一二 終:大切断事件

小説
ソード妖夢オンライン2/〇七 〇八 〇九 一〇 一一 一二

 ――口にお願い。
 その言葉を発した瞬間、私の体温はいっきに何度か上昇した。
 半人半霊の常温は人間よりも何度か低い。だからいまの私は、本来なら風邪で寝込んで、さらに重症化したような状態だ。でもアバターの私はつとめて平気。ゲームの私は、SAOのシステムが人間として認識してくれている。だから私に触れた人間は、私の体をちゃんと温かいと感じてくれるはずだ。
 スキンシップ。
 人間と人間の行うそれを、私もソードアート・オンラインですこしずつ体験してきた。
 まずはホルンカの村で、キリトに共感して泣いたとき。キリトに肩を触ってもらえた。これが最初。
 つづけてまたキリト。トールバーナの町でじゃれあった時。手と手が。
 クラインには頭を撫でて貰ったな。
 コボルトロード戦で、キリトに救われてお姫様だっこ。キリトを好きになった本当の決定的瞬間だった。
 あとはみんなキリトと、ほとんど手だけど、幾度となく触れてきた。
 密着して肩を抱いて貰ったときは意識が飛びそうになったよ。
 どれもこれも貴重な思い出だ。すべて生涯のメモリアルとなる。
 私は同種族の半人半霊とすら、スキンシップをほとんど取ったことがない。その理由は、私が白玉楼に住んでいるから。
 白玉楼は冥界の首府であり最大の象徴だ。日本でいうなら国会議事堂と皇居を併せたシロモノかな。そこへの居住を許されるのは、ほんの一握りの選ばれた者だけ。
 幸か不幸か、魂魄妖夢こと私は、身分的に半人半霊のかなり高位にいるらしい。住み込みの庭師剣士なのに。
 魂魄流当代宗家でありながら私は、二〇〇人くらいいるという魂魄流の師範や門下を見たことがない。しかも私の剣術は楼観剣と白楼剣の力を引き出すために特殊化していて、いわば白玉楼エディションとなっている。さらに私は両親の顔や名前すら知らないんだ。親戚も。生きているとは教えられている。けれども近郊の里へ行ったとしても、誰が親かわからない。名乗ってもくれない。そもそも情報がない。半人半霊の集落は、里と里の距離がありすぎて、横のつながりが薄い。それでも冥界が世界としてきちんと回ってるのは、なすべきことを本能に刻まれてるから。
 半人半霊は冥界のシステムを維持する国家公務員みたいなものなので、その人口は妖怪としてはかなり多い。おそらく幻想郷の人間と妖怪を合わせた何倍か、一万人はいると思う。一〇〇人ほどの里があちこちに分散していて、それぞれの距離は何十キロも離れている。世界の特質から、冥界が受け入れることのできる魂は無限大だ。いくらでも広がることも、また縮むこともできる。現在はたぶん北海道よりすこし広いくらいだろう。そこに二〇〇〇万個ほどの霊魂が暮らしていて、短ければ数年、長ければ半世紀くらいをかけて穢れを浄化し、輪廻転生の循環に戻ってゆく。さようなら~、達者でね~。霊魂の里――というより各地にある町だけれど、いずれも明治後期くらいの水準で留まっている。さすがに大正時代以降の高度な工業製品なんか、簡単には提供できない。そもそもろくに資源がない。
 そのような広い浄土に暮らしているのだから、私が会う半人半霊はごく限られる。白玉楼の食料や必需品など、さまざまなことは近くにある三つほどの里が維持してくれているが、白玉楼へ実際に来るのはたいていお歳を召した、かつ空を飛べる人だ。若い人は立場や身分が低くて、近づくことすら憚られるという。
 千数百歳に達する年配の長老たちと私が、直に手を取り合ったり、友情を育む関係になったりするわけがない。しかも私は半人半霊でも偉いほう。余計にダメだ。
 一時、どうしても友達が欲しくなって、理由を作っては半人半霊の里を訪れることがあった。でも私がすでに働いているように、同年代の子はみんな仕事を持っている。いくらメンタルの成長が遅くても、知識や経験は違う。人間でいえば見た目が一一歳や一二歳くらいの子でも、立派にいろんな仕事をこなせるのだ。
 冥界の暦や休みは適当だ。里ごとに慣習や歳時が異なっている。世界としての勃興が有史以前なので、天国や地獄みたいにきっちりとはしていない。だから知り合いの子ができても、休みを合わせてみんなで遊ぶなんてことが出来ない。しかも私は白玉楼に住むことを許されている、現在唯一の半人半霊。おまけに空を飛べるし、馬のような速さで走ることもできる。普通の半人半霊には難しいことで、老年期に差し掛かってようやく可能となる。私の真面目な性格も邪魔をする。どうしても距離を置かれる。
 私は同種族にあって、どこまでも孤独だった。
 だから私はいつのまにか飢えていた。
 肌と肌を接する、スキンシップというものに。
 幽々子さまへ積極的に甘える時期もあった。だけどあくまでも百合ごっこだった。
 ――幻想郷。
 この世界は格別だ。
 鬱屈していた私の精神世界は一挙に広がった。
 いろんな力を持つ人間、さまざまな考えや能力を持つ妖怪や、神に妖精たち。
 みんな異能の力を持っているので、私を恐がったり、特別扱いしない。
 大勢の友達ができた。私がいつ幻想郷を訪れても、かならず誰かが暇だった。だから約束も取らずに遊ぶことができた。
 でも、その性別はほとんど全員が女だ。
 人妖は女が多い。
 それを知ったのは幻想郷へ行くようになってからだ。半人半霊そのものはあまり争いを好まない種族なので、男女比はおなじ。私は短気で好戦的なほうだが、それは珍しいのだ。おそらく半人半霊にしては希有な性格から、私は楼観剣と白楼剣の継承者として選ばれたのだと思う。才能はたぶんあまり関係ないかもしれない。寿命が長いから、何十年も修行してれば凡人であっても強くなれる。
 私は背も低くて成長が遅れぎみだけれど、それは魂の力、霊力が高まっている影響だと思う。博麗霊夢が三〇歳すぎでも二〇歳くらいの見た目となっているように、加齢・老化という半人半霊の宿命に、将来の私はあるていど抵抗できるはずだ。肉体のピークを七〇〇~八〇〇年は維持できるだろう。そのぶん強くなる時間はたっぷりある。私の師である妖忌お爺様は楼観剣と白楼剣を得たのが三百数十年前で、それまで霊力のコントロールをろくに知らなかったから、老化を遅らせる技を覚えたのが残念ながらすでに壮年期だった。霊剣を扱うには、ただの剣士ではだめだ。巫女のように霊力を自在に操れないと、数々の秘奥義を体得できない。
 若い時期が長くつづくということは、どうしても気になる興味の対象が生じることを意味している。
 男の子だ。
 私はきっと、むっつりだと思う。
 真面目と言われることの多い私は、いろんなものを我慢していたりする。
 たとえば剣と剣で戦うこと。たとえば心を奮わせる対戦を繰り返すこと。恋をしたがっていたことに関しては、かなり無自覚だった。
 外の世界のいろんなファンタジー小説やマンガを読んで、恋とスリルに溢れた青春の冒険路にあこがれた。
 それらが解放されたのがソードアート・オンラインを知って以降の、あばれ妖夢、いまの私だ。
 普段から男に興味がないようなそぶりをしておきながら、どうだ。夢がいろいろかなったとたん、最後の仕上げにキリトと付き合うようになって、イチャイチャしまくっている。
 意識的に探したわけではなかったけど、幻想郷に私が求める男はいなかった。
 男の妖怪は、あまり表に出てこない。山に籠もっていたり、祠に居座っている。しかも外見年齢が高めだ。精神的に若い男の妖怪は、性質的に長生きできないことが多いという。森近霖之助のような人はほんとうに貴重なのだ。でも彼にはすでに魔理沙が恋をしている。絆も深い。私も対象として見たことはない。なぜなら霖之助は剣士ではないし、肉体的にも成長していて、人間でいえば二〇歳代前半相当。私の許容外だ。
 秘かに興味を抱いていた、見知らぬ存在。
 私は興味を持つ対象を無意識のうちに、能力レベルで並び、かつ心が同年代の男の子に限定してしまっていた。なんというピンポイントなんだろう。何十年経とうが見つかるわけがない。
 私の理想が高くなっていたのは、きっと、幻想郷で同格の女友達をたくさん手に入れたからだろう。
 おかげで半人半霊の里や人間の里にいくらでも出会いが転がっていたのに、その機会を私はことごとく通り過ぎてしまった。もっとも当時の私にその気がなければどうしようもない。意識下で興味のひとつやふたつくらいあったくせに、破廉恥なことだと自ら抑圧してしまっていた。
 人間との触れ合い。
 SAOに閉じ込められ、人間の剣士として活動していくうちに、私は人間のすばらしさにようやく気付かされた。半人半霊も。
 壁を作っていたのは、むしろ私のほう。
 だからいまの私は、もう現実に戻っても、ちゃんと接することができると思う。彼らに、彼女たちに――笑顔で。自分を騙らず、肩肘張らず。
 もっと正面からきちんと、あの子たちと話し、今度こそ友達になりたい。
 ――でもね。
 その前に。
 まずは、キリトだ。
 スキンシップの上位段階はなんだろう。友情としてのそれらは幻想郷でとっくに味わった。
 だから次は、きっと恋だ。
 私はいま、恋をしている。
 キス。
 私は理想像として描いていた男の子と会い、キリトに熱い恋をした。
 そのキリトは想像以上で、私を追い抜いてしまった。たとえゲーム中、幻想の強さであっても関係ない。私は人間の力だけでなく、中身のほうを認めることにも慣れてしまったのだから。現実に戻っても私はきっと、キリトを好きなままでいられる。まずはSAOの世界にいる間、私は彼の背を追いかけるだろう。
 賢明に頑張って、ソードスキルの組み立てや反応速度で追いついたとしても、キリトの一撃は私より重い。そのうち急所狙いも覚えるはずだ。私が教えるのだから。
 キリトは私よりさらに強くなりつづける。私はどれだけ離されても、キリトに嫉妬しない。だって本当に好きなのだ。格好いいんだもの。強いキリトを見ていると、胸がときめいて仕方ない。
 心の壁を取り壊す第一歩として、私はキリトとちゃんとしたキスがしたい。
 もう彼が私を本気で好きになっているかなんて、どうでもいい。
 私がキリトを好き。それでいい。
 それだけでいい。
     *        *
「え……口?」
 キリトの狼狽が伝わってくる。彼女の顔を見て、私が本気だと気付いている。なぜか迷っている。
 突然に降ってきた役得。さあ私の彼氏。これを受けてくれるのか?
 受けてほしい。
「キリト、キスをしましょう」
「……いいのか?」
「私はしたいです」
「…………」
 キリトの喉が揺れ、ごくりとツバを飲み込んだ。私の本気を言葉でも確認して、緊張で体を固まらせている。あまり表情を変えない彼の頬が、すこしずつ朱を帯びてきた。
 私はキリトに一歩ずつ歩み寄った。こうやって追い詰める。
 キリトに私が告白してしまったときのように、キリトの心の背中を、こんどは私が押してあげるのだ。
 逃げない。キリトは待ってくれている。彼の顔がどんどん、いい意味で赤くなっている。
 このままいけば実現するだろう。
 私とキリトの距離が、ついに二〇センチになった。本当に間近に、愛しい彼氏が立っている。
 爪先を揃え、私は背伸びをした。
「……キリト」
 キリトを見上げて、その瞳を見つめる。黒い光彩に私が写り込んでいた。
 私の目はきっと潤んでいるだろう。どれほど顔が赤いかなんて、想像の必要もない。
 キリトの両手が伸び、私の両肩をしっかりとつかむ。体温が伝わってくる。キリトの心拍まで伝わってきた。なんという早さ。まるでロックバンドのドラムのようだ。私のほうが落ち着いているなんて。
 彼の身が屈んできた。私とキリトの身長差は一〇センチほど。接吻には、高さを合わせなければいけない。
 ああ、どんどん近づいてくる。私は目を閉じた。
 ――五秒。
 ……一〇秒。
 いくら待っても、人生最初の決定的な瞬間は来なかった。
 おかしいと思って目を開けると、ディアベルが私とキリトの間に手を入れていた。キリトはディアベルの手甲にキスをしてしまい、おえ~っといった顔をしている。
「待った! 待~~~った! ストップ!」
「あやややや、惜しい」
 ディアベルの隣で射命丸文が記録結晶を構えていた。さすが伝統ブンヤ、いいポジションを取っている。
 なんとなく理由はわかっていたけれど、私は攻略指揮官に抗議をした。
「みょーん、どうして待ったなんです? 王子のキスは私の優先が」
「落ち着いて周りを見たまえ。取り返しの付かないことになる」
 うん、分かってる。
 みんなえらい顔をしているね。とくに男連中の鼻息がむんむん荒いよ。人妖連中は逆にみんな楽しんでる。アスナの顔は私よりも赤そうだ。
 ディアベルは私とキリトにしか聞こえないような、囁くような小声で注意してきた。
「ゲーマーには女子と会話すらろくにしたことのない、したくてもできない男がたくさんいる。女の子に美しい幻想をすら求めている。俺はこの顔に生まれついたおかげでキスくらい平気なんだが、彼らには刺激が強すぎて、目の毒に過ぎるだろ。女神と王子のキスは、あくまでもご褒美、象徴的な栄誉でないといけないんだ。いくら恋仲といっても、マジキスなんて前例を作るわけにはいかない」
 本心では魔理沙のマジキスが欲しいはずなのに、さすがリーダー職の鑑。色ボケしちゃった軽はずみな私なんかより、周囲を観察できる大人だ。
「すいません。自重します」
「……俺も謝る」
 キリトまで頭を下げた。
「巻き込んでゴメンね」
「いや、拒否しなかった俺こそ悪い」
「愛の確認なら、人の見ていないところで存分に行ってくれ。本題はこれだけかな……あとでウィッチ・マリサに言ってルールを改正しないといけないな。そうだ、このキスのやりなおしだが――」
 キスは仕切り直された。ディアベルの機転で私が「いかにも王子様なキス」を欲していたということになって、手へのキスとなっちゃった。
 片膝をついたキリトが、しずしずと差し出した私の、手袋を外した素手の甲へ、丁寧なキスをしてくれた。くすぐったい。
 あとは揃って凱旋行進。狭い螺旋階段を登り、第一一層へと全員で登る。
 私は第一レイドの末端でキリトと並んで歩いてるけど、すこし気まずいかも。
「キリト、改めてその、ごめんなさい」
「いや、いい。ディアベルが言ったように、人がいないところで――かな」
「うん」
「どうしてヨウムは、いきなり口でなんて? いや嬉しいけど」
「――私ね、キリトに追い抜かれたでしょう? でも嫉妬どころか、嬉しいとしか思えないんです。強さにこだわってきたのにこれって変ですよね。このままじゃきっと私、だめになる」
「光栄に思う……でも、答えになってないよ」
「不安だから、愛の証明が欲しいのかもしれません」
「……うおぅ!」
 階段を踏み外してキリトが後ろへと転びそうになった。
「キリトッ!」
 私が手を伸ばして支え、事なきを得た。私たちの後方にまだ三〇人はいる。ドミノ倒しになったら新聞へお笑いネタを提供してしまうところだった。
 キリトがつぎに口を開いたのは、第一一層へあがって主街区を目にしたときだった。
「ヨウム、俺はしょせんまだガキだから、こういうのであまり偉いことを言える口じゃないんだが、焦る必要はないんじゃないか。愛の……ってやつ」
「うん、そうですね」
 たしかにまだ機会はある。今回のことがあったんだから、キリトにも気構えができたはず。ちょっとしたきっかけですぐキスも行えるだろう。ただ、今回は惜しかった。せっかく私の中では最高に盛り上がったのに。
「エロいヨウムも萌えるな……」
「みょーん」
 キリトのほうで雰囲気や盛り上がりがまったく足りなかったみたい。
 唐突だったし、私だけが突っ走ってもいけないよね。反省。
 そのまま第一一層の主街区に向かう。建材にレンガが目立つ小綺麗な町だ。多くの建物が二階建てで、統一感がある。
 境界と見られる高さ一メートルていどの簡単な石垣を横切ったとたん、背景に流れていたBGMが落ち着いた穏やかなものに変わった。圏内へ入ったというメッセージも出る。この町の名前は『Tfut』。私は暫定的にタフットと読んだ。にとりも言ってたけど、はじめてのとき転移門で困るので、システム表示でも日本語の発音をしっかり教えてくれる仕様を実装して欲しいな。メニューならプレイヤーネームを除けばみんな日本語なのに――
 メニューなら日本語?
「あっ」
 メニューウィンドウを呼び出し、マップを表示してみた。第一一層の大雑把な地形が表示される。適当な水墨画みたいな感じで、通行可能と不可能な領域の境、おもな道、および圏内を示す赤い点しか分からない。細かい部分はそこを自分で巡るか、誰かからマップ情報をもらえば詳しいディテールが判明する。
 私を示す白い点が、ひとつの赤い点と重なっている。そこを触って拡大すると、赤点がふくらんで赤い円となった。私の白は点のままだ。赤い円の近くに『タフト』という日本語の表示が出た。なるほど。
 この町の名はタフトか。タフットじゃなかった。
 これで下層で待ってる人に転移門で叫ぶべき読み方を伝えられるわけだ。周囲を見れば、何人かが私とおなじようにマップを表示しつつメッセージを打っている。街開きを控えたいま、攻略組にとって大切な仕事のひとつだろう。私とキリトがふたりきりで登っていたとき、下で待ってるフレンドに主街区の発音を教えるということは一度もしなかった。でもそれは一般プレイヤーに混じったベータテスターが情報を持っていたからだ。これからは違う。
 予備知識のなくなってしまうこの第一一層からが、SAOの真の本番だ。
 デスゲームを生き延びるための、サバイバルテクニックが試される。紫さまによるとここ一週間近くは毎日の死者が一桁に収まっていたらしいけど、それは旧攻略隊の働きかけによって元ベータテスターたちが放出した膨大な情報が広く共有され、あるていど危険が認知されていたからだ。でも第一一層は違う。人が与えた情報を自分の実力と思い違えた人、単純に油断してしまった人、楽勝の空気に思考を放棄した人は、なんでもない落ち度から簡単に命を失っていくに違いない。攻略組といえども危ない。ボス戦本番は因幡てゐの加護が働くが、それ以外は違うのだから。
 陥穽へはまる中にうっかり私も入ってしまうかもしれないと詮方ないことをつい考えてしまい、反射的に軽く身震いした。私とキリトは連続攻撃に特化しているおかげで強いのであって、防御面やHPの条件はほかのプレイヤーとおなじだ。リアルの私はフロアボス相当の攻撃を一〇発くらい受けようとも死ぬことはないだろう。でもアバターの私はクリーンヒット四~五撃で死んでしまう。それは時間にすれば二〇秒もあれば片付くていどの、じつは怖ろしいもの。いくらレベルを高めてマージンを確保していようとも、潜在的な死の臭いはどこにでも潜んでいる。
 私は両手に力をこめて、キリトに言った。
「キリト、気を抜くのは禁物ですね」
「ああ、この層からが、SAOの真の本番だからな」
 あ~~、おなじこと考えてくれていたみたい! やはりキリトは、私が喜ぶことをなにげにしてくれる。波長が合うというか、運命? ――我ながらバカなことを考えてるなあ。
 真の本番がはじまる寸前に、にとりが公開したキャンセル技。効果は今日の攻略戦で証明された。これは先の見えぬこれからの戦いにおいて、大きなプレゼントとなる。すこし練習すれば誰でも使えるから、上から下まで大々的に広まるだろう。
 片手用武器はもちろん、両手用武器でも有効だ。おそらくもっともポピュラーになるのは、素早い通常攻撃で牽制か初撃を打ち込み、敵が怯んでるうちに、確実にキャンセル・ソードスキルを当てる方法だろう。モンスターMobはしょせんプログラム制御で、ゲームバランスの観点から無慈悲に強力なアルゴリズムも積めない。したがって対人戦であればすぐ逆対策される簡単な方法であっても、填ればそれで永遠に有効なんだ。
 茅場による仕様変更は考慮する必要がないって魔理沙が言ってた。もし茅場晶彦が出る杭を打つ方向で調整をかけているなら、私とキリトの魂魄流二刀剣術はゲームバランスを著しく崩しているので、とっくの昔に使用できなくなっているはずだ。その辺りはにとりが予想したように、茅場晶彦はフェアネスを守る紳士的なゲームマスターであるらしい。最初に決めた仕様の範囲内で実現しているのであれば、どれだけチートに見えるものであろうが、なんでもOKなのだ。それは気付いた者、実現した者の実力であり、報酬となる。
 だけどそれをいきなり全員が共有したらどうなるだろう? まさか茅場も、私たちが有益な情報を片っ端から公開しまくるなんて、思ってもいなかっただろうな。人妖少女たちは、いつ消えてもいいよう戦略的に動いている。価値観も視点も人とは違うんだ。
「おっ、あれが転移門だな」
 先頭をいくディアベルが、広場を見つけて走り出した。弾んだ声で「ヒャッホウ!」と叫んでいる。こういうときは本質が出るもので、とても聖竜連合の騎士長、攻略組一二〇人を束ねるヘッドには見えない。現実世界ではどこにでもいる青年ゲーマーの一人だ。人より多少イケメンなだけ。
 ディアベルにつられるように、ほかの男どもも小走りで広場へと向かう。キリトもだ。まるで子供のようだ。女性陣ではてゐだけが付いていって、あとはのんびりと後から歩いていく。どのみちLAを取った勇者の私が到着しないと、街開きはできない。それまで待ってもらおう。
 通りはこれまでの主街区と変わらない幅と規模だが、左右は似たような高さの建物ばかりだ。ほとんどが二階建て。レンガ作りが多い。屋根も西洋瓦で葺かれた赤茶色がもっぱらで、調和が取れている。こういう統一感のある町は好きだ。
 時刻は午後五時近い。あと数日で一二月だし、だいぶうす暗くなってきている。私たちは今日はタフトでそのまま泊まりだろう。第一〇層で待機しているサポートギルド・マイスター組を呼んで、装備のメンテナンスやアイテム整理も行う必要がある。商人スキルを育てているエギルはマイスター組のギルドマスターだけど、レベルが高いこともあり、大人数を必要とした今回の攻略戦に参加していた。男の大半が走っていった中で、彼はペースを守っている。エギルはむしろこれからが仕事の本番で、かなり忙しくなるはずだ。こんなところで疲れを溜めたくないのだろう。
 エギルの商人プレイに欠かせないベンダーズ・カーペットは、第一〇層で開通を待ってるにとりが預かっている。露店プレイの必需品で、そのカーペット上に並べた商品アイテムは第三者が勝手に持ち去ることができないよう、システム的に所有権が保護される。欠点もあって、オーバーサイズによりアイテムストレージへ収納できず、常にオブジェクト化したままだ。したがって丸めたカーペットを抱えたまま迷宮区を進むなんてことは現実的ではなく、誰かに預けるか、宿屋などを数日借りて部屋に置いておくしかないのだ。
 レアアイテムと素材アイテムは、エギルのような商人プレイヤーがないとまともに売り買いできない。NPCに売るとレア度に関係なく買い叩かれ、サーバからも消えてしまうのだから。それゆえ攻略組の内部流通を支える立場となったエギルの役割は重要だった。彼にはさらにもうひとつの夢があり、それはボリュームゾーンの人材育成だったりする。社会的な意識の高い人だ。
 と、そのエギルが突然前のめりになって倒れた。
「きゃー! エギルさん!」
 うしろでアスナが悲鳴をあげている。
 私はすかさずメニューを呼び出し、アイテム一覧よりポーションが並んだ箇所へスクロールする。その操作をしながらエギルに駆け寄っていた。彼をじっと見つめると、HPバーが表示された。バーはクリアで、ステータス異常はなにも発生していなかった。ポーションは使うだけ無駄。私はメニューを消した。
 まずは目視での確認が先だ。うつぶせになっている彼を仰向けに転がした。いくら私が俊敏寄りといっても、レベルが二六もあるので筋力値は人より高い。
 黒人系米国人だがなぜか日本語が堪能で、ついでに日本在住らしいエギル。力強い精悍なスキンヘッドが意識を喪失し、目をつむっている。
「息をしてません!」
 呼吸が止まっている。いや、呼吸をしているフリが止まっている。ゲームのアバターだから、肺などない。空気の出入りもしない。息をしているフリ、心臓が動いているフリ、血が通うフリだ。あちこち触って確認してみると、いずれもが止まっている。体温だけは感じている。
 まるで死んだような状態で、不気味にすぎる。
「血が巡っていませんし、脈拍も止まってます……これって、どういう状態? 誰かわかりますか?」
 紫さまや文が追いついてきたが、表情が厳しい。
「――回線切断だな」
 男の声がした。私たちが警戒すべき者の。
「ヒースクリフさん」
 学者のような印象の、長身の男が私とエギルを厳然と見下ろしている。
「死んだように見えるのは、ナーヴギアがプレイヤーのリアルタイム情報をサーバへ伝達できなくなったからだ。データがないから、生体活動はアバターで再現されない」
 抑揚の少ないどこまでも冷徹な言い方に、私は軽い嫌悪感を覚えた。でも言った内容についてもっと詳しく知っておきたい。
「これってどういう――」
 誰かが私の肩を叩いてきた。見ると魔理沙だった。
「集団でコトが起きてるぜ」
「およ?」
 指が差されている。魔理沙の示す方向は、転移門広場。
 そこには、見たくなかった光景が広がっていた。
 男たちが倒れている。
 全員ではない。三分の二くらいだ。私は慌ててメニューの時計を確認してみた。午後五時ジャスト。なるほど、時間を合わせて、国が一斉にプレイヤーの救出作戦へと動いたんだ。バラバラに実行すれば私たちが必要以上に混乱するから、なにが起きてるのか気付かせるために。その第一陣が回線切断している。
 魔理沙が首を捻るようにして言った。
「きっと現実の体をどこか、病院とかへ移送する作戦かなにかだろうぜ」
 魔理沙の「いま気がついた」というような言い方は、ヒースクリフに聞かれるのを想定した演技だ。肩を叩いて私の発言を止めたのは、ボロが出るのを防ぐため……私は素直な性格が災いして、こういう駆け引きには弱い。魔理沙にはあとで感謝しとかないと。
 国が動き、紫さまの言った通りになった。さすが賢者。まるで予言者ではないか。
 だけど立っている男たちの中に、私の彼氏が確認できない。
 私はエギルから離れると、広場へと走った。
 意識のある男たちが混乱している。予想外のことに、なにをすれば良いのか判断できなくなっている。なにしろ青騎士ディアベルも倒れた側だ。副団長のリンドまで運悪く気を失っている。おもだったリーダー職ではクラインがまだ健在だ。だけどそれよりも私には優先する人が。
 キリト、どこにいるのキリト。
 いた。
 黒ずくめの、私の好きな少年。エギルとおなじようにうつぶせに倒れていた。近寄って仰向けに返す。目は閉じられ、私を見てはくれない。口に手をやるが息はなし――いや、元からフリでしていないんだったっけ。胸に手を当てるけど、心臓の鼓動は再現されていない。死んでいるみたいで、不安になってきた。
「いやですよ、キリト……死なないで」
 理性ではまだ死んでいない。ただの切断だって分かっている。でも体のほうが言うことを聞かない。どうして私の手は震えているの? 私はキリトの上半身を抱いて、みっともなく泣いていた。
 頭の中で私は、生身のキリトがいまごろ救急車に寝かされていて、なにもない家からちゃんとした設備のある病院へ運ばれているのだと、しっかり理解している。病院に行けばキリトの体は安全だ。長期間、健康を維持できるだろう。国が対策に動いた。これは喜ばしい事態のはずなのだ。
 なのに私の視野でキリトと過ごした現実は、SAOの中だけのことだ。そのごく限られた狭い経験と体験の重みが、キリトの死体のような姿を見て、私の体より自由を奪った。これはキリトではない。本当のキリトは、リアルで寝ていて、健康を……そのほうが……でもこれもキリトだ。アバターであり、デジタルが作り上げた仮想の体であっても、キリトはキリトだ。
 私はなにを考えているのだろう。理性のほうもだんだん正気を失って、思考がぐちゃぐちゃになってきている。
 ただ泣いている。無様に、情けなく涙を流して、私は泣いていた。
 体が動かない。動けない。
 なんて私は弱いのだろう。
「みょん吉、これは――なにが起こってやがるんだ?」
 野武士が私の背中に聞いてきた。
「クラ之介さん……キリトが、死んじゃいます」
「どういうことだそりゃあ!」
「ち、違うんです。生き延びるの。でも死んで――違います!」
「落ち着いてゆっくり説明してくれ」
「回線切断だそうだ」
 魔理沙だ。
「切断?」
「たしか茅場がチュートリアルで説明した死亡条件に、二時間以上のネットワーク切断があったよな。その猶予を利用して、私たちの体が逐次、病院などに移送されてるんだと思う」
「この規模……そうか、国が動いてやがるのか」
 さすが大人だった。魔理沙の短い説明で、すべてを理解した。
「クラインや私たちもそのうち接続が一時遮断されるだろう。キリトやディアベルが五時ジャストに切れたということは、たぶん三〇分とか一時間ごとにタイミングを合わせて切る計画だと思う。動けるうちに、倒れた連中をちゃんと宿屋とかへ避難させておきたい。誘導と指示を手伝ってもらいたい」
「がってんだ」
 クラインが素早く命令を飛ばし始めた。でも私はろくに動けず、まともに思考もできず。
 役立たずの木偶人形と化した私は、動かぬキリトとずっと、一緒にいた。
     *        *
 気がつけば、宿屋と思われる一室で、ベッドに寝かされたキリトを見守っていた。
 私は椅子に座っている。記憶がない。魔理沙から状況を伝えられたクラインが動き始めて、あれって思ったつぎには、もういまの状態だ。部屋には私とキリトしかいない。魔理沙たちすら追い出したのだろうか? どれだけ取り乱していたのだろう。それとも気を利かせて去ってくれたのだろうか。それすら覚えていない。
 そういえば紫さまが言っていた。私は役立たずになるだろうって。その通りだった。紫さまはこの機会で茅場晶彦に勝負をしかけると言っていた。作戦はうまく行ったのだろうか。無事にいって解決すれば、私はきっと、この愛しい人と別れなければいけなくなる。
 キリトを見てみる。やはりまるで死体のようだ。
 このゲームで殺されれば、リアルでも本当に死ぬ。だがそのとき、ゲームのアバターはガラスのように砕けてしまい、青い星屑となって散り散りに消える。そうとはならず、ただ寝ているキリト。死んでいるように見えて、システム的には死んでいるとは判定されていない、あやふやな体。
 生きているのだ。
 リアルのキリトはいまも。そう信じたい。
 だから私は見守る。キリトがふたたび繋がって、アバターの心臓が動き、血が通い、呼吸をしてくれるのを。たとえそれがすべて、プログラムが再現しているフリでしかなくとも、現実のキリトが生きている証拠なのだから。本物のキリトの脳から得た情報を元に、再現されているのであれば、それは私にとっての本物だ。だから私は待つのだ。彼が帰ってきて、私に笑いかけてくれるのを。
 私が知っている唯一のキリトは、アバターの黒い剣士でしかない。悔しいけど、私の恋しているキリトは、デジタルの世界に再現された彼だけなのだ。たかが回線の一本が切れただけでこれだ。いくらこのゲームで強くなろうとも、外側からの簡単な干渉でこのざま。綱渡りだ。
 茅場晶彦め。こんな世界のどこが本物なの。欠点だらけじゃない。
 私たちが本物の異世界に住んでいるって、教えてやろうかしら? ――いやそれはダメ。
 魔理沙や紫さまを裏切ることになる。私はヒースクリフに気付けなかった。そんな私に、賢者の深謀を邪魔する資格なんてない。たとえキリトがこんな目に遭っていても、ほかの人もみんな一度は切断を経験するはずだから。
 私はただでさえ軽率に動くようになっている。アホの子として軽んじられている布都のことを笑えない。考えなしで動いて、すべてを台無しにするなんて、愚かにもすぎるだろう。
 未熟な私に出来ることは、キリトを見守ること。
 寝ているキリトの手を取る。悔しいことに、体温だけは平熱のままだ。データの判断方法が違うのだろう。死体なら冷たくなる。それがない。キリトの肌は血色もよいままだ。だから生きていると信じて、私は待つ。
 顔に触ってみた。きれいな睫毛だ。顔も細い。まるで女の子みたいだ。
 思えば私が素顔のキリトと最初から話がすらすらできたのは、キリトが可愛い系の少年だから。どんな匂いがするんだろう。顔を近づけて嗅いでみる。無臭だ。
 キリトの手に触ってみる。細い。思ったよりもキリトは華奢だ。でも背は高いんだ。おなじ背になりたいな。そういえばエルフ族のテントで一晩、キリトの横になった。あのときは驚いて悲鳴をあげたけど、いま考えたら惜しいことを。ああいう感じなら、私もキリトとおなじ目線になれる。
 ベッドに私も体を滑り込ませて、寝そべって横に並んでみた。あのときの再現だ。なんて大胆なことを。私の右隣にキリトがいる。肩の高さを同じにすると、私でもキリトと等しい目の高さになれる。私の背がもっと高くて、せめてアスナくらいあれば良かったのに。
 キリトの頭を動かして、私のほうを向かせてみた。でもキリトの目はつむられたまま。すこし悲しくなってきた。どうして私はなにもできないのだろう。
 ゲームに囚われているせいで、リアルのキリトを世話できない。どこかの看護師さんや医者に任せるしかない。私は半人半霊だからキリトと違って手間いらずだ。白玉楼でもそのまま放置されっぱなしだろう。だけどキリトは違う。命を維持するために、いろんなものが必要だ。
 私はキリトの顔に左手を這わせ、キリトの髪を触った。柔らかい、しなやかな髪だ。手をすこしずつキリトの体に沿って動かし、彼の心臓がある辺りで止める。動いていない。体は温かいけど、脈動は再現しない。私の胸にあるニセモノの心臓は動いているのに。
「ねえキリト……起きて」
 気のせいか、私の右手がキリトの鼓動を感じたような気がした。そう、こういうリズムを私は感じたいのだ。
「――ヨウム」
 キリトの目がいきなり開いていた。
「…………」
「…………」
 私の体は硬直している。完全に動けなくなってしまった。
 ベッドに寝て、見つめ合っているという。なんというトンデモな!
 ああ……私はさっき、軽率をしていると反省したはずなのに、そんな傍からまた、自分の不注意で変なことになってしまった。
 キリトが私から目を逸らさない。
 彼の顔が、やや暗い雰囲気を帯びている。切断していたんだ、心細かったんだろう。
「キリト、私はここにいますよ」
「無事だった……俺は生きてるんだな」
「ええ、そうよ。あなたは生きています」
「ああそうだ。俺たちは生きている!」
「あっ」
 不意打ちだった。
 接触していたのは、ほんの一秒かそこら。
 私とキリトの顔は、わずか一五センチくらいしか離れていなかった。だから彼の奇襲は簡単に成功して。
 唇を、塞がれた。
 ファースト・キスは、あっというまに終わった。
「…………!」
 私は反射的に自分の唇へと手をやって。
 思考が止まっていた。
 後追いで、気持ちが込み上げてくる。もちろん喜びだ。その割に胸が痛い。ああ、片想いに焦がれる痛さみたいなものを、なぜキスという儀式で味わうのだろう。そうか、紫さまの作戦が成功したら、このまま別離が来てしまうからだ。
「あのキリト」
「好きだ。俺はヨウムが好きだ」
「!」
 そっけないし、声も大きくなかった。けれど、間違いなく一生懸命な告白だった。
「キリト……」
「俺はいままで、ディスコネクション警告表示しか見えない真っ暗な闇に浮かんでいて、このまま死ぬのかと思って、不安に感じていた。するとヨウムのことばかりが頭に浮かんだ。ヨウムと会えなくなるなんて、絶望じゃないか! 終わりだ。それで気付いたんだ。ヨウムが俺を想ってくれるように、俺も想うようになっていたんだって」
 いいのだろうか。こんなに幸せで。
「私、報われたって、思っていいんですよね?」
「畜生、そんなことをヨウムに言わせる時点で彼氏失格だ。これまで俺はきみの好意に甘え、思い上がっていたんだ。きっとSAOの最強を極めようとして、きみをいつのまにかいいように利用していた。謝る。ごめん。俺はヨウムの技をすべて吸収したくて、ヨウムと一緒にいるために、ソロ時代の醜いエゴイズム丸出しで、きみを受け入れてたんだと思う。いつまでもゲーマーの視点でいて、あたりまえに好きになる努力が足りず、怠っていた。いや、クラインに言われたように、努力と考えてるからいけなかったんだ。俺はこの世界でヨウムと――くそっ、うまく言えない。言葉が出ない。とにかく、きみのおかげで戻って来られた気がするほどに、俺は……ありがとうヨウム。きみはいつも俺のために……今度こそ、本当に好きなんだ」
 言い終えたキリトの目より、涙が溢れ、頬と鼻を伝っていた。私と再会できて、泣いているのだ。それで十分だ。
「キリト……」
 つきあい始めて二週間。どれほどこのときを、待ち望んでいたことか。
 キリトも私を、好きになってくれた。
 私は感激している。とてもだ。うれし涙も出ている。でも涙が過剰に溢れてくるようなことはない。キリトの顔を目ではっきりと確認できる。私は自分でも驚くほど余裕があって、落ち着いていた。決定的ないまを大切に一秒一秒、噛みしめている。
 こんなとき、なんて言えばいいのか。
 決まり切っている。好きの上位。
「大好きよ」
 こんどは私からだ。
 衝動のままに頭を近づけていき、目をつぶって優しく軽いキスを、キリトとまじえた。
 たっぷり四秒ほど。
 そう、たっぷりであっても四秒が限界。
 これ以上は、まだ私には無理だ。どんどん頭の中が沸騰してくる。
 頭を戻して目を開けると、キリトが真っ赤だ。感情をあまり表に出さないあのキリトが。ということは、私なんかきっと、トマトやリンゴよりも赤くなってるよ。
 最初が寝っ転がったままでキスだなんて、変だよね。人と変わってる私とキリトだから、こんなのでもいいかな。
 キリトは死ななかった。良かった。なんという僥倖だろう。SAO最強になったとたんに、こんなバカらしいことが原因でもし死んでしまうなんてことになれば、私は狂ってしまうかもしれない。
 そうか――だから私は、キリトとキスしたくなったんだ。
 私はどこまでもキリトを強くしたいと思うようになっている。
 彼が死なないように。絶対にこのゲームに負けて欲しくないから。
 強くなるほどにキリトは、どうしようもなく死にも近づく。ボスと戦う宿命を背負うから。危ない場面で常に駆り出されるから――いずれは勇者として、茅場晶彦と直接対決しなければいけないから。
 矛盾しているけど、すでに強くなってしまったいまは、とにかく限界の果てまで強くなってもらうしかないよね。
 紫さまが茅場の正体見破りに成功したとき、きっとラストデュエルが待っている。その相手は、高確率でキリトになるだろう。私では対人戦が強すぎて、ヒースクリフが指名しないかもしれない。ヒースクリフが選ぶのは、私の好きな人。どれだけのチートを用意してくるか分からない。このゲームがどのような終わり方を迎えるにせよ、そのときキリトは、死の可能性と真っ正面から向き合うことになる。
 私がキリトと旅をはじめたとき、その建前の理由はすこしでも強くして、生き残る確率をあげたい、だった。
 でもバーチャル世界におけるキリトの強さは本物で、その才能は私の想像を上回っている。
 最強になっちゃったキリト。でもまだ足りない。徹底的に強くなってくれないと。
 すこしでも手を抜くと、きっと私は後悔する。
 茅場晶彦の存在を知ってしまったから、私は焦っている。キリトをとことん強くしたいんだ。
 その契約として、代価として、私はキスがしたかったのだろう。
 もし私がキリトとキスをすれば、その契りは本物だ。一蓮托生となる。
 私は責任をもって、全身全霊で、キリトに尽くすだろう。鍛えるだろう。
 そのために私は、キリトとキスをしなければいけなかったんだ。
 ようやく私は、自分のおかしかった行動の意味を悟ることができた。
 色ボケでもなんでもいい。
 契約はなった。
 紫さまの作戦が一度目で成功するとは限らない。ヒースクリフそのものはゲーマーでも、中身はリアルにおいて保身の天才だ。だから私は今回が失敗に終わったと仮定して、口を開いた。
「……明日から私、あなたに急所狙いを教えたいと思います。いい?」
「いよいよエグいメニューが来るな。目玉や首元、ワキとか腹を狙うんだよな。それはそれで楽しみだ――でも」
 キリトの腕が、私の背中に伸びてきた。抱き寄せられてしまう。
 しまった。私はいま、キリトとおなじベッドで、向かい合わせて寝てしまっている!
 でもイケナイ空気ではない。アブナイ雰囲気でもない。純粋に、ただいっしょに触れ合って、共に居たい。そんな意志を、キリトが真面目に発してくれている。
「いまはヨウムの匂いと体温を、感じていたい。きみが生きてるって実感を、たとえこの世界がすべて電子の再現物でしかないとしても、俺はSAOのヨウムしか知らないから、抱いていたい」
 ああ……この期におよんで、キリトはやはり私とおなじことを考えてくれていた。
 だから私はキリトがどうしようもなく――大好きなのだ。
 私はこの感動と思いを、言葉に乗せるのをなぜか邪道に感じ、ただ行動で示すことにした。頭をそのまま、キリトの胸に(うず)めるのだ。
 それでキリトも安堵したのか、私とキリトはその格好のまま、お互いの体温を感じながら、しばらく横になって――
 ――――……
 ……
 ――――
 気がつけば朝になっていた。
 睡眠時間が十分で精神的に充ちていれば、私の寝起きは至極良い。まどろみはごく短時間で、あっというまに覚醒する。
 ……やばい。やばぁ~~い! キスしかしてないのに、一晩中ひとつの部屋だなんて、第三者から見たら、一八禁の世界だ~~。幽々子さまにバレたら、死ぬほどの罰を受けちゃうよー。
 キリトはまだ寝ている。私は大胆にも、キリトを抱き枕にしてしまっていた!
 いい匂いだな。男の子の。いけない、それどころじゃないのに。
 ベッドから起きて離れて――キリトの腕が、私を離さない。
 なんとキリトまで私を抱いたままだ。しかも両手両足。
 お互いに、すごいわこりゃ。
 私が脱出しようともがいていると、キリトが目を覚ました。
「あ、おはようキリト」
「おはよう……」
 寝ぼけているようで、キリトの反応がにぶい。
「あのキリト」
「うん?」
「バンザイしてください」
「ばんざーい」
 私の背中をがっちり掴んでいた枷が外れた。私はすぐベッドより抜け出る。キリトの足が私の足に絡まっていて、半分ベッドより落ちながら転がって距離を取った。
 起き上がった私が、乱れた息を深呼吸して落ち着かせているのを、キリトがむくりと身を起こしながら見ていて――その目に焦点が合うとともに、すごい表情へと移ろっていく。
 油断しているキリトは、ポーカーフェイスが崩れる。私はそれをホルンカの村で知っていた。
 すこしだけ安心した。キリトも私と変わらない。どちらもどちらで、一緒。お互いこれは、秘密にしておくべきだと、口裏を合わせられそうだ。
 私は昨日、キリトになにが起きていたのかを説明した。大勢の回線切断、理由はおそらく病院への移送。
 キリトが切断したように、たぶん私も寝ている間に切断してたんじゃないかなと、適当に推測混じりの嘘を添えた。人智の及ぶところでない私が、事故以外で回線切断するはずがない。だから睡眠中に起きたのだろうと、誤魔化すしかない。
 口裏のほうは、私はちゃんと別の部屋に移ったと、そういうことにしておいた。
 私はキリトにまたね~と手を振り、そっと扉を開けて……
「やあ、清く正しいアヤヤです。ゆうべはお楽しみでしたね」
 喜色満面の射命丸文が、しっかり張り込んでいた。
     *        *
 回線切断は九三〇〇人以上ほぼ全員に行われた。外にいる対策チームにはこちらの状態をモニターできるシステムを持っているようで、安全な圏内にいるとき切断が実施されていた。圏外で戦っている人は戻ってきて意識を失った。ほとんどの人は昼間に外で戦うので、切断の中心は午後五時から深夜にかけて実行された。翌朝から昼には夜間活動型のプレイヤーも切断した。
 文々。新聞が大切断事件と名付けた移送措置だったけど、不幸もあった。一晩に二〇人もの死者が生じたらしい。ここ数日は夜間の死者がいなかったから、ほぼ全員が再接続失敗だろう。
 移送された人数が大量になったため、二時間のタイムリミットに間に合わなかったプレイヤーがごく少数生じた。彼らは時間切れとともに例の陰惨な死亡エフェクトとなって砕けたという。目撃してしまった人はトラウマだろう。普通なら起きないはずの圏内死だから。たとえ電子的に接続していなくても、茅場が綿密に構築したデスゲームだ。不運な被害者のナーヴギアが、冷酷かつ無慈悲に処刑をこなしたに違いない。
 現実のほうで、手違いやわずかな遅延から被害者を死なせてしまった移送関係者は、さぞやマスコミに叩かれ、参っているだろう。遺族が早まったことをしなければいいけど。諸悪の根源、茅場晶彦に手が届かない。そんなとき怒りの矛先は思わぬところに向かってしまうものなんだ。このSAOにおいても、初心者の私が活躍していなければ、元ベータテスターがあちこちで締め上げられていたことだろう。キバオウが積極的に前線へ出てきたのも、そのきっかけはベーターへの反目からだった。
 事件の影響はおおきく、精神に大きなショックを受けた子が続出した。二九日の攻略活動は中止とされ、代わりにささやかなスクープが文々。新聞の紙面を賑わせた。悲しい事件から目を反らせるために、明るい話題がどうしても必要だったんだって。その理屈は私にはよく分かんない。でも一面トップはないんじゃない?
 というわけで、私とキリトは完全に攻略組公認カップルとなった。なんでそんな公認が必要なのよ?
『年齢制限のような肉体関係なんてありません! ファーストキスだけです!』――結局また、私とキリトの初々しい進展が、包み隠さずアインクラッド中に知られてしまった。
 コペルくんが壁殴り代行業というのをはじめたらしい。なにそれ?
 大切断事件のとき、紫さまがヒースクリフを貴重な男手としてこき使って、寝かさないよう試みたらしい。ヒースクリフがいつまでも回線切断されなかったら、それを根拠に怪しさを突っ込める。とっさに仕掛けたにしては無難な作戦だと思う。でも残念ながら天才もうまくて、わずかな隙をついてさっさと宿屋に部屋を借りてしまった。一度寝てることになってしまえば、就寝中に切断があったと言って誤魔化せる。私たち妖怪のようにね。今回は紫さまの負けだ。
 八雲紫さまは大切断事件を見事に言い当てた一件で、人間の協力者四人の信頼を得たというより、ほとんど崇拝されるようになっちゃった。私たちの正体を疑問視していたリズベットも、もう妖怪ってことを信じてくれている。私も紫さまを再度見直した。幻想郷の賢者として、私たちの牽引役として、なくてはならない存在だ。
 ヒースクリフの正体を茅場だと確定させる作戦は、ふたつが進行中。
 まずは時間差でヒースクリフだけ就寝を遅らせ、ログアウトの瞬間を暇人仕様の紫さまが見届けるもの。ヒースクリフはギルドマスターなので、以前より仕掛けがやりやすくなった。いまのところ二回成功して、二回ともログアウトがいつもより遅くなった。でもこれだけではダメだ。茅場でない、というほうは一度で済む。でもこいつは茅場だ、というほうは確率でしか示せない。回数を重ねて、確率論的に言い逃れができないところまでデータを集める必要がある。紫さまはそれを八回以上と決めているようだ。八雲の八にちなんでいるのかな?
 もうひとつはにとりの暗殺者トリックを使った正体確認で、いくつかの方法のうちひとつに絞った。ただし要素がふたつ足りなくてまだ決行できない。
 ひとつは実行者。侵入者は隠蔽能力、つまりハイディングスキルおよびその技術をまず鍛えないといけない。すでにアルゴがすごい腕前だけど、彼女は死ねば本当に終わるただの人間だから、この賭けには使えない。失敗して茅場に消されても生身の体が平気な純粋妖怪で挑むべきだ。射命丸文が立候補してスキル修行中。最初に気付いたから、ケリも自分で付けたいんだって。
 ふたつめはカメラ。撮影手段はいまのところ記録結晶しかないけど、盗撮対策で強制的に音がするのでややこしい。音を誤魔化して写す手段を考えている。クッションで囲んでみたけど、なんと強制フラッシュを焚いちゃって使えない。撮影と合わせて外でおおきな音を出す手も考えたけど、個室にはシステム的に防音機能が働いていて、ヒースクリフが慎重にいつも窓もカーテンも閉めている以上、とても無理。たまにカーテンのない部屋に泊まることもあるので、その場合なら望遠レンズさえあれば離れて写せ、シャッター音を聞かれずに済むんだけど、記録結晶の低機能カメラにそこまでのズーム性能はない。文の予想では、より上層に機械式システムカメラくらいあるのでは、とのこと。それに期待をかける。
 にとりが狙っているのは、ヒースクリフが左手メニューでログアウトする決定的瞬間の連続撮影だ。これであれば頭の固いキバオウでも、ヒースクリフの正体を理解するだろう。茅場がログアウトに管理者メニューを使っているかどうかは未知数なんだけど、にとりは勝算ありと睨んでいるみたい。だって私たちはメニューからログアウトボタンが消失している。ヒースクリフだけそこにログアウトが表示してあったら、うっかりなことでばれてしまう危険が残る。メニューは他人に不可視にすることもできるけど、トレードモードなどではシステム制約上、どうしても見えてしまう。茅場も下手な可能性は残しておかないはずだ。したがってログアウトは一般プレイヤーには使えない左手に隠している。
 私の交際は、精神的に深化した。
 もはや恋人ごっこではない。
 私とキリトは、相思相愛。それまでの会話遊びが中心だったノリとは、ぜんぜん違う。
 体を触れ合うスキンシップから入る、お互いにリラックスを求める静かな付き合いへと移った。私が好きなのは、ベッドに座った状態でキリトに背中から抱き込まれて、体温を感じながら数十分くらいぼーっとすること。あとキリトの膝枕。私じゃなくてキリトに枕をさせるの。そんな姿勢で、まともな思考を放棄して適当なバカ話に興じるんだ。その間、キリトはずっと私の髪を触っている。こんな短時間の室内デートを、おもに宿屋で人に隠れてやっている。
 ディアベルに注意されたこともあって、人前でイチャイチャを見せびらかせるのだけは、もうやめたよ。せいぜい手を繋ぐくらい。
 節度ある中学生カップルだからね。中学生といっても私のほうは見た目だけだし、キリトは中性的な顔立ちから年齢不詳気味で、クラインやアスナには高校生にも見えてるらしい。変なの。
 お付き合いが深まったといっても精神的なものだし、キスはあれからまったくのご無沙汰だ。
 キリトが焦る必要はないと言って、私も頷いてしまったから。だからキスしたいなぁと思っていても、きっかけがないと出来なくなっちゃった。最初がいきなり大切断事件だったから、劇的すぎてなおのことだよ。
 もちろんキスより上の、エッチなことなんて一切してない。興味はあるけど、キスだけであんなに大変だったんだから、間違っても簡単なことではもう私は許さないよ――それに彼氏と本格的につきあい始めて分かってきたんだけど、どうも私の友達の妖怪たち、意外と男性経験がなさそうで。
 射命丸文や犬走椛は男を知っているね。さすが天狗。でもこの二人以外はろくに経験ないよ。
 魔理沙はもちろん、輝夜と古明地さとりはキスもなし。この辺りは順当。意外だったのが八雲紫さま。いまの私には見える。キスすら経験していなさそう。さらに布都も! 彼女は結婚してたからあちらが豊富なはずなんだけど、ど~も怪しい。私の見立てでは、布都は復活して若返った際、人間としての人生経験を記憶ごと数十年ぶんまるごと喪失してるね。あれは若い当時そのまんまの布都だよ。だからアホの子なんだ。悪女だった眠る前の布都が、そういうふうに復活するよう仕込んだんじゃないかな。きっと自分の生涯を後悔してたんだろうね。記憶のかわりに、ダイジェスト的な知識みたいのだけは残したか、後付けで神子さんより教えられたか。でも知識はただの情報。経験とは違うから、人が変わっちゃったんだ。
 最後は河城にとりと因幡てゐ。この子たちはキスくらいはしてそう。でもそれ以上は、たぶんいってない。私とおなじだ。てゐはときどき男性経験豊富なように振る舞うけど、余裕で嘘だね。よくてキス止まりだ。
 そういう男日照りの実態を察することができるようになったから、私は焦らなくなった。キリトも私を大切にしてくれる。きっとエッチなことくらい興味もあるだろうに、紳士的に接してくれるんだ。
 私とキリトのつきあいは、確実にソフトな想い出を重ね、増やしている。
 攻略のほうも順調だ。
 一層を平均二日という、フロントランナー時代の一・五日にやや遅れてるだけの攻略水準を維持している。その基本はダッシュと連撃だ。みんなして走って、みんなで連続攻撃を出して押し通る。にとりが光と表現したキャンセル技が広まって、みんな強くなったから、私とキリトがやってきた流儀でも通用するようになってきた。攻略速度の代償として武器スキルの成長が遅れてるのを、キャンセル技でカバーしたんだ。一回が二連続に、二連撃が三連撃・四連撃に増える。初級ソードスキルが中級技に化ける。隙も小さくなるので、以前より安全に戦える。無理をして熟練度を稼ぐ必要はない。
 走ってると奇襲を受けやすいけど、そのような無謀なMobには、大人数編成による数の暴力で物を言わせている。私たち攻略組は、ソロやコンビプレイヤーを除けば、どんなに少ないときでも六人以上で集団行動するようになった。すこしでも死の危険を減らすためだ。攻略戦本番ともなればソロもコンビも集団に溶け込む。私は攻略戦以外はたいていキリトとふたりきりで行動しているけど、ハイペース進行により冒険の八割がボス攻略戦だから、むしろふたりでいる時間のほうが短くなっている。
 キリトは私の予想通りさらに強くなって、レベルでも私より高くなったよ。もう押しも押されぬSAO最強戦士だ。たとえ対人戦で確かめずとも最強。だって私が鍛えたおかげでキリトの剣技はほとんどフルブーストになってるし、クリティカルヒットやカウンターも自由自在だ。どれほど重装甲でも、隙間をピンポイントで刺して、防御力を貫通してしまう。そのうえレベル自体も全プレイヤー最高だから、初撃決着モードでも危なくて、とてもデュエルを挑める相手ではない。腕に覚えある血の気の多い連中でも、キリトにだけは手を出さない。異名もできて『黒の双剣士』。
 私も『銀髪』だ。以前の愛称・長野ちゃんは、キリトとのキスが知られると急速にしぼんだ。男って現金なものだね。でも注目度の下がった今のほうが都合は良い。私はキリトにだけ好かれていればいいのだから。
 アスナにも異名ができた。『閃光』という勇ましいものが。軽量武器の短剣と細剣は、フルブーストすると剣先が見えなくなるほど速い攻撃が可能になる。ソードスキルでブースト剣技を自在に振るアスナの様子が、閃光なのだそうだ。攻略組のレイピア使いでフルブーストが使える手練れは輝夜とアスナだけなんだけど、輝夜はすでに『かぐや姫』の異名……なのかな、を拝命している。アバター名はルナーなのに、たまに私たち幻想郷クラスタが間違えて「輝夜」って呼んじゃうのを聞かれていたようで。ハッピーラビットこと因幡てゐが姫様と言ってるのと合わせて、かぐや姫になっちゃった。
 閃光のアスナは、女性陣では私と椛につぐ三番手の実力者。攻略組全体でも一〇本の指に入ると思う。参謀としても魔理沙と並んでレイドサブを務めていて、洞察力では魔理沙以上になってきている。脳みそ性能は最初からアスナのほうが上だしね。
 異名じゃないんだけど、血盟騎士団。このギルドには八雲紫さま・魔理沙・文・アルゴの情報工作によって、微妙な俗称ができてしまった。『おっさん騎士団』だ。元から平均年齢は高めだったんだけど、経理役として四〇絡みのダイゼンって人が入団して、その流れは確定的となった。初期メンバーで最年少だったキバオウやクラディールでも二五歳前後だ。おかげで若い子がまったく寄りつかなくなり、団員を増やせず苦労している。キバオウには潜在的に人を集める力があるけれども、おかしなイメージで相殺されてしまった。紫さまの工作は現在キバオウそのものに向けられていて、そのうち再度の下克上か、ギルド分裂が起きるかもしれない。詳しいことを私は知らされていない。
 おっさん騎士団長ヒースクリフは無難に仕事をこなしていて、攻略組男性陣の信頼をすこしずつ勝ち取っている。だけど攻略組の女性陣がほとんど全員グルなので、シリカを除いてちくちく無視攻撃や陰険ないたずらをしており――水泡風土記の相談コーナーへ匿名の投稿があった。
『女性のみなさんからどうも嫌われているような気がして悩んでいます。どうしたらいいでしょうか』
 コーナーを担当している蓬莱山輝夜は、こう書いたよ。
『イメージチェンジしてはいかがでしょう。たとえば髪型を思い切って変えてみるといった。新しい展開が待っているかもしれません』
 最初はまさかヒースクリフだと思わなくて、輝夜も真面目に回答したんだけどね。
 次の日、オールバック気味で硬い印象の髪型をやめ、キリトに似たさっぱりな下ろし髪に変身したヒースクリフ。アバターと合わない若作りでかえって違和感丸出し、みんなして影で大笑いだ。もちろん待遇はぜんぜん変わらないので、三日で元に戻ったよ。
 そんなこんなで日々がすぎるうちに、年の瀬も近いクリスマスイブ。
 私たち攻略組は第二二層に到達した。
 ――そこはまるで、幻想郷を彷彿とさせる、のどかな層だった。
 生存者九二八九人、攻略組三〇五人。私のレベルは三四、キリトは三五。孤独なヒースクリフはまだ、その正体を晒していない。
     *        *
     了 2013/10


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