第二話 冒険航海

よろずなホビー
竜しかいない!/第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話 第七話

 セル公国。
 総人口八〇万人の、小国である。
 国内は長い戦乱が終結して以来、豊穣な農耕地帯を回復させて、すっかり豊かになっている。社会は安定し、犯罪は少ない。時々、思い出したように官僚と商人の癒着が裁判所管轄の公正監査巡視によって検挙される程度である。
 大河ムック沿岸は水力織機を利用するために一大工業都市化が進み、対岸の大国ラクシュウと織物の生産高を競っている。材料は毛竜(実はブルガゴスガ人の遠い祖先)の毛で、内陸のウゼラ=セル国境近く、セル連山ふもとで盛んに飼育している。
 こうして大量の安い織物を生産し、かつてはムック河を遡って内陸のムック国家に売っていたのだが、経済封鎖後の今では同盟内だけで取り引きをし、激しい低価格競争を繰り広げている。しかし、別に損をしているわけではない。消費経済文化が都市部で形成されはじめており、流通はむしろ活性化しているのだ。じゅうぶんに同盟内だけで経済発展を続けていける。
 こうした状況はラクシュウでも同じである。本来は戦争をする理由などはなかったはずである。しかし、台頭した商人はこの程度の富では満足しない。彼らは、貪欲に利益を追求する存在なのだ。とはいえ、西方との交易ができなくなり、おまけに内陸との交流が切断されると、どうしても儲け話には限界が出る。
 大商人たちはこの閉鎖的状態を何とか打破しようと、画策してニンを動かし、結果としてラナンの大敗を招くこととなった。
 名声の誉れ高いウネラーはその犠牲となって死んだ。享年六三歳。この時代としては、長寿の部類に入る。
 セル公国の歴史にとって、ウネラーは国土回復と建国の英雄だった。
 セルの歴史は新しい。セルの地は、かつてラクシュウ王国の一地方であった。
 いまから一〇〇年ほど昔のある日、当時ではゆいいつ、大河ムック以南のムック教勢力として領土をたもっていたラクシュウ王国セル公爵領は、野望の新興ウゼラ教国家テリシアに奇襲された。
 テリシアの智将ザイテック、勇将ファスナバーンは、自軍の損害を顧みず、大軍でひたすら力攻めを行ない、短期間で敵反撃能力を駆逐せしめるという、当時の限定戦争という常識を覆す奇想天外な作戦を立案。世界初の電撃戦略でもって、わずか数日でセル公爵はすべての領地をうしなった。
 難をのがれたセル公爵は大河ムックを越え、本土ラクシュウに助けをもとめた。かくして、旧領土に居座り、ウゼラ=セルと名を変えたテリシアと、セル公爵を中心としたラクシュウとの長い戦いがはじまった。
 国土回復戦線と呼ばれたこの戦いは、大河ムックをはさんだ一進一退の攻防戦が六〇年ちかくもつづいた。代々のセル公爵は、戦いの中で散っていった。
 しかしその流れをかえたのが、ウネラーであった。名前の一部に願をかけてムック教の唯一神ラーを入れた若き公爵は、戦いに経済の原理を取りこんだ。
 これまでは一方的な消耗戦だった戦いを、経済活動と融合させたのだ。平たくいえば、本土ラクシュウの商人と契約をむすび、戦いで獲得した領土での、経済活動の自由権を売り、それで軍資金を得たのだ。
 しかしいつ奪い返されるか分からない前線の土地である。さいしょ商人たちは出資をしぶったが、それを察したウネラーは策をめぐらし、小数で敵大軍を打ち破って見せた。
 商人は彼の実力を評価、信用するに充分と見て、快く投資してくれた。
 そして大量の物資、傭兵を補充しつつ、逐次戦線へ投入、数でウゼラ=セルを圧迫した。
 これは、封建社会の常識――騎士の領地経営権――を無視したやりかたであったが、以後、物量作戦と堅実な戦術でもって確実に成果をあげるウネラーの戦略に、夢を託した部下たちはだまってついてきた。
 そして一〇年まえ、とうとうセル公爵領はすべての旧領土を回復。国土回復戦線は完成し、ウゼラ=セルは西にしりぞいた。
 ウネラーはそれ以上の拡大をのぞまなかった。これ以上の戦いは、当初の理念と大義を越えたものとなるからである。
 それでよかった。いくら経済の概念を入れたとしても、戦争は基本的に最悪の浪費にほかならない。
 それに、戦いの末期に導入した鉄砲が、乱戦のなかで現物と技術者がウゼラ=セルに渡り、最後の一年はこれの応酬でたがいに死傷率の高い消耗戦を繰り広げてしまったのだ。
 戦争終結は、両陣営を安堵させた。
 英雄の功績を称えて、ラクシュウ王ニンはセル公爵領の独立を認めた。ウネラーは思いがけないプレゼントによろこび、ラクシュウを宗主国とする忠誠を宣言、自らを国王とせず、公爵(ムック教圏では神聖ムック帝国以外の特定国を主とする考えはなく、単純にムック教皇帝と周辺国国王が存在するだけである。ウネラーは政治的判断から、帝国の面子を損なわない手段を取ったのだ)のままで国の最高責任者となった。
 かくして、セル公国は誕生した。
 そして建国から一〇年、偉大な名将は戦場に散った。軍人という人為にふさわしい最後であった。
 セル公国では壮大な葬儀をおこない、老公爵の死を悲しんだ。
 喪に服す間もなく、二代目公爵の就任が発表された。載冠は行なわぬ。セル公爵は国の最高指導者でいながら、国王でも大公でもないのだ。セル公国は独立国であったが、形式はラクシュウ王国セル公爵自治領であった。
 二代目公爵は、ウムラーという。近隣では有名な、冒険好きの頼りなさげな中年男だ。
 彼には息子がいる。名はウンラー。
 当年一八歳の、本物語の主人公である。
 今はまだ、未熟な雛鳥だが……
     *        *
 ラナン海海戦から一カ月。
 対岸が見えない大河ムックの河口。百あまりの砂洲が散らばるこの場所では、ウネラーが登場するまでは、幾度となくウゼラ=セル軍とラクシュウのセル公爵軍が激突した。
 その戦いのさなかに建設され、いまは大河ムック河口の税関として機能しているクノース城に、三国同盟の首脳が集まった。
 このあたりの砂洲のなかでひときわ大きな三角州をえらび、立派な城を中心とした、ちいさな城塞都市がつくられている。この都市は、ラクシュウ領に属している。
 高い城壁がめぐるクノース城。町は全体が白い。塗っているのではなく、使用している建材が白い岩なのだ。大砲の登場により、いずれこれらの高い城壁は消え、幾何学的な低い城郭に変わるだろう。どちらも美しいが、この時代に生まれた者には、この壁こそが、自分たちを守ってくれる大切な象徴なのだ。
 クノース城の一画にある、せまい密室。
 盗聴にたいして万全の態勢をしいているはずのこの部屋に、東方沿海諸国民九〇〇万人の頂点に立つ者たちが集まっていた。
 ひとりは皆を呼んだラクシュウ王ニン。かの歴史的大敗戦により、皮肉と嫌悪を込めた無謀王という異名を授かっているが、本人は知らない。相変わらず豪華な服を着ている。この男の辞書には、質素という文字はない。大国の王という自負があるからだ。
 ひとりは釣り目が怪しいツエッダ。近年大発展したラクシュウ王国の利に授かりたいとラクシュウに近づき、結果としてニンに利用されて、主人であるサーナンドを裏切る羽目になった、運のない身分不相応の国王である。いちおう三国同盟の一員であるが、メンバーの中では威厳というものからもっとも程遠い。
 そしてひとりはウムラー。先代ウネラーの三男で、冒険公爵という異名をもつ。三人兄弟の末っ子として生まれた彼は、兄どうしの権力闘争とは無縁で、のびのびと育った。
 彼は帝王学に興味をしめさず、あっさりと公爵位継承権を放棄し、男爵の称号を得た。
 そして身軽になるやいなや、山にのぼり、洞窟に入り、川をさかのぼった。これは戦争に疲れていた民衆にロマンを与え、ウムラーは冒険男爵と呼ばれて親しまれた。ある日旅先で市井のフォーと出会い、おとぎ話のような恋愛結婚をする。二人で旅を繰り返しているうちに、一人息子のウンラーが誕生。息子が成長すると、三人で冒険をした。
 ところが運命のいたずらか、六年前、二人の兄が闘争の末にお互いが放った暗殺者の手にかかっておなじ日に死ぬと、ウムラーは直系唯一の跡継ぎ候補になってしまった。
 ウネラーはウムラーを公子に復帰させ、同男爵位は町の名士に下賜された。
「よけいなことしやがって。これで冒険ができなくなったではないか」
 これが、宮廷に戻ったウムラーが最初に言ったとされる言葉である。彼にとっては地位よりも、胸踊る冒険のほうが値千金であった。
 冒険はまる六年間はしていない。しかし国内巡回の旅は頻繁にしているので、民衆は彼を冒険公子、今は冒険公爵と呼ぶのだ。
 そして残りのひとりは、東方沿海一の賢者、ターエンである。
 今年で八八歳というとてつもない長寿を誇る彼は、若いころから歴代の、セル公爵家子息、子女の家庭教師をつとめてきた。
 彼の考えは独自のものであった。宗教にたよる学問は死んでいる。国の発展を願うなら、生きた学問による教育をするべきである。
 ムック教圏において教会に殺されかねないこの考えは、ムック教の中心地からもっともはなれ、ウゼラ教圏との最前線にあり、両文化が交わるセルの地では受け入れられた。この地では、両宗教の考えを理解する者がおおく、ムック教べったりになった偏見と迷信に満ちた既成学問の限界を知っていたのだ。
 あたらしい学問から生まれた新技術があれば、それは国土回復戦線に役立つはずだ。そう信じたセル公爵は、各地に市民学校を設立、宗教の原理にしばられない、自然な学問を啓蒙した。
 いつからかニンが全面的にそれを援助し、本土ラクシュウでもターエン主義は広まり、学問を志す若者が急増した。いろいろな新技術や考えが爆発的に生まれ、結果として経済、社会は大いに活性化したのである。
 いまのターエンは、三国同盟科学技術院院長という身分である。あたらしい学問を「科学」と称したのは、ターエンである。
 この四人で、これからの同盟の行く先を決定しようとしていた。
「科学文化同盟は狭小な見識から開放される科学という学問で、他国に先んじた文明を手にいれたと信じた。よって、教会勢力を駆逐し、政教分離をとなえ、ムック教圏からの分離を宣言した」
 会議は、まず主催者であるニンが発言した。ニンは続ける。
「しかし南まわり航路の制海権をもつウゼラ教圏は、われわれから吸収した火薬の技術において、われらをしのぐ速度で新兵器『大砲』を完成させていた。これは、われわれの考えが傲慢と増長であったことを意味する」
 ニンは軍事面においては無謀であったが、政治的に自己を客観的に見る能力はもっていた。それが、大国ラクシュウの支配者に必要な条件であった。ニンはさらに続けた。
「同盟は宗教勢力に挑戦せず、ムック、ウゼラ両宗教圏とは融和すべきであった。すなわち、あらゆる宗教の信仰をみとめ、われわれは両宗教文化の掛け橋となる道が最善であったといまは思うしだいである」
 それに全員がうなずいた。ターエン主義は、徹底した客観分析を基本とする。それなしには、自国安定の手段も見えない。
「しかし、もう遅いのでは? いまさらどうやってムック、ウゼラと手を取り合う? 奴らはこちらが下手になったところにつけこんで、喜んで軍隊を送りこんでくるぞ」
 発言者はツエッダである。彼は新興小国王のつねとして、周囲の国勢には非常にくわしかった。外に関心をもっていないと、いつすきをうかがわれて滅ぼされるかわからないのだ。ツエッダにニンが返す。
「無論、そのとおり。いまさらてのひらを返すわけにはいかない。しかし時間がたてば、われわれとの間にできた溝は、かならずや氷解すると思っている」
「氷解ね……時が解決するってわけか」
 これは冒険公爵ウムラーの言である。半分笑ったような表情でウムラーは続けた。
「何十年かはしらないが、その期間、俺たちはだまって外部との交易を断念し、ひたすら三国だけで自給自足をつづけていかねばならない……そんなことを強欲な大商人たちが許すとは思えねえなあ」
 一国の支配者としては、あまりにもウムラーの話し方はラフである。奔放な育ちが反映しているのだ。
「なぜ商人を恐れるのだ。彼らの言い分なぞ無視すればいいではないか」
 ツエッダ王国はターエン主義に参加してまだ二年半たらずである。よって、ラクシュウとセルでおこっているような、商人たちの台頭はまだない。情報で知ってはいるが、ツエッダは商人たちをそれほど脅威には感じていなかった。
「ふぉふぉふぉ。ツエッダの王よ、若いのう。それができないから、ラナン海海戦をやったのではないか? 商人の力は、今や同盟では最強じゃ。その気になれば、政府をしのぐ財力にものを言わせて、国を転覆させることもできるんじゃぞ。ムック教から解放されたと同時に教義の保護を受けなくなった今、わしら為政者は国民に尽くすためだけに存在が許されておる。同盟で最強の勢力である大商人たちのために色々と画策してやることが、わしらにとっての正義となり、同時に国の指針となるのじゃ。たとえそれが相対的には悪であってもな」
 ターエンである。ツエッダの浅考をたしなめたあと、彼はニンのほうを向いた。
「ラクシュウの王よ、わしらを呼んだ理由はもはや明白じゃ。そろそろ、本題にはいってくれないかね? わしゃ長い会議は疲れる」
 それにウムラーもうなずいた。わかっていないのはツエッダだけである。
「いったい何を話しあうというのだ?」
 ニンはツエッダを見て、静かに言った。
「もちろん、新通商航路開拓のことだ。商人たちがうるさがってな。ラナンの大敗ですっかり意気消沈しているかと思いきや、べつの道を探索しろ言いおる。それで、私にある提案があるのだが――」
     *        *
 小高い丘にあるクノース城の庭から、城下町の様子が見える。上流にある粘板岩でつくられた乳白色の町並は、天気がいいこともあってか、とても美しい。活気もある。
 それを見ながら、ひとりの青年が風に青い髪をなびかせていた。
 背丈は普通、肉付きは華奢である。育ちの良さそうな顔つき、青い目には、高い知性がかんじられる。見事な白い双角は、色の遺伝子がなくなった突然変異でめずらしい。服は白地のズボンと上着で、良質の生地からできている。
「ウンラー、ここにいたのか」
 そこに、青年よりも頭半分ほど背がひくい若者が走り寄ってきた。釣り目である。角は普通のブルガゴスガ人とおなじ濃灰色。服は赤色でフリル付き。やや成金的趣味だ。
「クアーダ」
 青年は笑みをうかべ、親友の名を呼んだ。
 青い髪と目の彼はセル公国、冒険公爵ウムラーのひとり息子、公子ウンラー。当年で一八歳になる、やっと登場した本編の主人公である。
 そしてウンラーのもとに走ってきたこの釣り目で黒髪灰目の親友は、クアーダ。ツエッダ王のひとり息子である。彼も当年一八歳。
 ふたりは歳が同じで一人っ子同士ということもあって、ツエッダ王の載冠式で出会ってから、二年来の友人である。
「ウンラー、父上たちの会議がもうすぐ終わるようだ。さきほど、ターエン老が部屋からでてきた」
「……そうか」
 しかしウンラーはすぐに笑みをなくす。
「どうしたんだ、ウンラー。君らしくないぞ、話してみろ」
「ありがとう。ただ、この城がお祖父様初陣の地だということを思い出してね……」
「そうか、ちょうど一カ月前だもんな。あんなに元気だったのに、たった一本の矢で……ウネラー様を慕っていたからな、ウンラーは」
「…………」
「たしかバッタだったけ……仇討ちの相手は――機会は必ずあるさ、奴の国ウゼラ=セルは、セルとは隣合わせじゃないか」
 クアーダは友人を励まそうと、一生懸命になっていた。あまり上手なやり方ではなかったが、ウンラーはクアーダのこういう一途なところが嫌いではなかった。ウンラーは自分の持っていない真摯さと気楽さの両方を絶妙に持ち合わせるクアーダにいつのまにか励まされ、短時間で立ち直ることができた。
「ありがとう、クアーダ」
 さっきの「ありがとう」に加え、親愛と感謝の情が込められていた。
 クアーダは素直に喜んだ。
「沈んでいるウンラーは、ウンラーらしくないからね」
 さらに何か言おうとしていたが、
「曲者だ、であえ!」
 クアーダの声は、突然の大声に掻き消された。
 公子と王子はおどろき、まわりを見回した。周囲はそれまでの静けさが嘘のように、城内を駆けまわる兵士の声や足音で騒然となり、えもいえぬ緊張感が二人を包んだ。
 そのとき、かれらのすぐ横にあった木陰がかすかに揺れたかとおもうと、そこからひとりの人物があらわれた。
 ふたりはその異様な服装から、その人物こそが曲者であるとすぐにわかった。覆面に全身タイツ、その色は白である。
 ウンラーは、曲者と目をあわせてしまった。澄んだ目は黄色い。大河ムック以北ではひじょうにめずらしい色だ。
「ひゃああ!」
 とたんに、クアーダはしりもちをつく。何かを叫びたいようだが、声がでない。彼はとても気が小さいのだ。
 ウンラーと曲者は、しばらくおたがいの目をじっと見つめていたように感じた――周囲が見えなくなり、黒い背景に青と黄の瞳が、互いの像を無数に映す――が、実際はほんのわずかな時間であった。
 曲者がウンラーから目を反らせてふたたび逃走をはじめようとしたときである。
 ウンラーは思わぬことをした。
 曲者の片腕を、そっとつかんだのだ。
 もしかして、黄色い瞳をまだ見ていたかったのかもしれない。
 曲者はびっくりして、すぐにウンラーの手を振りほどいた。そしてウンラーをちらっと見たあと、音もたてずに走り去った。
 そして「クエーっ」という声とともに、一羽の白く美しい翼竜が姿をあらわした。首のところに、あの曲者が座っている。自分の体重の二倍はあろうかという竜人を支えつつも、その翼竜はそうとは感じさせない軽やかな線を描いて、風を滑空する。
 翼竜は城壁を越え、たちまち白い町と同化して、どこにいるのかわからなくなった。
 ウンラーは、自分がなぜあのような行動をとったのかわからなかった。彼は、曲者の感触が残る手をじっと見つめた。
 そこに、ガナスがやってきた。バッタとやりあったあの槍を抱えている。
「若様、大丈夫ですか! 曲者がおりますぞ、はやく建物の中に! ささっ、そこのクアーダ殿下も」
 ウンラーは「若様」もしくは「若君」である。王子ではないため、「殿下」とは呼ばれない。
「ひええ~」
 その声を引金に、クアーダはすごい速度で城内にむかって走り出した。なさけない王子である。
 ウンラーは、曲者が消えていった方向をじっと見つめながら、ちいさな声で、
「やわらかい腕だった……」
 と、一言だけつぶやくと、ゆっくりとした足取りでガナスのほうに歩いていった。
     *        *
 翼竜は一気にクノース城を北上し、大河ムック北岸へと着いた。緑生い茂る林に着地して、真っ白い曲者は辺りに誰もいないことを確認すると、そっとタイツの覆面を取った。
 その下から現れたのは、まだ一〇代半ばほどの、なかなかに華麗な容姿と雰囲気の女性の顔であった。
 短めに揃えた淡い黄色の髪と目は、いずれも大河ムック以北ではめずらしい。
「はあはあ……失敗するかと思ったわ、ポンパー」
「クウ」
 翼竜は言葉を解さないが、この白いポンパーは主人の雰囲気を理解することができる、理想的な話相手だ。
「それにしても……やるわね、同盟は」
「クエ?」
 若い女性――少女と女性の中間というところか――は、汗でべとついた髪をほぐしながら、愛竜に語り続ける。
「これは絶対、ムックもウゼラも黙ってはいないでしょう。ニン王は融和までの時をあの国策で乗り切ろうなんて言ってたけれど、裏では混乱の招来を望んでいるようにしか聞こえなかったわ」
 近くの草むらに隠してあった村娘の地味な着替えに袖を通しながら、両眼に力を入れる。
「この航海、絶対に見届けてやる」
 金色に輝く瞳の光は、ウゼラ=セルの海賊将軍バッタと同じものであった。
     *        *
 同盟は、ラナン海海戦で三艦隊のうちの二艦隊で提督が戦死した。また全軍の八割を失い、それは同盟制海権保持能力の弱体を意味していた。
 敵が弱まったところに、とことんつけ込むことは古今東西の常套である。同盟は周辺勢力のすべてを敵にしていたため、数多くの間者が秘密裏に、情報収集のために同盟に潜入していた。
 各国は、以前から同盟の軍事改革や新兵器についての情報を探っていたが、これは分厚い秘密の壁をどうしても突き破ることができない。手っ取り早いのは、同盟に実際に戦争をしかけて、自国の兵士を犠牲に情報を得ることだが、そんなことは道義以前に人としてやってはならないことである。とにかく、にわかに増えた密偵たちが注目したのは、とくにこの一点であった。
 クノース城での秘密会議は、何であったのだ?
 しかし答えは出ない。それを知っているのは、ほんの一握りの人物だけである。
 ムック教圏はいらだった。もしや、狂った同盟がこちらに宣戦してこないとも限らぬ。
 鉄砲という兵器の恐ろしさは、身をもって体験したことがないぶん、各国首脳の想像力を盛んにかきたてあげた。
 そのうえ宿敵ウゼラには、大砲なる、鉄砲をはるかに上回る超兵器があるというではないか。同盟がウゼラに負けて弱体化したとはいえ、ムック各国は同盟に手出しができないでいた。
 ムック各国が同盟討伐に進軍したすきに、ウゼラが大砲を伴って陸路侵入をはたしたらとんでもないことになるからだ。
 ムックは、動かない。
 それは、ウゼラ教圏も同じである。
 ラナンで勝ったあと、戦いを主導したウゼラ=セルがセル公国に宣戦するのではとウゼラ各国は予測していたが、ウゼラ=セル国王グンヌクスは、しばらく黒旗艦隊をラナン海に進駐させたまま、沿海諸国を威圧した。
 各国は戦慄した。最強無敵の巨漢バッタがいるだけで、交易商船が遠のき、各国の税関収益はがた落ちである。
 グンヌクスの意図を見抜いた沿海諸国は、使者をウゼラ=セルに派遣し、数多くの権益と引き換えに、黒旗に帰ってもらった。
 グンヌクスは老齢の策略家である。自国繁栄のために、どうすれば最低限の労力で最大の効果をあげられるかをいつも考えている。
 ラナンの勝利は、隣国セルに宣戦するのによい好機ではあったが、セルにはまだ無傷の陸軍がいるのだ。戦端を開いてセル陸軍の火器に半数が初陣になる兵士たちをけしかけるくらいなら、ラナン海での権益をいくらかくすねるほうがどう考えてもまだよい。各国はバッタを敵にすればどうなるかを一緒に戦って体験しているので、戦わずして、戦争に勝ったのとおなじだけの影響力をラナン海沿海諸国に行使できるのだ。
 クノース城の会議など、グンヌクスには興味がない。しばらくは、ラナン海沿岸地域への政治的経済的干渉政策で、忙しくなるのだ。同盟がまたのこのこと進軍してきたら、ただバッタに任せればいいのである。
 ウゼラも動かない。一番動くことのできる国に、動く気がなかったからである。
 そして同盟周辺は平和のうちに、三カ月あまりの時間が経過した。
     *        *
 五月はじめ。
 ツエッダ王国首都、ノストール。三国同盟がいずれも海洋国家であることは、首都がすべて水に面した都市であることからも分かる。
 かつて、サーナンド王国ノストール州の州都であったこの都市には、王城などはない。
 ツエッダ王国は建国からまだ三年とたっていない。王の住まいは、城ではなく公邸だ。元ノストール男爵公邸、赤三本角館。今は王居であり、政治の中心である。
 ツエッダ王国、人口五〇万人。ノストールはそのうちの七万人が住む、なかなかの都市だ。ここにはラクシュウ、セルから多くの投資が続き、好景気の波は発展を加速させ、国民は気鋭と希望にあふれている。
 それは、王の執務室から町の活気を見れば、いつでも感じることができた。
「民草というものはな、為政者が公平な政策を実施し、安定した生活を保障し、生き甲斐を与える指針さえ提示してやったら、たとえ征服者や反乱分子の統治であっても、自然とついていくものなのだ」
 ツエッダ王国初代国王ツエッダは、息子クアーダに政治家のなんたるかを説いていた。
「俺はニンに軽い気持ちで接近した。俺の野望もあったが、逆に奴に利用されて、俺のプライドはずたずたになった。だがな、結果として、民衆はこうしてサーナンドの一州であった頃よりいい生活を満喫している……この様子を見れば、俺個人の尊厳など、どうでもよくなるのさ」
 ツエッダは釣り目だけが目立つ顔に自嘲の笑みを浮かべた。王は息子であるクアーダを、これから修業に出そうとしている。短い航海だが、かならずや良い経験になるだろう。
「おまえに命ずる。二週間後に、未知なる北海までおもむき、沿岸の天牙族と交易の算段をつけよ」
「はい、父上」
 迷わずに即答するクアーダには、クノース城で曲者と出会った時のなさけなさは微塵も感じられない。
     *        *
 ムック教圏で同盟にもっとも憤りを感じているのは、とうぜんサーナンドである。自分の国の領土が、いきなりラクシュウに奪われたのだ。そしてラクシュウ、セルで生まれたばかりの保険、銀行業者が、ツエッダを盛んに投機対象としている。
 サーナンド首脳部は新しい経済システムなど、理解しようともしない。ツエッダ――ノストール州が、完全に同盟の植民地になり下がったと思い込んでいた。景気に沸くツエッダの情報が、潜伏している間者からもたらされるのだが、事実はすべて首脳たちには歪曲され、旧領地で略奪した征服者たちの贅沢三昧だと、憎悪される始末である。
 真実は、ニンが同盟結成を決めたときに、溢れる金の使い道に困っていた保険、銀行業者が、ちょうど問題の焦点となっていたサーナンド王国ノストール州に目をつけ、ニンにノストール独立と同盟編入を主張したのだ。
 野心家のニンは、強引にその通りにした。ツエッダ王国建国は、ラクシュウとセルの金融業界に益をもたらし、その恩恵にツエッダ王国は乗っているのである。
 うまくいけば、ちゃんと両者が得をする金融投資システムを、一方的搾取である植民地化だと決めつけているから、ニンはサーナンドとまともに話し合う気などなかった。
 とはいえ、客観的に見れば、やはり同盟はサーナンドにとって侵略者であった。
 サーナンド首都、ケファントフルナンド。人口二〇万人の、運河、河川が近くにない都市としては、中原最大規模の古都である。周辺にある、最後に「ンド」という名を持つ国は、すべてこのサーナンド王家を発祥としていた。
 王宮は、神聖ムック帝国創世以前から存在していた。長年による改築、増築を経て、この宮殿は複雑きわまりない迷宮と化している。「ほう、冒険航海とは……やりおるのう、ツエッダめが」
 サーナンド国王、ポルシア。現在三六歳の、封建制度の典型的な保守的支配者である。秩序を不動と位置づけ、どんな改革も絶対悪と決めつける、頭の固い、同盟にとっては扱いに困るもっとも嫌な人種の一人であった。
 狡猾な目をした禿男は、ツエッダ動くの報を聞いていた。
「それで、出港はいつだ?」
「五月一六日、明々後日です」
 ポルシアはしばし考えた。
「ミリ」
 かしこまっていた臣下の列から、声に応じて、ひとりの中壮の男が王の御座の前に進み出た。ニンほどではないが、なかなか恰幅のいい重そうな体を豪華な金属鎧で包んでいる。
「貴様に重大な使命を与える。心して聞くがよい」
「ははあ」
     *        *
 五月一六日。
 ツエッダ王国、ノストール港。
 五隻の新造帆船が、出発を待っていた。
 目指すはラクシュウ北部、未知なる北海沿岸。約七日の旅である。
 出港式は盛大に行なわれた。
「いままで僕たちは、ムック教の教義により、野蛮だと信じさせられていた民族が住む、北方の資源を利用しようとも思わなかった。だけど、それは誤りだ。とにかく、まずは沿岸の天牙族と取り引きの算段をつけ、しかる後に商人の船団を送ろう。それが、わが祖国繁栄の糸口となるはずである」
 クアーダの出港演説は、簡潔にして明解であった。
 ここで、クノース城三国会議の内容を説明しておかなくてはならない。
 じつは三国会議は、ニンが提案した、同盟が冒険航海へ挑戦するための会合であった。西方諸国がだめ、ムックがだめ、ウゼラがだめだとなると、商人たちを納得させるには、ほかの新交易航路を開拓すればすむ。
 とはいえ、思いつく範囲では、ムック教によって人扱いされずに、まったく交流のなかったラクシュウ北の天牙族、存在は文献等で確認されてはいたが、ムック教の世界では否定されていた南洋諸島しかない。
 後は、ターエンの「大地は丸い」理論によって、東の未知の海へと船出して、西方諸国へとたどり着く道である。惑星は球体だから、西にある場所へは、東に行ってもいつかはたどり着ける。単純だが、大きな意味があった。
 未知の交易相手のところに既知の航路で向かう冒険が二種類、既知の交易相手のところに、未知の航路でたどり着く冒険が一種類。
 冒険計画は合計三つ。同盟は全部で三カ国。
 話は簡単だ。三つの国が、それぞれの冒険に挑戦する。無事に新航路を開拓した場合は、その航路の通商優先権は成功した国が有する。
 そして北、東、南を、どの国が担当するかでもめたのだが、結局一番実入りと確実性の高そうな南、すなわち南洋諸島は、やはり大国ラクシュウが通商交渉権を獲得した。
 北は、航海自体はたいしたことないが、かんじんの交易相手である天牙族の、絶対人口が少ない。これは、ツエッダが確保した。
 そして東の大海洋へ乗り出していくのが、やはりというか、冒険公爵ウムラーである。セル公国に士官しているターエンも、この東行きには自ら望んで参加しようとしている。
 ツエッダとセルは、いずれも最新の技術を動員して、新たに航海用の外洋航行帆船を造船し、選りすぐりの兵士、水夫に厳しい特訓を課した。
 そしていま同盟一番乗りで、わずか五隻で編成されたささやかなツエッダ王国船団が、北の海へ乗り出そうとしていた。
「行ってこい!」
 ツエッダの言葉は、この一言だけであった。
 クアーダは父に礼をして、帆船ウイルを旗艦とする船団は、帆に風を受けて出帆した。
     *        *
 大河ムックの中流から上流に広大な版図をもつ、神聖ムック帝国。その神都ムックは、大河ムックのほとりに建設された、三五〇年以上の歴史をもつ古都である。
 長年かけて洗練された巨大な聖紫竜宮の最深部、すべてのムック教に関する教義を決定してきた教皇帝の間。そこに、帝国八次皇王、ムック教圏の主な国々の大使、そして多くの有力貴族たちが集まっていた。その数、約一〇〇〇名。壮麗な景観だ。
 競技場なみの広さがある部屋のまんなかを貫く、教皇帝しか使用を許されていない紫のじゅうたんの道を、教皇帝ノーラ三世が紫竜の皮からつくった重いマントをひきずりながら、帝王の椅子に向かって歩いている。
 ノーラ三世はちいさな老人である。重いマントは、老人の背丈の軽く五倍はあるだろう。伝統が閉鎖という悪癖と結びついたすえの、それは滑稽な情景であった。
 ノーラ三世の臣下たちは、全員が頭を垂れてかしずくだけで、だれも老人の手助けをしない。老帝以外には禁忌である紫のじゅうたんに踏み入れた者は、死を賜るからだ。
 老人の「ぜいぜい」という息継ぎと、「ずるずる」というマントをひきずる音だけがする、長い時間がすぎた。
「ノーラ三世陛下の御体、ご着座ー」
 老人が椅子に腰掛けて発せられた、稟とした小姓の大声が皆を覚醒させた。時間がかかりすぎたせいで、中には夢の世界から戻ってきた者もいた。
「ぜえぜえ……本日は遠路はるばる、みなに集まってもらって余はうれしいぞ。急な呼びかけにもかかわらず、こうして全諸侯が参じてくれたのは、ひとえに神への忠誠あつきものと余は受け取ろう。ラーに栄光あれ」
 ノーラ三世の声はよく通る。諸侯一〇〇〇人が合唱する。
「ラーに栄光あれ」
「さて、本日は何であったかな?」
「東の異端者、『同盟』の航海阻止の件です」
 隣に立つ高級神官が小声で老帝にささやく。
「そうそう、異端者どものことだ。あやつらはこしゃくにも……」
 老帝は言うべき内容を思い出せなかった。
「おまえがかわりに説明してくれぬかね?」
 これにはさすがに、高級神官はあきれた顔を隠しきれなかった。
     *        *
 天牙竜という恐竜がいる。羽根の翼と羽毛の尾を持つ、二足歩行の小型肉食竜である。とはいえ、その体高は二ゴスガ(三メートル。一ゴスガは中原の双角竜人の平均身長)近くはあり、性格は獰猛にして勇敢。おまけに短距離だけだが、飛行することも可能である。小さな鳥に進化しつつあったものが、どういうわけか大型化した――そんな恐竜であった。
 ブルガゴスガ人がこの暴れ竜を乗りこなすことは至難の業である。中原の歴史上、この天牙竜を乗りこなすことに組織的に成功しているのは、ただ天牙族のみであった。
 天牙族は森林資源が乏しく、ほとんどが草原の北方高原で、狩りと放牧で生計をまかなう、町というものを必要としない、自由気ままな遊牧の民である。
 主に中原では狩り尽くして久しい紫竜、恐鬼竜、鬼竜や、中原では食用に大量飼育されている沼竜、堅頭竜を狩ったり、草食の鎧竜、甲竜、角竜などを食用や財産そのものとして飼育して暮らしている。
 そして彼らの日常の足として活躍するのが、勇壮な天牙竜であった。
 北方高原は近年統一された。支配階級は天牙族最強部族のウイハッド、国名は単純にウイハッド天牙王国、初代国王は「草原の牙竜」ことバツヌである。
 この統一がなされるやいなや、神聖ムック帝国は北方との間に長城を築いて対立してきた数百年の歴史を捨て、彼らの教化に乗り出した。
 高原の天牙族は厳しい風土で生計が苦しかったため、たびたび帝国領土へ侵入しては、略奪を繰り返していた。帝国は何度も天牙族討伐を図ったが、本拠地という概念のない彼らを屈伏させることは、どんな希代の名将にも不可能であった。
 そのために高壁の長城で――それでも三回に一回は侵入されたが――国境を固め続けていた。
 しかし、相手が統一されたとなると話は別である。
 統一政権――その誕生こそ、彼らの教化の好機である――そう叫んだのは、時の八次皇王のひとり、ビューロー王セイゼナック・テス・フルーダ・ビューローである。
 彼は代々長城の守護を担ってきたビューロー家の窮乏を訴えた。
「軍隊というものは、ただ消費するだけで何も生産しない。駐屯兵への給料、長城の維持費、そして莫大な兵站費――国庫から多額の援助を受けているとはいえ、私の負担はあまりにも大きい。とくにここ数年は、大勢の天牙族が、難民として我が領内に流れ込んでくる。奴らが武器さえ持っているのなら、門から南には行かせないのだが、乳飲み児を抱く母親が先頭なのだ、受け入れざるを得まい。この増える一方の難民も、何も生産できないのだ」
 このままでは帝国開闢以来の伝統である、八次皇王の家が破産してしまう。駐屯兵と難民――両問題を一気に解決するには、高原を味方にすればよかった。さいわい、統一された一地域というものは、頭と仲良くすればことたりる。
 セイゼナックの訴えは神官を動かした。当時ムック教圏はウゼラとの戦争で優位に立ち、閉塞感が薄まり、進出と変化を望む者がけっこういたからである。
 そして天牙族はムック教圏に組み入れられた。実体は、天牙族が略奪する必要のない程度の援助を、帝国が無償で行なっているのだが……。
 いま、高原に噂が流れた――野蛮国ツエッダが北を襲うぞ――
 不吉な噂は北方一帯を駆け巡った。
     *        *
 五月も終わりちかいある日、セル公国首都、港町ボス。ボスの港は、いつもより五割り増しで、にぎやかだった。
「若様が、とうとう御出発なさるそうだ」
「そうかい、そりゃいいことだ。ツエッダの腰抜け殿下もかなり前に出発していたから、うちの貴公子はいったいいつ出港するのかと、やきもきしていたんだぜ」
「ああ、これで俺達の未来は安泰だな」
「安泰なもんかよ。ほんとうに東に行って西方にたどりつけるのか?」
「この罰当たりが! 成功するに決まってるじゃないか。あの賢者ターエン様がおっしゃっておられたじゃないか。『われらの大地は球だから、西にあるものは東にもある』って」
「だけど、ターエン老はこうも言っている。『確かめなき理論は科学ではない』と」
「……とにかく旅立たなければ、確かめることができないじゃないか」
「そうだろうよ。誰にも成否はわからない。つまりこれが大博打にちがいないのは、間違いあるまい?」
「そういうことになるのかな。とにかく、無事に帰ってきてもらいたいものだな」
「そうだな、あの公子様は、みんな好きだからな」
 という街角の酒場での会話にあったように、この旅立ちは、人々の期待とともに、不安や心配も内包していた。
     *        *
「ほう、俺ははじめて見るが、これはなかなか立派な帆船ではないか。これなら、どんな外洋の荒海でも突破できるぞ」
 豪奢な正装のセル公ウムラーは、息子の旅立ちを見送るために、港に来ていた。
「ウンラー、むりしないでね。これいじょう行くのがだめだと判断したら、すぐに引き返すのよ」
 その隣には、公妃のフォーがいる。上品な服装と物腰には、宿の看板娘だった頃からの、心やさしい彼女の性格があらわれている。
「ははは、フォーよ。大丈夫だ。この旅には、巨大な知恵袋のターエン老に、わが国最強の戦士、ガナスとヒムケットがついていくんだぞ。な、ウンラー」
「はい、かならずや成功してみせます。それでは父上、母上、ウンラーはこれから行ってまいります」
 そしてウンラーは、新造巨大帆船ギルガンデツに乗り込んだ。さいごの搭乗者である。
 ラッパが鳴った。出港の合図である。音は四回、公爵家船専用の回数である。
 ギルガンデツ甲板上では、多くの水夫がせわしく移動する。
 錨があげられ、帆が風をうけ、船はすこしずつ動きだした。
 ギルガンデツ甲板のへりから、ウンラーをはじめとする航海の責任者が、直立不動で公爵夫婦に礼をする。右手を斜め横下にまっすぐのばし、そして頭まであげて敬礼。これが、ムック式の航海にでる者の挨拶であった。
「我は海に沈まず、生きてまた陸にかえるであろう」という呪いである。
 港内でギルガンデツはおなじ形をした三隻の帆船と合流、直列陣を組み、そのまま出港していった。
     *        *
「大丈夫かしら。まだ誰も、東の果てに行ったことがないんでしょう? その大冒険を、いきなりウンラーにまかせるなんて……あなた、冒険公爵の名はどうしたのよ」
 フォーは、基本的にこの航海に反対であった。それもそうである。なにせ、「誰も」到達したことのない、前人未踏の旅なのだ。どのような危険があるかさえもわからない。
「……俺が命じたのではない。ウンラーは、自分から望んだのだ。不肖の息子だぜ、まったく……」
 ウムラーは、国をおさめる義務がある。冒険公爵みずからが国を空けたとすれば、そのあいだ、ただせさえラナン海海戦で大打撃をうけたセル公国は、危険な状態になる。なにせ、国境を接しているのはウゼラ=セルだからだ。
 この国はかの海戦で、ウゼラ教圏での力を増しているのだ。勢いに乗ってこちらに攻めてこないともかぎらない。ウゼラ=セルの陸軍にはたいした指揮官はいないが、おかかえ海軍の海賊バッタは、恐るべき戦術家だ。
「あいつは、ウゼラ=セルを警戒して、俺が国をあけることをいさぎよしとしなかったんだぜ。しかし会議での決定は、同盟の一員として履行せねばならない。それで、かわりに自分が行くと言いだしやがった。まったく、末恐ろしい奴だ。てっきり、俺に似ていると思っていたが、あいつはやはりウネラーの感覚を受け継いでいるぞ」
「まあ、そうでしたの。それならば安心ですわ。あなたときたら、国をついでも夢ばかり見ているのですもの。私は冒険をしているあなたが好きですが、やはり引くべきところは心得ませんとね」
「うっ、俺をそう見ているのか、フォー」
「あたりまえです。会議であのニン王に押しつけられた危険な航海を冒険ロマンだなんて浮かれて、毎晩おそくまで私にいろいろと子供のように話をしていたんですよ、あなたは。ほんと、夢想家の子が現実家でよかったわ。セルの未来には、これでいいんです」
 会話からもわかるように、この航海ははじめ、公爵みずからが指揮をとるつもりであった。しかし公子ウンラーがウゼラ=セル脅威論をとなえ、結果、国に責任のある公爵は権限を譲渡し、ウンラーが航海の責任者となったのだ。
「帰ってこいよ」
 すでに港をでた四隻の帆船を遠くに見ながら、公爵夫妻は船出した若き息子の無事をいのった。
     *        *
 フォーはじつは、息子の半分しか見ていなかった。
 ギルガンデツ船上である。
「ふふふ、こんな面白い冒険をする機会なんか、二度とないよ」
 ウンラー公子は、やはり冒険公爵の子であった。それに祖父ウネラーの能力も引き継いでいるから、よけいにたちがわるい。
 ウゼラ=セル脅威論は、自分がこの航海に参加する口実でしかなかったのだ。
 ウンラーは東の空を見た。雲がたなびく。恐いもの知らずの公子は両手をひろげた。
「今日は、世界的大事業の偉大なる記念日になるだろう」
 ウンラーは、失敗することをまったく考えていない。
 ムック歴三四一年五月二五日。
 セル公国公子ウンラー、一八歳。
 のちに航海公子と呼ばれるようになる彼の、歴史の檜舞台へデビューした日であった。
 しかし彼はまだ知らない。
 苦難と喜び、愛と友情、そして冒険の意味を……

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