第二章 二日目、配属。

旭和ラノベ
地震竜作戦/序章 第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章 終章

 兵庫県神戸市にある二五階建ての、合理的だがどこか柔らかい雰囲気を持つ白いビル。自然災害対策局の本部ビルである。
 この時代に急増した自然災害は気象起源のものである。温暖化によって積雪量が減ってるため、それらで最大のものは大雨であった。梅雨、台風。いずれも西日本に被害が集中し易い。したがって、迅速な対応を迫られる対策組織の本部は、神戸に置かれていた。
「なんという事故が起こったんだ!」
 ビルの最上階にある局長室。簡素だが異様に広い緑一色の部屋、その壁の奥に、大きな総檜作りの机に埋もれた、禿頭で肩幅の広い、群青色の紳士服を着た壮年の男がいた。
 高栗将人、五三歳。普通ならばどこかの一流大学の出身者が座る席につく彼は、高校出の自衛隊あがりである。
 自然災害対策局の前身が自衛隊の一部(自衛隊非常事態時臨時対策部、二〇一三年設立)であったころから、彼は部隊にいて、最前線で活躍した。二〇二五年の大地震の不況の影響で自衛隊が縮小され、二〇二七年に同部が環境庁に吸収されたときも、経験を買われて管理職として抜擢された。観測網の敷設を契機に、一〇年前に環境庁から独立したときに副局長に、四年前に局長になった。
 人の命や財産がかかっている以上、完全実力主義になるこの世界では、的確な判断力や果断な実行力、豊富な経験を持つ者でないと、トップに君臨することは許されなかった。
 人の上に立つ、責任の重さと恐さを知り尽くしている彼は、局長になって以来の、大きな事故にぶつかっていた。
 家で家族とつろいでいた最中に、彼は専用直通携帯電話で緊急連絡をうけ、急いで本部に赴いた。
「本日午後八時四五分頃、山口県屋代島東和町大見山南側の、海中を含む斜面地域が、東西約五キロ、幅四〇〇メートルに渡り崩壊。当事故に対し、自動常時異変観測網は何も警告していませんでした。同午後一〇時三七分現在、二次崩落の危険小。被害のある津波は発生していません」
 すぐに指示を与えて送り込んだ予防部一課盾部隊の経過報告を聞きながら、高栗はどうしようもない苛立ちに必死で堪えていた。
「それで、原、現在までに分かっている被害状況は?」
「……はい。現在のところ、死者七名。全員海上に流されたものです。負傷者はいません。推定行方不明者は、二二〇名。単純に崩壊地域の全人口から、今の死者分を引いた人数です」
「ご苦労。引き続き、地元の警察、消防団体と協力して、生存者の救出に全力を挙げてくれ」
 彼が苦しそうに言うと、現場の予防部部長の原が敬礼をして、机の左側にある、衛星回線を使った映像通信機の画面が消えた。
(生存者がいてくれたらいいが……)
 高栗は、事故の規模から見て、生存者はほとんどいないと判断せざるを得なかった。長年の経験から、彼はそうなるであろうことを直感していた。
 上層部の希望的観測は、現場の指揮系統に悪影響を与え、助かる命の火を消してしまう可能性を生みかねない。どんなに苦しくても、精神的妥協は許されない立場であった。
 その時、ノックの音がした。扉が開いて、秘書と局長しかいない広い部屋に、一人の男が入ってきた。高栗と同じ服を着ているが、色は深緑色であった。
「いまさら何の用だね、副局長」
 剛直な高栗は、相手に対する不快感をあえて隠そうともしなかった。
「いえいえ、ちょっとした用件ですよ」
 その男は、見る者に強烈な印象を与えるものを持っていた。一言で言うと、不快な男であった。
 一見紳士に見えなくもない顔についている両眼は、つねに人を蔑み、揚げ足取りに熱心な目であった。頭の中は、自己の栄達と金集めにしか興味のない男で、強者に媚び、弱者に傲慢な、個性のない小悪党であった。
 金取護、四六歳。一流大学を主席で卒業後、官僚界に足を踏み込み、自己の能力を弁舌とおべっかいだけに費やして出世した。環境庁から自然災害対策局に入り、現在は副局長である。
 なぜこんな男が実力主義の人事に割り込めたのかは謎であるが、容易に想像はつく。
 高栗は、そんな金取の言葉を無視した。
「君のところにも緊急連絡がいったはずだが、今まで何をしていたのかね。一週間前からの大雨が止んだばかりで、まだ警戒は解いていないはずだぞ」
 部長以上の者は、いつ災害が起きてもおかしくない時には、三〇分以内に本部に駆けつけてこれる場所にいなければならなかった。高栗をはじめ、ほとんどの幹部が、わざわざ本部のすぐ近くに引っ越している。
 金取は一人例外で、遠い姫路に居を構えていた。そして事故発生から二時間も経って、ようやくやって来た。大遅刻である。
 金取は、長年培った能面に形だけの笑顔をつけて、局長にいきなり言った。
「連絡があった後、ちょっと自動常時異変観測網の点検に情報部まで行ってましたよ」
(明白な嘘だな。観測網が働かなかった以上、緊急の際に要職にある者が、なぜわざわざいつでもできる点検を自らやる必要があるのだ。そんな暇があったら、いくらでもやるべき仕事があるはずだぞ)
 高栗局長は嫌なモノを見る目つきでそう思ったが、何も言わなかった。
 局長が前線実行部隊の監督、副局長が後方支援を統括するのが、この局の指揮系統である。副局長がのんびりと遠い姫路の実家からやってくる間、この事故に対して行動できたのは、局長直属の予防部、作戦部だけであった。
「副局長。そんな詭弁が通用すると思っているのかね。対応が遅れた責任は後日追求する。今は一刻も早く自らの責務を果たせ」
 しかし金取は、部屋を去ろうとしなかった。
「いえいえ、高栗局長。私が情報部にいたという証拠はありますよ。証言をしてくれる者がいますんで。つまり、私は自分の責任をちゃんと果たしていたんですよ」
 そして何が言いたいのか意味がつかめず、怪訝な顔の高栗に向かって、これまで一度も攻撃してこなかった金取が、初めて攻勢に転じた。
「それよりも高栗局長、あなたはご自分の立場を理解しておられない。今回、事故を予測、予防できなかった責任を、どう取られるんですかな。それでは私は仕事がありますので」
 自分の目的を果たした金取は、ようやく部屋から出ていった。どろどろとよどんでいた空気が、急激に活気を取り戻した。
「彼は俺になんの嫌みを言うつもりだったのだ?」
 困惑している彼に向かって、群青色のブレザーに身を包んだ女性秘書が説明した。
「局長、お気をつけ下さい。おそらく副局長の周囲の代弁者たちが、彼を擁護します。そして彼らは、局長を不利に導こうとするでしょう。今回の事故を足がかりに、副局長とその仲間は、局長を追い落としにかかるつもりですわ」
「何だと!」
 納得のいく説明を受けて、高栗は腹の底から怒りが沸いてきた。
「そもそも、三年前に俺が提案した観測網の現地総点検案を、まだ大丈夫だと退けたのは彼ではないか。あのときはどうせ楽がしたかったんだろう。北条、奴に何か仕返しができないものかな」
 高栗の金取に対する呼び方は、同じ会話の中で、『彼』から『奴』に取って変わられた。
「観測網の責任がたとえ副局長の責任だと認められても、大事故の責任は、残念ながら組織の最高責任者が取らねばならないでしょう。そうしないと、世論は納得しませんわ」
 自動常時異変観測網のすべてを引き受ける情報部は、後方支援監督の金取副局長の指揮下にある。
「ふん、俺個人の立場などどうでもいい。おそらく二百人もの人を、みすみす死なせてしまった。観測網が万全なら、死なずにすんだ人たちだ。とっくに辞める覚悟などできておる。許せないのは、こんな大悲劇を目の前に、何もせずに自分の出世を考える馬鹿がいるという事実だ。おまけに、わざわざ時間を惜しんでまでそのことを俺に知らせに来た。ここまで性根の腐った奴だとは思わなかったぞ」
「局長、それでは……」
「何だね」
「い、いえ。何でもありません」
 局長専属秘書の北条萌は、まだ何か言おうとしたが、思い止まった。
「責任を取る前に、とりあえず今回の大崩壊に関しては、後始末と原因究明を完全にしておかなくてはな。後の者に迷惑をかける」
 高栗は書類を広げて、仕事に取りかかり出した。その背中はどこか寂しげであった。
 北条萌は、そんな彼の背中を見ながら、あることを決意した。
     *        *
 翌六月八日昼近く、予防部の新人たちはまだ岩国市のぼろ研修施設にいた。
 一人を除く研修を受けていた八四名全員が、一階食堂室に集まって騒いでいた。予防部からの緊急待機命令である。
 いつも二回交代で食事をしている部屋だから、押し合いへし合いのぎゅうぎゅう詰めであった。おまけにとても暑い。一〇人ばかりいる女性の存在がなければ、野郎どもはとっくに我慢の限界に達して部屋から退散していただろう。
 研修生たちは汗をかきながら、適当に話をしていた。
「あの大事故が起こったせいで、神戸行きは『延期』だってさ」
「残っていた予防部ほとんど全ての人員が、あの事故に回ったらしい。部長さんも急がしすぎて、代わりにここには天野さんという人が来るらしいぞ」
「天野?」
「私知ってる、防人部隊第一分隊の隊長さんよ。ナイスガイって聞いてる」
「おまえ、チェックしてるな、相手はどうせ妻子持ちだろう。今から不倫の計画か?」
「違うわ、彼はまだ独身でーす」
「それにしても、いったい何かな、緊急命令なんて」
「どうせ、足手まといで邪魔だから待機してろってんだろ」
「くそー、あと配属が一日早ければ、今頃は前線で活躍できたのに!」
「お前にゃ無理だよ。いや、それは全員同じだな。ひよっこの俺たちが、こんな一〇年に一度の大事故の後始末など、先輩たちの妨げにはなっても、役に立てるなぞありえん」
「『先輩』ってゆうと、ウチの先輩の大将の話、知ってるか?」
「ああ、あの事故の現場に立ち会ったっていう噂だろ」
「先輩が弁当探索以外でぶらりとドライブに行くときは、必ず屋代島スカイラインに行くからな」
「それにしても先輩、どうしたんだろう。昨夜遅くに帰ってから、ずっと部屋にこもったきりだぜ」
「なあ、季。なにか知らないか?」
 隅でなぜか中国拳法を舞っていた季遊子に、同僚の一人が聞いた。
「私は詳しくは知らない。ただ、先輩はひどくショックを受けていた。何かに遭ったみたい」
 そしてまた太極拳を舞い始める。知る者が見れば、彼の舞いがけっして健康拳法のものではなく、一部に残る実戦拳法の太極拳だと分かるだろう。こんな大男に拳法まで使われた日には、鬼に金棒である。
「ほらな、やっぱり。あの豪胆な先輩が、こうなんだ。絶対、あの事故現場のそばにいたんだぜ」
 図星である。
 宮沢憲司は、大崩壊の直後、振動がおさまるやいなや、車に飛んで戻って車載電話で自然災害対策局に匿名通報をした。みごとな職業意識であった。
 そして、今自分に出来ることがこれだけだと理解すると、部下を先に帰して足の無い桃太郎をわざわざ広島駅まで送って、深夜に研修施設に帰ってきた。
 戻ってきたところを目撃した他の人には、彼が何かに衝撃を受けたように見えたが、彼はあまりの興奮に呆然自失となっていただけである。
(……あの男はなんだったんだ)
 朝九時頃に目が覚めた宮沢憲司は、蒲団に潜ったまま廊下で同僚が神戸行きが中止になったと話しているのを聞いて、そのまま思索にふけっていた。
(テロか……いや、それでは桃が聞いたところの『逃げろ』の説明がつかない)
 宮沢憲司は蒲団を蹴っ飛ばした。むくりと起き上がり、ラフな普段着を脱いで、いつもの体操着ではなく、まるで軍服のような、群青色の機能的な服に着替える。
(ここでいつまで考えていてもしょうがないな……とにかく、誰か上司にこのことを伝えないと……ラジオで聞いた限りじゃ、あまりにも被害が大き過ぎる。大空洞に何かが起こったと考えるのは、あながち誤ったことではない……正しければ、俺と桃の証言は必要不可欠のものとなる……)
     *        *
 宮沢憲司が食堂に入ると、蒸し暑い風が顔をなでた。ふいな攻撃に顔を一瞬しかめたが、次の瞬間、大量の注目の視線を受けてさすがにたじろいた。
「ふむ、まだ来てない者がいたのかね。君は――」
「宮沢です。遅れてすいませんでした」
「――ほう……(いさぎよい若者だな)」
 同僚全員が部屋の一方側に、各々自由な姿勢で集まっている。反対側のスペースには、二人の男女が立っていた。
 その一人、ナイスガイな少壮の男が名を問う前に、宮沢憲司ははきはきと答えた。この豪胆な辺りが、同僚仲間から『先輩』と評される所以である。
 叱ってやろうと思っていた矢先に機先を制されて、天野はこの潔い若者を許すことにした。彼は、些細な罪をいちいち咎めるような男ではない。要は、絶対いなければならないときに、間に合えばいいのだ。
「私は原部長の代理で天野、二課防人部隊第一分隊隊長をしている。こちらは同分隊副隊長の高栗。宮沢といったな、遅れたことはもういい。適当なところに座ってろ。これから大事なことを言うところだ」
「分かりました」
 宮沢憲司は同僚の感嘆に満ちた視線の中、群青色の海に潜り込んだ。二人の上司も、同じ群青色の服を着ている。
 自然災害対策局は、前線で活躍する予防部と作戦部が海を模した群青色、後衛でフォローする情報部、調査部といった八つの部が森林を模した深緑色をトレードカラーとしており、彼らの制服や備品は、ことごとく群青色か深緑色であった。
 天野分隊長は、暑さにやせ我慢している新人たちを改めて見回して、本題に入った。
「――で、君たちは一応本日付けで配属が決定したわけだ。五五年度予防部新米隊員八五名の配属は、三五名が二課防人部隊。うち副小隊長は八名。五〇名が昨年度新設の三課守衛部隊。うち副小隊長は一二名である。これから、五十音順に一人ずつ配属部隊を発表する。いいか、二回しか言わないからきっちり覚えろよ。ちょっと時間がかかるが、何故かこれが伝統だから我慢しろ」
 天野は持ってきた名簿を取りだし、間を置いて言い出した。全員が、自分が発する言葉の力によって、今後数年間の落ち着き先を決定されてしまう、という事実の重みに、彼は何年たっても慣れることができない。
「えー、最初に、愛島豹介、君は三課守衛部隊第四分隊第一五小隊隊員、守衛部隊第四分隊第一五小隊隊員だ。次に、今北悟、君は二課防人部隊第三分隊第八小隊副隊長だ。防人部隊第三――……」
『紙に書いて貼りだしゃいいじゃねえか、こんなに暑いのに!』っという視線を受けとめながら、天野は『これが伝統というものだからしょうがない』という顔をして、三十分ほど名簿を読み続けた。
 さすがに全てを読み終えたときには、天野を含めて、全員が汗だくになっていた。
「なお、今言ったうちで、防人部隊第一分隊に配属された者は、例の事故の予備人員としてさらにここに待機するものとする。以外は、他の事故に対しての備えとして、今夜七時半に神戸に移動。移動する者は準備を完全に整えよ。以上、これで解散する。質問のある者は申し出よ」
 しかし誰も質問せず、みんな一斉に灼熱の食堂から脱出しようと試みた。
 用はすんだ、もう我慢できない。話の前は宮沢憲司が来たら噂を確かめようとしていた連中も、そのことをすっかり忘れているようである。
 そんな中、最後に部屋に来たのでまだまだ余裕のある宮沢憲司に季が近づいてきて、空いた隣に座った。
「先輩と同じ小隊だ。すごい偶然だ」
「ああ、小隊副隊長としての最初の部下の一人に季、お前がいるのは嬉しいぞ」
 宮沢憲司は季の肩をたたいた。宮沢憲司は防衛大の特別部を出ているため、現場下位中間管理職次官からのスタートである。普通の大学出身で平局員の季とは、最初から一階級の差があった。
 季は二メートル近い大男であり、たったそれだけでも、現場という前線での実行部隊である予防部にあっては、仕事上大きな戦力となる。
     *        *
 その頃、局長専属秘書の北条萌は、調査部に来ていた。
 調査部とは、登録してある自然災害調査部門を持つ調査会社に、観測網が察知した異変地点の事前調査や、災害事故発生後の事後調査を依頼して、その結果得られた情報を分析、報告する部署である。
 調査部にある多くの端末の一つを、北条萌は操作していた。誰かに咎められるのをおそれるかのように、しかし慣れた手つきでカーソルを叩いていく。
「今回の大崩壊の事後調査に入札した会社の一覧……うち、最終候補に残った会社……三つしかないわね……よし、この三社にメーッセージ転送……よし、終わったわ」
 非常に個人的な用事を済ませた北条萌は、端末から離れると、何気ない振りをしながら、いつもの秘書らしい無表情を装って、調査部から出ようとした。
「君は、どうしてここにいるのかね?」
 ふいに横から呼び止められて、北条萌はとても驚いた。動揺した内心を隠しながら、声を掛けられたほうを向く。
 そこには、調査部部長の貝塚がいた。高栗局長と同じく、自衛隊あがりの男である。歳は五五と高栗局長より二歳年長であるが、階級は二つも下である。かつては高栗と激しい出世競争を繰り広げた、才気溢れる人物であったが、今では高みを望まず、ただ定年退職を待つだけの、どこか陰気な雰囲気を持つ男であった。
「君は、たしか局長の秘書だったね。ここは局長の管轄下ではない、後衛八部のうちの一つ、調査部だ。なぜ、青色の服を着た君が、緑色の服の者しかいないこの部屋にいるのかね」
 貝塚が再び尋ねた。そのしゃべり方には、隠しきれない高栗局長への嫉妬と、局長管轄下の局員に対する蔑視が込められていた。
 貝塚の毒を受けて、しかし北条萌はたじろかなかった。彼女にしてみれば、彼は副局長派の一人であり、すなわち敵として、貝塚を認識していたからである。
「すいません、貝塚部長。実は、私の恋人がコンサルタント会社の技師として勤めているんです。彼をびっくりさせたくて、調査部の端末を勝手に使わせてもらいました……ごめんなさい」
 北条萌は、しおらしくまっ赤な嘘を言ってのけた。最後には、涙まで流してみせた。まったく、迫真の演技である。
 北条萌は、けっして美人とは言えないが、小柄で、髪はセミロングでかわいらしい顔立ちである。そして、二二歳という実年齢からはるかに若く見られるため、この演技は見事に貝塚を騙すことに成功した。
「わかった、わかった。今回だけは許してやるから、二度と個人的な理由でここの端末を勝手にいじくるなよ」
「ありがとうございます。今後このようなことは二度といたしません」
 かくして、北条萌は無事に調査部からの脱出を果たした。
 北条萌は二二歳。入局三年目で、最初から局長専属秘書をやっている。彼女は普通の女子短大の家政科に通っていたのだが、一流大卒の強豪たちを押し退けて、千倍近い倍率になる秘書枠を勝ち取ってしまった。北条萌は生来、速記能力や記憶力が抜群で、実技で得点の大半を稼いだのだ。まさしく彼女は、学力の高さと個人の能力が必ずしも釣り合うわけではないという、歩く見本であった。
     *        *
 一番最後に食堂を出た宮沢憲司と季は、話しながら廊下を歩いていた。
「ふう、それにしてもなんて暑さだ」
「何せ、半世紀前に比べて、平均気温は三度も上がっているし……先輩、臭いよ」
「おお、すまんすまん。昨夜は疲れて風呂に入れなかったし、朝のシャワーも浴びてないからな――そうだ、季」
「はい?」
 季は暑さにすっかり閉口して、気が散りがちになっていた。そして、次に出た宮沢憲司の提案に、即座に飛びついた。
「暑いからな、シャワーを浴びようぜ。どうせ俺たちは防人部隊第一分隊配属だから、神戸行きの準備をする必要のない少数派って訳さ。今なら空いてるぜ」
「――そりゃいいや! じゃ、先輩、早速部屋に行って用意しないと」
 よほど暑さが堪えたのだろう、季は自分の部屋に走っていった。少しあきれた宮沢憲司だったが、彼もすぐに自分の部屋に行った。
 男性用シャワー室の前に、二人とも同時にやってきた。
 そして更衣室で、二人は服を脱ぎ始めた。
「そういえば、先輩」
「なんだ、季」
「天野分隊長の隣にいた副分隊長の女性、よく見た?」
「いや。名前を紹介されただけで、本人は何もしゃべらなかったから、ほとんど気にしなかったな」
「確か高栗っていう名前だった。とても若かった……イーガイスゥイネエ(台湾語で『綺麗な女性だなあ』)……」
 季は虚空を見つめながら言った。
「――言ってる意味は分からないが、もしかしてお前、その高栗とかゆう女に一目惚れでもしたのか?」
「い、いや、別にそんな訳では……」
 いきなり核心を突かれて、季は赤面しながら否定した。
(二〇歳を越えて、純情な奴だな……いよいよ面白い男だ。でかい体に不釣合いな純朴さだ)
 にやりと笑いながら、宮沢憲司はそう思った。
 そのとき、シャワー室のぼかしガラスの扉が突然開き、更衣室に湯気が立ち込めた。
「あー、いい水だったわ。汗も完全に流れたし、やっぱり夏のシャワーは一番だ――」
 さっぱりした顔で、体にバスタオルを巻き付けただけの若い女性が、二人の半裸の男の前に突如出現した。
「えええ?」↑季遊子
「おおお!」↑宮沢憲司
「――わね?」↑女性
 瞬間、その場にいた全員が凍りついた。
 そして数秒後、
     *        *
「きゃああ!」
 男性シャワー室から発生した悲鳴は、ボロ施設全体を震撼させ、二分ほど、物が投げられ、ぶつかる音と、二人の哀れな男たちの、許しを請いながら逃げ回る足音とが交錯した。
 それから五分後、騒ぎの当事者たちは客間にいた。
「それで、君たちはこんなひどい怪我をしたというんだね?」
 天野は体中をアザとばんそうこうだらけにした二人を見て、そう言った。
「はい、その通りです」
 憮然として宮沢憲司が言う。それに対して、季も頷いた。
「二人の話を聞いたところ、間違えて男性用のシャワーを浴びていた君にも非があるようだよ、美佐君」
 目に笑みをたたえて、笑いを抑えようと努力しながら、天野が言った。
「……分かったわよ。私が悪かったわ、これでいいでしょ、天野分隊長」
 髪をボブカット(ショートとセミロングの中間)にそろえた、美佐と呼ばれた女性は、納得のいかない顔で半分すねたように答えた。シャワーを浴びた直後なので、その様子がみょうに艶かしく、季は思わずのどを鳴らした。
「これこれ、また君の悪いところが出た。気が強いのはこの世界で食っていくためには必要なことだが、謝る相手が間違ってるぞ、高栗美佐君」
 天野のそれはまるで、歳の離れた自分の妹を諭すようなしゃべり方であった。
 高栗美佐と呼ばれた女性は、二人の『ひどい怪我人(ただし軽症)』のほうを向いて、強気な態度でじっと見つめた。宮沢憲司は相変わらず憮然として、季はとたんに顔を赤らめて彼女を見返す。
「――ごめんなさい……」
 早口に、しかしはっきりと聞き取れる声でそれだけ言うと、高栗美佐は言葉に詰まった。
「――謝るといっても、私、貴方たちの名前を知らないわ」
「そういや、俺も宮沢しか知らないな。君たち、自己紹介してくれないか」
 天野の要請に応じて、宮沢憲司と季は自己紹介をした。ただ、緊張のためか季はまるでお見合いみたいな話し方をし始めたため、変な雰囲気にみんな思わず顔を赤らめた。
「えっ、二人とも私の部下だったの〜!」
 嫌そうな顔をして、美佐は二人に流し目を送った。
「そうか、第一分隊第二小隊新副隊長と新隊員か。ははは、第一分隊副隊長及び同第二小隊隊長の美佐君。可愛い部下ができたじゃないか、大事にしろよ」
 天野は本当に愉快そうである。しかし、関係者の三人で喜んでいるのは季だけであった。
「そんなふうに言わないで下さい、美佐隊長。これは運命だったのですから」
「部下に名前で呼ばれたくないわ」
「ああ、すいません、高栗隊長」
 季はすでに高栗美佐のしもべと化している。
「それにしても若いですね、高栗隊長。大学を飛び級で出たのですか?」
 上司なので敬語で話す宮沢憲司だったが、強気な高栗美佐の態度が尊大に思えて、どうしても刺が立つ。
「そうよ、それに高校もよ。私、これでもまだ一九なの」
 その刺を見抜いた高栗美佐は、やはり刺のある口調でやり返した。しかしこの言い方からも、彼女はまだ基本的に子供っぽいと言わざるを得ない。
 高栗美佐、一九歳。高校と大学を飛び級で卒業した秀才で、二年前に局に就職した。高栗将人局長の一人娘ということには関係なく、彼女自身の能力の高さが、彼女をわずか二年で、分隊の副隊長まで昇進させた。局長専属秘書の北条萌は、彼女の友人である。
 この若さで自分より二つも上の階級であることから、宮沢憲司は彼女がおそらく仕事において優秀な人間だと理解した。しかし今の彼女のこの言動は、どうしてもそれを裏づけるものとは言いがたい。宮沢憲司は、そのことで悩んだ。
(彼女は、確かに頭は良いだろう。しかし、どうしてこんな子供っぽい性格なんだ。まだ二〇歳前だからか? とにかく、先が思いやられるな……)
 そう思いながらも、宮沢憲司は新しい上司を受け入れた。

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