東方古墳録

おでかけフォト
撮影:1995/09/02,2004/04/11,2005/01/02,2010/04/05

「撮影日が10年以上にも渡っているけど、気にしないでね?」

「この石積みっ!」

「なんだろう」

「ね?」

野田院古墳(香川県善通寺市)

「興味ある人だけ読んでみて」

「この土盛り、とても特徴的ね」

「全長44.5mと可愛いわ。弥生時代が終わってまもない3世紀後半、古墳時代ごく初期の前方後円墳よ。今回は日本独自(一部朝鮮半島南部へ伝播)の墳墓、前方後円墳を見てゆくわ。一目瞭然な整備復元された墳墓を中心に、建造時期に沿っていくつもりよ」

「後円部がみんな石積みの前方後円墳は珍しいという話よ。おまけに山の上に造られていて、当時の集落との比高差が日本一の前方後円墳でもあるわ」

「ほとんど弥生式土器も同然の壺が、古墳表面を飾っていたの」

「埴輪へと至るまでには、まだしばらくかかったみたい」

「いろんな意味で規格外れだけど、まだ前方後円墳が発展途上だった証拠でもあるわね」

「3世紀前半の弥生時代末期は首長の墳丘墓といえば円墳や方墳だったのに、同世紀後半にかけてのわずかな期間で、前方後円墳へと大変身を遂げちゃったのは不思議よね。発祥の地とされる近畿のヤマト政権が、恭順の見返りに前方後円墳の築造を認めたという解釈があるわ。それなら短期間で広まるのも頷けるわね。進化途上と見られる古墳は前方部が短くて、まるでホタテ貝に見えることから、帆立貝型古墳とも言うらしいわ」

「3世紀の間、100mを超す前方後円墳といえばもっぱら、畿内中心部を支配するヤマト政権の大王(おおきみ)クラスだけで、数もそれほど多くなかったわ。4世紀に入るとヤマト政権以外の地域王権も、対外的には権勢を誇示し、対内的には祖霊信仰を集める団結の象徴として、大型墓を次々と造営するようになるの。そのような墓は完成まで10年以上かかるから、王の生涯はモニュメントに捧げるも同然だったでしょうね――そしてこれがそのひとつ、丹後政権の王墓らしいとされるものよ」

蛭子山古墳(京都府与謝野町)

「蛭子山1号墳は複元長170m、復元前145m。日本海側で第3位(復元前5位)の巨大な古墳よ。整備復元された前方後円墳としてならもちろん日本海側1位の規模ね。4世紀のもの」

「難しいことがごちゃごちゃ書いてるわ」

「蛭子山で私が出てこないけど、撮影2004年だから許してね」

「蛭子山古墳のすぐ隣に、ちいさな前方後円墳があったわ。美しい形ね」
作山古墳(京都府与謝野町)

「蛭子山よりすこし後、4世紀末から5世紀はじめの、ミニ前方後円墳よ。全長たったの30m。全体に石を葺いてるわね。作山(造山)と同名の古墳は全国にたくさんあるわ。分かりやすいわよね、たしかに人の手で盛り上げたわけだから。前方後円墳としては小さいけれど、古墳として見れば大きいほうになるわ」

「方墳や円墳が並んでるわ。例外も多いけど、王や首長はだいたい前方後円墳、臣下は弥生時代以来のより単純なこういった墓よ。埴輪も見られるわね。4世紀末までには様式としての埴輪が全国的に確立してるわ」

「この時代はまだ、石室は竪穴式(縦方向)だったわ。横穴式は技術的に難しかったみたいね」

「なにしろ古墳時代中期はまだ、こういう家に住んでいたから」

「倉庫も弥生時代と大差ないわね」

「さて、王レベルによる巨大古墳の築造競争はますますエスカレートし、5世紀にはいると河内を中心にモンスター化してゆくわ。次はあれだ、最強のあたいが紹介するにふさわしい1基だぞっ」

「下の写真は5世紀はじめから半ばに登場したどでかい墓よ。日本はおろか世界最大の面積を持つ超規模なヤマト政権の大王墓、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)! 全長はなんと486mぅ! 大きすぎて小山にしか見えないわね。あたいったら最強ね!」
大仙陵古墳(大阪府堺市)

「撮影1995年……古すぎたかしら。今回掲載してる中で唯一、復元してない古墳だけど、日本一だから別格よね。残念ながら1枚しか見つからなかったけど。ヤマト政権は大阪平野と奈良盆地に、300m前後の特大古墳を次々と造っていったわ。ほかに300m台の古墳を築造できたのは岡山を中心とする吉備政権だけで、のこりは200mがいいところだったから、力の差は歴然ね。ほとんどの王はもはや、ヤマトの大王(おおきみ)を認めざるを得なかったでしょうね」

「さて、メインディッシュは前方後円墳の完成型よ」

「でっかくて!」

「立派で!」

「完璧だわ!」

五色塚古墳(千壺古墳)(兵庫県神戸市垂水区)

「この古墳、住宅街のど真ん中にあるのよ」

「今回撮影に行った日は残念ながら休みで、古墳に入れなかったの。だから2005年に訪れたときの写真を載せるわ」

「時代は大仙陵古墳よりすこし遡って、4世紀末から5世紀初頭よ。埴輪ずらりで美しいわね。当然だけど適当な形じゃなくて、発掘した研究結果を元として、綿密に再現したものよ」

「全長194mは全国41位の規模よ。日本には30万基以上の古墳があって、前方後円墳も5000基以上あるから、被葬者は不明だけど相当な権力を持っていたはずよ。さらにこの五色塚はおそらく、復元された前方後円墳としてはほぼ最大級のものよ。だって1位から40位までの古墳(すべて前方後円墳)をネットで調べてみたところ、みんな木が生えまくって緑の林だったんだもの。教科書の常連になるわけよね」

「表面の葺き石はかなりの部分が建造当時の本物で、それだけ価値が高いわ。足りなかったものは同種の石材を敷き詰めてるの。左上に見える方形の土盛りは、祭祀を行った場と推測されているわ」

「前方後円墳の領域は盛り山の本体だけでなく、その周辺部にも及んでるわ。だいたい掘り下げて環濠にしてるわね」

「世界最長の吊り橋、明石海峡大橋が見えるすぐ側にあるとは」

「さすが、天才のあたいが訪れるにふさわしい古墳ね!」

王墓山古墳(香川県善通寺市)

「6世紀、古墳時代の末期になると、近畿の勝ち組ヤマト政権がその直接支配地域を着実に広げるようになるわ。いよいよ日本国の成立ね。小国乱立から中央集権へ向かうと、我々は凄いんだぞと誇示する相手が近場にいなくなるわよね。それと伝来した仏教と土着宗教との神仏習合により、信仰の形が変質してゆくわ。前方後円墳を作る意味と必然性が次第に薄れてくるの」

「6世紀には土木技術の発達で、石室を横穴で繋ぐようになるわ。こちらのほうが建物って感じがするし、盗掘にもより強いそうよ。実際この墓は未盗掘だったわ」

「でも前方後円墳の大きさそのものはすっかりこぢんまりとしたものになってくるわ。副葬品のレベルが高かったにも関わらず、この王墓山も全長46mと控えめでかわいいものよ。埴輪や石葺などによる装飾もされなくなってくるの。復元してもこの通り、のっぺらぼうのたんなる段丘ね」

「古墳時代は終焉を迎え、時代はヤマト政権から大和朝廷へ、奈良飛鳥を舞台とする飛鳥時代へと繋がってゆくの。古墳時代と飛鳥時代の明確な線引きはなくて、仏教が伝来し寺院を建立していた時期にも、まだ前方後円墳は作られていたわ。古墳の慣習がほぼ廃れたのは飛鳥時代のまっただ中、7世紀半ばよ。それからまもなく、大王(おおきみ)が王の中の王・天皇(すめらみこと)を名乗り始め、朝廷の都も中国式に京と呼ばれるようになるの(飛鳥京・藤原京)。古墳は消えたけど、墳丘墓の様式は天皇陵や大名墓に継承されていったわ。古代の名残が近代から現代までずっと残ってるなんて、一度も王室が変わらなかった日本ならではよね。世界最長の王室とされる皇室は、有史以来王朝交代がないから名字を必要とせず、日本人が単一民族化しちゃった後もずっと、伝統として皇帝位(複数の民族を束ねる王)を名乗ってるの。いわば天皇という称号そのものが、古墳時代の残照なのかもね」

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