第八章 六日目、七日目、地震竜作戦。

よろずなホビー
地震竜作戦/序章 第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 終章

 翌六月一二日午前五時二〇分、激しい雨の中を、自然災害対策局本部ビルから、地震竜作戦の第一実行部隊が、数台の高速装甲車に分乗して出発していった。
 その中に、宮沢憲司ら防人部隊第一分隊第二小隊の姿があった。
 地震竜作戦は、会議に参考人として参加した宮沢憲司の提案した作戦名である。地震竜――すなわちサイズモサウルスは、米国で一九八〇年代に発見され、発掘に一〇年以上もかかった巨大な首長の草食恐竜で、最大体長が五〇メートルにも達する、地球史上最大の陸上生物である。歩くと地響きが起きただろうという想像から、地震(サイズモ)の名を与えられた。
 今回の対策対象が地震に崩壊と、まさに地震竜の名にふさわしい災害であったので、彼の案はすぐに採用された。
 作戦の全貌は、次の通りである。
 まず、防人部隊の精鋭で構成された第一実行部隊は、宮沢憲司らの先導により、大見山大空洞のプルトニウム回収を急ぐ。探検隊が知る限りにおいて、残存している筒は一本だけであるが、他にもある可能性があるので、実行部隊は複数の班に分かれる。
 それと平行して、盾部隊の精鋭で構成された第二実行部隊が、大見山南岸の大崩壊地帯と、大空洞に大量の爆薬を仕掛ける。
 そして第一実行部隊が全員脱出した後で、大見山南岸と大空洞の段階的爆破を行ない、二次崩落という後顧の憂いを断つ。
 その行動とは別に、一〇〇万人を越す指定地域住民の避難誘導、船舶、危険物質の移動を、盾、防人、守衛の、残ったすべての人員を動員した第三~第七実行部隊が、約五千人の交通警察との連動で指揮する。
 そしてこれを直接にバックアップするため、日本中に散らばる作戦部の事務所をフル稼動させ、局の本部作戦室で統制する。
 総指揮は高栗将人局長が本部作戦室で執り、参謀を作戦部部長の村田が、第一および第二実行部隊の現場指揮は、予防部部長の原が受け持つ。以上、前線二部と各協力機関だけでも推定一万人余りが参加する、空前規模の対自然災害予防作戦。それが、地震竜作戦であった。
 それに地元の消防団や各市町村の自治会が、独自に各々の耐震対策を行なう予定である。
 日本中が、まだ起きぬ伊予灘大地震に注目していた。
     *        *
「なぜ私だけ参加できないのよ!」
 高栗美佐は局長室で、父親に食ってかかっていた。それに対して、高栗局長は淡々とした言い方で受けた。
「お前は大空洞侵入事件を起こした第二小隊の最高責任者だぞ、責任を取って今回は作戦には参加させない。小隊の指揮は、お前のかわりに、宮沢副小隊長に任してある」
「無理よ、彼はまだ入局一カ月の新人じゃない……おかしいわ、責任問題はこの災害が一段落するまでは保留にするって決めたはずよ。お父さん、私を危険な目にあわせたくないだけなのね」
 まさしくその通りだったので、高栗局長はすぐには反論出来なかった。
 その様子で局長の真意に気づいた秘書の北条萌が、声を出さずに笑ったが、高栗局長に一瞥されて、そ知らぬ振りをした。
「……局では『お父さん』は止めろ。とにかく、駄目だ」
 まったく取り合ってくれない。仕方なく高栗美佐は局長室から出ていこうとした。
 ルルルルル――ルルルルル
 そこに、緊急連絡が入ってきた。高栗美佐はその内容に興味をもって、部屋から出ていく歩みを停めた。
「何事かね」
 高栗局長は机の左にある、映像通信機のスイッチを入れた。
「警察です、お忙しいところすいません。実は例の事件のことで、どうしても知らせなければいけない大変な事態になったので……黒裏が殺されました」
 その一言は、局長室の三人を仰天させた。
 警部が知らせたことを要約すると、次のようなことだった。
 昨夜警察が長浜の原発に乗り込んだが、そこで発見されたのは、黒裏こと鈴鳴啓太の物言わぬ死体だった。喉元を刃物らしきもので一なぎという、絶妙の技だったという。
 さらに、四本ある『杭』のうちの一本が、その駆動系を破壊されてしまったという。同原発は海に浮かぶ人工島――『浮島』であり、陸地近くでは、一本が二〇階建てビルにも相当する高さとボリュームを持つ、四本の巨大な杭を、海底固定用に打ち付けてあった。
 そして杭のうちの一本が、この破壊工作により海底から抜けなくなり、それを修理しない限り、原発を長浜から移動させることは不可能になったのだ。
 そのうえ、この浮島を移動させる牽引船の牽引フック固定基盤が、その五つのすべてを爆破された。
 浮島は巨大すぎるため、自力での航行ができるような、強力なエンジンを持っていない。牽引という手段によって、やっと好きなところに行けるのだ。
 浮島を牽引する船の馬力はすさまじいものがある。よって、専用の頑丈な固定基盤を必要とするのだ。この固定基盤を修復するには、けっこうな時間がかかりそうである。
 黒裏こと鈴鳴啓太が殺害され、原発に対する一連のテロがあった後、行方をくらませた人物がいた。黒裏の部下で、研究員の水川孝一という男である。そしてこの男は、例のビデオに映っていた人物と、どうやら同一人物らしいのだ。
 任意で取り調べを受けている鈴鳴輝久教授によると、水川は普段から感情表現がまったくなく、それは複数の証言で確かだという。
 しかし、ビデオに映っている水川は、焦りにゆがんだ表情をしている。警察は彼を一連の事件の重要参考人と断定し、さらに精神に異常があるかもしれないと判断した。そして彼は、大見山大空洞に出現する可能性があるという。
「水川は刃物や体術に秀でており、かなりの戦闘力を持っていると推測されます。そのうえ水川が黒裏殺しの犯人だとすれば、彼は人殺しも行なうまさに凶獣です。こちらから大空洞に何人か派遣しますが、とにかく気をつけてください」
「わかった……それで、原発を移動可能に持っていくには、どれほどの時間が必要なのだ?」
「なんとも言えませんが……杭は半日もあれば十分だそうですが、牽引船の件は……」
 刑事の心情を察して、高栗局長は彼の続きを言った。
「地震までには間に合わない……と」
 そのとき、それを思深げに聞いていた高栗美佐が突然叫んだ。
「待って! それなら、いい方法があるわ」
「何を言ってるん――」
 高栗局長はいきなりの割り込みに驚いて、娘のほうを見た。当の高栗美佐は自信満々で、目は真剣そのものである。
「――策があるようだな、話を聞こうか」
 高栗局長はこういうときの娘が、常に良い発想をしていることを知っていた。
     *        *
 午前八時、アクリルカバーで外界からの気象干渉を一切排除した有料特別高速道路から、平均時速一五〇キロでぶっとばしてきた群青色の高速装甲車が数台、大畠インターから国道に降りて、そのまま屋代島に入った。
 雨でもやのたち込める美しい新大島大橋を、味気ない装甲車が駆けて行く。すでに周囲の住民は避難を完了しているようで、雨の音以外は死んだような情景のなかに、他に動くものはいない。
「いよいよ大見山が近づいてきたな……この一週間で四回目か。つくづく妙な縁があるところだな、ここは」
 狭い円窓からわずかに見える風景を目で追いながら、後部格納庫で宮沢憲司は、やる気まんまんではりきっていた。
     *        *
 視界に大きな建物がまったくないある小屋で、金取護はいらいらしていた。
「水川はなぜ来ない、裏切る気か!」
 それを貝塚は無視していた。昨夜からずっと、金取はこの調子だからである。
(……水川、黒裏、『ブツ』……いったいどれだけの秘密をこの人は持っているんだ)
 貝塚は外を見た。そこには雨と風によって荒れる、海の姿だけがあった。
 二人は知らない。局の者は、二人が逃亡した事実すら知らないのだ。
 副局長である金取の仕事は、統括部の徳山がいつも代行していたし、貝塚の調査部は、予防作戦実施中には仕事がない。
 したがって二人の不在はそれほど重視されず、他の優先されるべき報告の裏に隠れて、まだ上層部の知るところではなかったのだ。
     *        *
 局本部ビルの地下二階の通路。忙しく駆け回る局員の間を、同じく早足で移動する、三人の男女の姿があった。高栗美佐、北条萌、それに開発部の棚置透である。
「かんべんしてくれよ、高栗さん。俺の発明ばかり失敬していく上に、いきなり黙ってついて来いって……ここは作戦部じゃないか」
「あなた、まだあのビデオカメラのことを根に持ってるの? 私がいるところで自慢していたのは貴方じゃない。女性のスカートの下をばれずに撮れるぞって」
「そうよね。私が好みだからって、盗撮しようとした君が悪いのよ。そこを美佐に見つかったのは、自業自得ね」
「うわあ、大きな声で言わないでくれよ~」
 女性二人が棚置と知り合いなのは、この会話からうなずけるだろう。身から出た錆というやつで、デバガメと悪名高い彼は弱みをにぎられ、二人の頼みを断れない関係なのだ。
 水川を撮ったビデオカメラも、棚置の開発した一品である。高栗美佐は容赦なく棚置をこき使っていたが、北条萌は友人感覚で棚置に接している。好みだと言われて悪い気がしないのだろう。しかし彼女にとって、彼の容姿と性格は、恋愛対象の地平線の彼方である。
「とにかく原発を救うのには、貴方の、例の発明品が必要なのよ。局長に、ちゃんと説明してよね」
 高栗美佐は強引に棚置を引っ張り、すでに作戦室入りしている局長に会わせに来たのだ。
「おい、あれはまだ実用には程遠いんだぞ、まだ試作品しかないし……」
「それで十分だわ……ほら、ここが本部作戦室よ」
     *        *
 津波の被害は、沿岸だけに限られる。沖の海上にいれば、津波は一時的な海面膨張にすぎない。どんな大津波であろうと、わずかな浮遊感を感じるだけである。したがって瀬戸内海西部の、津波襲来のおそれのある地域の船舶類は、すぐ沖に避難するだけでよかったが、大半が危険海域から脱出するつもりでいた。いくら安全だといわれても、津波が足下を通過するのは、精神衛生上どうしても快いものではない。
 しかし安全であるという事実を受け入れ、正直に沖に避難するだけにした船の一団の一つが、ここにあった。
 桃色の船団が、雨の水たまりの上で揺れる木の葉のように、しかし統制をもって集合していた。桃コンサルタントの船団である。
 桃親子は変則緊急会議の結果を見届けた後、すぐに広島に向かった。そして広島港にあった船団をまとめて、広島沖の安芸灘に移動し、そこで地震と津波をやりすごすことにした。
 桃太郎は、揺れる波間に白く泡立つ波頭を眺めながら、地震竜作戦の成功を祈っていた。
(僕には祈ることしかできない――)
 その彼の心の中を見抜いていたのか、父親の桃缶詰が静かに息子に近寄り、背中に手を置いた。桃太郎は振りむいて、父親を見た。
「おまえが心配してもはじまらん、彼はきっと上手くやるさ。ここにいては風邪をひくから、中に入れ、太郎」
「……そうだね」
 桃太郎は素直にうなずき、二人は船室に入っていった。
     *        *
 午前九時、局全体の期待を集めて、第一実行部隊四九人が一〇の班に分かれて、一斉に大見山大空洞に突入した。
 全員が、ことごとく臆病なまでの厳重な重装備である。水中すら移動可能な完全密封の重作業服は、まるで宇宙服のようだ。
 それは再び降り出した雨によって、ドームの水量が増加したことを想定した装備である。最大限の配慮が、ここには払われていた。
 一つの班は、小隊単位で構成されていた。宮沢憲司の班は、当然第一分隊第二小隊である。高栗美佐に出動許可が出なかったため、指揮権は副小隊長の宮沢憲司に回った。だが彼はまだ入局一カ月、経験不足であった。
 そこで彼の班には、天野分隊長の小隊が一緒について、サポートしてくれることになった。彼らの目的地は、確実に筒があるという、宮沢憲司と高栗美佐が遭難したドームである。宮沢憲司は道先案内人であった。
     *        *
 二時間ほどで、九人の一団は中央ドームについた。ここはまだ水没していなかった。
「……すごい風景だな、こんな時でなければ、ゆっくりと見物するのだが……」
 天野がつぶやいた。それにはわずか一日前にここを歩いた第二小隊の面々も、同意見であった。地下の見捨てられた建物群――一度くらいで、そうそう見慣れるものではない。
 ここまで歩きながら引いてきた有線ケーブルを、大きな通信機に繋げて固定した。中央ドームを中継基地とした、外部への有線連絡網を整備し、その作業に二時間かかった。
 ここからは外部との通信を、子機無線を使って行なう。子機からの強力な電波は、中央ドームに設置したこの通信機から、有線ケーブルを伝い、外の作戦指揮本部まで中継される。
 午後二時二〇分、上りの通路を進んだ一同は、中継ドームについた。そしてそこから下に続く通路が、途中から水で溢れていた。
「この通路の先に、例のドームがあるのか?」
「はい、他にルートはありません」
 天野の問いに宮沢憲司が答えた。
「……わかった。潜水するか――ここから先は、無線が使えなくなるな」
 それに加藤が反応した。嫌そうな顔をして、
「え、潜るんですか?」
「どうしたの知ちゃん、水が恐いのか?」
「い、いや。そんなことはないぞ」
 しかし、神岡の問いを否定した加藤が汗水を垂らしているのは、頭部を保護する強化ガラスのカバー越しでも、容易に確認できた。
「しょうがない。どうせ一人はここにいなければいけないんだ。加藤、君は残留して、連絡係をしてろ。潜水限界時刻の七時間を越えても戻らないときは、地上に助けを求めろ」
     *        *
 伊予灘沖海上原子力総合発電所。午後四時、ここに一機のヘリが飛来した。ヘリから降りたのは、高栗美佐、北条萌、棚置透の三人である。
「さあ、もはやこの原発を救えるのは、私達しかいないのよー!」
 高栗美佐ははりきっている。地震竜作戦に参加できないのが、よほど悔しかったのだろう。それを一人で応援しているのは、北条萌である。それを横目に、棚置は息をついた。
(失敗は許されないのに、なぜこの人たちは緊張しないんだ。俺はとんでもない女性たちと付き合っているのかもしれない)
     *        *
 その頃、大空洞の西出入り口に構えた、第一・第二実行部隊作戦指揮本部。原部長は、プルトニウム発見の報をじっと待っていた。
「まだどの班も発見してないのか!」
 その原を遠目に見ながら、水川は雨に濡れながらさすがに体を震わせていた。
「……まだ発見してないのか?」
     *        *
 例のドームである。みんなが捜索作業を続ける中、宮沢憲司は金属探知機の強い反応をやっと見つけた。
 先の見えない泥水に彼は手を伸ばした。すると、確かに手応えがあった。
(やった!)
 彼は心で笑った。本当に笑うと、唾でガラスカバーの視界が悪くなるかもしれないからである。しかし、手元に引き寄せた筒には、なにか違う感触が含まれていた。
(何だこれは?)
 宮沢憲司は、筒にくくり付けられてある耐水紙の、小さな切れはしを発見した。
     *        *
 夜が来た。午後九時、第一実行部隊が突入して一二時間が経過した。未だどの班からも、プルトニウム発見の報は入っていない。すでに第二実行部隊による爆弾設置と、伊予灘原発を除く船舶類や住民、危険物質類の避難、移動はほぼ完了している。あと三時間ほどで日が替わり、地震の特別警戒時間となる。
 原は迷っていた。戦争以外のあらゆる集団行動において、指導者は部下の生命を第一としなければならない。地震竜作戦の半分を占める核物質回収作戦は、特別警戒開始時刻の一三日午前零時までに、プルトニウム回収がならなかったときは、全員退却し、爆破を中止せよとの意思が、会議で示されている。
(仕方あるまい。このあたりが潮時だな……)
 大空洞からの脱出にかかる時間を考慮して、原は第一実行部隊全員に、撤退命令を出した。
「ええ、そんな……」
 それを受けた加藤は困惑した。宮沢憲司達が潜水してだいぶ経つが、天野が指定した七時間まで、まだ二〇分余りの時間があった。
 しかし彼に、天野に連絡する手段はない。子機無線は、水中ではろくに働かないのだ。
 加藤は慌てふためいて、足下の水際に気泡が出現していることに気がつかなかった。
     *        *
 水川はいいかげん疲れていた。今朝からずっと一二時間あまりも、木陰で雨に打たれながらプルトニウムを待っているのだ。
 逃げるにあたり、少しでも金づるは多いほうがいい。そう考えた水川は『兵隊』を伴って、筒を回収しにきた。ところが大見山にはすでに、自然災害対策局と警察の厳重な警戒のもとで、核物質を回収する作戦を実施していたのだ。そこで彼は筒が発見されて地上に出てきたところを、一気に奪う気でいた。
 水川はそろそろあきらめようかと思った。そのとき、作戦指揮本部がにわかに活気づいた。どうやら、誰かが筒を見つけたようである。水川は待ち続けることにした。
     *        *
 一つが巨大な石油タンクにも匹敵するほど巨大な、円筒形の赤い物体が数基、原発浮島の、陸側部分に取り付けられつつあった。
 事故発生時に放射能を封じ込める砂を蒔くための、重タンカーすら釣り上げることができる巨大なクレーンで釣り下げられた、三分の二が海中に沈んだ巨大な物体と、浮島との接合部に、米粒のようにたくさんの人が群がり、溶接作業を急ピッチで進めている。
 作業を原発でもひときわ高い場所で見ながら、棚置は原発の所長に説明していた。
「ですから、引っ張るんじゃなくて、押すんですよ。発想の転換です。動力を外部に『設置する』ことで、巨大な浮島の自力航行を可能にさせるんです」
 棚置は興奮していた。高栗美佐の提案で、未完成の巨大な水流エンジンが急きょ試されることが決まって、彼はおののいていた。しかし局からタンカーでエンジンが届いて、いざ作業が始まると、彼は技術者の本分に戻って、創造の喜びに心が踊っていた。
 それを見ながら、高栗美佐は友人の北条萌に小さな声で言った。
「ね、上手くいきそうでしょ」
     *        *
 午後一一時半。宮沢憲司と天野の班が帰ってきた。なんと、核物質のお土産付きである。
 原部長が、天野を称えようと近寄ったときであった。どこに隠れていたのか、仮面の一団、すなわち水川達が、いきなり作戦本部に乱入してきたのだ。それは一応予想されたことだったが、安心したところを急襲されたので、現場は混乱した。
 水川は天野の腕から筒を奪い取ると、一目散に逃げ出した。『兵隊』は自分たちを犠牲にして、彼の逃亡を助けるつもりであった。
 一〇分後、多勢に無勢で、数名の『兵隊』は、ことごとく取り押さえられた。しかしその中には、水川の姿はなかった。
 警察がその場で彼らを尋問したが、分かったことは想像以上のことであった。水川は、中央アジア系のテロリストで、日本人ではなかった。目的は一つだ。核テロ――国家機構を容易に壊滅に追い込める、究極の最終テロ手段である。核爆弾の原料調達が目的なのだ。
 尋問にはそれほど手間はかからなかった。『兵隊』は、自分達が崇高な使命で行動していると信じており、まるで自慢するかのように、ぺらぺらとしゃべったからである。ただ一つ、水川の行き先を除いて。
 警察は困った。しかし、宮沢憲司には行き場所の見当がついていた。
「すいません――もしかして、これが参考になるのでは?」
 すでに軽装の作業服に戻っている宮沢憲司は、現場の警察関係者で一番偉い警部に、筒にくくり付けてあった紙の切れ端を見せた。
『兵隊へ 金取との待ち合わせ予定。港でない三角洲のほとり、204』
 どうやら、この筒を運ばせるときに『兵隊』に読ませた文である。はぐれたときを想定しているのだろうが、どこなのかよく分からない。警察は『兵隊』に聞いたが、彼らは口をつぐんでいる。
 とりあえずその場でこの近辺の『三角洲』、『港でない』を満たす海辺を検証して、広島市、岩国市にしぼってみることにした。
 しかし一同が驚いたのは、『金取』の名である。すぐに局に連絡が行き、彼が休んでいることが確認されると、宮沢憲司はいきなり行動に移った。それを見た部下の季、加藤、神岡が、彼を追った。
 宮沢憲司が向かったのは、昨日から放置してある、愛車CR―Fのところである。
 宮沢憲司が乗り込もうとしたところに、季が声をかけた。見ると、加藤、神岡もいる。
「局の恥をやっつけに行くんですね、先輩」
「一緒に来るか? だがこれは二人乗りだぞ」
「……季ちゃん、頼むわよ。三人の中では、君が最強だから」
 神岡がそう言うと、加藤も髭を触りながらうなずいた。それを確認して宮沢憲司と季遊子は、無言で車に乗った。
 動力がかかってライトが点き、『行くわよ』と電光掲示板が表示され、『おてんば娘』は急加速しながら、漆黒の闇に消えていった。
     *        *
 桃太郎はいきなりの、友人からの無画像式の携帯電話を受けた。それは、風雲急を告げる事態の変移の知らせと、協力の依頼だった。依頼の内容は、岩国の沖を抑えてくれというものだった。宮沢憲司は、金取が岩国の三角洲にいると確信していた。それは、この三角洲が野鳥の保護飛来地になっており、野鳥観察用の小屋があるからである。その数は観光地であるためにたくさんあるが、『204』の小屋を探せばいい。
 宮沢憲司は桃太郎のように、金取による犯罪の存在を知っていたわけではない。自然災害から人々を守るはずの、自然災害対策局の局員が、どさくさに紛れて犯罪を犯そうとすることに、純粋に腹を立てて、行動を起こしただけなのだ。それは、自分の職業に強い誇りを持つ彼には、至極当然のことであった。
 桃太郎は分かっていた範囲で、金取の罪を、地震の件が終了した後でゆっくりと追求するつもりだった。しかし彼が『核テロ』とも関与していた事実を知り、腹を決めて、彼を捕まえることにした。桃太郎は、自分が知っている範囲での、金取による不当な局長追い落としの罪状を、宮沢憲司に教えた。
「憲司――聞いてくれ」
 その内容に宮沢憲司と季は、ただただ驚くばかりであった。
     *        *
 六月一三日になってすでに一時間あまりが経過している。無人の海岸線を、時速一六〇キロという猛スピードで、赤いスポーツカーが駆けた。
 CR―Fは岩国市の看板を確認し、橋を越えてすぐに三角洲地帯に入った。飛行場の脇をひた走り、保護地域にそのまま向かう。
「先輩、あったぞ、『204』だ!」
 目の良い季がいきなりお目当ての小屋を発見したのは、幸運というしかない。
 なぜならば、その小屋の裏がすぐ海になっており、そこにある一隻の漁船が、まさに出発しようとしていたからである。
 『止まるわよ』の表示を出して『おてんば娘』は急停止した。宮沢憲司と季は車から出て、小さな漁船に走り寄った。
 漁船の甲板にいたのは水川と金取、貝塚だった。彼らはなぜ宮沢憲司たちにここがわかったのか見当もつかなかったが、水川だけが冷静で、取り乱す金取を一喝した。
「慌てるな。私が殺るから、今のうちに用意を完全にしておけ」
「……了解した」
 仮面姿のときと同じ、灰色の服を着た水川は、最初から感情を隠そうとはせずに、二人と向かい合った。
「……お前らの相手は、この私がさせてもらう。大空洞でこれを持っていたら、こうして再び会うことはなかっただろうが」
 水川は片手に刃物を握った。黒裏の命を奪ったナイフである。
 素手の二人は、水川の得物を見てさすがにたじろいだ。三人の硬直は一分ほど続いたが、水川には余裕の表情があった。しかしその均衡は、意外なところで破られた。
「うわあ」
 ボシャーン!
 誰かが海に落ちる音がした。貝塚が、金取に船上から突き落とされたのだ。
「ククク、これはワシのものだ。お前らはそこで死ぬまで戦っていろ」
 金取は、さらに船のエンジンを入れ、いきなり船を出発させはじめた。
 それを見た水川は蒼白になり、対峙している二人のことを忘れて、金取をののしった。
「こら、金の亡者の貴様に何が出来る――そのプルトニウムは、私が有効利用するのだ!」
 水川は二人を放って、漁船に走り出そうとした。その隙を二人は見逃さなかった。
 季が水川の片手を手刃で殴り、ナイフを叩き落とした。ナイフは回転しながら、海に落ちていった。宮沢憲司が水川の背中に蹴りをお見舞いし、水川は転倒した。
「後は任せて! 先輩」
「おう!」
 宮沢憲司はそのまま船に向かい、陸と船との間、約三メートルの空間を一気に飛び越え、甲板に移って金取と向き合った。
 その様子を確認して、季は起き上がった水川に、言葉の挑戦状を放った。
「さあ、お前の相手は、この季遊子だ」
     *        *
 宮沢憲司と金取を乗せた小さな漁船は、金取の設定した自動操縦により、勝手に沖に移動しつつあった。宮沢憲司は、金取がまがりなりにも副局長であることとその年齢を考えて、説得を試みようとした。
「金取副局長、船を停めてください。沖には桃コンサルタントの船が待ち構えています、とても逃げ切れませんよ。今ならまだ間に合います。船の動力を停止してください」
 対する金取の返答は、拒否一辺倒であった。
「駄目だ、ワシは逃げ切るのだ。貴様、目下の者のくせに、なぜワシの言うことを聞かない」
 そして、無意味な人生訓を垂れ始めるのであった。そんなことを一時間も繰り返したであろうか、それでも宮沢憲司はねばり強く説得を続けた。
 いつの間にか近くには、桃コンサルタントの船が一隻、漁船に近い位置を保っている。宮沢憲司の試みを見て、別の動きがあるまでは、この様子を見るつもりのようだ。やがて漁船は安芸灘を越え、屋代島を東側から回り、大見山の南側を西に向けて通過するコースを進んでいた。
 そのとき、変化が起こった。
 ドドーン――!
 にぶい音が辺りに響いた。そしてそれほど間を置かず、予期せぬ高波が漁船を襲った。
 バランスを崩しながら、宮沢憲司は北の大見山を見た。大見山と黒色の空が、濃い灰色の煙で包まれていた。
(しまった、大見山の爆破作業だ)
 『兵隊』の証言で、大空洞に、他に核物質がないことを確認した原が、仕掛けた爆薬の発破を決行したのだ。数万トンの土砂が一気に吹き飛び、大見山南岸は人工の二次崩落を引き起こした。
 小さな漁船はしばらく、大海の流木よろしく、激しく上下左右に揺れた。
 揺れがおさまったとき、立場は一変していた。宮沢憲司は漁船の横のへりに両手をかけて、ぶらさがっている状態になっていた。船上でこけていた金取は起き上がってそれを見つけると、とたんに喜んだふうになって、宮沢憲司を罵倒した。
 桃太郎は漁船の変化に気がついた。
「憲司!」
 桃太郎は高速艇を漁船に近づけろと命令しようとしたが、桃缶詰に止められた。
「駄目だ、見ろ」
 金取は桃コンサルタントのことも計算にいれていた。どこからか鋭いモリを持ち出し、宮沢憲司の頭上にかざしていた。それで桃太郎らを牽制した。
「宮沢君が力尽きて海に落ちたら、そのときに助け出してやればいい。いま下手に動いたら、彼は殺されるぞ」
     *        *
 季と水川の決闘は長く続いていた。
 十何回目かの激突の後、二人は距離をあけて、互いの隙をさぐっていた。もう体力が残り少なく、そろそろ一気に勝負に出ないといけないと、二人とも正確に分析していた。
「……お前は、どうしてテロの片棒を担ぐようなことを起こすのだ」
 ふいに、不思議に思って季がたずねた。
「ふんっ、私の主義は、この決闘には関係ないね……日本にたまたま利用しやすい、金欲にかられた奴と、誇大妄想に取り付かれた奴がいて、私はそれを扇動した。それだけだ!」
 吐き捨てると同時に、水川が一気に距離を詰めた。季の巨体に滑り込み、体格の差を利用して、懐に潜って季の動きを制限させたうえで、彼の前では一度も使っていない、とっておきの奇襲技をかけるつもりであった。
 ところがそれを季は読んでいた。矢と化した駿足の水川が、季の体にまさに手を触れんとした刹那、季は大きく広げた両腕の拳を握りしめ、水川の両脇腹に、猛烈な力と速度の、二つの拳を挟むように、同時に打ち込んだ。
 それは単純な動きであったが、カウンターを食らった水川はその瞬間に気絶した。そして白目をむき、泡を吹きながら前のめりに倒れ、完全に動かなくなった。
 季の勝利である。
 季は空を見た。雲間に薄暗い星が見えている。雨が止んだのだ。
「――ここから避難しないとな……先輩は上手くやってくれるだろう」
 季は水川を抱き上げた。そして海から自力で這いあがって、コンクリートの上で吐いていた貝塚に近寄った。
 貝塚は人の気配を感じて見上げた。
「いつ地震が起きるか分からない。すぐに移動する」
 貝塚は季を怖れながら、黙ってうなずいた。戦いの終結した岸に、パトカーのサイレンが遠くから響いてきた。
「遅いぞ警察」
 季は複数の赤い光点を眺めていた。
     *        *
 大見山南岸爆破の報は、すぐに自然災害対策局本部の地下二階にある、本部作戦室の高栗局長に伝えられた。
「そうか……それでは、ただちに大空洞の爆破に移るよう原に伝えてくれ」
 高栗局長は手で頭の汗をぬぐった。そこに村田がタオルを持ってきた。
「局長、これを」
「おお、すまんな――ところで村田、避難移動のほうはどうなっている?」
「はい、一部に混雑が見られ、最後まで避難が遅れていた松山市の避難誘導作業が完了し、現在は指定区域に、不法残存者捜索の人員が展開しているだけです」
「……わかった。一時間後に、彼らに撤退命令を出せ。それで、原発はどうだ?」
「例の取り付け作業はもうすぐ完了するとの報告です。上手く作動すればいいのですが」
「そうだな、失敗は許されない――村田、作業終了と同時に、エンジンを操作する最低限の人員を残して、全員撤退するよう伝えてくれ」
「はい」
 村田の返事は緊張を帯びた。この命令は、失敗の可能性を暗示しているのだ。エンジンが動かない場合、地震や津波をもろに受け、原子炉から有害な放射能が漏れたら、現場にいる人々は、まず助からないだろう。
「長浜に撤退用のヘリを、必要な数だけ松山の基地から回してやれ。誘導作業終了に伴って、基地に帰ってきているはずだ」
     *        *
 ぉぉぉぅぅぅぅー………
 伊予灘沖海上総合原子力発電所である。展望台で水流エンジンの取り付け作業を見守っている北条萌は、不思議な感覚に捕われた。
「何かしら?」
 北条萌は、重低音の、空気の張りと音を感じて、はるか北のほうを眺めた。雨が止み、雲間から星々が見えている。すっかり澄んだ水平線の彼方。その一箇所に、盛り上がる黒い小さなかたまりが見えた。
「土埃……屋代島の方角だわ、大見山ね」
 隣の高栗美佐が説明した。北条萌はそのことの意味をすぐに理解した。
「じゃあ、プルトニウム回収作戦が上手くいったんだわ」
「そうね――」
 高栗美佐は地震竜作戦に参加している、宮沢憲司のことを頭に浮かべた。
(彼は無事だったかしら……)
「――天野分隊長は活躍したかしら、美佐」
 そこに、北条萌がからかうような感じで言った。彼女は、友人の高栗美佐が、ナイス中年の天野に気があることを知っているのだ。
 しかし、それに対する高栗美佐の反応は、すこぶる鈍かった。
「……えっ? 天野分隊長?」
「どうしたの、いつもならすぐに怒るのに」
 北条萌は顔を傾けて不思議がった。
(なぜあいつが……?)
 高栗美佐は頬に赤みを帯びて、混乱した。
 そのときスピーカーから、急がしそうな棚置の声が、室内に響き渡った。
「北条さん、高栗さん、作業が終わりました。すぐに来てください!」
     *        *
「ククククク、カカカカカ、ぎゃはははは~」
 金取は船縁に手をかけてぶらさがっている宮沢憲司にモリを突きつけながら、人前では決して見せなかった高笑いを続けていた。
「ククク。ワシは副局長、偉いのだぞ。偉い者がいくばくかの予算を盗むことの、どこが悪いというのだ? 反論できまい、真理だからな! ぎゃはははは~!」
 そして宮沢憲司の頭をモリの柄で小突く。宮沢憲司は船から落ちないようにするのに手一杯である。
「完全にイッてやがる……このままでは本当に憲司が危ない」
「待つんだ太郎、チャンスをうかがうんだ」
 桃太郎と桃缶詰は、好機を待っていた。それはもうすぐ、確実に起こるはずである。
「クククク……」
 金取はプルトニウム筒四本の入った、黒い大きなトランクを開けて、中の筒を見物して悦にひたっていた。
 そしてトランクを閉めると、桃コンサルタントの船に向かって、大声で叫んだ。
「やい、貴様ら。近すぎるぞ、もっと離れろ。さもないと、こいつの命はないぞ!」
 金取が持つモリの刃先は、宮沢憲司のまさに目先に突きつけられた。
「――クッ!」
 宮沢憲司は悔しそうに唸った。
 桃太郎は、それに従うしかなかった。桃コンサルタントの船は速度を落とし、漁船と距離を取り始めた。
 とたんに、金取は漁船の速度を上げた。一気に振り払うつもりである。そして金取は宮沢憲司のところに戻り、モリを上段に構えた。
「この船は見かけによらず速くてな、あの船では追いつけない――お前が乗っていなければな!」
 金取は宮沢憲司を生かしておくつもりはなかった。ただし宮沢憲司には、大人しく黙って殺されるのを待っている理由などなかった。金取がモリで突くと同時に、宮沢憲司は両腕を離した。重力が彼を捕え、海に引きずり込んだ。モリは空を刺した。
 金取は本当に残念そうに、波間に浮かぶ宮沢憲司を見つめたが、桃コンサルタントの船のこともあり、逃走に専念することにした。
 彼が運転席に着こうとしたとき、
 ゴゴゴゴゴ……
「なんだ?」
 金取は不思議に思って周囲を見た。先ほどの爆破があった後は、ただ煙が吹き上がっているだけで、他に変化はない。
 桃太郎は、この瞬間を待っていた。
「今だ、全速力!」
 ドゴオン!
 声と音とが、同時に重なった。
 海が再び波立ち、漁船の自動操縦システムが、緊急停止モードを作動させた。
「どうしたんだ、何があったんだ?」
 慌てふためく金取は、とっさに大見山を見た。大見山は、驚くことに、静かに陥没していたのだ。原の指示で大空洞が爆破され、大見山は標高そのものを低くし始めていた。もちろん、すでに大見山周辺には誰もいない。
 ただ、二隻の船を除いて。
 金取が慌てているところに、桃色の船が迫ってきた。
「ショックが来るぞ!」
 桃缶詰が叫び、近くの取っ手に掴まった。
 ガコゥン!
 高速調査艇は船首から、漁船の横っ腹に突っ込んだ。しかし二隻とも思ったよりも頑丈で、ほとんど損傷はない。
 金取はしこたましりもちを突き、寝転がって痛がっている。その目の前を、黒いトランクが滑っていった。
 漁船が大きく傾いていた。トランクを見た金取が、青ざめた顔で追いかけたが間に合わずに、トランクはロープを通すための、欄干の穴から、暗い海に落ちた。
 突然、漁船は急加速を開始した。自動操縦の配線系がどこか、ショックでやられたようである。金取はトランクを追って宮沢憲司が潜っていった水しぶきが遠くになるのを見ながら、悔し涙を流していた。
     *        *
 桃コンサルタントの船は漁船を追わなかった。宮沢憲司を助ける必要があったからである。
「惜しいな、憲司が落ちなければ、そのまま金取を押さえ込めたのに」
「しょうがないだろ。ああしなければ、俺は死んでいたんだぞ」
 再会を果たした宮沢憲司と桃太郎の最初の会話は、いきなりこんなものであった。
「まあいいさ。ほら、プルトニウムだぜ」
 宮沢憲司は、重いトランクを投げ出した。
 桃太郎はそれを横目に見たが、中身を確かめる気にはなれなかった。もっと重要な問題が、彼らの目前に控えていたからである。
「ここは陸に近すぎる……」
「そうだな、桃。さっさと逃げますか」
 二人はそれで合意した。核物質を持たぬただの親父など、警察に任せておけばいい。
「じゃあ内藤に任せてある、岩国沖の船団に合流するぞ」
 話が終わったのを確認して、桃缶詰がパイプ片手に言った。
 その直後である。
 波立った海面がようやくおさまったかと思っていたのが、なんと再びさざめき出したのだ。
 それに気づいた宮沢憲司が、陸の大見山を見上げて、叫んだ。
「そんな……タイミング悪すぎるぞ~」
     *        *
 瞬間。
 伊予灘、愛媛県長浜沖約一〇キロの海底が、静かな深淵の平らな安寧の世界が――
 凄まじいばかりの力でもって――
     *        *
 どん。
 裂けた!
 裂け目――断層に、上下に軽く数メートルの高低差が生じ、海底が蠢動した。
 一瞬の停滞のあと、想像を絶する力で海水が激しく乱され、断層は泥に掻き消されて見えなくなった。急激な衝撃波の奔流が震源地を荒れ狂い、周囲の水中に伝播する。
 それと同時に、海底を伝う衝撃が海水の乱舞をあっさりと追い越し、海底の砂泥を巻き上げながら、どんな地上の乗物もかなわない文字通り目にも止まらぬ速さで、地震のエネルギーを伝えてゆく。
 震源に近い、揺れはじめた場所の一部が、タガが外れたのか、その場で小さな断層活動を生み出し、砂泥のもやを押しのけた泥の塊の一つの線が生まれた。それはすぐに巻き上げた泥の煙に隠れて見えなくなった。
 海水に開放されたエネルギーは、あっという間に海面まで伝わって、そこで大きく揺れた。裂けた海底の世界が、海面にそのまま投射される形となった。
 宇宙から見ると、ほぼ東西に伸びる長浜の海岸線に、平行に沿った水柱の線が、見事に確認出来たかも知れない。
 それは最初に裂けた震源たる断層であり、長さは東西三〇キロ余りにも達した。
 そして津波が発生した。海面が大きく膨れ上がり、それは水溜りに物が落ちて波紋が広がるように、幻想的な雰囲気で、そのまま周囲に拡散していった。ただしこの波紋は、恐るべき攻撃力を秘めた、破壊者である。
     *        *
 土中を伝わった地震が最初に上陸したのは午前二時三三分、愛媛県長浜であった。
 震度七。言葉で言うのは簡単だが、現実の揺れは苛烈を極めた。震度に七以上は存在しない。すなわち、この世に存在する、地球上で自然に体験できうる最大規模の揺れが、このとき不運な長浜を襲ったことになる。
 すべての方向に地上は揺れた。家々は押しつぶされ、ビルは薙ぎ倒される。そしてどこかで火が付き、奇跡的に無事だった建物も何もかも、一緒に包んで燃えはじめた。ふだんは二万人ほどが住む町は、短時間で完全な焦土と化すことが明白となった。
「なんてこと――」
 ヘリの窓から炎でにわかに明るくなった長浜を沖から見ながら、高栗美佐は地震の威力に体を震わせていた。自然に対する原始的な畏怖の感情を、このときの惨景を見ていた者のほとんどが、本能で感じていただろう。
     *        *
 伊予灘沖海上原子力総合発電所は、設置した六基の水流エンジンのうちの四つが無事に作動し、なんとか港からの脱出を果たした。
「幸運だったな、本当に」
 原発に残り、エンジン操作を指揮したのは棚置である。彼はすごい達成感と同時に、重苦しい恐怖を感じていた。まさか脱出直後に、地震がくるとは思っていなかった。失敗していたら、今頃は町からの飛び火で原発は燃え、高い確率で死んでいたのだ。
「なんだ?」
 甲板で他の技術者と祝いの杯を交わしていた棚置は、不思議な浮遊感を感じた。それは一度はすぐにおさまったが、また繰り返しやってきた。
     *        *
「美佐、見て見て、津波よ」
 北条萌の声に反応して、ずっと炎を見ていた高栗美佐は、海岸のほうを注目した。
 ざばあん!
 という音はヘリの音と高度で聞こえないが、濁った白い不自然な波の集合が海岸線に押し寄せ、そして沿岸の建物を飲み込んでいく姿が見えた。しばらくして海岸が変形した無惨な姿をあらわしたが、また波に覆われた。
「何回もやってくる……なんてすごいの」
 高栗美佐と北条萌は、ただただ津波の様子に、息を飲むばかりであった。
     *        *
 桃色の高速調査艇は、大急ぎで沿岸から離れようとしていた。
「速く、もっと速く! 死ぬ気でエンジンを回せ!」
 桃太郎は大声で騒ぐ。しかしどんなことにも限界がある。大見山は震源地に近く、逃げる時間は地震発生からわずか数分しかなかった。そして誰かが、海の異変を発見した。
「ああ、津波だ!」
 彼らの行く先に、視界の海全体をおおう不自然な波の盛り上がりが現れ、それは凄まじい速度でこちらに近づいていた。
「やった! まだ波の頭が崩れていない……やりすごせる」
 宮沢憲司がほっとして言った。
「だめだ、ここの深度が浅いせいで、意外に津波の盛り上がりが高い。このまま真っ直ぐ突っ込んだら、こいつは転覆するぞ」
 桃缶詰が叫んだ。そして息子を見た。
「太郎! こうなったら、サーフィンだ」
 波は確実に近づいており、時間はない。桃太郎はサーフィンをイメージし、すばやく打開策を分析した。
「左舷回頭、三〇度。速度そのまま」
 船が桃太郎の指示どおりの状態にしてすぐ、彼らは強烈な上昇感に襲われた。船が津波に乗ったのだ。そしてそれは浮遊感にかわり、津波をななめに切った船は、そのまま海面にゆっくりとたたきつけられた。大量の塩水が舞い、甲板に散った。
「うへえ、二〇〇トンの船で浪越えだなんて、なんてこったい」
 宮沢憲司がむせながら文句を言った。そして目を開けて、過ぎ去った津波を見た。それはすでに頭が白く崩れ、漫画のイメージに近い津波を形作っていた。
「……あの状態で襲われたら、とうてい助からなかったな」
 そして別の音に気づき、嫌な予感がしてゆっくりと前を見た。なんと、最初ほどではないが、第二波の津波がお目見えではないか。
「何じゃこりゃー!」
 宮沢憲司のおたけびに、桃太郎が笑いながら答えた。長髪が風にゆれ、端正な顔には余裕が見えている。
「これはこれは……忙しくなりそうだな」
 彼は明らかに、この状況を楽しんでいた。
     *        *
 金取は漁船の機械室で、配線板を見ながら混乱していた。
「いったいどうなっているんだ。はやく停めないと、こんな速度では燃料が持たないぞ」
 桃太郎の船と衝突したときに、自動操縦モードだったのが災いした。コンピュータがいかれて、最高速度で運転を始めたのだ。おまけにそれをどうしても解除できない。
 金取は自動操縦の配線板を破壊して、強制的に手動に切り替えようとした。しかし、いざ機械室に入ってみると、どれが目的のものかさっぱりわからないのだ。
「うおお~!」
 癇癪を起こした金取は、奇声を発しながら暴れはじめた。とうてい彼が社会的成功をおさめている人間だとは、にわかに信じがたい行動である。
 周囲の配線板を、無差別にモリで突いて壊して回った。そしてその影響でとうとうどこかの電圧が負荷に達したのか、機械室は煙に包まれた。
 ハイテク機械によってエンジンが制御されている漁船である。制御機械が壊れたときの反応は、暴走か停止かのどちらかである。そしてこの場合は、エンジンは前者を選んだ。
 最高速度を越えて爆走しだした漁船で、金取は恐慌状態に陥った。
「うわあ、うひゃあ~」
 振動でとても立ってはいられない。漁船は煙を吐きながら、屋代島の海岸線に沿ったコースに波路を残して疾走する。これは金取が、沖に避難している船に見つかるのを防ぐために選んだコースであったが、この場合は、それがまさに仇となってしまった。
 漁船に向かって、左舷から猛スピード押し寄せてくる津波が見えた。それは桃コンサルタントの船が荒技で乗り越えたものと同じであったが、すでにその手法を用いても抜けれないまでに、その津波は高さを増しており、盛り上がりの上部は白く波立っている。
 そして金取は津波の来襲に気がつかなかった。船が突然横に傾き出したとき、彼はやっと異常を感知した。
「なちい! たしけちぇ!」
 すでに遅かった。金取は奇声の吼哮を上げながら、強烈な波に飲まれた。
 漁船は水圧で横倒しになりながら、津波に巻かれるように取り込まれた。津波が通過した後には、漁船は船底を空にさらした、見るも無惨な姿となった。ただ、スクリューだけが健在で、律儀に高速回転を続けていた。
     *        *
 二〇五五年六月一三日午前二時三一分、伊予灘大地震発生。
 同午前四時五五分、厳戒態勢解除布告。同時に地震竜作戦の終了宣言。
 作戦は、成功のうちに無事終了した。

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