一〇 転:攻略組結成!

小説
ソード妖夢オンライン2/〇七 〇八 〇九 一〇 一一 一二

 一一月二三日の夕方近く、第九層フロアボス攻略戦の寸前に、魔理沙よりある発表がなされた。
 攻略組結成のプランである。
 第一〇層にあがると同時に、(こころざし)ある者は第三層へ降りてギルドを作る。それによって攻略隊の規模を拡大する受け皿となす。前線集団に募集をかけ、攻略隊を拡充し、攻略組へと改称する。第一〇層はいまの編成では攻略が困難だ。その理由もつぶさに解説してゆく。
 臨時発表は魔理沙の独壇場になっており、ナイト・ディアベルはまったく口を出さない。その理由は人間サイドではアルゴとディアベルしか知らない。アルゴはさすがにこの攻略戦へは参加していない。情報屋として行うべき普段の活動がたくさんあるのだ。
 青騎士はネットゲームで基本的にやってはいけない違反、魔理沙のリアルなプライベート情報を知ろうとした。ささやかなそれっぽいウソ情報と引き替えに、ディアベルの首根っこは魔理沙に掴まれてしまった。しばらくはウィッチの尻に敷かれたままだろう。幻想郷組としても災い転じて福と成すであった。
 発表は魔理沙ひとりによって行われた。八雲紫は当初の目論見に従い、今後は裏の実力者として振る舞うつもりのようである。表は元人間の魔法使いに任せる。ふたつのブレーンが目立つ者と目立たない者に分かれる意味が妖夢には理解できなかったが、賢者なりの用心深さからだろう。
 ようやく指揮権を返されたディアベルは、ボス部屋へ入る前の景気付けを行った。
「俺たちを見ているみんなに、示そう! 期待に応えるんだ! アインクラッドは、解放されるのだと!」
 おもに野郎どもからおおっと鬨の声。妖夢のとなりでキリトも控えめながら声をあげた。
 士気の高揚を確認して、ナイト・ディアベルは右腕でガッツポーズを作った。
「だが俺たちを見ている者がほかにもいる。その変態のぞき野郎にも見せ付けてやろうぜ! ――くたばれ茅場晶彦!」
 拳をふりあげると、その合図にみなが唱和する。
『くたばれ茅場晶彦!』
「俺たちは強い! しかも攻略隊には魔理沙さんのように可憐な女子が大勢いる。茅場は彼女たちと触れ合うことが出来ない! ――ざまあみろ茅場晶彦!」
『ざまあみろ茅場晶彦!』
「現実に戻ったら目に物見せてやるぞ――茅場晶彦の変態のぞき魔!」
『茅場晶彦の変態のぞき魔!』
「よろしい。いま高めた怒りを、これから戦うボスへと存分にぶつけてくれ! それでは、行くぞ」
 ディアベルが攻略隊を代表して、ボス部屋の扉を押した。
 この茅場を名指ししたシュプレヒコールは、魔理沙の要請であった。ディアベルは第一層フロアボスのときも茅場晶彦を罵倒したので、別におかしくはない。ただし妖夢は茅場候補のヒースクリフを観察しない。魔理沙や紫もおなじだ。彼がどのような反応を示したかを確認する役割は、射命丸文と犬走椛に一任されている。新聞記者であるから、特定の誰かを見つめていても、怪しまれる心配は薄い。写真を撮っていてさえ、怪しくない。文と椛の右上腕には、取材中と書いた腕章がはめられている。
 魔理沙の慎重は徹底している。ディアベルには最後に、茅場への怒りをボスへとそっくり転換する発言をさせた。これによって攻略隊に茅場がいたとしても、その報復がディアベルへ及びにくいようにするのだ。いくら茅場の性質が公平を指向したとしても、人間であるからには感情的にやるせないものもあるだろう。ディアベルの狙いが指揮官として理にかなっていれば、理詰めで動く茅場であるから、自重の度合いも高くなるというものだ。茅場の人としての性質を利用しているわけだった。
 紫たちの間では、この茅場罵倒を女神のキスと同様、最前線の風物にしてしまえという空気すら漂っている。ヒースクリフが茅場でなかったとしても、いずれ本物の茅場が最前線に出てくるのは疑いようがない。いつかその網にうっかり当人が掛かるかも知れない。茅場罵倒は恒常化させたほうが、布石として期待できる。
 幻想郷の妖怪少女たちは、最前線における統帥・戦術・戦略・運営・情報のことごとくをすでに独占掌握している。今後もどれかひとつでも茅場晶彦に譲る気はない。最大限に利用して、さらに優位性を確保しておきたかった。
 扉が開ききると同時に、ディアベルが剣を振り下ろす。
「戦闘開始!」
 まず盾を持ったD隊ことシヴァタ隊が進入した。シヴァタ隊には椛を除く盾持ちがまとめて集められており、ターゲットを引き受ける。今回のボス戦は、きちんとセオリー通りの再編を行っている。
 つづけてディアベルのA隊、クラインのB隊、キバオウのC隊。この三隊は攻撃部隊であり、人もだいぶ入れ替わっている。A・B隊はショートレンジ特化、C隊には長柄持ちが集中している。その後より参謀本部的なE隊魔理沙。総指揮はいちおうディアベルだが、事態が急変したときなどに、臨時の指揮権を握る権限を持っている。つまり魔理沙のほうが潜在的な格式は上位だ。紫のてこ入れでこうなった。
 E隊のメンバーは魔理沙と紫、リズベットとシリカだ。人間の少女ふたりは大ボス戦で直接戦うには勇気もレベルも足りないので、控え要員として置いている。攻略組が立ち上がれば、サポートギルドに所属してボス戦には出てこなくなるだろう。アスナはディアベル隊にいる。その高い知性からディアベルの副官的な位置、参謀役として抜擢された。純戦闘力も高く、アタッカーに混じって問題はない。幻想郷クラスタはいつ目覚めるか知れず、様々な方面で茅場に対抗できる人材を育成する必要もあった。アスナには魔理沙に相当する力を養ってもらわないと困るので、かなりの速成教育が求められるだろう。
 あとはF隊妖夢と、G隊射命丸文である。妖夢は昨日もF隊だったが、Fを充てられたのはフロントランナーにちなんでいる。編成は妖夢とキリトで固定だ。このふたりはあまりにも強力すぎ、レベルも二二と抜き出ているため、ほかのプレイヤーと歩調を合わせることが難しい。G隊も文と椛しかいない、報道専門部隊だ。ただし椛はフロントランナーにつぐ戦闘技能を持つため、状況によっては助太刀に入る予定である。
 第九層フロアボスはフィールドボスとおなじく巨漢エルフだったが、なぜか目が四つもある。SAOのモンスターは目で実際に攻撃対象を確認するという高度なアルゴリズムを持っており、目が四つあるということは、それだけ視覚的な隙が少ないことを意味している。武器は短剣の二刀流だ。全身が黒い。
『Rock Climb the Evil Elf』
 その名が表示された瞬間、魔理沙が叫んだ。
「ボス名がベータと違う! ディアベル!」
 フロントランナーのおかげで、ベータ時代のことを堂々としゃべることができる。ディアベルもいまでは元テスターだと明かしている。攻略リーダーを続けるには、そのほうがかえって都合がよいからだ。
「D隊下がれ! ほかの隊も全員、扉の寸前まで後退! F隊前へ、偵察を! ただし例の乱舞技は偵察にならないので禁止!」
 妖夢とキリトはこくんと一礼、ゆっくりと歩く。より前に出ていた攻略隊連中がみんな下がってくる。
 いまの攻略隊の強みは、どんな不慮の変化にも簡単に対応できることだ。強力なフロントランナーがその役を担ってくれる。おかげで偵察戦という面倒で危険な手間が不要だ。攻略戦の中で代用できる。第一一層以上はこのスタイルが中心となるだろう。
「ヨウム、あのボス名だけど……ロッククリブ? クリム? どんな意味だったっけ」
 おそらくロッククライム・ザ・イービルエルフと読むと、妖夢は考えた。主街区名は正確な読みを知っていないと転移門で困ったことになるが、倒されたら二度と出てこない固定ボスの名など、大方のプレイヤーにはかなりどうでもいい。こだわるのは情報ジャンキーくらいだ。
「ロッククライムですね。岩壁登りかしら? 一般的にはロッククライミングとかフリークライミングだったと思うんですけど」
 壁の岩はすなわち崖。ヒースクリフを連想するので、あまり気分の良い敵ではない。
「ならあのボスの能力は……」
「たぶん、トリッキーな軽業師ですよ」
 目の前でさっそくイービルエルフが右へと走っていく。壁面に張りつくと、かさかさと変な擬音とともにすいすい登っていくではないか。手には短剣を持ったままで、指を二本だけ使っている。変態だ。
「気持ち悪い動きだな」
「NPCのエルフはとっても綺麗で動きも優雅なのに、このボスは筋肉の塊だし、動きはまるでクモですね。エルフフェチが見たら泣き出しそう」
「おデブじゃないと多人数で同時攻撃できないからな。スリムではゲームバランスが崩れてしまう」
 おそらくキリトの言うとおりだろう。バランスの都合で、醜いエルフにされてしまった。さらにこのクモのような怪しい動きは、ついでなら徹底的にやってしまえということか。
 イービルエルフはそのまま天井も這い、妖夢たちの頭を取ると奇声をあげて落ちてきた。
 それをキリトが剣一本のソードスキル――フルブーストしたソニックリープであっさり対空迎撃した。仰向けで無様に落ちてきたイービルエルフを、フロントランナーふたりで適当に痛めつける。でぶ黒エルフが四つ目を歪ませてきゃんきゃん啼いている。
「見え見えで奇襲にもならないぞ。こんなレベルでフロアボスを名乗るとは」
「私たちの強さがとっくに規格外なんですよ。壁登り機能がなくとも、巨人の二刀流ってだけで普通の人には脅威です。この変態さん、もう一度くらい遊ばせます?」
「そうだな。ディアベルたちのために、パターンを見ておくか」
 解放してあげたイービルエルフは一目散に壁へと退散し、また登りはじめた。ターゲットをロックオンしたまま遠回りをする。それなりに高度なアルゴリズムだが、動きは間抜けだ。
「暇だな……」
 キリトがベルトに差した投剣をつかんで、おもむろにイービルエルフへ投じた。黄色い線を曳いてそのお尻へぶすりと刺さる。でぶエルフが両手を離しておしりを掻いて――落ちた。
「投剣スキルが弱点みたいですね」
「……それが分かっただけで偵察の半分以上は終わったな。あとは通常攻撃を見よう」
 落ちたイービルエルフに接近すると、巨漢デブとは思えない身のこなしで起き上がり、攻撃してきた。遮二無二(しゃにむに)な乱れ突きを、妖夢とキリトで鮮やかに捌く。短剣といっても巨人用なので、そのサイズはプレイヤー側の両手用直剣に匹敵する。だが攻撃が雑なので、妖夢もキリトも楽々とすべての攻撃を落とすか避けていた。隙を見つければ適当に反撃するが、あくまでも偵察なので連続攻撃には繋げない。そんな攻防といえるのかよく分からない手抜きお遊戯を一分ほどつづけると、イービルエルフが吠えて後方へ飛び退いた。また壁をのぼっている。
 妖夢が手を振って、扉近くの攻略リーダーに話しかける。
「ディアベルさーん、そろそろ代わって貰って、いいですかー!」
 五〇~六〇メートルは離れていたが、凜とした妖夢の声は遠くへとよく届く。
「……ぜ~んし~ん~~」
 かろうじて聞き取れたディアベルの命令を確認すると、妖夢はキリトに頷いた。
「キリト、この戦いでの私たちの役割、もう終わりのようですね」
「もうすこし遊んでいたかったな」
「集団戦だから引き際も肝心ですよ。私たちだけでHPの一段目、完全に削っちゃったんですから、経験値は誰よりも多く稼いだはずです」
「そうだな。どうせ戦いはこの先も長い。いくらでも倒すべき敵が待っている」
 先頭のD隊より威嚇の大声がとどろきはじめた。ちゃんとしたスキルで、ハウルという。ターゲットを集める効果があり、盾持ち壁役に推奨されるスキルだ。妖夢とキリトがイービルエルフに与えたダメージ総量はなかなかのものであったが、威嚇スキルも熟練度があるていど成長していたようだ。イービルエルフのヘイト値は無事にD隊へと移り、妖夢たちの頭上を越えて天井を這っていった。
「ねえキリト。本当はもっと自由に戦って、さっさと登りたかったのではありませんか?」
 もしまだフロントランナーの旅をつづけていれば、数時間前には第一〇層に登っていただろう。いまごろはすでにフィールドボスをぶっ潰し、迷宮区タワーの寸前に到達していたに違いない。
「いいさ、第一〇層の話は俺も盲点だった。強い仲間はもっと必要ってわけだな。みんなが強くなるには、経験が必要だろ? それにいまの俺にはヨウムがいる。焦る理由がない」
「ありがとう。そう言ってくれたら、私も助かりますし、うれしいわ」
 D隊へと突っ込んでいこうとしたボスであったが、寸前で魔理沙の投剣が頭にぶっ刺さり、情けない悲鳴をあげながら床に落ちた。そこにD隊が襲いかかった。あとからA・B・C隊もつづく。
 イービルエルフがガラスの星屑を散らすまで、妖夢とキリトはボス用の椅子で悪の支配者ごっこをしていた。キリトの悪ノリに女幹部役をやらされた妖夢は、恥じらいながらも彼氏のリクエストに応じてあげた。
「魔王キリトさま。勇者ディアベルめが、ロッククライム・ザ・イービルエルフを倒したよしにございます」
 でかい玉座に掛けたキリトが、大袈裟な手振りで勝利に沸くディアベルたちを指さした。青騎士にまさかの有言実行を許した魔理沙の顔がすこし青い。
「ふむ、ではつぎはどの魔人を差し向けようかな」
「第一〇層で宜しいかと」
「よし、それでは我らは先に第一〇層へゆくぞ」
 素に戻った妖夢が驚いた。
「およっ、女神のキスとか、見ていかないんですか? いい見せ物になりますよ」
「もしヨウムが指名されたらいやだ。だから逃げる」
 キリトの座る椅子の両脇から、冷たいスモークが立っていた。それが薄まると、第一〇層への階段が出現していた。
 玉座より飛び降りたキリトが、妖夢の手を引いて階段に向かう。
「大丈夫ですよキリト。ディアベルさんは間違いなく魔理沙を指名しますから」
「万が一ってこともあるだろ。それに俺はすこしでもヨウムとふたりきりで走っていたいんだよ。だって俺たち、フロントランナーだろ?」
 彼氏の不敵でわんぱくな笑顔に、彼女も柔らかい微笑みを返した。
「……強引な人ですね」
 ふたりは、またまた姿を眩ませた。
     *        *
 攻略隊がギルド群を編成して、さらに攻略組を組織する間、何日かの攻略猶予が生じる。
 その間に妖夢とキリトはたっぷりとデートに興じた。といっても遊ぶわけではなく、ふたりでいろんなクエストをハシゴするだけである。
 まず街開き前の第一〇層主街区ゴウガシャで、手始めにお遣いクエストをこなした。第一〇層は和風がテーマなので、妖夢としても江戸時代のような町並みを歩くのは新鮮だ。幻想郷よりもさらに古風なのである。単純なフラグ型クエストであったが、妖夢ははじめて自分で受けたクエストをおおはしゃぎで楽しんだ。ただ主街区に長くいすぎたせいでうっかり街開きより逃げ遅れ、またもやみょん握手サイン会をサービスする羽目となった。その間キリトは広場のはしっこにしゃがみこみ、寂しく小石を突っついていた。
 したがってあとはローブフードを被って行動することにした。もっとも妖夢とキリトはフロントランナーの名に恥じず、ほとんどいつも走っている。比較的小柄な男女コンビというのも人目につく。いくら隠そうとしても目立って仕方ないのであった。
 サイン会が一段落すると第三層に戻り、妖夢が断ってキリトが受けられなかったエルフ戦争のキャンペーンクエストに挑戦した。突端は濃霧ただよう森の奥で戦っている、ダークエルフのお姉さん騎士とフォレストエルフのお兄さん戦士。いずれかに加担すれば、勝っても負けてもそちら側のフラグが立つ。このキャンペーンは、闇のエルフと森のエルフとが争っているという設定で、人間族としてどちらかの陣営に関わっていくストーリー仕立てだ。
 妖夢とキリトはダークエルフを選び、黒銀乱舞をぶちかまして三秒で森エルフのお兄さんを倒した。第九層を楽勝に攻略するレベルで、第三層のクエストMobなど物の数ではない。キズメルと名乗ったお姉さんに従って、ダークエルフ族の宿営地に向かう。でも歩きだ。面倒くさい。時間がもどかしいのでふたりで走ると、キズメル姉さんがしっかり付いて、道を誘導してくれた。NPCだけどあるていど融通は利くみたいだ。
 ダークエルフの宿営地にはお風呂があったので、妖夢は気楽に拝借してリラックスした。キャンペーンの開始点なのでほかのプレイヤーもいるのかと妖夢は思っていたが、エルフのNPCばかりで妖夢とキリトしかいない。疑問をキリトに向けると「インスタンスマップだからだな」と返された。どうも条件分岐型のクエストではパーティーごとに別々の一時空間へ移動するという。たとえば黒エルフのお姉さんは、キリトがベータ時代に受けたときは、最初のあの戦闘でお兄さんエルフと相打ちになって死んでしまったらしい。だけど今回はフロントランナーが強すぎて生き延びた。キリトもあとはどうなるか知らないという。
 とりあえず面倒なのでキャンペーンをどんどん走りながら進めた。キズメルがNPCでありながらなぜかパーティーに加わっている。キャンペーン二番目および三番目のクエストはギルド結成クエストとダンジョンが重なっており、ネフィラ女王という巨大グモにキバオウたちが手こずってるところに出くわした。レベル的には圧倒してるはずだが、クモの特殊攻撃かなにかでなぜか苦戦している。この戦闘のせいで道をふさがれており、先に進めない。面倒なので後ろから黒銀乱舞で加勢し、一〇秒あまりで掃討した。すると耽美野郎クラディールがキズメル姉さんを見てデレデレして、妖夢にはかなり気色悪かった。「おおっ、我が麗しの方よ」――礼を言うクラディールがキズメルへ強引に握手した瞬間、紫色の六角形が発生してクラディールを吹き飛ばしてしまい、例のヒースクリフを除いてみんなで爆笑だ。こういう独特の保護機能はNPCの特性だ。
 キャンペーンクエストの第三層ぶんはその日のうちに消化した。キズメルのドラマはすこし感動した。キリトもモチベーションが上がって息巻いていた。
 キズメルとの会話で、浮遊城アインクラッドのなりたちもおぼろげに理解した。『大地切断』という呪われた大異変があり、以来エルフたちは魔法を失ったという。おかげでソードアート・オンラインの世界では魔法が基本使用できず、魔法の残り香を結晶という形に封印して使用するのだという。これでSAOの世界背景をなんとなく知ったのだが、妖夢にとっては正直いってどうでも良かった。キリトはキリトで壮大っぽい世界設定に浸っている様子だ。でも忘れてはいけないと妖夢は注意した。
「どうして機嫌を損ねてるんだい」
「けっして失念しないでください。この世界が茅場晶彦の妄執で出来てるということを」
 本物の異世界に暮らす妖夢にとって、SAOはどれだけ精巧に錬られようとも、しょせん蜃気楼にすぎないのだ。感情移入のしようがない。
「……そうだな。SAOの物語は俺たちこそが作ってるんだったな。ベータ時代でも希薄だった世界設定をふいに教えられて、すこし心を揺さぶられてしまっていた。アインクラッドの背景がどうなっていようと、俺たちにはなにも関係はしない」
 二四日は早朝四時には起き、まる一日をかけて第六層ぶんまでキャンペーンを攻略した。その間、層を飛び越えてずっとキズメルが付いてきて、便利な道案内役となり、時間短縮にずいぶんと寄与した。長期クエストはランダム要素も大きい。イベント発生位置や、キーアイテムを持っている敵の所在などが、範囲で指定される。いくらキリトが知っていようとも、キズメルのまじない技によるチート道案内にはかなわない。
 深夜になって第七層の黒エルフ族野営地に辿り着き、テントを借りて寝付いたが、なかなか見応えのあるドラマの数々にキリトがすっかり充実し、横になってすぐ熟睡してしまった。第四層はまだ良かったが、第五層・第六層と男の子向けすぎるストーリーがつづき、妖夢のほうはあまり共感できなかった。茅場晶彦の件も邪魔をしている。
「なによ自分ばかり楽しんじゃって」
 昨夜の注意は無駄に終わった。大河ドラマのようなものに引き込まれても仕方のない年齢だ。妖夢も好きなテレビドラマがあればお務めを早くに終わらせてしまうので、キリトのことをあまり責めることも出来ない。だが腹が立つのを抑えるのも無理だった。キズメルへ必要以上に感情移入している様子のキリトへ、軽く嫉妬しているのもある。何事に熱心すぎるのも考え物だった。こんなときは実際に生きてきた歳月の差が出てしまう。
 すこしむすっとしながら、妖夢はキリトのまぶたや鼻や耳や唇に洗濯ばさみを挟んで遊んだ。痛覚が遮断されてるから、寝てしまった人へのこういうイタズラは案外気付かれない。せいせいして、気持ちよく寝られた。
 このとき妖夢は重大なことを見落としていた。キリトとひとつ屋根の下どころか、隣り合って眠ってしまったことに。キリトも疲れと興奮から配慮さえできなかったようだ――翌朝になってキリトが目と鼻の先で寝ていることに気付き、いまさら乙女の悲鳴をあげてNPCの臨時仲間キズメルを呼んでしまう妖夢であった。
 妖夢の悲鳴で起こされたキリトは寝ぼけながらキズメルの脇を抜け、ふらふら顔を洗いに行き、水場でようやく「うおっ」と自分の異変に気付いた。
「ごっめ~~ん。まさか一晩中そのままだなんて思わなかったんですよ」
「……それよりも、どうするんだよこれ」
 キリトの耳やまぶた、鼻や唇に、腫れたような痕跡が残ってしまっていた。こんなどうでもいいところで妙な再現をする。妖夢は笑いを懸命に堪えながら、キリトの肩を叩いた。
「大丈夫! 私はキリトの顔面がたとえ一万個の洗濯ばさみに覆われても、あなたが好きですよ。ぷぷっ」
「……そんな笑いかけな、おめでたい顔で言われてもなぁ」
 基本が真面目な妖夢は、よほどストレスが溜まらないと、こういうイタズラはしない。そもそも仕掛けても成功した試しがほとんどなかった。だから上機嫌でこの日のキャンペーンはサクサク進み、午後に入ってすぐ第九層、岩山の町リュスドキアを統治するダークエルフの女王に謁見できた。三日目のゴール到達だ。おそらく最短記録だろう。ほとんど走りっぱなしのうえ、戦闘も開始と同時に黒銀乱舞の嵐で、瞬殺出血大サービスだった。
 第九層のテーマはいわずと知れたエルフそのものだ。森のフォレストエルフが主街区カレスに、岩場のダークエルフがリュスドキアに本拠地を構えている。両方とも第一〇層に届きそうなほどの巨木が目印で、第九層のどこからでも見える。その名を聖大樹。森エルフ側の聖大樹はカレス・オーの王城。黒エルフ側の聖大樹もリュスドキアの真横ににょきりと立っており、内部が王城となっていた。
 エルフ同士で争っているという設定だが、人間にもエルフにも無差別に牙を剥く悪のエルフが別にいて、そいつらが迷宮区タワーやダンジョンを支配していた。悪に堕ちたエルフは筋肉モリモリ、皮下脂肪でぶでぶとなる。数十人規模で戦うボスには過剰なほどの表面積が求められる。
 ダークエルフ――リュースラ王国の民を謎の『聖堂』とやらへ導いた功績により、妖夢とキリトは女王さまよりクイーンズ・ナイトソードを一本ずつ下賜された。贈与の演出は二回行われた。パーティー内で余計な軋轢やしこりが生じるのを防ぐためだろう。もっともこの剣は片手用直剣なので、妖夢には不要だ。直剣使い以外はほかの報酬も貰えるのだが、選択リストに曲刀がなかったので、妖夢はあえてナイトソードを受け取り、そのままキリトにプレゼントした。
 キリトの剣はこれで二本とも第一〇層以下で最強の片手用直剣に更新された。ベータ時代キャンペーンの終盤で失敗していたらしいキリト自身も、エルフキャンペーンクエの報酬が強力な直剣だとは知らなかったようで、それなりに感無量の様子だ。
「譲ってくれてありがとうヨウム。この剣なら五層ぶんは持ちそうだ。俺の戦いもずいぶんと楽になる」
「どういたしまして。でもうらやましいですね。片手直剣ばかり、強い銘刀にちゃんとした特別なイベントがあって」
「そりゃユーザーが一番多いからな。そのぶんどうしても優遇される」
「もっと私も頑張ります! 曲刀使いを増やして、新しい曲刀をカーディナルシステムに増殖させましょう!」
「おへそブレイカーみたいなのがジェネレートされたりして」
「まっさかあ」
 キズメルが王城の前まで見送ってくれた。思えばNPCにしては思わぬ付き合いになった。
「ありがとう人族の子らよ。カレス・オー王国との和議も成り、私の戦いはひとまず終わった。だがそなたらの戦いはまだ続くのであったな。すべての天柱の塔を繋げ、頂きの城に至って、なぜ大地切断が起きたのかを知るために」
 エルフの言う天柱の塔とは、迷宮区のことだ。
「どうもありがとうございました」
「俺こそ、ずいぶんと助かった」
 ただの暇つぶし、レベル上げのためだったが、ここは気持ちよく握手をして別れる。
「ヨウム、キリト、そなたらの試練は私よりもはるかに重く、険しい。ときには逃げたくなることもあるだろうが、道はひとつしかない。私は一介のエルフにすぎず、近衛騎士としての道理より外れたことは許されぬ。だから祈ることしか許されない。祈らせてくれ。いつの日か、そなたらに真なる栄光の勝利を!」
 手を振って別れると、門がゆっくりと閉じていく。重い音とともに締まると、もう開かなかった。
「……キズメルさん、まるで人間みたいでしたね」
「あそこまで人間に近いNPCなんて、初めて見た」
 おそらくプレイヤーと長期間の付き合いとなるからリソースを多めに割いてるのであろうが、不思議なものだった。
 そのあと第一〇層に戻ってアソウギの村で竜退治クエストを受け、森を散策していたときだった。
 敵とはすこし異なる気配を覚え、妖夢は走るその足を止めた。
「どうしたヨウム?」
「……ねえキリト、あの小さくてキラキラふさふさしてるの、まさか獲物のシャオチンロンなわけないですよね」
「まだ街道からたいして入ってないぞ。それに庄屋のおっさんが言ってたのは身の丈が家ほどもあるドラゴンだったから、違うな。色はおなじ青だけど」
「たしかに名前も、西洋風になんたらリドラですね……か~わい~~な~~。あーん、逃げちゃいました」
 ぴぃっと鳴くと、ばさばさ音を立てて、青い子は飛んでいった。サイズは魔理沙の帽子くらいだ。
「ノンアクティブ属性か。もしかしたらテイム用モンスターかもしれないな」
「テイム?」
「ほかのゲームにあるよな。なんとかテイマーとか、モンスター使いとか、そんなやつ。プレイヤーの味方になってくれるモンスターだよ」
「どうしてそう思うんですか?」
「SAOでこれまで見た小型モンスターは、みんな食材や素材アイテム用だっただろ? でもあのモンスターは、いきなり竜族で、デザインもボス並に凝ってたよな。たかが小型モンスターにあれほどのブランドと外見を与えるなら、その目的は人に見てもらうことに尽きる。簡単な推理だろ?」
「簡単じゃないです。私、RPGはまだまだ初心者ですよ」
「うーん、強すぎるヨウムといると、そういう基本的なことをどうも忘れがちになるな」
「あの青い子、どうにかしてお友達にできないでしょうか」
「お友達? 女の子ならそういう発想になるか。ノンアクティブ属性だから、たぶん餌付けでいいと思う」
「モンスターMobって食事をするんですか?」
「第一層に逆襲の雌牛ってクエストがあるんだけど、それが餌付けクエなんだ。それにNPCが食事をしてる風景を見たことがあるだろ? だからSAOのMobはものを食べる」
「なにが好物でしょうか~~。そういえばさっきの村の名物って落花生でしたね。ピーナッツ食べるかな?」
「ヨウムはやめておいたほうがいいぞ。俺たちはいつもボスとばかり戦ってるよな。あの大きさだとHPは三桁止まりだろうから、すぐ死なせてしまうのがオチだって」
「惜しいですね。ならせめて、ちゃんと大事に育ててくれそうな子に教えたほうが――あ、リズやシリカちゃんなら良さそう」
 ふたりは今後、大ボス戦への不参加が決まっている。ゲーム世界がいくら男女年齢の壁をなくすといっても、生まれて以来の歳月で構築された人格・気質はそう簡単に変えようがない。前線に人間の女性がほとんどいない理由である。アスナのように順応できる子は少なかった。
 その後シャオチンロンはあっさり狩れた。ただしそのドロップアイテムで大問題が発生した。
 偶然手に入れた新しい準レア曲刀スカンキング・ファルシオン。その解説文の末端に、なんと……
「いやー! おならボンバーなんて、いやー!」
 だけど武器の格はおへそブレイカー以上。レア武器の重量比性能はNPC店売りよりずっと良い。素早い連続攻撃を売りとする妖夢にとって、重さの割に性能が高い装備こそが必要なものだ。黙って使うしかなかった。おならボンバーを。
 ……ほんの数時間前に言ったキリトの冗談が、本当のことになってしまった。
 さすがの彼氏も、この件で彼女をからかう自殺行為はしなかった。
 帰路、おならボンバーを忘れたい勢いでメッセージを打った妖夢は、青いリドラの情報をフレンドに送った。リズベットやシリカとは登録していなかったので、対象はアスナである。アスナは新任とはいえ参謀なので、攻略隊のリーダー職全員とフレンド登録を交わしていた。フレンドやギルドメンバーでない者同士は、おなじ層にいないとメッセージのやりとりが出来ない。
 庄屋から礼金を受け取ったタイミングで、情報屋のアルゴより妖夢にフレンドメッセージが届き、面白いクエストを教えられた。
 第二層でエクストラスキルの『体術』を覚えられるという。暇つぶしにもってこいだろうと。
 連続攻撃でマーシャルアーツを挟む妖夢にとって、あったほうが嬉しいスキルだ。ソードスキルにはダメージボーナスがあり、無条件で一撃の威力が上昇する。ならば体術スキルを使って、すこしでもダメージを上乗せしたほうが良い。ソードスキルの硬直は長いが、にとりと輝夜がキャンセル技の研究をしている。硬直をぶった切る方法なんかあとで探せばいい。まずは実際に覚えてみることだ。
 その修行に、なんとキリトも付き合うという。
「あなたって、格闘は使ってないですよね」
「どうしても連携の接続が間に合わなくて、たまに蹴りでも入れたい場面がある。攻撃の幅は広いほうがいいと思ってね。それにヨウムと一緒にいたいのもあるかな」
 ……格好よさげに言ってはみたものの、キリトは自分のポーズ付けを後悔することになった。
「鼠のアルゴの秘密、これだったのか」
 体術スキルは素手による岩石割りクエストで得られるのだが、その修行に際し、弟子の証として、NPCの体術マスターが顔におひげを描いてしまうのだ。もちろん自分で消すことはできない。スキルを得れば消してくれる。
 慌てて魔理沙と連絡を取った妖夢であった。アルゴのヒゲは第一層ですでに描かれていたらしいので、アルゴがこの目に遭ったのはベータ時代だけだろう。キャラ立ちが情報屋プレイに有利に働くので、そのまま自分のトレードマークとして、正式サービス版でも自分でペイントして継承してしまったのだ。アルゴのメッセージには『修行する姿を彼氏に見せるなよ?』と警告があったような気がする。そのキリトも「ベータ時代にアルゴのヒゲをもっとからかっておけば良かった!」とか無為なことを言って凹んでいる。
 だがいま、妖夢もキリトも仲良くおヒゲ面だ。お互いひとしきりに笑い合ったあと、黙々と修行に励んだ。すでにあるていど筋力値が上昇していたこともあって、岩は一昼夜で壊れてくれた。筋力値が高いぶん、キリトの岩のほうが三〇分ほど早く割れた。長時間の単純作業であったが、仲良しカップルの利を活かし、お互いを励ましたり、言葉のキャッチボールをつづけることで乗り切れた。だがこれをほかの人が、かつ筋力値の低い状態であれば、どれだけの忍耐が求められるか。たとえばアルゴはレベル七で三日三晩叩いても壊せなかったらしい。ベータのアルゴみたいに消えぬおひげを描いたままで空しくさまようプレイヤーが何人も出そうだった――もっとも別の情報屋が発行したスキルリファレンスに、この体術スキルはまだ載っていない。アルゴも発表の時期を図っているようだった。
 アルゴよりメッセージで修行期間を聞かれ、妖夢は『休憩・睡眠を除いて一四時間』と返信した。ていの良いモニターとして利用されたようであるが、キリトとの面白い思い出が増えたので腹は立たなかった。体術スキル公開時期について探りを入れたら『二〇層が攻略されるくらいまでは、明かさないほうがマシそーだ』と返ってきた。妖夢は複雑な気分だった――人から恨まれるのがイヤなくせに、私ならいいのか? たしかにレベルが上昇するほどにこの岩はより短時間で破壊できるようになるだろう。二〇層を抜くころには、かなり多くの人がいまの妖夢やキリトのレベルに到達しているはずだ。
 第七層のテントにつづき、妖夢とキリトは二晩つづけてほとんど並ぶように眠るという貴重な経験もした。もっともこの第二層の修行場は寝袋だったし、意識して一メートルは離したので、必要以上に緊張する事態にはならなかった。
 あとは第一〇層で二件ほど殲滅型クエストをこなして経験値を稼ぎ、日が沈んでから攻略隊へと合流した。
     *        *
 魔理沙より指定されたゴウガシャの旅籠(はたご)に入った瞬間、妖夢の目が、自分より小柄な少女の頭上に固定された。
 そこにはまるで帽子のような自然さで鎮座する、しかしふさふさな羽根をせわしなく動かしている生き物。例の青い子だった。
 とたん妖夢は無表情となり――二本伸びた青い子の尾羽がぴんと揺れる――それを見たとたん、相好が崩れた。まるで犬や猫でもかわいがるような、とろけた目で。
「……か、カワイイ~~~! なんですかこれー! 近くで見るとちが~~う!」
「あ、みょんさん!」
 振り返ったのはシリカだ。シリカの頭に、青いなんたらリドラが乗っている。とても良く似合っていた。
「フェザーリドラの情報、ありがとうございます。この子はピナって名付けました」
 シリカがいきなりフェザーリドラとやらのテイムに成功していて、旅籠一階の食堂でちょっとした祝賀会となっていた。攻略隊のほとんど全員が集まっている。
 妖夢の右手が伸び、五本の指がわさわさと動いている。
「さ、触っていいです? シリカちゃん」
「ええもちろん。どうぞどうぞ」
 フェザーリドラは竜のくせに全身が羽毛と羽根で覆われている。まるで鳥のようだ。
 感触や肌触りは基本まるっきり鳥なので、もちろん柔らかい。ふわふわだ。ドラゴンらしく目は鋭いが、瞳のほうはつぶらでまるでインコのよう。顔も丸くて仔犬みたい。
「……う~~、カワイイ可愛いかわいい! お持ち帰りした~い。ねえシリカちゃん。この子のHPってどのくらいですか」
「えーと、五五〇ですね。パラメーターは私のレベルと連動するみたいです」
「あうあうあ、少なすぎます……」
 この瞬間、妖夢の望みは砕かれた。シリカで五五〇なら、妖夢でも七〇〇から八〇〇といったところだろう。プレイヤーのレベルで換算すれば、わずか三から四だ。前線の迷宮区へ連れて行ったら、確実に一撃で死ぬ。
「こうして間近で見ると、おそろしく女受けを狙ったデザインだな。最前線では役立たずのHPといい、SAOをできるだけ一人でも多くの女子に楽しくプレイしてもらいたいって、制作者の執念が伝わってきそうだ」
 キリトの評は妖夢も納得できた。こんなふさふさなデザインの子がこれから先もいるのなら、もっと見てみたい。おかしな楽しみが増えた。
「とりあえずピナに関しては、こうしてシリカちゃんが無事に確保してくれましたので、いつでも愛でることが出来ます! うん」
「私、また運がなかった~~」
 シリカの隣で、そばかすキュートな少女が黄昏れていた。リズベットだ。
 話を聞くと、ピナの争奪はリズベットとシリカ、同時に行ったそうだ。
 シリカがテイムに使ったアイテムは、アスナの作ったナッツクッキーだった。妖夢の予想通り、ピーナッツが鍵だったようである。リズベットは輝夜の用意した鹿せんべいで挑んだそうだが、読みを外したため、軍配はシリカにあがった。基本ファンタジー世界なのにせんべいを料理できる理由は謎だ。もっともこの第一〇層やカタナスキルのように、SAOには日本的なものがけっこう混じっている。
 諦めきれないリズベットはさらに二時間ほど森を探し回ったそうだが、一度出現すれば次がなかなかリポップしないレアモンスターだったらしく、最後はシャオチンロンに追われて森より逃げだした。
「私って不幸がお似合いなのよ~~」
「そんなことないですよリズさん。私はたまたまです」
「ねえシリカ、ピナ、もっとハグハグさせて」
「待ちなさいリズ。順番を抜かしてはいけませんよ」
「……あ、すいませんユカリさん」
 みんな――というより、もっぱら女子のアイドル、ピナ。シリカの周囲には女性陣が集まっており、何度も何度もくりかえしピナを可愛がっている。紫や文はついでにシリカも可愛がっていた。アルゴも口を半開きさせたゆるみ笑顔でピナを見つめている。妖夢が順番を抜かしてピナを可愛がることができたのは、ふわふわフェザーリドラの情報提供者だったからだ。
 妖夢の興味はアスナに移った。クッキーが気になる。
「アスナさんって、ルナーとおなじで、料理スキルを育ててたんですね」
「みょんちゃんもどう? まさかドラゴンを釣れるとは思わなかったけど、ちょっとした自信作よ」
 はじめて会ったときアスナは「みょんさん」と呼んでいたが、妖夢のどこか抜けた性格もあって、数回話しただけで「みょんちゃん」になった。アスナと妖夢には身長差もあり、ちゃん付けでも別におかしくはない。フロントランナーと会う人はたいていまず憧れや緊張で接するものだが、肝心の妖夢がキリトとすぐバカっぽい掛け合い話をするうえ、幻想郷の少女もいじくるものだから、思い込みのカリスマなどあっというまに溶けてしまう。
「これがピナを魅了したアスナのクッキー……」
 差し出された皿に盛られたクッキーが三枚、ピーナッツのほどよい香りを放っている。
 すこしでもピナ成分を摂取したい妖夢がクッキーを頂戴しようとした瞬間、背後より伸びた黒い袖が、無慈悲にもかっ攫っていった。クッキーを根こそぎ三枚、まるごとぜんぶ。
 もぐもぐと咀嚼する音。いまの妖夢にはこの世の終わりにも似た音響だ。
「うむ、なかなかいける」
「キ、キリト!」
「あら……キリト君、やっちゃったわね。それ、最後よ」
「……え?」
「ここ圏内よね、うふふふふふ。死ぬような目だけじゃなくて、うっかり成仏しそうになるくらいの覚悟をしていただきましょうか」
 妖夢が二刀を抜く。おならボンバー&おへそブレイカーの白刃が不気味に光っている。
「ちょっと待てヨウム。また作ってもらったらいいだろ。データなんだから、いくらでも再現できる」
「違います。ピナをテイムしたクッキーは、キリトがいま食べちゃったクッキーなんですよ。キリトが私を救ってくれたアニールブレードを残しているのと、おなじです」
「乙女心の理解が足りないわね。食べ物の恨みは恐ろしいのよ? キリト君、おたっしゃで~~」
 手を振って歩き去っていくアスナを、呆然と見送るキリト。
「なあヨウム、明日なんでも好きなものを――」
成仏得脱斬(じょうぶつとくだつざん)!」
 黒い人型が天井にべたんと貼り付いた。
 本来なら巨大な剣気の柱が立つ地対空技であるが、もちろんSAOなので再現されない。斬り方だけ真似て、最後に思いっきり真上へ放り投げただけだ。二刀なら箸のようにアバターを挟むこともできる。
 爆笑で空間が満ちた。
 その余興を小宴の片隅より見ている男。
 徳利(とっくり)とお猪口(ちょこ)でひとり寂しく飲んでいるヒースクリフ。彼の閑かなる視線を背に受け、妖夢はすこしプレッシャーに感じていた。
 もし魔理沙や紫の禁止令がなければ、妖夢はとっくにヒースクリフに問い詰めていただろう。「あなたは茅場か」と。そのような直情さが妖夢の剣のまっすぐさでもあったはずだが、いまは珍しく自重している。そもそもヒースクリフが怪しいと気付いたのは射命丸文であり、可能性を示したのは八雲紫だ。両者とも一〇〇〇年以上を生きる大妖怪。冒険と初恋にうつつを抜かして、若い妖夢は想像すらしなかった。
 いかなSAOでは最強といっても、妖夢はしょせん未熟者。智慧における年季と格の差をこれでもかと見せ付けられては、大人しく従うしかなく――この数日、結局キリトと楽しく遊んでいた。これまで通りと同じである。経験値もがっぽり稼ぎ、レベルは二四になってしまった。ふたりにつづくのは犬走椛のレベル二一がやっとで、攻略隊に追いつかせるどころか引き離したままだった。
     *        *
 翌朝。
 ――二〇二二年一一月二七日、午前八時半。
 文々。新聞の最新号が配布される。内容は攻略組の結成発表であった。
 初期メンバーは五つのギルドで構成される。
 攻略ギルド、聖竜連合(せいりゅうれんごう)。騎士長ディアベル。
 攻略ギルド、風林火山。ギルドリーダー・クライン。
 攻略ギルド、血盟騎士団(けつめいきしだん)。団長ヒースクリフ。
 支援ギルド、マスタースパーク。ギルドマスター・マリサ。
 支援ギルド、マイスター組。ギルドマイスター・エギル。
 初代攻略指揮官ディアベル、初代サポートリーダー・マリサ。
 紙上では大々的に人材募集をかけた。我こそはと思わん者は来たれ、攻略組に。皆で力を合わせ、浮遊城アインクラッドを登り、第一〇〇層まで到達しよう! ギルド単位やソロでの参加も歓迎する。
 攻略ギルド群はもっぱら攻略戦へと参加し、攻略指揮官への立候補権および選挙権を持つ。別にギルドに所属する義務はなく、ただのパーティーでも、ソロやコンビでも基本は攻略人員としてカウントされ、権利も付いてくる。初期攻略ギルドの中で風林火山は当面の間、募集をかけない。フロントランナーが加わって、戦力の均衡を崩しているからだ。攻略指揮官の任期は半年と規定されたが、それだけあればほとんど第一〇〇層まで登り切ってしまうだろう。ディアベルは事実上の総司令官であった。ただし責任問題や不信任があがれば、多数決によって任期途中でも解任される。
 支援ギルドはエギル以外、全員が女性で構成されている。攻略ギルドメンバーが面倒がる運営や事務の一切を取り仕切る。選挙権は持っているが立候補権は持たない。マスタースパークはボス攻略戦へと直接参加し、作戦の素案、参謀役、POT配布、広報といった仕事に従事する。攻略組における事実上の頭脳集団だ。マイスター組はあまりボス攻略戦には出てこないが、武具の手入れや生産、レアアイテムおよび素材アイテムの流通、会計や事務など、地味だが大切な仕事をになう。支援リーダー魔理沙の任期は無期限だが、なにか不正や問題が起きれば投票で信を問うとされた。
 幻想郷クラスタ一〇人のうち、攻略ギルドには妖夢・輝夜・てゐの三人が所属した。あとの七人は支援ギルドである。紫が連れていた人間の女子は、全員が支援ギルドに加わった。ついでにアルゴも放り込まれている。
 ――新聞の反響は、それはそれは、凄まじいものであった。
     *        *
 今日は二匹いたサムライ型のフィールドボスを楽々と倒し、迷宮区寸前の城下町ナユタ。
 夕飯後、旅籠の一室に、また一〇人の人妖が集まっていた。おまけでアルゴ。
 魔理沙が頭を抱えて、新聞の表面を叩いた。
「やはり何回読んでも画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くな。キバオウ……下克上を許すとは人望なさすぎるぜ。だいたいこのアバター名からダメだ。自分のことを王様だぞ?」
 攻略組の発足はうまく行ったかのように思えたが、ヒースクリフ突然の台頭だけはこたえた。魔理沙をはじめ幻想郷の面々は、まさに虚を突かれた思いだった。攻略専門ギルドの一角をいきなり握られたからである。もし順調に運んでいれば、いまごろキバオウをマスターとするアインクラッド解放隊が、三番目の攻略ギルドとして名を連ねていたはずだった。ところが「名付けを攻略対象に頼るのは、まるで反政府軍や反体制ゲリラみたいで、縁起が悪いとは思わないかね」と難癖をつけたヒースクリフが、雌伏のベールを脱ぎ捨てたのであった。
「ヒースクリフのやつ、ギルド名の揉め事をそのままリーダー変更にすり替えやがったんだぜ。キバオウがパーティー解散の意志を見せたとき、すかさずサブマスを提案したらしい。いつのまにかヒースクリフがリーダー、ギルマスってことになっていた。クラディールとゴドフリーはすでに手懐けられていて、コーバッツもキバオウと抜けようとしていたから、いまさら指摘して突っ込むような雰囲気にもならなかったんだ。エギルの移籍も予想していたようだし、人物観察に優れている。できた策士だな」
 紫が魔理沙をなだめた。
「大丈夫よ。キバオウはあの性格だから、ギルマス職へ未練を残しているはずよ。そこを利用して、内部から切り崩してやるわ」
「そもそもどうしてヒースクリフはキバオウを残したんだ? 要らんだろ」
「組織拡大と外聞のためかしら。ああ見えてキバオウの人を集める力はなかなかのものよ。もしアイクラッド解放隊を組織させたら、たちまち数十人は集まりそうね。そのスカウトパワーを手元に確保しておきたいと思うでしょう。外聞はこれから参加したい人へ向けた対外アピールね。誕生から分裂を経験しているギルドなんて、入りたがる人はどれだけいるかしら? 私なら迷わず聖竜連合の門を叩くわ」
 聖竜連合は今日の昼間だけですでに参加希望者二〇人近くを数えており、ディアベルは上機嫌であった。
「キバオウは意外に出来るヤツなんだよな。バカだけど。もっとも実際に血盟騎士団に仕掛けるとしても、ヒースクリフが茅場かどうかを見定めてからだけどな。憶測に推測を重ねても仕方がない。文、ヒースクリフはどうだ? やはり黒と思うか?」
 メモをチェックしながら、文が頷く。
「……はい。彼は、限りなく黒でしょう。ヒースクリフは私の中ではすでに、イコール茅場晶彦です」
 この肯定は劇的な威力を持っていて、部屋の空気が引き締まった。気温が一度に数度下がったような気がして、妖夢も思わず身震いをすると同時に息を呑んでしまった。
 文の分析は十数項目に渡っており、心理学的な専門用語までビシバシ飛び出した。妖夢は文がなにを言っているのかろくに理解できなかったが、博識な紫は文とまともに会話をかわし、文の思い込みと思われる部分や、細部についてどんどん指摘し、分析内容をより妥当なものへと収斂させていった。
 妖夢にも理解できたのは、キリトとデート三昧していた間に行われた地味な調査だった。まずキバオウパーティーの内輪揉めを利用した時間差就寝。キバオウとコーバッツが今後どうするべきか、魔理沙とディアベルに相談した、その話を深夜まで引き延ばさせて、最中に例のログアウト現象を確認した。これでキバオウ派は白となった。つづけてリーダー職の懇親会。新リーダー・ヒースクリフと別行動を取ることになったゴドフリーとクラディールに、聖竜連合の輝夜とリンド、風林火山のデールとダイナムが、酒盛りを持ちかけた。言い出しっぺの輝夜が真っ先に寝てしまったが、無事に盛り上がった宴会は翌二時までつづき、その最中に紫がログアウトを確認。これで茅場候補はヒースクリフに絞られた。ただ残念ながら、ヒースクリフを深夜まで起こす工作はいまのところ成功していない。強引に仕掛けると不自然なので、ちゃんとしたきっかけを探しているところだ。
 現在のところの決定打は、第九層フロアボス攻略戦のおり、ディアベルがアンチ茅場の号令をかけたときの反応らしかった。
 あのときヒースクリフはほとんど無表情に見えたが、動揺や戸惑いの際かすかに震える表情筋の動きを、文がはっきりと視認したという。椛が写した写真をもとに、ほかの男との対比もされた。結果、ヒースクリフ以外の男性は全員、ていどの大小はあったものの、怒りや興奮を感じたときに見せる表情の変化を確認できたらしい。妖夢も写真を見せてもらったが、わかりやすいクラインなどはいいとして、キリトのように表情をあまり変えない人は、どこが怒ってる特徴なのか、はっきりとはわからなかった。たかが数十年の生では、一〇〇〇年を越える文にかなうわけがない。紫・輝夜・てゐなど、ほかの超長寿グループも文の見解を是認したので、正しい鑑定とされた。写真にあるヒースクリフの表情は、妖夢にはどう見てもただの無表情であったが、内心の焦りで固まっているらしかった。これも妖夢には識別不能だった。
 妖夢はさすがにこれでは負けっ放しだと思い、自分とおなじく実活動時間が一〇〇年未満の魔理沙・布都・アルゴに聞いてみたが、魔理沙と布都は妖夢と同様に釈然としきれていなかった。やはりとんでもない長期間を生きないと、とても見えてこない幽幻の領域があるようだった。アルゴは「あなたたちですら分からないのニ、あ、あたいに聞かないでヨ! ただの根暗な高校生なんだかラ!」と、ロールプレイを忘れた素で怒っていた。どうも紫や文に圧倒されっぱなしで、情報屋としての自信にヒビが入っているらしい。リアルの一人称はあたいか……バカで有名なチルノと一緒とは、皮肉だ。
 いずれにせよ結果が下され、ひとつの結論に達した。
『今後ヒースクリフを茅場晶彦と見なして動く』
 茅場晶彦をどう攻略するかが話し合われた。
 結果として、現状では危険が高いと判断された。たとえば茅場晶彦のGM権限行使手段が、左手メニュー以外にもある可能性だ。条件によって発動するオーバーアシストみたいなものが設定されていたら、どんな手を使っても拘束はできないだろう。危険を冒してプレイヤーとして参加している以上、ヒースクリフが普通であるとは限らなかった。逃げられてしまえば、あとは第一〇〇層までこつこつ登坂してゆく以外、手はなくなる。
 さらに恐ろしい可能性も考えられた。ヒースクリフが不慮で死ねば、それと同時に世界が崩壊し、全プレイヤーを道連れとする地獄仕様である。茅場がデスゲームを始めた経緯を考えれば、十分にありえることだった。いかに茅場が公平なGMたらんと欲しても、土壇場では話が変わってくる。安易にして究極の手段、ヒースクリフ暗殺などもってのほかである。ただ、絶対に死なない――たとえば破壊不能オブジェクト指定がされていれば、それを根拠に責めることもできるだろう。だからといって賭けへ出るには分が悪い。九〇〇〇人以上の命が掛かっているからだ。
 つまり観察を継続し、情報を蓄積してゆくことが第一と考えられた。妖夢であれば抑えがなければすぐにでもヒースクリフにデュエルを申し込むところであるが、議論を主導する八雲紫は一五〇〇年近くも生きてきた超長寿妖怪である。慎重すぎて臆病にすら見えてくる選択だが、そういう性質であるからこそ、ここまで長期間、生存できたのである。
 ヒースクリフ攻略に関しては、輝夜がヒントをくれた。
「外の世界では日本中の頭脳が束になって解決を試みているでしょうけど、誰もこのデスゲームをどうにもできない。社会人としての茅場晶彦は隙のない天才よ。でも趣味人としての彼は、ひとりのゲーマーでもあるわ。私は自分がゲーマーだから、彼の気持ちはあるていど、わかってるつもりよ。そこに彼をどうにかする糸口があるわね」
 紫が扇子を広げて、輝夜を褒めた。
「……なるほど、さすが輝夜。茅場の数少ない失態はたしかに、ゲーマーゆえのものね。文の分析を借りるけど、妖夢が第一層のフィールドボスをあっというまに全滅させたとき、ヒースクリフは不自然なパーティー参加でトールバーナを目指してきた。おかげで私たちは茅場晶彦とヒースクリフの相関に気付くことができた」
「そうよ紫。ヒースクリフがシステム的にどのような隠し球を持っているか知れない以上、あくまでもゲーム上の話し合いへと持っていくべきね。そのネタは、出来うる限りルールに則った範囲の事象であることが望ましいわ。なぜならばヒースクリフはあくまでもヒースクリフであって、茅場晶彦ではないからよ」
 魔理沙がうなる。
「ロールプレイングか……その範疇でヒースクリフの正体を暴いて、証拠を見せつけ、たとえばプレイヤー全員解放を賭けた限定解除のデュエルに持ち込んだりするわけだな。その際、私たちが本物の異世界に暮らしているってアドバンテージも色々と生かせそうだな」
 紫も頷く。
「状況に応じて幻想郷の情報を提供するのも作戦としてはアリね。ヒースクリフはログアウトすればただの茅場晶彦に戻るわ。現実の彼であれば、いくらでも幻想郷についてリサーチも出来るでしょう。ただね、茅場側に圧倒的なGM権限がある以上、最終的に私たちが勝つには、茅場に私たちを認めさせ、心より納得させるよう仕向けるしかないわ」
 全員が黙り込んだ。
 まさに難題である。幻想郷の一〇人は能力の大半を喪失してしまっている。これまでは手詰まれば力任せに暴ればいいだけ、勝てば幸い、負けたら降参して愛らしさを武器に許しを請うだけ。そうやって生き延びてきた。自分に甘いので、ついでに他者へも意外と甘くなる。暗黙のルールが通用しない相手は、皆で力を合わせて排除してきた。そうやって寄り添っていつのまにか成立したのが、幻想郷と独自の秩序だ。見目麗しきお気楽でお人好しな集団である。頭脳戦・情報戦など本来、苦手なほうなのだ。一〇人の中でもっとも頭の良い紫はきわめて慎重なので、すこしでも懸念があれば動くのを禁止する。したがって手はいくらでも思いつくが、話し合いは堂々巡りだ。
 力を失っているだけに、これまでの力任せだった方法論が通用しない。慣れていないだけに、人間のように思い切りよく賭けへ出る冒険もやりづらい。デスゲーム当初、妖夢が大胆に動き回っていられたのは、剣術という力があったからだ。力なくして、幻想郷の法理をこの世界に適用することは叶わない。
 何分か経って、紫が重そうに口を開いた。
「……とにかく、茅場と勝負をかけた話し合いへと持って行くには、私たちの慧眼レベルではなく、チルノのミニマム脳でも理解できるような、明確な証拠を示してやることが肝要なのよ。左手メニューを公衆の面前で使用させるといったね。そういった機会のひとつが、まもなくやってくるわ。ただこれを経れば私たちの存在も茅場晶彦や日本政府に露見するでしょう。彼らがどう動いてくるか、面白いことになりそうね」
 魔理沙が呆れた顔を紫に向けた。
「スキマ、そういう大事なことは勿体ぶらず、先に言ってくれないか」
「話には順序ってものがあるのよ」
 紫の説明は数分かかった。
「全プレイヤーの、病院への移送……九〇〇〇人以上だぜ? 可能なのか、そんなことが」
「魔理沙、外で暮らしたことのないあなたは幻想郷の常識に囚われてるわ。政府という巨大組織にはお手の物ね。いつまでも一般家庭のベッドで寝かせるわけにもいかないでしょう? 人間は妖怪と違って新陳代謝がものすごく早いわ。毎日排泄して、毎日栄養を取って、定期的に体の汚れを拭いたりマッサージで刺激を与えないと、たちまち死んでしまうんだから」
「そういえば魔女化した私はその気になれば一ヶ月ていど飲まず食わずで研究に没頭しても平気だぜ。その間はトイレにすら行かないな。逆に暴飲暴食もやりたいほうだいだし、いいよな人妖の体って」
「一ヶ月どころか、寝たきりなら半年でも一年でも平気なはずよ。マッサージも覚醒後のリハビリも不要だわ」
 妖夢には、問題の本質が見えない。手をあげて素朴な質問だ。
「人間たちを病院へ移す事態が起きたとして、それをどう茅場の正体見破りに利用するんですか?」
「手はいくつか考えているわ。そのときの状況で採用する作戦が大きく変わってくるから、まあ楽しみにしておきなさい。もっとも妖夢はたぶん、ただの役立たずになるわね。あなたの可愛いキリトも一時、意識の繋がらない死体のような姿になってしまうわけだから」
 瞬時にして凍えるような恐怖と身震いを覚え、妖夢は痛感した。なるほど、おそらく理性が吹っ飛ぶだろう。頭でわかっていても体が言うことを聞かない場面を、妖夢はキリトとの恋愛で幾度か体験してきた。恋という状態は人を強くもし、弱くもする。
 てゐが手を元気にあげた。
「どうして私たちの存在に茅場や日本が気付くんだい?」
「日本人の特質に関わってくるからよ。優秀な人に多いけど、完璧主義という凝り性ね。どれだけ探しても居場所が不明な一〇人。対策を任された官僚たちはどう思うかしら? ――また、これもひとつの予想で、私は確信しているけれど、茅場晶彦はおそらくプレイヤー移送に際し、全プレイヤーのリアル位置データを政府に渡すと思うの。それがたとえ歴史に残る大犯罪者に堕ちたとしても、つい従ってしまう常識……日本人の良心というものの奥深さよ。案じるならさっさと解放すればいいのに、絶対に行わない。だけど体の健康を確保するための手段は万全に講じさせる。ゲーム継続を優先してのこととはいえ、おかしなものね」
 これが意味する重さに、全員が沈黙する。
 布都が震え声で言った。
「されば我も、さとり殿も、紫殿も……全員、茅場の変態に、ヘビのように、にらまれるであるな。我はまるでカエルのようぞ」
 さすがのアホの子も悟ったようだった。
「ええそうよ布都。茅場晶彦がGMにふさわしい平等精神で個人情報を覗いてこなかったとしても、来る移送に際しては、どうしても私たちに気付くわ。九三〇〇人以上だから、もしツールがなければ、データをきちんとまとめるにも時間がかかるわよね。だから作業はとっくに行っていて、すでに私たちに気付いている可能性も十分に高いわ。このタイミングでキバオウを下克上してきたのも、案外それが理由だとして、私は驚かないわね」
 扇子を開いて、自分の汗を飛ばす紫であった。
 お互いに何者か、確実には知らない。幻想郷側はヒースクリフを当面の仮想敵として見えない闘争を仕掛けようとしている。茅場側も色々と動いてくるだろう。まさに虚々実々で鉄砲の撃ち合いだ。
「私のせいで長野県までは特定されてるわよね……大丈夫かしら」
 妖夢の心配はもっともだ。秋葉原で、インタビューに長野から来たと返答してしまった。それを受け、妖夢とリア友は全員が長野在住と思われている。
 幻想郷は八ヶ岳連峰の長野県側にひっそりと広がっている。博麗大結界によって人間はもちろんどのような観測機械にも認識すら出来ないし、飛行機で上空を飛ぶことも、森を分け入って立ち入ることすら叶わないが、たしかにそこに存在しているのだ。常識と非常識を分ける見えない結界とは、まるで量子論のように難解なものだ。常識的に考えている限り、幻想郷に近づくことすらできない。だが――痕跡より辿れば別である。
「妖夢に関係なく、IPアドレスからあるていど地域も絞られるわ。八ヶ岳へ延びたケーブルを結界外から途中で切られれば、もう終わりよ。一〇人はまとめてゲームオーバーとなるわ。また日本政府がオカルト的なものに気づき、本物の退魔師を呼んでくれば、幻想郷へ赴くことすら、可能でしょうね。妖怪の山にあるほころびは、博麗大結界(はくれいだいけっかい)とは別のものだから、結界としての難易度は低いのよ。幸いなのは、八ヶ岳連峰が広大なことね。南北三〇キロメートル……しかもパワースポットだらけだから、プロにも簡単には見つけられないわ」
 古明地さとりがつづけた。
「つまり敵は茅場晶彦だけでなくなってしまう。日本という国家そのものが、日本人の完璧主義と、国の威信にかけて、行方不明の一〇人を全力で捜索する……そういうことですね」
 輝夜も懸念をのべた。
「幻想郷には里の人間が住んでいるわよね。その人たちを見つけてしまったら、日本政府は必ず『救おう』とするでしょうよ。どのような状態であろうが関係ないわ。日本語を話す集団がいて、どう見ても日本人で、その人たちが現代日本よりもずいぶんと遅れた生活を送っている。それだけで憐憫と義憤を盛りあげるには十分よ。里の人間を囲っている私たち妖怪を知れば、きっと許せないでしょうね。しかし妖怪が存在するためには、どうしても人間が必要なのよ――里の人間は、博麗の巫女が妖怪を黙らせるのに必要な役職だと思い込まされている。でも本当は、巫女の存在に頼っているのは私たちモノノケのほうよね。そのくらい外の人間ならすぐ気付くでしょう。本当に詐欺だわ」
 純粋妖怪は人間に信じてもらっていないと存在できない。天狗や河童のようにメジャーゆえ消滅の危機とは無縁の安定種族もいるが、マイナーな種族には外界で完全に忘れ去られた子もいる。そのような弱い妖怪が生きつづけるために、幻想郷には人間の住人が不可欠なのだ。たとえば冬の妖怪レティ・ホワイトロックや蛍の妖怪リグル・ナイトバグは、かなり力の弱い子だ。しかも西洋生まれのため、もはや幻想郷でしか生きられない。外の開放された空間では、信心は分散してしまう。結界で完全にくるまれ、面積も狭い幻想郷であるからこそ、少数の認識でも大きな影響を妖怪に与えてくれるのである。
 紫が天井を仰ぎ見た。
「私がいますぐわざとゲームオーバーになって現実へ戻り、スキマ能力を最大限に使えば、少なくとも幻想郷のあなたたちと、さらに幻想郷そのものを救うことが可能よ。でもそれは、私にとって敗北も同然ね。アルゴをはじめとして、大勢の仲間を残していってしまう。いかに私の能力が強力でも、日本中に散らばっている人間たちを解放して廻るなんて、効率が悪すぎて不可能よ。数が多すぎるわ。それに時間をかけてるうちに、茅場が残った人をどう扱うかが問題になるわね。一斉に殺すと脅されたら、解放を中断するしかなくなる。茅場の居場所を突き止めてやっつける手もあるけど、日本中の警察から逃げ仰せている隠蔽の達人を、はたして八雲家だけで追い切れるのかしら。不確定要素が多くて困るわね」
 犬走椛が手をあげた。
「私たちの解放は、攻略組の人から見ればゲームオーバー……死んだのと同じようにしか見えないはずです。若いみそらで綺麗な女の子が幾人も死んでしまった――英雄願望の強い前線の男たちにとって、これはとてもショッキングなことですよ。どれだけの悪影響が残された彼らに生じるかわかりません。ヒースクリフはそこにつけ込むでしょう。あとは茅場の思い通りです」
 てゐがウサ耳を立ててみんなの中心へと乱入した。
「シャラップ! 私たちがこれ以上、外のことを話し合っても、無理だし無茶だよ。どうしようもない。私のお師匠様みたいに全体を見通せる人が何人もいるんだから、幻想郷の守りはほかの人たちに任せて、いまはSAOと茅場に専念しようよ。私たちは人間に関わりすぎた。だから責任を持って、いっしょにこの世界で戦うしかないじゃない」
 てゐの発言はもっともであった。対策のしようがない。月の謎技術によって能力を使える輝夜とてゐも、システム内で再現できる限定的な使い方に限られる。幻想郷の強さをかろうじて維持しているのは魂魄妖夢くらいだが、それでも本来の戦闘能力と比べれば、鼻で笑うしかないレベルである。
 部屋が重い雰囲気に沈んでしまった。誰も口を開かない。
 それを破ったのは、これまで沈黙を守っていた河城にとりだった。
「……そもそも、どうして紫は、外と幻想郷を繋いだの? これは何年も前から疑問に思っていたことで、責任転嫁をする気なんかないよ。まず根本的な疑問としてあるんだ。それによって私の対応は変わってくる。このSAOで文と紫は重大な情報を掴んでいたけど、それは私もなのよ。私の情報がなければ今後の行方に、具体的には攻略速度に悪影響が出る。それだけ自信がある内容だよ」
 紫の目が細められた。あまり自分を主張しないにとりであるが、河童族が幻想郷に与えている影響はとても大きい。いまの幻想郷は猛烈な勢いで文明開化が進行しているが、工業・情報化の重要な担い手である人間の技術者たちも、元を辿れば河童の教えを受けた生徒だ。
「まずにとりの情報――概要でいいわ。それを伺ってもよろしいかしら」
「私はエンジニア。だから寝る前にいつも、SAOのシステムを検証している。その結果はいくつか水泡風土記(みなわふどき)で書いてきたけど、中には悪用されるのが怖くてとても公表できない特大のセキュリティホールも見つけているわ。このゲームは天才がデザインしたにしては、システム面に不自然なほど多くの穴を持ってるじゃん?」
 にとりはここで語りを止め、みんなを見回した。「じゃん?」って、同意を求められても困る……妖夢にはSAOの『不自然なほど多くの穴』とやらが皆目わからない。
 多くの子がおなじ感想を顔に出したようで、にとりの表情は冴えなかった。数学者の世界がおなじ数学者にしか見えないように、河の便利屋さんの世界もおなじ河童にしか理解しきれないのだ。
 短いため息とともに、にとりは続けた。
「と・に・か・く、私から見ればSAOは非道プレイに好都合な抜け穴だらけなのよ。私がその気になれば、卑劣な強制暴行犯罪や確実に成功する窃盗行為はもちろん、犯罪者認定……オレンジプレイヤーへ落ちずに凶悪な殺人事件を起こすことも、さらには絶対安全圏だと信じられている宿屋で、忍者のように個室へと侵入し、熟睡している人の寝首を掻くことすら可能だよ。おなじことはプレイヤーホームでも、ギルド本部でもOKだぜい。暗殺のプロになれちゃう」
 圏内殺人が可能!
 全員が震え上がった。とんでもないものを見つけてくれたと。
 誰も返事しないので、そのまま紫が代表して答えた。
「なんてクールなのかしら。茅場のスパイシーに過ぎる人間性が如実に判るわね」
「ベータ期間は二ヶ月、テスターも一〇〇〇人いたのだから、気付いた人からの改善要求くらい何件かあったかも。なのにろくに直されていない。ほかに誰もが知ってるものとして、スキルをスロットから外したとたん熟練度がリセットされるという、ゲームにあるまじき極悪仕様。おかげであるていど成長してしまうと、試行錯誤ができなくなるんだこれ。いまどきアバター名やモンスター名、システム表示にアルファベット文字しか使えないのも、ユーザビリティの観点から見ればアンバランスでおかしいわよね。勘違いによるうっかり死などを誘発しそう。茅場当人がデスゲーム準備のため忙しかったとしても、開発に携わるデザイナーやプログラマーはいくらでもいたはず。茅場はおそらく適当な理由をでっちあげて、スタッフに修正の待ったを掛けていた。だってモンスターを倒して素材アイテムを手に入れたら、なんとかの肉とかなんとかの牙って、ちゃんと日本語でモンスター名がわかるし。紫はこのわざと用意したとしか思えない穴の数々を、どう考えるかな?」
 紫は何秒か扇子を扇いでいたが、すぐ答えを見つけたようだ。
「リアリティ……現実的な、日常に潜む悪意の落とし穴、といったところかしら。熟練度リセット仕様や英語表示は、茅場にとって性格・知能・判断に劣り、真なる異世界の観賞で目障りとなる邪魔者たちを、早い段階で振るい落とす。天才はときに優柔や無能を心底から嫌うわ。セキュリティの隙は、ずる賢い悪者へのご褒美や、ときにドラマティックな事件を起こす引き金。いわば退屈しのぎ。これでどう?」
「ええ、多分そういったところだよ。ソードアート・オンラインは、どこまでも人間臭く、泥臭くデザインされている。光と影、両方ともにね。影は影で濃いけれど、光も鮮やかよ――妖夢」
「なんですか」
「私には妖夢とキリト君のただでさえ無双な戦闘力を、さらに強化するアイデアがある。ほかの人もけっこう戦闘を楽にできるよ。みんなが強くなれる。これが攻略速度に関連する、輝夜と私の見つけた光」
 わずか数日で結果を出すとは、さすが河城にとりだ。
「ディレイキャンセルの体系化に成功したんですね……教えてくれるのかしら」
「それは紫の返答次第だね。圏内殺人・圏内暗殺などの方法も、すこし応用すればヒースクリフの正体を暴くのに使えるけど、紫が私を納得させることができなければ、いましばらく私の胸に仕舞っておくよ」
「正体を暴くとは、大きく出たわね。もう脱出できたも同然じゃない」
「あくまでも応用すれば、だよ。まだ足りないものがいくつかあるんだ。カメラの電子シャッター音を消す方法とか。紫、教えてちょうだい。幻想郷に災いをもたらす可能性を、なぜ導いたのか。すくなくとも私たちはすでに巻き込まれてしまった。幻想郷そのものも、国という巨大機構に見つかるリスクを現在進行形で受けている」
 全員の視線がこの場で最上格の大物妖怪へ、境界を操り幻想郷を誰よりも愛する八雲紫へと注がれた。
 一癖も二癖もある連中である。注目を浴びることに慣れている紫も、やや気後れするほどの眼力だ。彼女たちの実力行使をはね除けるだけの力など、いまの紫にはない。スキマでさっと逃げるわけにはいかないのだ。
 結論はひとつ。きちんと返答することのみ。
 目をつむって深呼吸すると、紫は海溝よりも奥深い瞳をゆっくりと開いた。瞳孔の深淵がたたえる光はいつもよりも濃い鈍色で、この大妖怪がいよいよ、最大の謎を披露するのだと妖夢にも感じられた。
「このことを知っているのは、私のほかには河童の長老と天魔、あとは神奈子(かなこ)だけよ」
 いずれもこの一〇年の変化と関係している。インフラを進めたのは河童一族、天魔まとめる天狗は外界との通信役、前線基地を提供しているのは八坂神奈子(やさかかなこ)の守矢神社だ。
「――人間はね、私たち妖怪の本質、精神の体、すなわち魂へ、科学のメスを直接入れる段階を迎えようとしているのよ」


※第一〇層のフェザーリドラ
 当作では第一〇層としたが、正確な出現層は不明。
※わざと用意したとしか思えない穴の数々
 原作SAOの基本設定や仕様が定められたのは二〇〇二年。モデルはごく初期のMMORPG群。システムを今風に直せない圏内事件などのエピソードがあり、単行本化に際しほとんど修正されなかった。
※魂へ科学のメスを直接入れる段階
 のちのアリシゼーション計画のこと。SAO第四部に当たる。

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