IV「一発殴ってやる」

よろずなホビー
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 現在、大陸のほとんどの国が光暦を用いている。これはセントノヴァの博物院天文台が確立した優秀な太陽暦であった。四年に一度、一日しか調整を必要としないのだ。
 月朧暦から光暦に移って、毎年のおなじ日時を把握しやすくなった。誕生日を祝う習慣は光暦以降だ。だが誕生日が来て、喜ぶ者ばかりとは限らない。
 一コック前にありがたくない四六歳を迎えた男が、ヒドレイトの細い通りを歩いていた。
 時間は一二月二六日の午前一コック。
 昼間白かった町は闇の中。昨夜より欠けた下弦の月が、地平からわずかな位置に顔を覗かせたばかり。
 男は息霧を後ろになびかせながら、おのれの境遇に心の中でため息をついた。
 また呪うべき誕生日が来た。棺桶が近づくのを実感する。そして今年も祝う者はいない。
 男は未だ独り身で家族はいない。また同僚の誰にも誕生日を明かしていない。
 ならば、己で祝うのみだ。
 祝杯はステラ。
 成功すれば、つぎの人事でFと副学長を入れ替わるかもしれない。それほどの価値がステラ・トライヒルにはある。
「見てろよF。俺が上なのだ」
 アースマスター・ウィットフォールは、年下の上司に強い対抗意識を燃やした。
 今回は過去に三回の実績がある脱走者回収だ。自信は当然ある。だが相手は町まで逃げた殊勝な術弟子。手は抜かない。
 まもなく、目的の宿が見えてきた。
 なんともお粗末なぼろ宿だった。
     *        *
 ――光暦一九七年、八歳の春だった。
 お父様に閉じこめられた。
 悪ふざけをして、厳格なお父様に二日も納屋に閉じこめられた。
 とても怖かったことを覚えている。
 そして寂しかった。
 心細かった。
 暗い納屋に、一人ぼっち。
 扉を叩いても暴れても叫んでも、お腹が空いても、疲れて泣いても、無視された。
 私はいつしか人形のように足を投げだして床に座り、ぼうぜんとしていた。
 牧場にはたくさんの人がいるのに、どうして誰も助けに来てくれないの?
 みんなキライだ。
 お母様も執事もメイドも、厨房の人も牛の人も馬の人も、お父様のご機嫌を伺うだけ。
 神様もキライだ。
 救世主なんてどこにもいない。
 ステラ・トライヒルは、いじけていた。
「みんな嫌いよ!」
 叫んだ。
「嫌い嫌い嫌い!」
 繰り返し叫びつづける。
 あれほど激しく鳴っていた腹はすでに反応せず、全身がだるい。口だけが動かせた。
「嫌いきらいきらいキライ……」
 壊れたオルゴールのように唱え――
 ふいに明るくなった。
 納屋の高窓が外側から開かれたのだ。
 ちょうど窓をむいていた私は、たまらず目を細める。
「……キライキライキライキライ……」
「だめだよ」
 男の子の声がした。
「きみのような可愛い子が、『きらい』なんて言ったらいけないよ」
 四角い光のむこうに、顔が浮かぶ。
 私とおなじくらいの男の子。
「キライキラ……」
 私の壊れたオルゴールが止まった。
 はじめて見る顔だった。なのに緊張しなかった。きっと私が好きな栗毛馬のように、淡いブラウンの髪と瞳を持っていたからだ。
 男の子は高窓から器用に納屋に入ってきた。身がとても軽い。
「どうしてここにいるの? ぼくはティム。今日から父さんと、この牧場で働くんだ」
「……ティム」
「ねえ、出してあげようか」
「――だめよ。あなた、お父様に怒られる」
「どうして?」
「だって……悪いことだもん」
「こんな暗いところに閉じこめる方が悪いよ。牧場で一番偉い人に頼んで、きみの悪いお父さんをやっつけてもらおうよ」
「むりよ。私のお父様がトライヒルメーン牧場のオーナーだもの」
「え! もしかしてきみが、ステラ、さま?」
「……うん。神様も助けてくれないステラよ」
「神様が頼りないなら、守ってあげる」
 思わぬ言葉が耳に入った。
「え……?」
「ぼくがきみを、守ってあげる」
 男の子の笑顔が、頼もしく思えた。
「……ありがとう」
 その言葉がふと飛びだしたとたん、胸につかえていた黒いものが、急に晴れ渡った。
 ティムの笑顔が、ぼやけてくる。
「あれ、泣いてるの?」
「……お腹空いた。連れてって」
「うん――さあ、起きて」
 私は差しだされたティムの手を取った。
 三〇フック後、厨房の隅で見つかった私とティムは仲良く怒られた。それを神父さまであるティムのお父さんが、神の御名で助けてくれた。
 自己紹介で、ティムが私とおなじ七月一〇日生まれだと知った。
 親近感が湧いた――
     *        *
 ――大きな、なにかが崩れる音がした。
 ステラは半ば夢見心地のままで目を覚ました。低血圧なので体はすぐに動かせない。
「その程度で力を誇示したつもりなら、アースマスターとしては陳腐の部類だぞ」
 若い男性の声。聞いたことがある……
「貴様、死ぬ覚悟なのだろうな」
 こちらの野太いガミ声は――はっ!
 ステラは一挙に覚醒した。
「ウィットフォール先生!」
 ベッドから跳ね起きる。目の前には、信じられない光景があった。
 土色の長衣を着た、どこぞの教祖のような髭もじゃおじさん。それが壊された土壁のむこうに姿をあらわしていた。廊下からのかすかな燈火で、逆光に照る顔は異様であった。
 ウィットフォールは、ステラ・トライヒルを確認してほくそ笑んだ。
「いたなトライヒル。ここまで逃げ仰せたのは立派だったが、もう散歩はお終いだ」
「いやです! ――ウィル?」
 ウィルがステラを守るように前に立ったのだ。剣をいつでも居合で抜けるよう、中腰で構えている。
「ふん、修行の身で男まで連れ込むとは、本性は売女か。どこで拾ったのやら」
「下衆の勘繰りだな。ガキの貞操を奪うほど落ちぶれてはいないさ」
「言ってろ。ほう、その鞘、傭兵か」
 ステラは青ざめた。
「だめよウィル、先生を切らないで」
「俺はおまえを守るために雇われたのだぞ」
「怪我させたら承知しないから」
「……わかったよ、お姫様」
 ウィルは柄にかけていた手を離した。
 ウィットフォールはせせら笑った。
「おい、ナイト気取りの傭兵。飯事同然の警護役はつらかろう。何スール積まれた? 俺が一ジール払うから手をひけ」
 ステラが怪訝な顔をした。
「ウィル、護衛の相場は銀貨で済むの?」
「…………」
「ねえ!」
「その話は後な」
「ひどい! ウィル」
「俺を無視するな!」
 ウィットフォールが怒った。
「もう許さん。俺様の力を見せてやる!」
 ウィルは面倒そうに頭を掻いた。
「見せるもなにも……勝つとわかり切っている勝負は俺、あまりしたくないんだよね。悪いけど、さっさと逃げてくれない?」
 場に緊張が走った。
 ステラは何が起こるかはらはらしつつ、大急ぎでベッドから降りて荷物をまとめる。
「なっ」
 ウィットフォールの顔が赤くなっていくのが、うす明かりでもはっきりと見れた。
「貴様……」
 ウィットフォールは両手を広げた。
「よほど術士の力を侮っていると見る!」
 突如として、ウィットフォールのすこし先の足元が砕けた。崩壊が広がっていく。
 ここは二階なので床が抜けていく。真下は食堂、幸い深夜なので誰もいない。
 扇状に拡散する崩壊は、歩く速度で二人に迫る。狭い部屋、逃げ場はない。
「あ……」
 リュックを背負ったところで、ステラは硬直していた。そこにウィルが寄り、ステラを抱える。
 ウィルは窓に駆け、木枠に体当たりした。
 木枠は脆くも弾け飛び、二人は闇の中に飛びだした。
 術の崩壊は外壁に及んだ。
 宿屋は土煙をあげて半壊した。
     *        *
「うおおおぅぅ!」
 ウィットフォールは床が抜け落ち、外壁が消えた部屋を前に、怒りの大声をあげた。
 そして急いで階段を駆け下り、一階で恐怖に硬直する宿屋の老主人の横をすり抜け、ボロ宿の外に出た。
 周囲を見渡す。
 人がいた。
 だが探している二人ではない。
 月明かりに照らされているのは、趣味の悪い、成金のぼんぼんの類だ。
 すべての指に宝石を填め、派手なけばけばしい光沢ガウンを着込み、両隣にはべらすは一〇歳は年上の美女二人。服も宝石も女もバランスがてんでばらばらで似合わない。
 とても悪趣味で珍奇だった。
 まるで、どこかの貧乏な少年が、にわかに大金を手にしたような――
「化け物だ」
 とつぜん悪趣味な少年が叫んだ。
「昼間のあの少女とおなじ、化け物だ!」
「なんだと!」
 ウィットフォールは二人を見失ったところで雑言を浴びせられ、一気に怒りが爆発した。
 躊躇せず少年の足下を指さした。
「噴け!」
 ぼんぼんの足元が盛り上がる。
 美女たちは悲鳴をあげて少年から離れる。
 少年成金は何事が起こったかわからぬまま、砕けた砂礫とともに宙に投げ出された。
 五ヘクトフィングは浮き上がり、そこから地面に叩きつけられた。胸を強く打ち、大量の血を吐く。埃まみれで土砂の中をのたうつ。
 美女たちが悲鳴をあげる。
 誰も外には出てこない。出てくるわけがない。宿屋の老主人も屋内で震えている。
 気が済んだウィットフォールは大きく肩をゆさぶって二、三度深呼吸をした。
 そして精神集中をおこなう。
 一〇パックほどして小さく笑った。
「よし、見つけたぞ」
 つづけてほかの術を念じた。
 ウィットフォールの足元の舗装路が微粒子レベルにまで崩壊する。粉塵が雲のように浮かび上がり、ウィットフォールを三〇フィングほど持ち上げた。
 粒子嵐に乗って、ウィットフォールは馬のような速さで地を滑りだす。
 後には、路面にぽっかりと穴。
「……よ、よい旅を」
 半ば錯乱した爺さんがひっそりと見送った。
 地術士が消えたので、通りにぞろぞろと町の人々が出てきた。
 多くの人は起こったことを理解できないでいたが、中には術士の仕業だと気づき、眉をひそめる者も少なくなかった。彼らは術士が大いに暴れた、五〇年戦争を体験してきた年輩者だった。
 三〇年ほど前に終わった五〇年戦争で術士、とくに戦闘を専門とする戦術士は、正義の名の下に多くの民を殺した。ハーシュヒルで術士が厭われるゆえんである。
 術攻撃を喰らった少年は、かろうじて命を取り留めた。だが、まもなく数々の窃盗罪で監獄に入ることになる。
     *        *
 北門詰所の裏出口から町を出たウィルは、街道沿いに北へ走り続けた。
 抱え上げられたままのステラは、ウィットフォールが怖くてしばらく震えていた。
 だが落ち着いてくると、ウィルの体力に驚いた。ステラは軽いとはいえ、体重三七キロバグ。二人の荷物も合わせると六〇キロバグにはなったはずだ。
 三〇フック後、周囲が生きた草地になったところでウィルは止まった。ステラを降ろす。そこは越冬種の野草が群生する草原だった。
 ウィルは軽く深呼吸しただけでけろりとしていた。鍛え方が尋常ではない。
 と、ステラが石像のように動かない。
「……ステラ、大丈夫か」
 ステラは五パックほど黙っていたが、
「すばらしいですわ!」
 突然両手を胸元で合わせ、まるで旅芸のスターを見るように瞳を輝かせた。
「世界は広いですわ!」
 ウィルはステラの急変に軽く身を引いた。
「お……」
「すばらしいわ! ああ、まさにジョージ・ザ・ドラゴンマスターに守られていた気分でした。古くはハイランド・ゼファーや闘士ベルクの側にいるような――」
「おいおい」
「どうしてこれほどの力を隠していたの、ウィル。ド=エドのジュール将軍やレッドボーン・キリングのごとく、晴れ晴れしたナイトぶりでした……くしゅん」
「寒いだろ、なにか着ろよ」
 ステラは、ずっと寝間着のままだった。
「あら恥ずかしい……」
 ステラは荷物を開き、絹の羽織を取りだして寝間着の上から着込んだ。
 ウィルは自分も着ようと思ったが、新しい鎧もマントも宿屋に忘れてしまった。仕方ないので、昨日までのぼろマントを着ける。
 二人で座り込む。ステラは機嫌よくウィルを見つめる。仕草が可憐なので、ウィルは熱い視線をやり過ごすのに苦労した。
「ステラ……」
「なあに?」
「おまえ、英雄ファンだったんだな」
「ふぁん?」
「好きだってことだ」
「英雄の話は大好きよ。神父さまがたくさん教えてくれたの。一等好きなのはジョージ・ザ・ドラゴンマスターとウインドだわ」
 ドラゴンマスターは正体が不明の、ハーシュヒルの守護神だ。幻獣の竜を操る。幻獣とは言葉を理解する獣の総称だ。
 ジョージの初登場は光暦一八八年、ハーシュヒルとド=エドの戦乱を回避させた。
 五〇年戦争の再来を防いだのだ。
 一躍勇名を馳せた彼は、竜に乗って年のはじめには必ずグランディス城を周回飛行する。内外に健在をアピールしているのだ。首都近郊に住むステラは、遠影であるが姿を拝む機会に数度恵まれた。
「ドラゴンマスターは俺も知っているが……」
 ウィルはすこし間を置いた。
「ウインドって誰だ?」
「あら、知らないの?」
 ステラは人差し指を立て、得意な顔になる。
「風術士でありながら剣士であるウインド。大陸術士協会に追われる男よ――」
 術士は各国の管理下にあるが、傭兵と同様、術士登録を監督する国際機関が存在する。登録されていない術士はもぐりとなる。
「――どこの国にも任官しない、流浪の救済者。生ける救世主伝説。見かけの年は二〇歳前後ながら、風の禁術で不老になった、一〇〇年を生きる聖人!」
「な……なんと」
 ウィルは顔面に右手を当てた。
「どうかしました?」
「いや。そいつは俺の知る範囲では、疾風剣士――ゲイルフェンサーと呼ばれている」
「面白いわ。ウインドもゲイルフェンサーも、風術をイメージする呼び名だわ」
「だが名前ではない」
「そうよね。別に本当の名があるのよね」
「まあ名前は大事だが、時には重荷の場合もある。いろんな呼び方も有りだろうさ」
「いろいろあると混乱するわ」
「あくまで認識の記号さ。本人が自己を自覚していたら、通り名は自由だろうさ」
 ステラは首を傾げた。
「そういうもの? ならもしウィルが私を通り名で呼ぶなら、どう呼ぶの?」
「……世界は広いですわ」
 ステラは反応できなかった。
「おまえは『世界は広いですわ』さんだ」
「ええと……」
 ステラは戸惑った。
「もしかして私をからかってらっしゃる?」
「ああ、世界は広いですわさん」
 ステラの顔がみるみる赤くなっていく。
「なんて方! 私は真面目でしてよ。こんな方がいるなんて、まったく――」
『世界は広いですわ!』
 ウィルとステラ、見事なハーモニーだった。
 世界は広いですわさんは絶句した。
 目論見が当たったウィルはにっと笑う。
「きのう買い物のときに俺を『拾った』などと茶々いれただろ? お返しさ」
「……わかりました」
 ステラの瞳に、決意の光が宿る。
「ウィルは雇ったのでなくて。私が拾ったの。これからずっとそれで通すわ」
「おいおい……」
 ウィルが反撃してやろうと思ったとき。
 ぉぉぉぉぉ――
 かすかな地鳴りが聞こえてきた。
 とたん、ウィルの表情が一変する。
「……どうしたの?」
「ち、話に夢中になってるうちに、本題を忘れてたぜ――ステラ」
 真剣な声で呼ばれステラは条件反射で、
「はいっ」
「俺は先生じゃない、そんな反応をするな――術士修技館を抜けだしたおまえの居場所が簡単に知られたのはわかるな」
「そういえば、なぜ?」
「地脈走査だ。珍しい石を持ってないか」
「珍しい石……まさか、これかしら?」
 ステラは胸元から首飾りを取りだした。
「術弟子の証よ。肌身離さず持ってるの」
 飾りは蛇の彫られた魔除け石。月明かりなのでよくわからないが、ガラス質の光沢が見られる石――黒曜石であった。
 なるほど、滅多にない火成岩だ。
「これは証というより、脱走者を探すための識別標のようなものだぞ」
「え――うそっ!」
 ステラは首飾りを外すと放り投げた。蛇の魔除けは草むらの間に落ちる。夜なので見つけるのは困難だろう。
「おいおい、これで弟子でなくなったぞ」
「どうでもいいわ。それよりも逃げましょう」
「だめだ。待つぞ」
「なぜ?」
「ここなら勝てる」
 ステラは周囲を見回す。そして納得した。
「なるほど――土も石もないものね」
     *        *
 街道の上を疾走するウィットフォールは、走査の反応が白い街道の延長から逸れてきたのにいやな予感を覚えた。
 なにしろ地術で扱えるのは無機固体なのだ。草地や有機物で肥えた土や水気の多い泥となると、水と地の二力素に通じた農術士――グレインマスターの出番となる。
 見れば街道沿いの草は越冬種。追われる状況下で地術士対策を立ててくるとは――
「トライヒルめ、やるではないか」
 ウィットフォールは動じていない。
「もっとも、俺には奥の手があるがな」
 やはりだ。
 二人は越冬種の草が生えている場所で待ちかまえていた。街道から一五ヘクトフィングほど奥に立っている。
 ウィットフォールは土粒の滑走を解除した。土塊が崩れ、ウィットフォールの足元から周囲に広がった。土煙の中に、ウィットフォールはゆっくりと降り立つ。
 立っているのは、細い一筋の舗装路。
 ここからはなかなか動けない。
 ウィットフォールは慎重に事を進める必要があると判断した。そして自省する。最初は早まり、あまりに軽率だった。
 地術士は脱走者をじっと見つめた。
「ステラ・トライヒル」
 呼びかけられたステラは視線を逸らした。
「ステラ・トライヒル、返事をしろ」
「……はい」
「帰るぞ」
「いやです」
「……なぜだ? 生活に不満はあるまい」
 ステラは首を横に振った。
「いやですわ」
「なぜいやなのだ。なぜ脱走した」
「一切言えませんわ。遠話ですべてが台無しにされますもの」
「ならば仕置きを受けることになるが」
「ウィットフォール先生の体罰はいつも常軌を逸していますわ。とくにさっきは――」
 ステラは精一杯の勇気で、苦手なウィットフォールを見据える。
「どうして術弟子の私に、下手をすれば大怪我を負う破壊の術を使ったのです?」
 そのうす茶色の瞳には、言いえぬ不審が込められていた。
 ウィットフォールは失敗を悟った。
 弟子への術攻撃、町中での破壊活動、暴行行為。普段よりときおり覗く衝動的な性向が、一気に噴きだした。Fへの過度な対抗意識や陰鬱な誕生日がなければ、きっと爆発はしなかっただろうが……
 すでに言い訳が利く類の失態ではない。
 だからと言って処罰を免れる方法はまだ残っている。過失以上の成功を収める機会が、目の前にあるからだ。
 すなわち、トライヒルの確保。
 確保対象には傭兵がついている。戦闘になるだろう。武器を持った相手と戦うのは三〇年ぶりだ。人を殺したことは、もちろんある。かつて戦術士だった頃だ。
 昔の戦術士は、静かに正面をむく。
 敵は、無言のままの不気味な赤髪野郎だ。
     *        *
 ウィルは思った。
 黙ったままで不気味な術士だ。
 ステラに弁解の余地もない事実を指摘され、土色の長衣の男は動かなくなった。ときおり風が吹き、男の顎髭が貧相に揺れている。
 ステラに釘を刺されるまでもなく、ウィルに切る気などない。命を賭すとでも言わないかぎり、彼女の知己の命を奪うのは後々を考えれば得策ではないだろう。
「おい、傭兵」
 ふいに、ウィットフォールが仕掛けた。
「武器を抜け」
 これはまた、ストレートな挑発だ。
 ウィルは短く鼻息を噴いた。
「いやだね」
「戦士なら堂々と戦え」
「冗談じゃない。剣を抜いた瞬間に、あんたの正当防衛が成立するだろが。そうすればそこから大技一発で俺はおしまいだ」
 もっともそのときステラも無事では済まない。ウィットフォールにとって本末転倒だ。
 ステラは体を小さく震わせた。
「怖いわ」
 ウィットフォールは攻める方向を変えた。
「貴様、トライヒルを盾にするとは悪人め」
「――はあ? 俺は正義の味方だぞ」
「自分で臆面もなく言うか、この詐欺師めが。戦士の、騎士の誇りは一バグもないのか」
「あいにく俺は傭兵だ。五〇年戦争で自滅した貴族連中の、有りもしなかった騎士道など知らん。義理は重んじるがな」
「そうか……」
 ウィットフォールは目をつむった。
 考えている。
 ウィルはステラを背後に隠した。さあ、この乱暴教師はどう来るだろうか――
「……俺に人質は通用せんぞ」
 ふいに、妙なことをつぶやく。
「なにが王政打倒だ、革命権だ。きさまら神から授けられし神聖なる王権の威を――」
 一五ヘクトフィングも離れているのに、そのつぶやきは風に乗って聞き取れた。
「――なんと心得るか!」
 突然であった。
 ウィットフォール周囲の地面が弾けた。
「襲え!」
 数百の石礫が空中で止まり、ウィルを、いや、ウィルとステラを狙って飛んできた。
「ちっ!」
 失敗だ。見かけ通り偏狭で短気なやつめ。
 ウィルはステラを庇ってその場に伏せる。
 多くは頭上をかすめただけだったが、散礫のいくつかがウィルの背を強打した。
「うっ――」
「ウィル大丈夫! ごめんなさい、あの先生嫌いですわ嫌いですわ嫌いですわ! ……痛めつけてもいいわよ。でも殺さないでね」
「主人は無理を言うものぞ、とは至言だな」
 石飛礫の嵐がおさまるやいなや、ウィルはステラを胸に抱きかかえ、一目散に危険な先生から離れた。
 ウィットフォールはすかさず奥の手――
「掘り進め!」
 地鳴りとともに、足元の土が、ポップコーンのように掻き回された。
 微震を起こしつつ、一気にウィルのほうにむかっていく。人が四、五人歩ける幅で草原が掘り返されてゆく。
 そこにウィットフォールは走り込んだ。
「これは地裂爆進――農耕術か!」
 ウィルは術をジャンプして避ける。だが降りた場所はすでに、畑のように掘り返されて土が剥き出しだ。
「草地の優位が……」
 ウィルは中腰に構えた。ステラを抱えているので、足技しか使えない。
 ウィットフォールが両手を交差させた。
「なにもさせぬわ!」
 間髪つけず、ウィルの足元だけでなく、前後の地面にいくつもの盛り上がりができた。
 一〇個ほどの大噴出。
 濃密な土埃があたりを覆う。
 ウィットフォールは勝利を確信した。
     *        *
 土煙にもまれながら、ステラはウィルがなにかを短く唱えたのを聞いた。
 急に不思議な浮力が働いた。
 煙の流れを無視して体が動く。
 目や鼻、口に土埃が入ってきた。
 混乱しつつ、ステラは気を失った。
     *        *
 煙が消えた跡には誰もいなかった。
 ウィットフォールは月明かりが弱いせいだと思い、また念入りに探した。
 だが、本当にだれもいなかった。
「……どこに行った?」
 答えが返ってくるはずもなく。
 地脈を探ってみる。
 ――反応があった。近くだ。
 ウィットフォールが見つけたのは、なんと捨てられた黒曜石の首飾りだった。
 なんということだ……
 このままでは、独断専行と過剰な暴力の責めを受けることになる。
 焦ったアースマスターは、爆散の跡地を三度歩き回った。地連割砕という派手な術を使ったので、探すべき範囲はかなり広い。
 ――俺は常に競争した。常に敵を探し、常に蹴落とそうとしてきた。そうすることで、俺は戦士で在り続けることができたのだ。
 今回のチャンスは最たるものだ。絶対に成功させ、嘲笑う連中に思い知らせてやる。
 なのに――どこにもいない。
 ウィットフォールは途方に暮れた。
 なぜいない?
 チャンスなのに……
「どこに行ったぁぁぁ――!」
 一三パック後、大地が鳴動した。
 地震だ。
 妙な地鳴りとともに、縦方向のわずかな揺れ――が、数パックしてどんという音とともに、掻き回す揺れになった。
 近辺の活断層に働きかけ、一時的に摩擦係数を零にする術だ。ひずみの溜まっていた浅い活断層系があったのか、揺れは激しい。
 眼前の土が急に盛り上がる。周囲から圧縮された逆断層が地上に達した。
 小さな土煙が立つ。轟音と揺れは最高潮に達し、ウィットフォール自身も立っていられず、腰砕けに転んだ。
 転んだウィットフォールは、自然、空をむくことになり――そこで彼は、ようやく探し求めていた者に出会った!
「おいおい、地震なんか起こして意味があるのかよ。地理院の地震予測研究官が怒るぞ。それとも博物地術学者が泣くかな?」
 そいつは気を失った獲物を抱いたまま、にやりと笑う。
 ――空中に静止して。
「これから俺のやることはな、正当防衛だぜ」
 そいつはついに、剣を抜かなかった。
     *        *
「大丈夫か?」
 ステラが目を覚ますと、ウィルが半身を起こしたステラの背中をさすってくれていた。
 ウィルの姿が日光に照らされてはっきりと見える。朝になっていた。ウィルは見るも無惨に土埃で汚れていた。顔だけは拭いたのか綺麗だ。赤い髪もうす茶色に濁っている。
 ステラはなにかしゃべろうとしたが――口の中にざらざらとした違和感を感じた。口の中に土が入っている。軽くせき込んだ。
 ステラは自分も汚れているのに気付いた。かわいい寝間着も、お気に入りの絹のガウンも台無しだ。
 おそらく自分の黒い髪も悲惨な色だろう。触ると、やはり髪はごわごわしていた。湿った土で汚れたのが乾き、すっかり貼りついてしまっている。
 顔を触る。顔だけはきれいだった。ウィルが拭いてくれたのだろう。鼻や耳の穴も大丈夫だ。さすがに口の中だけはできなかったようだった。
 これほど汚れて怪我がないのが不思議だが、そこまでステラは気が回らなかった。生まれてかつてないほど汚れたことに、とてもショックを受けていた。
 これでは……ティムの前に出られない。
 ステラの目に、涙が溜まった。
「……汚い。おまけに臭いわ」
「しゃべられるなら大丈夫だな。ショック性の症状もないようだ」
「ウィルもすごいわ――着替えは……」
「ほかの荷物もみんな土まみれ、全滅だ。着替えはない。派手にやってくれたものさ」
 ステラは犯人を思い出した。
「ウィットフォールは?」
「ついに敬称なしか。まあしょうがないな。死にかねない攻撃を弟子に加える先生なんぞ、教職者の風上にもおけないからな」
「どうして私に酷いことを」
「あこがれさ」
「あこがれ?」
「あいつはきっと、あの年で戦術士でいたいのさ。若い頃は戦術士だったのかもな。だがいまはちがう。現実は戦術士気取りの半端な暴力教師――そのギャップで、きっと人生かなり損してきただろうな」
「それで結婚もできなかったのね。でも私には関係ないことよ。どこにいるの?」
「聞いてどうする」
 ステラはガッツポーズを取った。
「一発殴ってやる」
「……あそこだ」
 ウィルが指し示したほうを見ると、そこにはしおれた草のうえにぼろぼろの暴力教師が転がっていた。自分の服の切れ端で縛り上げられており、体中が打撲傷だらけだ。
「勝ったのね」
「俺が数発蹴ると、小便を漏らしながら泣いて許しを請うたんだぞ」
 ウィットフォールが身をよじらせ、うーんと唸った。口をタオルできつく塞がれ、一言もしゃべることができないのだ。
「むこうは別の見解があるようだけど」
「だがしゃべらせるわけにはいかん。口を塞がないと気合いで大技を使われる」
「ふうん。いい気味よ」
「殴るか?」
「もちろん」
「ステラ、本当にお嬢さんかよ」
「私は牧場で乗馬をしてたのよ。木登りもできるし、けっこうおてんばよ!」
 ステラは本当に殴った。拳で。
 左顎にストレートを食らい、ウィットフォールは気絶した。文字通り目を回している。
「……痛い」
 ステラは自爆したようだ。右拳を震わせてしばらく辺りを小走りしていた。

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