第五章 憑依注意報!

小説
憑依注意報!/第一章 第二章 第三章 第四章 第五章

「警察が動いたわ!」
 憲と凪影が開いた窓から戻ると、玲華は開口一番にそう叫んだ。
 玲華の部屋には、本物の警察無線や警察の捜査資料、そして先日の葬式で取ったビデオが所狭しと置いてある。
 章子がいくら禁じても、玲華にとって事件の解決はもはや意地だった。警察無線は独自のルートで手に入れたようだ。
 もっともあたらしい捜査資料が手に入らなくなったので、葬式のビデオを眺めながら警察無線を聞くしかなかった。
 無線から、オペレーターの声が出ている。
 すでにおおまかな指令は出てしまったようで、細かい誘導が主になっていた。
〈こちら四号。キップを切っていて出遅れた、現在の状況と誘導頼む。どうぞ〉
〈容疑者は青いスクーターに乗り、材木町付近を川沿いに南へ逃走中。四号車は国道との合流点を抑えてください。外見は白のメット、藍色の作業服を着用――〉
 そこまで聞いたところで、玲華は黒いドレスの裾をひるがえして命令した。
「いますぐむかって」
『え?』
「あなたたち以外に誰がいるの?」
 凪影が首肯し、言霊も使わずにぽんと瞬間移動した。
「室崎君、あなたもよ」
『でも智真理が出かけて……』
「時間がないのよ。力をたんと補充してあげるから、さっさと行く!」
 玲華は立ち上がるや、憲に重なった。
 その瞬間、憲の体に漲る力が流れ込む。
 玲華の頬に、ほのかに赤みがさす。
「くうう……」
 苦痛というよりは、玲華の様子はむしろ気持ちよさそうに思える。
 憲は美女を漁る吸血鬼の気分になった。
 数秒ほどして玲華は憲から離れると、ゆっくりと腰砕けた。
 憲は全身に溢れる力を感じていた。
『なんというか、いい感じです――』
「室崎君、この三日間訓練していたのに補充してなかったでしょ」
『恩に切ります、玲華さん』
「わたくしの力は食べて寝たらすぐに回復するわよ。さあ行った行った」
『では……跳躍!』
 叫んだ次にはもう、憲は国道の真上にいた。
『すごい、一気に一〇〇メートルは飛んだ』
 これが三日間の修行の、真の成果か!
 瞬間移動の限界距離が数倍になっている。
 憲は国道沿いに飛んだ。
『室崎君、聞こえる?』
『玲華さん』
『智真理ちゃんは任せて。わたくしが邑居さんの車で追うわ。白雲もいるし』
『白雲さんはともかく、車だと目立ちませんか?』
『距離を取るからだいじょうぶ。智真理ちゃんの自転車には発信器を取り付けているわ』
『準備がいいですね、では任せます。跳躍!』
 周囲の景色が様変わりする。
 サイレンの音が聞こえてきた。
『――それで玲華さん、オレが追っている相手はどちらですか?』
『カメラの犯人。でもおそらく、そばかすよ』
『一週間ぶりぐらいのご対面か』
 気が引き締まる。
 さて、真実やいかに。
 オレは名探偵でも敏腕刑事でもない。最後の詰めは突撃して問いつめるしかないのだ。
 おまえは平良の仲間か?
 おまえは平良から逃げたのか?
 問いつめるべき相手が追いつめられて出てきた。
 いぶりだしてくれた警察よ、ありがとう。
 さあ、これからが真実に向けての本番だ!
『どうやって捕まえるんですか?』
『まさか。警察の逮捕劇に協力してあげて』
 残念。
 まあ玲華の立場を考えれば、そんなところだろう。
 そばかす男が盗撮団カメレオンの一味というのが正しければ、逃げ切る可能性は充分に考えられる。
 戦力は多いに越したことはない。
『跳躍!』
 また周囲の風景が一変する。
 けたたましいサイレンの音がする。
 見えた。
 二台のパトカーが停まっている。
 国道と川が斜めに交差するところで、憲から見て左側の手前だ。
 川沿いには堤防の上に道が走っている。
 そばかすはおそらくそこをスクーターで走っている――来た!
 ラブホテルの影から飛び出てきた。
 影に隠れて見えなかったのだ。
 その後ろから追うは、パトカーが二台に、普通車の上にランプが点灯しているおそらく刑事の車が三台。計五台。
 スクーターは青い。乗るは白いヘルメットに、青系統の作業服。
 情報通りだ、間違いない。
 こいつを捕まえて智真理の前に引き出せば、本当に犯人かどうかは一発で分かるだろう。
 調書の写しでは智真理は犯人の特徴がよくわからないと言っていたらしい。だが犯行当時とおなじ顔周りにしたらどうなる?
 野球帽子に、安物のジャンパーを着せる。
 それこそが特徴となるだろう。
 もっともこれは玲華の受け売りだが。
『跳躍!』
 道を封鎖しているパトカーの上空に出る。
 そこには凪影がいた。おそらくわずか一回の瞬間移動でここに来たはずだ。
 空中で座禅を組んで浮いている。
 憲は凪影の元に飛んでいった。
『凪影、どうやって止めます?』
『拙者らにすることはないかも知れぬな』
 凪影は地面を示した。
 見ると、地面に横一直線で銀色の板が。
 聞いたことがある。暴走族対策用のトラップだ。
 上を二輪が通過すると、前輪で銀板の蓋が開き、中の縄が後輪に巻き付き、強制的にブレーキをかけさせる仕組みだ。
 そこに青いスクーターは追い込まれている。
 まもなくスクーターは……
『なっ』
 スクーターが突然ブレーキを踏んだ。その速度ががくんと落ちる。
 真後ろにつけていた警察車両たちも一斉にブレーキを踏む。脆弱なスクーター相手にうかつなチェイスはできない。ぶつけただけで容疑者は大怪我を負ってしまう。
 しかし急ブレーキがまにあわず、五台のうち先頭の二台がぶつかった。後続を塞ぐ格好になる。
 スクーターの男は驚いたように一度後ろを見たが、すぐに前を向くと、慎重に道の路肩――草の上をよたよたと走りだした。
 トラップを回避する気か?
 だがそのトラップの両脇――草の部分には警官が立ってピピピを笛を吹いている。
 その片側に突っ込むスクーター。
 気合い勝負だ。
『だめだ!』
 憲は動きだした。
 警官とスクーターの一騎打ち――警官がぎりぎりで避けた。
 スクーターは警官のいた部分を通過した。同時にトラップをの脇を突破する。
 直後、スクーターはぽんと跳ねた。
 街路樹の根が路肩を所々で割って五センチくらい盛り上がっている。
 それでスクーターは転びかけたのだ。
 舗装路に復帰するが、スピードが歩くほどに下がっている。
 走り寄る警官が三名。
 しかしまたスピードをあげるスクーター、一名が追いつき、乗っている男の肩を掴むが――男が抵抗し、あえなく離してしまう。警官はそのまま前に倒れ伏す。
 つぎは憲がスクーターの前を塞いだ。
 両手を前にかざす。
『マグナム』
 手に大型拳銃が生まれる。
『これでも食らえ!』
 霊と霊感がある生者にしか聞こえない銃声とともに、気合いの弾を放出する。
 幽霊には霊体に大穴を穿ち、生者にはちょっとした突風となる。
 スピード的に転んでもたいしたことはないはずだ。一発目が前輪に当たる。すこしバランスを崩すが、まだだ。
 がうん、がうん。
 つづけて二発。
 が、弾道上に凪影が瞬間移動するや、居合いの一太刀で二発同時にうち消した。
『なぜ?』
『上だ』
 ――ヘリコプター!
 マスコミだ。どこで嗅ぎつけたのだろう。
 これでうかつなことはできない。超常を引き起こすと、その模様が日本全国の茶の間に流れてしまう。
 桂川章子会長がもっとも懸念する事態だ。
 凪影と憲のまえをスクーターは素通りした。
 どうすればいい?
 そうか! 憲はあることに思い至った。
 スクーターの後を追う。
 挟み撃ちにしている二台のパトカーには、警官がふたり残っていた。
 スクーターの前を塞ごうとするが、しかし暴走するスクーターを前に怖くて道を譲ってしまう。
 スクーターはパトカーの脇をすり抜け、国道に乗って逃げた。
 悔しがる警官たち。ふたりはすぐに一台のパトカーに乗り込むが――その片方に憲はおもいっきり飛び込んだ。
 重なった直後に言霊だ。
『ハッキング!』
 その警官はびくんと体を揺らせた。
 助手席で脱力し、弛緩する。
「どうしました巡査長!」
 運転席の若い同僚が驚いたように、憲がはいりこんだ警官を揺すった。
 数秒して警官は急に正体を取り戻した。首を振って目を開き、あたりを確認すると、運転席の同僚に敬礼した。
「車を出してください」
「え……なにを敬語でおっしゃってるんですか」
「せいや?」
 巡査長の中の憲はしまったと思った。警察の階級は知らないが、どうやら部下に敬語を使ってしまったようだ。そういえば運転席の警官はまだ若い。
「と――とにかく出して」
「はっ」
 若い警官は車を出そうとした……が、急に全身の力が抜けたように顔を前に倒した。それはわずか一秒にも満たない動作で、すぐに元に戻った。
「いいことを思いついたな」
 目の光が一転して狼のように鋭くなっている。
「凪影ですか」
 かすかに頷く。
 瞬間移動で入り込んだのだろう。
 同行者はまだいた。
 警官の凪影の操作でパトカーが動きだしたところで、パトカーの後部ドアをむりやり開け、強引に乗り込んだ刑事がいた。
「ぜえぜえ」
 警官の憲が驚いて見てみると、それは憲が死んだ現場で指揮を取っていた中年の刑事だった。階級は知らないが、こちらが上ということはまさかないだろう。
 名前はたしか……
「岡島さん、どうしました」
「どうしたもこうしたもないわ坂本! くそあの野郎め、逃がすか! 管轄内で絶対に捕まえてやる!」
 道を塞がれたので、あわてて車を降りて走ってきたようだ。
 凪影は押し黙り、サイレンのスイッチを入れて車を一気に加速させている。
「すまんな交通屋、捜査屋だけで済ませるつもりだったのに」
「いえ、こちらこそお役に立てなくて」
「あいこか。まあおごらなくて済みそうなのでそれだけは助かったがな」
 ふうっと一息つくと、岡島はハンカチで汗を拭いはじめた。
「くそっ、空を飛んでるやつにとんでもない失態を撮らせてしまった」
 岡島は携帯をとりだし、電話をかけた。
「――あー、こちら岡島だ。すでに聞いているだろうから説明は省く。さっさとテレビをつけてくれ、生放送のやつだ。あと署長に頼んでヘリを県警本部に要請しろ」
 いらつきながらたばこを取り出す。
「名目? 日本全国に我が県警の恥がリアルタイムに垂れ流しにされていると泣きつけばすぐに寄越すさ。現在あのスクーターの位置を把握しているのは、民間のヘリ一機だけなんだぞ! 警察はなにをしてるかって今頃レポーターが叫んでるはずだ!」
〈警察はなにをしているのでしょうか!〉
 無線からヘリの音と、男性レポーターの声が流れた。
 どうやら電話の相手から連絡がいったのか、気の利いたオペレーターがなにかの手段でテレビの音を無線に流したようだ。
「くそっ!」
 岡島は携帯を切ると、ふてくされたように前を睨む。
 レポーターの中継を聞くかぎり、まだスクーターは国道を走っているようだ。
「岡島殿、あれは殺人犯なのか?」
 突然凪影がしゃべった。
 びくりとする憲。
 あぜんとする岡島。
「あ、すいません岡島さん、部下が失礼な口を効きました。叱っておきます」
 しかし岡島は怒らない。
「……その口振りは、まさか凪影?」
「ひさしぶりだな、岡島殿」
「え、もしかして、知り合いですか?」
 凪影は頷いた。
 憲は内心ほっとした。
 警察内部に桂川の手の者がいるとは聞いていたが、本当に会えるとは思わなかった。
 岡島が憲にたずねた。
「坂本、いつから凪影を知っていたんだ?」
「えーっと……」
「気にするな、こいつは付録だ」
「凪影さんひどいです」
「なるほど、坂本の中身も幽霊か」
「岡島さん怖くないんですか?」
「俺は桂川には恩があるからな。まあそれはいいとして、なんだったっけ凪影」
「あれが殺人犯の可能性は?」
 目の前に、スクーターが見えてきた。
「ああ、カメラだけでなく室崎憲殺しのほうも、ということか。ぴったり一〇〇パーセントだよ。少年の名は竹井芳雄といって、河地電波高専の二年だ」
 ――竹井芳雄、一六歳。
 子供のころより機械工作を得意としていた。すでにセミプロ級の電波知識と電子工作技術を持っているという生粋のマニアだ。五年間の高専生活の二年目にして、すでに将来の目標を工業系四年大学の三年次編入に定めているという。
 一年前に通販で盗聴器を買い、親ともめたらしい。盗撮の兆候はあったようだ。
 今回発見されたカメラと足跡で足がつき、犯人と特定された。
 自作の小型カメラはその部品の販売ルートが特定されたものはほとんど河地市や県庁所在市で買ったものだった。
 部品は古いものが多かったが、しかし買われたのはどれもつい最近で、店によっては竹井を覚えていた。しきりに古い部品の在庫ばかりを聞くのだ、印象に残っていたらしい。
 常連だった店のひとつで会員登録をしており、それで住所と本名がわかった。
 また足跡のほう。これは靴裏のデータベースにない特殊な跡だったので、警察は「音が小さかった」という智真理の証言を元に各方面に照会していた。
 そんな中、二日前に河地市内の業務作業用品小売業者から通報があった。
 靴は瓦葺き職人などが履くやつだった。
 足裏全体が地を掴み、屋根上で滑らない。足先もあるていど動かせる。
 これなら東トイレに侵入するのに、排水管を登るのが楽だ。
 また歩く音が普通の靴より抑えられる。山道も気をつければなんとか歩ける。
 事件の四日前、学生服でその靴を買いに来た若者がいたという。普通は業者しか買わないので、店員が覚えていたのだ。
 マスコミが繰り返し事件を報道してくれたおかげで、もしやと気付いたという。
 カメラの件で特定し、学校で手に入れた竹井の写真を見せると、店員はこいつだと頷いた。学生服の種類と学校も合っていた。
 レジの記録から買った種類とサイズも判明した。足跡と種類のサンプルを比べて同一であるとは判断できなかったが、サイズはぴたり一致した。警察は証言と学校服、足のサイズの三要素で被疑者だと断定した。
 これでカメラを仕掛けた犯人と、トイレに隠れていた野郎は同一人物だと判明した。
 それが一日前。
 殺人の嫌疑があるので、岡島は念を入れて車三台、七人体勢で家に向かい、竹井に任意同行を求めた。
 しかし竹井は隙をついて逃げ出したのだ。
 しかもどこで情報が漏れたのか、逮捕劇をスクープしようとヘリが飛んできた。
「あとはこの騒ぎってわけさ。相手は未成年だっていうのに」
 岡島はたばこをふうとふかす。
 目の前をスクーターが時速八〇キロで信号を無視しつつ走っている。パトカーはすこし距離を置いて追っている。すぐ追いつけるが、一台ではスクーターを止められない。
 話を聞き終わって、憲はよしと頷いていた。
 そばかす――竹井は、盗撮団カメレオンとは関係ない。
 準備があまりにもお粗末だ。カメレオンなら印象に残るような買い方はまずしないだろうし、そもそも犯行場所の近辺で部品を揃えることがすでに異なる。
 だが古い部品を探したということは、やはりカメレオン事件の模倣犯か。
 これこそ、憲が考えていたことだ。
 正体を知られないようにいろいろと服装とかで細工をしていたあたり、まさにカメレオンを名前から真似しているようで不自然に思えたのだ。当のカメレオンは自身をそう呼んではいないだろうに。
 その変装が祟って正体がばれた。履いていた靴がありきたりなものほど、かえってわかりにくくなるというのに。
 ということは――本物のカメレオンはやはり真のプロか? いや、いくらカメラを仕掛けてもつぎつぎに見つかる河地市とその周辺、よせばいいのにそこに仕掛けつづけて傷口を必要以上に広げた。
 やはり意地の部分もあっただろう。さすがに懲りて挑戦をやめ、じっと息を潜めていたのだ……
 そこにいきなりの模倣者。
 カメレオンの平良はさぞかし驚いただろう。
「少年は、カメレオンの真似をしただけだな」
 岡島が、憲が思ったことを言った。
「さくっと捕まえましょう!」
 憲は手を合わせ、拳の骨を鳴らそうとした――が、憲が憑依している坂本という人の手は勝手がちがうので鳴らなかった。
「おい凪影、おまえの相方はずいぶんと気合いが入っているな」
「そいつは室崎憲殿だ」
「……はい?」
 岡島の目が点になっている。
「あ、ども。殺された当人です。殺人現場ではお世話になりました」
 岡島はしばらく憲――いや、坂本を見つめていたが、ふうとおおきく息を吐くと、たばこを消した。
 なぜかのど飴を懐から出して口に入れる。
「これだから桂川と関わると退屈せずに済む」
「けっこう順応性が高いんですね」
「で、坂本――いや、室崎君。きみを殺した犯人はやはりあいつかね?」
「いきなり殺されたのでわかりません」
 憲はさらっと言って岡島を落胆させたが、それは決着は自分でつけたかったからだ。
 無線に流されていた中継が消えた。
〈四号車、枝川三叉路で封鎖線を作っています。なんとかして容疑者が国道を走りつづけるようにしてください〉
 凪影が無線を取る。
「こちら四号車、了解」
 無線を置くと、岡島が張り切っていた。
「よしっ、こんどこそ確保してやる」
 その瞬間であった。
 憲はぞくりという悪寒を感じた。
 いやな感覚。首筋から脊髄を、背中を走り、手足の先まで走る震え。
 大事な者に、かけがいのない者に、そのような恐怖を植え付けるなにか。
 脅威、恐怖――圧倒的な暴力。
 直後に胸をえぐるような感覚を覚えた。
 心臓を押さえる。どくどくと血が出てきたような気がした。だが胸には傷はなく、怪我もない。なにかで刺された跡などどこにもなかった。
「智真理が危ない……!」
「どうしたんだ、坂――室崎君」
「智真理に危険が迫っている!」
「それは間違いないか? 室崎殿」
「はい凪影さん」
「そうか……岡島殿、悪いが抜け出て構わぬか? こちらには構っていられなくなった」
「おいっ! 事故が起こるぞ」
 意識を取り戻したらいきなり運転していた。たしかに事故は起こり得るだろう。
「そうか。一度停車しないといけないな」
「冗談じゃない! 逃げられるぞ」
「凪影さん、ならばオレだけ先に行きます」
「拙者と一緒なら一瞬だぞ」
「え……」
 それはすなわち、ここで竹井を――
「岡島殿、拳銃を撃ってくれないか?」
「……はい?」
「あいつをいますぐ止める」
「正気か凪影。少年に当てたらどうする!」
「オリンピック選手が少々の風になにを言う」
「それはライフル射撃だろうが。だいいちこの速度では台風の中で的を撃つようなものだ。風読みが利くレベルではない!」
「大丈夫、拙者が補佐しよう――撃て」
「……っち! これだから桂川は毎回毎回!」
 岡島は窓を開くと、拳銃をとりだし、両手に握って構えた。
 凪影はパトカーの速度をあげ、竹井の真横につけた。竹井はパトカーをちらりと見て、岡島の銃に気付くやあわてて急に速度を下げた。
「動くなよ、当たるだろ!」
 岡島は一発撃った。わざと外して。
 彼我の距離、すでに二〇メートル。
 つぎの瞬間、スクーターのエンジンが煙を噴いた。
 スクーターの加速は急ににぶり、まるでエンジンブレーキでも掛かっているかのように減速していった。
 竹井は驚いていた。必死にスクーターのアクセルを操作するが、もはやムダだった。
 スクーターは灰色の煙を吐きながらゆっくりと止まった。その隣に戻ってきたパトカーが停車し、憲と岡島が飛び出す。
「はいやぁ」
 岡島はスクーターから降りてよたよたと逃げようとする竹井に飛びかかった。
 岡島のタックルに、竹井は転がる。
 起きあがろうとする竹井の下半身に、岡島が体重をかけて乗りかかる。
 息を合わせたかのように、上半身を憲が押さえた。
 あっけなかった。
 あまりにもあっさりと倒されたことに、竹井は逃げる気力を失ったのか、脱力した。
 しかし岡島は警戒して、足をぐいぐいと押さえつける。
 憲は竹井のヘルメットの面をずりあげ、その顔を拝んだ。
 ――こんな顔か。
 憲は智真理を襲った最初の人物と、ようやく対面できた。
 どこにでもいそうな、変哲のないひょろ長い青年の顔だった。ただ頭はよさそうに見える。事実竹井は一六歳にして、精巧な盗聴システムを独力で作り上げたのだ。
 眼鏡は掛けていない。おびえと後ろめたさが同居した視線をさまよわせ、決して憲と合わせようとはしない。
 だがそんなことよりも、憲には気になることがあった。
「岡島さん、そばかす……」
 竹井の顔にはそばかすがなかった。
「ああ、教えてなかったな。まあ見ての通りだ。けっきょくみんなカモフラージュさ」
 竹井はびくりと震えた。
 上空をヘリが飛ぶ。この捕縛劇は全国に生中継で流れている。
「室さ――坂本巡査長、メットを降ろせ。相手は一六歳だぞ、顔が撮られたらまずい」
 竹井の前だから、体の持ち主の名前で呼んでいる。
 憲は逆におもいっきり竹井の顔をカメラに晒してやろうかと思ったがやめた。そうなると坂本巡査長の立場が悪くなる。
「殺されたのは一五歳で、しかも数千万人が顔を見たんですけどね」
 公開されたのはよりによってむすっとした集合写真のものだった。
 憲がヘルメットの面を閉じると、竹井がぐずぐずと泣き出した。
「すべてテレビが悪いんだ。ボクはテレビに教えられたんだ。すべてネットが悪いんだ。ボクはネットに教えられたんだ。ボクは悪くない、ボクは悪くない……」
 ぶつぶつとなにか言っている。
「ボクは!」
 いきなり大声をあげ、逃げだそうと暴れた。
 その頭をおもいっきり路面にこすりつける憲。これくらいしないと、智真理を襲われた怒りがおさまらない。
「そうやって責任転嫁をして、室崎憲も殺したのか?」
 岡島だ。
「ちがう! ボクは悪くない。勝手に落ちた。道が光って、そちらに逃げられないから、上に戻ろうとして。そしたら急に落ちたんだ、勝手に落ちたんだ! ボクじゃない! あいつが――あいつが来て、あいつが悪いんだ……」
 憲はゆっくりと質問する。
「あいつとやらの正体を、知っているか?」
「え? なに? なにか言ってた。でもボクは悪くない。ボクは悪くないのに、あいつは迫るんだ。だからボクは……あいつを」
「平良のことだな」
 岡島だ。
「平良? 知らない。ボクは悪くないのに逃げろなんていうから、ボクはあいつは落とした。ボクは逃げてない。追われたから避難しただけなんだ。山をふたつ越えて」
 憲は最後に、大事なことを聞いた。
「そうか――おまえはカメレオンじゃないんだな」
「ボクはカメレオンじゃない。カメレオンが悪いんだ。ボクにできるって教えるから」
 そして竹井は首を振って「悪くない」を連発しながら、あらゆるものに責任をなすりつづけた。
 岡島は竹井の腕を前に組ませ、なにやら難しいことを淡々と述べはじめた。検挙か補導か逮捕か知らないが、その前口上らしい。
 遠くからサイレンが響いてきた。
 憲はもういいだろうと、パトカーに戻ろうとした。
 目の前に、霊体の凪影がいた。般若の面を取り、止水のような冷静さをたたえた目を、憲にゆっくりと向けた。
『ゆくぞ室崎殿』
 憲はうなずき、空を仰いで叫んだ。
「せいや!」
     *        *
 それは滝をのぼるような感覚だった。
 時と空間が一挙に凝縮され、渾然一体となって憲を包みこみ、襲い、ただひたすら流した。あらゆる抵抗が無駄で愚かに思えそうな、圧倒的な瀑布。
 ――その力の景色がさっと光に呑まれ、白の景色が憲を被った。天地が融合する。
 憲はおもわず目を閉じていたが、しかし目を閉じてなお憲は同様の白昼夢のような白一色の光のなかにいたのであった。
 そして。
『室崎殿! 息をしろ! 消滅するぞ!』
 凪影の叱咤が、憲を現実に引き戻した。
 きがつけば辺りは町の風景で、滝のなかでも灼熱の光でもなかった。
 憲は凪影に抱かれて飛んでいた。
『……はあはあ!』
 とつぜん憲はおおきく息をしはじめた。
 完全に息を止めていたのだ。
 息が荒い状態で幾度かむりやり深呼吸して、
『君臣豊楽国家安康!』
 即興の言霊を叫ぶと、とたんに呼吸が安定した。
『なかなか様になってきたな』
 凪影が憲から離れた。
 憲は凪影に並んで飛ぶ。
『いえ、いいんです。でも……息を止めると消滅するんですか』
『言霊か意志で制御するか、霊体が大丈夫だと自覚すれば別だが――息を止めたら死ぬという感覚に霊体と意志双方が囚われているうちは、止めたら勘違いして消滅を迎える』
 幽霊もややこしいものだ。
 そもそも呼吸とはいえ、実際に空気が出入りしているわけではない。だがなぜか霊なのに呼吸をしているという実感はある。
 幽霊の便利さに慣れてくるにしたがい忘れていたが、霊は生きていたころの現象にかなり左右されている存在なのだ。
 凪影の瞬間移動で一緒に運んでもらったのだが、いささか衝撃が強すぎた。
 油断は禁物!
 憲はぽんぽんと両頬を叩いた。
『さあ、戦闘準備はいいか?』
『はい』
 目の前に智真理とその母である撫緒の姿がある。自転車に乗っている。市の公園だ。繁華街と国道とのあいだを挟むように作られ、数百メートルに渡ってつづく緑の帯。
 木々にはセミがたかり、夏の最後を飾るように懸命に鳴いている。どうやら気分転換のサイクリングのようだ。
 まだ襲われてはいない。よかった、まにあった……
 だめだ!
 憲は理解した。
 これは一瞬で終わってしまう類のものだ。
 あのときの痛み。それは――
『智真理!』
 憲は自分にとって最強の言霊を使用した。
 凪影が消える。眼下の町も消える。
 憲は――誰かの中にいた。
 自転車を漕いでいた。
 目の前に、大事な人が。
「智真理、横に!」
「え?」
「いいから! せいや!」
 もう周囲には構ってはいられない。
 指を差し、むりやり智真理の自転車を遠隔操作する。
「え……これって!」
 智真理の自転車が左に――
 ポスン。
 とつぜん、さっきまで智真理の自転車があった地面に穴が開く。
 驚きの顔の智真理。
 と、今度は憲に――いや、憲が意識を奪っている撫緒に。運転する自転車の籠にがくんとへこむ。
 人には見えない弾。だが憲には見えていた。
 銃弾がゆっくりと籠を貫通し、ハンドルと前輪を支える柱に当たった。
 弾は変形し、柱もぐにゃりと曲がった。弾は破裂現象《エクスパンション》を起こさずに柱から逸れる。
 その跳弾はしかしなお被弾コース。これでは撫緒の右脇腹に当たってしまう。
 それにしてもなぜ、こんなに細かいところが見えるのだろう。
 いつのまにか時間が遅くなっていた。
 好都合にも、思考速度は憲の認識速度とおなじだ。
 せいっ。
 憲は体を反らせようとする。だが彫像のように重くて動かない。時が遅いがゆえ。
 くそっ。わかっているのに、避けられない。
 弾が当たれば、撫緒の肝臓は破裂するかもしれない。冗談じゃない。
 憲は必死に動かす。せいや!
 だが動かない――斬!
 凪影だ。
 瞬間移動してきて、そして弾を切った。
 霊力の一撃で、弾はふたつに割れ、うまい具合に衝突コースとはあさっての方向への運動エネルギーが加えられる。
 だが刀以外の凪影の動きはゆっくりだった。
 髪の一本ですら、出現から切るまで一センチも動いていないだろう。
 なんという神速の剣技か。
 凪影がなにか微笑んだように見えた。まだ凪影は般若の面を取ったままだ。あるいはそれが本気の印なのかもしれない。
 ――と、時間が戻った。
 見えていた弾はとたんに元の速度に戻る。片方は地面にめりこみ、片方は空の彼方に飛んでいった。
「うひゃあ」
 撫緒の憲はバランスを崩した。立て直そうとするが、前輪の軸がゆがんだらしく不可能だった。自転車ごと転ぶ。
「くそお……」
 憲は受け身も取れなかった。まともに腹を打っている。急いでたちあがろうとするが、すこし重い。
 撫緒は痩せているが、年齢的に体力が足りないのか? 憲にとっては鉛を体内に抱えているような反応の遅さだ。
 だが、力はあるようだ。動きがにぶいだけ。
「お母さん!」
 智真理が自転車を降りて寄ってくる。
 気付いていないのか?
 まあ仕方がない。銃の発射音がしないのだ。
 なにかで読んだことがあるが、消音器とかを使えば銃の発射音を消せるらしい。だが法律では禁止されているはずだ。
 狙撃手は考えるまでもない。元自衛隊の平良だ。射撃訓練をみっちり受けている。
 とにかくなにかをして――
 またあの感覚だ!
 こんどは智真理。
 撫緒の憲は立ち上がり、智真理を押した。
 パウン。
 さっきは土だったが、ここは石敷きだ。地面に小さな火花が飛ぶ。
 さすがに智真理が気付く。
「なんなのっ?」
「銃撃だ、こちらに」
 撫緒の憲は智真理の手を取って木の陰に。
 カッ!
 隠れた瞬間、木の樹皮が削れ散る。
「遠くから一方的とは反則だぜ」
「お母様……いったい」
 撫緒の憲はしかし構わない。
 銃弾が飛んできた方向をじっと見る。
 狙撃手はどこかのビルか……
 どうやって智真理がこの公園に来ることを知ったのだ? カメレオン――いや、平良め。
 それよりもこのままではやりにくい。なんとかして――凪影はいつのまにか消えている。
『白雲さん!』
『あいよ』
 目の前にまわし一丁の白雲が登場する。やはり玲華も近くにいるようだ。
『悪いですが、かわってくれませんか。状況を知っている者が守ってないと』
『おいらは本当はやっつけるほうがいいんだけどね。まあいいか今回は』
「せいや!」
 憲は言霊を使い、撫緒の体から出た。
「えっ!」
 となりで驚きの声。
 憲は声の主に顔を向ける。
『智真理……』
「け、憲」
 どうやら智真理は、憲が見えているようだ。
『智真理……守ってやる。動くなよ』
「――憲。行かないで」
『動くな!』
 智真理はびくりと動きを止める。
「憲……」
『危ないから動かないでくれ。オレはいつも、おまえを守っている――跳躍!』
 憲はさっとかき消えた。
 倒れ込む撫緒……と、その体が倒れる最中でバランスを取り、また起きあがる。だがなにか妙だ。ガニマタなのだ。
「智真理ちゃん、動かないでね」
 声は撫緒のものだが、なにか可笑しい。
 その母の声に智真理は、まったく反応せず――ただ、見ていた。
 憲が消えた青い空を。
 再会したいと思っていた、憲の「意識」に。
 いくら生の体でも、腐らなくても、それではだめだ。
 なにかが出来る憲。
 憲の意識。
 憲の魂。
 それに。
 会えた――会えてしまった。
 普通なら、これで満足して先に歩め、新たな日々に向かえとか、神か仏かに言われそうだ。
 だがそれは……
     *        *
 憲は弾丸が飛んできたらしい方角の適当なビルの屋上にいた。
『凪影さん! 凪影さん!』
『焦るな。拙者はここにいる』
 いつのまにか横に凪影がいた。まだ本気モードで素顔のまま、非常事態は継続中だ。
 その腕には、機械がいくつか握られていた。霊体でなく実体だ。
『まさかそれって……盗聴器?』
『汚らわしい』
 凪影は空に放り投げるや、居合い切り一閃で盗聴器どもを粉砕した。剣筋は例によってまったく見えない。
『葬式のときこちらは隠しカメラを各所に配置したが、そのときはまだなかった。葬式から十市殿の護衛監視をするまで三日あった。その間に仕掛けたようだな』
 どうやら凪影は、憲が智真理を守れると判断した時点で瞬間的に智真理の家に戻り、盗聴器をあっというまに見つけてきたようだ。
 平良は盗聴器で智真理の行動を把握できたのだ。だから待ち伏せができる。
 それにしても凪影の実力は憲と比べてあまりにも桁、いや次元がちがう。
『凪影さん、悔しいけどオレでは平良を見つけられません。助けてください』
『時を遅らせるほどの者に頼まれるとは光栄だな』
『え? あれは凪影さんがやってくれたのではなかったんですか』
『ちがう』
『……せいや!』
『室崎殿、おぬしは強い』
 凪影は空中に一本の黒い鞘の刀を出現させ、憲の元に飛ばした。
『拙者の初陣の刀だ。受け取れ』
 それをおそるおそる受け取る憲。
 鞘越しでもわかる。凪影の霊気が溢れている。雄々しくかつ繊細だが、強靱な刺すような気迫。
 長い紐がある。憲は刀を背中に背負った。
 憲の霊力と凪影の霊力が融合した。
 憲は凪影の霊力の一部を己に取り込んだ。
『共に闘おう』
『はい!』
 ぱしゅん。
 わずかな音が耳に入った。
 憲はあわてて公園のほうを見る。
『だいじょうぶだ。なにも感じていないならば、十市智真理に害はない』
 ばしゅん。
 どこだ?
『いくら近くを見ても無駄だ。おぬしはいま知らずに「遠音の法」を使っている』
『遠音の法?』
『知りたい音、求める音があれば、自然に耳に届く――いくぞ』
 凪影が腕組みの姿勢で降りてゆく。
 やはりすごい。オレはわからなかったのに。
 ふたりは一気に降りてゆく。
 凪影は五〇メートルほど飛んで、そして止まった。
『いた』
 八階建ての総合商社ビルの屋上だ。
 空調装置の巨大なファンがいくつも回るもやの中に、その男は寝そべっていた。
 俯せでライフルを構え、スコープをじっと睨み――「絆の糸」の予感が来た!
 憲はまた心臓を槍で突かれたような鋭い痛みを感じた。この感覚は貫かれる暗示、撃たれる印なのだ。
『あれを撃たせたらだめだ!』
『うむ』
 凪影が平良に殺到した。
 憲も向かう。
 平良は引き金に手を掛けた。
 その口元がにやりとゆがむ。
『だめだー!』
 ばしゅん。
 弾が放たれた!
 だめだ!
『跳躍!』
 弾は風を切り裂き、空気を抜け、目指す一点めがけて音速を超えて飛んでゆく。
『跳躍!』
 弾は回転し、その破壊力をエネルギーとして増幅維持しながら、獲物を求めて飛ぶ。
『跳躍!』
 弾は見た。公園の木から頭を出し、不安そうにあらぬ方向を見つめている少女の顔を。
 そのこめかみめがけて――弾はめりこみ、肉を穿ち骨を砕き、内部を破壊し貫き、血で溢れさせ、そして殺すのだ。
 殺す! そのために生まれたがゆえ。
 弾はめりこみ、肉を穿ち骨を砕き……
『せいや!』
 突如として「肉のある憲」が智真理のまえに出現した。
 智真理は刀を背負った男の背中を見た。
 自分より長い髪。自分より幅のある肩。
 顔を見なくとも、智真理には瞬時でわかる。
「憲!」
「智真――」
 ぱしゅ。
 いま弾は、憲の腹に!
「――理ぃぃ!」
 肉を穿ち骨を砕き……
 なにもない。
 弾はなにもない、しかし抵抗がある空間にめりこみ、エネルギーを開放しながら速度を落とした。
 目的を果たすこともなく、肉と骨を砕かず。
 止まった。
 本来、人の体を貫く威力を持ったライフル弾が、さらなる獲物を求めて飛び立てない。
 先にある、本物の肉と骨に向けて。
 なのになぜ、あるはずがない偽りの肉に阻まれなければならないのだ。
 いや、肉ではない。
 最後に刀があった。
 鋼の刀身が。
 それが弾の貫通を拒絶したのだ。
 弾は力を使い果たし、沈黙した。
 ――後続の弾は、もはや飛んでこない。
 憲は数歩よろめき、智真理に背中を預ける格好になった。
「……憲」
「智真理――よかった。守れた」
「憲、どうしたの? なにがあったの?」
「はは……痛いけど血が出ないや」
 ずるずると智真理の胸をずり落ちる憲。
 智真理は憲を支えようとするが、重い。
 それは偽りの肉だというのに。
 憲はそのまますべり、ついに智真理の顔を見上げる格好になった。
「憲、憲! 腹に穴が! 撃たれたの?」
 騒ぐ智真理の周囲の者たちは、ここで銃撃があったことに気付かない。
 平和ななかで、一瞬で過ぎ去った命の駆け引き。決着はすでについた。
 それを理解している憲は、だから安心して智真理の顔に手を伸ばした。
「智真理……」
「憲、せっかく生き返ったのに」
「ちがうよ。オレは智真理を守りたくて、だからちょっとだけ帰ってきたんだ」
 世界が暗い。闇のなかだ。
「ねえ憲、なぜ目をつむるの」
 なるほど。もう終わりか。
「智真理を、守り切れた」
 憲は、自分の意識がうすれてゆくのを感じていた。
「憲! 消えないで!」
 智真理が憲を抱き寄せた。生の智真理の体温だ。
 いい匂いだ……
 ――――。
 ――――――――。
     *        *
 智真理は、急激に軽くなってゆく憲を抱いていた。
 なぜ消えるの?
 憲はまるでもやのように薄まってゆく。
 触感がしだいになくなり、綿、いや、一気に煙のようになり――ついに触れなくなった。
 潰れた銃弾がからんと音をたてて落ちる。
 上半身を抱きかかえられていた憲も地に落ち、完全に仰向けに寝そべった。
 もはやなにも語らず、なにも反応しない。
 これでは、おなじではないか!
 せっかく会えたのに……
「だめー!」
 智真理は叫ぶと、憲の体を触ろうとした。
 が、その諸手が憲の体をするりと抜けた瞬間。
 室崎憲は、完全に消えてしまった。
 憲……
 もしかして憲は。
 智真理はいてもたってもいられなかった。木陰から飛び出して倒れた自分の自転車に駆け寄り、さっと漕いで走りだした。
 目的地は――憲の体が眠る病院!
 智真理が去ったあと、母親の撫緒がガニマタ歩きで木陰からのそりと出てきた。
 撫緒は自分の自転車を起こしたが、ライフル弾が当たった関係か前部の軸がゆがみ、ハンドルがろくに振れなくなっていた。
「まさかこのまま憑依を解除するわけにいかんしなあ。本人パニックになるよなあ」
 撫緒――いや、白雲は頭を掻いた。
     *        *
「うーん。やっぱそう簡単に成仏したら大変だな」
 憲は凪影に笑いかけていた。
「笑い事ではないぞ。拙者が与えた『求道』の霊力がなければ、おぬしは確実に満足感のなかで成仏していたところだったのだぞ」
「せいや……それで本題ですが、その顔ではやはり話しにくいですね」
「そうか? 中身が拙者ならいいであろう」
「いや、やはり。それに本人に確かめたいことがありますし。スタンバイもOKですし」
「なるほど、そういえばそうであったな。だが本人に聞いた後で満足して、また成仏しかけることのないようにな」
「わかっていますよ」
「は!」
 言霊とともに、凪影はそいつの体から抜け出た。そいつははっと気づき、目をぱちくりとさせて周囲を見回した。
「あ……ここは、なぜ勝手に移動して?」
 平良は心底驚いていた。それはそうだ。必殺の一撃を撃った直後、意識を凪影に乗っ取られたのだから。
 平良は不安そうに自分のライフルが置いてあった場所に――
「平良さん」
 びくりと平良の首がすぼまった。
「平良さん」
 まただ。聞いたことのあるこの声――
 平良は緊張しながら、ゆっくりと振り向いた。
 周囲は空調装置の巨大なファンがいくつも回って、もやが立ちこめている。
 ビル内が冷えるかわりに、ここは熱気で溢れている。そのもやで揺れた、陽炎のような彼女はそこにいた。
 桂川玲華。
 服装はスマートな黒いドレス。まるでこの場所には似合わない。いや、だからこそ似合っているかも知れない。
 現実感がなく、幻惑的な違和感のみが強調されている。
「こ……これは桂川のお嬢様」
 平良は平静を装っているようだが、その額からは汗がにじみ出ているし、足がわずかに後ろに歩いている。左足をまだ痛めているのでぎこちない。
 玲華は機械のあいだを優雅に抜け、平良に近寄った。
「数日ぶりね、平良さん。有給は楽しめていて?」
「は、はい。お嬢様のほうも、平日なのにこんな蒸し暑いところでどうしたんですか」
「それはもちろん、あなたに用事があったからだわ」
 ふっと微笑む。真性の美人による笑みだ。まだ玲華が発展途上とはいえ、たいていの大人の男にとっては魅惑的に感じる。
「……あ」
 しかし平良の顔には逆に、化け物を見たかのような畏れが浮かぶ。しだいに青く、白くなる顔。
「どういう……どういう用事でしょうか」
「そばかすの男が捕まったそうよ」
「え……」
 思わぬところを突かれたようだ。平良の顔が間抜け面で固まった。
「それで平良さんに確認を取ってもらいたくて」
「そ、そうなんですか」
 平良の表情がにわかに安堵でゆるみ、そして余裕を取り戻していった。
「わかりました。ではさっと行きましょう」
「でもね、大変なことが起きたのよ」
「え、それは」
「十市智真理さんがいきなり誰かに撃たれて亡くなってしまったの」
「あー、それはかわいそうに」
 平良の眉が悲しそうに垂れるが、顔は血行がよくなって赤みを増してゆく。
「それで警察が忙しくて大変なので、わたくしが代理で平良さんを迎えに来たのよ。犯人の顔を確かめていただくて」
「これはわざわざすいません」
 平良は畏まって礼をした。いつもの平良の調子を取り戻したようだ。
「すいませんがお嬢様、ちょっと荷物をあちらに置いておりますので、わるいですが取りに行って構わないでしょうか」
「ああ、それならこれかしら」
 玲華が指をぱちんと鳴らす――鳴らない。
 ぱちぱちやって、四回目で成功した。
 すると平良の後ろから、黒の長い革袋に入ったゴルフクラブセット一式を背負った邑居が出てきた。
 平良の顔が一点して青くなり、硬直する。
 邑居はゴルフバッグを平良に渡すと、そのまま玲華のほうまで歩いていき、その隣で玲華を守るように立った。
 平良は視線を玲華から微妙に逸らした。
「……あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。それでは行きましょうか」
 玲華と邑居は平良に背を向けた。
 その瞬間であった。
 平良の瞳の光彩がぎんと狭められ、すさまじい速度でゴルフセットに紛れているライフルを取り出した。
 重いゴルフバッグを捨てる。
 そしてライフルの消音器が装着され、かつ弾が入っていることを確認するや、無言で狙いを定め、引き金を引いた。
 ぱしゅん。
 弾が狙う獲物は、玲華!
 だが玲華は――弾が発射される前にすでに振り向いていた。そしてまるで刀でも背負っていて、それを抜くような動きをしていた。
 そのまま見えない刀を凶弾に叩きつけた。
 キンッ。
 一瞬だけ刀身が見えた。
 弾は玲華から逸れ、その後方にある屋上出入り口の壁に突き刺さった。
「背負うと思ったより抜きにくいな」
 玲華は見えない刀を見えない鞘に戻さず、平良のほうに歩み寄る。
「ひ……ひい!」
 平良がライフルでまた狙いを付けて引き金をひくが、弾はもうない。だが平良は玲華を幾度も撃ちつづけた。
 玲華の胸がライフルの銃口に重なった。
 平良はその胸にまだ撃っている。
 ざん。
 玲華が無造作に見えない刀を一振りすると、ライフルの長い銃身が消音器ごとぽとりと落ちた。
 ライフルが切れた瞬間だけ、平良に銀色の刀身が見えた。
「それで智真理を狙ったのか」
 玲華の口調がいつのまにか変わっている。
「うわあああ!」
 平良はライフルを握ると、それで玲華を殴ろうとした。
 が、割り込んだ邑居が振り下ろされたライフルを左手で掴むや、空いた右の拳でおもむろに平良の腹を殴った。
「かはぁ」
 肺の空気を吐き出して、後方に一メートルはよろける平良。それで倒れないのは、相当なものだった。
 ライフルは邑居の手中にあった。
 玲華は見えない刀を背中に戻した。
「……平良さんもバカなことをしたわね。こんなことをして、いまさら盗撮団カメレオンが助けてくれるとでも?」
「ち、ちがう! おれはちんけなトカゲのしっぽじゃない!」
 つい叫んでしまい、口を押さえる平良。
「あらまあ。末端にもプライドはあるのね」
 にっこりと笑みを返す玲華。しかし目は笑っていない。
 平良は気付いたようだ。玲華には自分の正体がとっくにばれていることに。
「……どこまで知っている? やはり魔女だな桂川め。十市智真理を襲ったことを二度とも予言し、いずれも邪魔してくるとは」
「あらなんのことかしら。わたくしはなにもしておりませんわ」
「うそをつけえ! でなくて、なぜ邪魔ばかりする。そうやって怪しげな力で、すべてのカメラを見つけて来たのだろう!」
「桂川に喧嘩を売ってきたのはそちらではなくて? こちらは守っただけ」
「くぅ……で、十市は本当に死んだのか?」
 平良は話をすり替えたいようだ。玲華からなんとかして主導権を奪おうとしている。
 だが玲華――いや、憲には関係のない話だった。一気に本題に突入した。
「いまさら殺すのがふたりに増えようが、変わらないということかしら」
「なにを言っている」
「あの夜、あなたは驚いたわ。なにせ突然に、カメレオンと思われる犯行が学校で起こったんですもの」
「…………」
 ――それで突然の暴漢騒ぎに巻き込まれたとき、平良はそいつがカメレオンの関係者ではないかと勘違いした。
 犯罪組織カメレオンとて集団。完全に統率が取れた一枚板ではない。
 すぐに発見されるのに、あえておなじ地域にカメラを仕掛けつづける意地の気質。そういう下地があるから、血気にはやる者がいる可能性を否定できなかった。
 だいいち最初に仕掛けた学校への挑戦だ。まちがいあるまい。
 平良は変装して正体がよくわからないそいつを追った。すると先行していた室崎憲が裏道の入口にいた。靴がないので、光がないと先に行けないのだ。
 平良はしめたと思った。ここで室崎憲に先回りを口実に普通の道を行かせ、自分だけで追おうとした。
 平良は暴漢を逃がそうと思った。裏道を抜けたとて、その先には十市智真理が連絡した警察が待っているだろう。立場的に、まさか警察を呼ぶなとはいえない。
 だが、よりによって室崎憲は平良の持っていたライトを奪い、裏道に入った。平良はまずいと思ったがついていくしかなかった。
 運のいいことに途中で暴漢と室崎憲に平良はぶつかり、室崎憲だけがのこされてふたりきりになれた。
 だが暴漢は逃げた。平良は追いかけた。
 そして光だ。
 警備保障の車が道を走っていた。
 あわてた暴漢は上に向かうだろう。
 平良は話をしようと待ちかまえた。
 と、平良の視界に室崎憲がいた。しかも突き落とせば死んでしまうような段差の縁に。
 室崎憲は暴漢の顔をおそらく見ている。たとえ暴漢が捕まっても、平良なら違うと言えばそれで終わりだ。
 カメレオンは捕まってはならない。
 念には念を入れよう。
 平良は出来心で、室崎憲を突き落とした――
「いや、出来心だけでは弱いわね。もしかして暴漢を追う最中に――カメレオンの平良だ、待ってくれ――とかなど、相手が捕まったら自分も危なくなることをすでに言っていたのかも知れないわね。これならなにより、自分のためであるわ」
 そこまで話して玲華の憲が涼しい顔で平良を睨むと、平良の体は小刻みに震えていた。
 唇を噛んで五秒ほど黙っていたが、ふとなにかに思いついたらしい。
「……あいつが捕まったのはどうやら本当らしいな。だがそれらの多くが事実だとして、どうしてオレが殺したことになる? 室っちが先に降りていて、あいつが突き落としたとしても、同様の状況が成り立つだろう!」
「それはない!」
「え……」
 玲華の鷹のような睨みに、平良は本能的な恐怖で後ずさりした。
「気付いていないのか? オレが、室崎憲しか知らないはずのことを言っていることに」
 玲華が一歩を踏み出すと、平良は一歩下がる。
「な、なぜ? ……おまえはまさか」
「ついでにもうひとつ教えてやろう。オレはあのとき、智真理を襲ったやつの顔はついに見なかったんだ」
「うう……」
 平良はもはや蛇に睨まれた蛙だ。
「そういや貴様は確認していたな――なあ、室っち、おまえ、痴漢の姿を見たのか? それにオレは――ええ、見ました、と答えた。だがそれは額面通りの『姿』であって、顔ではなかった。貴様はつまらん勘違いで人を殺したんだよ」
「そんな……まさか、うそだよな、おい」
 平良は玲華から目を離せない。その歯はがくがくと揺れ、噛み合わない。
「まあこれは互いの説明不足が原因だな。貴様はオレが暴漢の姿を見ていることを知っていたから、顔の意味を込めて聞いた。だがオレは額面通りに答えてしまった。すこし考えればオレも気付きそうなものだったが。すでに一度は見たと知っている者に、わざわざ姿を見ているかと二度も問うはずがない」
「うをを……本当? 本当ですか? オレはなんでこんな、そんな」
 玲華の口が紡ぎだす言葉に、平良は耳を塞げられない。その耳はしかし白く変色し、ぶるぶると揺れている。歯から顔全体にひろがった揺れは、いまや平良の全身をがくがくと振るわせている。息は荒く、肩をはげしく上下させている。
「だいいち突き落とさなければ通常の犯罪で処理され、捜査は軽くて済んだろうに。殺人事件となり、かえって大げさになった――さらに暴漢は単なる模倣犯だった。いずれにせよ貴様は自分を守るため、さらにもうひとりの目撃者である智真理を――」
 平良の涙が地に落ちた。
「仕方がないだろ!」
 叫ぶ平良。その声はまるで免罪を請うているかのようであった。
 地震の最中のような動揺はおさまる気配もない。もはや立ってはいられず、涙を流してその場で足を付いている。
「……オレの担当する地域、しかも職場で事件が起きたなんて、報告できるか? ……でも室っちが死んで騒ぎになって、結果はいっしょになっちまった。おなじだよ? なら殺さないほうがよかった! しかもただの真似野郎だ。オレは勘違いで人殺しになり、組織から糾弾され……」
「それで車や盗聴器、銃を使って、なんとしてでも智真理を殺せと」
「ちがう! あれは本来は模倣野郎をぶっ殺すための装備だ……で、でもオレひとりでなにができる? あいつはどこにいる? こうなったらわずかな可能性にかけて目撃者を殺し、あいつが捕まってもオレのことをコクらないのに期待するしかないだろ?」
「……そうか。だけど」
「そうさ! だけどさ!」
 平良の揺れがぴたりと収まった。
「始末以前に、幽霊さんよ、おまえに追いつめられるとはよ!」
 平良は一転していきなり笑いだした。
「だけどよ、別にあの世からやって来てこんなことをしなくてもよ、すでにオレは追いつめられていたのさ!」
 大粒の涙を流して、その顔を醜くゆがませて。心の膿をすべて洗い流したいかのように笑っていた。
「めぼしいところに盗聴器を仕掛けたり、左足が使えなくても運転できるATの改造車を持ってきたり……準備だけして、みんなさっさと帰りやがった。オレには運転と銃しか能がないのに、殺せとさ。銃って言っても、自衛隊にいただけなのに」
 ふらふらと立ち上がる。
「もう無駄だぞ! オレが知っていた組織の事務所などはすべて引き払ってある。しかもオレはあたらしい連絡先は知らん――監視はされているだろうがな」
 そのまま左足でびっこをひきずり、屋上の縁に行く。
「オレはな、このイーブンはな、どのみちトカゲのしっぽなのさ」
 黙っている玲華の前で、平良は万歳をした。
「トカゲのしっぽは切れるんだぞ、知っていたか? ――室っち」
「…………」
「オレは地獄に行く。天国の住人には、あの世に帰っても追っては来れまい」
 ――平良は笑いながら、落ちた。
「ざまあ見ろ」
 その笑いには死への恐怖より、むしろ安堵があった。玲華の中の憲にはそう見えた。
     *        *
 平良は幽霊にはならなかった。
 天国や地獄が実際にあり、彼が地獄に行ったかどうかはともかく――見かけ上では平良の魂は完全に現世から消滅したのである。己の記憶と口を永遠に封印して。
 彼の自殺は、凪影も近くにいたし止めようと思えば止められた。
 だが……憲は止めようとはしなかった。
 それが平良の選んだ道だ。平良の人生がどうであったのか、憲に干渉する気はない。
 憲は自分の殺された理由が、じつに些細なことの連鎖であった運命に、なにか無常なものを感じていた。そして自分が当の平良の活力で消滅せず、この世に存続することが許されたことに。
 ならば平良の運命は平良に任せよう。
 最初からそう思っていた。平良はおのれの勘違いから招いた運命の激変に孤塁を余儀なくされ、しっぽ切りとしての立場を甘受することで終止符を打った。
 ただ……憲は聞きたかった。
 オレを殺したとき、どう思った?
 罪悪感。
 桂川の力が運命視できないもの。
 殺人犯のそれは、じっさいに殺さないとわからないものなのだろう。それを聞けなかったことが心残りだった。
 そしてもうひとつ――
 たかが盗撮団。
 しかし平良にとってはその秘密は、殺人を犯すほどに重たいものだった。命を自ら絶つほどにも……
 平良が語った「組織」とはなんなのだろう。
 最後にぽつりとつぶやいた「イーブン」。
 玲華によると「平ら」「均一」の意味を持つ英単語だという。おそらくカメレオン――否、組織とやらでの、平良の暗号名かなにかだったのだろう。
 だが今はいい。ひとつの事件は終わった。
 他人を殺す者、自ら死ぬ者。
 ふたつともを実践した平良。その心を、憲は二件ともに関わった身として、どうしても知りたかったのだ。
 ただそれだけだった……
「で、結局わたくしは傍観しただけ」
 邑居が運転する車内で、憲に体を貸していた玲華はため息をついた。
 玲華はその高い霊力で、憲に体を貸しつつ自分の意識も保っていたのだ。だから一連の遣り取りはすべて記憶していた。
「つまらないわ。室崎君が文字通りほとんど自分だけで解決しちゃったのよね」
『まだ問題は残っていますよ。平良はやはり桂川の力に気付いてました』
「そうよね。それを平良の『組織』が知っているかどうかが問題だけど、まあ向こうから仕掛けてこないかぎりはいいんじゃなくて」
『……玲華さん、なにかさばさばしてますね』
「まあね。挫折というのもなかなかいい体験だったわ――あ、ついたわね」
 桂川病院河地本院だった。
 玲華は病院の沖院長から智真理が来ていると連絡を受け、事件解決ついでに寄ることにしたのだ。
 会いたいらしい。
 玲華は憲を連れて秘密の病室に入った。
 智真理は眠る憲の死体の、服のボタンを掛けているところだった。
「智真理ちゃん……」
「あ……玲華さん」
 智真理はあわてて憲の服をすべて掛け直すと、布団をさっとかけてベッドから離れた。
 いぶかしげな顔をする玲華。
「なにをしてたの?」
「ちょっとね、たしかめていたの」
「……なにを?」
 智真理はすこし顔を赤く染めてうつむいた。
「ひ、み、つ」
 そしてぱたぱたと小走りで玲華の脇を抜けて、病室を飛び出した。
「な……いったいなんなのよ!」
 両手を広げて一〇本の指をわきわきと動かす玲華。よくわからないこの動きは、どうやら理解不能で困っている姿らしい。
 そんな玲華を置いて、憲は智真理の後を追った。
 智真理は廊下で沖院長に挨拶していた。
「――え、それはどういうことだい?」
「ですから、名誉の負傷ですよ。治療しておいてくださいね♪」
 スキップを踏みながら帰る智真理。看護婦さんに注意されて謝るが、目が笑っている。
 憲はこんな智真理を見たことがない。
『女はわからん……』
 腕を組んでなにやら異性について悩む憲。
『室崎君! どこに行っているの? さっさと来なさいよ! あなたはわたくしの護衛役なんですからね』
『へいへい』
 初耳だ、いつから護衛役になったのだろう。
 邑居ひとりで充分だろうに。
 憲はさっと我が儘なお姫様の元に飛んでいった。
     *        *
 世間にとって、事件の真相はけっきょく闇の中だった。
 竹井は天才肌の機械少年だったが、残念ながら精神のネジがどこかでゆるんでいた。極端な責任転嫁の言動が目立ち、かつ本気のようなのだ。
 おかげで取り調べはまともにはかどらず、もれなく病院送りになった……憲を殺した犯人とされても、もはや責任は問われまい。
 竹井の精神形成について子細に考察した緊急特番が放送された――もちろん竹井芳雄の本名はずっと伏されている――が、憲には半分も理解できなかった。
 番組の終盤で内容が精神から離れると、憲にも理解できる山道の話になった。
 警察が竹井が山道に詳しかった理由を調べたところ、意外なことが判明した。
 竹井は幼少のころから野山を駆けていたという。暇があれば近くの山に登っていた。
 それで先山に詳しかったのだ。
 あの裏道とて先山高校ができてから急に生まれたわけではなく、昔あった自然の登山道が再発見されただけであった。
 竹井は野山を駆ける中で、自然にそれらの道の多くに通じたらしい。
 昼間ならまず追いつかれることはなかっただろう。あのときは夜で暗かったので、ライトを持った憲と平良に追いつかれたのだ。しかも憲は裏道を何回か通っていて、一方の竹井は数年ぶりだった。
 直後、憲が驚く情報があった。
 この一年、竹井はやはり休日にはたびたび山に登っていた。
 ただ、それは中山だったというのだ。
 中山――憲が夏休みのあいだ、自主トレで登っていた標高二五〇メートルの小山だ。
 その山で感じる音に、竹井は取り憑かれていたという。
「混じってるんだよ。音が混じってるんだよ。人が自然と混じっているんだよ。汚い動物と汚い木々と、混じっているんだよ人間が。人間も汚いんだよ。でも女の子だけは綺麗なんだよ」
 ――という一文が、竹井の机から発見されたという。
 憲が不思議で面白いと感じた調和。
 自然と人との渾然一体。
 音の境界世界。
 それをひたすら醜いとしか感じられず、それゆえ機械に傾倒したのか? それでいて、なぜ中山に登りつづけたのだ?
 なんという皮肉だろう。
 憲はもしかして、中山で竹井とすれ違ったことがあるかもしれないのだ。
 おなじ山でおなじ音を聞いたふたりが再び出会ったとき、それは不幸な形でまたもやすれ違ったのだ。
 憲は竹井を理解できない。
 おそらく竹井も憲を理解できないだろう。
 なるほど、これは皮肉としかいいようがない。水と油だ。
 憲はようやく、竹井に人間性を感じることができた。普通の人間でないがゆえに、かえって人間として感じることができる。
 そうそう、竹井に関係して世間の注目を浴びたふたりの人間がいた。
 一人目は、竹井逮捕で功績を立てた岡島。
 彼が銃でスクーターを止めた件は、内外の批判も多かったが、県警上層部はここぞとばかりに岡島を擁護した。
 なにしろ直前にあの大失態だ。
 そのショックを一挙に打ち消す見事な射撃。
 目立つ行為であるがゆえ効果は大きい。
 しかも自分の失敗を自らで回復したのだ。
 岡島がライフルの元オリンピック選手であると紹介されると、危ないと叫んでいた者の見方も次第に変わってきた。
 さすがに全面肯定ではないが、ヒーロー的行為と見なす者が増えた。オリンピックの権威に助けられた格好だ。
 犯人は危険走行をしていた。市民に危害が加えられる怖れがあった。だから止めた。
 そんなめちゃくちゃな理論が通用する辺り、日本は本当に平和である。
 というわけで岡島にはなにやら賞が贈られることになったらしい。だが当の岡島はやはり危険行為だったとして固辞した。
 それもそうだろう。
 なにしろスクーターを止めた本当の功労者は凪影なのだ。
 それから岡島の擁護には、桂川章子の力が背景にあったようだ。
 章子会長は最後の捕り物には参加しなかった。が、これは出遅れたのではなく、単に玲華らだけで解決できると運命視で出たそうだ。
 現在章子会長は平良の追跡調査をしている。おもに二台の車および盗聴器受信機の行方や、特殊な消音ライフル銃の入手ルートについてだ。
 さて、もうひとり――これは平良だ。
 盗撮犯に怪我を負わされた勇敢な事務員、突然の自殺!
 これが世間の注目を浴びるのは当然である。
 いろいろな憶測が流れたが、正解はない。
 まさか当の平良が盗撮団カメレオンの一員であろうなど、想像もつかないだろう。
 平良も竹井に会わなければ、安息な日々を送っていただろうに。運がなかった。
 いや、これは不運ではない。
 そう憲は思っている。
 竹井はカメレオンの真似をしている。
 ターゲットが先山高校だったのは、まさにその真似の完成だったのだ。
 先山高校に最初にカメラが設置されたがゆえ。
 そして先山高校に勤めていた平良。
 組織がどういう計画を立てていたか知らないが、平良は一連の盗撮事件に確実に関与していただろう。
 その最初のカメラを仕掛けるにあたり、わざわざ自分の職場を選んだのは、おそらく灯台下暗しの発想と、そして成功率を高めるためだったのではないだろうか。
 自分の職場でなら、仕事をしながら監視ができる。
 またカメラは次々にほかの場所に設置される。外で発見されれば警察の目はごまかせられる。
 事実隠しカメラの中にはあきらかに早期に発見されそうなものもあった。
 本来はそれが注目され、巧妙に隠したほうは安全に撮りつづけるはずだったろうに……
 平良は最初のカメラを自分の職場に仕掛けた時点で、模倣犯を引き寄せる運命に捕まっていたのではないか?
 運命。
 不思議な言葉だ。
 桂川の運命視は、それに従いすぎても反抗しすぎてもいけないらしい。
 なにごともほどほど、ということか。
 憲はそんなことを思いながら、今日も幽霊をしている。
『室崎君、ちょっと弁当取って』
 ……今日も玲華の小間使いをしている。
 ここはあの秘密の玲華専用ルームだ。
『はいはい』
 憲は玲華の弁当をふわりと浮かせる。
 弁当はふわふわと飛んで笑談する智真理と玲華のところに来た。
 憲はいたずらをしてやろうと思い、弁当の包み――いや、白いハンカチをほどいた。
 白いハンカチをそっと上に移動させる。
 智真理と玲華はまだ気付かない。
『せいや!』
 白いハンカチは突如として巨大化し、人の体を覆うほどに広がった。
 それにさっと入り込む憲。憲は白いお化けになって部屋の上部を『けけけ』と飛び回った。
 ――だが。
「だからね、そのとき憲の頭を叩いてやったの」
「あはは、それがハエ叩きアタックってわけね」
 女の子たちは気付かない。
 おいおい、智真理はともかく、玲華は弁当を持ってこいと言っただろ? 食うつもりだったのも直後には忘れてるのか?
 女は談笑するために生まれてきたという話は本当なんだな。男には信じられないことだ。
 昼休みはすでに半分を過ぎている。
 このままではふたりは弁当を食べ損ねるにちがいない。
 やはりふたりをどひゃーっと驚かせて、迫り来る刻限を知らせるべきだ!
 白いお化けはそーっと智真理と玲華のうしろに移動した。
 よし、先日覚えた新芸を使ってやる。
〈どひゃーん!〉
 人間の耳に聞こえる声をたてた。幽霊がよく〈うらめしやー〉と言うときに使う術だ。
 だが今回はちょっと効果的すぎた。
 突然のお化け出現にびくりとした智真理と玲華は、バランスを崩して憲のほうに倒れてきたのだ。
〈あ、危ない!〉
 憲はふたりを支えようとした。だが同時に複数の力を使いながらだ、いささかパワーが足りなかった。白布から右腕が抜け出て、智真理の背中に入る。
「ひゃん」
 左腕も布を抜け出て、玲華の横腹に。
「あ……」
 ふたりともやけに快感な声を出して、布とともにゆっくりとこけてしまった。
「……なにをするのよ室崎君!」
 玲華が赤い顔をして文句を言う。
『お、白と水色のストライプ』
 はだけたスカートをさっと戻す玲華。
「さいってい!」
 玲華は座った人のような形に膨らんでいる白い布を掴む。
『はがうをわああああ!』
 白い布はもだえた。
『た、たのむから、力を逆に吸い取るのは……』
「ふふん、生者は吸われて感じる人はたいてい気持ちがいいけど、幽霊は吸われたら苦しいのよね。知ってる? 吸血鬼の伝説はこれがベースになっているのよ」
『はあはあはあはあ……す、すいません』
「ねえ玲華さん、どうしたの? わたしには憲の普段の声は聞こえないから」
 智真理がまだ平静を取り戻していないのか、肩を上下させながら玲華のほうにすり寄る。
「あー、なんか智真理ちゃんの下着がかわいいっておっしゃっているようよ」
 とたん、智真理の目がきらりん。
「本当?」
〈ち、ちがう。たしかに前に偶然うさぎちゃんを見たけど〉
「あらまあ、墓穴?」
「……よくも」
〈せせせ、せいや……〉
 白い布の塊は怖くなって後ずさり。
「よくも見たな!」
 智真理は机の上のトレイを手に取るや、一気に振り下ろした。
「必殺、ハエ叩きアタック!」
 ぱしーん!
『ぎょえええ!』
 なぜ当たるのかは謎だ。
 玲華が喜んでいる。
「やた! ハエ叩きの実物を初見物!」
 白い布は激しく揺れて抗議した。
〈だから生きてたときだってばー〉
「――え、今じゃなかったの?」
〈前、って言ってただろ、夏休みだよ。ほら、自転車で競争したとき。不可抗力だって〉
 白い布は頭をさすった。
「あ……ごめんね、憲」
 智真理はその布をさする。ぐにゃぐにゃへこむあたり、やはり幽霊だ。
 憲はふと、あることに気付いた。
〈あれ? 怒ったということは、今日はもしかしてあのときのうさぎちゃん?〉
 智真理の心配顔が凍りつく。
「二撃目発動用意!」
 武器が椅子にかわった。
「覚悟ぉ!」
 どかーん!
〈ひ……ひどい〉
 白い布はぴくぴくと痙攣して床に伏していた。
「あーははははっ! 最高!」
 玲華が涙を目に溜めて笑いだした。
「ふう……これで生き返れるのかしらね」
 智真理もころころと心の底から笑う。
 布から抜け出た憲は、その智真理の笑顔に肩をふうと降ろして、そして優しく笑いかけた。
『ま、いいか』
 いつか復活できることを信じて。
 今日の笑顔を、糧にしよう。
     *        *
     了 2000/12

© 2005~ Asahiwa.jp