一七 結:甘い世界

旭和ラノベ
ソード妖夢オンライン3/一三 一四 一五 一六 一七 一八

 乾いたシャッター音と、風を切る音が重なっている。
「あやややややっ!」
 昭和を懐古させる一眼レフを手にした天狗少女が、花のような笑顔で空中を軽やかに飛び回る。
 カシャッ!――いかにも機械的で、軽快な音だ。赤き瞳に喜悦の輝きが満ちていく。
 記録結晶の撮影音はパシャだ。彼女にとってそれは間抜けな単一の電子音で、我慢しながら仕方なく聞かされる異音だった。
 レフレックスミラーとシャッター幕とレンズ絞りの、三連動によって起こる金属質な音。カメラ本体と交換レンズの合唱。これぞカメラ、本物の切れ。それを聞くたび、少女の頬が赤味を増してゆく。欲しかったフィーリング、味のある手触り。
「あやややや!」
 二ヶ月半ぶりに手にした、機械式カメラ。コンパクト機などを飛び越え、いきなり古びた一眼レフ。本命である。できれば片手で楽に写せるレンジファインダー式こそが大本命だが、いまはこれで十分どころか、大歓喜。なにも考えず、ただ幸せに身をゆだねている。
 繰り返しファインダーを覗き、目に付いたものを片っ端から写してゆく。
 射命丸文の奇矯な喜びようは、天を突かんばかりであった。
「芸術の街、ばんざーい!」
 第四九層のテーマはおそらく文化芸術。主街区の名前からしてミュージェン。美術館を意味する、ミュージアムのもじりらしい。妖夢がアイテム補充に立ち寄った道具屋のNPCが、ハイキーボイスで自慢してたから間違いない。NPC店主たちがみんなハイテンションかつ元気で、にぎやかな活気に溢れている。
 自己表現系スキルや技能のためのアイテムが、その辺の店にいくらでも並んでいる。画材・楽器・文房具・服飾素材・細工用インゴット……なんでもござれだ。芸術系統のスキルとしては音楽・裁縫・細工などが存在するが、それ以外はスキルがなくとも、ツールやコマンドがきちんと整備されている。執筆や絵画、写真にデザインといった、純粋な能力・技量の領分は、さすがにスキル化されていない。したところで興ざめなだけだろう。メッセージや記念撮影のために、なぜ貴重なスキルスロットを埋めなければいけないのか、となる。だが物書きや撮影においてプロの腕前を有する者もいるわけで、それが射命丸文だ。
 街開き前の市場で射命丸文が見つけたのが、待望の機械式カメラであった。交換レンズ三本付きでおよそ一〇万コルというご立派な値札が付いていたが、迷わず即決。記録結晶の相場が一万コル前後であることを考えると、完璧な道楽である。書く方も豪華な万年筆をおなじく二万コル近くで入手している。こちらも通常のペンは一〇〇コルていどしかしない。
 見た目こそフィルムカメラだが、中身は完全なデジタルだった。背面に確認用の液晶が付いている。交換レンズは標準ズーム・五〇ミリ単焦点・中望遠マクロの三本。記録結晶は三五ミリ相当の単焦点のみなので、機能としてはカメラのほうが数段上だ。AF性能と画質もすこぶる良い。
 万年筆のほうも、永久に書きつづけることのできる魔法のペンだった。通常のメモ用ペンは四〜五万字くらいで消える。そのため普段はボードで字を打つ人が多いが、文のように何事も手書きにこだわる人も少数ながらいたし、契約や有名人のサインなどはどうしてもペンが要る。手書きでも通常はすぐ文字列データへと置換されるが、サインの類はデザイン機能との併用で絵という形で残すことができる。
「……せめてコンパクトカメラくらいあればいいのになぁ」
 犬走椛もマイカメラを欲しくなったようで、あちこち見て回っている。ほかのプレイヤーに奪われまいと、街開きを延長してまで、五分以上は探しているが、簡単に置いてはなさそうだ。NPC売りなのに、珍しく一点物の可能性が高いようだ。
 最近カーディナル・システムに起きた変化のひとつとして、NPCショップの陳列にレアアイテムを混ぜ込むというお茶目がある。文が買ったカメラは、店売りとして高機能すぎる。これまでなら、なんらかの難関クエストや、長いキャンペーンの末でようやく獲得できる類の超レアアイテムだった。
 はしゃいでいる文を見上げながら、妖夢のとなりでキリトが言った。
「カーディナルのやつ、まるで攻略が早すぎるのを惜しんで、積極的に『とっておきのアイテム』を紹介してるみたいだぜ」
 背教者ニコラスも似たようなゲームマスター心理によって強引に配置されたのだろうか。あのとき手に入った蘇生アイテムのような珍品は、以来ほかに確認されていない。もし文がオークションハウスに持っていけば、五〇万コルですら済むかどうか。せっかく設定されているのに、知られず終わるのはイヤだ――と、ただのプログラムが考えているとすれば、とても面白い。
 アスナがキリトに同意する。
「カーディナル・システムには少なくとも『勿体ない』という概念が備わってきたみたいね」
「ついでにそのレア品を高確率で手にするのが私たちってわけですが」
 ソードマスターズは全員が一〇〇万コル前後の所持金を抱えている。多少豪勢な価格表示であっても、いまの文のような即金支払いが可能だ。攻略組へいくら余剰資金やアイテムを提供しても、金鉱のように大金が貯まる。数十人あるいは一〇〇人で倒すべき敵を、たった五人でしかも毎日のように平らげている。自然の摂理にも等しい結果だった。
「あの茅場がカーディナルに指示を出してるって可能性はどうだ? または自分でそのように調整してるとか」
 キリトの言葉に、妖夢とアスナが揃って固まった。会話を繰り返すうち、秘密にしてる内容が『茅場晶彦』であると、この黒の双剣士は突き止めてきている。いまも妖夢とアスナを挑発するように口元をゆがめ、観察している。
「いいんじゃないの? もしそうだったとしても、結果的に私たちのほうが有利になってるから」
「ほう。『誰』に対して?」
 明晰なアスナですら緊張からヒントを与えてしまい、突っ込んでくるキリト。いまのアスナの言い方は、プレイヤーとして誰かさんが紛れ込んでいる可能性を暗に示唆してしまっていた。ほかにも取れそうなのに、キリトはきちんと正答の道筋を選んでくる。
 ……鋭いです。さすがキリト、私が好きになっただけはありますね。
 うかつな妖夢は言葉にすることすら覚束ないので、口にシャッター、内心あうあうタジタジである。キリトはネット世界における剣の天才だが、その大元は試行錯誤を人よりも大幅に少なく済ませるところにあった。頭脳の総合性能はアスナほどでなくとも、ピンポイントで物事を掴むことができる。勘が良いとか、筋がいいとか、本質へアプローチする確かさだ。
 アスナもこの件でついにひとつの譲歩を迫られた。
「そ……そこまでは分かってないわよ。だから魔理沙さんたちが頑張ってるんじゃない」
「俺たち男が知ったら、疑心暗鬼で大騒ぎになりそうだからなあ。いくらデスゲームを始めたあいつでも、ネカマまではやらないだろう――たしかに『女だけ』で調査してるほうが良さそうだ」
 妖夢やアスナだけでなく、ほかの攻略組女子も共有している秘密。そこまで見破りつつある。
「……まだ話せないわ。そのときが来るまで、待ってね。お願いキリトくん」
「私からもお願いします。理由を知ったらキリトも必ず納得できます」
「――分かったよ。前に聞かないって言ったの俺だったしな。悪かったアスナ、妖夢」
 追求を下げてくれて、胸をなでおろす妖夢とアスナ。だがそこで終わらないのが最近のキリトさんだ。妖夢の背中に回ってきて、いきなり抱きついてきた。男の子の匂いと体重と体温。いろんな刺激が妖夢の混乱へと拍車をかけた。恋の魔法でなにもかもがプラス方向へ印象操作されている。気分が悪いどころか、反射的に全身が喜びを歌いあげる。慌てふためきつつも、それを楽しんでいる妖夢自身がいる。
「仲間はずれで寂しいんだぞ? このくらいは許してくれよな。おれおれ、ふりふり」
 脇腹を攻めてくるキリト。
「きゃ! あはは、くすぐったい! やめてキリト〜〜」
 涙を流しながら身をよじるが、たいして抵抗にならない。
「ここか? ここがいいのか?」
「どこの、いかがわしい漫画かなにかですかー。もうー!」
 妖夢も後ろ手でキリトの脇腹をくすぐり始めた。
「おっ、や、やるじゃねえか……」
 変な体勢でお互いをムズムズこちょこちょと攻め立てる。もはやなにがしたいのか意味不明だ。
 三分ほど一進一退の攻防がつづいたが、最後はアスナのハリセンに連続でどつかれ、笑いながら仲良く轟沈した。
「……ねえ、不思議に思わない?」
 閃光さんが「私もそんなことしてみたい」な、軽い苛立ちを含ませた声でバカップルにたずねた。
 妖夢は無駄に色っぽくうるんだ瞳と頬をふるふるさせた。
「なに? ちょっと疲れてて、頭がにぶいです」
「以前ならこれ、とっくにハラスメント防止コードに抵触しているところよ。でも警告が出なかった。にもかかわらずセクハラ野郎はしっかり監獄へ転送されつづけている――」
「それは俺も感じてたぞ」
 石畳に寝そべって胸を激しく上下させてるキリトが答えた。ただし視線はしっかりアスナのスカート。デバガメの顔をアスナがむぎゅっと踏みつける。視界を遮られたまま、器用に話をつづけるキリト。
「……こ、このていどなら平気だろうってな。だから妖夢にくすぐり奇襲をかけたんだ。きっと喜んで嫌がらないから、警告が出ないって確信してね。もちろん俺も妖夢から仕掛けてくるなら歓迎だぜ――アスナ、足をどけてくれないか? なんか次第に重く感じてる気がするんだ……が?」
「知ってる? いまのセクハラ警告表示はOKを押さなくても、一定時間が経てば対象者が牢屋へ自動転送されるよう改善されてるって。もちろんオレンジカーソルになってね」
 妖夢はその意味にすぐ気付いた。
「……拘束などによってOKを押させないようにした状態での、悪質な性的いたずらを防ぐため、ですか?」
「ええそうよ。救済を実装したかわりに、不要な事故も防止するため、プレイヤーの心理状態をチェックするようになったの。でも導入理由そのものはおそらく、もっと深刻よ――」
 アスナの表情がみるみる堅くなった。メッセージウィンドウが開いている。
「魔理沙さんからの定期連絡で私もいま知ったばかりなんだけど、アダルトな関係のパートナー持ち……倫理コードを確実に解除している女性を狙った、SAO初となるレイプ事件が起きたの」
 瞬時にして妖夢とキリトの頭が冷えた。いまのイチャコラの背景に、そのような痛ましいことがあったとは。
 倫理コードを解除すると、ハラスメント警告が出なくなる。さらに男女とも性的な不感不能から解放される。要は性交渉の機能で、自慰も可能だ。コマンドがオプションメニューの奥底に眠っているため、ゲーム開始より一ヶ月半も知られることがなかった。相互解除が必要なため、過ちが起こりにくいように思える。だが悪意を持つ者は倫理コード解除済みと推定される女性を狙えば済む。あまりにメニュー深層にあるので、いちいち設定を戻さない子もいる。
 嫌な事件だ。生身の身体が傷つかないとしても、心は納得できない。仮想現実と書くように、あくまで半分は現実だ。加害者にはバーチャルでゲームだから、というふざけた理屈があったに違いない。PoHとおなじ動機だ。だが妖夢とキリトの恋愛が本物になっているように、精神はリアルと取ってしまう。
 アスナが数歩さっと引くと、踏み付けより解放されたキリトが身を起こした。被害者への憐憫と加害者への憎悪をない混ぜた、透徹した顔は険しい。
「最低だな。SAOは普通のゲームとワケが違うのに……警告はカーディナル・システムによる改善なんだな? 茅場はこういう方面には関心がなさそうだ」
 真面目な表情だが、顔面に靴の形がしっかり残っており、間抜けだ。
「ええ。日常系スキルのアンバランスに見るように、茅場晶彦は戦闘や攻略に直接関係しない枝葉のシステムデザインを軽視しているわ。方針を統一せず、開発スタッフに丸投げだったのでしょうね」
「たしかにそうですね。私や椛もリアルでは料理ができるのに、このSAOでは簡単な魚料理すら焦がしてしまいます。一方で文の新聞は、文筆も写真も描画も出版もスキルそのものが存在しませんので、最初からコマンドを満足に使えて、また戦闘系スキルを犠牲とすることもなく成功を収めています」
 ミュージシャンや調理師はもちろん、農家や伝統工芸師ですら、SAOではど素人からの再修行を求められる。新聞発行も同等だったら、射命丸文の苦労は激烈なものとなっていた。出版系統の才能が軒並みスキルとしてデザインされていなかったおかげで、死者をかろうじて八〇〇人未満に抑えている。
 その死者の少なさや、攻略の早さ、あの日の蓬莱山輝夜に、カーディナルが刺激を受けている――アスナの話がつづく。
「レイプ事件にはさらに変わったドラマがあるの。強姦魔はまず、圏内で犯行に及んだわ」
「余計に胸くそ悪い話だな……保護コード圏内は、なにかしてもオレンジになりにくいだろ?」
 数少ない例外がセクシャルハラスメントだが、これまでは警告表示でOKを押さないと同意したものと見なされていた。それを封じれば、圏内ゆえにやりたい放題だ。ましてや今回の被害者は倫理コードを解除している。
「私も圏内保護を利用はしてきましたけど、女性の尊厳を奪うような悪用は許せません……仕様変更は女として大賛同です」
 妖夢はオイタをしたキリトを圏内で成敗してきた。アスナもハリセンを手にどつき回している。だがこれらはゲームゆえのコミュニケーションだ。痛覚もないだけに、過激な突っ込みがいたるところで日常的に行われている。
「ここからが話の本番よ。圏内でありながら、婦女暴行事件が起きてしまった。でもそこで初めての現象が起きたのよ。汚いナニを被害者のあそこへ当てた瞬間、犯人のキャラクターカーソルがオレンジ色になったの! こうなればハラスメントとおなじく、即座に強制転送よ。牢屋に下半身丸出しで粗末なモノを立たせた痩せぎすの長髪男があらわれて、虚空に向かって一心不乱に腰を振っている! MTDは蜂の巣をつついた騒ぎとなり、しでかした犯罪もすぐ知られたってわけ。事件はいちおうギリギリ未遂ってことになってるけど、被害者はショックから一時自殺まで考えたそうよ。夫の支えがなければ大変なことになっていたわね。MTDのシンカー代表は今回の犯人、クラディールの野郎を、解放の日まで釈放する気はないわ。ヒースクリフ団長とキバオウ中佐の要望もあって、罰として下半身露出のまま、凶悪犯専用の区画へ収監されてるって話よ」
 アスナが臆面もなく卑猥な隠語を乱発している。羞恥以上に怒りのほうが大きい。
 おっさん騎士団のクラディール……妖夢の記憶にあるのは、神経質な三白眼のオカマ顔。無駄に嫉妬深い性格なので、あまり良い印象はない。彼と最初に出会ったのは第一層、トールバーナの町。キバオウが引き連れた中に混じっていた。攻略隊を経て攻略組の初期メンバーとなった。さらに解放軍の創設メンバーであり、堂々の幹部だ。そのような勇士がよもや性犯罪をしでかすとは。時流に乗れただけの過分な地位に、傲慢になったのだろうか。こんな奴、もはやスライム相当でいい。
 だがそんなことよりも、最低の性犯罪がかろうじて未遂で終わったことに、妖夢は安堵していた。
「夫の支えで持ち直したんですか――奥さん、助かって本当に良かったです」
 妖夢とは正反対に、キリトが心底より驚いた顔をしている。
「ありえない! 茅場の代理人が、創造主の決めたルールをねじ曲げてまで、犯罪者へ個人制裁を加えるなんて」
「それが実際に起こってるのよ。すでに輝夜さんをゲームオーバーにしたことで、カーディナルの枷は外れてしまったわ。彼……いいえ、私はカーディナルを性質的に女性と見るわ。おそらく彼女は自我みたいなものを持ち始めていて、男の手の行き届かないところを、女として補おうとしている。ハラスメント防止コードの仕様を改善したように、積極的にSAOの調律を行ってるわ。倫理コードのほうも仕様変更を受けたままだと思うし、きっと私たちが知らないところで、もっと色々してるわよ」
「女と男か。まるで攻略組と解放軍の関係みたいだな……あまりやり過ぎると、最高神である茅場も黙ってないだろ。カーディナルさん、生き急いでいるって感じだな」
 妖夢にはプログラムGMの気持ちが理解できたような気がした。キリトといられるタイムリミットを最初の夜から怖れていたがために。
「七〇〇人以上も死んでます。このゲームはクリアされたら最後、存続も再開も許されないでしょう。どのみち消えてしまうなら、精一杯やりたいことをやる、出来ることをする――覚悟を決めて臨んでいるのではないでしょうか」
 妖夢も自分で期限を縮めている。キリトと交際できる貴重な時間を。SAOにおける妖夢とキリトの付き合いが長引くほど、生命の碑に破線を走らせるプレイヤーが増える。妖夢は分かっていながら、キリトといられる時を積極的に削っているのだ……自分自身で。最強ゆえに避けては通れないし、逃げることも許されない。
 言葉が途切れた。まだ街開き前なのに、周囲よりNPC売り子たちの威勢良い掛け声が聞こえてくる。上空で有頂天のカラス天狗が写真を撮りまくり、市場を白狼天狗が駆け回る。プレイヤーは五人しかいないのに、騒々しい空間だった。
 茅場が目指しているであろう、「真なる世界の創造」という壮大にして迂遠な夢想。それを科学技術によって具現化させたデジタルワールドにいま、妖夢は立っている。たとえ実際には存在しなくとも、五感による知覚と記憶には、たしかに形作られている世界だ。それを慈しむように調整しつづける、カーディナル・システム。
 キリトの感想は、端的だった。
「カーディナルって、人間臭いやつなんだなあ」
「いまの攻略速度なら、桜が咲く頃にはクリアしてるものね。プログラムといえども、焦りもするわよ」
「ごめんねアスナ。受験はもう間に合いませんよね」
「妖夢ちゃんが謝ることはないわ。もはや現役合格とか学歴とか、どうでもいいのよ。だって私はいま、日本史に残る大事件の解決へ、直接関わるすごいポジションにいるんだから。レールから外れることなんか、もう恐くない。現実に戻ってもこの経験はきっと役に立つわ。キリトくんも覚悟しておいたほうがいいわよ」
「なんだよ」
「だって人間最強なのよ? 政府がSAO生存者の情報開示を禁止したところで、どこからスクープをすっぱ抜かれるか分からないわよ。ある日とつぜん、キリトくんの家にマスコミが押し寄せたって、私は不思議に思わないわ。しかもあなたは妖夢ちゃんと付き合っている――何年か後に日本と幻想郷が交流を持って、妖夢ちゃんが出てくるとするわよね。そしたら、人間代表として誰が呼ばれるかしら?」
「……俺か」
 妖夢が頭をちょこんと下げた。
「ごめんねキリト。私、きっとあなたを指名するわ。国が事件のデータやログをできうるかぎり保存してるそうなの。だから簡単にキリトを突き止めて、連絡を取ってくるでしょう。あとアスナも」
「私まで? 弱ったなあ。あまり目立ちたくないのに」
「こうなったら道連れだ。大人しく俺といっしょに有名人にでもなるんだな。あんたならモデルでも女優でも、いくらでも道が開けるぞ」
 アスナは首を横に振った。
「私、チャラチャラした世界に興味ないのよね。だって才能の一部――外面しか見てないじゃないの。頭のほうを見て欲しいわ。そのほうがもっと活躍できるはずなんだから。妖夢ちゃんのアイドルデビュー計画を否定してるわけじゃないのよ。適役には適任があるって話」
「はい、理解してます。私はどんな人間にも必ず見えるという半人の特性を活かし、幻想郷と冥界のため、剣の代わりにマイクを武器とするだけです。アスナにもふさわしい将来への挑戦がありますし、私はそれを心から応援し、できることがあれば手伝いたいとも思います。もちろんキリトもです。幻想郷と冥界はあなたのご恩にいくらでも報いるでしょう」
 キリトが広げた両手で断りのジェスチャーを示した。
「いいよ妖夢。将来は妖怪の後ろ盾でなく、俺の力だけで切り開きたい。だいたい俺の才能って特殊すぎて、リアルでどう役立てるのか悩み所なんだよな。プロゲーマーになるとしても食えるのはいいとこ三〇歳くらいまでだし、潰しも利かない。一方でアスナのやつ、汎用性の高さを自覚しまくってやがる。この才媛、敵にしたくね〜〜」
 アスナは堂々と胸を張った。
「親友に謙遜なんかしてもしょうがないわよ。むしろ胸に秘めてるほうが気まずくなるもの」
「え、俺っていつのまに閃光さまの親友になってたんだ?」
「異性なのにそんな軽口たたき合う仲で、いまさらただの友達なわけないでしょ。私は妖夢ちゃんだけでなく、あなたも親友だって思ってるわよ。だからこそ遠慮しないんだから。キリトくんもさっさと諦めて、パーティーリーダーたる私の尻に大人しく敷かれてなさい」
 キリトが泣くような真似をする。
「……妖夢に辻斬りされて、アスナにも漬け物にされるとは、俺は不幸な男だ」
「あややややや」
 アスナたちの会話を聞きつけ、射命丸文が降下してきた。地面へ足が付く寸前、風のクッションで衝撃を和らげる。妖夢たちの足下を弱風の輪が抜け、ゆったりと広がっていった。
「どこが不幸なものですか。私と椛もキリトさんとは良いお友達です。いいですねえ、男一人が美女四人をはべらす。下ではキリトさんのことを、ハーレム王子と羨望しきりですよ」
 文がいつのまにか読んでいた月猫タイムズの最新号を見せてきた。そこにはキリトが妖夢と仲良く腕を組み、うしろでアスナ・文・椛、さらにリズベット・にとり・さとりまで混じって、笑いながらキリトの髪にたくさんのリボンを結わえてるという、珍妙な写真が掲載されている。背景は用水路と水車付きの家。芝生と木がたくさん植えられている緑多きのどかな町、第四八層リンダースでのワンショットだが……タイトルが『我らがハーレム王子、七人も引き連れハーレムデート』とあった。妖夢とキリトが本文を読んでみると「キリトは強くてイケメンだから女の子が集まってくるのは仕方ない」「本紙記者も第四七層フローリアで一日取材デートしたい」とか、恥ずかしいことを書いていた。ここまでキリトLOVEを正面から綴られると、妖夢もかえって微笑ましく感じる。サチは紙面で熱く語るに留め、アプローチは掛けないのだ。
 キリトがあまりの内容に渋面だが、目のほうは嫌がってない。はた迷惑だけど、好意そのものは悪い気がしない。反応に悩んでいる。
「これって昨日、リズが店を買う下見に付き合ったときのやつだろ? どうやったらハーレムデートになるんだよ」
 第四八層のテーマはまだ不明だが、スローライフ系のようだ。緑地や水路、公園が整備されたゆとりある環境に、庭付き一戸建ての空きホームが数多く用意されている。主街区リンダースの物件は高値だが、鍛冶師リズベットはマイスター組に所属しているし、ソードマスターズの全員とも知り合いだ。大金を借りる伝手として、投資候補者への説明会みたいなものを開いた一幕だった。リズベットの提案は、無利子のかわりにメンテナンスをタダとする。攻略組の無料禁止原則に反するが、利息分がメンテ料という解釈で、全員が承諾した。買う家は写真にあった水車付きとなる。三〇〇万コルもするため、たいして返済しないうちにゲームはクリアされるだろう。でも誰も気にしていない。友人の夢を実現させてあげるほうが大事だった。早ければ今日か明日にも『リズベット武具店』がオープンする。
「俺がイケメンかどうかは置いといて、サチのやつ派手に書きやがって。これじゃLAキスを止めた意味がないじゃないか。サチ自身がアイドルなのに、俺のファンを公言するとか。嫉妬に狂った男がどちらかを闇討ちしてきたらどうする気なんだ」
 闇討ちと聞いて、妖夢が胸の前で両拳ガッツポーズ。
「大丈夫。サチさんには黒猫団とブレイブスがいますよ。キリトのほうは私が守ります。撃退したらキスしてくださいね――唇のほうに」
「……たまにそんな感じで、さらっと欲しいって言うくせに、なんで普段は懸命にセカンドキスを拒むんだよ」
 第三五層で妖夢の一目惚れ報告を受けてからこちら、イチャイチャの流れで接吻を試みるようになったキリト。だがすべて妖夢にかわされている。五戦五敗してからは控えるようになった。成功したところで、あとが恐ろしいことになる。
「甘いムード満開だから駄目なの。ドラマとかきちんとしたお膳立てがあればいいんです。たとえばキリトが例の二刀スキルを得るとか」
「ハードル高すぎるって。いい雰囲気なのに拒否とか、そんなことで二回目なんていつになることやら」
 アスナのハリセンがずばんと一撃。自分勝手とわかってるキリトは声も出ない。
「妖夢ちゃんの『好き』は私たちの二五倍ゆっくりなのよ。キリトくんが慣れたといっても、彼女の感覚ではまだ『交際三日目』くらいなの。妖夢ちゃんの生真面目な貞操観念でホイホイ出来るわけないでしょ。だから媚びとスキンシップと好きって言葉をふりまいて、なんとか代替してるんじゃない。この子のキス条件は目下のところ、思い出となる記念や節目じゃないといけないのよ。もっと彼女を大事にね」
「妖夢の甘え地獄はなんというか、萌え殺しなんだよ。近頃は挑発的にすら見えて、ペロペロしていいよって幻聴まで聞こえてきて、誘惑を我慢するのマジで大変なんだぞ? こんな可愛いすぎる生き物に手出し禁止なんて、どうしろってんだよ。ますます賢者を試されるな俺」
 不器用なコミュ障のわりに、スラスラ言葉の出てくるキリトであった。つきあい始めたのが去年の一一月半ば。すでに二ヶ月以上経っている。
 すこし考えた妖夢が、顔をかなり赤く染めて、モジモジしながら控えめに答える。
「……さっきみたいな、少しくらいのイタズラならいいアウッ」
 ぱちこーん。
 このハリセン、出番多くて張り切っていやがる。
「妖夢ちゃんは自分を大切にしなさい! 男って生き物はね、ちょっとでも許すと山のようにつけあがるわよ。まったくあいつったら父さんのお気に入りってだけで――あの目、あの表情、あの手つき! 思い出しただけでも怖気がするわ! そんな奴がSAOの維持管理の……私の体が触られてるんじゃないかって思うと、鳥肌が立ちそうで仕方ないわ!」
 アスナの腕へ本当に鳥肌が立ってきた。さすがSAO、芸が細かい。
「……リアルで辛いことがあったんですね。すいません、大切にします」
「俺を見も知らぬどっかの変態と同列に扱うなよ。ハーレム王子とかエロキリトとか言われてるけどさ、俺はいつもラッキースケベだけだろ。しかも自己申告してる」
「え、あ、ごめん。さっきのは見えてなかったのね」
「ああ、たしかに最初は絶対領域までしかな。でも踏みつけてきたおかげで白いのが見えて、心の滋養バッチリ補給だったぜ――ぐえっ」
 カタナの赤いエフェクトが、エロ大明神を斬りあげていた。
「アスナにセクハラは、やめて! 望むなら私の見せて差し上げますからっ」
 宙に浮かされたキリトの表情が、瞬時に輝く。
「よし! 縞柄でリクエストだ」
「いま身につけてます! あの夜のやつ」
 思わず即答してしまった妖夢。まだ滞空しているキリトの頬が、あからさまに朱を帯びている。なに言ってるのよ私の馬鹿! いまのボトムスはタックフレアーキュロットとネックレギンスだが、解除するなど論外だ。実際に見せるわけがない。それ以前にもはや露出狂である。
 混乱する妖夢の後頭部へ、小気味よい突っ込みの音。さらに落ちてきたキリトにも――こちらはハリセンとは思えないほど、どでかい音となった。アスナの怒りがこもっている。
「やだー! このバカップルったら、ナチュラルで未来に生きてるわよ! なんてうらやましいの、私もキリトくんみたいな彼氏ほしいー! 須郷(すごう)なんか絶対いやー!」
 とどめに甲高いシャッター音。
「あやややっ。エロキリトさんに、むっつり妖夢さんです!」
 文々。新聞の一面が決まった。高画質カメラのデビューとしては、情けない記事になりそうだが。
     *        *
「――という感じだったんですよ。以上がその変な写真の裏話」
 妖夢の長話が終わると、小学六年生の少女が「ほえ〜〜」と間抜けな声を返した。シリカが手に持っているのは文々。新聞の最新号だ。発行は二時間前。いまごろ第一層から第五〇層のうち、おもだった主街区の道具屋に並んでいるはずだ。
 印刷屋に原稿を持ち込み金を払えば、刷り上がりまで一分足らず。数十から数百部ごとに束ねた整頓アイテムとして渡してくれる。食堂とおなじく野暮な待ち時間はない。あとは受け取った紙束を道具屋へ持っていけば、配布は完了だ。文々。新聞の場合、第一層と街開き直後の最前線を含め、人口の多い一〇ヶ所と決めている。それ以上は文や椛の身が持たない。束アイテムは扱いを間違えば瞬時にストレージがパンクするので注意が必要だ。アルゴが『Weekly Argo』の山に埋もれてしまったことがある。
 シリカが新聞を興味深げに読み直している。
「……最前線って、楽しそうに見せてるだけで、もっと大変で使命感たっぷりなんだろうなって思っていたんですけど、まるでピクニックですね。新聞に書いてる通りそのままで、本当に行楽気分だったんですね」
「まあ実際、私にとって敵がどうしようもなく弱いですしね……」
 うしろから襲ってきた大型ツル植物。それを妖夢は視認もせず、四撃で斬り殺した。ほぼ瞬殺だ。あまりの神業にシリカが拍手する。
 実際ここまで、妖夢はずっとシリカと無駄話をつづけてきたわけだが、会話が途切れることはなかった。植物型モンスターどもは近寄ってもれなく、カタナの錆となって消える。すべて二〜三秒以内である。
 妖夢はいま、シリカと一緒に花の街道を歩いている。周囲はすべてお花畑。真冬だというのに、季節感お構いなしの常春だった。SAOは現実の四季を再現するが、層のテーマによってはさすがに無視してくる。第四七層は全体が無数の花で覆われている。
 ソードマスターズから離れて別行動を取るのは久しぶりだ。べつに遊んでいるわけではない。
 竜使いシリカの周囲に、この二ヶ月寝食を共にしてきた相棒が、どこにも見あたらない。あの青いふさふさした愛らしいフェザーリドラのピナが、戦闘中のミスで死んでしまったのだ。使い魔の強さはご主人のレベルに依存する。ピナのHPは常にシリカの二割ほどで固定されるため、潜在的に死にやすい使い魔であった。
 幸い『ピナの心』というクエストフラグになったおかげで、蘇生アイテムの出現が確実視された。使い魔モンスターはこれまで、死ぬと『○○の形見』というメモリアルアイテムに変化していた。それが初めて『○○の心』に変わった。解説には、三日以内に特定のアイテムを使うことで、使い魔を生き返らせることができるとあった。ビーストテイマーが待ち望んでいたクエストの出現であったが、具体的になにかまでは不明だった。そんなときは困ったときのアルゴちゃん。実費込みの依頼料として、紫と魔理沙が五万コルを出している。成功報酬はさらに五万コルだ。それほどまでにピナは憩いとなる大切なお友だちだった。
 鼠のアルゴが自前の情報網と同業者を駆使した結果、ピナを除いて最後に使い魔が死んだときの最前線が、第四三層だと分かった。つまり第四四層以上にテイムモンスター蘇生イベントが用意されている可能性が高い。ソードマスターズ以外はレベルマージンが足りず、主街区より外へ出られない領域だ。だからといってグランドクエストに邁進する妖夢たちを使うのも話が違う。したがってアルゴたちは一縷の望みをかけて第四四層から上の主街区のみをしらみつぶしに調べまくった。幸いなことに、コタロー&イスケの忍者コンビが、第四七層フローリアでそれらしき情報をゲットした。このふたりは鼠のアルゴに一〇万コルを支払い、おヒゲの理由を買うことで体術スキルを早めに修得し、忍者プレイヤーとしてライバルに先んじて完成できた。以来アルゴの手駒として活躍している。忍者のロールプレイに諜報活動は欠かせない。
『小さきものとの時が止まっても、心の絆はまだ繋がっている。砂時計をふたたび動かさんと望むなら、心を息吹かせよ。思い出の丘、その頂上に求める花は咲く』
 思い出の丘――NPCの花占い師が言ったフィールドダンジョンは、主街区フローリアより南に行き、外周近くを東寄りへ進めばつく。そこへビーストテイマー本人が行けば、未確認の蘇生アイテムが花となって咲くらしい。いつもはほぼ全速で走る妖夢であるが、今回は竜使いシリカが一緒ということで、のんびり歩きながらの遠足である。
 今回のボディガードとしてソードマスターズより妖夢が選ばれたのは、それがベストの選択だからだ。どのような罠や敵が待っていても、確実に切り抜けられるのは妖夢とキリトだけである。さらに妖夢はあらゆる奇襲と待ち伏せを見破る。あちらの戦闘はキリトと椛がいればなんとかなる。いまごろは第五〇層の迷宮区に突入しているころだろう。第四九層は新聞が形となる前、今朝方にさくっとクリアした。妖夢はボス戦より休むことなく、シリカの先導を務めている。
「わあっ、可愛い」
 シリカが珍しい花でも見つけたのか、道の隅に座り込んだ。妖夢と第四七層についたときは半日に迫ったタイムリミットで焦りも見せていたが、あまりに順調なので、もはやクリアしたも同然の余裕が出てきている。すでにフラワーガーデンの異名を与えられた第四七層は、あらゆるところに花が植えられ、または自生しており、見る者の心を癒してくれる。だからといってモンスターが弱いわけではなく、やはり妖夢などの力を借りないと、シリカが思い出の丘へ行くことなど不可能だ。
 いまのシリカはずいぶんと垢抜けた装備に身を包んでいる。今回の冒険に合わせ、妖夢がレアアイテムでシリカをコーディネートしたのだ。武器は現段階で最強の短剣となるイーボン・ダガー。軽さと速さが信条の短剣は要求筋力値が総じて低く、多少レベルが低くても装備できる。視覚的に目立っているのは鮮やかな赤地に金糸の走るムーン・ブレザーで、鎖骨・肩・脇・横腹が露出している。完全な女物ゆえ、男が着ると変態だ。胸元を覆うシルバースレッド・アーマー、宝石入りのフロリット・ベルト、ハイニーソックスのようなデザインのフェアリー・ブーツ。あとはシリカ自前のアンダーシャツと、黒いミニスカート。
 正面に不気味な口を開いた、歩く巨大花が湧出した。襲ってきた触手二本を妖夢があっさり切り落とす。両手の二刀で同時斬り。
「そろそろ戦ってみますか?」
 妖夢の誘いに頷くシリカ。急所を斬ったわけでもないのに、モンスターのHPはたった二撃で半分近くも削れており、あとはシリカでもなんとかなりそうだ。それだけ妖夢の攻撃力は高い。現在のカタナは宗三左文字(そうざさもんじ)。両手武器だけあって刃渡り九〇センチと立派なものだ。サブウェポンの曲刀はアグリオスといい、直線的なフォルムが特徴だ。刀身は六五センチほど。その鞘は左文字の鞘に紐で強引に結わえているだけ。装備はしておらず、ただ持っている。システム的な恩恵は皆無だが、妖夢にはなんの障りともならない。鞘の角度は長いほうが背中で斜めがけ、短いほうがほぼ横。口はいずれも左向き。これはリアルでの佩刀方法とまったくおなじだった。
「……やってみます」
 イーボン・ダガーを抜いて懐に構え、ソードスキルのタメに入るシリカ。一秒ほどで力を解き放つと、システムにアシストされたシリカの体がゼロから加速し、真紅の光跡が花形モンスターの子房部を直撃する。相手からの迎撃はなかった。武器である触手を妖夢に斬られており、部位欠損ステータスによりなにも出来なくなっていたのだ。短剣で重宝する中級剣技、ラピッドバイト。シリカはブーストが使えないが、ソードスキルの攻撃補正はデフォルトで通常攻撃の二倍にはなる。そこにラピッドバイトの突進による上乗せがあり、三倍近く。妖夢は宗三左文字をブーストさせて振っているが、その一撃とおなじていどのダメージを――ろくに稼がなかった。
 シリカのレベルは妖夢の半分以下でしかない。攻撃力と勢いが足りなくて、前線の武器でも火力不足だ。昨日までの武器であれば、モンスターの防御力をろくに突破できず、倒すのに何十分も掛かるだろう。
 レベルの差とはそれだけ無茶な開きを生む。SAOでは実力と意欲に応じてほぼ順当にレベルも高くなるが、それは他のレベル制MMOと違ってスタートが横並びだったからだ。デスゲームゆえ課金要素もない。だがシリカとてすでに二ヶ月半を戦ってきた剣士である。ブーストが無理でもコンボくらい使いこなせるわけで、めげずにファッドエッジ、サイド・バイト、クロス・エッジと繰り出し、しっかり倒した。
 爆散した巨大花と同時に、レベルアップを知らせる嬉しい音が鳴る。この一戦でシリカのレベルが三一から三二へあがった。経験値量はシリカがいつも戦っている二〇層付近の二〇倍近くにも達していて、竜使いを刮目させた。たったふたりなので、敵一体の経験値は六〜七倍といったところだろう。さらに妖夢たち以外誰もいないので、リソース独占による敵との遭遇率は二倍近く。時間的な効率はざっと三〇倍強だ。
「すごい……妖夢さんたちがもの凄いレベルになるわけですね。ありがとうございます」
 気を良くした妖夢は、その後も敵の攻撃を封じてから料理させる戦法で、経験値をたらふくサービスしてあげた。三〇倍強という破格の効率はシリカの成長に役立ち、思い出の丘で最後の坂を登るころには、レベルが三三になっていた。
 町からクエストへの片道だけでレベルが二も上昇するというのは、MMORPGではとても珍しいことだ。個人向けオフラインゲームと違って、オンラインゲームは強くなるのに何倍も時間がかかる。妖夢たちソードマスターズのレベルが異常なのは、強さも速さも技も、なにもかもが超越的で、人の数十倍もの経験値・お金・アイテムを稼ぎまくっているからだ。いまの妖夢も片手間の支援活動でありながら、上層の一〇倍、中層の三〇倍という高配当だ。あらゆる敵を殲滅するいつもの攻略活動となれば、これがシリカの一〇〇倍以上へ跳ね上がる。十分なマージンを持っていながら、毎日のようにレベルを上昇させていく。
 第一〇〇層まで登るのはソードマスターズである。
 ラストバトルに挑めるのはソードマスターズのみである。
 SAOをクリアする英雄はただひとつ、ソードマスターズだけである。
 常識となりつつあるひとつの認識だった。攻略組と解放軍が統率を失わないで済んでいるのは、ソードマスターズが素通りしていったクエストやキャンペーンの数々が、そのまま残されているからだ。おなじクエストでも、一度クリア済みであれば安全となる。実地によって情報を集め、整理し、後陣へと提供するのが、彼らのモチベーションとなっている。そういう意味で彼らは間違いなく攻略組であり、解放軍であった。フィールドボスに匹敵するボスもいて、そんなときはディアベルあるいはキバオウが攻略指揮官として数十人を統率する。評判は上々だ。
 ――妖夢とシリカは花に囲まれたレンガ道を散歩でもするように進んでいき、やがて思い出の丘、最上部近くに到着した。
 道の両端に特徴的な石柱が見えた。安全地帯の境界を示すオブジェクトである。そこを通りすぎるとBGMが変わった。弦楽器の優しい音色が、敵の出現しないポイントであることを示している。
 ここより先が、いよいよ蘇生アイテムのエリアであった。小さな花が道の両脇を埋め、カーペットのように咲いている。白・赤・ピンク・紫など色のバリエーションに富んでいるが、品種が違うだけで、系統はおなじだ。花弁は五枚。いずれも真上を向いて咲く。一輪一輪は目立たないが、数と密度がすごいので、美しい極彩色のペルシャ絨毯となっていた。
 シリカの表情にも花が咲く。
「ちいさいのに、きれい……妖夢さん、なんて花か分かります?」
「日々草ですね。かぐわしい、いい香り。花言葉は――追憶、思い出。ここがピナを生き返らせるゴールのようです」
 一月に咲く花ではないが、第四七層はほかの層より気温も高い。テーマの花を年中咲かせ、訪れた者に違和感を持たせないためだろう。夏はおそらく逆に涼しくなるのではないだろうか。暑いと花もへたるイメージだ。
 日々草のエリアを抜けると、丘がすこし下っており、道が尽きていた。林に囲まれた草地の終わりに、穏やかな日だまりが出来ている。そこには人工の小岩が宙に浮かんでおり、上面が光に包まれてほのかに明るい。輝く面は妖夢の胸くらいの高さだ。
 妖夢が指をさす。
「たぶんあそこに咲くと思いますよ」
「ピナ!」
 期待の声をあげたシリカが飛び出し、ゴールの岩に向かう。間近へと近寄ると、なにもない光の面より一本の若芽が生えてきた。その植物はみるみる生長し、先端に白いつぼみを付けた。高さは二〇センチていど。
 感動的な効果音の演出とともに、ゆっくり花が開く。百合に似ているが、横ないし下向きに咲くユリとちがい、チューリップのように真上を向いている。おそらくプレイヤーが花を見やすいようにとの配慮だ。
 光の粒が舞って、開花の完了を告げる。きれいな様子に、シリカはすっかり魅入っていた。いつまでも動かない。この手のレアクエストはあまり体験がないようで、この先どうしたら良いか、わからないみたいだった。
「花を手に取ってみます?」
 妖夢が促す。
 言われた通りシリカが右手で花に触れると、茎の途中からぽきんと取れて、オブジェクト化した状態でアイテムとして取得できた。『?』マークが出てきたので、左手でクリックすると、アイテム名『プネウマの花』と表示され、さらに使い方や効果が記されていた。
 すでに笑顔だった竜使い。その表情が日の出となって輝いた。目頭が熱くなっており、涙がたまっている。
「これで、これでピナを生き返らせるんですね!」
「良かったですね」
「はい! ありがとうございます妖夢さん」
 その場でピナ蘇生を実施しようとしたが、さすがに妖夢が止めさせた。いまのシリカは最前線の防具でがっちりカバーしているが、ピナは違う。この辺の敵は強力ゆえ、かすり傷でもピナは殺されるだろう。まだタイムリミットまで十分にあり、圏内に入ってからでも良い。
 シリカがそわそわしているので、ふたりは急ぎ足で帰り、行きの半分ていどの時間でフローリアに戻ってきた。転移結晶はそれなりに値が張るので、このていどでは使用しない。帰路でシリカのレベルがさらにひとつあがった。
 フローリアの南門で、五人の男女が出迎えてくれた。シリカが最近、レベリングでお世話になっているギルドだ。名は黄金林檎。第二二層で起きた事件の余波で、当時のリーダーふたりが偶然からSAO初のバーチャルセックスを体験し、妙な意味で有名になった。責任を感じたグリセルダとグリムロックが同時に抜け、さらに壁戦士シュミットが聖竜連合に移籍していった。八人から五人へ減った黄金林檎は解散の危機を迎えたが、ギルド印章(シギル)を継承したカインズと恋人のヨルコが頑張り持ち直した。いまでは攻略組より離れ、中層付近でのんびり活動している。パーティー編成に一人ぶんの枠を残しており、六人目としてシリカがお邪魔していた。シリカはいちおう攻略組所属だが、サポートスタッフのためレベルが低く、ボリュームゾーンでないとまともに戦えないのだ。またヨルコの存在もある。竜使いシリカは人気者なので、男だけのパーティーではどうしても尻込みする。昨年末に求婚された経験が、軽いトラウマとなって響いていた。
 シリカがプネウマの花をオブジェクト化して、カインズやヨルコたちに見せている。
「頑張ったわね、偉いわシリカちゃん! これでまた、ピナといっしょに戦えるわね」
 黒髪ウェーブの女性がシリカを撫でて褒めていた。黄金林檎のムードメーカー、ヨルコ。うっすら化粧をしており、妖夢が見たところ一七歳前後。かなりの器量好しで、そばかすがキュートである。腰の造りも安産型。
 フローリアに入ってひとつのベンチにシリカが座る。その膝に青白い羽根。フラグアイテム、ピナの心。みなが囲む中心で、緊張した面持ちのシリカがプネウマの花をすこしずつ傾ける。
「……今日は、楽しい冒険だったよ、ピナ」
 涙を目に溜めながら、花をさらに傾けた。ひとしずくの蜜が花びらの隅に溜まり、わずかな抵抗ののち、重力にしたがって下へと落ちる。そのしずくがピナの心へ触れたとたん、白い輝きが周囲を包んだ。
 BGMがバイオリンのゆったりとした奏でに変わった。羽根が宙に浮かび、淡い燐光を伴った空気の渦へと包まれてゆく。シリカの手にあった花が砕け、白いポリゴンの余韻をのこして風に散った。だが竜使いはもはやそんなことに意識を向けていない。膝の上でせり上がってくる空気の渦にだけ注目している。白い小竜巻はぐるぐる旋回しながら上昇していく。シリカはそれに合わせて立ち上がった。彼女の目線の高さで、白銀の竜巻が止まる。
 輝きが弱くなるとともに、渦が弱まり、消えていく。その中に、羽根を広げて浮かぶ、ちいさな獣の姿があった。
「きゅ〜〜」
 かわいい声で啼いたそれは、全身を羽毛で覆われた、ちいさな飛竜だった。種族名フェザーリドラ。尾羽根は二本、色はライトブルー。
 ご主人の与えた固有名詞――ピナ。
 在るべき竜が還ってきた。カインズよりはじまった温かい拍手が全員に広がり、竜使いシリカの復活を祝福する。
「ピナ!」
 リアルのシリカにとって、ピナはペットの猫の名である。だがいまのピナはこのちいさな竜だ。シリカの癒しとなり、支えとなり、二ヶ月あまりをともに歩んできた、かけがえのない友達。たとえサーバに保存されたデータにすぎない幻の生き物であったとしても、シリカにはどうでも良い。ピナはピナなのだから。
 ピナは死んでいたことを感じさせない軽やかさでシリカの頭上に留まると、そこで毛繕いをはじめる。
 黄金林檎を代表して、リーダーのカインズが妖夢へ頭を下げてきた。プレートアーマーの戦士で、一八歳前後。坊ちゃん刈りの素朴な顔で、地味ながら誠実そうな雰囲気をまとっている。
「みょんさん。グラクエでお忙しいのに、大変な手間を取らせてしまいました。ピナは僕たちにとっても大切な仲間です。どうもありがとうございました。これはせめてもの礼です。お受け取りください」
 カインズが妖夢に渡したのは、ひとつの指輪だった。一目でレアアイテムと分かる凝ったデザインの銀細工で、鮮やかなガーネットが埋め込められている。植物をあしらっており、女性向けだ。イメージ的にアスナになら似合いそうだなと思いつつ妖夢がプロパティを確認すると、とんでもないシロモノだった。
「……これは! 敏捷力を二〇もあげるなんて、換金すれば三〇万コルにはなりますよ。いいんですか?」
「はい、だからいいんです。そもそもピナが死んだのは、そのアイテムをドロップしたレアモンスターを追うのに僕たちが夢中になってしまい、シリカちゃんから目を離してしまったのが原因です。間隙を突いて彼女を襲ってきたモンスターの盾となり、身代わりとしてピナは死んだのです。ご主人思いの見上げた子じゃないですか。それなのに僕たちは欲に目が眩み、情けない限りです。そこで話し合った結果、ピナを生き返らせてくれた人へ指輪を贈呈することに決めました」
 ヨルコがカインズの隣で頷く。
「私からもお願いします。その指輪はソードマスターに使われてこそ、真に役立つことができます。一日も早く、この世界を終わらせてください」
「――たしかにこの指輪、受け取りました。大事に使います」
 ピナとともにシリカが寄ってきた。
「妖夢さん。私の装備ですけど、お返しします。さすがにこのような高価なレアアイテムの数々をいただくというわけには」
 じっとピナを見た妖夢が、首を横に振った。
「……いいえ。ピナを二度と死なせないためにも、あなたはその武器と防具を使い続けたほうがいいです」
 妖夢はピナの頭部を指さした。シリカが目線をあげると、そこにはピナのHPバーと、見慣れない小粒のアイコンがふたつ。
「バフ効果……ですか?」
「フロリット・ベルトとムーン・ブレザーですね。それぞれ回避率とクリティカル耐性にボーナスが付きますが、どうやら使い魔にも有効だったようです。両方ともピナの生存に有利ですよ。武器のほうはもちろん、シリカちゃんが強いほどピナが死ににくくなるからです」
「でも……」
 シリカは黄金林檎のメンバーを見た。ひとりだけ高性能で特別な装備に身を包む。突然シリカだけ不相応に強くなれば、ほかの五人はどう思うだろうか。それが気になるようだった。
 カインズがヨルコや、ほかの三人と顔を合わせ、無言で意志を確かめた。ヨルコがピナを撫でてきた。
「大丈夫。元はといえば私たちのミスでピナが死んだのに、その危険を低くしてくれる装備を、妬んだりしないわよ。むしろ積極的に着ていて欲しいわ。そのほうが私たちも安心して戦えるもの。なによりピナが元気なほど、ポーションを使う量が減って助かるじゃない」
 ピナの能力は各種の支援ブレスだ。たとえばヒールブレスであれば、シリカのHPを瞬時に一割ほど回復してくれる。
「カインズさん、ヨルコさん、みなさん、ありがとうございます。妖夢さん。この装備、ピナのために使わせてもらいます」
 とことん良い空気で場は収まった。シリカが涙笑顔で、感謝を繰り返す。
 ……じつは珍しくオチがなかったことに、妖夢は安堵していた。笑いの神もたまには休むこともあるようだ。
     *        *
 妖夢とシリカは装備のメンテナンスとピナの顔見せで、第四八層リンダースに移動した。黄金林檎のほうはそのまま中層へ向かい、午後いっぱいをレベリングに使う予定だ。
 リンダースの転移門広場より歩いて数分の住宅地に、ガタゴトンと水車の音が響いている。開店したばかりのリズベット武具店だ。
 見た目こそただの一軒家だが、軒先に円盤形の看板が掛かっている。鎧を着た騎士が横を向いた肖像で、控えめに『Lisbeth's Smith Shop』と書いてある。それがなければ、ここが鍛冶師の店とは分からないだろう。知り合いと口コミ客だけを相手とし、一人ごとに時間と手間を掛けることで、できうる限り最高のサービスとアイテムを提供する。それがリズベットの決めた方針だ。借金が無利子だから、あくせく稼がなくて良いのもある。
 妖夢がドアを開くと、「いらっしゃいませー! ――って、あんたらか」と、元気な声。
 夢をかなえた新人店長を見たとたん、妖夢もシリカも目を輝かせた。
「リズ、ずいぶん見違えましたね! 可愛いですよ」
「リズベットさん、とっても素敵です」
 茶髪をうすピンクに染め、赤色主体のウェイトレスみたいな衣装を着て、営業スマイルで微笑むリズベット。妖夢の主観だと、二〇〇パーセント増しで可愛くなっている。これなら固定客も多めに付くだろう。店として独立はするものの、攻略組には所属したままだ。シリカの例にあるように、以前のような縛りはなくなっている。いまの攻略組はいくぶんマイルドだ。
 褒められたリズベットは照れたように頭を掻いた。
「やはり妖夢たちから見ても可愛いかな? うん、アスナに言われて閃光さま御用達なカリスマ針子の元へと案内されたんだけど、正解だったみたいね。オーダーメイドだから高かったのよこの服。思い切って良かったかな、あはははは。おっと、シリカ、ピナの蘇生おめでとう! さあ、こちらへこちらへ〜〜」
 テンションの高いリズがふたりの手を取って、店の地下にある工房へと引き連れてきた。
 妖夢の渡した曲刀アグリオスを見て、状態を見分するリズベット。さっそく大きな砥石に押しつける。その砥石は水車と大小の歯車で繋がっていて、自動的に回っている。火花が飛び、曲刀がみるみる輝きを取り戻してゆく。
「相変わらずたいして刃こぼれしてないわねえ。でも耐久値はしっかり減っている。どうやったらあれほど斬りまくって、これほどシャープに保てるのかしら」
「さあ。私はいつものように戦ってるだけです」
「外見と数値がこれほど合わないのはあんたくらいよ、妖夢。メンテするほうも楽といっちゃ楽だけど。キリトのほうは欠けまくりだものね、時間ばっか掛かるのよ、あいつの剣」
「荒々しいのがキリトの剣術ですしね。さすが男の子です」
「はいはい、恋は盲目っと。あんたが達人でキリトが雑って言ってんの。よく剣を折らないわねあいつ」
「これまで何本か折ってますよ。ストレージにいくらでも代替品が溜まるので、気にせず新しいのを握るだけです」
「六〜七万コルからの剣をぽっきぽき折るなんて、ソードマスターズは景気がいいや」
 そのあとカタナやシリカの武器防具もメンテして、三人が店へあがると、見知らぬ男性が待っていた。サングラスを掛けていて、黒いシルクハットと黒いコートを羽織っている。
 リズベットが慌てて謝る。
「――すいませーん、まだ来客ベルが届いてなくて、気付きませんでした。NPC店員は……って、雇う余裕なんか当面ないか。えーと、リズベット武具店へようこそ!」
「私だ。同業者組合に入ってるのに、見忘れたのかい」
「え? あ、グリムロックさんじゃないですか。マジでごめんなさい!」
「いやいい。寄合へろくに出てこない半端者の私も悪いんだ。リズベット、開店おめでとう」
「ありがとうございます。それでご用件のほうは? おなじ武器系の鍛冶職ですし……インゴットの融通とかです?」
「用があるのは私の妻のほうだ。相手もきみではなく、みょん」
 思わぬ指名を受けた妖夢が、首を傾げた。
「みょーん?」
 扉が開いて、ひとりの女性が入ってきた。
「――この店の前で待っていれば、必ずメンテナンスに訪れる。情報屋を利用したのは初めてでしたが、あのネズミヒゲのお嬢さん、たしかでしたね。お久しぶりです、みょんさん」
 妖夢のとなりで、シリカが「わあっ、きれいな人」とつぶやく。
 均整の取れた知的な美女だ。年齢は二〇代前半。アスナが成長して、静かな物腰を取れば、この人のような趣きを持つだろう。もっともアスナはまだ中三でありながらあの容姿だから、この人と同年齢になったときはとんでもない麗人となっているにちがいない。
「グリセルダさん」
 攻略組にいたとき何度か挨拶をかわしており、妖夢も面識があった。黄金林檎の前ギルドマスターだ。その美女の端麗な顔がいきなり、深い苦悩に染められた。
「あなたに相談があって来ました。私たちよりも長く生きていて、人間を愛することも知ってるあなたなら、きっと私に答えを示してくれると。私はもう、どうしたらいいのか分からないのです」
 ――それから三〇分あまり、長い話がはじまった。
 まず驚いたことに、あのスライム相当のクラディールに襲われた被害者が、このグリセルダだったことだ。つづけて驚きを倍化させたのが、スライムをけしかけた黒幕が夫だったという事実である。グリムロックも話に加わり、自分の重い罪を淡々と白状した。
 黄金林檎を率い攻略組の本隊を目指していたグリセルダ。だが夫であるグリムロックがデスゲームに怖じけづいていたと知るや、夫に愛想を尽かすどころか、あっさり自分の夢を捨てた。
 攻略組より離れた夫婦。グリムロックは理想の妻が帰ってきたと思い込んだ。第二四層の湖上都市パナレーゼへ引っ越すと、フィールドへ出ることを禁じ、ただ貞淑な嫁であることを要求した。生活費は夫が稼ぐ――グリムロックは鍛冶師である。生産職はその活動でも経験値を得られるので、町中に引き籠もっていてもレベルを維持できる。もちろん収入も得られる……はずだった。
 モンスターに怯え、素材アイテム集めにすら出かけない夫。すべての材料を人から買うグリムロックは、ただでさえ儲けが少なかった。消極的な動機から安易に生産職を選んだため、同業者より熟練度も低く、前線近くでは水準のサービスを提供できない。固定客がつかず、収支はすぐマイナスに転じた。
 残金は目減りする一方だった。そんな穀潰しのグリムロックをグリセルダはただ励まし、見守っていた。ある日、妻がまとまったお金を渡してきた。装備を売ったのだという。まだパナレーゼで暮らせる。喜んだ夫はそれを元手に武器を打ちつづけ、町で露店を開く日々。しかし商売は行き詰まったままだ。
 グリセルダが中下層への引っ越しを提案してみたが、グリムロックは撥ね除けた。理由はグリセルダより上回るためだった。レベル・所持金・装備。すべてで! まずはそれを達成しないと、夫としての威厳を取り戻せないと思い込んでいた。
 生活には困らなかった。妻がコルを渡してくる。あれを売ったこれを売ったと言うが、それにしては金額が多かった。不審に思ったグリムロックがある夜、妻の行動を監視すると――グリセルダは深夜に起き出して、ソロで冒険へ出かけていた。しかもグリムロックではとても戦えない高さの層に。
 こんなはずではなかった。妻を上回る計画が、反対に養われていた事実。差はさらに拡大している。良い夫であろうとしたグリムロックは、グリセルダの気遣いを表立って責めることができなかった。自分が悪いと知っていたから――
 プライドをずたずたにされたグリムロックは、かわいさ余って憎さ百倍。妻へ急速に理不尽な殺意を抱く。そうだ、あれは妻ではない。私の言うことを素直に聞き、逆らわず、喧嘩もせず、天使のようだったユウコは消えてしまった。愛が失われる前にグリセルダを消し、可愛いユウコを思い出の中に閉じ込めてしまいたい!
 殺害の請負人を探してみたが、どこにもいなかった。悪しき思想をばらまく元凶が捕まり、妖夢の千手纏縛剣で半身不随となった逸話が、オレンジや犯罪者予備軍への抑止力となっている。くまのPoHさんはいまだ寝たきりで、回復の見込みはない。悪の英雄どころか、笑いネタで反面教師。積極的殺人者など、もはやありえなかった。
 仕方なく自分の手を汚すことにした。SAOでの殺人は「合法」だ。刑法では行為・違法・有責が揃ってはじめて罪に問える。だが行為は物的証拠が残らない。違法は現実の死を確認できない。有責も異常環境での事だ。生還しても刑事罰はまず受けない。
 だがグリムロックは慎重だった。あらゆる可能性を考慮し、犯人が絶対に分からない方法を求めた。リアルでの繋がりもある以上、彼にとって疑われるだけでダメだった。妻殺しの夫などほかに事例もないだろうから、現実に戻って特定されたら人生が台無しだ。刑務所に入らずとも、通念に反したとして社会的制裁が待っている。
 グリムロックはひとつの裏技を思いついた。ワープ場所を自由に登録できる回廊結晶を使うのだ。目立つアリバイを作ってから、グリセルダの寝室へ転移する。あとは睡眠PKを仕掛け転移結晶で抜け出せば、完全犯罪が成立する。
 ところが回廊結晶(コリドークリスタル)が手に入らない。
 攻略組・解放軍・MTDによる高値買い取りが継続されているためだ。ほぼすべての回廊結晶は三組織が所有している。とっくの昔に気付いていた河城にとりの提言によって進められた、要人暗殺への事前対策だ。元は茅場正体見破り作戦での使用が主目的だったが、PoHの睡眠PKと大量殺人が起きて純粋な予防策となった。たとえばディアベルの寝首を掻くだけで攻略組は半壊する。そのような悪夢の蛮行は可能性の段階で摘み取っておくべきだと、いずれの首脳部も考えた。
 プレイヤーキルはもはや、偶発的・個人的な事件としてしか起こらない。積極的・知能的、双方の殺人が封じられている。
 秘密裏に殺すことができないなら、精神的に挫けさせて、自分より低い位置に落とすしかない。
 グリムロックが最終的に取った作戦は、人に襲わせ、死に至らないていどにいたぶる、下劣なものだ。以前より目を付けていた人物――クラディール。愛した妻の死を願い、知能トリックまで構築したグリムロックは、負の感情に敏感である。この痩せたスライムが強い者へ向ける歪んだ視線と嫉妬の数々、弱い者へ向ける嗜虐の劣情に気付いていた。
 やつなら使える。
 仲介役として、黄金林檎の元メンバーで、唯一攻略組に残留したシュミットを利用した。彼の寝室の扉へメモと手紙を挟んだ。この手紙をクラディールの寝室の扉へ挟んでくれと。報酬は一万コル。シュミットは聖竜連合へ移籍する際、必要な装備の購入資金を皆より都合してもらい、借金があった。奇異な頼みであったが、欲に目が眩み、つい受けてしまう。
 メモを挟んだのはもちろんグリムロック。元攻略組の彼が攻略組の泊まってる宿をうろついても、目撃者はとくに気にしなかったし、すぐ忘れてしまった。クラディールは解放軍なので、グリムロック自身で動けば足が付く可能性があった。シュミットを覚えてる者が出ても、そこで足は止まる。
 わざわざ手書きの手紙を用意したグリムロックは、女文字まで覚えて架空の女を演じた。グリセルダを深く恨み、復讐を求める女を。クラディールは食いついた。シュミットを介したのは最初だけで、あとは置き手紙による文通の形を使った。グリムロックは演出を忘れず、クラディールを欺いた。成功のあかつきには勇者さまと付き合いたいとも。クラディールはまんまと踊らされ、ついに凶行へ走る。
 ――結果、レイプ未遂事件となった。
 クラディールにしてみれば、性犯罪を犯す大義名分ができたのである。喜んで「悪女グリセルダ」に近づき、ストーカーによってその行動パターンを調べあげた。無能ゆえ大組織の幹部でありながら有閑な毎日をすごしていたスライム相当の男。自由に使える時間はいくらでもある。確実に大丈夫とふんだ瞬間を狙い、グリセルダを襲った。クラディールにとってこれは正義の行いであり、リアル充実になるための通過儀礼である。カーディナル・システムの英断には誰しも感謝するしかない。
 MTDの捜査は案の定シュミットで止まり、グリムロックに届かなかった。だがこの鍛冶師は、恥知らずでいることに耐えきれなかった。
 事件を知ったグリムロックは激しく動揺した。クラディールが本当に強姦にまで及ぶとは、思っていなかった。いや、もし最悪の事態へ発展したとしても、仮想現実での出来事であるから、ユウコの身は自分のモノのままだという油断が、どこかにあった。
 事件後、もう死にたいと泣き崩れたグリセルダ。死なせてと、あなたに済まないと、なにも悪くもないのに悲痛な懺悔を繰り返す妻。
 それを見て、自分の奥底にあった醜悪さをあらためて自覚したとき、グリムロックの心は砕けた。自身の邪悪さに、ついに自壊したのだ。妻の抹殺計画を考えていたときは、なんとなくゲーム感覚の部分もあった。だがそこにクラディール・ザ・スライムのフィルタを通したことで、みずからを客観的に見てしまったのだ。まるで悪魔ではないか。罪悪感に潰されたグリムロックは、なにもかもをグリセルダに吐露した。
 グリセルダの頼みが、妖夢へとなされる。
「――まだ他のどなたにも、この件は伝えていません。みょんさんは冥界で正義の執行者のようなことをしていると聞いてます。ソードアート・オンラインはひとつの別世界であり、現実社会のことわりは通用しません。だから私は、異世界に住んでおられ、さらに人間との愛も知るあなたに、私の夫の裁定を委ねたいと、思ったんです」
 深い。
 妖夢が感じたのは、その一語だった。
 グリセルダの慈愛は聖母のように深く、たゆたう海のごとく広大だ。私がどう動くかなんて、とっくに知っている顔だ――と。三白眼スライムという第三者を通じて、おのれの罪と向き合うことが出来たグリムロック。だからグリセルダも第三者である妖夢を利用して、またグリムロックに自覚させるのだ。すでに答えが定まっている確認のためだけの寸劇を演じてくださいと、愛に生きるこの女は、妖夢に要求している。
 それは妖夢にとって重いことだった。いかに七〇年近くを生きてきたといっても、精神の器は青春時代のはじまりにすぎない。簡単なことで泣くし、わめくし、怒るし、笑い、感動する。いまは冷静であるが、それは剣士として鍛えられたベクトルの事件と対峙しているからだ。戦士としての妖夢は無敵である。でも剣士として対応すべき事変ではない。
 妖夢個人のグリムロックへの感情は深甚を極めている。正直、ぶち殺してやりたいほどだ。それでもグリセルダの物言わぬ希望に沿ってしまうだろう。いずれ日本政府に見つかる運命にある幻想郷。これからの妖怪は、人間と手を取り合わねばならぬ。
「……私はまだ、人でいえば小娘にすぎません。それでもいいのですね?」
 妖夢は受けた。
「はい」
「もし私がグリムロックさんを殺したとしても、恨みませんか?」
 本音をチラリとさらけ出してみた。夫婦がともに身を縮み込ませた。
「――は、はい」
「……覚悟は、できてる、つもりだ」
 グリムロックが唇を噛んで震えている。まさか命を張るかと問われるなど、思ってなかったようだ。
「分かりました。私なりに冥界流……いえ、幻想郷流に、裁定しましょう」
「すごい妖夢」
「……まるで別人みたいです」
 リズベットとシリカが驚いている。普段の間抜けで隙だらけな妖夢と比べ、あまりにも高峻とした受け答えに。
「私の判決ですが――」
 そのときだった。
「妖夢! やったぞ!」
 扉より黒の剣士が乱入してきた。空気を読まない喜色を、全身よりあふれさせている。妖夢のベールが刹那に解けた。
「キ、キリト?」
「見ろよ妖夢、ついにゲットしたぞ!」
 圏内であるというのに、キリトが両手に武器を握っている。左手がロータス・アビスパ、右手がゲイザー・アングリフ。毎日一層ずつ、たまに二層を登るソードマスターズは、だいたい三〜四日ごとに武器を更新するのだが――二本とも水色のライトエフェクトを帯びている。
「……えっ、キリトまさか」
「ああっ! 待ち望んだ二刀流だ! いきなりスキルリストに現れた! 出現条件は不明だけど、やったぜ!」
 黒の双剣士が二刀流剣技を解き放った。エンド・リボルバーの二連撃、さらにカウントレス・スパイク四連撃。いずれも妖夢がすでに見つけている二刀流スキルの基本技だが、正規スキルとしての発動は初めて見る。ボーナス補正が加算されたソードスキルの冴えは、キリトという天才の手腕を借りて、むろんフルブースト。妖夢が踊るより烈々としている。妖夢の舞いを蝶や蜂とするなら、キリトの踊りは獅子舞だ。荒くて、さらに粗くもあるが、より重くて力強い。それが男の剣舞、キリトの二刀流であった。
 まだ二種類しか使えない二刀流スキルを、幼い子供のようにはしゃぎながら交互に繰り返し発動させるキリト。リズベットが注意するが、お構いなしである。それほどキリトは嬉しいのだ。全身より歓天喜地といわんばかりの感動を激しくあらわしていた。当然のようにグリセルダとグリムロックは目に入ってない。キリトには妖夢しか見えていなかった。また妖夢も、ほとんどキリトしか見えなくなっている。
「――キリト。よくやったわ!」
「これで妖夢、きみとやっと並んだぞ! ああっ、もちろんSAOにいる間だけだけど、背中を合わせて戦える、本当の資格を得た!」
 愛おしい。
「はいっ……あのキリト」
 どこまでも果てしなく、愛おしい。
「ん?」
 体の奥底より沸き上がってきた欲求と情動へ、少女は素直に従った。
「世界で一番、大好きよ!」
 走り寄って行ったのは、奇襲だった。
 音もなく飛び上がり、首に抱きついて、悦楽の勢いで唇を奪う。
 まるで自然な恋人の行いであったが、妖夢がキリトと口でキスを交わすのは、これがまだ通算三回目だ。感覚的には二度目である。ファースト・キスはキリトから仕掛け、返して妖夢だった。いずれも短かったが、セカンド・キスはそのまま続く。
 キリトは両手の武器を落とすと、そのまま妖夢の背中を抱き、待っていましたとばかりにきつく抱き寄せた。背の低い妖夢はそのまま宙ぶらりんだが、キリトの筋力値は妖夢を軽々と支えている。とはいえ慣れぬ接吻に夢中となってるうちにバランスを崩し、キリトが妖夢を押し倒す形で床に倒れ込んだ。
 妖夢の髪とリボンが乱れるも、それでキリトはかえって興奮したようだ。それからは周囲が真っ赤になるほどのイチャイチャを、床に寝そべってにゃんにゃんごろごろしながら繰り広げる。いくら見られようが知ったものかと、ただ本能の麻薬にゆだねて溺れゆく妖夢とキリト。これまでの不足分を取り返さんと、キリトより唇を求め、妖夢も応じる。吐息が交差し、熱気が混ざってゆく。
 お互いしつこいように求め合った。一〇回以上は繰り返しただろう。指が絡み合い、互いを抱きしめ、髪や肩や背中を這うようになで回す。改良ハラスメント警告表示は出ない。妖夢もキリトも行為に夢中で、あまりの熱さにシステムもお手上げ降参のようだ。
 だがさすがにキリトの腕が妖夢の胸へ置かれて、妖夢の体がぴくっと縮こまった。
 キリトの右手が胸当ての隙間をくぐり、布越しに妖夢の左胸を触っていた。その手を通じて、キリトのものすごい脈拍が妖夢にも伝わってくる。キス以上のことを、キリトが能動的に求めてきた瞬間だった。これまでキリトのエッチな行動はすべてラッキー、受動的なものである。そのキリトが、意欲的に妖夢の体そのものを欲している。妖夢の右腿に彼氏の股間が当たっているが、感触的にあそこは勃ってない。コードを解除してないので、性的刺激には相互に不感不能状態だ。間違いには至らない。あくまでも興奮するだけ。
 ――妖夢は抵抗せず、こくんと軽く、頷いた。好奇心に任せて胸で遊ぶだけならいい。彼氏はしかし、それより先へは進まなかった。押すことも揉むこともせず、ただ彼女の感触を味わうかのように、手を添えるのみだ。その状態でまた湿った唇でキスを二回、ソフトにスローペースで。それがかえってキリトへの信頼を高めた。
「……すごいな」
「すごいね」
 なんとなく見つめ合い、笑顔であははと笑い合う。今回はここまでだった。
 ふたりが自然に離れるまで、誰もバカップルの横暴を止めなかった。あのアスナですら、なんか知らないけど良かったねと、妖夢たちを見守っていた。でもハリセンはしっかり手にしている。居合わせてしまったリズベットとシリカはトマトよりも赤くなっている。付き合ってるとは知っていても、ここまでの情熱的な激しいイチャコラはさすがに目撃したことはなかった。妖夢たち自身もである。リズとシリカは言葉も出さず、全力集中でこのキス劇を観察していた。いつか自分にも訪れるだろう夢の光景を、しっかり目に焼き付けようと。
 店内を飛びながら、射命丸文が一眼レフで妖夢とキリトの恥ずかしい一部始終をしっかり撮影していた。自業自得なので妖夢もそれを咎める気にはならない。どうせこれまでみーんな知られ渡っているのだから、いまさらだった。見れば犬走椛も妖夢の知らないカメラらしきもので撮影している……レンジファインダー風味、オールドスタイルのコンデジだった。カーディナル・システムがまた放出したのだろうか。まるで幻想郷住人の好みをピンポイントで理解しているような、好意のプレゼントにすら見えてくる。
 幸せの余韻を引き摺りながら、汗だくの妖夢がふらふらと立ち上がった。火照った体で、グリセルダとグリムロックの夫婦を左に右にと見る。
「――で、私の判決ですけど、幻想郷はすべてを受け入れはうぁ!」
 アスナのハリセンを奪ったグリセルダが、ずばんと妖夢の顔面をはたいていた。
「いまさら仕切り直すな〜〜!」
「みょーん」
     *        *
 長生きで、人の愛を知る。
 相談相手としてもっとも適しているのは、じつは射命丸文だ。その(よわい)、一二〇〇歳以上。妖怪は滅多に恋をしないので、人間を相手に流した浮き名は数えるほど。性格と見た目に反して、いずれも静かでゆったりとした恋愛だったとのこと。恋をすれば一転しておしとやかになるタイプらしい。幻想郷クラスタの格式は八雲紫が最上だが、なにしろ恋愛初心者の妖夢から見ても、紫は――あきらかに、そちらのご経験がおありでない。たぶんすべて片想いで終わっている。
 妖夢のかわりに再度事情を聞いた文は、手を軽く叩いて判決を伝えはじめる。
「グリムロックさんは客観的には有罪。でもグリセルダさんの主観だと無罪。グリセルダさんは不起訴みたいな感じにしたいんですよね?」
「はい」
「でもグリムロックさんがそれでは納得できません」
「……ああ」
「なら簡単です。グリムロックさんはとっとと黒鉄宮へ自首してください。MTDの捜査係に、グリセルダさんは許すと言ってください。あとはシンカーさんとユリエールさんが、適当に情状酌量として中庸な刑期を決めてくれるでしょう。これまでの例から見て、まあ二週間といったところでしょうか。これで万事解決、終わりです」
 妖夢が伝えようとしていた内容とほぼ等しかった。
「なおこの一件は新聞になど書きませんのでご安心を。すでに妖夢さんとキリトさんの、濃厚な第一面がありますからね。ほかにも二刀流スキル・ピナ生き返り・リズベット武具店・アスナの醤油開発・ラーメン似のそば・超強力なボスなど、次号は話題に事欠きませんから」
 グリセルダとグリムロックは、何度も頭を下げて第一層に向かった。あとは夫婦の問題だ。グリムロックが更正すれば良し、無理ならば今度こそグリセルダは夫を見限るかもしれないし、なお赦しつづけるかもしれない。幸せは人それぞれだ。
 キリトが釈然としない様子で妖夢へ聞いてきた。
「少しは物騒でも良かったと思うんだが、あれじゃグリムロックのためにならんだろ。些細なことで斬られまくってきた俺としては甘すぎると感じたぜ。もし妖夢がグリセルダさんの立場だったら、グリムロックをどうした?」
「まちがいなく圏外へ連れ出して斬殺してましたね。いくら恥と罪を知る人であろうとも、あのような不義の背信、絶対に許せません」
 さらっとした断言に、キリトが青ざめていた。
「さっ、さすが妖怪は過激だな。肝に銘じておくよ」
「するわけないって知ってるから、心配もしてませんよ。だってキリトって、理想や誇りや正義というものを本気で信じていて、それを得ること、守ることを大事にしてますもの。人の器としての純度がちがいますし、私の信条もキリト寄りよ」
「上手いように言ってるけど、それって俺が単純で子供っぽいってことじゃないのか」
「だから私はキリトに惚れたのよ? それにこれは予言ですけど、きっとキリトは、いま大切にしている価値観を、大人になっても持ちつづけるでしょう。不器用な生き方になるかもしれませんが、私のように道を求める子から見れば魅力的ですよ」
 太陽のような微笑みに、キリトは照れ笑いを返した。
「いろいろ試されそうだ……まっとうな大人になれるよう、頑張るさ」
 キリトの隣で、文がカメラの写真を整理しながら喜んでいる。
「さすが一眼、歩留まりいいですね。おっと、あの夫婦の写ってる画像は消しとかないと」
 キリトが軽く驚いていた。これまでこの天狗のせいでずいぶんネタにされてきたのに。
「本当に記事にしないのか。文って意外と優しいんだな」
「いえいえ、あまりにも腹が立ったからです。夫の野放図な身勝手と、妻の行きすぎた善人ぶりにね。記事にしないほうが、あの夫婦の将来を高確率で暗くします。暗澹たる未来を回避できるか、せいぜい足掻けばいいんですよ。それが私個人として与える罰です」
「……その割にはずいぶんと穏やかで、余裕だったような気が」
「あやややや。こう見えて飛鳥時代から生きてる大妖怪ですよ私。あのエセ鍛冶屋の野郎、私が裏切られた当人だったら、妖夢さんと同じく容赦なくぶち殺しますよ。天狗らしく高いところから落としますね。あんな背徳の卑劣漢は許せません――私はあくまでも、観音菩薩のようなグリセルダさんに合わせただけです。妖夢さんも大甘で答えるつもりだったんでしょう?」
「はい。グリセルダさんから空気読めよってオーラが伝わってきましたから。もちろんあとは知りません。赤の他人です」
 わからねーとキリトがつぶやいた。
「女同士って恐いなあ。他人ともとっさに連携できるくせに、そのじつ心のほうは醒めてるとか。女の都合で矯正の機会を逃すグリムロックが憐れに見えてきた」
 そのあと妖夢たちはシリカと一緒に第二二層のマヨヒガ荘へ行き、魔理沙や紫と、ピナを引き合わせた。大感涙の紫が、マジ泣きでピナをかわいがる。意外と情緒のあるさまに、妖夢もスキマ妖怪の新鮮な一面を見た。シリカがお世話になってるほかの人のところも回るということで、ここで別れた。
 つづけてエギルが買いたい店を見つけたと連絡を寄越していたので、第五〇層へ向かう。主街区アルゲードは最前線だけあって、多くの観光客でごったがえしていた。NPCショップを巡りめぼしいアイテムや装備がないか探しまくるプレイヤー、単純にグルメを求めて訪れる者、ただの気晴らし、さらには――生活の場を求める者。リズベットは第四八層リンダースのゆとりある町並みに惹かれ、店を買うことを決めた。また一人、アルゲードの猥雑とした雰囲気に惚れ込み、独立しようという故買屋がいる。
「ようキリト、またキスは失敗したか?」
「その辺はつぎの新聞でお楽しみだぜ。それよりおまえもこんなゴミ溜めなんかで、よく店を買う気になったな」
「はっはっは、たしかに入り組んでて、まるで中世のようなゴミ溜めだな。だがあらゆる施設が狭い範囲に集中してるおかげで、とっても便利だぞ。ここをホームとする連中はかならず数百人単位は出てくる。店を出すなら安いいまのうちがいい」
 軽口をたたき合う。エギルの身長は二メートル近い。攻略組と解放軍を合わせてもっとも背の高い長身プレイヤーだ。さらに黒人なので、ただいるだけでどうしても威圧感を放ってしまうが、気さくな笑顔と軽妙な口ぶりが、印象をやや軽く柔和なものへと補正する。そのエギルと対照的にキリトの身長は一六〇センチちょいだ。女子プレイヤーの平均ほどしかなく、男子プレイヤーではかなり低いほうに属する。並ぶとデコボココンビになってしまうし、年齢差もかなりあるはずなのだが、これでしっかり友人なのだから世の中、面白いものである。
 妖夢がたずねてみる。
「エギルさんが買おうと思ってる店って、どこですか?」
「まだ候補を絞りきれてねえんだ。とりあえず予算次第ってわけだ」
 アスナも聞いた。
「リズみたいに私たちから借りたいのよね。一体どれくらい必要なの?」
「まあ立ち話もなんだし、移動しようぜ。そろそろ晩飯だろ?」
 エギルがあごで促し、妖夢たちが周囲を見てみれば――たしかに動いたほうが良さそうだった。ソードマスターズが街中でたむろしているのだ。しかも射命丸文はぷかぷか浮かんでいる。妖夢などは見慣れているが、はじめて見る者も多いようで、記録結晶で文をしきりに写している。なぜかポーズを取ってる文。変なところでノリが良い。だが文の余裕は「誰にも捕まらない」からであって、地に足をつけてる妖夢やキリトはそうではない。このままだとサイン地獄へ突入しかねないので、エギルの忠告にしたがってさっさと横道の奥へと入っていった。
 そのメニューは『アルゲードそば』といった。文がラーメンもどきと評した謎料理である。
 一言でいえば「変なラーメン」だ。古い欧州をモチーフとするSAOに、NPC提供の中華料理などないはずである。和食ですら和風モドキに留まっている。だけどたしかに、妖夢の目前にラーメンが置かれていた。どんぶりまでラーメンのアレそのもので、方形の渦巻き文様がきっちり再現されている。とどめが割り箸だった。SAOにログインして二ヶ月半経つが、NPCの料理屋で割り箸を見るのははじめてだ。こんなもの料理スキルを鍛えて店を出したプレイヤー食堂にしか置いていない。その常識がいま、目の前で崩れている。店の名前までアルゲード軒と、いかにも。
 変なラーメンをすする。味は……変だ。すごく安っぽい。妖夢はこれに近い味覚をなんとか思い出そうとした。あ〜〜、インスタントラーメンだこれ。麺もやたら縮れてるし、まちがいない。しかもインスタント麺はそこそこ美味しいけど、なんか外れを掴まされたような、たまにある微妙なやつ。まちがってもどんぶりで食べるものじゃない。
「……これもカーディナルの気まぐれでしょうか?」
 独り言のような妖夢の疑問に、アスナが耳打ちしてきた。キリトに聞かせたくないらしい。
「噂を聞いたヒースクリフが味見に来たらしいわよ。『なぜこんな店が存在するのだ』って、首を傾げてたそうだから、まあそうなんじゃないの?」
 料理で思い出した。
「あ、文がさらりと言ってましたが、アスナが醤油を開発したって、本当ですか?」
「ん? ああ、本当よ」
 小瓶をオブジェクト化したアスナ。紫色の液体を妖夢の手に垂らす。見た目こそ悪いが、たしかに芳醇な匂いが漂ってきた。舐めてみると――
「甘口醤油です! すばらしいですよ」
「じつはマヨネーズも完成間近なのよ」
 こんどは緑色だ。やはり色は良くないが、匂いだけで妖夢の食欲を刺激する。舐めてみた。
「たしかにマヨネーズそっくりですね。どんどん行きましょう!」
「みんなの攻略に役立てれば、私もはりきって開発できるわ」
「そうだ。黄金林檎から預かったアイテムがあります。たぶんアスナに似合うかと」
 妖夢はあの指輪をアスナに渡した。
「綺麗ね……これは、敏捷が二〇もアップって。どう考えてもダメージディーラーの妖夢ちゃん向けじゃない。なぜ私が?」
「チビの私にこんなおしゃれな指輪はあまり似合わないかなって」
「SAOはゲームなんだから、もっと合理的に考えなさいよ。指揮役の私がボス戦で稼ぐダメージなんて、妖夢ちゃんの五分の一ていどなのよ。この指輪の補正値を最大限に活用するなら、あなたしかいないじゃない。それに妖夢ちゃんにも似合うわよこれ。幼い外見だからって気にしすぎよ。そのきれいな銀髪とお人形みたいな顔、鈴のようによく通る声で、どれだけ不可思議な印象を人に与えていると思ってるの? 私は綺麗とは言われても、可愛いってあまり言われないのよ。この指輪はどちらかというと可愛いほうよね。だからきっと良く映えるわよ」
 美人に軽い羨望混じりで褒められると、妖夢も悪い気はしない。
「そ、そうかなあ」
 キリトが興味深そうに首を伸ばしてくる。
「……俺は?」
「キリトくんがこういう女物なんか付けてたら、趣味悪いって思われるわよ」
「いま合理的にって――」
「場合によるの! 女の子のファッション話に顔を突っ込まないで」
 キリトはすごすご退散した。
 とりあえず文と椛にも聞いてみたが、指輪は妖夢がはめることになった。
 ラーメンもどきを食ったあと、エギルと本格的な貸し借りの交渉に入った。リズベットのような本格的な一軒家とはならないため、エギルの店はあと一〇〇万コルあれば十分だという。とりあえず用ができれば適当に便宜でも図ってもらうという条件で利子なしとし、全額をその場で渡した。いちおう証文は取っておく。リズベットと同様、完済は期待していない。おそらくその前にゲームはクリアされるだろう。友人の夢を実現させてあげるという、ささやかな喜びへの資金援助だった。
 この世界で生きている人間たちは、自分だけの小世界を築こうと頑張っている。シリカはピナと過ごす日常を、リズベットは武器職人としての道を、エギルは商人として。アスナは経験そのものが財産で、キリトも念願の二刀流スキルを獲得した。すでに立場を得た者たちも、それを守り、また維持するために努力している。クラインは風林火山を、シンカーはMTDを、ディアベルは聖竜連合を、キバオウはアインクラッド解放隊を――そして血盟騎士団を率いる、神聖剣ヒースクリフ。
 妖夢はたまに思う。彼ら彼女らと、いつまで一緒にいられるのだろうかと。
 茅場晶彦はその気になれば、いつでも邪魔な妖怪どもをコマンド操作ひとつで排除できるはずなのだ。この世界で妖夢がどれだけ強くなっても意味はない。だから妖夢はキリトの二刀流スキル出現を心から喜び、熱いキスの嵐をもって祝福したのだ。人間であれば、おそらく茅場は手を出さない。なんとなくそういう確信を妖夢は持っている。したがって彼女にとって、SAO最強はどこまでもキリトでなければいけなかった。しょせん魂魄妖夢は、人智の(ことわり)より外れた異能の半人にすぎない。そんな自嘲すら浮かんでくる。
     *        *
 クォーター・ポイント・ボス、とキリトが言った。
 この第五〇層のフロアボスが恐ろしいらしい。
 一月二五日午後一〇時半。迷宮区最上層、ボス部屋の前。アスナが作戦を説明する。
「妖夢ちゃん抜きで、勝てば幸いと気軽に突っ込んでみた挑戦は、わずか四分で退けられたわ。第二五層とおなじく、HP段は五つ。名前もすべて大文字始まりと、有無を言わせぬ最上格よ。キリトくんによれば、節目のボスらしいわね。全一〇〇層で、二五と五〇で来たから、あとは七五と一〇〇ってわけね」
「以前ほかのMMOで、こういう設定を見たんだ。SAOは四分の一ずつだから、さしずめクォーター・ポイントってところだな」
 みんなが頷いた。妖夢が手をあげる。
「基本戦術はどうなりますか?」
「盾持ちの椛さんが威嚇スキルでひたすらターゲットを取るわ。そこで手持ちの回復結晶を彼女へありったけ集める。キリトくんと私は戦闘時回復スキルがあるので二個ずつ、妖夢ちゃんと文さんは三個だけ残す。こんなところね。できるだけ一度で倒したいから、回復結晶のストックは気にせずぜいたくに使ってね。ここを乗り切ればつぎの強敵は第七五層までいないんだから、また溜めればいいわ。あとはいつものように、妖夢ちゃんとキリトくんが突っ込んで、私が離れて指示を出して、文さんが飛びつつ攪乱。タンブルする確率は小さそうだけど、もし起こればフルアタック。どう?」
 回復結晶は別名をヒールクリスタル。一瞬でHPをほぼ全快させる唯一のアイテムだ。高価なのでよほど危機に陥らないとあまり使うことはない。そもそも店で売っていない。第二五層のときはまだ出現数もすくなく、ダラダラ挑戦を繰り返してるうちに枯渇してしまった。だが今回は違う。反省してストックを貯めてるうちに二五個も集まっていた。妖夢とキリトが重連撃を覚えて火力を増してるし、文の支援攻撃もある。レベルマージンも一五から二〇もの超高水準だ。
「敵の攻撃力は?」
「さいわい一撃で死ぬ人なんて、ハイレベル集団の私たちにはいないわ。でもクリーンヒットを許せば半分からそれ以上は持って行かれそうだから、気をつけてね。イエローゾーンに入ってから回復結晶を使ってると遅いわよ」
「武器はなんでしょうか?」
「六刀流」
 ぼそっと言った彼氏の言葉に、妖夢が「およ?」と抜けた声を返した。
「キリトくんの言う通りよ。今回の大ボスは――腕が六本あって、それぞれに属性の異なる武器を持っているの」
「はあ、腕が六本に武器も別々ですか。それはそれは武器が干渉しあって、さぞや大変みょんなことになっていそうですね」
 頭が痛くなってきた妖夢である。どうせ今回もプログラムの賢さでなく、無理なステータス大盛りで稼いだ偽りの強さだろう――あくまでも妖夢の基準ではこうなる。この辻斬りが満足できる段位者クラスのロジックを仕込んでしまうと、ゲームバランスが崩壊して死者が過剰に量産されてしまう。したがって技と腕はどんなに良くても級位者どまり、力やスピードはいきなり超人級という、アンバランスな強敵しか用意できないのが実状だった。
 このようなアンバランスは、ソードスキルにも見られる。武道家からモーションを得ただけに、基本から中級までは玄人らしくてすっきり来る。だが上位から奥義へ向かうに従い、しだいに興行じみてくる。リアルで使える人間のいない超人技ばかりだから、どうしても素人の夢想が反映されてしまうのは仕方ないところだが、演出を優先するあまり……妖夢の長所が殺されてしまいがちだ。ピンポイントで急所だけを狙いたいのだが、可動の制約もあって、上位剣技ほど難しい。
 妖夢の失望を読み取ったアスナが、おずおずと尋ねてきた。
「もっと敵のこと、聞きたい?」
「……百聞は一見にしかずといいます。これ以上はもういいです」
 ソードマスターズは元々、ぶっつけ本番で戦うことが多い。こういう作戦会議というのは珍しい。強くなりすぎた彼女たちにとって、普段のフロアボスはそれほどに弱体化している。
 作戦通り回復アイテムを渡し合って、準備が整った。
「それじゃあ、行くわよ」
 全体に火炎模様の走る扉を、アスナが数秒だけ強く押した。あとは自動で重々しく開いていく。開ききると、なにもない空間が茫洋と広がっていた。
「戦闘、開始!」
 アスナが細剣アヌビアス・フルーレを振り下ろす。
 とはいえ、走って突入するわけでもない。妖夢・キリト・椛を前衛として、歩きながらマイペースだ。
 五人が入ると、部屋の隅で等間隔に立っている石柱群に、明かりが灯った。それは和風の石灯籠だった。妖夢がよく見ると、天井に曼荼羅が描かれている。足下も神社仏閣の境内にあるような、石畳と玉砂利。ボス部屋はやや縦長の構造で、全長七〇メートル、横幅四〇ートル、高さ一五メートルといったところか。部屋の最奥に、神社か寺かよく分からないものがうっすらと建っている。部屋はまだ暗いし、ボスも見えない。だがどこより出没するかは、これまでのパターンから明瞭だ。
 妖夢たちが二〇メートルほど進んだところで、部屋にスイッチが入ったような音が響き、有効化がはじまった。光のラインが床より走り、壁を伝って天井までのぼっていく。明るくなったボス部屋は、やはり和風な宗教的空間だった。奥にある社殿はあえて神道と仏教をごちゃまぜにした奇っ怪なもので、アニメに出てきそうなデザインをしている。その正面扉が開き、中より――真鍮色の巨大な仏像が歩み出てきた。
 第二五層のデュアルヘッドは大仏みたいな黒巨人だったが、今度はどこから見ても仏像そのものである。腕は六本。それぞれに剣や斧、槍など、SAOで設定されている基本武器の数々を持っている。上半身はほぼ裸、下半身は布みたいなものに覆われているが、全体の質感はおなじ。金色と銅色の中間で、にぶい金属質。阿修羅像をイメージさせるが、頭にある顔はひとつだ。申しわけ程度に兜を被っている。全高は八メートルほど。特大の部類に入るボスモンスターだった。
『ヴェーダ!』
 仁王立ちで外見に合わぬ猿みたいな奇声をあげた瞬間、仏像の全身より謎の白煙があがった。表示されるHPバーが久しぶりの五段並び、その名前は――
『Asura The Hexagon』
 大文字のTheとなれば、現状で最高ランクを示す証ともなる。
「おおおうっ!」
 正面に立った椛が、威嚇スキルでヘイト値を稼ぐ。緑色に輝くアーシュラ・ザ・ヘクサゴンの両眼が、椛を見定めていた。ターゲット取り成功。
 妖夢とキリトがそれぞれ二刀を抜き、椛の左右に立って出番を待つ。後方にやや離れてアスナと文。ソードマスターズはそのまま誰も動かない。敵が寄ってくるのを待ち、扉の近くで戦うのがアスナ流だ。理由はもちろん、なにかあってもすぐ逃げられるから。
 一五秒ほどかけてのっしのしと歩いてきたアーシュラが、椛へ鉄槌と鉄斧を振り下ろしてきた。しかもソードスキル攻撃だ。それを避けもせず、両足をふんばって円盾で受ける椛。激しいライトエフェクトが弾ける。二〇近いレベルマージンの恩恵と、めいっぱい成長させてきた盾スキルの加護により、体勢はこゆるぎともしない。だが最上格のボスだけあって、二メートルほど後ろへ押され、インパクトダメージによってHPが一〇パーセント近く削れている。これを妖夢が武器で受けたなら、二割は持っていかれるだろう。
「スイッチ!」
 アスナの叫びに、黒と銀が反応した。椛は盾で受けたディレイにより動けない。また同時に、ソードスキルを使ったこのボスも動けない。
『黒銀乱舞!』
 右から襲ったキリトが二刀流スキルのカウントレス・スパイクを叩き込み、キャンセル体術で回し蹴り、通常攻撃で片手直剣奥義スター・Q・プロミネンスの魂魄二刀アレンジ一二連撃。左より迫った妖夢は抜き胴の動作で重い二連撃を与えてから、溜めてスターバースト・ストリーム。すでにレベル七〇近くまで成長しており、溜め時間は二・五秒にまで縮んでいる。まだまだスイッチなどの助けが必要だが、実用として使える技となっていた。
 一六撃目を入れて体術の起こしモーションを挟んだところで、頭上に影と、攻撃の気配。妖夢は体術の発動を強制キャンセルさせて全力でうしろへ跳んだ。半瞬して妖夢のいた場所に巨大な直剣がぶち刺さる。砕かれた床の破片が飛んできて妖夢の胸に当たり、HPが二〜三パーセント減った。軽業スキルで一〇メートル近くを稼ぎ、安全を確保。
 キリトのほうも無事かわしたようだ。一瞬でリーチ外へ逃れられたアーシュラがどちらかを追撃しようと試みたようだが、文が視界を邪魔するように飛び、左手を振った。すると強風を示す白いエフェクトが発生して、アーシュラの顔面を覆ってしまう。目くらましはもちろん、わずかだがダメージも与えられる。
「椛さん、ハウル!」
 アスナの指示にうなずいた椛が、ふたたびターゲットを取った。
 戦闘は淡々と展開していった。椛が受けてる間に妖夢とキリトが連撃をぶち込む。アーシュラの反撃を回避し、文が風攻撃で追撃を封じる。この基本パターンですくなくともバーサク化までは安全に戦ってゆけそうだった。予想通り椛のHPがもっとも削られていったが、回復結晶を一五個も持っており、妖夢とキリトが黒銀乱舞をかましてる間に楽勝で回復できた。
 アーシュラの六本腕が欠点をさらけ出していた。お互いに邪魔し合い、可動範囲が狭い。上段から振りおろす単調な攻撃しか仕掛けてこられず、横薙ぎ系の広範囲攻撃がない。腕がたくさんあるアーシュラは体の向きを変えずとも横や斜め後ろへアタックできるが、手練れの妖夢たち相手では利点にならない。たまに六本腕すべてを一度に振り下ろす全体攻撃モドキを仕掛けてくるも、かえって大きな隙となり、五人総出の集中攻撃を招くだけだった。補助用の麻痺ブレスもあったが、二度目以降はすべて文の風がその発動を潰す。
 第二五層と比べ、楽な戦いだ……と妖夢は感じたが、あくまでも戦ってるのがソードマスターズだからだ。ほかのプレイヤーであれば、たとえレベルが妖夢たちと同等であったとしても、アーシュラのスピードと圧力によって、何人かの死者を出してしまうだろう。あとアーシュラは反応も早い。六本腕を活かして、モグラ叩きのように細かくターゲットを変えてくる。椛のハウルは長くても一〇秒ていどしか持たなかった。
 さすが節目のボス、攻撃も耐久も破格。全身が真鍮で出来ているとあって、この金属の動く仏像はなかなかHPを減らさなかった。一〇分近く経過してようやく一段目を削りきり、二段目に入った。この戦いは過去の大ボス戦最長となることが確実だ。四〇分はかかるだろう。タンブルはいまだ一度も発生しておらず、フルアタックのチャンスがなかなか簡単には来なかったが――
 二段目の半ばまで減ったときだった。
『アーラニヤカ……』
 ゴリラのような鳴き声をあげて、アーシュラがゆっくりと腰砕けに倒れる。待ちに待っていた転倒ステータス、タンブルの発生である。
「フルアタック!」
 アスナの号令。五人が真鍮巨人へ襲いかかった。
 先頭は上空より突撃槍ケイローン・ランスを構え、全速力で下降してきた射命丸文。
「疾走風靡!」
 重突撃が仏像の顔面へ炸裂した。鐘楼を乱打したような轟音がボス部屋に響く。単発の通常攻撃としてはアインクラッド最高だろう。
 犬走椛が魂魄版レギオン・デストロイヤーを打ち込み、つづけて「レイビーズバイト!」と叫ぶや、激しい上下斬りを連発しはじめる。猛烈に速くて返し斬りの捻りが見えない。椛のオリジナル技で、弾幕用もある。
 キリトはあの恥ずかしすぎる名前のスターキリト▼みょんリプス四二連撃、アスナは魂魄版フラッシング・ペネトレイターからリニアーに繋げ、さらに中級剣技のコンボだ。
 妖夢も低い高さで曲刀を交差させる。数秒待ってジ・イクリプス発動。隣でキリトとちょうど攻撃パターンが重なった。みょんリプスのパートに入ったのだ。自然と妖夢とキリト、どちらが早く剣戟の日蝕を終わらせるか、競争となった。
 風のような(つるぎ)の舞をアーシュラへぶち込みながら、妖夢は思った。みんな強くなった。第五〇層もこのまま無事に突破できる。
 もっと速く、もっと強く。
 妖夢の剣がどんどん加速する。指輪による敏捷アップの力もあるだろうが、やはり基本はブースト。フルブーストといってもスピードやパワーなど、気合いの入れ方によっていろいろと調整できるものだ。妖夢はいま、両方を同時に最大限までブーストしようとしていた。それはフルブーストを超えるものとなるだろうか? これまでもたまにやっているような気もしたが――なぜかキリトとの激しいセカンド・キスを思い出した。浮ついた迷いを断つように、さらなる速さと強さを求め、両手と全身に集中する。すると体がふわっと軽くなってきたような気がした。
 私はもっと速く剣を振れる。
 私はもっと強く剣を下ろせる。
 より加速し、より華麗に、魂魄妖夢の本当の剣を振るおう。
 キリトに見せてあげたい。
 SAOでは反応の遅い妖夢。キリトより軽い剣。だけど本来は神速なのだ。SAOの一フレームをすら突破するだろう。早くて速く、はてしなく重くて強い。それが妖夢が放つ、本当の魂魄流、冥界を何百年も守ってきた無敵の剣術だ。
 ――妖夢の剣が、キリトを引き離している。ぐんぐん速くなる。ぐんぐん楽に動ける。
 なぜ体がいきなり、光に包まれたのだろうか?
 なぜ体が、羽根のように軽くなったのだろうか。
 そして、なぜ私は、楼観剣と白楼剣を握っているのだろうか!
 服も変わっている。この世界に来るまでいつも着ていた、緑と白で、魂魄家の家紋が入ったお気に入りの洋服。
 なぜBGMまで変わったのだろうか――
 なぜ、この二ヶ月以上消えていた半霊が、傍らに出現しているのだろうか。
 しかもその超感覚リンクと、霊感レーダーが戻っている。
 妖夢は最悪の間抜けをしでかしたことに、気付かされていた。
 取り返しの付かないことに、打ちのめされた。
 永遠亭の賢者、八意永琳の注意を忘れ、月の結界を破ってしまい――
 冥界の魂魄妖夢そのものが降臨している。


※機械式カメラ
 当作の作者が所有するNikon Dfがモチーフ。レンズは24-85mmVR・50mm f/1.2・Micro105mm。
※スキル不要の出版事業
 鼠のアルゴがガイドブックを発行したとき、レベル的にスキルスロットは三個。クロー&投げ針という装備内容から、武器系スキルを二種選んでいる。残りは隠蔽スキルを使用しており、第四のスキルが入り込む余地はない。

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