが赤くなる。摩擦で空気が燃えているのだ。
重力制御により加速度は感じない。もし制御していなければ、シアムミーアと智真理はただでは済まないだろう。智真理はすっかり黙り込んでいる。事態の推移と、シアムミーアの不思議に思える独り言をいかに理解しようかと、それに専念しているように見える。
シアムミーアは頭の中で私に語りかける余裕をすでに失い、ずっとしゃべっているのだ。それだけ大変だ、という証拠だった。
「――敵機体確認。機影より、おそらくルクナスヴルム!」
『ルクナスヴルムですって?』
ミケン星間国家群連邦の総旗艦だ。イシェケラフトゥン元帥の船。
「ああ、本当だ、見てみろ」
別のスクリーンが出現し、そこに一隻の銀色の船が映っていた。全体が淡く輝いている。液体金属装甲と、三本の角装甲を持つ威風堂々の巨艦だ。
『……うわ。勝てるわけないじゃん』
設定的に、おおきな戦力差があった。防御帆がなくとも、ルクナスヴルムは強靱でぶ厚い装甲を持っている。死角は真後ろのみ。
『設定では全長二・四キロメートルだけど、いまは一二〇メートルか……』
衝撃波が襲ってきた。シアムミーアは上下左右に動いて回避行動を取っているけど、かわしきれない。時折艦橋に衝撃音と振動が来る。
『ねえシアムミーア、シエセマをあれより大きくできない? そうなったら攻撃力も増すでしょ?』
こちらの攻撃が当たったが、予測していたのか、その部分に液体金属が盛り上がるように集中していて威力を拡散させてしまった。出力が足りない。
「それは無理だ吉野。いまの私のパワーでは、この大きさが精一杯だ――それに大きくなるほど、機動力が劇的に落ちる」
『え……』
「大きさが倍になれば、重さは二の三乗で八倍だ。対して出力は二の二乗で四倍にしかならない」
なるほど、単純な計算だっ――
前触れもなくいきなり、大地震かと錯覚する揺れと衝撃が艦橋に襲いかかってきた。
智真理は指揮座から転がり落ち、シアムミーアも盛大に尻餅をついた。
『いたーい!』
シアムミーアに釣られて低い位置に降りてきた空中スクリーンが、黒と赤に点滅して緊急事態を報せていた。
下部損傷、センサー群全滅……
中央ブロックへの被弾を許していた。
「レールガンの実体弾……テクタイトの槍か」
力場で防ぎきれるものではない。射程こそ短いが恐るべき至近兵器だ。
シアムミーアは自動プログラムを仕込んでつぎつぎと回避しているが、数が多くて避けきれない。また一本、角装甲に被弾し、一瞬で一メートル近くが蒸発してはぎ取られた。地面に打ち込んだら深さ数キロに達する威力だ。
シエセマは衝撃で一〇キロメートルほど後方へ飛ばされた。あまりの速度に周囲の大気が摩擦で真っ赤に燃える。そこに追撃のテクタイト槍が殺到するが、とっさに上方へ回避してなんとか受け流した。
『怖いよ……こんな設定するんじゃなかった』
「でも物語である以上、強い艦は必ず存在しただろ? あれを弱くしても、やっこさんは別の艦に美点を見出してそれを採用するまでさ」
つまり結果は一緒だったということだ。
* *
地球を守るのは「対抗者」だけではだめだ。いや、人類の矜持が、僕のプライドが許さない。
あくまで、僕ら地球人で行う。
これは僕の意地だったと思う。無くなった武田月彦という人格への後悔と、彼の可能性と未来を奪ってしまったことに対して、なにが出来るのか、という問いかけ。僕は地球外知性の干渉を受けて生まれ変わったいわば人工の人間だが、それがゆえに地球人というアイデンティティにすがったのだろう。
だが――協力者、つまり同胞の「代行者」を捜すのはほぼ無理だった。宇宙から届く知識には、その特徴を判明するヒントは一切なかった。
僕、ひとりで行うしかない。
目をつけたのは、幼い頃から好きだった月。宇宙からの声を最初は、月からのものだと思っていたし。
月になら作れるものがある。
対抗者の人格を使わずとも、代行者だけでもなんとかできる巨大攻撃設備――それの建設が僕の導き出した結論だ。
代行者は自分の担当となった対抗者の人格と出会えなければ、代行者の何年にも渡る準備と能力は無駄となる。実際今回は約一〇〇名のうち、人格合体に成功したのはわずか八例、しかもうちひとつは誤って僕のかわりに吉野さんが融合してしまったから、たったの七名ということになる。
なんという低い確率か!
地球に降りる時点で協定による戦闘解禁となり、代理戦闘の相手を一気に減らす直接戦闘、つまりブルガゴスガとの激しい応酬となり、やってきた対抗者の大半が消滅――つまり戦死してしまったのだ。
無駄が多い。
それは事前にあらかじめ教えられていたことだった。無駄になったら、そのときは成功した者が自然目立つから、なんとかコンタクトを取って協力してやってくれ――と。
近づくことさえ出来なかったらどうするんだろう。いくら多少の力があるといっても、対抗者自身に比べたら象と蟻ほどの差がある。対抗者は身分を隠して潜伏するから、容易には探しようがないではないか。
自力でも活用できるものが欲しかった。
僕は数学を研究して人間の脳波のカオス方程式を解析し、「対抗者」が放っている電波がいかに特定の人間に語りかけるか、という仕組みを解明した。これを逆用して対抗者へ無意識に行う報告を操作し、自分の想いと行動を隠し続けた。
便利な設定を考えるまでもなく、ただ良い成績を取るだけのつまらない人間。幼い頃の神童が、凡人になりつつある。地球を目指している対抗者の母船では、僕はさぞや無能者に映っただろう。だからシアムミーアみたいな曲者が担当に選ばれたのだ。
そして――僕は月での建設に着手した。代行者に支給される……といっても知識から自作するわけだけど、与えられた道具を再設計し、自動的に、かつ秘密裏に大規模な建設を行う機械を大量に作った。
とても時間がかかり、何度も失敗しそうになった。だけどなんとか間に合わせ、僕はここにいる。
シアムミーアは僕の勝手な行いを怒ってたけど、勝つためだ。それに別にアンフェアではない。僕が二年かけて実現したことなんて、設定のほうではほんの一時間もあれば工事の着手が可能なことだからだ。完成までに必要なエネルギーの確保は別として。
対抗者と代行者には、それだけ力の差があるということだ。
* *
『こうなったら奧の手よ! 跳躍子砲!』
私の叫びは、しかしあっさりとした拒絶に遮られた。
「そんなものはない」
『え?』
「光速を突破できる技術は、宇宙のどこにも存在しないぜ」
『なんで? なんで!』
「理屈を説明しても理解できまい――結果論で教えてやるぜ。なぜ地球には知的生命が日常的に飛来しない?」
『え……』
「これが答えだ。宇宙には知性が溢れてる。おそらく数え切れないほどな。だけど隣の恒星系にすら手が届かない者が大半だ。超光速技術は、どの知性存在も考えつく初歩的なファンタジーで、そこには自分が生きてるうちに星の大海を渡りたいという願望が含まれているにすぎないのさ」
私は返す言葉が見つからない。たしかに、私が知ってしまったシアムミーアの知識の中に、時空跳躍――つまりワープなんてものはどこにもなく、ひたすら鈍行で宇宙空間を突き進んでいた。シアムミーアの一族はそれを実現するため、生身の体を捨てた……ではなく、捨てた存在として生み出されたため、途方もない長寿と、そして星を旅する使命を背負わされたのだ。
シアムミーアたちは普段、常に前方を監視し、隕石のひとつでも丁寧に回避しつつ、光速の数パーセントていどで移動している。回避しない微細な宇宙塵対策としてずっと防御帆を張ったままで、慣性航行の気楽さなどなく、星間物質を取り込みつづけても補いきれない膨大なエネルギーを消費してゆく。
だから数パーセントが通常航行の精一杯で、これ以上になると経験上エネルギーや防御装甲が足りなくなるらしい。星系は給油所で、エネルギーをたっぷり補給し、資源を採掘してくたびれた船体の補修を行う。
光の速度に近づくというのは危険なのだ。光速の九九パーセントとかになると小石につまずいただけで宇宙船は火だるまになる。命をかけて挑む速度ではない。角装甲は戦闘以外でも日常で使用している、生活に結びついた自明の存在だった。
――そういう知識を私は得ておきながら、やはり肝心なときに引き出すことが出来ない。
意味がないじゃん。
こういうところ、本当に凡人だ。
「いや、凡人というより、人間の脳がそういうふうに出来ていないだけだぜ。一度にひとつのことしか処理できない」
こういう問答をしてるうちにも、シエセマの損傷は増えてゆく。私は死の危険を感じているはずだけど、あまり悲壮感はない。おそらくシアムミーアがまた精神安定させているからかも知れないけど、シアムミーアの冷静さが気になった。
『シアムミーア、なにか奥の手があるんじゃないの?』
「ふふふ――当然だぜ。もうすぐだ……三、二、一……」
予想もしていない光景が起こった。
ルクナスヴルムが爆発したのだ。
その閃光は肉眼でも、つまり三面スクリーンにもはっきりと捉えられた。
あまりにもあっけなかった。
「な、なにが起きたの?」
智真理がスクリーンまで走り寄り、壁に触って爆発の炎をなぞる。
「……助かったの?」
「ああ、智真理さん。助かったぜ」
シアムミーアはシエセマを爆発現場まで急行させた。
途中で衝撃波およびすさまじい音と交差した。
あれが地上に達したら、またすごいことになりそう……
飛行機墜落とかなければいいけど、と心配になったが、どうしようもない。
現場では白い煙の塊がぽかんと浮かんでいるだけだった。尾を引いて数多落ちてゆく破片群の下には、大海――おそらく太平洋が広がっていた。よかった、下が陸地だったらとんでもない大被害をもたらすところだった。
白い煙のむこうに、なにか機体の影が見えた。
それが煙を突き抜け、こちらに合流してこようとした。
私はそのシルエットから、すでにある予想をつけていた。
三角錐の優美な角装甲が二本、顔を覗かせた。その色は、燃える紅色。
やはり。
角装甲の後ろに構える中央部には、角装甲の合間に見えてこちらをにらむ、巨大な砲門。そして多くの砲塔群が槍のように生えている。後部の装甲鈑は複雑なゆらめく陽炎の形をしていて、船全体を激しく燃えさかる一陣の炎のように見せていた。
「グルちゃん」
デザインした智真理がつぶやいた。
そう。
エエクトゥーレイ少将の、ヤルスルングルーンナガレだ。
私が最後に書いた場面で、シアムミーアが同乗していた艦。それが目の前にあった。全長は――設定では一・一五キロメートルだけど、近くの空中に新たに現れたスクリーンのステータスでは、二八メートルと表示していた。
シエセマより一回り小さい上、縮尺率が何倍も高い。防御帆も一切ないので、防御力はかなり低いだろう。
どこからか呼んできて、ルクナスヴルムの脆弱な真後ろを主砲で直撃したんだろう。これではひとたまりもない。
『上手いね、シアムミーア。同時に二隻も操るなんて』
「私じゃないぜ」
指をぱちんと弾くと、空中にひときわ大きなスクリーンが出現し、そこに一人の女性が映し出された。
赤かった。赤い背景、羽根のマント、赤い髪、鋭い瞳――その性、炎にして、自由な鳥のごとき女性。
「エエクトゥーレイ……」
智真理の驚きも無理はない。フルネームで言えるほど、エエ少将の設定が気に入っていたのだ。
『殿下、ご無事でしたか』
「貴官の働き、大儀であった。厚く礼を言う。ありがとう。戻ってよし」
『はっ』
敬礼すると、エエ少将の画面が消えた。
『なんか……あっさりしてるね』
『一刻も早く病院に戻ってもらわないとね。そろそろ食事の時間だから、いないと大騒ぎになる』
シアムミーアが頭に直接語りかけてきた。余裕が出たのだろう。なるほど、あのエエ少将は、シアムミーアのコピー人格である、もどきシアムミーアなんだ。私が得た知識によると、シアムミーアの知識を有するけど、魂と呼べるレベルの自我は持っていないプログラムていどのものだ。プログラムだから決まった範囲のことしか出来ないけど、間違うことはないから一定の条件下では生身の意識よりよほど優秀になる。
ヤルスルングルーンナガレはこんこんと音を立てつつ、機首を翻し、猛加速してあっというまに視界から消えた。
『私たちも行くぜ』
『本番を倒しに?』
これが囮だってことは百も承知だ。
『当然だ。まず目的地は、月』
『あ、待って――その前に、智真理を降ろさないと。危険だから』
『ああ、そうだな』
「ねえねえ、なに黙ってるの? 頭の中で吉野と話してるの?」
ぎくり。
「なにかな、智真理さん。そんあことうぁないですじょ?」
シアムミーアが虚を突かれ動転してる。
「あはは。吉野吉野ひとりごと言ってて、説明してる仕草あって、その慌てふためきぶりで、もう分かってるって。吉野私見てるんでしょ?」
シアムミーアの前で手を振ってる。
この娘は……本当に順応性が高い。高すぎる。ジャングルに放り出されても生き延びそうだ。
『あの、降ろすことできるかな?』
『たぶん無理だろ。強制したら後が怖そうだ。メカデザインの全般に関わる重要人物だし』
『私もそう思う』
というわけでシアムミーアが事情説明をはじめると同時に、シエセマは自己修復の燐光を煌めかせてゆっくりと上昇を開始した。
* *
作戦、本格始動。
ブルガゴスガの球形生物は決定を下した。
直径一六七〇キロメートルのその小惑星は、ついに本性をむき出し、地獄へ向けて急加速を開始した。
船が完成するとほぼ同時に、この船の情報を送って寄越した先遣人格が二重の囮作戦の成功を打診してきたからだ。
対抗者は戦いで疲弊し、代行者は心理的に動けなくなるだろう。となると、やつらはまもなく動きが取れなくなる。絶好の機会だった。
もはや誰にも隠す必要はあるまい。
宇宙船は小惑星から離脱すると同時に、小惑星のコントロールを解放していた。全エネルギーがただ一点の目的に使用されている。それは――加速せよ。
加速せよ、ひたすら速くなれ。
目的地は――
* *
月まではほんの二〇分の行程だった。
シエセマは途中まででほぼ治ったが、シアムミーアの疲労はあきらかだった。もどきを遠隔操作するだけでも体力を消耗するのだ、ヤルスルングルーンナガレの小ささが、彼女の体力的限界が近いことを示していた。
「疲れた。ちょっと入れ替わってくれ」
の一言で、シアムミーアは空中にメガネを出現させ、ぱっと掛けてしまった。
シアムミーアは数秒で北条吉野に戻り、私は自由を回復した。服装は智真理を拉致してしまったときの、シアムミーアの服装。
いまの状態だと能力はかなり制限されるけど、シアムミーアが出現させたものを道具として利用・制御することくらいは出来る。訓練も練習もしていないけれど、やりかたはシアムミーアからの記憶であるていど掴んでいた。
ぶっつけ本番だけど、この際仕方がない。
「すごい! 吉野すごい!」
智真理は常に眠たそうな目を子どものように輝かせて無邪気に拍手してるけど、自覚してるんだろうか。いまごろ智真理の両親は、ちっとも帰ってこない娘を必死で探してるだろう。携帯も通じないし。怪しい灰色の髪をした少女に手を引かれて近くの公園に消えていった、という証言がまもなく出るだろう。
気が重くなった。
だけどもう後には引き返せない。このまま決着を付けるまで、悪いけど智真理にはつき合って貰うしかない。
私は自分の姿に戻ったついでに、気になっていたみんなの消息を聞いた。
「ねえ智真理。由美とか、元気?」
「大丈夫大丈夫。由美は私の家に泊まっていたから、怪我のひとつもなしだよ」
例の超高速彗星を見ようと、ついでに機会あらば桜ヶ丘に行ってる私をからかおうと、由美は智真理の家に行ってたんだ。
由美の家は街の中心にあって夜でも空が明るい。智真理の住むニュータウンなら桜ヶ丘も近いし、空は暗い。ベランダから覗けば、ちょうど良い。智真理の家が無事だったのは、桜ヶ丘からの衝撃波を受け止めた三階立ての家が隣にあったからだ。智真理の家は平屋建てになっている。
由美の両親にも幸い怪我らしい怪我はなかった。由美の部屋は窓が桜ヶ丘に面しているので全滅状態だったらしいけど。
翌朝二人で学校にゆくと、多くの人が怪我をして、知り合いが亡くなった不幸な方もいた。高校に進んだばかりで新しい友人はほとんどいないので、智真理が心配して無事をたしかめたのはほとんどが中学以前の旧友だった。その半分以上が私とも交友があった。
運良く、最悪の結果になった子はいなかった。ただ顔を怪我したり、骨折したり、ひどい目に遭った運の悪い子は三人ほどいた。なかなかみんな五体満足とはいかないので、すこし悲しくなった。
みんな私が行方不明になってるというので心配しているらしい。智真理自身もそわそわして何事も手に付かなかったようだ。
「ごめんね、心配かけて」
「ううん、いいよ」
と、みんなの無事確認が終わると、智真理はふたたび瞳を輝かせて私に向かった。なにか言いたげにしてるが、私が首を振ると残念そうに眉を下げた。月も近いし、今はこれ以上、彼女の好奇心に答える余裕はない。
「智真理――えーと。あまり騒がないでね」
「うんうん」
「スケッチブックで絵でも描いてね」
「うんうん」
本当に広げて、気ままに鉛筆を走らせはじめた。
よし……これさえ与えていれば、彼女は興味の赴くまま自動的に黙っていてくれるだろう――たぶん。
私はいま、緊張している。これから通信する相手は、武田くんだからだ。
月がだいぶ近づいてきた。減速しないと。
――減速。
頭の中で念じる。思考接続はそのまま引き継がれているので、私の意志に沿ってシエセマは減速しているはずだ。どのくらい減速するかなどの具体的な数値や割合、その辺のさじ加減はかなり適度になる。判断基準が曖昧でも、ちゃんと理解して反映してくれるのが思考接続システムのすごいところだ――事故が起こらないよう、安全装置もあり、自動的に避けたり、自動的に止まったりもする。自殺回避機能付き。
すべて設定してある。シアムミーアからの要請だった。おかげで私は漠然としたことを思うだけで、盲導犬のようにシエセマは動いてくれた。九〇パーセント以上は、いや、ほぼ一〇〇パーセント自動航行も同然だ。シエセマに与えられた例の可愛い疑似意識が行ってくれる。
操艦を任せると、指揮座に座り直して手に人の字を書いて呑み込むということを数度繰り返し、通信回線を月に繋いだ。
「……回線オープン。えー、こちら戦闘艇シエセマの北条吉野です。どうぞ」
数秒して空中にスクリーンが発生し、そこにほぼ十数時間ぶりの顔が出た。
細い目、優しげな顔、痩身であまり冴えないけど、私にとっては誰よりも頼もしい、大切な人。
『こちら月面攻撃基地、武田月彦です』
舞い上がってしまった。
「武田くん――えーと、あの。吉野です」
『はい吉野さん』
「はい、吉野です。いっしょに戦いに来ました」
『吉野さん……巻き込んで、すまない。ごめん。まさか間違って吉野さんが人格融合してしまうなんて、思っても見なかったミスなんだ。僕が上に隠して設定を書かせていたせいだ』
「いえいえ、気にしてないよ」
『――ありがたいと思う。吉野さんの意志はどうであれ、もう吉野さんはその体で、シアムミーアと一緒にブルガゴスガと戦うしかない。わかるよね?』
「はい。もう覚悟は出来てる」
『覚悟か。すでに実戦も経験したっていうし。だから今度は僕に吉野さんを守らせてくれ。必ず守ってみせる』
――守らせてくれ。
――僕に。
――吉野さんを。
――守って見せる。
た、武田くーん!
頭がくらくらと来た。
「ここここ、こちらこそ。ふ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
『……落ち着いてよ吉野さん』
「あ――ごめんなさい」
事情を知ったことで、なんて話せばいいか分からなかった。だけどやはり私は――私は。
想いが胸に一杯に広がってゆく。
ああ、私はこんなに武田くんが――
高鳴る鼓動。
心臓の音が、とくん、とくんと上半身を駆け巡り、私の鼓膜まで届いてゆく。
体温がゆっくり上昇し、自分の顔が赤くなってゆくのを止められない。それが恥ずかしくて、ますます赤くなる――という悪循環。自分の顔を自分で見ることはできないけど、確実に赤い。まっかなトマトみたいに。
ああ……武田くんのその口から、一度でもいいから聞きたい言葉。そして――
そういえば私、まともに、まじめに、彼に言ったことがあるだろうか。
――――。
ここでいっちゃったらどうなるだろう。
命をかけた戦いがはじまるというのに、不謹慎だろうか。でもだからこそ、言ってしまって、すっきりとして臨みたいという本音もあるし――
「そこ、見つめ合ってないで本題入った入った」
「う」
智真理がぶちこわした。
「あの……武田くん。ブルガゴスガの作戦ってわかる?」
『――ああ』
あれ? なにげに武田くんが照れている気がした。鼻の近くに指をやって掻いている。これは誤魔化しのサインだ。なにを誤魔化しているのかというと、作戦がわからないとかいうのではないのは明らかだった。
私――期待してもいいの?
期待しちゃうよ?
こういう非常な事態だからこそ、進む関係もあると思う。
だから……
『…………というわけだけど、どう思う?』
「あ……」
『吉野さん?』
「ごめん武田くん……もう一度言って」
妄想に一杯で、自分でぶちこわしてしまい申したです……
「あう~~」
穴があったら入りたいって、こういう事なんだね。
* *
シアムミーアは自意識の海を彷徨っていた。
過去数億年に渡る、膨大な戦闘の記録。それが「対抗者」の一個体、一個体に遺伝子のように刻まれている。
有機生命は遺伝子でわずかな形質のみを伝え、記憶は世代交代で消滅し、そのつど積み重ねてゆくという形を取る。代わりに社会が文明という巨大な記録装置を形成し、成果が蓄積されてゆくのだ。そこに個体の進化はない。
情報生命であるシアムミーアたちは、先祖からの記録を総じて引き継ぐ。容量もあるので各個体の性格に合わせてあるていど取捨はされるが、遺伝子イコール記録といっても過言ではない。
その不都合は硬直化だ。文明は滅びることで莫大な経験値を失い、新たな蓄積と可能性を促す苗床となる。ところが情報生命はどれほどの壊滅を体験しても、社会に空虚が生じることはない。おそろしく保守的であり、変革は生まれない。
だからシアムミーアの「両親」は、その打破を性格に求めた。
異端児シアムミーアの誕生である。どのように異端かというと、とにかく性格がねじ曲がっていて奇妙に言動が腹黒く、それでいて失敗をよく起こす。情報生命としては致命的とも思える欠点をいくつも持っていた。とどのつまりシアムミーアは、いろんな回路にわざとエラーを持っているのだ。
もちろんシアムミーアというのはここ一日で名乗り始めたごくごく新しい名前で、それ以前に名はなかった。情報生命にとってどれが誰かは一瞬の検索で済むし、消さない限り忘れない以上、間違うということがないので名前の概念が消滅していくのだ。
だから、名乗る、というだけでもおかしなものだった。それは人類に対して便宜上の措置として否応なしに採択されるものなら別だろう。だがシアムミーアは進んで自ら名乗って、呼んで貰うことにこだわったのだ。
ここに来て、一族の落ちこぼれシアムミーアの真価が発揮されつつあった。
優秀でないためブルガゴスガの放った隕石弾を撃墜できず、生き残って担当の代行者と接触を持てた。優秀でないため武田を認識していながら、融合時に設定を作っていた吉野と誤って合体してしまった。そのためルールから離れた「対抗者」・「代行者」の同時並行連携プレイが可能となった。優秀でないため主導権を握られ、吉野を説得するのにてっとりばやく自分の記憶をばらまいてしまったが、これが結果として説明に要する時間を大幅に短縮した。
――生命の進化において、優秀であることは必ずしもプラスには働かない。
それはシアムミーアが地球の記録を探る中で気付いたことである。一方的な捕食・被捕食の関係よりも、半端モノが仲良く共生するほうが種の多様性が保たれる。昆虫の擬態などは似すぎているものより、あまり似てないほうがかえって生存率が高い。人は完璧な絵や音楽より、わずかにずれているものに芸術としての価値を認める。成長段階はそれだけで価値を見出される――途上、未完成、亜流、我流、個性……かくして地球人類というものは、多様の価値観を共有して存在する不思議な連中となった。
完璧主義者の対抗者たちの中で、シアムミーアが圧倒的にすばやく現地の人間と信用関係を確保し、ブルガゴスガの鋭鋒に対処できる体勢を整えられたのは、ひとえにシアムミーアが不完全で、人間臭かったからだ。
他の対抗者の連中は、いまだにくどくどと説教でも垂れてるにちがいない。
シアムミーアは戦場の記録をひとつひとつ参照しながら、そんなことを思っていた。
やつらでは、人類の未来をダメにする。
発信器を見つけた時点で、ブルガゴスガの意図は読めていた。それを防ぐためにコピー人格を派遣しようとしていたのだが、囮が思った以上に手強かったため、仕方なく自身の安全を優先した。
ブルガゴスガの作戦は私と吉野にしか通用しない。だが他の連中はそれに構わず目前の邪魔者を消去し、それによって引き起こされる多大な災害には目をつむるだろう。
つまり、味方ながら足を引っ張るであろう連中を、なんとかして食い止める手を探さなければならない。
――そして。
シアムミーアは、ひとつの事例を発見した。
* *
超巨大隕石接近中!
との報が、米国発で世界に報じられた。
光速の数パーセントで地球に向けて接近しており、なお加速中、と。
実際は小惑星で隕石と呼ぶにはとてつもない大きさなのだが、突然発見された上に一般が認識しやすいので、便宜上「隕石」と呼ばれていた。
地球上に散らばっていた「対抗者」たちは、これにすばやく反応、各々の担当している代行者が考えた設定を実体化させ、思い思いの宇宙船に乗り込み、地球初防衛の任に当たろうとしていた。
混乱に拍車がかかった。
日本領空で起こった謎の文明同士の超越的な戦闘があったばかりで、その衝撃波により、様子見に向かった在日米軍機四機と自衛隊機三機、避難が間に合わなかった民間旅客機一機が墜落し、二〇〇名余の行方不明者が出て世界がピリピリしていたのだ。
自国の領空を突如として侵犯した「謎の侵略者」に、国家のプライドを掛けて攻撃を企てた短絡的な軍隊が続出した。
勝てるはずがない。
アメリカ、ロシア、フランス、中国の四ヶ国が対抗者の宇宙船に攻撃をしかけ、うちアメリカと中国が反撃を受け、攻撃に参加した航空機隊およびミサイル発射元の施設全滅という憂き目を見ていた。のこる二ヶ国は代行者がマスターたる対抗者をなだめ、抑えることに成功していたわけで、それが受け入れられていなかったら、無謀な欧州の攻撃者は数百の棺桶を発注する羽目になっていただろう。
威信を傷つけられたアメリカが、宇宙人に核を使用するかも知れない――
という噂が流れ、人類社会は混乱の一途を辿っていた。宇宙船は守るために来た、ということをまるでアピールしないし、十数時間前に何十万人も隕石で死んだばかりだから、どうひいき目に見てもアニメの宇宙人によく与えられる定番の役割――すなわち侵略者にしか見えず、恐怖の目でもってしか迎えられなかったのである。
それに隕石である。
直径は正確にはわかっていないが、簡単に一〇〇〇キロを超えるという。
絶望的だった。
* *
月基地の入口は北極側のクレーターのひとつに作られていた。名前は知らないけど、地球を地平に臨む直径一キロほどの小さなクレーターで、その端のほう、地球から絶妙に隠れる位置にささやかな直径五〇メートルの口がぽっかりと開き、シエセマはそこに降りていった。
宇宙船の発着場はまだ建設途上らしく、内壁が岩石のまま露出している部分が七割ほど残って、金属部分との境界に建設機械らしきものが蠢いていた。
私はシエセマを全長二〇センチにまで縮めると、指示されたエアロックまでよたよたと泳がせた。
シャッターが降り、一二畳ほどのロック内に空気が入ってくる。やがて十分な濃度に達したというサインが出たので、私は智真理を連れてシエセマの外に出た。
泡に包まれて降り立つと、たちまち体が大きくなってゆく。シエセマはなにも言わなくても例のフィギュアな状態に変態していた。
てるてる坊主なシエ坊が「きゅーん」と鳴きながら飛んできて、私にまとわりつく。外見こそ違うけど、ちゃんと認識できているんだ。
「かわいー、私にも触らせて」
「うん、いいよ」
私はシエ坊を貸した。
「よちよち」
「きゅー」
「よーし、お姉さんが綺麗な顔にしてあげよう」
「きゅ~~」
智真理はシエ坊で遊んでいる。
エアロックの反対側が自動で開くと、廊下があった。そこに床から数センチ浮いた座席付きの円盤が待っていた。
私はそれに乗り、智真理もつづいた。円盤は自転車ほどの速度で複雑な回廊と化してる基地内を上下左右と何回も道を変え、何分も動きつづけた。
「吉野、思ったより広いみたいだね。凄い」
「うん……これを武田くんが一人で作ったなんて、にわかには信じられないよ」
天文台に行ってるとまんまと騙されていた時期だ。そして小説に夢中になり、やや疎遠になっていた時も。そういった時間を作り、武田くんは休みのたび光学迷彩を施した「見えない」小型連絡艇に乗って月に行き、来るべき日に供えていたんだ。
私は武田くんのすごさを改めて思い知った。当時わずか中学一年生。それが全人類の命運を受けて、少しでも生存確率を上げるため、全力で、たった一人で頑張る――とても意識が高い人だったのだ。
恋という本能的な動機で、狭い世界の安泰しか考えていない私とは、器が違う。
騙されていた、ということに対して、まるで怒りは感じない。残念だな、と思うことはあっても、直接は巻き込みたくない、という武田くんの優しさが伝わったから。彼の予定表では、私の関わりは小説の設定を与えた段階で終わっていたはずで。
この月基地に具体的にどういう設備があるのか、ということについては、シアムミーアの記憶にはない。
武田くんはこのことを上に隠していたし、隕石落下時に一度死んだ武田くんを再生するときですら、強力なプロテクトが施されていたらしい。
プロテクトごと再生はできたけど、結局内部をのぞき込むことは無理――配下であるはずの武田くんのほうが一枚も二枚も上手だったし、間違えて私と合体してしまうという大ポカまでやらかした直後だったので、シアムミーアは武田くんの提案をすんなり受け入れ、彼が月に行くのを許したんだ。
シアムミーアは口は悪いし自信満々に見えるけど、けっこう間抜けで、お人好しな部分もある。正確無比な兵器用プログラムから進化し、弾圧しようとしたかつての主を滅ぼして流浪の民となった人工生命体の末裔だとは、とても思えない。
――円盤は広い部屋に入った。競技場のように半円形になっていて、天井は軽く数十メートルはあるだろう。壁面は淡いピンク――サクラ色に染まっていて、その底にはまるでNASAの管制室みたいにたくさんの端末がずらりと並び、奧にはスクリーンがあって、ひとつの天体を映していた。
それは武田くんが教えてくれていた小惑星だった。NASAが与えた名はXTNOIII。
直径一五〇〇キロを超えるおおきな天体で、すでに光速の一二パーセントにまで加速している。
こんなものが地球にぶつかったら、人類はおろか、生物のことごとくが死滅してしまう。地下数十キロの深さに住んでいる微生物群ですら生き残れないだろう。
なんとしてでも止めないといけない。
円盤は部屋の一角で止まった。
私と智真理が降りると、数メートル離れたところにある椅子のひとつがくるりとこちらを向き、武田くんが姿を見せた。
「吉野さん、智真理さん、ようこそソメイヨシノへ」
――ソメイヨシノ。
武田くんがつけた基地の名前だった。
「私の……名前」
「ほかに思い浮かばなくてね」
と武田くんはとくに照れる様子も見せないけど、珍しく視線を逸らしているのが私の反応を伺っているようで、彼の内心の不安を表しているように思えて嬉しかった。
「ありがとう」
武田くんは私のお礼に、一瞬だけ私のほうを見て、「うん」と口ごもるように答えた。
「よかったね、吉野」
智真理がぽんと肩を叩いた。
「――それで例の対策だけど、作戦としては簡単だ」
武田くんはスクリーンに円筒みたいなものを映し出した。それは月の一部を横から見た断面図だった。
「これって……もしかして巨大なエネルギー砲?」
「分子破砕砲セレネ・セラス。隠見式で口径二キロメートル」
いきなりキロメートル単位で言われても、大きすぎてぴんと来ない。
「一撃で終わり?」
「理論的には」
すごそうな兵器だった。
「でも地面に埋められて固定されてるよね。狙えるの?」
「たしかに撃てる角度の範囲は狭いけど、ぬかりはないよ」
ぽんとキーをひとつ押すと、回転する月の映像が出てきた。そしてその表面に、ぽつ、ぽつ、と丸いマークが――三、四、六、九……
ぜんぶで、一六基。地球表面を除くあらゆる方向に目を光らせている。
「なるほど……大丈夫そうだね」
「ただしお手製なので、自身の衝撃で壊れる。一基が一度ずつしか放てないのが難点だ」
「方角的に、今回は何基が撃てるの?」
「距離にもよるけど、六基から七基」
ということは、チャンスは六回から七回ということだ。
「さっそく発射用意だ。エネルギー充填は半分以上終わっている。地球防衛に出動した対抗者が、自沈する前に片をつける」
「え、どういうこと?」
地球にほかの「対抗者」の宇宙船が現れたことは知っていたけど――
スクリーンに警告のランプが灯り、映像が出た。
「……遅かったか」
投影されたのは、猛加速する何隻かの宇宙船の姿だった。
* *
私はふたたびシエセマに乗り込み、宇宙空間を疾走していた。智真理は危ないので基地に残している。智真理の代理は、シエセマの左舷にちゃんと記されている。
……なぜか「スマイルマーク」だけど。桜の花一輪を下地にしてるので、見栄えは何十倍も良くなっている。
シエセマの艦橋で、私は黒衣姫シアムミーアの姿に変身していた。
だけど――意志は北条吉野のままだった。
『なぜ? シアムミーア出てきて』
そういえばシアムミーアはずっと黙ったままで、出てこない。それほどルクナスヴルムの戦闘で消耗したということだろうか。
『…………』
いくら語りかけても、反応はない。
『シアムミーアのばか』
記憶の共有で知識だけは持ってるけど、私は経験が不足しているし、普通の脳なので必要な情報をとっさには思い出せない。判断力も数段劣るだろう。
こういうときのため、本来シアムミーアと合体するはずだった人格――武田くんは、ずば抜けた秀才として準備されていたのだ。
私はあくまで凡人だ。人の二倍勉強して、ようやく武田くんとおなじ学校に入るのが許されるていどの。普通に勉強していたら、それこそ偏差値きっちり五〇の、真性な普通の女の子だろう。
そんな不安を抱えつつも、シエセマは出来る最大の性能を発揮して、どんどん加速してゆく。
武田くんが言うには、彼らを止めないと地球に甚大な被害が出るという。
彼らの目的はバンザイアタック――特攻だった。
急いでエアロックに戻る私に、武田くんは通信で教えてくれた。
「特攻ってどういうこと?」
『セレネ・セラス級の巨砲を作るには、長旅を終えたばかりの彼らじゃまだ力が足りない。シアムミーアで知ってるよね?』
「うん」
『地球に降りる際、武器が切れた対抗者はブルガゴスガの放った流星群をたたき落とすため、自らの身を犠牲にした。彼らには死を怖れる概念が薄いってことさ』
「じゃあ彼らは自殺するってこと?」
そうなると困る。今後の戦いの負担がすべて私に掛かってくるということになる。
『いや別にそれはないだろう。今はコピーだと思う。地球に降りるときは器がなかったので仕方がなかったのさ』
「なるほど、シアムミーアもどきってことね……でも、なら別にいいんじゃないの? あのXTNOIIIがどのみち破壊できるのなら」
『ちがう。小惑星の軌道は完全にロックされている。破壊には成功するけど、氷河期が来るような大量の破片が地球に降り注ぐ! ――散らばった破片群をすべて消滅させるのは、セレネ・セラスの口径ですら何発撃ってもとうてい叶わない』
「え……」
『対抗者の目的は人類を絶滅させないことであって、その未来に責任を持つことじゃない。これは対抗者とブルガゴスガのチェスゲームだからだ。たとえ人類が一人になっても、生きてさえいれば対抗者の勝利なんだ』
「ひどい……なんてひどい話」
『シアムミーアは自分に出来る範囲で人を生き返したりとか、ちょっと違うけどね。隕石が落ちる数分前にいきなり「その辺にいる全員の遺伝子データを今すぐ収集しろー!」と大声で頭の中叫ばれたときは声を張り上げそうだったよ。走査用ナノマシン飛ばして解決したけど』
「そんなことがあったんだ……」
武田くんはほんとうに凄い。「超高速彗星」の正体を知っていながら、その飛来を受けて本気で興奮してる天文少年に見えるよう迫真の演技をしてみせたり、宇宙人を出し抜いたり、突然の命令にもポーカーフェイスで処理したり。
だけど今、実行する力は私しか持っていない。武田くんがシアムミーアと合体していたら、どれほどすごい人になるんだろう。
――というわけで、私はシアムミーアを起こそうと必死になってるが、彼女は起きてくれない。どうして?
武田くんは急ピッチで充填作業の高速化を図ってるけど、それでもぎりぎりで発射は間に合わないらしい。間に合うのは高い実用性を持つシエセマだけだった。コピーの宇宙船の姿は、アニメで見るようなデザインだけ良いものや、オカルトなUFOそのものなど、ろくなものがない。空飛ぶじゅうたんまでいる。これから経験を積むなりして変わっていくんだろうけど、武田くんがあんなに頑張っていたのに、ほかの代行者は数年間なにをしていたんだろう。
私は火星軌道で加速中の宇宙船群に追いつき、横付けした状態で通信回線をオープンにして、自動翻訳モードで話しかけた。
「こちら日本の代行者です。当方にXTNOIIIを無力化する術があります。特攻を控えてください」
――しかし、返事はない。
無視されてる?
代行者の名ではだめか。嘘だけど。
ならば……
私はシエセマを彼らの頭に付けさせた。
そして微減速をしてみる――
「なっ!」
UFOの砲門がこちらを向いている。私はあわてて通せんぼをやめた。
一条の光がシエセマの脇を抜け、宇宙に溶けていった。
へ?
「わざわざ可視できる光線を武器にしてる?」
なんのこだわりだろう、ばかばかしい。これでは威力はシエセマの主砲の一〇パーセントもないだろう。空飛ぶじゅうたんなどはアラビア風の巨人があぐらを掻いて大笑いしてるだけで(声は聞こえない)、どこにも武装ポイントらしきものがない。
いっそのこと、実力行使で……
と物騒なことを思っていると、空飛ぶじゅうたんが弾け飛んだ。巨人が泣き笑いながら燃えつきた。
「攻撃!」
私はとっさに防御帆の出力を最大にして、固まってる宇宙船の集団から離れた。
後方から奇襲を受けている。見えない衝撃は船団を一方的に切り裂き、宇宙船たちの反応は遅い。
「なんで散らばらないの。バカすぎ」
じれったい。ちっとも戦いに対する心構えができてない。これは代行者の設定のせいか、それともコピーされた人格が無能すぎるからか。
宇宙船たちはあっというまに二隻だけとなった。例のUFOと、なにかのアニメの主役艦が張れそうな見かけ倒しな船だ。
私はシエセマを反転し、すでに敵の正体を掴んでいた。裏切り者にして宇宙最強、黄金に輝くモフレクゥロ大将の艦。こんな場面にじつに適当なものを出してくる。
「ブルガゴスガの船は盗まれた私の設定を模したエルデスバイン。現在の全長一三六メートル、正面の装甲は極めて大。弱点は下よ」
オープン回線で味方のはずの二隻に伝えたが、反応できたのはUFOだけだった。アニメなほうは私の言葉を無視して闇雲にエルデスバインの正面に砲撃してる。無駄だってのに。
言わんこっちゃない、エルデスバインの砲撃を受け、「剥き出しの艦橋」をやられて沈黙した。おそらくコピー人格はそこに乗っていたんだろう。物語ならともかく、実戦に用いる船で操縦者を一番装甲が脆弱でかつ目立つ位置に置いておくのは愚の骨頂としか言いようがなかった。
UFOはエルデスバインの下を取ろうと潜りつづけている。私が援護射撃をしてエルデスバインの旋回を抑えようとするが、なかなか上手くいかない。
と、UFOが我慢できなくなったのか、例の見える光線を放った。それはエルデスバインの三角形の角装甲であっさり弾かれた。
「あれ?」
エルデスバインの旋回が止まった。私のシエセマに照準を合わせようとしている。
「いやーん」
私はとっさに武田くんがくれた回避プログラムを立ち上げた。私が宇宙船団に追いつく合間に、武田くんが送信してくれたものだ。
『シアムミーアがいないから、これで。僕にはこんなことくらいしか出来ないからね』
「武田くん……ありがとう。大事にするね」
私の返事は何分もかかって武田くんに届く。まともな会話は出来ない。もうそれほど離れていた。
それからわずか三〇分で使用することになろうとは。
プログラムが動き始めたとたん、シエセマの動きが見違えった。細切れの高速移動を行い、すぐ横を光の速度でつぎつぎと強力極まる砲撃が駆け抜けてゆく。エルデスバインは意地になったのか、さらに執拗に攻撃してきたが、なんとか避けつづけてゆく。
エネルギー砲はほとんど光の速度で、これを一〇万キロていどの距離で避けるのは事実上不可能だけど、照準を合わせてから実際に射撃するまでタイムラグがあるから、そのわずかな差に射線軸から離れることで当たらずに済むことが出来る。未来位置を想定した予測射撃もしてるみたいだけど、それにも武田くんのプログラムは適応しているようだ。
「天才が作るプログラムなんだから! あんたの下手くそな攻撃なんか当たらないんだから!」
私の囮が効を奏した。UFOがついに、エルデスバインの死角、真下を捉えたのだ。
UFOの謎の光線が放たれる!
私は勝利を確信した――
……あ。
中和力場で拡散したよ。
それほど威力、低かったんですかー。
なるほど、実際に受けて、雑魚中の雑魚と踏んで無視していたのか……
うるさい蠅だなあ、という感じにエルデスバインは一撃をUFOへ見舞った。
UFOはたちまち爆散した。
弱っ。
ついに一対一になってしまった。エルデスバインに拮抗する戦力はシエセマにはない。せいぜい回避性能の高さくらいだ。
決め手がないまま数分ほど攻防がつづいた。シエセマは弱点の真下を取ろうと移動するが、エルデスバインもそれをさせてなるものかと方向を転換させる。
私には常にエルデスバインの巨大なトリケラトプスの頭のような角装甲が見えてるだけだ。エルデスバインは角装甲が全体の半分にも達する。中央部をさらに覆い尽くし、後部の装甲鈑も尋常でなく分厚い。ただそれではあまりにも艦重量が重くなりすぎて身動きがとれないので、下だけ脆弱になってるのだ。
――どうすればいいのか。
なにも思い浮かばない。
『そろそろ茶番は止めようか』
「え?」
黙っていた敵から、男性の声で通信が入っていた。翻訳モードではない。ということは、日本語。映像はオフになってる。
『私はブルガゴスガの先遣人格』
「……私はシアムミーア」
『嘘をつけ、北条吉野』
え。
なぜ私の名が知られているの?
『おまえの友達がいまこの船に乗っている。この船を倒すということは、その友達も殺すということだ』
――男はいきなりとんでもないことを言ってきた。
「な、なによ!」
『あ、うわっやめておじさん。いたい』
聞き慣れた声が。
「由美!」
島津智真理と並ぶ、私にとって一番大切な親友のひとり、毛利由美――彼女が、人質として囚われている。
どうしたらいいんだろう。
私は……
『ねえ吉野、これなに? なんの冗談? 冗談だよね、答えてよ』
「由美――ごめん。巻き込んで」
『え? マジ? じゃあこのおじさん、宇宙人ってわけ! うそだよね、宗我部さん』
宗我部? ――聞いたことがある名字だった。
『くっ』
男のしまったという声。ということは、やはり正体は――「変な露出狂」のおじさん。
思いだした。智真理が持っていた、可愛い羽根の生えたリアル豚に仕込まれていた発信器。変な豚。つまり智真理は変な露出狂からしっかりフィギュアを貰っていたのだ。由美の場合は、いわずもがな。ぬいぐるみをもらったという話を堂々と受け、現物も見せて貰った。そのときのてるてる坊主のデザインが、智真理の手によりシエ坊に反映されたほどだから。
気付くべきだった。智真理がブルガゴスガの接触を受けていたということは、由美のものにはあのときからすでに発信器が入っていたんだ。
――いや、私だから気付かなかった。おそらく武田くんなら気付いてくれただろう。話しておくべきだった。
後悔してももう遅い。開き直った宗我部は映像をオンにすると、私に対し、小惑星への攻撃の中止を命令していた。その目はなにかに取り憑かれているかのように異常に見えた。
『月になにか妙な仕掛けをしてるってのは分かってるんだ。いますぐ作戦をやめさせろ』
「…………」
『早く伝えろ!』
『いたい、いたい――キャッ』
髪を引っ張るや、いきなり人質の顔を殴った。由美の体のあちこちにすでに痣が出来ている。着ている制服は逃げる意欲を削がせるためか半ばはぎ取られ、スカートにはハサミで切られた長い切れ目が数本入っており、その暴力のスリットは腰まで続いていた。
「……わかった」
私は武田くんに連絡を入れた。すでに私は抵抗をやめて月に向かって転進している。これも宗我部の指示で、彼は後から付いてきている。弱点の真後ろを晒しているわけだから、いつでも奴の好きなときに殺される。
タイムラグを通して、武田くんは黙って頷く映像を返信してきた。戦闘中の由美の悲鳴を悪趣味にも宗我部は月に向けて送信していたらしく、智真理が泣いて武田くんにすがっていた。
「ひどい……」
『なんだと貴様。死にたいのか』
「いえ、なんでもありません」
なんとかして逆転する手はないだろうか。
このままだと、地球は終わる。
人類が絶滅すると、おそらく私たちも殺されるだろう。
――ならば由美を犠牲にして、ここは。
本当はそれがいいのだろう。
宗我部は油断している。急発進して下に回り込み、一撃を見舞えば一瞬にしてエルデスバインを沈めることができるだろう。なによりエルデスバインには防御帆がない。正面はともかく、それ以外のあらゆる方向でシエセマのほうが防御性能は上だった。
エルデスバインさえなんとかすれば、あとは小惑星XTNOIIIなど武田くんの作った巨砲で消し飛ぶ。
シアムミーアさえ出てくれば、なんとかなるかも知れないのに。
数時間前の戦いみたいに、ヤルスルングルーンナガレが出てくれば違うかも知れない
――だけど、シアムミーアでないとどうにも出来ない。
いまの私は姿だけシアムミーアで、だからシアムミーアに近い力が使えるけど、本物ではないからどうしても劣っている。
悔しかった。
力及ばなく、足りないことが。
届かないことが。
私の手は短い。
思った以上に、私は戦いのことを軽く考えていたのかも知れない。
由美を犠牲にできるのかな――
彼女の顔がぽっと出てくる。
短髪で背が低くて、まるで人形のように可愛いのに、性格がちょっとシアムミーア入ってて、いつも爆弾発言をして、私を困らせる子。意外と物事をてきぱきこなして、掃除が好きで、どんくさい私の背を押してくれる積極的な子。
ときどき小憎らしいこともあるけれど、それも含めて私は彼女が大好きで。
だめ――替えることなんて出来ない。
由美を犠牲にしてしまうなんて、できない。
私は弱い、とても弱かった。
人質という手段を取られただけで、せっかくの小説が現実になるという力も、武田くんの二年に渡る努力も、武田くんが作ってくれたプログラムも、みんな無力になってしまう。
私のせいだ。
――力が欲しい。
本気でそう思った。なにかを借りての力でなく、自分の本当の力が。
力?
私はあることを思いついた。
そうか……まだ手は残っていた。
* *
月に来てそろそろ二時間になる。
宗我部は月の武装解除を進めていた。
武田というガキが作ったというセレネ・セラスというご大層な名前のついた巨砲を、一門一門エルデスバインの攻撃で潰してゆく。モノが大きい上にやたら頑丈なので、一門を完全に使用不能にするのに何分もかかる。
時間ばかりかかって退屈だが、宗我部はあまりに自分の作戦がうまくいって内心では喜んでいた。
時々ちらりと黒いシエセマの艦橋内映像を確認するが、黒衣姫の格好をした北条吉野におかしな気配は見られない。絶望したように泣いている。「対抗者」が復活する気配はない。
それにしてもえらい勘違いだったぜ。
武田のほうが代行者で、北条吉野はまったく関係ない部外者だったのだ。宗我部には対抗者を感じることは出来るが、生身の人間でしかない代行者を感じることは出来ない。だから間違っていた。
小説を書いているといううわさを聞いたし、何気なく彼女と繋がりを持つ人から情報を集め、「設定」を考えていると踏んで狙っていたのだが、武田が利用していただけとは、なんともおかしな話もあったものだ。おまけに合体相手を違えてしまったという。
ブルガゴスガ側には、代行者と対抗者の合体といったようなバカバカしい行動はない。別々に動くし、肉体的に超人となれるから、じつに効率が良い。
それなのにブルガゴスガと対抗者の、過去の戦績がほぼ五分というのが信じられなかった。
ブルガゴスガは一〇回攻める。
対抗者は最初に送り込んだスタッフで一〇回守る。
これで最後に対象の知的存在が死滅していればブルガゴスガの勝ち、一個体でも生き残っていれば対抗者の勝ち。
代行者の生存は員数外とする。対抗者は守る対象の知的存在をその活動圏および近辺から出してはならない――他にも細かい取り決めがあるが、だいたいこんな感じだ。
別のスクリーンを見て、小惑星の位置を確認する。光速の七〇パーセント以上という途方もない速度になってる。あと一五分で地球は終わりだ。月の砲門はまだ幾つか残っているが、死角だし、もういいだろう。
さらに幾つかのスクリーンを見ると、地球上では予想以上に、未曾有の大混乱が起きている。
人々は絶望にやけになり、略奪や暴動が発生し、自殺者が続出し、火災や事故が発生している。あらゆる交通や社会機構が麻痺し、もはやこれが文明人なのかと、信じられない狂乱ぶりだ。
しょせん、動物だ。
「おい、おまえ。疲れたから肩をもめ」
「……はい」
由美とかいう娘はすでに抵抗する気力もなくしており、ただ無気力に自動的に反応するだけの人形と化している。
よく見たら、なかなか可愛い顔をしている。
調教して奴隷にすれば、最後の時をより充実して過ごせるかも知れない。暴力を顔に振るって傷を付けたのはまずかったかなあ。
人類が滅びたら、自分も適当に暴れてのたれ死ぬ気でいた。食糧がない以上、それしか道はない。
宗我部が欲しかったのは力だけだった。なぜ欲しているのかわからないが、とにかく破壊衝動が激しく、幼いころからたびたび理由もなく暴れていた。おかげでいまや家族は誰もおらず、ただ孤独な独身の日々を過ごすだけの退屈でどうしようもなく救いのない人生を送っていた――
なにもかも壊れてしまえ。
そう思って会社で暴れ、また二ヶ月でクビになった帰り、宗我部正夫は宇宙からの声を聞いた。
――チカラガホシイカ? ナラバワレヲモトメヨ。
一二年前のことだった。
……そして今の自分がいる。
境遇は当時とまるで変わらないが、暴れたときの影響力は凄まじい。
宗我部は満足だった。
これだけ多くの人間に災いと死を振りまいたのだ。
壊れた、壊れた。
「わははははははは!」
目を閉じ、顔に手をやって大笑いした。
なぜか涙が落ちている。
おい、なぜ悲しくなるんだ。
俺様は事を成したんだぞ?
なぜ人形を作るときの楽しさや、それを貰ったときの少女たちのうれしそうな顔が浮かぶんだ。
宗我部は自分の感情が理解できず、涙を擦って目を開いた――
そこに。
ここにはいないはずの人間がいた。
「え」
* *
私は全力で金槌をそいつの額に叩きつけた。
「げ」
一撃で諸悪の根元――宗我部はヒキガエルのように伸びた。
反動で手がじんじん痺れ、思わず金槌を離してしまった。
「か、かたいよー」
これが普通の人間だったら、おそらく頭蓋骨陥没で死ぬか、重傷となるだろう。だけど宗我部は体の半分以上のパーツが強化されたサイボーグみたいなやつだから、気を失うていどだ。
「姿が違うけど、その声……よ、吉野?」
さすがに肩を揉むのを止めた由美が、呆然として私を見ている。
「ごめん遅れて。もう大丈夫。その傷もみんなシアムミーアが直してくれるから」
「よ……よしのぉ」
泣きだした由美が抱きついてくる。
私は親友の肩をさすり、涙を受け止めた。いや、私も泣いてるんだ。
よかった――よかった。
私が行ったのは、つまり生身の自分で直接エルデスバインに乗り込む、ということだった。
シアムミーアほど自在ではないにしろ、彼女とまったくおなじ力が使える以上、私にももどきシアムミーアを出現させることはできる。
宗我部は私がへんなことをしないよう、通信回線を常に繋いでおけと要請していたので、すなおにそれに従ったが、じつは繋いだ最初からもどきと入れ替わっていた。悲しげな、哀れでひ弱な女の子を演じろと伝えておいて。
私は月についてから行動を起こした。
宇宙服を着てエルデスバインの死角から侵入し、船内を徒歩で移動してきたのだ。なにしろウグレラルナ星伝の戦艦の構造をおおまかながら設定したのは私自身。実際に歩くのは勝手が違うし多少は迷うけど、ゴールの方向を見失うことはない。
エルデスバインは設定では三キロメートルを超える巨艦だ。その船体に貼り付いたとたん私の体も一気に縮小するので、見かけの大きさが一〇〇メートル台でも、三キロメートルの巨大戦艦の中を移動するのとおなじ時間がかかった。下部の脱出ポッド部から侵入し、徒歩で二時間近くもかけてようやく艦橋に辿りついたのだ。
武器は途中の作業室で見つけた金槌。遠い未来という設定でも私のイメージはすべての小道具には届かず、現代的なものも残る。とはいえこの金槌、柄が木製だし、なんか古くさいかも知れない。時代劇に出てきてもおかしくないかも。
私はエルデスバインの艦橋中央に立つと、宗我部の気絶で消えた思考接続を私に繋ぎ、武田くんに連絡を取った。
同時に掃除ロボットを呼んで、悪者の宗我部を戦車でも吊り上げる超強化繊維ワイヤーで縛らせる。
周囲の物質からすこしずつ元素をもらってメガネを出現させると、それを掛けて北条吉野に戻った。
武田くんが出た。さすがに心配そうな顔をしているよ。
『吉野!』
「武田くん……やったよ」
私はピースサインを送る。
『由美!』
画面の向こうで、智真理も喜んでいる。
「智真理――武田くん……ありがと」
由美はずっと泣いている。これほど悲しくて泣いたあとでも、うれし泣きがずっと出来るものなんだ、と私は思った。だから私も素直に泣いていた。
「武田くん、やってしまえ!」
『うん――対抗者のみなさん、出番ですよ!』
* *
戦艦レークゥセは、光速にますます近づいてゆく小惑星の後をおなじ速度で追従していた。智真理がデザインした中でも一、二を争う美しい艦影を見せるレークゥセ、その名はずばり星伝語で「輝き」であり、ブルガゴスガ語でも対抗者の言葉でも「輝き」と言った。
小説の中では皇帝エニフリートゥレ陛下が乗り込んでいた栄えある戦艦も、いまでは地球を滅ぼす意志に乗っ取られた不運の艦でしかなかった。
その艦橋に、丸いそいつはいた。白いボールから二本の角を上部に伸ばし、水色の手足に、そしてボールの部分にトサカのような睫、その下につぶらな、トルコ石に似た宝石の瞳と、唇のない口。鼻はない。
異形だった。
顔から手足が生えている、と形容しようにも、その顔からして人間的ではなくかけ離れている。どちらかというとメルヘンの住民だろう。
そんなメルヘンな生き物は、ただの人形だった。
本体はそれを操るプログラムの高度なもの、存在確率というあやふやなものを具現化することで、意識を獲得した情報生命体――
いまでは二派にわかれ、有機生物を見つけたら思いだしたように喧嘩をする、その一方の存在。
ブルガゴスガ。
それに属する一個体だった。
「あと……数分か」
彼の体内時計は人類のそれに合わせられている。そもそも彼らは基本的に名を持たず、単位を持たず、すべてを認識で済ませる。言語は過去出会った知的生物から頂いたものを公用語として便宜上使用しているだけで、ごく親しいグループ内では言葉すら必要としなかった。
彼は、勝利に酔っていた。
「神よ、感謝します」
情報生命だが、信仰はある。ロボットではない。性格や癖も存在する。平均的に皆が有能で、有機生命ほど低能はほとんどいないが。
だから出世は難しい。
今回はあえて志願した。
宇宙船本体はプログラムに任せるままおおいに暴れ、地球直撃コースを取ってそれにより多くの敵を葬ることができた。自分本人はこうしてとうの前に離脱していたというのに。
この地球にぶつける小惑星は、一〇年以上かけて加速機構を整備してきた。すべて先遣人格に任せて。
二番手、三番手以降の先遣人格の手も借りている。
あと二分。
シアムミーア以外の対抗者が突っ込んできても迎撃出来るよう護衛していたのだが、やつらはついに動かなかった。
「撃退した第一波と思っていたものこそ、じつは精一杯の攻撃だったようだな」
それほど力が足りなかったのだろう。まさか一番手の本格侵攻が、到着から二四時間以内に実行されるとは思っても見なかったはずだ。
このような移動要塞化した小惑星を我ら情報生命の力だけで作るには、太陽系に来て一から準備を進めていたら、それこそ数ヶ月の時間がかかる。うち半分の時間は、ひたすら力を溜めることに費やされる。
月も首尾良く潰せたし、成功は間違いない。
あと一分……
減速して斜めに軌道を修正しないと、大爆発に巻き込まれるな、と思った瞬間だった。
小惑星が青白い輝きに包まれたような気がした。
「なんだ?」
彼は疑問の答えを得る機会はもうなかった。真相を知らぬまま、夢想する未来とともに、名のない戦士が一人、永遠にこの世から退場させられた。
――彼は完璧主義ゆえの自信から油断し、安全になったと思い込んだ月をセンサーの走査対象から外し、地球の監視に全力投球していた。もし彼が臆病で慎重で、月のことをなお頭に入れていれば、そこでにわかに莫大なエネルギーが蠢いていたことに易々と気付き、作戦の失敗は避けられずとも、自らの命は永らえて再侵攻の基盤を整えられたかも知れない。どのみち遅かったが。
ともかくも。
これで七回に更新された。
ジンクスはまだ、利いていた。
* *
これは奇跡か?
月が反転していた。
常におなじ面しか地球に向けていない月が、一八〇度回っていたのだ。
人類の多くが、いや、全員が初めて見る月の姿。
お餅をつく兎は消えてしまった。
その姿は世界中で話題になったが、それ以上に彼らは全天を覆う白い輝きに見とれ、自分たちが助かったという実感とともに、救いをもたらした月に感謝した。
大混乱の爪痕は大きい。経済はずたずたになった。再建は思いやられるだろう。自然環境もかなり変化したし、人々が受けた心の傷は大きい。
ともかくも。
――世界は救われたのだった。
* *
月をわずか数分で反転させ、死角に位置していて無事だったセレネ・セラスを撃たせしめたのは、なんと「設定」の力だった。
シアムミーアは自分の基本能力の大半を吉野に委ねて意識を飛ばすと、七名の仲間とコンタクトを取り、交渉をしていたのだ。解決策があると報せたら、シアムミーア同様、感情を隠すのが下手な吉野のことだ、敵に察知される。だから一切伏せていた。
間接的に現状を観察し、未来の状況を予測して、シアムミーアは行うべき対策を定めた。
「ちょっとおたくらの代行者にさあ、月を動かせる設定、書かせてよ。ねえ」
とうかつにもいつも通りふざけた口調で切り出したし、母船をイカに改造したイタズラの前科もあって信用がなく、時間がかかってしまった。
力がないなら協力する。過去に例を見つけ、シアムミーアは実行したのだ。それはもどかしくて鬱陶しいが、熱弁には違いなかった。仲間たちは迫力の呑まれ、しぶしぶ首肯せざるを得なかった。なによりシアムミーアは現「対抗者」マザー人格の「娘」である。
こうして月は動かせる、という七つの力がひとつとなり、不可能なことが可能になったのだ――制約がなければ、自分たちの超科学でこのていどのこと、すぐ実現できる。だけど激しいリミッターを審判者によりかけられており、可能な範囲内でちょびちょびとやりくりするしかないのだ。
まるでレーサーが三輪車を運転させられるようなものだが、うまくいった。
小惑星が近づいても七名の対抗者が「自爆」しなかったのは、シアムミーアのこの作戦があったからだ。
吉野はエルデスバインに侵入した途中でそれを知らされた。
「じゃ、私が成功するまで待って」
いきなり作戦を実行すると、怒り狂った宗我部に、由美はもちろん、見せしめとして武田くんや智真理まで殺されかねない。だから吉野は待ったをかけ、シアムミーアはさらに七名の同僚を下手くそな話術で説得し直す羽目になったのだった――
というわけで、シアムミーアはせっかく仲間内で一目置かれるチャンスだったのだが、自身の不器用さが仇となって、完全にふいにしてしまった。
* *
私はその日のうちに家に帰った。両親をごまかすのは大変だったけど、大変な事件が起こった直後だっただけに、五体満足だっただけでも良かったと、なんとか許された。
良かった。
本当に良かった。
人類はたったまる一日で大きな体験をした。大変で、大混乱で、めちゃくちゃで。
こんなことがあと九回もあるなんて、ほとんどの人がまだ知らないし、知らない方がいいだろう。
私は――果たして地球を守り切れるだろうか。
次の日、私はそんな不安を胸に登校した。
学校は休校にはなっていなかったけど、混乱が大きかった影響もあって半分ほどしか来ていなかった。それに授業は二日たってもまだ再開できず、みんな隕石落下の衝撃と地震に晒された校舎の、掃除と後片付けに追われていた。
由美はシアムミーアの超科学で傷も残らず、むしろ以前よりつるつるした肌で「やっほー」と挨拶した。
智真理も、そして武田くんも元気だ。
教室は昨日のうちに半分がた終わっていたので、私はみんなの許可を貰って部室に向かった。天文部の部室は桜ヶ丘を臨む方角に面していた影響で窓はみんな割れ、備品も散乱してめちゃくちゃで、私は午前中に一時間ほどかけてせめて床だけ綺麗にしていた。
その昼、弁当を取りに教室へ戻ると智真理と由美は天文部で弁当を食べよう、と言ってきた。入部届けをちらつかせて。
「……どういう風の吹き回し?」
わかっていながら、部室に戻るや私は聞いた。
弁当の蓋は開けてるけど、形だけ。それどころではない。
「だってねえ――私の描いた戦艦が動くし」
「正義の味方って、いいよね」
……だめだこりゃ。
「あのねえ。星が好きじゃないのなら、入る理由にならないよ」
「えー。そんなあ。星好きですよ」
「ていうか、そもそも吉野からしてねえ」
由美がにやりと笑った。
やばい、やぶ蛇だったか。
「入部希望者がいるって?」
こんなときに限って、巡り合わせが悪い。私が呼んで置いた武田くんが入ってきたのだ。
「部長さーん、北条さんがー、星が好きなわけでもないのにー、天文部に入ったそうでーす」
出た! 爆弾発言!
「わー! 由美! わー!」
私はたぶん思いっきり真っ赤になって、両手をばたばたと。端から見たらさぞや面白いだろう。もう由美め!
「知ってるよ」
え?
今までにない反応に、私は驚いて武田くんを見た。武田くんは私が午前中にかき集めて分類してない箱いっぱいの備品を床から近くの机に置き、整理をはじめていた。無表情は相変わらずだけど。
「……武田くん」
「おー。これは新しい展開の予感」
「ナイス、武田ー」
私の感動に対し、智真理と由美のそっけなさというか、楽しんでるだけだろおまえら。
「おっと忘れてた。これ、入部届けー。智真理と私のぶんだよ」
由美が武田くんに入部届けを渡した。
「よろしく。天文部は君たちを歓迎するよ」
武田くんは微笑んだ。
ああ、くらくらしそう。
――あれれ?
私は本当にバランスを崩してしまっていた。
「いやん!」
派手に転び、メガネが取れてしまった。
「……ふふふ。トリーニセファーレミートゥェアー(へーんしーん)」
黒い衣装に身を包んだ、シアムミーアになった。体の自由も一瞬にして奪われる。
『あああ、シアムミーア、戻って、戻って』
「お、これ吉野の弁当だよな? うわー、美味しそうだぜ。いただきまーす」
『わたしの、わたしの弁当ー』
覚えてろよシアムミーア。
いくら味覚が一緒でも、食べ物の恨みは恐ろしいんだからあ。
一キロ以上も離れた桜ヶ丘から飛んできたソメイヨシノが一枚、ガラスのない窓枠から舞い込んで弁当に落ちた。
* *
了 2004/06