第六話 見よ、いとしの陸地を

よろずなホビー
竜しかいない!/第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話

 「果ての吸い込み竜はじつは蜃気楼だった事件」以後、航海は順風満帆に進んでいた。
 星の観測により、海流はあいかわらず真東に流れていることがわかった。七隻の船団は海流を見失うことなく、また一隻もはぐれることなく、理路整然と船列を組んで、東へ、ひたすら東へと船を進めている。
 ギルガンデツ船上。午後はたいがい、みんなは甲板の上で日光浴をかねて、話に精をだす。今日も仕事のないおもな者たちは、甲板にたむろしていた。
「ねえ、クアーダ。なんでしょちゅうこの船に来るわけ?」
 アーシャ姫はクアーダには、初対面から最低の印象しか抱かなかった。彼女はとにかくなさけないこの王子に、彼の身分を完全に無視して、まるで出来のわるい下僕にたいするような感覚で接している。
「え……それは……いやそのね、ただみんなに会いたいからだからね」
「わたし、はっきりしない人嫌い。あっちへ行ってよ」
「う……うん」
 このとおりである。
 どうやら原因の大半は、王子本人にあるようだ。気力十分な新興国家ツエッダの王子だけに、クアーダもたまには奮闘するときはあるが、普段はとにかくなさけない。
 しかし彼は、すくなくとも友人には恵まれていた。
「クアーダ、くよくよするなよ」
「ウンラー」
「彼女はまだ幼くて、言葉が暴力にもなるってことの本質をよく理解していないんだ」
「……それって、慰めているのか?」
「いんや。ただ、気にするなって言いたい」
「……ウンラー、君らしいな。ありがとう。だけど、どうしてもだめなんだ。アーシャさんの声だけは、どうしても心に残る……」
 ウンラーはおやっと感じた。こんなクアーダははじめてなのだ。ウンラーは友人をよく観察した。どうやら陶酔しているようだ。
 ウンラーは勝手に心の旅にでたクアーダを無視して、また姫たちのほうに戻ろうとした。
 振りむいたウンラーは、いきなり視界に金髪黄瞳のフィーンを確認して、たちまち頬にかすかな朱を散らした。
 心の準備もできていない。これでは不意討ちだ。ウンラーはフィーンと、いつのまにか距離を取ろうとしていた。気になるがゆえの行動であるが、すこし勘のいい者にはすぐにウンラーの心情はわかってしまうだろう。
「ど、どうしたんだい、フィーン。アーシャ姫と離れているのはめずらしいね」
 いつも清楚で静かなフィーン。彼女はウンラーの怪しすぎる行動になんの反応も見せず、話をきりだした。
「姫様はいま、ターエン様とお話し中です」
「そ、そうかい」
 ウンラーは緊張でどもってしまう。しかしやはりであるが、顔はうれしそうだ。
「ウンラー様、クアーダ様のことなのですけど……」
「ああ、クアーダなら大丈夫だよ。あいつはああ見えても、いくらけなされてもすぐに復活する逞しさを持っている。挫折ばかり味わっているから、精神の根は強いんだ」
「姫様の無礼、許してください」
 フィーンは、クアーダのことを心配しているのだ。ウンラーは自分のことではない話題なので、気楽にフィーンと話ができてうれしかった。それで態度もようやく普通になった。
「彼はほんの三年半前まで、サーナンドの一州をまかされる田舎領主の息子でしかなかったんだ」
「たしかサーナンドの地方領主は、世襲ではありませんでしたね」
「そうさ。小国サーナンドは、王候貴族が支配する土地以外の州を、一般市民の名士を領主とすることで国力を維持する仕組みだ。そして領主は、実力で獲得した、一代だけの特権階級でしかない。だからクアーダが、貴族に見えないのは当たり前だよ。今でこそ運命のめぐり合わせで王子になったけど、彼はまだ、半分だけ貴族なんだ。名は王子、実はまだまだってとこかな。これは悪口じゃないよ、友だから言えることなんだ。クアーダはとってもいいやつさ。そこをアーシャ姫にも教えてやってよ、フィーン」
「……姫様はご自分を半分市民だと言っていますわ。天牙族の勇者であった父君サイオス様と、メルギルナンテス伯爵家のたったひとりの令嬢であった母君ソーシャ様との大恋愛は、当時の評判だったそうです。姫様は自分の血が半分一般市民の血であることに、誇りを持っていますわ。いつか、クアーダ様のこともわかってくださると思います」
「ありがとう、フィーン」
 自然と口から出たウンラーの感謝に、フィーンも無意識にほほえんだ。
     *        *
 フィーンと別れたあと、ウンラーはヒムケットに捕まった。
「公子、さきほどは麗しの侍女殿とうまく話ができたようですな」
「うっ。見ていたのか、ヒムケット」
「しっかりと。私はあなたの侍従長ですぞ、公子。それで、どのような話をされたのですかな?」
「……クアーダとアーシャ姫のことだ」
 恥ずかしそうに告白するウンラーのその言葉に、ヒムケットは本当にこけた。
「……ご自身やフィーン殿のことは?」
「ないが、それがどうかした?」
「なにが悲しくて愛しの人と他人の話だけで盛り上がらなくてはいけないのですか。もっとご自分を売り込んで、そして侍女殿のことを聞かないと――公子?」
 ウンラーは顔が完全に真赤だ。「愛しの人」という言葉に反応したのだろうか。
「成人の儀を経た大人がまったく純情なことで……先が思いやられますな」
     *        *
 サイオスとガナスは、また昼間から酒を飲みながら、後部デッキで釣りをしていた。
「なあ、ガナス。俺の娘が最近、おまえの王子の話ばかりするんだ」
「サイオスの親父、うちの若は公子だ。あんな腰抜けといっしょにするな」
「あまり違わねえだろうが。どっちも俺に言わせりゃ青二才だ。それに俺様はまだ二九だ。ガナス、『親父』はいいかげんやめろ」
「そうかいそうかい。それで、サイオスのかわいいアーシャちゃんがどうしたって?」
「会うたびにウンラーの話ばかりしやがる」
「いいじゃないか。若様はいい人だぞ」
「じょうだんじゃねえ! だれが大事な娘を、あんなきれいなだけの若造にくれてやるか」
「なんだとう、その若造に負けたくせに」
「あれは装備に圧倒的な差があったからだろうが。俺は認めないぞ、無効だ、けって~い」
「なんじゃい、そりゃ。この酔っ払いが」
「それはガナス、おまえも同じだろうが」
「わはは、そりゃ言える。ときにようサイオス、その釣り竿、さっきから引いてるぞ」
「おお、ほんとだ。あはは、こりゃすごいぞ、大物にちがいない」
 平和である。
     *        *
 アーシャ姫はターエンと話をしていたが、ターエンが彼女にはとうてい理解できない最新の幾何学論について熱心な講義をはじめたため、勝手に暴走する老師を放って、アーシャは侍女のフィーンを探しはじめた。
 もはやフィーンは、アーシャの大親友である。博識な侍女は、アーシャにはないものをたくさん持っていて、それを自分に分けてくれる。アーシャは彼女が大好きであった。
「あ、ウンラー様だわ」
 お転婆姫はウンラーを見つけた。優先順位は、やはり友人より好きな異性だ。たちまちフィーンのことを忘れて、走りだす。
「ウンラー様ぁ!」
 そしてウンラーに組みつき、公子が逃げ出すのを封じて、熱烈なラブコールをするのだ。
 ところがこの日はいつもとちがっていた。
 公子の前に突如として、クアーダという固有名詞を有する障害物が発生した。
「ウンラー」
 クアーダはウンラーと話をしようと寄ってきた。だが、そこにアーシャがぶつかった。
 ごん。
「ウンラー様……ここで会うのは運命――」
「あ、アーシャちゃんじゃないか……」
 頭を打ったふたりは仲良く気をうしなった。
     *        *
 一刻後、ウイルに戻ったクアーダは巨大なたんこぶを作っていた。王子を出迎えた補佐官ブルーギルはそれを見て一言、
「なさけなや殿下……」
「ひどいよ、なにもしてないのに!」
 もはやこれは、彼女の決まり文句となりつつあった。
     *        *
 これがある日の航海である。こんなことがずっと続けばまったく平安でよかったのだが、そうはいかないのがこの世のつねである。
 大自然というものは気紛れで、おだやかなだけであるのが全てではない。油断をしていると、ある日どんなしっぺ返しをくらうかわかったものではない。
 もちろんかれらセル、ツエッダ船団だけが例外であるはずがなかった。海に出る者にとって一、二を争う恐るべきもの――
 嵐。
 それが、とつぜんやってきた。
 ムック歴三四一年六月二五日。この日は朝になっても暗かった。陽光は厚い雨雲にさえぎられ、風はにわかに強くなった。波が高くなり、ところどころで波間に白くくだけた泡が混じりだした。
「……オエッ」
 自分の部屋で、サイオスは船に酔っていた。
「まったくなんて波だ! 最低だぜ」
「そうだな、サイオス。陸育ちにはこのゆれはまったく大変だぜ、ほらっ、これに胃のなかをぜんぶ吐けよ」
 見舞いにきていたガナスが、金属製のたらいをサイオスに渡す。
「すまんな、ガナス……おまえさん、平気なのか?」
「こんなものは海に生きる者にとってはしょっちゅうだからな。それよりも、これからもっとひどくなるはずだ。嵐の本番が来たら、なにかに掴まっていないと体がもたないぞ」
「……そんなにひどいのか、嵐ってのは」
「ああ。しかもこいつは外洋ほど激しくなる。こんな海のどまんなかで嵐に遭遇するのは、俺もみんなも生まれてはじめてだからな――どうなることやら」
「オエエ――……おどかすなよ、ガナス」
 サイオスはほんとうに不安そうである。それに対し、ガナスは泰然自若として答えた。
「平気さ。このギルガンデツをはじめとする新造帆船は、われら科学文化同盟の、先端技術の結晶だからな。嵐くらいで簡単には沈まないぜ、サイオスの親父」
「こらあ、親父はやめろって言っただろうが」
「ワハハハハ、その元気があれば大丈夫だろうよ。せいぜいこの嵐で船酔いへの耐性を高めておけよ、じゃあな」
 そしてガナスはさっそうと部屋を出ていった。それを恨めしげに見送りながらも、帝国の陸戦中級将軍はただ、粗末なたらいに吐き続ける以外にすることがなかった。
 ガナスは酒飲み将軍のかわいいお転婆娘と、その侍女の部屋に向かった。ガナスは、たらいをふたつ持っている。彼女たちも陸育ち。サイオスと同様、高い確率で船酔いの症状が出はじめているはずである。
「アーシャ姫、ガナスです。御入室の許可をいただけませんか?」
「はい、いいですよ~」
 元気いっぱい、アーシャの応答である。
(おや?)
 部屋に入りながら、ガナスは訝しんだ。アーシャは、海の船旅ははじめてのはずである。しかも今の揺れは、そうとうきついのだ。
「ガナスさん、どうしたの?」
 アーシャは父と親しいガナスに好意を持っていて、顔はにこやかである。まだ朝早いのだが、どうやらこの揺れでけっこう前に起きてしまったようだ。すでに寝間着から簡素な普段着に着替えている。
「ガナス様、おはようございます」
 おなじく普段着に着替えているフィーンが、ていねいに挨拶する。彼女もこの揺れに、なにも異常がないようだ。
 ガナスはおかしいなと思いながらも、いちおう自分の目的を伝える。
「もうすぐ嵐が近いので、もしかして船に酔っているのではかと、見舞いにきただけですが……どうやら何事もないようですね、姫」
「ああ、そのことなの。私、じつは気持ちが悪くなって起きたのよ。でも、フィーンがくれた薬を飲んだら、とたんに平気になったの」
 アーシャはうれしそうに言った。フィーンが、酔い止めの薬を持っていた。ガナスは驚いてフィーンを見る。
 彼女の出身地はサーナンド首都、内陸都市ケファントフルナンドである。そこから河沿いのシャーリス修道学習院へ留学していたと、ガナスはサイオスから聞いている。なぜ内陸育ちのフィーンが、入手困難な、高価な即効性の酔い止め薬をもっているのだろうか。
 フィーンはガナスの怪訝な表情で、彼の疑念を察したのか、しかしすこしもあわてたふうでもなく、落ち着いた物腰で説明した。
「父が対岸をはさんだオーナンドとの交易をやっていますので、よく幼いころから商船に同乗していました。だから、船には慣れています。この薬は急きょ侍女として船出が決まったときに、父の知り合いの貿易商から、選別としていただいたものです」
 ガナスは彼女に関する情報を整理した。たしかにフィーンの父親は商人である。ただ、なにをしているのかまでは知らなかった。オーナンドとの渡河交易をしているのなら、フィーンの説明は納得できる。
「そうですか……あ、フィーン殿。もしよければ、その薬を一錠分けてもらえませんか」
「サイオス閣下にですか? わかりました」
     *        *
 昼すぎ、とうとう雨が降りはじめた。突然横なぐりの風が吹きはじめ、嵐が本格的になったことを告げた。
「もはや風受け操船は無理だ、すべての帆を降ろせ。監視要員と操舵長を除いて全員甲板から待避し、舵だけで他船と距離を取り衝突を回避せよ。以上を全船に旗で通達急げ!」
 ガナスの的確な指示により、ギルガンデツ船長ジルコンの指示のもと、水夫たちは一斉に作業にとりかかる。兵士たちは青銅の大砲を後部甲板室に避難させはじめる。あちこちで帆縄が解かれ、引かれ、短時間で帆はたためられた。
 ギルガンデツ、ネルフォムデツ、リーマデツ、クラデツ、ウイル、アグナータ、ユーリプリテドの七隻は、たがいの距離をすこし離して、見失わないていどの距離を保ちながら、なんとか二並斜交縦列陣形を維持している。
 強烈な波が船につぎつぎと襲いかかる。船はまるで木の葉のように揺れ、いいように自然に弄ばれる。
 船の中では、全員が柱に、樽に、扉に、あらゆるものにすがって自分の態勢を維持しようとする。
 外で必死に操船をする者たちは、さらに過酷な状況にある。風はものすごく強い。雨は横殴りにみんなを叩く。目も開けられないほどだが、だからといって職務を放棄したら、同胞との衝突という最悪の事態をまねくのだ。誰ひとりとして逃げ出す臆病者はいない。
 そんな中、ひたすら嵐を挑発する者がいた。
「わはは、どうした、嵐よ! ギルガンデツは、この程度では沈まぬぞ。ほら、もっと猛々しく、強力無比な雨風で襲わぬか!」
 帆柱の中腹、物見台に体を縛ったヒムケットが叫ぶ。彼は運わるく、今日の物見番なのだ。余計な人員のいない帆船では、公子の侍従といえども、当番がまわってくる。しかも天牙族の彼は目がよく、物見には最適なのだ。
「嵐よ、貴様の実力はこのていどか、この臆病な海平竜め。悔しいか? できるものなら、この口をギルガンデツごと海に沈めて塞いでみろ! ハッ、出来まい、俺様の勝ちだ!」
 そこに稲妻が轟く。ヒムケットは怖れない。
 風に耐えながら、ヒムケットはただ雨に叫び、嵐を罵りつづけた。そうせねばとうてい、心の不安を抑えつけることなどできないのだ。
 ツエッダ船団旗艦ウイルであるが、王子クアーダは青くなっていた。
「おええ~……苦しいよう、暗いよう、揺れるよう、怖いよう」
 クアーダは思いっきり船に酔っていた。
「うう~、おええ!」
 せまい自分の部屋の床を、ひたすら揺れにまかせてあっちに、こっちに転がる。
「たすけてえ~」
 暴風雨と荒波の音に、彼の弱々しい声はことごとく打ち負かされ、誰にもとどかない。
 悲劇の王子は、嵐が去るまで転がりつづける運命にあった。これをこのとき自分自身だけで精一杯だったブルーギルが知れば、間違いなくこう言ったであろう。
 なさけなや殿下……――と。
     *        *
「ほんとうにこの力はすごいわい。ぜひとも嵐の強さを計算したいんじゃが、揺れがきつすぎてきっと筆が持てぬわい」
「そうですか老師。でも、もうすこし大人しくなさってください。さもないと、いつ私が手をすべらせるか」
「うそじゃよ、ガナス。じゃが、やっぱりおしいのう……先日のスルーのときといい、なかなか生の記録をのこす好機がないわい」
 ターエンはこんなときにも研究心が旺盛である。だが、そんな彼が転がらずにすんでいるのは、ガナスが彼の襟をつかんでいるからである。老人の体は宙に浮いている。
 そんなガナスは、サイオスを柱にくくりつけて、自分もおなじ柱に体を結んでいる。サイオスは気分がおもいっきり悪く、自力で体を支えることができない。
「……すまんなあ、ガナス。フィーンの薬も効かないなんてな、俺は軍人失格だなあ」
「なにを言うか。サイオスは陸専用だろうが」
「……それなら、このカーリヤも同じだぜ。なのに、ぜんぜん平気だ」
 サイオスは近くにいる愛竜のカーリヤを見上げる。ここは動物用区画なのだ。体を支える柱がたくさんあるこの部屋は、大勢の船員が避難してきて、おのおのの体を縄で柱にくくりつけていて、まさに過密状態である。
「ガー」
 カーリヤは、この嵐にまったく動じてない。おなじ部屋にいる鈍感な鎧竜でさえ、激しいゆれに多少は動揺しているのに、この機敏な竜一倍敏感なはずの天牙竜であるカーリヤは、普段と変わらぬ様子でいるのだ。
「肝が座っているなあ、こいつは。サイオス、もしかしておまえの華々しい武勲の数々は、じつはカーリヤが立てたものだったりして」
「こんなときに冗談はよせよ……オエエー……こいつは俺と同じなんだぞ。くそう、いつか陸にあがったら、俺様とカーリヤの雄姿をおまえに見せつけてやるぞ、ガナス」
     *        *
 体重が軽くてなんとか自分の体を支えられる者は、個室の物にしがみついて嵐に耐えていた。ウンラー公子もそのひとりであった。
「うう……なかなかキツいな」
 さきほどから一段と揺れがひどくなっている。雨に雷もまじりだしていて、いよいよ嵐は最高潮にたっしようとしているようだ。
 一瞬の稲光がわずかな窓のすきまから部屋にはいり、ウンラーの端整な顔を映しだす。
「クアーダは大丈夫だろうか……」
 哀れな友人がずっと転がっていることを彼は知らない。また揺り返しがきて、ウンラーは壁の物掛けをつかむ両腕に力をこめた。
 そのとき、さきほどの光の音がようやくギルガンデツまでとどいて、ウンラーの耳をつんざく轟音を響かせた。
「きゃあ~!、フィーン。怖いわ」
「は、はいー!」
 その直後に、ウンラーの耳に聞き慣れたふたりの女性の、ふるえた声が飛び込んできた。
 どんどんどん。
「ウンラー様あ、開けてくださーい!」
 アーシャの声だ。なんとこのひどいシーソー地獄のなかを、自分たちの部屋から公子の部屋まで突破してきたのだ。
 ふたつの部屋はそうとう距離がある。まさかおなじ道を帰らせるわけにもいかない。ウンラーはシーソーの合間を見計らってすばやく扉に取りつき、いそいで鍵を開けた。
 扉が外側に開いて、帝国伯爵令嬢とその侍女がウンラーに飛びついた。正確には、揺れによって船が部屋側に傾き、足をすべらせたふたりの女性が、ウンラーに乗りかかった格好になったのだ。
「うわあ~」←混乱したウンラー
「いやあああ」←すこしうれしいアーシャ
「きゃあー」←前後不覚のフィーン
 三人はそのままいっしょになって、揺れで散乱していた蒲団まで転がっていった。蒲団が三人をからめ取り、転がるのはおさまった。
 ウンラーはふたりの若い女性と密着して、その感触にすっかり赤面している。アーシャとフィーンはなにごとが起こったのかよくわからずに混乱しているが、やはり恥ずかしいようだ。ウンラーはあわてた。
(は、はやく脱出しないと――鼻血が出る)
 数分かけてやっと三人は自由になったが、全員が話をできる状態に回復するまで、けっこうな時間を要した。誰にも話せない、なんともいえないとんでもない体験である。
「あ、あのね。じつは……」
 アーシャがようやく事情をウンラーに話そうとしたときである。
 ピカッ!
 ゴゴーン!
 至近で雷鳴、まさに驚天動地の迫力か。
「きゃあああ!」
 ウンラーの左腕にアーシャが飛びついた。ウンラーはなんとなく理由がわかった。ウンラーは姫が苦手ではあったが、嫌いではなかったので、かわいい女の子に頼られて、べつに悪い気はしなかった。
 そのときウンラーは、右腕にほかの感触を感じた。なんと、ウンラーに飛びついたのはアーシャだけではなかった。
 フィーンも震えている。どちらかといえば彼女のほうが、より雷にたいする恐怖が強いようである。しかも緊張による熱と汗で妙に艶っぽい。
 最強の奇襲だ。ウンラーはふたたび赤面する。ただの薄赤い赤面ではなく、真赤である。
 そこにすかさず、また雷!
「きゃあー!」
「いやあああ~」
 ふたりとも、もう涙まで流す始末。こんなに雷に、しかも揃ってものすごく弱い二人組を、ウンラーは生まれてはじめて知った。
「あああ、ラー様、ラー様、このアーシャを助けて、はやくこんな雷と雨をどこかに遠ざけて! ラー様、ラー様!」
 アーシャがムック教の神を連呼する。果て竜事件以来、すっかりラーへの祈りをやめていたアーシャ姫であったが、さすがに苦しいときは神頼みである。
 それに呼応したのか、侍女も祈りだした。
「コーズ様、雲の怒りをどうかお沈めください! カーズ様よ、この船を守り給え!」
 聞き慣れぬウゼラ神の名に、ウンラーはフィーンを凝視した。しかし彼女は気がつかない。それ以降、何もいわないが、ひたすら目をつむって祈りつづけている。
 さらに雷光!
 そして天を貫く音!
「ラー様、ラー様……ウンラー様、神の名を持つあなたなら、このいやな雷をどうにかできるわ、助けて!」
 アーシャが半分自分を失いかけている状態でウンラーに迫り、救いを求める。心から雷が苦手な様子である。
「アーシャ姫、大丈夫ですよ。このギルガンデツは沈みませんし、雷はあなたを襲いはしません」
 ウンラーは静かにアーシャに語りかける。
「ほんとう?」
「はい」
 アーシャは涙目でウンラーを見つめる。すこし落ち着いたようである。
 そのときふいに、ウンラーの右腕にかかっていた力がいきなり抜けた。フィーンが雷に耐えることができず、ついに失神したのだ。
「きゃああ、フィーン!……」
 アーシャはおどろいて、ウンラーをつかんでいた両腕をはなすと、四つん這いでフィーンに近寄った。
 またもや雷!
「あ……もうだめ」
 アーシャはそのまま気を失い、ふたりは仲良くウンラーの目の前で折り重なった。
 その後ウンラーは、彼女たちが揺れで体を壁に打たないように必死に押さえ続けるというとほうもない作業を、たったひとりで数刻もの間こなす羽目になった。
     *        *
 嵐がようやく沈静化したのは、次の日の午前五時のことである。
「わははははは~、朝日だ! 俺は勝ったぞ、貴様の負けだ、あらーしっ!」
 ギルガンデツの物見台で服のすっかり乱れたヒムケットがうれしそうに叫んだ。叫びつづけたせいで、すっかり声が枯れている。
「……おええええ」
 ウイルのクアーダは真っ青なうえにアザだらけになっている。スルー事件のときは三日寝たが、またもや数日はベット住まいになりそうである。介抱しているブルーギルが嘆く。
「……なさけなや、王が泣いておりますぞ」
「おい、サイオスよう。生きてるかい?」
 起きたばかりのガナスがとなりのサイオスに聞く。彼はなんとこの嵐のなかで、豪快にも寝ることができたのだ。それは天牙竜カーリヤの首に吊り下げたターエンもおなじで、大胆にも鼻提灯まで作って寝ている。
「…………死んだ…………」
 クアーダよろしく真っ青なサイオスは、そうちいさくつぶやいた。目下には深い黒幕ができており、心身ともにまいっているようだ。
「……御愁傷様」
 どうやら今日は、サイオスとガナスの酒盛りは無理のようである。
 フィーンは明かりを感じて目が覚めた。暖かな蒲団を被せられている。周囲を見る。となりには、蒲団にくるまってアーシャが眠っている。そしてすぐ近くの壁にもたれて、ウンラーが疲れたように眠っていた。フィーンはすぐに事情を察し、笑った。
「……ありがとう、公子さん」
 フィーンは、さっきまで自分に被せられていた蒲団を、ゆっくりとウンラーに掛けた。
     *        *
 二日後、六月二八日、夜中。
 ウンラーはひとり、星と星との角度を測る六分儀を片手に、方位を知る羅針盤を木製の三脚に固定して、ろうそくの明かりとかすかな月明りだけをたよりに、真っ白な海図に定規で線を引いていた。測量である。
 雲がほとんどないので現在の位置を知る絶好の日和なのだ。昼間、ウンラーは気分転換もふくめて、今日の測量は自分でやると言い出した。ターエンからそれなりの訓練も受けている、外洋航海には必需な技量である。
 この惑星の月はクリストバライ、コーサイ、スティショバイの、ぜんぶで三個。いずれもひじょうに小さく、肉眼でもほかの惑星よりすこしおおきく見えるていどだ。したがって、この世界の夜はいつも新月の暗闇にちかい。
 よって、夜中の明かりはとても目立つ。ウンラーの辺りだけが、甲板上でゆいいつの、たよりない昼間なのだ。
「やはりすこし南に流されたか……」
 ウンラーはひとり言をつぶやいた。まさか、それに答える者がいるとは思わなかったが。
「そうですの? ウンラー様」
 ウンラーはおどろいた。いつの間にか、横にフィーンが来ている。ウンラーは先日のことを思い出して、すぐにほほを赤く染める。
「今日はアーシャ姫はどうしたんだい?」
「姫様はもう眠っていらしゃいますわ。もう午後一一時ですもの」
 そうしてウンラーに静かに微笑む。なにかフィーンの様子がこれまでとちがうようにウンラーは感じた。自分に心を開いている――そんな感じなのだ。
「そうか……ところで現在位置だけど、嵐の前の記録よりだいぶ東にいるから、南に流されたとはいえ、まだ海流の上にいるようだよ。航海に問題はない」
「すごいですわ、ウンラー様。こんなこともできるなんて、尊敬します」
 ウンラーはさすがに照れた様子で、
「いやあ、これは羅針盤を作ったマグネタイト博士が偉いんだよ。私はただ、彼の発明品を利用しているだけなんだ」
「そうかもしれません。でも、謙遜なさらなくても、十分にすごいですわ。上に立つ者が下の者のする仕事をなさるなんて……」
「父は、部下の仕事を理解していない者には命令する資格はない、と私に教えてきたんだ。私はただ、その教えを実行しているだけだよ」
 フィーンはゆっくりとウンラーから目をそらし、黄色に光る衛星コーサイを見上げた。
「ウンラー様は、私と姫様を助けてくださいましたわ。ただ父君の教えを守っているだけだというのは、それはちがいますわ」
「…………」
「あの日は、どうもありがとうございました。私、どうしても雷はだめですの」
「どうして雷がだめなんだい?」
「……ないしょ、っというのはだめですか?」
「聞きたいなあ」
「うーん、どうしようかなあ。あ、そういえば、昼間のことですけど、サイオス閣下が大物を釣ったときの裏話、知っていますか?」
「それも知りたいけど、話をそらすなよ」
 こうして、ウンラーとフィーンは、その晩おそくまで、色々な話に花を咲かせた。
     *        *
 その後、航海は多少のちいさなトラブルはあったが、船団自体になにも問題はなく、奇跡的にひとりの病人、脱落者もなく、順調に東に進みつづけた。
 ただ、食糧の問題がだんだん表面化してきた。船団が最後に食糧を補充したのは六月三日、ラクシュウ最北の港、リート港においてであり、そのときに積んだのはペイロードいっぱいの五二日分の食糧、水、物資であった。
 そしてムック歴三四一年七月一六日現在、船団はすでにその八割までを消費している。もはや、食糧にたいしてなんの対策もたてずにはいられない事態となった。
 この日の昼、船団のおもな者たちはギルガンデツの第一集会室に集合した。メンバーはウンラー、ガナス、ターエン、クアーダ、ブルーギル、そして各船の船長に、甲板長、操舵長、砲兵隊長、切り込み隊長、水夫頭、料理頭、学者たち、そして特別にサイオス。
「はっきりいって、わが船団は危機に直面しています。このままでは今月の二七日には食糧はなくなります」
 すべての料理頭を代表して、ギルガンデツの料理頭、深髭のレリットが報告する。それに、ウンラーが質問した。
「……で、レリット、君個人としてはどうすればいいと思う?」
「はい。もはや一刻の猶予もなりません。食糧の切り詰めをするしかないでしょう。全員の食事の量を制限します。仕事のすくない兵士と動物たちは従来の四割、仕事のおおい水夫は六割、平均で半分にまで節約、こうすれば、来月の六日までもちます」
「それでも二〇日分か……きついな。まだ陸地が近い気配すらないのに」
「魚でなんとかならないかな?」
 これはクアーダである。それにガナスが答えた。
「だめですよ王子、あれはほんのおかず程度にしかなりません。しかも釣れない日もあるし、釣り餌そのものがわれわれの食糧です」
「網はないの?」
「残念ですけど、漁船ではありませんから」
 そこにターエンが意見した。
「とにかく海にいるかぎり、九三〇人を食わせてゆく食糧を外に求めるのは不可能じゃ。レリット料理頭の意見をそのまま採用するのが最善の策ではないかね?」
 こうして、この日から船団は食糧節約態勢になった。上下の例外なく、仕事量に応じた配分でだが、しかしおもいっきり食事量は制限された。
 これで一番の被害を受けたのは、サイオスとガナスである。
「うおおお、釣りができない~! 酒が飲めない~」
「まったくだぜ、サイオス。運動すら腹が減るからできないときた! 釣りは魚群を確認したときだけだし、つまらん!」
 そしてふたりして甲板で不貞寝するのだ。
 また、船団最年少、育ち盛り食べ盛りのアーシャ姫もおなじである。
「わ~ん、すくないよう」
 仕事がないので本来は四割だけだが、特別に五割にしてもらったアーシャである。が、それでも足りない。最初は同情したフィーンが自分の分をわけていたが、さすがに四割しかない量から他人に分けつづけるのには限度がある。たった二日ですこしやつれはじめたフィーンを心配して、アーシャはわがままを言うのをやめた。
 とにもかくにも、物見たちの東を見つめる目は、日に日に鋭くなってきた。陸地、陸地。それだけをみんなは願った。
 だけど、いっこうに陸が見える様子はない。さすがに人々はあせりだした。
 そんなある日のこと。
「渡り翼竜だ!」
 海上すれすれを飛行しつづける翼竜の一群を、リーマデツの物見が発見した。翼竜はいつかかならず翼膜をやすめる。ということは、近くに島などがあるという証拠である。
 この報はたちまち旗によって、船団全体に伝えられた。各船の物見は翼竜をつぶさに観察した。
 ギルガンデツ後部甲板室上デッキである。
「翼竜はどちらに向かったのかね?」
「はい、ターエン様。翼竜の群れは、ほぼ南東から北西へ移動していました」
「種類はわかるかね?」
「残念ながら、あまりにも遠方だったので……ただ、中原南方にいるようなかなりの大型種だったようです」
「そうか、ありがとう」
 物見が礼をして去っていった。
「どうですか、老師様」
 ウンラーがやや期待を含めた表情でたずねる。ターエンは息をついて、
「残念じゃが、すこしむりじゃな。風を滑るだけの大型翼竜は、平気で一〇日は無補給で飛びつづけることができる強者じゃ」
「南東から北西にむかった、ということは、そのまま南東に向かったら、陸地につくのではないでしょうか」
「そんなことをしたら、翼竜たちの飛び立った陸地につく前に、海流を見失うわい」
 しかしウンラーはあきらめなかった。
「でも、すくなくとも南東には高い確率で陸地があるという証拠ですよね?」
 ターエンはウンラーを見つめた。
「公子よ、焦っているようじゃな、すこし落ち着かれよ。それは、翼竜が風向きにおうじて方向転換を繰り返しながら飛ぶという事実を無視した意見じゃぞ。わしら全員を、そんな考えなしの行動で危機に陥らせる気かね?」
「うっ……すいません、老師様。あせって冷静な考えができませんでした」
「ふぉふぉふぉ、それでいいのじゃ。まだまだ若いのう。まあよい、これから気をつければよいのじゃて」
「それでターエン殿は、『翼竜』という情報に、どのような対応をすればよいと考えているのですかな」
 サイオスである。
「帝国の将軍よ、わしのこの海流に関する説は知っておるかね?」
「いいや」
「ふぉふぉふぉ。それはな、海流が循環しておるという説じゃ。この海流は中原東方沿岸で西から来て陸にぶつかり北上、そしてまた転進して東に行くという流れをもっておる。この先はどうなる?」
「さあ、なにせ誰も知らないからな」
「東に中原のような巨大な陸地を置けば、簡単に想像できることなのじゃ。東に行った海流は、陸地まで行き着くと南に転進して、そしてまた西に来る。これで、大海洋を大陸どうしに挟まれて周回する海流ができあがるじゃろ。ならば、わしらの取りうる策は決まってくるというものじゃ」
「う~ん、たしかに説得力のある考えだなあ。よし、俺はあんたを信用しよう。なにせ果て竜の謎を解いたのはあんただからな」
 それにガナスが追従する。
「ま、俺たちにできることは、翼竜がいるということから、近くまで迫っている大陸への、近日中にある上陸に向けての準備をするということですかね、若様」
「なぜ振るんだ、ガナス。そうですね、勝手に海流がわれわれを陸に連れていってくれるという老師様の論拠を忘れておりました。すいません」
「謝ることはあるまい、公子よ。だいいち、わしの説はあくまで二重の仮定にすぎぬのじゃぞ」
「それを『科学』にするために、この航海があるのではないですか?」
 そしてウンラー公子はターエンに不敵な笑みを向けた。東の賢者もそれに応じた。
「まったくそうじゃな、確かめなき理論は科学ではないからな」
     *        *
 その日から、さらに物見は強化された。たびたび翼竜が観察されるようになり、みんなの期待は次第に高まっていった。
 七月二七日、午前四時頃。
「ふあああ、いつになったら見えるんだよう、陸は!」
 今夜のギルガンデツの物見は、一週間ぶりのヒムケットである。主帆柱中腹、海面からだと建物の四階に匹敵する高さに、帆布張り作業場を兼用する物見矢倉が組まれている。
 風はきつく、夏だというのに寒気がする。だが、海の男は寒さなど物ともしない。もともとヒムケットは草原の民であったが、生まれてすぐにセルに難民として流浪してきたのだ。育ちは沿海、完全に海の男である。
 ヒムケットはひたすら東を見つめる。普段はときどき他の船が異常に接近していないかどうかを見るていどなのだが、いまは事情がちがう。はじめに陸を見つけた者には、半年ぶんの給料にも匹敵する報奨金が与えられ、さらに一カ月間糧食食べ放題なのだ。
「ううう、陸、陸、陸りくう~」
 目を凝らしながら、東だけを見つめる。
「よう、ヒムケット」
 そんな彼の後ろで、いきなり主人であるウンラーの声がすれば、びっくり仰天してしまうのは仕方がないことであった。
「公子、どうしたんですか、こんなところに」
 数秒後、ようやく心を落ち着けたヒムケットは、ウンラーにとうぜんの質問をする。
「いやあ、一度くらい物見というものをしてみたくてね。今夜はヒムケットだと聞いていたから、ついでだと思って……」
「うそおっしゃい。わざわざこんな朝方に来るなんて、どうせ早起きしてしまったついでに、たんなる思いつきで来たんでしょうが」
「…………」
「図星ですね、やっぱり。公子の考えることくらいはわかるんですよ、陸を見つけるのにたまたま居合わせたらめっけもんだと思っている程度でしょう。冒険公爵ばりのイベント好きですからね、あなたは」
「そのとおりさ、君にはかなわないよ、ヒムケット。なあいいだろう、なにせ今日は天気もいいしさあ」
「……ま、いいでしょう。ただ、私の持時間はあと二時間だけですから、その間だけなら許しましょう。それに陸地を見つけたときの懸賞は、全部『俺』のものですよ」
「わかったよ」
 そしてヒムケットは自分が座っている簡単な作りの椅子の半分をウンラーに譲り、せまい物見台にふたりの男がおさまった。
 半刻後、海が赤くなりはじめた。
 空は黒から濃紺を経て黄色、赤、青へと移行してゆく。ギルガンデツの船首方向に、やがて日の出が出てきた。
 何度見てもこの感動は変わらない。この惑星の大自然の、すべての恵みの主たる、恒星である。太陽よりすこし大きいていどに見えるこの惑星の太陽は、うっすらとした雲間に、堂々たる姿を浮かび上がらせている。
 そのとき、ウンラーはおかしな雰囲気に気づいた。ここしばらく見慣れた朝日とちがう……。
 海の果てにかすかに、水色に見える一筋の帯――その上から、陽光が照っている。光の乱舞とさまざまな色が織りなすこの情景は、ウンラーの一生忘れられない瞬間となった。
 ウンラーはヒムケットを見る。彼も気がついている。なにかの感動に震えながら、しかし声が喉からでない。
「今日は、世界的大事業の偉大なる記念日になるだろう!」
 ウンラーは二カ月前にも言った台詞を、大声でうれしそうに叫んだ。
「わははははー、陸だあ!」
 それに続いて、ヒムケットも狂喜する。
 もはや明確に帯が見える。水色と黒色の中間、淡い色彩に浮かぶ陸地。水平線ならぬ地平線の間から顔を覗かせる朝日は、それはそれは神々しい、赤白い巨大なまるい、あらゆる命の力強い塊の源泉であった。
 見よ、いとしの陸地を。
 この瞬間に立ち会えたのは、まさに強運で勇敢な、九三〇名の勇者たちであった。
 みんな、次々と甲板にのぼってくる。誰もしばらく、何も言えなかった。
 船団は静かに、陸地に向かってゆく。
 ムック歴三四一年七月二七日午前五時一五分。この瞬間、中原人は、ブルガゴスガ人としてはじめて、大海洋の航行横断に成功した。

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