第二章 ソメイヨシノは咲いている

よろずなホビー
ヨシノ星伝/第一章 第二章 第三章

 半日で世界は変わった。
 私のようなしがない一記者が関わることができたものなどせいぜい日本における落下地点の取材くらいだが、大量に流れた情報をまとめると、起こったことはこうなる。
 光速の二五パーセントで飛来してきた二個の「超高速彗星」は、冥王星軌道を越えた辺りで急加速、天王星軌道の時点で光速の四〇パーセント近くにまで達して安定した。
 この観測事実だけで、世界中の科学者は色めき立った。
 これはもはや、自然のものではない。
 自然の物理を越えた猛烈な加速だった。
 何者かの意志が働いている可能性が高い。
 それは謎の天体の、あまりの高速ぶりより当初から指摘されていたことで、実際XTNOIとXTNOIIに対して素数パターンや通常音声による発信を試みたグループも複数いたが――返信はなく、多くの科学者はいろんな仮説を立ててこの速度を自然現象として説明しようとしていた。
 そこに、光の一五パーセントに相当する超加速という緊急情報である。
 加速時の揺れなど、細かい動きから科学者たちは天体の正確な質量を割り出して驚いた。見かけの大きさと予想される組成に比し、あまりにも重かったからである。これを説明できる天体の形状は、ストローのように細長い棒型しかなかった。地球に鼻先を向けていたのである。正面の見た目から、常識に囚われて球形だろうと勘違いしていたのだ。
 さらに急加速に費やされたエネルギーが割り出されると、石油に換算して地球表面を覆い尽くすその途方もない天文学的な量に口をつぐまざるを得なかった。
 自然現象であればこれほどのエネルギー、開放系として爆発等の変化がないといけないのに、それがまったくない。すなわち閉鎖系、人為的に制御された消費である。
 疑いようがない。
 これは知性――すなわち宇宙船による挙動である。
 という結論に大方の学者が達し、それがマスコミを通じて大々的に報じられようかというところで、時間がなくなった。
 なにしろ光速の四割である。冥王星軌道から地球まで、ものの一〇時間だ。
 人類の多くは地球外知性からの失礼極まるファーストコンタクトを、覚悟のないまま受けることとなった。
 通過数分前、火星軌道の内側に入ったところで、二隻の宇宙船は進路を変更させるという決定的な知性の証拠を見せた。互いに進路を牽制し合い、どうやら人類と接触する優先権を掛けて戦っているようだった。目には見えないが、ときおり急に横にブレることがあり、砲撃みたいなものも交わし合ってるようだった。
 そして――地球の間際を通過するとき、二隻の宇宙船は数多くの隕石を地球に対してばらまいていったのである。
 多くはやはり先を争っていたためか互いに衝突し合って消滅したが、一〇個が地球に降り注いだ。うち八個は意志を持っているかのように急減速したが、いずれにせよ相対速度が大きく、すべての落下地点で少なからぬ爆発を引き起こした。
 隕石の推定される規模はせいぜい直径数メートルていどだったが、北極とサハラ砂漠に落ちた二個は光速の四〇パーセントという途方もない速度でぶつかり、甚大な破壊をまき散らした。人口の極度に少ない地域に落ちたのが幸いだったが、それでも衝撃波、大地震、大津波、岩石蒸気の嵐、舞い上がった破片が再落下した二次隕石などにより、数十万人単位の命が失われてしまった。
 地球表面の七割は海だというのに、残る八個はいずれも狙い澄ましたかのように陸地に落ちた。アメリカ、アルゼンチン、フランス、ロシア、エジプト、インド、中国――そしてここ、日本。
 いずれの落下地点でもそれなりの爆発が起き、すべての地点に偶然と呼ぶには高い確率でたまたま人がいて人的被害が生じた。ただし日本以外ではその数はごく少数に留まったが……いや……推定される死者の数においては、日本はむしろ他の落下地点より少なかった。落下の有様や人口密度からはとうてい信じられないほど。
 無礼千万な宇宙船は二隻ともそのまま飛び去ってゆくかのように思われたが、ひとつは故障でもしたのか進路変更をしなくなり、急接近したもう一隻に尻を突かれて微修正を受け、そのまま燃えさかる太陽へと突っ込んでいった。
 光速の半分近くという恐るべき速度で宇宙船が突入したというのに、太陽はその表面を一瞬軽く乱しただけで、平気な顔をして受け止めた。
 そして――一隻はもはや人類になんの関心もなくなったのか、地球への落とし物を無責任に放ったまま、太陽系の外縁へと姿を消していった……
 結局、彗星の尾が見られることはなかった。
 これからなにが起こるのだろうか。
     *        *
 誰かさんはトイレから出ると、すたすたと早歩きで寝ていた部屋に向かった。
 私の気落ちはほとんど一瞬のことで、ふてぶてしい征服者に対して、頭の中で戦いを挑んでいた。
『やめてよそんな歩幅で。パンツ見えちゃうじゃない』
『いやだね。どうせ見られてもいいやつなんだろ、勝負なんとかって』
『下品! エッチ!』
 私の自由を奪ってるのは、きっと男だ。
『男じゃねえよ』
『え、考えがわかるの!』
『君の秘密はすべてお見通しだぜ。というのは嘘で、言うのも思うのもこの状態ではおなじだろ』
『ひどい! 最低!』
 本当に最悪だ。見も知らぬ誰かに、私のあらゆる考えが擦りガラスすらなしに丸見えだというのだ。それでいて向こうの考えはまるでわからない。
『私だけ筒抜けなんてずるーい』
『この体の主、ご主人さまは私だからな。当然だぜ』
『なによ……あんた、正体はなに? 幽霊、それとも超能力者とか妖怪?』
『そんなオカルト的なものではないね』
『じゃ、名前なんていうの』
『シアムミーアだ。公式のフルネームはウグレラルナ・ナ・エニフゥ=レエメ=ミーイ。直訳で桜ヶ丘司ノ宮珠子』
『ふざけないで。そんなの書いてない』
『いや、書いてないけど、思っている。北条吉野はこんなややこしい名前にしようって思っていたぜ』
『レエメってなに? そんな挿入ないよ。単語としてもメモにないし』
『君は知らなくても、代行者……じゃなく、武田月彦が知ってた。ずばり帝を意味し、皇族全般を指す』
『知ってた? 武田くんが作ってたの間違いじゃないの――じゃなくて! ……だいたい武田くんや私の名前も知っていたり、どういうことよもう? いいえ、そもそも質問を誤魔化さないで。あなたの名前というか正体ってなに』
『ふふふ。種明かしはすこしずつが面白いだろ? おっと、今から人の相手をしないといけない。君もできるだけ静かにしたまえ』
 いつのまにか病室に戻っていた。
 看護士の尼子さんが呼んだのか、五〇歳半ばほどのお医者さんが椅子に座って待っていた。そしておそらく通訳として準備している、何名かの外国人。
 お医者さんも外人さんもみんな男性で、うち一人は知っていた。台湾からの長期留学生で、たしか温さんだ。武田くんが中学のとき通っていた大学に、何回か無理をいってついていったとき出会った。というか競馬場に行くことを提案して連れてってくれた当人だ。それにしても包帯や絆創膏をしている人ばかりだ。なぜだろう。
 彼らの頬は、心なしか軽く紅潮している。無理もない、化粧をしていないのに、モデルやアイドルとして即戦力になれそうな外見と肌だもん。
「あなたここ座るほういいです」
 温さんが椅子を勧めてくれた。それに私から体の自由を奪った自称シアムミーアは素直に従い座ったが、温さんにお礼のひとつもしなかった。頬の筋肉になんの力も籠もってないから、きっと人形のように無表情なんだろう。自称ミーアの性格からすれば、ありえない。演技に間違いない。
 失礼な人、印象悪いよ。
 と思ってみたものの、そういった感想を抱いた様子は誰にも見受けられない。まさかかえって神秘的に見えているのだろうか。
『ご名答』
 なんか腹立ってきた。
 お医者さんはシアムミーアが何語を話すのか確かめようと、日本語でない言葉で話しかけてきた。英語ではなく、感じからしておそらくドイツ語で。英語はすでに尼子さんが確かめている。
 自称シアムミーアはただ、首を横に振った。
 つづけて先生は幾つかの言語を試し、当たり前だけどいずれもおなじ結果。外国人たちが代わってそれぞれの母国語と思われる流暢なしゃべりや、知っている言語を披露してくれたけど、やはりだめ。
 すると先生は絵を見せた。男性が顔を横に向けて口を開けている即興の絵で、そこから音が出ているという漫画的な記号を加えている。おそらく自分の母国語でしゃべって見てくれ、ということだろう。
 最初からこちらを見せてくれたらよかったのに。
『彼らは混乱してしかるべき合理的な手順を踏めなくなってるんだよ。ぶっちゃけ人間にあり得ない色だからね、この真紅の目は。それに一部を除き、服を外す――つまり着替えさせることが出来ないんだぜ、ふふふ』
 え?
『どうして黒服のまま寝かせられていたと思うんだ? 疑問に思わないのか――まあそれが人間という種の限界というものか。訓練をするか慣れない限り、一度にひとつのことにしか集中できない』
 自称ミーアはひどいことを言う。
 なにか抗議でもしようと思ったときだった。
 シアムミーアが、医者の要請に応じてぼそっとつぶやいたのだ。
「……マーニセトレフロクゥセ(もっこり三太夫)」
 先生たちは聞き慣れぬ発音におおっとどよめいていたが、私はそれどころではなかった。例の謎の文法で語彙の変格が激しく、完全な意味はわからなかったけど、とても下品なことを言ったことは直感で感じられた。
『な、な、なんてこと言うのよ!』
『任せてろって』
『いや』
『いいじゃん。どうせ理解できないし。地球上でこの言葉がわかるの、シアムミーアと北条吉野、武田月彦だけなんだぜ?』
『だめ! 絶対だめ! こんなに可愛いのに、品性が低くて、性格が悪いなんてだめ!』
『容姿にふさわしい言動をしろってか? わかってるさ。それが社会的生物である人間の処世術だよな? 私もそれに倣うよ』
 ……なにその言い方? 奇妙な人。さっきもそうだったけど、まるで人でない視点からの意見じゃない?
『人間ではないよ。シアムミーアだから』
『シアムミーアは人間! 未来の人!』
『兎よりも赤い虹彩の人間なんて、遺伝子疾患を除いていないさ』
『遺伝子を変えた!』
『老いる速度や限界寿命が現代とおなじなのに、その発想はおかしいぜ。遺伝子操作の設定はまったくない。情熱や燃える炎、といった象徴として赤を採用しただけだろ』
『うううう……キライ』
『ふふふふふ』
 口では勝てない。
 私が押し黙ると、医者が自分の胸元に手を当て、サトミ、サトミと繰り返し言っているところだった。
 名前だよ、ということか。
 胸元には、里見というネームプレートがある。
 自称ミーアはそのネームプレートを指さした。
「セ・サトミ」
「うん、そうだよ私は里見、里見。名前は里見」
 そしてこちらに手のひらを返し、発言を促した。自分の名前を言ってください。
 なんて言う気だろう。
 自称ミーアは数秒ほど考えるそぶりを見せていた。
「イエニモ・フォ・シアムミーア。シアムミーア(私の名前はシアムミーア。シアムミーア)」
「シアムミーアさん?」
「エトゥ、シアムミーア。シアムミーアトゥエノエ(はい、シアムミーア。シアムミーアです)」
 安心した。
 よかった、変なこと言わないで。
『当然だ。遊ぶべきところと真面目にする部分くらい理解している』
 遊ぶべき、というのがよくわからない理屈だけど。
「里見先生」
 看護士が入ってきた。尼子さんだ。彼女は食事用の移動卓を押しており、小学生が使うような無地の自由帳と黒のサインペン、折り畳まれた世界地図が乗っていた。
「言われた通りご用意しました」
「ありがとう。尼子くんもここにいなさい」
「はい」
 里見先生は私というかシアムミーアとの間に移動卓を置き、その上で自由帳の一面を使って大きく尼子と書き、こちらに立てかけて見せた。
「尼子。尼子」
 自称ミーアは頷く。
「アマコ。シャアセ・アマコ(尼子さん)」
 紙をめくると、続けて先生は里見と書いた。
「わかるかい?」
「サトミ。セ・サトミ(里見さん)」
「ほう。やはり尼子くんの言った通り、漢字が読めるのか」
 私は思いだした。トイレに入る寸前、尼子さんに彼女の名を呼んでいた気がする。しかも指まで指して。
『うん、それは私も再起動してから記憶を辿って知っていたよ。指さしさえなければ、尼子女史もどこかで名前を聞いたのかな、と思い違いをしてくれるだけで済んだかも知れないのに。おかげでどうやって誤魔化そうか、すこし困っているぜ』
『え?』
『人格サンプルがまだ一〇〇〇件ほどしかないからなあ。情報不足だから、こちらから作戦立てて主導権を握るような、高度なことはまだできない。誘導は難しいから、相手の出方に対応するしかないな』
 よくわからないことを言っているけど、ようやく自称ミーアの視点が呑み込めた。これは高みから見下している。
『あなた……地球上の生き物じゃない?』
 私はまさかと思いつつも勇気を出して尋ねたんだけど、答えはあっさりしていた。
『その通り。私はきみたちが言うところの、そう、宇宙人だね』
 私に動揺はなかった。すでにじゅうぶん驚いているし、予想の範囲内だった。
『でもオカルトなものじゃないって……』
『宇宙人は厳密にはオカルトじゃないぜ。なぜならば人類という生物種と、地球だけが特別な惑星ではないという観測事実が、別起源での知性の発生を確率論的に保障しているからさ。確率がどれほど低くても、宇宙に存在する惑星の数は無限に近い。生命も遍在しているし、地球人だけというのはナンセンスさ。宇宙人は来てない、というのが正解なのさ』
 早口で言われて、ちょっと混乱した。どうやら私たち地球人がいるから、他にもいる、と言いたいようだ。
『進化を見ればわかる。離れた大陸でも、系統が異なるのに環境が似れば姿までそっくりな生き物が登場する――……』
 正体がわかったとたん、自称ミーアはいきなり先生になった。出してくる例はいずれも地球に関するもので、ミーアがすでに膨大な知識を蓄えていることがわかった。
 結局、話が途中から難しくなりすぎて私の理解能力を超えてしまったけど。
 私に教授しながら、同時に外界のミーアも里見先生たちの相手をしていた。答えられる漢字をうまく取捨して、シアムミーアという女の子の経歴を成り行きに任せてでっちあげるらしい。世界地図ではオーストラリアの北、ニューギニア島の西部を示していた。どうやら使用する人のほとんどいない言葉を持つ、少数民族を装おうとしているらしい。
 いつのまにかシアムミーアという女の子が形作られた。
 長期の観光で日本に遊びに来ているインドネシア人の双子で、南米エルサルバドル共和国人とのクォーター。日本語が得意な姉についてきたが、各地でいろんな人と接しているうち名前の漢字に興味を持ち、記憶マシーンと化して数百種の苗字を覚えてしまった。漢字は読めるけど書けない。記号として覚えているのであって、理解はしていない。
 スペイン語と英語をすこし理解するが、ヒアリングつまり会話は苦手。英語は書くことができる。会話は少数民族の言葉が主体で、あとはインドネシア公用語が不自由しないていど。
『エルサルバドル? 少数民族? インドネシア? マイナー攻めだね。というか双子ってハチャメチャ』
『相手に余地を与えないためだ。多少のフェイクも知識がないから見破られない。双子というのも手を考えている』
 多少どころじゃないと思うけど。
 USO一〇〇パーセントだ。
 英語がわかるということで、途中から筆談となった。その英語力はほとんど私の水準で、あまり流暢ではなく、たどたどしくて時間ばかりかかる。また私の知識を利用してるんだろう。
 私は宇宙人がじつに堂々と嘘を突き通せることに呆れつつも、なかなか失敗を見せないことに感心していた。
『すごい……すでに人間というものをかなり理解してるじゃない』
『なにしろ宇宙人ですからなあ』
『言ってろ』
 私まで口が汚くなって来るよう。
 シアムミーアと姉が泊まっているのは市内のホテルで、名前までは覚えていない。市街地図を見せられたが、細かいところはわからない、近くに行けばわかる、と返答した。
 最後に里見先生は、インドネシア語を話す通訳を見つけて明日以降紹介すると英語で書いてきた。宇宙人は方言の少ない人を希望すると答えた。それと、あの爆発で姉はどうなったのか、と質問を返した。
『爆発?』
『説明は後でする』
 先生は困惑した顔をして頭を横に振り、それでシアムミーアの目尻の筋肉に力がすこし入ったのを感じた。これは――おそらく、悲しげな顔をしているんだろう。ずっと無表情なところにこれを見せられると、おそらく皆の心に深く残ってしまうだろう。
 それは――憐憫と同情だ。
 体のどこかに「爆発」の悪い影響が残ってるかも知れないから、安静にして寝ていなさいと指示されると、宇宙人は素直に従った。ベッドに入ると、尼子さんが布団をかけてくれた。それに宇宙人はやたらと流暢な英語でありがとうと答えた。
 午後から検査があると伝え、先生たちが去って部屋に誰もいなくなったとたん、シアムミーアの顔が緩むのを私は感じた。いきなり本性に立ち返ったらしい。おそらく得意そうに笑ってる。
『ふふふ、あいつらだませたぜ。私は姉が行方不明となっている、可哀想な異国少女となったわけだ。これで少しは脱がせられない服とか、赤い目への関心は薄らいだはずだぜ』
『ねえ、爆発ってどういうこと?』
『いまからそれだ』
 宇宙人はさっとベッドから下りると、靴を探して履き、二本のリボンを取ると、鏡もないのに長い髪の毛をツインテールへと結んでいった。じつに器用だ。
 そして誰もいなくなったベッドを見て、ぱちんと指を軽く鳴らした――とたん、それは起こった。
 いままでシアムミーアが寝ていたベッドの上に、ほとんど一瞬にしてもう一人のシアムミーアが出現したんだ。
『うわっ』
 そのシアムミーアもどきは、こちらを見ていきなり帝国式の敬礼をした。
『動いてる。動いてるよ!』
『いまさら多少のことで驚くなよ。宇宙人のすることだぜ』
 ……なるほど、これが双子のお姉さんか。
 宇宙人はもどきに話しかけた。
「午後から検査がある。それまでに不自然をすべて修正するから、がんばって誤魔化してくれ」
 に、日本語?
「わかりました殿下」
 もどきもちゃんと日本語で返答した。
 はじめて生で聞く自分の声は携帯に録音したものよりもはるかに鮮明に聞き取れ、いつもより魅力的に聞こえた。シアムミーアの姿をしているからかも知れない。
『ねえ宇宙人、これってなに? 魔法?』
『科学だぜ。か・が・く』
『まるで魔法みたい』
『北条吉野、いろいろ読んでアーサー・C・クラークの第三法則なんてマイナーメジャーなもんも知ってるだろ』
『うん。たしか……進んだ科学は、魔法と区別がつかないって』
『共有する知識を孫引きしているにすぎない私に指摘されてどうする』
『知ってるのと体験は別だよぉ』
『とにかくさっさと現場に行くぜ』
『それって、外に出るってことでしょ? 大丈夫なの?』
『安心しなって。魔法な科学でいくらでも抜けられるさ』
 宇宙人は小声で呪文みたいに唱えた。
「オーレフトゥェアー、シエセマ(いでよ、美震号)」
 するともどきと同じように前触れもなく、室内の天井近くに黒いそれが出現した。
 ふわふわ浮いている。
 頭が丸くて、すらりとスカート。手足はない。顔面もない。これは天気を願うときに窓先に吊すものと相場が決まっている。
 て、てるてる坊主?
 色はなぜか真っ黒だが。
 いや……これも私の小説の……どこかで書いたことがあるような。
『元はラフな鉛筆書きだからなあ。じつにシンプルでシュールな外見だぜシエセマは』
 あ!
 智真理が書いてくれた、シアムミーアのプライベート艦だ。てるてる坊主に見えたのは、上を向いていたからだった。
 トフォシ=ソエセ帝国の艦船は、武田くんが煮詰めてくれた設定では中央部が膨らんでいて、そこに攻撃ユニットや艦橋、居住区画、センサー類が集中している。前部は角装甲と防御ユニットで、後部は機関部と推進装置になっている。シエセマは前線用ではないから、前部に据える角装甲がない。だから立ち上がるとてるてる坊主に見えた。
 膨らんだ丸い部分が頭で、当然ながら別に顔は描かれてはおらず、のっぺらぼうだ。
 下は推進装置がスカート状に広がっている。このスカートは装甲鈑で、真後ろ――すなわち下側は装甲もなく解放されている。そこから伺える推進装置本体はまるでジェットエンジンのように、ラグビーボールを半分に切ってくっつけたような構造をしているが、噴出口があるわけではない。重力制御推進なのだ。それは私の設定通り淡く輝いている。これを再現しているということは、輝きは必要かどうかを別にして、重力は自在に操られるということになる。科学者やSFの濃いファンなら垂涎ものの状況だろうが、私にはどうでも良い。
 それにしても……小さすぎる。
『シエセマって、全長二〇〇メートルはあったと思うけど』
 目の前にまで降りてきたてるてる坊主は、黒いということと、浮遊していることを除けば、てるてる坊主の模範ともいえる手頃な大きさをしている。正直言って、軍艦のくせにかわいい。
『まるでラジコンだよ』
 私はシエセマをつっつきたい衝動に駆られたけど、体の自由がないから叶わない。
 私の思考を察したのか、宇宙人がかわりにシエセマをつんと指で軽く弾いた。
 すると黒いてるてる坊主は機械のはずがぬいぐるみのように体をねじり、こそばそうに「きゅん」と鳴いた。
 へ?
 意識がある。
『こんな設定……ないけど』
『便宜上だぜ、便宜上』
 どうせ言語のほうとおなじだ。
「さあシエセマ、私たちを乗せていっておくれ」
「きゅーん」
 シエセマは喜んだように鳴くと、急にその体を大きくして……じゃなく、私、いや、シアムミーアが小さくなってる?
 視界が急速に広がってゆく。体の縮小化に伴い、相対的に部屋は大きくなっているんだ。まるで幼いころ体験していた、広い部屋――というところまで縮んだあたりで、体に浮遊感を覚えた。
 半透明の青白い泡に包まれている。
 体がふわりと浮かび上がり、シエセマに吸い寄せられている。その間にも体はどんどん小さくなっていき、最後にはシエセマが設定通りの大きさになってしまった。近づいてゆく視界の大半が一面の黒い壁。その一部に穴が開き、シアムミーアはついにシエセマに吸い込まれた。
 銀色のチューブの中を浮いたまま進んで、やがて半球形の、教室ほどの広間に出た。これは夢にも出たことがある、標準的な戦艦の艦橋だ。ふつうは壁面が白色なんだけど、黒衣姫仕様ということで半分は黒くなっている。照明らしきものはないが、謎の科学で部屋全体が明るくなっている。そういう設定だ。
 その艦橋の後部にふわりと降り立つと、シアムミーアは指揮座に座った。
 うわまるで空気か羽根みたい。
 本当に良い座り心地だ。さすがは高級軍人用、書くと体感するとでは大違いだ。
 宇宙人はまた指を鳴らそうとした。
『そういえば私、指鳴らせないんだよね。どうやって覚えたの?』
『武田月彦だ』
 ……武田くんは指を鳴らしたことなんてないけど?
 私の疑問を無視して、宇宙人は指をぱちんと鳴らした。じつに良い音が響く。
 すると前方の壁面、三面スクリーンに外の様子――つまり病室が映し出された。これは人間の視界とほぼおなじ範囲で外の様子を確認できる。さらに多くの浮遊スクリーンが空中に出現して、シアムミーアの周囲に寄ってきた。そこには正面以外の様子が映し出され、「上」とか「下」などと日本語で書かれてあった。
 そりゃそうだ、文字までは考えてなかったし、武田くんも突っ込まなかった。なにせ小説だ。
『文字は適当に作ろうと思えば出来るかも知れないが……触媒がない。必ずボロが出て見破られる』
『へ? 誰に?』
『いや、なんでもない』
 宇宙人は空中操作用のスクリーンを展開させると、片手で器用に打ってゆく。
「ナートェアーイトゥ(思考接続)」
 操作用のスクリーンが消え、同時に訪れたのは頭に見えない波動あるいはパワーみたいなものが押し寄せてくる、不思議な感覚。
 シエセマが進み出した。おそらく宇宙人が前進などと思ったんだろう。今、シアムミーアはシエセマと一体になっている。各々の艦を直接動かす思考接続はふつう操艦士という役職の専任士官が行うんだけど、プライベート艦の場合は船長や船主が自ら行うことが多い、と私はしてある。そもそもシアムミーア以外、誰もいないし。
 視界の外で、シアムミーアもどきがそっと窓を開けてくれている。窓ガラスにうすく映っているシエセマは、相変わらずてるてる坊主な体勢のままだ。つまり艦橋も横を向いていることになる。正直笑ってしまうけど、なにか理由があるのだろう。
 そのときだ、窓が開ききる前に、ひび割れたガラスが耐えきれなくなって割れてしまった。窓ガラスは内側に落ちてもどきはとっさに逃げた。派手な音がして人が集まる足音が届く。
『やばい!』
 てるてる坊主は、逃げるように窓の外に躍り出た。
     *        *
 誰も撮影に成功しなかったと思われた、待ち望まれていた一枚の写真が米国にて大手の画像掲示板に匿名で貼られた。
 例の宇宙船の、横からの写真だった。
 わずかゼロコンマ秒単位で地球の側をかすめた宇宙船。そのような超々高速の物体を、カメラにまともな画像として収めるのは不可能だと思われていた。
 いくら全長が二〇キロほどもあったとはいえ、宇宙では「たったの」となる。軌道が変化しているうえに、速度は尋常ではない。おまけに宇宙船が過ぎ去ったあと、超高速の影響で磁場や大気が数時間に渡り乱れ、世界各地でコンピュータや観測機器にかなりのダメージを与えていた。
 ――それゆえ、その写真が持つ意味は大きかった。ほとんどのカメラが奇跡的に捉えていても閃光やブレた状態でしかなかったのに、鮮明な姿を見せていたのだ!
 多くの人がそれを見た瞬間、これは嘘だ、合成だと決めつけた。しかし専門家が何名か名乗りを上げていろいろと調べてみた結果、これが高い確率でちゃんとした画像らしい、ということが複数の筋から報告されると、ネットを通じて世界中に津波のごとく拡散し、テレビでも大々的に報道された。
 世間の人々は好奇の目でもって宇宙人を受け入れた。
 なにしろその姿たるや、冗談ではないのか、と思わせるような、じつにふざけた外見だったからだ。
 地球に多大な迷惑をかけた今やにっくき全人類の敵、諸悪の宇宙船はずばり……
 ずばり。
 ――イカ、だった。
     *        *
 おい――賛否両論だぞ。
 ちっとも敵意が消えた様子はないな。
 親近感が湧くという主張はその目的が達せられたようじゃが。
 こじつけだ。元々はあやつのイタズラだった。
 あやつは我らに先んじ、さっそく目立つ活動を開始しているようだな。
 人間を何百個体も生き返して消耗したようだが、我々の目的に必ずしも合致しないのではないか。
 無駄ですね。
 親近感を得るというあやつのプラン、見直したほうが良さそうだ。
 どうせ人は足手まといにしかならねえよ。
 無知で低能な連中に口出しをされ、時間を取られるのはいやじゃ。
 賛成、味方は代行者だけで良い。
 多数決を取ろう。隊の生存者全員がおらぬから中止はできないが、停止は可能だ。
 決をお願いします。
 わかった、決を採る。
 ――七名全員一致。人類への直接・間接のアピールはそのプランを一時停止する。
     *        *
 てるてる坊主――でなく、シエセマは蝶のようにふわふわと、しかし車よりはるかに速く飛んでいった。
 速いので周囲をよく見る余裕はなかったけど、ちらっと見ただけでも街全体に台風の巨大なものが来ていたかのような、ひどい爪痕があちこちに見て取れていた。おそらくあの光が関係しているんだろう――なにが起こったのだろう。
 その街の傷が次第に割合を減らし、窓ガラスの割れもほとんどなくなったところで、ある場所についた。
 そこは……ありふれたマンションの、三階のベランダ。覗くのは、一目でわかる女の子の部屋だ。
『わたしの部屋じゃない』
「やってもらいたいことがあってね」
 というと宇宙人は指を鳴らした。シアムミーアはまた青い泡に包まれ、さっきとは逆の過程をたどりシエセマの外へと出た。
『どうやって部屋に入るの? まさか壊すとか』
 私の部屋のガラスにも一本、ヒビが入っている。
『そんな野暮なことはしないよ』
 元の大きさに戻ったシアムミーアは、ベランダのガラス扉をしっかりと持つと、がたがたと震わせてロックを倒し、開けてみせた。
『うわー』
『小さいころ幼馴染みの毛利由美にいたずらされて閉め出されてたってな。揺らしてるうち金具が擦れて緩み、以後これで開くようになったと』
『それよく分かったね。私はたった今まで忘れてたのに――というか、聞いたように言わないでよどうせ記憶を探ったんでしょ?』
 まるで当てつけるようだが、私は軽い嫉妬を覚えていた。この宇宙人、私の知識から必要な情報を格段に素速く引き出すことができる。そう、本来の持ち主である私よりも。おそらく武田くん並の賢さを持っているんだろう。
『武田月彦どころじゃないぜ。なにしろ宇宙人ですからなあ』
『わざわざ偉ぶるなってんの。それに私の武田くんをフルネームで呼び捨てにしないで』
 口……我ながら悪くなってるなあ。
『じゃあなんだったらいいんだ?』
『武田くん♪』
『はいはい、武田くんねー。愛しの愛しの、武田くんー、吉野はあなたが大好きでーす』
『わー! わー!』
 混乱する私にそれ以上は構わず、宇宙人はちゃんと靴を脱いでベランダで揃え、私の部屋に入った。あとからシエセマがふわふわとついてくる。可愛いからシエ坊だ。
 室内は地震が起きたかのように、棚の上のものが落ちていたり、本棚から本が落ちて散乱していたり、ひどい状態だった。机の上とその周辺だけ綺麗だったけど、すこし物の配置が違うみたいだから、おそらくお母さんが直してくれたんだろう。
『台風や地震が同時に来たような有様だけど、なにが起こったの?』
『後で説明するぜ。今は時間がない』
『…………』
『さて、君にやってもらいたいのはなんでもない。小説の設定の補完だ』
『補完?』
『ああ。まずはシアムミーアが地球人として存在してゆく上で、違和感がないようにするためにね』
『……え。シアムミーアを?』
 私はにわかに不安を感じ始めていた。
 それは――私は、北条吉野はどうなるんだろう。
 小説が現実化しているという不思議な体験に夢中になっていて、自分の体が大変なことになっているという、大事なことを忘れていた。
 もしかしてこのまま私はいなくなったことになってしまうのでは――そんな恐怖がにわかに沸き上がってきた。
『ちゃんといるさ、北条吉野は』
 え? それって……
 宇宙人は私の机へと早足で歩き、引き出しのひとつを迷わず開けると、予備のメガネが入っているケースを開け、メガネをさっとかけた――瞬間だった。
 全身に電気が走り、シアムミーアはショックで片膝をつき、机にもたれかけた。
 視界が一瞬暗転したがすぐに戻り――
「な、なにっ!」
 シアムミーアは私のセリフを口から発した。
 いやちがう。
 私は自分の自由意志を回復したんだ。
 それだけじゃない。私の視界はいま膝元を見てるけど、それが黒と灰色のニーソックスではなく、素足になっていた。スカートも超ミニではなく、膝上ながら自分でごく清楚な印象を与えるだろうと思うていどの長さの、お気に入りのもの。
 私……元に戻った?
 立ち上がると、化粧用のコンパクトを取り、開いて自分の顔を見てみる。
 そこには、ストレート時のシアムミーアより髪がやや短くて、メガネをかけていて、ごく普通の容姿をした、私――つまり北条吉野がいた。目も髪も当然黒く、どこにでもいるありふれた日本人。
「――や、やった」
『感動してるみたいだね、ふふふ。それでは早速だが、シアムミーアのスリーサイズを具体的に決定してくれ。服の下の肌着とかもね。そうしたら午後の検査で服が脱がせられない、ということはなくなる。瞳の色も自分の意志で一時的にも多少淡くできたりすればありがたい』
 面倒だなあ。それくらい言葉や宇宙船の規格を変えたようになんとかできないの?
 ためいきをつくと、私は椅子に座り、机に向かって創作ノートを……って、ないじゃないですかい? ノート。設定ノートはあるので宇宙人の要求には応じられるけど、肝心のウグレラルナ星伝を綴っているノートが見当たらなかった。
 あれが一番大切なのに。
 どこ、どこにあるの?
 私は引き出しを順番に開けたり、鞄の中をぐちゃぐちゃと探したりした。
『どうした? なにを焦っている? なんか答えないか?』
 ……え?
 ――もしかして宇宙人、私が思うことが分からなくなってる?
『おーい。吉野さーん』
 そうか、立場が逆転したんだ。おそらく私がしゃべるか、しゃべりを意識して思わない限り、思考が宇宙人に伝わることはないんだ。これはいい――
 そういえば創作ノート、超高速彗星を見るとき、持っていったんだった。
 おそらくあそこで無くしたんだろう。
 だいたいあの光が起こって気を失って、そして私はいきなりシアムミーアになってて病院で寝ていて……
 爆発とか言っていた。
 なにかがあった。
 そう、なにかが。
 なぜ今までそれを知ろうと思い当たらなかったんだろう。それだけシアムミーアが衝撃的だったんだろうか――
 あのときなにがあったんだろう。
 病院に運び込まれる事件か事故かが起きたなら、新聞なりテレビなりで取り上げられている可能性が高いよね。
 智真理や由美ならおそらく知ってるだろう。携帯携帯――携帯電話がない。あれも現場に持っていっていた。服以外、桜ヶ丘に持っていっていたものは無くなっているようだ。
 武田くん……彼ももしかして病院で寝ている?
 怪我をしているかも知れない。
 いてもたっても居られなかった。
 私は椅子から立ち上がると、部屋から出ようとした。
『待て! 北条吉野! どこかへ行く気だ』
 ドアノブに手をかける。
『やめろ! いま君は、行方不明になってるんだぞ』
 手が止まった。
「……え?」
『ようやく答えてくれたか。いまこの部屋には、ある種の遮音力場を施してある。だから部屋から一歩出たが最後、君の存在は家族、おそらく母親にばれるだろうぜ』
 お母さんは専業主婦なので、時間的に居間辺りでテレビを見ている可能性がある。いや、断言しているということは、なんらかの方法ですでに知っているんだろう。
 ――行方不明というのは穏やかな話ではない。お母さんはおそらくテレビに釘付けになって、情報を渇望しているはずだ。
「私の生存を一秒も早く知らせたほうが、私にとっても家族にとっても良いじゃない」
『すまない、それはやめてくれ』
 なぜか嫌がってるみたいだ。宇宙人に一泡吹かせてやれそう。
「別にあなたが損をしても、私にはなんの不都合もないよね」
 ノブを回した。
『た、頼むからやめてくれ。君はメガネを外すと最後、シアムミーアに逆戻りするんだぞ。爆発のこともあるし、いまこの体に他のことで時間を割かれるわけにはいかない。念入りに準備をしないとだめだ』
 また「爆発」だ。これはささやかな仕返しで主導権を台無しにするより、機会とばかりに事情を聞いても良いかもしれない。私は宇宙人がそうしたように、しゃべるイメージで強く思った。
『……それって、宇宙人側の都合よね。私の都合はどうなるの?』
 宇宙人は一〇秒ほど黙っていた。
『わかった。あのときなにが起きたか、教える。教えるから、私の記憶情報を探れ』
 通じたようだった。
『どうやってあんたの記憶を探るの?』
『私の、シアムミーアの頭を覗くイメージを思い浮かべるんだ。脳をふたつ並べたら簡単にできる』
『わかった』
 原理はよく分からなかったけど、それがコツらしい。しゃべるイメージと同様に、頭の中に脳味噌をふたつ浮かべた。
 しかしなにも起こらない。
 私は焦らず、目を閉じて集中することにした。
 ビジュアルが大切だろう、おそらく。試しに片方に私の顔を、もう片方にシアムミーアの顔を貼り付けた。脳の間に電線みたいなものも渡してみる。
 ……本当はシアムミーアは宇宙人じゃなくて、あくまで私の理想の反映なんだけどなあ。
 すこし複雑な気分だったが、宇宙人の真の姿を知らない以上、宇宙人が私から借りているシアムミーアの姿を利用するしかない。
 ――電気よ、流れよ。
 電線がビビビと音を立て、光った。
 シアムミーアの脳がしびれ、宇宙人は苦しげにもだえている。
 あははは、バーカバーカ。
 ……空しい。
 ――だめだ、こういうイメージじゃないって。
 もう一度。
 私もシアムミーアも目を閉じ、脳味噌を淡く輝かせ――
 ――――マモル。ジンルイヲジュッカイマモル。
 という、言葉でないけど、言葉になる意識が私に啓示のように飛び込んできたと思った、つぎの瞬間。
 情報の波濤が襲いかかってきた。
     *        *
 太陽系は太陽という恒星と、太陽の重力に牽かれその周りを公転する小さな天体群で構成されている。それは水金地火木土天海冥の九惑星と、数え切れない小惑星だ。
 小惑星は大きく分けて二箇所に集中している。火星軌道と木星軌道の間で、小惑星帯と呼ばれる領域にいるものと、冥王星よりも離れた太陽系外縁部にあるものとである。
 太陽系外縁部には直径一〇〇〇キロを超える巨大な小惑星が多数存在している。いずれも惑星の主要な衛星が務まる大きさで、形状はほぼ球形、表面には多数のクレーターが見られ、ほとんど月とおなじだ。
 こうなってくると小惑星に抱く「いびつなジャガイモ」といった一般イメージから離れてくるが、小惑星には違いない。
 その巨大小惑星のうちのひとつが急に軌道を変え、太陽系内縁向けて進み始めた。
 自然の力ではない。
 衛星の表面には直径一キロはあろうかという銀色のドームがところどころに建てられており、いずれも淡い輝きを放っている。何者かの意志と操作が介在している。こんなことが人類に出来るはずもなく、よって危険であった。
 地球に住む者は、誰もまだ気付かない。
 なぜならば人類はその小惑星の存在を知らなかったからだ。太陽系外縁部の小惑星は近年になってようやく技術的に探査可能となったまだ新しい観測対象で、つまりまだ発見されていない天体だったのである――それは小惑星を動かした犯人が地球に潜入させていた先遣人格たちによって調べられていたことであった。それは同時に、人類に荷担するあちらの陣営にも高い確率で把握されていない、ということだ。
 敵である「対抗者」の発見が遅れるほど、それだけこちらの成功率は高くなる。
 犯人は二本の角を揺らし、小惑星の上に停泊している建造中の宇宙船の中でほくそ笑んだ。
 神よ、我に良き運を――と、「手」を伸ばして祈った。つい先日までボールだったそれには、いまや手足が存在していた。
 あとは地球に残る先遣人格がうまく事を起こすかどうかだ。
     *        *
 数時間後、私はシアムミーアの姿に戻り、桜ヶ丘を見上げることが出来る、麓のニュータウンの一角に立っていた。
 爆心地に近いこの辺りだと家で無事なものはひとつとしてなく、窓ガラスの破片やブロック、倒木や多くの石ころなど、いろんな破壊の爪痕がまだ路上に散乱していて、中には電信柱が折れたりして、車で移動するのは不可能なありさまだった。
 電線はあちこちで切れていて、安全面の都合から電気は一切通ってない。隕石落下の地震により水道管、ガス管はかなり破裂していて、ライフラインは全滅状態だった。しかし二次災害が起こる可能性は低く、避難命令は出されていない。
 人々はほとんどが怪我人だけど、家々の間をきびんに動いて、災害からの復旧にいそしんでいた。
 その彼らを見下ろす元凶の桜ヶ丘には、不思議な光景が広がっていた。いや、いまや丘と呼んでよいのかよくわからない半端な、奇妙な形状になっている。真ん中に大きくくぼんだ構造ができ、周囲がすこし盛り上がって平らになっている、いわばクレーターというやつだが、それが丘だった部分の半分ほどを占めていた。飛び散った土石は周囲に被害をもたらしたのである――はずだが、そこには植物の不自然な息吹が渦巻いていた。
 クレーターの底から外縁部、そして衝撃できれいな円周形になぎ倒された倒木群の合間まで、新たな若木で埋め尽くされており、林のように丘全体をうっすらと覆っていた。木だけではない、下草もかなりの量が生えている。クレーターは完全な萌芽の緑色だ。
『宮崎アニメみたい……』
『やりすぎた。反省しているぜ』
 宇宙人――いや、彼女は名を持たない存在なので、もうシアムミーアの名を貸し、それで私は呼ぶことにしている。そのシアムミーアはさすがに殊勝になっている。
 なるほど、この状態を見たら、「生き返ったと思われる人々」がみんな検査を受けるわけだ。とくにシアムミーアのようにあからさまに怪しい外見をしていたら、宇宙人かと疑われても仕方がない。
 今のシアムミーアは、すでに目立つ黒服ではない。髪は灰色のままだけど目の赤みは落としてる。服は私のもので、シエ坊を通して腰に吊るし、頭部に白いマジックで下手くそな顔を描いて、最近この町で流行してる変なフィギュアのように見せている。
 シエ坊は嫌がったけど、大人しくしてるよう、飼い主? のシアムミーアが言い聞かせてある。
『桜ヶ丘、本当にあのアニメみたいだけど私は好きだよ、こういうの。桜も咲いてるし』
 そうなのだ。桜ヶ丘のあちこちにソメイヨシノの若木が生えていて、満開になって咲き誇っている。もはや丘というにはおこがましい有様だけど、桜坂とは呼べるかも知れない。私が今年見た桜ヶ丘の満開遠景に比べたら二段も三段も劣るけど、そのうえ時期外れだけど、美しいには違いない。
 私は桜が好きだ。
 とくに染井吉野は。
 だって、私は北条吉野。
 ソメイヨシノなんだ。
 見とれていると、シアムミーアが謝った。
『……すまないぜ、君のすきな丘をこんなにして』
『ううん。シアムミーア、けっこう苦労して地球まで来たんだし、昨日も仲間をたくさん失ってるんだよね』
 シアムミーアの長く果てしない旅路と、昨夜の戦闘を知ってしまった私は、無下に扱えなくなっていた。
『……本当はあまり奧まで知られたくなかったけどな』
『私も含め、みんなを生き返らせてくれて、ありがとう』
 一度死んだ。
 はずなんだけど、実感はまるでないから、この重大な事実に対して生理的な嫌悪や畏怖はなにも感じない。一瞬で消えたがために。だから感謝こそすれ、気味が悪いとかいったことはなかった。
『ああ……これは私という個体が決めた、最低限のルールだ』
 個体――それはシアムミーアらしい表現だった。いや、シアムミーアの属する知性のグループはそう表すのが正解だろう。生命だけど、有機生物ではないから。
 シアムミーアは昨夜、必死になってみんなを生き返らせてくれた。そのため疲れ果ててその場でダウンしてしまい、北条吉野が目覚めても誰ともうまくコミュニケーションが出来ないよう、星伝語の言語回路を仕込んでいたんだ。
 街の混乱が大きくそれの収拾に時間を取られ、さらには交通が寸断されて徒歩でしか近づけなかったため、派遣された自衛隊は明け方近くになってようやく現場に到着した。
 自衛隊の足取りは重かった。生存者を救えと気が急いでも、状況が状況、もはや生きてる者はほとんどおらず、多くは屍を焼け野原に晒しているはずであった。
 しかし。
 救助隊とは名ばかりの回収屋となるはずであった彼らが見たものは、スプラッタ映画の惨状や死臭ではなく、クレーターの側や中で怪我一つなく気を失って倒れている、たくさんの人々だった。
 ――いや。そういう予感は途中からあった、と自衛隊の隊長は語っていた。例の植物たちである。
 奇跡。
 とにかく理解できないため、ありふれたごく無難なこの一言で片づけるしかない。
 これが「生き返り」だと分かったのは、死ぬほどの大怪我をして意識があったまま治った人が複数いたからである。彼らは夜の闇の中で、自分の周りの大地からにょきにょきと木々が生えてくる不思議な体験もしていたし、なにもない空間にぽんっと音がして、死んだと思っていた知り合いが寝そべって出現した、という場面にも巡り会った。でも彼らはこの異様な状況の中で、なぜかその場から動く気力が湧かず、やがて眠くなり倒れてしまったという。
 このような「生き返り」現象が起こったのは、落下地点の中では日本だけだった。
 はたしてヘリが呼ばれ、ピストン輸送で周辺の病院に移された――という次第だった。
 だけどいろいろと情報を集めているうち、ぽつぽつと行方不明者が出た。現在一五名におよぶ。
 うち三名は、私と武田くんに、シアムミーアがでっちあげたインドネシア人の姉だから、実際の不明者は最低一二名となる。
 武田くんはちゃんと無事で、じゃなく武田くんと私も一度しっかり死んでしまっていて、復活した彼はいま、日本にいない。
『一二名か――少ないけど、多いよね』
『彼らは事前に情報が取れなかった。だから死なせたままになってしまった……』
 落下地点から離れた市街でも二八名の死者が出ていた。怪我人は絆創膏を貼るていども含めると一万名に達する。さすがにシアムミーアでも力及ばない。
『もし私が宇宙人だとばれて、吉野が器の提供者だとわかったら、君はただ巻き込まれただけなのに、この先多くの死に対して責任を持たされることになる。だからシアムミーアは犯人になってはならない……わかるね』
 ……エゴだ。それはわかってる。
 自己正当化。
 モフレクゥロが至った理屈に似ている。
 だけど私はその話に乗らざるを得ないと思っていた。私自身に課せられた運命と、そしてこれからの困難を思えば――
 シアムミーアがずっと私に言わずにいた本音、巻き込もうとしていた頼みはこうだ。
「正義の味方になって、地球を救おうよ」
 漫画かアニメの主題のようだけど本気。
 マジで本気で、正気で事実。
 うそでも騙しでもなく、大まじめ。
「人類を滅ぼそうとする悪を退ける」
 平たく正確に言えば、こうなってしまう。
 なにがこうなのかというと、シアムミーアの目的がだ。
 シアムミーアは私の小説の設定を利用してそれを具現化し、敵と戦うというわけだ。
 つまり私が考えたことが、そのまま現実になってしまう。
 夢のような話で、じっさいに夢物語で、都合が良いばかりでなく制約も多い。それに私は命を危険にさらすことになるし、誰にも褒められることも、見返りもない。
 この頼みづらいことを私が認めるようにするため、シアムミーアは武田くんを使った作戦を考えていたようだけど、ドアノブの件で主導権を握ったことでいまやその手を知った私にはもう意味はない。
 それに――仕掛けられずとも、私の意志は決まっていただろう。だって、武田くんが何者であっても関係ない。私が好きになったのは武田くんが武田くんだからで、それがなんであっても関係ないし、彼の体はあくまで生身の人間だ。
 もうひとつ。私はどうやらシアムミーアが本来武田くんと融合するはずだったものが、手違いで、つまり間違って一緒になってしまった、エラー品なわけだ。それは不運としか言いようがないし予定外だったがゆえにシアムミーアは苦労していたわけだけど、私の覚悟はすでに出来ていた。
 やってやろうじゃん、と。
 理由は簡単だ。私が武田くんを好きだからだ。武田くんが地球を守ろうとしているのに、それを知った私だけがのほほんと守られているなんて、耐えられない。私はいままで自分の力で彼に懸命についてきた。だから今回もついていくんだ。
『で、やつらはいつ仕掛けてくるの? ブルガゴスガって連中』
 敵陣営の名前、武田くんが考えてくれた星伝語の古語発音に似てる。シアムミーア、ウグレラルナ、エルデスバイン、グルーンナガレ、ギルガンデツ……ブルガゴスガ。そんなことはどうでもいい。
 対してシアムミーアの陣営に名前らしきものはない。単に「対抗者」といった漠然とした、固有名詞というには弱すぎる抽象的な表現が双方で公的に使われているだけのようだ。ブルガゴスガも「滅ぼす者」という意味だというそうだけど。
『ブルガゴスガはワンパターンだぜ。囮を使い、別に本番を用意してくる。高確率で二方向以上の搦め手を用いる。だから予測して封じれば勝てる』
『まるで自信がある感じだね』
『ジンクスさ。初回の侵攻は必ず仕留める。ここ六回ほどそれが成功している』
『知ってる』
 その六回の間に地球の時間にして七千万年経ってるのはどうでも良くないかも知れないけど私的にどうでも良いとして、いわゆる六連勝というやつだ。だけどそのていどの勝利パターン、野球ではよくある。分かっていながら幸運のパターンにすがるほど、やはりシアムミーアとしても不安なんだろう。
『パターンに意味を見出すのは知性の証拠さ』
『ジンクスが信仰なのは変わりないよ。私から見たら、シアムミーアこそほとんど超越した神みたいなものなのに』
『なにしろ宇宙人ですからなあ』
 私がまたなにか言おうとしたとき、後ろから話しかけられた。
「あの……もしかして吉野?」
 シアムミーアが反射的にふりむくと、見知った顔があった。
 背が高くて髪もポニーテールだけど、いつも眠たそうな顔をしていてその通り、あまり活動的ではない。私とおなじメガネな娘で、体育苦手な漫画家志望少女。
『げ、智真理』
 学校からの帰りのようで、制服を着た島津智真理はシアムミーアを見て、呆然と口を開けている。そういえば彼女は高校進学を機に親が家を買い、いま私がいるニュータウンに引っ越して住んでいるんだった。爆心地の比較的近くにいたというのに、怪我のひとつもない。壊れた街の中を歩いてる人のほとんどがなんらかの傷を受けてるというのに。
 鞄は持っていない。スケッチブックだけだ。学校も被害を受けたはずだから、授業どころでなく後片付けに追われた一日だっただろう。律儀に通っていたということは、家からしてたいしたダメージはなかったということだ。
 相変わらず運がいいみたい。
『なるほど、運が良い相をしてるな』
『わかるの?』
『うんにゃ』
『……洒落?』
『外したか』
『おもいっきし』
『……反省するぜ』
『どうでもいいから、智真理に反応して誤魔化してよ。私の記憶利用して』
『無理だ』
『え?』
『そんなの、君が一番分かってるだろ? 吉野』
『……あ』
 智真理は呆然としているように見えて、その視線は忙しく動き、驚いてすっかり黙っているシアムミーアを観察している。腰にぶら下げたものにも気が付いたようだ。
「――シアムミーアちゃん」
 ぼそっと言った。
 ウグレラルナ星伝の、ビジュアルデザイン担当が。
     *        *
 ――人間の技術ではありえない急激な上昇ベクトルを感知。
 かかった。
 これで確定だな、やつは「対抗者」側の人間、つまり「代行者」だ。同時にやつと同化している対抗者本人の気配が、先遣人格である自分にも感知可能なレベルに増大している。力を使っているのだ。
 場末のラーメン屋で最後の汁を飲み干しながら、宗我部正夫は自分の勘が正しかったことに、我ながらすごいぜと自分を褒めていた。
 先遣人格としての面目躍如だ。
 月と地球を行き来するエネルギーを知り、この街に来たのは一年前。半年以上探しまわり、「こいつが怪しい」と目を付けたのは北条吉野。すると俺に気付いたのか、急に月への移動がなくなった。仕方がないので遠回しに構える作戦に出て、やつの友人ふたりに絞って常時監視するセンサーを忍ばせ、二ヶ月に渡って隙を見せるのを待っていた。マスターからの指示だと、決行まで半日もない。急いでいたところだった。
 今まで一〇年以上、上からきつく戒められていた「堂々とした破壊活動」。それがいよいよ、おおっぴらにできる。
 宗我部は本番に向けて心踊っていた。力があるのに、見せることが出来ない。何度勝手に事を起こしたい衝動に駆られたか。そのたび体の各所に埋め込まれた処理装置がうずき、思いとどまっていた。実行したら消されるのではなく、実行する寸前で自然死に見せかけられて処理される仕組みだ。
 処理装置はいまやマスターから伝えられたキーにより無効化され、自分は存分にあらゆる力を、人間を超越したパワーを、多くの愚劣で蒙昧なる人畜どもに示すことが叶うのだ。
 今日のためにこそ、俺は生きてきた。
 人類が滅びても構わない。
 いや、成功はイコール人類滅亡を意味し、自分の死と同義だ。失敗しても成功しても、宗我部の未来は決まっていた。
 ただ、人間を超越したい。
 それだけ。
 いわば悪魔に魂を売ったのだ。
 準備は万端、装備のほうも充実させた。最後で若干の変更を行ったが。
 昨日無人偵察機より採取したデータから、興味深いデータが断片として流れてきた。それらは「対抗者」の戦闘機体によく似ているが、戦艦という表現がなされていた。
 笑わせる。戦艦なぞ海上でのみ、しかも第二次世界大戦以前レベルの知性文明でしか主力足り得ない過去の遺物ではないか。他の文明でも例外なくそうであったように、小型兵器の力が一定レベルを超えると大型兵器は意味を失い、やがて消えゆく。地球においても最後の戦艦は一九九〇年代に退役した。一発の威力が桁外れである宇宙の戦いにおいて大きいことになんの意味があろう。的がでかくなるだけではないか。
 それが分からぬ対抗者ではないと思うが、遊んでいるのか? 舐められたものだ。
 よし、あえてこいつで襲ってやろう。対抗者の鼻面に蹴りを入れてやるのだ。いまの装置の性能なら、いくらでも「戦艦」を真似をして作ることができる。
 宗我部の意志で動く機械は、形として常にあるわけではない。中核となる小型の装置があって、その辺の大地から資源を借り、その場かぎりのメカを形作るのだ。これも様々な秘密工作のため。
 だから準備とは情報の収集であり、装置のメンテナンスや性能アップであった。宗我部は本来の活動なら小型ヘリていどの大きさまでで事が足りるのに、装置が操ることの出来るメカの許容重量を段階的に無意味な質量にまで増大させていた。
 今なら、全長一〇〇メートル以上でも平気だろう。北条吉野はきっと騙される。
 なぜならば、巨大であっても誰もそれを操縦しておらず、つまりプログラムで動く無人機で、ただの囮だからだ。
 本当の狙いは地味なもので、自分の身ひとつで、もちろんマスターから与えられたすばらしい力を用いて行う。
 ターゲットは、一人のガキだ。
 宗我部は席を立ち上がると、ラーメン屋から出ようとした。
「待ちなおっちゃん」
 背中から何者かに呼び止められる。
 なんだ一体。
 場に緊張が走った。
 いや、ここは冴えないラーメン屋。安いこと以外に取り柄もなく、夕食にはすこし早い時間とあって、店内には宗我部と店の従業員三名以外、誰もいない。
 店主がこつこつと足音を立ててやってきた。
 どうするか。
 今の宗我部なら、数秒とかからず全員を殺すことが出来る。処理装置があった頃は無意識に刻まれたリミッターが働き、こういういつ人に目撃されるか知れない場所では、人並よりマシなていどの力しか出せなかった。マスターが行う本番のときにあらかじめ対策させないよう、人類外の性能や力をすこしでも連想させてはいけないのだ。
 様子を見てみよう。
 銃弾を浴びせられたていどでは死なない。
 振り向いて身構えている彼に向けて、店主は手のひらを見せて伸ばした。
「お勘定、払いな」
 …………。
「――幾らですか?」
 緊張していたのは宗我部だけだった。
     *        *
『だからといって、いきなりシエ坊に拉致しなくても……』
 艦橋に智真理がいて、瞳を輝かせていろんなものを片っ端からスケッチブックに描きまくっている。
「すごーい、すごーい」
 三面スクリーンは空高く雲を映していて、シアムミーアは元々の黒い服になって指揮座の側で途方に暮れている。
「……イークトゥェアー(どうしよ)」
『私に体を戻してよ。説明するから』
『でもこれだぜ?』
 智真理はこちらの前にやってきて、好奇心に任せて私、すなわちシアムミーアをささっとスケッチしはじめた。まるで裁判の被告にでもなった気分だ。
 この子、順応性が恐ろしく高い。
 たとえ戦場でもカメラを持ったとたん、銃弾に怯えていたジャーナリストが使命感で平気になるのと同じなんだろう。
「ん?」
 シアムミーアがふと、なにかに気付いたそぶりをみせた。
『どうしたの?』
『不快なものを見つけた』
 シアムミーアは右手を伸ばし、智真理の頭を撫でるように触った。
 いきなり接触を受けた智真理はさすがに驚き、現在の状況を思いだしたのかにわかに不安な顔をして離れようとしたが、シアムミーアは構わず前進しつつ、智真理の髪を子どもを褒めるように撫で回している。
「いやっ。いやっ!」
『やめてよ嫌がってるじゃない。私の大事な親友なんだから変なことしないで』
『誤解するな、発信器だ』
『……え?』
 正面スクリーンの壁際まで追い込むと、智真理は泣き出しそうな顔をしてスケッチブックを落とした。シアムミーアがキスが出来そうな距離に顔を近づけると、観念したように目をつむった。
 シアムミーアは髪に伸ばしていた手を智真理の髪から抜き、体の表面を滑るように這わせ、腰へと回してゆく。
 智真理の体がびくんと固まった。
「あああ、お母様、お父様。いけない世界に踏み入る親不孝な娘を許してください」
 私はもし自分の体があれば、たぶんシアムミーアの後頭部目がけて卵でも投げつけてるかも知れない。
『あのー、まるで百合な世界なんですけどー』
 と凄んだつもりの声で囁いてみる。
 発信器かなにか知らないけど、女の子を女の子が襲ってるようにしか見えない。
『やっと分かったぜ』
 シアムミーアの手が急に智真理の背中へと動いた。智真理が背負っているバッグの、横に吊られているキーホルダーをむしり取る。
 智真理を解放すると、メルヘンな可愛い翼を生やしたリアルな白豚というシュール極まるフィギュアをいろいろと調べはじめた。
「……私、助かったの?」
 涙を目に溜めた智真理が脱力してその場に座り込んだ。スケッチブックを拾うと抱き寄せ、軽く震えている。
 ごめんね智真理。
 だけど私にはどうすることもできない。
 シアムミーアはPVC製の白豚の鼻先に指を添えると、軽く指先を光らせた。すると豚の顔がぐにゃりとゆがみ、溶けてゆく。嫌な臭いが広がるけど、シアムミーアは平気なようだ。顔の筋肉になんの変化もない。
『これだ』
 白豚の中から、丸い銀色の機械みたいなものが覗いていた。それをつまむと歯ぎしりの高速版みたいな音がして、とたんそれは分子の粉となって指の間からこぼれ落ちた。
 つまんだとき、まるで熱を感じなかった。熱線みたいなもので溶かしたのでかなりの温度になっていたはずだけど。
 これは私が追加したシアムミーアの設定のひとつだった。体内にナノマシンという埃や粉よりも細かい分子機械を大量に飼っており、超能力者や魔法使いみたいな細かい芸当がいろいろ出来る、というものだ。
『ねえシアムミーア、いまのなに?』
『ブルガゴスガだ。今一歩遅かった。おそらく、来るぞ』
『え――』
『君の友達を巻き込んで、済まない』
 シアムミーアは数歩下がると、右手を振り上げて叫んだ。
「フークゥニーロ!(戦闘モード)」
 とたん、船体ががたがたと揺れた。
『なに、なに?』
 シアムミーアは私に構わず、驚きのあまり動けない智真理をむりやり――例の力を使って筋力を超越してのお姫さまだっこを軽々とすると、艦橋後部の指揮座まで助走なしにジャンプし、オリンピック選手並の幅跳びを見せて着地した。床が硬いので膝に大きな負荷がかかったが、常人に数十倍もする頑丈な骨がその衝撃をほとんど受け止め、智真理には届かない。
 指揮座に座らせると、シアムミーアは智真理にはじめて語りかけた。
「北条吉野さんは無事だ。事情は後で話すから、舌を噛まないよう黙っていてくれ」
「吉野は無事……わかった」
 意外と智真理は慌てず、すぐに頷いた。
『あ、私へのときみたく、精神安定波送ってるね』
『そうでもしないとどうにもならんぜ』
 私がシアムミーアとして目覚めてから自分を完全に見失うこともなく好奇心に任せていられたのは、ひとえにシアムミーアのこの技術があってのことだ。そうでなかったら、私のことだ、いまでもぎゃあぎゃあ騒いでいただけかも知れない。
 指揮座の隣で勇ましく仁王立ちになっているシアムミーアの周囲に、突然大量のスクリーンが出現した。それらを細かくチェックしている。
 ちょっと見てみると天気予報図に似た、現在位置を示すものがあった。なになに、高度一万メートル、現地点は――この地図が正しいなら、光点がいるのは、日本沿岸の太平洋上空? 本当なの? 下を写すスクリーンはどれだろう……シアムミーアが視点を合わせてくれないからわからないけど、おそらく正しいんだろう。住んでいる町から軽く一〇〇〇キロは離れていた。それほど移動したという印象はなかったけど、シエセマ、ものすごい性能を持っているようだ。
 別のスクリーンに、そのシエ坊が映っていた。てるてる坊主が本来の横倒し体勢になって、頭からにょきりと、スカートの長さに匹敵する、太い棒状の構造が一本。
『角装甲が生えてる』
 全長のデータが「三三メートル」を示していた。巨大化したらしい。
 それにしても、中央ブロックにてるてる坊主の顔の絵がそのまま残ってるのが可笑しい。
「通信アンテナ生成、センサー群始動開始」
 シアムミーアは日本語でしゃべっている。該当する星伝語がないからかも知れないけど、どちらにするかという基準はいまいち不明だ。私の小説の設定を現実化するとき、宇宙人が手を加えられない不具合の境界もわかりにくいけど。現にシエセマの設定は二〇〇メートルのままで、角装甲なんてないし。それでいてシアムミーアの服は私が下の設定を書かない限り脱がせることもできなかった。シアムミーアの身代わりに病院に残してきたもどきは、午後の検査をちゃんと乗り切られたようだった。
「防御帆展開、力場確保」
 映像に動きがあり、シエ坊はその姿をみるみる変化させてゆく。
 シエ坊の中央ブロックから角装甲の上下を二本の棒が這い、角装甲の七割ほど進んだところで止まった。そしてそこから青白い膜が板状に伸び、ヨットのような文字通りの「帆」を盛大に展開させた。それは中央ブロックで四面四枚、後部のスカートでは上の一面に二枚張られた。
 てるてる坊主なのに上下がなぜわかるのかというと、アンテナ群がにょきにょきと生えてきたからだ。私は小説の中で、アンテナは上に集中して生え、下部にはセンサー群が集中しているとしている。
 今やシエ坊はあのつるつるてんな可愛いマスコットではなく、一隻のごつい戦闘艇だった。よく見ると中央ブロックも丸くはなく、やや八角形を帯びた四角形という微妙な形に変形していて、砲門が隠れているとわかるハッチが幾つも出来ている。
 防御帆、というのは小説の設定には今までなかった。これはシアムミーアたちの技術で、要請で付け足したものだ。いくら損傷してもすぐ貼り替えが聞くインスタントな力場発生装置で、防御対象から直接外側に身を晒して力場を形成することで、効果と強度を格段に高めていた。
 シエセマが完成した。その姿は黒い古代魚というべきもので、戦うために生まれてきた真剣さがひしひしと伝わってくる。左舷横面にてるてる坊主の微笑んだ顔が横向きで残ってるけど。
「あの……」
 智真理が遠慮がちに話しかけてきた。
「なんだ」
 智真理はスクリーンに映るシエセマを指差した。
「後で、この笑ってる顔、私に描き直させてください」
「……わかった」
 シアムミーアがあっけに取られている。
 さすが、漫画家志望。視点が違う。
「ありがとう。頑張って描くね」
 と智真理が笑った直後。
 轟音とともに、シエセマが揺れた。
 神と悪魔の、何億年にも及ぶ争い。
 代理戦争の引き金が、いまたしかに引かれたのだ。
 それは私がはじめて体験する本物の「戦争」だった。

© 2005~ Asahiwa.jp