第一章 一日目、一週間大騒動の始まり。

旭和ラノベ
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 六月七日、一週間降り続いた大雨が止み、前日までとはうってかわってからっと晴れた。
 中国地方山口県岩国市。岩国市は山口県の東南端にあり、西に山地がせまり、東は瀬戸内海安芸灘に面している。
 今津川という川が市の中心街のすぐ南側を流れており、三角洲で東西と南北に分かれている。そして南北方向に走る川は、門前川と名を変えている。
 門前川の東岸、三角洲の西端に、自然災害対策局予防部の研修施設があった。
 築五〇年以上の老朽化した三階建ての元ぼろアパートは、長年の酸性雨の洗礼にも負けずに、くすんだ灰色の巨体を街角にたたずませていた。その建物の二階の一室の開けっぱなしの窓から、大きな怒声が聞こえた。
「畜生。天気というやつは、なんて不公平なんだ!」
 段ボールの箱が無造作にいくつも転がっている。部屋の荷物は床に無秩序に散らばり、半分ほどは段ボールに納まっていたが、全ての荷物を整理するには、まだまだ時間がかかりそうであった。
「明日引っ越しというこんな日にかぎって、どうして晴れるんだ、梅雨の気紛れめ。あー、ドライブがしたい。納得いかねえ!」
 特徴のない群青色の体操服を着た宮沢憲司は怒りながら、一年二カ月間住んだ部屋に別れをつげるための儀式を行なっていた。無造作に次々に物をつかんでは、てきぱきと仕分け作業を続ける。
 宮沢憲司は二〇三〇年八月二七日生まれの二四歳。身長一七五センチ、体重六四キロの中肉中背。髪は短く切りそろえてあり、見方によってはハンサムには見えなくもないが、どちらかというと三枚目といった雰囲気の若者である。
 彼は地元である札幌の高校を卒業後、自然災害対策局を目指し、一浪して防衛大に入った。自然災害対策局の管理職クラスの職員は、局がかつて自衛隊の一部署であったころのなごりで、防衛大に特別部を設けて育成していた。
 宮沢憲司は大学を卒業後、去年無事に自然災害対策局に入れたが、研修期間がおわろうとしていた矢先に、卒論に致命的なミスが見つかった。卒論のミス自体は三日で訂正できたが、卒業も配属も一年延び、卒業証書は大学に返さねばならなくなった。
 いまさら大学に行ってもしょうがなく、また実家で一年間親のすねを噛る気はなかった。かくして、彼は一年間をこの研修施設に住み込んですごっし、今年改めて、二度目の研修を受けたのである。
 この前代未聞の若者は、今年入ってきた研修生たちに、一応同期になるはずだが、このエピソードから、『先輩』と呼ばれてリーダー的存在で扱われていた。
「先輩の荷物は多すぎる。時間がかかるのは当たり前」
 台湾人で二三歳の季遊子(チーヨウツー)が、怒る宮沢を見てあきれた顔をして言った。宮沢と同じ体操服を着て、背は宮沢よりも頭ひとつ分も高い大男である。
 アジアが経済的に完全開放(AEC――アジア経済共同体――二〇三二年設立)されて二〇年以上が経っており、漸次的に社会的開放も進んでいた。この時代、公務員に外国籍の者がいることは、すでに珍しいことではなかった。
 彼は一般からの就職である。日本に興味を持って一九の時に日本に来た。四年制大学を卒業し、意欲的な先人たちにならって公務員になったのだ。
「わかってるって。だから季に手伝ってもらっているんだろ。ほら、こいつをおまえの後ろの箱に入れてくれ」
 宮沢憲司は中古ラジオを季に渡した。
「それにしても先輩、どうして荷作りをもっと前からやらなかった? 先輩は私たちと違って荷物が多い。引っ越し前日になって用意するのは大変だよ」
 季は流暢とはいえないが、ちゃんと理解できる日本語をしゃべる。
 それにしても、彼はまったくこの『先輩』に対して一目置くことがなく、呼び方以外は自分と同格に扱っていた。自分と同じ立場の人間に、どうして敬語を使う必要があるのだ。同期生である以上、同等の背丈で接するのがむしろ礼儀ではないか。
 これが彼の持論であり、宮沢憲司は彼のそんなところが気に入っていた。笑いながら宮沢憲司はこたえた。
「憂うつな雨が降り続いたせいで、すっかりなまけ者になってしまったからさ。それにしても、引っ越し前日になってこんなに晴れるなんて。分かっていたら雨の降っていたうちにすべて用意をしておいて、今日はドライブに行ってたのにな」
「五〇年前なら一週間先の天気も分かっていた。現在の大気は混沌で、三日先の天気も分からない」
「そうさ、いつ災害が起きてもおかしくない。だから俺達みたいな――」
 宮沢憲司はきつくてなかなか箱に入らない布団を、力一杯押し込めた。
「――存在がいるのさ。それにしても、俺たちは一体どの部隊に配属されると思う?」
「わからない。ただ、昨年新設の守衛部隊がいいとみんなは言っている」
「冗談じゃないぜ。三課守衛部隊ってのはな、分隊長と小隊長以外は、みんな二年目の半分素人だぞ。やりがいのある大きな仕事がまかされないじゃないか」
「先輩は、最初からいい仕事したがっている。ちょっとムリでは?」
「配属された部隊が実績のあるところなら、最初からある程度の仕事がやらせてもらえるさ。季、俺は一日でも早く一人前になりたい。そのためには、少しでも短期間で大きい経験を積みたいと思っている」
 季は首をかしげた。
「――先輩は、何か理由があるみたいだね」
 宮沢憲司は作業の手を止めて、物思いに少しふけった。そして季の方を見て微笑んでおもむろに言った。
「……そうだよ、季。俺には小学校からの腐れ縁の友人がいてな。そいつはもう社会に出て、活躍しているんだ。俺はその友人と誓ったのさ。『将来組んで大きな事をやる』ってな。だが俺は彼にもう二年も置いてかれてる。だから俺は、早く彼に追いつかないといけないんだ。約束と夢の実現を果たすためにね」
 その時、部屋に同僚が入ってきた。
「先輩、知り合いが訪ねて来てますぜ」
 そしてその同僚の後から、背の低い男が現れた。
 うすく茶色がかった艶のある長髪と蒼い瞳を持ち、バランスのとれた端正な顔が印象的である。実に機能的な、まるで建設作業現場監督のような服を着ている。しかし、その色は濃い桃色であった。桃太郎である。
 宮沢憲司はその男を指さして言った。
「そうさ、こいつだよ。その友人ってのは――へ?」
「よう、憲司。元気かい」
 桃太郎が人なつっこい笑顔を向けた。
 宮沢憲司の表情は急激に、心を許した者にしか見せない満面の微笑みに変貌した。
「も、桃じゃねえか、久しぶりだな!」
「この近くでやっていた仕事が、思ったよりも早く終わって時間ができてね、憲司が近くにいることを思い出してちょっと寄ってみたのさ」
「そうか。まあ、あいにく今は取り込み中だが……」
 宮沢憲司はちらっと季の方を見た。季はため息をつき、肩をすくめた。
「大丈夫だ。俺ができる範囲でやっておく」
「よっしゃあ、分かるじゃないか、季」
「スゥン・ギャー(台湾語で『行ってらっしゃい』)。ところで先輩」
「何だ、季」
 すっかり機嫌の良くなった宮沢憲司に、季はささやかな注文をした。
「三日間おごる。これが条件」
 もちろん宮沢憲司は、すぐに承知した。
     *        *
 岩国市から安芸灘に沿って南北に走る沿岸道路、南に走る車の列、その中の一台の赤いスポーツカー。
 H社の開発した二〇四七年型CR―F。FはFlapperの略で、『おてんば娘』という意味である。イルカのような極端な丸みを帯びた、流線型のフォルムが美しい。
 『おてんば娘』は電気水素自動車である。主に充電電気で駆動し、坂道や高速走行時は圧縮液体水素を補助燃料として使用していた。マフラーが吐き出すのは水蒸気だけである。
 CR―Fの運転席に座っているのは、ラフな格好に着替えた宮沢憲司。助手席に座っているのは、幼なじみの親友で、同じ夢を分かち合った桃太郎である。
「相変わらずだな、憲司は」
 桃太郎はさっきのやりとりを、そう評価した。
「憲司、僕をだしに使っただろ。君はこんな晴れた日には、いつも外に出ないと気がすまないからね」
「当たり。でもいいじゃないか、外が俺を呼んでいる〜」
 桃太郎は有名な童話の主人公と同じ名であり、宮沢憲司は、著名な科学童話作家の宮沢賢治と同音異字であった。お互いに当然名前にコンプレックスを持っており、そこが、出会った瞬間に二人を友人として結びつける作用を働かせた。そして名前とは関係なく、お互いが気の合うことを知った二人は親友となり、その交友は十四年にもなる。
「ところで憲司、みんなが荷作りしていたけど、どうしたんだい。まだ研修は終わっていないはずだけど」
「ああ、明日から神戸の独身寮に移るんだ。それに桃、研修は昨日で終わったんだぞ」
「これはなんと、僕の勘違いか。知っていたら、邪魔はしなかったんだが」
「いや、桃が来てくれたおかげで助かった。ここ一週間の大雨のせいで、ドライブができずにストレスが溜まっていたからね。いざ晴れたと思ったら、引っ越しの荷作りだ。出かける口実ができたという意味で、桃の功績は莫大なものだぜ。できることなら、勲章をあげたいくらいだ」
「そうか、憲司がそう言うならいいよ」
 しばらく南下した後、CR―Fは由宇町の全国チェーンの弁当屋に入った。
「桃、ここで晩飯を買うぞ。ここのチキンナンバンは、俺が知ってるかぎりにおいて、広島、山口両県の中では一番うまい!」
「君の弁当趣味も相変わらずだな、弁当博士」
 宮沢憲司のアウトドア指向は、弁当屋巡りという変な趣味に結実している。
 休みのたびに哀れな同行者を乗せては、彼は一帯の弁当屋という弁当屋に足を運んでは、うまい弁当を求めて食べまくった。桃太郎は彼の趣味を面白いと思っている、数少ない良き理解者の一人であった。
「そうだな、弁当屋は久しぶりだ。君の言うとおりチキンナンバン弁当にしよう」
 結局、ここではチキンナンバン弁当を二つ買った。宮沢憲司の分は大盛であった。
「何せ、肉体労働をしていたのでね」
 車のドアを開けながら、宮沢憲司はどうでもいい弁解を試みてみたくなった。
「それなら、憲司、僕もだぞ」
 車に乗り込みながら、桃太郎が言った。
 『おてんば娘』のエンジンに火がついた。車の前面下部と背面上部にさりげなく配置された黒色の電光掲示板に、黄色い光で『行くわよ』と表示される。
 この電光掲示板は、この時代の車にはよく見られる装備である。ウインカーとは別に、周囲に自分の意志を伝えるためという、一応の前提があったが、単に時代流行的なおしゃれとしての要素が強い。それは、表示内容を初期設定のままにしておく者が少なかったからである。
 CR―Fは『右だわ右よ』と、宮沢憲司によって変更された『女の子メッセージ』を出しながら、再び南下を開始した。
 数分経って、宮沢憲司は突然思い出したように桃太郎にたずねた。
「ところで、桃。さっき『僕も労働をした』のようなことを言っていたが、今日は何の仕事をしていたんだ?」
 宮沢憲司は記憶が正確じゃない。
「ああ、言ってなかったね。ここ一週間の大雨の影響で、昨日の朝、広島市の北の広域林道で小さな土砂崩れがあったんだ。幸い死者はいなかったが、負傷者が数人出た。僕はいつもどうり、君の職場から依頼を受けて、土砂が撤去された後の事後調査をやったのさ」
 広島市と岩国市は、四〇キロ以上離れている。「ちょっと寄ってみた」という桃太郎の言い訳は、この瞬間消え去ったが、直後に発せられた言葉によって、そんなことはどうでもよくなった。
「そこで問題になったことだが、この崖崩れは、観測網の予測ができなかったんだ」
「桃、そいつはセンサーが壊れていたのか?」
「ああ、どうせまた酸性雨さ。『自動常時異変観測網』の末端センサー類は、今や満身創痍だ。実は今日は、憲司にどうしてもこの話がしたくて会いに来たんだ」
 自動常時異変観測網は、日本中の、自然災害で何らかの人的、物的被害が起こりうるあらゆる場所に、様々な観測装置を配置して、二四時間体制で異常を監視するシステムである。
 人間には見ても分からない異常も、この観測網には分かる。日本中の崖、傾斜地、火山、河川、湖沼、森林、活断層、地下水脈、海流地帯などに数千万個のセンサー群が張り巡らされ、それに気象観測網が加わったこの一大システムは、二〇四三年の完成以来、いち早く異変を察知することで、数々の災害を予防し、多くの命と財産を守ってきた。
 自然災害対策局最大の武器である観測網だったが、完成からわずか一二年で、ガタが出始めていた。
「梅雨の大雨が原因で発生した、この一週間の一一五件の災害事故のうち、観測網が予測できたのは九割。一割の事故が予測されずに、多くの死傷者が出てしまった」
 桃太郎は深刻なおもむきである。今回の大雨の事故で、観測網の劣化が無視できない状態にまでなっていることを、現場で痛感した彼は、このことを親友と語り合わないと気がすまなくなったのだ。
「……そうだな、ここ五年ほど、ニュースなどでたびたびセンサー腐蝕問題が取り上げられはしていたが、まさかそこまでひどくなっていたとは。人の命や財産がかかっているというのに、局のお偉方は何をしていたんだ!」
 宮沢憲司は本気で怒った。二人とも、自分の仕事が直接人を助けるものだということに誇りを持っている(宮沢憲司はまだ直接働いたことはなかったが)ので、話は真剣なものになっている。自分の上司や雇主の責任を糾弾することさえ、彼らには平気で出来た。
「酸性雨による腐蝕さえなけりゃあ、三〇年はもつはずのシステムなのにな。まだまだ大気は汚いからな、開発途上国にもっと援助してやらないと、また数十兆円(今の数兆円)かけて、観測網をそっくり作り直すはめになるぞ」
 桃太郎の指摘はよく言われている一般的な推測に過ぎなかったが、これ以外に原因の要素はなく、まさしく的を射ていた。
「で、その援助金は、工場の煙突に煤煙除去装置を取り付ける資金ではなく、獲得外貨として国庫に貯えられる訳だな」
 宮沢憲司が皮肉った。
「とんでもない事だな。いずれにせよ、俺たちコンサルタント会社の災害調査部はお手上げだぜ。観測網が完全にイカれて、災害予防の事前調査が無くなったら、事故発生後の事後調査だけでは、仕事が半減するからな」
「桃、かつて局が自衛隊の一部のときにやっていた、直接パトロールっという手があるぜ」
 宮沢憲司は桃太郎の不安を紛らわそうと軽口をたたいた。
 しかし、桃太郎はその言葉を真剣に受けとめたようである。
「そうか……観測網の再整備までの期間を、人間によるパトロールで乗り切ればいい……その仕事を、局から上手く回してもらえるかな……」
「――桃、おまえ、何か新しい事業でも始める気か?」
「いや、ただ不安になってね――」
「とにかく、俺と桃は、大きな仕事をしてやるって約束しただろ。大きなことをしようとする者が、本当に来るかどうか分からないちょっとした将来の不況などで、いちいち気を落としてたらいけないぜ」
「……ありがとう、憲司」
 桃太郎は、まったく論理的ではないが、真摯な宮沢憲司のはげましに、素直に喜んだ。
「いやあ、そう言われるとこちらが恥ずかしくなるな」
 宮沢憲司は照れた。
 そして明るい雰囲気になった二人は、とりとめのない話に興じはじめた。
 桃太郎は東京都生まれの二四歳。二〇三一年二月一四日の、バレンタインデーに生まれた。
 父方の祖母がフランス美女で、うすく茶色がかった長髪と蒼い目、整った顔はその血の影響である。しかし彼は身長一四九センチ、体重四二キロという体格と、桃太郎という名前の、どうしようもないことから、女性とは縁がない。
 彼の家は、業界屈指の建設系コンサルタント会社である。父親は将来の次代社長候補として、二年前、大学を出たばかりだった彼に災害調査部門を任せた。この部門は自然災害発生時の現地調査請負が仕事であり、最大の取り引き相手は当然自然災害対策局であった。
 南下し続ける二人の乗ったCR―Fは、やがて大畠町に入った。
 海岸線と道路が少しずつ弧を描きながら、南北方向から徐々に東西方向に変わっており、車の進路が南から西になるに従い、山に隠れていた夕日が目の前に赤い姿をあらわにした。
 見れば左手の海には、薄い茜色の中に浮かぶ黒色の巨大な島影が、しだいに大きくなってきていた。屋代島である。
 CR―Fは、大畠町と対岸の屋代島大島町を結ぶ、新大島大橋の北側の展望駐車場に、『止まるわよ』と電光表示を出して停車した。かつてここに架かっていた大島大橋は、二〇一二年の巨大台風の最大風速八〇メートルに、さすがに耐え切れず落ちている。今の大橋は、瀬戸大橋のような見事な斜張橋であった。
 宮沢憲司は桃太郎の方を見て『どうだ、奇麗だろう』と目で言った。
「ここで晩飯を食べるつもりだったのか。いい景色だな、憲司。よい場所を知ってるな」
 桃太郎は素直に賞賛した。
「そうさ、そして暗くなるのを待って、あの島で夜のドライブと行こうぜ。それくらいの時間はあるだろ?」
「もちろんだ。僕は一つの仕事のくぎりをつけたら、必ず最低一日は休む。多少遅くなっても、誰にも迷惑はかけないさ」
 これは、桃太郎のポリシーである。
 二人は車の中で冷え始めていた弁当を急いで腹に納めて、茜色から暗闇に移りゆく風景を見ながら休憩した。
     *        *
 新大島大橋が奇麗なライト群に装飾され、『おてんば娘』は駐車場から道路に戻って橋を渡り、暗闇の屋代島に乗り込んだ。
 屋代島は東西約二五キロ、南北一〇キロほどで、瀬戸内海でも比較的大きい島に属する。この島は東半分が細長い半島状の地形をしており、二一世紀初頭に一大観光地として整備された。半島状地形の北側を走る国道四三七号線は、工事の末にスカイラインとして生まれ変わった。観光地を計画開発した建設会社は、地下に巨大な空洞を掘り、そこに各種施設を建設した。
 大見山は標高三三七メートルで、島の東部で一番高い山であった。山の北側中腹に複数の入り口を作り、中の膨大な量の岩盤をくり貫き、最終的に世界最大の人工の大空間が出現した。そしてそこにテーマパークが作られると、大見山は二〇二七年に地震不況(二〇二五年、西関東大震災)の影響で会社が倒産するまで、おおいに繁盛した。
 現在では、無料開放されたスカイラインのみが健在で、大空洞は封印されてる。
 時々思い出したようにマスコミが取材を試みたが、危険という理由で国は認めなかった。大空洞が作られて半世紀あまりが経過しており、そろそろ部分的な落盤事故が起こってもおかしくはなかったのである。
 車はそろそろ、封印された入り口の一つに近づいてきていた。
 タイヤをきしませ、水素動力を全開にして、轟音とともに時速一〇〇キロ近いスピードでカーブを駆ける。そして直線に出て一気に加速する。たちまちデジタルメーターが、一三〇キロまで跳ね上がった。
「ぐぐぐ……け、憲司。ちょっときつすぎるぞ」
 顔面に冷や汗をかきながら、桃太郎は親友に言った。体が硬直して動けない。
「すまん、つい本気で走ってしまった」
 宮沢憲司はアクセルを緩めた。それでも、メーターは九〇キロと表示している。
「まったく、君の運転は相変わらず凄いな。でも、僕がスピードに弱いってことを忘れるなよな」
 桃太郎はやっと落ち着いてきた。
「すまないな。なにせこのところの梅雨で、車を運転するのは久しぶりで嬉しくてね」
「こんなスピード狂いが、今まで一回も事故らせたことがないってのは、本当に奇跡だよ」
 この時代、自動車免許は一五歳から取れた。宮沢憲司は一六歳で免許を取って以来、一度も事故を起こしたことはなかった。その代わり、スピード違反で切符を切られたことは何度もあった。
「俺は反射神経がいいからね。それに、夜に人のいなくなる場所で走るぶんには、腕に自信のある範囲でならば、誰でもジコる心配はないさ。道路の真中に人でも立っていない限りは――なんだ、あれは?」
 そのとき、前照灯の直線道路の彼方に、小さな黒い影がちらっと見えた。CR―Fの進路上にいる影はみるみる大きくなってきた。そしてそれはあきらかに人であることを宮沢憲司は直感した。
 人影は、突然現れた猛スピードの光と音の恐怖に、身動きもできないようだった。
「畜生!」
 宮沢憲司はハンドルを少し人影から右にずらして、急ブレーキを踏んだ。H(High)=ABS(アンチロックブレーキシステム)が働き、時速九〇キロでもかろうじてスリップはしなかった。
 しかし急激な減速でブレーキが悲鳴をあげ、後部タイヤが右にわずかに横滑りした。次の瞬間、摩擦がとうとうHABSの許容限界を越え、後輪からスリップ状態に入り、すぐに前輪も滑り出した。
 道路に長く黒いタイヤ痕を残して、CR―Fは左に回転し始めた。
 宮沢憲司は思いっきり右にハンドルを切り、絶妙にブレーキを操作した。『止まるわよ』の黄色い光が回転をやめ、車は完全に半回転して後ろを向いた状態で、人影の二メートル横の反対車線を通過し、停止した。
 人影は、二本の黄色い前照灯の間で『止まったわ』という表示を出している赤い車を恐る恐ると見た。しかし逆光で、車中の人物は見えなかった。
 人影は何か叫び、そして車のドアが開く前に、急いで道路から北の海側に慣れぬ足取りで走り、ガードレールをまるで二メートルの壁を乗り越えるように苦労しながら乗り越えた。そして海がわずかに見える、暗い木々の間に逃げ込んだ。
 その一部始終を放心しながら見ていた二人は、あわてて車の外に飛び出して追いかけようとしたが、すでに手遅れだった。
「何だ、あいつは。俺たちが怒って暴力でも振ると思ったのか」
 やり場のない怒りを、宮沢憲司は言葉にして昇華しようとした。
「でも憲司、こんな時間にスカイラインを歩いていた彼も彼だけど、こちらも悪いんだ。僕たちに彼ばかりを責めることはできないよ」
 さりげなく桃太郎が諭す。伊達にこの若さで会社の部長をやってはいないだけあって、彼は落ち着いていた。
「……ああ、そうだな。それにしても、なんで奴はこんなところにいたんだ?」
 宮沢憲司と桃太郎は、周囲を見回した。そして、内陸側である南側のふくらんだ山影に気がついた。
 男が立っていた辺りのすぐ山側に、その山へと続く道があったが、道は半分錆びた鉄の門に塞がれ、立ち入り禁止の立看板と、崩れかけた『鈴鳴建設』の横断幕があった。
「鈴鳴建設?」
 桃太郎は、その名を聞いたことがあった。
「昔、この屋代島に一大テーマパークを作った会社だ。例の大地震の不況で倒産しちまったが」
 宮沢憲司が説明した。
「ああ、あの会社だな。親父から聞いたことがある。そこの社長の息子と友人だったらしい。確か、この山だったな、世界最大の大空洞とやらは」
「どうやら奴は、ここから出てきたか、あるいは入ろうとしていたのか……実を言うと桃、俺はな、興味本意で、去年一度だけここから、大空洞に入ろうと試みたことがあったんだ」
「で、どうだったんだ」
 桃太郎の問いに対し、宮沢憲司は肩をすくめた。
「てんでだめさ、ぶ厚い鋼鉄の壁が行く手を阻んでいてな、すぐに引き返したよ。全部の入り口が同じだった」
「それにしても、あの男は何者だったんだろう。年は四、五〇歳くらいかな。動きからして、どうやら運動は苦手のようだったし。何か叫んでいたな。三音の言葉だったけど、放心していたから、思い出せないな」
 桃太郎が話題を変え、宮沢憲司も反応した。
「よく観察していたな。気になるのか?」
「ああ、僕たちに少なからぬ心理的動揺をあたえた人だからね。今度会ったときには、何か文句を言ってやらないと」
 宮沢憲司は冷静に怒る桃太郎に呆れて、興奮状態がすっかり冷めてしまった。
「おまえなあ。さっき、自分で『相手を責めれない』って言ったじゃないか」
「それは、君の怒りを少しでも鎮めるためだったのさ。今は、代わりに僕が怒っている」
「はいはい、やっぱりお前は桃だな」
「……ところで憲司、あの男がここで何をしようとしていたのか、見に行こう」
 桃太郎は、錆びた鉄の門を指さした。門の先の道は、全くの闇である。
「そうだな。奴がさっきこの門の先に行っていた可能性は否定できないからな」
     *        *
 車を路側帯に移動させ、宮沢憲司が電灯を持って、林から迂回して、横道に入った。
 どこか人の見えないところで、まだ見ぬ恋人を待って鳴き続ける虫たちの恋歌の発表会が開かれている。スカイラインからは時々、威勢のいい走り屋の騒音が聞こえてくる。それも、道の奥に進んでいくに従って、次第に小さくなっていった。
 同じ道でも、車に乗っていたときとのあまりに対照的な静けさに、二人とも何もしゃべらなかった。
 見捨てられた道か……などと、宮沢憲司が哲学者めいたことを考え始めたとき、桃太郎が宮沢の持つ明かりの先を指さした。
「やはりなんかあったんだ」
 目の前には、道を吸い込む山の斜面に、大きく開けられた穴があった。両側に大きく開かれた鋼鉄の扉が、空しく見えた。
「どうやら、奴はただ者ではなかったようだな。ここの鍵は、政府が保管してあるはずだぞ。こんな夜に、人目を避けてやって来るなんて、きっと何か後ろ暗いことがあったにちがいない」
 宮沢憲司は、即席探偵になった気分だった。久しぶりに車を運転できて、さらにこんな思いがけない非日常の体験をした高揚感が、彼を別の意味で精神的に満足させていた。
「それにしてもおかしいな。どうして、あの男はこの扉を開けっぱなしにしたんだろうな。何かに慌てていたのかな?」
「そうだな、桃。それを確かめるには、さらにこの中に入って、大空洞を調べてみるのが一番だぜ」
 桃太郎は無言でうなずいた。そして二人が開けっぱなしの鋼鉄の扉から入ろうとした瞬間、突然世界が揺れ始めた。
 ゴゴゴゴゴ――……
「なんだなんだ?」
「うわあ!」
 地の底から煮えたぎる怒り。そんな言葉が似合う、鈍いが、はっきりと聞こえる崩壊の音が続く。
 ――ドン!
 そしてそのすぐ後にやってきた凄まじい振動。二人は、すでに立っていることすらおぼつかなくなっていた。
「うへー、なんだってんだ!」
 宮沢憲司は不吉そうに、大空洞の入り口の奥の暗闇を凝視した。
 そんな彼を見ながら桃太郎は、突然、さっきから気になっていた何かを思い出した。
「そうか、さっきの男の言葉は――」
「何、桃、なんだって?」
     *        *
 ゴゴゴゴゴ!
 そして凄まじい振動に呼応する、全ての音を打ち消し、強制的な騒音を聞かせる音量の怒濤。その中で、桃太郎が叫んだ最後の部分は轟音に掻き消されたが、聞き取ることができたとしたら、それはこうであった。
「『逃げろ』だ!」
 この瞬間から、まる一週間に渡る、日本中が注目した大騒動が始まった。

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