ヨシノ星伝

小説
原稿用紙換算251枚
宇宙人と人格融合したヨシノが、破壊者の手から地球を守る物語。
第一章 ソメイヨシノは散っていた
第二章 ソメイヨシノは咲いている
第三章 ソメイヨシノは回る

第一章 ソメイヨシノは散っていた

第一章 第二章 第三章

 メガネのレンズ縁で乱反射して目に痛かった。
 うわっ、なにこれ。眩しい。
 夜の底に、私はいたはずなのに。
「――この光はナニ?」
 いや、元から光はあった。
 真夜中の野外、私はノートにSFの大河小説を綴っていて、そのためにペンライトを口にくわえていた。隣で彗星の通過を待ってる武田くんは天文部のほやほや部長で、その役職にふさわしい態度で私の光が邪魔だと主張した。でも私のほうが半年早く生まれていてお姉さんだし、街の灯りもあったし、それに比べたら些細なものだから無視していた。
 小さなものだ。
 この全天を覆うあまりに眩しい輝きに比べたら、空で瞬く、星のひとつにすぎないと思う。私のペンライトなんて。
 輝きが襲ってくるのは、ほぼ正面の斜め上だった。武田くんが天体望遠鏡を向けている、まさにえらい科学者たちが予測した方向。
 にわかに出現した太陽に、眩しくて、私は目を開けていられない。
 だから視線は下を向く。
 真昼のような明るさで、桜ヶ丘の下に広がる、私の住む街がよく見える。だけどその街は白い。自然の光ではなく、まるで照明に照り出されたようだ。
 周りで知らない人たちがいろいろと騒いでいる。世紀のイベントと世間で呼ばれている超高速彗星の通過を見てやろうと、私たち以外にも、市街から近いこの手頃な桜ヶ丘公園に何百人も集まっていたのだ。寒い中ご苦労さま。天文ファンじゃない私は、べつに肉眼で数分しか見えない彗星が目的じゃなかったけど。それでこのような異常に出会うとは、露ほども思わなかった。
 もしかしてこれが、彗星?
 ちょうど戦いの盛り上がった場面だったので、執筆に夢中になりすぎ、ノートに光が落ち、さらにメガネを直撃するまで気付かなかった。
 それにしても異常すぎる。これではまるで、この丘目がけて落下しているみたい。
 私の目的は、こんな体験じゃなかったのに。ただ、一緒にいたいだけ。
「吉野さんっ!」
 その目的の人が、私の名前を叫んだ。
 輝きは白昼をすでに通り過ぎ、すべてを文字通り白く染めてゆく最中だった。あまりのまぶしさに目を細めて狭まっていた視界の端に、彼の伸びてきた腕だけが見えた。
 切り株に座ってぼおっと周囲の光を見つめていた私は、白に埋まった中から這い出た、細い腕に引き寄せられた。思った以上の力に軽く驚いて、口からペンライトが落ちるのを感じた。おまぬけな顔をしてるに違いない。だけど一〇秒ぶりに復活した武田くんの顔が、ごくごく間近に出現したとたん、驚きは沸騰してしまった。
「た、武田くん……」
 武田くんはいつも真剣だけど、いまの瞬間は、写真に撮って額に入れて、ベッドの真上に飾っておきたいほどのものだった。これほどの遭遇は、じつに二年ぶりなのだ。
 幼馴染みとはいえ異性と接していて、さらにその男の子が武田くんだったものだから、私の胸はにわかに動悸を刻んでいる。きっと今の私は、真っ赤な顔をしていて、いくら朴念仁の彼でも、「うわ吉野さん可愛い綺麗美しい食べてあげよう」とかってなにかを感じずにはいられないかも知れない。いやそうでなくて「うわ吉野さん僕のこと懸想してくれていたんだねありがとうじつは僕も」って、きゃー! その気持ちは知られるのはいやだけど、だからといって私の本音は長いつきあいでとっくに知っているはずだし。みんなの公認みたくなところもあるし、武田くんの心はすべては判らないけど、おそらく私のことを少なからず想っていると自惚れていいと思うし、私自分で「うおりゃー」って取ったんじゃないけど第二ボタン持ってるし、だからいっそのこと、華奢でお世辞にも頼もしいとはいえない胸板だけど、そこに「おいで」って抱き寄せて欲しいくらいなんてのは山々でなく思いっきり希望でなく欲望なんだけど、現実は厳しくえーと、せいぜい手を引くていどどころか引いたこともない気がするけど、そんなことどうでもよくて――
 どん。
 と、空気が震えた。
 状況を無視して滅茶苦茶になっていた私の思考は、さすがに中断を余儀なくされた。
 不気味な音が、輝きに混じって届いている。
 周囲全体が、おなじ感じで地震のようにぐらぐらと。まるで太鼓の上に立っている気分だ。
 もはやどの方向から彗星が来ているのかも分からないほど光はすべてを覆いつくし、武田くんの細目しか見えない。
 彼がなにか大声で言ったけど、鼓膜を底から震わせる音と揺れが邪魔をして聞き取れない。私も気が動転しているのか、なにか叫んでいるが、それさえも自分で聞き取れない。思考だけが正常なように思えて、本能に任せた行動が追いつかず、もどかしい。
 あ、白が黄色くなり、急速に赤くなった。
 世界が、赤い。
 そして……
 強烈な熱風と、音を越えた衝撃みたいなものが発生して、なにもかも判らなくなり。
 すべてが吹き飛んだ。
     *        *
 失敗してしまった!
 あんなに人がいない場所を選べと指示していたのによう。
 君のせいだぞ、反省してんのか。
 予定の観測器が壊れてた? 事故かよ。
 救いに来たのに、せっかくやつらの母船の地球直撃はみんなで防ぐことができたのに、詰めで私がこんなつまんない理由で危害加えることになってどうすんだよ!
 そんなこと知らなかった? 止まると思ってた? 言ってなかった? ――そうか、私の伝達不足か。すまんな、私見ての通り出来損ない、エラー人格なもんで。おかげで巻き込んでしまった。失敗ばかりだなあ、先が思いやられるよ。
 それで――生命活動停止に至った個体四〇三、重体六七、軽傷二一。あ、また五人死んだ。えーと衝撃波による周囲半径一キロの怪我人は四二〇〇余なお増加中ってか。
 おっ? うまく事前に収集できていたか。よくやった。これでほとんどすべての個体は修復可能だろうけど……不自然に再生せぬよう、一刻も早く原住民を構成する各種カオス方程式を特定しないとなあ。面倒くせえ。遺伝子情報から記憶回路の細部まで矛盾なく再構築するにゃあ、どうしてもゆらぎを方程式化して抑えるのが必要だしなあ――って……おい。
 違和感があるな。
 強行軍と戦闘の影響か。データが幾分飛んでる。なんとか復旧できるけど。
 私自身も危ないな。情報化が希薄になっている。存在確率が低下しているから、実体化しないとやばいぜ。君と一体化する予定の器の情報はどこにあるんだ、探さないと。
 ああぁぁぁ!
 本当に面倒くさいぜ。
 君も手伝え、死んだままじゃ私が消えたら君もそのまんまになるんだぞ。
 お、ずいぶんとやる気あるみたいだね、なにか大事なものでもあるのか?
 ――私にでも教えたくないか、まあいいぜ。やることやってりゃあな。
 計算開始!
     *        *
 その空間には、そいつしかいなかった。
 ひたすら暗く、音のひとつもない、ごくごく狭い空間。いや、むしろ部屋だろう。その部屋は真空で、そいつ以外は本当になにもない。周囲の壁は何億年経っても変化することのない材質で出来ており、壁面から埃が出て室内を汚すこともないし、光の一分子も通さない。
 ――そんな時の氷に閉ざされたところに、そいつはもう一千万年も転がっていた。
 倒れていた、と形容したいのだが、出来ない。転がっていた、という以外に表現のしようがなかった。
 なぜならばそいつはボールだったからだ。
 ただのボールではない。
 角が生えている。二本ほど。
 真っ暗なので誰もそれを確認することは出来ない。ボール当人ですら、自分の体をなんらかの波長の光線にて視認したことはないので、あるものはある、としか言いようがなかった。
 そして――ふいに、意志が宿った。
 成功した。
 この器はあまり格好良いものではないし、体型にしたところで便宜上のものでしかなかった。この形状を採用した当時の存在はみんな消滅していたが、記憶は記録として三億年来受け継がれている。
 作戦的に、これで十分だ。
 そいつはそう思った。
 いよいよ待ちに待った本場が来た。
 まずは……囮が成功して「対抗者」をうまく騙せただろうか。
 本当に危険なのはまさに自分なのだが。
 外部センサーからの刺激を継続的に解析しているが、確認している範囲でこちらに攻撃してくる個体はおらず、注目している様子も見られない。完全にあちらのほうに目が向いているし、対応に精一杯のようだ。
 ――うまく騙したな。初回引きの貧乏くじは自分の回で済んだようだ。
 初回の侵攻は失敗するというジンクスがある。
 だから超短期決戦でゆく。
 準備の時間を与えてなるものか。
 そいつは今回でジンクスが終わると信じ、活動をはじめた。地球の先遣人格どもには連絡してあるので、すでに動いているだろう。だからこちらも同時進行で間に合わせなければいけない。
 まずは、この殻を破ることからだ。
     *        *
 隕石が落下したと思われる地点は山腹に開けた丘の中心で、彗星を見に来ていた人が多数巻き込まれた。
 山火事が発生し、爆風と隕石の破片が周囲に飛び散り、多くの怪我人を生んだ。だがなにより、現場は凄惨だった。数多くの死体が血塗れで転がり、あるいは焼けこげ、かろうじて生きている者は苦しそうに呻いている。
 深夜なので、誰もまだ助けに来ない。来たくても来れない。街で数千名の怪我人が発生しているし、地震のように大気が荒れていてヘリも飛べない。より遠方の、影響の少なかった地域からの援助はまだしばらく後だろう。
 落下の中心部は生存者がぽつぽつといる周辺部ほどの悲惨さはない。なぜならば、多くの者はほぼ瞬時にして蒸発してしまったからだ。ただその遺伝子情報は消滅する寸前、来訪者の指示により、代行者によって遠隔的に採取されていた。
 落下地点には直径数十メートルほどのクレーターが出来ており、底は煙を立てて熱かった。そこに彼女は突然、空中より煙のように出現した。
 灰色と黒に包まれた、幼さの残るごく若い少女だった。
 まだ肌寒い四月の真夜中だというのに、彼女は大胆にもミニスカートという、変わったデザインの肩ひもドレスで、薄着だった。ニーソックスとそれが単体で独立した長い袖が、かろうじて暖になっている。外人のような灰色の髪は非常に長くてボリュームがあるが、大きなリボンで左右に束ねている。そのリボンでさえ黒い。
 灰色と黒に覆われた彼女の中で、ただひとつ違うところがあるとすれば、それは真っ赤な虹彩だった。周囲の山火事の炎が、そのルビー色の瞳に映る。ピジョンブラッド――鳩の血の色に等しい極上の深いルビー色だ。
 少女はクレーターの底に立つと、空を仰いで動かず、しばらく黙っていた。
「……また失敗かよ。なんでこっちのほうと融合しちまうんだよ」
 外見とは釣り合わない汚い口調で、日本語で、なぜか吉野の声だった。
 夜空の一角で、星でないなにかが瞬いた。
「ん? ブルの奴らめ、もう諜報活動か。舐められたものだぜ。まだ攻撃できねえし、はやく片づけないとなあ」
     *        *
 ――武田くんは幼馴染みでいつも一緒というか、私が勝手に後を付いてるだけだけど、あまりに賢くて新聞や雑誌に載るほど優秀なので、下の名前である月彦とは呼びにくい。私は武田月彦を昔からずっと武田くんと呼び、武田くんは北条吉野を吉野さんと呼んでくれる。
 劣等感を覚えることもあるけれど、慣れてしまったし、ふさわしいようにも思える。
 武田くんは、武田くんでいい。
 彼と最初に出会ったのは、小学校に上がったときだった。私よりも腕も足も細くて、ひ弱だった。
 だから気になったのかもしれない。
 案の定、彼はまもなくいじめの対象となった。私もちいさいほうで武田くんを助けることができなかったので、いつも悲しかった。武田くんは図鑑とかが好きで、いじめから逃げるのを兼ねて、図書室に籠もることが多かった。私も物語を読むのが好きで、いっしょになることが多かった。だから自然と仲良くなっていた。
 二年生のある日、放課後にたまたま図書係が委員会で誰もいなくなったのを見計らって、いじめっ子が図書室にまでやって来たことがあった。
「たけだのヒョロヒョロもやしー。ほーじょーといっしょで、もやしふうふー」
「なによ! 先生にいってやるんだから」
「なまいきだぞほーじょー」
「生意気って漢字知って使ってるの? 私もう書けるわよ。それにもやし嫌いなくせに。私も武田くんも平気で食べられるわよ、この偏食」
「へん? しょく?」
「ばーかばーか」
「なんだと、そこうごくなー!」
「いーだ! 逃げよ武田くん」
「まてー」
 いじめっ子は一人だったけど、私たちは揃っても呆れるほど弱かったので、校内を逃げ回った。
「吉野ちゃん、こっち」
「うん、武田くん」
 このとき私はすでに武田くん、と呼んでいた。けっして名前では呼ばなかった。
 私たちは上履きのまま外に出て、体育倉庫に逃げ込んた。偏食に見つかる間半髪で。
「どこだー! ほーじょー、たけだー!」
 扉を閉め、しばらくじっとして耳を澄ましていると、いじめっ子は応援を呼んで探しているようだった。
「ずるいよ。かくれんぼの鬼はひとりなのに」
「これは集団によるいじめだからね」
「ごめんね武田くん。我慢できなくて」
「いいんだよ吉野ちゃん。我慢をずっとするといじめがひどくなるだけだから、ときどき喧嘩しておかないとね」
「へー。武田くんやっぱりものしりー」
「本で読んだだけだよ」
 いじめっ子はしつこくて、倉庫から出ることができなかった。そのうち私は疲れて眠ってしまい、気が付くと辺りはすっかり暗くなっていた。
「……た、武田くん。怖い」
「目が覚めた?」
 武田くんは私のとなりで、体育座りをして見守ってくれていた。私は跳び箱の影で、マットの上で横になっていた。私と武田くんの荷物と靴もあって、倉庫の鍵は開いたままになっていた。手際がいい。
 倉庫の外に出るとすっかり夜で、星がいくつもきらきらと瞬いていた。
「怒られるね」
「ぼくも怒られてあげるから平気だよ」
「ありがとう。うれしい」
 武田くんが一緒にいると、怖くなかった。
「あ、お月さまが出てるー。満月だよ」
 武田くんの名前は月彦。だから私は月が大好きだった。
「いいよね、お月さま」
「うん。きれいだ」
 武田くんはなにか物静かに月を見上げていた。その横顔はとてもきれいに見えて、私は急に泉のように湧き、胸を一杯に充たした気恥ずかしい気持ちに、胸が熱くなった。
 私はそれからも年に二、三回ほどのペースで、武田くんが月を見上げ、じっとしている場面に出会った。その姿は印象的で、そのたびごとに私は最初の気持ちを再発見した。
 武田くんが、好きになりました。
 三年生になってテストの平均点が下がってくると、武田くんの賢さが目立つようになってきた。私は前から彼はすごいんだぞと知っていたので鼻が高かった。でもおなじくらい本を読んでいるのに、私ばかり視力が低くなって、メガネになってしまったのはちょっとだけ悔しかった。
 武田くんが自然とクラス委員長になり、男子に夫婦とからかわれるのを承知で親友の智真理や由美を筆頭に女子一群を味方につけ、私がむりやり副委員長に収まるという図式が出来上がった。それは卒業まで続いた。それでもまだ武田くんは普通の少年だった。テストが相変わらず満点ばかりで、人より賢い、ということを除いて。
 武田くんが普通の殻を破ったのは、小学四年のときだった。
 パソコンゲームで、チャンピオンになったというのだ。
 ロボットに、自由に組んだ行動プログラムを載せて、オートで戦わせるゲームだった。そのいかにもお子さまお断りの難しそうなゲームの公式大会で、並み居る大人たちを押しのけ、武田月彦は優勝してしまったのだ。参加者にはプロのプログラマーもいたというのに。
 さらに彼は同様のプログラムを作って競わせるゲームで、つぎつぎとチャンピオンになっていった。
 武田くんのお父さんは息子の才能に喜び、いろいろと高価でマニアックなゲームを買い与えているようだった。武田くんが自分からおねだりするということはなかったし、大会にデータを送って参加させていたのは武田くんのお父さんだった。
 本人の代わりにデータが競技をしてくれるので、高いお金を払って都会の会場に出てゆく必要もなかったから、手当たり次第に参加できた。会場が存在しない、雑誌主催の室内でひっそりと開かれる大会も多かった。そういうゲームが流行っていた時期だった。
 五年生になると、大衆紙で大きく紹介されるようになった。地元の新聞やテレビにも出るようになり、武田くんは校内の英雄となっていた。そのころになると彼をいじめる人は誰もいなくなっていた。武田くんは推薦を受け、六年生を抑えて児童会長となり、慌てて立候補していた私は書記に収まった。
 私が書記になれたのは、広い顔を持つ島津智真理の力添えが大きかった。
「智真理、ありがとう」
「いやなに。少女漫画みたいでおもしろいしね」
 横から選挙参謀を務めてくれた毛利由美が入ってきた。
「智真理は漫画家になるのが夢だもんねー。吉野は武田くんのお嫁さんだけど」
 クラスの人混みの中で、何気ない爆弾発言。
「わー! 由美! わー!」
 私は懸命に否定しようとしたけど後の祭り、一時間もせずその話は武田くんの耳にも届いたはずで、実際一緒にいたところを男子にからかわれたりもしたけれど、武田くんは堂々として意に介さなかったので、私はずいぶん救われた。その噂話は数週間で消えたけど、周知されたのでかえって良かったかも知れない。
 児童会長を二年務めた武田くんは、鳴り物入りで地元で一番難しい中学に進んだ。私も必死に勉強して、なんとかついていった。智真理や由美も一緒だった。
 さすがに一年生で生徒会に携わるということはなかったけど、それで暇になった時間を利用して、彼は数学や物理、天文学に打ち込んでいた。
 彼の水準では図書室の蔵書では収まらず、入り浸る場所は公共の図書館へとレベルアップしていたが、私も一緒についていった。図書館だろうと学校の図書室だろうと私の読む本は相変わらず物語で、物語以外には興味がなかった。
 やがて武田くんは大学に論文みたいなものを送るようになった。教授が自ら武田くんの家を訪れるということもあったから、よほどの完成度だったのだろう。誰かに勧められたのか、ジュニア数学オリンピックにも参加し、トップの成績を取って凱旋してきた。もはや図書館ですら彼の要求を満たさず、地元の大学の理学部に通うようになった。
 でも勉強ばかりやっていたわけではなさそうで、あるときなどは競馬で勝てる手を計算して競馬場にいたとかなんとかで、先生から大目玉を食らっていた。そのとき私も密かについていっていたんだけどね。
 馬券を買っていたのは教授やその連れの留学生で、けっきょく自分たちの計算を信じたものは外れ、武田くんの予想が当たっていて私は得意だった。
 競馬場からの帰り道は夜になって、武田くんは相変わらず月を見上げてじっとしていた。
「つぎ、なにしようかな」
「……武田くん、もう数学の研究はいいの?」
「月でもやろうかな」
「天文学を?」
「うん。でもあの大学、ないんだよねそういうの。いまの中学にもないし」
「じゃ高校は? おっきな天体望遠鏡のあるとこ」
「そうだね。まだかなり先だけど、高校は天文部があるところがいいね吉野さん」
「私もいっしょにやるっ!」
 たんなる口約束だったけど、私は必死だった。というのも、このころになると、私と武田くんとの接点は幼馴染みということだけ。将来を嘱望される、理系の神童・武田月彦。それに対し、私は平凡な文系少女だった。まだ中学生なので文系理系という授業の区別はないけど、私は国語と英語の成績が良くて理系が全滅に等しかったし、趣味も読書だった。
 いままでは図書室や図書館という共通点があったし、小学生のときは高学年になるとクラス委員や児童会でずっと一緒だった。だけど今はそれもない。大学に行く理由が私にはなかった。それに武田くんは高校に進む前に天文学をはじめ、土日により遠くの大学へと電車で通うようになっていた。
 私は焦った。どうやって武田くんとおなじ時間を過ごそう。
 智真理と由美に相談すると、智真理がすぐに言った。
「物語を書きなよ。好きなんでしょ?」
「え? でも私、漫画書いてる智真理みたいに絵上手くないし」
「ちがうちがう、小説だよ。それもSF。理系のやつ。武田くんSFが好きだって言ってたもん」
 たしかに武田くんはSFは好きだと思う。おもにゲームだけど。物語はあまり読まない。それで――なんで?
「わたしが……SF小説?」
 由美が手をぽんと打ち合わせた。
「あー。智真理の作戦わかったよ。文系少女の吉野があえて理科系の知識が必要となるSFな物語を書いて、わからない部分を、賢い天才武田くんに聞いてフォローしてもらう、という算段だよね」
「うん、由美の言う通り」
「へえ……それ面白そう」
 武田くんは紳士なので断れない。確実に読んでくれるだろう。
「そして密着した吉野と武田くんは互いに意識して急接近、ついには寄り添って寝て、図書館の草場の陰でいけない時を過ごす」
「わー! 由美っ! わー!」
「由美」
「なに智真理」
「草場の陰は……ちがうぞ」
「そうなの? どうでもいいじゃん裸でやること一緒だし」
「頼むから、教室で、そんなの、臆面もなく、言うのやめてー!」
 とにかく導き出した答えは、ペンを取ることだった。
 文系だけど、理系が舞台となる物語を書いて、わからない理系の部分を、武田くんに聞いてフォローしてもらう。
 最初はそんな不純だけど、私にとっては切実な動機から、物語を紡ぎ始めた。
 そして彼と接する時間は急速に減り、私は自分だけと向き合う時間を、刻み始めた。そこに武田くんを投影させて――
「君の物語にはいつも天才が登場するけど、天才にしては考え方が幼いと思うよ」
「宇宙では音はしないよ。そのていども判らないのかい」
「無重力の描写が甘いね」
「ビームとレーザーは違うよ。そもそもどうして真空なのに輝くんだい」
「超光速通信技術のない世界で、無辺の宇宙でどうやって遭難者を見つけたんだい?」
 彼に突っ込まれるのは、宇宙に関するものが多かった。だから意地になって宇宙が舞台となる物語ばかり紡いでいった。まるで男の子が書くようなSFを、私は作っていった。彼の要求はどんどんエスカレートしていったが、私の遊びも膨らんでいった。
「これはヘブライ語を元にしてるね。多少もじっても判るよ」
「人工言語に挑戦する姿には関心するけど、まだやめておいたほうが懸命だよ」
「物理の基本もわかってないのに、大統一理論を適当にでも描写するのはやめておいたほうがいい」
 そのようなことを繰り返すうち、中学生活は終わってしまった。武田くんは中学でも二年から三年にかけて生徒会長を務めたけど、物語に夢中になっていた私は生徒会に参加できかなかったし、高校受験の九ヶ月間は私の物書きもストップしていた。なにしろ武田くんは万年学年首席で全国模試も一桁の席次に入るほどの秀才。当然のように県内一の進学校に進むつもりだったのだ。私は学力的に懸命に勉強しないと、逆立ちしても入れなかった。そしてなにより、その高校の校舎には屋上に寄り添うように灰色のドームが、簡易の天文台と呼べる立派な設備と望遠鏡が、つまり天文部がある。
 思春期につきものだけど、幼馴染みながら私と武田くんが会うのは学校だけになっていたので、いつも疑問に思っていた。
 武田くんはいつ勉強してるんだろう。私の視力は低空飛行なのに、武田くんはなんとまあ、三・〇らしい。
 まるで信じられないから、ちょっと勉強を邪魔してやるみたいな嫉妬心で、動物のように懐いてやった。
「わからないよー、おしえてー、武田くーん」
「頼むから泣きそうな顔をするなよ。ほらほら、今回はどんな問題だい」
「うん……これー」
 最初は確信犯だったのが、いつのまにか依存症になってたのが不覚だった。言葉も退行してしまっていたし、頭を撫でられたりと微妙に小動物扱いされていた気もする。
 でも、だいぶ武田くんに甘え、教えて貰ったので、公私で得をしたと思う。彼氏彼女としてのつき合いはまったくなかったけど、周囲から勝手に公認カップル扱いされていたので、武田くんに悪い虫が寄ることもなかったし。背も伸びた武田くんは、二枚目というほどハンサムなわけではなかったけど、見目が良いほうには属していると思う。
 年が明けて高校入試が本番を迎えると、武田くんは推薦でとっとと合格していたので、専属の家庭教師として、家にまで来てくれて勉強を教えてくれた。
 学校の外で会うなんて、もう一年以上なかった。しかも私の部屋で、密室で二人きり!
 別になにもなかったけど、毎日が鼻血ものだったよ。よくぞ内容が頭に入ったと感心する。
 智真理と由美は妙に細部まで聞きたがった。
「それでコップを間違って――吉野との間接キッスが成立したのだな? ――うん、そのときだ、判明したそのとき、武田は吉野を意識した様子は見せたのか?」
 メモまで取っている。おそらく漫画のネタにするつもりなんだろう。智真理は本格的にプロを目指すようになってきていて、私を人間観察の重要な対象にしてるみたいだ。
「本当は吉野からわざと間接キス仕掛けたんじゃないの?」
「もう、由美。それはないよ」
「わかってるわかってるよ。じれったいなあ。そうそう、智真理、吉野。こないだ私ね、例の『変な露出狂』に出会ったんだよ」
「え? あの変なおじさんに」
 今年に入った辺りから、近辺で評判になってるおじさんだ。
「うん。コートをがばっと開けたら面白いぬいぐるみやフィギュアが一杯♪ どれでもおひとつどうぞ」
 たしか宗我部さんだっけ。実害もないし別に誰も警察に苦情を言わないから、変人として面白がられている。
「そしてこれが、私が選んだものー」
 袋から取り出したは……ピンク色のてるてる坊主。目玉はぐるぐると目を回してる。
「うわ、どピンク」
 私はセンスのなさに呆れたが、智真理はなにか感じたものがあるのか、「んー、シュールレアリズム」とか言ってピンクのてるてる坊主をこねくり回していた。
 親友とたびたび喫茶店でこういうバカなおしゃべりをすることでお互いに気を紛らわし、また勉強へと向かっていった。志望校は三人とも一緒だったし。
 入試本番はとっても緊張したけど、三人とも合格通知が来たときは本当に嬉しかった。その学校は幸運にも、三〇分以上かかるけどなんとか自転車で通える範囲にあり、下宿などの準備をする必要もない。これまで通り、家から登校できる。
 解放感を満喫した私は、思いっきり時間ができたので、ゆえに猛烈な勢いで小説を書き始めた。今回は久しぶりのうえ力が入っていたので、初期段階から智真理と由美の助けを仰いでいた。
 それで武田くんと一時的に疎遠になっていたので、「虫」どもに対する警戒が緩んでしまった。
 事件は卒業式で起こった。
 式会場の体育館から出て五分後には、武田くんは上着はおろかシャツまでことごとくボタンを奪われ、あられもない胸板を晒して、崩れた髪を直しながらくしゃみをしていた。平年より一週間以上早かった校庭の桜散る中で、頼もしいとはいえない痩身の半裸姿は、格好良いとは言えないけれど、戦いの跡という感じで。最初は驚いて虫どもに対する嫉妬が湧き起こったけど、すぐにそれは霧散し、一転してなぜか自慢に思えてしまった。
 その百面相を見て「困ったな」と小さく言った彼の、滅多に見せない本当に困惑した顔を眺めていると、風が吹いて校庭のソメイヨシノが舞い、それが武田くんを包んだ。染井吉野の花びらが、武田くんを包んでいる。それがどういうわけか面白くて、私は思わず大笑いしてしまった。
 それだけ余裕があったんだ。
 ふふん、彼はどんな女の子にもなびかないもんね。
 私が、北条吉野がいるから。
 武田くんは決してそういう態度を見せないしなにも言わないけど、私が側にいることは無条件で許してくれる。噂ではあの子が告白したとか、この子が手紙を出したとかいう話をたびたび聞いたけど、いずれも泣く運命を辿ったというオチだった。それが私に不動の自信をもたらしていた。
 すべては安泰で。
 順調で。
「へっへっへー。私も武田くんのボタン奪ってやったもんね。見てよ、第二だよ第二」
 ……順調かなぁ?
「由美っ!」
「わかってるよ。別に私は武田くんが好きなわけじゃないですよ? これは全然進展のない吉野さまへの貢ぎ物です」
 北条吉野は武田くんの第二ボタンを手に入れた!
 って、PRGのメッセージが流れそうな光景だったけど、一番大事なものを守ることができた気がして、心底は嬉しかった。
 ありがとう、由美。
 やはりすべては順調だ。
 だから私の小説を書く筆も元気いっぱいで、新作は受験勉強の鬱憤を晴らすかのようにいろんな意味で飛んでいた。
「……えーと。吉野さん、全長五〇キロメートルで、一〇〇億隻って、本気?」
 入学式の日、途中までの原稿を呼んだ武田くんは、さすがにあきれて言った。
 私は無意味に規模の大きいSF戦記を描いていた。
「おかしいかな? ……そもそも宇宙で艦隊戦って不可能っぽかったよね」
 相対速度がありすぎて、海上のように考えられない、ということをやはり武田くんから聞いたことがある。
「いや、出来ると思うよ。このあいだ基本理論は教えただろ?」
「うん。たしか避けることができないから、おっきな盾を前に付けて、脇から撃つみたいな。角状の装甲だっけ? まだイメージ掴みきってないけど」
「あまり厳密にしすぎなくてもいいよ。物理現象のすべてを考えていたら、僕でも頭がゆでてしまうよ」
 しばらく考えて、武田くんは答えた。
「このまま書いてみてもいいと思うよ。規模はもうすこし小さくしたほうがいいと思うけど。経済力的に、たかだか二兆の人口で平均五〇キロメートルの戦闘艦艇を一〇〇億隻も建造するのは、高度にオートメイション化された社会でも到底無理と思うから。それに話の内容からいえば、一〇〇億隻が一〇〇隻でもおなじだよね。大規模にする必然を感じないから」
「爽快だと思ったんだけど。そんなことまで考えないといけないのかなあ」
「もちろん物語は面白さが一番だと思うけど、僕には物語の造詣がない以上、決まった方向からの指摘しかできないからね」
「うん。ありがと、武田くん。今度はまた宇宙の戦い方について教えてね。やってるんでしょ? 大銀河興亡戦記」
「もちろん」
 最近発売されたパソコン用のオンライン対戦SF戦略ゲームだけど、忙しい社会人でも気軽に参加できるよう、プログラム指揮官という機能がある。こういうのは武田くんお得意の独擅場だ。というより、武田くんのお父さんが勝手に買ってくる。
「どのへんまで進んでるの?」
「今度勝てばSクラスになる」
「すごーい」
 私はこのゲームはよく知らないけど、Sという表現が最高ランクっぽいのは判る。先週はBだと言っていたから、おそらく連戦連勝なんだろう。武田くんのプログラムと戦う不運に巡り会った見知らぬ対戦相手に同情してしまう。
 とりあえず武田くんの意見を受け容れた私は、作中の艦隊規模を平均一キロ、一千万隻にまで減らした。それでもやたらと多いらしいし、たしかに今までそれほど大量の宇宙船が戦う物語は古い漫画でしか読んだことがない。
 高校生活がスタートすると同時に、武田くんは部活をはじめると言ってきた。
「約束通り、天文部に入ろうと思うんだ。いっしょにやろう」
「覚えてくれていたんだ。ありがとう。うん、いいよ。いいよ」
「え。あの、なぜ泣くんだい」
「だって――武田くんから誘ってくれたの、はじめてだもん」
 私はうれし泣きしながら賛成した。物語を介さずとも一緒にいられる。小学校のときは強制入部が決まりだったけど児童会活動で免除され、中学時代はお互いにやりたいことに忙しくて入ることもなかった。
 つまり、ふたりとも生まれてはじめての部活なのだ。武田くんは中学のとき通っていた大学での活動が部活みたいなものだったけど、こんどは正真正銘、本物の部活。
 智真理と由美に報告すると、心から喜んでくれた。
「やったじゃん! それって告白も同然だよ」
「鼻血だね、鼻血ものだね? 後は今まで以上に押して押して、押し倒してしまえー!」
 と煽りつつ、興奮に鼻血を流してるのは由美のほうだったけど。
 ちょっとお嬢さん、私はそこまで欲求不満じゃありませんぜ。
 いざ入部! と勇んだのは良かったけど、天文部は残念ながら五年前に廃部になっていた。
「そんなあ……肩すかしだよ」
「……ちょっと待っていて吉野さん。数日内になんとかするから」
「え?」
 私のあまりの落ち込みを見て武田くんはなにを思ったか、天文部を作ってしまった。
 部長は武田月彦、部員その一はもちろん、北条吉野。
 たった二人の、ちいさな倶楽部。
 ふつうは同好会から始まると思うんだけど、天体観測ドーム付属の準備室が元々天文部の部室だったらしい。他の部が使用しているわけでもないので、特別措置で許可が下りた。なにより武田くんの輝かしい理系方面における経歴が物を言った気もするし、天文部はなにかとお金がかかりそうなので、予算の下りる部でないと都合が悪い。
 顧問は科学部の顧問も兼ねて、上杉先生という中年の男性が引き受けてくださった。
「ふぉふぉふぉ。骨のある若者たちよ、がんばれがんばれ」
 怪しい物言いをする先生だけど、元々天文部の顧問だったらしいから安心していいだろう。
 そして発足した天文部だったけど、いきなり大きなイベントが舞い込んできた。
「吉野さん!」
 珍しく興奮した武田くんが、先に部室で待っていた私に駆け寄ってきた。
「NASAが、光速の二五パーセントで仲良く並んで飛来する天体をふたつ発見したらしい。来週にも太陽系を突き抜けるけど、うちひとつが地球の側を通過するそうだ」
 私は一瞬、状況が飲み込めなかった。
「それって、凄いの?」
「ああ! 地球を〇・二秒とかからず貫通してしまう速度だ」
 そして武田くんは、さまざまな物理理論の検証観測が行えると言って、具体的な例をいろいろ述べ始めたけど、私にはさっぱり判らなかった。とりあえず天文学史上最高レベルの天体ショーらしい。それほどの超々高速に達するにはどれほどのエネルギーを受けてきたんだろうとか、いろいろと類推している彼は、私のお気に入りの表情を見せてくれる。
 例の天体はその後の観測でいずれも反射率が高く、直径は約一キロ、反射光のスペクトル分析から、表面が氷みたいなもので覆われているらしいことが分かった。
 太陽に近づくにつれ、恒星からの粒子の流れ――太陽風の影響を受け、彗星のように尾を引くかも知れないという。ただ、あまりに常識外れの爆走ぶりなので、具体的にどのように見えるかを正確に予測することは不可能に近いという。
 ということで、一般に超高速彗星と呼ばれている謎の天体XTNOIとIIは、さんざん世間を騒がせ、いろいろな話題を提供してくれたのだった。
 にわかな天文ブームに学校も浮き足立った。天文部に入部希望が殺到するかなと思ったけど、誰も現れなかった。大学進学を第一目的と置いた学校なので、部活の意識は低いだろうし、あまり活発ではないのだろう。私としては心おきなく武田くんを独占できるので別にそれでもよかったし、ほやほや部長にも気にしている様子は見られなかった。
 すべてはうまくいっているように思えた。
 しかし問題が起こった。
 天体観測室の三五センチ望遠鏡が、長年使用していなかったため故障していたんだ。修理は間に合わない。
 私は別にどうでも良かったけど、武田くんは観測にこだわった。そしてどこで調達したのか、かわいらしい望遠鏡を確保してきた。もちろん二、三トンもある学校のものに比べて可愛いということで、それなりに重いし、カメラを付けることも出来る。
 観測予定場所は、郊外にある桜ヶ丘に決まった。借りてきた望遠鏡の性能が低いので、学校からでは街の光が強くて満足いく観測ができないという。その丘は私の名前とおなじソメイヨシノが綺麗な花見の名所だけど、時期的にとっくに散っていた。
 私は密かに期待していた。
 夜中に、武田くんと二人きりになれる。
 なにか起こるかも知れない。
 だからとっておきの私服を着込んで、美容院で髪もきちんと整えて、万が一の気構えで下着を新調して武田くんの家に行ったというのに、彼は制服そのまんまだった。
 さらに言えば、期待は甘く儚い夢だった。自転車を押して丘に登る最中で、路肩に止めた車のあまりの多さにすっかりあきらめてしまっていたけど――こうなったら、ついでで持ってきた執筆用のノートに、いいところまで来ている小説をどんどん、うん、書きなぐってやる!
 私はペンライトを口にくわえ、ボールペンを右手にしっかりと握ると、殴るようにつづきを書き始めた。
「吉野さん、観測には光はあまりないほうがいいんだけど」
「…………」
 私はすこし機嫌が悪かった。
 いくら部長でも、私のほうが半年早く生まれている。いまは高校に入学したばかりでおなじ一五歳だけど、私は七月にも一六歳になる。そうすれば半年間はお姉さんだ。
 いまはまだおなじ年齢だけど、お姉さんにはまちがいないから、ちょっとくらい我が儘でもいいと思う。それにペンライトだけじゃなく、街の灯りもある。影響は必ず出てくるはずだ。いまさらライトの一本二本、どうしたというんだ。
 だから私は朴念仁な部長さんの注意を無視して、「ウグレラルナ星伝」を洪水のように書き進めていった。
     *        *
 この裏切りですべては崩れ去った。
 人類社会を統一することも、平和の訪れも、エニフリートゥレが描いていた一千年の計も。たった一人の姑息な利己主義者によって、砂上の楼閣のように儚く散ろうとしていた。
 真下より浴びせかけられる裏切りの砲列が、皇帝エニフリートゥレの本隊を一瞬にして切り刻んだ。さきほどまではるか彼方、銀色に輝く敵陣に生じていた光球が、いまや総旗艦レークゥセの周囲で量産され加速度的に増えてゆく。
 艦全長の四割を占める長大な物理障壁・角装甲のおかげで、帝国の艦艇は正面からの攻撃に圧倒的な防御力を発揮する。だがエンジン出力の関係から角装甲以外の装甲鈑は大幅に削らざるを得ず、正面以外から突かれると脆い。しかも近距離ともなると。
「味方が、我が臣下が、無下に死んでゆく」
 エニフリートゥレはレークゥセの艦橋で指揮座より立ち上がり、正面の大スクリーンに投影されている死の乱舞を剛毅な血の色をした赤色の眼球に焼き付けた。
「底翼にたむろする裏切り者を殺せ! モフレクゥロを!」
 その有無を言わさぬ叫びはオペレーターによってすぐさま一千万隻の味方全艦に通達された。だが全軍が敵を追いつめ、最後の宴を催そうと狭い空間に集まっていたため、一度生じた混乱は容易には回復されなかった。それに奇襲を仕掛けたのは帝国最強の一軍だったのだ。それは宇宙最強と同義であった。
「反撃の機会を与えるな。砲門を向けている艦列を優先してもみ潰せ!」
 巨艦エルデスバインの艦橋にて、裏切り者モフレクゥロは積年の恨みをいまこそとばかりに叩きつけていた。
(俺はとっくに元帥や司令長官になっていておかしくない功績を挙げている。いや、帝国の中で俺こそ最強で、最大の武勲を挙げてきた功労者だ。なのに皇帝はなぜ俺を大将などという低い地位に留め置くのか。そもそも元はおなじ騎士だったではないか)
 その冷遇が、味方からも非道よ、死神よと揶揄される性格や言動に災いしているとは、彼は気付いてはいても、決して認めてはいなかった。皇帝陛下といえども人の子、決して完全無欠の人格者ではなく、勲功の評価が公平に行われているわけではなかった。
 そもそも人格が問題視されるモフレがこれ以上権限拡大の階梯を進むのは危険であると、暗黙のうちに周知されていた。エニフリートゥレは地位の代わりに多額の恩賞や一介の大将とは思えぬ広大な領地によって応えたが、誤魔化しであるのは明白であった。それゆえすでに七年も大将に据え置かれていたモフレクゥロの、汚泥のように渦巻く想いの鬱積は深刻だった。
(この戦いが終われば、おそらく宇宙は統一されてしまう。そうなると、俺は遠からず地位を追われる。ならば……)
 彼は自身の儚い命運をほぼ正確に予見していた。あまりの強さゆえ、戦力として期待され、軍に在ることが許されているのだ。平和の朝日が昇った後、疎まれている者はどうなるか。とくに専制国家ともなれば。
 モフレクゥロにとって、自己正当化できる要素はいくらでもあった。だから彼は無謀にも、思い込んだ。
「そうさ……俺こそが、皇帝にふさわしい」
 モフレが欲しているのは地位であり、権力ではなかったはずである。トップを望むならとっくに裏切っていただろうし、実際一勢力を築くだけの実力と器があった。本来望んでいるのは彼にとって些細な栄達であったが、自身の未来に悪夢を確信した結果、その欲求を一気に拡大させて事に及ばないと精神の均衡を保つことは難しいように思われた。
 ともかくも、攻守の立場は逆転した。
 モフレクゥロは部下を完全に掌握していた。それはおもに恐怖による支配と束縛だが、彼らはたとえ味方を攻撃せよと言われてもほぼ全員が実行できる、それほどまでに忠実な犬になっていた。それゆえ忠犬たちは短時間でおそるべき戦果を挙げ、帝国軍を圧倒的優勢から追い落とすことに成功したのだ。
 モフレは伝令の高速艦を出し、さきほどまでの敵に対し、旗幟を翻したことを高圧的かつ一方的に申し渡した。
「そうかわかった。『ありがたき幸せにございます』と返答して、さっさと追い払え」
 敵、ミケン星間国家群連邦艦隊のイシェケラフトゥン元帥はそう言って使者を総旗艦ルクナスヴルムに乗り込ませることすらせず、文字通りトンボ返りさせた。
「いまが好機ぞ! 全軍真球防御陣を解除せよ。帝国軍は攻撃してこない」
 イシェケラフトゥン元帥はごく短時間で味方の萎縮を鎮めると、裏切り者モフレ大将と挟撃する体勢を整え、反撃に転じた。
「攻撃一〇割、防御ゼロ。全出力を砲撃に振り分けよ。全艦跳躍子砲用意、エネルギー充填急げ。この一戦一撃に我らが命運と未来の全てが掛かっていることを忘れるな」
 宇宙には彼ら以外に、帝国に対抗できるまとまった勢力はもはや存在しない。ミケンの屈服は戦乱の終了と共に、全宇宙が帝国の支配下となり、自由な通商社会が消滅する可能性を示していた。貿易関係により成立したミケン連邦にとってそれは耐え難い未来図であり、自然、必死の準備へと繋がった。
 オペレーターの間を走りまわって通信を集計していた幕僚が、元帥に大声で伝えた。
「イシェ閣下、全艦隊の八割が準備よしと回答してきました!」
「それで十分だ! 全軍に告ぐ、狙点を敵陣頂翼と中央部の合間に固定せよ」
 手をゆっくりと振り上げ、素速く下ろした。
「全艦、撃てぇ」
 銀色の星雲から整然と放たれた数千万本の見えぬ槍が、光に一億倍する速度で宇宙空間を駆け抜け、金色の渦巻き銀河の一角に突き刺さった。光速の壁を突破する人工素粒子、跳躍子の衝撃波による一斉射だった。
 そこは陣形でいえば関節に当たる部分だった。開いた花に例えたら、上の花びらと、本体との接点に当たる部分。そこを狙ったのだ。とっさのことに、該当する部分の前衛では防御態勢が整っていなかった。この集中砲火の前には、防御力場の満足な加護を受けぬ角装甲など、紙にも等しかった。
 衝撃波面で白い嵐が起こり、侵略者どもの命が一秒ごとに万人単位で潰えていった。遠目からは大滝の瀑布かと見紛う美しい光景であったが、それは傍観者の理屈であって、加害者にとって天国の景観であり、被害者にとっては生き地獄そのものだった。
「このまま前進せよ!」
 イシェケラフトゥンは全軍を進めつつ、老練に集中砲撃の狙点を周辺部へと移していった。さいしょ一部だけだった混乱は波紋となって全体へと広がっていき、落人へと転落した帝国艦隊は、その黄金の渦巻き銀河陣を無様に乱し、ほとんど総崩れ同然となった。
 醜態を収めるはずの本営は奇襲を受け、全軍の指揮ができない。各部隊の責任者は各個に指令を出すだけで連携はなく、まとまった反撃にならない。様々な命令が交錯し、うおさおしている。皇帝個人の力量に頼ってきた大艦隊の、それは思わぬ欠点であるように見えた。
 その混迷の中にあって、一糸の乱れも起こさない異色の赤い部隊がいた。左翼後方で待機していた、エエクトゥーレイ少将の赤天牙突撃旅団五万隻である。
 彼女は軍靴を踏みならし、背に垂れる鳥の翼を模したマント状の軍羽を揺らせ、苛立ちを隠さない声で言った。
「これではまるでど素人ではないか! ミケンは我らの三割、死神といっても裏切り者もたかだか九〇万余。挟まれているとはいえ、なぜ野鼠のように惨めに逃げまどうか!」
 エエクトゥーレイは十分に美しさを残すまだ若い赤髪の女将ながら、すでに一隊を任される有能な指揮官であった。上層部に体を売って出世したとか黒い噂も絶えなかったが、エエの眼光に睨まれると、誰しもが口の端にかけた下衆の言葉を呑み込んだ。彼女が実力でのし上がったのは言うまでもない。
 だがその強い意志の圧迫をも容易に押しのける小さな勇者が、エエの隣でつぶやいた。
「天下分け目の一大合戦の勝利を間近にして、本営を突かれる。しかも裏切りで。将兵たちの精神的な動揺は計り知れません。モフレクゥロ大将が攻撃の機として選んだ瞬間は、まさに絶好だったんです」
「皇女殿下……」
 黒い礼服の少女が立っていた。礼服といっても正体はドレスで、若さと可愛らしさを強調したデザインだ。灰色のしかし美しく長い髪を左右に束ねるリボンが目立ち、これも黒い。すべてが黒い中でただひとつ特徴的なのは、その情熱的に赤い目だった。
 黒衣姫、と呼ばれる彼女の名はエニフミーイ。これは将来呼ばれるべき尊い真名で、現在は幼名として、同名の古代語発音シアムミーアを名乗っている。現在一五歳だ。
「モフレは宇宙最強、この壊乱は容易には収まらないでしょう。父上は大丈夫ですか?」
 シアムミーアが質問するまでもなく、エエ少将はすでに現状把握のリアルタイム表示を部下に指示していた。ミーアの近くの空間にスクリーンが出現し、皇帝エニフリートゥレ陛下の御姿を顕した。
『シアムミーア、我が娘よ、すまぬ。戦力差から安全と思って同行を許可したのだが、我が視野の不明にしてこの体たらくだ』
 わずか四〇歳、一代にして乱世という洪水を治め、宇宙の統一を成そうとしている、全銀河最強の英雄。エニフ朝トフォシ=ソエセ帝国の初代皇帝に即位して五年、深い灰色の髪に包まれたその顔はいまだ軽い皺のひとつも刻まれてはおらず、三〇歳と言っても通るほどなお若く生気に溢れている。野心と覇気の赴くまま、全宇宙にあまねく威光を知らしめる武帝であるはずだった。
「父上!」
『逃げろミーア。我が本営は完全に包囲されてしまった』
「なぜです! このていどの逆境で敗北するほど、私たちの軍は惰弱ではなかったはずです! いますぐお救いに参上します」
『だめだ! 此度の敵は死神モフレクゥロ、今までとは強さの桁が違う。万が一おまえがやられたらどうする。エニフトェトゥェイ亡き今、唯一の皇位継承者なんだぞミーアいや、エニフミーイ!』
 皇帝はあえて娘の真名で呼んだ。舌を噛みそうな名前の母はすでに反動勢力のテロで失われている。シアムミーアが喪服の象徴である黒を好んで着るのは、それ以来のポリシーだ。
「父上……」
『あまり心配するな』
 皇帝は優しく微笑んだ。それはシアムミーアと一部の愛する者にしか見せない、とっておきの表情であった。
『私は死なない。今よりも危機的な状況は幾度も経験してきたし、いずれも自力で解決してきた。脱出できるし、また会えるさ。ただ、おまえがこちらに来るのはだめだ。だいいち五万隻で乗り込むなど、愚の骨頂だぞ。黒衣姫の名が泣くじゃないか』
「父上――」
 数秒見つめ合う。皇帝の目の虹彩は赤く、シアムミーアも赤い。そして二人とも、髪は灰色。家族の証だ。時間こそ短かったが、互いに互いの姿を、それぞれの瞳と記憶に強く焼き付けた。シアムミーアは頷いた。
「帝都ウグレラルナで、また会いましょう」
 指を二本立てる帝国式で軽く敬礼する。隣にいるエエ少将や、周りの幕僚たちも同様に敬礼した。そして皇帝も。
『エエクトゥーレイ、娘を頼む。そしてミーア。必ず――生き残れ』
 と締めて、皇帝からの連絡は切れた。最後は画面がずれていた。
「敵の通信妨害が激しく、本営とのこれ以上の跳躍子通話は不可能です」
 オペレーターの一人が大声で言った。通常粒子だと、光速に近いニュートリノによる通信が妨害の影響を受けにくいが、本営とは光速で往復に一〇分はかかる距離を開けている。まともな応答は無理だった。
 エエは指揮座に戻ると、一艦隊の司令官として凛とした物言いで命令した。
「……麾下の全艦艇に回線を開け。ニュートリノ回線で暗号化コードは第六。音声のみだ」
「繋ぎました」
「愛する諸君ら、エエ少将である。これから我が部隊は単独で戦場を離脱する。追っ手がかかると思われるが、正面の敵にのみ対し、上下左右、後方からの攻撃はすべて無視せよ。全艦艇跳躍子兵器の使用を控え、跳躍子の生産と充填を急げ。跳躍妨害の届かぬ範囲まで逃げたら、直ちにランダムで時空跳躍せよ。その後は各々の判断で帝星まで帰還するように」
 一拍開けた。
「運悪く敵に出会ったら、降伏せよ。モフレクゥロは元々、皇帝陛下とおなじ三大翼騎士の一人。死神と呼ばれてはいるが、敗者の遇し方をわきまえている男だ。以上、幸運を祈る。頼む、我が翼にかけて、みんな死ぬな」
 指を鳴らすと、オペレーターが端末を操作し、エエ少将に合図した。回線を閉じたのだ。
 シアムミーアは少将の苛烈な判断にすぐ気付いた。
「五万隻を囮に……」
 味方をすべて、囮に使用しようというのだ。時空跳躍しても空間の痕跡から何処へ行ったかはすぐに判明する。艦隊レベルでなら、まとめて追えば容易に追撃ができる。だが数万箇所へ散ったら……だいいち降伏しろと言っても、モフレ大将の悪評は重々承知のはず。捕まればただで済むはずがないのは、誰しもが判っている。ただの気休めだった。
「艦隊旗、掲揚!」
 エエ少将の指令で、真紅にして流麗な艦隊旗艦ヤルスルングルーンナガレの中央上部に、ビームで形作られたエエ家の旗が閃いた。エエの領地星にしか住んでいない鷲に似た鳥、天牙の赤い躍動感溢れる姿である。機動開始の合図であった。
 赤い艦隊は死と狂乱が渦巻く金色の戦場の中、困難な脱出行へと旅立ったのである。赤天牙突撃旅団は三割近い犠牲を出してかろうじて離脱に成功する。さらに帝都ウグレラルナへと無事帰還できた艦は二万隻にも満たなかったが、かくしてシアムミーアは生きてウグレラルナの大地を踏みしめることが出来たのである。
 この戦いでトフォシ=ソエセ帝国は三〇〇万隻以上を失い、一億人近い戦死者と二億人に及ぶ捕虜を出して壊走、大敗した。
 そして約一月後――モフレクゥロの手によって皇帝が斬首されたという悲報が、全宇宙を震撼させた。
     *        *
 ……あ。
 武田くん――じゃなく、皇帝を勢いで殺しちゃった。やっぱ武田くん鈍いから、どこかで腹が立っていたのかなあ。
 どうしよ私、というか、シアムミーアちゃん大ピーンチ――そもそも今回の小説、さすがに一五歳の女の子が書くにしては、重い文章だよねえ。戦争だもんな……
 え?
 メガネのレンズ縁で乱反射して目に痛かった。
 うわっ、なにこれ。眩しい。
 夜の底に、私はいたはずなのに。
「――この光はナニ?」
 いや、元から光はあった。
 真夜中の野外、私はノートにSFの大河小説を綴っていて、そのためにペンライトを口にくわえていた。隣で彗星の通過を待ってる武田くんは天文部のほやほや部長で、その役職にふさわしい態度で私の光が邪魔だと主張した。でも私のほうが半年早く生まれていてお姉さんだし、街の灯りもあったし、それに比べたら些細なものだから無視していた。
 小さなものだ。
 この全天を覆うあまりに眩しい輝きに比べたら、空で瞬く、星のひとつにすぎないと思う。私のペンライトなんて。
 ――――。
     *        *
 目が覚めると、見知らぬ天井があった。
(ここはどこ?)
 起きあがると、室内は白かった。テレビドラマなどでよく見かける周囲の様子から、どこかの病院のベッドに寝かされていることに気付いた。
 いつもの習慣で、メガネを探したけど見つからない。枕元に見知らぬ黒いけど、なにか親近感のあるリボンが添えられている。絹だろうか? 高級そうだ。それにしても妙に視界がはっきりしている。これならメガネは別に要らないかも知れない。目を擦り、じっと壁を見つめる。細かい傷まで判別できる。なぜかわからないけど、不便でないならいいだろう。後で探そう。
 窓からは陽光が射し込んでいる。かなり明るく、いまは朝も遅い時間だろう。その窓はなぜかガムテープで数カ所補修してある。窓全体にヒビが走っていた。ガムテープは真新しい。
 私……なぜこんなところに?
 昨夜のことを思いだしてみる。
 そうだ、桜ヶ丘公園に行っていたんだ。
 丘に行って、やっぱり散っていたソメイヨシノにがっかりして、ちがう、数分というか数秒というか、ごく短時間しか見えない彗星を観測しようとしていて――そうだ、武田くん!
「武田くん! どこにいるの?」
 と、私は叫んだつもりだった。しかし口から出た言葉はまったく別のものだった。
「セ・タケダ! エエイーフォシャア?」
 思わず口を押さえてしまう。
 え? なに?
「フヴットゥ――フヴットゥニエ・ニホンクトフォ?(なんで――なんで日本語にならないの?)」
 この言葉には、覚えがある。武田くんの指導で、かつて作ろうとした人工言語だ。もちろん中学生レベルで挑戦するのは無謀で、色々と矛盾が起きて断念したはずだが、細かいところが自動的に修正されているみたいだ。いったいどうなっているんだろう。
 私になにが起こってるの?
 ベッドから降りて置いてあったスリッパを履き、室内を見渡す。どうやら個室のようだ。壁にかけている時計を見ると、午前九時半。ずいぶんと寝坊してしまった。扉を開けてふらふらと廊下に出た。
「あら、目が覚めましたのね」
 四〇歳くらいの女性の看護士さんに出会った。
 私は挨拶をするどころではなかったので、軽く会釈するていどで、彼女の横を通り過ぎようとした。
 すると腕を掴まれた。
「動いたらだめよ。どんな異状があるかわからないんだから」
「オオ! フラフフォレーフォッソエニネクゥ?(ええ! やっぱりなにかあったの?)」
 言って、すぐ後悔した。
 看護士さんが息を呑み、硬い顔をして腕を放し、黙ってしまったからだ。
「サーレーイエ(ご、ごめんなさい)」
 きっと私の頭がどうかなったと思っているだろう――だけど看護士さんは、私を変人というよりは、さらに別の扱いをした。
「やはり日本語わからないのね。きゃん……きゃんゆーすぴーくいんぐりっしゅ?」
 え?
「あいすぴーくいんぐりっしゅべりーりとる。どぅーゆーあんだーすたんど?」
 これはまるで、私が国籍不明の外国人のような感じじゃない?
「ウウ……イングリッシュ、イエ・クナエレクゥエ(私、英語は分かります)」
 だめだ、てんで日本語にならない。看護士さんも困っているようだ。だけどそのとき、アイデアが閃いた。
「トゥ――トイレ」
「え、ああ。トイレね。こちらよ」
 彼女は私の手を取り、トイレまで案内してくれた。やはりだ。武田・日本・イングリッシュなどが、そのまま発音できたのだ。名詞だけならしゃべることが出来る。トイレというのは一人になって考える時間が欲しかったからだ。
 おかしなことに、廊下の窓は半分以上が完全に割れて風が吹き込んでいる。無事なものはひとつとしてない。不良さんが暴れるとか、なにかあったんだろうか。
 でもそれよりも私は自分に起きていることに集中しなくてはならない。言葉、言葉……看護士さんの胸元を見ると、「尼子」という名札があった。
「ここがトイレよ」
 私はとっさに彼女のネームプレートを指さした。
「リオトェトゥェイ・イレクトクゥ、シャアセ・アマコ(ありがとうございます、尼子さん)」
 と礼を言って、私はトイレに入った。ドアを締めて、すぐにあることに気付いた。
 いま「リオトェトゥェイ」って勝手に出てきたけど、これってシアムミーアのお母さんの、結婚前の名前じゃない。
 結婚後はエニフ姓を名乗り、エニフトェトゥェイとなった。すべて片仮名だけど、姓名は東洋式を採用している。
 元々は幸せ、とか幸運とかいう意味で、英語とラテン語を掛け合わせ、さらに捻っていたらしい……というか、すべて武田くんがやってくれたんだけど……。
 かつて断念した人工言語の中で、完成してメモに残っていた……これも武田くんが記してくれていたんだけど……。
 その残っていた単語を固有名詞として、書いてる作品に散りばめているのだ――が、文法などの細かい部分やニュアンスは当然まったく作っていない。というより、そんな語学力が平々凡々な私にあるわけない。「幸せ」という単語が、おそらく「ありがとう」を表す謎の構文に、なんらかの形で関わったんだろう。
 私の頭、どこかがおかしくなったんじゃない?
 自動的に、私の能力を越えた文法が完成され、勝手に言葉となって紡ぎ出されている。笑えるほど、おかしすぎた。
 これは何語になるんだろう。いまの小説世界で採用しているんだから、さしずめ帝国名のトフォシ=ソエセ語だろうか。神の翼という意味だけど。いや、ミケン……石の商人という意味だけど、この陣営もおなじ言葉だから、小説の題名を当てはめたらいいだろう。それは――「ウグレラルナ星伝」だ。
 ウグレラルナ語? おかしい、笑える。シアムミーアが暮らす星の名ウグレラルナは、ずばり桜ヶ丘。街を見下ろせる、市民憩いの公園。桜ヶ丘語だなんて変すぎる。ローカルだ。ならば単純に星伝語とするしかないけど、味気ないねえ――
 いや、そんなことはどうでも良かった。
 私は洗面台に向かい、顔を洗おうとした。別にトイレが近かったわけではない。目覚めたばかりでお肌が汗を掻いて酷いありさまだろうから、顔を洗って清潔にしようと思っただけだった。
 ――が、洗面台の鏡に映る自分であるはずのその姿を目にした瞬間、さらなる奇妙との出会いに、私は小さく叫んでしまった。
「トゥェセフォ・フヴットゥ(なによ、これは)」
 大声にならなかったのは、本能で叫んではいけない、と察したからだろうか。その抑制には我ながら感心したが、そういう余裕はほんの些細な蝋燭の炎にすぎなかった。私の心の蝋燭は、台風のような暴風によって、あっというまに消し飛んでしまった。
 鏡に映っていたのは……
 そこにいる彼女は。
「シアム……ミーア」
 そう、シアムミーアその人だった。
 小説の中とおなじ、皇族にしては質素だけど、十分に華やかで、しかし喪服とおなじ黒を基調とした肩ひもドレス姿で。
 間違いない。
 私がイメージしている黒衣姫そのものだ。
 灰色だけど、水分を存分に含み、艶のある若い髪。豊かなボリュームを持つ髪はいま、例の黒いリボンが解かれてストレートとなり、私の後方に垂れている。そのリボンはおそらく、枕元にあったものだろう。
 虹彩はルビーのように真っ赤で、その色は宝石図鑑で見た深い紅色。それはルビーの中のルビー、ピジョンブラッドだった。
 宝石そのものを象眼したような顔の造形はしかし、私そのものだ。身長もおなじくらいというより、まったく同等。あたりまえだ、シアムミーアは私を投影した姿だからだ。メガネは付けてないけど。
 なのに妙に美しく見えた。神秘的で、どこか無国籍な感じがする。どこの国の人だろう、と想像してみるが、どうも想像しづらい、そんな感じだ。東アジア系だと言われればおそらくそう見えるし、欧米系だと言われても、ラテン系やアラブ系だと言われてもそう見えるだろう。ありえないのはアフリカ系ぐらいのものだが、エジプトやシリア辺りまでなら大丈夫かもしれない。
 夢のようだった。
 あまりにも夢物語だ。
 空想と現実の区別がなくなっている。
 私のしゃべっている言葉は、物語の中では自然に交わされているものだろう。日本語として表現されているのは便宜上のことで、外国文学の和訳も当然それとおなじ理屈だ。彼ら彼女らは、その物語が誕生した国において、英語やフランス語、そして中国語などでしゃべり、考え、行動しているのだ。
 私はどうやら、自分の小説が現実になってしまっているという、おそろしい奇跡というか事件のまっただ中にいるようだった。
 本当に現実かどうか確かめようと、頬をつねってみようかと思ったが、以前より何倍も可愛く、美しくなってしまったその肌を傷つけることに躊躇してしまった。かわりに手のひらを強めにひっかいてみる。
 うん、痛い。
 紛うことなき、現実だった。
 だから安心して見惚れてしまった。
 ――本当に可愛いね。
 もしこんな容姿の女の子が側にいたら、たいていの男子は参ってしまうんじゃないだろうか。よく見たら、プロポーションも良くなっているようだ。背が低くて胸もないけど、可愛い系のモデルとして十分に通用するだろう。そして可愛いと同時に、あきらかに美人だった。
 別人なのに違和感がない。まったくフィットしている。お買い得満点。
 北条吉野は、すごい体に変身したかも知れない。
 得意になり、鏡の前で、くるっと一回転してみる。裾がふわりと舞い、下着が見えてしまった。
「キャッ」
 トイレには私のほかに誰もおらず、見てる人がいないのは分かっていたが、思わず押さえてしまう。
 この下着、私が昨晩、家を出る寸前に替えたやつだった。小説で下着の設定まで考えてなかったので、元のままなんだろう。というかあったら女としてヤバイかも知れませんよ。
 危ない危ない。いまは現実なんだから、気をつけないと。
 超ミニにしているのは、読者である武田くんがなんとはなしに喜んでくれるかも知れない、という媚だった。
 シアムミーアという文章でのみ形成された存在に、武田くんの注目を浴びせたい。だから私の小説にはいつも、天才の男の子あるいは男性と、そしてヒロインとして女の子が登場する。ヒロインは常に十代半ばで、つまり私の理想の写しだった。
 ワンパターンぶりに武田くんはときどき飽きているというそぶりを見せていたが、だから今回はしぶく髭を生やした中年男性で、関係も親子に――つまり恋する乙女は手を変え品を変えるストーカーなんだぜ、ふふふ。
「――オ?(え?)」
 その思考に、私は混乱を来した。
 ふふふ? だぜ?
 なんだろうこの違和感は。
 非常にストーカー的なのに、ちっとも自覚してねえな。ホワーイ? 武田くんとやらも、案外うっとうしがってるかも。んなわけないじゃない! 知れないんだぜ。萌えを表現するならなあ。萌えってなに? もうちょっと、なんかこう、別の視点というか。はっきり言いなさいよ。行動を起こすとかないんか?
 えええええ? ええだぜ。
 まいったぜ。私がストーカーって。この小娘、君の反映かよ。気持ち悪い! だから器の写しに失敗したのか。どうしよ。どうしよって私のほうこそ。どうしよ。私こそ!
 おっと。これじゃあ、そのうち人格崩壊を起こすな。なによこれ。ちょっと別れるぜ。一体二人格――つーか同居。うわああああ。君の体、借りるぞ。
 えええええええええ?
 頭の中を軽い痛みが走った。
 と同時に、私の意識から、別のなにかが剥離ないし分離し、私の体を乗っ取ってゆく、そんな不気味な感覚を覚えた。まずそれは手の先からはじまり、両腕を蛇のようにかけあがり、上半身に達した。私は抵抗しようとしてなにか叫ぼうとしたけど、すでに口も奪われていて、のこるは下半身のみ。ふらふらと歩いてトイレの外に出ようとしているうちに、じわじわとその不快な蛇は胸からお腹を通過すると、腰の部分で一度停滞した。
 私の体はあきらかに私自身による統制を失っている。怖いよ、怖い。
 誰かたすけて。
 お母さん、お父さん。智真理、由美……
 武田くん!
 ――トイレの扉に、体重を預けた。
 その瞬間。
 待っていたかのように、その不愉快で気持ち悪い、体の表面や内側を電気のように蠢いていた見えない蛇が、一気に私の体を下り、つま先まで達した。
 私から制御を奪取する一時、私の体は自分自身を支えられなくなり、力無く崩れ落ちそうになった――が、扉が私の全体重を支えた。さらに私以外の何者かが操って伸ばした両手がドアノブを押さえ、信じられないようなものすごい力でふんばり、これ以上崩れるのを防ぐ。
 その体勢で一秒、二秒――
 足の筋肉に、ぴくんと張りが戻った。
 ああ……
 私はあまりの恐怖に気が狂いそうになりながらも、冷静な部分でためいきを付いていた。
 そうだよね。
 だって、私の体というより、別人の体だよねこれ。視力も違うし。
 その本来の持ち主さんが出てきたんだろう、きっと。
 可愛くて綺麗で、それに喜んでしまったから、罰が下りたのかな。
 とにかく私は、意識がありながら体の自由を奪われたのだ。

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