三九 外:あやや風土記

小説
ソード妖夢オンライン7/三七 三八 三九 四〇 四一 四二

 ソードマスターズは今日も絶好調でした。明日は第四九層ですね。
 就寝前に宿屋の一階でくつろいでいますと、アスナさんから質問を受けました。
「どうして機械式カメラが欲しいかですか?」
「はい、記録結晶でいいでしょう?」
「ダメダメ、性能が論外です。結晶カメラは反応もレスポンスも遅くてスナップすら出来ませんよ。起動して撮影モードにして構えるだけで五秒も掛かるなんて、写真を舐めてますねデザイナー。一秒以内、一秒以内が最低限。しかも露出系の各種専門ダイヤルで設定を固定できておくタイプでファインダー付き。これらは譲れません。できれば絞りリングがあれば最高ですね」
 しまったです、アスナさん引いてますね。
「……言ってることの半分もわかりませんが、情熱だけは伝わってきました」
 良い子ですね。
「ついでですから、どうして私がカメラへ執着するようになったか、お話でもしましょうか? アスナさんが聞きたがっていた幻想郷についても、まとめてお話できると思います。面倒ですから私の生い立ちから行きましょうか。長くなるかもしれませんがどうです?」
「いいですね。えーと、いまは夜中の一〇時ですから、一時間ていどなら」
     *        *
 西暦六〇〇年代、近江国は蒲生、琵琶湖を見下ろす里山で生まれたと思います。ただのカラスでした。性別はメス。でもオスのカラスとつがいになるのが嫌で、人間ばかり観察してるおかしな個体でした。近くの人里に飛んでは、きれいどころの女の子たちを眺めてため息をついてました。
『あやや~~あんなふうに着飾りたい』
 私の羽根も羽毛も黒いのに、おなじ黒い髪を持つあの女たちは――飛べないかわりに「美しい」んです。
 人間の女を美しいと本気で思っているカラスでした。人間の想像力が作用してて、すでに変化してたんですね。偶然にも選ばれたんですよ、あらたなる妖怪の器として。
 動物系統の妖怪には、元が本物の動物だったりする個体もいます。私がその一例です。
 あるとき起きたら、頭の中身がすっかり造り変わってました。これまで知らなかった言葉が――人間の単語がどんどん頭に入ってたんですよ。
「あややっ!」
 声帯まで変わってました。人間の声でしゃべるんです。若い女の音でしたよ。妖怪カラスになってました。
 里にいって物影からいたずらを始めました。妖怪の基本は人間を驚かせることですからね。
「おまえさんおまえさん、足を挫いたから助けておくれ」
 そんな感じで若い男をなにもない空き地へ誘ったり。
「みんなー、おいしい実がなってるよー!」
 子供を騙したり。
 半年もしたら物影に潜む謎の声を発する妖怪として……べつに恐がられてませんでした。
 しょせん四歳のカラスで人間にも興味津々ですから、あまり悪いことを思いつかないんですね。妖怪なんてそこら中にいて生活の一部でしたし。一年後に姿を見られ、いたずらカラスとして子供たちの罠にかかって捕まってしまい――そのまま飼われてしまいましたよ。べつに鳥籠に入れられたり、紐で縛られてたわけじゃないですよ。餌付けされるとカラスって逃げないんですよ。鳩なんかとおなじです。賢いですから、安全に暮らせてエサの心配がないなら大人しくしてるんですね。自由を求めたりとか、権利を求めて闘争とか、そんな大層な思想もありません。
 妖怪で寿命がありませんから、飼い主のほうが先に死んでしまいます。人の手を渡っていくうちに飼い主の身分がしだいに高くなって、五〇年くらいしたら豪族のお屋敷で世話になってました。その当主がある日、黒くて小さな冠みたいなものを私に被せたんですよ。
「神仏調和とかいう神と仏をごちゃ混ぜにしたおかしな行者(ぎょうじゃ)と口論になってな、そいつが術で空を飛べると抜かしおった。飛べるのは神か妖怪、あるいはその血を引く者と昔から決まってる。血脈の裏付けがないただの人間におおきな奇跡を起こせるものか。術比べに出て貰うぞアヤマル」
「あややややっ。ご主人さま、それは詐欺です」
 私が最初から飛べますので勝負になりません。しかも崖から飛び降りるそうです。
 かわいそうな神仏調和の人は普通のおじさんでした。四〇歳すぎで、頭に変わった帽子を被っており、真上から見ればまるで開いた傘、一二片の三角形に分かれています。これから死ぬかもしれないのに、自信満々で笑っていました。
「そちらがおぬしの行者か。なかなかに小さいの」
「名はアヤマルという。誰よりも高く長く飛べるすばらしい術の使い手だぞ」
「あやややや、すいません。降参するならいまのうちですおじさん」
 まず私が飛び降りました……あたりまえですけど、翼を広げてすぐ崖の上に戻ってきます。
「さすがに鳥は軽やかじゃのう。さて、つぎはわしだ」
 ふいっと崖より足を一歩ふみだしたおじさん、迷わず空中へ足を投げて――なんと落ちません。まるでそこに大地があるように、すたすた歩いています。空中で静止していますよ。
「すごい、おじさんすごいですよ!」
 私は興奮しながらおじさんの周囲を飛びまわります。おじさんが死ななかったことが嬉しかったんですよ。勝ち負けなんて最初からどうでもいいんです。
 でもご主人さまが怒っておじさんを追いかけてきました。
「崖を見えなくしてるんだろう! この幻術師が!」
 ……あ。
 気がつけばご主人さまが崖の下で真っ赤なお花になってました。困りました、お屋敷に戻ればきっと殺されます。
「おまえ、わしのところに来るか? 葛城山というところだが」
「お世話になります」
 役小角(えんのおづぬ)を名乗ったおじさん、神と仏をミックスし自力でまったく新しい呪法を編み出した天才でした。ひそかに神の血――八咫烏(やたがらす)の子孫だそうで、陰陽博士を大勢輩出している賀茂氏の出身だそうです。でも才能が足りなくて自分では大きな技を使えず、なんとかしようとしてるうちにオリジナルの術を編み出したんです。おもに式神を使役して不足を補っています。呪文もなしに空を歩いたのも式神に支えてもらったからだそうです。私も彼の式になりました。名前は読みそのままで「文丸(あやまる)」。教養のあるお方で漢字をいただきました。
「おまえは外面や体裁にこだわる傾向がある。内はとにかく外は綺麗でいたいとな。文という字はその(たい)を表している」
 式神としての私の仕事は、おもに偵察や伝書でした。新興宗教家の役おじさんには敵が多く、いつも勝負を挑まれていました。同時にその徳から頼られ、いろんな相談や助けを求められてもいました。私はただのカラス妖怪でしたが、頭に赤く目立つ頭襟(ときん)を被り、行者の式であることを示してました。任務中は目立たぬよう黒でした。
 式の活動をしてるうちに妖力が高まり、一〇年ほどで人間の形を取れるようになりました。若くて美しい姿です。私がかつて思い描いてた理想の姿そのままで、変化(へんげ)に成功した瞬間、跳ねるように喜びました。人の形をした妖怪は髪や目が違うものですが、私は人間とおなじ黒い髪。黒髪は人間と私をつなげる妖怪としてのルーツですから譲れません。力ある者の証として目のほうは赤くなりました。
 貯めていたお給金で小綺麗な服を買い、役おじさんに見せたら大層おどろかれましたよ。
「わしがもう三〇歳若ければ、まちがいなく嫁にしたぞ――人間の姿でいるときはただ(あや)と名乗れ。最後に丸を付けるのは動物か半人前だ」
「はいっ! 人の私は文です」
 人妖になれたのはいいのですが、問題は空を飛べなくなることです。翼に頼り切ってました。けっきょくお務めはカラスに戻ってやってましたが、人の姿でいるほうが頭脳も冴え、両手が自由に使えます。だから日常ではずっと人でいました。同僚のアドバイスを受け、妖力だけで飛べるように頑張ってましたが、残念ながら滞空術を覚える前に役おじさんが六八歳で亡くなってしまいました。
 入寂と同時にご遺体が燦然と輝き、仙となって天へ昇っていきます。生前の功徳がすばらしくて天仙になられたんですね。仙の思想は道教ですが、原始宗教・神道・仏教・密教などを適当に混ぜてさまざまな奇跡を起こす面白い宗教ですから、道教であろうが自在です。
「役おじさーん!」
 天へ駆けるご主人を追いかけてるうちに、私は人の姿のままで空を飛んでました。背中よりカラスの翼だけを出して、鳥のように飛ぶイメージで。初飛行でした。
 解放された式は多くが去っていきましたが、私は残りました。わずか五歳からずっと人間に飼われてましたから、いまさら野生に戻る気もなくて。野良妖怪の常識が欠落してますから、すぐのたれ死にしそうで怖かったんですよ。適者生存、弱肉強食ですからね。
 式神の筆頭、前鬼(ぜんき)さんと後鬼(ごき)さんの鬼夫婦が同時に役おじさんの弟子でもあって、私は彼らが大峰山に開いた宿坊へ間借りしてました。質素な僧坊ですが名前だけは怖そうで、前鬼坊といいます。管理人が鬼の夫婦ですし、妖怪の行者も多かったです。鬼族は妖怪でも龍族と並ぶ最強種ですから、彼らの保護下にいれば安心でした。
 教義から混ぜ物であったように、役おじさんは明確な教団を残しませんでした。各地の深山幽谷に修行場が整備されただけです。弟子たちは役おじさんの教えを伝えていき、修験道と言われるようになりました。教典すらない自由な宗教ですからずいぶん荒っぽい修行を好んだりします。火の上を歩いたり滝に打たれたりと、山伏ですね。
 妖怪が身近な山奥に暮らし、修行する修験道。最初から妖怪の弟子がいたように、人でない信者も多かったです。この影響で役おじさんの生前から天狗という妖怪種族が発生していました。天狗として生まれるというより、ほかの妖怪から「天狗になる」ほうが正しいです。修験道が混ぜ物なので、似つかわしい起源だと思います。
 天狗は最初、種族名じゃなく役名でした。私たち妖怪は寿命や病気では簡単に死にませんから、人間と同格に扱ってるといずれ組織の上位を占有し困ったことになります。人間のための道ですから、外道が上にいると都合がつかないんです。そこで幹部になれないかわりに天狗という名誉号を贈って、人外の行者を讃えてたんです。役小角おじさんがそう決めたのでみなさん従ってました。いわば差別ではなく区別ですね。
 人間の思い込みパワーはすごくて、やがて死んだ行者が法事中に天狗として(よみがえ)る事例が出てきます。中には生きてる間に天狗へ解脱(げだつ)する人までいました。人生をかけた修行の目的が「天狗を目指す」になっちゃうんですから、おどろきです。修験道および密教より生じた天狗は、妖怪といっても尊敬の対象ですからね、神仙になるより難易度は低いですし妖怪でいつづけるのも楽です。さらに無病不老の特典付きなら、山伏たちも天狗を選びたくなりますよ。
 天狗は中国由来の妖怪で、彗星や流星を天を走る(いぬ)に見立てたのですが、最初から間違ってる日本の天狗はまるで別物でした。本場は青白いワンちゃんなのに日本は(からす)が主流で、イメージカラーも黒と赤と白です。夜空に黒だとまったく見えませんね。面白すぎる食い違いです。
 私が知ってる範囲だと天狗第一号は前鬼さんです。前鬼坊前鬼を名乗り……そのままですね……のちの八大天狗に名を連ねるどえらい大天狗となります。おなじ大峰山前鬼坊に所属していた私も役おじさんの五〇周忌に天狗へ奉じられました。前鬼さんより贈られた号は文々丸(ぶんぶんまる)です。可愛らしい外見に合わせたそうですけど、前鬼坊文々丸なんて、個人的にはまるで犬畜生みたいな酷い法名です。数年後になかったことにしました。つまり思い切って大峰山を出たんです。言霊(ことだま)などもありますから、そうすることでしか名を捨てることはできませんでした。名前がいやだから安全を手放す――役おじさんが見抜いてたように、私にはこういう潔癖なところがあります。
 ただの文となり自由を謳歌してましたが、半年で飽きました。
「どうしましょう。まさか私がこれほど自由な暮らしに向かない性格だったとは」
 生まれ故郷の近江に戻り、街道筋の宿場町で酒に囲まれてくだを巻いてました。私の周りには酒樽がみっつも積まれてます。お金の心配はありません。山賊夜盗の類を捕まえ役所にしょっぴけば、報奨で簡単にまとまったお金を稼ぐことができますから……人のため尽くしていた役小角おじさんの影響で、なんとなく正義の味方みたいな商売をやってました。それが末弟子の生き方なのかなって。でも路銀がなくなるまでつぎの仕事をせず自堕落に遊んでるなんて、護法の権現たる天狗らしからぬ放蕩ぶりですね。
「羽振りのいい女がいると聞いたけど、えらい若いねえあんた」
 短髪の少女が私の部屋へあがりこみ、酒を呑み始めます。
「……なに勝手に人の酒に手を付けてるんですか」
「いいじゃんいいじゃん、美味しいものは一人より二人だよっ」
 調子の良い女です。見た目は一五歳前後で私とほぼ同等ですが、むろん――
「あなた妖怪ですね。いくら黒髪でも赤い瞳は隠せませんよ」
「あれ? 私が『視えて』るんだ天狗ちゃん」
「こう見えて高名なお方の式神をやってましたからね。あやしげな手管が迫れば自動的に無効化するお守りを持ってます」
「ふうん、面白い子だね――呑み比べしない? 負けたほうが全額払う」
「面白い、受けて立ちましょう」
 天狗になったおかげで酒に強くなりました。修験道の混ざりネタのひとつ神道が、神と酒を強く結びつけてます。それをたぶんこの妖怪は知らない――
「負けら~~悔しい。天狗ちゃんつおいよー」
「あっはっは、勝ちれす。名乗れ妖怪」
「あたしの名はぬえ、種族はぬえ、能力もぬえ」
 ぬえって鳥の名前じゃなかったかなー?
「知らなーいでーす」
「あはははは、ぬえを知るのわぁぬえだけ、ぬえは誰にもわきゃらない妖怪なのらー」
「ぬえは楽しそうに生きてまふねー」
「んー? 天狗はひとりがダメなのかー?」
「そーみたいれす。天狗は仲間がいないと寂しくなる妖怪なのです。ぬえちゃん、良かったら私といっしょに旅でもしらーいです? おなじ黒髪で赤いおめめれすしー」
「ごめんねー、ぬえは孤独なほうが気楽なんらー。かわりに天狗ちゃんにいいとこ紹介してあげるー」
 ――鞍馬山という場所に、カラスの天狗がたくさん集まってる。
 人に聞くとわりと近くでした。歩いても二日でつきます。ぬえさんに教えられた鞍馬山へ行くと、たしかに私とおなじ気配を持つ天狗さんが何十人もいました。仲間になりたいと伝えるや、簡単に受け入れられました。初めての女の子ってことで大歓迎だそうです。みなさん女っ気に飢えてたんですね……
 こうして私は鞍馬山に棲み着きました。お山のボスは天魔(てんま)さまといって、いつも仮面をかぶっている剣の達人。暇さえあれば剣の修行に余念がなく、のちに八大天狗へ名を連ねる強力なお方となられます。
 カラス妖怪には天狗の素質があるらしく、数が多いそうです。そこでカラスを出自とする天狗を鴉天狗と呼ぶようになりました。鴉天狗の文です。天狗だけど法号なしでお気楽ですよ。
 鞍馬山でのお仕事は哨戒と見張りでした。剣を手にして侵入者を追い払ったり、手に負えなければ異常を上へ伝えたりします。天狗になって新しい能力に目覚め、風を操れるようになっていました。応用すれば風を纏った高速飛翔もできます。その速さを買われ門番みたいな役割になったんです。天狗の聖域に入っていい客人は修験道の山伏と密教の僧侶、あとは仲間になりたいという妖怪か、ほかの山の天狗でした。
 哨戒役になって何十年かしてのことです。見知らぬ高貴な武人が狩り装束で鞍馬山へ侵入してきました。どうやら隣の貴船山と勘違いして入山してしまったようです。どう見ても将軍クラスの貴人ですが、ルールはルール、仕方なく風を使った遠声の術で警告します。
「山を間違えていませんか? ここは鞍馬山、こわーいこわい天狗の領域ですよー。去らないと食べちゃいますよ、がおー」
 するとその御仁、いきなり二〇〇メートル以上離れた私へ矢を放ったんです。森の中でこれだけ離れると人には姿なんか分からないのに、人間離れしたすさまじい視力と、さらに腕力です。どれほどの強弓ですか。
「あややっ!」
 油断していた私は避けきれず背中の羽根を射貫かれ、枝から落下してしまいました。まじないで妖怪の体を傷つけられる破魔矢でした。モノノケが多いですからね。
「まさか当たるとは思わなんだ、すまん」
 介抱してくださった御仁、名を坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)さんといいました。三〇歳前半のナイスミドルで、将来有望な近衛少将です。
 そのまま天魔さまに謝罪したいと言われたので案内すると、天魔さまへ行き着く前に大天狗さんから雷を落とされました。
「たとえ事情があるにせよ禁を犯すとは、一時追放だ! しばらく山へ戻ってくるな!」
 あややややっ、先触れもなく将軍を連れてきたのが違反でした。種族として誕生し一〇〇年ちょっとしか経ってませんので、天狗社会はどこもまだ歴史が浅く、規律のため些細なことで重い罰を与える傾向があったんですよ。天狗って窮屈な妖怪ですけど、狭いところに集中して暮らしてますから仕方ありません。
「追放されちゃいました。どうしましょう」
「なら俺の元で働いてみないか? ちょうどおまえみたいに便利そうな使いっ走りが欲しいと思ってたところだ」
「これでも清く正しい天狗ちゃんですよー? ひどいですね将軍さま」
 まもなく征東副使に任じられた田村麻呂さん、なんと東海道から陸奥(むつ)へ大遠征です。私も家来としてはるばる付いていきました。可憐な少女ですから女っ気のすくない陣中では大人気でしたよ。田村麻呂さんとっても有能で、私はいつも立役者の側にいられました。べつに私が優秀なわけじゃありません。将軍の言うとおりに動いていれば自動的に大小の功績が転がり込んできました。連戦連勝、田村麻呂さんの参加する戦いはほぼ一〇〇パーセント勝利が約束されていましたから、鼻が高かったですね。
 長岡京へ戻ると田村麻呂さん軍功に合わせて昇進を重ね、私もお給金アップです。都も平安京へ遷り綺麗な官舎で心機一転、数年してまた東北へ派遣されました。今度は晴れて征夷大将軍でしたよ。この官職としては二代目だそうです。
 二度目の大遠征も陸奥の蝦夷(えぞ)をどんどん押していきました。私も従軍していろいろな工作や伝令をやってました。最初から裏方ばかりで兵士としては戦っていませんね。少女そのものの外見ですし、鎧も着てませんでした。女の兵士なんて当時は考えられなかったんですよ。それでも超常のバケモノが出れば私の出番です。田村麻呂さんを含め妖怪退治が可能な人材は限られてましたから。そんな調伏した妖怪の中に、変わった魔法の道具を持つ者がいました。
葉団扇(はうちわ)ですか……」
「生まれてより一〇〇〇年、はじめて我を倒ししそなたの勇にふさわしき法具よな、受け取れい」
 鬼神の悪路王(あくろおう)さんが、枯れ木のような腕を伸ばし一枚葉の団扇をくれました。
「――それは落葉を拒むあまり妖怪化した古代モミジの呪具。葉を散らすのは風、ゆえに風の力を持つ者にしか使えぬ。ただの鬼にすぎぬ我はずっと扱えなんだ。このような最期のときになって風に愛されし者と会えるとは、まさに神明。大切に使ってくれ……」
「ありがとうございます」
 悪路王さんは戦いの傷が祟ってその晩に亡くなってしまいました。一切の治療を拒んだんですよ。神だから手当すれば助かるのにわざわざ死を選ぶとは、男の神や妖怪の価値観は良く分かりません。鬼といえども神なので手厚く葬られ、慰撫として首級の木造が鹿島神社へ奉納されました。遠征中に討伐した形ですから、全身像で祀ると朝廷から謀反を疑われます。
 こうしていまも使っている風術の団扇を手に入れました。紅葉のもっとも鮮やかなオレンジ色を永遠に維持しつづける不思議な巨大葉です。モミジの葉ですが大きさが人の頭ほどもあります。材質が葉っぱですけど、やたらと頑丈でどれだけ乱暴に扱っても傷ひとつつきません。驚きの性能はそれだけではなく、私の風能力を大幅に増幅してくれます。おかげで本気になれば竜巻すら発生できるようになってしまいました。
 強力な武器を入手しましたが、剣は捨てませんでした。神の団扇が強すぎて一薙ぎで人を殺してしまいますから、コントロールを覚えるのに五〇年はかかりましたよ。
 京への一時帰国もありましたが遠征は大成功に終わり、陸奥の広い領域を平定しました。恭順した蝦夷の指導者アテルイとモレを連れて戻りましたが、田村麻呂さんの助命嘆願もむなしく、貴族たちが蝦夷の豪族を殺してしまいました。今回の一〇年以上に渡る徹底的な蝦夷討伐は、アテルイが朝廷軍に大勝してしまったのが発端でした。だから禍根を断つ意味もあったのでしょう。
 さらに私が得た葉団扇についても詮議がありました。ただの天狗が持つには過ぎた武器ではないかと。あわや没収ないし収監されるところでしたが、田村麻呂さんが全力で守ってくれました。
「あやややや、御所の貴族さんは怖いですね。私は今後、あまり目立たないようにしましょう」
「……すまぬな文。妙なことに巻き込んでしまって」
 田村麻呂さんのご子息と縁談があって私もあちらも乗り気でしたが、この件が原因で破談になってしまいました。玉の輿を逃しちゃいましたが、まあ葉団扇が残りましたから良しとしましょう。この武器にはずっと助けられてます。
 それから一〇年ほどして征夷大将軍が亡くなると、お役御免となった私は持ちきれない財産をすべて換金し、ひとかかえの金塊を手に鞍馬山へと戻りました。悪路王さんは有名な鬼らしく、彼を倒した私は大天狗への昇進を求められました。命令というよりお願いされる形で。
「面倒だから嫌です」
 あっさり断りました。だって大天狗って元山伏や僧侶が多くて、見かけ上、お歳を召された枯れた人ばっかりなんですもの。給料があるわけでもなく、重い義務だけ掛かってくるんですよ。田村麻呂さんに仕えていた数十年で長く陣中にあった私は、いつも若い人たちに囲まれてました。戦えばかならず勝つ常勝集団ですから、元気いっぱい活力と鋭気に溢れた職場です。そんなのを経験してきた私がいまさら山奥に篭もってるだけのお仕事なんて、永遠不滅に若い体と心ですからとても我慢できません。もっと飛びたい、もっといろんな人と会いたい。世間を見て回りたい。
 何年かしたある初夏、東のほうに龍神さまが降臨された地があるとの噂が届いてきました。龍といえば最強妖怪の一種ですが、日本では数が少ない稀少種です。しかも神となれば超絶レア。
 すぐに私は視察を志願します。東海から坂東、陸奥を転戦した実績がありますから、適任でしょう。方言はもちろん蝦夷の言葉から風土習慣もばっちしです。
 天狗として人間の形で固定してから、私の頭脳はあきらかにどんどん良くなっています。鳥類では賢いほうですが、カラスでいた時代は小さな頭で脳もミニマム、どうしても限度がありました。それが巨大な大脳を手に入れて変わりました。もっと勉強がしたい。いろんなものを見聞したい。そういう欲求が強くなってたんですね。もうよほどのことがないとカラスの姿へは戻りたくありません。脳が縮まって鳥頭……おバカになります。
 噂話を伝っていく旅がはじまりました。政変など人界の大事を除けば噂が広がるのにとっても時間がかかってましたので、地名などで分かります。遠江国に麁玉川(あらたまがわ)という河川があるのですが、これが中流で広瀬川、上流で天竜川と名を変えます。国府で記録を調べると、元は中流から上流もすべて麁玉でした。つまり広瀬さらに天竜は最近の名前というわけです。由来はあきらかに上流にあり、おそらく将来は下流にいたるまで天竜になるでしょう。
 竜の川を遡って三河国をかすめ信濃国に入ると、諏訪湖(すわこ)という清浄な気に満ちた湖に行き着きました。天竜川はそこでストップですが、湖へ流入する小川がたくさんありますので、竜の降りた地はいずれかの上流か、あるいはここでしょう。近くの大きな神社にそれは美しい女神さまがいて、話を聞けました。すぐ世代交代する人間と違って神さまの記憶は正確です。
「龍神? ああ、それなら南東にある八ヶ岳のふもとさ。何十年か前だったと思うよ。虹の根元に降り立ったのさ」
「若い女の天狗なんて初めて見たよ。あなた髪が濡れてるように黒いね。元はカラス妖怪かい?」
 神奈刀売(かなとめ)さんと諏訪比売(すわのひめ)さん。のちの八坂神奈子さんと洩矢諏訪子さんです。
 そのまま神社に逗留し、時期を見ます。四日後に晴れ渡った日がきたので高々度まで飛行し、八ヶ岳という地域を高所より俯瞰しました。
「……あそこですね」
 風を操る私ですから、届いてくる風の臭いから大地の状態を感じられます。妖気が集中している……強いスポット。
 降り立つと、霧の立ちこめる湖がひとつありました。湖岸に舟を浮かべ釣りをしてる女の人に――あ、髪が黒じゃなく金髪ですから、妖怪さんですね。私よりずっと強い妖気を発しています。しかも悪路王以上に強力な、神さまをも超越する大妖怪の予感です。
「初めまして。何十年か前に龍が降りたという噂を聞いて、京から尋ねてきました。私は文というしがない鴉天狗です。あなたも龍に導かれた人ですか?」
「……この湖はいつも霧が広がっている。周囲の地形から風が通らず空気が滞留しやすいのね。だから雨が降らずとも朝晩に虹が起こりやすいわ」
「自然現象ですよね。それが龍とどう繋がるんですか?」
「虹の字は左半分が虫だけど、虫けらでなく蛇へと連なる。虫偏は蜥蜴(とかげ)や蛙にも付いてるわ。すなわち虹と蛇は関係があると大陸で思われてきたの。じつは虹へと降りる蛇の逸話から虹という字が生まれたのよ――そしてその空飛ぶ蛇とは龍のこと。雨を呼ぶ龍は水を好むし、虹は水がないと発生しない。水と虹と龍、さらに蛇はいずれも切って離せない。ちなみに八ヶ岳周辺には蛇の姿をした神が多いわ」
 きっと調べられることはすでに調べ尽くしてるんでしょう。
「無学なもので、とても勉強になります」
「この島国には蛇の妖怪や神はたくさんいるのに、肝心の龍をほとんど見ないわ。水神さま龍神さまを祀る信仰はかなり多いのに、どうしてなのかしら。鬼と違って龍は神に近く、退治の対象にもされにくいのに。鬼であれば神だろうとも殺すのが人よ。つい最近も鬼神が一柱、滅ぼされたばかり。でも鬼は龍よりずっと多いわ」
 神殺しへ加担した私はすこし複雑な心境でしたが、大妖怪さんのいわんとするところはなんとなく分かりました。
「それはみんな龍の本場である大陸に憧れて、さっさと引っ越しちゃうからじゃないですか? 蛇は飛べませんが龍は飛べます」
 私のなんでもない返事に、大妖怪さんが釣りを中断して私を見上げました。ようやく私そのものへ興味を持ってくれたようです。
「あなたもやはりそう思う? こんな島国じゃ、龍には狭すぎるって」
「龍には狭いでしょうけど、私たち人とおなじ大きさの妖怪には十分に広いですよ」
「そう――ちょっと狭そうだけど、龍神さまも立ち寄られたこの地が良さそうね。私たち妖怪の理想郷とするには」
「妖怪の理想郷?」
「虹の根元には宝が埋まっている。地脈と龍脈がどれだけ濃密に集中しているか、あなたほどの力があれば感じられるでしょう?」
「残念ながら私の属性は風でして……水も木も金も読めません」
「なら京より五行を知る者を呼んでみなさい、きっと気に入るわよ文。私の名は――」
 大妖怪さんが微笑みかけてきました。うわあ、背筋が凍るほど怖いです。
「――私の名は境界紫(さかいのゆかり)。この地を人妖たちの楽園へと変える者よ」
 のちの八雲紫さんとの出会いでした。
 鞍馬山へ戻ってすぐ二次調査隊が派遣され、紫さんの指摘した内容が正しいと判明しました。妖怪変化が元気になれる土地柄で、すでにかなりの妖怪が集まってます。天魔さまが思い切った提案をしました。
「日本生まれの龍がすぐ大陸を目指すように、我々も新天地へ引っ越そうではないか!」
 ちょうど鞍馬山の天狗集団はすぐ近くにある平安京と揉めてまして、下手をすれば討伐隊を組まれる寸前だったんです。平安京は遷都からわずか二〇年あまり、まだまだ開発工事中ですが、あるていど周囲が見えてくるようになると、まずお決まりで怪異退治が始まるんですよ。あとから来たくせに出てけってウルサイんですよ京の貴族たち。すぐ近くに妖怪がたくさん棲んでると目覚めが悪いそうです。知りませんよー? 鞍馬山や愛宕山(あたごやま)の天狗を追い出したら、周辺で抑えられていた有象無象が蠢き出すというのにねえ。宗教より生じた天狗ですから、悪さなんかほとんどしません。龍とおなじく信仰の対象ですらあるのに、それに出て行けって言うんですから勝手ですよねー。
 だから実行しました。
 鞍馬山から天狗たち、一夜できれいさっぱり消失。声をかけてた平安京周辺の天狗たちも誘い、鞍馬山・愛宕山そのほか諸々、二五〇人近くもの天狗が信濃国は諏訪地域、八ヶ岳山麓にある霧の湖へお引っ越しです。一帯を管理していた紫さんもびっくりしてましたよ。まさか二〇〇人以上の妖怪が一度にやってくるとは思いもしなかったでしょう。そんな大所帯を棲まわせておける土地など湖にはなく、天狗らしくすぐ近くの山――八ヶ岳山塊の阿弥陀岳(あみだだけ)を新たな住処としました。元からいた土地神や妖怪と多少は揉めましたが、なにせこちらは二五〇人がまとまってますからね。いざとなれば数と暴力で……力をちらつかせば、みんな大人しく引き下がるしかありません。人間と違って妖怪は簡単には群れませんからね、天狗はそのぶん有利でした。大天狗は多くが元人間ですから、こういう組織作りが得意なんですよ。彼らが鮮やかに土地や権利を奪取……確保していくさまを見てて、私は思いましたね。
 大天狗にならなくて良かった。
 開祖の下で式神をやってたこともあって、純粋な妖力でいえば天狗たちでもかなり上位にいますよ。でもまともな交渉とか威しとか、そんな口での勝負は私には難しいですね。元がただのカラスですし。組織では個人的な力なんか関係ありませんね、重要なのは頭の中身のほうです。それを実感した私は、安心してヒラ天狗のままでいつづけることにしました。以降どれだけ昇進を要請されようがヒラでいようと。
 こうして『幻想郷』が発足しました。まだ名前だけで、本格的に幻想を集めはじめるのは七百年ほど後です。
 鞍馬山より消えて三〇年くらいして、京から陰陽寮長官が泣きついてきました。天狗が要石の役割を果たしてくれないと、妖怪どもに蹂躙されて困るそうです。強力な妖怪がはびこり、いくら術師を育てても数が足りない。高収入でも重労働すぎて退魔師になりたがる人も減っているそうで、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が自由に真昼から歩き回る有様だそうな。妖怪を抑えるには神仏を使うのが一般的ですが、列島統一に励んで領土を広げ、名と力のある神をつぎつぎと新領地へ配置してしまい……地鎮を考えれば呼び戻すこともできない――中央から神を送り込む戦略があだとなり、肝心の首都ががら空きになっていますね。なにせ平安京には政治的な重要度と比して、信仰の「総本山」が意外なほどに少ない。古代からアホのように遷都を繰り返しすぎた結果です。
 そらみたことか。
 交渉は三年もつづき、貴族たちにさまざまな特権を認めさせ、天魔さまを初めとする大天狗が二〇人ほど京へ戻っていきました。とくに愛宕山の太郎さまは専門の伽藍を構えさせるほどの大譲歩を引き出します。「火の用心」の標語で知られる火伏せの愛宕さま、その総本山となりました。紫さんもちゃっかり絡んで幻想郷の完全自治権を認めさせます。幻想郷の領域にあった荘園は廃止され、朝廷の役人も去っていきました。
 京で夜の騒動が減っていきます。行者や高僧より転じる天狗は魔王尊とも言われ、外法の番人です。寿命のない高位の退魔師みたいなものですから、私たちが睨みを利かすだけで妖怪が遠慮し、異変も減るわけです。お社に縛られる神さまは総本山から移動できませんが、天狗は高い戦闘力を持ちつつどこにでも住めますからね。
 大天狗だけでは足りず、ヒラ天狗も交代制で京都勤めです。私にも数十年に一度、数年間の京勤めが廻ってきました。おもな仕事は平安京のさまざまな風物の記録を取っては幻想郷へ報告することです。そんなこんなで京と近隣の霊的な治安が回復するとともに、人間の退魔組織もしっかりと持ち直し、安倍晴明(あべのせいめい)という天才陰陽師が出現します。私も四回ほど会いましたが、すご~く立派な人でしたよ。私が天狗の記録係をやっている縁から、彼より白紙まっさらの草子(そうし)をいただきました。文花帖(ぶんかちょう)という(みやび)な名前まで付けてくださって、記念すべき初代ですね。以来私の記事帳は「文花帖」の名を受け継ぐようになりました。晴明さんの命名ですから、とっても大自慢です。おなじ(ぶん)始まりでも、どこぞの鬼天狗が名付けた文々丸と比べたら一兆倍はセンスありますよ。
 晴明さんが生きていた時代、京と近隣の吉凶禍福は最高度に良好な状態で保たれます。彼が直接退治ないし封印した妖怪も多く、運良く生き延びまたは封が解けてから幻想郷へ避難してきた子もいます。たとえば嫉妬の妖怪、水橋パルスィさんです。また源氏の勇士に土蜘蛛の黒谷(くろだに)ヤマメさんが封じられてます。
 近辺ではやがて鬼族すら好き勝手ができなくなりました。最強の鬼と畏れられた酒呑童子(しゅてんどうじ)をはじめ、茨木童子(いばらきどうじ)星熊童子(ほしくまどうじ)といった強力な鬼どもは晴明さんの生きてる間に軒並み退治されます。晴明さん自身が倒したわけじゃありません。鬼を相手にしてもし負ければ死にますから、天皇が出動を許しませんでした。かわりに式神を放って情報を仕入れ、綿密な作戦を立てます。鬼は強きに驕って油断してますから、アジトの構造から生活サイクル、弱点に至るまで筒抜けです。あとは破魔の武具を与えた最強の武士団を派遣すれば終わりです。片腕を失ってかろうじて逃げ延びた茨木童子を除いてみんな殺されたことになってますが実際は違います。しっかり生きて引っ越してきました――幻想郷へ。
 酒呑童子は伊吹萃香(いぶきすいか)さん、星熊童子は星熊勇儀(ほしぐまゆうぎ)さん。彼女たち鬼の登場で幻想郷のパワーバランスが大きく変わりました。鬼は天狗とおなじく山に棲むものなので、これまで天狗が支配していた阿弥陀岳は鬼と天狗がひしめく超危険地帯になりました。八ヶ岳と呼ぶようにたくさんの峰がありますから他所へ行けば良いのでしょうが、お互い強力な妖怪なので譲りません。龍脈と地脈の集中した阿弥陀の山には、人間たちの想像力や信仰力が遠方からも届いてきます。妖気や存在の力が強く保てるわけですから、妖怪が暮らすのにうってつけの山だったのです。
 緊張が高まり鬼と天狗で何度かの命をかけた熾烈な衝突が起こり、天狗が男ばかり一〇〇人ほど死にました。鬼も男ばかり一〇人くらい死にました。天狗一〇人で鬼一人とおなじ強さですね。これで力関係がはっきりします。鬼が山の頂点となり、天狗はその下っ端です。でも鬼は数が少ないので助かりました。天狗は修行でなれるものですが、鬼は違いますからね。
 一連の争乱で戦闘力の高い私はいつも先頭に立たされ、ひたすらに葉団扇を振り回してました。すこしでも気を抜けば殺されますから、全力で戦い抜いたのはこのときが最初で最後かもしれません。鬼も二人殺してしまいましたね。なのに和解と称した宴席であっさり水に流す鬼たちの度量には参りました。私たちのほうがたくさん死んでますけど……。
 酒宴で大天狗のひとりが毒を盛って鬼の皆殺しを企みましたが、ちっとも効きません。毒に気付いた勇儀さんがその大天狗に毒入りの酒をむりやり飲ませ、反対に誅殺してしまいました。大天狗さん死ぬと分かってる酒杯を堂々と飲み干しましたよ。さっさと飛んで逃げれば、天狗の高速に鬼は追いつけないのに。ほかの男の天狗が涙を流して彼の死を「あっぱれ」と見送りましたが、私の心はずっと醒めてて「バカな奴」としか思いませんでした。だってその天狗、かつて私をつまらないミスひとつで何十年も鞍馬山から追放した人でしたから。天魔さまは「なぜ貴重な目の保養を追い出したんじゃ? 死んだらどうする?」と逆に彼を責めたそうです。あのとき素直に従わず、天魔さまへ直談判すれば良かったんですね。
 前も思いましたが、男の妖怪はどうしてすぐ死にたがるんでしょうか。女なら鬼も天狗もヤバいと思えば退くのですが、男は違います。死ぬまで戦い続ける人が多いんですよ。武勇と蛮勇を勘違いしてませんか? アホだなあと思いました。死んだらなにも残らないのに。この戦いで鬼や天狗の男女比がかなり縮まりました。その後もすこしずつ男ばかり死んでいって、数百年後には逆転します。
 山の抗争に幻想郷の将来を憂いた紫さんが、ひとつの解決策を提案してきました。
「阿弥陀岳には大昔、噴火かなにかで激しく崩れた痕跡があるわ。富士川と天竜川を分けてしまった大崩壊よ。古い阿弥陀岳は八ヶ岳でも一番標高が高く、山容も堂々としていて、南にそびえる富士山とおなじくらいか、あるいはもっと立派な山だったと思うの――それを復活させれば土地も広くなり、こんな殺し合いはもうしなくて済むようになるわ」
 山より全員を退避させると、人間の里の近くで紫さんの能力を使った不思議で大がかりな秘術が実施されました。すると地鳴りとともに、とんでもない地殻変動が起こりました。大地震が発生し、みんな驚いて空へ飛びあがります。人間の里はめちゃくちゃな被害を受け、妖怪たち総出で救出です。地震はずっとつづきました。諏訪の神社からも神さまたちが飛んできて見物に加わります。
 雨雲がわきたち、豪雨と暴風が吹き荒れます。稲妻の中に細長い巨体――龍が見えました。どこから今回の大事を嗅ぎつけたのか、まさかの龍神さま再臨です。大陸から幻想郷までの距離を考えたら、瞬間移動の能力か、または予言予知に類する力でも持っていないとこの場へご来光できません。
 雷撃が鬼や天狗の偉い人へピンポイントに落とされてます。萃香さんとか痺れてますね。殺すつもりはなく、ただ痛い目に遭わせて叱ってる様子です。まちがいなく天狗と鬼の戦いへ腹を立ててます。龍神なのでなんらか超常の方法で見ていたか、知ったのでしょう。
「……なんて神々しいお姿なの」
 紫さんが感動のあまり泣いています。みんな畏怖にかられ龍神さまを深く拝みました。ただの妖怪や神ではとても届かないお方です。
 龍の見初めた聖地で戦争しちゃってすいません。こんな愚行は以後、慎みます。
 しばらくしてようやく鎮まると、龍神さまは消えていました。ただし土煙の中におおきな影が。
 見上げれば天を突く高さです。気がつけば巨大なお山がそびえています。八ヶ岳の一角がおおきく姿を変え、元の阿弥陀岳が可愛く見えるほど険峻な霊峰が姿を見せていました。頂上は雲を貫いて見えません。これが妖怪の山となります。妖怪の力で起こせる奇跡としてあまりにも桁外れで、みなさん恐怖すら感じていますが、実現してのけたご本人は涼しい顔……をしてませんでした。やったことのあまりの偉大さと影響力に、自分で恐がってるようです。龍神さまも出ましたし。
「……う、うまくいったわね。いずれこれを自動化したいものだわ」
 不思議というものを超越したこの神世の現象を『幻想入り』というそうです。
 紫さんは幻想郷の龍脈と地脈を有益に活用しようと幻想入りを考案開発し、長年をかけて準備を整えてきたそうです。だからいつもこんな大異変を起こせるわけではないようですが、ともかく大成功のようでした。私たちが知らない間にすでに小さな幻想入りを何度かやってたそうです。それらの縁起に引き寄せられ、人間の里に古事記の編纂で名高い稗田(ひえだ)一族が大和国より移り住んでました。ゆえに稗田家がまとめた不思議な物事や妖怪の書物を幻想郷縁起(げんそうきょうえんぎ)といいます。
 大中小の幻想入りを見かけるようになりました。幻想郷の地形がどんどん変化していきます。幻想入りを制御する境界紫さんは八雲紫と名を変えました。八雲とは神の詠んだ歌に見られる枕詞で、神の集まる出雲(いずも)国を象徴しているそうです。紫さんは自分がそれだけ偉いんだぞと言いたいようですね。神に匹敵するかそれ以上の力を操るから、ただの妖怪と思って甘く見下すなと。あまりの天変地異を見せられた私たちは彼女へ二目も三目も置くようになります。
 ただの管理人さんじゃなく、幻想郷そのものであると。
 紫さんを前にして平然としてる妖怪は最強の鬼・萃香さんくらいでしょう。紫さんは気紛れかつ愉快な人で、私たちを率いていきなり月を攻め大負けしたり、妖怪の山を意味もなく噴火させたり、たまにおかしなイベントを開きます。月面戦争で妖怪は誰も死にませんでした。そのていどの「余興」にすぎず、誰も本気じゃありませんでした。紫さんはそれなりにマジだったようですが、最高神に連なる三貴神がおわす月の都、高度な技術を持つ月人たちとガチで戦って勝てるなんて誰も思ってませんから、本気になって殺されるなんてバカも過ぎます。天狗と鬼との殺し合いからまだそれほど経ってませんし、龍神さまにも叱られてましたからね。紫さんの思考回路はよく分かりません。
 妖怪の山では鬼族を頂点とする新秩序が構築されました。天狗族は二番目くらいですが、天狗より格上の仙人さんもいますのでじつは三番目かもしれません。ただ数が多いので実質は二番手ですね。三番手には仙人じゃなくて河童が名乗りをあげます。近くに諏訪という湿地帯や霧の湖がある影響か、河童も数が多いんですよ。河童さんは天狗のように意識して群れてるわけじゃありませんが、川や沢に棲むという特性から一箇所に集まって社会を築きます。集まっていると発言力も増しますから、妖怪の山ができて数十年もすればしっかりとした地位を確保してました。幻想郷は妖怪の山を核として発展していったと言えるかもしれません。ただ幻想郷の面積でいえば妖怪の山はせいぜい三割ほどでしょう。思えばせまい範囲でせこい覇を競ってたものです。
 山が安定しはじめてきた時期にひょっこり女仙の茨華仙(いばらかせん)が棲み着きました。神も畏れるただならぬ妖気からどう見ても茨木童子です。茨の名前でモロバレですが華仙さんは隠せているつもりのようで、こちらも仕方なく話を合わせてあげてます。鬼を怒らせると怖いですからね。鬼でありながらわざわざ制限だらけの仙人になり、萃香さんや勇儀さんたちと距離を置いてます。なぜか鬼族が誰も気付きませんから、鬼にだけ効く術か結界でも使ってるのでしょう……死を遠ざける秘術で仙化してるのは、もしかして片腕を無くした際に寿命の呪いでも受けたのでしょうか? 鬼を斬る刀ですから、とても強力な魔剣です。もしそうなら不老でいつづけるには仙を目指すのが近道でしょう。
 京の各地で封じられていたいろんな妖怪が一斉に解き放たれ、四散する事件が起きました。自由になった妖怪たちは往時のように暴れることもなく、一目散に逃げ去りましたよ。また退治されるだけでなく命を落とすようなことになればたまりませんから、彼らの気持ちはわかります。このとき封じられていたヤマメさんとパルスィさんが連れ添って幻想郷へ逃れてきます。私が出迎えて取材したのでよく覚えてます。幻想郷の創立に関わってますから、天狗族はいろんな記録を取るようになってたんですよ。幻想郷縁起と違い、さまざまな時事の雑記を。当時の世相を考えますと、封印を解いてまわったのはおそらく私を鞍馬山へ導いてくれたあのぬえさんだと思います。ほかに思い当たりません。彼女なら正体をなくす能力でいろいろ出来ちゃいますからね。
 そんな平和なのか緊張してるのかよくわからず、同時に幻想郷と京を往復する不思議な生活サイクルが日常となっていきます。京では人間が頑張って風水と陰陽と八卦の結界を幾重にも張り巡らせ、強固な霊的防衛都市となりました。各宗派の総本山もつぎつぎと興り、神々も鎮座します。ここまで立派になるとかつてのように気軽には遷都できません。こうして一〇〇〇年の都とうたわれるようになる日本最強の魔封じ都市・平安京が完成しました。
 それでも結界が想定してない特殊な妖怪が暴れまして、たとえば禁中を騒がせた大陸生まれの九尾の狐・玉藻前(たまものまえ)が出るのですが、紫さんが「ちょうどいいわ!」と経過を観察、退治され下野国(しもつけのくに)那須野(なすの)殺生石(せっしょうせき)に封じられてたところを保護し式神にしちゃいます。まったく新しい名を授けられ、過去を捨てました。八雲藍さんです。またのちの封獣(ほうじゅう)ぬえさんも目立つ悪さをしてついに正体を特定され、源頼政(みなもとのよりまさ)という武将に退治されました。殺されず封じられてましたがのちに復活して幻想郷にやってきます。萃香さん・勇儀さん・ヤマメさんが源頼光(みなもとのよりみつ)に、華仙さんとパルスィさんが源綱(みなもとのつな)にやっつけられたように、幻想郷の妖怪はどういうわけか源氏の武将と相性が悪いみたいです。おなじく安倍氏とも悪く、酒に目がない萃香さんの弱点を調べたりパルスィさんを封じたのは安倍晴明さんで、藍さんの正体を見抜いて追い詰めたのは安倍泰成(あべのやすなり)です。
 でも私は正反対でした。晴明さんには文花帖をいただきましたし、源氏とも良い出会いが待っていました。
 西暦一一〇〇年代後半のある年、私が五度目の京番として鞍馬山に赴任した翌年でした。
 一〇歳くらいの少年でしたよ。
 出家してますが、かわいらしい利発な若さまです。鞍馬寺に預けられていて、山に棲む天狗が剣を扱えると聞き、稽古を所望したんです。何百年も剣を握ってましたから、子供なんかに教えられるのかなと思いつつ鍛えてみると……
 ……ごめんなさい、私が甘かったです。
 わずか一年で追い抜かれました。才ある人間はすごいですね、もう強すぎて私ごときではまるで相手になりませんので、天魔さまに頭を下げて代わっていただきました。稽古は私もつきあいますが、やはり天魔さまはお強いです。剣の天才児を相手にうまく「育てる剣」を使っています。難易度が高すぎて私にはとてもできません。
「おぬし剣がうまいの。歳と名は?」
 少年ははきはきと答えました。
「数えで一二歳! 遮那王(しゃなおう)!」
 響きこそ良いですが、紗那王は正体を隠す名前。出家していながら剣で強くなることを望むとは、武家の出だと思います。
 しきりに平氏や源氏の様子を聞いてきますので、たぶん源氏の遺児でしょう。一〇年近く前に平治の乱で源氏が負け、平氏が隆盛を極めはじめてました。源氏の係累は多くが殺されてましたが、紗那王は逃れて助かった数少ないひとりでしょうね。
 つぎの年には任期が終わり、幻想郷へ帰りました。別れの日に紗那王から告白されましたよ。私が初恋だそうです。
「そなたほど美しい女はほかに見たことがなかった。母のつぎに美しいぞ」
 言葉が矛盾してますよ。出家の身なのにおませさんですね。母上思いなのはいいですけど。
 再会は意外に早く訪れました。
 およそ三年近くのちの二月末、使い魔の伝書カラスが飛んできました。天魔さまからです。わざわざ人間に読めない天狗文字で、かつ短い文面でした。
『牛若丸の出奔を導け』
 ――この牛若丸という名が、紗那王さんの本名でしょう。すでに幻想郷最速でしたので、鞍馬山までわずか一刻で到着です。本気になれば音速でかなりの時間飛べますよ。風を自在に操りますから、いくらでも保護障壁を張れるんです。
「久しぶりだね文。相変わらず美しい」
「あなたはご立派になられましたね。すっかりいい男ですよ」
 一六歳になっていた紗那王さんこと牛若丸さんは、見とれるほど凛々しい若武者に成長してました。半日待って夜陰に乗じて寺を抜け出すようです。ただ知らないうちに従者ができています。ふたりいて、片方はさぞや腕の立ちそうな僧兵でした。僧兵といえば名ばかりの弱虫が多いのですが、彼は本物の武士ですね。筋肉の付き方で分かります。もうひとりは商人です。
「私はしがない砂金商人です。このお方の道案内役として雇われました」
「拙僧は武蔵坊弁慶と申す。智徳に長けた鴉天狗の護衛、心強い味方と心得る」
「そういえば文はカラスだったね。夜中の視力――鳥目は大丈夫かな?」
「カラスは夜目が利きますよ。全身が黒いのも夜陰や物影で姿を隠せるからです」
「それは頼もしい。文に任せて良かった。寺を出たあと、最終的に奥州平泉に着くまで同行を頼む」
 これは思わぬ長旅になりそうですね。私ひとりなら一日で済む距離ですが、いくら風を操る高速天狗でも人間を三人も抱えて奥州まで飛ぶなんて無理です。
「ずいぶん北ですね。まず私の故郷を目指しませんか? そこなら地理にも明るいのでなんでも手に入ります。長旅の準備をするにも時間が必要ですし」
 近江国、琵琶湖南岸の街道宿町。その鏡の宿というところへわずか二日で到着しました。三人とも健脚で助かります。
「この町は三代目のご主人さまと暮らしていたところです。北へ向かうのに必要な道具が一通り揃っています」
 数日かけて長旅の準備をしました。
「今後は僧でなく武士として生きる。だから元服しようと思う」
 牛若丸さん、私と弁慶さんと商人さん立会でさっさと大人の通過儀礼をしてしまいました。烏帽子(えぼし)なども被らない、ただ名前を付けるだけの質素なものです。三月三日のことでした。
「私は平治の乱で無念にも討たれた源義朝(みなもとのよしとも)の九男だ。だから仮名を源九郎(げんくろう)、実名を源義経(みなもとのよしつね)とする。父より一字を、さらに源氏の祖・経基王(つねもとおう)より一字をいただき――合わせて義経」
 ご立派なお名前です。元服時の名は親が考えるものですが、義経さんには実父も烏帽子親もいません。だからみんなご自身で決めました。私たちはただ見ていただけです。
 夜逃げでしたがべつに追っ手はいません。義経さんは本格的に僧の道を進むかどうか迫られ、武士の道を選んだだけです。でも京の周辺では平氏の力が強いですから、見つかれば殺される可能性があります。それで安全な遠方の地、奥州藤原氏を頼ったわけです。坂東から奥羽にかけて顔の広い商人さんのおかげで、平泉にはとくにトラブルもなく到着しました。途中で何人か仲間が増えていきます。義経さんには人たらしの才があって、話してるだけでどんどん有為の人材を引き寄せてしまいます。弁慶さんはそんな義経さんの英雄気質に惚れ込んだ最初の人です。私も義経さんのオーラに取り込まれつつあって、このまま彼と一緒にどこまでも行ってみたいと思う衝動を抑えるのが大変でした。
 母君の再婚相手の伝手だそうですが、平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)さんは義経さんを気に入り歓迎してくれました。たとえ鞍馬山や平氏から返せとの指令が来ても断ると約束してくれます。奥州藤原氏はすでに一〇〇年近くも蝦夷地を治めており、大軍と金山を保有する巨大勢力でした。平泉の人口は一五万もいて、平安京とほとんど変わらない状態です。かつて蝦夷と呼ばれた広大な領域、日本の五分の一へ睨みを利かせる鎮守府ですから、どうしても力が必要でした。
 強力な後ろ盾を得ましたから、しばらくは大丈夫でしょう。
 世間では政権を握った平氏への不満が渦巻いています。武家としてはじめて中央の政治権力を貴族より掠めた氏族となりましたが、京にいついて貴族化するのはダメだと思います。太政大臣・平清盛(たいらのきよもり)は貴族寄りの政策を行い、武士の時代が来たと喜んでいた地頭や御家人たちの反発を受けてます。清盛も保身のためだったのでしょうが、いくら貴族に擦り寄っても過去の権勢、この世で真に力を持つのはすでに武士階級です。
 ほんの一〇〇年前まで下郎にすぎなかったんですが、公卿よりすこしずつ権利を獲得して、いまでは国司クラスへも武士が就いてます。奥州藤原氏だって武力と財力に物を言わせ、中央より世襲の権利を勝ち取ってます。律令制度で貴族を都に集め地方を派遣役人の管理に置いたせいで、数百年して武士の逆転を許しました。何十年何百年も知行地へ顔を見せない「ご領主さま」に地域住民が従うわけもなく、みんな土着化した豪族――御家人へ尾を振ります。貴族は身分と権限こそありますが実態が弱いので、実と利を持つ武士に取って代わられようとしてたのです。
 世は武家社会による封建時代へ移ろうとしてましたが、節目にあって学ぶべき事例のなかった平氏は手探りに失敗しました。親族縁者ばかりを重用しすぎ、肝心の武士たちからたいして支持を得ていません。人数の少ない貴族社会なら通用する方法も、何万人もいる武士相手ではまったくの逆効果でした。
 おそらく近いうちに大乱が起こるでしょう。その盟主はまちがいなく源氏の誰かとなります。義経さんはだから武士の道を選んだんです。
「ずっと私の隣にいてほしい。九郎の妻となってくれ」
 別れ際に九郎さんより求婚されました。旅の途中から気付いてましたが、義経さんは私を気に入ってくれてます。部下や仲間でなく――異性として。心も躍りましたが丁重に断り幻想郷へ戻りました。平氏を討とうと大望に燃える人が、妖怪を側妻(そばめ)に置いておくなんて外聞として悪いと思ったからです。正義に立つべき男は清廉潔癖でないと人もついてきません。天狗は神といわれ同時に魔ともいわれます。神の側であればいいんですが、魔の側と見なされれば義経さんの受けるイメージダウンは大きいでしょう。幼少よりずっと隠れ育ってきた義経さんには、世間知らずで空気を読めないところがあります。これがのちに彼を悲しい運命へと導くのですが、まだ知るよしもありません。
「ならせめて(うじ)を贈らせて欲しい――文という名だけでは寂しい。そなたにふさわしき氏は……射的の射に命中の命と書き、射命(しゃめい)。私の心を射た天狗の姫だから、射命が似合う」
 あくまでも恋心に根ざした証を刻みたいわけですね。いいでしょう、私もまったく嫌じゃありませんし、むしろ嬉しいくらいです。
「ありがとうございます……私はこれから射命文(しゃめいあや)と名乗りましょう」
 了解したとたん感激した義経さんに唇を奪われました。なんて情熱的な人でしょう! 頭くらくら、体が火照ります。
 妖怪の山へ戻りましたが、ろくに仕事へ手がつかず、何年もぼーっとする日々です。接吻がトドメとなり、私も恋の感情を持ってしまったようです。生まれて初めてのことでしたから、かなり混乱してました。人と妖怪の恋愛はさほど珍しくはありませんが――
「文! 京で源氏が挙兵したわよ。私の念写で出たの」
 同僚の花棠(はななし)はたてさんが家へ飛び込んできました。私より四〇〇年ほど後輩、このときまだ新米の鴉天狗です。念写の能力があって遠方で起きた事件を紙へと転写でき、私とおなじ記録係をしてました。のちの姫海棠はたてさんです。
「……取材の予感! 九郎さんと再会の予感!」
 私は高速飛翔の能力で現地取材するのですが、はたてさんは動かず済むだけに便利です。でも生の声を聞けませんからどうしても臨場感に欠け、私の価値が下がることはありませんでした。天狗はこのときから客観と主観、双方を記録で重視してましたね。
「射命、射命はいるか? 花棠も来い!」
 大天狗の前鬼さんから呼び出しを受けました。この人も流浪の果て、後鬼さんといっしょに幻想郷へ引っ越してきてたんですよ。鬼天狗が僧坊の大将だとやはり人間が恐がりますから、子孫へ跡目を譲り夫婦揃って隠居です。孫の代から妖怪と人の混血になり、四~五代目で角も生えません。紫さんと意気投合したらしく、式神に名を使う許可を与えます。前鬼・後鬼の名を与えられた二羽のカラス式神が幻想郷の内外を飛び回るようになります。元がただのカラスですが式になって妖怪化・不老化してます。カラス妖怪は天狗への登竜門ですから、式神になりたがるカラスはいくらでもいました。歴代の前鬼・後鬼より二〇人以上の鴉天狗が誕生しますが、みんな可愛らしい女の子です。紫さんの趣味か嗜好で、彼女の式神はすべてメスですね。
 天魔さまの名代、大峰前鬼(おおみねぜんき)さんより指令を受けました。
「射命文よ。花棠はたてと協力し、まれに見る大規模な内乱の一部始終を記録せい。ただし介入は無用、中立を旨とせよ」
「はっ!」
「……なんで私まで?」
 出不精のはたてさんが嫌がってますが、彼女の手を取ってさっさと妖怪の山を出立してました。
 日本史に名高い源平合戦が始まりました。奥州以外の全国で大小何百という合戦が繰り広げられ、わずか六年でおびただしい人が死にます。平氏が全国のかなり広範を掌握してましたから、どうしても日本規模の大乱になってしまいましたよ。
 乱の発端は皇族による蜂起でした。平氏方の安徳天皇を廃そうと以仁王(もちひとおう)さんが反乱を起こしたんです。彼のうしろには源頼政がいました。何十年か前にぬえさんを退治した老将です。清盛に恭順したフリをして京にあり、機会を伺ってました。この戦いは平氏の圧勝に終わります。私とはたてさんは以仁王さんが討たれ頼政が自刃し、京に残っていた源氏勢力が壊滅するさまをつぶさに観察しました。血に慣れてないはたてさんは最初震えてましたが、じきに慣れました。私は久しぶりの戦いへ当事者でなく傍観者として参加していきます。とくに感情は揺らぎませんでした。すでに恋する乙女モードで、義経さんの無事と生死にしか興味がなかったので。
 皇族が討たれた! 平氏倒すべし!
 地方の源氏が続々と旗揚げし、近場の平氏領へ攻め込みます。平氏が支配者側ですから、源氏の兵力はわずかなものです。しかし多くの武士が源氏に味方したため、平氏と満足に戦える大戦力へと急成長していきます。
 幻想郷のある信濃国でも木曾(きそ)源義仲(みなもとのよしなか)が兵を準備し、幻想郷へ鬼と天狗の派兵を求めてきました。
「……妖怪が混じってる軍勢が人からどう思われるか、そのていども読めない武将はダメね。田村麻呂が活躍してた時代とはもう違うのよ」
 紫さんは義仲をダメな人と判断し、要請を拒否しました。そもそも幻想郷は朝廷と天狗との取り決めで自治領化してましたから、国司の役人も地頭もいませんでした。日本国にあってすでに日本ではなかったのです。
 おかげで私は「没落」を予告された義仲軍へ従軍せず済みました。彼の担当ははたてさんで、遠方から念写で様子を見るだけです。
 私は単独行動を命ぜられ、ようやく第一目標に接近です。
 わーい!
 義経さんとの再会です。
 鎌倉の源頼朝(みなもとのよりとも)さん、彼の元へ行きますが……
「いません……義経さん、どこですかー?」
 なんと源義経さん、奥州で藤原秀衡さんの足止めを受けてました。人たらしが過ぎて、秀衡さん跡目相続すら考えるほど義経さんを高く評価してました。ゆえに危険な戦場へ送り出したくなかったようで。源氏の世が来てから「ぼくも生きてましたー」と名乗り挙げるだけで、自動的に官位と領地が貰えるはずだ。だからなお雌伏せよという視点です。そんな弱腰の価値観が義経さんに通用するはずがありませんから、そのうち世に出てくるでしょうね。まちがいなく頼朝さん陣営に加わるはずです。それまで私も我慢です。
 頼朝さんは平氏方に幻想郷の目がないことを確認すると、私の取材を許可し、かわりに伝書伝令の任務を与えました。義仲みたいに兵士として戦うよう求めるようなことはありません。頼朝さんと私が会うときはいつもプライベートで、公の場で顔を合わせることはありませんでした。また私へ諜報も要求しませんでした。妖怪が情報戦などに参加すると、それだけで人間の従事者が不満に思うそうです。戦場の勝敗はまず情報で決まりますから、その重要事項へ妖怪を絡ませないあたり、きちんとバランス感覚の取れた人です。妖怪は平均的には人間より優れてますから、有利に戦いを進められるでしょう。でもたとえ一度や二度の戦いで勝てても、長い目で見ればマイナスになるはずです。人間がそっぽを向きますからね。たしかに田村麻呂さんの時代とは大きく変わってました。みなさん「プロ」の戦士だらけです。
 ……ど派手に負けました。
 頼朝さん、一度目は無難に勝利しましたが二度目の戦いで大敗します。いくら政治感覚に優れていても将器はありませんでした。知勇兼備とはなかなか行きませんね。洞窟に隠れるなどしてなんとか逃げ延びました。私もずっとお供してましたが、大天狗さんの言いつけ通り妖怪の力は使いませんでした。いざとなれば単独でさっさと逃げるつもりでしたが、男たち独自の価値観をいろいろと見ましたよ。たとえば頼朝さん平氏方の梶原という武士に見つかったのですが、その人が情をもって見逃してくれました。じつは武士というより風流な歌人で、おなじく教養人の頼朝さんをこんな詰まらぬ戦いで死なせたくなかったそうです――不思議な思考だと思います。主君や勲功よりも優先すべき価値を有するとは。
 戦争は政治だ! 数だ!
 覚醒した頼朝さん、トンデモな大嘘をつきます。
「無念の死を遂げた以仁王より東国を任された! 我には領国再配分の全権がある! 味方せぬと損だぞ!」
 各地へ膨大な手紙や使者を送り、私も忙しい日々をすごしましたよ。
 本来ならこんなハッタリ、誰も見向きなどしません。ですが「平氏憎し」の情勢が許しました。
 最初はちょびちょびでしたが、しだいに流れが頼朝さんへ傾いていきます。落ちぶれたとはいえ、源氏は平氏と並ぶ武家の頭目。反乱の旗頭として仰ぐにはちょうどいい家格です。五〇騎が三〇〇騎へ、一〇〇〇騎から五〇〇〇騎、二万騎……一度情勢が傾けば、ものすごい勢いで味方が増え始めます。平氏から鞍替えする人も多くいましたが、千客万来です。
 確実に勝てる大軍勢。
 それが揃って動きました。戦いの基本ですね。前は時勢に乗った感じで戦略すら希望的観測でした。
 決戦場は富士川。平氏の追討軍がやってきますが、二~三万騎にすぎません。まあ前回の戦いからこれで十分と思うでしょうね。ところが一〇万人以上にふくれあがった頼朝軍を見て腰を抜かしてます。あとは素人将軍の頼朝さんでも楽勝でした。鳥が飛び立った音で奇襲と勘違いした平氏軍が動揺して逃げ、慌てて追いかけた頼朝軍が散々に痛めつけます。一方的な戦いでした。
 頼朝さんの偉いところは、調子に乗ってさらに西進しなかったことです。自分に軍才がないことをきちんと自覚してます。今回は政治力で勝てただけだと。頼朝さんは髭切(ひげきり)という源氏に代々伝わる名刀を持ってましたが、武勇に恵まれてませんから宝の持ち腐れです。茨華仙さんの右腕を斬り落とし、パルスィさんを封じた破邪の魔剣です。髭切には兄弟剣があるそうですが紀伊の神社に奉納されてます。
 頼朝さんがやるべきは東国で地歩を固め、軍を任せられる「源氏」の将軍を探すため鎌倉へ引き返し――やって来ました!
 源義経さん、到着。
「まさかまた文と会えるとは……嬉しいよ」
「義経さん、お世話になりますね」
 私はずっと不変ですけど、義経さんは精悍な大人になってました。ずいぶんと落ち着いていて、平泉で別れたときのような情熱的な求愛はさすがにありませんが、かなり気にはしてくれてる様子で、ふわふわなゆるい空気が私も楽しかったですよ。幻想郷のためこの恋は(しの)ぼうと考えてました。態度から私も好きになってると数日でばれましたが。
 義経さんの郎党一団は目を惹きました。弁慶さんをはじめ、何人も凄そうな人たちを連れてます。人たらし能力で適確に強力な武者を選び抜いてますね。頼朝さんも一目で義経さんが並の将ではないと見抜き、「源氏の逸材がきたぞー!」と小躍りしました。いつもどこかで戦闘してる激戦区の関東ですから、大将になれそうな人材はとっくに揃ってます。でもただ平氏に勝てばいいわけじゃないんですよ。頼朝さんにとっては、あくまでも源氏の将が指揮官となり活躍しないと「戦後」のためにも意味がありません。最初からそんな先のことまで考えてる人です。
 試しに軍論を交わすと善く答えたので、義経さんはすぐ将軍へ抜擢されます。ただ実戦の機会はなかなか訪れませんでした。東国の地固めはあくまでも在地武将の仕事です。頼朝さんは味方した武将に気前よく領地を分け与え有言実行、急速拡大した勢力の維持に熱心です。義経さんに求められたのは来たるべき平氏討伐の陣頭指揮で、関東・東海が安んじてない以上、まだその時期ではありませんでした。暇なので私とよくデートしてました……忍ぶ恋といいつつ、しっかりやることはやってますねえ私。まあ恋人っぽいことは最後までありませんでしたが、お互い好き合ってるなとは感じてましたよ。
 そんなとき、義経さんの兄で僧になってた人が、還俗して源義円(みなもとのぎえん)と名乗り頼朝軍へ合流してきました。意外なことに後から来たのに、このお兄さんが先に初陣を果たします――死にましたが。墨俣川(すのまたがわ)の戦いで無謀な奇襲を試み自滅しました。被害は戦いに参加したうちの五パーセント未満でしたが、その中に源氏の武将がいる……ありえない損害です。
 実兄の死を義経さんはあまり悲しんでませんでした。覚悟をもって幼少より武芸全般の稽古や勉学に励んできた義経さんと、ノリで武士になった義円とでは、立場も思いもまるで違います。
 義経さんの初陣は、皮肉にもあの源義仲の討伐となります。義仲そのものは頼朝さんが羨むほど強力無双な武将で、幾度かあった平氏の抵抗を実力で粉砕してます。何万人もがぶつかる大合戦をいずれも勝利で飾ってきました。だから京に入れたのですが、剛毅で適当な性質が出てしまい、京の空気や独特のルールが肌に合わず粗野に暴れてたんですよ。ケチがついて合戦で負けるようになり、京では狼藉を働いて大僧正や皇族、はては同族である源氏の者まで幾人も殺し、最後には法皇を脅して征夷大将軍に任じさせます。武士が脅迫によって将軍の最高位を得るなんて前代未聞のことでした。むろん誰も大将軍として認めません。
 源氏の恥は源氏がすすぐ!
 源義経さんと源範頼(みなもとののりより)さんが三万の軍で義仲軍と激突します。人望を失っていた義仲軍は数千にまで激減してましたので、宇治川の戦いさらに粟津の戦いで簡単に滅ぼしました。私も同行し観戦してましたが、一方的でしたよ。数と勢いが違います。正義の立場にあり勝利も疑いなしとなれば、みんな気合いが入ります。ここまではまだ義経さんも真価を認められてませんでした。数で圧倒してましたからね。
 祝勝に混じり、紀伊の熊野権現より義経さま宛てで一振りの刀が贈られました。名は吠丸(ほえまる)……以前の持ち主が脳筋な方だったのでしょう、あんまりな名前なので義経さんすぐオシャレな薄緑(うすみどり)へと改名しました。抜き身を拝見したとたん、すごい破魔の気を感じて思わず空を飛んで退いてました。ただの刀ではありません、持参した僧に聞くと大元の名は膝丸(ひざまる)、二〇〇年以上の伝統を持つ源氏累代の名刀でした。いつもはただの刀ですが、源氏の正統が持てばとたんに強大な攻撃力を発揮し、一刀の元に膝まできれいに両断できます。ゆえに膝丸。じつは土蜘蛛の黒谷ヤマメさんを封じた刀です。もしヤマメさんが知ったら義経さんを病気で呪いそうなので黙っておきましょう。これで頼朝さんの持つ髭切と合わせ、兄弟刀が久しぶりに世へ出ました。
 源氏の同士討ちに乗じ、体制を立て直した平氏の大軍勢が西より京へ迫ってました。平氏は朝敵と見なされ、源氏に迎撃命令が出ます。
 義経・範頼軍は、平氏を挟撃すべく二手に分かれます。これを各個撃破の好機と見た平氏は平資盛(たいらのすけもり)を派遣して義経さんと対峙させます。平氏との初対決となりましたが、兵法をよく知る義経さん、数で劣ってるので正攻法は使いません。陣をとって昼間の合戦に備えてるように見せかけ、夜陰に乗じて奇襲、これを粉砕します。私はまた見てるだけでした。幻想郷から手出し無用と言われてるので本当に見物するだけなんですけど、義経さんが強すぎて不安すら感じません。さっそく薄緑が大活躍し、ほとんどの敵を一合で斬り伏せてました。
 二日後には両軍合わせて一〇万人以上の大軍がぶつかり合う壮絶な大合戦がはじまります。源平合戦でも最大級となる、一ノ谷の戦いです。
 範頼軍五万と平氏軍主力が海沿いで正面より激しく戦ってる間に、義経さん一万騎が挟撃を実行します。まず鵯越(ひよどりごえ)で軍の大半を部下に任せ、通常のルートを行かせます。義経さんとわずかな精鋭のみで山中を駆け、私もついていきました。やがて一ノ谷を見下ろす崖の上に出ます。崖下には平氏の本陣があって、みなさん範頼軍の猛攻と挟撃に成功した義経軍の対応に大忙しでした。崖の上にいる私たちにはまったく気付いてませんし、警戒もしてません。そんな中、義経本隊の登場に驚いた野生の鹿がひょいひょいと崖を下りてます。
「鹿がゆける坂だ、馬が下りられぬ道理はないな……文、なぜ我が実兄が死んだか分かるか?」
 いきなり聞かれ、いまの状況が義円の亡くなったときと数字的には等しいことに気付きました。損害は五パーセント未満だったのに武将が死んだのは、まさに彼が敵中へ突出しすぎていた――少数で奇襲を掛けようとしていたからです。そして義経さんがいま率いてるのも寡兵。
「……先行しすぎた義円さんは味方の援護を受けられる状態にありませんでした。それは私たちもおなじですが、ひとつだけ分かります。ここであの後詰めを突けば平氏は混乱し、みなさん敢闘して大勝利は確実であると」
「正解ではないが近い。兄のときと異なり、我が兵はいま全員が敵とまみえ必死に戦っている。私はみなの奮戦に報いる一撃を加えるだけだ。奇襲とは本来、かくあるべきなのだ!」
 叫ぶやいなや、馬ごと険しい坂を下りて行くではありませんか。部下も必死の形相で総大将につづきます。のちに「鵯越の逆落とし」と呼ばれるようになる奇襲です。
 何騎かが落馬しましたが、大半の勇者が無事に崖を下りきりました。さすがは義経さんが厳選した直臣たちです。一騎当千のつわものたちが本陣を急襲、これで大勢が決しました。広範囲で一〇万人以上も戦っていて陣屋奇襲の影響はすぐには出ませんが、平氏方は命令系統が寸断されただけでもう終わりです。眼前の敵とひたすら戦うしかありませんから、戦線で一度でも食い破られた箇所は援軍もなくもう二度と修復されません。陣にいた者たちも次々に討ち取られます。平忠度(たいらのただのり)をはじめ、平氏の重鎮も含まれていました。義経さんが辺りへ火をかけると、煙があがって前線へも異常が伝わります。
 本陣陥落……こうなるともう総崩れです。
 みなさん自分の命がかわいいですから、負け戦と分かってなお戦いつづけるなんてことはしません。海へ殺到し、我先と舟に乗り込みます。何千人もが海へ追い落とされ、重い甲冑で溺死しました。平氏の名だたる武将が一〇名以上、まとめて戦死します。首級の過半を源氏軍の二割未満にすぎない義経隊が挙げてました。また大勢の武将を捕虜とし、中には副大将の平重衡(たいらのしげひら)もいました。
 鮮やかな名将ぶりを見せつけたこの戦いで義経さんの名声は絶大なものとなりますが、すでに頼朝さんとの間には深い亀裂が生じてました。
 京へ凱旋した源氏のおもな武将は、義経さんを除いて全員が国司へ任じられます。義経さんだけが無位無官のままでした。一ノ谷で行った英雄的な奇襲と手柄の独り占めが、頼朝さんに危機感を抱かせたようです。
 義経さんの言動は天衣無縫、その無邪気さが頼朝さんの波長と合わなかったのです。
 九郎さんへたれ込めた暗雲を嗅ぎ取ったようで、幻想郷から私へ移動命令が来ました。鎌倉へ戻り頼朝さんか範頼さんの取材をしろと。幻想郷は最初から平氏の側では取材してませんでしたし、義仲のときとおなじ対応です。敵味方いずれも取材してると内通を疑われますから、従軍記者はつねに勝者の側に限定しているわけで――
 義経さんはいずれ死者の列に連なると判断されたようです。
 キスは一度しかしてませんが、彼と相思相愛になってる私としては複雑な気分です。九郎さんの性格は知ってます。人たらしで下々の兵や民からは人気がありますが、私を奥さんに迎えようとしたように、周りを見ないで動くあまり保身に疎いところがあります。鎌倉にいたとき、大工への報奨で馬が与えられることになり、頼朝さんよりその馬引きを命じられました。この手の馬引きは通常複数名で行うのですが、義経さんは自分と釣り合う立場の者が予定者の中にいないと言って断ってきます。身分で劣る者と同格に扱われるのを恥と思ったようですが、それが頼朝さんの不興を買いました。
 馬引きには政治的メッセージがありまして、弟だけど特別扱いはしないぞ、だからほかの者たちは安心して武功を立ててくれという意図があったのですが、それを読み取ってくれなかった義経さんに失望したのだと思います。それでも初陣で一〇〇〇人、つぎの戦いでいきなり一万もの軍勢を与え、特別扱いはしてます。勲功を立てれば誰も文句はいいませんから――ただ、功績の立て方が頼朝さんの価値観を否定するものでした。
 凡庸な将器しか持たない頼朝さんは、英雄嗜好の義経さんとはまるで違う思考をしています。
 一軍の大将みずからごく少数で奇襲を仕掛けるなど、頼朝さんにとってありえない選択なんです。一万の指揮権を途中で部下に放り投げた無責任さのほうを、とても重く見てました。たしかに策さえ授けておけば、義経さんでなくとも鵯越の逆落としは成功したでしょう。義経隊はそれだけ豪傑の宝庫でした。
 信賞必罰は武門の基本で、奇襲の武勲は職務放棄と相殺されたんです。近代以降の軍隊であれば銃殺ものの重罪ですから、頼朝さんの考えは進歩的だったといえます。どこまでも政治家でした。
 義経さんは純粋な武人であるだけに、兄の考えをどうしても理解できません。単純に兄が嫉妬してるにちがいないと思ってます。
 長生きしてきた私がしっかり動けば、おふたりを繋げることはたぶん可能でしょう。ですが幻想郷より厳命されています。
 手出し無用、干渉禁止。
 理由は頼朝さんが幻想郷へ干渉する口実を与えるからです。幻想郷が独立を勝ち取っているのは落ち度がないからです。そこに私が出しゃばれば、まちがいなく失態となります。武士は攻めるのが本能ですから、その小さな傷を何倍にも拡大して最終的に倒そうと試みるでしょう。その口実を与えたらいけませんので、私はずっと見ているだけでした。また私が派遣されてるのは大天狗さんたちから信用されているからともいえます。潔癖症なところがあるゆえでしょうね。信頼へ応えるためにも、私は自分の恋を抑えてでも動かないでいました――
 でもそれもここまでのようです。
 命令に背き、私は鎌倉へ下向しませんでした。そのまま義経さんの元に居続け、彼がどのように滅びていくのかを見届けたいと思うようになりました。初めて好きになり愛した男が、いかに活躍し失敗し、そして死んでいくのか。彼の胸へ飛び込み、愛と運命を伴にし、一緒に死ぬなどという選択肢は私にありません。寿命が違いすぎますし幻想郷を危険に晒します。それは絶対に避けなければいけない事態で、なによりも――場合によっては私の命よりも優先します。長生きして分別が付いてるのも困りものですね……御伽草子のお姫さまみたいな行動なんてとても取れませんでした。私の性格や価値観では「愚行」など試す価値すらなかったんです。だからこそ記者として選ばれたのですから。
 口も手も貸さないことだけが幻想郷や頼朝さんへの義理立てでした。
 私の真の戦闘力は田村麻呂さんの伝承で頼朝さんも知っています。本気になれば鬼と同等の破壊的な暴力をまき散らし、竜巻や暴風を操り、何百という完全武装の武士をわずかな時間で殺傷できると。それがにこにこして敬語を話し、なんら有為の発言もせずただ中立でいて記録を取るだけ。頼朝さんはだから私へはなにも言いません。射命文という天狗がどういう立場でいるのか、きちんと理解しています。
 心配していた通りの展開となりました。
 朝廷より検非違使(けびいし)に任じられた義経さん、喜んで任官します。官位で人を操るのは後白河法皇いつもの手でしたが、義経さんはちっとも気付きません。この法皇の官位攻めに溺れた武士で、長生きできた者はひとりとしていないのに、そのジンクスすら九郎さんは知りませんでした。宮中の魔物に囚われます。
 これは頼朝さんを激怒させました。鎌倉政権は『武士は勝手に任官してはならぬ』とお触れを出してました。平氏にかわって源氏が武家の総領となるのに、必要な布石です。その大前提をいきなり身内が破ってしまったのです。
 鎌倉へ繋ぎ止めるためか、頼朝さんが義経さんへ婚姻を斡旋してきました。でもなんと断ろうとしていました。義経さんときたら、私へ義理立てしてまだ独身だったんですよ。この時代いつ死ぬか分かりませんから、二〇代半ばの男が妻子を持たないのはかなり異常なことでした。私が求婚を断ったくせに、再会したらちゃっかり好きになってたからですね――ごめんなさい。
 私は数ヶ月前に決めたことをあっさり覆しました。義経さんに結婚を勧めると、自ら身を退いて義経さんとの四年間を精算し、鎌倉へ戻ろうとしました。
「私が最初に愛したのは間違いなくそなただ。それだけは永遠に変わらない」
 これは暗に兄の縁談を受けると言ってます。
「お慕い申し上げておりました。九郎さん大好きです――達者でお元気に!」
「それはこちらの言葉だぞ……どこまでも面白い娘だな」
 別れ際にまた略奪キスされました。ほぼ一〇年ぶり二回目ですね。
 ……わざと避けませんでした。
 義経さんは頼朝さんの縁談を受け、上京してきた郷御前(さとごぜん)さんと結婚しますが、そのまま京に留まりました。せめて検非違使を辞して鎌倉へ戻っていればおそらく助かったのでしょうけど――婚姻という一見めでたい形に扮した最後通告でしたのに。
 鎌倉へいく途上で幻想郷へ一時帰郷した私に、大天狗・前鬼さんからいやらしいお灸が待っていました。
「おぬしの氏名を改める。命令を破った罰だ……射命丸と名乗れ! 射命丸文だ」
 あーあー、ついに名前に「丸」が復活です。私もただじゃ転ばなくて、前鬼さんへの当てつけで源平合戦の記録を文々丸帖(ぶんぶんまるちょう)と名付け提出するようになりました。かつて拒絶したあの法名ですよ。これが「文々。新聞」の起源です。
 義経さんは無断で検非違使になった(とが)で平氏追討の命を解かれますが、後任の源範頼さんが大軍を与えられながら攻略に滞ります。彼に従軍して横から見ていましたが、精彩を欠きますね。凡将よりはいくぶんましでしょうけど、義経さんと比べたらさすがに見劣りします。というよりは九郎さんが凄すぎるだけです。
 苦戦に業を煮やした頼朝さんは、義経さんへついに出陣を命じます。範頼軍を援護せよと。
 四国に上陸した義経軍は平氏の拠点のひとつ屋島を襲い、平氏を完敗させました。弓の名手・那須与一(なすのよいち)さんが扇の的を射抜く故事はこのとき生まれます。さまざまな記録から創作ではなく実話らしいので、修羅だった一ノ谷と比べたら優雅な貴族趣味の戦いですね。でも与一さんの妙技を褒め舞いを踊った平氏方の武士を射殺させたのは、義経さんの悪い癖が出てるところです。
 源範頼さんが九州の平氏勢力を抑えてる間に、補給源を断たれた平氏は急速に弱まっていきます。私は九州にいて義経さんの活躍を噂で聞くしかありませんでした。
 最後は壇ノ浦の戦いです。この戦いに先んじて頼朝さんは罠を準備してました。平氏が京より持ち出した三種の神器をかならず確保せよとの命令を送ってたんです。海戦でちょっと無理な相談ですから、義経さんも重視はしなかったみたいですが、それこそ頼朝さんの思う壷でした。
 範頼軍は陸路を封鎖すべく壇ノ浦近辺に展開してました。おかげで平氏は海上にいるしかありません。そこへ義経率いる船団が海戦を仕掛けます。範頼さんの本陣から離れられない私は、高台よりゴマ粒のような海戦を眺めるしかありませんでした。誰が義経さんかちっとも分かりませんし、有名な八艘飛びも史実かどうか知りません。
 義経さんは初めての海戦だったのに平氏は大敗、あっけなく滅びます。おもだった武将はことごとく討ち死に、総大将の平宗盛(たいらのむねもり)など生き残った者も京などで斬首されました。平氏の残滓は以後、おもに公家として生き残ります。
 三種の神器――剣と勾玉(まがたま)と鏡ですが、剣がついに見つかりませんでした。ほかの二種は密閉容器に入っており戦闘終了後に浮いてたのが回収されましたが、剣は海底に沈みました。その辺の海棲妖怪に頼めば砂金一両で見つかったと思いますが、時代はモノノケを用いるのを拒絶し、よしとしない人間中心主義になっていました。人の手で見つからないならそこでおしまいで、もう探しません。
 範頼さんが戦後仕置きで九州残留が確定しましたので、鎌倉へ飛びました。鎌倉では義経さんをどうやって追い詰めるか、陰謀が公の場で話されるような有様でした。私は義経さんの愛妾と見なされてたので出入りそのものを禁じられ、以前やってた伝書などの仕事もありませんでしたから、頼朝さんを見かけることもありませんでした。毎日が暇で周辺を飛んであちこち散策し、困ってる妖怪を見つけては幻想郷へ勧誘してました。
 たとえば関東最大の湖、香澄(かすみ)の浦で釣りをしてたときです。鎌倉からずいぶん離れてますが、なにせ音の速さで飛べますから。
「いたーい、痛いよー!」
 淡水に棲む珍しい人魚が釣れました。じたばた暴れてます。
「せっかく考える頭を持ってるんですから、ちゃんと見てから食いついたほうがいいですよ」
「だって美味しそうなんだもん」
 清楚そうで可愛らしい子ですが、おバカです。カラス時代の私を思い出して親近感がわきました。
「助けてくれてありがとう。私はわかさぎ姫、香澄のワカサギが化身した人魚だよ?」
 聞けば釣り針や漁網に掛かりまくって難儀してるそうです。学習能力を持たないアホの子ですから、いくら妖怪の生命力が強靱でもそのうち死ぬかもしれません。
「私の暮らす幻想郷って土地があります。そこの霧の湖ならここよりずっと安全ですよ」
 てっきり天竜川から遡上するものと思ってましたが、なんと彼女、イメージだけでわずか一週間で自力での幻想入りを果たしました。紫さんの術がいろいろ広がっていまして、これまで土地や建物だったのが、妖怪そのものが幻想入りするようになっていきます。ただこのときはまだ幻想郷を知ってないと幻想入りできませんでした。
 あるときは北信濃の田舎で――繰り返しますが私は音速で飛べます――鬼無里(きなさ)という面白い名前の里がありまして、散策してみると紅葉(もみじ)という名の鬼が暮らしてました。伝説では武士に退治されたことになってますが、実態は鬼女(きじょ)ではなく貴女(きじょ)で、地元の人たちが「死んだ」ことにして一〇〇年以上も匿ってました。わざわざ里の名前まで変えて。
 彼女の正体は鬼どころか私よりはるかに格下の白狼です。信濃は古来より多数の土着神がおわす土地で、神でなくとも白い獣が数多くいます。白い蛇に白い狼、白い猪や鹿。蛙だけはなぜか赤いですが、とにかく白い獣は神聖の象徴でしたから、彼女も人里に暮らして周囲より大切にされ、尼さんみたいに親切な人柄です。
「……隠れ住むの、もう窮屈なんです」
 ぜいたくな悩みですが、幻想郷へ誘ってみると「新生活!」とホイホイ付いてきましたよ。天狗になりまして、のちの犬走椛さんです。白狼社会では有名なアイドルだったらしく、彼女の噂を聞いてほかの白狼族も妖怪の山へ集まり、やがて白狼天狗の哨戒部隊が結成されます。
 毎日のように各地を見物して楽しかったですが、ついに終わりの日がきます。箱根の山中で出会った白髪の少女、妖怪と思って近づいたらじつは「妖怪に近い人間」でした。藤原妹紅(ふじわらのもこう)さんなんですけど、このとき彼女は妖怪退治稼業を営んでまして、問答無用に戦闘開始、あわや殺されるところでした。不死鳥の業火を操り無尽の生命力を持ってます。自衛のため葉団扇を使わざるを得ず、近隣は一面の焼け野原になってしまいました。人死にが出なかったのが幸いです。
 運悪くお武家さんの領地でして、これまで積み重ねてきたものが崩れました。罪人として鎌倉へ連行、重罪の火付けゆえ死刑を言い渡されると思ってたら、なんと左腕を斬るという甘いものでした……しかし武士の力に頼って妖怪や術者を遠ざけすぎた反動で、鎌倉には鴉天狗を傷つけられる退魔武器が頼朝さんの髭切しかありません。家宝を処刑に使うなどもってのほかですから、「斬れぬものはしょうがない、追放処分とする」で済みました。たぶん女で見てくれも若く綺麗なので放免されたんだと思います。男で汗臭いおっさんだったらその「もってのほか」が実施され、髭切で腕斬りどころか斬首されてたでしょうね。まあ腕斬りでも怪力で暴れてさっさと逃げますが。
 見た目で量刑が決まるのはいまに始まったことではありません。幻想郷へ逃げてくる妖怪は多くが可愛らしい少女の姿をしています。退治されても封印や追放で済んでたのを考えれば、男たちのしょーもない本性がよく分かります。おどろおどろしい化け物らしい妖怪はみんなその場で滅ぼされ……つまり殺されてますから。大天狗たちも分かっていて、派遣記者に選ばれる天狗はことごとく私のような少女です。
 ちなみに義経さんの愛妾として世に知られている静御前(しずかごぜん)は私がモデルです。ただ記録するだけで自己主張しませんでしたので、静かな御前さんとなりました。妖怪だと面白くないからか人間ってことにされてますし、デートとキスしかしてないのに肉体関係を伴った熱愛になっちゃってます。追放刑のくだりも大改変され、静御前が産んだ義経さんの子を頼朝さんが殺した逸話になってます――
 幻想郷へ戻るまえに東海道の宿場町でぼんやりしてると、ちゃっかり逃げてた妹紅さんがあらわれ、頭を下げてきました。
「あなたの居場所をなくしてしまい、ごめん」
「べつに構いません。どうせもうほとんど終わっていましたから、惰性でいただけです」
 この人がいれば一騎当千ですので、幻想郷に誘ってみましたが断られました。
「私には探してる人がいるの。山奥の隠遁生活に興味はないわ――かぐや姫を見たことない?」
 有名な絶世の美女です。私が生まれたころの人ですね。
「……さあ、わかさぎ姫なら知ってますけど、人魚ですしね。もしかして実在するんですか?」
「実在もなにも、私がこんな体になったのはあいつと関わったからなの」
 なら妹紅さんは私とほぼ同年齢で藤原氏の始祖一族ですか。
 幻想郷へ戻ると知らないうちに迷いの竹林なるものが幻想入りしてました。しかも兎の妖怪がたくさん暮らしてる……竹林といえば竹取物語で、兎といえば月です。まさかと思いつつも放置です。藪をつついてなんとやら、鎌倉を追われたばかりでさらに大変を呼び込む必要はありません。あの不死鳥の小娘にはいましばらく外の世界を放浪していただきましょう。
 幻想郷に戻って数年後、義経さんが逝去したとの急報をはたてさんより受けました。ついに来ましたか……。
 三種の神器のひとつを喪失したこと、勝手に任官したことや独断専行が多かったことなどを理由に、義経さんは反逆者として追われ奥州に逃げ込んでました。藤原秀衡さんが匿ってくれたんですけど、時が見放してまして、秀衡さんまもなく寿命で亡くなってしまいます。その息子は義経さんがいると鎌倉に滅ぼされると怖れ、義経さんを襲い自害に追い込んでしまったんです。弁慶さんをはじめ、付き従った人たちはみんな死んでました。
 義経さんの死に、私は精神の均衡を失って動揺し、何日も静かに泣きました。初恋はこうして炎の盛りあがりもなく終わったんです。悔いばかりが残りましたが、同時にこれで良かったとも思ってました。私はこれからも生きつづけます。まだまだ知らない未来が待っていますから、切り換えないと――
 立ち直りに一〇年もかかりました。義経さんへ思った以上に惚れてたようで。冷たい女じゃないかと自己評価してたんですが、人並みの情愛はあったようです。
 気がつけば奥州藤原氏は義経暗殺を頼朝さんに付け込まれて滅亡してました。秀衡さんの後継者はバカでした。義経さんを生かしたまま差しだし、金山の権利や領地の半分くらいを返上すれば助かったでしょうに……政治を知りません。秀衡さんは九郎さんを確保したまま鎌倉に手出しすらさせない政治手腕を持ってましたが――
 やはり頼朝さんは恐ろしい人でした。私が幻想郷を守るため我慢してたのは正しかったんです。箱根でしでかしたことは個人の罪なので鎌倉を追われるだけで済みましたが、義経さんが絡めば幻想郷まで飛び火するんですよ。朝廷より自由な裁量を許されてる自治領など珍しくありませんが、たいてい寺社領です。それが妖怪の楽園などという「狂った」代物ですから、権力者はつねに潰す機会を伺っています。武士だけで妖怪たちを倒しきるのは不可能ですが、幻想郷を攻略するためなら頼朝さんはこれまでの方針を一八〇度転換し、ためらわず宗教界や神々と手を結ぶでしょう。それが政治家というものです。
 征夷大将軍として最高権力を手中にした頼朝さんでしたが、これまでの所業に祟られ、落馬して死んでました。彼の死を悲しむ人はほとんどいません。反対に義経さんは悲劇の英雄としてみんなの同情を集めてます……それこそ何百年でも。平氏の失敗を繰り返さないぞと源氏は京より遠方で鎌倉幕府を開いてましたが、源氏の征夷大将軍はわずか三代で絶え、あとは京より派遣される形骸の名誉職でした。実権は部下だった北条氏が執権として世襲しますが、いびつな構造ですからたった百数十年しか持ちませんでした。
 つぎはまた京へ戻って室町幕府。平氏と違い武家のことを考えてましたので、鎌倉幕府より長続きします……が、後半は戦国乱世のとんでもない内乱時代でした。こうなると幻想郷へ手を伸ばす愚かな戦国武将も出てきますし、落ち武者や難民もいました。人間が増えますが質は低下します。
 紫さんは自衛のため妖怪拡張計画を実施、かねてより構想し開発に成功していた幻想を自動収集する大結界を張ります。『幻と実体の境界』には幻想郷にふさわしくないものを取捨選択する防衛機能もありまして、視覚的な幻視効果を発現します。たとえば八ヶ岳山塊は遠方から見れば以前の状態に戻りました。妖怪の山をはじめ、幻想入りで生じた地形は幻想郷へ入らないと知覚できなくなったんです。妖怪拡張計画の騒動でも龍神さまが降臨しました。
 天狗の京番はいつのまにかなくなってました。天狗が京を守護している必要もなくなってましたから、諸事情から一度でも途絶えるとそのまま消えます。あちらの山こちらの山と、常駐していた天狗の頭領が幻想郷へ戻ってきました。天魔さまも何百年かぶりに帰ってきて、天狗社会のトップに返り咲きます。
 またこの頃、地獄が幻想入りします。正確にはかつて地獄だった地底空間です。死者が増えすぎて新たな空間をこしらえ、そちらへ移転したんですよ。鬼たちが居心地のよい旧地獄へ移住するようになり、しだいに天狗族が妖怪の山を治めるようになりました。パルスィさんなど人間を嫌ってる妖怪も旧地獄へ移りました。幻想郷本体と物理的な距離があったので、最初から別勢力みたいにふるまってました。やがて紫さん・天魔さまが鬼たちと相互不可侵の協定を結びます。
 私は天狗記者の任務で幻想郷の外にいることが多かったのですが、歴史的な人と深く関わったのは義経さんで最後でした。幻想郷と天秤にかける緊張は勘弁でしたし、もう悲しい思いをしたくないので、重要人物と知り合わないよう意識的に避けてたんですよ。公家でも武士でもない民草とばかり付き合ってました。取材そっちのけの楽しい恋愛をいくつも体験してきました。義経さんとはほとんどプラトニックだったのに、重いものを背負わない人となら平気なんですね、気楽を好む私らしいです。山の天狗と愛など御免でしたね。人にあこがれで妖怪となり、人に飼われて人間の姿を取り、人の信仰で天狗になった私は、人間だけが相手です。
 花棠はたてさんが改名しました。中国より渡来した海棠という新参の花に魅せられ、姫海棠はたてを名乗るようになります。
 江戸時代、海外より魔法の森が幻想入りします。妖怪拡張計画以降、幻想入りにヨーロッパや中国大陸のものが混じりはじめてました。ほかの海外地域は届いてませんので、龍脈地脈の繋がりがないようです。海外生まれの妖怪は苦労してましたね。舶来第一号のミスティア・ローレライさんはドイツ生まれのローレライという種族でしたが、日本語を覚えるのに難儀し、一度幻想郷の外へ去って戻ってきたら四国や紀伊の妖怪・夜雀になってました。ミスティアさんの苦労話を聞いたリグル・ナイトバグさんやルーミアさんは幻想郷どころか魔法の森からもほとんど出ませんでした。上白沢慧音(かみしらさわけいね)さんも安全な人間の里に定住します。
 妹紅さんがようやく幻想郷に来ます。すぐ迷いの竹林に気付いて特攻、無事にかぐや姫と喧嘩三昧な再会を果たしたようです。人里で慧音さんのところで一緒に暮らしてます。妖怪退治は私との騒ぎからまもなくやめたそうです。このときの取材で迷いの竹林が元は因幡国にあり、地震と津波のショックで幻想入りしたと知りました。
 欧州で産業革命が起こり、追われた妖精が幻想入りするようになります。これまで幻想郷どころか日本そのものに妖精がいませんでした。精霊はいましたがその正体は肉体を持たない幽霊・妖怪・神ですし、妖精という単語も明治時代に誕生したものです。妖精は自然そのものなのですが、すぐ幻想郷の自然へ溶け込みます。ものすごい適応力でした。
 明治時代になると、文明開化により妖怪が見えない人が急速に増えていきます。このとき初めて知りましたよ、私たちが人間に見えないってことがありえるのを。紫さんは思い切った選択をとり、常識と非常識を分離する『博麗大結界』によって幻想郷を完全な異世界にしてしまいます。また龍神さまが現れました。このときは拡張計画以上の混乱となり、血で血を洗う争乱が勃発、だいぶ妖怪が整理整頓されました。勝者は紫さんに従った陣営で、人間を掠ったり殺し食らうことが野蛮とされ禁忌になります。ルールを守れない妖怪は容赦なく追い出されるか、それでも抵抗すれば封印ないし殺されました。男が多かったですね。なお旧地獄はこの混迷と無関係でした。穴で繋がってましたが、古明地さとりさんが名目上の支配者となり完全独立、「幻想郷の一部」ではなくなり、妖怪の行き来すら乏しくなります。
 幻想郷はすでに女の人妖で溢れてましたが、博麗大結界以降は幻想入りする妖怪たちも大半が女になります。過去の反省を受け、紫さんの術式によって男の妖怪は意図的に除外されてました。私も楽になりましたね、男の妖怪は乱暴な人が多かったですし、妖怪の殺し合いもまず男が煽ってましたから。これも狭い幻想郷を守り維持するため必要なことです。
 大正時代のある春でした。幻想入りした文明の利器に、写真機なる代物が混じっています。幻と実体の境界と博麗大結界――ふたつの大結界の組み合わせにより、外の世界で忘れ去られたモノが集まるようになってました。妖怪の暴れん坊はどれほど望んでも無理ですが、意識のない物体はわりと簡単に擦り抜けてきます。
 河童の友人、河城にとりさんに頼んで修理してもらうと、目で見る情景を光画として残せる画期的な道具でした。江戸時代から瓦版の真似事はしてましたが、いよいよ天狗族による新聞稼業が本格スタートします。博麗大結界によって外の世界へ簡単には出られなくなってましたので、久しぶりの取材ごっこにみなさん張り切ってましたが、すぐネタ切れで同人誌ごっこ、創作みたいな新聞モドキが主流になってしまいます。私やはたてさんはもっぱら人間相手にまともな新聞をできるだけ心がけつづけますが――それでも外の世界の洗練された本物の新聞と比べたら遊びと揶揄されても仕方のない低クオリティです。
 昭和時代、幻想入りするカメラがどんどん進歩して私の心を掴みます。
「カメラ! カメラ!」
 新聞とおなじくらいカメラを偏愛するようになりますが、コレクターのようなおかしなことはしません。私が所有するカメラはつねに実際に使うものだけで、多くても同時に数台です。レンズも一〇本以内に留めてます。使わないものはつぎのカメラやレンズの資金源ないし交換交渉用にストックし、どんどん乗り換えていき、平成のいまに至ります。
     *        *
「……というわけで、私は機械式カメラを熱望してるわけです」
「ずいぶんと面白くて興味深い話でしたけど……長い! とんでもない遠回りですよ、もう日が回って夜中の一時」
「あやや、これはとんだ失礼をアスナさん」
「つぎは第四九層ですけど、そろそろ見つかるといいですねカメラ」
「デジタル世界ですから、立派なデジカメを触ってみたい所存です。結晶はもちろん私にとってカメラじゃありません」
「それは大変ですね――ふああああ、お休みなさい」
「お休みなさいです」
 布団を被って夢に見ます。あやや、カメラカメラ……。


※あやや風土記
 SAOとの融合世界における幻想郷の歴史その二。
※後半がずっと源平合戦
 東方キャラのモチーフになった妖怪退治に、義経と頼朝が所持していた刀が幾度となく登場している。原作で幻想入りしていた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を、当作では壇ノ浦に沈んだ剣としてる。

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