東方再利用(一宮大塚古墳) 漫遊 おでかけフォト よろずなホビー
遼遠なる再利用の話だよ~~。千年単位のリサイクル。
これまでのあらすじ
幻想郷入りした謎の遺跡で魔理沙といっしょに宝探しをしていた因幡てゐは、不思議な光景に出くわした。宝が埋まっていると思われた中央部が、石組みごとごっそり消えていたのだ。幻想郷入りするものは外界で忘れられたもの。宝はまだ忘れられていないのでは? ――起源を求め、てゐは外界へ出かけた。一方の魔理沙は、さっさと寝ていた。大嘘。
素朴な石が、なぜか橋の隅に。しかも御影石っぽい高価な台座まであつらえている。
高知県高知市一宮 太古橋久安川をまたぐ幹線道路に架けられた、よくある小さな橋だ。
特徴は、橋の四隅に置かれた石。なんの変哲もない石だが、こうしてなにかの像のように置かれているからには、なんらかの特別な意味が人によって与えられている。
由来を見てみよう。太古橋という名前もあまりない耳に馴染みのないものだ。
ぶっちゃければ一帯の土地を守ってる祖先のご神体を利用して、国道建設を推進できたぜという話。
一宮米元にあった一宮大塚古墳が、国道建設の建材として供出されちまった。記録によると石室は横穴式で、奥行き10mほど。となれば大塚古墳の規模は数十メートルか。惜しいことを。殖産興業の明治20年なら仕方ないかも。昭和の高度経済成長期にも開発の名の下に破壊された古墳はけっこうあったという話だし。リサイクルされただけでもましかな。1000年を超えた再利用。
一宮大塚古墳は6~7世紀の建造と推定されている。1000年以上も昔のことだ。古墳があった正確な位置はすでに分からなくなっているともいう。だが石は残った。
明治20年、橋として使われたのは天井石。古墳の石室で、天井石はたいてい巨大だ。理由は単純で、封土の重みに何百年と耐える天井をこしらえるには、石組みより一枚岩のほうが有利だったからだ。めっちゃ有名な奈良の石舞台も天井は大岩の連合だ。一宮大塚古墳の石室天井石は4枚で構成されていたらしい。そのうち3枚が太古橋に使われた。
明治の太古橋はすでになく、通行量の増加と国道の拡張に伴いとっくにコンクリートへと掛け替えられているが、石の一部は保存というか野ざらしながらモニュメントとしてさらに再利用され、郷土史家へ顕彰の機会をたびたび与えている。
というわけで大塚古墳のでっかい岩のさらに欠片のみが平成の太古橋では残されていたが、もっとでっかい塊が信仰というか放任のおかげで時と記憶の風化に耐えたよ。
もう答えは見えてるだろうけど、いちおう順番ってもんもあるしね。
この神社さ。
土佐神社太古橋とおなじ一宮の、歴史ある神社で、江戸時代まで式内は大社・社格は一之宮。その影響でこの辺の地名が一宮になっている。成立は大塚古墳よりさらに古い5世紀。写真の銅板には一ノ宮と彫られているが、地名のほうの一宮はいまでは転訛して「いっく」と呼ぶ。一宮(いっく)の土佐國一ノ宮(とさこくいちのみや)。ややこしい。一ノ宮は神社の格式(階級)で、神社の名称はあくまでも土佐神社。
で、土佐神社の社格標。右は一宮橋という長さ3m足らずのちっこい橋で、参道への導入口に当たる。
由来がとなりの石柱で説明されている。かいつまむと、このでけえ石はもとは大塚古墳のもので、明治20年に一宮橋になったけど、大正3年に一宮橋が鉄筋コンクリートに拡張したのでしばらく廃石として転がってた。昭和47年の本殿・拝殿再建400周年記念に、社格標として再利用したよん。
なるほど、4枚あった天井石のうち、3枚が幹線道路の太古橋として使われ、1枚が神社の橋になったのか。というかあの社、なにげに450歳だったのか。現存天守の高知城より古いとは。建立者は長宗我部元親。
大石のサイズは高さ2m、幅3mくらいかな。これから推定して、太古橋は幅3m・長さ6m。または幅2m・長さ9m。どちらにしてもミニマムだぜ。太古橋のある道は平成のはじめまで国道だった。昔の国道は可愛いな。
このくらいの大きさの石が廃石として人口密集地に転がっていれば、昔ならいずれ誰かが買い取り、石材として利用しただろう。だが昭和・平成まで残った。それはこの岩が神社の敷地内にあったからだ。いくら適当に転がされていたとはいえ、公共の場にある石物をおいそれとは使えないだろう。実際、現在まで無事に残っている古墳には、祀られたものが比較的多い。
つまりは、信仰の見えないバリアがこの岩を救ったことになる。残ったモノ勝ちだぜ。てなわけで感慨にひたる因幡てゐ。そりゃ幻想郷入りしないよな。最初は古墳として千数百年をすごし、つぎに橋として数十年、さらに神社の転石として数十年、そしていまは標石としての数十年だ。リサイクルしまくりだぜ。
これから書くことは資料がなかったので想像だぜ。
おそらく一宮一帯には、一宮大塚古墳のものだった石がそこらじゅうに散らばっているだろう。いまと違って明治大正の石材利用は特別な化粧石を除けば、ほとんどが地元で回っていた。天井石だけがクローズアップされているが、石室には横壁の石もあり、さぞや手頃な石材だったに違いない。太古橋はコンクリートに架け替えられた際、残存しているのが破片なので、砕かれた確率が高い。合理的に考えれば、どこかの石垣なり礎石なり庭石なりに化けただろうし、あるいはコンクリートやアスファルトの砂利として混ぜられたかもしれない。なんにせよ一度人前に出れば、石の運命は再利用につぐ再利用だ。1000年の眠りから覚まされた大小数百の岩や石くれの動きは、さぞや活発だったことだろう。いまでも知らないところで動いてるかも。